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歯車 小学生向け

芥川竜之介あくたがわりゅうのすけ)・1968

AI生成この訳はAI(claude-sonnet-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-28

一 レインコート

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一 レエン・コオト

僕は、知り合いの結婚式に出るため、かばんを一つ持ったまま、避暑地(ひしょち・夏をすずしく過ごす場所)の奥から、東海道線のある駅まで自動車を走らせた。

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僕は或知り人の結婚披露式につらなるためかばんを一つ下げたまま、東海道の或停車場へその奥の避暑地から自動車を飛ばした。

自動車が走る道の両側には、松の木ばかりが茂っていた。

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自動車の走る道の両がわは大抵松ばかり茂っていた。

東京行きの列車に間に合うかどうかは、かなりあやしかった。

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上り列車に間に合うかどうかは可也かなり怪しいのに違いなかった。

自動車には、僕のほかに、ある床屋(とこや・かみを切る店)の主人も乗り合わせていた。

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自動車には丁度僕の外に或理髪店の主人も乗り合せていた。

彼はナツメの実のようにまるまると太っていて、短いあごひげを生やしていた。

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彼はなつめのようにまるまると肥った、短い顋髯あごひげの持ち主だった。

僕は時間を気にしながら、時々彼と話をした。

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僕は時間を気にしながら、時々彼と話をした。

「妙なこともあるものですね。××さんのお屋敷には、昼間でも幽霊が出るって言うんですが」

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「妙なこともありますね。××さんの屋敷には昼間でも幽霊が出るって云うんですが」

「昼間でもね」

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「昼間でもね」

僕は、冬の西日が当たっている向こうの松山を眺めながら、いいかげんに相づちを打っていた。

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僕は冬の西日の当った向うの松山を眺めながら、善い加減に調子を合せていた。

「もっとも、天気のいい日には出ないそうです。一番多いのは雨のふる日だって言うんですが」

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もっとも天気の善い日には出ないそうです。一番多いのは雨のふる日だって云うんですが」

「雨の降る日に、濡れに来るんじゃないか?」

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「雨の降る日に濡れに来るんじゃないか?」

「ご冗談を。……でも、レインコートを着た幽霊だって言うんです」

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「御常談で。……しかしレエン・コオトを着た幽霊だって云うんです」

自動車はラッパを鳴らしながら、ある駅の前に横づけになった。

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自動車はラッパを鳴らしながら、或停車場へ横着けになった。

僕はその床屋の主人と別れ、駅の中へ入って行った。

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僕は或理髪店の主人に別れ、停車場の中へはいって行った。

すると、やはり東京行きの列車は、二、三分前に出たばかりだった。

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すると果して上り列車は二三分前に出たばかりだった。

待合室のベンチには、レインコートを着た男が一人、ぼんやりと外を眺めていた。

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待合室のベンチにはレエン・コオトを着た男が一人ぼんやり外を眺めていた。

僕は、今聞いたばかりの幽霊の話を思い出した。

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僕は今聞いたばかりの幽霊の話を思い出した。

しかし、ちょっと苦笑いしただけで、とにかく次の列車を待つために、駅前のカフェへ入ることにした。

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が、ちょっと苦笑したぎり、とにかく次の列車を待つ為に停車場前のカッフェへはいることにした。

それは、カフェと呼ぶのもどうかと思うような、みすぼらしいカフェだった。

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それはカッフェと云う名を与えるのも考えものに近いカッフェだった。

僕はすみのテーブルに座り、ココアを一杯注文した。

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僕は隅のテエブルに坐り、ココアを一杯註文ちゅうもんした。

テーブルにかけてあるオイルクロス(油をしみこませた布)は、白地に細い青の線で、あらい格子模様を描いたものだった。

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テエブルにかけたオイル・クロオスは白地に細い青の線を荒い格子こうしに引いたものだった。

しかし、すみのほうはもうすり切れて、薄汚れた布地がのぞいていた。

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しかしもう隅々には薄汚いカンヴァスをあらわしていた。

僕は、にかわ(接着剤)くさいココアを飲みながら、人けのないカフェの中を見まわした。

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僕はにかわ臭いココアを飲みながら、人げのないカッフェの中を見まわした。

ほこりっぽいカフェの壁には「親子丼(おやこどんぶり)」

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ほこりじみたカッフェの壁には「親子丼おやこどんぶり

や「カツレツ」

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だの「カツレツ」

という紙の札が何枚も貼ってあった。

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だのと云う紙札が何枚もってあった。

「地玉子(じたまご・その土地でとれた卵)、オムレツ」

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地玉子オムレツ

僕は、こういう紙の札に、東海道線に近い田舎らしさを感じた。

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僕はこう云う紙札に東海道線に近い田舎を感じた。

それは、麦畑やキャベツ畑の間を電気機関車が走るような田舎だった。……

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それは麦畑やキャベツ畑の間に電気機関車の通る田舎だった。……

次の東京行きの列車に乗ったのは、もう日暮れに近いころだった。

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次の上り列車に乗ったのはもう日暮に近い頃だった。

僕はいつも二等車に乗っていた。

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僕はいつも二等に乗っていた。

しかし、何かの都合で、その時は三等車に乗ることにした。

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が、何かの都合上、その時は三等に乗ることにした。

汽車の中は、かなり混み合っていた。

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汽車の中は可也こみ合っていた。

しかも、僕の前後にいるのは、大磯(おおいそ)かどこかへ遠足に行ったらしい、小学校の女の子たちばかりだった。

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しかも僕の前後にいるのは大磯おおいそかどこかへ遠足に行ったらしい小学校の女生徒ばかりだった。

僕はタバコに火をつけながら、こういう女の子たちの群れを眺めていた。

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僕は巻煙草に火をつけながら、こう云う女生徒の群れを眺めていた。

彼女たちは、みんな元気で明るかった。

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彼等はいずれも快活だった。

それだけでなく、ほとんどしゃべり続けていた。

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のみならず殆どしゃべり続けだった。

「写真屋さん、ラブシーンって何?」

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「写真屋さん、ラヴ・シインって何?」

やはり遠足について来たらしい、僕の前にいた「写真屋さん」

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やはり遠足について来たらしい、僕の前にいた「写真屋さん」

は、何とかごまかしていた。

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は何とかお茶を濁していた。

しかし、十四、五歳くらいの女の子の一人は、まだいろいろなことを聞き続けていた。

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しかし十四五の女生徒の一人はまだいろいろのことを問いかけていた。

僕はふと、彼女の鼻に蓄膿症(ちくのうしょう・鼻の病気)があることに気づき、思わず笑ってしまいそうになった。

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僕はふと彼女の鼻に蓄膿症ちくのうしょうのあることを感じ、何か頬笑ほほえまずにはいられなかった。

それから、僕の隣にいた十二、三歳くらいの女の子の一人は、若い女の先生のひざの上に座り、片手で先生の首を抱きながら、もう片方の手で先生のほおをなでていた。

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それから又僕の隣りにいた十二三の女生徒の一人は若い女教師のひざの上に坐り、片手に彼女のくびを抱きながら、片手に彼女の頬をさすっていた。

しかも、誰かと話す合間に、時々こう先生に話しかけていた。

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しかも誰かと話す合い間に時々こう女教師に話しかけていた。

「先生ってかわいいわね。かわいい目をしていらっしゃるわね」

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「可愛いわね、先生は。可愛い目をしていらっしゃるわね」

彼女たちは、僕には女の子というより、もう一人前の女の人のような感じがした。

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彼等は僕には女生徒よりも一人前の女と云う感じを与えた。

リンゴを皮ごとかじっていたり、キャラメルの紙をむいていたりすることを除けば。……

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林檎りんごを皮ごとじっていたり、キャラメルの紙をいていることを除けば。……

しかし、年上らしい女の子の一人は、僕のそばを通る時に、誰かの足を踏んだらしく、「ごめんなさいまし」

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しかし年かさらしい女生徒の一人は僕の側を通る時に誰かの足を踏んだと見え、「御免なさいまし」

と声をかけた。

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と声をかけた。

彼女だけは、ほかの子よりもおとなびているぶん、かえって僕には子どもの女生徒らしく見えた。

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彼女だけは彼等よりもませているだけにかえって僕には女生徒らしかった。

僕はタバコをくわえたまま、こういう矛盾を感じている自分自身を、笑わずにはいられなかった。

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僕は巻煙草をくわえたまま、この矛盾を感じた僕自身を冷笑しないわけには行かなかった。

いつのまにか電灯をともした汽車は、やっと郊外のある駅に着いた。

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いつか電燈をともした汽車はやっと或郊外の停車場へ着いた。

僕は、風の冷たいプラットホームに下り、いったん橋を渡ってから、省線電車(しょうせんでんしゃ・当時の国鉄の電車)が来るのを待つことにした。

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僕は風の寒いプラットホオムへ下り、一度橋を渡った上、省線電車の来るのを待つことにした。

すると、偶然顔を合わせたのは、ある会社に勤めているT君だった。僕たちは、電車を待っている間に、不景気のことなどを話し合った。

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すると偶然顔を合せたのは或会社にいるT君だった、僕等は電車を待っている間に不景気のことなどを話し合った。

T君はもちろん、僕などよりもこういう話にくわしかった。

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T君は勿論もちろん僕などよりもこう云う問題に通じていた。

しかし、彼のたくましい指には、不景気とはあまり縁のなさそうな、トルコ石の指輪がはまっていた。

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が、たくましい彼の指には余り不景気には縁のない土耳古トルコ石の指環ゆびわまっていた。

「大したものをはめているね」

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「大したものを嵌めているね」

「これか? これはハルビンへ商売に行っていた友だちの指輪を買わされたんだよ。そいつも今は困っている。組合(くみあい・共同で商売をする仲間の団体)と取引きができなくなったものだから」

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「これか? これはハルビンへ商売に行っていた友だちの指環を買わされたのだよ。そいつも今は往生している。コオペラティヴと取引きが出来なくなったものだから」

僕たちが乗った省線電車は、幸い汽車ほど混んでいなかった。

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僕等の乗った省線電車は幸いにも汽車ほどこんでいなかった。

僕たちは並んで腰をおろし、いろいろなことを話していた。

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僕等は並んで腰をおろし、いろいろのことを話していた。

T君は、ついこの春、パリにある勤め先から東京へ帰ったばかりだった。

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T君はついこの春に巴里パリにある勤め先から東京へ帰ったばかりだった。

そのため、僕たちの間では、パリの話がよく出た。

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従って僕等の間には巴里の話も出勝ちだった。

カイヨー夫人(フランスの政治家の妻)の話、カニ料理の話、外国旅行中のある殿下(でんか・皇族の方)の話、……

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カイヨオ夫人の話、かに料理の話、御外遊中の或殿下の話、……

「フランスは、案外困っていないよ。ただ、もともとフランス人というのは税金を払いたがらない国民だから、内閣はいつも倒れるけどね。……」

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仏蘭西フランスは存外困ってはいないよ、唯元来仏蘭西人と云うやつは税を出したがらない国民だから、内閣はいつも倒れるがね。……」

「だって、フラン(フランスのお金の単位)は暴落するじゃないか」

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「だってフランは暴落するしさ」

「それは新聞を読んでいればそう見えるだけさ。でも、実際に向こうにいてごらん。新聞に出てくる日本というのは、しょっちゅう大地震や大洪水が起きているんだから」

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「それは新聞を読んでいればね。しかし向うにいて見給え。新聞紙上の日本なるものはのべつ大地震や大洪水があるから」

すると、レインコートを着た男が一人、僕たちの向かいに来て腰をおろした。

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するとレエン・コオトを着た男が一人僕等の向うへ来て腰をおろした。

僕は少し気味が悪くなり、さっき聞いた幽霊の話をT君に話したい気持ちになった。

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僕はちょっと無気味になり、何か前に聞いた幽霊の話をT君に話したい心もちを感じた。

しかし、その前にT君は、つえの持ち手をくるりと左へ向け、顔は前を向いたまま、小声で僕に話しかけた。

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が、T君はその前に杖の柄をくるりと左へ向け、顔は前を向いたまま、小声に僕に話しかけた。

「あそこに女の人が一人いるだろう? ねずみ色の毛糸のショール(肩にかける布)をした、……」

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「あすこに女が一人いるだろう? 鼠色の毛糸のショオルをした、……」

「あの西洋風に髪を結った女の人か?」

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「あの西洋髪に結った女か?」

「うん、風呂敷包みを抱えている女さ。あいつは、この夏は軽井沢にいたよ。ちょっとおしゃれな洋服なんか着てね」

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「うん、風呂敷包みを抱えている女さ。あいつはこの夏は軽井沢にいたよ。ちょっと洒落しゃれた洋装などをしてね」

しかし、今の彼女は、誰の目にも、みすぼらしい格好をしているのに違いなかった。

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しかし彼女は誰の目にも見すぼらしいなりをしているのに違いなかった。

僕はT君と話しながら、そっと彼女を見ていた。

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僕はT君と話しながら、そっと彼女を眺めていた。

彼女は、眉と眉の間のあたりに、どこか普通ではない感じのする顔をしていた。

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彼女はどこか眉の間に気違いらしい感じのする顔をしていた。

しかも、その風呂敷包みの中からは、ヒョウの模様に似たスポンジがはみ出していた。

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しかもその又風呂敷包みの中からひょうに似た海綿をはみ出させていた。

「軽井沢にいた時には、若いアメリカ人と踊ったりしていたっけ。モダン……何て言うやつかね」

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「軽井沢にいた時には若い亜米利加アメリカ人と踊ったりしていたっけ。モダアン……何と云うやつかね」

レインコートを着た男は、僕がT君と別れる時には、いつのまにかいなくなっていた。

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レエン・コオトを着た男は僕のT君と別れる時にはいつかそこにいなくなっていた。

僕は、省線電車のある駅から、やはりかばんをぶら下げたまま、あるホテルへ歩いて行った。

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僕は省線電車の或停車場からやはり鞄をぶら下げたまま、或ホテルへ歩いて行った。

通りの両側に立っているのは、たいてい大きなビルだった。

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往来の両側に立っているのは大抵大きいビルディングだった。

僕はそこを歩いているうちに、ふと松林を思い出した。

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僕はそこを歩いているうちにふと松林を思い出した。

それだけでなく、僕の視界の中に、変なものを見つけた。

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のみならず僕の視野のうちに妙なものを見つけ出した。

変なものを?――

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妙なものを?――

それは、絶えずまわっている半透明の歯車だった。

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と云うのは絶えずまわっている半透明の歯車だった。

僕は、こういう経験を前にも何度かしたことがあった。

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僕はこう云う経験を前にも何度か持ち合せていた。

歯車はだんだん数を増やし、僕の視界の半分をふさいでしまう。しかしそれも長くは続かない。しばらくすると歯車は消えるが、代わりに今度は頭痛がしはじめる。――それはいつも同じだった。

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歯車は次第に数を殖やし、半ば僕の視野をふさいでしまう、が、それも長いことではない、暫らくの後には消え失せる代りに今度は頭痛を感じはじめる、――それはいつも同じことだった。

眼科の医者は、この錯覚(さっかく・目の見まちがい)(?)

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眼科の医者はこの錯覚(?)

のせいだと言って、たびたび僕にタバコを減らすように言った。

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の為に度々僕に節煙を命じた。

しかし、こういう歯車は、僕がまだタバコを吸わなかった二十歳前にも、見えたことがないわけではなかった。

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しかしこう云う歯車は僕の煙草にしたしまない二十はたち前にも見えないことはなかった。

僕は、また始まったなと思い、左目の視力を確かめるために、片手で右目をふさいでみた。

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僕は又はじまったなと思い、左の目の視力をためす為に片手に右の目を塞いで見た。

左目は、やはり何ともなかった。

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左の目は果して何ともなかった。

しかし、右目のまぶたの裏には、歯車がいくつもまわっていた。

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しかし右の目のまぶたの裏には歯車が幾つもまわっていた。

僕は、右側のビルがだんだん消えていくのを見ながら、せっせと通りを歩いて行った。

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僕は右側のビルディングの次第に消えてしまうのを見ながら、せっせと往来を歩いて行った。

ホテルの玄関に入った時には、歯車ももう消えていた。

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ホテルの玄関をはいった時には歯車ももう消え失せていた。

しかし、頭痛はまだ残っていた。

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が、頭痛はまだ残っていた。

僕は、コート(外套)や帽子を預けるついでに、部屋を一つとってもらうことにした。

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僕は外套がいとうや帽子を預ける次手ついでに部屋を一つとって貰うことにした。

それから、ある雑誌社に電話をかけて、お金のことを相談した。

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それから或雑誌社へ電話をかけて金のことを相談した。

結婚式の晩さん会(ばんさんかい・夕食会)は、とっくに始まっていたらしかった。

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結婚披露式の晩餐ばんさんはとうに始まっていたらしかった。

僕はテーブルのすみに座り、ナイフやフォークを動かし始めた。

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僕はテエブルの隅に坐り、ナイフやフォオクを動かし出した。

正面にいる新郎新婦をはじめ、白い凹(おう)字形(コの字形)のテーブルについた五十人あまりの人びとは、もちろんみんな陽気だった。

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正面の新郎や新婦をはじめ、白いおう字形のテエブルに就いた五十人あまりの人びとは勿論いずれも陽気だった。

しかし、僕の気持ちは、明るい電灯の光の下で、だんだん暗くなるばかりだった。

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が、僕の心もちは明るい電燈の光の下にだんだん憂鬱になるばかりだった。

僕はこの気持ちから逃れるために、隣にいたお客さんに話しかけた。

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僕はこの心もちをのがれる為に隣にいた客に話しかけた。

彼は、ちょうどライオンのように白いほおひげを伸ばしたお年寄りだった。

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彼は丁度獅子ししのように白い頬髯ほおひげを伸ばした老人だった。

それだけでなく、僕も名前を知っている、ある有名な漢学者(かんがくしゃ・中国の古典を研究する学者)だった。

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のみならず僕も名を知っていた或名高い漢学者だった。

そのため、僕たちの話は、いつのまにか古典の話に移っていった。

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従って又僕等の話はいつか古典の上へ落ちて行った。

「麒麟(きりん)はつまり一角獣(いっかくじゅう)ですね。それから鳳凰(ほうおう)も、フェニックスという鳥の、……」

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麒麟きりんはつまり一角獣ですね。それから鳳凰ほうおうもフェニックスと云う鳥の、……」

この有名な漢学者は、僕のこういう話にも興味を持っているらしかった。

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この名高い漢学者はこう云う僕の話にも興味を感じているらしかった。

僕は、機械的にしゃべっているうちに、だんだん病的な、こわしたい気持ちを感じてきて、堯(ぎょう)と舜(しゅん・中国の伝説の名君)を作り話の人物だと言い、さらに「春秋(しゅんじゅう)」

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僕は機械的にしゃべっているうちにだんだん病的な破壊慾を感じ、堯舜ぎょうしゅんを架空の人物にしたのは勿論、「春秋しゅんじゅう

の作者も、ずっと後の漢(かん)の時代の人だったことを話し出した。

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の著者もずっと後の漢代の人だったことを話し出した。

すると、この漢学者ははっきりといやな顔をし、少しも僕の顔を見ないまま、まるでトラがうなるように、僕の話をさえぎった。

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するとこの漢学者は露骨に不快な表情を示し、少しも僕の顔を見ずに殆ど虎のうなるように僕の話をり離した。

「もし堯や舜もいなかったとすれば、孔子(こうし)はうそをついたことになる。聖人(せいじん・立派な人)がうそをつくはずはない」

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「もし堯舜もいなかったとすれば、孔子はうそをつかれたことになる。聖人の譃をつかれる筈はない」

僕はもちろん黙ってしまった。

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僕は勿論黙ってしまった。

それから、また皿の上の肉にナイフとフォークを入れようとした。

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それから又皿の上の肉へナイフやフォオクを加えようとした。

すると、小さいウジ虫が一匹、静かに肉のふちで動いていた。

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すると小さいうじが一匹静かに肉の縁にうごめいていた。

ウジ虫は、僕の頭の中に Worm(ワーム・虫という意味の英語)という言葉を呼び起こした。

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蛆は僕の頭の中に Worm と云う英語を呼び起した。

それはまた、麒麟や鳳凰のように、ある伝説の生き物を意味する言葉でもあるに違いなかった。

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それは又麒麟や鳳凰のように或伝説的動物を意味している言葉にも違いなかった。

僕はナイフとフォークを置いて、いつのまにか自分のグラスにシャンパンがつがれるのを眺めていた。

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僕はナイフやフォオクを置き、いつか僕の杯にシャンパアニュのつがれるのを眺めていた。

やっと夕食会が終わった後、僕は、さっきとっておいた自分の部屋にこもるために、人けのない廊下を歩いて行った。

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やっと晩餐のすんだ後、僕は前にとって置いた僕の部屋へこもる為に人気ひとげのない廊下を歩いて行った。

その廊下は、僕にはホテルというより、刑務所(けいむしょ・罪を犯した人を閉じ込めておく所)のような感じがした。

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廊下は僕にはホテルよりも監獄らしい感じを与えるものだった。

しかし幸い、頭痛だけはいつのまにか軽くなっていた。

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しかし幸いにも頭痛だけはいつの間にか薄らいでいた。

僕の部屋には、かばんはもちろん、帽子やコートも運んであった。

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僕の部屋には鞄は勿論、帽子や外套も持って来てあった。

僕は、壁にかけたコートに、自分自身が立っているような姿を感じ、あわててそれを部屋のすみの洋服だんすの中に放りこんだ。

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僕は壁にかけた外套に僕自身の立ち姿を感じ、急いでそれを部屋の隅の衣裳戸棚いしょうとだなの中へほうりこんだ。

それから鏡台の前へ行き、じっと鏡に自分の顔を映した。

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それから鏡台の前へ行き、じっと鏡に僕の顔を映した。

鏡に映った僕の顔は、皮膚の下の骨の形がはっきり見えていた。

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鏡に映った僕の顔は皮膚の下の骨組みを露わしていた。

さっきのウジ虫が、僕のこの記憶の中に、たちまちはっきり浮かび上がった。

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蛆はこう云う僕の記憶に忽ちはっきり浮び出した。

僕は戸をあけて廊下へ出て、あてもなく歩いて行った。

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僕は戸をあけて廊下へ出、どこと云うことなしに歩いて行った。

すると、ロビーへ出るすみに、緑色のかさをかけた、背の高いスタンドの電灯が一つ、ガラス戸にくっきりと映っていた。

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するとロッビイへ出る隅に緑いろの笠をかけた、せいの高いスタンドの電燈が一つ硝子ガラス戸にあざやかに映っていた。

それは、なぜか僕の心を落ち着かせるものだった。

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それは何か僕の心に平和な感じを与えるものだった。

僕はその前の椅子に座り、いろいろなことを考えていた。

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僕はその前の椅子に坐り、いろいろのことを考えていた。

しかし、そこにも五分と座っていられなかった。

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が、そこにも五分とは坐っている訣に行かなかった。

レインコートは、今度もまた、僕の横にあった長椅子の背に、いかにもだらりと脱ぎかけてあった。

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レエン・コオトは今度もまた僕の横にあった長椅子の背に如何いかにもだらりと脱ぎかけてあった。

「しかも、今は真冬だというのに」

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「しかも今は寒中だと云うのに」

僕はこんなことを考えながら、もう一度廊下を引き返して行った。

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僕はこんなことを考えながら、もう一度廊下を引き返して行った。

廊下のすみにあるボーイの控え室には、一人もボーイの姿は見えなかった。

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廊下の隅の給仕だまりには一人も給仕は見えなかった。

しかし、彼らの話し声が、ちらっと僕の耳をかすめていった。

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しかし彼等の話し声はちょっと僕の耳をかすめて行った。

それは、何か言われたのに答えた、All right(オールライト・「わかりました」という意味の英語)という言葉だった。

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それは何とか言われたのに答えた All right と云う英語だった。

「オール・ライト」

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「オオル・ライト」

?――

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?――

僕は、いつのまにか、この会話の意味を正確につかもうとあせっていた。

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僕はいつかこの対話の意味を正確につかもうとあせっていた。

「オール・ライト」

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「オオル・ライト」

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「オール・ライト」

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 「オオル・ライト」

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何がいったい、オール・ライトなのだろう?

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 何が一体オオル・ライトなのであろう?

僕の部屋は、もちろんひっそりしていた。

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僕の部屋は勿論ひっそりしていた。

しかし、戸をあけて入ることは、なぜか僕には気味が悪かった。

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が、戸をあけてはいることは妙に僕には無気味だった。

僕はちょっとためらった後、思い切って部屋の中へ入って行った。

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僕はちょっとためらった後、思い切って部屋の中へはいって行った。

それから、鏡を見ないようにして、机の前の椅子に腰をおろした。

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それから鏡を見ないようにし、机の前の椅子に腰をおろした。

椅子は、トカゲの皮に似た、青いモロッコ革の安楽いすだった。

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椅子は蜥蜴とかげの皮に近い、青いマロック皮の安楽椅子だった。

僕はかばんをあけて原稿用紙を出し、書きかけの短編小説の続きを書こうとした。

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僕は鞄をあけて原稿用紙を出し、或短篇を続けようとした。

けれども、インクをつけたペンは、いつまでたっても動かなかった。

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けれどもインクをつけたペンはいつまでたっても動かなかった。

それどころか、やっと動いたと思うと、同じ言葉ばかり書き続けていた。

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のみならずやっと動いたと思うと、同じ言葉ばかり書きつづけていた。

All right……All right……All right sir……All right……

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All right……All right……All right sir……All right……

そこへ突然鳴り出したのは、ベッドのそばにある電話だった。

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そこへ突然鳴り出したのはベッドの側にある電話だった。

僕は驚いて立ち上がり、受話器を耳に当てて返事をした。

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僕は驚いて立ち上り、受話器を耳へやって返事をした。

「どなた?」

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「どなた?」

「あたしです。あたし……」

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「あたしです。あたし……」

電話の相手は、僕の姉の娘だった。

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相手は僕の姉の娘だった。

「何だい? どうかしたのかい?」

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「何だい? どうかしたのかい?」

「ええ、大変なことが起きたんです。ですから、……大変なことが起きたものですから。今、おばさんにも電話をかけたんです」

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「ええ、あの大へんなことが起ったんです。ですから、……大へんなことが起ったもんですから。今叔母さんにも電話をかけたんです」

「大変なこと?」

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「大へんなこと?」

「ええ、ですから、すぐに来てください。すぐにですよ」

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「ええ、ですからすぐに来て下さい。すぐにですよ」

電話は、それきり切れてしまった。

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電話はそれぎり切れてしまった。

僕はもとのように受話器を置き、思わずベルのボタンを押した。

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僕はもとのように受話器をかけ、反射的にベルのボタンを押した。

しかし、自分の手が震えていることは、自分でもはっきりわかっていた。

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しかし僕の手の震えていることは僕自身はっきり意識していた。

ボーイは、なかなかやって来なかった。

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給仕は容易にやって来なかった。

僕は、いらだたしさよりも苦しさを感じ、何度もベルのボタンを押した。

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僕は苛立いらだたしさよりも苦しさを感じ、何度もベルの鈕を押した。

やっと、運命が僕に教えてくれた「オール・ライト」

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やっと運命の僕に教えた「オオル・ライト」

という言葉の意味を、わかりながら。

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と云う言葉を了解しながら。

僕の姉の夫は、その日の午後、東京からあまり離れていない田舎で、汽車にひかれて死んでいた。

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僕の姉の夫はその日の午後、東京から余り離れていない或田舎に轢死れきししていた。

しかも、季節に合わないレインコートをはおっていた。

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しかも季節に縁のないレエン・コオトをひっかけていた。

僕は今も、そのホテルの部屋で、さっきの短編小説を書き続けている。

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僕はいまもそのホテルの部屋に前の短篇を書きつづけている。

真夜中の廊下には、誰も通らない。

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真夜中の廊下には誰も通らない。

しかし、時々、戸の外で羽の音が聞こえることもある。

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が、時々戸の外に翼の音の聞えることもある。

どこかで鳥でも飼ってあるのかもしれない。

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どこかに鳥でも飼ってあるのかも知れない。

二 復讐

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二 復讐

僕はこのホテルの部屋で、午前八時ごろに目を覚ました。

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僕はこのホテルの部屋に午前八時頃に目をました。

しかし、ベッドをおりようとすると、不思議なことに、スリッパは片方しかなかった。

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が、ベッドをおりようとすると、スリッパアは不思議にも片っぽしかなかった。

それは、この一、二年の間、いつも僕に恐怖や不安を与える出来事だった。

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それはこの一二年の間、いつも僕に恐怖だの不安だのを与える現象だった。

それだけでなく、サンダルを片方だけはいたギリシャ神話の中の王子を思い出させる出来事でもあった。

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のみならずサンダアルを片っぽだけはいた希臘ギリシャ神話の中の王子を思い出させる現象だった。

僕はベルを押してボーイを呼び、片方のスリッパを探してもらうことにした。

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僕はベルを押して給仕を呼び、スリッパアの片っぽを探して貰うことにした。

ボーイは、不思議そうな顔をしながら、狭い部屋の中を探しまわった。

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給仕はけげんな顔をしながら、狭い部屋の中を探しまわった。

「ここにありました。このお風呂の部屋の中に」

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「ここにありました。このバスの部屋の中に」

「どうして、また、そんな所に行っていたんだろう?」

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「どうして又そんな所に行っていたのだろう?」

「さあ、ネズミかもしれません」

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「さあ、鼠かも知れません」

僕はボーイが下がった後、ミルクを入れないコーヒーを飲み、さっきの小説を仕上げにかかった。

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僕は給仕の退いたのち、牛乳を入れない珈琲コーヒーを飲み、前の小説を仕上げにかかった。

凝灰岩(ぎょうかいがん・やわらかい石の一種)を四角に組んだ窓は、雪のある庭に向いていた。

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凝灰岩を四角に組んだ窓は雪のある庭に向っていた。

僕はペンを休めるたびに、ぼんやりとこの雪を眺めたりした。

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僕はペンを休める度にぼんやりとこの雪を眺めたりした。

雪は、つぼみをつけたジンチョウゲの木の下で、都会のすすでよごれていた。

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雪はつぼみを持った沈丁花じんちょうげの下に都会の煤煙ばいえんによごれていた。

それは、なぜか僕の心を痛ませる眺めだった。

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それは何か僕の心にいたましさを与える眺めだった。

僕はタバコをふかしながら、いつのまにかペンを止めて、いろいろなことを考えていた。

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僕は巻煙草をふかしながら、いつかペンを動かさずにいろいろのことを考えていた。

妻のことを、子どもたちのことを、そしてとりわけ、姉の夫のことを。……

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妻のことを、子供たちのことを、就中なかんずく姉の夫のことを。……

姉の夫は、自殺する前に、放火の疑いをかけられていた。

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姉の夫は自殺する前に放火の嫌疑をこうむっていた。

それもまた、実際、仕方のないことだった。

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それもまた実際仕かたはなかった。

彼は、家が焼ける前に、家の値段の二倍もの火災保険に入っていた。

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彼は家の焼ける前に家の価格に二倍する火災保険に加入していた。

しかも、うそのしょうげん(偽証罪)を犯したために、執行猶予(しっこうゆうよ・刑務所に入らずに様子を見る扱い)の身になっていた。

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しかも偽証罪を犯した為に執行猶予中の体になっていた。

けれども、僕を不安にしたのは、彼が自殺したことよりも、僕が東京へ帰るたびに、必ず火が燃えているのを見ることだった。

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けれども僕を不安にしたのは彼の自殺したことよりも僕の東京へ帰る度に必ず火の燃えるのを見たことだった。

僕は、ある時は汽車の中から山を焼く火を見たり、また、ある時は自動車の中から(その時は妻子も一緒だった)、常磐橋(ときわばし)あたりの火事を見たりしていた。

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僕はあるいは汽車の中から山を焼いている火を見たり、或は又自動車の中から(その時は妻子とも一しょだった)常磐橋界隈ときわばしかいわいの火事を見たりしていた。

それは、彼の家が焼ける前から、自然と僕に、火事が起こるような予感を与えずにはいなかった。

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それは彼の家の焼けない前にもおのずから僕に火事のある予感を与えない訣には行かなかった。

「今年は、うちが火事になるかもしれないぞ」

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「今年は家が火事になるかも知れないぜ」

「そんな縁起の悪いことを。……でも、火事になったら大変ですね。保険はろくにかけていないし、……」

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「そんな縁起の悪いことを。……それでも火事になったら大変ですね。保険はろくについていないし、……」

僕たちは、そんなことを話し合ったりした。

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僕等はそんなことを話し合ったりした。

しかし、僕の家は焼けなかった。――僕は、必死に妄想(もうそう)を押しのけて、もう一度ペンを動かそうとした。

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しかし僕の家は焼けずに、――僕は努めて妄想もうぞうを押しのけ、もう一度ペンを動かそうとした。

しかし、ペンはどうしても一行も楽には動かなかった。

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が、ペンはどうしても一行とは楽に動かなかった。

僕はとうとう机の前を離れ、ベッドの上に寝転がったまま、トルストイの『Polikouchka(ポリクーシカ)』を読みはじめた。

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僕はとうとう机の前を離れ、ベッドの上に転がったまま、トルストイの Polikouchka を読みはじめた。

この小説の主人公は、見えっぱりな心や、病気っぽい傾向や、名誉を欲しがる心が入り交じった、複雑な性格の持ち主だった。

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この小説の主人公は虚栄心や病的傾向や名誉心の入り交った、複雑な性格の持ち主だった。

しかも、彼の一生の悲喜劇は、少し手を加えれば、そのまま僕の一生を戯画化(ぎがか・おおげさにこっけいに描くこと)したもののようだった。

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しかも彼の一生の悲喜劇は多少の修正を加えさえすれば、僕の一生のカリカテュアだった。

とくに、彼の悲喜劇の中に運命の冷笑を感じることが、だんだん僕を気味悪くさせてきた。

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殊に彼の悲喜劇の中に運命の冷笑を感じるのは次第に僕を無気味にし出した。

僕は一時間もたたないうちに、ベッドの上から飛び起きるが早いか、カーテンが垂れた部屋のすみへ、力いっぱい本を投げつけた。

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僕は一時間とたたないうちにベッドの上から飛び起きるが早いか、窓かけの垂れた部屋の隅へ力一ぱい本をほうりつけた。

「くたばってしまえ!」

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「くたばってしまえ!」

すると、大きなネズミが一匹、カーテンの下からお風呂の部屋へ、斜めに床の上を走って行った。

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すると大きい鼠が一匹窓かけの下からバスの部屋へ斜めに床の上を走って行った。

僕は一気にお風呂の部屋へ行き、戸をあけて中を探しまわった。

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僕は一足飛びにバスの部屋へ行き、戸をあけて中を探しまわった。

しかし、白い浴槽(よくそう・お風呂の入れ物)のかげにも、ネズミらしいものは見えなかった。

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が、白いタッブのかげにも鼠らしいものは見えなかった。

僕は急に気味が悪くなり、あわててスリッパを靴にはきかえると、人けのない廊下を歩いて行った。

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僕は急に無気味になり、あわててスリッパアを靴に換えると、人気ひとげのない廊下を歩いて行った。

廊下は、きょうも相変わらず、牢獄(ろうごく・刑務所)のように暗い感じだった。

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廊下はきょうも不相変あいかわらず牢獄ろうごくのように憂鬱だった。

僕はうつむいたまま、階段を上ったり下りたりしているうちに、いつのまにか調理場へ入っていた。

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僕は頭を垂れたまま、階段をあがったり下りたりしているうちにいつかコック部屋へはいっていた。

調理場は、案外明るかった。

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コック部屋は存外明るかった。

しかし、片側に並んだかまどは、いくつも炎をゆらめかせていた。

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が、片側に並んだかまどは幾つも炎を動かしていた。

僕はそこを通りぬけながら、白い帽子をかぶったコックたちが、冷たい目で僕を見ているのを感じた。

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僕はそこを通りぬけながら、白い帽をかぶったコックたちの冷やかに僕を見ているのを感じた。

同時に、自分が落ちた地獄を感じた。

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同時に又僕のちた地獄を感じた。

「神よ、私を罰してください。しかし、怒らないでください。さもなければ、私は滅びてしまうでしょう」

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「神よ、我を罰し給え。怒り給うことなかれ。恐らくは我滅びん」

――こういう祈りの言葉も、この瞬間には、自然と僕の口をついて出てくるのだった。

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――こう云う祈祷きとうもこの瞬間にはおのずから僕のくちびるにのぼらない訣には行かなかった。

僕はこのホテルの外へ出ると、青空の映った雪どけの道を、せっせと姉の家へ歩いて行った。

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僕はこのホテルの外へ出ると、青ぞらの映った雪解けの道をせっせと姉の家へ歩いて行った。

道に沿った公園の木々は、みんな枝や葉を黒っぽくしていた。

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道に沿うた公園の樹木は皆枝や葉を黒ませていた。

それだけでなく、どの木も一本ずつ、ちょうど僕たち人間のように、前や後ろを持っているように見えた。

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のみならずどれも一本ごとに丁度僕等人間のように前や後ろをそなえていた。

それもまた、僕には不快というより、恐怖に近いものを運んできた。

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それもまた僕には不快よりも恐怖に近いものを運んで来た。

僕は、ダンテの『地獄篇』に出てくる、木になった魂の話を思い出し、ビルばかり並んでいる電車の線路の向こう側を歩くことにした。

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僕はダンテの地獄の中にある、樹木になった魂を思い出し、ビルディングばかり並んでいる電車線路の向うを歩くことにした。

しかし、そこも一町(いっちょう・約百メートル)ほども、無事に歩くことはできなかった。

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しかしそこも一町とは無事に歩くことは出来なかった。

「ちょっと、通りがかりに失礼ですが、……」

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「ちょっと通りがかりに失礼ですが、……」

それは、金色のボタンのついた制服を着た、二十二、三歳くらいの青年だった。

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それは金鈕きんボタンの制服を着た二十二三の青年だった。

僕は黙ってこの青年を見つめ、彼の鼻の左わきにほくろがあるのに気づいた。

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僕は黙ってこの青年を見つめ、彼の鼻の左のわき黒子ほくろのあることを発見した。

彼は帽子を脱いだまま、おずおずと、こう僕に話しかけた。

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彼は帽を脱いだまま、ず怯ずこう僕に話しかけた。

「Aさんではいらっしゃいませんか?」

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「Aさんではいらっしゃいませんか?」

「そうです」

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「そうです」

「どうも、そんな気がしたものですから、……」

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「どうもそんな気がしたものですから、……」

「何か御用ですか?」

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「何か御用ですか?」

「いえ、ただお目にかかりたかっただけです。僕も先生の愛読者の……」

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「いえ、唯お目にかかりたかっただけです。僕も先生の愛読者の……」

僕はもうその時には、ちょっと帽子をとっただけで、彼を後ろに残して歩き出していた。

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僕はもうその時にはちょっと帽をとったぎり、彼を後ろに歩き出していた。

先生、A先生、――それは、僕にはこのごろ、いちばん不快な言葉だった。

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先生、A先生、――それは僕にはこの頃で最も不快な言葉だった。

僕は、自分がありとあらゆる罪を犯していると信じていた。

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僕はあらゆる罪悪を犯していることを信じていた。

しかも、彼らは何かにつけて、僕を先生と呼び続けていた。

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しかも彼等は何かの機会に僕を先生と呼びつづけていた。

僕はそこに、僕をあざけっている何かを感じずにはいられなかった。

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僕はそこに僕をあざける何ものかを感じずにはいられなかった。

何かを?――

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何ものかを?――

しかし、僕の物質主義(ぶっしつしゅぎ・目に見えるものだけを信じる考え方)は、神秘主義(しんぴしゅぎ・目に見えないものを信じる考え方)を受け入れることができなかった。

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しかし僕の物質主義は神秘主義を拒絶せずにはいられなかった。

僕は、つい二、三か月前にも、ある小さな同人雑誌(どうじんざっし・仲間で作る雑誌)に、こういう言葉を発表していた。――

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僕はつい二三箇月前にも或小さい同人雑誌にこう云う言葉を発表していた。――

「僕は、芸術的良心をはじめ、どんな良心も持っていない。僕が持っているのは神経だけだ」

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「僕は芸術的良心を始め、どう云う良心も持っていない。僕の持っているのは神経だけである」

……

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……

姉は、三人の子どもたちと一緒に、路地の奥の仮小屋(バラック)に避難していた。

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姉は三人の子供たちと一しょに露地の奥のバラックに避難していた。

茶色の紙を貼った仮小屋の中は、外よりも寒いくらいだった。

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褐色の紙を貼ったバラックの中は外よりも寒いくらいだった。

僕たちは、火鉢(ひばち・炭火で暖まる道具)に手をかざしながら、いろいろなことを話し合った。

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僕等は火鉢に手をかざしながら、いろいろのことを話し合った。

体のたくましい姉の夫は、人一倍やせ細った僕を、本能的に見下していた。

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体のたくましい姉の夫は人一倍せ細った僕を本能的に軽蔑けいべつしていた。

それだけでなく、僕の作品が不道徳だということを、公然と言っていた。

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のみならず僕の作品の不道徳であることを公言していた。

僕はいつも、冷やかにこういう彼を見下したまま、一度も打ち解けて話したことはなかった。

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僕はいつも冷やかにこう云う彼を見おろしたまま、一度も打ちとけて話したことはなかった。

しかし、姉と話しているうちに、彼もだんだん、僕と同じように地獄に落ちていたことに気づいた。

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しかし姉と話しているうちにだんだん彼も僕のように地獄に堕ちていたことを悟り出した。

彼は実際に、寝台車の中で幽霊を見たということだった。

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彼は現に寝台車の中に幽霊を見たとか云うことだった。

しかし、僕はタバコに火をつけ、努めてお金のことばかり話し続けた。

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が、僕は巻煙草に火をつけ、努めてかねのことばかり話しつづけた。

「何しろ、こういう時だから、何もかも売ってしまおうと思うの」

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「何しろこう云う際だしするから、何もかも売ってしまおうと思うの」

「それはそうだ。タイプライターなんかは、いくらかになるだろう」

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「それはそうだ。タイプライタアなどは幾らかになるだろう」

「ええ、それから絵なんかもあるし」

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「ええ、それから画などもあるし」

「ついでにNさん(姉の夫)の肖像画も売るか? しかし、あれは……」

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次手ついでにNさん(姉の夫)の肖像画も売るか? しかしあれは……」

僕は、仮小屋の壁にかけてある、額縁のない一枚のコンテ画(コンテという画材で描いた絵)を見ると、うかつに冗談も言えないような気がした。

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僕はバラックの壁にかけた、額縁のない一枚のコンテ画を見ると、迂濶うかつに常談も言われないのを感じた。

汽車にひかれて死んだ彼は、顔もすっかり肉のかたまりになり、わずかに口ひげだけが残っていたということだった。

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轢死した彼は汽車の為に顔もすっかり肉塊になり、僅かに唯口髭くちひげだけ残っていたとか云うことだった。

この話は、もちろん、話そのものが気味悪いものに違いなかった。

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この話は勿論話自身も薄気味悪いのに違いなかった。

しかし、彼の肖像画は、ほかの部分はどこもきちんと描いてあるのに、口ひげだけはなぜかぼんやりしていた。

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しかし彼の肖像画はどこも完全に描いてあるものの、口髭だけはなぜかぼんやりしていた。

僕は、光の加減かと思い、このコンテ画をいろいろな位置から眺めてみた。

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僕は光線の加減かと思い、この一枚のコンテ画をいろいろの位置から眺めるようにした。

「何をしているの?」

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「何をしているの?」

「何でもないよ。……ただ、あの肖像画は、口のまわりだけ、……」

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「何でもないよ。……唯あの肖像画は口のまわりだけ、……」

姉は、ちょっと振り返りながら、何も気づいていないように答えた。

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姉はちょっと振り返りながら、何も気づかないように返事をした。

「ひげだけ、妙にうすいでしょう」

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「髭だけ妙に薄いようでしょう」

僕が見たものは、錯覚ではなかった。

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僕の見たものは錯覚ではなかった。

しかし、錯覚でないとすれば、――僕は、お昼ご飯をごちそうにならないうちに、姉の家を出ることにした。

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しかし錯覚ではないとすれば、――僕は午飯ひるめしの世話にならないうちに姉の家を出ることにした。

「まあ、いいでしょう」

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「まあ、善いでしょう」

「また、あしたでも、……きょうは青山まで出かけるから」

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「又あしたでも、……きょうは青山まで出かけるのだから」

「ああ、あそこ? まだ体の具合は悪いの?」

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「ああ、あすこ? まだ体の具合は悪いの?」

「やっぱり、薬ばかり飲んでいる。眠るための薬だけでも大変だよ。ベロナール、ノイロナール、トリオナール、ヌマール……」

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「やっぱり薬ばかりんでいる。催眠薬だけでも大変だよ。ヴェロナアル、ノイロナアル、トリオナアル、ヌマアル……」

三十分ほどたった後、僕はあるビルの中に入り、エレベーターに乗って三階へのぼった。

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三十分ばかりたった後、僕は或ビルディングへはいり、昇降機リフトに乗って三階へのぼった。

それから、あるレストランのガラス戸を押して入ろうとした。

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それから或レストオランの硝子戸を押してはいろうとした。

しかし、ガラス戸は動かなかった。

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が、硝子戸は動かなかった。

それだけでなく、そこには「定休日」

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のみならずそこには「定休日」

と書いた、うるし塗りの札もかかっていた。

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と書いた漆塗りの札も下っていた。

僕はますます不快になり、ガラス戸の向こうのテーブルの上に、リンゴやバナナが盛ってあるのを見ながら、もう一度通りへ出ることにした。

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僕はいよいよ不快になり、硝子戸の向うのテエブルの上に林檎りんごやバナナを盛ったのを見たまま、もう一度往来へ出ることにした。

すると、会社員らしい男が二人、何か楽しそうにしゃべりながら、このビルに入るために、僕の肩をかすめて行った。

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すると会社員らしい男が二人何か快活にしゃべりながら、このビルディングにはいる為に僕の肩をこすって行った。

彼らの一人は、その拍子に「イライラしてね」

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彼等の一人はその拍子に「イライラしてね」

と言ったらしかった。

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と言ったらしかった。

僕は通りに立ちつくしたまま、タクシーが通るのを待っていた。

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僕は往来にたたずんだなり、タクシイの通るのを待ち合せていた。

タクシーは、なかなか通らなかった。

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タクシイは容易に通らなかった。

それだけでなく、たまに通るのは、必ず黄色い車だった。

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のみならずたまに通ったのは必ず黄いろい車だった。

(この黄色いタクシーは、なぜか僕にいつも交通事故の面倒を引き起こすものだった)そのうちに、僕は縁起のいい緑色の車を見つけ、とにかく青山の墓地に近い精神病院へ出かけることにした。

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(この黄いろいタクシイはなぜか僕に交通事故の面倒をかけるのを常としていた)そのうちに僕は縁起の好い緑いろの車を見つけ、とにかく青山の墓地に近い精神病院へ出かけることにした。

「イライラする、――tantalizing(じらされる)――Tantalus(タンタロス・ギリシャ神話の人物)――Inferno(地獄)……」

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「イライラする、――tantalizing――Tantalus――Inferno……」

タンタロスは、まさに、ガラス戸ごしに果物を眺めていた僕自身だった。

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タンタルスは実際硝子戸越しに果物を眺めた僕自身だった。

僕は、二度も目に浮かんだダンテの地獄をのろいながら、じっと運転手の背中を眺めていた。

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僕は二度も僕の目に浮んだダンテの地獄をのろいながら、じっと運転手の背中を眺めていた。

そのうちに、また、ありとあらゆるものがうそであるように感じてきた。

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そのうちに又あらゆるものの譃であることを感じ出した。

政治、実業(じつぎょう・商売や事業)、芸術、科学、――どれもみんな、こんな僕には、この恐ろしい人生を隠すための、色とりどりのエナメル(つやのある塗料)にすぎなかった。

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政治、実業、芸術、科学、――いずれも皆こう云う僕にはこの恐しい人生を隠した雑色のエナメルに外ならなかった。

僕はだんだん息苦しさを感じ、タクシーの窓をあけ放ったりした。

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僕はだんだん息苦しさを感じ、タクシイの窓をあけ放ったりした。

しかし、何か心臓をしめつけられるような感じは、消えなかった。

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が、何か心臓をしめられる感じは去らなかった。

緑色のタクシーは、やっと神宮前(じんぐうまえ)へ差しかかった。

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緑いろのタクシイはやっと神宮前へ走りかかった。

そこには、ある精神病院へ曲がる横町が一つあるはずだった。

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そこには或精神病院へ曲る横町が一つある筈だった。

しかし、それも、きょうだけはなぜか僕にはわからなかった。

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しかしそれもきょうだけはなぜか僕にはわからなかった。

僕は電車の線路に沿って、何度もタクシーを行ったり来たりさせた後、とうとうあきらめて降りることにした。

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僕は電車の線路に沿い、何度もタクシイを往復させた後、とうとうあきらめておりることにした。

僕はやっとその横町を見つけ、ぬかるみの多い道を曲がって行った。

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僕はやっとその横町を見つけ、ぬかるみの多い道を曲って行った。

すると、いつのまにか道を間違え、青山斎場(さいじょう・葬式をする場所)の前へ出てしまった。

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するといつか道を間違え、青山斎場の前へ出てしまった。

それは、かれこれ十年前にあった夏目先生(夏目漱石)のお別れの式以来、一度も、僕は門の前さえ通ったことのない建物だった。

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それはかれこれ十年前にあった夏目先生の告別式以来、一度も僕は門の前さえ通ったことのない建物だった。

十年前の僕も、幸福ではなかった。

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十年ぜんの僕も幸福ではなかった。

しかし、少なくとも平和だった。

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しかし少くとも平和だった。

僕は、砂利を敷いた門の中を眺め、「漱石山房(そうせきさんぼう・夏目漱石の書斎)」

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僕は砂利を敷いた門の中を眺め、「漱石そうせき山房」

のバショウの木を思い出しながら、自分の一生もひと区切りついたような気持ちを感じずにはいられなかった。

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芭蕉ばしょうを思い出しながら、何か僕の一生も一段落ついたことを感じない訣には行かなかった。

それだけでなく、十年ぶりに、この墓地の前へ僕を連れて来た何かを感じずにはいられなかった。

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のみならずこの墓地の前へ十年目に僕をつれて来た何ものかを感じない訣にも行かなかった。

ある精神病院の門を出た後、僕はまた自動車に乗り、さっきのホテルへ帰ることにした。

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或精神病院の門を出た後、僕は又自動車に乗り、前のホテルへ帰ることにした。

しかし、このホテルの玄関で降りると、レインコートを着た男が一人、何かボーイとけんかをしていた。

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が、このホテルの玄関へおりると、レエン・コオトを着た男が一人何か給仕と喧嘩けんかをしていた。

ボーイと?――

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給仕と?――

いや、それはボーイではなく、緑色の服を着た、車の係の人だった。

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いや、それは給仕ではない、緑いろの服を着た自動車掛りだった。

僕はこのホテルへ入ることに、何か不吉な気持ちを感じ、さっさともとの道を引き返して行った。

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僕はこのホテルへはいることに何か不吉な心もちを感じ、さっさともとの道を引き返して行った。

僕が銀座通りへ出た時には、かれこれ日暮れが近づいていた。

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僕の銀座通りへ出た時にはかれこれ日の暮も近づいていた。

僕は、両側に並んだ店や、目まぐるしい人通りに、いっそう気が滅入らずにはいられなかった。

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僕は両側に並んだ店や目まぐるしい人通りに一層憂鬱にならずにはいられなかった。

とくに、通りの人々が、罪などというものを知らないかのように、軽やかに歩いているのが不快だった。

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殊に往来の人々の罪などと云うものを知らないように軽快に歩いているのは不快だった。

僕は、うす明るい外の光に電灯の光が混ざる中を、どこまでも北へ歩いて行った。

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僕は薄明るい外光に電燈の光のまじった中をどこまでも北へ歩いて行った。

そのうちに、僕の目を引いたのは、雑誌などを積み上げた本屋だった。

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そのうちに僕の目をとらえたのは雑誌などを積み上げた本屋だった。

僕はこの本屋の店に入り、ぼんやりと何段かの本棚を見上げた。

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僕はこの本屋の店へはいり、ぼんやりと何段かの書棚を見上げた。

それから「ギリシャ神話」

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それから「希臘ギリシャ神話」

という一冊の本に、目を通すことにした。

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と云う一冊の本へ目を通すことにした。

黄色い表紙をした「ギリシャ神話」

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黄いろい表紙をした「希臘神話」

は、子ども向けに書かれたものらしかった。

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は子供の為に書かれたものらしかった。

けれども、偶然僕が読んだ一行は、たちまち僕を打ちのめした。

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けれども偶然僕の読んだ一行は忽ち僕を打ちのめした。

「一番えらいゼウスの神でも、復讐(ふくしゅう)の神にはかないません。……」

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「一番偉いツォイスの神でも復讐ふくしゅうの神にはかないません。……」

僕は、この本屋を後にして、人ごみの中を歩いて行った。

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僕はこの本屋の店を後ろに人ごみの中を歩いて行った。

いつのまにか曲がり始めた僕の背中に、絶えず僕をつけねらっている復讐の神を感じながら。……

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いつか曲り出した僕の背中に絶えず僕をつけ狙っている復讐の神を感じながら。……

三 夜

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三 夜

僕は丸善(まるぜん・大きな本屋)の二階の書棚に、ストリンドベリの『伝説』

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僕は丸善の二階の書棚にストリントベルグの「伝説」

を見つけ、二、三ページずつ目を通した。

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を見つけ、二三頁ずつ目を通した。

それは、僕の経験とあまり変わらないことを書いたものだった。

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それは僕の経験と大差のないことを書いたものだった。

それだけでなく、黄色い表紙をしていた。

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のみならず黄いろい表紙をしていた。

僕は『伝説』

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僕は「伝説」

を書棚へ戻し、今度は、ほとんど手当たりしだいに、厚い本を一冊引っぱり出した。

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を書棚へ戻し、今度は殆ど手当り次第に厚い本を一冊引きずり出した。

しかし、この本も、さし絵の一枚に、僕たち人間と変わらない、目や鼻のある歯車ばかりが並んでいた。

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しかしこの本もの一枚に僕等人間と変りのない、目鼻のある歯車ばかり並べていた。

(それは、あるドイツ人が集めた、精神病の人たちが描いた絵の画集だった)僕は、いつのまにか、暗い気持ちの中に反抗する心が起こるのを感じ、やけになったギャンブル狂いのように、いろいろな本を開いていった。

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(それは或独逸ドイツ人の集めた精神病者の画集だった)僕はいつか憂鬱の中に反抗的精神の起るのを感じ、やぶれかぶれになった賭博狂とばくきょうのようにいろいろの本を開いて行った。

しかし、なぜか、どの本も必ず、文章かさし絵かの中に、多少のとげを隠していた。

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が、なぜかどの本も必ず文章か挿し画かの中に多少の針を隠していた。

どの本も?――

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どの本も?――

僕は、何度も読み返した『マダム・ボヴァリー』

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僕は何度も読み返した「マダム・ボヴァリイ」

を手にとった時でさえ、結局、僕自身も、中産階級のムッシュー・ボヴァリーにほかならないと感じた。……

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を手にとった時さえ、畢竟ひっきょう僕自身も中産階級のムッシウ・ボヴァリイに外ならないのを感じた。……

日暮れに近い丸善の二階には、僕のほかに客もいないらしかった。

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日の暮に近い丸善の二階には僕の外に客もないらしかった。

僕は、電灯の光の中を、書棚の間をさまよって行った。

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僕は電燈の光の中に書棚の間をさまよって行った。

それから「宗教」

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それから「宗教」

という札をかかげた書棚の前に足を止め、緑色の表紙をした一冊の本に目を通した。

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と云う札を掲げた書棚の前に足を休め、緑いろの表紙をした一冊の本へ目を通した。

この本は、目次のどこかの章に「恐ろしい四つの敵、――疑い、恐怖、驕慢(きょうまん・おごり高ぶること)、官能的な欲望」

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この本は目次の第何章かに「恐しい四つの敵、――疑惑、恐怖、驕慢きょうまん、官能的欲望」

という言葉を並べていた。

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と云う言葉を並べていた。

僕はこういう言葉を見るとすぐ、いっそう反抗する心が起こるのを感じた。

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僕はこう云う言葉を見るが早いか、一層反抗的精神の起るのを感じた。

それらの敵と呼ばれるものは、少なくとも僕には、感受性(かんじゅせい・物事を感じ取る心)や理性の、別の呼び名にすぎなかった。

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それ等の敵と呼ばれるものは少くとも僕には感受性や理智の異名に外ならなかった。

しかし、昔ながらの考え方も、やはり近代的な考え方と同じように、僕を不幸にすることが、ますます僕にはたまらなかった。

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が、伝統的精神もやはり近代的精神のようにやはり僕を不幸にするのはいよいよ僕にはたまらなかった。

僕はこの本を手にしたまま、ふと、いつかペンネームに使った「寿陵余子(じゅりょうよし)」

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僕はこの本を手にしたまま、ふといつかペン・ネエムに用いた「寿陵余子じゅりょうよし

という言葉を思い出した。

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と云う言葉を思い出した。

それは、邯鄲(かんたん)の歩き方を学べないまま、故郷の寿陵(じゅりょう)の歩き方まで忘れてしまい、はうようにして故郷へ帰ったという、『韓非子(かんぴし)』

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それは邯鄲かんたんの歩みを学ばないうちに寿陵の歩みを忘れてしまい、蛇行匍匐だこうほふくして帰郷したと云う「韓非子かんぴし

の中に出てくる青年だった。

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中の青年だった。

今の僕は、誰の目にも「寿陵余子」

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今日こんにちの僕は誰の目にも「寿陵余子」

であるに違いなかった。

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であるのに違いなかった。

しかし、まだ地獄に落ちていなかったころの僕も、このペンネームを使っていたことは、――僕は、大きな書棚を後にして、必死に妄想をふり払うようにし、ちょうど自分の向かいにあったポスターの展示室へ入って行った。

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しかしまだ地獄へ堕ちなかった僕もこのペン・ネエムを用いていたことは、――僕は大きい書棚を後ろに努めて妄想を払うようにし、丁度僕の向うにあったポスタアの展覧室へはいって行った。

しかし、そこにも、一枚のポスターの中で、聖ジョージらしい騎士が一人、羽の生えた竜を刺し殺していた。

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が、そこにも一枚のポスタアの中には聖ジョオジらしい騎士が一人翼のある竜を刺し殺していた。

しかも、その騎士は、かぶとの下に、僕の敵の一人によく似た、しかめっつらを半分のぞかせていた。

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しかもその騎士はかぶとの下に僕の敵の一人に近いしかめ面を半ばあらわしていた。

僕はまた『韓非子』

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僕は又「韓非子」

の中にある、竜を殺す技を学んだ男の話を思い出し、展示室を通りぬけずに、幅の広い階段を下りて行った。

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の中の屠竜とりゅうの技の話を思い出し、展覧室へ通りぬけずに幅の広い階段を下って行った。

僕は、もう夜になった日本橋通りを歩きながら、「屠竜(とりゅう)」という言葉を考え続けた。

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僕はもう夜になった日本橋通りを歩きながら、屠竜と云う言葉を考えつづけた。

それはまた、僕の持っている硯(すずり)に刻まれた銘(めい・ほりつけた言葉)でもあった。

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それは又僕の持っているすずりの銘にも違いなかった。

この硯を僕に贈ったのは、ある若い事業家だった。

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この硯を僕に贈ったのは或若い事業家だった。

彼は、いろいろな事業に失敗した末、とうとう去年の暮れに破産してしまった。

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彼はいろいろの事業に失敗した揚句、とうとう去年の暮に破産してしまった。

僕は高い空を見上げ、数えきれない星の光の中で、この地球がどれほど小さいか、――つまり僕自身がどれほど小さいかということを、考えようとした。

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僕は高い空を見上げ、無数の星の光の中にどのくらいこの地球の小さいかと云うことを、――従ってどのくらい僕自身の小さいかと云うことを考えようとした。

しかし、昼間は晴れていた空も、いつのまにか、すっかり曇っていた。

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しかし昼間は晴れていた空もいつかもうすっかり曇っていた。

僕は突然、何かが自分に敵意を持っているのを感じ、電車の線路の向こうにあるカフェへ逃げこむことにした。

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僕は突然何ものかの僕に敵意を持っているのを感じ、電車線路の向うにある或カッフェへ避難することにした。

それは「避難」

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それは「避難」

に違いなかった。

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に違いなかった。

僕は、このカフェのバラ色の壁に、何か平和に近いものを感じ、一番奥のテーブルの前に、やっと落ち着いて腰をおろした。

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僕はこのカッフェの薔薇ばら色の壁に何か平和に近いものを感じ、一番奥のテエブルの前にやっと楽々と腰をおろした。

そこには幸い、僕のほかには二、三人の客がいるだけだった。

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そこには幸い僕の外に二三人の客のあるだけだった。

僕は一杯のココアをすすり、いつものようにタバコをふかし始めた。

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僕は一杯のココアをすすり、ふだんのように巻煙草をふかし出した。

タバコの煙は、バラ色の壁に向かって、かすかに青い煙を立ちのぼらせていった。

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巻煙草の煙は薔薇色の壁へかすかに青い煙を立ちのぼらせて行った。

この優しい色の調和も、やはり僕には気持ちよかった。

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この優しい色の調和もやはり僕には愉快だった。

けれども、僕はしばらくして、左の壁にかけてあるナポレオンの肖像画を見つけ、そろそろまた不安を感じはじめた。

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けれども僕は暫らくの後、僕の左の壁にかけたナポレオンの肖像画を見つけ、そろそろ又不安を感じ出した。

ナポレオンは、まだ学生だった時、地理のノートの最後に「セント・ヘレナ、小さい島」

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ナポレオンはまだ学生だった時、彼の地理のノオト・ブックの最後に「セエント・ヘレナ、小さい島」

と書いていた。

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と記していた。

それは、もしかしたら、僕たちが言うような単なる偶然だったのかもしれない。

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それは或は僕等の言うように偶然だったかも知れなかった。

しかし、ナポレオン自身にさえ、恐怖を呼び起こしたのは確かだった。……

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しかしナポレオン自身にさえ恐怖を呼び起したのは確かだった。……

僕はナポレオンを見つめたまま、自分自身の作品のことを考えはじめた。

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僕はナポレオンを見つめたまま、僕自身の作品を考え出した。

すると、まず記憶に浮かんだのは、「侏儒(しゅじゅ)の言葉」

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するとまず記憶に浮かんだのは「侏儒しゅじゅの言葉」

の中の、短い格言だった。

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の中のアフォリズムだった。

(とくに「人生は地獄よりも地獄的である」

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(殊に「人生は地獄よりも地獄的である」

という言葉だった)それから「地獄変(じごくへん)」

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と云う言葉だった)それから「地獄変」

の主人公、――良秀(よしひで)という絵師の運命だった。

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の主人公、――良秀よしひでと云う画師えしの運命だった。

それから……僕はタバコをふかしながら、こういう記憶から逃れるために、このカフェの中を眺めまわした。

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それから……僕は巻煙草をふかしながら、こう云う記憶からのがれる為にこのカッフェの中を眺めまわした。

僕がここへ逃げこんできたのは、五分もたたない前のことだった。

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僕のここへ避難したのは五分もたたない前のことだった。

しかし、このカフェは、短い時間の間に、すっかり様子を変えていた。

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しかしこのカッフェは短時間の間にすっかり容子ようすを改めていた。

とくに僕を不快にさせたのは、マホガニー(木材の一種)に似せた椅子やテーブルが、まわりのバラ色の壁と少しも調和していないことだった。

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就中なかんずく僕を不快にしたのはマホガニイまがいの椅子やテエブルの少しもあたりの薔薇色の壁と調和を保っていないことだった。

僕は、もう一度、人目に見えない苦しみの中に落ちこむのを恐れ、銀貨を一枚投げ出すが早いか、あわただしくこのカフェを出ようとした。

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僕はもう一度人目に見えない苦しみの中に落ちこむのを恐れ、銀貨を一枚投げ出すが早いか、匇々そうそうこのカッフェを出ようとした。

「もし、もし、二十銭いただきますが、……」

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「もし、もし、二十銭頂きますが、……」

僕が投げ出したのは、銅貨だった。

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僕の投げ出したのは銅貨だった。

僕は恥ずかしさを感じながら、一人で通りを歩いているうちに、ふと、遠い松林の中にある自分の家を思い出した。

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僕は屈辱を感じながら、ひとり往来を歩いているうちにふと遠い松林の中にある僕の家を思い出した。

それは、郊外にある僕の養父母の家ではなく、ただ僕を中心にした家族のために借りた家だった。

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それは或郊外にある僕の養父母の家ではない、唯僕を中心にした家族の為に借りた家だった。

僕は、かれこれ十年前にも、こういう家に暮らしていた。

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僕はかれこれ十年ぜんにもこう云う家に暮らしていた。

しかし、ある事情のために、軽はずみにも、父母と同居しはじめた。

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しかし或事情の為に軽率にも父母と同居し出した。

同時に、奴隷に、暴君に、そして力のない利己主義者に、変わっていった。……

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同時に又奴隷に、暴君に、力のない利己主義者に変り出した。……

さっきのホテルに帰ったのは、もうかれこれ十時だった。

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前のホテルに帰ったのはもうかれこれ十時だった。

ずっと長い道を歩いて来た僕は、自分の部屋へ帰る力を失い、太い丸太を燃やした暖炉(だんろ)の前の椅子に腰をおろした。

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ずっと長いみちを歩いて来た僕は僕の部屋へ帰る力を失い、太い丸太の火を燃やした炉の前の椅子に腰をおろした。

それから、自分が計画していた長編小説のことを考えはじめた。

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それから僕の計画していた長篇のことを考え出した。

それは、推古(すいこ)天皇の時代から明治までの各時代の庶民を主人公にして、だいたい三十いくつかの短編を時代の順に並べた長編小説だった。

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それは推古から明治に至る各時代の民を主人公にし、大体三十余りの短篇を時代順に連ねた長篇だった。

僕は、火の粉が舞い上がるのを見ながら、ふと、皇居の前にあるある銅像を思い出した。

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僕は火の粉の舞い上るのを見ながら、ふと宮城の前にある或銅像を思い出した。

この銅像は、よろいかぶとを着て、忠義の心そのもののように、高々と馬の上にまたがっていた。

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この銅像は甲冑かっちゅうを着、忠義の心そのもののように高だかと馬の上にまたがっていた。

しかし、彼の敵だったのは、――

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しかし彼の敵だったのは、――

「うそ!」

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うそ!」

僕はまた、遠い過去から、すぐそばの現代へすべり落ちた。

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僕は又遠い過去から目近まぢかい現代へすべり落ちた。

そこへ幸いにも来合わせたのは、ある先輩の彫刻家だった。

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そこへ幸いにも来合せたのは或先輩の彫刻家だった。

彼は相変わらず、ビロード(つやのある柔らかい布)の服を着て、短いヤギひげを反らせていた。

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彼は不相変あいかわらず天鵞絨びろうどの服を着、短い山羊髯やぎひげらせていた。

僕は椅子から立ち上がり、彼が差し出した手を握った。

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僕は椅子から立ち上り、彼のさし出した手を握った。

(それは、僕の習慣ではなく、パリやベルリンで半生を過ごした彼の習慣に従ったのだった)しかし、彼の手は、不思議なことに、爬虫類(はちゅうるい・トカゲやヘビの仲間)の皮膚のように湿っていた。

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(それは僕の習慣ではない、パリやベルリンに半生を送った彼の習慣に従ったのだった)が、彼の手は不思議にも爬虫類はちゅうるいの皮膚のように湿っていた。

「君は、ここに泊まっているのですか?」

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「君はここに泊っているのですか?」

「ええ、……」

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「ええ、……」

「仕事をしに?」

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「仕事をしに?」

「ええ、仕事もしているのです」

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「ええ、仕事もしているのです」

彼はじっと僕の顔を見つめた。

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彼はじっと僕の顔を見つめた。

僕は、彼の目の中に、探偵のような表情を感じた。

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僕は彼の目の中に探偵に近い表情を感じた。

「どうです、僕の部屋へ話しに来ませんか?」

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「どうです、僕の部屋へ話しに来ては?」

僕は、挑むように話しかけた。

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僕は挑戦的に話しかけた。

(この勇気の乏しいくせに、すぐに挑むような態度をとるのは、僕の悪い癖の一つだった)すると、彼はほほえみながら、「どこですか、君の部屋は?」

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(この勇気に乏しい癖に忽ち挑戦的態度をとるのは僕の悪癖の一つだった)すると彼は微笑しながら、「どこ、君の部屋は?」

と尋ね返した。

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と尋ね返した。

僕たちは親友のように肩を並べ、静かに話している外国人たちの間を通って、僕の部屋へ帰って行った。

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僕等は親友のように肩を並べ、静かに話している外国人たちの中を僕の部屋へ帰って行った。

彼は僕の部屋へ来ると、鏡を後ろにして腰をおろした。

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彼は僕の部屋へ来ると、鏡を後ろにして腰をおろした。

それから、いろいろなことを話しはじめた。

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それからいろいろのことを話し出した。

いろいろなことを?――

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いろいろのことを?――

しかし、たいていは女の話だった。

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しかし大抵は女の話だった。

僕は、罪を犯したために地獄に落ちた一人に違いなかった。

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僕は罪を犯した為に地獄に堕ちた一人に違いなかった。

しかし、それだけに、悪い行いの話は、ますます僕を暗い気持ちにさせた。

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が、それだけに悪徳の話は愈僕を憂鬱にした。

僕は一時的に清教徒(せいきょうと・行いに厳しい人)のようになり、それらの女たちをあざけりはじめた。

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僕は一時的清教徒になり、それ等の女をあざけり出した。

「S子さんの唇を見てごらん。あれは何人ものキスのせいで……」

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「S子さんのくちびるを見給え。あれは何人もの接吻の為に……」

僕はふと口をつぐみ、鏡の中に彼の後ろ姿を見つめた。

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僕はふと口をつぐみ、鏡の中に彼の後ろ姿を見つめた。

彼は、ちょうど耳の下に、黄色いこうやく(薬を塗った布)を貼りつけていた。

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彼は丁度耳の下に黄いろい膏薬こうやくりつけていた。

「何人ものキスのせいで?」

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「何人もの接吻の為に?」

「そういう人のように思いますがね」

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「そんな人のように思いますがね」

彼は、ほほえみながらうなずいていた。

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彼は微笑してうなずいていた。

僕は、彼が内心では、僕の秘密を知ろうとして、絶えず僕に気をつけているのを感じた。

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僕は彼の内心では僕の秘密を知る為に絶えず僕を注意しているのを感じた。

けれども、やはり僕たちの話は、女のことから離れなかった。

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けれどもやはり僕等の話は女のことを離れなかった。

僕は、彼を憎むよりも、自分自身の気の弱さを恥じ、ますます暗い気持ちにならずにはいられなかった。

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僕は彼を憎むよりも僕自身の気の弱いのを恥じ、愈憂鬱にならずにはいられなかった。

やっと彼が帰った後、僕はベッドの上に寝転がったまま、『暗夜行路(あんやこうろ)』

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やっと彼の帰った後、僕はベッドの上に転がったまま、「暗夜行路」

を読みはじめた。

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を読みはじめた。

主人公の心の中の闘い(たたかい)は、一つ一つが僕には身にしみた。

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主人公の精神的闘争は一々僕には痛切だった。

僕は、この主人公に比べると、自分がどれほど愚かだったかを感じ、いつのまにか涙を流していた。

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僕はこの主人公に比べると、どのくらい僕の阿呆あほうだったかを感じ、いつか涙を流していた。

同時に、その涙は、いつのまにか僕の気持ちに、平和を与えていた。

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同時に又涙は僕の気もちにいつか平和を与えていた。

しかし、それも長くは続かなかった。

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が、それも長いことではなかった。

僕の右目は、もう一度、半透明の歯車を感じはじめた。

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僕の右の目はもう一度半透明の歯車を感じ出した。

歯車は、やはりまわりながら、だんだん数を増やしていった。

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歯車はやはりまわりながら、次第に数を殖やして行った。

僕は頭痛が始まることを恐れ、枕もとに本を置いたまま、〇・八グラムの眠り薬(ベロナール)を飲み、とにかくぐっすり眠ることにした。

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僕は頭痛のはじまることを恐れ、枕もとに本を置いたまま、○・八グラムのヴェロナアルをみ、とにかくぐっすり眠ることにした。

けれども、僕は夢の中で、あるプールを眺めていた。

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けれども僕は夢の中に或プウルを眺めていた。

そこでは、男の子や女の子たちが何人も、泳いだり、もぐったりしていた。

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そこには又男女なんにょの子供たちが何人も泳いだりもぐったりしていた。

僕は、このプールを後にして、向こうの松林へ歩いて行った。

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僕はこのプウルを後ろに向うの松林へ歩いて行った。

すると、誰かが後ろから「おとうさん」

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すると誰か後ろから「おとうさん」

と僕に声をかけた。

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と僕に声をかけた。

僕はちょっとふり返り、プールの前に立っている妻を見つけた。

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僕はちょっとふり返り、プウルの前に立った妻を見つけた。

同時に、激しい後悔を感じた。

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同時に又烈しい後悔を感じた。

「おとうさん、タオルは?」

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「おとうさん、タオルは?」

「タオルはいらない。子どもたちに気をつけるんだよ」

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「タオルはいらない。子供たちに気をつけるのだよ」

僕はまた歩き続けた。

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僕は又歩みをつづけ出した。

しかし、僕が歩いているのは、いつのまにかプラットホームに変わっていた。

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が、僕の歩いているのはいつかプラットフォオムに変っていた。

それは、田舎の駅だったらしく、長い生け垣のあるプラットホームだった。

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それは田舎の停車場だったと見え、長い生け垣のあるプラットフォオムだった。

そこには、Hという大学生や、年をとった女の人も立っていた。

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そこには又Hと云う大学生や年をとった女も佇んでいた。

彼らは、僕の顔を見ると、僕の前に歩み寄り、口々に僕に話しかけた。

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彼等は僕の顔を見ると、僕の前に歩み寄り、口々に僕へ話しかけた。

「大火事でしたわね」

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「大火事でしたわね」

「僕もやっと逃げて来たの」

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「僕もやっと逃げて来たの」

僕は、この年をとった女の人に、なぜか見覚えがあるように感じた。

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僕はこの年をとった女に何か見覚えのあるように感じた。

それだけでなく、彼女と話していることに、ある楽しい興奮を感じた。

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のみならず彼女と話していることに或愉快な興奮を感じた。

そこへ、汽車が煙をあげながら、静かにプラットホームへ横づけになった。

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そこへ汽車は煙をあげながら、静かにプラットフォオムへ横づけになった。

僕は一人でこの汽車に乗り、両側に白い布を垂らした寝台の間を歩いて行った。

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僕はひとりこの汽車に乗り、両側に白い布を垂らした寝台の間を歩いて行った。

すると、ある寝台の上に、ミイラのような裸の女が一人、こちらを向いて横になっていた。

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すると或寝台の上にミイラに近い裸体の女が一人こちらを向いて横になっていた。

それはまた、僕の復讐の神、――ある心を病んだ人の娘に違いなかった。……

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それは又僕の復讐の神、――或狂人の娘に違いなかった。……

僕は、目を覚ますが早いか、思わずベッドを飛び下りていた。

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僕は目をますが早いか、思わずベッドを飛び下りていた。

僕の部屋は、相変わらず電灯の光で明るかった。

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僕の部屋は不相変電燈の光に明るかった。

しかし、どこかで羽の音や、ネズミのきしる音も聞こえていた。

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が、どこかに翼の音や鼠のきしる音も聞えていた。

僕は戸をあけて廊下へ出て、さっきの暖炉の前へ急いで行った。

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僕は戸をあけて廊下へ出、前の炉の前へ急いで行った。

それから椅子に腰をおろしたまま、頼りなげな炎を眺めはじめた。

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それから椅子に腰をおろしたまま、覚束おぼつかない炎を眺め出した。

そこへ、白い服を着たボーイが一人、たきぎを足しに歩み寄った。

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そこへ白い服を着た給仕が一人き木を加えに歩み寄った。

「何時ですか?」

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「何時?」

「三時半ぐらいでございます」

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「三時半ぐらいでございます」

しかし、向こうのロビーのすみには、アメリカ人らしい女の人が一人、何か本を読み続けていた。

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しかし向うのロッビイの隅には亜米利加人らしい女が一人何か本を読みつづけた。

彼女が着ているのは、遠目に見ても、緑色のドレスに違いなかった。

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彼女の着ているのは遠目に見ても緑いろのドレッスに違いなかった。

僕は、何か救われたような気持ちを感じ、じっと夜が明けるのを待つことにした。

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僕は何か救われたのを感じ、じっと夜のあけるのを待つことにした。

長年、病気の苦しみに悩み抜いた末、静かに死を待っているお年寄りのように。……

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長年の病苦に悩み抜いた揚句、静かに死を待っている老人のように。……

四 まだ?

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四 まだ?

僕は、このホテルの部屋で、やっとさっきの短編を書き上げ、ある雑誌に送ることにした。

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僕はこのホテルの部屋にやっと前の短篇を書き上げ、或雑誌に送ることにした。

もっとも、僕の原稿料は、一週間の宿泊費にも足りないものだった。

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もっとも僕の原稿料は一週間の滞在費にも足りないものだった。

しかし、僕は自分の仕事を片づけたことに満足し、何か心の元気になるものを求めて、銀座のある本屋へ出かけることにした。

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が、僕は僕の仕事を片づけたことに満足し、何か精神的強壮剤を求める為に銀座の或本屋へ出かけることにした。

冬の日の当たったアスファルトの上には、紙くずがいくつも転がっていた。

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冬の日の当ったアスファルトの上には紙屑かみくずが幾つもころがっていた。

それらの紙くずは、光の加減か、どれもバラの花にそっくりだった。

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それらの紙屑は光の加減か、いずれも薔薇ばらの花にそっくりだった。

僕は、何かの好意を感じ、その本屋の店へ入って行った。

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僕は何ものかの好意を感じ、その本屋の店へはいって行った。

そこもまた、ふだんよりこぎれいだった。

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そこもまたふだんよりも小綺麗こぎれいだった。

ただ、めがねをかけた小さな女の子が一人、何か店員と話していたのは、僕には少し気がかりだった。

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目金めがねをかけた小娘が一人何か店員と話していたのは僕には気がかりにならないこともなかった。

けれども、僕は通りに落ちていた紙くずのバラの花を思い出し、『アナトール・フランスの対話集』

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けれども僕は往来に落ちた紙屑の薔薇の花を思い出し、「アナトオル・フランスの対話集」

や『メリメの書簡集』

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や「メリメエの書簡集」

を買うことにした。

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を買うことにした。

僕は二冊の本を抱え、あるカフェへ入って行った。

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僕は二冊の本を抱え、或カッフェへはいって行った。

それから、一番奥のテーブルの前で、コーヒーが来るのを待つことにした。

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それから一番奥のテエブルの前に珈琲コーヒーの来るのを待つことにした。

僕の向かいには、親子らしい男女が二人座っていた。

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僕の向うには親子らしい男女なんにょが二人坐っていた。

その息子は、僕よりも若かったが、ほとんど僕にそっくりだった。

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その息子は僕よりも若かったものの、殆ど僕にそっくりだった。

それだけでなく、二人は恋人同士のように顔を近づけて話し合っていた。

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のみならず彼等は恋人同志のように顔を近づけて話し合っていた。

僕は、彼らを見ているうちに、少なくともあの息子は、性的な意味でも母親を慰めていることを、自分で意識しているらしいと気づきはじめた。

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僕は彼等を見ているうちに少くとも息子は性的にも母親に慰めを与えていることを意識しているのに気づき出した。

それは、僕にも覚えのある、親しみの力(親和力)の一例に違いなかった。

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それは僕にも覚えのある親和力の一例に違いなかった。

同時に、この世を地獄にする、ある意志の一例でもあるに違いなかった。

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同時に又現世げんぜを地獄にする或意志の一例にも違いなかった。

しかし、――僕はまた苦しみに落ちこむのを恐れ、ちょうどコーヒーが来たのを幸いに、『メリメの書簡集』

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しかし、――僕は又苦しみに陥るのを恐れ、丁度珈琲の来たのを幸い、「メリメエの書簡集」

を読みはじめた。彼は、この書簡集の中でも、小説の中と同じように、鋭い格言をひらめかせていた。

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を読みはじめた、彼はこの書簡集の中にも彼の小説の中のように鋭いアフォリズムをひらめかせていた。

それらの格言は、いつのまにか、僕の気持ちを鉄のように固くしていった。

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それ等のアフォリズムは僕の気もちをいつか鉄のように巌畳がんじょうにし出した。

(この、すぐに影響を受けてしまうことも、僕の弱点の一つだった)僕は一杯のコーヒーを飲み終えた後、「何でも来い」

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(この影響を受け易いことも僕の弱点の一つだった)僕は一杯の珈琲を飲みおわったのち、「何でも来い」

という気になり、さっさとこのカフェを後にした。

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と云う気になり、さっさとこのカッフェを後ろにして行った。

僕は通りを歩きながら、いろいろな飾り窓をのぞいて行った。

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僕は往来を歩きながら、いろいろの飾り窓をのぞいて行った。

ある額縁屋の飾り窓には、ベートーヴェンの肖像画がかかげてあった。

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或額縁屋の飾り窓はベエトオヴェンの肖像画を掲げていた。

それは、髪を逆立てた、いかにも天才らしい肖像画だった。

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それは髪を逆立てた天才そのものらしい肖像画だった。

僕は、このベートーヴェンをこっけいに感じずにはいられなかった。……

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僕はこのベエトオヴェンを滑稽に感ぜずにはいられなかった。……

そのうちに、ふと出会ったのは、高等学校時代からの古い友人だった。

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そのうちにふと出合ったのは高等学校以来の旧友だった。

この応用化学の大学教授は、大きな折りかばんを抱え、片目だけ真っ赤に血が出ていた。

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この応用化学の大学教授は大きい中折れかばんを抱え、片目だけまっ赤に血を流していた。

「どうした、君の目は?」

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「どうした、君の目は?」

「これか? これはただの結膜炎(けつまくえん・目の病気)さ」

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「これか? これは唯の結膜炎さ」

僕はふと、十四、五年前から、誰かに親しみを感じるたびに、自分の目も彼の目のように結膜炎を起こすことを思い出した。

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僕はふと十四五年以来、いつも親和力を感じる度に僕の目も彼の目のように結膜炎を起すのを思い出した。

しかし、何も言わなかった。

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が、何とも言わなかった。

彼は僕の肩をたたき、僕たちの友だちのことを話しはじめた。

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彼は僕の肩を叩き、僕等の友だちのことを話し出した。

それから、話を続けたまま、あるカフェへ僕を連れて行った。

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それから話をつづけたまま、或カッフェへ僕をつれて行った。

「久しぶりだなあ。朱舜水(しゅしゅんすい・中国から来た学者)の記念碑を建てた式以来だろう」

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「久しぶりだなあ。朱舜水しゅしゅんすいの建碑式以来だろう」

彼は、葉巻に火をつけた後、大理石のテーブルごしに、こう僕に話しかけた。

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彼は葉巻に火をつけた後、大理石のテエブル越しにこう僕に話しかけた。

「そうだ。あのシュシュン……」

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「そうだ。あのシュシュン……」

僕は、なぜか「朱舜水」という言葉を、正確に発音できなかった。

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僕はなぜか朱舜水と云う言葉を正確に発音出来なかった。

それは、日本語だっただけに、少し僕を不安にさせた。

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それは日本語だっただけにちょっと僕を不安にした。

しかし、彼は気にもとめずに、いろいろなことを話していった。

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しかし彼は無頓着にいろいろのことを話して行った。

Kという小説家のことを、彼が買ったブルドッグのことを、ルイサイトという毒ガスのことを。……

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Kと云う小説家のことを、彼の買ったブル・ドッグのことを、リウイサイトと云う毒瓦斯ガスのことを。……

「君は、ちっとも書かないようだね。『点鬼簿(てんきぼ)』というのは読んだけれど。……あれは君の自叙伝かい?」

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「君はちっとも書かないようだね。『点鬼簿』と云うのは読んだけれども。……あれは君の自叙伝かい?」

「うん、僕の自叙伝だ」

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「うん、僕の自叙伝だ」

「あれは、ちょっと病的だったぜ。このごろ体はいいのかい?」

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「あれはちょっと病的だったぜ。この頃体はいのかい?」

「相変わらず、薬ばかり飲んでいる始末だ」

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「不相変薬ばかり嚥んでいる始末だ」

「僕も、このごろは不眠症だがね」

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「僕もこの頃は不眠症だがね」

「僕も?――どうして君は『僕も』と言うんだ?」

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「僕も?――どうして君は『僕も』と言うのだ?」

「だって、君も不眠症だって言うじゃないか? 不眠症は危険だぜ。……」

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「だって君も不眠症だって言うじゃないか? 不眠症は危険だぜ。……」

彼は、左だけ充血した目に、ほほえみに近いものを浮かべていた。

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彼は左だけ充血した目に微笑に近いものを浮かべていた。

僕は返事をする前に、「不眠症」

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僕は返事をする前に「不眠症」

の「症」の発音を正確にできないことに気づきはじめた。

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のショウの発音を正確に出来ないのを感じ出した。

「心を病んだ人の息子には、当たり前のことだ」

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「気違いの息子には当り前だ」

僕は、十分もたたないうちに、また一人で通りを歩いて行った。

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僕は十分とたたないうちにひとり又往来を歩いて行った。

アスファルトの上に落ちた紙くずは、時々、僕たち人間の顔のようにも見えた。

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アスファルトの上に落ちた紙屑は時々僕等人間の顔のようにも見えないことはなかった。

すると、向こうから、髪を短く切った女の人が一人通りかかった。

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すると向うから断髪にした女が一人通りかかった。

彼女は、遠目には美しかった。

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彼女は遠目には美しかった。

けれども、目の前まで来たのを見ると、小じわのある、みにくい顔をしていた。

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けれども目の前へ来たのを見ると、小皺こじわのある上に醜い顔をしていた。

それだけでなく、妊娠しているらしかった。

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のみならず妊娠しているらしかった。

僕は思わず顔をそむけ、広い横町を曲がって行った。

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僕は思わず顔をそむけ、広い横町を曲って行った。

しかし、しばらく歩いているうちに、痔(じ)の痛みを感じはじめた。

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が、暫らく歩いているうちにの痛みを感じ出した。

それは、僕には座浴(ざよく・腰までお湯につかる治療法)でしか治せない痛みだった。

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それは僕には坐浴より外になおすことの出来ない痛みだった。

「座浴、――ベートーヴェンも、やはり座浴をしていた。……」

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「坐浴、――ベエトオヴェンもやはり坐浴をしていた。……」

座浴に使う硫黄(いおう)のにおいが、たちまち僕の鼻を襲ってきた。

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坐浴に使う硫黄いおうにおいは忽ち僕の鼻を襲い出した。

しかし、もちろん、通りにはどこにも硫黄はなかった。

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しかし勿論往来にはどこにも硫黄は見えなかった。

僕は、もう一度、紙くずのバラの花を思い出しながら、努めてしっかりと歩いて行った。

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僕はもう一度紙屑の薔薇の花を思い出しながら、努めてしっかりと歩いて行った。

一時間ほどたった後、僕は自分の部屋にとじこもったまま、窓の前の机に向かい、新しい小説にとりかかっていた。

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一時間ばかりたった後、僕は僕の部屋にとじこもったまま、窓の前の机に向かい、新らしい小説にとりかかっていた。

ペンは、僕自身も不思議に思うくらい、どんどん原稿用紙の上を走って行った。

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ペンは僕にも不思議だったくらい、ずんずん原稿用紙の上を走って行った。

しかし、それも二、三時間後には、目に見えない何かに押さえられたように、止まってしまった。

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しかしそれも二三時間の後には誰か僕の目に見えないものに抑えられたようにとまってしまった。

僕はしかたなく机の前を離れ、あちこちと部屋の中を歩きまわった。

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僕はやむを得ず机の前を離れ、あちこちと部屋の中を歩きまわった。

僕の誇大妄想(こだいもうそう・自分を実際以上に大きく見せる思いこみ)は、こういう時に、いちばんはっきりと現れた。

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僕の誇大妄想もうぞうはこう云う時に最も著しかった。

僕は、野蛮な喜びの中で、自分には両親もなければ妻子もない、ただ自分のペンから流れ出す命だけがあるという気持ちになっていた。

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僕は野蛮な歓びの中に僕には両親もなければ妻子もない、唯僕のペンから流れ出した命だけあると云う気になっていた。

けれども、僕は四、五分後には、電話に出なければならなかった。

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けれども僕は四五分の後、電話に向わなければならなかった。

電話は、何度返事をしても、ただ何かあいまいな言葉を繰り返して伝えるばかりだった。

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電話は何度返事をしても、唯何か曖昧あいまいな言葉を繰り返して伝えるばかりだった。

しかし、それはともかく、「モオル」と聞こえたのに違いなかった。

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が、それはともかくもモオルと聞えたのに違いなかった。

僕はとうとう電話を離れ、もう一度部屋の中を歩きはじめた。

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僕はとうとう電話を離れ、もう一度部屋の中を歩き出した。

しかし、「モオル」という言葉だけは、妙に気になってならなかった。

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しかしモオルと云う言葉だけは妙に気になってならなかった。

「モオル――Mole(モール・もぐらという意味の英語)……」

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「モオル――Mole……」

「モオル」は、モグラという意味の英語だった。

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モオルは鼹鼠もぐらもちと云う英語だった。

この連想も、僕には愉快ではなかった。

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この聯想れんそうも僕には愉快ではなかった。

しかし、僕は二、三秒後、Mole(モール)を la mort(ラ・モール)とつづり直した。

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が、僕は二三秒の後、Mole を la mort に綴り直した。

ラ・モール、――「死」という意味のフランス語は、たちまち僕を不安にした。

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ラ・モオルは、――死と云う仏蘭西語は忽ち僕を不安にした。

死は、姉の夫に迫っていたのと同じように、僕にも迫っているらしかった。

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死は姉の夫に迫っていたように僕にも迫っているらしかった。

けれども、僕は、不安の中にも、何かおかしさを感じていた。

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けれども僕は不安の中にも何か可笑おかしさを感じていた。

それだけでなく、いつのまにか、ほほえんでいた。

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のみならずいつか微笑していた。

このおかしさは、何のために起こるのか?――

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この可笑しさは何の為に起るか?――

それは、僕自身にもわからなかった。

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それは僕自身にもわからなかった。

僕は久しぶりに鏡の前に立ち、まともに自分の姿と向かい合った。

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僕は久しぶりに鏡の前に立ち、まともに僕の影と向い合った。

鏡の中の自分も、もちろんほほえんでいた。

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僕の影も勿論もちろん微笑していた。

僕は、この鏡の中の姿を見つめているうちに、「もう一人の僕」のことを思い出した。

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僕はこの影を見つめているうちに第二の僕のことを思い出した。

もう一人の僕、――ドイツ人が言う Doppelgänger(ドッペルゲンガー・自分そっくりの分身)は、幸いにも、僕自身には見えたことがなかった。

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第二の僕、――独逸人の所謂いわゆる Doppel gaenger は仕合せにも僕自身に見えたことはなかった。

しかし、アメリカの映画俳優になったK君の奥さんは、もう一人の僕を、帝劇(帝国劇場)の廊下で見かけていた。

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しかし亜米利加の映画俳優になったK君の夫人は第二の僕を帝劇の廊下に見かけていた。

(僕は突然、K君の奥さんに「先日はつい、ごあいさつもしませんで」

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(僕は突然K君の夫人に「先達せんだってはつい御挨拶もしませんで」

と言われて、困惑したことを覚えている)それから、もう亡くなった、片足のない翻訳家も、やはり銀座のあるタバコ屋で、もう一人の僕を見かけていた。

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と言われ、当惑したことを覚えている)それからもう故人になった或隻脚かたあしの飜訳家もやはり銀座の或煙草屋に第二の僕を見かけていた。

死は、もしかしたら、僕よりも、もう一人の僕のほうに来るのかもしれなかった。

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死は或は僕よりも第二の僕に来るのかも知れなかった。

もし、また、僕のほうに来るとしても、――僕は鏡に背を向け、窓の前の机へ戻って行った。

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し又僕に来たとしても、――僕は鏡に後ろを向け、窓の前の机へ帰って行った。

四角に凝灰岩を組んだ窓からは、枯れた芝生や池がのぞいて見えた。

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四角に凝灰岩を組んだ窓は枯芝や池をのぞかせていた。

僕はこの庭を眺めながら、遠い松林の中で燃やした、何冊かのノートや、書きかけの戯曲を思い出した。

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僕はこの庭を眺めながら、遠い松林の中に焼いた何冊かのノオト・ブックや未完成の戯曲を思い出した。

それからペンを取り上げると、もう一度、新しい小説を書きはじめた。

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それからペンをとり上げると、もう一度新らしい小説を書きはじめた。

五 赤光(しゃっこう・赤い光)

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五 赤光しゃっこう

日の光は、僕を苦しめはじめた。

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日の光は僕を苦しめ出した。

僕は実際、モグラのように、窓の前にカーテンをおろし、昼間も電灯をともしたまま、せっせとさっきの小説を続けて行った。

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僕は実際鼹鼠のように窓の前へカアテンをおろし、昼間も電燈をともしたまま、せっせと前の小説をつづけて行った。

それから、仕事に疲れると、テーヌの『イギリス文学史』を広げ、詩人たちの生涯に目を通した。

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それから仕事に疲れると、テエヌの英吉利文学史をひろげ、詩人たちの生涯に目を通した。

彼らは、いずれも不幸だった。

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彼等はいずれも不幸だった。

エリザベス朝(イギリスの時代)の巨人たちでさえ、――当代随一の学者だったベン・ジョンソンでさえ、自分の足の親指の上で、ローマとカルタゴの軍勢が戦いを始めるのを見たと思いこむほど、神経の疲れに陥っていた。

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エリザベス朝の巨人たちさえ、――一代の学者だったベン・ジョンソンさえ彼の足の親指の上に羅馬ローマとカルセエジとの軍勢の戦いを始めるのを眺めたほど神経的疲労に陥っていた。

僕は、こういう彼らの不幸に、残酷な悪意に満ちた喜びを感じずにはいられなかった。

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僕はこう云う彼等の不幸に残酷な悪意に充ち満ちた歓びを感じずにはいられなかった。

ある東風(ひがしかぜ)の強い夜、(それは僕には良い前ぶれだった)僕は地下室を通りぬけて通りへ出て、ある老人を訪ねることにした。

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或東かぜの強い夜、(それは僕には善いしるしだった)僕は地下室を抜けて往来へ出、或老人を尋ねることにした。

彼は、ある聖書会社の屋根裏部屋で、たった一人、小使い(雑用係)をしながら、お祈りや読書にはげんでいた。

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彼は或聖書会社の屋根裏にたった一人小使いをしながら、祈祷や読書に精進していた。

僕たちは火鉢に手をかざしながら、壁にかけた十字架の下で、いろいろなことを話し合った。

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僕等は火鉢に手をかざしながら、壁にかけた十字架の下にいろいろのことを話し合った。

なぜ、僕の母は心の病気になったのか?

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なぜ僕の母は発狂したか?

なぜ、僕の父の事業は失敗したのか?

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 なぜ僕の父の事業は失敗したか?

なぜ、また、僕は罰せられたのか?――

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 なぜ又僕は罰せられたか?――

それらの秘密を知っている彼は、妙におごそかなほほえみを浮かべ、いつまでも僕の相手をしてくれた。

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それ等の秘密を知っている彼は妙におごそかな微笑を浮かべ、いつまでも僕の相手をした。

それだけでなく、時々、短い言葉で人生を戯画化(ぎがか)して見せたりした。

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のみならず時々短い言葉に人生のカリカテュアを描いたりした。

僕は、この屋根裏の隠者(世間から離れて静かに暮らす人)を、尊敬せずにはいられなかった。

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僕はこの屋根裏の隠者を尊敬しないわけには行かなかった。

しかし、彼と話しているうちに、彼もまた、親しみの力に動かされていることを発見した。――

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しかし彼と話しているうちに彼もまた親和力の為に動かされていることを発見した。――

「その植木屋の娘というのは、顔立ちもいいし、気立てもいいし、――それは私に優しくしてくれるのです」

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「その植木屋の娘と云うのは器量も善いし、気立も善いし、――それはわたしに優しくしてくれるのです」

「いくつ?」

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「いくつ?」

「今年で十八です」

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「ことしで十八です」

それは、彼にとって父親のような愛情だったのかもしれない。

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それは彼には父らしい愛であるかも知れなかった。

しかし僕は、彼の目に情熱のようなものを感じずにはいられなかった。

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しかし僕は彼の目の中に情熱を感じずにはいられなかった。

それだけでなく、彼がすすめてくれたリンゴは、いつのまにか黄ばんだ皮の上に、一角獣(いっかくじゅう・角が一本のけもの)の形を浮かび上がらせていた。

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のみならず彼の勧めた林檎はいつか黄ばんだ皮の上へ一角獣の姿を現していた。

(僕はこれまでも、木目(もくめ)やコーヒー茶碗のひびに、たびたび神話の動物を見つけていた)その一角獣は、麒麟(きりん)に違いなかった。

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(僕は木目もくめや珈琲茶碗の亀裂ひびに度たび神話的動物を発見していた)一角獣は麒麟きりんに違いなかった。

僕は、僕に敵意を持つある批評家が、僕のことを「九百十年代の麒麟児(きりんじ・すぐれた若者)」

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僕は或敵意のある批評家の僕を「九百十年代の麒麟児」

と呼んだのを思い出した。そして、この十字架のかかった屋根裏部屋も、安全な場所ではないと感じた。

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と呼んだのを思い出し、この十字架のかかった屋根裏も安全地帯ではないことを感じた。

「いかがですか、この頃は?」

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如何いかがですか、この頃は?」

「相変わらず、神経ばかりいらいらしてね」

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「不相変神経ばかり苛々いらいらしてね」

「それは薬でも治りませんよ。信者になる気はありませんか?」

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「それは薬でも駄目ですよ。信者になる気はありませんか?」

「もし僕でもなれるものなら……」

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「若し僕でもなれるものなら……」

「何もむずかしいことはないのです。ただ神を信じ、神の子であるキリストを信じ、キリストが行った奇跡(きせき)を信じさえすれば……」

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「何もむずかしいことはないのです。唯神を信じ、神の子の基督キリストを信じ、基督の行った奇蹟きせきを信じさえすれば……」

「悪魔を信じることならできますがね。……」

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「悪魔を信じることは出来ますがね。……」

「では、なぜ神を信じないのです? もし影を信じるなら、光も信じないわけにはいかないでしょう?」

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「ではなぜ神を信じないのです? 若し影を信じるならば、光も信じずにはいられないでしょう?」

「しかし、光のない闇(やみ)もあるでしょう」

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「しかし光のないやみもあるでしょう」

「光のない闇とは?」

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「光のない暗とは?」

僕は黙るしかなかった。

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僕は黙るより外はなかった。

彼もまた、僕と同じように、闇の中を歩いていた。

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彼もまた僕のように暗の中を歩いていた。

けれども彼は、闇がある以上は光もあると信じていた。

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が、暗のある以上は光もあると信じていた。

僕たちの考え方が違うのは、ただこの一点だけだった。

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僕等の論理の異るのは唯こう云う一点だけだった。

しかしそれは、少なくとも僕には、越えられない溝(みぞ)に違いなかった。……

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しかしそれは少くとも僕には越えられないみぞに違いなかった。……

「けれども光は必ずあるのです。その証拠に、奇跡があるのですから。……奇跡というものは、今でもたびたび起こっているのですよ」

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「けれども光は必ずあるのです。その証拠には奇蹟があるのですから。……奇蹟などと云うものは今でも度たび起っているのですよ」

「それは、悪魔が起こす奇跡でしょう。……」

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「それは悪魔の行う奇蹟は。……」

「どうしてまた、悪魔などと言うのです?」

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「どうして又悪魔などと云うのです?」

僕は、ここ一、二年の間に自分が経験したことを、彼に話したい誘惑を感じた。

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僕はこの一二年の間、僕自身の経験したことを彼に話したい誘惑を感じた。

けれども、それが彼から妻や子どもに伝わり、僕も母のように精神病院に入れられることになるのを、恐れないわけにはいかなかった。

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が、彼から妻子に伝わり、僕もまた母のように精神病院にはいることを恐れない訣にも行かなかった。

「あそこにあるのは?」

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「あすこにあるのは?」

このたくましい老人は、古い書棚を振り返り、牧羊神(ぼくようじん・ギリシャ神話の羊飼いの神)のような表情を見せた。

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このたくましい老人は古い書棚をふり返り、何か牧羊神ぼくようじんらしい表情を示した。

「ドストエフスキー全集です。『罪と罰』はお読みですか?」

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「ドストエフスキイ全集です。『罪と罰』はお読みですか?」

僕はもちろん、十年前にも四、五冊のドストエフスキーを読んでいた。

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僕は勿論十年ぜんにも四五冊のドストエフスキイに親しんでいた。

けれども、偶然(?)

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が、偶然(?)

彼が口にした『罪と罰』

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彼の言った『罪と罰』

という言葉に心を動かされ、この本を貸してもらったうえで、もとのホテルへ帰ることにした。

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と云う言葉に感動し、この本を貸して貰った上、前のホテルへ帰ることにした。

電灯の光に輝く、人通りの多い通りは、やはり僕には不快だった。

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電燈の光に輝いた、人通りの多い往来はやはり僕には不快だった。

特に、知り合いに会うことは、とても耐えられないに違いなかった。

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殊に知り人にうことは到底堪えられないのに違いなかった。

僕はできるだけ暗い通りを選び、盗人(ぬすびと)のように歩いて行った。

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僕は努めて暗い往来を選び、盗人ぬすびとのように歩いて行った。

しかし僕はしばらくすると、いつのまにか胃の痛みを感じ始めた。

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しかし僕は暫らくの後、いつか胃の痛みを感じ出した。

この痛みを止めるものは、一杯のウイスキーだけだった。

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この痛みを止めるものは一杯のウイスキイのあるだけだった。

僕はあるバーを見つけ、その戸を押して入ろうとした。

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僕は或バアを見つけ、その戸を押してはいろうとした。

けれども、その狭いバーの中には、たばこの煙がたちこめていて、芸術家らしい青年たちが何人も群がって酒を飲んでいた。

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けれども狭いバアの中には煙草の煙の立ちこめた中に芸術家らしい青年たちが何人も群がって酒を飲んでいた。

それだけでなく、その真ん中では、耳隠し(みみかくし・耳を髪で覆う髪型)に結った女が一人、熱心にマンドリンを弾き続けていた。

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のみならず彼等のまん中には耳隠しに結った女が一人熱心にマンドリンをきつづけていた。

僕はたちまち困ってしまい、戸の中には入らずに引き返した。

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僕は忽ち当惑を感じ、戸の中へはいらずに引き返した。

すると、いつのまにか、自分の影が左右に揺れているのに気づいた。

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するといつか僕の影の左右に揺れているのを発見した。

しかも、僕を照らしているのは、不気味な赤い光だった。

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しかも僕を照らしているのは無気味にも赤い光だった。

僕は通りに立ち止まった。

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僕は往来に立ちどまった。

けれども、僕の影は前と同じように、絶えず左右に動いていた。

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けれども僕の影は前のように絶えず左右に動いていた。

僕はおそるおそる振り返り、やっと、このバーの軒(のき)につるした色ガラスのランタンを見つけた。

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僕はず怯ずふり返り、やっとこのバアの軒にった色硝子ガラスのランタアンを発見した。

ランタンは、激しい風のせいで、ゆっくりと空中で揺れていた。……

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ランタアンは烈しい風の為におもむろに空中に動いていた。……

僕が次に入ったのは、ある地下室のレストランだった。

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僕の次にはいったのは或地下室のレストオランだった。

僕はそこのバーの前に立ち、ウイスキーを一杯注文した。

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僕はそこのバアの前に立ち、ウイスキイを一杯註文した。

「ウイスキーを? Black and White(ブラック・アンド・ホワイト)しかございませんが、……」

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「ウイスキイを? Black and White ばかりでございますが、……」

僕はソーダ水の中にウイスキーを入れ、黙って一口ずつ飲みはじめた。

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僕は曹達ソオダ水の中にウイスキイを入れ、黙って一口ずつ飲みはじめた。

僕の隣では、新聞記者らしい三十歳前後の男が二人、何か小声で話していた。

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僕のとなりには新聞記者らしい三十前後の男が二人何か小声に話していた。

それも、フランス語で話していた。

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のみならず仏蘭西語を使っていた。

僕は彼らに背中を向けたまま、全身に彼らの視線を感じた。

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僕は彼等に背中を向けたまま、全身に彼等の視線を感じた。

それは、まるで電波のように、僕の体にこたえてくるものだった。

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それは実際電波のように僕の体にこたえるものだった。

彼らは確かに僕の名前を知っていて、僕の噂をしているらしかった。

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彼等は確かに僕の名を知り、僕のうわさをしているらしかった。

「〔Bien……très mauvais……pourquoi ?……〕(いいね……とても悪い……なぜだ?……)」

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「〔Bien……tre`s mauvais……pourquoi ?……〕」

「Pourquoi ?……le diable est mort !……(なぜだ?……悪魔は死んだ!……)」

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「Pourquoi ?……le diable est mort !……」

「Oui, oui……d'enfer……(そう、そう……地獄の……)」

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「Oui, oui……d'enfer……」

僕は銀貨を一枚投げ出し(それは、僕が持っている最後の一枚の銀貨だった)、この地下室の外へ逃げ出すことにした。

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僕は銀貨を一枚投げ出し、(それは僕の持っている最後の一枚の銀貨だった)この地下室の外へのがれることにした。

夜風の吹き渡る通りは、胃の痛みが少し和らいだ僕の神経を、いくらか丈夫にしてくれた。

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夜風の吹き渡る往来は多少胃の痛みの薄らいだ僕の神経を丈夫にした。

僕はラスコーリニコフを思い出し、何もかも懺悔(ざんげ・自分の罪を打ち明けること)したい気持ちになった。

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僕はラスコルニコフを思い出し、何ごとも懺悔ざんげしたい欲望を感じた。

けれども、それは僕自身だけでなく、――いや、僕の家族にまで悲劇を生むに違いなかった。

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が、それは僕自身の外にも、――いや、僕の家族の外にも悲劇を生じるのに違いなかった。

それに、この気持ちそのものが本物かどうかも疑わしかった。

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のみならずこの欲望さえ真実かどうかは疑わしかった。

もし僕の神経が、普通の人のように丈夫になりさえすれば、――けれども、そのためには、どこかへ行かなければならなかった。

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若し僕の神経さえ常人のように丈夫になれば、――けれども僕はその為にはどこかへ行かなければならなかった。

マドリードへ、リオへ、サマルカンドへ、……

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マドリッドへ、リオへ、サマルカンドへ、……

そのうちに、ある店の軒につるした白い小さな看板が、突然、僕を不安にさせた。

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そのうちに或店の軒に吊った、白い小型の看板は突然僕を不安にした。

それは、自動車のタイヤに、翼のついた商標を描いたものだった。

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それは自動車のタイアアに翼のある商標を描いたものだった。

僕はこの商標を見て、人工の翼を頼りにした古代ギリシャ人のことを思い出した。

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僕はこの商標に人工の翼をよりにした古代の希臘人を思い出した。

彼は空高く舞い上がったすえに、太陽の光で翼を焼かれ、とうとう海に落ちておぼれ死んでしまった。

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彼は空中に舞い上った揚句、太陽の光に翼を焼かれ、とうとう海中に溺死できししていた。

マドリードへ、リオへ、サマルカンドへ、――僕は、こんな自分の夢を、笑わずにはいられなかった。

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マドリッドへ、リオへ、サマルカンドへ、――僕はこう云う僕の夢を嘲笑あざわらわない訣には行かなかった。

同時に、また、復讐の神に追われたオレステスのことも、考えずにはいられなかった。

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同時に又復讐ふくしゅうの神に追われたオレステスを考えない訣にも行かなかった。

僕は運河に沿って、暗い通りを歩いて行った。

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僕は運河に沿いながら、暗い往来を歩いて行った。

そのうちに、郊外にある養父母の家を思い出した。

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そのうちに或郊外にある養父母の家を思い出した。

養父母は、もちろん、僕が帰るのを待ちわびているに違いなかった。

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養父母は勿論もちろん僕の帰るのを待ち暮らしているのに違いなかった。

おそらく、僕の子どもたちも。――しかし僕は、そこへ帰れば、自分を縛りつけてしまう何かの力を、恐れずにはいられなかった。

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恐らくは僕の子供たちも、――しかし僕はそこへ帰ると、おのずから僕を束縛してしまう或力を恐れずにはいられなかった。

運河には、波立つ水の上に、だるま船(荷物を運ぶ小さな船)が一そう、横づけにされていた。

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運河は波立った水の上に達磨船だるまぶね一艘いっそう横づけにしていた。

そのだるま船は、船の底から薄い光を漏らしていた。

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その又達磨船は船の底から薄い光を洩らしていた。

そこにも、何人かの男女の家族が暮らしているに違いなかった。

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そこにも何人かの男女なんにょの家族は生活しているのに違いなかった。

きっと、愛し合うために憎み合いながら。……

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やはり愛し合う為に憎み合いながら。……

けれども僕は、もう一度、たたかう気持ちを奮い立たせ、ウイスキーの酔いを感じたまま、もとのホテルへ帰ることにした。

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が、僕はもう一度戦闘的精神を呼び起し、ウイスキイの酔いを感じたまま、前のホテルへ帰ることにした。

僕はまた机に向かい、「メリメの書簡集(しょかんしゅう・手紙を集めた本)」

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僕は又机に向い、「メリメエの書簡集」

を読みつづけた。

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を読みつづけた。

それは、いつのまにか、僕に生きる力を与えてくれていた。

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それは又いつの間にか僕に生活力を与えていた。

しかし、晩年のメリメが新教徒(プロテスタント)になっていたことを知ると、急に、仮面の裏にあるメリメの本当の顔を感じはじめた。

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しかし僕は晩年のメリメエの新教徒になっていたことを知ると、にわかに仮面のかげにあるメリメエの顔を感じ出した。

彼もまた、僕たちのように、闇の中を歩いている一人だった。

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彼もまたやはり僕等のように暗の中を歩いている一人だった。

闇の中を?――

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暗の中を?――

「暗夜行路(あんやこうろ)」

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「暗夜行路」

は、そんな僕にとって、恐ろしい本に変わりはじめた。

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はこう云う僕には恐しい本に変りはじめた。

僕は憂鬱を忘れるために、「アナトール・フランスの対話集」

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僕は憂鬱を忘れる為に「アナトオル・フランスの対話集」

を読みはじめた。

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を読みはじめた。

けれども、この近代の牧羊神(ぼくようじん)もまた、やはり十字架を背負っていた。……

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が、この近代の牧羊神もやはり十字架をになっていた。……

一時間ほどたったころ、給仕(きゅうじ・ホテルの係員)が、一束の郵便物を渡しに顔を出した。

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一時間ばかりたった後、給仕は僕に一束の郵便物を渡しに顔を出した。

その中の一つは、ライプツィヒの本屋から届いたもので、僕に「近代の日本の女」

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それ等の一つはライプツィッヒの本屋から僕に「近代の日本の女」

という小論文を書いてほしいというものだった。

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と云う小論文を書けと云うものだった。

なぜ彼らは、わざわざ僕に、こんな小論文を書かせようとするのだろう?

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なぜ彼等は特に僕にこう云う小論文を書かせるのであろう?

しかも、この英語の手紙には「私たちは、日本画のように、黒と白のほかに色のない女性の肖像画でも満足です」

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 のみならずこの英語の手紙は「我々は丁度日本画のように黒と白の外に色彩のない女の肖像画でも満足である」

という、手書きの追伸(ついしん・手紙の最後に書き足す文)がついていた。

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と云う肉筆のP・Sを加えていた。

僕はこの一行を見て、Black and White(ブラック・アンド・ホワイト)というウイスキーの名前を思い出し、この手紙をずたずたに破ってしまった。

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僕はこう云う一行に Black and White と云うウイスキイの名を思い出し、ずたずたにこの手紙を破ってしまった。

それから今度は、手当たりしだいに一つの手紙の封を切り、黄色い便箋(びんせん)に目を通した。

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それから今度は手当り次第に一つの手紙の封を切り、黄いろい書簡せんに目を通した。

この手紙を書いたのは、僕の知らない青年だった。

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この手紙を書いたのは僕の知らない青年だった。

しかし、二、三行も読まないうちに、「あなたの『地獄変(じごくへん)』は……」

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しかし二三行も読まないうちに「あなたの『地獄変』は……」

という言葉が、僕をいらだたせずにはおかなかった。

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と云う言葉は僕を苛立たせずにはかなかった。

三番目に封を切った手紙は、僕のおいから来たものだった。

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三番目に封を切った手紙は僕のおいから来たものだった。

僕はやっとひと息つき、家の中のいろいろな用事について書かれた部分を読んでいった。

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僕はやっと一息つき、家事上の問題などを読んで行った。

けれども、それさえも、最後まで来ると、いきなり僕を打ちのめした。

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けれどもそれさえ最後へ来ると、いきなり僕を打ちのめした。

「歌集『赤光(しゃっこう)』の再版をお送りしますから……」

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「歌集『赤光』の再版を送りますから……」

赤光!

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赤光!

僕は、何かに冷たく笑われているような気がして、自分の部屋の外へ逃げ出すことにした。

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 僕は何ものかの冷笑を感じ、僕の部屋の外へ避難することにした。

廊下には、誰の姿もなかった。

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廊下には誰も人かげはなかった。

僕は片手で壁を押さえながら、やっとロビーへ歩いて行った。

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僕は片手に壁を抑え、やっとロッビイへ歩いて行った。

それから椅子に腰をおろし、とにかく巻きたばこに火をつけることにした。

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それから椅子に腰をおろし、とにかく巻煙草に火を移すことにした。

その巻きたばこは、なぜか、エア・シップという銘柄だった。

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巻煙草はなぜかエエア・シップだった。

(僕はこのホテルに落ち着いてから、いつもスターという銘柄ばかり吸うようにしていた)人工の翼が、もう一度、僕の目の前に浮かび上がった。

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(僕はこのホテルへ落ち着いてから、いつもスタアばかり吸うことにしていた)人工の翼はもう一度僕の目の前へ浮かび出した。

僕は向こうにいる給仕を呼び、スターを二箱もらうことにした。

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僕は向うにいる給仕を呼び、スタアを二箱貰うことにした。

しかし、給仕の話では、スターだけは、あいにく品切れだった。

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しかし給仕を信用すれば、スタアだけは生憎あいにく品切れだった。

「エア・シップならございますが、……」

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「エエア・シップならばございますが、……」

僕は首を振りながら、広いロビーを見まわした。

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僕は頭を振ったまま、広いロッビイを眺めまわした。

僕の向こうでは、外国人が四、五人、テーブルを囲んで話していた。

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僕の向うには外国人が四五人テエブルを囲んで話していた。

しかも、その中の一人、――赤いワンピースを着た女は、小声で彼らと話しながら、時々僕を見ているようだった。

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しかも彼等の中の一人、――赤いワン・ピイスを着た女は小声に彼等と話しながら、時々僕を見ているらしかった。

「Mrs. Townshead(タウンズヘッド夫人)……」

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「Mrs. Townshead……」

何か、僕の目に見えないものが、こう僕にささやいていった。

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何か僕の目に見えないものはこう僕にささやいて行った。

ミセス・タウンズヘッドなどという名前は、もちろん僕の知らないものだった。

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ミセス・タウンズヘッドなどと云う名は勿論僕の知らないものだった。

たとえ、向こうにいる女の名前だったとしても、――僕はまた椅子から立ち上がり、気が狂うことを恐れながら、自分の部屋へ帰ることにした。

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たとい向うにいる女の名にしても、――僕は又椅子から立ち上り、発狂することを恐れながら、僕の部屋へ帰ることにした。

僕は自分の部屋へ帰ったら、すぐにある精神病院へ電話をかけるつもりだった。

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僕は僕の部屋へ帰ると、すぐに或精神病院へ電話をかけるつもりだった。

けれども、そこに入ることは、僕にとって死ぬことと変わらなかった。

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が、そこへはいることは僕には死ぬことに変らなかった。

僕はさんざんためらったすえに、この恐怖をまぎらすために「罪と罰」

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僕はさんざんためらった後、この恐怖を紛らす為に「罪と罰」

を読みはじめた。

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を読みはじめた。

しかし、たまたま開いたページは、「カラマーゾフの兄弟」

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しかし偶然開いた頁は「カラマゾフ兄弟」

の一節だった。

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の一節だった。

僕は本を間違えたのかと思い、本の表紙に目を落とした。

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僕は本を間違えたのかと思い、本の表紙へ目を落した。

「罪と罰」

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「罪と罰」

――本は「罪と罰」

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――本は「罪と罰」

に違いなかった。

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に違いなかった。

僕は、この製本屋がページを綴じ間違えたこと、――しかもその間違えたページを自分が開いたことに、運命の指が動いているのを感じ、しかたなくそこを読んでいった。

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僕はこの製本屋のじ違えに、――その又綴じ違えた頁を開いたことに運命の指の動いているのを感じ、やむを得ずそこを読んで行った。

けれども、一ページも読まないうちに、全身が震えるのを感じはじめた。

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けれども一頁も読まないうちに全身が震えるのを感じ出した。

そこは、悪魔に苦しめられるイワンを描いた一節だった。

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そこは悪魔に苦しめられるイヴァンを描いた一節だった。

イワンを、ストリンドベリを、モーパッサンを、あるいは、この部屋にいる僕自身を。……

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イヴァンを、ストリントベルグを、モオパスサンを、或はこの部屋にいる僕自身を。……

こんな僕を救ってくれるものは、ただ眠りだけだった。

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こう云う僕を救うものは唯眠りのあるだけだった。

しかし、睡眠薬は、いつのまにか、一包みも残らずなくなっていた。

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しかし催眠剤はいつの間にか一包みも残らずになくなっていた。

僕は、眠らないまま苦しみつづけることに、到底耐えられなかった。

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僕は到底眠らずに苦しみつづけるのに堪えなかった。

けれども、絶望のはての勇気がわいてきて、コーヒーを持ってきてもらい、死にものぐるいでペンを動かすことにした。

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が、絶望的な勇気を生じ、珈琲コーヒーを持って来て貰った上、死にもの狂いにペンを動かすことにした。

二枚、五枚、七枚、十枚、――原稿は、みるみるうちに出来上がっていった。

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二枚、五枚、七枚、十枚、――原稿は見る見る出来上って行った。

僕は、この小説の世界を、超自然の動物たちで満たしていた。

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僕はこの小説の世界を超自然の動物に満たしていた。

それだけでなく、その動物の一匹に、僕自身の姿を描いていた。

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のみならずその動物の一匹に僕自身の肖像画を描いていた。

けれども、疲れがだんだんと、僕の頭をぼんやりさせはじめた。

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けれども疲労はおもむろに僕の頭を曇らせはじめた。

僕はとうとう机の前を離れ、ベッドの上にあおむけになった。

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僕はとうとう机の前を離れ、ベッドの上へ仰向けになった。

それから、四、五十分の間は、眠っていたらしい。

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それから四五十分間は眠ったらしかった。

しかし、また誰かが僕の耳に、こんな言葉をささやいたのを感じ、はっと目を覚まして立ち上がった。

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しかし又誰か僕の耳にこう云う言葉を囁いたのを感じ、忽ち目を醒まして立ち上った。

「Le diable est mort(悪魔は死んだ)」

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「Le diable est mort」

凝灰岩(ぎょうかいがん・軽くてやわらかい石)づくりの窓の外は、いつのまにか、冷え冷えと夜が明けかかっていた。

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凝灰岩の窓の外はいつか冷えびえと明けかかっていた。

僕はちょうど戸の前に立ち止まり、誰もいない部屋の中を見まわした。

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僕は丁度戸の前に佇み、誰もいない部屋の中を眺めまわした。

すると、向こうの窓ガラスは、外の冷たい空気でまだらに曇っていて、その上に小さな風景が浮かび上がっていた。

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すると向うの窓硝子はまだらに外気に曇った上に小さい風景を現していた。

それは、黄ばんだ松林の向こうに海のある風景に違いなかった。

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それは黄ばんだ松林の向うに海のある風景に違いなかった。

僕はおそるおそる窓の前に近づき、この風景を作っているのは、実は庭の枯れた芝生や池だったことに気づいた。

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僕は怯ず怯ず窓の前へ近づき、この風景を造っているものは実は庭の枯芝や池だったことを発見した。

けれども、僕のこの見間違いは、いつのまにか、僕の家に対する郷愁(きょうしゅう・故郷を懐かしむ気持ち)に近いものを呼び起こしていた。

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けれども僕の錯覚はいつか僕の家に対する郷愁に近いものを呼び起していた。

僕は、九時にでもなったらすぐ、ある雑誌社に電話をかけ、とにかくお金を工面したうえで、自分の家へ帰る決心をした。

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僕は九時にでもなり次第、或雑誌社へ電話をかけ、とにかく金の都合をした上、僕の家へ帰る決心をした。

机の上に置いたかばんの中に、本や原稿を押しこみながら。

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机の上に置いたかばんの中へ本や原稿を押しこみながら。

六 飛行機

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六 飛行機

僕は、東海道線のある駅から、その奥にある避暑地(ひしょち・夏を涼しく過ごす場所)へ、車を走らせた。

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僕は東海道線の或停車場からその奥の或避暑地へ自動車を飛ばした。

運転手は、なぜかこの寒さの中で、古いレインコートを羽織っていた。

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運転手はなぜかこの寒さに古いレエン・コオトをひっかけていた。

僕は、この偶然の一致を不気味に思い、できるだけ彼を見ないように、窓の外へ目をやることにした。

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僕はこの暗合を無気味に思い、努めて彼を見ないように窓の外へ目をやることにした。

すると、低い松の生えた向こうに、――おそらくは古い街道を、葬式の行列が一列通っているのを見つけた。

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すると低い松の生えた向うに、――恐らくは古い街道に葬式が一列通るのをみつけた。

白張り(しらはり・白い紙を張った作り)の提灯(ちょうちん)や竜燈(りゅうとう)は、その中に加わっていないようだった。

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白張しらはりの提灯ちょうちん竜燈りゅうとうはその中に加わってはいないらしかった。

けれども、金銀の造花の蓮(はす)は、静かに輿(こし・棺を運ぶ台)の前後で揺れていた。……

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が、金銀の造花の蓮は静かに輿こしの前後にゆらいで行った。……

やっと自分の家に帰ったあと、僕は妻や子ども、それに睡眠薬の力もあって、二、三日はかなり穏やかに暮らした。

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やっと僕の家へ帰ったのち、僕は妻子や催眠薬の力により、二三日は可也かなり平和に暮らした。

僕の部屋がある二階からは、松林の上に、かすかに海がのぞいていた。

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僕の二階は松林の上にかすかに海を覗かせていた。

僕はこの二階の机に向かい、鳩の声を聞きながら、午前中だけ仕事をすることにした。

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僕はこの二階の机に向かい、鳩の声を聞きながら、午前だけ仕事をすることにした。

鳥は、鳩やカラスのほかに、スズメも縁側に舞いこんできたりした。

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鳥は鳩やからすの外に雀も縁側へ舞いこんだりした。

それもまた、僕には楽しかった。

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それもまた僕には愉快だった。

「喜雀堂に入る(きじゃくどうにいる・喜びの雀が家に入る、という意味の言葉)」

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喜雀きじゃく堂に入る」

――僕はペンを持ったまま、そのたびに、こんな言葉を思い出した。

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――僕はペンを持ったまま、その度にこんな言葉を思い出した。

ある生暖かい曇りの日の午後、僕はある雑貨店へ、インクを買いに出かけて行った。

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或生暖かい曇天の午後、僕は或雑貨店へインクを買いに出かけて行った。

すると、その店に並んでいるのは、セピア色のインクばかりだった。

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するとその店に並んでいるのはセピア色のインクばかりだった。

セピア色のインクは、いつもどのインクよりも、僕を不快な気持ちにさせるものだった。

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セピア色のインクはどのインクよりも僕を不快にするのを常としていた。

僕は仕方なくこの店を出て、人通りの少ない通りを、ぶらぶらと一人で歩いて行った。

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僕はやむを得ずこの店を出、人通りの少ない往来をぶらぶらひとり歩いて行った。

そこへ、向こうから、近眼らしい四十歳前後の外国人が一人、肩をそびやかせて通りかかった。

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そこへ向うから近眼らしい四十前後の外国人が一人肩をそびやかせて通りかかった。

彼は、この土地に住んでいる、被害妄想(ひがいもうそう・自分が害されると思いこむ病気)のスウェーデン人だった。

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彼はここに住んでいる被害妄想狂の瑞典スウエデン人だった。

しかも、彼の名前はストリンドベリだった。

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しかも彼の名はストリントベルグだった。

僕は、彼とすれ違うとき、体に何かこたえるものを感じた。

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僕は彼とすれ違う時、肉体的に何かこたえるのを感じた。

この通りは、わずか二、三町(ちょう・距離の単位、一町は約109メートル)ほどしかなかった。

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この往来は僅かに二三町だった。

けれども、その二、三町を通る間に、ちょうど顔の半分だけ黒い犬が、四回も僕のそばを通って行った。

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が、その二三町を通るうちに丁度半面だけ黒い犬は四度も僕の側を通って行った。

僕は横町を曲がりながら、ブラック・アンド・ホワイトというウイスキーのことを思い出した。

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僕は横町を曲りながら、ブラック・アンド・ホワイトのウイスキイを思い出した。

それだけでなく、さっきのストリンドベリのネクタイも、黒と白だったことを思い出した。

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のみならず今のストリントベルグのタイも黒と白だったのを思い出した。

それは僕には、どうしても偶然だとは考えられなかった。

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それは僕にはどうしても偶然であるとは考えられなかった。

もし偶然でないとすれば、――僕は、頭だけが歩いているような気がして、思わず通りに立ち止まった。

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若し偶然でないとすれば、――僕は頭だけ歩いているように感じ、ちょっと往来に立ち止まった。

道ばたには、針金の柵の中に、かすかに虹の色を帯びたガラスの鉢が一つ、捨ててあった。

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道ばたには針金のさくの中にかすかににじの色を帯びた硝子の鉢が一つ捨ててあった。

この鉢は、底のまわりに、翼のような模様を浮き上がらせていた。

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この鉢は又底のまわりに翼らしい模様を浮き上らせていた。

そこへ、松のこずえから、スズメが何羽も舞い下りてきた。

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そこへ松のこずえから雀が何羽も舞いさがって来た。

けれども、この鉢のあたりまで来ると、どのスズメも、まるで示し合わせたように、一度に空へ逃げ上って行った。……

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が、この鉢のあたりへ来ると、どの雀も皆言い合わせたように一度に空中へ逃げのぼって行った。……

僕は妻の実家へ行き、庭先の籐椅子(とういす)に腰をおろした。

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僕は妻の実家へ行き、庭先の籐椅子とういすに腰をおろした。

庭の隅の金網の中では、白いレグホン種(ニワトリの品種)が何羽も、静かに歩いていた。

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庭の隅の金網の中には白いレグホン種の鶏が何羽も静かに歩いていた。

それから、僕の足もとには、黒い犬も一匹、横になっていた。

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それから又僕の足もとには黒犬も一匹横になっていた。

僕は、誰にもわからない疑問を解こうとあせりながら、とにかく見た目だけは冷静に、妻の母や弟と世間話をした。

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僕は誰にもわからない疑問を解こうとあせりながら、とにかく外見だけは冷やかに妻の母や弟と世間話をした。

「静かですね、ここへ来ると」

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「静かですね、ここへ来ると」

「それは、東京よりはね」

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「それはまだ東京よりもね」

「ここでも、うるさいことはあるのですか?」

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「ここでもうるさいことはあるのですか?」

「だって、ここも世の中ですもの」

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「だってここも世の中ですもの」

妻の母は、こう言って笑っていた。

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妻の母はこう言って笑っていた。

実際、この避暑地もまた「世の中」

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実際この避暑地もまた「世の中」

であるのに違いなかった。

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であるのに違いなかった。

僕は、わずか一年ほどの間に、ここにもどれほど多くの罪や悲劇が起こっているかを、知りつくしていた。

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僕は僅かに一年ばかりの間にどのくらいここにも罪悪や悲劇の行われているかを知りつくしていた。

少しずつ患者を毒殺しようとした医者、養子夫婦の家に火をつけた老婆、妹の財産を奪おうとした弁護士、――そういう人たちの家を見ることは、僕にとって、いつも人生の中に地獄を見ることと変わらなかった。

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徐ろに患者を毒殺しようとした医者、養子夫婦の家に放火した老婆、妹の資産を奪おうとした弁護士、――それ等の人々の家を見ることは僕にはいつも人生の中に地獄を見ることに異らなかった。

「この町には、気が変になってしまった人が一人いますね」

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「この町には気違いが一人いますね」

「Hちゃんのことでしょう。あの人は気が変になったのではないのですよ。頭が働かなくなってしまったのですよ」

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「Hちゃんでしょう。あれは気違いじゃないのですよ。莫迦ばかになってしまったのですよ」

「早発性痴呆(そうはつせいちほう・若いうちに始まる心の病気)というやつですね。僕はあいつを見るたびに、気味が悪くてたまりません。あいつはこの間も、どういうつもりか、馬頭観世音(ばとうかんぜおん・馬の頭をした観音様の像)の前でおじぎをしていました」

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「早発性痴呆ちほうと云うやつですね。僕はあいつを見る度に気味が悪くってたまりません。あいつはこの間もどう云う量見か、馬頭観世音ばとうかんぜおんの前にお時宜じぎをしていました」

「気味が悪くなるなんて、……もっと強くならなければ駄目ですよ」

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「気味が悪くなるなんて、……もっと強くならなければ駄目ですよ」

「兄さんは、僕なんかよりも強いのだけれど、――」

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「兄さんは僕などよりも強いのだけれども、――」

無精ひげを伸ばした妻の弟も、寝床の上に起き直ったまま、いつものように遠慮がちに、僕たちの話に加わってきた。

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無精髭を伸ばした妻の弟も寝床の上に起き直ったまま、いつもの通り遠慮勝ちに僕等の話に加わり出した。

「強い中にも、弱いところがあるから。……」

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「強い中に弱いところもあるから。……」

「おやおや、それは困りましたね」

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「おやおや、それは困りましたね」

僕は、こう言った妻の母を見て、苦笑いをせずにはいられなかった。

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僕はこう言った妻の母を見、苦笑しない訣には行かなかった。

すると弟も、微笑しながら、遠くの垣根の外の松林を眺め、何かうっとりとしたように話しつづけた。

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すると弟も微笑しながら、遠い垣の外の松林を眺め、何かうっとりと話しつづけた。

(この若い、病み上がりの弟は、時々、僕には、体を離れた心そのもののように見えるのだった)

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(この若い病後の弟は時々僕には肉体を脱した精神そのもののように見えるのだった)

「妙に人間離れしているかと思えば、人間らしい欲望もずいぶん激しいし、……」

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「妙に人間離れをしているかと思えば、人間的欲望もずいぶん烈しいし、……」

「善人かと思えば、悪人でもあるしさ」

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「善人かと思えば、悪人でもあるしさ」

「いや、善悪というよりも、何かもっと正反対のものが、……」

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「いや、善悪と云うよりも何かもっと反対なものが、……」

「じゃあ、大人の中に子どももあるのだろう」

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「じゃ大人の中に子供もあるのだろう」

「そうでもない。僕には、はっきりとは言えないけれど、……電気のプラスとマイナスに似ているのかな。とにかく、反対のものを一緒に持っているんだ」

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「そうでもない。僕にははっきりと言えないけれど、……電気の両極に似ているのかな。何しろ反対なものを一しょに持っている」

そこへ、僕たちを驚かせたのは、激しい飛行機の音だった。

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そこへ僕等を驚かしたのは烈しい飛行機の響きだった。

僕は思わず空を見上げ、松のこずえに触れそうなほど低く舞い上がった飛行機を見つけた。

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僕は思わず空を見上げ、松のこずえに触れないばかりに舞い上った飛行機を発見した。

それは、翼を黄色に塗った、

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それは翼を黄いろに塗った。

珍しい単葉(たんよう・翼が一枚だけの型)の飛行機だった。

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珍らしい単葉の飛行機だった。

ニワトリや犬は、この音に驚き、それぞれ四方八方へ逃げまわった。

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鶏や犬はこの響きに驚き、それぞれ八方へ逃げまわった。

特に犬は、ほえたてながら、尻尾を巻いて縁の下へ入ってしまった。

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殊に犬は吠え立てながら、尾を捲いて縁の下へはいってしまった。

「あの飛行機は、落ちたりしないだろうか?」

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「あの飛行機は落ちはしないか?」

「大丈夫。……兄さんは、飛行機病という病気を知っている?」

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「大丈夫。……兄さんは飛行機病と云う病気を知っている?」

僕は巻きたばこに火をつけながら、「いや」

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僕は巻煙草に火をつけながら、「いや」

と言う代わりに、首を振った。

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と云う代りに頭を振った。

「ああいう飛行機に乗っている人は、高い空の空気ばかり吸っているから、だんだん、この地面の上の空気に耐えられなくなってしまうんだって。……」

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「ああ云う飛行機に乗っている人は高空の空気ばかり吸っているものだから、だんだんこの地面の上の空気に堪えられないようになってしまうのだって。……」

妻の母の家をあとにしたあと、僕は、枝一本動かない松林の中を歩きながら、じりじりと憂鬱になっていった。

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妻の母の家を後ろにした後、僕は枝一つ動かさない松林の中を歩きながら、じりじり憂鬱になって行った。

なぜ、あの飛行機は、ほかへ行かずに、僕の頭の上を通ったのだろう?

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なぜあの飛行機はほかへ行かずに僕の頭の上を通ったのであろう?

なぜまた、あのホテルは、巻きたばこのエア・シップばかり売っていたのだろう?

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 なぜ又あのホテルは巻煙草のエエア・シップばかり売っていたのであろう?

僕はいろいろな疑問に苦しみながら、人気(ひとけ)のない道を選んで歩いて行った。

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 僕はいろいろの疑問に苦しみ、人気ひとげのない道をって歩いて行った。

海は、低い砂山の向こうに、一面、灰色に曇っていた。

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海は低い砂山の向うに一面に灰色に曇っていた。

その砂山には、ブランコのないブランコ台が一つ、突っ立っていた。

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その又砂山にはブランコのないブランコ台が一つ突っ立っていた。

僕はこのブランコ台を眺め、たちまち絞首台(こうしゅだい・人を首つりにする台)を思い出した。

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僕はこのブランコ台を眺め、忽ち絞首台を思い出した。

実際、そのブランコ台の上には、カラスが二、三羽とまっていた。カラスは、僕を見ても、飛び立とうとする様子さえ見せなかった。

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実際又ブランコ台の上には鴉が二三羽とまっていた、鴉は皆僕を見ても、飛び立つ気色けしきさえ示さなかった。

それどころか、真ん中にとまっていたカラスは、大きなくちばしを空へ向けながら、確かに四回、声を出した。

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のみならずまん中にとまっていた鴉は大きいくちばしを空へ挙げながら、確かに四たび声を出した。

僕は、芝の枯れた砂の土手に沿って、別荘の多い小道を曲がることにした。

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僕は芝の枯れた砂土手に沿い、別荘の多い小みちを曲ることにした。

この小道の右側には、やはり高い松の中に、二階建ての木造の西洋風の家が一軒、白く立っているはずだった。

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この小みちの右側にはやはり高い松の中に二階のある木造の西洋家屋が一軒白じらと立っている筈だった。

(僕の親友は、この家のことを「春のいる家」

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(僕の親友はこの家のことを「春のいる家」

と呼んでいた)けれども、この家の前を通りかかると、そこにはコンクリートの土台の上に、バスタブが一つあるだけだった。

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と称していた)が、この家の前へ通りかかると、そこにはコンクリイトの土台の上にバス・タッブが一つあるだけだった。

火事だ。――僕はすぐにそう考え、そちらを見ないようにして歩いて行った。

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火事――僕はすぐにこう考え、そちらを見ないように歩いて行った。

すると、自転車に乗った男が一人、まっすぐに向こうから近づいてきた。

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すると自転車に乗った男が一人まっすぐに向うから近づき出した。

彼は焦げ茶色のハンチング帽をかぶり、妙にじっと目をすえたまま、ハンドルの上に身をかがめていた。

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彼は焦茶いろの鳥打ち帽をかぶり、妙にじっと目を据えたまま、ハンドルの上へ身をかがめていた。

僕はふと、彼の顔に姉の夫の顔を感じ、彼が目の前に来ないうちに、横の小道へ入ることにした。

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僕はふと彼の顔に姉の夫の顔を感じ、彼の目の前へ来ないうちに横の小みちへはいることにした。

しかし、この小道の真ん中にも、腐ったモグラの死骸が一つ、腹を上にして転がっていた。

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しかしこの小みちのまん中にも腐った鼹鼠もぐらもちの死骸が一つ腹を上にして転がっていた。

何かが僕を狙っているという感じが、一歩ごとに僕を不安にさせはじめた。

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何ものかの僕を狙っていることは一足毎に僕を不安にし出した。

そこへ、半透明の歯車が、また一つずつ、僕の視界をさえぎりはじめた。

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そこへ半透明な歯車も一つずつ僕の視野をさえぎり出した。

僕は、いよいよ最後の時が近づいたことを恐れながら、首すじをまっすぐにして歩いて行った。

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僕はいよいよ最後の時の近づいたことを恐れながら、くびすじをまっ直にして歩いて行った。

歯車は、数が増えるにつれて、だんだん激しくまわりはじめた。

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歯車は数の殖えるのにつれ、だんだん急にまわりはじめた。

同時にまた、右手の松林は、ひっそりと枝を交わしたまま、ちょうど細かい切子ガラス(きりこガラス・模様を刻んだガラス)を通して見るように見えはじめた。

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同時に又右の松林はひっそりと枝をかわしたまま、丁度細かい切子硝子きりこガラスを透かして見るようになりはじめた。

僕は動悸(どうき・心臓の鼓動)が高まるのを感じ、何度も道ばたに立ち止まろうとした。

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僕は動悸どうきの高まるのを感じ、何度も道ばたに立ち止まろうとした。

けれども、誰かに押されているようで、立ち止まることさえ容易ではなかった。……

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けれども誰かに押されるように立ち止まることさえ容易ではなかった。……

三十分ほどたったあと、僕は自分の二階の部屋であおむけになり、じっと目をつぶったまま、激しい頭痛をこらえていた。

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三十分ばかりたった後、僕は僕の二階に仰向けになり、じっと目をつぶったまま、烈しい頭痛をこらえていた。

すると、僕のまぶたの裏に、銀色の羽根をうろこのようにたたんだ翼が一つ、見えはじめた。

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すると僕のまぶたの裏に銀色の羽根をうろこのように畳んだ翼が一つ見えはじめた。

それは、実際に、網膜(もうまく・目の中で光を感じる部分)の上に、はっきりと映っているものだった。

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それは実際網膜の上にはっきりと映っているものだった。

僕は目を開けて天井を見上げ、もちろん天井には何もそんなものがないことを確かめたうえで、もう一度目をつぶることにした。

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僕は目をあいて天井を見上げ、勿論何も天井にはそんなもののないことを確めた上、もう一度目をつぶることにした。

しかし、やはり銀色の翼は、ちゃんと暗闇の中に映っていた。

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しかしやはり銀色の翼はちゃんと暗い中に映っていた。

僕はふと、この間乗った自動車のラジエーター・キャップにも、翼がついていたことを思い出した。……

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僕はふとこの間乗った自動車のラディエエタア・キャップにも翼のついていたことを思い出した。……

そこへ、誰かがあわただしく階段を上ってきたかと思うと、すぐにまた、ばたばたと駆け下りて行った。

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そこへ誰か梯子段はしごだんあわただしく昇って来たかと思うと、すぐに又ばたばた駈け下りて行った。

僕は、それが妻だったことを知り、驚いて体を起こすと同時に、ちょうど階段の前にある、薄暗い茶の間に顔を出した。

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僕はその誰かの妻だったことを知り、驚いて体を起すが早いか、丁度梯子段の前にある、薄暗い茶の間へ顔を出した。

すると妻は、うつぶせになったまま、息切れをこらえているらしく、絶えず肩を震わせていた。

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すると妻は突っ伏したまま、息切れをこらえていると見え、絶えず肩を震わしていた。

「どうした?」

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「どうした?」

「いえ、どうもしないのです。……」

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「いえ、どうもしないのです。……」

妻はやっと顔を上げ、無理に微笑んで話しつづけた。

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妻はやっと顔をもたげ、無理に微笑して話しつづけた。

「どうもしたわけではないのですけれどもね、ただ何だか、お父さんが死んでしまいそうな気がしたものですから。……」

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「どうもした訣ではないのですけれどもね、唯何だかお父さんが死んでしまいそうな気がしたものですから。……」

それは、僕の一生の中でも、もっとも恐ろしい経験だった。――

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それは僕の一生の中でも最も恐しい経験だった。――

僕はもう、この先を書きつづける力を持っていない。

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僕はもうこの先を書きつづける力を持っていない。

こういう気持ちの中に生きているのは、何とも言えない苦痛である。

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こう云う気もちの中に生きているのは何とも言われない苦痛である。

誰か、僕の眠っているうちに、そっと絞め殺してくれる者はいないだろうか。

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誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?