歯車 現代語訳
芥川竜之介(あくたがわりゅうのすけ)・1968年
AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-28)
一 レインコート
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一 レエン・コオト
僕はある知り合いの結婚披露宴に出るために、鞄を一つ提げたまま、東海道のある停車場へ、その奥にある避暑地から自動車を飛ばした。
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僕は或知り人の結婚披露式につらなる為に鞄を一つ下げたまま、東海道の或停車場へその奥の避暑地から自動車を飛ばした。
自動車の走る道の両側は、たいてい松ばかりが茂っていた。
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自動車の走る道の両がわは大抵松ばかり茂っていた。
上りの列車に間に合うかどうかは、かなり怪しかった。
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上り列車に間に合うかどうかは可也怪しいのに違いなかった。
自動車には、ちょうど僕のほかにある理髪店の主人も乗り合わせていた。
原文を見る
自動車には丁度僕の外に或理髪店の主人も乗り合せていた。
彼は棗のようにまるまると太った、短い顎髭の持ち主だった。
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彼は棗のようにまるまると肥った、短い顋髯の持ち主だった。
僕は時間を気にしながら、時々彼と話をした。
原文を見る
僕は時間を気にしながら、時々彼と話をした。
「妙なこともありますね。××さんのお屋敷には、昼間でも幽霊が出るって言うんですが」
原文を見る
「妙なこともありますね。××さんの屋敷には昼間でも幽霊が出るって云うんですが」
「昼間でもね」
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「昼間でもね」
僕は冬の西日の当たった向こうの松山を眺めながら、いい加減に調子を合わせていた。
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僕は冬の西日の当った向うの松山を眺めながら、善い加減に調子を合せていた。
「もっとも、天気のいい日には出ないそうです。一番多いのは雨の降る日だって言うんですが」
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「尤も天気の善い日には出ないそうです。一番多いのは雨のふる日だって云うんですが」
「雨の降る日に濡れに来るんじゃないか?」
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「雨の降る日に濡れに来るんじゃないか?」
「ご冗談を。……しかし、レインコートを着た幽霊だって言うんです」
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「御常談で。……しかしレエン・コオトを着た幽霊だって云うんです」
自動車はラッパを鳴らしながら、ある停車場へ横づけになった。
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自動車はラッパを鳴らしながら、或停車場へ横着けになった。
僕はその理髪店の主人と別れ、停車場の中へ入って行った。
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僕は或理髪店の主人に別れ、停車場の中へはいって行った。
すると案の定、上りの列車は二、三分前に出たばかりだった。
原文を見る
すると果して上り列車は二三分前に出たばかりだった。
待合室のベンチには、レインコートを着た男が一人、ぼんやり外を眺めていた。
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待合室のベンチにはレエン・コオトを着た男が一人ぼんやり外を眺めていた。
僕は今聞いたばかりの幽霊の話を思い出した。
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僕は今聞いたばかりの幽霊の話を思い出した。
が、ちょっと苦笑しただけで、とにかく次の列車を待つために、停車場前のカフェへ入ることにした。
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が、ちょっと苦笑したぎり、とにかく次の列車を待つ為に停車場前のカッフェへはいることにした。
それはカフェという名を与えるのも考えものに近いカフェだった。
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それはカッフェと云う名を与えるのも考えものに近いカッフェだった。
僕は隅のテーブルに座り、ココアを一杯注文した。
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僕は隅のテエブルに坐り、ココアを一杯註文した。
テーブルにかけたオイルクロスは、白地に細い青の線を粗い格子に引いたものだった。
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テエブルにかけたオイル・クロオスは白地に細い青の線を荒い格子に引いたものだった。
しかし、もう隅々には薄汚いカンヴァスをむき出しにしていた。
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しかしもう隅々には薄汚いカンヴァスを露していた。
僕は膠臭いココアを飲みながら、人けのないカフェの中を見まわした。
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僕は膠臭いココアを飲みながら、人げのないカッフェの中を見まわした。
埃じみたカフェの壁には「親子丼」
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埃じみたカッフェの壁には「親子丼」
だの「カツレツ」
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だの「カツレツ」
だのという紙札が何枚も貼ってあった。
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だのと云う紙札が何枚も貼ってあった。
「地玉子、オムレツ」
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「地玉子、オムレツ」
僕はこういう紙札に、東海道線に近い田舎を感じた。
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僕はこう云う紙札に東海道線に近い田舎を感じた。
それは麦畑やキャベツ畑の間に電気機関車の通る田舎だった。……
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それは麦畑やキャベツ畑の間に電気機関車の通る田舎だった。……
次の上り列車に乗ったのは、もう日暮れに近い頃だった。
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次の上り列車に乗ったのはもう日暮に近い頃だった。
僕はいつも二等に乗っていた。
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僕はいつも二等に乗っていた。
が、何かの都合で、その時は三等に乗ることにした。
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が、何かの都合上、その時は三等に乗ることにした。
汽車の中はかなり混み合っていた。
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汽車の中は可也こみ合っていた。
しかも僕の前後にいるのは、大磯かどこかへ遠足に行ってきたらしい小学校の女生徒ばかりだった。
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しかも僕の前後にいるのは大磯かどこかへ遠足に行ったらしい小学校の女生徒ばかりだった。
僕は巻煙草に火をつけながら、こういう女生徒の群れを眺めていた。
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僕は巻煙草に火をつけながら、こう云う女生徒の群れを眺めていた。
彼女たちはいずれも快活だった。
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彼等はいずれも快活だった。
のみならず、ほとんどしゃべり続けだった。
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のみならず殆どしゃべり続けだった。
「写真屋さん、ラブシーンって何?」
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「写真屋さん、ラヴ・シインって何?」
やはり遠足について来たらしい、僕の前にいた「写真屋さん」
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やはり遠足について来たらしい、僕の前にいた「写真屋さん」
はなんとかお茶を濁していた。
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は何とかお茶を濁していた。
しかし、十四、五歳の女生徒の一人は、まだいろいろなことを問いかけていた。
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しかし十四五の女生徒の一人はまだいろいろのことを問いかけていた。
僕はふと、彼女の鼻に蓄膿症のあることに気づき、なんだか微笑まずにはいられなかった。
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僕はふと彼女の鼻に蓄膿症のあることを感じ、何か頬笑まずにはいられなかった。
それからまた、僕の隣にいた十二、三歳の女生徒の一人は、若い女教師の膝の上に座り、片手で彼女の首を抱きながら、もう片方の手で彼女の頬をさすっていた。
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それから又僕の隣りにいた十二三の女生徒の一人は若い女教師の膝の上に坐り、片手に彼女の頸を抱きながら、片手に彼女の頬をさすっていた。
しかも誰かと話す合い間に、時々こう女教師に話しかけていた。
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しかも誰かと話す合い間に時々こう女教師に話しかけていた。
「可愛いわね、先生は。可愛い目をしていらっしゃるわね」
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「可愛いわね、先生は。可愛い目をしていらっしゃるわね」
彼女たちは僕に、女生徒よりも一人前の女という感じを与えた。
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彼等は僕には女生徒よりも一人前の女と云う感じを与えた。
林檎を皮ごとかじっていたり、キャラメルの紙を剥いていたりすることを除けば。……
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林檎を皮ごと噛じっていたり、キャラメルの紙を剥いていることを除けば。……
しかし、年かさらしい女生徒の一人は、僕のそばを通る時に誰かの足を踏んだと見えて、「ごめんなさいまし」
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しかし年かさらしい女生徒の一人は僕の側を通る時に誰かの足を踏んだと見え、「御免なさいまし」
と声をかけた。
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と声をかけた。
彼女だけは、ほかの子たちよりもませているだけに、かえって僕には女生徒らしく見えた。
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彼女だけは彼等よりもませているだけに反って僕には女生徒らしかった。
僕は巻煙草をくわえたまま、この矛盾を感じた僕自身を冷笑しないわけにはいかなかった。
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僕は巻煙草を啣えたまま、この矛盾を感じた僕自身を冷笑しない訣には行かなかった。
いつのまにか電灯をともした汽車は、やっとある郊外の停車場に着いた。
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いつか電燈をともした汽車はやっと或郊外の停車場へ着いた。
僕は風の寒いプラットホームへ降り、一度橋を渡ったうえで、省線電車の来るのを待つことにした。
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僕は風の寒いプラットホオムへ下り、一度橋を渡った上、省線電車の来るのを待つことにした。
すると偶然顔を合わせたのは、ある会社にいるT君だった。僕たちは電車を待っている間、不景気のことなどを話し合った。
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すると偶然顔を合せたのは或会社にいるT君だった、僕等は電車を待っている間に不景気のことなどを話し合った。
T君はもちろん、僕などよりもこういう問題に通じていた。
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T君は勿論僕などよりもこう云う問題に通じていた。
が、たくましい彼の指には、あまり不景気には縁のないトルコ石の指環もはまっていた。
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が、逞しい彼の指には余り不景気には縁のない土耳古石の指環も嵌まっていた。
「大したものをはめているね」
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「大したものを嵌めているね」
「これか? これはハルビンへ商売に行っていた友だちの指環を買わされたのだよ。そいつも今は参っている。コーペラティヴと取引きができなくなったものだから」
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「これか? これはハルビンへ商売に行っていた友だちの指環を買わされたのだよ。そいつも今は往生している。コオペラティヴと取引きが出来なくなったものだから」
僕たちの乗った省線電車は、幸いにも汽車ほど混んでいなかった。
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僕等の乗った省線電車は幸いにも汽車ほどこんでいなかった。
僕たちは並んで腰をおろし、いろいろなことを話していた。
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僕等は並んで腰をおろし、いろいろのことを話していた。
T君はついこの春、パリにある勤め先から東京へ帰ったばかりだった。
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T君はついこの春に巴里にある勤め先から東京へ帰ったばかりだった。
だから僕たちの間には、パリの話も出がちだった。
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従って僕等の間には巴里の話も出勝ちだった。
カイヨー夫人の話、蟹料理の話、外遊中のある殿下の話、……
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カイヨオ夫人の話、蟹料理の話、御外遊中の或殿下の話、……
「フランスは案外困ってはいないよ。ただ、もともとフランス人というやつは税を出したがらない国民だから、内閣はいつも倒れるがね。……」
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「仏蘭西は存外困ってはいないよ、唯元来仏蘭西人と云うやつは税を出したがらない国民だから、内閣はいつも倒れるがね。……」
「だって、フランは暴落するしさ」
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「だってフランは暴落するしさ」
「それは新聞を読んでいればね。しかし向こうにいてみたまえ。新聞紙上の日本というものは、ひっきりなしに大地震や大洪水があるんだから」
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「それは新聞を読んでいればね。しかし向うにいて見給え。新聞紙上の日本なるものはのべつ大地震や大洪水があるから」
するとレインコートを着た男が一人、僕たちの向かいに来て腰をおろした。
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するとレエン・コオトを着た男が一人僕等の向うへ来て腰をおろした。
僕はちょっと不気味になり、さっき聞いた幽霊の話をT君に話したい気持ちになった。
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僕はちょっと無気味になり、何か前に聞いた幽霊の話をT君に話したい心もちを感じた。
が、T君はその前に杖の柄をくるりと左へ向け、顔は前を向いたまま、小声で僕に話しかけた。
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が、T君はその前に杖の柄をくるりと左へ向け、顔は前を向いたまま、小声に僕に話しかけた。
「あそこに女が一人いるだろう? 鼠色の毛糸のショールをした、……」
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「あすこに女が一人いるだろう? 鼠色の毛糸のショオルをした、……」
「あの西洋髪に結った女か?」
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「あの西洋髪に結った女か?」
「うん、風呂敷包みを抱えている女さ。あいつはこの夏は軽井沢にいたよ。ちょっと洒落た洋装などをしてね」
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「うん、風呂敷包みを抱えている女さ。あいつはこの夏は軽井沢にいたよ。ちょっと洒落れた洋装などをしてね」
しかし彼女は、誰の目にも見すぼらしいなりをしているに違いなかった。
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しかし彼女は誰の目にも見すぼらしいなりをしているのに違いなかった。
僕はT君と話しながら、そっと彼女を眺めていた。
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僕はT君と話しながら、そっと彼女を眺めていた。
彼女はどこか眉の間に、狂気じみた感じのする顔をしていた。
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彼女はどこか眉の間に気違いらしい感じのする顔をしていた。
しかもその風呂敷包みの中からは、豹に似た海綿をはみ出させていた。
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しかもその又風呂敷包みの中から豹に似た海綿をはみ出させていた。
「軽井沢にいた時には、若いアメリカ人と踊ったりしていたっけ。モダン……なんというやつかね」
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「軽井沢にいた時には若い亜米利加人と踊ったりしていたっけ。モダアン……何と云うやつかね」
レインコートを着た男は、僕がT君と別れる時には、いつのまにかそこにいなくなっていた。
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レエン・コオトを着た男は僕のT君と別れる時にはいつかそこにいなくなっていた。
僕は省線電車のある停車場から、やはり鞄をぶら下げたまま、あるホテルへ歩いて行った。
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僕は省線電車の或停車場からやはり鞄をぶら下げたまま、或ホテルへ歩いて行った。
通りの両側に立っているのは、たいてい大きなビルディングだった。
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往来の両側に立っているのは大抵大きいビルディングだった。
僕はそこを歩いているうちに、ふと松林を思い出した。
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僕はそこを歩いているうちにふと松林を思い出した。
そればかりか、僕の視野の中に妙なものを見つけ出した。
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のみならず僕の視野のうちに妙なものを見つけ出した。
妙なものを?――
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妙なものを?――
というのは、絶えず回っている半透明の歯車だった。
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と云うのは絶えずまわっている半透明の歯車だった。
僕はこういう経験を、前にも何度かしていた。
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僕はこう云う経験を前にも何度か持ち合せていた。
歯車は次第に数を増やし、なかば僕の視野を塞いでしまう。が、それも長いことではない。しばらくすると消え失せる代わりに、今度は頭痛を感じはじめる――それはいつも同じことだった。
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歯車は次第に数を殖やし、半ば僕の視野を塞いでしまう、が、それも長いことではない、暫らくの後には消え失せる代りに今度は頭痛を感じはじめる、――それはいつも同じことだった。
眼科の医者はこの錯覚(?)
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眼科の医者はこの錯覚(?)
のために、たびたび僕に煙草を控えるよう命じた。
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の為に度々僕に節煙を命じた。
しかしこういう歯車は、僕がまだ煙草に親しんでいなかった二十歳前にも、見えないことはなかった。
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しかしこう云う歯車は僕の煙草に親まない二十前にも見えないことはなかった。
僕はまた始まったなと思い、左の目の視力をためすために、片手で右の目を塞いでみた。
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僕は又はじまったなと思い、左の目の視力をためす為に片手に右の目を塞いで見た。
左の目は案の定、何ともなかった。
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左の目は果して何ともなかった。
しかし右の目の瞼の裏には、歯車がいくつも回っていた。
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しかし右の目の瞼の裏には歯車が幾つもまわっていた。
僕は右側のビルディングが次第に消えてしまうのを見ながら、せっせと通りを歩いて行った。
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僕は右側のビルディングの次第に消えてしまうのを見ながら、せっせと往来を歩いて行った。
ホテルの玄関を入った時には、歯車はもう消え失せていた。
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ホテルの玄関をはいった時には歯車ももう消え失せていた。
が、頭痛はまだ残っていた。
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が、頭痛はまだ残っていた。
僕は外套や帽子を預けるついでに、部屋を一つとってもらうことにした。
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僕は外套や帽子を預ける次手に部屋を一つとって貰うことにした。
それからある雑誌社へ電話をかけて、金のことを相談した。
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それから或雑誌社へ電話をかけて金のことを相談した。
結婚披露宴の晩餐は、とっくに始まっていたらしかった。
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結婚披露式の晩餐はとうに始まっていたらしかった。
僕はテーブルの隅に座り、ナイフやフォークを動かしはじめた。
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僕はテエブルの隅に坐り、ナイフやフォオクを動かし出した。
正面の新郎新婦をはじめ、白いコの字形のテーブルについた五十人あまりの人々は、もちろんいずれも陽気だった。
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正面の新郎や新婦をはじめ、白い凹字形のテエブルに就いた五十人あまりの人びとは勿論いずれも陽気だった。
が、僕の気持ちは、明るい電灯の光の下でだんだん憂鬱になるばかりだった。
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が、僕の心もちは明るい電燈の光の下にだんだん憂鬱になるばかりだった。
僕はこの気持ちから逃れるために、隣にいた客に話しかけた。
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僕はこの心もちを遁れる為に隣にいた客に話しかけた。
彼はちょうど獅子のように白い頬髯を伸ばした老人だった。
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彼は丁度獅子のように白い頬髯を伸ばした老人だった。
そればかりか、僕も名を知っているある名高い漢学者だった。
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のみならず僕も名を知っていた或名高い漢学者だった。
だから僕たちの話は、いつのまにか古典の上へ落ちて行った。
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従って又僕等の話はいつか古典の上へ落ちて行った。
「麒麟はつまり一角獣ですね。それから鳳凰もフェニックスという鳥の、……」
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「麒麟はつまり一角獣ですね。それから鳳凰もフェニックスと云う鳥の、……」
この名高い漢学者は、こういう僕の話にも興味を感じているらしかった。
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この名高い漢学者はこう云う僕の話にも興味を感じているらしかった。
僕は機械的にしゃべっているうちに、だんだん病的な破壊欲を感じ、堯舜を架空の人物にしたのはもちろん、「春秋」
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僕は機械的にしゃべっているうちにだんだん病的な破壊慾を感じ、堯舜を架空の人物にしたのは勿論、「春秋」
の著者もずっと後の漢代の人だったことを話し出した。
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の著者もずっと後の漢代の人だったことを話し出した。
するとこの漢学者は露骨に不快な表情を示し、少しも僕の顔を見ずに、ほとんど虎が唸るように僕の話を断ち切った。
原文を見る
するとこの漢学者は露骨に不快な表情を示し、少しも僕の顔を見ずに殆ど虎の唸るように僕の話を截り離した。
「もし堯舜もいなかったとすれば、孔子は嘘をつかれたことになる。聖人が嘘をつかれるはずはない」
原文を見る
「もし堯舜もいなかったとすれば、孔子は譃をつかれたことになる。聖人の譃をつかれる筈はない」
僕はもちろん黙ってしまった。
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僕は勿論黙ってしまった。
それからまた、皿の上の肉へナイフやフォークを入れようとした。
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それから又皿の上の肉へナイフやフォオクを加えようとした。
すると小さい蛆が一匹、静かに肉の縁でうごめいていた。
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すると小さい蛆が一匹静かに肉の縁に蠢めいていた。
蛆は僕の頭の中に Worm という英語を呼び起こした。
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蛆は僕の頭の中に Worm と云う英語を呼び起した。
それもまた、麒麟や鳳凰のように、ある伝説的な動物を意味している言葉に違いなかった。
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それは又麒麟や鳳凰のように或伝説的動物を意味している言葉にも違いなかった。
僕はナイフやフォークを置き、いつのまにか僕の杯にシャンパーニュが注がれるのを眺めていた。
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僕はナイフやフォオクを置き、いつか僕の杯にシャンパアニュのつがれるのを眺めていた。
やっと晩餐がすんだ後、僕は前にとっておいた僕の部屋へこもるために、人けのない廊下を歩いて行った。
原文を見る
やっと晩餐のすんだ後、僕は前にとって置いた僕の部屋へこもる為に人気のない廊下を歩いて行った。
廊下は僕に、ホテルよりも監獄らしい感じを与えるものだった。
原文を見る
廊下は僕にはホテルよりも監獄らしい感じを与えるものだった。
しかし幸いにも、頭痛だけはいつのまにか薄らいでいた。
原文を見る
しかし幸いにも頭痛だけはいつの間にか薄らいでいた。
僕の部屋には鞄はもちろん、帽子や外套も運んであった。
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僕の部屋には鞄は勿論、帽子や外套も持って来てあった。
僕は壁にかけた外套に僕自身の立ち姿を感じ、急いでそれを部屋の隅の衣裳戸棚の中へ放りこんだ。
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僕は壁にかけた外套に僕自身の立ち姿を感じ、急いでそれを部屋の隅の衣裳戸棚の中へ抛りこんだ。
それから鏡台の前へ行き、じっと鏡に僕の顔を映した。
原文を見る
それから鏡台の前へ行き、じっと鏡に僕の顔を映した。
鏡に映った僕の顔は、皮膚の下の骨組みをむき出しにしていた。
原文を見る
鏡に映った僕の顔は皮膚の下の骨組みを露わしていた。
蛆は、こういう僕の記憶の中にたちまちはっきりと浮かび上がった。
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蛆はこう云う僕の記憶に忽ちはっきり浮び出した。
僕は戸をあけて廊下へ出、どことも決めずに歩いて行った。
原文を見る
僕は戸をあけて廊下へ出、どこと云うことなしに歩いて行った。
するとロビーへ出る隅に、緑色の笠をかけた背の高いスタンドの電灯が一つ、ガラス戸に鮮やかに映っていた。
原文を見る
するとロッビイへ出る隅に緑いろの笠をかけた、脊の高いスタンドの電燈が一つ硝子戸に鮮かに映っていた。
それは何か僕の心に平和な感じを与えるものだった。
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それは何か僕の心に平和な感じを与えるものだった。
僕はその前の椅子に座り、いろいろなことを考えていた。
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僕はその前の椅子に坐り、いろいろのことを考えていた。
が、そこにも五分と座っているわけにはいかなかった。
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が、そこにも五分とは坐っている訣に行かなかった。
レインコートは今度もまた、僕の横にあった長椅子の背に、いかにもだらりと脱ぎかけてあった。
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レエン・コオトは今度もまた僕の横にあった長椅子の背に如何にもだらりと脱ぎかけてあった。
「しかも今は寒中だというのに」
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「しかも今は寒中だと云うのに」
僕はこんなことを考えながら、もう一度廊下を引き返して行った。
原文を見る
僕はこんなことを考えながら、もう一度廊下を引き返して行った。
廊下の隅の給仕だまりには、一人も給仕は見えなかった。
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廊下の隅の給仕だまりには一人も給仕は見えなかった。
しかし彼らの話し声は、ちょっと僕の耳をかすめて行った。
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しかし彼等の話し声はちょっと僕の耳をかすめて行った。
それは何か言われたのに答えた All right という英語だった。
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それは何とか言われたのに答えた All right と云う英語だった。
「オール・ライト」
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「オオル・ライト」
?――
原文を見る
?――
僕はいつのまにか、この対話の意味を正確につかもうとあせっていた。
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僕はいつかこの対話の意味を正確に掴もうとあせっていた。
「オール・ライト」
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「オオル・ライト」
?
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?
「オール・ライト」
原文を見る
「オオル・ライト」
?
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?
いったい何がオール・ライトなのだろう?
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何が一体オオル・ライトなのであろう?
僕の部屋はもちろんひっそりしていた。
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僕の部屋は勿論ひっそりしていた。
が、戸をあけて入ることが、妙に僕には不気味だった。
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が、戸をあけてはいることは妙に僕には無気味だった。
僕はちょっとためらった後、思い切って部屋の中へ入って行った。
原文を見る
僕はちょっとためらった後、思い切って部屋の中へはいって行った。
それから鏡を見ないようにして、机の前の椅子に腰をおろした。
原文を見る
それから鏡を見ないようにし、机の前の椅子に腰をおろした。
椅子は蜥蜴の皮に近い、青いモロッコ革の安楽椅子だった。
原文を見る
椅子は蜥蜴の皮に近い、青いマロック皮の安楽椅子だった。
僕は鞄をあけて原稿用紙を出し、ある短篇の続きを書こうとした。
原文を見る
僕は鞄をあけて原稿用紙を出し、或短篇を続けようとした。
けれどもインクをつけたペンは、いつまでたっても動かなかった。
原文を見る
けれどもインクをつけたペンはいつまでたっても動かなかった。
そればかりか、やっと動いたと思うと、同じ言葉ばかり書き続けていた。
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のみならずやっと動いたと思うと、同じ言葉ばかり書きつづけていた。
All right……All right……All right sir……All right……
原文を見る
All right……All right……All right sir……All right……
そこへ突然鳴り出したのは、ベッドのそばにある電話だった。
原文を見る
そこへ突然鳴り出したのはベッドの側にある電話だった。
僕は驚いて立ち上がり、受話器を耳にあてて返事をした。
原文を見る
僕は驚いて立ち上り、受話器を耳へやって返事をした。
「どなた?」
原文を見る
「どなた?」
「あたしです。あたし……」
原文を見る
「あたしです。あたし……」
相手は僕の姉の娘だった。
原文を見る
相手は僕の姉の娘だった。
「何だい? どうかしたのかい?」
原文を見る
「何だい? どうかしたのかい?」
「ええ、あの、大変なことが起こったんです。ですから、……大変なことが起こったものですから。今、叔母さんにも電話をかけたんです」
原文を見る
「ええ、あの大へんなことが起ったんです。ですから、……大へんなことが起ったもんですから。今叔母さんにも電話をかけたんです」
「大変なこと?」
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「大へんなこと?」
「ええ、ですからすぐに来てください。すぐにですよ」
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「ええ、ですからすぐに来て下さい。すぐにですよ」
電話はそれきり切れてしまった。
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電話はそれぎり切れてしまった。
僕はもとのように受話器を置き、反射的にベルのボタンを押した。
原文を見る
僕はもとのように受話器をかけ、反射的にベルの鈕を押した。
しかし僕の手が震えていることは、僕自身はっきり意識していた。
原文を見る
しかし僕の手の震えていることは僕自身はっきり意識していた。
給仕はなかなかやって来なかった。
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給仕は容易にやって来なかった。
僕は苛立たしさよりも苦しさを感じ、何度もベルのボタンを押した。
原文を見る
僕は苛立たしさよりも苦しさを感じ、何度もベルの鈕を押した。
やっと、運命が僕に教えた「オール・ライト」
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やっと運命の僕に教えた「オオル・ライト」
という言葉を理解しながら。
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と云う言葉を了解しながら。
僕の姉の夫はその日の午後、東京からあまり離れていないある田舎で轢死していた。
原文を見る
僕の姉の夫はその日の午後、東京から余り離れていない或田舎に轢死していた。
しかも季節に縁のないレインコートをひっかけていた。
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しかも季節に縁のないレエン・コオトをひっかけていた。
僕は今もそのホテルの部屋で、さっきの短篇を書き続けている。
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僕はいまもそのホテルの部屋に前の短篇を書きつづけている。
真夜中の廊下には誰も通らない。
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真夜中の廊下には誰も通らない。
が、時々、戸の外に翼の音が聞こえることもある。
原文を見る
が、時々戸の外に翼の音の聞えることもある。
どこかに鳥でも飼ってあるのかもしれない。
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どこかに鳥でも飼ってあるのかも知れない。
二 復讐
原文を見る
二 復讐
僕はこのホテルの部屋で、午前八時頃に目を覚ました。
原文を見る
僕はこのホテルの部屋に午前八時頃に目を醒ました。
が、ベッドを降りようとすると、スリッパは不思議にも片方しかなかった。
原文を見る
が、ベッドをおりようとすると、スリッパアは不思議にも片っぽしかなかった。
それはこの一、二年の間、いつも僕に恐怖や不安を与える現象だった。
原文を見る
それはこの一二年の間、いつも僕に恐怖だの不安だのを与える現象だった。
そればかりか、サンダルを片方だけはいたギリシャ神話の中の王子を思い出させる現象だった。
原文を見る
のみならずサンダアルを片っぽだけはいた希臘神話の中の王子を思い出させる現象だった。
僕はベルを押して給仕を呼び、スリッパの片方を探してもらうことにした。
原文を見る
僕はベルを押して給仕を呼び、スリッパアの片っぽを探して貰うことにした。
給仕はけげんな顔をしながら、狭い部屋の中を探しまわった。
原文を見る
給仕はけげんな顔をしながら、狭い部屋の中を探しまわった。
「ここにありました。このバスルームの中に」
原文を見る
「ここにありました。このバスの部屋の中に」
「どうしてまた、そんな所へ行っていたのだろう?」
原文を見る
「どうして又そんな所に行っていたのだろう?」
「さあ、鼠かもしれません」
原文を見る
「さあ、鼠かも知れません」
僕は給仕が下がった後、牛乳を入れないコーヒーを飲み、さっきの小説を仕上げにかかった。
原文を見る
僕は給仕の退いた後、牛乳を入れない珈琲を飲み、前の小説を仕上げにかかった。
凝灰岩を四角に組んだ窓は、雪のある庭に向いていた。
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凝灰岩を四角に組んだ窓は雪のある庭に向っていた。
僕はペンを休めるたびに、ぼんやりとこの雪を眺めたりした。
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僕はペンを休める度にぼんやりとこの雪を眺めたりした。
雪は蕾を持った沈丁花の下で、都会の煤煙に汚れていた。
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雪は莟を持った沈丁花の下に都会の煤煙によごれていた。
それは何か僕の心に痛ましさを与える眺めだった。
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それは何か僕の心に傷ましさを与える眺めだった。
僕は巻煙草をふかしながら、いつのまにかペンを動かさずに、いろいろなことを考えていた。
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僕は巻煙草をふかしながら、いつかペンを動かさずにいろいろのことを考えていた。
妻のことを、子供たちのことを、とりわけ姉の夫のことを。……
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妻のことを、子供たちのことを、就中姉の夫のことを。……
姉の夫は自殺する前に、放火の嫌疑をかけられていた。
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姉の夫は自殺する前に放火の嫌疑を蒙っていた。
それもまた、実際仕方はなかった。
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それもまた実際仕かたはなかった。
彼は家が焼ける前に、家の価格の二倍の火災保険に加入していた。
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彼は家の焼ける前に家の価格に二倍する火災保険に加入していた。
しかも偽証罪を犯したために、執行猶予中の身になっていた。
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しかも偽証罪を犯した為に執行猶予中の体になっていた。
けれども僕を不安にしたのは、彼が自殺したことよりも、僕が東京へ帰るたびに必ず火の燃えるのを見たことだった。
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けれども僕を不安にしたのは彼の自殺したことよりも僕の東京へ帰る度に必ず火の燃えるのを見たことだった。
僕はある時は汽車の中から山を焼いている火を見たり、ある時はまた自動車の中から(その時は妻子と一緒だった)常磐橋界隈の火事を見たりしていた。
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僕は或は汽車の中から山を焼いている火を見たり、或は又自動車の中から(その時は妻子とも一しょだった)常磐橋界隈の火事を見たりしていた。
それは彼の家が焼ける前にも、おのずと僕に火事の予感を与えないわけにはいかなかった。
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それは彼の家の焼けない前にもおのずから僕に火事のある予感を与えない訣には行かなかった。
「今年は家が火事になるかもしれないぞ」
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「今年は家が火事になるかも知れないぜ」
「そんな縁起の悪いことを。……それでも火事になったら大変ですね。保険はろくについていないし、……」
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「そんな縁起の悪いことを。……それでも火事になったら大変ですね。保険は碌についていないし、……」
僕たちはそんなことを話し合ったりした。
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僕等はそんなことを話し合ったりした。
しかし僕の家は焼けずに、――僕は努めて妄想を押しのけ、もう一度ペンを動かそうとした。
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しかし僕の家は焼けずに、――僕は努めて妄想を押しのけ、もう一度ペンを動かそうとした。
が、ペンはどうしても一行と楽には動かなかった。
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が、ペンはどうしても一行とは楽に動かなかった。
僕はとうとう机の前を離れ、ベッドの上に転がったまま、トルストイの Polikouchka を読みはじめた。
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僕はとうとう机の前を離れ、ベッドの上に転がったまま、トルストイの Polikouchka を読みはじめた。
この小説の主人公は、虚栄心や病的傾向や名誉心の入り混じった、複雑な性格の持ち主だった。
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この小説の主人公は虚栄心や病的傾向や名誉心の入り交った、複雑な性格の持ち主だった。
しかも彼の一生の悲喜劇は、多少の修正を加えさえすれば、僕の一生のカリカチュアだった。
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しかも彼の一生の悲喜劇は多少の修正を加えさえすれば、僕の一生のカリカテュアだった。
特に、彼の悲喜劇の中に運命の冷笑を感じることは、次第に僕を不気味にさせはじめた。
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殊に彼の悲喜劇の中に運命の冷笑を感じるのは次第に僕を無気味にし出した。
僕は一時間とたたないうちに、ベッドの上から飛び起きるが早いか、窓かけの垂れた部屋の隅へ力いっぱい本を放りつけた。
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僕は一時間とたたないうちにベッドの上から飛び起きるが早いか、窓かけの垂れた部屋の隅へ力一ぱい本を抛りつけた。
「くたばってしまえ!」
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「くたばってしまえ!」
すると大きい鼠が一匹、窓かけの下からバスルームへ、斜めに床の上を走って行った。
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すると大きい鼠が一匹窓かけの下からバスの部屋へ斜めに床の上を走って行った。
僕は一足飛びにバスルームへ行き、戸をあけて中を探しまわった。
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僕は一足飛びにバスの部屋へ行き、戸をあけて中を探しまわった。
が、白い浴槽のかげにも鼠らしいものは見えなかった。
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が、白いタッブのかげにも鼠らしいものは見えなかった。
僕は急に不気味になり、慌ててスリッパを靴に履き替えると、人けのない廊下を歩いて行った。
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僕は急に無気味になり、慌ててスリッパアを靴に換えると、人気のない廊下を歩いて行った。
廊下は今日も相変わらず、牢獄のように憂鬱だった。
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廊下はきょうも不相変牢獄のように憂鬱だった。
僕は頭を垂れたまま、階段を上ったり下りたりしているうちに、いつのまにかコック部屋に入っていた。
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僕は頭を垂れたまま、階段を上ったり下りたりしているうちにいつかコック部屋へはいっていた。
コック部屋は案外明るかった。
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コック部屋は存外明るかった。
が、片側に並んだ竈は、いくつも炎を揺らしていた。
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が、片側に並んだ竈は幾つも炎を動かしていた。
僕はそこを通りぬけながら、白い帽子をかぶったコックたちが冷ややかに僕を見ているのを感じた。
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僕はそこを通りぬけながら、白い帽をかぶったコックたちの冷やかに僕を見ているのを感じた。
同時にまた、僕の堕ちた地獄を感じた。
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同時に又僕の堕ちた地獄を感じた。
「神よ、私を罰してください。どうかお怒りにならないでください。でなければ、私はおそらく滅びるでしょう」
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「神よ、我を罰し給え。怒り給うこと勿れ。恐らくは我滅びん」
――こういう祈りも、この瞬間にはおのずから僕の唇にのぼらないわけにはいかなかった。
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――こう云う祈祷もこの瞬間にはおのずから僕の脣にのぼらない訣には行かなかった。
僕はこのホテルの外へ出ると、青空の映った雪解けの道を、せっせと姉の家へ歩いて行った。
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僕はこのホテルの外へ出ると、青ぞらの映った雪解けの道をせっせと姉の家へ歩いて行った。
道に沿った公園の樹木は、みな枝や葉を黒ずませていた。
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道に沿うた公園の樹木は皆枝や葉を黒ませていた。
そればかりか、どれも一本ごとに、ちょうど僕たち人間のように前と後ろを備えていた。
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のみならずどれも一本ごとに丁度僕等人間のように前や後ろを具えていた。
それもまた、僕には不快よりも恐怖に近いものを運んで来た。
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それもまた僕には不快よりも恐怖に近いものを運んで来た。
僕はダンテの地獄の中にある、樹木になった魂を思い出し、ビルディングばかり並んでいる電車線路の向こう側を歩くことにした。
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僕はダンテの地獄の中にある、樹木になった魂を思い出し、ビルディングばかり並んでいる電車線路の向うを歩くことにした。
しかしそこも、一町と無事に歩くことはできなかった。
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しかしそこも一町とは無事に歩くことは出来なかった。
「ちょっと通りがかりに失礼ですが、……」
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「ちょっと通りがかりに失礼ですが、……」
それは金ボタンの制服を着た、二十二、三の青年だった。
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それは金鈕の制服を着た二十二三の青年だった。
僕は黙ってこの青年を見つめ、彼の鼻の左脇にほくろのあることを発見した。
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僕は黙ってこの青年を見つめ、彼の鼻の左の側に黒子のあることを発見した。
彼は帽子を脱いだまま、おずおずとこう僕に話しかけた。
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彼は帽を脱いだまま、怯ず怯ずこう僕に話しかけた。
「Aさんではいらっしゃいませんか?」
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「Aさんではいらっしゃいませんか?」
「そうです」
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「そうです」
「どうもそんな気がしたものですから、……」
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「どうもそんな気がしたものですから、……」
「何かご用ですか?」
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「何か御用ですか?」
「いえ、ただお目にかかりたかっただけです。僕も先生の愛読者の……」
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「いえ、唯お目にかかりたかっただけです。僕も先生の愛読者の……」
僕はもうその時には、ちょっと帽子をとっただけで、彼を後ろにして歩き出していた。
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僕はもうその時にはちょっと帽をとったぎり、彼を後ろに歩き出していた。
先生、A先生、――それは僕には、この頃で最も不快な言葉だった。
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先生、A先生、――それは僕にはこの頃で最も不快な言葉だった。
僕はあらゆる罪悪を犯していることを信じていた。
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僕はあらゆる罪悪を犯していることを信じていた。
しかも彼らは、何かの機会に僕を先生と呼び続けていた。
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しかも彼等は何かの機会に僕を先生と呼びつづけていた。
僕はそこに、僕を嘲る何ものかを感じずにはいられなかった。
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僕はそこに僕を嘲る何ものかを感じずにはいられなかった。
何ものかを?――
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何ものかを?――
しかし僕の物質主義は、神秘主義を拒絶せずにはいられなかった。
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しかし僕の物質主義は神秘主義を拒絶せずにはいられなかった。
僕はつい二、三か月前にも、ある小さい同人雑誌にこういう言葉を発表していた。――
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僕はつい二三箇月前にも或小さい同人雑誌にこう云う言葉を発表していた。――
「僕は芸術的良心をはじめ、どういう良心も持っていない。僕が持っているのは神経だけである」
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「僕は芸術的良心を始め、どう云う良心も持っていない。僕の持っているのは神経だけである」
……
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……
姉は三人の子供たちと一緒に、路地の奥のバラックに避難していた。
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姉は三人の子供たちと一しょに露地の奥のバラックに避難していた。
褐色の紙を貼ったバラックの中は、外よりも寒いくらいだった。
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褐色の紙を貼ったバラックの中は外よりも寒いくらいだった。
僕たちは火鉢に手をかざしながら、いろいろなことを話し合った。
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僕等は火鉢に手をかざしながら、いろいろのことを話し合った。
体のたくましい姉の夫は、人一倍痩せ細った僕を本能的に軽蔑していた。
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体の逞しい姉の夫は人一倍痩せ細った僕を本能的に軽蔑していた。
そればかりか、僕の作品が不道徳であることを公言していた。
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のみならず僕の作品の不道徳であることを公言していた。
僕はいつも冷ややかにそんな彼を見おろしたまま、一度も打ち解けて話したことはなかった。
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僕はいつも冷やかにこう云う彼を見おろしたまま、一度も打ちとけて話したことはなかった。
しかし姉と話しているうちに、だんだん彼も僕のように地獄に堕ちていたことを悟りはじめた。
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しかし姉と話しているうちにだんだん彼も僕のように地獄に堕ちていたことを悟り出した。
彼は実際、寝台車の中で幽霊を見たとかいうことだった。
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彼は現に寝台車の中に幽霊を見たとか云うことだった。
が、僕は巻煙草に火をつけ、努めて金のことばかり話し続けた。
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が、僕は巻煙草に火をつけ、努めて金のことばかり話しつづけた。
「何しろこういう時だから、何もかも売ってしまおうと思うの」
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「何しろこう云う際だしするから、何もかも売ってしまおうと思うの」
「それはそうだ。タイプライターなどはいくらかになるだろう」
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「それはそうだ。タイプライタアなどは幾らかになるだろう」
「ええ、それから絵などもあるし」
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「ええ、それから画などもあるし」
「ついでにNさん(姉の夫)の肖像画も売るか? しかしあれは……」
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「次手にNさん(姉の夫)の肖像画も売るか? しかしあれは……」
僕はバラックの壁にかけた、額縁のない一枚のコンテ画を見ると、うかつに冗談も言えないのを感じた。
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僕はバラックの壁にかけた、額縁のない一枚のコンテ画を見ると、迂濶に常談も言われないのを感じた。
轢死した彼は、汽車のために顔もすっかり肉塊になり、わずかに口髭だけが残っていたとかいうことだった。
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轢死した彼は汽車の為に顔もすっかり肉塊になり、僅かに唯口髭だけ残っていたとか云うことだった。
この話はもちろん、話そのものも薄気味悪いに違いなかった。
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この話は勿論話自身も薄気味悪いのに違いなかった。
しかし彼の肖像画は、どこも完全に描いてあるものの、口髭だけはなぜかぼんやりしていた。
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しかし彼の肖像画はどこも完全に描いてあるものの、口髭だけはなぜかぼんやりしていた。
僕は光線の加減かと思い、この一枚のコンテ画をいろいろな位置から眺めるようにした。
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僕は光線の加減かと思い、この一枚のコンテ画をいろいろの位置から眺めるようにした。
「何をしているの?」
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「何をしているの?」
「何でもないよ。……ただ、あの肖像画は口のまわりだけ、……」
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「何でもないよ。……唯あの肖像画は口のまわりだけ、……」
姉はちょっと振り返りながら、何も気づかないように返事をした。
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姉はちょっと振り返りながら、何も気づかないように返事をした。
「髭だけ妙に薄いようでしょう」
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「髭だけ妙に薄いようでしょう」
僕の見たものは錯覚ではなかった。
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僕の見たものは錯覚ではなかった。
しかし錯覚ではないとすれば、――僕は昼飯の世話にならないうちに、姉の家を出ることにした。
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しかし錯覚ではないとすれば、――僕は午飯の世話にならないうちに姉の家を出ることにした。
「まあ、いいでしょう」
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「まあ、善いでしょう」
「またあしたにでも、……今日は青山まで出かけるのだから」
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「又あしたでも、……きょうは青山まで出かけるのだから」
「ああ、あそこ? まだ体の具合は悪いの?」
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「ああ、あすこ? まだ体の具合は悪いの?」
「やっぱり薬ばかり飲んでいる。催眠薬だけでも大変だよ。ヴェロナール、ノイロナール、トリオナール、ヌマール……」
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「やっぱり薬ばかり嚥んでいる。催眠薬だけでも大変だよ。ヴェロナアル、ノイロナアル、トリオナアル、ヌマアル……」
三十分ばかりたった後、僕はあるビルディングへ入り、エレベーターに乗って三階へ上った。
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三十分ばかりたった後、僕は或ビルディングへはいり、昇降機に乗って三階へのぼった。
それから、あるレストランのガラス戸を押して入ろうとした。
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それから或レストオランの硝子戸を押してはいろうとした。
が、ガラス戸は動かなかった。
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が、硝子戸は動かなかった。
そればかりか、そこには「定休日」
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のみならずそこには「定休日」
と書いた漆塗りの札も下がっていた。
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と書いた漆塗りの札も下っていた。
僕はいよいよ不快になり、ガラス戸の向こうのテーブルの上に林檎やバナナが盛ってあるのを見たまま、もう一度通りへ出ることにした。
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僕は愈不快になり、硝子戸の向うのテエブルの上に林檎やバナナを盛ったのを見たまま、もう一度往来へ出ることにした。
すると会社員らしい男が二人、何か快活にしゃべりながら、このビルディングに入るために僕の肩をこすって行った。
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すると会社員らしい男が二人何か快活にしゃべりながら、このビルディングにはいる為に僕の肩をこすって行った。
彼らの一人はその拍子に「イライラしてね」
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彼等の一人はその拍子に「イライラしてね」
と言ったらしかった。
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と言ったらしかった。
僕は通りに佇んだまま、タクシーの通るのを待ち合わせていた。
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僕は往来に佇んだなり、タクシイの通るのを待ち合せていた。
タクシーはなかなか通らなかった。
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タクシイは容易に通らなかった。
そればかりか、たまに通ったのは必ず黄色い車だった。
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のみならずたまに通ったのは必ず黄いろい車だった。
(この黄色いタクシーは、なぜか僕に交通事故の面倒をかけるのを常としていた。)そのうちに僕は縁起のいい緑色の車を見つけ、とにかく青山の墓地に近い精神病院へ出かけることにした。
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(この黄いろいタクシイはなぜか僕に交通事故の面倒をかけるのを常としていた)そのうちに僕は縁起の好い緑いろの車を見つけ、とにかく青山の墓地に近い精神病院へ出かけることにした。
「イライラする、――tantalizing――Tantalus――Inferno……」
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「イライラする、――tantalizing――Tantalus――Inferno……」
タンタロスは、実際ガラス戸越しに果物を眺めた僕自身だった。
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タンタルスは実際硝子戸越しに果物を眺めた僕自身だった。
僕は二度も僕の目に浮かんだダンテの地獄を呪いながら、じっと運転手の背中を眺めていた。
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僕は二度も僕の目に浮んだダンテの地獄を詛いながら、じっと運転手の背中を眺めていた。
そのうちにまた、あらゆるものが嘘であることを感じ出した。
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そのうちに又あらゆるものの譃であることを感じ出した。
政治、実業、芸術、科学――どれもみな、こういう僕にはこの恐ろしい人生を隠した色とりどりのエナメルにほかならなかった。
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政治、実業、芸術、科学、――いずれも皆こう云う僕にはこの恐しい人生を隠した雑色のエナメルに外ならなかった。
僕はだんだん息苦しさを感じ、タクシーの窓をあけ放ったりした。
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僕はだんだん息苦しさを感じ、タクシイの窓をあけ放ったりした。
が、何か心臓をしめつけられる感じは去らなかった。
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が、何か心臓をしめられる感じは去らなかった。
緑色のタクシーは、やっと神宮前へ走りかかった。
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緑いろのタクシイはやっと神宮前へ走りかかった。
そこには、ある精神病院へ曲がる横町が一つあるはずだった。
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そこには或精神病院へ曲る横町が一つある筈だった。
しかしそれも、今日だけはなぜか僕にはわからなかった。
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しかしそれもきょうだけはなぜか僕にはわからなかった。
僕は電車の線路に沿って、何度もタクシーを往復させた後、とうとうあきらめて降りることにした。
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僕は電車の線路に沿い、何度もタクシイを往復させた後、とうとうあきらめておりることにした。
僕はやっとその横町を見つけ、ぬかるみの多い道を曲がって行った。
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僕はやっとその横町を見つけ、ぬかるみの多い道を曲って行った。
するといつのまにか道を間違え、青山斎場の前へ出てしまった。
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するといつか道を間違え、青山斎場の前へ出てしまった。
それはかれこれ十年前にあった夏目先生の告別式以来、一度も門の前さえ通ったことのない建物だった。
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それはかれこれ十年前にあった夏目先生の告別式以来、一度も僕は門の前さえ通ったことのない建物だった。
十年前の僕も幸福ではなかった。
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十年前の僕も幸福ではなかった。
しかし少なくとも平和だった。
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しかし少くとも平和だった。
僕は砂利を敷いた門の中を眺め、「漱石山房」
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僕は砂利を敷いた門の中を眺め、「漱石山房」
の芭蕉を思い出しながら、何か僕の一生も一段落ついたことを感じないわけにはいかなかった。
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の芭蕉を思い出しながら、何か僕の一生も一段落ついたことを感じない訣には行かなかった。
そればかりか、この墓地の前へ十年目に僕を連れて来た何ものかを感じないわけにもいかなかった。
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のみならずこの墓地の前へ十年目に僕をつれて来た何ものかを感じない訣にも行かなかった。
その精神病院の門を出た後、僕はまた自動車に乗り、さっきのホテルへ帰ることにした。
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或精神病院の門を出た後、僕は又自動車に乗り、前のホテルへ帰ることにした。
が、このホテルの玄関で降りると、レインコートを着た男が一人、何か給仕と喧嘩をしていた。
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が、このホテルの玄関へおりると、レエン・コオトを着た男が一人何か給仕と喧嘩をしていた。
給仕と?――
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給仕と?――
いや、それは給仕ではない、緑色の服を着た自動車係だった。
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いや、それは給仕ではない、緑いろの服を着た自動車掛りだった。
僕はこのホテルに入ることに何か不吉な気持ちを感じ、さっさともとの道を引き返して行った。
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僕はこのホテルへはいることに何か不吉な心もちを感じ、さっさともとの道を引き返して行った。
僕が銀座通りへ出た時には、かれこれ日暮れも近づいていた。
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僕の銀座通りへ出た時にはかれこれ日の暮も近づいていた。
僕は両側に並んだ店や目まぐるしい人通りに、いっそう憂鬱にならずにはいられなかった。
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僕は両側に並んだ店や目まぐるしい人通りに一層憂鬱にならずにはいられなかった。
特に、通りの人々が罪などというものを知らないように軽快に歩いているのは不快だった。
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殊に往来の人々の罪などと云うものを知らないように軽快に歩いているのは不快だった。
僕は薄明るい外光に電灯の光のまじった中を、どこまでも北へ歩いて行った。
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僕は薄明るい外光に電燈の光のまじった中をどこまでも北へ歩いて行った。
そのうちに僕の目を捉えたのは、雑誌などを積み上げた本屋だった。
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そのうちに僕の目を捉えたのは雑誌などを積み上げた本屋だった。
僕はこの本屋の店へ入り、ぼんやりと何段かの書棚を見上げた。
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僕はこの本屋の店へはいり、ぼんやりと何段かの書棚を見上げた。
それから「ギリシャ神話」
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それから「希臘神話」
という一冊の本に目を通すことにした。
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と云う一冊の本へ目を通すことにした。
黄色い表紙をした「ギリシャ神話」
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黄いろい表紙をした「希臘神話」
は、子供のために書かれたものらしかった。
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は子供の為に書かれたものらしかった。
けれども偶然僕の読んだ一行は、たちまち僕を打ちのめした。
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けれども偶然僕の読んだ一行は忽ち僕を打ちのめした。
「一番偉いゼウスの神でも、復讐の神にはかないません。……」
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「一番偉いツォイスの神でも復讐の神にはかないません。……」
僕はこの本屋の店を後ろにして、人ごみの中を歩いて行った。
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僕はこの本屋の店を後ろに人ごみの中を歩いて行った。
いつのまにか曲がり出した僕の背中に、絶えず僕をつけ狙っている復讐の神を感じながら。……
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いつか曲り出した僕の背中に絶えず僕をつけ狙っている復讐の神を感じながら。……
三 夜
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三 夜
僕は丸善の二階の書棚にストリンドベリの「伝説」
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僕は丸善の二階の書棚にストリントベルグの「伝説」
を見つけ、二、三ページずつ目を通した。
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を見つけ、二三頁ずつ目を通した。
それは僕の経験と大差のないことを書いたものだった。
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それは僕の経験と大差のないことを書いたものだった。
そればかりか、黄色い表紙をしていた。
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のみならず黄いろい表紙をしていた。
僕は「伝説」
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僕は「伝説」
を書棚へ戻し、今度はほとんど手当たり次第に厚い本を一冊引きずり出した。
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を書棚へ戻し、今度は殆ど手当り次第に厚い本を一冊引きずり出した。
しかしこの本も、挿し絵の一枚に、僕たち人間と変わりのない、目鼻のある歯車ばかりを並べていた。
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しかしこの本も挿し画の一枚に僕等人間と変りのない、目鼻のある歯車ばかり並べていた。
(それはあるドイツ人の集めた精神病者の画集だった。)僕はいつのまにか憂鬱の中に反抗的精神の起こるのを感じ、やぶれかぶれになった賭博狂のように、いろいろな本を開いて行った。
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(それは或独逸人の集めた精神病者の画集だった)僕はいつか憂鬱の中に反抗的精神の起るのを感じ、やぶれかぶれになった賭博狂のようにいろいろの本を開いて行った。
が、なぜかどの本も必ず、文章か挿し絵かの中に多少の針を隠していた。
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が、なぜかどの本も必ず文章か挿し画かの中に多少の針を隠していた。
どの本も?――
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どの本も?――
僕は何度も読み返した「マダム・ボヴァリー」
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僕は何度も読み返した「マダム・ボヴァリイ」
を手にとった時さえ、つまるところ僕自身も中産階級のムッシュー・ボヴァリーにほかならないのを感じた。……
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を手にとった時さえ、畢竟僕自身も中産階級のムッシウ・ボヴァリイに外ならないのを感じた。……
日暮れに近い丸善の二階には、僕のほかに客もいないらしかった。
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日の暮に近い丸善の二階には僕の外に客もないらしかった。
僕は電灯の光の中を、書棚の間をさまよって行った。
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僕は電燈の光の中に書棚の間をさまよって行った。
それから「宗教」
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それから「宗教」
という札を掲げた書棚の前で足を休め、緑色の表紙をした一冊の本に目を通した。
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と云う札を掲げた書棚の前に足を休め、緑いろの表紙をした一冊の本へ目を通した。
この本は目次の第何章かに「恐ろしい四つの敵、――疑惑、恐怖、驕慢、官能的欲望」
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この本は目次の第何章かに「恐しい四つの敵、――疑惑、恐怖、驕慢、官能的欲望」
という言葉を並べていた。
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と云う言葉を並べていた。
僕はこういう言葉を見るが早いか、いっそう反抗的精神の起こるのを感じた。
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僕はこう云う言葉を見るが早いか、一層反抗的精神の起るのを感じた。
それらの敵と呼ばれるものは、少なくとも僕には感受性や理知の別名にほかならなかった。
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それ等の敵と呼ばれるものは少くとも僕には感受性や理智の異名に外ならなかった。
が、伝統的精神もやはり近代的精神と同じように僕を不幸にするのは、いよいよ僕にはたまらなかった。
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が、伝統的精神もやはり近代的精神のようにやはり僕を不幸にするのは愈僕にはたまらなかった。
僕はこの本を手にしたまま、ふといつか筆名に用いた「寿陵余子」
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僕はこの本を手にしたまま、ふといつかペン・ネエムに用いた「寿陵余子」
という言葉を思い出した。
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と云う言葉を思い出した。
それは、邯鄲の歩き方を学ばないうちに寿陵の歩き方を忘れてしまい、蛇のように這って故郷へ帰ったという「韓非子」
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それは邯鄲の歩みを学ばないうちに寿陵の歩みを忘れてしまい、蛇行匍匐して帰郷したと云う「韓非子」
の中の青年だった。
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中の青年だった。
今日の僕は、誰の目にも「寿陵余子」
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今日の僕は誰の目にも「寿陵余子」
であるに違いなかった。
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であるのに違いなかった。
しかし、まだ地獄へ堕ちていなかった僕もこの筆名を用いていたということは、――僕は大きい書棚を後ろにして努めて妄想を払うようにし、ちょうど僕の向かいにあったポスターの展覧室へ入って行った。
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しかしまだ地獄へ堕ちなかった僕もこのペン・ネエムを用いていたことは、――僕は大きい書棚を後ろに努めて妄想を払うようにし、丁度僕の向うにあったポスタアの展覧室へはいって行った。
が、そこでも一枚のポスターの中には、聖ジョージらしい騎士が一人、翼のある竜を刺し殺していた。
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が、そこにも一枚のポスタアの中には聖ジョオジらしい騎士が一人翼のある竜を刺し殺していた。
しかもその騎士は、兜の下に、僕の敵の一人に近いしかめ面をなかばのぞかせていた。
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しかもその騎士は兜の下に僕の敵の一人に近いしかめ面を半ば露していた。
僕はまた「韓非子」
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僕は又「韓非子」
の中の屠竜の技の話を思い出し、展覧室へ通りぬけずに、幅の広い階段を下りて行った。
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の中の屠竜の技の話を思い出し、展覧室へ通りぬけずに幅の広い階段を下って行った。
僕はもう夜になった日本橋通りを歩きながら、屠竜という言葉を考え続けた。
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僕はもう夜になった日本橋通りを歩きながら、屠竜と云う言葉を考えつづけた。
それはまた、僕の持っている硯の銘にも違いなかった。
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それは又僕の持っている硯の銘にも違いなかった。
この硯を僕に贈ったのは、ある若い事業家だった。
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この硯を僕に贈ったのは或若い事業家だった。
彼はいろいろな事業に失敗したあげく、とうとう去年の暮に破産してしまった。
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彼はいろいろの事業に失敗した揚句、とうとう去年の暮に破産してしまった。
僕は高い空を見上げ、無数の星の光の中でこの地球がどれほど小さいかということを、――従って僕自身がどれほど小さいかということを考えようとした。
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僕は高い空を見上げ、無数の星の光の中にどのくらいこの地球の小さいかと云うことを、――従ってどのくらい僕自身の小さいかと云うことを考えようとした。
しかし昼間は晴れていた空も、いつのまにかすっかり曇っていた。
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しかし昼間は晴れていた空もいつかもうすっかり曇っていた。
僕は突然、何ものかが僕に敵意を持っているのを感じ、電車線路の向こうにあるカフェへ避難することにした。
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僕は突然何ものかの僕に敵意を持っているのを感じ、電車線路の向うにある或カッフェへ避難することにした。
それは「避難」
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それは「避難」
に違いなかった。
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に違いなかった。
僕はこのカフェの薔薇色の壁に何か平和に近いものを感じ、一番奥のテーブルの前にやっと楽々と腰をおろした。
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僕はこのカッフェの薔薇色の壁に何か平和に近いものを感じ、一番奥のテエブルの前にやっと楽々と腰をおろした。
そこには幸い、僕のほかに二、三人の客がいるだけだった。
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そこには幸い僕の外に二三人の客のあるだけだった。
僕は一杯のココアをすすり、いつものように巻煙草をふかしはじめた。
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僕は一杯のココアを啜り、ふだんのように巻煙草をふかし出した。
巻煙草の煙は、薔薇色の壁へかすかに青い煙を立ちのぼらせて行った。
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巻煙草の煙は薔薇色の壁へかすかに青い煙を立ちのぼらせて行った。
この優しい色の調和も、やはり僕には愉快だった。
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この優しい色の調和もやはり僕には愉快だった。
けれども僕はしばらくすると、僕の左の壁にかけたナポレオンの肖像画を見つけ、そろそろまた不安を感じ出した。
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けれども僕は暫らくの後、僕の左の壁にかけたナポレオンの肖像画を見つけ、そろそろ又不安を感じ出した。
ナポレオンはまだ学生だった時、彼の地理のノートの最後に「セント・ヘレナ、小さい島」
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ナポレオンはまだ学生だった時、彼の地理のノオト・ブックの最後に「セエント・ヘレナ、小さい島」
と記していた。
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と記していた。
それは、あるいは僕たちの言うように偶然だったかもしれなかった。
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それは或は僕等の言うように偶然だったかも知れなかった。
しかしナポレオン自身にさえ恐怖を呼び起こしたのは確かだった。……
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しかしナポレオン自身にさえ恐怖を呼び起したのは確かだった。……
僕はナポレオンを見つめたまま、僕自身の作品を考え出した。
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僕はナポレオンを見つめたまま、僕自身の作品を考え出した。
するとまず記憶に浮かんだのは「侏儒の言葉」
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するとまず記憶に浮かんだのは「侏儒の言葉」
の中のアフォリズムだった。
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の中のアフォリズムだった。
(特に「人生は地獄よりも地獄的である」
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(殊に「人生は地獄よりも地獄的である」
という言葉だった。)それから「地獄変」
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と云う言葉だった)それから「地獄変」
の主人公、――良秀という絵師の運命だった。
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の主人公、――良秀と云う画師の運命だった。
それから……僕は巻煙草をふかしながら、こういう記憶から逃れるために、このカフェの中を眺めまわした。
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それから……僕は巻煙草をふかしながら、こう云う記憶から逃れる為にこのカッフェの中を眺めまわした。
僕がここへ避難したのは、五分もたたない前のことだった。
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僕のここへ避難したのは五分もたたない前のことだった。
しかしこのカフェは、短い時間の間にすっかり様子を変えていた。
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しかしこのカッフェは短時間の間にすっかり容子を改めていた。
とりわけ僕を不快にしたのは、マホガニーまがいの椅子やテーブルが、少しもあたりの薔薇色の壁と調和を保っていないことだった。
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就中僕を不快にしたのはマホガニイまがいの椅子やテエブルの少しもあたりの薔薇色の壁と調和を保っていないことだった。
僕はもう一度、人目に見えない苦しみの中へ落ちこむのを恐れ、銀貨を一枚投げ出すが早いか、そそくさとこのカフェを出ようとした。
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僕はもう一度人目に見えない苦しみの中に落ちこむのを恐れ、銀貨を一枚投げ出すが早いか、匇々このカッフェを出ようとした。
「もし、もし、二十銭いただきますが、……」
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「もし、もし、二十銭頂きますが、……」
僕が投げ出したのは銅貨だった。
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僕の投げ出したのは銅貨だった。
僕は屈辱を感じながら、ひとり通りを歩いているうちに、ふと遠い松林の中にある僕の家を思い出した。
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僕は屈辱を感じながら、ひとり往来を歩いているうちにふと遠い松林の中にある僕の家を思い出した。
それはある郊外にある僕の養父母の家ではない、ただ僕を中心にした家族のために借りた家だった。
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それは或郊外にある僕の養父母の家ではない、唯僕を中心にした家族の為に借りた家だった。
僕はかれこれ十年前にも、こういう家に暮らしていた。
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僕はかれこれ十年前にもこう云う家に暮らしていた。
しかし、ある事情のために軽率にも父母と同居しはじめた。
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しかし或事情の為に軽率にも父母と同居し出した。
同時にまた、奴隷に、暴君に、力のない利己主義者に変わりはじめた。……
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同時に又奴隷に、暴君に、力のない利己主義者に変り出した。……
さっきのホテルに帰ったのは、もうかれこれ十時だった。
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前のホテルに帰ったのはもうかれこれ十時だった。
ずっと長い道を歩いて来た僕は、僕の部屋へ帰る力を失い、太い丸太の火を燃やした炉の前の椅子に腰をおろした。
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ずっと長い途を歩いて来た僕は僕の部屋へ帰る力を失い、太い丸太の火を燃やした炉の前の椅子に腰をおろした。
それから、僕の計画していた長篇のことを考え出した。
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それから僕の計画していた長篇のことを考え出した。
それは推古から明治に至る各時代の民衆を主人公にし、だいたい三十あまりの短篇を時代順に連ねた長篇だった。
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それは推古から明治に至る各時代の民を主人公にし、大体三十余りの短篇を時代順に連ねた長篇だった。
僕は火の粉の舞い上がるのを見ながら、ふと宮城の前にある銅像を思い出した。
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僕は火の粉の舞い上るのを見ながら、ふと宮城の前にある或銅像を思い出した。
この銅像は甲冑を着け、忠義の心そのもののように、高々と馬の上にまたがっていた。
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この銅像は甲冑を着、忠義の心そのもののように高だかと馬の上に跨っていた。
しかし彼の敵だったのは、――
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しかし彼の敵だったのは、――
「嘘!」
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「譃!」
僕はまた、遠い過去から間近い現代へすべり落ちた。
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僕は又遠い過去から目近い現代へすべり落ちた。
そこへ幸いにも来合わせたのは、ある先輩の彫刻家だった。
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そこへ幸いにも来合せたのは或先輩の彫刻家だった。
彼は相変わらずビロードの服を着、短い山羊髭を反らせていた。
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彼は不相変天鵞絨の服を着、短い山羊髯を反らせていた。
僕は椅子から立ち上がり、彼の差し出した手を握った。
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僕は椅子から立ち上り、彼のさし出した手を握った。
(それは僕の習慣ではない、パリやベルリンで半生を送った彼の習慣に従ったのだった。)が、彼の手は不思議にも爬虫類の皮膚のように湿っていた。
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(それは僕の習慣ではない、パリやベルリンに半生を送った彼の習慣に従ったのだった)が、彼の手は不思議にも爬虫類の皮膚のように湿っていた。
「君はここに泊まっているのですか?」
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「君はここに泊っているのですか?」
「ええ、……」
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「ええ、……」
「仕事をしに?」
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「仕事をしに?」
「ええ、仕事もしているのです」
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「ええ、仕事もしているのです」
彼はじっと僕の顔を見つめた。
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彼はじっと僕の顔を見つめた。
僕は彼の目の中に、探偵に近い表情を感じた。
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僕は彼の目の中に探偵に近い表情を感じた。
「どうです、僕の部屋へ話しに来ては?」
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「どうです、僕の部屋へ話しに来ては?」
僕は挑戦的に話しかけた。
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僕は挑戦的に話しかけた。
(この、勇気に乏しいくせにたちまち挑戦的な態度をとるのは、僕の悪癖の一つだった。)すると彼は微笑しながら、「どこ、君の部屋は?」
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(この勇気に乏しい癖に忽ち挑戦的態度をとるのは僕の悪癖の一つだった)すると彼は微笑しながら、「どこ、君の部屋は?」
と尋ね返した。
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と尋ね返した。
僕たちは親友のように肩を並べ、静かに話している外国人たちの中を、僕の部屋へ帰って行った。
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僕等は親友のように肩を並べ、静かに話している外国人たちの中を僕の部屋へ帰って行った。
彼は僕の部屋へ来ると、鏡を後ろにして腰をおろした。
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彼は僕の部屋へ来ると、鏡を後ろにして腰をおろした。
それから、いろいろなことを話し出した。
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それからいろいろのことを話し出した。
いろいろなことを?――
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いろいろのことを?――
しかしたいていは女の話だった。
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しかし大抵は女の話だった。
僕は罪を犯したために地獄に堕ちた一人に違いなかった。
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僕は罪を犯した為に地獄に堕ちた一人に違いなかった。
が、それだけに悪徳の話は、いよいよ僕を憂鬱にした。
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が、それだけに悪徳の話は愈僕を憂鬱にした。
僕は一時的な清教徒になり、それらの女を嘲りはじめた。
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僕は一時的清教徒になり、それ等の女を嘲り出した。
「S子さんの唇を見たまえ。あれは何人もの接吻のために……」
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「S子さんの唇を見給え。あれは何人もの接吻の為に……」
僕はふと口をつぐみ、鏡の中に彼の後ろ姿を見つめた。
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僕はふと口を噤み、鏡の中に彼の後ろ姿を見つめた。
彼はちょうど耳の下に、黄色い膏薬を貼りつけていた。
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彼は丁度耳の下に黄いろい膏薬を貼りつけていた。
「何人もの接吻のために?」
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「何人もの接吻の為に?」
「そんな人のように思いますがね」
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「そんな人のように思いますがね」
彼は微笑してうなずいていた。
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彼は微笑して頷いていた。
僕は彼が内心では僕の秘密を知るために、絶えず僕に注意を払っているのを感じた。
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僕は彼の内心では僕の秘密を知る為に絶えず僕を注意しているのを感じた。
けれどもやはり僕たちの話は、女のことを離れなかった。
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けれどもやはり僕等の話は女のことを離れなかった。
僕は彼を憎むよりも僕自身の気の弱いのを恥じ、いよいよ憂鬱にならずにはいられなかった。
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僕は彼を憎むよりも僕自身の気の弱いのを恥じ、愈憂鬱にならずにはいられなかった。
やっと彼が帰った後、僕はベッドの上に転がったまま、「暗夜行路」
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やっと彼の帰った後、僕はベッドの上に転がったまま、「暗夜行路」
を読みはじめた。
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を読みはじめた。
主人公の精神的闘争は、一つ一つ僕には痛切だった。
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主人公の精神的闘争は一々僕には痛切だった。
僕はこの主人公に比べると、自分がどれほど阿呆だったかを感じ、いつのまにか涙を流していた。
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僕はこの主人公に比べると、どのくらい僕の阿呆だったかを感じ、いつか涙を流していた。
同時にまた、涙は僕の気持ちにいつのまにか平和を与えていた。
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同時に又涙は僕の気もちにいつか平和を与えていた。
が、それも長いことではなかった。
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が、それも長いことではなかった。
僕の右の目は、もう一度半透明の歯車を感じ出した。
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僕の右の目はもう一度半透明の歯車を感じ出した。
歯車はやはり回りながら、次第に数を増やして行った。
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歯車はやはりまわりながら、次第に数を殖やして行った。
僕は頭痛のはじまることを恐れ、枕もとに本を置いたまま、〇・八グラムのヴェロナールを飲み、とにかくぐっすり眠ることにした。
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僕は頭痛のはじまることを恐れ、枕もとに本を置いたまま、○・八グラムのヴェロナアルを嚥み、とにかくぐっすり眠ることにした。
けれども僕は夢の中で、あるプールを眺めていた。
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けれども僕は夢の中に或プウルを眺めていた。
そこにはまた、男女の子供たちが何人も泳いだり潜ったりしていた。
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そこには又男女の子供たちが何人も泳いだりもぐったりしていた。
僕はこのプールを後ろにして、向こうの松林へ歩いて行った。
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僕はこのプウルを後ろに向うの松林へ歩いて行った。
すると誰かが後ろから「おとうさん」
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すると誰か後ろから「おとうさん」
と僕に声をかけた。
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と僕に声をかけた。
僕はちょっと振り返り、プールの前に立った妻を見つけた。
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僕はちょっとふり返り、プウルの前に立った妻を見つけた。
同時にまた、激しい後悔を感じた。
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同時に又烈しい後悔を感じた。
「おとうさん、タオルは?」
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「おとうさん、タオルは?」
「タオルはいらない。子供たちに気をつけるのだよ」
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「タオルはいらない。子供たちに気をつけるのだよ」
僕はまた歩き続けはじめた。
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僕は又歩みをつづけ出した。
が、僕が歩いているのは、いつのまにかプラットホームに変わっていた。
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が、僕の歩いているのはいつかプラットフォオムに変っていた。
それは田舎の停車場だったと見えて、長い生け垣のあるプラットホームだった。
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それは田舎の停車場だったと見え、長い生け垣のあるプラットフォオムだった。
そこにはまた、Hという大学生や年をとった女も佇んでいた。
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そこには又Hと云う大学生や年をとった女も佇んでいた。
彼らは僕の顔を見ると、僕の前に歩み寄り、口々に僕へ話しかけた。
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彼等は僕の顔を見ると、僕の前に歩み寄り、口々に僕へ話しかけた。
「大火事でしたわね」
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「大火事でしたわね」
「僕もやっと逃げて来たの」
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「僕もやっと逃げて来たの」
僕はこの年をとった女に、何か見覚えがあるように感じた。
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僕はこの年をとった女に何か見覚えのあるように感じた。
そればかりか、彼女と話していることに、ある愉快な興奮を感じた。
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のみならず彼女と話していることに或愉快な興奮を感じた。
そこへ汽車は煙をあげながら、静かにプラットホームへ横づけになった。
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そこへ汽車は煙をあげながら、静かにプラットフォオムへ横づけになった。
僕はひとりこの汽車に乗り、両側に白い布を垂らした寝台の間を歩いて行った。
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僕はひとりこの汽車に乗り、両側に白い布を垂らした寝台の間を歩いて行った。
するとある寝台の上に、ミイラに近い裸体の女が一人、こちらを向いて横になっていた。
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すると或寝台の上にミイラに近い裸体の女が一人こちらを向いて横になっていた。
それはまた、僕の復讐の神、――ある狂人の娘に違いなかった。……
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それは又僕の復讐の神、――或狂人の娘に違いなかった。……
僕は目を覚ますが早いか、思わずベッドを飛び降りていた。
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僕は目を醒ますが早いか、思わずベッドを飛び下りていた。
僕の部屋は相変わらず電灯の光に明るかった。
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僕の部屋は不相変電燈の光に明るかった。
が、どこかに翼の音や鼠のきしる音も聞こえていた。
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が、どこかに翼の音や鼠のきしる音も聞えていた。
僕は戸をあけて廊下へ出、さっきの炉の前へ急いで行った。
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僕は戸をあけて廊下へ出、前の炉の前へ急いで行った。
それから椅子に腰をおろしたまま、頼りない炎を眺め出した。
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それから椅子に腰をおろしたまま、覚束ない炎を眺め出した。
そこへ白い服を着た給仕が一人、焚き木を足しに歩み寄った。
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そこへ白い服を着た給仕が一人焚き木を加えに歩み寄った。
「何時?」
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「何時?」
「三時半ぐらいでございます」
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「三時半ぐらいでございます」
しかし向こうのロビーの隅では、アメリカ人らしい女が一人、何か本を読み続けていた。
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しかし向うのロッビイの隅には亜米利加人らしい女が一人何か本を読みつづけた。
彼女が着ているのは、遠目に見ても緑色のドレスに違いなかった。
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彼女の着ているのは遠目に見ても緑いろのドレッスに違いなかった。
僕は何か救われたのを感じ、じっと夜の明けるのを待つことにした。
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僕は何か救われたのを感じ、じっと夜のあけるのを待つことにした。
長年の病苦に悩み抜いたあげく、静かに死を待っている老人のように。……
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長年の病苦に悩み抜いた揚句、静かに死を待っている老人のように。……
四 まだ?
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四 まだ?
僕はこのホテルの部屋で、やっとさっきの短篇を書き上げ、ある雑誌に送ることにした。
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僕はこのホテルの部屋にやっと前の短篇を書き上げ、或雑誌に送ることにした。
もっとも僕の原稿料は、一週間の滞在費にも足りないものだった。
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尤も僕の原稿料は一週間の滞在費にも足りないものだった。
が、僕は僕の仕事を片づけたことに満足し、何か精神的な強壮剤を求めるために、銀座のある本屋へ出かけることにした。
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が、僕は僕の仕事を片づけたことに満足し、何か精神的強壮剤を求める為に銀座の或本屋へ出かけることにした。
冬の日の当たったアスファルトの上には、紙屑がいくつも転がっていた。
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冬の日の当ったアスファルトの上には紙屑が幾つもころがっていた。
それらの紙屑は光の加減か、どれも薔薇の花にそっくりだった。
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それらの紙屑は光の加減か、いずれも薔薇の花にそっくりだった。
僕は何ものかの好意を感じ、その本屋の店へ入って行った。
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僕は何ものかの好意を感じ、その本屋の店へはいって行った。
そこもまた、いつもより小綺麗だった。
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そこもまたふだんよりも小綺麗だった。
ただ、眼鏡をかけた小娘が一人、何か店員と話していたのは、僕には気がかりにならないこともなかった。
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唯目金をかけた小娘が一人何か店員と話していたのは僕には気がかりにならないこともなかった。
けれども僕は通りに落ちた紙屑の薔薇の花を思い出し、「アナトール・フランスの対話集」
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けれども僕は往来に落ちた紙屑の薔薇の花を思い出し、「アナトオル・フランスの対話集」
や「メリメの書簡集」
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や「メリメエの書簡集」
を買うことにした。
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を買うことにした。
僕は二冊の本を抱え、あるカフェへ入って行った。
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僕は二冊の本を抱え、或カッフェへはいって行った。
それから一番奥のテーブルの前で、コーヒーの来るのを待つことにした。
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それから一番奥のテエブルの前に珈琲の来るのを待つことにした。
僕の向かいには、親子らしい男女が二人座っていた。
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僕の向うには親子らしい男女が二人坐っていた。
その息子は僕よりも若かったものの、ほとんど僕にそっくりだった。
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その息子は僕よりも若かったものの、殆ど僕にそっくりだった。
そればかりか、彼らは恋人同士のように顔を近づけて話し合っていた。
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のみならず彼等は恋人同志のように顔を近づけて話し合っていた。
僕は彼らを見ているうちに、少なくとも息子のほうは、自分が性的にも母親に慰めを与えていることを意識しているのに気づきはじめた。
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僕は彼等を見ているうちに少くとも息子は性的にも母親に慰めを与えていることを意識しているのに気づき出した。
それは僕にも覚えのある親和力の一例に違いなかった。
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それは僕にも覚えのある親和力の一例に違いなかった。
同時にまた、この世を地獄にするある意志の一例にも違いなかった。
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同時に又現世を地獄にする或意志の一例にも違いなかった。
しかし、――僕はまた苦しみに陥るのを恐れ、ちょうどコーヒーの来たのを幸いに、「メリメの書簡集」
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しかし、――僕は又苦しみに陥るのを恐れ、丁度珈琲の来たのを幸い、「メリメエの書簡集」
を読みはじめた。彼はこの書簡集の中にも、彼の小説の中と同じように鋭いアフォリズムを閃かせていた。
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を読みはじめた、彼はこの書簡集の中にも彼の小説の中のように鋭いアフォリズムを閃かせていた。
それらのアフォリズムは、僕の気持ちをいつのまにか鉄のように頑丈にしはじめた。
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それ等のアフォリズムは僕の気もちをいつか鉄のように巌畳にし出した。
(この、影響を受けやすいことも僕の弱点の一つだった。)僕は一杯のコーヒーを飲み終わった後、「何でも来い」
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(この影響を受け易いことも僕の弱点の一つだった)僕は一杯の珈琲を飲み了った後、「何でも来い」
という気になり、さっさとこのカフェを後にした。
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と云う気になり、さっさとこのカッフェを後ろにして行った。
僕は通りを歩きながら、いろいろな飾り窓をのぞいて行った。
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僕は往来を歩きながら、いろいろの飾り窓を覗いて行った。
ある額縁屋の飾り窓は、ベートーヴェンの肖像画を掲げていた。
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或額縁屋の飾り窓はベエトオヴェンの肖像画を掲げていた。
それは髪を逆立てた、天才そのものらしい肖像画だった。
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それは髪を逆立てた天才そのものらしい肖像画だった。
僕はこのベートーヴェンを滑稽に感じずにはいられなかった。……
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僕はこのベエトオヴェンを滑稽に感ぜずにはいられなかった。……
そのうちにふと出会ったのは、高等学校以来の旧友だった。
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そのうちにふと出合ったのは高等学校以来の旧友だった。
この応用化学の大学教授は大きい中折れ鞄を抱え、片目だけ真っ赤に血を流していた。
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この応用化学の大学教授は大きい中折れ鞄を抱え、片目だけまっ赤に血を流していた。
「どうした、君の目は?」
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「どうした、君の目は?」
「これか? これはただの結膜炎さ」
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「これか? これは唯の結膜炎さ」
僕はふと、十四、五年前から、いつも親和力を感じるたびに僕の目も彼の目のように結膜炎を起こすのを思い出した。
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僕はふと十四五年以来、いつも親和力を感じる度に僕の目も彼の目のように結膜炎を起すのを思い出した。
が、何とも言わなかった。
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が、何とも言わなかった。
彼は僕の肩を叩き、僕たちの友だちのことを話し出した。
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彼は僕の肩を叩き、僕等の友だちのことを話し出した。
それから話を続けたまま、あるカフェへ僕を連れて行った。
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それから話をつづけたまま、或カッフェへ僕をつれて行った。
「久しぶりだなあ。朱舜水の建碑式以来だろう」
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「久しぶりだなあ。朱舜水の建碑式以来だろう」
彼は葉巻に火をつけた後、大理石のテーブル越しにこう僕に話しかけた。
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彼は葉巻に火をつけた後、大理石のテエブル越しにこう僕に話しかけた。
「そうだ。あのシュシュン……」
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「そうだ。あのシュシュン……」
僕はなぜか朱舜水という言葉を正確に発音できなかった。
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僕はなぜか朱舜水と云う言葉を正確に発音出来なかった。
それは日本語だっただけに、ちょっと僕を不安にした。
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それは日本語だっただけにちょっと僕を不安にした。
しかし彼は無頓着に、いろいろなことを話していった。
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しかし彼は無頓着にいろいろのことを話して行った。
Kという小説家のことを、彼の買ったブルドッグのことを、ルイサイトという毒ガスのことを。……
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Kと云う小説家のことを、彼の買ったブル・ドッグのことを、リウイサイトと云う毒瓦斯のことを。……
「君はちっとも書かないようだね。『点鬼簿』というのは読んだけれども。……あれは君の自叙伝かい?」
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「君はちっとも書かないようだね。『点鬼簿』と云うのは読んだけれども。……あれは君の自叙伝かい?」
「うん、僕の自叙伝だ」
原文を見る
「うん、僕の自叙伝だ」
「あれはちょっと病的だったぜ。この頃、体はいいのかい?」
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「あれはちょっと病的だったぜ。この頃体は善いのかい?」
「相変わらず薬ばかり飲んでいる始末だ」
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「不相変薬ばかり嚥んでいる始末だ」
「僕もこの頃は不眠症だがね」
原文を見る
「僕もこの頃は不眠症だがね」
「僕も?――どうして君は『僕も』と言うのだ?」
原文を見る
「僕も?――どうして君は『僕も』と言うのだ?」
「だって君も不眠症だって言うじゃないか? 不眠症は危険だぜ。……」
原文を見る
「だって君も不眠症だって言うじゃないか? 不眠症は危険だぜ。……」
彼は左だけ充血した目に、微笑に近いものを浮かべていた。
原文を見る
彼は左だけ充血した目に微笑に近いものを浮かべていた。
僕は返事をする前に、「不眠症」
原文を見る
僕は返事をする前に「不眠症」
のショウの発音を正確にできないのを感じ出した。
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のショウの発音を正確に出来ないのを感じ出した。
「狂人の息子には当たり前だ」
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「気違いの息子には当り前だ」
僕は十分とたたないうちに、ひとりまた通りを歩いて行った。
原文を見る
僕は十分とたたないうちにひとり又往来を歩いて行った。
アスファルトの上に落ちた紙屑は、時々僕たち人間の顔のようにも見えないことはなかった。
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アスファルトの上に落ちた紙屑は時々僕等人間の顔のようにも見えないことはなかった。
すると向こうから、断髪にした女が一人通りかかった。
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すると向うから断髪にした女が一人通りかかった。
彼女は遠目には美しかった。
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彼女は遠目には美しかった。
けれども目の前へ来たのを見ると、小皺のある上に醜い顔をしていた。
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けれども目の前へ来たのを見ると、小皺のある上に醜い顔をしていた。
そればかりか、妊娠しているらしかった。
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のみならず妊娠しているらしかった。
僕は思わず顔をそむけ、広い横町を曲がって行った。
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僕は思わず顔をそむけ、広い横町を曲って行った。
が、しばらく歩いているうちに、痔の痛みを感じ出した。
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が、暫らく歩いているうちに痔の痛みを感じ出した。
それは僕には、座浴よりほかに治すことのできない痛みだった。
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それは僕には坐浴より外に瘉すことの出来ない痛みだった。
「座浴、――ベートーヴェンもやはり座浴をしていた。……」
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「坐浴、――ベエトオヴェンもやはり坐浴をしていた。……」
座浴に使う硫黄の匂いは、たちまち僕の鼻を襲いはじめた。
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坐浴に使う硫黄の匂いは忽ち僕の鼻を襲い出した。
しかしもちろん、通りにはどこにも硫黄は見えなかった。
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しかし勿論往来にはどこにも硫黄は見えなかった。
僕はもう一度紙屑の薔薇の花を思い出しながら、努めてしっかりと歩いて行った。
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僕はもう一度紙屑の薔薇の花を思い出しながら、努めてしっかりと歩いて行った。
一時間ばかりたった後、僕は僕の部屋に閉じこもったまま、窓の前の机に向かい、新しい小説にとりかかっていた。
原文を見る
一時間ばかりたった後、僕は僕の部屋にとじこもったまま、窓の前の机に向かい、新らしい小説にとりかかっていた。
ペンは僕にも不思議だったくらい、ずんずん原稿用紙の上を走って行った。
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ペンは僕にも不思議だったくらい、ずんずん原稿用紙の上を走って行った。
しかしそれも二、三時間の後には、誰か僕の目に見えないものに抑えられたように止まってしまった。
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しかしそれも二三時間の後には誰か僕の目に見えないものに抑えられたようにとまってしまった。
僕はやむを得ず机の前を離れ、あちこちと部屋の中を歩きまわった。
原文を見る
僕はやむを得ず机の前を離れ、あちこちと部屋の中を歩きまわった。
僕の誇大妄想は、こういう時に最も著しかった。
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僕の誇大妄想はこう云う時に最も著しかった。
僕は野蛮な歓びの中で、僕には両親もなければ妻子もない、ただ僕のペンから流れ出した命だけがあるという気になっていた。
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僕は野蛮な歓びの中に僕には両親もなければ妻子もない、唯僕のペンから流れ出した命だけあると云う気になっていた。
けれども僕は四、五分の後、電話に向かわなければならなかった。
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けれども僕は四五分の後、電話に向わなければならなかった。
電話は何度返事をしても、ただ何か曖昧な言葉を繰り返して伝えるばかりだった。
原文を見る
電話は何度返事をしても、唯何か曖昧な言葉を繰り返して伝えるばかりだった。
が、それはともかくもモールと聞こえたのに違いなかった。
原文を見る
が、それはともかくもモオルと聞えたのに違いなかった。
僕はとうとう電話を離れ、もう一度部屋の中を歩き出した。
原文を見る
僕はとうとう電話を離れ、もう一度部屋の中を歩き出した。
しかしモールという言葉だけは、妙に気になってならなかった。
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しかしモオルと云う言葉だけは妙に気になってならなかった。
「モール――Mole……」
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「モオル――Mole……」
モールは、もぐらもちという英語だった。
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モオルは鼹鼠と云う英語だった。
この連想も、僕には愉快ではなかった。
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この聯想も僕には愉快ではなかった。
が、僕は二、三秒の後、Mole を la mort に綴り直した。
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が、僕は二三秒の後、Mole を la mort に綴り直した。
ラ・モール、――死というフランス語は、たちまち僕を不安にした。
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ラ・モオルは、――死と云う仏蘭西語は忽ち僕を不安にした。
死は姉の夫に迫っていたように、僕にも迫っているらしかった。
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死は姉の夫に迫っていたように僕にも迫っているらしかった。
けれども僕は不安の中にも、何かおかしさを感じていた。
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けれども僕は不安の中にも何か可笑しさを感じていた。
そればかりか、いつのまにか微笑していた。
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のみならずいつか微笑していた。
このおかしさは何のために起こるのか?――
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この可笑しさは何の為に起るか?――
それは僕自身にもわからなかった。
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それは僕自身にもわからなかった。
僕は久しぶりに鏡の前に立ち、まともに鏡の中の僕と向かい合った。
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僕は久しぶりに鏡の前に立ち、まともに僕の影と向い合った。
鏡の中の僕ももちろん微笑していた。
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僕の影も勿論微笑していた。
僕はその姿を見つめているうちに、第二の僕のことを思い出した。
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僕はこの影を見つめているうちに第二の僕のことを思い出した。
第二の僕、――ドイツ人のいわゆる Doppel gaenger は、幸いにも僕自身には見えたことがなかった。
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第二の僕、――独逸人の所謂 Doppel gaenger は仕合せにも僕自身に見えたことはなかった。
しかし、アメリカの映画俳優になったK君の夫人は、第二の僕を帝劇の廊下で見かけていた。
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しかし亜米利加の映画俳優になったK君の夫人は第二の僕を帝劇の廊下に見かけていた。
(僕は突然K君の夫人に「先日はついご挨拶もしませんで」
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(僕は突然K君の夫人に「先達はつい御挨拶もしませんで」
と言われ、当惑したことを覚えている。)それから、もう故人になったある片脚の翻訳家も、やはり銀座のある煙草屋で第二の僕を見かけていた。
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と言われ、当惑したことを覚えている)それからもう故人になった或隻脚の飜訳家もやはり銀座の或煙草屋に第二の僕を見かけていた。
死はあるいは、僕よりも第二の僕に来るのかもしれなかった。
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死は或は僕よりも第二の僕に来るのかも知れなかった。
もしまた僕に来たとしても、――僕は鏡に背を向け、窓の前の机へ帰って行った。
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若し又僕に来たとしても、――僕は鏡に後ろを向け、窓の前の机へ帰って行った。
四角に凝灰岩を組んだ窓は、枯芝や池をのぞかせていた。
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四角に凝灰岩を組んだ窓は枯芝や池を覗かせていた。
僕はこの庭を眺めながら、遠い松林の中で焼いた何冊かのノートや未完成の戯曲を思い出した。
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僕はこの庭を眺めながら、遠い松林の中に焼いた何冊かのノオト・ブックや未完成の戯曲を思い出した。
それからペンをとり上げると、もう一度新しい小説を書きはじめた。
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それからペンをとり上げると、もう一度新らしい小説を書きはじめた。
五 赤光
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五 赤光
日の光は僕を苦しめ出した。
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日の光は僕を苦しめ出した。
僕は実際もぐらもちのように窓の前にカーテンをおろし、昼間も電灯をともしたまま、せっせとさっきの小説を続けて行った。
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僕は実際鼹鼠のように窓の前へカアテンをおろし、昼間も電燈をともしたまま、せっせと前の小説をつづけて行った。
それから仕事に疲れると、テーヌのイギリス文学史をひろげ、詩人たちの生涯に目を通した。
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それから仕事に疲れると、テエヌの英吉利文学史をひろげ、詩人たちの生涯に目を通した。
彼らはいずれも不幸だった。
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彼等はいずれも不幸だった。
エリザベス朝の巨人たちさえ、――一代の学者だったベン・ジョンソンさえ、彼の足の親指の上でローマとカルタゴとの軍勢が戦いを始めるのを眺めたほど、神経的疲労に陥っていた。
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エリザベス朝の巨人たちさえ、――一代の学者だったベン・ジョンソンさえ彼の足の親指の上に羅馬とカルセエジとの軍勢の戦いを始めるのを眺めたほど神経的疲労に陥っていた。
僕はこういう彼らの不幸に、残酷な悪意に満ち満ちた歓びを感じずにはいられなかった。
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僕はこう云う彼等の不幸に残酷な悪意に充ち満ちた歓びを感じずにはいられなかった。
ある東風の強い夜、(それは僕にはいい徴だった)僕は地下室を抜けて通りへ出、ある老人を訪ねることにした。
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或東かぜの強い夜、(それは僕には善い徴だった)僕は地下室を抜けて往来へ出、或老人を尋ねることにした。
彼はある聖書会社の屋根裏でたった一人小使いをしながら、祈りや読書に精進していた。
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彼は或聖書会社の屋根裏にたった一人小使いをしながら、祈祷や読書に精進していた。
僕たちは火鉢に手をかざしながら、壁にかけた十字架の下でいろいろなことを話し合った。
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僕等は火鉢に手をかざしながら、壁にかけた十字架の下にいろいろのことを話し合った。
なぜ僕の母は発狂したか?
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なぜ僕の母は発狂したか?
なぜ僕の父の事業は失敗したか?
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なぜ僕の父の事業は失敗したか?
なぜまた僕は罰せられたか?――
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なぜ又僕は罰せられたか?――
それらの秘密を知っている彼は、妙に厳かな微笑を浮かべ、いつまでも僕の相手をした。
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それ等の秘密を知っている彼は妙に厳かな微笑を浮かべ、いつまでも僕の相手をした。
そればかりか、時々短い言葉で人生のカリカチュアを描いたりした。
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のみならず時々短い言葉に人生のカリカテュアを描いたりした。
僕はこの屋根裏の隠者を尊敬しないわけにはいかなかった。
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僕はこの屋根裏の隠者を尊敬しない訣には行かなかった。
しかし彼と話しているうちに、彼もまた親和力のために動かされていることを発見した。――
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しかし彼と話しているうちに彼もまた親和力の為に動かされていることを発見した。――
「その植木屋の娘というのは器量もいいし、気立てもいいし、――それはわたしに優しくしてくれるのです」
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「その植木屋の娘と云うのは器量も善いし、気立も善いし、――それはわたしに優しくしてくれるのです」
「いくつ?」
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「いくつ?」
「今年で十八です」
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「ことしで十八です」
それは彼にとっては父らしい愛情であるのかもしれなかった。
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それは彼には父らしい愛であるかも知れなかった。
しかし僕は彼の目の中に情熱を感じずにはいられなかった。
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しかし僕は彼の目の中に情熱を感じずにはいられなかった。
そればかりか、彼のすすめた林檎はいつのまにか黄ばんだ皮の上に一角獣の姿を浮かべていた。
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のみならず彼の勧めた林檎はいつか黄ばんだ皮の上へ一角獣の姿を現していた。
(僕は木目やコーヒー茶碗のひび割れに、たびたび神話的動物を見つけ出していた)一角獣は麒麟に違いなかった。
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(僕は木目や珈琲茶碗の亀裂に度たび神話的動物を発見していた)一角獣は麒麟に違いなかった。
僕は、ある敵意のある批評家が僕を「九百十年代の麒麟児」
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僕は或敵意のある批評家の僕を「九百十年代の麒麟児」
と呼んだのを思い出し、この十字架のかかった屋根裏も安全地帯ではないことを感じた。
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と呼んだのを思い出し、この十字架のかかった屋根裏も安全地帯ではないことを感じた。
「いかがですか、この頃は?」
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「如何ですか、この頃は?」
「相変わらず神経ばかりいらいらしていてね」
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「不相変神経ばかり苛々してね」
「それは薬でもだめですよ。信者になる気はありませんか?」
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「それは薬でも駄目ですよ。信者になる気はありませんか?」
「もし僕でもなれるものなら……」
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「若し僕でもなれるものなら……」
「何もむずかしいことはないのです。ただ神を信じ、神の子のキリストを信じ、キリストの行った奇蹟を信じさえすれば……」
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「何もむずかしいことはないのです。唯神を信じ、神の子の基督を信じ、基督の行った奇蹟を信じさえすれば……」
「悪魔を信じることはできますがね。……」
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「悪魔を信じることは出来ますがね。……」
「ではなぜ神を信じないのです? もし影を信じるならば、光も信じずにはいられないでしょう?」
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「ではなぜ神を信じないのです? 若し影を信じるならば、光も信じずにはいられないでしょう?」
「しかし光のない闇もあるでしょう」
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「しかし光のない暗もあるでしょう」
「光のない闇とは?」
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「光のない暗とは?」
僕は黙るよりほかはなかった。
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僕は黙るより外はなかった。
彼もまた僕のように闇の中を歩いていた。
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彼もまた僕のように暗の中を歩いていた。
が、闇がある以上は光もあると信じていた。
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が、暗のある以上は光もあると信じていた。
僕たちの論理が違うのは、ただこういう一点だけだった。
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僕等の論理の異るのは唯こう云う一点だけだった。
しかしそれは、少なくとも僕には越えられない溝に違いなかった。……
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しかしそれは少くとも僕には越えられない溝に違いなかった。……
「けれども光は必ずあるのです。その証拠には奇蹟があるのですから。……奇蹟などというものは今でもたびたび起こっているのですよ」
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「けれども光は必ずあるのです。その証拠には奇蹟があるのですから。……奇蹟などと云うものは今でも度たび起っているのですよ」
「それは悪魔の行う奇蹟なら。……」
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「それは悪魔の行う奇蹟は。……」
「どうしてまた悪魔などと言うのです?」
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「どうして又悪魔などと云うのです?」
僕はこの一、二年の間に僕自身が経験したことを、彼に話したい誘惑を感じた。
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僕はこの一二年の間、僕自身の経験したことを彼に話したい誘惑を感じた。
が、彼から妻子に伝わり、僕もまた母のように精神病院に入ることを恐れないわけにもいかなかった。
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が、彼から妻子に伝わり、僕もまた母のように精神病院にはいることを恐れない訣にも行かなかった。
「あそこにあるのは?」
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「あすこにあるのは?」
このたくましい老人は古い書棚をふり返り、何か牧羊神めいた表情を見せた。
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この逞しい老人は古い書棚をふり返り、何か牧羊神らしい表情を示した。
「ドストエフスキイ全集です。『罪と罰』はお読みですか?」
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「ドストエフスキイ全集です。『罪と罰』はお読みですか?」
僕はもちろん十年前にも四、五冊のドストエフスキイに親しんでいた。
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僕は勿論十年前にも四五冊のドストエフスキイに親しんでいた。
が、偶然(?)
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が、偶然(?)
彼の言った『罪と罰』
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彼の言った『罪と罰』
という言葉に心を動かされ、この本を借りたうえで、もとのホテルへ帰ることにした。
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と云う言葉に感動し、この本を貸して貰った上、前のホテルへ帰ることにした。
電灯の光に輝いた、人通りの多い往来はやはり僕には不快だった。
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電燈の光に輝いた、人通りの多い往来はやはり僕には不快だった。
ことに知り合いに出会うことは、とうてい耐えられないに違いなかった。
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殊に知り人に遇うことは到底堪えられないのに違いなかった。
僕は努めて暗い通りを選び、盗人のように歩いて行った。
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僕は努めて暗い往来を選び、盗人のように歩いて行った。
しかし僕はしばらくすると、いつのまにか胃の痛みを感じ出した。
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しかし僕は暫らくの後、いつか胃の痛みを感じ出した。
この痛みを止めるものは一杯のウイスキーだけだった。
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この痛みを止めるものは一杯のウイスキイのあるだけだった。
僕はあるバーを見つけ、その戸を押して入ろうとした。
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僕は或バアを見つけ、その戸を押してはいろうとした。
けれども狭いバーの中には、煙草の煙が立ちこめた中に芸術家らしい青年たちが何人も群がって酒を飲んでいた。
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けれども狭いバアの中には煙草の煙の立ちこめた中に芸術家らしい青年たちが何人も群がって酒を飲んでいた。
そればかりか、彼らのまん中には耳隠しに髪を結った女が一人、熱心にマンドリンを弾き続けていた。
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のみならず彼等のまん中には耳隠しに結った女が一人熱心にマンドリンを弾きつづけていた。
僕はたちまち当惑を感じ、戸の中へ入らずに引き返した。
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僕は忽ち当惑を感じ、戸の中へはいらずに引き返した。
するといつのまにか僕の影が左右に揺れているのを見つけた。
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するといつか僕の影の左右に揺れているのを発見した。
しかも僕を照らしているのは、不気味にも赤い光だった。
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しかも僕を照らしているのは無気味にも赤い光だった。
僕は通りに立ちどまった。
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僕は往来に立ちどまった。
けれども僕の影は前と同じように絶えず左右に動いていた。
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けれども僕の影は前のように絶えず左右に動いていた。
僕はおずおずとふり返り、やっとこのバーの軒に吊るした色ガラスのランタンを見つけた。
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僕は怯ず怯ずふり返り、やっとこのバアの軒に吊った色硝子のランタアンを発見した。
ランタンは激しい風のためにゆっくりと空中で動いていた。……
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ランタアンは烈しい風の為に徐ろに空中に動いていた。……
僕が次に入ったのは、ある地下室のレストランだった。
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僕の次にはいったのは或地下室のレストオランだった。
僕はそこのバーの前に立ち、ウイスキーを一杯注文した。
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僕はそこのバアの前に立ち、ウイスキイを一杯註文した。
「ウイスキーを? Black and White ばかりでございますが、……」
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「ウイスキイを? Black and White ばかりでございますが、……」
僕はソーダ水の中にウイスキーを入れ、黙って一口ずつ飲みはじめた。
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僕は曹達水の中にウイスキイを入れ、黙って一口ずつ飲みはじめた。
僕の隣には新聞記者らしい三十前後の男が二人、何か小声で話していた。
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僕の鄰には新聞記者らしい三十前後の男が二人何か小声に話していた。
そのうえフランス語を使っていた。
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のみならず仏蘭西語を使っていた。
僕は彼らに背中を向けたまま、全身に彼らの視線を感じた。
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僕は彼等に背中を向けたまま、全身に彼等の視線を感じた。
それは実際、電波のように僕の体にこたえるものだった。
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それは実際電波のように僕の体にこたえるものだった。
彼らは確かに僕の名を知り、僕の噂をしているらしかった。
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彼等は確かに僕の名を知り、僕の噂をしているらしかった。
「Bien……très mauvais……pourquoi ?……」
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「〔Bien……tre`s mauvais……pourquoi ?……〕」
「Pourquoi ?……le diable est mort !……」
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「Pourquoi ?……le diable est mort !……」
「Oui, oui……d'enfer……」
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「Oui, oui……d'enfer……」
僕は銀貨を一枚投げ出し、(それは僕の持っている最後の一枚の銀貨だった)この地下室の外へ逃れることにした。
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僕は銀貨を一枚投げ出し、(それは僕の持っている最後の一枚の銀貨だった)この地下室の外へのがれることにした。
夜風の吹き渡る通りは、多少胃の痛みの薄らいだ僕の神経を丈夫にした。
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夜風の吹き渡る往来は多少胃の痛みの薄らいだ僕の神経を丈夫にした。
僕はラスコーリニコフを思い出し、何もかも懺悔したいという欲望を感じた。
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僕はラスコルニコフを思い出し、何ごとも懺悔したい欲望を感じた。
が、それは僕自身のほかにも、――いや、僕の家族のほかにも悲劇を生むに違いなかった。
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が、それは僕自身の外にも、――いや、僕の家族の外にも悲劇を生じるのに違いなかった。
そればかりか、この欲望さえ本当のものかどうかは疑わしかった。
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のみならずこの欲望さえ真実かどうかは疑わしかった。
もし僕の神経さえ普通の人のように丈夫になれば、――けれども僕はそのためにはどこかへ行かなければならなかった。
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若し僕の神経さえ常人のように丈夫になれば、――けれども僕はその為にはどこかへ行かなければならなかった。
マドリッドへ、リオへ、サマルカンドへ、……
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マドリッドへ、リオへ、サマルカンドへ、……
そのうちに、ある店の軒に吊るした白い小型の看板が、突然僕を不安にした。
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そのうちに或店の軒に吊った、白い小型の看板は突然僕を不安にした。
それは自動車のタイヤに翼のある商標を描いたものだった。
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それは自動車のタイアアに翼のある商標を描いたものだった。
僕はこの商標に、人工の翼を頼りにした古代のギリシャ人を思い出した。
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僕はこの商標に人工の翼を手よりにした古代の希臘人を思い出した。
彼は空中に舞い上がったあげく、太陽の光に翼を焼かれ、とうとう海に落ちて溺れ死んでいた。
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彼は空中に舞い上った揚句、太陽の光に翼を焼かれ、とうとう海中に溺死していた。
マドリッドへ、リオへ、サマルカンドへ、――僕はこういう僕の夢をあざ笑わないわけにはいかなかった。
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マドリッドへ、リオへ、サマルカンドへ、――僕はこう云う僕の夢を嘲笑わない訣には行かなかった。
同時にまた、復讐の神に追われたオレステスを思わないわけにもいかなかった。
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同時に又復讐の神に追われたオレステスを考えない訣にも行かなかった。
僕は運河に沿いながら、暗い通りを歩いて行った。
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僕は運河に沿いながら、暗い往来を歩いて行った。
そのうちに、ある郊外にある養父母の家を思い出した。
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そのうちに或郊外にある養父母の家を思い出した。
養父母はもちろん、僕の帰るのを待ちわびているに違いなかった。
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養父母は勿論僕の帰るのを待ち暮らしているのに違いなかった。
おそらくは僕の子供たちも、――しかし僕はそこへ帰ると、おのずから僕を束縛してしまうある力を恐れずにはいられなかった。
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恐らくは僕の子供たちも、――しかし僕はそこへ帰ると、おのずから僕を束縛してしまう或力を恐れずにはいられなかった。
運河は波立った水の上に、達磨船を一艘横づけにしていた。
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運河は波立った水の上に達磨船を一艘横づけにしていた。
そのまた達磨船は、船底から薄い光を漏らしていた。
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その又達磨船は船の底から薄い光を洩らしていた。
そこにも何人かの男女の家族が暮らしているに違いなかった。
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そこにも何人かの男女の家族は生活しているのに違いなかった。
やはり愛し合うために憎み合いながら。……
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やはり愛し合う為に憎み合いながら。……
が、僕はもう一度戦闘的な精神を呼び起こし、ウイスキーの酔いを感じたまま、もとのホテルへ帰ることにした。
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が、僕はもう一度戦闘的精神を呼び起し、ウイスキイの酔いを感じたまま、前のホテルへ帰ることにした。
僕はまた机に向かい、「メリメの書簡集」
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僕は又机に向い、「メリメエの書簡集」
を読み続けた。
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を読みつづけた。
それはまた、いつのまにか僕に生活力を与えていた。
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それは又いつの間にか僕に生活力を与えていた。
しかし僕は晩年のメリメが新教徒になっていたことを知ると、にわかに仮面の陰にあるメリメの顔を感じ出した。
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しかし僕は晩年のメリメエの新教徒になっていたことを知ると、俄かに仮面のかげにあるメリメエの顔を感じ出した。
彼もまた、やはり僕たちのように闇の中を歩いている一人だった。
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彼もまたやはり僕等のように暗の中を歩いている一人だった。
闇の中を?――
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暗の中を?――
「暗夜行路」
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「暗夜行路」
は、こういう僕には恐ろしい本に変わりはじめた。
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はこう云う僕には恐しい本に変りはじめた。
僕は憂鬱を忘れるために「アナトール・フランスの対話集」
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僕は憂鬱を忘れる為に「アナトオル・フランスの対話集」
を読みはじめた。
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を読みはじめた。
が、この近代の牧羊神も、やはり十字架を背負っていた。……
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が、この近代の牧羊神もやはり十字架を荷っていた。……
一時間ばかりたった後、給仕が僕に一束の郵便物を渡しに顔を出した。
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一時間ばかりたった後、給仕は僕に一束の郵便物を渡しに顔を出した。
そのうちの一つは、ライプツィヒの本屋から僕に「近代の日本の女」
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それ等の一つはライプツィッヒの本屋から僕に「近代の日本の女」
という小論文を書けと言ってきたものだった。
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と云う小論文を書けと云うものだった。
なぜ彼らは特に僕にこういう小論文を書かせるのだろう?
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なぜ彼等は特に僕にこう云う小論文を書かせるのであろう?
そのうえこの英語の手紙は、「我々はちょうど日本画のように、黒と白のほかに色彩のない女の肖像画でも満足である」
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のみならずこの英語の手紙は「我々は丁度日本画のように黒と白の外に色彩のない女の肖像画でも満足である」
という手書きのP・Sを添えていた。
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と云う肉筆のP・Sを加えていた。
僕はこういう一行に Black and White というウイスキーの名を思い出し、ずたずたにこの手紙を破ってしまった。
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僕はこう云う一行に Black and White と云うウイスキイの名を思い出し、ずたずたにこの手紙を破ってしまった。
それから今度は手当たり次第に一つの手紙の封を切り、黄色い便箋に目を通した。
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それから今度は手当り次第に一つの手紙の封を切り、黄いろい書簡箋に目を通した。
この手紙を書いたのは僕の知らない青年だった。
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この手紙を書いたのは僕の知らない青年だった。
しかし二、三行も読まないうちに、「あなたの『地獄変』は……」
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しかし二三行も読まないうちに「あなたの『地獄変』は……」
という言葉が僕を苛立たせずにはおかなかった。
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と云う言葉は僕を苛立たせずには措かなかった。
三番目に封を切った手紙は、僕の甥から来たものだった。
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三番目に封を切った手紙は僕の甥から来たものだった。
僕はやっと一息つき、家事上の問題などを読んで行った。
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僕はやっと一息つき、家事上の問題などを読んで行った。
けれどもそれさえ最後まで来ると、いきなり僕を打ちのめした。
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けれどもそれさえ最後へ来ると、いきなり僕を打ちのめした。
「歌集『赤光』の再版を送りますから……」
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「歌集『赤光』の再版を送りますから……」
赤光!
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赤光!
僕は何ものかの冷笑を感じ、僕の部屋の外へ避難することにした。
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僕は何ものかの冷笑を感じ、僕の部屋の外へ避難することにした。
廊下には誰の人影もなかった。
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廊下には誰も人かげはなかった。
僕は片手で壁を押さえ、やっとロビーへ歩いて行った。
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僕は片手に壁を抑え、やっとロッビイへ歩いて行った。
それから椅子に腰をおろし、とにかく巻煙草に火をつけることにした。
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それから椅子に腰をおろし、とにかく巻煙草に火を移すことにした。
巻煙草はなぜかエア・シップだった。
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巻煙草はなぜかエエア・シップだった。
(僕はこのホテルに落ち着いてから、いつもスターばかり吸うことにしていた)人工の翼がもう一度僕の目の前に浮かび出した。
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(僕はこのホテルへ落ち着いてから、いつもスタアばかり吸うことにしていた)人工の翼はもう一度僕の目の前へ浮かび出した。
僕は向こうにいる給仕を呼び、スターを二箱もらうことにした。
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僕は向うにいる給仕を呼び、スタアを二箱貰うことにした。
しかし給仕の言うことを信じるなら、スターだけはあいにく品切れだった。
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しかし給仕を信用すれば、スタアだけは生憎品切れだった。
「エア・シップならございますが、……」
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「エエア・シップならばございますが、……」
僕は首を振ったまま、広いロビーを眺めまわした。
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僕は頭を振ったまま、広いロッビイを眺めまわした。
僕の向こうには外国人が四、五人テーブルを囲んで話していた。
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僕の向うには外国人が四五人テエブルを囲んで話していた。
しかも彼らの中の一人、――赤いワンピースを着た女は、小声で彼らと話しながら、ときどき僕を見ているらしかった。
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しかも彼等の中の一人、――赤いワン・ピイスを着た女は小声に彼等と話しながら、時々僕を見ているらしかった。
「Mrs. Townshead……」
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「Mrs. Townshead……」
何か僕の目に見えないものが、こう僕にささやいて行った。
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何か僕の目に見えないものはこう僕に囁いて行った。
ミセス・タウンズヘッドなどという名は、もちろん僕の知らないものだった。
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ミセス・タウンズヘッドなどと云う名は勿論僕の知らないものだった。
たとえ向こうにいる女の名だとしても、――僕はまた椅子から立ち上がり、発狂することを恐れながら、僕の部屋へ帰ることにした。
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たとい向うにいる女の名にしても、――僕は又椅子から立ち上り、発狂することを恐れながら、僕の部屋へ帰ることにした。
僕は部屋へ帰ったら、すぐにある精神病院へ電話をかけるつもりだった。
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僕は僕の部屋へ帰ると、すぐに或精神病院へ電話をかけるつもりだった。
が、そこへ入ることは、僕には死ぬことと変わらなかった。
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が、そこへはいることは僕には死ぬことに変らなかった。
僕はさんざんためらったあげく、この恐怖を紛らすために「罪と罰」
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僕はさんざんためらった後、この恐怖を紛らす為に「罪と罰」
を読みはじめた。
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を読みはじめた。
しかし偶然開いた頁は「カラマーゾフの兄弟」
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しかし偶然開いた頁は「カラマゾフ兄弟」
の一節だった。
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の一節だった。
僕は本を間違えたのかと思い、本の表紙に目を落とした。
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僕は本を間違えたのかと思い、本の表紙へ目を落した。
「罪と罰」
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「罪と罰」
――本は「罪と罰」
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――本は「罪と罰」
に違いなかった。
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に違いなかった。
僕はこの製本屋の綴じ違えに、――そのまた綴じ違えた頁を開いたことに運命の指が動いているのを感じ、やむを得ずそこを読んで行った。
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僕はこの製本屋の綴じ違えに、――その又綴じ違えた頁を開いたことに運命の指の動いているのを感じ、やむを得ずそこを読んで行った。
けれども一頁も読まないうちに、全身が震えるのを感じ出した。
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けれども一頁も読まないうちに全身が震えるのを感じ出した。
そこは悪魔に苦しめられるイヴァンを描いた一節だった。
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そこは悪魔に苦しめられるイヴァンを描いた一節だった。
イヴァンを、ストリンドベリを、モーパッサンを、あるいはこの部屋にいる僕自身を。……
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イヴァンを、ストリントベルグを、モオパスサンを、或はこの部屋にいる僕自身を。……
こういう僕を救うものは、ただ眠りしかなかった。
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こう云う僕を救うものは唯眠りのあるだけだった。
しかし催眠剤はいつのまにか一包みも残らずなくなっていた。
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しかし催眠剤はいつの間にか一包みも残らずになくなっていた。
僕はとうてい眠らずに苦しみ続けることに耐えられなかった。
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僕は到底眠らずに苦しみつづけるのに堪えなかった。
が、絶望的な勇気が湧き、コーヒーを持って来てもらったうえ、死にもの狂いでペンを動かすことにした。
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が、絶望的な勇気を生じ、珈琲を持って来て貰った上、死にもの狂いにペンを動かすことにした。
二枚、五枚、七枚、十枚、――原稿は見る見るうちに出来上がって行った。
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二枚、五枚、七枚、十枚、――原稿は見る見る出来上って行った。
僕はこの小説の世界を超自然の動物で満たしていた。
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僕はこの小説の世界を超自然の動物に満たしていた。
そればかりか、その動物の一匹に僕自身の肖像を描いていた。
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のみならずその動物の一匹に僕自身の肖像画を描いていた。
けれども疲労は、じわじわと僕の頭を曇らせはじめた。
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けれども疲労は徐ろに僕の頭を曇らせはじめた。
僕はとうとう机の前を離れ、ベッドの上に仰向けになった。
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僕はとうとう机の前を離れ、ベッドの上へ仰向けになった。
それから四、五十分間は眠ったらしかった。
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それから四五十分間は眠ったらしかった。
しかしまた誰かが僕の耳にこういう言葉をささやいたのを感じ、たちまち目を覚まして立ち上がった。
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しかし又誰か僕の耳にこう云う言葉を囁いたのを感じ、忽ち目を醒まして立ち上った。
「Le diable est mort」
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「Le diable est mort」
凝灰岩の窓の外は、いつのまにか冷え冷えと明けかかっていた。
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凝灰岩の窓の外はいつか冷えびえと明けかかっていた。
僕はちょうど戸の前に立ちつくし、誰もいない部屋の中を眺めまわした。
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僕は丁度戸の前に佇み、誰もいない部屋の中を眺めまわした。
すると向こうの窓ガラスは、まだらに外気で曇ったうえに小さい風景を映し出していた。
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すると向うの窓硝子は斑らに外気に曇った上に小さい風景を現していた。
それは黄ばんだ松林の向こうに海のある風景に違いなかった。
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それは黄ばんだ松林の向うに海のある風景に違いなかった。
僕はおずおずと窓の前へ近づき、この風景を作っているものが、実は庭の枯芝や池だったことに気づいた。
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僕は怯ず怯ず窓の前へ近づき、この風景を造っているものは実は庭の枯芝や池だったことを発見した。
けれども僕の錯覚は、いつのまにか僕の家に対する郷愁に近いものを呼び起こしていた。
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けれども僕の錯覚はいつか僕の家に対する郷愁に近いものを呼び起していた。
僕は九時にでもなり次第、ある雑誌社へ電話をかけ、とにかく金の都合をつけたうえで、僕の家へ帰る決心をした。
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僕は九時にでもなり次第、或雑誌社へ電話をかけ、とにかく金の都合をした上、僕の家へ帰る決心をした。
机の上に置いた鞄の中へ本や原稿を押しこみながら。
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机の上に置いた鞄の中へ本や原稿を押しこみながら。
六 飛行機
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六 飛行機
僕は東海道線のある停車場から、その奥にある避暑地へ自動車を飛ばした。
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僕は東海道線の或停車場からその奥の或避暑地へ自動車を飛ばした。
運転手はなぜかこの寒さに古いレインコートをひっかけていた。
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運転手はなぜかこの寒さに古いレエン・コオトをひっかけていた。
僕はこの符合を不気味に思い、努めて彼を見ないように窓の外へ目をやることにした。
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僕はこの暗合を無気味に思い、努めて彼を見ないように窓の外へ目をやることにした。
すると低い松の生えた向こうに、――おそらくは古い街道に、葬式の列が一つ通って行くのを見つけた。
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すると低い松の生えた向うに、――恐らくは古い街道に葬式が一列通るのをみつけた。
白張りの提灯や竜灯は、その中に加わってはいないらしかった。
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白張りの提灯や竜燈はその中に加わってはいないらしかった。
が、金銀の造花の蓮は静かに輿の前後で揺れて行った。……
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が、金銀の造花の蓮は静かに輿の前後に揺いで行った。……
やっと僕の家へ帰った後、僕は妻子や催眠薬の力で、二、三日はかなり平和に暮らした。
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やっと僕の家へ帰った後、僕は妻子や催眠薬の力により、二三日は可也平和に暮らした。
僕の二階は松林の上にかすかに海をのぞかせていた。
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僕の二階は松林の上にかすかに海を覗かせていた。
僕はこの二階の机に向かい、鳩の声を聞きながら、午前だけ仕事をすることにした。
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僕はこの二階の机に向かい、鳩の声を聞きながら、午前だけ仕事をすることにした。
鳥は鳩や烏のほかに、雀も縁側へ舞いこんだりした。
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鳥は鳩や鴉の外に雀も縁側へ舞いこんだりした。
それもまた僕には愉快だった。
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それもまた僕には愉快だった。
「喜雀堂に入る」
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「喜雀堂に入る」
――僕はペンを持ったまま、そのたびにこんな言葉を思い出した。
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――僕はペンを持ったまま、その度にこんな言葉を思い出した。
ある生暖かい曇天の午後、僕はある雑貨店へインクを買いに出かけて行った。
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或生暖かい曇天の午後、僕は或雑貨店へインクを買いに出かけて行った。
するとその店に並んでいるのはセピア色のインクばかりだった。
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するとその店に並んでいるのはセピア色のインクばかりだった。
セピア色のインクは、どのインクよりも僕を不快にするのが常だった。
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セピア色のインクはどのインクよりも僕を不快にするのを常としていた。
僕はやむを得ずこの店を出て、人通りの少ない通りをぶらぶらと一人で歩いて行った。
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僕はやむを得ずこの店を出、人通りの少ない往来をぶらぶらひとり歩いて行った。
そこへ向こうから、近眼らしい四十前後の外国人が一人、肩をそびやかして通りかかった。
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そこへ向うから近眼らしい四十前後の外国人が一人肩を聳かせて通りかかった。
彼はここに住んでいる被害妄想狂のスウェーデン人だった。
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彼はここに住んでいる被害妄想狂の瑞典人だった。
しかも彼の名はストリンドベリだった。
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しかも彼の名はストリントベルグだった。
僕は彼とすれ違うとき、肉体的に何かこたえるものを感じた。
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僕は彼とすれ違う時、肉体的に何かこたえるのを感じた。
この通りはわずか二、三町だった。
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この往来は僅かに二三町だった。
が、その二、三町を通るうちに、ちょうど半面だけ黒い犬が四度も僕のそばを通って行った。
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が、その二三町を通るうちに丁度半面だけ黒い犬は四度も僕の側を通って行った。
僕は横町を曲がりながら、ブラック・アンド・ホワイトのウイスキーを思い出した。
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僕は横町を曲りながら、ブラック・アンド・ホワイトのウイスキイを思い出した。
そればかりか、今のストリンドベリのネクタイも黒と白だったのを思い出した。
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のみならず今のストリントベルグのタイも黒と白だったのを思い出した。
それは僕にはどうしても偶然だとは考えられなかった。
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それは僕にはどうしても偶然であるとは考えられなかった。
もし偶然でないとすれば、――僕は頭だけが歩いているように感じ、ちょっと通りに立ちどまった。
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若し偶然でないとすれば、――僕は頭だけ歩いているように感じ、ちょっと往来に立ち止まった。
道ばたには針金の柵の中に、かすかに虹の色を帯びたガラスの鉢が一つ捨ててあった。
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道ばたには針金の柵の中にかすかに虹の色を帯びた硝子の鉢が一つ捨ててあった。
この鉢はまた、底のまわりに翼らしい模様を浮き上がらせていた。
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この鉢は又底のまわりに翼らしい模様を浮き上らせていた。
そこへ松の梢から雀が何羽も舞い下りて来た。
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そこへ松の梢から雀が何羽も舞い下って来た。
が、この鉢のあたりへ来ると、どの雀も申し合わせたように一度に空中へ逃げ上がって行った。……
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が、この鉢のあたりへ来ると、どの雀も皆言い合わせたように一度に空中へ逃げのぼって行った。……
僕は妻の実家へ行き、庭先の籐椅子に腰をおろした。
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僕は妻の実家へ行き、庭先の籐椅子に腰をおろした。
庭の隅の金網の中には、白いレグホン種の鶏が何羽も静かに歩いていた。
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庭の隅の金網の中には白いレグホン種の鶏が何羽も静かに歩いていた。
それからまた僕の足もとには、黒犬も一匹横になっていた。
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それから又僕の足もとには黒犬も一匹横になっていた。
僕は誰にもわからない疑問を解こうとあせりながら、とにかく外見だけは冷ややかに、妻の母や弟と世間話をした。
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僕は誰にもわからない疑問を解こうとあせりながら、とにかく外見だけは冷やかに妻の母や弟と世間話をした。
「静かですね、ここへ来ると」
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「静かですね、ここへ来ると」
「それはまだ東京よりもね」
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「それはまだ東京よりもね」
「ここでもうるさいことはあるのですか?」
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「ここでもうるさいことはあるのですか?」
「だってここも世の中ですもの」
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「だってここも世の中ですもの」
妻の母はこう言って笑っていた。
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妻の母はこう言って笑っていた。
実際この避暑地もまた「世の中」
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実際この避暑地もまた「世の中」
であるのに違いなかった。
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であるのに違いなかった。
僕はわずか一年ばかりの間に、どれほどここでも罪悪や悲劇が行われているかを知り尽くしていた。
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僕は僅かに一年ばかりの間にどのくらいここにも罪悪や悲劇の行われているかを知り悉していた。
じわじわと患者を毒殺しようとした医者、養子夫婦の家に放火した老婆、妹の資産を奪おうとした弁護士、――そういう人々の家を見ることは、僕にはいつも人生の中に地獄を見ることと変わらなかった。
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徐ろに患者を毒殺しようとした医者、養子夫婦の家に放火した老婆、妹の資産を奪おうとした弁護士、――それ等の人々の家を見ることは僕にはいつも人生の中に地獄を見ることに異らなかった。
「この町には気の狂った人が一人いますね」
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「この町には気違いが一人いますね」
「Hちゃんでしょう。あれは気が狂っているんじゃないのですよ。馬鹿になってしまったのですよ」
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「Hちゃんでしょう。あれは気違いじゃないのですよ。莫迦になってしまったのですよ」
「早発性痴呆というやつですね。僕はあいつを見るたびに気味が悪くてたまりません。あいつはこの間も、どういうつもりか、馬頭観世音の前でお辞儀をしていました」
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「早発性痴呆と云うやつですね。僕はあいつを見る度に気味が悪くってたまりません。あいつはこの間もどう云う量見か、馬頭観世音の前にお時宜をしていました」
「気味が悪くなるなんて、……もっと強くならなければだめですよ」
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「気味が悪くなるなんて、……もっと強くならなければ駄目ですよ」
「兄さんは僕などよりも強いのだけれど、――」
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「兄さんは僕などよりも強いのだけれども、――」
無精髭を伸ばした妻の弟も、寝床の上に起き直ったまま、いつものとおり遠慮がちに僕たちの話に加わり出した。
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無精髭を伸ばした妻の弟も寝床の上に起き直ったまま、いつもの通り遠慮勝ちに僕等の話に加わり出した。
「強い中に弱いところもあるから。……」
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「強い中に弱いところもあるから。……」
「おやおや、それは困りましたね」
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「おやおや、それは困りましたね」
僕はこう言った妻の母を見て、苦笑しないわけにはいかなかった。
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僕はこう言った妻の母を見、苦笑しない訣には行かなかった。
すると弟も微笑しながら、遠い垣の外の松林を眺め、何かうっとりと話し続けた。
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すると弟も微笑しながら、遠い垣の外の松林を眺め、何かうっとりと話しつづけた。
(この若い病み上がりの弟は、ときどき僕には肉体を脱した精神そのもののように見えるのだった)
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(この若い病後の弟は時々僕には肉体を脱した精神そのもののように見えるのだった)
「妙に人間離れをしているかと思えば、人間的な欲望もずいぶん激しいし、……」
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「妙に人間離れをしているかと思えば、人間的欲望もずいぶん烈しいし、……」
「善人かと思えば、悪人でもあるしね」
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「善人かと思えば、悪人でもあるしさ」
「いや、善悪というよりも、何かもっと反対なものが、……」
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「いや、善悪と云うよりも何かもっと反対なものが、……」
「じゃあ大人の中に子供もあるのだろう」
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「じゃ大人の中に子供もあるのだろう」
「そうでもない。僕にははっきりと言えないけれど、……電気の両極に似ているのかな。何しろ反対なものを一緒に持っている」
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「そうでもない。僕にははっきりと言えないけれど、……電気の両極に似ているのかな。何しろ反対なものを一しょに持っている」
そこへ僕たちを驚かせたのは、激しい飛行機の響きだった。
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そこへ僕等を驚かしたのは烈しい飛行機の響きだった。
僕は思わず空を見上げ、松の梢に触れんばかりに舞い上がった飛行機を見つけた。
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僕は思わず空を見上げ、松の梢に触れないばかりに舞い上った飛行機を発見した。
それは翼を黄色に塗った、
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それは翼を黄いろに塗った。
珍しい単葉の飛行機だった。
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珍らしい単葉の飛行機だった。
鶏や犬はこの響きに驚き、それぞれ八方へ逃げまわった。
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鶏や犬はこの響きに驚き、それぞれ八方へ逃げまわった。
ことに犬は吠え立てながら、尻尾を巻いて縁の下へ入ってしまった。
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殊に犬は吠え立てながら、尾を捲いて縁の下へはいってしまった。
「あの飛行機は落ちはしないか?」
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「あの飛行機は落ちはしないか?」
「大丈夫。……兄さんは飛行機病という病気を知っている?」
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「大丈夫。……兄さんは飛行機病と云う病気を知っている?」
僕は巻煙草に火をつけながら、「いや」
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僕は巻煙草に火をつけながら、「いや」
と言う代わりに首を振った。
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と云う代りに頭を振った。
「ああいう飛行機に乗っている人は、高い空の空気ばかり吸っているものだから、だんだんこの地面の上の空気に耐えられなくなってしまうんだって。……」
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「ああ云う飛行機に乗っている人は高空の空気ばかり吸っているものだから、だんだんこの地面の上の空気に堪えられないようになってしまうのだって。……」
妻の母の家を後にしてから、僕は枝一つ動かさない松林の中を歩きながら、じりじりと憂鬱になって行った。
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妻の母の家を後ろにした後、僕は枝一つ動かさない松林の中を歩きながら、じりじり憂鬱になって行った。
なぜあの飛行機はほかへ行かずに、僕の頭の上を通ったのだろう?
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なぜあの飛行機はほかへ行かずに僕の頭の上を通ったのであろう?
なぜまた、あのホテルは巻煙草のエア・シップばかり売っていたのだろう?
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なぜ又あのホテルは巻煙草のエエア・シップばかり売っていたのであろう?
僕はいろいろの疑問に苦しみ、人気のない道を選んで歩いて行った。
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僕はいろいろの疑問に苦しみ、人気のない道を選って歩いて行った。
海は低い砂山の向こうに、一面に灰色に曇っていた。
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海は低い砂山の向うに一面に灰色に曇っていた。
そのまた砂山には、ブランコのないブランコ台が一つ突っ立っていた。
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その又砂山にはブランコのないブランコ台が一つ突っ立っていた。
僕はこのブランコ台を眺め、たちまち絞首台を思い出した。
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僕はこのブランコ台を眺め、忽ち絞首台を思い出した。
実際またブランコ台の上には烏が二、三羽とまっていた。烏はどれも僕を見ても、飛び立つ気配さえ見せなかった。
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実際又ブランコ台の上には鴉が二三羽とまっていた、鴉は皆僕を見ても、飛び立つ気色さえ示さなかった。
そればかりか、まん中にとまっていた烏は大きい嘴を空へ上げながら、確かに四度声を出した。
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のみならずまん中にとまっていた鴉は大きい嘴を空へ挙げながら、確かに四たび声を出した。
僕は芝の枯れた砂土手に沿って、別荘の多い小道を曲がることにした。
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僕は芝の枯れた砂土手に沿い、別荘の多い小みちを曲ることにした。
この小道の右側には、やはり高い松の中に二階のある木造の西洋家屋が一軒、白々と立っているはずだった。
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この小みちの右側にはやはり高い松の中に二階のある木造の西洋家屋が一軒白じらと立っている筈だった。
(僕の親友はこの家のことを「春のいる家」
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(僕の親友はこの家のことを「春のいる家」
と呼んでいた)が、この家の前へ通りかかると、そこにはコンクリートの土台の上にバスタブが一つあるだけだった。
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と称していた)が、この家の前へ通りかかると、そこにはコンクリイトの土台の上にバス・タッブが一つあるだけだった。
火事――僕はすぐにこう考え、そちらを見ないように歩いて行った。
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火事――僕はすぐにこう考え、そちらを見ないように歩いて行った。
すると自転車に乗った男が一人、まっすぐに向こうから近づいて来た。
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すると自転車に乗った男が一人まっすぐに向うから近づき出した。
彼は焦茶色のハンチング帽をかぶり、妙にじっと目を据えたまま、ハンドルの上へ身をかがめていた。
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彼は焦茶いろの鳥打ち帽をかぶり、妙にじっと目を据えたまま、ハンドルの上へ身をかがめていた。
僕はふと彼の顔に姉の夫の顔を感じ、彼の目の前へ来ないうちに横の小道へ入ることにした。
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僕はふと彼の顔に姉の夫の顔を感じ、彼の目の前へ来ないうちに横の小みちへはいることにした。
しかしこの小道のまん中にも、腐ったもぐらの死骸が一つ、腹を上にして転がっていた。
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しかしこの小みちのまん中にも腐った鼹鼠の死骸が一つ腹を上にして転がっていた。
何ものかが僕を狙っていることが、一足ごとに僕を不安にし出した。
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何ものかの僕を狙っていることは一足毎に僕を不安にし出した。
そこへ半透明な歯車も一つずつ、僕の視野をさえぎり出した。
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そこへ半透明な歯車も一つずつ僕の視野を遮り出した。
僕はいよいよ最後の時が近づいたことを恐れながら、首筋をまっすぐにして歩いて行った。
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僕は愈最後の時の近づいたことを恐れながら、頸すじをまっ直にして歩いて行った。
歯車は数が増えるにつれ、だんだん速くまわりはじめた。
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歯車は数の殖えるのにつれ、だんだん急にまわりはじめた。
同時にまた、右の松林はひっそりと枝を交わしたまま、ちょうど細かい切子ガラスを透かして見るように見えはじめた。
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同時に又右の松林はひっそりと枝をかわしたまま、丁度細かい切子硝子を透かして見るようになりはじめた。
僕は動悸が高まるのを感じ、何度も道ばたに立ちどまろうとした。
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僕は動悸の高まるのを感じ、何度も道ばたに立ち止まろうとした。
けれども誰かに押されるように、立ちどまることさえ容易ではなかった。……
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けれども誰かに押されるように立ち止まることさえ容易ではなかった。……
三十分ばかりたった後、僕は僕の二階で仰向けになり、じっと目をつぶったまま、激しい頭痛をこらえていた。
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三十分ばかりたった後、僕は僕の二階に仰向けになり、じっと目をつぶったまま、烈しい頭痛をこらえていた。
すると僕のまぶたの裏に、銀色の羽根を鱗のようにたたんだ翼が一つ見えはじめた。
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すると僕の眶の裏に銀色の羽根を鱗のように畳んだ翼が一つ見えはじめた。
それは実際、網膜の上にはっきりと映っているものだった。
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それは実際網膜の上にはっきりと映っているものだった。
僕は目を開けて天井を見上げ、もちろん天井にはそんなものが何もないことを確かめたうえ、もう一度目をつぶることにした。
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僕は目をあいて天井を見上げ、勿論何も天井にはそんなもののないことを確めた上、もう一度目をつぶることにした。
しかしやはり銀色の翼は、ちゃんと暗い中に映っていた。
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しかしやはり銀色の翼はちゃんと暗い中に映っていた。
僕はふと、この間乗った自動車のラジエーター・キャップにも翼がついていたことを思い出した。……
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僕はふとこの間乗った自動車のラディエエタア・キャップにも翼のついていたことを思い出した。……
そこへ誰かが階段をあわただしく上がって来たかと思うと、すぐにまたばたばたと駆け下りて行った。
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そこへ誰か梯子段を慌しく昇って来たかと思うと、すぐに又ばたばた駈け下りて行った。
僕はその誰かが妻だったことに気づき、驚いて体を起こすが早いか、ちょうど階段の前にある薄暗い茶の間へ顔を出した。
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僕はその誰かの妻だったことを知り、驚いて体を起すが早いか、丁度梯子段の前にある、薄暗い茶の間へ顔を出した。
すると妻は突っ伏したまま、息切れをこらえていると見え、絶えず肩を震わせていた。
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すると妻は突っ伏したまま、息切れをこらえていると見え、絶えず肩を震わしていた。
「どうした?」
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「どうした?」
「いえ、どうもしないのです。……」
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「いえ、どうもしないのです。……」
妻はやっと顔を上げ、無理に微笑して話し続けた。
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妻はやっと顔を擡げ、無理に微笑して話しつづけた。
「どうかしたわけではないのですけれどね、ただ何だかお父さんが死んでしまいそうな気がしたものですから。……」
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「どうもした訣ではないのですけれどもね、唯何だかお父さんが死んでしまいそうな気がしたものですから。……」
それは僕の一生の中でも最も恐ろしい経験だった。――
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それは僕の一生の中でも最も恐しい経験だった。――
僕はもうこの先を書き続ける力を持っていない。
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僕はもうこの先を書きつづける力を持っていない。
こういう気持ちの中に生きているのは、何とも言えない苦痛である。
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こう云う気もちの中に生きているのは何とも言われない苦痛である。
誰か僕の眠っているうちに、そっと絞め殺してくれるものはないか?
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誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?