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白痴 小学生向け

坂口安吾さかぐちあんご)・1990

AI生成この訳はAI(claude-sonnet-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-28

その家には人間とブタとイヌとニワトリとアヒルが住んでいたが、住む建物も、それぞれの食べ物も、人間と動物でほとんど変わらなかった。

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その家には人間と豚と犬と鶏と家鴨あひるが住んでいたが、まったく、住む建物も各々の食物もほとんど変っていやしない。

物置のようにゆがんだ建物があった。一階には家の主人夫婦が住み、屋根裏には母と娘が部屋を借りて住んでいた。この娘は、相手が誰だか分からない子どもをお腹に宿していた。

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物置のようなひん曲った建物があって、階下には主人夫婦、天井裏には母と娘が間借りしていて、この娘は相手の分らぬ子供をはらんでいる。

伊沢が借りている一部屋は、母屋(おもや・家の中心となる建物)から離れた小屋だった。昔はこの家の、肺病(はいびょう・肺の病気)にかかった息子が寝ていた場所だそうだが、肺病のブタが住むとしても、ぜいたくとは言えないほどの小屋だった。

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伊沢の借りている一室は母屋から分離した小屋で、ここは昔この家の肺病の息子がねていたそうだが、肺病の豚にも贅沢すぎる小屋ではない。

それでも押入れとトイレと戸棚だけはついていた。

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それでも押入と便所と戸棚がついていた。

主人夫婦は仕立屋(したてや・服を仕立てる仕事の人)で、町内のお裁縫(さいほう)の先生もしていた(そのため肺病の息子は別の小屋に入れていたのだ)。また、町会(ちょうかい・戦時中、住民をまとめていた町内の組織)の役員もつとめていた。

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主人夫婦は仕立屋で町内のお針の先生などもやり(それ故肺病の息子を別の小屋へ入れたのだ)町会の役員などもやっている。

間借りしているこの娘は、もとは町会の事務員だった。町会の事務所に寝泊まりしていて、町会長と仕立屋をのぞく、ほかの役員全員(十数人)と、みな平等に男女の関係を持っていたそうで、そのうちの誰かの子どもを身ごもったというわけだ。

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間借りの娘は元来町会の事務員だったが、町会事務所に寝泊りしていて町会長と仕立屋を除いた他の役員の全部の者(十数人)と公平に関係を結んだそうで、そのうちの誰かの種を宿したわけだ。

そこで町会の役員たちがお金を出し合って(醵金・きょきん)、この屋根裏で子どもの始末をつけさせようとした。けれど世の中はうまくできているもので、役員の一人に豆腐屋がいて、この男だけは娘が妊娠してこの屋根裏にひそんでからも通いつづけ、結局娘はこの男のめかけ(正式な妻ではないが、養われて一緒に暮らす女性)のようになってしまった。

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そこで町会の役員共が醵金きょきんしてこの屋根裏で子供の始末をつけさせようというのだが、世間は無駄がないもので、役員の一人に豆腐屋がいて、この男だけ娘が姙娠してこの屋根裏にひそんだ後も通ってきて、結局娘はこの男の妾のようにきまってしまった。

ほかの役員たちはこれを知るとすぐにお金を出すのをやめてしまった。そしてこの境目の一か月分の生活費は豆腐屋が負担すべきだと言い出し、支払いに応じない八百屋と時計屋と地主と、ほかになんとか屋、あわせて七、八人(一人あたり五円)がいた。娘は今になっても、くやしくて地団駄(じだんだ・くやしくて足を踏み鳴らすこと)を踏んでいる。

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他の役員共はこれが分るとさっそく醵金をやめてしまい、この分れ目の一ヶ月分の生活費は豆腐屋が負担すべきだと主張して、支払いに応じない八百屋と時計屋と地主と何屋だか七八人あり(一人当り金五円)娘は今に至るまで地団駄じだんだふんでいる。

この娘は大きな口と大きな二つの目玉をしていて、そのくせひどく痩せこけていた。

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この娘は大きな口と大きな二つの眼の玉をつけていて、そのくせひどくせこけていた。

アヒルを嫌って、ニワトリにだけ食べ残りをやろうとするのだが、アヒルが横からうばっていくので、毎日腹を立ててアヒルを追いかけていた。

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家鴨を嫌って、鶏にだけ食物の残りをやろうとするのだが、家鴨が横からまきあげるので、毎日腹を立てて家鴨を追っかけている。

大きなお腹とお尻を前後につきだして、妙にまっすぐ立った格好で走るところが、アヒルに似ているのだった。

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大きな腹と尻を前後に突きだして奇妙な直立の姿勢で走る恰好かっこうが家鴨に似ているのであった。

この路地の出口にたばこ屋があって、五十五歳のおばあさんがおしろいをつけて住んでいた。七人目とか八人目とかの愛人を追い出して、その代わりを中年のお坊さんにしようか、それとも中年のなんとか屋にしようか悩んでいる最中だという話だった。若い男が裏口からたばこを買いに行くと、いくつか売ってくれるそうで(ただし闇値・やみね=法律で決められた値段より高い、こっそり売り買いされる値段)、先生(伊沢のこと)も裏口から行ってごらんなさいと仕立屋が言うのだが、あいにく伊沢は勤め先で特配(とくはい・特別に多く配給されること)があったので、おばあさんの世話にならずにすんでいた。

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この路地の出口に煙草屋があって、五十五という婆さんが白粉おしろいつけて住んでおり、七人目とか八人目とかの情夫を追いだして、その代りを中年の坊主にしようか矢張り中年の何屋だかにしようかと煩悶中の由であり、若い男が裏口から煙草を買いに行くと幾つか売ってくれる由で(但し闇値)先生(伊沢のこと)も裏口から行ってごらんなさいと仕立屋が言うのだが、あいにく伊沢は勤め先で特配があるので婆さんの世話にならずにすんでいた。

ところが、その筋向かいにある米の配給所(はいきゅうじょ・戦争中、決められた分だけ米などを人々に分けて渡す場所)の裏手に、少しお金を持った未亡人(みぼうじん・夫を亡くした女性)が住んでいた。兄(工場で働く職工)と妹という二人の子どもがいたが、この本当のきょうだいどうしが、夫婦のような関係を持っていた。

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ところがその筋向いの米の配給所の裏手に小金を握った未亡人が住んでいて、兄(職工)と妹と二人の子供があるのだが、この真実の兄妹が夫婦の関係を結んでいる。

けれども未亡人は、結局その方が生活費が安くすむと見て見ぬふりをしているうちに、兄の方に別の女ができた。

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けれども未亡人は結局その方が安上りだと黙認しているうちに、兄の方に女ができた。

そこで妹の方をかたづける必要が出てきて、親戚にあたる五十歳とか六十歳とかの老人のところへ嫁に行くことになり、妹は猫イラズ(当時のネズミ駆除剤の名前で、毒がある薬)を飲んだ。

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そこで妹の方をかたづける必要があって親戚に当る五十とか六十とかの老人のところへ嫁入りということになり、妹が猫イラズを飲んだ。

飲んでおいて、仕立屋(伊沢の下宿先)へお稽古に来て苦しみはじめ、結局死んでしまった。そのとき町内の医者が心臓麻痺(しんぞうまひ・心臓の働きが急に止まる病気)だという診断書をくれて、話はそのまま消えてしまった。

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飲んでおいて仕立屋(伊沢の下宿)へお稽古にきて苦しみはじめ、結局死んでしまったが、そのとき町内の医者が心臓麻痺の診断書をくれて話はそのまま消えてしまった。

え?

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え?

どの医者がそんな都合のいい診断書をくれるんですか、と伊沢がびっくりして尋ねると、仕立屋の方があっけにとられた顔で、「なんですか、よそでは、そうじゃないんですか」と聞いた。

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 どの医者がそんな便利な診断書をくれるんですか、と伊沢が仰天して訊ねると、仕立屋の方が呆気あっけにとられた面持で、なんですか、よそじゃ、そうじゃないんですか、と訊いた。

このあたりには安アパートがたくさん立ち並んでいて、それらの部屋のいくつかには、めかけと淫売(いんばい・お金のために体を売る女性)が住んでいた。

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このへんは安アパートが林立し、それらの部屋の何分の一かは妾と淫売が住んでいる。

それらの女性たちには子どもがなく、また、それぞれ自分の部屋をきれいにするという共通の性質を持っていた。そのため管理人に喜ばれて、その私生活の乱れやふしだらさが問題になったことは一度もなかった。

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それらの女達には子供がなく、又、各々の部屋を綺麗にするという共通の性質をもっているので、そのために管理人に喜ばれて、その私生活の乱脈さ背徳性などは問題になったことが一度もない。

アパートの半数以上は軍需工場(ぐんじゅこうじょう・戦争のための道具や武器を作る工場)の寮になっていて、そこには女子挺身隊(じょしていしんたい・戦争中、工場などで働くよう集められた若い女性たちの組織)の集団も住んでいた。何課の誰さんの愛人だとか、課長殿の戦時夫人(つまり、本物の夫人は疎開(そかい・空襲をさけるため都会から田舎へ移り住むこと)中だということだ)だとか、重役の二号(にごう・愛人という意味の当時の言い方)だとか、会社を休んで給料だけもらっている妊娠中の挺身隊員だとかがいたのである。

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アパートの半数以上は軍需工場の寮となり、そこにも女子挺身隊ていしんたいの集団が住んでいて、何課の誰さんの愛人だの課長殿の戦時夫人(というのはつまり本物の夫人は疎開中ということだ)だの重役の二号だの会社を休んで月給だけ貰っている姙娠中の挺身隊だのがいるのである。

その中に、一人五百円のめかけというのが一軒家をかまえていて、みんなのうらやましがるまとになっていた。

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中に一人五百円の妾というのが一戸を構えていて羨望の的であった。

人殺しを仕事にしていたという満洲浪人(まんしゅうろうにん・満洲=当時日本が支配していた中国東北部の地域=からやってきた、素性のはっきりしない男。この男の妹は仕立屋の弟子だった)の隣は、指圧(しあつ)の先生の家だった。そのまた隣は、昔有名だったスリの名人・仕立屋銀次(したてやぎんじ)の流れをくむ、スリの達人だという話だった。そのうしろには海軍少尉(かいぐんしょうい・海軍の階級のひとつ)が住んでいて、毎日魚を食べ、コーヒーを飲み、缶詰を開け、酒を飲んでいた。このあたりは一尺(いっしゃく・約三十センチメートル)掘るとすぐ水が出るので、防空壕(ぼうくうごう・空襲からのがれるための穴)は作りようがないはずなのに、少尉だけはセメントを使って、自分の家よりも立派な防空壕を持っていた。

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人殺しが商売だったという満洲浪人(この妹は仕立屋の弟子)の隣は指圧の先生で、その隣は仕立屋銀次の流れをくむその道の達人だということであり、その裏に海軍少尉がいるのだが、毎日魚を食い珈琲コーヒーをのみ缶詰をあけ酒を飲み、このあたりは一尺掘ると水がでるので、防空壕の作りようもないというのに、少尉だけはセメントを用いて自宅よりも立派な防空壕をもっていた。

また、伊沢が通勤で通る道筋にある百貨店(木造二階建て)は、戦争で商品がなくなり休業中だったが、二階では毎日賭場(とば・かけごとをする場所)が開かれていた。そのボスは、いくつもの国民酒場(こくみんさかば・戦争中、お酒を配給で売っていた店)を占領して、行列をつくる人々をにらみつけながら、毎日酔いつぶれていた。

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又、伊沢が通勤に通る道筋の百貨店(木造二階建)は戦争で商品がなく休業中だが、二階では連日賭場が開帳されており、その顔役は幾つかの国民酒場を占領して行列の人民共をにらみつけて連日泥酔していた。

伊沢は大学を卒業すると新聞記者になり、続いて文化映画(ぶんかえいが・当時の記録映画)の演出家(まだ見習いで、一人で演出をしたことはない)になった男だった。二十七歳という年齢のわりには、裏側の人生についていくらか知識があるはずで、政治家、軍人、実業家、芸人などの内幕にも多少通じていた。しかし、場末(ばすえ・町のはずれ)の小さな工場とアパートに囲まれた商店街の暮らしが、こんなものだとは想像もしていなかった。

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伊沢は大学を卒業すると新聞記者になり、つづいて文化映画の演出家(まだ見習いで単独演出したことはない)になった男で、二十七の年齢にくらべれば裏側の人生にいくらか知識はあるはずで、政治家、軍人、実業家、芸人などの内幕に多少の消息は心得ていたが、場末の小工場とアパートにとりかこまれた商店街の生態がこんなものだとは想像もしていなかった。

戦争のせいで人の心が荒(すさ)んだのだろうかと聞いてみると、「いえ、なんですよ、このあたりじゃ、前からこんなものでしたねえ」と、仕立屋は哲学者のような顔で静かに答えるのだった。

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戦争以来人心がすさんだせいだろうと訊いてみると、いえ、なんですよ、このへんじゃ、先からこんなものでしたねえ、と仕立屋は哲学者のような面持で静かに答えるのであった。

けれども、いちばんの人物は伊沢の隣人だった。

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けれども最大の人物は伊沢の隣人であった。

この隣人は気違いだった。

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この隣人は気違いだった。

相当の財産があり、わざわざ路地のいちばん奥を選んで家を建てたのも、この気違いなりの用心深さで、泥棒やよけいな人間の侵入をひどく嫌った結果だろうと思われる。

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相当の資産があり、わざわざ路地のどん底を選んで家を建てたのも気違いの心づかいで、泥棒乃至ないし無用の者の侵入を極度に嫌った結果だろうと思われる。

というのも、路地の奥までたどり着いてこの家の門をくぐり、見まわしても、戸口というものがないからだ。見渡す限り、格子のはまった窓ばかりで、この家の玄関は門とは正反対の裏側にあり、つまり、ぐるりと一周建物のまわりを歩かないと、たどり着くことができないのだった。

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なぜなら、路地のどん底に辿たどりつきこの家の門をくぐって見廻すけれども戸口というものがないからで、見渡す限り格子のはまった窓ばかり、この家の玄関は門と正反対の裏側にあって、要するにいっぺんグルリと建物を廻った上でないと辿りつくことができない。

よけいな侵入者はあきらめて引き返す仕組みであり、あるいは玄関を探してうろついているうちに、何者かが入り込もうとしていると見破られて、警戒態勢に入られる仕組みでもあった。隣人は、この世の俗っぽい人間たちを好んでいないのだ。

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無用の侵入者はさじを投げて引下る仕組であり、乃至は玄関を探してうろつくうちに何者かの侵入を見破って警戒管制に入るという仕組でもあって、隣人は浮世の俗物どもを好んでいないのだ。

この家は部屋数の多い二階建てだったが、内部の仕組みについては、物知りの仕立屋も多くを知らなかった。

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この家は相当間数のある二階建であったが、内部の仕掛に就いては物知りの仕立屋も多く知らなかった。

気違いは三十歳前後で、母親がおり、二十五、六歳の妻がいた。

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気違いは三十前後で、母親があり、二十五六の女房があった。

母親だけは正気の人間の部類に入るという話だったが、ひどいヒステリーで、配給に不満があると裸足で町会事務所に乗り込んでいく、町内でただ一人の女傑だった。気違いの妻は白痴(はくち・当時、知的しょうがいのある人を指した言葉)だった。

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母親だけは正気の人間の部類に属している筈だという話であったが、強度のヒステリイで、配給に不服があると跣足はだしで町会へ乗込んでくる町内唯一の女傑であり、気違いの女房は白痴であった。

ある幸せの多かった年のこと、気違いは思い立って白い巡礼の服(白装束)に身を包み、四国遍路(しこくへんろ・四国にある八十八か所のお寺をめぐる旅)に出かけたが、そのとき四国のどこかで白痴の女と気が合い、遍路のみやげとして妻を連れて帰ってきた。

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ある幸多き年のこと、気違いが発心ほっしんして白装束に身をかため四国遍路に旅立ったが、そのとき四国のどこかしらで白痴の女と意気投合し、遍路みやげに女房をつれて戻ってきた。

気違いは見た目の立派な美男子で、白痴の妻もまた、それにふさわしい家柄の、それにふさわしい娘のような品の良さで、目が細くうっとりとした、瓜実顔(うりざねがお・卵のように細長い顔立ち)の、古風な人形か能面のような美しい顔立ちをしていた。二人並べて眺めただけでは、美男美女、それも相当教養の深そうな似合いの夫婦としか見えなかった。

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気違いは風采堂々たる好男子であり、白痴の女房はこれもしかるべき家柄の然るべき娘のような品の良さで、眼の細々とうっとうしい、瓜実顔うりざねがおの古風の人形か能面のような美しい顔立ちで、二人並べて眺めただけでは、美男美女、それも相当教養深遠な好一対としか見受けられない。

気違いは度の強い近眼鏡をかけ、いつも大量の読書に疲れたような、もの思わしげな顔をしていた。

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気違いは度の強い近眼鏡をかけ、常に万巻の読書に疲れたような憂わしげな顔をしていた。

ある日、この路地で防空演習(ぼうくうえんしゅう・空襲に備えた訓練)があって、おかみさんたちが活躍していると、着物にげたばき姿でゲラゲラ笑いながら見物していたのがこの男だった。そのうち急に防空服装に着替えて現れたかと思うと、一人のバケツをひったくって、「エイ」とか「ヤー」とか「ホーホー」とか、いろいろな奇妙なかけ声をかけながら水をくみ水を投げ、はしごをかけて塀にのぼり、屋根の上から号令をかけ、やがて長い演説(訓示)を始めた。

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ある日この路地で防空演習があってオカミさん達が活躍していると、着流し姿でゲタゲタ笑いながら見物していたのがこの男で、そのうちにわかに防空服装に着かえて現れて一人のバケツをひったくったかと思うと、エイとか、ヤーとか、ホーホーという数種類の奇妙な声をかけて水を汲み水を投げ、梯子はしごをかけて塀に登り、屋根の上から号令をかけ、やがて一場の演説(訓辞)を始めた。

伊沢はこのときになって初めて、この男が気違いだと気づいた。この隣人は時々垣根から入り込んできて、仕立屋のブタ小屋に残飯のバケツをぶちまけたり、そのついでにアヒルに石をぶつけたり、まったく何食わぬ顔をしてニワトリに餌をやりながら、いきなり蹴とばしたりするのだった。それでも伊沢は相当の人物だと思っていたので、静かに会釈などを交わしていた。

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伊沢はこのときに至って始めて気違いであることに気付いたので、この隣人は時々垣根から侵入してきて仕立屋の豚小屋で残飯のバケツをぶちまけついでに家鴨に石をぶつけ、全然何食わぬ顔をして鶏に餌をやりながら突然蹴とばしたりするのであったが、相当の人物と考えていたので、静かに黙礼などを取交していたのであった。

だが、気違いと普通の人間と、いったいどこが違うというのだろう。

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だが、気違いと常人とどこが違っているというのだ。

違うところがあるとすれば、気違いの方が、実は普通の人間よりも遠慮深いくらいのものだ。気違いは笑いたい時にゲラゲラ笑い、演説したい時に演説をやり、アヒルに石をぶつけたり、二時間くらいブタの顔やお尻をつついていたりする。

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違っているといえば、気違いの方が常人よりも本質的に慎み深いぐらいのもので、気違いは笑いたい時にゲタゲタ笑い、演説したい時に演説をやり、家鴨に石をぶつけたり、二時間ぐらい豚の顔や尻を突ついていたりする。

けれども、この人たちは実は人の目をひどく恐れていて、自分の生活のいちばん大事な部分は、他人から見えないように特別に気を配っている。

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けれども彼等は本質的にはるかに人目を怖れており、私生活の主要な部分は特別細心の注意を払って他人から絶縁しようと腐心している。

門からぐるりと回って玄関をつけたのもそのためで、この一家の暮らしはだいたい物音が少なく、よけいなおしゃべりも少なく、静かに物を考えているような暮らしぶりだった。

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門からグルリと一廻りして玄関をつけたのもそのためであり、彼等の私生活は概して物音がすくなく、他に対して無用なる饒舌じょうぜつに乏しく、思索的なものであった。

路地の片側はアパートで、伊沢の小屋にのしかかるように、一年じゅう水の流れる音とおかみさんたちの下品な声があふれていた。そこには姉妹の淫売が住んでいて、姉にお客がある夜は妹が廊下を歩きつづけ、妹にお客がある時は姉が深夜の廊下を歩いているのだった。

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路地の片側はアパートで伊沢の小屋にのしかかるように年中水の流れる音と女房どもの下品な声があふれており、姉妹の淫売が住んでいて、姉に客のある夜は妹が廊下を歩きつづけており妹に客のある時は姉が深夜の廊下を歩いている。

気違いがゲラゲラ笑うというだけで、人々は自分たちとはまるで別の人種だと思っていた。

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気違いがゲタゲタ笑うというだけで人々は別の人種だと思っていた。

白痴の妻は、とても静かでおとなしかった。

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白痴の女房は特別静かでおとなしかった。

何かびくびくと口の中でつぶやくだけで、その言葉はよく聞き取れず、聞き取れる時でも意味がはっきりしなかった。

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何かおどおどと口の中で言うだけで、その言葉は良くききとれず、言葉のききとれる時でも意味がハッキリしなかった。

料理も、米を炊くことも知らなかった。やらせればできるのかもしれないが、失敗して怒られるとびくびくして、ますます失敗ばかりしてしまう。配給の物を取りに行っても自分では何もできず、ただ立っているだけで、結局みんな近所の人がやってくれるのだった。

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料理も、米を炊くことも知らず、やらせれば出来るかも知れないが、ヘマをやって怒られるとおどおどして益々ヘマをやるばかり、配給物をとりに行っても自身では何もできず、ただ立っているというだけで、みんな近所の者がしてくれるのだ。

気違いの妻なんだから、白痴でも当たり前で、それ以上望んではいけませんよ、と人々は言うのだが、母親はそれが大いに不満で、「女がご飯ぐらい炊けなくてどうする」と怒っていた。

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気違いの女房ですもの白痴でも当然、その上の慾を言ってはいけますまいと人々が言うが、母親は大の不服で、女が御飯ぐらい炊けなくって、と怒っている。

それでも、ふだんはたしなみのある品の良いおばあさんなのだが、なにしろひどいヒステリーで、いったん怒り出すと気違い以上に荒々しくなり、三人の気違いの中でも、このおばあさんの叫び声がずばぬけて騒がしく、病的だった。

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それでも常はたしなみのある品の良い婆さんなのだが、何がさて一方ならぬヒステリイで、狂い出すと気違い以上に獰猛どうもうで三人の気違いのうち婆さんの叫喚きょうかんが頭ぬけて騒がしく病的だった。

白痴の女はすっかりおびえてしまっていて、何事もない穏やかな日々でさえ、いつもびくびくしていた。人の足音にもぎくりとし、伊沢が「やあ」と挨拶すると、かえってぼんやりして立ちすくんでしまうのだった。

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白痴の女はおびえてしまって、何事もない平和な日々ですら常におどおどし、人の跫音あしおとにもギクリとして、伊沢がヤアと挨拶するとかえってボンヤリして立ちすくむのであった。

白痴の女も、時々ブタ小屋へやってきた。

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白痴の女も時々豚小屋へやってきた。

気違いの方は、自分の家のように堂々と入り込んできて、アヒルに石をぶつけたりブタのほっぺたをつついたりしているのだが、白痴の女は音もなく、影のように逃げ込んできて、ブタ小屋のかげに息をひそめているのだった。

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気違いの方は我家の如くに堂々と侵入してきて家鴨に石をぶつけたり豚の頬っぺたを突き廻したりしているのだが、白痴の女は音もなく影の如くに逃げこんできて豚小屋の蔭に息をひそめているのであった。

つまりここは彼女の逃げ場所だった。そういう時にはたいてい、隣の家で「オサヨさん、オサヨさん」と呼ぶおばあさんの、鳥のような叫び声が起こる。そのたびに白痴の体はびくっとすくんだり、かたむいたりして、しかたなく動き出すまでには、虫がいやいや逃げるような、長いためらいがあるのだった。

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いわば此処ここは彼女の待避所で、そういう時には大概隣家でオサヨさんオサヨさんとよぶ婆さんの鳥類的な叫びが起り、そのたびに白痴の身体はすくんだり傾いたり反響を起し、仕方なく動き出すには虫の抵抗の動きのような長い反復があるのであった。

新聞記者だの、文化映画の演出家だのというのは、いやしい仕事の中でも、もっともいやしい仕事だった。

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新聞記者だの文化映画の演出家などは賤業中の賤業であった。

彼らが分かっているのは、その時代の流行ということだけで、動いていく時流に乗り遅れまいとすることだけが生活のすべてだった。自分自身を追い求めることや、個性、独創性といったものは、この世界には存在しなかった。

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彼等の心得ているのは時代の流行ということだけで、動く時間に乗遅れまいとすることだけが生活であり、自我の追求、個性や独創というものはこの世界には存在しない。

彼らの毎日の会話の中には、会社員や役人や学校の先生に比べて、「自我」だの「人間」だの「個性」だの「独創」だのという言葉があふれすぎるほど出てきた。けれどもそれは言葉の上だけのことで、持っているお金を全部はたいて女を口説き、二日酔いの苦しさこそが人間の悩みだ、というくらいの馬鹿馬鹿しいものだった。

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彼等の日常の会話の中には会社員だの官吏だの学校の教師に比べて自我だの人間だの個性だの独創だのという言葉が氾濫はんらんしすぎているのであったが、それは言葉の上だけの存在であり、有金をはたいて女を口説いて宿酔ふつかよいの苦痛が人間の悩みだと云うような馬鹿馬鹿しいものなのだった。

「ああ、日の丸の感激だ」だの、「兵隊さんよ、ありがとう」だの、思わず目がしらが熱くなっただの、「ズドズドズド」は爆撃の音、夢中になって地面に伏せただの、「パンパンパン」は機関銃の音だの——そんな、精神の高さもなければ、ひと言の本当の実感すらもない、うそっぱちの文章に夢中になって映画を作り、それが戦争を表現するということだと思い込んでいるのだった。

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ああ日の丸の感激だの、兵隊さんよ有難う、思わず目頭が熱くなったり、ズドズドズドは爆撃の音、無我夢中で地上に伏し、パンパンパンは機銃の音、およそ精神の高さもなければ一行の実感すらもない架空の文章に憂身をやつし、映画をつくり、戦争の表現とはそういうものだと思いこんでいる。

また、ある者は検閲(けんえつ・政府や軍が、新聞や本の内容を事前にチェックして規制すること)があるから本当のことは書けないのだと言うけれども、では検閲がなければ真実の文章が書けるのかというと、そんな心当たりがあるわけでもない。文章そのものの真実や実感は、検閲などとは本来関係のないものなのだ。

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又ある者は軍部の検閲で書きようがないと言うけれども、他に真実の文章の心当りがあるわけでなく、文章自体の真実や実感は検閲などには関係のない存在だ。

つまり、どんな時代であっても、この連中には中身がなく、からっぽな「自我」があるだけなのだ。

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要するに如何いかなる時代にもこの連中には内容がなく空虚な自我があるだけだ。

流行しだいで右にも左にもどうにでもなり、通俗小説のような表現からお手本を学んで、それが時代を表す表現だと思い込んでいる。

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流行次第で右から左へどうにでもなり、通俗小説の表現などからお手本を学んで時代の表現だと思いこんでいる。

実際、「時代」というものは、それだけの浅はかで愚かなものでもあった。日本二千年の歴史をくつがえすこの戦争と敗北が、はたして人間の真実にどんな関係があったというのだろうか。

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事実時代というものはただそれだけの浅薄愚劣なものでもあり、日本二千年の歴史をくつがえすこの戦争と敗北が果して人間の真実に何の関係があったであろうか。

もっとも反省の足りない意志と、大勢のおろかな人々の見境のない動きだけによって、国ひとつの運命が動かされている。

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最も内省の稀薄な意志と衆愚の妄動だけによって一国の運命が動いている。

部長だの社長だのの前で「個性」だの「独創」だのと言い出すと、顔をそむけて「馬鹿なやつだ」という態度を見せる。「兵隊さんよ、ありがとう」「ああ、日の丸の感激だ」「思わず目がしらが熱くなった」、それでOK。新聞記者とはそれだけのもので、事実、時代そのものがそれだけのものだった。

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部長だの社長の前で個性だの独創だのと言い出すと顔をそむけて馬鹿な奴だという言外の表示を見せて、兵隊さんよ有難う、ああ日の丸の感激、思わず目頭が熱くなり、OK、新聞記者とはそれだけで、事実、時代そのものがそれだけだ。

師団長閣下の訓辞を三分間もかけて長々と書き写す必要がありますか、職工たちが毎朝となえる、お祈りの言葉のような変な歌をいちからじゅうまで書き写す必要があるんですか、と聞いてみると、部長はプイと顔をそむけて舌打ちし、いきなり振り向くと、貴重な品であるたばこをグシャリと灰皿に押しつぶして、こちらをにらみつけながら、「おい、荒れ狂う時代に、美なんぞ何の役に立つ。芸術は無力だ!」

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師団長閣下の訓辞を三分間もかかって長々と写す必要がありますか、職工達の毎朝のノリトのような変テコな唄を一から十まで写す必要があるのですか、と訊いてみると、部長はプイと顔をそむけて舌打ちしてやにわに振向くと貴重品の煙草をグシャリ灰皿へ押しつぶして睨みつけて、おい、怒濤どとうの時代に美が何物だい、芸術は無力だ!

「ニュースだけが真実なんだ!」

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 ニュースだけが真実なんだ!

と、怒鳴るのだった。

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 と呶鳴どなるのであった。

演出家たちは演出家たちで、企画部員は企画部員で、それぞれ仲間を組み、徳川時代のならず者たちのような義理人情の世界をつくりあげ、才能を義理と人情だけで扱い、会社員よりも会社員らしい順番待ちの制度をこしらえていた。

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演出家どもは演出家どもで、企画部員は企画部員で、徒党を組み、徳川時代の長脇差と同じような情誼じょうぎの世界をつくりだし義理人情で才能を処理して、会社員よりも会社員的な順番制度をつくっている。

それによって、めいめいの凡庸さ(平凡でありきたりなこと)を守り合い、芸術における個性や才能で競い合うことを悪いことだと見なし、組合のルール違反だと考えて、助け合いの精神で、才能の乏しさを救い合う組織を完成させていた。

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それによって各自の凡庸ぼんようさを擁護し、芸術の個性と天才による争覇を罪悪視し組合違反と心得て、相互扶助の精神による才能の貧困の救済組織を完備していた。

内側では才能の乏しさを救い合う組織だったが、外に出れば酒を手に入れるための組織になり、この仲間たちは国民酒場を占領して、三、四本ずつビールを飲み、酔っ払いながら芸術を論じているのだった。

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内にあっては才能の貧困の救済組織であるけれども外に出でてはアルコールの獲得組織で、この徒党は国民酒場を占領し三四本ずつビールを飲み酔っ払って芸術を論じている。

彼らの帽子や長髪やネクタイや上着は、いかにも芸術家らしいものだったが、その魂や根性は、会社員よりもよほど会社員らしいものだった。

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彼等の帽子や長髪やネクタイや上着ブルースは芸術家であったが、彼等の魂や根性は会社員よりも会社員的であった。

伊沢は、芸術における独創というものを信じていて、個性の独自性をあきらめることができなかった。だから、義理人情のしくみの中で心安らかにいることができないばかりか、その凡庸さと、低くいやしい魂を憎まずにはいられなかった。

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伊沢は芸術の独創を信じ、個性の独自性をあきらめることができないので、義理人情の制度の中で安息することができないばかりか、その凡庸さと低俗卑劣な魂を憎まずにいられなかった。

彼はその仲間たちからのけ者にされ、挨拶をしても返事すらされず、中にはにらみつけてくる者もいた。

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彼は徒党の除け者となり、挨拶しても返事もされず、中には睨む者もある。

思いきって社長室に乗り込んで、「戦争と、芸術性の乏しさとの間に、理屈のうえで必ずそうなるという関係があるんですか」と尋ねた。

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思いきって社長室へ乗込んで、戦争と芸術性の貧困とに理論上の必然性がありますか。

「それとも、軍部の意思だとでもいうんですか。ただ現実を写すだけなら、カメラと指が二、三本あれば十分ですよ」

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それとも軍部の意思ですか、ただ現実を写すだけならカメラと指が二三本あるだけで沢山ですよ。

「どんな角度でこれを切り取り、芸術として組み立てるか、そういう特別な使命があってこそ、われわれ芸術家の存在が――」と言いかけたところで、社長は途中で顔をそむけて苦い顔でたばこをふかし、「お前はなぜ会社をやめないんだ、徴用(ちょうよう・国が強制的に人を工場や戦地の仕事に働かせること)が怖いからか」という顔つきで苦笑いを始めた。そして「会社の企画どおり、世間並みの仕事にはげむだけでいい。それで月給がもらえるんだから、よけいなことを考えるな」という、生意気すぎるという顔つきになり、ひと言も返事をせず、「帰れ」という身振りを示すのだった。

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如何なるアングルによってこれを裁断し芸術に構成するかという特別な使命のために我々芸術家の存在が――社長は途中に顔をそむけて苦りきって煙草をふかし、お前はなぜ会社をやめないのか、徴用が怖いからか、という顔附で苦笑をはじめ、会社の企画通り世間なみの仕事に精をだすだけで、それで月給が貰えるならよけいなことを考えるな、生意気すぎるという顔附になり、一言も返事せずに、帰れという身振りを示すのであった。

これがいやしい仕事の中でも、もっともいやしい仕事でなくて何であろうか。

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賤業中の賤業でなくて何物であろうか。

いっそのこと兵隊に取られて、考える苦しさから救われるなら、弾も飢えも、むしろのんきなものにさえ思えることがあるほどだった。

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ひと思いに兵隊にとられ、考える苦しさから救われるなら、弾丸も飢餓もむしろ太平楽のようにすら思われる時があるほどだった。

伊沢の会社では、「ラバウル(当時、日本軍が南方の島に持っていた基地)を落とすな」

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伊沢の会社では「ラバウルをおとすな」

とか、「飛行機をラバウルへ!」

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とか「飛行機をラバウルへ!」

などという企画を立ててコンテ(映画の絵コンテ・場面を絵で表した設計図)を作っているうちに、アメリカ軍はもうラバウルを通りこして、サイパンに上陸していた。

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とか企画をたてコンテを作っているうちに米軍はもうラバウルを通りこしてサイパンに上陸していた。

「サイパン決戦!」

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「サイパン決戦!」

企画会議も終わらないうちに、サイパンが玉砕(ぎょくさい・戦いに敗れて全員が死ぬこと)し、そのサイパンからアメリカの飛行機が、もう頭の上を飛びはじめていた。

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企画会議も終らぬうちにサイパン玉砕、そのサイパンから米機が頭上にとびはじめている。

「焼夷弾(しょういだん・火をつけて燃やす爆弾)の消し方」

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焼夷弾しょういだんの消し方」

「空の体当たり」

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「空の体当り」

「ジャガイモの作り方」

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「ジャガ芋の作り方」

「一機たりとも、生きて帰すものか」

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「一機も生きて返すまじ」

「節電と飛行機」

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「節電と飛行機」

不思議な情熱だった。

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不思議な情熱であった。

底知れないほど退屈な、奇妙な映画が次々と作られていった。フィルムは足りなくなり、動くカメラも少なくなっていったが、芸術家たちの情熱はますます熱く、狂ったように高ぶっていった。「神風特攻隊(かみかぜとくこうたい・飛行機ごと敵の船に体当たりする攻撃をした部隊)」

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底知れぬ退屈を植えつける奇妙な映画が次々と作られ、生フィルムは欠乏し、動くカメラは少なくなり、芸術家達の情熱は白熱的に狂躁し「神風特攻隊」

「本土決戦(ほんどけっせん・日本の国土を戦場にして戦うこと)」

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「本土決戦」

「ああ、桜は散りぬ」

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「ああ桜は散りぬ」

何かにとりつかれたように、彼らの詩ごころは興奮していた。

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何ものかにかれた如く彼等の詩情は興奮している。

そして、青ざめた紙のように味気なく、退屈きわまりない映画が作られつづけ、明日の東京は、焼け野原になろうとしていた。

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そしてあおざめた紙の如く退屈無限の映画がつくられ、明日の東京は廃墟になろうとしていた。

伊沢の情熱は死んでいた。

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伊沢の情熱は死んでいた。

朝、目がさめる。

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朝目がさめる。

今日も会社へ行くのかと思うと眠くなり、うとうとすると警戒警報(けいかいけいほう・敵の飛行機が近づいてきたことを知らせるサイレン)が鳴りひびく。起き上がってゲートル(すねに巻く布)を巻き、たばこを一本取り出して火をつける。

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今日も会社へ行くのかと思うとねむくなり、うとうとすると警戒警報がなりひびき、起き上りゲートルをまき煙草を一本ぬきだして火をつける。

ああ、会社を休むと、このたばこがもらえなくなるんだな、と考えるのだった。

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ああ会社を休むとこの煙草がなくなるのだな、と考えるのであった。

ある晩、遅くなって、ようやく終電に間に合った伊沢は、もう私鉄の電車がなかったので、かなりの夜道を歩いて家に戻ってきた。

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ある晩、おそくなり、ようやく終電にとりつくことのできた伊沢は、すでに私線がなかったので、相当の夜道を歩いて我家へ戻ってきた。

明かりをつけると、いつも敷きっぱなしの布団(万年床・まんねんどこ)の姿が、なぜか見当たらない。留守の間に誰かが掃除をしたことも、誰かが部屋に入ったことすらも今までなかったので、不思議に思いながら押入れを開けると、積み重ねた布団の横に、白痴の女がかくれていた。

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あかりをつけると奇妙に万年床の姿が見えず、留守中誰かが掃除をしたということも、誰かが這入はいったことすらも例がないのでいぶかりながら押入をあけると、積み重ねた蒲団ふとんの横に白痴の女がかくれていた。

女は不安そうな目で伊沢の顔色をうかがい、布団の間に顔をうずめてしまったが、伊沢が怒らないと分かると、ほっとした気持ちからすっかり親しげになり、あきれるくらい落ち着いてしまった。

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不安の眼で伊沢の顔色をうかがい蒲団の間へ顔をもぐらしてしまったが、伊沢の怒らぬことを知ると、安堵のために親しさが溢れ、あきれるぐらい落着いてしまった。

女は口の中でブツブツとつぶやくようにしか物を言わなかった。そのつぶやきも、こちらが尋ねることとは何の関係もないことをああ言ったりこう言ったりするだけで、自分自身の思いつめたことだけを、それもとても漠然とした形で、切れ切れに言いつづけているのだった。

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口の中でブツブツとつぶやくようにしか物を言わず、その呟きもこっちの訊ねることと何の関係もないことをああ言い又こう言い自分自身の思いつめたことだけをそれも至極漠然と要約して断片的に言い綴っている。

伊沢は、あれこれ聞かなくても事情を察した。おそらく叱られて、思いあまって逃げ込んできたのだろうと思ったので、よけいな怯えを与えないように、細かい質問はやめておいた。ただ、いつごろどこから入ってきたのかだけを尋ねると、女は訳の分からないことをあれこれブツブツ言ったあげく、片方の腕をまくり上げて、その一か所をなでながら(そこにはかすり傷がついていた)、「私、痛いの」とか、「今も痛むの」とか、「さっきも痛かったの」とか、いろいろ時間を細かく区切って話すので、とにかく夜になってから窓を通って入ってきたことだけは分かった。

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伊沢は問わずに事情をさとり、多分叱られて思い余って逃げこんで来たのだろうと思ったから、無益なおびえをなるべく与えぬ配慮によって質問を省略し、いつごろどこから這入ってきたかということだけを訊ねると、女は訳の分らぬことをあれこれブツブツ言ったあげく、片腕をまくりあげて、その一ヶ所をなでて(そこにはカスリ傷がついていた)、私、痛いの、とか、今も痛むの、とか、さっきも痛かったの、とか、色々時間をこまかく区切っているので、ともかく夜になってから窓から這入ったことが分った。

裸足で外を歩きまわって入ってきたから、部屋を泥で汚してしまった、ごめんなさいね、という意味のことも言ったけれど、あちこちの行き止まりをさまようようなつぶやきの中から、なんとか意味をまとめて判断するしかないので、「ごめんなさいね」がどの話とつながっているのか、はっきりと決めることはできなかった。

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跣足はだしで外を歩きまわって這入ってきたから部屋を泥でよごした、ごめんなさいね、という意味も言ったけれども、あれこれ無数の袋小路をうろつき廻る呟きの中から意味をまとめて判断するので、ごめんなさいね、がどの道に連絡しているのだか決定的な判断はできないのだった。

真夜中に隣人をたたき起こして、すっかりおびえた女を返すのもやりにくいことだった。かといって、夜が明けてから女を返して、一晩泊めたということが分かったら、どんな誤解を生むか。相手が気違いのことだから、想像すらつかなかった。

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深夜に隣人を叩き起して怯えきった女を返すのもやりにくいことであり、さりとて夜が明けて女を返して一夜泊めたということが如何なる誤解を生みだすか、相手が気違いのことだから想像すらもつかなかった。

「ええい、なるようになれ」と、伊沢の心には妙な勇気がわいてきた。

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ままよ、伊沢の心には奇妙な勇気が湧いてきた。

その正体は、感情を失ったような生活に対する好奇心と、刺激の魅力に引かれただけのものだったが、(伊沢は思った)どうにでもなるがいい、とにかくこの現実を一つの試練として受け止めることが、自分の生き方に必要なだけのことだ、と。

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その実体は生活上の感情喪失に対する好奇心と刺戟しげきとの魅力に惹かれただけのものであったが、どうにでもなるがいい、ともかくこの現実を一つの試錬と見ることが俺の生き方に必要なだけだ。

白痴の女を、一晩だけ保護するという目の前の義務のほかに、何を考える必要も、何を恐れる必要もないのだと、自分自身に言い聞かせた。

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白痴の女の一夜を保護するという眼前の義務以外に何を考え何を怖れる必要もないのだと自分自身に言いきかした。

彼は、この突然すぎる出来事に、なぜか妙に感動している自分がいることを、恥じることはないのだと、自分自身に言い聞かせていた。

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彼はこの唐突千万な出来事に変に感動していることをずべきことではないのだと自分自身に言いきかせていた。

二つの寝床をしいて女を寝かせ、電灯を消して一、二分もしたかと思うと、女は急に起き上がり、寝床を抜け出して、部屋のどこか片隅にうずくまっているらしかった。

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二つの寝床をしき女をねせて電燈を消して一二分もしたかと思うと、女は急に起き上り寝床を脱けでて、部屋のどこか片隅にうずくまっているらしい。

もしこれが真冬でなければ、伊沢はあえて気にせず眠ってしまったかもしれない。けれどもとくに寒い夜ふけで、一人分の寝床を二人で分け合っただけでも、外の冷たい空気がじかに肌にせまってきて、体の震えが止まらないくらい冷たかった。

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それがもし真冬でなければ伊沢は強いてこだわらず眠ったかも知れなかったが、特別寒い夜更けで、一人分の寝床を二人に分割しただけでも外気がじかに肌にせまり身体のふるえがとまらぬぐらい冷めたかった。

起き上がって電灯をつけると、女は戸口のところで襟をかき合わせてうずくまっていた。まるで逃げ場を失って追いつめられたような目の色をしていた。

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起き上って電燈をつけると、女は戸口のところにえりをかき合せてうずくまっており、まるで逃げ場を失って追いつめられた眼の色をしている。

「どうしたの、お休みなさい」と言うと、あっけないくらいすぐにうなずいて、また寝床にもぐりこんだが、電気を消して一、二分もすると、また同じように起き出してしまう。

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どうしたの、ねむりなさい、と言えば呆気ないほどすぐうなずいて再び寝床にもぐりこんだが、電気を消して一二分もすると、又、同じように起きてしまう。

それを寝床へ連れ戻して、「心配することはない、私はあなたの体に手をふれるようなことはしないから」と言い聞かせると、女はおびえた目つきをして、何か言い訳めいたことを口の中でブツブツ言っているのだった。

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それを寝床へつれもどして心配することはない、私はあなたの身体に手をふれるようなことはしないからと言いきかせると、女は怯えた眼附をして何か言訳じみたことを口の中でブツブツ言っているのであった。

そのまま三度目の電気を消すと、今度は女はすぐに起き上がり、押入れの戸を開けて中に入り、内側から戸を閉めてしまった。

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そのまま三たび目の電気を消すと、今度は女はすぐ起き上り、押入の戸をあけて中へ這入って内側から戸をしめた。

このしつこいやり方に、伊沢は腹を立てた。

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この執拗なやり方に伊沢は腹を立てた。

荒々しく押入れを開け放って、「あなたは何を勘違いしているんですか。あれほど説明もしたのに、押入れに入って戸を閉めるなんて、人を馬鹿にするのもいい加減にしてください。それほど信用できない家へ、どうして逃げ込んできたんですか。それでは私を馬鹿にして、私の人格に理不尽な恥をかかせているようなものだ。まるであなたが何か被害者みたいじゃないですか。ばかげたことはもうやめてください」

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手荒く押入を開け放してあなたは何を勘違いをしているのですか、あれほど説明もしているのに押入へ這入って戸をしめるなどとは人を侮辱するも甚しい、それほど信用できない家へなぜ逃げこんできたのですか、それは人を愚弄し、私の人格に不当な恥を与え、まるであなたが何か被害者のようではありませんか、茶番もいい加減にしたまえ。

けれども、その言葉の意味すら、この女には理解する力がないのだと思うと、これほど張り合いのない、ばかばかしいこともなかった。いっそ女の横っ面を殴りつけて、さっさと眠ってしまう方が、よっぽど気がきいていると思うのだった。

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けれどもその言葉の意味もこの女には理解する能力すらもないのだと思うと、これくらい張合のない馬鹿馬鹿しさもないもので女の横ッ面を殴りつけてさっさと眠る方が何より気がきいていると思うのだった。

すると女は、妙に納得のいかない顔つきをして、何か口の中でブツブツ言っていた。「私は帰りたい、私は来なければよかった」という意味の言葉であるらしかった。

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すると女は妙に割切れぬ顔附をして何か口の中でブツブツ言っている、私は帰りたい、私は来なければよかった、という意味の言葉であるらしい。

「でも私は、もう帰るところがなくなったから」と言うので、その言葉には伊沢もさすがに胸を突かれ、「だから、安心してここで一晩明かしたらいいでしょう。私は悪意なんて持っていないのに、まるであなたが被害者みたいなふりをするから、腹を立てただけのことです。押入れの中になんて入らずに、布団の中でお休みなさい」

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でも私はもう帰るところがなくなったから、と言うので、その言葉には伊沢もさすがに胸をつかれて、だから、安心してここで一夜を明かしたらいいでしょう、私が悪意をもたないのにまるで被害者のような思いあがったことをするから腹を立てただけのことです、押入の中などにはいらずに蒲団の中でおやすみなさい。

すると女は伊沢を見つめて、何か早口でブツブツ言った。

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すると女は伊沢を見つめて何か早口にブツブツ言う。

え?

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え?

「なんですか」、そして伊沢は飛び上がるほど驚いた。

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 なんですか、そして伊沢は飛び上るほど驚いた。

なぜなら、女のつぶやきの中から、「私はあなたに嫌われていますもの」という一言が、はっきりと聞き取れたからである。

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なぜなら女のブツブツの中から私はあなたに嫌われていますもの、という一言がハッキリききとれたからである。

「え、なんですって?」

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え、なんですって?

伊沢が思わず目を見開いて聞き返すと、女の顔は悲しそうにしょんぼりして、「私は来なければよかった」「私は嫌われている」「私はそうは思っていなかった」というようなことをくどくどと言い、そしてどこでもない一点を見つめて、ぼんやりしてしまった。

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 伊沢が思わず目を見開いて訊き返すと、女の顔は悄然しょうぜんとして、私はこなければよかった、私はきらわれている、私はそうは思っていなかった、という意味の事をくどくどと言い、そしてあらぬ一ヶ所を見つめて放心してしまった。

伊沢は、そこで初めて分かった。

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伊沢ははじめて了解した。

女は、彼を恐れているのではなかったのだ。

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女は彼を怖れているのではなかったのだ。

まるで事情はあべこべだった。

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まるで事態はあべこべだ。

女は、叱られて逃げ場に困ったから、というそれだけの理由でここに来たのではなかった。

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女は叱られて逃げ場に窮してそれだけの理由によって来たのではない。

伊沢の愛情を、あてにしてやってきたのだった。

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伊沢の愛情を目算に入れていたのであった。

だがいったい、女が伊沢の愛情を信じるようになるような、何かがあったのだろうか。

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だがいったい女が伊沢の愛情を信じることが起り得るような何事があったであろうか。

ブタ小屋のあたりや路地や道で、「やあ」と言って四、五回挨拶したくらいのものだ。思えばすべてが突然すぎて、まったくばかげた芝居にすぎず、伊沢の前には、白痴の意志や感受性、というより人間の理屈では分からないものが、ただ押しつけられているだけだった。

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豚小屋のあたりや路地や路上でヤアと云って四五へん挨拶したぐらい、思えばすべてが唐突で全く茶番に外ならず、伊沢の前に白痴の意志や感受性や、ともかく人間以外のものが強要されているだけだった。

電灯を消して一、二分たち、男の手が自分の体に触れないので、嫌われているのだと思い込み、その恥ずかしさから布団を抜け出す——そんなことが、白痴の場合、本当につらいことなのか、伊沢がそれを本気で信じていいのか、これもはっきりとは分からなかった。

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電燈を消して一二分たち男の手が女のからだに触れないために嫌われた自覚をいだいて、その羞しさに蒲団をぬけだすということが、白痴の場合はそれが真実悲痛なことであるのか、伊沢がそれを信じていいのか、これもハッキリは分らない。

とうとう押入れに閉じこもってしまう。

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遂には押入へ閉じこもる。

それを白痴の恥や自分をおとしめる気持ちの表れだと理解していいのか——それを判断するための言葉すらないのだから、とにかく彼自身が、白痴と同じ立場になり下がるよりほかに方法がなかった。

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それが白痴の恥辱と自卑の表現と解していいのか、それを判断する為の言葉すらもないのだから、事態はともかく彼が白痴と同格に成り下る以外に法がない。

中途半端に人間らしい分別など、どうして必要だろうか。

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なまじいに人間らしい分別が、なぜ必要であろうか。

白痴の心の素直さを、彼自身も持つことが、人間としての恥だというのだろうか。

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白痴の心の素直さを彼自身もまたもつことが人間の恥辱であろうか。

俺にも、この白痴のような心、幼くて、そして素直な心こそが、何より必要だったのだ。

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俺にもこの白痴のような心、幼い、そして素直な心が何より必要だったのだ。

俺はそれをどこかに忘れて、ただあくせくした人間たちの考え方の中で薄汚く汚れ、うそいつわりの影を追いかけて、ひどく疲れていただけなのだ。

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俺はそれをどこかへ忘れ、ただあくせくした人間共の思考の中でうすぎたなく汚れ、虚妄の影を追い、ひどく疲れていただけだ。

彼は女を寝床に寝かせて、その枕もとに座り、まるで自分の三つか四つの小さな娘を眠らせるように、額の髪をなでてやった。すると女はぼんやりと目を開けたが、それはまったく、幼い子どもの無邪気さと変わるところがなかった。

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彼は女を寝床へねせて、その枕元に坐り、自分の子供、三ツか四ツの小さな娘をねむらせるように額の髪の毛をなでてやると、女はボンヤリ眼をあけて、それがまったく幼い子供の無心さと変るところがないのであった。

「私はあなたを嫌っているのではない。人間の愛情の表し方は、決して体だけのものではなく、人間にとって最後に帰る場所はふるさとであって、あなたはいわば、いつもそのふるさとに住んでいる人のようなものなのだから」——伊沢も初めは、なんだかまじめくさってそんなことを言いかけてみた。けれども、それが女に通じるはずもなかった。そもそも言葉とはいったい何なのだろう、どれほどの値打ちがあるのだろう。人間の愛情でさえ、それだけが本物だという証拠などありはしない。自分の生きる情熱をかけるに足るような、本当のものが、いったいどこにあるというのだろうか。すべては、うそいつわりの影にすぎない。

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私はあなたを嫌っているのではない、人間の愛情の表現は決して肉体だけのものではなく、人間の最後の住みかはふるさとで、あなたはいわば常にそのふるさとの住人のようなものなのだから、などと伊沢も始めは妙にしかつめらしくそんなことも言いかけてみたが、もとよりそれが通じるわけではないのだし、いったい言葉が何物であろうか、何ほどの値打があるのだろうか、人間の愛情すらもそれだけが真実のものだという何のあかしもあり得ない、生の情熱を託するに足る真実なものが果してどこに有り得るのか、すべては虚妄の影だけだ。

女の髪をなでていると、声をあげて泣きたいような思いがこみあげてきた。形さえ定まらない、このとらえどころのない小さな愛情こそが、自分の一生の宿命であるような、その宿命の髪を、何も考えずになでているような、切ない思いになるのだった。

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女の髪の毛をなでていると、慟哭どうこくしたい思いがこみあげ、さだまる影すらもないこのとらえがたい小さな愛情が自分の一生の宿命であるような、その宿命の髪の毛を無心になでているような切ない思いになるのであった。

この戦争は、いったいどうなるのだろう。

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この戦争はいったいどうなるのであろう。

日本は負け、アメリカ軍は本土に上陸して、日本人の大半は死に絶えてしまうのかもしれない。

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日本は負け米軍は本土に上陸して日本人の大半は死滅してしまうのかも知れない。

それはもう一つの、人の力を超えた運命、いわば天からの定めのようにしか思われなかった。

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それはもう一つの超自然の運命、いわば天命のようにしか思われなかった。

彼には、しかし、もっとちっぽけな問題があった。

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彼にはしかしもっと卑小な問題があった。

それは驚くほどちっぽけな問題で、しかもすぐ目の前に迫っていて、いつもちらついて頭から離れなかった。

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それは驚くほど卑小な問題で、しかも眼の先に差迫り、常にちらついて放れなかった。

それは、彼が会社からもらう二百円ほどの給料のことで、その給料をいつまでもらえるのか、明日にもクビになって、行き場をなくすのではないかという不安だった。

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それは彼が会社から貰う二百円ほどの給料で、その給料をいつまで貰うことができるか、明日にもクビになり路頭に迷いはしないかという不安であった。

彼は月給をもらう時、同時にクビの宣告を受けるのではないかとびくびくし、月給袋を受け取ると、一か月だけ命が延びたことに、あきれるくらいの幸福感を味わうのだった。けれど、そのちっぽけさを振り返ると、いつも泣きたい気持ちになるのだった。

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彼は月給を貰う時、同時にクビの宣告を受けはしないかとビクビクし、月給袋を受取ると一月延びた命のために呆れるぐらい幸福感を味うのだが、その卑小さを顧みていつも泣きたくなるのであった。

彼は芸術を夢見ていた。

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彼は芸術を夢みていた。

その芸術の前では、たった一粒のちりでしかないはずの二百円の給料が、どうして骨の髄までまとわりついて、生きること自体をゆるがすほどの大きな苦しみになるのだろうか。

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その芸術の前ではただ一粒の塵埃じんあいでしかないような二百円の給料がどうして骨身にからみつき、生存の根底をゆさぶるような大きな苦悶になるのであろうか。

暮らしの見た目だけのことではなく、その精神も魂までもが二百円に縛られていて、そのちっぽけさをじっと見つめながら、気も狂わずに平然としていることが、なおさら情けなくなるばかりだった。

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生活の外形のみのことではなくその精神も魂も二百円に限定され、その卑小さを凝視して気も違わずに平然としていることが尚更なおさらなさけなくなるばかりであった。

「荒れ狂う時代に、美なんぞ何の役に立つ。」

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怒濤の時代に美が何物だい。

「芸術は無力だ!」

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芸術は無力だ!

という部長のばかばかしい大声が、伊沢の胸には、まるで違った真実をこめて、鋭く、そして巨大な力で食い込んでくるのだった。

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 という部長の馬鹿馬鹿しい大声が、伊沢の胸にまるで違った真実をこめ鋭いそして巨大な力で食いこんでくる。

ああ、日本は負ける。

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ああ日本は敗ける。

泥人形がくずれるように、日本人たちがバタバタと倒れていく。吹き飛ばされるコンクリートやレンガのかけらと一緒くたになって、無数の脚だの首だの腕だのが舞い上がり、木も建物も何もない、平らな墓地になってしまう。

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泥人形のくずれるように同胞たちがバタバタ倒れ、吹きあげるコンクリートや煉瓦のくずと一緒くたに無数の脚だの首だの腕だのが舞いあがり、木も建物も何もない平な墓地になってしまう。

どこへ逃げ、どの穴に追いつめられ、どこでその穴ごと吹き飛ばされてしまうのか——夢のような話だが、けれども、もし生き残ることができたなら、その新しい生まれ変わりのために、そしてまったく予想もつかない新しい世界、石ころだらけの野原の上での暮らしのために、伊沢はむしろ好奇心がうずくのだった。

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どこへ逃げ、どの穴へ追いつめられ、どこで穴もろとも吹きとばされてしまうのだか、夢のような、けれどもそれはもし生き残ることができたら、その新鮮な再生のために、そして全然予測のつかない新世界、石屑だらけの野原の上の生活のために、伊沢はむしろ好奇心がうずくのだった。

それは半年か一年先に、当然やってくるはずの運命だったが、その「当然やってくる」ということにもかかわらず、まるで夢の中の世界のような、遠い戯れごとのようにしか感じられていなかった。

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それは半年か一年さきの当然訪れる運命だったが、その訪れの当然さにもかかわらず、夢の中の世界のような遥かな戯れにしか意識されていなかった。

目の前のすべてをふさぎ、生きる希望を根こそぎ奪い去る、たった二百円という決定的な力。夢の中にまで二百円に首を絞められてうなされ、まだ二十七歳の若さのあらゆる情熱が色あせてしまって、現実にはもう、真っ暗な荒れ野の上をあてもなく歩いているだけではないか。

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眼のさきのべてをふさぎ、生きる希望を根こそぎさらい去るたった二百円の決定的な力、夢の中にまで二百円に首をしめられ、うなされ、まだ二十七の青春のあらゆる情熱が漂白されて、現実にすでに暗黒の曠野の上を茫々ぼうぼうと歩くだけではないか。

伊沢は女が欲しかった。

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伊沢は女が欲しかった。

「女が欲しい」という思いは、伊沢のいちばんの希望でさえあったのに、いざその女との暮らしとなると、すべてが二百円に縛られてしまう。鍋も釜も味噌も米も、みんな二百円という呪文(じゅもん)を背負い、二百円の呪文にとりつかれた子どもが生まれ、女までもがまるで操られる手先のように、呪文にとりつかれた鬼と化して、毎日ブツブツつぶやいている。

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女が欲しいという声は伊沢の最大の希望ですらあったのに、その女との生活が二百円に限定され、鍋だの釜だの味噌だの米だのみんな二百円の咒文じゅもんを負い、二百円の咒文にかれた子供が生まれ、女がまるで手先のように咒文に憑かれた鬼と化して日々ブツブツ呟いている。

胸の灯も、芸術も、希望の光もみんな消えてしまい、暮らしそのものが、道ばたの馬糞のようにグチャグチャに踏みつぶされ、乾ききって、風に吹かれて飛び散り、跡形もなくなっていく。

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胸の灯も芸術も希望の光もみんな消えて、生活自体が道ばたの馬糞のようにグチャグチャに踏みしだかれて、乾きあがって風に吹かれて飛びちり跡形もなくなって行く。

爪のあとすら、なくなっていく。

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爪の跡すら、なくなって行く。

女の背中には、そういう呪文がまとわりついているのだった。

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女の背にはそういう咒文がからみついているのであった。

やりきれない、ちっぽけな生活だった。

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やりきれない卑小な生活だった。

彼自身には、この現実のちっぽけさを裁く力すらなかった。

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彼自身にはこの現実の卑小さを裁く力すらもない。

ああ、戦争。この偉大な破壊。奇妙きてれつな公平さで、すべてが裁かれ、日本中が石ころだらけの野原になり、泥人形がバタバタと倒れていく。それは、何もかもがなくなっていく中にある、なんという切なく巨大な愛情なのだろうか。

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ああ戦争、この偉大なる破壊、奇妙奇天烈きてれつな公平さでみんな裁かれ日本中が石屑だらけの野原になり泥人形がバタバタ倒れ、それは虚無のなんという切ない巨大な愛情だろうか。

破壊の神の腕の中で、彼は眠りこけてしまいたくなり、そして警報が鳴ると、むしろ生き生きとした気持ちでゲートルを巻くのだった。

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破壊の神の腕の中で彼は眠りこけたくなり、そして彼は警報がなるとむしろ生き生きしてゲートルをまくのであった。

命が危ういという不安と遊ぶことだけが、毎日の生きがいだった。

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生命の不安と遊ぶことだけが毎日の生きがいだった。

警報が解除になるとがっかりして、絶望的な、何も感じない気持ちがまた始まるのだった。

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警報が解除になるとガッカリして、絶望的な感情の喪失が又はじまるのであった。

この白痴の女は、米を炊くことも、味噌汁をつくることも知らなかった。

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この白痴の女は米を炊くことも味噌汁をつくることも知らない。

配給の行列に立っているだけで精一杯で、しゃべることすら自由にはできないのだ。

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配給の行列に立っているのが精一杯で、しゃべることすらも自由ではないのだ。

まるでいちばん薄い一枚のガラスのように、喜怒哀楽のかすかな風にさえ震え、ぼんやりとおびえたしわの間から、人の意志を受け入れ、そのまま通り過ぎさせているだけだった。

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まるで最も薄い一枚のガラスのように喜怒哀楽の微風にすら反響し、放心と怯えのしわの間へ人の意志を受け入れ通過させているだけだ。

二百円という悪霊でさえ、この魂には宿ることができないのだ。

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二百円の悪霊すらも、この魂には宿ることができないのだ。

この女は、まるで俺のために作られた、悲しい人形のようではないか。

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この女はまるで俺のために造られた悲しい人形のようではないか。

伊沢は、この女と抱き合いながら、暗い荒れ野を、ふらふらと風に吹かれて歩いていく、終わりのない旅路を思い描いた。

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伊沢はこの女と抱き合い、暗い曠野を飄々ひょうひょうと風に吹かれて歩いている、無限の旅路を目に描いた。

それなのに、その思いが何か突拍子もなく感じられ、とんでもなくばかげたことのように思われるのは、そこにもまた、ちっぽけきわまる人間という殻が、心の芯をむしばんでいるせいなのだろう。

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それにも拘らず、その想念が何か突飛に感じられ、途方もない馬鹿げたことのように思われるのは、そこにもまた卑小きわまる人間の殻が心の芯をむしばんでいるせいなのだろう。

そして、それを分かっていながら、それでもなお、わきあがってくるようなこの思いと愛情の素直さが、まったくうそいつわりのものにしか感じられないのは、なぜなのだろう。

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そしてそれを知りながら、しかも尚、わきでるようなこの想念と愛情の素直さが全然虚妄のものにしか感じられないのはなぜだろう。

白痴の女よりも、あのアパートの淫売の方が、そして、どこかの貴婦人の方が、より人間らしいという、何か本質的なきまりでもあるのだろうか。

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白痴の女よりもあのアパートの淫売婦が、そしてどこかの貴婦人がより人間的だという何か本質的なおきてが在るのだろうか。

けれども、まるでそのきまりが厳しく存在しているかのような、ばかばかしいありさまなのだった。

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けれどもまるでその掟が厳として存在している馬鹿馬鹿しい有様なのであった。

俺は、何を恐れているのだろうか。

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俺は何を怖れているのだろうか。

まるであの二百円の悪霊が——俺は今、この女によってその悪霊と縁を切ろうとしているのに、それなのに、やはり悪霊の呪文に縛りつけられているではないか。

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まるであの二百円の悪霊が――俺は今この女によってその悪霊と絶縁しようとしているのに、そのくせ矢張り悪霊の咒文によって縛りつけられているではないか。

恐れているのは、ただ世間の見栄だけなのだ。

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怖れているのはただ世間の見栄だけだ。

その「世間」というのは、アパートの淫売だの、めかけだの、妊娠した挺身隊員だの、アヒルのような鼻にかかった声を出してわめいている、おかみさんたちの行列会議のことでしかない。

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その世間とはアパートの淫売婦だの妾だの姙娠した挺身隊だの家鴨のような鼻にかかった声をだしてわめいているオカミサン達の行列会議だけのことだ。

そのほかに「世間」などというものは、どこにもありはしないのに、それなのに、この分かりきった事実を、俺はまったく信じていないのだ。

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そのほかに世間などはどこにもありはしないのに、そのくせこの分りきった事実を俺は全然信じていない。

何か不思議なきまりに、おびえているのだ。

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不思議な掟に怯えているのだ。

それは、驚くほど短い(と同時に、限りなく長い)一夜だった。

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それは驚くほど短い(同時にそれは無限に長い)一夜であった。

長い夜がまるで終わりなく続くように思っていたのに、いつの間にか夜が明けはじめ、夜明けの冷たい空気が、彼の全身を、何も感じない石のように固まらせていた。

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長い夜のまるで無限の続きだと思っていたのに、いつかしら夜が白み、夜明けの寒気が彼の全身を感覚のない石のようにかたまらせていた。

彼は女の枕もとで、ただ髪をなでつづけていたのだった。

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彼は女の枕元で、ただ髪の毛をなでつづけていたのであった。

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その日から、別の暮らしが始まった。

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その日から別な生活がはじまった。

けれどもそれは、一つの家に、女の体が一人ふえたということのほかには、何ひとつ違いも変化もなかった。

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けれどもそれは一つの家に女の肉体がふえたということの外には別でもなければ変ってすらもいなかった。

それはまるで、うそのような空しさで、確かに彼の身のまわりにも、彼の心の中にも、新しい芽生えのたった一本の穂先すら、見つけることができないのだった。

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それはまるで嘘のような空々しさで、たしかに彼の身辺に、そして彼の精神に、新たな芽生えの唯一本の穂先すら見出すことができないのだ。

その出来事の異常さを、とにかく頭で分かって受け入れているというだけで、暮らしそのものには、机の置き場所が変わったほどの変化さえ、起きてはいなかった。

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その出来事の異常さをともかく理性的に納得しているというだけで、生活自体に机の置き場所が変ったほどの変化も起きてはいなかった。

彼は毎朝出勤し、その留守の家の押入れの中には、一人の白痴が残されて、彼の帰りを待っている。

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彼は毎朝出勤し、その留守宅の押入の中に一人の白痴が残されて彼の帰りを待っている。

しかも彼は、一歩外に出ると、もう白痴の女のことなど忘れてしまっていて、何かそういう出来事が、もう記憶もはっきりしない十年も二十年も前にあったことのような、遠い気持ちがするだけだった。

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しかも彼は一足でると、もう白痴の女のことなどは忘れており、何かそういう出来事がもう記憶にも定かではない十年二十年前に行われていたかのような遠い気持がするだけだった。

戦争というやつは、不思議なほど健全な、物忘れのよさを持っているのだった。

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戦争という奴が、不思議に健全な健忘性なのであった。

まったく、戦争の驚くべき破壊力や、まわりの景色がどんどん変わっていくというやつは、たった一日で何百年分もの変化を起こしてしまう。一週間前の出来事が、まるで数年前の出来事のように思われ、一年前の出来事などは、記憶のいちばん底の底へと、遠く隔てられてしまっていた。

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まったく戦争の驚くべき破壊力や空間の変転性という奴はたった一日が何百年の変化を起し、一週間前の出来事が数年前の出来事に思われ、一年前の出来事などは、記憶の最もどん底の下積の底へ隔てられていた。

伊沢の近くの道路や、工場のまわりの建物などが取りこわされて、町じゅうがまるで舞い上がるほこりのような疎開騒ぎを起こしたのも、つい先ごろのことだった。その後片づけすら終わっていないのに、それはもう一年も前の出来事のように遠ざかり、町の姿をすっかり変えてしまうような大きな変化も、二度目に目にする時には、ただ当たり前の景色にしか見えなくなっていた。

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伊沢の近くの道路だの工場の四囲の建物などが取りこわされ町全体がただ舞いあがるほこりのような疎開騒ぎをやらかしたのもつい先頃のことであり、その跡すらも片づいていないのに、それはもう一年前の騒ぎのように遠ざかり、街の様相を一変する大きな変化が二度目にそれを眺める時にはただ当然な風景でしかなくなっていた。

その健全な物忘れの、いろいろな寄せ集めのかけらの一つの中に、白痴の女もやっぱりかすんでいた。

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その健康な健忘性の雑多なカケラの一つの中に白痴の女がやっぱり霞んでいる。

昨日まで行列ができていた駅前の居酒屋の、取り壊されたあとの棒切れだの、爆弾で壊されたビルの穴だの、町の焼けあとだの——それらいろいろなかけらの間にはさまれて、白痴の顔がころがっているだけだった。

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昨日まで行列していた駅前の居酒屋の疎開跡の棒切れだの爆弾に破壊されたビルの穴だの街の焼跡だの、それらの雑多のカケラの間にはさまれて白痴の顔がころがっているだけだった。

けれども、毎日警戒警報が鳴る。

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けれども毎日警戒警報がなる。

時には、空襲警報(くうしゅうけいほう・敵の飛行機が本当に近づいてきたことを知らせる、警戒警報より強い警報)も鳴る。

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時には空襲警報もなる。

すると彼は、ひどく嫌な気持ちになるのだった。

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すると彼は非常に不愉快な精神状態になるのであった。

それは、留守にしている家の近くに空襲があって、自分の知らない間に何か起きていないかという心配だった。だが、その心配のただ一つの理由は、女が取り乱して外へ飛び出し、すべてが近所に知れ渡っていないかという不安だった。

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それは彼の留守宅の近いところに空襲があり知らない変化が現に起っていないかという懸念であったが、その懸念の唯一の理由はただ女がとりみだして、とびだしてすべてが近隣へ知れ渡っていないかという不安なのだった。

知らない間に何かが変わっているかもしれないという不安のために、彼は毎日、明るいうちに家へ帰ることができなかった。

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知らない変化の不安のために、彼は毎日明るいうちに家へ帰ることができなかった。

この俗っぽい不安を乗りこえられない、みじめな自分に、何度むなしく逆らおうとしたことか。彼はせめて仕立屋にすべてを打ち明けてしまいたいと思うのだったが、それさえも卑怯なやり方だと絶望した。なぜならそれは、いちばん傷の浅い形で告白することで、不安をごまかそうとするだけの、みじめな手段にすぎないからだ。彼はただ、自分の本質が、俗っぽい世間なみのものにすぎないことを、呪い、憤るばかりだった。

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この低俗な不安を克服し得ぬ惨めさに幾たび虚しく反抗したか、彼はせめて仕立屋に全てを打開けてしまいたいと思うのだったが、その卑劣さに絶望して、なぜならそれは被害の最も軽少な告白を行うことによって不安をまぎらす惨めな手段にすぎないので、彼は自分の本質が低俗な世間なみにすぎないことをのろい憤るのみだった。

彼には、忘れることのできない、二つの白痴の顔があった。

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彼には忘れ得ぬ二つの白痴の顔があった。

街角を曲る時、会社の階段を登る時、電車の人ごみを抜け出る時——思いがけないいろいろな場面で、その二つの顔をふと思い出す。そのたびに、彼のすべての考えは凍りつき、そして一瞬わきあがるとりみだした気持ちが、絶望的に凍りついてしまうのだった。

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街角を曲る時だの、会社の階段を登る時だの、電車の人ごみを脱けでる時だの、はからざる随所に二つの顔をふと思いだし、そのたびに彼の一切の思念が凍り、そして一瞬の逆上が絶望的に凍りついているのであった。

その顔の一つは、彼が初めて白痴の体にふれた時の、白痴の顔だった。

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その顔の一つは彼が始めて白痴の肉体にふれた時の白痴の顔だ。

そしてその出来事そのものは、翌日にはもう一年も昔の記憶のかなたに遠ざけられていたのだが、ただその顔だけが切り離されて、ふと思い出されてくるのだった。

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そしてその出来事自体はその翌日には一年昔の記憶の彼方かなたへ遠ざけられているのであったが、ただ顔だけが切り放されて思いだされてくるのである。

その日から、白痴の女は、ただ待ちうけているだけの体にすぎず、それ以外の暮らしも、ひとかけらの考えすらも持っていないのだった。

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その日から白痴の女はただ待ちもうけている肉体であるにすぎずその外の何の生活も、ただひときれの考えすらもないのであった。

いつも、ただ待ちうけていた。

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常にただ待ちもうけていた。

伊沢の手が女の体の一部にふれるというだけで、女が意識するすべてのことは体の反応そのものになり、体も、そして顔も、ただ待ちうけているだけだった。

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伊沢の手が女の肉体の一部にふれるというだけで、女の意識する全部のことは肉体の行為であり、そして身体も、そして顔も、ただ待ちもうけているのみであった。

驚くべきことに、真夜中、伊沢の手が女にふれるというだけで、深く眠りこけた体が同じ反応を起こす。体だけはいつも生きていて、ただ待ちうけているのである。

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驚くべきことに、深夜、伊沢の手が女にふれるというだけで、眠りれた肉体が同一の反応を起し、肉体のみは常に生き、ただ待ちもうけているのである。

眠りながらも!

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眠りながらも!

けれども、目覚めている時の女の頭に、何が考えられているかといえば、もともとただの空っぽで、そこにあるのは、ただ魂の眠りこけた状態と、そして生きている体だけではないか。

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 けれども、目覚めている女の頭に何事が考えられているかと云えば、元々ただの空虚であり、在るものはただ魂の昏睡と、そして生きている肉体のみではないか。

目覚めている時も魂は眠っていて、眠っている時も、その体は目覚めている。

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目覚めた時も魂はねむり、ねむった時もその肉体は目覚めている。

そこにあるのは、ただ自分では気づいていない、体の欲だけだった。

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在るものはただ無自覚な肉慾のみ。

それは、いつどんな時でも目覚めていて、虫のように飽きることなく反応してうごめく、体そのものにすぎなかった。

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それはあらゆる時間に目覚め、虫の如きまざる反応の蠢動しゅんどうを起す肉体であるにすぎない。

もう一つの顔、それはちょうど伊沢の休みの日のことだったが、真っ昼間、そう遠くない地区に、二時間にわたる爆撃があった。防空壕を持たない伊沢は、女と一緒に押入れにもぐりこみ、布団を盾にしてかくれていた。

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も一つの顔、それは折から伊沢の休みの日であったが、白昼遠からぬ地区に二時間にわたる爆撃があり、防空壕をもたない伊沢は女と共に押入にもぐり蒲団をたてにかくれていた。

爆撃は伊沢の家から四、五百メートル離れた地区に集中したが、地面ごと家はゆれ、爆撃の音と同時に、呼吸も、考えることも止まってしまう。

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爆撃は伊沢の家から四五百メートル離れた地区へ集中したが、地軸もろとも家はゆれ、爆撃の音と同時に呼吸も思念も中絶する。

同じ落ちてくる爆弾でも、焼夷弾(しょういだん)とふつうの爆弾とでは、恐ろしさにおいて青大将(毒のないヘビ)と蝮(まむし・毒ヘビ)くらいの違いがある。焼夷弾はガラガラという特別に不気味な音を立てるが、地上で爆発する音がないので、頭の上でスウッと消えてしまう。始めは大きいのに終わりが尻すぼみになる、というのはまさにこのことで、尻すぼみどころか、しっぽがまったくなくなるのだから、決定的な恐ろしさには欠けていた。

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同じように落ちてくる爆弾でも焼夷弾と爆弾では凄みにおいて青大将とまむしぐらいの相違があり、焼夷弾にはガラガラという特別不気味な音響が仕掛けてあっても地上の爆発音がないのだから音は頭上でスウと消え失せ、竜頭蛇尾とはこのことで、蛇尾どころか全然尻尾がなくなるのだから、決定的な恐怖感に欠けている。

けれども、ふつうの爆弾というやつは、落ちてくる音こそ小さく低いのだが、ザアという雨の音のような一本の線を引きながら落ちてきて、これが最後には、地面ごと引き裂くような爆発音を起こす。この一本の線にこもった、みっしりとした恐ろしさといったら比べものにならず、ズドズドズドと爆発の足音が近づいてくる時の絶望的な恐怖といったら、まさに文字どおり、生きた心地がしないのである。

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けれども爆弾という奴は、落下音こそ小さく低いが、ザアという雨降りの音のようなただ一本の棒をひき、此奴こいつが最後に地軸もろとも引裂くような爆発音を起すのだから、ただ一本の棒にこもった充実した凄味といったら論外で、ズドズドズドと爆発の足が近づく時の絶望的な恐怖ときては額面通りに生きた心持がないのである。

おまけに飛行機の高度が高いので、ブンブンという、頭の上を通っていくアメリカの飛行機の音も、ごくかすかに、何気ない様子で響いている。それはまるで、よそ見をしている時に、大きな斧でいきなり殴りつけられるようなものだった。

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おまけに飛行機の高度が高いので、ブンブンという頭上通過の米機の音も至極かすかに何食わぬ風に響いていて、それはまるでよそ見をしている怪物に大きなおので殴りつけられるようなものだ。

攻撃してくる相手の様子がはっきり分からないから、爆音のうなりが妙に遠く感じられるだけでもひどく不安なのに、そこへ、ザアという雨降りのような、一本の線を引く落下音がのびてくる。

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攻撃する相手の様子が不確かだから爆音の唸りの変な遠さが、甚だ不安であるところへ、そこからザアと雨降りの棒一本の落下音がのびてくる。

爆発を待つ間の恐怖といったら、まったく、言葉も、呼吸も、考えることさえも止まってしまう。

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爆発を待つまの恐怖、全く此奴は言葉も呼吸も思念もとまる。

「いよいよ今度はもうだめだ」という絶望が、気が狂う一歩手前の冷たさで、ただ生きて光っているだけだった。

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愈々いよいよ今度はお陀仏だぶつだという絶望が発狂寸前の冷たさで生きて光っているだけだ。

伊沢の小屋は、幸い四方をアパートや、気違いの家や、仕立屋などの二階建ての家に囲まれていたので、近所の家は窓ガラスが割れたり屋根が傷んだりした家もあったが、彼の小屋だけは、ガラスにひびすら入らなかった。

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伊沢の小屋は幸い四方がアパートだの気違いだの仕立屋などの二階屋でとりかこまれていたので、近隣の家は窓ガラスがわれ屋根の傷んだ家もあったが、彼の小屋のみガラスにひびすらもはいらなかった。

ただ、ブタ小屋の前の畑に、血だらけの防空頭巾(ぼうくうずきん・空襲の時にかぶる、頭を守るための綿入りの頭巾)が落ちてきただけだった。

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ただ豚小屋の前の畑に血だらけの防空頭巾が落ちてきたばかりであった。

押入れの中で、伊沢の目だけが光っていた。

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押入の中で、伊沢の目だけが光っていた。

彼は見た。

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彼は見た。

白痴の顔を。

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白痴の顔を。

何もない空をつかもうとする、その絶望の苦しみを。

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虚空をつかむその絶望の苦悶を。

ああ、人間には理性がある。

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ああ人間には理智がある。

どんな時でも、いくらかの我慢や抵抗の影は、残っているものだ。

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如何なる時にも尚いくらかの抑制や抵抗は影をとどめているものだ。

その影ほどの理性も、我慢も、抵抗すらもないということが、これほどまでにみじめで見苦しいものだとは!

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その影ほどの理智も抑制も抵抗もないということが、これほどあさましいものだとは!

女の顔と全身には、ただ死へと開かれた窓に向かうような、恐怖と苦しみだけが、こわばりついていた。

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 女の顔と全身にただ死の窓へひらかれた恐怖と苦悶が凝りついていた。

苦しみは動き、苦しみはもがき、そして苦しみが一粒の涙を落としている。

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苦悶は動き苦悶はもがき、そして苦悶が一滴の涙を落している。

もし犬の目が涙を流すことがあったら、それは犬が笑うのと同じくらい、気味の悪いものだろう。

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もし犬の眼が涙を流すなら犬が笑うと同様に醜怪きわまるものであろう。

少しの理性の影すらもない涙というものが、これほどまでに醜く見苦しいものだとは!

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影すらも理智のない涙とは、これほども醜悪なものだとは!

爆撃の最中には、四、五歳から六、七歳くらいの小さな子どもたちは、不思議と泣かないものだ。

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 爆撃のさ中に於て四五歳乃至六七歳の幼児達は奇妙に泣かないものである。

子どもたちの心臓は、波のように激しく脈打ち、言葉は失われて、ただ異様に目を大きく見開いているだけだった。

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彼等の心臓は波のような動悸をうち、彼等の言葉は失われ、異様な目を大きく見開いているだけだ。

体じゅうで生きているのは目だけだったが、それはぱっと見たところ、ただ大きく見開かれているだけで、不安や恐怖をそのまま激しく表しているというほどでもなかった。

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全身に生きているのは目だけであるが、それは一見したところ、ただ大きく見開かれているだけで、必ずしも不安や恐怖というものの直接劇的な表情を刻んでいるというほどではない。

むしろ、ふだんの子どもよりもよほど理性的に見えるほど、感情を静かに押し殺していた。

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むしろ本来の子供よりもかえって理智的に思われるほど情意を静かに殺している。

その瞬間には、大人もみんな同じくらいか、むしろそれ以下だった。なぜなら大人の方が、むきだしの不安や死への苦しみをそのまま表してしまうからで、いわば、子どもの方が大人よりも理性的にさえ見えるのだった。

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その瞬間にはあらゆる大人もそれだけで、或いはむしろそれ以下で、なぜならむしろ露骨な不安や死への苦悶を表わすからで、いわば子供が大人よりも埋智的にすら見えるのだった。

けれども、白痴の苦しみは、その子どもたちの大きな目とは、まるで似ても似つかないものだった。

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白痴の苦悶は、子供達の大きな目とは似ても似つかぬものであった。

それはただ、本能だけの死への恐怖と死への苦しみがあるだけで、それは人間のものではなく、虫のものですらなく、ただ醜く見苦しい一つの動きがあるだけだった。

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それはただ本能的な死への恐怖と死への苦悶があるだけで、それは人間のものではなく、虫のものですらもなく、醜悪な一つの動きがあるのみだった。

多少似たものがあるとすれば、一寸五分(約四、五センチメートル)ほどの芋虫が、五尺(約一・五メートル)の長さにふくれあがって、もがいているような動きくらいのものだろう。

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やや似たものがあるとすれば、一寸五分ほどの芋虫が五尺の長さにふくれあがってもがいている動きぐらいのものだろう。

そして、目に一粒の涙をこぼしているのだった。

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そして目に一滴の涙をこぼしているのである。

言葉も、叫びも、うめきもなく、表情すらもなかった。

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言葉も叫びもうめきもなく、表情もなかった。

伊沢がそこにいることすら、意識してはいなかった。

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伊沢の存在すらも意識してはいなかった。

人間であれば、これほどの孤独があるはずはない。

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人間ならばかほどの孤独が有り得る筈はない。

男と女が、たった二人だけで押入れの中にいて、その一方の存在をすっかり忘れてしまうなどということが、人間の場合、あり得るはずはない。

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男と女とただ二人押入にいて、その一方の存在を忘れ果てるということが、人の場合に有り得べき筈はない。

人は「絶対の孤独」というものを口にするが、それは他の存在をきちんと分かっているからこそ成り立つものだ。これほどまでに何も見えず、何も気づいていない、絶対の孤独というものが、あり得るだろうか。

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人は絶対の孤独というが他の存在を自覚してのみ絶対の孤独も有り得るので、かほどまで盲目的な、無自覚な、絶対の孤独が有り得ようか。

それは芋虫の孤独であり、その絶対の孤独のありさまの、あさましさだった。

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それは芋虫の孤独であり、その絶対の孤独の相のあさましさ。

心の影のかけらもない苦しみのありさまの、見るにたえない醜さ。

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心の影の片鱗へんりんもない苦悶の相の見るに堪えぬ醜悪さ。

爆撃が終わった。

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爆撃が終った。

伊沢は女を抱き起こしたが、いつもなら伊沢の指一本が胸にふれるだけで反応する女が、その体の欲すらも失っていた。

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伊沢は女を抱き起したが、伊沢の指の一本が胸にふれても反応を起す女が、その肉慾すら失っていた。

このぬけがらのような体を抱いたまま、どこまでも落ちつづけていくような、暗い、暗い、終わりのない落下があるだけだった。

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このむくろを抱いて無限に落下しつづけている、暗い、暗い、無限の落下があるだけだった。

彼はその日、爆撃の直後に外へ出て歩いた。なぎ倒された家々の間で、吹き飛ばされた女の脚も、腸(はらわた)が飛び出した女の腹も、ねじきれた女の首も、目にしたのだった。

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彼はその日爆撃直後に散歩にでて、なぎ倒された民家の間で吹きとばされた女の脚も、腸のとびだした女の腹も、ねじきれた女の首も見たのであった。

三月十日の大空襲(さんがつとおかのだいくうしゅう・1945年3月10日、アメリカ軍が東京を焼きつくした大規模な空襲)の焼けあとも、まだ吹き上がる煙をくぐりながら、伊沢はあてもなく歩いていた。

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三月十日の大空襲の焼跡もまだ吹きあげる煙をくぐって伊沢はあてもなく歩いていた。

人間が、まるで焼き鳥のように、あちこちで死んでいる。

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人間が焼鳥と同じようにあっちこっちに死んでいる。

ひとかたまりになって死んでいる。

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ひとかたまりに死んでいる。

まったく、焼き鳥と同じことだった。

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まったく焼鳥と同じことだ。

怖くもなければ、汚くもない。

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怖くもなければ、汚くもない。

犬と並んで、同じように焼かれている死体もあったが、それはまったくの犬死に(むだな死に方)で、けれどそこには、その犬死にの悲しさも、しみじみとした思いすらもなかった。

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犬と並んで同じように焼かれている死体もあるが、それは全く犬死で、然しそこにはその犬死の悲痛さも感慨すらも有りはしない。

人間が犬のように死んでいるのではなく、犬と、そしてそれと同じような何かが、ちょうど一皿の焼き鳥のように盛られ、並べられているだけだった。

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人間が犬の如くに死んでいるのではなく、犬と、そして、それと同じような何物かが、ちょうど一皿の焼鳥のように盛られ並べられているだけだった。

犬でもなく、もとより人間ですらもなかった。

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犬でもなく、もとより人間ですらもない。

白痴の女が焼け死んだら——土から作られた人形が、土に還るだけではないか。

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白痴の女が焼け死んだら――土から作られた人形が土にかえるだけではないか。

もし、この町に焼夷弾が降りそそぐ夜がきたら……伊沢はそれを考えると、妙に落ち着いて、じっと考えこんでいる自分の姿や、自分の顔、自分の目を、意識せずにはいられなかった。

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もしこの街に焼夷弾のふりそそぐ夜がきたら……伊沢はそれを考えると、変に落着いて沈み考えている自分の姿と自分の顔、自分の目を意識せずにいられなかった。

俺は落ち着いている。

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俺は落着いている。

そして、空襲を待っている。

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そして、空襲を待っている。

それでいい。

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よかろう。

彼は、せせら笑うのだった。

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彼はせせら笑うのだった。

俺はただ、醜くて見苦しいものが嫌いなだけだ。

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俺はただ醜悪なものが嫌いなだけだ。

そして、もともと魂のない体が、焼けて死ぬだけのことではないか。

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そして、元々魂のない肉体が焼けて死ぬだけのことではないか。

俺は、女を殺したりはしない。

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俺は女を殺しはしない。

俺は卑怯で、俗っぽい男だ。

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俺は卑劣で、低俗な男だ。

俺には、それだけの度胸はない。

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俺にはそれだけの度胸はない。

だが、戦争が、たぶん女を殺すだろう。

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だが、戦争がたぶん女を殺すだろう。

その戦争の冷たい手を、女の頭の上へ向けるための、ちょっとした手がかりだけをつかめばいいのだ。

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その戦争の冷酷な手を女の頭上へ向けるためのちょっとした手掛りだけをつかめばいいのだ。

俺は知らない。

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俺は知らない。

きっと、何かある瞬間が、それを自然に片づけてしまうだけのことだろう。

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多分、何かある瞬間が、それを自然に解決しているにすぎないだろう。

そして伊沢は、空襲を、きわめて冷静に待ちかまえていた。

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そして伊沢は空襲をきわめて冷静に待ち構えていた。

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それは、四月十五日のことだった。

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それは四月十五日であった。

その二日前の十三日に、東京では二度目の夜間の大空襲があり、池袋や巣鴨、山手方面に被害が出ていた。たまたまその罹災証明(りさいしょうめい・空襲などで被害にあったことを証明する書類)が手に入ったので、伊沢は埼玉へ食料の買い出しに出かけ、いくらかの米をリュックに背負って帰ってきた。

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その二日前、十三日に、東京では二度目の夜間大空襲があり、池袋だの巣鴨だの山手方面に被害があったが、たまたまその罹災りさい証明が手にはいったので、伊沢は埼玉へ買出しにでかけ、いくらかの米をリュックに背負って帰って来た。

彼が家に着くと同時に、警戒警報が鳴りだした。

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彼が家へ着くと同時に警戒警報が鳴りだした。

次の東京への空襲は、この町のあたりだろうということは、まだ焼け残っている地域を考えれば、誰にでも想像がつくことだった。早ければ明日、遅くとも一か月とはかからずに、この町の運命の日が近づいていた。

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次の東京の空襲がこの街のあたりだろうということは焼け残りの地域を考えれば誰にも想像のつくことで、早ければ明日、遅くとも一ヶ月とはかからないこの街の運命の日が近づいている。

早ければ明日、と考えたのは、これまでの空襲の間隔、つまり編隊を組んでの夜間爆撃の準備にかかる期間が、早くても明日くらいだったからで、まさにこの日が、その日になろうとは、伊沢は予想していなかった。

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早ければ明日と考えたのは、これまでの空襲の速度、編隊夜間爆撃の準備期間の間隔が早くて明日ぐらいであったからで、この日がその日になろうとは伊沢は予想していなかった。

だからこそ、買い出しにも出かけたのだった。買い出しといっても、目的はほかにもあり、この農家は伊沢が学生時代からつながりのあった家で、二つのトランクとリュックに詰めた荷物を預けることの方が、むしろ主な目的だった。

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それ故買出しにも出掛けたので、買出しと云っても目的は他にもあり、この農家は伊沢の学生時代に縁故のあった家であり、彼は二つのトランクとリュックにつめた物品を預けることがむしろ主要な目的であった。

伊沢は、すっかり疲れきっていた。

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伊沢は疲れきっていた。

旅の服装が、そのまま防空服装でもあったので、リュックを枕にして、そのまま部屋のまんなかにひっくり返り、彼は本当に、こんな差し迫った時間に、うとうとと眠りこんでしまった。

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旅装は防空服装でもあったから、リュックを枕にそのまま部屋のまんなかにひっくりかえって、彼は実際この差しせまった時間にうとうととねむってしまった。

ふと目がさめると、あちこちのラジオがガンガンとがなりたてていて、敵の編隊の先頭は、もう伊豆半島の南のはしに迫り、そこを通過していた。

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ふと目がさめると諸方のラジオはがんがんがなりたてており、編隊の先頭はもう伊豆南端にせまり、伊豆南端を通過した。

同時に、空襲警報が鳴りだした。

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同時に空襲警報がなりだした。

「いよいよ、この町の最後の日だ」、伊沢は、とっさにそう感じた。

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愈々いよいよこの街の最後の日だ、伊沢は直覚した。

白痴を押入れの中に入れ、伊沢はタオルをぶらさげ、歯ブラシをくわえて井戸端へ出かけた。伊沢はその数日前にライオン煉り歯磨きを手に入れて、長い間忘れていた歯磨き粉が口の中にしみわたるさわやかさを、なつかしく思い出していたので、運命の日を感じ取ると、どういうわけか歯をみがき、顔を洗う気になった。ところが、まずその歯磨き粉が、当然あるはずの場所からほんの少し動いていただけで、長い時間(それは実に長い時間に思われた)見つからず、ようやく見つけると、今度は石けん(これも良い香りのする、昔ながらの化粧石けんだった)が、これもちょっと場所が動いていただけで、長い時間見つからない。「ああ、俺は慌てているな、落ち着け、落ち着け」と思いながら、戸棚に頭をぶつけたり、机につまずいたりして、そのために彼はしばらく

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白痴を押入の中に入れ、伊沢はタオルをぶらさげ歯ブラシをくわえて井戸端へでかけたが、伊沢はその数日前にライオン煉歯磨ねりはみがきを手に入れ長い間忘れていた煉歯磨の口中にしみわたる爽快さをなつかしんでいたので、運命の日を直覚するとどういうわけだか歯をみがき顔を洗う気になったが、第一にその煉歯磨が当然あるべき場所からほんのちょっと動いていただけで長い時間(それは実に長い時間に思われた)見当らず、ようやくそれを見附けると今度は石鹸(この石鹸も芳香のある昔の化粧石鹸)がこれもちょっと場所が動いていただけで長い時間見当らず、ああ俺は慌てているな、落着け、落着け、頭を戸棚にぶつけたり机につまずいたり、そのために彼は暫時ざんじ

の間、いっさいの動きと考えることを止めて、心を落ち着けようとするのだが、体そのものが本能的に慌てだして、すべるように動いていってしまうのだった。

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の間一切の動きと思念を中絶させて精神統一をはかろうとするが、身体自体が本能的に慌てだして滑り動いて行くのである。

ようやく石けんを見つけだして井戸端へ出ると、仕立屋夫婦は畑のすみの防空壕へ荷物を投げこんでおり、アヒルによく似た屋根裏の娘は、荷物をぶらさげてうろうろしていた。

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ようやく石鹸を見つけだして井戸端へ出ると仕立屋夫婦が畑の隅の防空壕へ荷物を投げこんでおり、家鴨によく似た屋根裏の娘が荷物をブラさげてうろうろしていた。

伊沢は、とにかく歯磨き粉と石けんをあきらめずに探し出した自分のしつこさを、ひそかに祝福しながら、はたしてこの夜の運命はどうなるのだろうと思った。

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伊沢はともかく煉歯磨と石鹸を断念せずに突きとめた執拗さを祝福し、果してこの夜の運命はどうなるのだろうと思った。

まだ顔をふき終わらないうちに、高射砲(こうしゃほう・空を飛ぶ飛行機を撃つための大砲)が鳴りはじめた。頭を上げると、もう頭の上に十何本ものサーチライトの光が入り乱れて、真上をさして動きまわっており、その光の真ん中に、アメリカの飛行機がぽっかり浮かんでいる。

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まだ顔をふき終らぬうちに高射砲がなりはじめ、頭をあげると、もう頭上に十何本の照空燈が入りみだれて真上をさして騒いでおり、光芒こうぼうのまんなかに米機がぽっかり浮いている。

続いて一機、また一機。ふと目を下の方へおろすと、もう駅前の方角が火の海になっていた。

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つづいて一機、また一機、ふと目を下方へおろしたら、もう駅前の方角が火の海になっていた。

いよいよ来た。

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愈々来た。

事態がはっきりすると、伊沢はようやく落ち着いた。

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事態がハッキリすると伊沢はようやく落着いた。

防空頭巾をかぶり、布団をかぶって軒先に立ち、伊沢は二十四機まで数えた。

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防空頭巾をかぶり、蒲団をかぶって軒先に立ち二十四機まで伊沢は数えた。

サーチライトの光の真ん中にぽっかり浮かびながら、飛行機はみんな頭上を通過していく。

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ポッカリ光芒のまんなかに浮いて、みんな頭上を通過している。

高射砲の音だけが、気が狂ったように鳴りつづけ、爆撃の音はいっこうに起こらなかった。

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高射砲の音だけが気が違ったように鳴りつづけ、爆撃の音は一向に起らない。

二十五機を数えたころから、あのガラガラという、線路の上を貨物列車が走り去る時のような、焼夷弾の落ちてくる音が鳴りはじめたが、伊沢の頭の上を通り越して、後ろの工場地帯に集中しているらしかった。

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二十五機を数える時から例のガラガラとガードの上を貨物列車が駆け去る時のような焼夷弾の落下音が鳴り始めたが、伊沢の頭上を通り越して、後方の工場地帯へ集中されているらしい。

軒先からは見えないので、ブタ小屋の前まで行って後ろを見ると、工場地帯は火の海になっていた。あきれたことに、これまで頭上を通過していた飛行機とは正反対の方向からも、次々とアメリカの飛行機がやってきて、後方一帯に爆撃を加えているのだった。

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軒先からは見えないので豚小屋の前まで行って後を見ると、工場地帯は火の海で、呆れたことには今迄頭上を通過していた飛行機と正反対の方向からも次々と米機が来て後方一帯に爆撃を加えているのだ。

すると、もうラジオは止まっていて、空いちめんが赤々とした厚い煙の幕に隠れて、アメリカの飛行機の姿も、サーチライトの光も、まったく見えなくなってしまった。

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するともうラジオはとまり、空一面は赤々と厚い煙の幕にかくれて、米機の姿も照空燈の光芒も全く視界から失われてしまった。

北の一角だけを残して、まわりはすべて火の海になり、その火の海が、しだいに近づいていた。

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北方の一角を残して四周は火の海となり、その火の海が次第に近づいていた。

仕立屋夫婦は用心深い人たちで、ふだんから防空壕を荷物のために作ってあり、すきまをふさぐための泥も用意していた。すべて手順どおりに防空壕に荷物を詰めこみ、すきまに泥をぬり、その上にさらに畑の土もかけ終えていた。

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仕立屋夫婦は用心深い人達で、常から防空壕を荷物用に造ってあり目張りの泥も用意しておき、万事手順通りに防空壕に荷物をつめこみ目張りをぬり、その又上へ畑の土もかけ終っていた。

「この火じゃ、とても駄目ですね。」

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この火じゃとても駄目ですね。

仕立屋は、昔の火消し(ひけし・火事を消す仕事の人)のような服装で腕組みをして、火の手を眺めていた。

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仕立屋は昔の火消しの装束で腕組みをして火の手を眺めていた。

「消せと言われたって、これじゃ無理だ。」

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消せったって、これじゃ無理だ。

「あたしゃ、もう逃げますよ。」

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あたしゃもう逃げますよ。

「煙にまかれて死んでみたって、しょうがねえや」仕立屋はリヤカーに山ほどの荷物を積みこみながら、「先生、いっしょに逃げましょう」

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煙にまかれて死んでみても始まらねえや、仕立屋はリヤカーに一山の荷物をつみこんでおり、先生、いっしょに引上げましょう。

伊沢はその時、うるさいほど入り組んだ恐怖に襲われた。

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伊沢はそのとき、騒々しいほど複雑な恐怖感に襲われた。

彼の体は、仕立屋と一緒に流されるように動きかけていたが、その体の動きをふりきるような、心の中の一つの抵抗で、それを止めた。すると、心の中のどこかから、張り裂けるような悲鳴が同時にあがったような気がした。

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彼の身体は仕立屋と一緒に滑りかけているのであったが、身体の動きをふりきるような一つの心の抵抗で滑りを止めると、心の中の一角から張りさけるような悲鳴の声が同時に起ったような気がした。

「このほんの一瞬のためらいで、焼け死ぬかもしれない」——彼はほとんど恐怖でぼうっとなったが、それでもまた、自然によろめき出しそうになる体の動きを、こらえていた。

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この一瞬の遅延の為に焼けて死ぬ、彼は殆ど恐怖のために放心したが、再びともかく自然によろめきだすような身体の滑りをこらえていた。

「僕はね、とにかく、もう少し残りますよ。僕にはね、仕事があるんです。僕はね、とにかく芸人だから、命ぎりぎりのところで自分の姿を見つめられるような機会には、そのぎりぎりのところで最後の取引をしてみることを、求められているんです。僕は逃げたいけれど、逃げられないんです。この機会を逃すわけにはいかないんです。もう、あなた方は逃げてください。早く、早く。一瞬のためらいが、すべてを手遅れにしてしまいますから」

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「僕はね、ともかく、もうちょっと、残りますよ。僕はね、仕事があるのだ。僕はね、ともかく芸人だから、命のとことんの所で自分の姿を見凝みつめ得るような機会には、そのとことんの所で最後の取引をしてみることを要求されているのだ。僕は逃げたいが、逃げられないのだ。この機会を逃がすわけに行かないのだ。もうあなた方は逃げて下さい。早く、早く、一瞬間が全てを手遅れにしてしまう」

早く、早く。

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早く、早く。

一瞬が、すべてを手遅れにする。

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一瞬間が全てを手遅れに。

すべてとは、それは伊沢自身の命のことだった。

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全てとは、それは伊沢自身の命のことだ。

「早く早く」——それは仕立屋をせきたてる声ではなく、彼自身が一瞬でも早く逃げたいがための声だった。

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早く早く、それは仕立屋をせきたてる声ではなくて、彼自身が一瞬も早く逃げたい為の声だった。

彼がこの場所から逃げ出すためには、あたりの人々がみんな立ち去ったあとでなければならなかった。

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彼がこの場所を逃げだすためには、あたりの人々がみんな立去った後でなければならないのだ。

さもなければ、白痴の姿を見られてしまう。

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さもなければ、白痴の姿を見られてしまう。

「じゃ先生、お大事に。」

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じゃ先生、お大事に。

リヤカーを引っぱり出すと、仕立屋も慌てていた。

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リヤカーをひっぱりだすと仕立屋も慌てていた。

リヤカーは、路地のあちこちの角にぶつかりながら、立ち去っていった。

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リヤカーは路地の角々にぶつかりながら立去った。

それが、この路地の住人たちが最後に逃げ去っていく姿だった。

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それがこの路地の住人達の最後に逃げ去る姿であった。

岩を洗う荒波の、終わりのない音のような、屋根を打つ高射砲の無数の破片が、いつまでも落ちてくる音のような、途切れることも高低もない、ザアザアという不気味な音が、どこまでも続いている。それは、府道(ふどう・都道)を流れていく避難民たちの、大勢の足音だった。

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岩を洗う怒濤の無限の音のような、屋根を打つ高射砲の無数の破片の無限の落下の音のような、休止と高低の何もないザアザアという無気味な音が無限に連続しているのだが、それが府道を流れている避難民達の一かたまりの跫音なのだ。

高射砲の音などは、もう間が抜けて聞こえるほどで、その足音の流れの中には、なんとも言えない不思議な命の気配がこもっていた。

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高射砲の音などはもう間が抜けて、跫音の流れの中に奇妙な命がこもっていた。

高低も途切れもない、この奇妙な音の終わりのない流れを、世の中の誰が「足音」だと分かるだろうか。

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高低と休止のない奇怪な音の無限の流れを世の何人が跫音と判断し得よう。

天も地も、ただ無数の音であふれていた。

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天地はただ無数の音響でいっぱいだった。

アメリカの飛行機の爆音、高射砲、落ちてくる音、爆発の音、足音、屋根を打つ弾のかけら——けれども、伊沢のまわり何十メートルかだけは、赤く染まった天地の真ん中で、なぜか小さな闇をつくっていて、まったくひっそりとしていた。

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米機の爆音、高射砲、落下音、爆発の音響、跫音、屋根を打つ弾片、けれども伊沢の身辺の何十米かの周囲だけは赤い天地のまんなかでともかく小さな闇をつくり、全然ひっそりしているのだった。

妙な静けさの厚みと、気が狂いそうなほどの孤独の厚みが、すっぽりとまわりを包んでいた。

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変てこな静寂の厚みと、気の違いそうな孤独の厚みがとっぷり四周をつつんでいる。

「もう三十秒、もう十秒だけ待とう。」

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もう三十秒、もう十秒だけ待とう。

なぜ、そして誰が命令しているのか、どうしてそれに従わなければならないのか、伊沢は気が狂いそうだった。

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なぜ、そして誰が命令しているのだか、どうしてそれに従わねばならないのだか、伊沢は気違いになりそうだった。

突然、もだえ、泣きわめいて、何も見えないままに走りだしそうだった。

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突然、もだえ、泣き喚いて盲目的に走りだしそうだった。

その時、耳の中をかき回すような落下音が、頭の真上へ落ちてきた。

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そのとき鼓膜の中を掻き廻すような落下音が頭の真上へ落ちてきた。

夢中で地面に伏せると、頭の上で音は突然消え失せ、うそのような静けさが、また周りに戻ってきた。

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夢中に伏せると、頭上で音響は突然消え失せ、嘘のような静寂が再び四周に戻っている。

「やれやれ、脅かしやがる。」

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やれやれ、脅かしやがる。

伊沢はゆっくり起き上がって、胸や膝の土を払った。

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伊沢はゆっくり起き上って、胸や膝の土を払った。

顔を上げると、気違いの家が火を吹いていた。

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顔をあげると、気違いの家が火を吹いている。

「何だ、とうとう落ちたのか」、彼は、妙に落ち着いていた。

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何だい、とうとう落ちたのか、彼は奇妙に落着いていた。

気がつくと、その左右の家も、すぐ目の前のアパートも、火を噴きだしていた。

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気がつくと、その左右の家も、すぐ目の前のアパートも火をふきだしているのだ。

伊沢は、家の中へ飛びこんだ。

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伊沢は家の中へとびこんだ。

押入れの戸をはねとばし(実際、それは外れて飛んで、バタバタと倒れた)、白痴の女を抱くようにして、布団をかぶって走り出た。

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押入の戸をはねとばして(実際それは外れて飛んでバタバタと倒れた)白痴の女を抱くように蒲団をかぶって走りでた。

それから一分間くらいのことは、まったく夢中で、何も分からなかった。

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それから一分間ぐらいのことが全然夢中で分らなかった。

路地の出口に近づいた時、また、音が頭の上めがけて落ちてきた。

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路地の出口に近づいたとき、又、音響が頭上めがけて落ちてきた。

伏せていた体を起こすと、路地の出口のたばこ屋も火を噴き、向かいの家では、仏壇の中から火が噴きだしているのが見えた。

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伏せから起上ると、路地の出口の煙草屋も火を吹き、向いの家では仏壇の中から火が吹きだしているのが見えた。

路地を出て振り返ると、仕立屋も火を噴きはじめ、どうやら伊沢の小屋も、燃えはじめているようだった。

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路地をでて振りかえると、仕立屋も火を吹きはじめ、どうやら伊沢の小屋も燃えはじめているようだった。

あたりはまったくの火の海で、府道の上には避難民の姿も少なく、火の粉が飛びかい舞い狂っているばかりだった。「もう駄目だ」と伊沢は思った。

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四周は全くの火の海で府道の上には避難民の姿もすくなく、火の粉がとびかい舞い狂っているばかり、もう駄目だと伊沢は思った。

十字路まで来ると、そこからはひどい混雑で、あらゆる人々が、ただ一つの方向をめざしていた。

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十字路へくると、ここから大変な混雑で、あらゆる人々がただ一方をめざしている。

その方向が、いちばん火の手から遠いのだった。

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その方向がいちばん火の手が遠いのだ。

そこはもう道ではなく、人間と荷物と悲鳴が重なりあった流れにすぎなかった。押し合いへし合い、突き進み、踏み越え、押し流され——落下音が頭の上に迫ると、流れはいっせいに地面に伏せて、不思議なほどぴたりと止まる。何人かの男たちだけが、その流れの上を踏みつけて駆け去っていくが、流れの大半の人々は、荷物と、子どもと、女と、年寄りを連れていて、呼びかわしたり、立ち止まったり、引き返したり、ぶつかってはじき飛ばされたりしていた。そして火の手は、もう道のすぐ左右に迫っていた。

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そこはもう道ではなくて、人間と荷物の悲鳴の重りあった流れにすぎず、押しあいへしあい突き進み踏み越え押し流され、落下音が頭上にせまると、流れは一時に地上に伏して不思議にぴったり止まってしまい、何人かの男だけが流れの上を踏みつけて駆け去るのだが、流れの大半の人々は荷物と子供と女と老人の連れがあり、呼びかわし立ち止り戻り突き当りはねとばされ、そして火の手はすぐ道の左右にせまっていた。

小さな十字路に来た。

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小さな十字路へきた。

人の流れがここでもみんな一つの方向をめざしているのは、やはりそちらの方が火の手からいちばん遠いからだった。だが、その方向には空き地も畑もないことを、伊沢は知っていた。次のアメリカの飛行機の焼夷弾が行く手をふさげば、この道には死の運命が待っているだけだった。

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流れの全部がここでも一方をめざしているのは矢張りそっちが火の手が最も遠いからだが、その方向には空地も畑もないことを伊沢は知っており、次の米機の焼夷弾が行く手をふさぐとこの道には死の運命があるのみだった。

もう一方の道は、すでに両側の家々が激しく燃えていたが、そこを抜けると小川が流れていて、その小川に沿って数町(一町は約109メートル)ほどのぼると、麦畑に出られることを、伊沢は知っていた。

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一方の道は既に両側の家々が燃え狂っているのだが、そこを越すと小川が流れ、小川の流れを数町上ると麦畑へでられることを伊沢は知っていた。

その道を駆け抜けていく人影は一人もなかったので、伊沢の決心もにぶりかけたが、ふと見ると、百五十メートルほど先の方で、燃えさかる火に水をかけている、たった一人の男の姿が見えた。

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その道を駆けぬけて行く一人の影すらもないのだから、伊沢の決意も鈍ったが、ふと見ると百五十米ぐらい先の方で猛火に水をかけているたった一人の男の姿が見えるのであった。

火に水をかけるといっても、決して勇ましい姿ではなく、ただバケツをぶらさげているだけで、たまに水をかけてみたり、ぼんやり立ったり、歩いてみたりと、妙にぼんやりした動きで、何を考えているのか分からないような、間の抜けた姿だった。

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猛火に水をかけるといっても決して勇しい姿ではなく、ただバケツをぶらさげているだけで、たまに水をかけてみたり、ぼんやり立ったり歩いてみたり変に痴鈍な動きで、その男の心理の解釈に苦しむような間の抜けた姿なのだった。

とにかく、一人の人間が焼け死にもせずに立っていられるのだから、と伊沢は思った。

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ともかく一人の人間が焼け死にもせず立っていられるのだからと、伊沢は思った。

「俺の運を、試してみるのだ」

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俺の運をためすのだ。

運。

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運。

まさに、もう残されているのは、一つの運と、それを選びとる決断だけだった。

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まさに、もう残されたのは、一つの運、それを選ぶ決断があるだけだった。

十字路に、溝があった。

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十字路に溝があった。

伊沢は、溝に布団をひたした。

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伊沢は溝に蒲団をひたした。

伊沢は女と肩を組み、布団をかぶって、群衆の流れから離れた。

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伊沢は女と肩を組み、蒲団をかぶり、群集の流れに訣別した。

燃えさかる炎が渦巻く道に向かって、一歩踏み出すと、女は本能的に立ち止まり、群衆の流れる方へ引き戻されるように、フラフラとよろめいていった。

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猛火の舞い狂う道に向って一足歩きかけると、女は本能的に立ち止り群集の流れる方へひき戻されるようにフラフラとよろめいて行く。

「馬鹿!」

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「馬鹿!」

女の手を力いっぱい握ってひっぱり、道の上へよろめいて出ていく女の肩を抱きすくめて、「そっちへ行けば、死ぬだけなんだ」

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女の手を力一杯握ってひっぱり、道の上へよろめいて出る女の肩をだきすくめて、「そっちへ行けば死ぬだけなのだ」

女の体を自分の胸に抱きしめて、ささやいた。

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女の身体を自分の胸にだきしめて、ささやいた。

「死ぬ時は、こうして、二人一緒だよ。怖がるな。そして、俺から離れるな。火も爆弾も忘れて——おい、俺たち二人の一生の道はな、いつもこの道なんだよ。この道をただまっすぐ見つめて、俺の肩にすがりついてくればいい。分かったね」

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「死ぬ時は、こうして、二人一緒だよ。怖れるな。そして、俺から離れるな。火も爆弾も忘れて、おい俺達二人の一生の道はな、いつもこの道なのだよ。この道をただまっすぐ見つめて、俺の肩にすがりついてくるがいい。分ったね」

女は、こくんとうなずいた。

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女はごくんとうなずいた。

そのうなずき方は、子どもっぽくたどたどしかったが、伊沢は感動のあまり、気が狂いそうになった。

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その頷きは稚拙であったが、伊沢は感動のために狂いそうになるのであった。

ああ、これは、長い長い、何度もの恐怖の時間の中で、昼も夜も爆撃を受けつづける中で、女が初めて示した意志であり、ただ一度きりの答えだった。

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ああ、長い長い幾たびかの恐怖の時間、夜昼の爆撃の下に於て、女が表した始めての意志であり、ただ一度の答えであった。

そのいじらしさに、伊沢はのぼせあがりそうだった。

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そのいじらしさに伊沢は逆上しそうであった。

今こそ、自分は一人の人間を抱きしめているのだ、と伊沢は思った。そして、その抱きしめている人間に、限りない誇りを感じるのだった。

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今こそ人間を抱きしめており、その抱きしめている人間に、無限の誇りをもつのであった。

二人は、燃えさかる炎をくぐって走った。

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二人は猛火をくぐって走った。

熱い風のかたまりの下を抜け出ると、道の両側はまだ燃えている火の海だったが、すでに家の屋根は焼け落ちたあとで、火の勢いは弱まり、熱気も少なくなっていた。

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熱風のかたまりの下をぬけでると、道の両側はまだ燃えている火の海だったが、すでに棟は焼け落ちたあとで火勢は衰え熱気は少くなっていた。

そこにも、溝が水であふれていた。

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そこにも溝があふれていた。

女の足から肩の上まで水を浴びせ、もう一度、布団を水にひたしてかぶり直した。

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女の足から肩の上まで水を浴せ、もう一度蒲団を水に浸してかぶり直した。

道の上には、焼けた荷物や布団が飛び散り、人間が二人、死んでいた。

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道の上に焼けた荷物や蒲団が飛び散り、人間が二人死んでいた。

四十歳くらいの女と男のようだった。

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四十ぐらいの女と男のようだった。

二人は再び肩を組み、火の海を走った。

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二人は再び肩を組み、火の海を走った。

二人は、ようやく小川のふちへ出た。

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二人はようやく小川のふちへでた。

ところがここは、小川の両側の工場が激しい火を吹きあげて燃え狂っていて、進むことも、退くことも、立ち止まることもできなくなった。だがふと見ると、小川にはしごがかけられていたので、布団をかぶせて女を下ろし、伊沢は一気に飛び降りた。

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ところが此処は小川の両側の工場が猛火を吹きあげて燃え狂っており、進むことも退くことも立止ることも出来なくなったが、ふと見ると小川に梯子はしごがかけられているので、蒲団をかぶせて女を下し、伊沢は一気に飛び降りた。

別れ別れになった人々が、三々五々(三人五人と少人数のまとまりで)川の中を歩いている。

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訣別した人間達が三々五々川の中を歩いている。

女は、時々自分から進んで、体を水に浸していた。

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女は時々自発的に身体を水に浸している。

犬でさえそうせずにいられないような状況だったが、まるで一人の新しい、かわいらしい女が生まれ出てきたような新鮮さに、伊沢は目を見開いて、水を浴びる女の姿を、むさぼるように見つめた。

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犬ですらそうせざるを得ぬ状況だったが、一人の新たな可愛い女が生れでた新鮮さに伊沢は目をみひらいて水を浴びる女の姿態をむさぼり見た。

小川は、炎の下を出て、暗やみの中を流れはじめた。

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小川は炎の下を出外れて暗闇の下を流れはじめた。

空いちめんが火の色で、本当の暗やみというものはあり得なかったが、また生きてこの暗やみを見ることができたことに、伊沢は、むしろ得体の知れない大きな疲れと、果てしない虚しさのために、ただぼんやりとした気持ちが広がっていくのを感じるだけだった。

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空一面の火の色で真の暗闇は有り得なかったが、再び生きて見ることを得た暗闇に、伊沢はむしろ得体の知れない大きな疲れと、はてしれぬ虚無とのためにただ放心がひろがる様を見るのみだった。

その底には、小さな安心もあったが、それは妙にみみっちく、ばかげたものに思われた。

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その底に小さな安堵があるのだが、それは変にケチくさい、馬鹿げたものに思われた。

何もかもが、ばかばかしく思えていた。

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何もかも馬鹿馬鹿しくなっていた。

川から上がると、麦畑があった。

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川をあがると、麦畑があった。

麦畑は三方を丘に囲まれていて、三町(一町は約109メートル)四方くらいの広さがあり、その真ん中を、国道が丘を切り開いて通っていた。

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麦畑は三方丘にかこまれて、三町四方ぐらいの広さがあり、そのまんなかを国道が丘を切りひらいて通っている。

丘の上の住宅は燃えていて、麦畑のふちの銭湯(せんとう・お風呂屋さん)や工場やお寺なども燃えていた。それぞれの火の色は、白、赤、だいだい色、青と、濃さも色あいもみんな違っているのだった。

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丘の上の住宅は燃えており、麦畑のふちの銭湯と工場と寺院と何かが燃えており、その各々の火の色が白、赤、だいだい、青、濃淡とりどりみんな違っているのである。

急に風が吹きだして、ごうごうと空気がうなり、霧のような細かい水のつぶが、あたり一面に降りかかってきた。

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にわかに風が吹きだしてごうごうと空気が鳴り、霧のようなこまかい水滴が一面にふりかかってきた。

人々の群れは、まだ長く続きながら、国道を流れていた。

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群集は尚蜿蜒えんえんと国道を流れていた。

麦畑で休んでいるのは数百人ほどで、長く続く国道の人々の群れに比べれば、たいした数ではなかった。

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麦畑に休んでいるのは数百人で、蜿蜒たる国道の群集にくらべれば物の数ではないのであった。

麦畑の続きに、雑木林の丘があった。

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麦畑のつづきに雑木林の丘があった。

その丘の林の中には、ほとんど人がいなかった。

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その丘の林の中には殆ど人がいなかった。

二人は木立の下に布団をしいて、寝ころんだ。

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二人は木立の下へ蒲団をしいてねころんだ。

丘の下の畑のふちで、一軒の農家が燃えていて、水をかけている数人の人の姿が見えた。

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丘の下の畑のふちに一軒の農家が燃えており、水をかけている数人の人の姿が見える。

その裏手に井戸があって、一人の男がポンプをガチャガチャと動かし、水を飲んでいた。

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その裏手に井戸があって一人の男がポンプをガチャガチャやり水を飲んでいるのである。

それを目がけて、畑の四方から、たちまち二十人くらいの、年寄りも子どもも男も女も、駆け集まってきた。

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それを目がけて畑の四方からたちまち二十人ぐらいの老幼男女が駆け集ってきた。

彼らはポンプをガチャガチャと動かし、代わる代わる水を飲んでいた。

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彼等はポンプをガチャガチャやり、代る代る水を飲んでいるのである。

それから、燃え落ちようとする家の火に手をかざして、ぐるりと並んで暖を取り、崩れ落ちる火のかたまりに飛びのいたり、煙に顔をそむけたり、話をしたりしていた。

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それから燃え落ちようとする家の火に手をかざして、ぐるりと並んでだんをとり、崩れ落ちる火のかたまりに飛びのいたり、煙に顔をそむけたり、話をしたりしている。

誰も、火を消すのを手伝う者はいなかった。

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誰も消火に手伝う者はいなかった。

「眠くなった」と女が言った。「私、疲れたの」とか、「足が痛いの」とか、「目も痛いの」とかいうつぶやきの中で、三つに一つくらいは、「私、眠りたいの」と言うのだった。

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ねむくなったと女が言い、私疲れたのとか、足が痛いのとか、目も痛いのとかの呟きのうち三つに一つぐらいは私ねむりたいの、と言った。

「眠るといいさ」と、伊沢は女を布団にくるんでやり、たばこに火をつけた。

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ねむるがいいさ、と伊沢は女を蒲団にくるんでやり、煙草に火をつけた。

何本目かのたばこを吸っているうちに、遠くの方で警報の解除が鳴り、数人のお巡りさんが麦畑の中を歩いて、解除を知らせていた。

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何本目かの煙草を吸っているうちに、遠く彼方に解除の警報がなり、数人の巡査が麦畑の中を歩いて解除を知らせていた。

彼らの声はみんなかすれていて、人間の声のようには聞こえなかった。

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彼等の声は一様につぶれ、人間の声のようではなかった。

「蒲田署(かまたしょ・蒲田を担当する警察署)の管内の人は、矢口国民学校(やぐちこくみんがっこう・国民学校は戦争中の小学校の呼び名)が焼け残ったので、そこに集まってください」と知らせていた。

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蒲田署管内の者は矢口国民学校が焼け残ったから集れ、とふれている。

人々が、畑のうねから起き上がり、国道へ下りていった。

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人々が畑のうねから起き上り、国道へ下りた。

国道は、再び人の波になっていた。

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国道は再び人の波だった。

しかし、伊沢は動かなかった。

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然し、伊沢は動かなかった。

彼の前にも、お巡りさんが来た。

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彼の前にも巡査がきた。

「その人はどうしたのかね。怪我をしたのかね」

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「その人は何かね。怪我をしたのかね」

「いいえ、疲れて、眠っているのです」

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「いいえ、疲れて、ねているのです」

「矢口国民学校を知っているかね」

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「矢口国民学校を知っているかね」

「ええ、一休みして、あとから行きます」

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「ええ、一休みして、あとから行きます」

「勇気を出したまえ。これくらいのことで」

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「勇気をだしたまえ。これしきのことに」

お巡りさんの声は、もう続かなかった。

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巡査の声はもう続かなかった。

お巡りさんの姿は消え去り、雑木林の中には、とうとう二人の人間だけが残された。

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巡査の姿は消え去り、雑木林の中にはとうとう二人の人間だけが残された。

二人の人間だけが——けれども、女はやはり、ただ一つの肉のかたまりにすぎないではないか。

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二人の人間だけが――けれども女は矢張りただ一つの肉塊にすぎないではないか。

女は、ぐっすり眠っていた。

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女はぐっすりねむっていた。

すべての人々が、今、焼けあとの煙の中を歩いている。

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すべての人々が今焼跡の煙の中を歩いている。

すべての人々が家を失い、そしてみんな歩いている。

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全ての人々が家を失い、そして皆な歩いている。

眠ることなど、考えてすらいないだろう。

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眠りのことを考えてすらいないであろう。

今、眠ることができるのは、死んだ人間と、この女だけだった。

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今眠ることができるのは、死んだ人間とこの女だけだ。

死んだ人間は二度と目覚めることがないが、この女はやがて目覚める。そして、目覚めたからといって、眠りこけていた肉のかたまりに、何かがつけ加わるということもあり得ないのだった。

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死んだ人間は再び目覚めることがないが、この女はやがて目覚め、そして目覚めることによって眠りこけた肉塊に何物を附け加えることも有り得ないのだ。

女は、かすかだが、今まで聞いたことのないいびきをかいていた。

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女はかすかであるが今まで聞き覚えのないいびき声をたてていた。

それは、ブタの鳴き声に似ていた。

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それは豚の鳴声に似ていた。

まったく、この女自体がブタそのものだ、と伊沢は思った。

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まったくこの女自体が豚そのものだと伊沢は思った。

そして彼は、子どもの頃の、小さな記憶のかけらを、ふと思い出していた。

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そして彼は子供の頃の小さな記憶の断片をふと思いだしていた。

一人のガキ大将の命令で、十何人かの子どもたちが子ブタを追いまわしていた。

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一人の餓鬼大将の命令で十何人かの子供たちが仔豚を追いまわしていた。

追いつめて、ガキ大将はジャックナイフで、ブタのお尻の肉を少し切りとった。

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追いつめて、餓鬼大将はジャックナイフでいくらかの豚の尻肉を切りとった。

ブタは痛そうな顔もせず、特別大きな鳴き声もたてなかった。

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豚は痛そうな顔もせず、特別の鳴声もたてなかった。

お尻の肉を切り取られたことにも気づかないように、ただ逃げまわっているだけだった。

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尻の肉を切りとられたことも知らないように、ただ逃げまわっているだけだった。

伊沢は、アメリカ軍が上陸して、大きな砲弾があちこちでうなり、コンクリートのビルが吹き飛び、頭の上をアメリカの飛行機が急降下して機関銃で撃ってくる中、土ぼこりと崩れたビルと穴の間を転げまわりながら逃げまどっている、自分と女のことを考えていた。

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伊沢は米軍が上陸して重砲弾が八方に唸りコンクリートのビルが吹きとび、頭上に米機が急降下して機銃掃射を加える下で、土煙りと崩れたビルと穴の間を転げまわって逃げ歩いている自分と女のことを考えていた。

崩れたコンクリートの陰で、女が一人の男に押さえつけられている。男は女をねじ倒して、体を重ねながら、女のお尻の肉をむしり取って食べている。

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崩れたコンクリートの蔭で、女が一人の男に押えつけられ、男は女をねじ倒して、肉体の行為にふけりながら、男は女の尻の肉をむしりとって食べている。

女のお尻の肉は、だんだん少なくなっていくが、女は、ただ体の欲のことだけを考えていた。

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女の尻の肉はだんだん少くなるが、女は肉慾のことを考えているだけだった。

夜明けに近づくと冷えはじめて、伊沢は冬の外套も着ていたし、厚いセーターも着ていたが、その寒さはたえがたいものだった。

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明方に近づくと冷えはじめて、伊沢は冬の外套がいとうもきていたし厚いジャケツもきているのだが、寒気が堪えがたかった。

下の麦畑のふちの、あちこちには、まだ燃えつづけている、一面の火の原があった。

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下の麦畑のふちの諸方には尚燃えつづけている一面の火の原があった。

そこまで行って暖をとりたいと思ったが、女が目を覚ますと困るので、伊沢は身動きができなかった。

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そこまで行って煖をとりたいと思ったが、女が目を覚すと困るので、伊沢は身動きができなかった。

女の目を覚まさせることが、なぜか、たまらなく嫌な気がしていた。

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女の目を覚すのがなぜか堪えられぬ思いがしていた。

女が眠りこけているうちに、女を置いて立ち去りたいとも思ったが、それすらも、面倒くさくなっていた。

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女の眠りこけているうちに女を置いて立去りたいとも思ったが、それすらも面倒くさくなっていた。

人が物を捨てる時には、たとえば紙くずを捨てるだけでも、捨てるだけの張り合いや、きれい好きな気持ちくらいはあるものだろう。

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人が物を捨てるには、たとえば紙屑を捨てるにも、捨てるだけの張合いと潔癖ぐらいはあるだろう。

この女を捨てるための張り合いも、そういうきれい好きな気持ちも、失われてしまっているだけだった。

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この女を捨てる張合いも潔癖も失われているだけだ。

少しの愛情もなかったし、未練もなかったが、捨てるだけの張り合いすらもなかった。

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微塵みじんの愛情もなかったし、未練もなかったが、捨てるだけの張合いもなかった。

生きるための、明日への希望がなかったからだった。

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生きるための、明日の希望がないからだった。

明日になって、たとえば女の姿を捨ててみたところで、どこかに何か希望があるというのだろうか。

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明日の日に、たとえば女の姿を捨ててみても、どこかの場所に何か希望があるのだろうか。

何をたよりに、生きていくのだろう。

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何をたよりに生きるのだろう。

どこに住む家があるのか、眠る穴ぼこがあるのか、それすらも分からなかった。

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どこに住む家があるのだか、眠る穴ぼこがあるのだか、それすらも分りはしなかった。

アメリカ軍が上陸して、天も地もあらゆる破壊が起こり、その戦争の破壊という巨大な愛情が、すべてを裁いてくれるだろう。

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米軍が上陸し、天地にあらゆる破壊が起り、その戦争の破壊の巨大な愛情が、すべてを裁いてくれるだろう。

考えることすら、なくなっていた。

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考えることもなくなっていた。

夜が明けはじめたら、女を起こして、焼けあとの方には見向きもせず、とにかくねぐらを探して、なるべく遠くの停車場をめざして歩きだすことにしよう、と伊沢は考えていた。

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夜が白んできたら、女を起して焼跡の方には見向きもせず、ともかくねぐらを探して、なるべく遠い停車場をめざして歩きだすことにしようと伊沢は考えていた。

電車や汽車は、動くだろうか。

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電車や汽車は動くだろうか。

停車場のまわりの、枕木でできた垣根にもたれて休んでいる時、「今朝は、はたして空が晴れて、俺と、俺の隣に並んだブタの背中に、太陽の光がそそぐだろうか」と伊沢は考えていた。

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停車場の周囲の枕木の垣根にもたれて休んでいるとき、今朝は果して空が晴れて、俺と俺の隣に並んだ豚の背中に太陽の光がそそぐだろうかと伊沢は考えていた。

あまりに、今朝が寒すぎたからだった。

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あまり今朝が寒すぎるからであった。