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白痴 現代語訳

坂口安吾さかぐちあんご)・1990

AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-28

その家には人間と豚と犬と鶏と家鴨が住んでいたが、まったく、住む建物も各々の食べ物もほとんど変わってなどいない。

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その家には人間と豚と犬と鶏と家鴨あひるが住んでいたが、まったく、住む建物も各々の食物もほとんど変っていやしない。

物置のようなひん曲がった建物があって、階下には主人夫婦、天井裏には母と娘が間借りしていて、この娘は相手の分からない子供を身ごもっている。

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物置のようなひん曲った建物があって、階下には主人夫婦、天井裏には母と娘が間借りしていて、この娘は相手の分らぬ子供をはらんでいる。

伊沢の借りている一室は母屋から切り離された小屋で、ここは昔この家の肺病の息子が寝ていたそうだが、肺病の豚にも贅沢すぎる小屋ではない。

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伊沢の借りている一室は母屋から分離した小屋で、ここは昔この家の肺病の息子がねていたそうだが、肺病の豚にも贅沢すぎる小屋ではない。

それでも押入と便所と戸棚がついていた。

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それでも押入と便所と戸棚がついていた。

主人夫婦は仕立屋で町内の裁縫の先生などもやり(それゆえ肺病の息子を別の小屋へ入れたのだ)町会の役員などもやっている。

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主人夫婦は仕立屋で町内のお針の先生などもやり(それ故肺病の息子を別の小屋へ入れたのだ)町会の役員などもやっている。

間借りの娘はもともと町会の事務員だったが、町会事務所に寝泊まりしていて、町会長と仕立屋を除いた他の役員全員(十数人)と公平に関係を結んだそうで、そのうちの誰かの種を宿したわけだ。

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間借りの娘は元来町会の事務員だったが、町会事務所に寝泊りしていて町会長と仕立屋を除いた他の役員の全部の者(十数人)と公平に関係を結んだそうで、そのうちの誰かの種を宿したわけだ。

そこで町会の役員たちが金を出し合ってこの屋根裏で子供の始末をつけさせようというのだが、世間は無駄がないもので、役員の一人に豆腐屋がいて、この男だけは娘が妊娠してこの屋根裏に隠れ住んだ後も通ってきて、結局娘はこの男の妾のようなかたちに決まってしまった。

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そこで町会の役員共が醵金きょきんしてこの屋根裏で子供の始末をつけさせようというのだが、世間は無駄がないもので、役員の一人に豆腐屋がいて、この男だけ娘が姙娠してこの屋根裏にひそんだ後も通ってきて、結局娘はこの男の妾のようにきまってしまった。

他の役員たちはこれが分かるとさっそく金を出すのをやめてしまい、この分かれ目の一か月分の生活費は豆腐屋が負担すべきだと主張して、支払いに応じない八百屋と時計屋と地主と何屋だか七、八人あり(一人当たり金五円)娘は今に至るまで地団駄を踏んでいる。

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他の役員共はこれが分るとさっそく醵金をやめてしまい、この分れ目の一ヶ月分の生活費は豆腐屋が負担すべきだと主張して、支払いに応じない八百屋と時計屋と地主と何屋だか七八人あり(一人当り金五円)娘は今に至るまで地団駄じだんだふんでいる。

この娘は大きな口と大きな二つの目玉をつけていて、そのくせひどく痩せこけていた。

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この娘は大きな口と大きな二つの眼の玉をつけていて、そのくせひどくせこけていた。

家鴨を嫌って、鶏にだけ食べ物の残りをやろうとするのだが、家鴨が横からさらっていくので、毎日腹を立てて家鴨を追いかけている。

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家鴨を嫌って、鶏にだけ食物の残りをやろうとするのだが、家鴨が横からまきあげるので、毎日腹を立てて家鴨を追っかけている。

大きな腹と尻を前後に突き出して奇妙な直立の姿勢で走る恰好が家鴨に似ているのであった。

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大きな腹と尻を前後に突きだして奇妙な直立の姿勢で走る恰好かっこうが家鴨に似ているのであった。

この路地の出口に煙草屋があって、五十五という婆さんが白粉をつけて住んでおり、七人目とか八人目とかの情夫を追い出して、その代わりを中年の坊主にしようかやはり中年の何屋だかにしようかと悩んでいる最中だそうで、若い男が裏口から煙草を買いに行くといくらか売ってくれるそうで(ただし闇値)先生(伊沢のこと)も裏口から行ってごらんなさいと仕立屋が言うのだが、あいにく伊沢は勤め先で特別配給があるので婆さんの世話にならずに済んでいた。

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この路地の出口に煙草屋があって、五十五という婆さんが白粉おしろいつけて住んでおり、七人目とか八人目とかの情夫を追いだして、その代りを中年の坊主にしようか矢張り中年の何屋だかにしようかと煩悶中の由であり、若い男が裏口から煙草を買いに行くと幾つか売ってくれる由で(但し闇値)先生(伊沢のこと)も裏口から行ってごらんなさいと仕立屋が言うのだが、あいにく伊沢は勤め先で特配があるので婆さんの世話にならずにすんでいた。

ところがその筋向かいの米の配給所の裏手に小金を握った未亡人が住んでいて、兄(工員)と妹と二人の子供があるのだが、この実の兄妹が夫婦の関係を結んでいる。

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ところがその筋向いの米の配給所の裏手に小金を握った未亡人が住んでいて、兄(職工)と妹と二人の子供があるのだが、この真実の兄妹が夫婦の関係を結んでいる。

けれども未亡人は結局その方が安上がりだと黙認しているうちに、兄の方に女ができた。

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けれども未亡人は結局その方が安上りだと黙認しているうちに、兄の方に女ができた。

そこで妹の方を片づける必要があって親戚に当たる五十とか六十とかの老人のところへ嫁入りということになり、妹が猫いらずを飲んだ。

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そこで妹の方をかたづける必要があって親戚に当る五十とか六十とかの老人のところへ嫁入りということになり、妹が猫イラズを飲んだ。

飲んでおいて仕立屋(伊沢の下宿)へお稽古に来て苦しみはじめ、結局死んでしまったが、そのとき町内の医者が心臓麻痺という診断書をくれて話はそのまま消えてしまった。

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飲んでおいて仕立屋(伊沢の下宿)へお稽古にきて苦しみはじめ、結局死んでしまったが、そのとき町内の医者が心臓麻痺の診断書をくれて話はそのまま消えてしまった。

え?

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え?

どの医者がそんな便利な診断書をくれるんですか、と伊沢が仰天して尋ねると、仕立屋の方があっけにとられた顔つきで、なんですか、よそでは、そうじゃないんですか、と訊いた。

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 どの医者がそんな便利な診断書をくれるんですか、と伊沢が仰天して訊ねると、仕立屋の方が呆気あっけにとられた面持で、なんですか、よそじゃ、そうじゃないんですか、と訊いた。

このあたりは安アパートが林立し、それらの部屋の何分の一かは妾と娼婦が住んでいる。

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このへんは安アパートが林立し、それらの部屋の何分の一かは妾と淫売が住んでいる。

その女たちには子供がなく、また、それぞれの部屋をきれいにするという共通の性質を持っているので、そのために管理人には喜ばれて、その私生活の乱れようや背徳ぶりが問題になったことは一度もない。

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それらの女達には子供がなく、又、各々の部屋を綺麗にするという共通の性質をもっているので、そのために管理人に喜ばれて、その私生活の乱脈さ背徳性などは問題になったことが一度もない。

アパートの半数以上は軍需工場の寮となり、そこにも女子挺身隊の集団が住んでいて、何課の誰さんの愛人だの課長殿の戦時夫人(というのはつまり本物の夫人は疎開中ということだ)だの重役の二号だの会社を休んで月給だけもらっている妊娠中の挺身隊だのがいるのである。

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アパートの半数以上は軍需工場の寮となり、そこにも女子挺身隊ていしんたいの集団が住んでいて、何課の誰さんの愛人だの課長殿の戦時夫人(というのはつまり本物の夫人は疎開中ということだ)だの重役の二号だの会社を休んで月給だけ貰っている姙娠中の挺身隊だのがいるのである。

中に一人、月五百円の妾というのが一戸を構えていて羨望の的であった。

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中に一人五百円の妾というのが一戸を構えていて羨望の的であった。

人殺しが商売だったという満洲浪人(この妹は仕立屋の弟子)の隣は指圧の先生で、その隣は仕立屋銀次の流れをくむその道の達人だということであり、その裏に海軍少尉がいるのだが、毎日魚を食いコーヒーを飲み缶詰をあけ酒を飲み、このあたりは一尺掘ると水が出るので、防空壕の作りようもないというのに、少尉だけはセメントを使って自宅よりも立派な防空壕を持っていた。

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人殺しが商売だったという満洲浪人(この妹は仕立屋の弟子)の隣は指圧の先生で、その隣は仕立屋銀次の流れをくむその道の達人だということであり、その裏に海軍少尉がいるのだが、毎日魚を食い珈琲コーヒーをのみ缶詰をあけ酒を飲み、このあたりは一尺掘ると水がでるので、防空壕の作りようもないというのに、少尉だけはセメントを用いて自宅よりも立派な防空壕をもっていた。

また、伊沢が通勤に通る道筋の百貨店(木造二階建て)は戦争で商品がなく休業中だが、二階では連日賭場が開かれており、その顔役はいくつかの国民酒場を占領して行列している人民たちを睨みつけながら連日泥酔していた。

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又、伊沢が通勤に通る道筋の百貨店(木造二階建)は戦争で商品がなく休業中だが、二階では連日賭場が開帳されており、その顔役は幾つかの国民酒場を占領して行列の人民共をにらみつけて連日泥酔していた。

伊沢は大学を卒業すると新聞記者になり、続いて文化映画の演出家(まだ見習いで単独で演出したことはない)になった男で、二十七の年齢のわりには裏側の人生にいくらか知識はあるはずで、政治家、軍人、実業家、芸人などの内幕にもいくらか通じていたが、場末の小工場とアパートに取り囲まれた商店街の生態がこんなものだとは想像もしていなかった。

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伊沢は大学を卒業すると新聞記者になり、つづいて文化映画の演出家(まだ見習いで単独演出したことはない)になった男で、二十七の年齢にくらべれば裏側の人生にいくらか知識はあるはずで、政治家、軍人、実業家、芸人などの内幕に多少の消息は心得ていたが、場末の小工場とアパートにとりかこまれた商店街の生態がこんなものだとは想像もしていなかった。

戦争以来人の心が荒んだせいだろうと訊いてみると、いえ、なんですよ、このへんじゃ、前からこんなものでしたねえ、と仕立屋は哲学者のような顔つきで静かに答えるのであった。

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戦争以来人心がすさんだせいだろうと訊いてみると、いえ、なんですよ、このへんじゃ、先からこんなものでしたねえ、と仕立屋は哲学者のような面持で静かに答えるのであった。

けれども最大の人物は伊沢の隣人であった。

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けれども最大の人物は伊沢の隣人であった。

この隣人は気違いだった。

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この隣人は気違いだった。

相当の資産があり、わざわざ路地のどん詰まりを選んで家を建てたのも気違いなりの心づかいで、泥棒や用もない者の侵入を極度に嫌った結果だろうと思われる。

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相当の資産があり、わざわざ路地のどん底を選んで家を建てたのも気違いの心づかいで、泥棒乃至ないし無用の者の侵入を極度に嫌った結果だろうと思われる。

なぜなら、路地のどん詰まりに辿りついてこの家の門をくぐり見回しても戸口というものがないからで、見渡すかぎり格子のはまった窓ばかり、この家の玄関は門とは正反対の裏側にあって、要するにいっぺんぐるりと建物を回った上でなければ辿りつくことができない。

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なぜなら、路地のどん底に辿たどりつきこの家の門をくぐって見廻すけれども戸口というものがないからで、見渡す限り格子のはまった窓ばかり、この家の玄関は門と正反対の裏側にあって、要するにいっぺんグルリと建物を廻った上でないと辿りつくことができない。

用のない侵入者はさじを投げて引き下がる仕組みであり、あるいは玄関を探してうろつくうちに何者かの侵入を見破って警戒態勢に入るという仕組みでもあって、隣人は浮世の俗物どもを好んでいないのだ。

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無用の侵入者はさじを投げて引下る仕組であり、乃至は玄関を探してうろつくうちに何者かの侵入を見破って警戒管制に入るという仕組でもあって、隣人は浮世の俗物どもを好んでいないのだ。

この家は相当に部屋数のある二階建てであったが、内部の仕掛けについては物知りの仕立屋も多くを知らなかった。

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この家は相当間数のある二階建であったが、内部の仕掛に就いては物知りの仕立屋も多く知らなかった。

気違いは三十前後で、母親があり、二十五、六の女房があった。

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気違いは三十前後で、母親があり、二十五六の女房があった。

母親だけは正気の人間の部類に属しているはずだという話であったが、強度のヒステリーで、配給に不服があると裸足で町会へ乗り込んでくる町内唯一の女傑であり、気違いの女房は白痴であった。

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母親だけは正気の人間の部類に属している筈だという話であったが、強度のヒステリイで、配給に不服があると跣足はだしで町会へ乗込んでくる町内唯一の女傑であり、気違いの女房は白痴であった。

ある幸多き年のこと、気違いが思い立って白装束に身を固め四国遍路の旅に出たが、そのとき四国のどこかで白痴の女と意気投合し、遍路みやげに女房を連れて戻ってきた。

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ある幸多き年のこと、気違いが発心ほっしんして白装束に身をかため四国遍路に旅立ったが、そのとき四国のどこかしらで白痴の女と意気投合し、遍路みやげに女房をつれて戻ってきた。

気違いは風采堂々たる美男子であり、白痴の女房もそれ相応の家柄のそれ相応の娘のような品の良さで、目が細くうっとうしい、瓜実顔の古風な人形か能面のような美しい顔立ちで、二人並べて眺めただけでは、美男美女、それも相当に教養の深い似合いの一対としか見えない。

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気違いは風采堂々たる好男子であり、白痴の女房はこれもしかるべき家柄の然るべき娘のような品の良さで、眼の細々とうっとうしい、瓜実顔うりざねがおの古風の人形か能面のような美しい顔立ちで、二人並べて眺めただけでは、美男美女、それも相当教養深遠な好一対としか見受けられない。

気違いは度の強い近眼鏡をかけ、いつも万巻の書を読み疲れたような憂わしげな顔をしていた。

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気違いは度の強い近眼鏡をかけ、常に万巻の読書に疲れたような憂わしげな顔をしていた。

ある日この路地で防空演習があっておかみさんたちが張り切っていると、着流し姿でゲタゲタ笑いながら見物していたのがこの男で、そのうち急に防空服装に着替えて現れ、一人のバケツをひったくったかと思うと、エイとか、ヤーとか、ホーホーという数種類の奇妙な声をかけて水を汲み水を投げ、梯子をかけて塀に登り、屋根の上から号令をかけ、やがてひとくさりの演説(訓辞)を始めた。

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ある日この路地で防空演習があってオカミさん達が活躍していると、着流し姿でゲタゲタ笑いながら見物していたのがこの男で、そのうちにわかに防空服装に着かえて現れて一人のバケツをひったくったかと思うと、エイとか、ヤーとか、ホーホーという数種類の奇妙な声をかけて水を汲み水を投げ、梯子はしごをかけて塀に登り、屋根の上から号令をかけ、やがて一場の演説(訓辞)を始めた。

伊沢はこのときになって初めて気違いであることに気付いたので、この隣人は時々垣根を越えて侵入してきて仕立屋の豚小屋で残飯のバケツをぶちまけ、ついでに家鴨に石をぶつけ、まったく何食わぬ顔で鶏に餌をやりながら突然蹴とばしたりするのであったが、相当の人物と考えていたので、静かに黙礼などを交わしていたのであった。

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伊沢はこのときに至って始めて気違いであることに気付いたので、この隣人は時々垣根から侵入してきて仕立屋の豚小屋で残飯のバケツをぶちまけついでに家鴨に石をぶつけ、全然何食わぬ顔をして鶏に餌をやりながら突然蹴とばしたりするのであったが、相当の人物と考えていたので、静かに黙礼などを取交していたのであった。

だが、気違いと常人とどこが違っているというのだ。

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だが、気違いと常人とどこが違っているというのだ。

違っているといえば、気違いの方が常人よりも本質的に慎み深いくらいのもので、気違いは笑いたい時にゲタゲタ笑い、演説したい時に演説をやり、家鴨に石をぶつけたり、二時間ぐらい豚の顔や尻を突ついていたりする。

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違っているといえば、気違いの方が常人よりも本質的に慎み深いぐらいのもので、気違いは笑いたい時にゲタゲタ笑い、演説したい時に演説をやり、家鴨に石をぶつけたり、二時間ぐらい豚の顔や尻を突ついていたりする。

けれども彼らは本質的にはるかに人目を怖れており、私生活の主要な部分は特別に細心の注意を払って他人から切り離そうと苦心している。

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けれども彼等は本質的にはるかに人目を怖れており、私生活の主要な部分は特別細心の注意を払って他人から絶縁しようと腐心している。

門からぐるりと一回りして玄関をつけたのもそのためであり、彼らの私生活はおおむね物音が少なく、他人に対する無用なおしゃべりに乏しく、思索的なものであった。

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門からグルリと一廻りして玄関をつけたのもそのためであり、彼等の私生活は概して物音がすくなく、他に対して無用なる饒舌じょうぜつに乏しく、思索的なものであった。

路地の片側はアパートで、伊沢の小屋にのしかかるように年中水の流れる音と女房たちの下品な声が溢れており、姉妹の娼婦が住んでいて、姉に客のある夜は妹が廊下を歩き続けており、妹に客のある時は姉が深夜の廊下を歩いている。

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路地の片側はアパートで伊沢の小屋にのしかかるように年中水の流れる音と女房どもの下品な声があふれており、姉妹の淫売が住んでいて、姉に客のある夜は妹が廊下を歩きつづけており妹に客のある時は姉が深夜の廊下を歩いている。

気違いがゲタゲタ笑うというだけで人々は別の人種だと思っていた。

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気違いがゲタゲタ笑うというだけで人々は別の人種だと思っていた。

白痴の女房は特別に静かでおとなしかった。

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白痴の女房は特別静かでおとなしかった。

何かおどおどと口の中で言うだけで、その言葉はよく聞き取れず、言葉が聞き取れる時でも意味がはっきりしなかった。

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何かおどおどと口の中で言うだけで、その言葉は良くききとれず、言葉のききとれる時でも意味がハッキリしなかった。

料理も、米を炊くことも知らず、やらせれば出来るかも知れないが、へまをやって怒られるとおどおどしてますますへまをやるばかり、配給物を取りに行っても自分では何もできず、ただ立っているというだけで、みんな近所の者がしてくれるのだ。

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料理も、米を炊くことも知らず、やらせれば出来るかも知れないが、ヘマをやって怒られるとおどおどして益々ヘマをやるばかり、配給物をとりに行っても自身では何もできず、ただ立っているというだけで、みんな近所の者がしてくれるのだ。

気違いの女房ですもの白痴でも当然、その上の欲を言ってはいけないでしょうと人々が言うが、母親は大いに不服で、女がご飯ぐらい炊けなくって、と怒っている。

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気違いの女房ですもの白痴でも当然、その上の慾を言ってはいけますまいと人々が言うが、母親は大の不服で、女が御飯ぐらい炊けなくって、と怒っている。

それでもふだんはたしなみのある品の良い婆さんなのだが、何しろ並大抵でないヒステリーで、狂い出すと気違い以上に獰猛で、三人の気違いのうち婆さんの叫び声が飛び抜けて騒がしく病的だった。

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それでも常はたしなみのある品の良い婆さんなのだが、何がさて一方ならぬヒステリイで、狂い出すと気違い以上に獰猛どうもうで三人の気違いのうち婆さんの叫喚きょうかんが頭ぬけて騒がしく病的だった。

白痴の女は怯えてしまって、何事もない平和な日々ですら常におどおどし、人の足音にもぎくりとして、伊沢がヤアと挨拶するとかえってぼんやりして立ちすくむのであった。

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白痴の女はおびえてしまって、何事もない平和な日々ですら常におどおどし、人の跫音あしおとにもギクリとして、伊沢がヤアと挨拶するとかえってボンヤリして立ちすくむのであった。

白痴の女も時々豚小屋へやってきた。

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白痴の女も時々豚小屋へやってきた。

気違いの方は我が家のように堂々と侵入してきて家鴨に石をぶつけたり豚の頬っぺたを突き回したりしているのだが、白痴の女は音もなく影のように逃げこんできて豚小屋の陰に息をひそめているのであった。

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気違いの方は我家の如くに堂々と侵入してきて家鴨に石をぶつけたり豚の頬っぺたを突き廻したりしているのだが、白痴の女は音もなく影の如くに逃げこんできて豚小屋の蔭に息をひそめているのであった。

いわばここは彼女の待避所で、そういう時には大概隣の家でオサヨさんオサヨさんと呼ぶ婆さんの鳥のような叫びが起こり、そのたびに白痴の身体はすくんだり傾いたりして反響を起こし、仕方なく動き出すまでには虫が抵抗して動くような長い繰り返しがあるのであった。

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いわば此処ここは彼女の待避所で、そういう時には大概隣家でオサヨさんオサヨさんとよぶ婆さんの鳥類的な叫びが起り、そのたびに白痴の身体はすくんだり傾いたり反響を起し、仕方なく動き出すには虫の抵抗の動きのような長い反復があるのであった。

新聞記者だの文化映画の演出家などは卑しい職業の中でも最も卑しい職業であった。

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新聞記者だの文化映画の演出家などは賤業中の賤業であった。

彼らの心得ているのは時代の流行ということだけで、動いていく時間に乗り遅れまいとすることだけが生活であり、自我の追求、個性や独創というものはこの世界には存在しない。

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彼等の心得ているのは時代の流行ということだけで、動く時間に乗遅れまいとすることだけが生活であり、自我の追求、個性や独創というものはこの世界には存在しない。

彼らの日常の会話の中には、会社員だの役人だの学校の教師に比べて自我だの人間だの個性だの独創だのという言葉が溢れすぎているのであったが、それは言葉の上だけの存在であり、有り金をはたいて女を口説いて二日酔いの苦痛が人間の悩みだと言うような馬鹿馬鹿しいものなのだった。

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彼等の日常の会話の中には会社員だの官吏だの学校の教師に比べて自我だの人間だの個性だの独創だのという言葉が氾濫はんらんしすぎているのであったが、それは言葉の上だけの存在であり、有金をはたいて女を口説いて宿酔ふつかよいの苦痛が人間の悩みだと云うような馬鹿馬鹿しいものなのだった。

ああ日の丸の感激だの、兵隊さんよありがとう、思わず目頭が熱くなったり、ズドズドズドは爆撃の音、無我夢中で地上に伏し、パンパンパンは機銃の音、およそ精神の高さもなければ一行の実感すらもない架空の文章に身をやつし、映画をつくり、戦争の表現とはそういうものだと思いこんでいる。

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ああ日の丸の感激だの、兵隊さんよ有難う、思わず目頭が熱くなったり、ズドズドズドは爆撃の音、無我夢中で地上に伏し、パンパンパンは機銃の音、およそ精神の高さもなければ一行の実感すらもない架空の文章に憂身をやつし、映画をつくり、戦争の表現とはそういうものだと思いこんでいる。

またある者は軍部の検閲で書きようがないと言うけれども、他に真実の文章の心当たりがあるわけでもなく、文章そのものの真実や実感は検閲などとは関係のない存在だ。

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又ある者は軍部の検閲で書きようがないと言うけれども、他に真実の文章の心当りがあるわけでなく、文章自体の真実や実感は検閲などには関係のない存在だ。

要するにどんな時代にもこの連中には内容がなく、空虚な自我があるだけだ。

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要するに如何いかなる時代にもこの連中には内容がなく空虚な自我があるだけだ。

流行次第で右から左へどうにでもなり、通俗小説の表現などからお手本を学んで時代の表現だと思いこんでいる。

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流行次第で右から左へどうにでもなり、通俗小説の表現などからお手本を学んで時代の表現だと思いこんでいる。

事実、時代というものはただそれだけの浅薄で愚劣なものでもあり、日本二千年の歴史を覆すこの戦争と敗北が、果たして人間の真実に何の関係があっただろうか。

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事実時代というものはただそれだけの浅薄愚劣なものでもあり、日本二千年の歴史をくつがえすこの戦争と敗北が果して人間の真実に何の関係があったであろうか。

最も内省の薄い意志と、愚かな大衆の無分別な動きだけによって一国の運命が動いている。

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最も内省の稀薄な意志と衆愚の妄動だけによって一国の運命が動いている。

部長だの社長の前で個性だの独創だのと言い出すと顔をそむけて馬鹿な奴だという言外の表示を見せて、兵隊さんよありがとう、ああ日の丸の感激、思わず目頭が熱くなり、OK、新聞記者とはそれだけで、事実、時代そのものがそれだけだ。

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部長だの社長の前で個性だの独創だのと言い出すと顔をそむけて馬鹿な奴だという言外の表示を見せて、兵隊さんよ有難う、ああ日の丸の感激、思わず目頭が熱くなり、OK、新聞記者とはそれだけで、事実、時代そのものがそれだけだ。

師団長閣下の訓辞を三分間もかけて長々と写す必要がありますか、工員たちの毎朝の祝詞のような妙ちきりんな唄を一から十まで写す必要があるのですか、と訊いてみると、部長はぷいと顔をそむけて舌打ちし、やにわに振り向くと貴重品の煙草をぐしゃりと灰皿へ押しつぶして睨みつけ、おい、怒濤の時代に美が何物だい、芸術は無力だ!

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師団長閣下の訓辞を三分間もかかって長々と写す必要がありますか、職工達の毎朝のノリトのような変テコな唄を一から十まで写す必要があるのですか、と訊いてみると、部長はプイと顔をそむけて舌打ちしてやにわに振向くと貴重品の煙草をグシャリ灰皿へ押しつぶして睨みつけて、おい、怒濤どとうの時代に美が何物だい、芸術は無力だ!

ニュースだけが真実なんだ!

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 ニュースだけが真実なんだ!

と怒鳴るのであった。

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 と呶鳴どなるのであった。

演出家たちは演出家たちで、企画部員は企画部員で、徒党を組み、徳川時代の長脇差の仲間と同じような義理人情の世界をつくりだし、義理人情で才能を処理して、会社員よりも会社員的な順番制度をつくっている。

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演出家どもは演出家どもで、企画部員は企画部員で、徒党を組み、徳川時代の長脇差と同じような情誼じょうぎの世界をつくりだし義理人情で才能を処理して、会社員よりも会社員的な順番制度をつくっている。

それによって各自の平凡さをかばい、芸術における個性と天才の覇権争いを罪悪視して組合違反と心得、相互扶助の精神による才能の貧困の救済組織を完備していた。

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それによって各自の凡庸ぼんようさを擁護し、芸術の個性と天才による争覇を罪悪視し組合違反と心得て、相互扶助の精神による才能の貧困の救済組織を完備していた。

内にあっては才能の貧困の救済組織であるけれども、外に出れば酒の獲得組織で、この徒党は国民酒場を占領し三、四本ずつビールを飲み、酔っ払って芸術を論じている。

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内にあっては才能の貧困の救済組織であるけれども外に出でてはアルコールの獲得組織で、この徒党は国民酒場を占領し三四本ずつビールを飲み酔っ払って芸術を論じている。

彼らの帽子や長髪やネクタイや上着は芸術家であったが、彼らの魂や根性は会社員よりも会社員的であった。

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彼等の帽子や長髪やネクタイや上着ブルースは芸術家であったが、彼等の魂や根性は会社員よりも会社員的であった。

伊沢は芸術の独創を信じ、個性の独自性をあきらめることができないので、義理人情の制度の中で安らぐことができないばかりか、その平凡さと低俗で卑劣な魂を憎まずにいられなかった。

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伊沢は芸術の独創を信じ、個性の独自性をあきらめることができないので、義理人情の制度の中で安息することができないばかりか、その凡庸さと低俗卑劣な魂を憎まずにいられなかった。

彼は徒党の除け者となり、挨拶しても返事もされず、中には睨む者もある。

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彼は徒党の除け者となり、挨拶しても返事もされず、中には睨む者もある。

思いきって社長室へ乗り込んで、戦争と芸術性の貧困とに理論上の必然性がありますか。

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思いきって社長室へ乗込んで、戦争と芸術性の貧困とに理論上の必然性がありますか。

それとも軍部の意思ですか、ただ現実を写すだけならカメラと指が二、三本あるだけでたくさんですよ。

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それとも軍部の意思ですか、ただ現実を写すだけならカメラと指が二三本あるだけで沢山ですよ。

どんなアングルによってこれを切り取り芸術に構成するかという特別な使命のために我々芸術家の存在が――社長は途中で顔をそむけて苦りきって煙草をふかし、お前はなぜ会社をやめないのか、徴用が怖いからか、という顔つきで苦笑をはじめ、会社の企画どおり世間なみの仕事に精を出すだけで、それで月給がもらえるなら余計なことを考えるな、生意気すぎるという顔つきになり、一言も返事せずに、帰れという身振りを示すのであった。

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如何なるアングルによってこれを裁断し芸術に構成するかという特別な使命のために我々芸術家の存在が――社長は途中に顔をそむけて苦りきって煙草をふかし、お前はなぜ会社をやめないのか、徴用が怖いからか、という顔附で苦笑をはじめ、会社の企画通り世間なみの仕事に精をだすだけで、それで月給が貰えるならよけいなことを考えるな、生意気すぎるという顔附になり、一言も返事せずに、帰れという身振りを示すのであった。

卑しい職業の中の卑しい職業でなくて何であろうか。

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賤業中の賤業でなくて何物であろうか。

いっそ兵隊にとられ、考える苦しさから救われるなら、弾丸も飢えもむしろ気楽なもののようにすら思われる時があるほどだった。

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ひと思いに兵隊にとられ、考える苦しさから救われるなら、弾丸も飢餓もむしろ太平楽のようにすら思われる時があるほどだった。

伊沢の会社では「ラバウルを落とすな」

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伊沢の会社では「ラバウルをおとすな」

とか「飛行機をラバウルへ!」

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とか「飛行機をラバウルへ!」

とか企画をたてコンテを作っているうちに、米軍はもうラバウルを通り越してサイパンに上陸していた。

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とか企画をたてコンテを作っているうちに米軍はもうラバウルを通りこしてサイパンに上陸していた。

「サイパン決戦!」

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「サイパン決戦!」

企画会議も終わらぬうちにサイパン玉砕、そのサイパンから米軍機が頭上に飛びはじめている。

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企画会議も終らぬうちにサイパン玉砕、そのサイパンから米機が頭上にとびはじめている。

「焼夷弾の消し方」

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焼夷弾しょういだんの消し方」

「空の体当たり」

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「空の体当り」

「ジャガ芋の作り方」

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「ジャガ芋の作り方」

「一機も生きて返すまじ」

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「一機も生きて返すまじ」

「節電と飛行機」

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「節電と飛行機」

不思議な情熱であった。

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不思議な情熱であった。

底知れない退屈を植えつける奇妙な映画が次々と作られ、生フィルムは足りなくなり、動くカメラは少なくなり、芸術家たちの情熱は白熱して騒ぎ立て、「神風特攻隊」

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底知れぬ退屈を植えつける奇妙な映画が次々と作られ、生フィルムは欠乏し、動くカメラは少なくなり、芸術家達の情熱は白熱的に狂躁し「神風特攻隊」

「本土決戦」

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「本土決戦」

「ああ桜は散りぬ」

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「ああ桜は散りぬ」

何かに取り憑かれたように彼らの詩情は興奮している。

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何ものかにかれた如く彼等の詩情は興奮している。

そして青ざめた紙のように退屈きわまりない映画がつくられ、明日の東京は廃墟になろうとしていた。

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そしてあおざめた紙の如く退屈無限の映画がつくられ、明日の東京は廃墟になろうとしていた。

伊沢の情熱は死んでいた。

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伊沢の情熱は死んでいた。

朝目がさめる。

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朝目がさめる。

今日も会社へ行くのかと思うと眠くなり、うとうとすると警戒警報が鳴り響き、起き上がってゲートルを巻き、煙草を一本抜きだして火をつける。

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今日も会社へ行くのかと思うとねむくなり、うとうとすると警戒警報がなりひびき、起き上りゲートルをまき煙草を一本ぬきだして火をつける。

ああ会社を休むとこの煙草がなくなるのだな、と考えるのであった。

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ああ会社を休むとこの煙草がなくなるのだな、と考えるのであった。

ある晩、遅くなって、ようやく終電にありつくことのできた伊沢は、もう私鉄がなかったので、かなりの夜道を歩いて我が家へ戻ってきた。

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ある晩、おそくなり、ようやく終電にとりつくことのできた伊沢は、すでに私線がなかったので、相当の夜道を歩いて我家へ戻ってきた。

明かりをつけると妙に敷きっぱなしの床の姿が見えず、留守中に誰かが掃除をしたということも、誰かが入ったことすらもこれまで例がないので、いぶかりながら押入をあけると、積み重ねた布団の横に白痴の女が隠れていた。

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あかりをつけると奇妙に万年床の姿が見えず、留守中誰かが掃除をしたということも、誰かが這入はいったことすらも例がないのでいぶかりながら押入をあけると、積み重ねた蒲団ふとんの横に白痴の女がかくれていた。

不安の目で伊沢の顔色をうかがい布団の間へ顔をもぐらせてしまったが、伊沢が怒らないことを知ると、安堵のあまり親しさが溢れ、呆れるくらい落ち着いてしまった。

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不安の眼で伊沢の顔色をうかがい蒲団の間へ顔をもぐらしてしまったが、伊沢の怒らぬことを知ると、安堵のために親しさが溢れ、あきれるぐらい落着いてしまった。

口の中でぶつぶつと呟くようにしか物を言わず、その呟きもこちらの尋ねることとは何の関係もないことをああ言いこう言い、自分自身の思いつめたことだけを、それもごく漠然と要約して断片的に言い綴っている。

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口の中でブツブツとつぶやくようにしか物を言わず、その呟きもこっちの訊ねることと何の関係もないことをああ言い又こう言い自分自身の思いつめたことだけをそれも至極漠然と要約して断片的に言い綴っている。

伊沢は問わずに事情を察し、たぶん叱られて思い余って逃げこんで来たのだろうと思ったから、無益な怯えをなるべく与えないよう配慮して質問を省略し、いつごろどこから入ってきたかということだけを尋ねると、女は訳の分からないことをあれこれぶつぶつ言ったあげく、片腕をまくり上げて、その一か所を撫でて(そこにはかすり傷がついていた)、私、痛いの、とか、今も痛むの、とか、さっきも痛かったの、とか、いろいろ時間を細かく区切っているので、ともかく夜になってから窓から入ったことが分かった。

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伊沢は問わずに事情をさとり、多分叱られて思い余って逃げこんで来たのだろうと思ったから、無益なおびえをなるべく与えぬ配慮によって質問を省略し、いつごろどこから這入ってきたかということだけを訊ねると、女は訳の分らぬことをあれこれブツブツ言ったあげく、片腕をまくりあげて、その一ヶ所をなでて(そこにはカスリ傷がついていた)、私、痛いの、とか、今も痛むの、とか、さっきも痛かったの、とか、色々時間をこまかく区切っているので、ともかく夜になってから窓から這入ったことが分った。

裸足で外を歩き回って入ってきたから部屋を泥で汚した、ごめんなさいね、という意味も言ったけれども、あれこれ無数の袋小路をうろつき回る呟きの中から意味をまとめて判断するので、ごめんなさいね、がどの道につながっているのか決定的な判断はできないのだった。

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跣足はだしで外を歩きまわって這入ってきたから部屋を泥でよごした、ごめんなさいね、という意味も言ったけれども、あれこれ無数の袋小路をうろつき廻る呟きの中から意味をまとめて判断するので、ごめんなさいね、がどの道に連絡しているのだか決定的な判断はできないのだった。

深夜に隣人を叩き起こして怯えきった女を返すのもやりにくいことであり、そうかといって夜が明けてから女を返して、一夜泊めたということがどんな誤解を生みだすか、相手が気違いのことだから想像すらつかなかった。

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深夜に隣人を叩き起して怯えきった女を返すのもやりにくいことであり、さりとて夜が明けて女を返して一夜泊めたということが如何なる誤解を生みだすか、相手が気違いのことだから想像すらもつかなかった。

ままよ、伊沢の心には奇妙な勇気が湧いてきた。

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ままよ、伊沢の心には奇妙な勇気が湧いてきた。

その実体は生活の上での感情の喪失に対する好奇心と刺激の魅力に惹かれただけのものであったが、どうにでもなればいい、ともかくこの現実を一つの試練と見ることが俺の生き方には必要なだけだ。

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その実体は生活上の感情喪失に対する好奇心と刺戟しげきとの魅力に惹かれただけのものであったが、どうにでもなるがいい、ともかくこの現実を一つの試錬と見ることが俺の生き方に必要なだけだ。

白痴の女の一夜を守るという目の前の義務のほかに、何を考え何を怖れる必要もないのだと自分自身に言い聞かせた。

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白痴の女の一夜を保護するという眼前の義務以外に何を考え何を怖れる必要もないのだと自分自身に言いきかした。

彼はこの唐突きわまりない出来事に妙に感動していることを恥ずべきことではないのだと自分自身に言い聞かせていた。

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彼はこの唐突千万な出来事に変に感動していることをずべきことではないのだと自分自身に言いきかせていた。

二つの寝床を敷いて女を寝かせ、電燈を消して一、二分もしたかと思うと、女は急に起き上がり寝床を抜けだして、部屋のどこか片隅にうずくまっているらしい。

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二つの寝床をしき女をねせて電燈を消して一二分もしたかと思うと、女は急に起き上り寝床を脱けでて、部屋のどこか片隅にうずくまっているらしい。

それがもし真冬でなければ伊沢は無理にこだわらず眠ったかも知れなかったが、特別に寒い夜更けで、一人分の寝床を二人に分けただけでも外気が直に肌に迫り、身体の震えがとまらないくらい冷たかった。

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それがもし真冬でなければ伊沢は強いてこだわらず眠ったかも知れなかったが、特別寒い夜更けで、一人分の寝床を二人に分割しただけでも外気がじかに肌にせまり身体のふるえがとまらぬぐらい冷めたかった。

起き上がって電燈をつけると、女は戸口のところに襟をかき合わせてうずくまっており、まるで逃げ場を失って追いつめられた目の色をしている。

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起き上って電燈をつけると、女は戸口のところにえりをかき合せてうずくまっており、まるで逃げ場を失って追いつめられた眼の色をしている。

どうしたの、おやすみなさい、と言えば拍子抜けするほどすぐ頷いて再び寝床にもぐりこんだが、電気を消して一、二分もするとまた同じように起きてしまう。

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どうしたの、ねむりなさい、と言えば呆気ないほどすぐうなずいて再び寝床にもぐりこんだが、電気を消して一二分もすると、又、同じように起きてしまう。

それを寝床へ連れ戻して、心配することはない、私はあなたの身体に手を触れるようなことはしないからと言い聞かせると、女は怯えた目つきをして何か言い訳じみたことを口の中でぶつぶつ言っているのであった。

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それを寝床へつれもどして心配することはない、私はあなたの身体に手をふれるようなことはしないからと言いきかせると、女は怯えた眼附をして何か言訳じみたことを口の中でブツブツ言っているのであった。

そのまま三たび電気を消すと、今度は女はすぐ起き上がり、押入の戸をあけて中へ入って内側から戸を閉めた。

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そのまま三たび目の電気を消すと、今度は女はすぐ起き上り、押入の戸をあけて中へ這入って内側から戸をしめた。

この執拗なやり方に伊沢は腹を立てた。

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この執拗なやり方に伊沢は腹を立てた。

手荒く押入を開け放って、あなたは何を勘違いをしているのですか、あれほど説明もしているのに押入へ入って戸を閉めるなどとは人を侮辱するにも程がある、それほど信用できない家へなぜ逃げこんできたのですか、それは人を愚弄し、私の人格に不当な恥を与え、まるであなたが何か被害者のようではありませんか、茶番もいい加減にしたまえ。

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手荒く押入を開け放してあなたは何を勘違いをしているのですか、あれほど説明もしているのに押入へ這入って戸をしめるなどとは人を侮辱するも甚しい、それほど信用できない家へなぜ逃げこんできたのですか、それは人を愚弄し、私の人格に不当な恥を与え、まるであなたが何か被害者のようではありませんか、茶番もいい加減にしたまえ。

けれどもその言葉の意味さえこの女には理解する能力がないのだと思うと、これくらい張り合いのない馬鹿馬鹿しさもないもので、女の横っ面を殴りつけてさっさと眠る方が何より気が利いていると思うのだった。

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けれどもその言葉の意味もこの女には理解する能力すらもないのだと思うと、これくらい張合のない馬鹿馬鹿しさもないもので女の横ッ面を殴りつけてさっさと眠る方が何より気がきいていると思うのだった。

すると女は妙に割り切れない顔つきをして何か口の中でぶつぶつ言っている、私は帰りたい、私は来なければよかった、という意味の言葉であるらしい。

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すると女は妙に割切れぬ顔附をして何か口の中でブツブツ言っている、私は帰りたい、私は来なければよかった、という意味の言葉であるらしい。

でも私はもう帰るところがなくなったから、と言うので、その言葉には伊沢もさすがに胸を突かれて、だから、安心してここで一夜を明かしたらいいでしょう、私が悪意を持っていないのにまるで被害者のような思い上がったことをするから腹を立てただけのことです、押入の中などに入らずに布団の中でおやすみなさい。

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でも私はもう帰るところがなくなったから、と言うので、その言葉には伊沢もさすがに胸をつかれて、だから、安心してここで一夜を明かしたらいいでしょう、私が悪意をもたないのにまるで被害者のような思いあがったことをするから腹を立てただけのことです、押入の中などにはいらずに蒲団の中でおやすみなさい。

すると女は伊沢を見つめて何か早口にぶつぶつ言う。

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すると女は伊沢を見つめて何か早口にブツブツ言う。

え?

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え?

なんですか、そして伊沢は飛び上がるほど驚いた。

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 なんですか、そして伊沢は飛び上るほど驚いた。

なぜなら女のぶつぶつの中から、私はあなたに嫌われていますもの、という一言がはっきり聞き取れたからである。

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なぜなら女のブツブツの中から私はあなたに嫌われていますもの、という一言がハッキリききとれたからである。

え、なんですって?

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え、なんですって?

伊沢が思わず目を見開いて訊き返すと、女の顔はしょんぼりとして、私は来なければよかった、私は嫌われている、私はそうは思っていなかった、という意味のことをくどくどと言い、そしてあらぬ一か所を見つめて放心してしまった。

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 伊沢が思わず目を見開いて訊き返すと、女の顔は悄然しょうぜんとして、私はこなければよかった、私はきらわれている、私はそうは思っていなかった、という意味の事をくどくどと言い、そしてあらぬ一ヶ所を見つめて放心してしまった。

伊沢は初めて理解した。

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伊沢ははじめて了解した。

女は彼を怖れているのではなかったのだ。

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女は彼を怖れているのではなかったのだ。

まるで事態はあべこべだ。

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まるで事態はあべこべだ。

女は叱られて逃げ場に窮して、ただそれだけの理由で来たのではない。

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女は叱られて逃げ場に窮してそれだけの理由によって来たのではない。

伊沢の愛情を当てにしていたのであった。

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伊沢の愛情を目算に入れていたのであった。

だがいったい女が伊沢の愛情を信じるようなことが起こり得る、何事があっただろうか。

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だがいったい女が伊沢の愛情を信じることが起り得るような何事があったであろうか。

豚小屋のあたりや路地や路上でヤアと言って四、五へん挨拶したぐらい、思えばすべてが唐突でまったく茶番にほかならず、伊沢の前には白痴の意志や感受性や、ともかく人間以外のものが押しつけられているだけだった。

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豚小屋のあたりや路地や路上でヤアと云って四五へん挨拶したぐらい、思えばすべてが唐突で全く茶番に外ならず、伊沢の前に白痴の意志や感受性や、ともかく人間以外のものが強要されているだけだった。

電燈を消して一、二分たち、男の手が女のからだに触れないというだけで嫌われたと思い込み、その恥ずかしさに布団を抜けだすということが、白痴の場合はそれが本当に悲痛なことであるのか、伊沢がそれを信じていいのか、これもはっきりとは分からない。

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電燈を消して一二分たち男の手が女のからだに触れないために嫌われた自覚をいだいて、その羞しさに蒲団をぬけだすということが、白痴の場合はそれが真実悲痛なことであるのか、伊沢がそれを信じていいのか、これもハッキリは分らない。

ついには押入へ閉じこもる。

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遂には押入へ閉じこもる。

それを白痴の恥辱と自卑の表現と解していいのか、それを判断するための言葉すらもないのだから、事態はともかく彼が白痴と同じところまで成り下がるほかに手立てがない。

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それが白痴の恥辱と自卑の表現と解していいのか、それを判断する為の言葉すらもないのだから、事態はともかく彼が白痴と同格に成り下る以外に法がない。

なまじ人間らしい分別が、なぜ必要であろうか。

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なまじいに人間らしい分別が、なぜ必要であろうか。

白痴の心の素直さを彼自身もまた持つことが人間の恥辱であろうか。

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白痴の心の素直さを彼自身もまたもつことが人間の恥辱であろうか。

俺にもこの白痴のような心、幼い、そして素直な心が何より必要だったのだ。

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俺にもこの白痴のような心、幼い、そして素直な心が何より必要だったのだ。

俺はそれをどこかへ忘れ、ただあくせくした人間どもの思考の中で薄汚く汚れ、いつわりの影を追い、ひどく疲れていただけだ。

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俺はそれをどこかへ忘れ、ただあくせくした人間共の思考の中でうすぎたなく汚れ、虚妄の影を追い、ひどく疲れていただけだ。

彼は女を寝床へ寝かせて、その枕元に座り、自分の子供、三つか四つの小さな娘を眠らせるように額の髪の毛を撫でてやると、女はぼんやり目をあけて、それがまったく幼い子供の無心さと変わるところがないのであった。

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彼は女を寝床へねせて、その枕元に坐り、自分の子供、三ツか四ツの小さな娘をねむらせるように額の髪の毛をなでてやると、女はボンヤリ眼をあけて、それがまったく幼い子供の無心さと変るところがないのであった。

私はあなたを嫌っているのではない、人間の愛情の表現は決して肉体だけのものではなく、人間の最後の住みかはふるさとで、あなたはいわば常にそのふるさとの住人のようなものなのだから、などと伊沢も初めは妙にしかつめらしくそんなことも言いかけてみたが、もとよりそれが通じるわけではないのだし、いったい言葉が何物であろうか、どれほどの値打ちがあるのだろうか、人間の愛情ですらそれだけが真実のものだという何の証しもあり得ない、生の情熱を託するに足る真実なものが果たしてどこにあり得るのか、すべてはいつわりの影だけだ。

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私はあなたを嫌っているのではない、人間の愛情の表現は決して肉体だけのものではなく、人間の最後の住みかはふるさとで、あなたはいわば常にそのふるさとの住人のようなものなのだから、などと伊沢も始めは妙にしかつめらしくそんなことも言いかけてみたが、もとよりそれが通じるわけではないのだし、いったい言葉が何物であろうか、何ほどの値打があるのだろうか、人間の愛情すらもそれだけが真実のものだという何のあかしもあり得ない、生の情熱を託するに足る真実なものが果してどこに有り得るのか、すべては虚妄の影だけだ。

女の髪の毛を撫でていると、声をあげて泣きたい思いがこみあげ、形すら定まらないこの捉えがたい小さな愛情が自分の一生の宿命であるような、その宿命の髪の毛を無心に撫でているような切ない思いになるのであった。

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女の髪の毛をなでていると、慟哭どうこくしたい思いがこみあげ、さだまる影すらもないこのとらえがたい小さな愛情が自分の一生の宿命であるような、その宿命の髪の毛を無心になでているような切ない思いになるのであった。

この戦争はいったいどうなるのであろう。

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この戦争はいったいどうなるのであろう。

日本は負け、米軍は本土に上陸して日本人の大半は死に絶えてしまうのかも知れない。

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日本は負け米軍は本土に上陸して日本人の大半は死滅してしまうのかも知れない。

それはもう一つの超自然の運命、いわば天命のようにしか思われなかった。

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それはもう一つの超自然の運命、いわば天命のようにしか思われなかった。

彼にはしかし、もっと卑小な問題があった。

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彼にはしかしもっと卑小な問題があった。

それは驚くほど卑小な問題で、しかも目の先に差し迫り、常にちらついて離れなかった。

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それは驚くほど卑小な問題で、しかも眼の先に差迫り、常にちらついて放れなかった。

それは彼が会社からもらう二百円ほどの給料で、その給料をいつまでもらうことができるか、明日にもクビになり路頭に迷いはしないかという不安であった。

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それは彼が会社から貰う二百円ほどの給料で、その給料をいつまで貰うことができるか、明日にもクビになり路頭に迷いはしないかという不安であった。

彼は月給をもらう時、同時にクビの宣告を受けはしないかとびくびくし、月給袋を受け取ると一月延びた命のために呆れるくらい幸福感を味わうのだが、その卑小さを顧みていつも泣きたくなるのであった。

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彼は月給を貰う時、同時にクビの宣告を受けはしないかとビクビクし、月給袋を受取ると一月延びた命のために呆れるぐらい幸福感を味うのだが、その卑小さを顧みていつも泣きたくなるのであった。

彼は芸術を夢みていた。

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彼は芸術を夢みていた。

その芸術の前ではただ一粒の塵でしかないような二百円の給料が、どうして骨身にからみつき、生存の根底をゆさぶるような大きな苦しみになるのであろうか。

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その芸術の前ではただ一粒の塵埃じんあいでしかないような二百円の給料がどうして骨身にからみつき、生存の根底をゆさぶるような大きな苦悶になるのであろうか。

生活の外形だけのことではなく、その精神も魂も二百円に限定され、その卑小さを見つめながら気も違わずに平然としていることが、なおさら情けなくなるばかりであった。

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生活の外形のみのことではなくその精神も魂も二百円に限定され、その卑小さを凝視して気も違わずに平然としていることが尚更なおさらなさけなくなるばかりであった。

怒濤の時代に美が何物だい。

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怒濤の時代に美が何物だい。

芸術は無力だ!

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芸術は無力だ!

という部長の馬鹿馬鹿しい大声が、伊沢の胸にまるで違った真実をこめて、鋭い、そして巨大な力で食い込んでくる。

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 という部長の馬鹿馬鹿しい大声が、伊沢の胸にまるで違った真実をこめ鋭いそして巨大な力で食いこんでくる。

ああ日本は敗ける。

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ああ日本は敗ける。

泥人形が崩れるように同胞たちがばたばた倒れ、吹き上げるコンクリートや煉瓦の屑と一緒くたに無数の脚だの首だの腕だのが舞い上がり、木も建物も何もない平らな墓地になってしまう。

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泥人形のくずれるように同胞たちがバタバタ倒れ、吹きあげるコンクリートや煉瓦のくずと一緒くたに無数の脚だの首だの腕だのが舞いあがり、木も建物も何もない平な墓地になってしまう。

どこへ逃げ、どの穴へ追いつめられ、どこで穴もろとも吹き飛ばされてしまうのだか、夢のような、けれどもそれはもし生き残ることができたら、その新鮮な再生のために、そしてまったく予測のつかない新世界、石屑だらけの野原の上の生活のために、伊沢はむしろ好奇心がうずくのだった。

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どこへ逃げ、どの穴へ追いつめられ、どこで穴もろとも吹きとばされてしまうのだか、夢のような、けれどもそれはもし生き残ることができたら、その新鮮な再生のために、そして全然予測のつかない新世界、石屑だらけの野原の上の生活のために、伊沢はむしろ好奇心がうずくのだった。

それは半年か一年先に当然訪れる運命だったが、その訪れの当然さにもかかわらず、夢の中の世界のような遥かな戯れにしか意識されていなかった。

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それは半年か一年さきの当然訪れる運命だったが、その訪れの当然さにもかかわらず、夢の中の世界のような遥かな戯れにしか意識されていなかった。

目の先のすべてをふさぎ、生きる希望を根こそぎさらい去るたった二百円の決定的な力、夢の中にまで二百円に首を絞められ、うなされ、まだ二十七の青春のあらゆる情熱が色を抜かれて、現実にはもう暗黒の荒野の上をぼうぼうと歩くだけではないか。

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眼のさきのべてをふさぎ、生きる希望を根こそぎさらい去るたった二百円の決定的な力、夢の中にまで二百円に首をしめられ、うなされ、まだ二十七の青春のあらゆる情熱が漂白されて、現実にすでに暗黒の曠野の上を茫々ぼうぼうと歩くだけではないか。

伊沢は女が欲しかった。

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伊沢は女が欲しかった。

女が欲しいという声は伊沢の最大の希望ですらあったのに、その女との生活が二百円に限定され、鍋だの釜だの味噌だの米だのみんな二百円の呪文を負い、二百円の呪文に取り憑かれた子供が生まれ、女がまるで手先のように呪文に取り憑かれた鬼となって日々ぶつぶつ呟いている。

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女が欲しいという声は伊沢の最大の希望ですらあったのに、その女との生活が二百円に限定され、鍋だの釜だの味噌だの米だのみんな二百円の咒文じゅもんを負い、二百円の咒文にかれた子供が生まれ、女がまるで手先のように咒文に憑かれた鬼と化して日々ブツブツ呟いている。

胸の灯も芸術も希望の光もみんな消えて、生活そのものが道ばたの馬糞のようにぐちゃぐちゃに踏みにじられて、乾ききって風に吹かれて飛び散り、跡形もなくなっていく。

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胸の灯も芸術も希望の光もみんな消えて、生活自体が道ばたの馬糞のようにグチャグチャに踏みしだかれて、乾きあがって風に吹かれて飛びちり跡形もなくなって行く。

爪の跡すら、なくなっていく。

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爪の跡すら、なくなって行く。

女の背にはそういう呪文が絡みついているのであった。

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女の背にはそういう咒文がからみついているのであった。

やりきれない卑小な生活だった。

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やりきれない卑小な生活だった。

彼自身にはこの現実の卑小さを裁く力すらもない。

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彼自身にはこの現実の卑小さを裁く力すらもない。

ああ戦争、この偉大な破壊、奇妙奇天烈な公平さでみんな裁かれ、日本中が石屑だらけの野原になり泥人形がばたばた倒れ、それは虚無のなんという切ない巨大な愛情だろうか。

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ああ戦争、この偉大なる破壊、奇妙奇天烈きてれつな公平さでみんな裁かれ日本中が石屑だらけの野原になり泥人形がバタバタ倒れ、それは虚無のなんという切ない巨大な愛情だろうか。

破壊の神の腕の中で彼は眠りこけたくなり、そして彼は警報が鳴るとむしろ生き生きしてゲートルを巻くのであった。

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破壊の神の腕の中で彼は眠りこけたくなり、そして彼は警報がなるとむしろ生き生きしてゲートルをまくのであった。

命の不安と遊ぶことだけが毎日の生きがいだった。

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生命の不安と遊ぶことだけが毎日の生きがいだった。

警報が解除になるとがっかりして、絶望的な感情の喪失がまたはじまるのであった。

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警報が解除になるとガッカリして、絶望的な感情の喪失が又はじまるのであった。

この白痴の女は米を炊くことも味噌汁をつくることも知らない。

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この白痴の女は米を炊くことも味噌汁をつくることも知らない。

配給の行列に立っているのが精一杯で、喋ることすらも自由ではないのだ。

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配給の行列に立っているのが精一杯で、しゃべることすらも自由ではないのだ。

まるで最も薄い一枚のガラスのように喜怒哀楽の微風にすら震え、放心と怯えの皺の間へ人の意志を受け入れ、通り抜けさせているだけだ。

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まるで最も薄い一枚のガラスのように喜怒哀楽の微風にすら反響し、放心と怯えのしわの間へ人の意志を受け入れ通過させているだけだ。

二百円の悪霊すらも、この魂には宿ることができないのだ。

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二百円の悪霊すらも、この魂には宿ることができないのだ。

この女はまるで俺のために造られた悲しい人形のようではないか。

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この女はまるで俺のために造られた悲しい人形のようではないか。

伊沢はこの女と抱き合い、暗い荒野をひょうひょうと風に吹かれて歩いていく、果てのない旅路を思い描いた。

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伊沢はこの女と抱き合い、暗い曠野を飄々ひょうひょうと風に吹かれて歩いている、無限の旅路を目に描いた。

それにもかかわらず、その思いつきが何か突飛に感じられ、途方もなく馬鹿げたことのように思われるのは、そこにもまた卑小きわまる人間の殻が心の芯をむしばんでいるせいなのだろう。

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それにも拘らず、その想念が何か突飛に感じられ、途方もない馬鹿げたことのように思われるのは、そこにもまた卑小きわまる人間の殻が心の芯をむしばんでいるせいなのだろう。

そしてそれを知りながら、しかもなお、湧き出るようなこの想いと愛情の素直さが、まったくのいつわりにしか感じられないのはなぜだろう。

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そしてそれを知りながら、しかも尚、わきでるようなこの想念と愛情の素直さが全然虚妄のものにしか感じられないのはなぜだろう。

白痴の女よりもあのアパートの娼婦が、そしてどこかの貴婦人がより人間的だという、何か本質的な掟があるのだろうか。

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白痴の女よりもあのアパートの淫売婦が、そしてどこかの貴婦人がより人間的だという何か本質的なおきてが在るのだろうか。

けれどもまるでその掟が厳然と存在しているような、馬鹿馬鹿しい有様なのであった。

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けれどもまるでその掟が厳として存在している馬鹿馬鹿しい有様なのであった。

俺は何を怖れているのだろうか。

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俺は何を怖れているのだろうか。

まるであの二百円の悪霊が――俺は今この女によってその悪霊と縁を切ろうとしているのに、そのくせやはり悪霊の呪文によって縛りつけられているではないか。

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まるであの二百円の悪霊が――俺は今この女によってその悪霊と絶縁しようとしているのに、そのくせ矢張り悪霊の咒文によって縛りつけられているではないか。

怖れているのはただ世間への見栄だけだ。

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怖れているのはただ世間の見栄だけだ。

その世間とは、アパートの娼婦だの妾だの妊娠した挺身隊だの、家鴨のような鼻にかかった声を出して喚いているおかみさんたちの行列会議だけのことだ。

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その世間とはアパートの淫売婦だの妾だの姙娠した挺身隊だの家鴨のような鼻にかかった声をだしてわめいているオカミサン達の行列会議だけのことだ。

そのほかに世間などはどこにもありはしないのに、そのくせこの分かりきった事実を俺はまったく信じていない。

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そのほかに世間などはどこにもありはしないのに、そのくせこの分りきった事実を俺は全然信じていない。

不思議な掟に怯えているのだ。

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不思議な掟に怯えているのだ。

それは驚くほど短い(同時にそれは限りなく長い)一夜であった。

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それは驚くほど短い(同時にそれは無限に長い)一夜であった。

長い夜のまるで果てしない続きだと思っていたのに、いつのまにか夜が白み、夜明けの寒気が彼の全身を感覚のない石のように固まらせていた。

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長い夜のまるで無限の続きだと思っていたのに、いつかしら夜が白み、夜明けの寒気が彼の全身を感覚のない石のようにかたまらせていた。

彼は女の枕元で、ただ髪の毛を撫で続けていたのであった。

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彼は女の枕元で、ただ髪の毛をなでつづけていたのであった。

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その日から別の生活がはじまった。

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その日から別な生活がはじまった。

けれどもそれは一つの家に女の肉体が一つ増えたということのほかには、別でもなければ変わってすらもいなかった。

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けれどもそれは一つの家に女の肉体がふえたということの外には別でもなければ変ってすらもいなかった。

それはまるで嘘のような空々しさで、確かに彼の身のまわりに、そして彼の精神に、新たな芽生えのたった一本の穂先すら見つけることができないのだ。

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それはまるで嘘のような空々しさで、たしかに彼の身辺に、そして彼の精神に、新たな芽生えの唯一本の穂先すら見出すことができないのだ。

その出来事の異常さをともかく理性で納得しているというだけで、生活そのものには机の置き場所が変わったほどの変化も起きてはいなかった。

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その出来事の異常さをともかく理性的に納得しているというだけで、生活自体に机の置き場所が変ったほどの変化も起きてはいなかった。

彼は毎朝出勤し、その留守の家の押入の中に一人の白痴が残されて彼の帰りを待っている。

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彼は毎朝出勤し、その留守宅の押入の中に一人の白痴が残されて彼の帰りを待っている。

しかも彼は一歩外に出ると、もう白痴の女のことなどは忘れており、何かそういう出来事がもう記憶にも定かでない十年二十年前にあったかのような遠い気持ちがするだけだった。

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しかも彼は一足でると、もう白痴の女のことなどは忘れており、何かそういう出来事がもう記憶にも定かではない十年二十年前に行われていたかのような遠い気持がするだけだった。

戦争という奴が、不思議に健全な物忘れをさせるのであった。

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戦争という奴が、不思議に健全な健忘性なのであった。

まったく戦争の驚くべき破壊力や空間の移り変わりの激しさという奴は、たった一日が何百年もの変化を起こし、一週間前の出来事が数年前の出来事に思われ、一年前の出来事などは、記憶の最もどん底の、下積みの底へ押しやられていた。

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まったく戦争の驚くべき破壊力や空間の変転性という奴はたった一日が何百年の変化を起し、一週間前の出来事が数年前の出来事に思われ、一年前の出来事などは、記憶の最もどん底の下積の底へ隔てられていた。

伊沢の近くの道路だの工場のまわりの建物などが取り壊され、町全体がただ舞い上がる埃のような疎開騒ぎをやらかしたのもつい先頃のことであり、その跡すら片づいていないのに、それはもう一年前の騒ぎのように遠ざかり、街の様相を一変させる大きな変化も、二度目に眺める時にはただ当然の風景でしかなくなっていた。

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伊沢の近くの道路だの工場の四囲の建物などが取りこわされ町全体がただ舞いあがるほこりのような疎開騒ぎをやらかしたのもつい先頃のことであり、その跡すらも片づいていないのに、それはもう一年前の騒ぎのように遠ざかり、街の様相を一変する大きな変化が二度目にそれを眺める時にはただ当然な風景でしかなくなっていた。

その健康な物忘れの雑多なかけらの一つの中に、白痴の女もやはり霞んでいる。

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その健康な健忘性の雑多なカケラの一つの中に白痴の女がやっぱり霞んでいる。

昨日まで行列していた駅前の居酒屋の疎開跡の棒切れだの、爆弾に壊されたビルの穴だの、街の焼跡だの、それら雑多なかけらの間に挟まれて白痴の顔が転がっているだけだった。

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昨日まで行列していた駅前の居酒屋の疎開跡の棒切れだの爆弾に破壊されたビルの穴だの街の焼跡だの、それらの雑多のカケラの間にはさまれて白痴の顔がころがっているだけだった。

けれども毎日警戒警報が鳴る。

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けれども毎日警戒警報がなる。

時には空襲警報も鳴る。

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時には空襲警報もなる。

すると彼は非常に不愉快な精神状態になるのであった。

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すると彼は非常に不愉快な精神状態になるのであった。

それは彼の留守宅の近くに空襲があり、知らないうちに変化が現に起こっていないかという懸念であったが、その懸念のただ一つの理由は、女が取り乱して飛びだし、すべてが近所に知れ渡っていないかという不安なのだった。

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それは彼の留守宅の近いところに空襲があり知らない変化が現に起っていないかという懸念であったが、その懸念の唯一の理由はただ女がとりみだして、とびだしてすべてが近隣へ知れ渡っていないかという不安なのだった。

知らないうちに起こる変化への不安のために、彼は毎日明るいうちに家へ帰ることができなかった。

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知らない変化の不安のために、彼は毎日明るいうちに家へ帰ることができなかった。

この低俗な不安を克服できない惨めさに幾度むなしく反抗したか、彼はせめて仕立屋にすべてを打ち明けてしまいたいと思うのだったが、その卑劣さに絶望した、なぜならそれは被害の最も少ない告白をすることによって不安を紛らす惨めな手段にすぎないので、彼は自分の本質が低俗な世間なみにすぎないことを呪い、憤るばかりだった。

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この低俗な不安を克服し得ぬ惨めさに幾たび虚しく反抗したか、彼はせめて仕立屋に全てを打開けてしまいたいと思うのだったが、その卑劣さに絶望して、なぜならそれは被害の最も軽少な告白を行うことによって不安をまぎらす惨めな手段にすぎないので、彼は自分の本質が低俗な世間なみにすぎないことをのろい憤るのみだった。

彼には忘れられない二つの白痴の顔があった。

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彼には忘れ得ぬ二つの白痴の顔があった。

街角を曲がる時だの、会社の階段を登る時だの、電車の人ごみを抜けだす時だの、思いがけないあらゆる場面でふと二つの顔を思いだし、そのたびに彼のいっさいの思いが凍りつき、そして一瞬ののぼせが絶望的に凍りついているのであった。

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街角を曲る時だの、会社の階段を登る時だの、電車の人ごみを脱けでる時だの、はからざる随所に二つの顔をふと思いだし、そのたびに彼の一切の思念が凍り、そして一瞬の逆上が絶望的に凍りついているのであった。

その顔の一つは、彼が初めて白痴の肉体に触れた時の白痴の顔だ。

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その顔の一つは彼が始めて白痴の肉体にふれた時の白痴の顔だ。

そしてその出来事そのものは、その翌日にはもう一年昔の記憶の彼方へ遠ざけられているのであったが、ただ顔だけが切り離されて思いだされてくるのである。

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そしてその出来事自体はその翌日には一年昔の記憶の彼方かなたへ遠ざけられているのであったが、ただ顔だけが切り放されて思いだされてくるのである。

その日から白痴の女は、ただ待ちうけている肉体であるにすぎず、そのほかには何の生活も、ひとかけらの考えすらもないのであった。

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その日から白痴の女はただ待ちもうけている肉体であるにすぎずその外の何の生活も、ただひときれの考えすらもないのであった。

常にただ待ちうけていた。

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常にただ待ちもうけていた。

伊沢の手が女の肉体の一部に触れるというだけで、女の意識するすべては肉体の行為であり、そして身体も、そして顔も、ただ待ちうけているばかりであった。

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伊沢の手が女の肉体の一部にふれるというだけで、女の意識する全部のことは肉体の行為であり、そして身体も、そして顔も、ただ待ちもうけているのみであった。

驚くべきことに、深夜、伊沢の手が女に触れるというだけで、眠りこけた肉体が同じ反応を起こし、肉体だけは常に生きて、ただ待ちうけているのである。

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驚くべきことに、深夜、伊沢の手が女にふれるというだけで、眠りれた肉体が同一の反応を起し、肉体のみは常に生き、ただ待ちもうけているのである。

眠りながらも!

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眠りながらも!

けれども、目覚めている女の頭で何が考えられているかといえば、もともとただの空虚であり、あるものはただ魂の昏睡と、そして生きている肉体だけではないか。

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 けれども、目覚めている女の頭に何事が考えられているかと云えば、元々ただの空虚であり、在るものはただ魂の昏睡と、そして生きている肉体のみではないか。

目覚めた時も魂は眠り、眠った時もその肉体は目覚めている。

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目覚めた時も魂はねむり、ねむった時もその肉体は目覚めている。

あるものはただ無自覚な肉欲のみ。

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在るものはただ無自覚な肉慾のみ。

それはあらゆる時間に目覚め、虫のように飽きることのない反応のうごめきを起こす肉体であるにすぎない。

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それはあらゆる時間に目覚め、虫の如きまざる反応の蠢動しゅんどうを起す肉体であるにすぎない。

もう一つの顔、それはちょうど伊沢の休みの日であったが、白昼、遠くない地区に二時間にわたる爆撃があり、防空壕を持たない伊沢は女と一緒に押入にもぐり、布団を盾に隠れていた。

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も一つの顔、それは折から伊沢の休みの日であったが、白昼遠からぬ地区に二時間にわたる爆撃があり、防空壕をもたない伊沢は女と共に押入にもぐり蒲団をたてにかくれていた。

爆撃は伊沢の家から四、五百メートル離れた地区へ集中したが、地軸もろとも家は揺れ、爆撃の音と同時に呼吸も思考も途切れる。

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爆撃は伊沢の家から四五百メートル離れた地区へ集中したが、地軸もろとも家はゆれ、爆撃の音と同時に呼吸も思念も中絶する。

同じように落ちてくるものでも焼夷弾と爆弾では凄みにおいて青大将と蝮ほどの違いがあり、焼夷弾にはガラガラという特別に不気味な音が仕掛けてあっても地上での爆発音がないのだから音は頭上ですうと消え失せ、竜頭蛇尾とはこのことで、蛇の尾どころか尻尾がまるでなくなるのだから、決定的な恐怖感に欠けている。

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同じように落ちてくる爆弾でも焼夷弾と爆弾では凄みにおいて青大将とまむしぐらいの相違があり、焼夷弾にはガラガラという特別不気味な音響が仕掛けてあっても地上の爆発音がないのだから音は頭上でスウと消え失せ、竜頭蛇尾とはこのことで、蛇尾どころか全然尻尾がなくなるのだから、決定的な恐怖感に欠けている。

けれども爆弾という奴は、落下音こそ小さく低いが、ざあという雨降りの音のようなただ一本の棒を引き、こいつが最後に地軸もろとも引き裂くような爆発音を起こすのだから、ただ一本の棒にこもった充実した凄みといったら論外で、ズドズドズドと爆発の足が近づく時の絶望的な恐怖ときては、文字どおり生きた心地がないのである。

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けれども爆弾という奴は、落下音こそ小さく低いが、ザアという雨降りの音のようなただ一本の棒をひき、此奴こいつが最後に地軸もろとも引裂くような爆発音を起すのだから、ただ一本の棒にこもった充実した凄味といったら論外で、ズドズドズドと爆発の足が近づく時の絶望的な恐怖ときては額面通りに生きた心持がないのである。

おまけに飛行機の高度が高いので、ブンブンという頭上を通過する米軍機の音もごくかすかに何食わぬ風に響いていて、それはまるでよそ見をしている怪物に大きな斧で殴りつけられるようなものだ。

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おまけに飛行機の高度が高いので、ブンブンという頭上通過の米機の音も至極かすかに何食わぬ風に響いていて、それはまるでよそ見をしている怪物に大きなおので殴りつけられるようなものだ。

攻撃してくる相手の様子が確かでないから、爆音のうなりの妙な遠さがひどく不安であるところへ、そこからざあと雨降りの棒が一本、落下音となって伸びてくる。

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攻撃する相手の様子が不確かだから爆音の唸りの変な遠さが、甚だ不安であるところへ、そこからザアと雨降りの棒一本の落下音がのびてくる。

爆発を待つ間の恐怖、まったくこいつは言葉も呼吸も思考もとまる。

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爆発を待つまの恐怖、全く此奴は言葉も呼吸も思念もとまる。

いよいよ今度はお陀仏だという絶望が、発狂寸前の冷たさで生きて光っているだけだ。

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愈々いよいよ今度はお陀仏だぶつだという絶望が発狂寸前の冷たさで生きて光っているだけだ。

伊沢の小屋は幸い四方をアパートだの気違いだの仕立屋などの二階屋で取り囲まれていたので、近所の家は窓ガラスが割れ屋根の傷んだ家もあったが、彼の小屋だけはガラスにひびすら入らなかった。

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伊沢の小屋は幸い四方がアパートだの気違いだの仕立屋などの二階屋でとりかこまれていたので、近隣の家は窓ガラスがわれ屋根の傷んだ家もあったが、彼の小屋のみガラスにひびすらもはいらなかった。

ただ豚小屋の前の畑に血だらけの防空頭巾が落ちてきたばかりであった。

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ただ豚小屋の前の畑に血だらけの防空頭巾が落ちてきたばかりであった。

押入の中で、伊沢の目だけが光っていた。

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押入の中で、伊沢の目だけが光っていた。

彼は見た。

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彼は見た。

白痴の顔を。

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白痴の顔を。

虚空をつかむその絶望の苦悶を。

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虚空をつかむその絶望の苦悶を。

ああ人間には知恵がある。

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ああ人間には理智がある。

どんな時にもなお、いくらかの抑制や抵抗は影をとどめているものだ。

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如何なる時にも尚いくらかの抑制や抵抗は影をとどめているものだ。

その影ほどの知恵も抑制も抵抗もないということが、これほどあさましいものだとは!

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その影ほどの理智も抑制も抵抗もないということが、これほどあさましいものだとは!

女の顔と全身に、ただ死の窓へ向かって開かれた恐怖と苦悶が凝り固まっていた。

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 女の顔と全身にただ死の窓へひらかれた恐怖と苦悶が凝りついていた。

苦悶は動き、苦悶はもがき、そして苦悶が一滴の涙を落としている。

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苦悶は動き苦悶はもがき、そして苦悶が一滴の涙を落している。

もし犬の目が涙を流すなら、犬が笑うのと同じように醜くおぞましいものであろう。

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もし犬の眼が涙を流すなら犬が笑うと同様に醜怪きわまるものであろう。

影ほどの知恵もない涙とは、これほども醜悪なものだとは!

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影すらも理智のない涙とは、これほども醜悪なものだとは!

爆撃の真っ最中には、四、五歳から六、七歳くらいの幼児たちは奇妙に泣かないものである。

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 爆撃のさ中に於て四五歳乃至六七歳の幼児達は奇妙に泣かないものである。

彼らの心臓は波のような動悸を打ち、彼らの言葉は失われ、異様な目を大きく見開いているだけだ。

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彼等の心臓は波のような動悸をうち、彼等の言葉は失われ、異様な目を大きく見開いているだけだ。

全身で生きているのは目だけであるが、それは一見したところ、ただ大きく見開かれているだけで、必ずしも不安や恐怖というものの直接的で劇的な表情を刻んでいるというほどではない。

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全身に生きているのは目だけであるが、それは一見したところ、ただ大きく見開かれているだけで、必ずしも不安や恐怖というものの直接劇的な表情を刻んでいるというほどではない。

むしろ本来の子供よりもかえって理知的に思われるほど、感情を静かに殺している。

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むしろ本来の子供よりもかえって理智的に思われるほど情意を静かに殺している。

その瞬間にはあらゆる大人もそれだけで、あるいはむしろそれ以下で、なぜならむしろ露骨な不安や死への苦悶を表すからで、いわば子供が大人よりも理知的にすら見えるのだった。

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その瞬間にはあらゆる大人もそれだけで、或いはむしろそれ以下で、なぜならむしろ露骨な不安や死への苦悶を表わすからで、いわば子供が大人よりも埋智的にすら見えるのだった。

白痴の苦悶は、子供たちの大きな目とは似ても似つかぬものであった。

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白痴の苦悶は、子供達の大きな目とは似ても似つかぬものであった。

それはただ本能的な死への恐怖と死への苦悶があるだけで、それは人間のものではなく、虫のものですらもなく、醜悪な一つの動きがあるだけだった。

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それはただ本能的な死への恐怖と死への苦悶があるだけで、それは人間のものではなく、虫のものですらもなく、醜悪な一つの動きがあるのみだった。

やや似たものがあるとすれば、五センチほどの芋虫が一メートル半の長さにふくれあがってもがいている動きくらいのものだろう。

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やや似たものがあるとすれば、一寸五分ほどの芋虫が五尺の長さにふくれあがってもがいている動きぐらいのものだろう。

そして目に一滴の涙をこぼしているのである。

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そして目に一滴の涙をこぼしているのである。

言葉も叫びもうめきもなく、表情もなかった。

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言葉も叫びもうめきもなく、表情もなかった。

伊沢の存在すらも意識してはいなかった。

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伊沢の存在すらも意識してはいなかった。

人間ならばこれほどの孤独があり得るはずはない。

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人間ならばかほどの孤独が有り得る筈はない。

男と女とただ二人で押入にいて、その一方の存在を忘れ果ててしまうということが、人間の場合にあり得るはずはない。

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男と女とただ二人押入にいて、その一方の存在を忘れ果てるということが、人の場合に有り得べき筈はない。

人は絶対の孤独というが、他者の存在を自覚してこそ絶対の孤独もあり得るので、これほどまで盲目的な、無自覚な、絶対の孤独があり得ようか。

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人は絶対の孤独というが他の存在を自覚してのみ絶対の孤独も有り得るので、かほどまで盲目的な、無自覚な、絶対の孤独が有り得ようか。

それは芋虫の孤独であり、その絶対の孤独のさまのあさましさ。

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それは芋虫の孤独であり、その絶対の孤独の相のあさましさ。

心の影のかけらもない苦悶のさまの、見るに堪えない醜悪さ。

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心の影の片鱗へんりんもない苦悶の相の見るに堪えぬ醜悪さ。

爆撃が終わった。

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爆撃が終った。

伊沢は女を抱き起こしたが、伊沢の指が一本胸に触れただけでも反応を起こす女が、その肉欲すら失っていた。

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伊沢は女を抱き起したが、伊沢の指の一本が胸にふれても反応を起す女が、その肉慾すら失っていた。

この亡骸を抱いて限りなく落下し続けている、暗い、暗い、果てのない落下があるだけだった。

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このむくろを抱いて無限に落下しつづけている、暗い、暗い、無限の落下があるだけだった。

彼はその日、爆撃の直後に散歩に出て、なぎ倒された民家の間で吹き飛ばされた女の脚も、腸の飛びだした女の腹も、ねじ切れた女の首も見たのであった。

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彼はその日爆撃直後に散歩にでて、なぎ倒された民家の間で吹きとばされた女の脚も、腸のとびだした女の腹も、ねじきれた女の首も見たのであった。

三月十日の大空襲の焼跡もまだ吹き上げる煙をくぐって、伊沢はあてもなく歩いていた。

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三月十日の大空襲の焼跡もまだ吹きあげる煙をくぐって伊沢はあてもなく歩いていた。

人間が焼き鳥と同じようにあちこちで死んでいる。

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人間が焼鳥と同じようにあっちこっちに死んでいる。

ひとかたまりになって死んでいる。

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ひとかたまりに死んでいる。

まったく焼き鳥と同じことだ。

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まったく焼鳥と同じことだ。

怖くもなければ、汚くもない。

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怖くもなければ、汚くもない。

犬と並んで同じように焼かれている死体もあるが、それはまったくの犬死にで、しかしそこにはその犬死にの悲痛さも感慨すらもありはしない。

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犬と並んで同じように焼かれている死体もあるが、それは全く犬死で、然しそこにはその犬死の悲痛さも感慨すらも有りはしない。

人間が犬のように死んでいるのではなく、犬と、そしてそれと同じような何物かが、ちょうど一皿の焼き鳥のように盛られ並べられているだけだった。

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人間が犬の如くに死んでいるのではなく、犬と、そして、それと同じような何物かが、ちょうど一皿の焼鳥のように盛られ並べられているだけだった。

犬でもなく、もとより人間ですらもない。

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犬でもなく、もとより人間ですらもない。

白痴の女が焼け死んだら――土から作られた人形が土に返るだけではないか。

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白痴の女が焼け死んだら――土から作られた人形が土にかえるだけではないか。

もしこの街に焼夷弾の降りそそぐ夜がきたら……伊沢はそれを考えると、妙に落ち着いて沈み込んで考えている自分の姿と自分の顔、自分の目を意識せずにいられなかった。

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もしこの街に焼夷弾のふりそそぐ夜がきたら……伊沢はそれを考えると、変に落着いて沈み考えている自分の姿と自分の顔、自分の目を意識せずにいられなかった。

俺は落ち着いている。

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俺は落着いている。

そして、空襲を待っている。

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そして、空襲を待っている。

よかろう。

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よかろう。

彼はせせら笑うのだった。

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彼はせせら笑うのだった。

俺はただ醜悪なものが嫌いなだけだ。

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俺はただ醜悪なものが嫌いなだけだ。

そして、もともと魂のない肉体が焼けて死ぬだけのことではないか。

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そして、元々魂のない肉体が焼けて死ぬだけのことではないか。

俺は女を殺しはしない。

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俺は女を殺しはしない。

俺は卑劣で、低俗な男だ。

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俺は卑劣で、低俗な男だ。

俺にはそれだけの度胸はない。

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俺にはそれだけの度胸はない。

だが、戦争がたぶん女を殺すだろう。

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だが、戦争がたぶん女を殺すだろう。

その戦争の冷酷な手を女の頭上へ向けるための、ちょっとした手がかりだけをつかめばいいのだ。

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その戦争の冷酷な手を女の頭上へ向けるためのちょっとした手掛りだけをつかめばいいのだ。

俺は知らない。

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俺は知らない。

たぶん、何かある瞬間が、それを自然に解決してしまうにすぎないだろう。

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多分、何かある瞬間が、それを自然に解決しているにすぎないだろう。

そして伊沢は空襲をきわめて冷静に待ち構えていた。

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そして伊沢は空襲をきわめて冷静に待ち構えていた。

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それは四月十五日であった。

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それは四月十五日であった。

その二日前、十三日に、東京では二度目の夜間大空襲があり、池袋だの巣鴨だの山手方面に被害があったが、たまたまその罹災証明が手に入ったので、伊沢は埼玉へ買い出しに出かけ、いくらかの米をリュックに背負って帰って来た。

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その二日前、十三日に、東京では二度目の夜間大空襲があり、池袋だの巣鴨だの山手方面に被害があったが、たまたまその罹災りさい証明が手にはいったので、伊沢は埼玉へ買出しにでかけ、いくらかの米をリュックに背負って帰って来た。

彼が家へ着くと同時に警戒警報が鳴りだした。

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彼が家へ着くと同時に警戒警報が鳴りだした。

次の東京の空襲がこの街のあたりだろうということは、焼け残りの地域を考えれば誰にも想像のつくことで、早ければ明日、遅くとも一か月とはかからないこの街の運命の日が近づいている。

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次の東京の空襲がこの街のあたりだろうということは焼け残りの地域を考えれば誰にも想像のつくことで、早ければ明日、遅くとも一ヶ月とはかからないこの街の運命の日が近づいている。

早ければ明日と考えたのは、これまでの空襲の間隔、編隊による夜間爆撃の準備期間が早くて明日ぐらいであったからで、この日がその日になろうとは伊沢は予想していなかった。

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早ければ明日と考えたのは、これまでの空襲の速度、編隊夜間爆撃の準備期間の間隔が早くて明日ぐらいであったからで、この日がその日になろうとは伊沢は予想していなかった。

それゆえ買い出しにも出掛けたので、買い出しと言っても目的は他にもあり、この農家は伊沢の学生時代に縁のあった家であり、彼は二つのトランクとリュックに詰めた品物を預けることの方がむしろ主な目的であった。

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それ故買出しにも出掛けたので、買出しと云っても目的は他にもあり、この農家は伊沢の学生時代に縁故のあった家であり、彼は二つのトランクとリュックにつめた物品を預けることがむしろ主要な目的であった。

伊沢は疲れきっていた。

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伊沢は疲れきっていた。

旅の身なりは防空服装でもあったから、リュックを枕にそのまま部屋の真ん中にひっくり返って、彼は実際この差し迫った時間にうとうとと眠ってしまった。

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旅装は防空服装でもあったから、リュックを枕にそのまま部屋のまんなかにひっくりかえって、彼は実際この差しせまった時間にうとうととねむってしまった。

ふと目がさめるとあちこちのラジオはがんがんがなり立てており、編隊の先頭はもう伊豆の南端に迫り、伊豆の南端を通過した。

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ふと目がさめると諸方のラジオはがんがんがなりたてており、編隊の先頭はもう伊豆南端にせまり、伊豆南端を通過した。

同時に空襲警報が鳴りだした。

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同時に空襲警報がなりだした。

いよいよこの街の最後の日だ、伊沢は直感した。

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愈々いよいよこの街の最後の日だ、伊沢は直覚した。

白痴を押入の中に入れ、伊沢はタオルをぶら下げ歯ブラシをくわえて井戸端へ出かけたが、伊沢はその数日前にライオン練り歯磨きを手に入れ、長い間忘れていた練り歯磨きが口の中にしみわたる爽快さをなつかしんでいたので、運命の日を直感するとどういうわけだか歯をみがき顔を洗う気になったが、まずその練り歯磨きが当然あるべき場所からほんの少し動いていただけで長い時間(それは実に長い時間に思われた)見当たらず、ようやくそれを見つけると今度は石鹸(この石鹸も香りのある昔の化粧石鹸)が、これもちょっと場所が動いていただけで長い時間見当たらず、ああ俺は慌てているな、落ち着け、落ち着け、頭を戸棚にぶつけたり机につまずいたり、そのために彼はしばらく

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白痴を押入の中に入れ、伊沢はタオルをぶらさげ歯ブラシをくわえて井戸端へでかけたが、伊沢はその数日前にライオン煉歯磨ねりはみがきを手に入れ長い間忘れていた煉歯磨の口中にしみわたる爽快さをなつかしんでいたので、運命の日を直覚するとどういうわけだか歯をみがき顔を洗う気になったが、第一にその煉歯磨が当然あるべき場所からほんのちょっと動いていただけで長い時間(それは実に長い時間に思われた)見当らず、ようやくそれを見附けると今度は石鹸(この石鹸も芳香のある昔の化粧石鹸)がこれもちょっと場所が動いていただけで長い時間見当らず、ああ俺は慌てているな、落着け、落着け、頭を戸棚にぶつけたり机につまずいたり、そのために彼は暫時ざんじ

の間いっさいの動きと思考をとめて精神統一をはかろうとするが、身体そのものが本能的に慌てだして滑るように動いていくのである。

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の間一切の動きと思念を中絶させて精神統一をはかろうとするが、身体自体が本能的に慌てだして滑り動いて行くのである。

ようやく石鹸を見つけだして井戸端へ出ると、仕立屋夫婦が畑の隅の防空壕へ荷物を投げこんでおり、家鴨によく似た屋根裏の娘が荷物をぶら下げてうろうろしていた。

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ようやく石鹸を見つけだして井戸端へ出ると仕立屋夫婦が畑の隅の防空壕へ荷物を投げこんでおり、家鴨によく似た屋根裏の娘が荷物をブラさげてうろうろしていた。

伊沢はともかく練り歯磨きと石鹸をあきらめずに突きとめた執拗さを祝福し、はたしてこの夜の運命はどうなるのだろうと思った。

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伊沢はともかく煉歯磨と石鹸を断念せずに突きとめた執拗さを祝福し、果してこの夜の運命はどうなるのだろうと思った。

まだ顔をふき終わらないうちに高射砲が鳴りはじめ、頭を上げると、もう頭上に十何本もの照空燈が入り乱れて真上をさして騒いでおり、光の帯の真ん中に米軍機がぽっかり浮いている。

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まだ顔をふき終らぬうちに高射砲がなりはじめ、頭をあげると、もう頭上に十何本の照空燈が入りみだれて真上をさして騒いでおり、光芒こうぼうのまんなかに米機がぽっかり浮いている。

続いて一機、また一機、ふと目を下の方へおろしたら、もう駅前の方角が火の海になっていた。

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つづいて一機、また一機、ふと目を下方へおろしたら、もう駅前の方角が火の海になっていた。

いよいよ来た。

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愈々来た。

事態がはっきりすると伊沢はようやく落ち着いた。

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事態がハッキリすると伊沢はようやく落着いた。

防空頭巾をかぶり、布団をかぶって軒先に立ち、二十四機まで伊沢は数えた。

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防空頭巾をかぶり、蒲団をかぶって軒先に立ち二十四機まで伊沢は数えた。

ぽっかり光の帯の真ん中に浮いて、みんな頭上を通過している。

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ポッカリ光芒のまんなかに浮いて、みんな頭上を通過している。

高射砲の音だけが気が違ったように鳴り続け、爆撃の音は一向に起こらない。

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高射砲の音だけが気が違ったように鳴りつづけ、爆撃の音は一向に起らない。

二十五機を数える頃から、例のガラガラという、ガードの上を貨物列車が駆け去る時のような焼夷弾の落下音が鳴り始めたが、伊沢の頭上を通り越して、後方の工場地帯へ集中されているらしい。

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二十五機を数える時から例のガラガラとガードの上を貨物列車が駆け去る時のような焼夷弾の落下音が鳴り始めたが、伊沢の頭上を通り越して、後方の工場地帯へ集中されているらしい。

軒先からは見えないので豚小屋の前まで行って後ろを見ると、工場地帯は火の海で、呆れたことには今まで頭上を通過していた飛行機とは正反対の方向からも次々と米軍機が来て、後方一帯に爆撃を加えているのだ。

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軒先からは見えないので豚小屋の前まで行って後を見ると、工場地帯は火の海で、呆れたことには今迄頭上を通過していた飛行機と正反対の方向からも次々と米機が来て後方一帯に爆撃を加えているのだ。

するともうラジオはとまり、空一面は赤々と厚い煙の幕に隠れて、米軍機の姿も照空燈の光の帯もまったく視界から消えてしまった。

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するともうラジオはとまり、空一面は赤々と厚い煙の幕にかくれて、米機の姿も照空燈の光芒も全く視界から失われてしまった。

北方の一角を残して四方は火の海となり、その火の海がしだいに近づいていた。

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北方の一角を残して四周は火の海となり、その火の海が次第に近づいていた。

仕立屋夫婦は用心深い人たちで、日ごろから防空壕を荷物用に造ってあり、目張りの泥も用意しておき、万事手順どおりに防空壕へ荷物を詰めこみ目張りを塗り、そのまた上へ畑の土もかけ終わっていた。

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仕立屋夫婦は用心深い人達で、常から防空壕を荷物用に造ってあり目張りの泥も用意しておき、万事手順通りに防空壕に荷物をつめこみ目張りをぬり、その又上へ畑の土もかけ終っていた。

この火じゃとても駄目ですね。

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この火じゃとても駄目ですね。

仕立屋は昔の火消しの装束で腕組みをして火の手を眺めていた。

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仕立屋は昔の火消しの装束で腕組みをして火の手を眺めていた。

消せったって、これじゃ無理だ。

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消せったって、これじゃ無理だ。

あたしゃもう逃げますよ。

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あたしゃもう逃げますよ。

煙に巻かれて死んでみても始まらねえや、仕立屋はリヤカーに一山の荷物を積みこんでおり、先生、いっしょに引き上げましょう。

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煙にまかれて死んでみても始まらねえや、仕立屋はリヤカーに一山の荷物をつみこんでおり、先生、いっしょに引上げましょう。

伊沢はそのとき、騒々しいほど複雑な恐怖に襲われた。

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伊沢はそのとき、騒々しいほど複雑な恐怖感に襲われた。

彼の身体は仕立屋と一緒に滑りだしかけているのであったが、身体の動きを振りきるような一つの心の抵抗でその滑りを止めると、心の中の一角から張り裂けるような悲鳴の声が同時に起こったような気がした。

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彼の身体は仕立屋と一緒に滑りかけているのであったが、身体の動きをふりきるような一つの心の抵抗で滑りを止めると、心の中の一角から張りさけるような悲鳴の声が同時に起ったような気がした。

この一瞬の遅れのために焼けて死ぬ、彼はほとんど恐怖のために放心したが、それでもまた自然によろめきだそうとする身体の滑りをこらえていた。

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この一瞬の遅延の為に焼けて死ぬ、彼は殆ど恐怖のために放心したが、再びともかく自然によろめきだすような身体の滑りをこらえていた。

「僕はね、ともかく、もうちょっと、残りますよ。僕はね、仕事があるのだ。僕はね、ともかく芸をやる人間だから、命のとことんのところで自分の姿を見つめられるような機会には、そのとことんのところで最後の取引をしてみることを求められているのだ。僕は逃げたいが、逃げられないのだ。この機会を逃すわけにはいかないのだ。もうあなた方は逃げてください。早く、早く、一瞬がすべてを手遅れにしてしまう」

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「僕はね、ともかく、もうちょっと、残りますよ。僕はね、仕事があるのだ。僕はね、ともかく芸人だから、命のとことんの所で自分の姿を見凝みつめ得るような機会には、そのとことんの所で最後の取引をしてみることを要求されているのだ。僕は逃げたいが、逃げられないのだ。この機会を逃がすわけに行かないのだ。もうあなた方は逃げて下さい。早く、早く、一瞬間が全てを手遅れにしてしまう」

早く、早く。

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早く、早く。

一瞬がすべてを手遅れに。

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一瞬間が全てを手遅れに。

すべてとは、それは伊沢自身の命のことだ。

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全てとは、それは伊沢自身の命のことだ。

早く早く、それは仕立屋をせき立てる声ではなくて、彼自身が一瞬でも早く逃げたいがための声だった。

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早く早く、それは仕立屋をせきたてる声ではなくて、彼自身が一瞬も早く逃げたい為の声だった。

彼がこの場所を逃げだすためには、あたりの人々がみんな立ち去った後でなければならないのだ。

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彼がこの場所を逃げだすためには、あたりの人々がみんな立去った後でなければならないのだ。

さもなければ、白痴の姿を見られてしまう。

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さもなければ、白痴の姿を見られてしまう。

じゃ先生、お大事に。

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じゃ先生、お大事に。

リヤカーを引っぱりだすと仕立屋も慌てていた。

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リヤカーをひっぱりだすと仕立屋も慌てていた。

リヤカーは路地の角々にぶつかりながら去っていった。

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リヤカーは路地の角々にぶつかりながら立去った。

それがこの路地の住人たちの、最後に逃げ去る姿であった。

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それがこの路地の住人達の最後に逃げ去る姿であった。

岩を洗う怒濤の果てしない音のような、屋根を打つ高射砲の無数の破片の絶え間ない落下の音のような、休みも高低もないザアザアという不気味な音が限りなく続いているのだが、それが府道を流れていく避難民たちのひとかたまりの足音なのだ。

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岩を洗う怒濤の無限の音のような、屋根を打つ高射砲の無数の破片の無限の落下の音のような、休止と高低の何もないザアザアという無気味な音が無限に連続しているのだが、それが府道を流れている避難民達の一かたまりの跫音なのだ。

高射砲の音などはもう間が抜けて聞こえ、足音の流れの中に奇妙な命がこもっていた。

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高射砲の音などはもう間が抜けて、跫音の流れの中に奇妙な命がこもっていた。

高低も休みもない奇怪な音の果てしない流れを、世の誰が足音と判断できよう。

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高低と休止のない奇怪な音の無限の流れを世の何人が跫音と判断し得よう。

天地はただ無数の音でいっぱいだった。

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天地はただ無数の音響でいっぱいだった。

米軍機の爆音、高射砲、落下音、爆発の音、足音、屋根を打つ弾の破片、けれども伊沢の身のまわりの何十メートルかの範囲だけは赤い天地の真ん中でともかく小さな闇をつくり、まったくひっそりしているのだった。

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米機の爆音、高射砲、落下音、爆発の音響、跫音、屋根を打つ弾片、けれども伊沢の身辺の何十米かの周囲だけは赤い天地のまんなかでともかく小さな闇をつくり、全然ひっそりしているのだった。

妙な静けさの厚みと、気の違いそうな孤独の厚みがとっぷりと四方を包んでいる。

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変てこな静寂の厚みと、気の違いそうな孤独の厚みがとっぷり四周をつつんでいる。

もう三十秒、もう十秒だけ待とう。

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もう三十秒、もう十秒だけ待とう。

なぜ、そして誰が命令しているのだか、どうしてそれに従わなければならないのだか、伊沢は気違いになりそうだった。

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なぜ、そして誰が命令しているのだか、どうしてそれに従わねばならないのだか、伊沢は気違いになりそうだった。

突然、もだえ、泣き喚いて、やみくもに走りだしそうだった。

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突然、もだえ、泣き喚いて盲目的に走りだしそうだった。

そのとき鼓膜の中をかき回すような落下音が頭の真上へ落ちてきた。

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そのとき鼓膜の中を掻き廻すような落下音が頭の真上へ落ちてきた。

夢中で伏せると、頭上で音は突然消え失せ、嘘のような静けさが再び四方に戻っている。

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夢中に伏せると、頭上で音響は突然消え失せ、嘘のような静寂が再び四周に戻っている。

やれやれ、脅かしやがる。

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やれやれ、脅かしやがる。

伊沢はゆっくり起き上がって、胸や膝の土を払った。

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伊沢はゆっくり起き上って、胸や膝の土を払った。

顔を上げると、気違いの家が火を吹いている。

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顔をあげると、気違いの家が火を吹いている。

何だい、とうとう落ちたのか、彼は奇妙に落ち着いていた。

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何だい、とうとう落ちたのか、彼は奇妙に落着いていた。

気がつくと、その左右の家も、すぐ目の前のアパートも火を吹きだしているのだ。

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気がつくと、その左右の家も、すぐ目の前のアパートも火をふきだしているのだ。

伊沢は家の中へ飛びこんだ。

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伊沢は家の中へとびこんだ。

押入の戸をはね飛ばして(実際それは外れて飛んでバタバタと倒れた)白痴の女を抱くようにして布団をかぶり、走りでた。

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押入の戸をはねとばして(実際それは外れて飛んでバタバタと倒れた)白痴の女を抱くように蒲団をかぶって走りでた。

それから一分間ぐらいのことは、まったく夢中で分からなかった。

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それから一分間ぐらいのことが全然夢中で分らなかった。

路地の出口に近づいたとき、また、音が頭上めがけて落ちてきた。

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路地の出口に近づいたとき、又、音響が頭上めがけて落ちてきた。

伏せた姿勢から起き上がると、路地の出口の煙草屋も火を吹き、向かいの家では仏壇の中から火が吹きだしているのが見えた。

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伏せから起上ると、路地の出口の煙草屋も火を吹き、向いの家では仏壇の中から火が吹きだしているのが見えた。

路地を出て振り返ると、仕立屋も火を吹きはじめ、どうやら伊沢の小屋も燃えはじめているようだった。

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路地をでて振りかえると、仕立屋も火を吹きはじめ、どうやら伊沢の小屋も燃えはじめているようだった。

四方はまったくの火の海で、府道の上には避難民の姿も少なく、火の粉が飛び交い舞い狂っているばかり、もう駄目だと伊沢は思った。

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四周は全くの火の海で府道の上には避難民の姿もすくなく、火の粉がとびかい舞い狂っているばかり、もう駄目だと伊沢は思った。

十字路へ来ると、ここから大変な混雑で、あらゆる人々がただ一方をめざしている。

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十字路へくると、ここから大変な混雑で、あらゆる人々がただ一方をめざしている。

その方向がいちばん火の手が遠いのだ。

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その方向がいちばん火の手が遠いのだ。

そこはもう道ではなくて、人間と荷物と悲鳴の重なりあった流れにすぎず、押しあいへしあい突き進み踏み越え押し流され、落下音が頭上に迫ると、流れはいっせいに地上に伏して不思議にぴたりと止まってしまい、何人かの男だけが流れの上を踏みつけて駆け去るのだが、流れの大半の人々は荷物と子供と女と老人の連れがあり、呼び交わし立ち止まり戻り突き当たりはね飛ばされ、そして火の手はすぐ道の左右に迫っていた。

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そこはもう道ではなくて、人間と荷物の悲鳴の重りあった流れにすぎず、押しあいへしあい突き進み踏み越え押し流され、落下音が頭上にせまると、流れは一時に地上に伏して不思議にぴったり止まってしまい、何人かの男だけが流れの上を踏みつけて駆け去るのだが、流れの大半の人々は荷物と子供と女と老人の連れがあり、呼びかわし立ち止り戻り突き当りはねとばされ、そして火の手はすぐ道の左右にせまっていた。

小さな十字路へ来た。

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小さな十字路へきた。

流れのすべてがここでも一方をめざしているのはやはりそちらが火の手から最も遠いからだが、その方向には空き地も畑もないことを伊沢は知っており、次の米軍機の焼夷弾が行く手をふさぐと、この道には死の運命があるだけだった。

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流れの全部がここでも一方をめざしているのは矢張りそっちが火の手が最も遠いからだが、その方向には空地も畑もないことを伊沢は知っており、次の米機の焼夷弾が行く手をふさぐとこの道には死の運命があるのみだった。

もう一方の道はすでに両側の家々が燃え狂っているのだが、そこを越すと小川が流れ、小川の流れを数百メートル上ると麦畑へ出られることを伊沢は知っていた。

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一方の道は既に両側の家々が燃え狂っているのだが、そこを越すと小川が流れ、小川の流れを数町上ると麦畑へでられることを伊沢は知っていた。

その道を駆け抜けていく人影は一つもないのだから、伊沢の決意も鈍ったが、ふと見ると百五十メートルくらい先の方で猛火に水をかけているたった一人の男の姿が見えるのであった。

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その道を駆けぬけて行く一人の影すらもないのだから、伊沢の決意も鈍ったが、ふと見ると百五十米ぐらい先の方で猛火に水をかけているたった一人の男の姿が見えるのであった。

猛火に水をかけるといっても決して勇ましい姿ではなく、ただバケツをぶら下げているだけで、たまに水をかけてみたり、ぼんやり立ったり歩いてみたり、妙に鈍い動きで、その男の心理をどう解釈したものか苦しむような間の抜けた姿なのだった。

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猛火に水をかけるといっても決して勇しい姿ではなく、ただバケツをぶらさげているだけで、たまに水をかけてみたり、ぼんやり立ったり歩いてみたり変に痴鈍な動きで、その男の心理の解釈に苦しむような間の抜けた姿なのだった。

ともかく一人の人間が焼け死にもせずに立っていられるのだからと、伊沢は思った。

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ともかく一人の人間が焼け死にもせず立っていられるのだからと、伊沢は思った。

俺の運をためすのだ。

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俺の運をためすのだ。

運。

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運。

まさに、もう残されているのは、一つの運と、それを選ぶ決断だけだった。

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まさに、もう残されたのは、一つの運、それを選ぶ決断があるだけだった。

十字路に溝があった。

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十字路に溝があった。

伊沢は溝に布団を浸した。

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伊沢は溝に蒲団をひたした。

伊沢は女と肩を組み、布団をかぶり、群衆の流れに別れを告げた。

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伊沢は女と肩を組み、蒲団をかぶり、群集の流れに訣別した。

猛火の舞い狂う道に向かって一歩踏み出しかけると、女は本能的に立ち止まり、群衆の流れていく方へ引き戻されるようにふらふらとよろめいていく。

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猛火の舞い狂う道に向って一足歩きかけると、女は本能的に立ち止り群集の流れる方へひき戻されるようにフラフラとよろめいて行く。

「馬鹿!」

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「馬鹿!」

女の手を力一杯握って引っぱり、道の上へよろめき出る女の肩を抱きすくめて、「そっちへ行けば死ぬだけなのだ」

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女の手を力一杯握ってひっぱり、道の上へよろめいて出る女の肩をだきすくめて、「そっちへ行けば死ぬだけなのだ」

女の身体を自分の胸に抱きしめて、ささやいた。

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女の身体を自分の胸にだきしめて、ささやいた。

「死ぬ時は、こうして、二人一緒だよ。怖れるな。そして、俺から離れるな。火も爆弾も忘れて、おい、俺たち二人の一生の道はな、いつもこの道なのだよ。この道をただまっすぐ見つめて、俺の肩にすがりついてくるがいい。分かったね」

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「死ぬ時は、こうして、二人一緒だよ。怖れるな。そして、俺から離れるな。火も爆弾も忘れて、おい俺達二人の一生の道はな、いつもこの道なのだよ。この道をただまっすぐ見つめて、俺の肩にすがりついてくるがいい。分ったね」

女はごくんと頷いた。

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女はごくんとうなずいた。

その頷きはたどたどしかったが、伊沢は感動のあまり狂いそうになるのであった。

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その頷きは稚拙であったが、伊沢は感動のために狂いそうになるのであった。

ああ、長い長い幾度もの恐怖の時間、昼も夜もの爆撃の下で、女が表した初めての意志であり、ただ一度の答えであった。

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ああ、長い長い幾たびかの恐怖の時間、夜昼の爆撃の下に於て、女が表した始めての意志であり、ただ一度の答えであった。

そのいじらしさに伊沢はのぼせ上がりそうであった。

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そのいじらしさに伊沢は逆上しそうであった。

今こそ人間を抱きしめており、その抱きしめている人間に、限りない誇りを持つのであった。

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今こそ人間を抱きしめており、その抱きしめている人間に、無限の誇りをもつのであった。

二人は猛火をくぐって走った。

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二人は猛火をくぐって走った。

熱風のかたまりの下を抜けでると、道の両側はまだ燃えている火の海だったが、すでに棟は焼け落ちたあとで火の勢いは衰え、熱気は少なくなっていた。

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熱風のかたまりの下をぬけでると、道の両側はまだ燃えている火の海だったが、すでに棟は焼け落ちたあとで火勢は衰え熱気は少くなっていた。

そこにも溝が溢れていた。

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そこにも溝があふれていた。

女の足から肩の上まで水を浴びせ、もう一度布団を水に浸してかぶり直した。

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女の足から肩の上まで水を浴せ、もう一度蒲団を水に浸してかぶり直した。

道の上に焼けた荷物や布団が飛び散り、人間が二人死んでいた。

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道の上に焼けた荷物や蒲団が飛び散り、人間が二人死んでいた。

四十くらいの女と男のようだった。

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四十ぐらいの女と男のようだった。

二人は再び肩を組み、火の海を走った。

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二人は再び肩を組み、火の海を走った。

二人はようやく小川のふちへ出た。

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二人はようやく小川のふちへでた。

ところがここは小川の両側の工場が猛火を吹き上げて燃え狂っており、進むことも退くことも立ち止まることもできなくなったが、ふと見ると小川に梯子がかけられているので、布団をかぶせて女を下ろし、伊沢は一気に飛び降りた。

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ところが此処は小川の両側の工場が猛火を吹きあげて燃え狂っており、進むことも退くことも立止ることも出来なくなったが、ふと見ると小川に梯子はしごがかけられているので、蒲団をかぶせて女を下し、伊沢は一気に飛び降りた。

別れを告げてきた人間たちが三々五々、川の中を歩いている。

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訣別した人間達が三々五々川の中を歩いている。

女は時々、自分から身体を水に浸している。

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女は時々自発的に身体を水に浸している。

犬ですらそうせざるを得ない状況だったが、一人の新しい可愛い女が生まれ出たような新鮮さに、伊沢は目を見開いて水を浴びる女の姿をむさぼるように見た。

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犬ですらそうせざるを得ぬ状況だったが、一人の新たな可愛い女が生れでた新鮮さに伊沢は目をみひらいて水を浴びる女の姿態をむさぼり見た。

小川は炎の下を抜け出て、暗闇の下を流れはじめた。

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小川は炎の下を出外れて暗闇の下を流れはじめた。

空一面が火の色で本当の暗闇はあり得なかったが、再び生きて見ることのできた暗闇に、伊沢はむしろ得体の知れない大きな疲れと、果てしれない虚無とのために、ただ放心が広がっていく様を見るだけだった。

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空一面の火の色で真の暗闇は有り得なかったが、再び生きて見ることを得た暗闇に、伊沢はむしろ得体の知れない大きな疲れと、はてしれぬ虚無とのためにただ放心がひろがる様を見るのみだった。

その底に小さな安堵があるのだが、それは妙にけちくさい、馬鹿げたものに思われた。

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その底に小さな安堵があるのだが、それは変にケチくさい、馬鹿げたものに思われた。

何もかも馬鹿馬鹿しくなっていた。

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何もかも馬鹿馬鹿しくなっていた。

川を上がると、麦畑があった。

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川をあがると、麦畑があった。

麦畑は三方を丘に囲まれて、三百メートル四方ぐらいの広さがあり、その真ん中を国道が丘を切りひらいて通っている。

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麦畑は三方丘にかこまれて、三町四方ぐらいの広さがあり、そのまんなかを国道が丘を切りひらいて通っている。

丘の上の住宅は燃えており、麦畑のふちの銭湯と工場と寺と何かが燃えており、そのそれぞれの火の色が白、赤、橙、青、濃淡とりどりでみんな違っているのである。

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丘の上の住宅は燃えており、麦畑のふちの銭湯と工場と寺院と何かが燃えており、その各々の火の色が白、赤、だいだい、青、濃淡とりどりみんな違っているのである。

にわかに風が吹きだしてごうごうと空気が鳴り、霧のような細かい水滴が一面に降りかかってきた。

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にわかに風が吹きだしてごうごうと空気が鳴り、霧のようなこまかい水滴が一面にふりかかってきた。

群衆はなお延々と国道を流れていた。

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群集は尚蜿蜒えんえんと国道を流れていた。

麦畑に休んでいるのは数百人で、延々と続く国道の群衆に比べれば物の数ではないのであった。

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麦畑に休んでいるのは数百人で、蜿蜒たる国道の群集にくらべれば物の数ではないのであった。

麦畑の続きに雑木林の丘があった。

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麦畑のつづきに雑木林の丘があった。

その丘の林の中にはほとんど人がいなかった。

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その丘の林の中には殆ど人がいなかった。

二人は木立の下へ布団を敷いて寝ころんだ。

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二人は木立の下へ蒲団をしいてねころんだ。

丘の下の畑のふちに一軒の農家が燃えており、水をかけている数人の人の姿が見える。

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丘の下の畑のふちに一軒の農家が燃えており、水をかけている数人の人の姿が見える。

その裏手に井戸があって、一人の男がポンプをガチャガチャやり水を飲んでいるのである。

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その裏手に井戸があって一人の男がポンプをガチャガチャやり水を飲んでいるのである。

それを目がけて畑の四方からたちまち二十人ぐらいの老若男女が駆け集まってきた。

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それを目がけて畑の四方からたちまち二十人ぐらいの老幼男女が駆け集ってきた。

彼らはポンプをガチャガチャやり、代わる代わる水を飲んでいるのである。

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彼等はポンプをガチャガチャやり、代る代る水を飲んでいるのである。

それから燃え落ちようとする家の火に手をかざして、ぐるりと並んで暖をとり、崩れ落ちる火のかたまりに飛びのいたり、煙に顔をそむけたり、話をしたりしている。

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それから燃え落ちようとする家の火に手をかざして、ぐるりと並んでだんをとり、崩れ落ちる火のかたまりに飛びのいたり、煙に顔をそむけたり、話をしたりしている。

誰も消火を手伝う者はいなかった。

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誰も消火に手伝う者はいなかった。

眠くなったと女が言い、私疲れたのとか、足が痛いのとか、目も痛いのとかの呟きのうち三つに一つぐらいは、私眠りたいの、と言った。

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ねむくなったと女が言い、私疲れたのとか、足が痛いのとか、目も痛いのとかの呟きのうち三つに一つぐらいは私ねむりたいの、と言った。

眠るがいいさ、と伊沢は女を布団にくるんでやり、煙草に火をつけた。

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ねむるがいいさ、と伊沢は女を蒲団にくるんでやり、煙草に火をつけた。

何本目かの煙草を吸っているうちに、遠くの彼方で解除の警報が鳴り、数人の巡査が麦畑の中を歩いて解除を知らせていた。

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何本目かの煙草を吸っているうちに、遠く彼方に解除の警報がなり、数人の巡査が麦畑の中を歩いて解除を知らせていた。

彼らの声はどれも一様につぶれ、人間の声のようではなかった。

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彼等の声は一様につぶれ、人間の声のようではなかった。

蒲田署管内の者は矢口国民学校が焼け残ったから集まれ、と触れている。

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蒲田署管内の者は矢口国民学校が焼け残ったから集れ、とふれている。

人々が畑の畝から起き上がり、国道へ下りた。

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人々が畑のうねから起き上り、国道へ下りた。

国道は再び人の波だった。

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国道は再び人の波だった。

しかし、伊沢は動かなかった。

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然し、伊沢は動かなかった。

彼の前にも巡査が来た。

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彼の前にも巡査がきた。

「その人は何かね。怪我をしたのかね」

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「その人は何かね。怪我をしたのかね」

「いいえ、疲れて、寝ているのです」

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「いいえ、疲れて、ねているのです」

「矢口国民学校を知っているかね」

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「矢口国民学校を知っているかね」

「ええ、一休みして、あとから行きます」

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「ええ、一休みして、あとから行きます」

「勇気をだしたまえ。これしきのことに」

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「勇気をだしたまえ。これしきのことに」

巡査の声はもう続かなかった。

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巡査の声はもう続かなかった。

巡査の姿は消え去り、雑木林の中にはとうとう二人の人間だけが残された。

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巡査の姿は消え去り、雑木林の中にはとうとう二人の人間だけが残された。

二人の人間だけが――けれども女はやはりただ一つの肉のかたまりにすぎないではないか。

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二人の人間だけが――けれども女は矢張りただ一つの肉塊にすぎないではないか。

女はぐっすり眠っていた。

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女はぐっすりねむっていた。

すべての人々が今、焼跡の煙の中を歩いている。

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すべての人々が今焼跡の煙の中を歩いている。

すべての人々が家を失い、そしてみんな歩いている。

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全ての人々が家を失い、そして皆な歩いている。

眠りのことを考えてすらいないであろう。

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眠りのことを考えてすらいないであろう。

今眠ることができるのは、死んだ人間とこの女だけだ。

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今眠ることができるのは、死んだ人間とこの女だけだ。

死んだ人間は二度と目覚めることがないが、この女はやがて目覚め、そして目覚めることによって眠りこけた肉のかたまりに何かを付け加えることもあり得ないのだ。

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死んだ人間は再び目覚めることがないが、この女はやがて目覚め、そして目覚めることによって眠りこけた肉塊に何物を附け加えることも有り得ないのだ。

女はかすかであるが、今まで聞き覚えのないいびきの声を立てていた。

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女はかすかであるが今まで聞き覚えのないいびき声をたてていた。

それは豚の鳴き声に似ていた。

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それは豚の鳴声に似ていた。

まったくこの女自体が豚そのものだと伊沢は思った。

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まったくこの女自体が豚そのものだと伊沢は思った。

そして彼は子供の頃の小さな記憶の断片をふと思いだしていた。

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そして彼は子供の頃の小さな記憶の断片をふと思いだしていた。

一人のがき大将の命令で、十何人かの子供たちが子豚を追い回していた。

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一人の餓鬼大将の命令で十何人かの子供たちが仔豚を追いまわしていた。

追いつめて、がき大将はジャックナイフでいくらかの豚の尻の肉を切り取った。

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追いつめて、餓鬼大将はジャックナイフでいくらかの豚の尻肉を切りとった。

豚は痛そうな顔もせず、特別の鳴き声も立てなかった。

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豚は痛そうな顔もせず、特別の鳴声もたてなかった。

尻の肉を切り取られたことも知らないように、ただ逃げ回っているだけだった。

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尻の肉を切りとられたことも知らないように、ただ逃げまわっているだけだった。

伊沢は、米軍が上陸して重砲弾が八方にうなりコンクリートのビルが吹き飛び、頭上に米軍機が急降下して機銃掃射を加える下で、土煙と崩れたビルと穴の間を転げ回って逃げ歩いている自分と女のことを考えていた。

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伊沢は米軍が上陸して重砲弾が八方に唸りコンクリートのビルが吹きとび、頭上に米機が急降下して機銃掃射を加える下で、土煙りと崩れたビルと穴の間を転げまわって逃げ歩いている自分と女のことを考えていた。

崩れたコンクリートの陰で、女が一人の男に押さえつけられ、男は女をねじ倒して、肉体の行為にふけりながら、男は女の尻の肉をむしり取って食べている。

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崩れたコンクリートの蔭で、女が一人の男に押えつけられ、男は女をねじ倒して、肉体の行為にふけりながら、男は女の尻の肉をむしりとって食べている。

女の尻の肉はだんだん少なくなるが、女は肉欲のことを考えているだけだった。

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女の尻の肉はだんだん少くなるが、女は肉慾のことを考えているだけだった。

明け方に近づくと冷えはじめて、伊沢は冬のコートも着ていたし厚いセーターも着ているのだが、寒さが堪えがたかった。

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明方に近づくと冷えはじめて、伊沢は冬の外套がいとうもきていたし厚いジャケツもきているのだが、寒気が堪えがたかった。

下の麦畑のふちのあちこちには、なお燃え続けている一面の火の原があった。

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下の麦畑のふちの諸方には尚燃えつづけている一面の火の原があった。

そこまで行って暖をとりたいと思ったが、女が目を覚ますと困るので、伊沢は身動きができなかった。

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そこまで行って煖をとりたいと思ったが、女が目を覚すと困るので、伊沢は身動きができなかった。

女の目を覚まさせるのが、なぜか堪えられない思いがしていた。

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女の目を覚すのがなぜか堪えられぬ思いがしていた。

女が眠りこけているうちに女を置いて立ち去りたいとも思ったが、それすらも面倒くさくなっていた。

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女の眠りこけているうちに女を置いて立去りたいとも思ったが、それすらも面倒くさくなっていた。

人が物を捨てるには、たとえば紙屑を捨てるにも、捨てるだけの張り合いと潔癖さくらいはあるだろう。

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人が物を捨てるには、たとえば紙屑を捨てるにも、捨てるだけの張合いと潔癖ぐらいはあるだろう。

この女を捨てる張り合いも潔癖さも失われているだけだ。

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この女を捨てる張合いも潔癖も失われているだけだ。

みじんの愛情もなかったし、未練もなかったが、捨てるだけの張り合いもなかった。

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微塵みじんの愛情もなかったし、未練もなかったが、捨てるだけの張合いもなかった。

生きるための、明日の希望がないからだった。

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生きるための、明日の希望がないからだった。

明日の日に、たとえば女の姿を捨ててみても、どこかの場所に何か希望があるのだろうか。

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明日の日に、たとえば女の姿を捨ててみても、どこかの場所に何か希望があるのだろうか。

何を頼りに生きるのだろう。

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何をたよりに生きるのだろう。

どこに住む家があるのだか、眠る穴ぼこがあるのだか、それすらも分かりはしなかった。

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どこに住む家があるのだか、眠る穴ぼこがあるのだか、それすらも分りはしなかった。

米軍が上陸し、天地にあらゆる破壊が起こり、その戦争の破壊の巨大な愛情が、すべてを裁いてくれるだろう。

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米軍が上陸し、天地にあらゆる破壊が起り、その戦争の破壊の巨大な愛情が、すべてを裁いてくれるだろう。

考えることもなくなっていた。

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考えることもなくなっていた。

夜が白んできたら、女を起こして焼跡の方には見向きもせず、ともかく寝ぐらを探して、なるべく遠い駅をめざして歩きだすことにしようと伊沢は考えていた。

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夜が白んできたら、女を起して焼跡の方には見向きもせず、ともかくねぐらを探して、なるべく遠い停車場をめざして歩きだすことにしようと伊沢は考えていた。

電車や汽車は動くだろうか。

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電車や汽車は動くだろうか。

駅の周りの枕木の垣根にもたれて休んでいるとき、今朝ははたして空が晴れて、俺と俺の隣に並んだ豚の背中に太陽の光が注ぐだろうかと伊沢は考えていた。

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停車場の周囲の枕木の垣根にもたれて休んでいるとき、今朝は果して空が晴れて、俺と俺の隣に並んだ豚の背中に太陽の光がそそぐだろうかと伊沢は考えていた。

あまりに今朝が寒すぎるからであった。

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あまり今朝が寒すぎるからであった。