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現代語訳

森鴎外もりおうがい)・1948

AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-29

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いち

古い話である。

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古い話である。

僕はたまたま、それが明治十三年の出来事だったと記憶している。

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僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。

どうして年をはっきり覚えているかと言うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向かいにあった、上条という下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。

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どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。

その上条が明治十四年に自分のところから出た火で焼けた時、僕も焼け出された一人だった。

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その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。

その火事のあった前の年の出来事だということを、僕は覚えているからである。

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その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。

上条に下宿している者はたいてい医科大学の学生ばかりで、そのほかは大学の附属病院に通う患者などだった。

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上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、そのほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。

たいていどの下宿屋にも特別に幅を利かせている客がいるもので、そういう客はまず金回りがよく、気が利いていて、おかみさんが箱火鉢を前に据わっている廊下を通るときは、きっと声を掛ける。

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大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、おかみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。

時々はその箱火鉢の向こう側にしゃがんで、世間話の一つもする。

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時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。

部屋で酒盛りをして、わざわざ肴をこしらえさせたりして、おかみさんに面倒を見させ、我儘をするようでいて、実は帳場に得がつくようにする。

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部屋で酒盛をして、わざわざさかなこしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。

まずざっとこういう性質の男が尊敬を受け、それに乗じて威勢を思うままにふるうというのが常である。

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ずざっとこう云うたちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福をほしいままにすると云うのが常である。

ところが上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は、非常に趣を異にしていた。

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しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男はすこぶる趣を殊にしていた。

この男は岡田という学生で、僕より一学年下なのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。

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この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。

岡田がどんな男かということを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。

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岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。

それは美男だということである。

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それは美男だと云うことである。

色の青い、ひょろひょろした美男ではない。

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色のあおい、ひょろひょろした美男ではない。

血色がよくて、体格ががっしりしていた。

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血色が好くて、体格ががっしりしていた。

僕はあんな顔の男を見たことがほとんどない。

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僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。

強いて探すなら、あの頃からだいぶ後になって、僕は青年時代の川上眉山と親しくなった。

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強いて求めれば、大分だいぶあの頃からのちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。

とうとう行き詰まって悲惨な最期を遂げた、あの文士の川上である。

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あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。

あれの青年時代がちょっと岡田に似ていた。

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あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。

もっとも当時、競漕の選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上などより優れていた。

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もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格でははるかに川上なんぞにまさっていたのである。

容貌はその持ち主を誰にでも推薦してくれる。

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容貌はその持主を何人なんぴとにも推薦する。

しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことはできない。

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しかしそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。

そこで人柄と行いはどうかと言うと、僕は当時、岡田ほど釣り合いの取れた書生生活をしている男は少ないだろうと思っていた。

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そこで性行はどうかと云うと、僕は当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた。

学期ごとに試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。

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学期毎に試験の点数を争って、特待生を狙う勉強家ではない。

やるだけのことはきちんとやって、クラスの真ん中より下には落ちずに進んできた。

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るだけの事をちゃんと遣って、級の中位ちゅういより下にはくだらずに進んで来た。

遊ぶ時間は決まって遊ぶ。

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遊ぶ時間はきまって遊ぶ。

夕食後には必ず散歩に出て、十時前には間違いなく帰る。

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夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。

日曜日には舟を漕ぎに行くか、そうでないときは遠足をする。

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日曜日には舟をぎに行くか、そうでないときは遠足をする。

競漕の前に選手仲間と向島に泊まり込んでいるとか、夏休みに故郷へ帰るとかいうほかは、壁隣の部屋に主のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。

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競漕前に選手仲間と向島むこうじまに泊り込んでいるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のいる時刻と、留守になっている時刻とが狂わない。

誰でも時計を号砲に合わせるのを忘れた時には、岡田の部屋へ聞きに行く。

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誰でも時計を号砲どんに合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問いに行く。

上条の帳場の時計も、時々岡田の懐中時計によって直されるのである。

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上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計にってただされるのである。

周囲の人の心には、長くこの男の行動を見ていればいるほど、あれは信頼できる男だという感じが強くなる。

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周囲の人の心には、久しくこの男の行動を見ていればいる程、あれは信頼すべき男だと云う感じが強くなる。

上条のおかみさんが、お世辞を言わない、型破りな金遣いもしない岡田を褒め始めたのは、この信頼に基づいている。

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上条のお上さんがお世辞を言わない、破格な金遣いをしない岡田を褒め始めたのは、この信頼にもとづいている。

それには月々の勘定をきちんとするという事実が力を貸しているのは、言うまでもない。

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それには月々の勘定をきちんとすると云う事実があずかって力あるのは、ことわるまでもない。

「岡田さんを御覧なさい」

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「岡田さんを御覧なさい」

という言葉が、しばしばおかみさんの口から出る。

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と云うことばが、屡々しばしばお上さんの口から出る。

「どうせ僕は岡田君のようなわけにはいかないさ」

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「どうせ僕は岡田君のようなわけには行かないさ」

と先回りして言う学生がいる。

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と先を越して云う学生がある。

こうして岡田は、いつとはなしに上条の標準的な下宿人になったのである。

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かくの如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になったのである。

岡田の毎日の散歩は、たいてい道筋が決まっていた。

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岡田の日々にちにちの散歩は大抵道筋が極まっていた。

寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水が流れ込む不忍の池の北側を回って、上野の山をぶらつく。

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寂しい無縁坂を降りて、藍染川あいそめがわのお歯黒のような水の流れ込む不忍しのばずの池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。

それから松源や雁鍋のある広小路、狭くて賑やかな仲町を通って、湯島天神の境内に入り、陰気な臭橘寺の角を曲がって帰る。

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それから松源まつげん雁鍋がんなべのある広小路、狭いにぎやかな仲町なかちょうを通って、湯島天神の社内に這入はいって、陰気な臭橘寺からたちでらの角を曲がって帰る。

しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。

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しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。

これが一つの道筋である。

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これが一つの道筋である。

ある時は大学の中を抜けて赤門に出る。

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或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。

鉄門は早く閉ざされてしまうので、患者の出入りする長屋門から入って抜けるのである。

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鉄門は早くとざされるので、患者の出入しゅつにゅうする長屋門から這入って抜けるのである。

後にその頃の長屋門が取り払われたので、今、春木町から突き当たる所にある、あの新しい黒い門ができたのである。

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後にその頃の長屋門が取り払われたので、今春木町はるきちょうからき当るところにある、あの新しい黒い門が出来たのである。

赤門を出てからは本郷通りを歩いて、粟餅の曲搗きをしている店の前を通り、神田明神の境内に入る。

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赤門を出てから本郷ほんごう通りを歩いて、粟餅あわもち曲擣きょくづきをしている店の前を通って、神田明神の境内に這入る。

その頃までは目新しかった目金橋へ降りて、柳原の片側町を少し歩く。

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そのころまで目新しかった目金橋めがねばしへ降りて、柳原やなぎはら片側町かたかわまちを少し歩く。

それからお成道へ戻って、狭い西側の横町のどれかを抜けて、やはり臭橘寺の前に出る。

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それからお成道なりみちへ戻って、狭い西側の横町のどれかを穿うがって、矢張やはり臭橘寺の前に出る。

これが一つの道筋である。

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これが一つの道筋である。

これ以外の道筋はめったに歩かない。

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これより外の道筋はめったに歩かない。

この散歩の途中で岡田が何をするかと言うと、ちょいちょい古本屋の店を覗いて歩くくらいのものだった。

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この散歩の途中で、岡田が何をするかと云うと、ちょいちょい古本屋の店をのぞいて歩く位のものであった。

上野広小路と仲町の古本屋は、その頃のものが今も二三軒残っている。

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上野広小路と仲町との古本屋は、その頃のが今も二三軒残っている。

お成道にも当時のままの店がある。

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お成道にも当時そのままの店がある。

柳原のはすっかり無くなってしまった。

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柳原のは全く廃絶してしまった。

本郷通りのは、ほとんどみな場所も持ち主も代わっている。

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本郷通のは殆ど皆場所も持主も代っている。

岡田が赤門から出て右へ曲がることがめったにないのは、そもそも森川町が町幅も狭く、窮屈な所だったからでもあるが、当時古本屋が西側に一軒しかなかったのも一つの理由だった。

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岡田が赤門から出て右へ曲ることのめったにないのは、一体森川町は町幅も狭く、窮屈な処であったからでもあるが、当時古本屋が西側に一軒しかなかったのも一つの理由であった。

岡田が古本屋を覗くのは、今の言葉で言えば、文学趣味があるからだった。

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岡田が古本屋を覗くのは、今の詞で云えば、文学趣味があるからであった。

しかしまだ新しい小説や脚本は出ていないし、抒情詩では子規の俳句も鉄幹の歌もまだ生まれる前だったから、誰でも唐紙に刷った花月新誌や白紙に刷った桂林一枝のような雑誌を読んで、槐南や夢香などの香奩体の詩を最も気の利いたものだと思うくらいのことだった。

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しかしまだ新しい小説や脚本は出ていぬし、抒情詩じょじょうしでは子規の俳句や、鉄幹の歌の生れぬ先であったから、誰でも唐紙とうしった花月新誌や白紙はくしに摺った桂林一枝けいりんいっしのような雑誌を読んで、槐南かいなん夢香むこうなんぞの香奩体こうれんたいの詩を最も気の利いた物だと思う位の事であった。

僕も花月新誌の愛読者だったから、記憶している。

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僕も花月新誌の愛読者であったから、記憶している。

西洋小説の翻訳というものは、あの雑誌が初めて世に出したのである。

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西洋小説の翻訳と云うものは、あの雑誌が始て出したのである。

たしか西洋のある大学の学生が、帰省する途中で殺される話で、それを談話体に訳した人は神田孝平さんだったと思う。

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なんでも西洋の或る大学の学生が、帰省する途中で殺される話で、それを談話体に訳した人は神田孝平さんであったと思う。

それが僕の、西洋小説というものを読んだ始まりだったようだ。

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それが僕の西洋小説と云うものを読んだ始であったようだ。

そういう時代だから、岡田の文学趣味も、漢学者が新しい世間の出来事を詩文に書いたのを面白がって読むくらいのものに過ぎなかったのである。

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そう云う時代だから、岡田の文学趣味も漢学者が新しい世間の出来事を詩文に書いたのを、面白がって読む位に過ぎなかったのである。

僕は人付き合いのあまりよくない性質だったから、学校の構内でよく会う人にでも、用事がなくては話をしない。

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僕は人附合いの余り好くないたちであったから、学校の構内で好く逢う人にでも、用事がなくては話をしない。

同じ下宿屋にいる学生などには、帽子を脱いで礼をするようなことも少なかった。

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同じ下宿屋にいる学生なんぞには、帽を脱いで礼をするようなことも少かった。

それが岡田と少し親しくなったのは、古本屋が仲立ちをしたのである。

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それが岡田と少し心安くなったのは、古本屋がなかだちをしたのである。

僕の散歩する道筋は、岡田のように決まってはいなかったが、脚が達者で、本郷から下谷、神田へと縦横に歩き回って、古本屋があれば足を止めて見る。

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僕の散歩に歩く道筋は、岡田のように極まってはいなかったが、脚が達者で縦横に本郷から下谷、神田を掛けて歩いて、古本屋があれば足を止めて見る。

そういう時に、たびたび岡田と店先で落ち合う。

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そう云う時に、度々岡田と店先で落ち合う。

「よく古本屋で出くわすじゃないか」

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「好く古本屋で出くわすじゃないか」

というようなことを、どちらからか言い出したのが、親しげに口をきいた始まりである。

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と云うような事を、どっちからか言い出したのが、親しげに物を言った始である。

その頃、神田明神前の坂を降りた曲がり角に、鉤の手に縁台を出して、古本を並べてさらしている店があった。

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その頃神田明神前の坂を降りた曲角に、かぎなりに縁台を出して、古本をさらしている店があった。

そこである時、僕が唐本の金瓶梅を見つけて亭主に値を尋ねると、七円だと言った。

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そこで或る時僕が唐本の金瓶梅きんぺいばいを見附けて亭主に値を問うと、七円だと云った。

五円に負けてくれと言うと、「先ほど岡田さんが六円なら買うとおっしゃいましたが、お断りしたのです」

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五円に負けてくれと云うと、「先刻岡田さんが六円なら買うとおっしゃいましたが、おことわり申したのです」

と言う。

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と云う。

たまたま僕は懐具合がよかったので、言い値で買った。

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偶然僕は工面が好かったので言値で買った。

二三日経ってから岡田に会うと、向こうからこう言い出した。

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二三日立ってから、岡田に逢うと、向うからこう云い出した。

「君はひどい人だね。僕がせっかく見つけておいた金瓶梅を買ってしまったじゃないか」

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「君はひどい人だね。僕が切角見附けて置いた金瓶梅を買ってしまったじゃないか」

「そうそう、君が値をつけて折り合わなかったと本屋が言っていたよ。君が欲しいのなら譲ってあげよう」

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「そうそう君が値を附けて折り合わなかったと、本屋が云っていたよ。君欲しいのなら譲って上げよう」

「なに。隣なんだから、君が読んだ後を貸してもらえばいいさ」

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「なに。隣だから君の読んだ跡を貸して貰えばいさ」

僕は喜んで承知した。

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僕は喜んで承諾した。

こんな具合で、長い間壁隣に住みながら付き合わずにいた岡田と僕とは、行ったり来たりするようになったのである。

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こんな風で、今まで長い間壁隣に住まいながら、交際せずにいた岡田と僕とは、ったり来たりするようになったのである。

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その頃から無縁坂の南側は岩崎の屋敷だったが、まだ今のような高くそびえる土塀で囲ってはいなかった。

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そのころから無縁坂の南側は岩崎のやしきであったが、まだ今のような巍々ぎぎたる土塀で囲ってはなかった。

汚い石垣が築いてあって、苔むした石と石との間から、しだや杉菜が覗いていた。

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きたない石垣が築いてあって、こけした石と石との間から、歯朶しだや杉菜が覗いていた。

あの石垣の上あたりは平地なのか、それとも小山のようにでもなっているのか、岩崎の屋敷の中に入って見たことのない僕は今でも知らないが、とにかく当時は石垣の上の所に、雑木が生えたいだけ生え、育ちたいだけ育っているのが、往来から根まで見えていて、その根に茂っている草もめったに刈られることがなかった。

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あの石垣の上あたりは平地だか、それとも小山のようにでもなっているか、岩崎の邸の中に這入って見たことのない僕は、今でも知らないが、とにかく当時は石垣の上の所に、雑木が生えたい程生えて、育ちたい程育っているのが、往来から根まで見えていて、その根に茂っている草もめったにられることがなかった。

坂の北側はけちな家が軒を並べていて、一番体裁のいいのが、板塀をめぐらした小さなしもた屋、そのほかは手職をする男などの住まいだった。

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坂の北側はけちな家が軒を並べていて、一番体裁のいのが、板塀をめぐらした、小さいしもた屋、そのほかは手職をする男なんぞの住いであった。

店は荒物屋にたばこ屋くらいしかなかった。

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店は荒物屋に烟草屋たばこや位しかなかった。

中でも往来の人の目につくのは、裁縫を教えている女の家で、昼間は格子窓の内に大勢の娘が集まって仕事をしていた。

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中に往来の人の目に附くのは、裁縫を教えている女の家で、昼間は格子窓の内に大勢の娘が集まって為事しごとをしていた。

陽気がよくて窓を開けている時は、我々学生が通ると、いつもべちゃくちゃ盛んにしゃべっている娘たちが、みな顔を上げて往来の方を見る。

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時候が好くて、窓を明けているときは、我々学生が通ると、いつもべちゃくちゃ盛んにしゃべっている娘共が、皆顔を挙げて往来の方を見る。

そしてまた話を続けたり、笑ったりする。

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そして又話をし続けたり、笑ったりする。

その隣に、格子戸をきれいに拭き込んで、上がり口のたたきに御影石を塗り込んだ上へ、時々夕方に通ってみると打ち水がしてある家が一軒あった。

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その隣に一軒格子戸を綺麗きれいに拭き入れて、上がり口の叩きに、御影石みかげいしを塗り込んだ上へ、折々夕方に通って見ると、打水のしてある家があった。

寒い時は障子が閉めてある。

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寒い時は障子が締めてある。

暑い時は竹すだれが下ろしてある。

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暑い時は竹簾たけすだれが卸してある。

そして仕立物師の家が賑やかなために、この家はいつも際立ってひっそりしているように思われた。

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そして為立物師したてものしの家の賑やかな為めに、この家はいつも際立ってひっそりしているように思われた。

この話の出来事のあった年の九月頃、岡田は郷里から帰って間もなく、夕食後にいつもの散歩に出て、加州の御殿の古い建物に仮の解剖室が置いてあるあたりを過ぎ、ぶらぶら無縁坂を降りかかると、たまたま一人の湯帰りの女が、あの仕立物師の隣の寂しい家に入るのを見た。

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この話の出来事のあった年の九月頃、岡田は郷里から帰って間もなく、夕食後に例の散歩に出て、加州の御殿の古い建物に、仮に解剖室が置いてあるあたりを過ぎて、ぶらぶら無縁坂を降り掛かると、偶然一人の湯帰りの女がかの為立物師の隣の、寂しい家に這入るのを見た。

もう季節がだいぶ秋らしくなって、人が涼みにも出ない頃なので、一時人通りの絶えた坂道へ岡田が通りかかると、ちょうど今、あの寂しい家の格子戸の前まで帰って戸を開けようとしていた女が、岡田の下駄の音を聞いて、ふいと格子に掛けた手を止め、振り返って岡田と顔を見合わせたのである。

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もう時候がだいぶ秋らしくなって、人が涼みにも出ぬ頃なので、一時人通りの絶えた坂道へ岡田が通り掛かると、丁度今例の寂しい家の格子戸の前まで帰って、戸を明けようとしていた女が、岡田の下駄の音を聞いて、ふいと格子に掛けた手をとどめて、振り返って岡田と顔を見合せたのである。

紺縮の単衣に、黒繻子と茶献上の腹合わせの帯を締め、細い左の手に、手拭いや石鹸箱や糠袋や海綿を、細かく編んだ竹の籠に入れたのをだるそうに提げて、右の手を格子に掛けたまま振り返った女の姿は、岡田に特に深い印象を与えたわけではなかった。

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紺縮こんちぢみ単物ひとえものに、黒襦子くろじゅすと茶献上との腹合せの帯を締めて、ほそい左の手に手拭てぬぐいやら石鹸箱シャボンばこやら糠袋ぬかぶくろやら海綿やらを、細かに編んだ竹のかごに入れたのをだるげに持って、右の手を格子に掛けたまま振り返った女の姿が、岡田には別に深い印象をも与えなかった。

しかし結い立ての銀杏返しの鬢が蝉の羽のように薄いのと、鼻の高い、細長い、やや寂しげな顔が、どういう加減か額から頬にかけて少し平たいような感じをさせるのとが、目に留まった。

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しかし結い立ての銀杏返いちょうがえしのびんせみのように薄いのと、鼻の高い、細長い、やや寂しい顔が、どこの加減か額から頬に掛けて少しひらたいような感じをさせるのとが目に留まった。

岡田はただそれだけの一瞬の知覚を経たというに過ぎなかったので、無縁坂を降りきる頃には、もう女のことはきれいに忘れていた。

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岡田は只それだけの刹那せつなの知覚を閲歴したと云うに過ぎなかったので、無縁坂を降りてしまう頃には、もう女の事は綺麗に忘れていた。

しかし二日ばかり経ってから、岡田はまた無縁坂の方へ向かって出掛け、あの格子戸の家の前近くまで来た時、先日の湯帰りの女のことが突然記憶の底から意識の表面に浮き出したので、その家の方をちょっと見た。

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しかし二日ばかり立ってから、岡田は又無縁坂の方へ向いて出掛けて、例の格子戸の家の前近く来た時、先きの日の湯帰りの女の事が、突然記憶の底から意識の表面に浮き出したので、その家の方を一寸見た。

縦に竹を打ち付け、横に二段ばかり細く削った木を渡して、それを蔓で巻いた肘掛け窓がある。

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たてに竹を打ち附けて、横に二段ばかり細く削った木を渡して、それをかずらで巻いた肱掛窓ひじかけまどがある。

その窓の障子が一尺ほど開いていて、卵の殻を伏せた万年青の鉢が見えている。

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その窓の障子が一尺ばかり明いていて、卵の殻を伏せた万年青おもとの鉢が見えている。

こんなことをいくらか注意を払って見たために、歩調が少し緩くなって、家の真ん前に来かかるまでに数秒の余裕ができた。

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こんな事を、幾分かの注意を払って見た為めに、歩調が少し緩くなって、家の真ん前に来掛かるまでに、数秒時間の余裕を生じた。

そしてちょうど真ん前に来た時、意外にも万年青の鉢の上の、今まで鼠色の闇に閉ざされていた背景から、白い顔が浮き出した。

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そして丁度真ん前に来た時に、意外にも万年青の鉢の上の、今まで鼠色ねずみいろの闇に鎖されていた背景から、白い顔が浮き出した。

しかもその顔が岡田を見て微笑んでいるのである。

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しかもその顔が岡田を見て微笑ほほえんでいるのである。

それからは岡田が散歩に出てこの家の前を通るたびに、女の顔を見ないことはほとんどない。

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それからは岡田が散歩に出て、この家の前を通る度に、女の顔を見ぬことは殆ど無い。

岡田の空想の領分に時々この女が入り込んできて、次第に我が物顔にふるまうようになる。

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岡田の空想の領分に折々この女が闖入ちんにゅうして来て、次第に我物顔に立ち振舞うようになる。

女は自分が通るのを待っているのだろうか、それとも何の意味もなく外を見ているので、たまたま自分と顔を合わせることになるのだろうか、という疑問が起こる。

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女は自分の通るのを待っているのだろうか、それともなんの意味もなく外を見ているので、偶然自分と顔を合せることになるのだろうかと云う疑問が起る。

そこで湯帰りの女を見た日より前にさかのぼって、あの家の窓から女が顔を出していたことがあったかどうかと考えてみるが、無縁坂の片側町で一番騒がしい仕立物師の家の隣は、いつもきれいに掃除のしてある寂しい家だったという記憶のほかには、何も残っていない。

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そこで湯帰りの女を見た日より前にさかのぼって、あの家の窓から女が顔を出していたことがあったか、どうかと思って考えて見るが、無縁坂の片側町で一番騒がしい為立物師の家の隣は、いつも綺麗に掃除のしてある、寂しい家であったと云う記念の外には、何物も無い。

どんな人が住んでいるのだろうと不思議に思ったことは確かにあるようだが、それさえ何とも見当が付かなかった。

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どんな人が住んでいるだろうかと疑ったことはたしかにあるようだが、それさえなんとも解決が附かなかった。

どうしてもあの窓はいつも障子が閉まっていたり、簾が下りていたりして、その奥はひっそりしていたようである。

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どうしてもあの窓はいつも障子が締まっていたり、簾が降りていたりして、その奥はひっそりしていたようである。

そうしてみると、あの女は近頃外に気をつけて、窓を開けて自分の通るのを待つようになったらしいと、岡田はとうとう判断した。

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そうして見ると、あの女は近頃外に気を附けて、窓を開けて自分の通るのを待っていることになったらしいと、岡田はとうとう判断した。

通るたびに顔を見合わせ、その合間にはこんなことを思っているうちに、岡田は次第に「窓の女」

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通る度に顔を見合せて、その間々にはこんな事を思っているうちに、岡田は次第に「窓の女」

に親しみを覚えて、二週間も経った頃だっただろうか、ある夕方いつもの窓の前を通る時、無意識に帽子を脱いで礼をした。

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に親しくなって、二週間も立った頃であったか、或る夕方例の窓の前を通る時、無意識に帽を脱いで礼をした。

その時、ほの白い女の顔がさっと赤く染まって、寂しげな微笑の顔が華やかな笑顔になった。

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その時微白ほのじろい女の顔がさっと赤く染まって、寂しい微笑ほほえみの顔が華やかな笑顔になった。

それからは岡田は決まって窓の女に礼をして通る。

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それからは岡田は極まって窓の女に礼をして通る。

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さん

岡田は虞初新誌が好きで、中でも大鉄椎伝は全文を暗誦できるほどだった。

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岡田は虞初新誌ぐしょしんしが好きで、中にも大鉄椎伝だいてっついでんは全文を諳誦あんしょうすることが出来る程であった。

それでよほど前から武芸をやってみたいという願いを持っていたが、つい機会がなかったので、何にも手を出さずにいた。

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それで余程前から武芸がして見たいと云う願望がんもうを持っていたが、つい機会が無かったので、何にも手を出さずにいた。

近年、競漕を始めてから熱心になり、仲間に推されて選手になるほど上達したのは、岡田のこの一面の意志が伸びたものだった。

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近年競漕をし始めてから、熱心になり、仲間に推されて選手になる程の進歩をしたのは、岡田のこの一面の意志が発展したのであった。

同じ虞初新誌の中に、もう一つ岡田の好きな文章がある。

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同じ虞初新誌のうちに、今一つ岡田の好きな文章がある。

それは小青伝だった。

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それは小青伝であった。

その伝に書かれている女、新しい言葉で言うなら、死の天使を敷居の外に待たせておいて、静かに紅や白粉の化粧を凝らす、とでも言うような、美しさを命にしているあの女が、どんなに岡田の同情を動かしたことだろう。

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その伝に書いてある女、新しい詞で形容すれば、死の天使をしきいの外に待たせて置いて、しずかに脂粉のよそおいこらすとでも云うような、美しさを性命にしているあの女が、どんなにか岡田の同情を動かしたであろう。

女というものは岡田にとって、ただ美しいもの、愛すべきものであって、どんな境遇にも安んじて、その美しさ、愛らしさを守り通していなくてはならないもののように感じられた。

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女と云うものは岡田のためには、只美しい物、愛すべき物であって、どんな境遇にも安んじて、その美しさ、愛らしさを護持していなくてはならぬように感ぜられた。

それには、日頃から香奩体の詩を読んだり、感傷的で宿命論的な、明や清のいわゆる才人の文章を読んだりして、知らず知らずのうちにその影響を受けていたためもあるだろう。

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それには平生香奩体こうれんたいの詩を読んだり、sentimentalサンチマンタル な、fatalistiqueファタリスチック明清みんしん所謂いわゆる才人の文章を読んだりして、知らずらずの間にその影響を受けていた為めもあるだろう。

岡田は窓の女に会釈をするようになってからだいぶ経っても、その女の身の上を探ってみようともしなかった。

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岡田は窓の女に会釈をするようになってから余程久しくなっても、その女の身の上を探って見ようともしなかった。

もちろん家の様子や女の身なりから、囲われ者だろうとは察していた。

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無論家の様子や、女の身なりで、囲物かこいものだろうとは察した。

しかし特にそれを不快にも思わない。

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しかし別段それを不快にも思わない。

名も知らないが、無理に知ろうともしない。

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名も知らぬが、強いて知ろうともしない。

標札を見れば名が分かるだろうと思ったこともあるが、窓に女のいる時は女に遠慮をする。

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標札を見たら、名が分かるだろうと思ったこともあるが、窓に女のいる時は女に遠慮をする。

そうでない時は近所の人や、往来の人の目を憚る。

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そうでない時は近処の人や、往来の人の人目をはばかる。

とうとう庇の陰になっている小さい木札に、どんな字が書いてあるか見ずにいたのである。

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とうとうひさしかげになっている小さい木札に、どんな字が書いてあるか見ずにいたのである。

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窓の女の素性は、実は岡田を主人公にしなくてはならないこの話の事件が過去のものになってから聞いたのだが、都合上ここでざっと話しておくことにする。

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窓の女の種姓すじょうは、実は岡田を主人公にしなくてはならぬこの話の事件が過去に属してから聞いたのであるが、都合上ここでざっと話すことにする。

まだ大学医学部が下谷にあった時のことだった。

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まだ大学医学部が下谷にある時の事であった。

灰色の瓦を漆喰で塗り込んで碁盤の目のようにした壁の所々に、腕の太さの木を縦に並べてはめた窓が開いている、藤堂屋敷の門長屋が寄宿舎になっていて、学生はその中で、少し気の毒な言い方だが、野獣のような生活をしていた。

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灰色の瓦を漆喰しっくいで塗り込んで、碁盤の目のようにした壁の所々に、腕の太さの木を竪に並べてめた窓の明いている、藤堂とうどう屋敷の門長屋が寄宿舎になっていて、学生はその中で、ちと気の毒な申分だが、野獣のような生活をしていた。

もちろん今はあんな窓を見ようと思っても、わずかに丸の内の櫓に残っているくらいのもので、上野の動物園で獅子や虎を飼っておく檻の格子などは、あれよりははるかにきゃしゃにできている。

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勿論もちろん今はあんな窓を見ようと思ったって、わずかに丸の内のやぐらに残っている位のもので、上野の動物園で獅子ししや虎を飼って置く檻の格子なんぞは、あれよりははるかにきゃしゃに出来ている。

寄宿舎には小使がいた。

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寄宿舎には小使がいた。

学生はそれを外の使いに使うことができた。

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それを学生は外使そとづかいに使うことが出来た。

白木綿の兵児帯に小倉袴をはいた学生の買い物は、たいてい決まっている。

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白木綿の兵古帯へこおびに、小倉袴こくらばかま穿いた学生の買物は、大抵極まっている。

いわゆる「羊羹」

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所謂「羊羹ようかん

と「金米糖」

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と「金米糖こんぺいとう

とである。

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とである。

羊羹というのは焼き芋、金米糖というのははじけ豆だったということも、文明史の参考に書き残しておく価値があるかも知れない。

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羊羹と云うのは焼芋、金米糖と云うのははじけ豆であったと云うことも、文明史上の参考に書き残して置く価値があるかも知れない。

小使は一度の使い賃として二銭もらうことになっていた。

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小使は一度の使賃として二銭貰うことになっていた。

この小使の一人に末造というのがいた。

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この小使の一人に末造すえぞうと云うのがいた。

ほかの者は、栗のいがのように伸びた鬚の中に口をぽかんと開けているのに、この男はいつもきれいに剃った鬚の跡の青い中に、唇が堅く結ばれていた。

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ほかのはひげの栗の殻のように伸びた中に、口があんごりいているのに、この男はいつも綺麗にった鬚のあとの青い中に、くちびるが堅く結ばれていた。

小倉服もほかの者のは汚れているのに、この男のはさっぱりしていて、どうかすると唐桟か何かを着て前掛けをしているのを見ることがあった。

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小倉服も外のは汚れているに、この男のはさっぱりしていて、どうかすると唐桟とうざんか何かを着て前掛をしているのを見ることがあった。

僕にいつ誰が初めて噂をしたか知らないが、金がない時は末造が立て替えてくれるということを僕は聞いた。

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僕にいつたれが始てうわさをしたか知らぬが、金がない時は末造が立て替えてくれると云うことを僕は聞いた。

もちろん五十銭とか一円とかの金である。

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勿論五十銭とか一円とかの金である。

それが次第に五円貸す、十円貸すというようになって、借りる人に証文を書かせる、書き替えをさせる。

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それが次第に五円貸す十円貸すと云うようになって、る人に証文を書かせる、書替かきかえをさせる。

とうとう一人前の高利貸になった。

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とうとう一人前の高利貸になった。

いったい元手はどうしたのか。

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一体元手はどうしたのか。

まさか二銭の使い賃を貯めたのでもあるまいが、一匹の人間が持っているだけの精力を一時に注ぎ込むと、実際、不可能なことはなくなるのかも知れない。

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まさか二銭の使賃を貯蓄したのでもあるまいが、一匹の人間が持っているだけの精力を一時に傾注すると、実際不可能な事はなくなるかも知れない。

とにかく学校が下谷から本郷に移る頃には、もう末造は小使ではなかった。

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とにかく学校が下谷から本郷にうつる頃には、もう末造は小使ではなかった。

しかしその頃、池の端へ越して来た末造の家へは、無分別な学生の出入りが絶えなかった。

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しかしその頃いけはたへ越して来た末造の家へは、無分別な学生の出入でいりが絶えなかった。

末造は小使になった時、三十を越していたから、貧乏所帯ながら、妻もあれば子もあったのである。

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末造は小使になった時三十を越していたから、貧乏世帯ながら、妻もあれば子もあったのである。

それが高利貸で成功して、池の端へ越してから後に、醜くて口やかましい女房を物足りなく思うようになった。

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それが高利貸で成功して、池の端へ越してからのちに、醜い、口やかましい女房をあきたらなく思うようになった。

その時、末造はある女を思い出した。

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その時末造が或る女を思い出した。

それは自分が練塀町の裏から狭い路地を抜けて大学へ通勤する時、時々見かけたことのある女である。

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それは自分が練塀町ねりべいちょうの裏からせまい露地を抜けて大学へ通勤する時、折々見たことのある女である。

どぶ板がいつも壊れているあたりに、年中戸が半分閉めてある薄暗い家があって、夜その前を通ってみると、軒下に車の付いた屋台が引き込んであるので、そうでなくても狭い路地を、体を斜めにして通らなくてはならない。

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どぶ板のいつもこわれているあたりに、年中戸が半分締めてある、薄暗い家があって、夜その前を通って見れば、簷下のきしたに車の附いた屋台がき込んであるので、そうでなくても狭い露地を、体をななめにして通らなくてはならない。

最初に末造の注意を引いたのは、この家から稽古三味線の音がすることだった。

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最初末造の注意をいたのは、この家に稽古けいこ三味線ののすることであった。

それから、その三味線の音の主が、十六七の可愛らしい娘だということを知った。

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それからその三味線の音の主が、十六七の可哀かわいらしい娘だと云うことを知った。

貧しそうな家には似合わず、この娘はいつも身ぎれいにしていて、着物も小ざっぱりしたものを着ていた。

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貧しそうな家には似ず、この娘がいつも身綺麗にしていて、着物も小ざっぱりとした物を着ていた。

戸口にいても、人が通るとすぐ薄暗い家の中へ引っ込んでしまう。

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戸口にいても、人が通るとすぐ薄暗い家の中へ引っ込んでしまう。

何事にも注意深い性質の末造は、わざわざ探るともなしに、この娘がお玉という子で、母親がなく、父親と二人暮らしでいること、その父親は秋葉の原に飴細工の床店を出していることなどを知った。

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何事にも注意深い性質の末造は、わざわざ探るともなしに、この娘がたまと云う子で、母親がなくて、親爺おやじと二人暮らしでいると云う事、その親爺は秋葉あきはの原に飴細工あめざいく床店とこみせを出していると云う事などを知った。

そのうちに、この裏長屋に革命的な変動が起こった。

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そのうちにこの裏店うらだなに革命的変動が起った。

例の軒下に引き入れてあった屋台が、夜通ってみてもなくなった。

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例の簷下に引き入れてあった屋台が、夜通って見てもなくなった。

いつもひっそりしていた家とその周りへ、当時の流行語で言えば開化というものが襲ってでも来たのか、半分壊れて半分はね返っていたどぶ板が張り替えられたり、入口の模様替えができて新しい格子戸が立てられたりした。

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いつもひっそりしていた家とその周囲とへ、当時の流行語で言うと、開化と云うものが襲ってでも来たのか、半分こわれて、半分はね返っていたどぶ板が張り替えられたり、入口の模様替もようがえが出来て、新しい格子戸が立てられたりした。

ある時、入口に靴が脱いであるのを見た。

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或る時入口に靴の脱いであるのを見た。

それから間もなく、この家の戸口に新しい標札が打たれたのを見ると、巡査何の何某と書いてあった。

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それから間もなく、この家の戸口に新しい標札が打たれたのを見ると、巡査何の何某なにがしと書いてあった。

末造は松永町から仲徒町にかけていろいろな買い物をして回る間に、これもまた探るともなしに、飴屋の爺さんの家に婿入りのあったことを確かめた。

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末造は松永町から、仲徒町なかおかちまちへ掛けて、色々な買物をして廻る間に、又探るともなしに、飴屋のいさんの内へ壻入むこいりのあった事を慥めた。

標札にあった巡査がその婿なのである。

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標札にあった巡査がその壻なのである。

お玉を目の玉より大切にしていた爺さんは、こわい顔のおまわりさんに娘を渡すのを、天狗にでもさらわれるように思い、その婿殿が自分の家へ入り込んで来るのを、この上もなく窮屈に思って、日頃親しくしている誰彼に相談したが、一人として断ってしまえとはっきり言ってくれる者がなかった。

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お玉を目の球よりも大切にしていた爺いさんは、こわい顔のおまわりさんに娘を渡すのを、天狗てんぐにでもさらわれるように思い、その壻殿が自分の内へ這入り込んで来るのを、この上もなく窮屈に思って、平生心安くする誰彼たれかれに相談したが、一人もことわってしまえとはっきり云ってくれるものがなかった。

それ見たことか。

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それ見た事か。

こっちがいい所へ世話をしようと言うのに、一人娘だから出せないのなんのと面倒なことを言っていて、とうとうそんな断りにくい婿さんが来るようになったのだ、と言う者もある。

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こっちとらがい所へ世話をしようと云うのに、一人娘だから出されぬのなんのと、面倒な事を言っていて、とうとうそんなことわり憎い壻さんが来るようになったと云うものもある。

そっちが嫌なのなら遠い所へでも越すよりほかあるまいが、相手がおまわりさんとなると、すぐにどこへ越したかを調べて、その先へ掛け合うだろうから、どうも逃げおおせることはできまい、と脅すように言う者もある。

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お前方の方でいやなのなら、遠い所へでも越すより外あるまいが、相手がおまわりさんで見ると、すぐにどこへ越したと云うことを調べて、その先へ掛け合うだろうから、どうも逃げおおせることは出来まいと、おどすように云うものもある。

中でも一番物分かりがいいという評判のおかみさんの話はこうだ。

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中にも一番物分かりの好いと云う評判のお上さんの話がこうだ。

「あの子はあんないい器量で、お師匠さんも芸ができそうだと言って褒めていらっしゃるのだから、早く芸者の下地っ子にお出しと、わたしがそう言ったじゃありませんか。独り者のおまわりさんと来た日には、一軒一軒見て回るのだから、器量のいいのを家に置くと、いやおうなしに連れて行ってしまいなさる。どうもそういう方に見込まれたのは、運が悪かったとあきらめるよりほか、仕方がないね」

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「あの子はあんない器量で、お師匠さんも芸が出来そうだと云って褒めておいでだから、早く芸者の下地子したじっこにお出しと、わたしがそう云ったじゃありませんか。一人もののおまわりさんと来た日には、一軒一軒見て廻るのだから、子柄の好いのを内に置くと、いやおうなしに連れて行ってしまいなさる。どうもそう云う方に見込まれたのは、不運だとあきらめるより外、為方しかたがないね」

というようなことを言ったそうだ。

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と云うような事を言ったそうだ。

末造がこの噂を聞いてから、やっと三月ばかり経った頃だっただろう。

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末造がこの噂を聞いてから、やっと三月ばかりも立った頃であっただろう。

飴細工屋の爺さんの家に、ある朝戸が閉まっていて、戸に「貸家、差配は松永町西のはずれにあり」

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飴細工屋の爺いさんの家に、或る朝戸が締まっていて、戸に「貸屋差配松永町西のはずれにあり」

と書いて張ってあった。

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と書いて張ってあった。

そこでまた近所の噂を買い物のついでに聞いてみると、おまわりさんには国に女房も子供もあったので、それが出し抜けに訪ねて来て大騒ぎになり、お玉は井戸へ身を投げると言って飛び出したのを、立ち聞きをしていた隣のおかみさんがようやく止めたということだった。

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そこで又近所の噂を、買物のついでに聞いて見ると、おまわりさんには国に女房も子供もあったので、それが出し抜けに尋ねて来て、大騒ぎをして、お玉は井戸へ身を投げると云って飛び出したのを、立聞をしていた隣の上さんがようよう止めたと云うことであった。

おまわりさんが婿に来るという時、爺さんはいろいろな人に相談したが、その相談相手の中には一人も爺さんの法律顧問になってくれる者がなかったので、爺さんは戸籍がどうなっているやら、どんな届けがしてあるやら、一切無頓着でいたのである。

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おまわりさんが壻に来ると云う時、爺いさんは色々の人に相談したが、その相談相手のうちには一人も爺いさんの法律顧問になってくれるものがなかったので、爺いさんは戸籍がどうなっているやら、どんな届がしてあるやら一切無頓着むとんじゃくでいたのである。

巡査が髭をひねって、手続きは万事おれがするからいいと言うのを、少しも疑わなかったのである。

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巡査がひげひねって、手続は万事おれがするから好いと云うのを、少しも疑わなかったのである。

その頃、松永町の北角という雑貨店に、色の白い丸顔であごの短い娘がいて、学生は「あごなし」

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その頃松永町の北角きたずみと云う雑貨店に、色の白い円顔であごの短い娘がいて、学生は「あごなし」

と呼んでいた。

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と云っていた。

この娘が末造にこう言った。

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この娘が末造にこう云った。

「本当にたあちゃんは可哀そうでございますねえ。正直な子なものですから、本当のお婿さんだと思っていたのに、おまわりさんの方では下宿したようなつもりになっていたと言うのですもの」

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「本当にたあちゃんは可哀そうでございますわねえ。正直な子だもんですから、全くのお壻さんだと思っていたのに、おまわりさんの方では、下宿したようなつもりになっていたと云うのですもの」

と言った。

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と云った。

坊主頭の北角の親父が横から口を出した。

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坊主頭の北角の親爺がそばから口を出した。

「爺さんも気の毒ですよ。町内の方々に恥ずかしくて、このままにしてはいられないと言って、西鳥越の方へ越して行きましたよ。それでも子供衆のお得意のある所でなくては元の商売ができないと言うので、秋葉の原へは出ているそうです。屋台も一度売ってしまって、佐久間町の古道具屋の店に出ていたのを、わけを話して取り返したということです。そんなことやら引っ越しやらで、ずいぶん金が掛かったはずですから、さぞ困っているでしょう。おまわりさんが国の女房や子供を干し上げておいて、大きな顔をして酒を飲み、酒飲みでもない爺さんに相手をさせていた間は、まあ、ちょっと楽隠居になった夢を見たようなものですな」

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「爺いさんも気の毒ですよ。町内のお方にお恥かしくて、このままにしてはいられないと云って、西鳥越にしとりごえの方へ越して行きましたよ。それでも子供衆のお得意のある所でなくては、元の商売が出来ないと云うので、秋葉の原へは出ているそうです。屋台も一度売ってしまって、佐久間町さくまちょうの古道具屋の店に出ていたのを、わけを話して取り返したと云うことです。そんな事やら、引越やらで、随分掛かった筈ですから、さぞ困っていますでしょう。おまわりさんが国の女房や子供を干し上げて置いて、大きな顔をして酒を飲んで、上戸じょうごでもない爺いさんに相手をさせていた間、まあ、一寸楽隠居になった夢を見たようなものですな」

と、頭をつるりと撫でて言った。

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と、頭をつるりとでて云った。

それから後、末造は飴屋のお玉さんのことを忘れていたのに、金ができて次第に自由が利くようになったので、ふいとまた思い出したのである。

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それからのち、末造は飴屋のお玉さんの事を忘れていたのに、金が出来て段々自由が利くようになったので、ふいと又思い出したのである。

今では世間の広くなっている末造のことだから、手を回して西鳥越の方を尋ねさせてみると、柳盛座の裏の車屋の隣に、飴細工屋の爺さんがいるのを突き止めた。

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今では世間の広くなっている末造の事だから、手を廻して西鳥越の方を尋ねさせて見ると、柳盛座りゅうせいざの裏の車屋の隣に、飴細工屋の爺いさんのいるのを突き留めた。

お玉もまだ娘のままでいた。

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お玉も娘でいた。

そこで、ある大きな商人が妾に欲しいと言うがどうだ、と人を介して掛け合うと、最初は妾になるのはいやだと言っていたが、おとなしい女だけに、とうとう親のためだというので、松源で旦那にお目見えをするというところまで話が運んだ。

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そこで或る大きい商人がめかけに欲しいと云うがどうだと、人をもって掛け合うと、最初は妾になるのはいやだと云っていたが、おとなしい女だけに、とうとう親の為めだと云うので、松源で檀那だんなにお目見えをすると云う処まで話が運んだ。

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金のことよりほか何一つ考えたことのない末造も、お玉の居所を突き止めるや否や、まだ先方が承知するかしないか分からないうちに、自分で近所の借家を探して歩いた。

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金の事より外、何一つ考えたことのない末造も、お玉のありかを突き留めるや否や、まだ先方が承知するかせぬか知れぬうちに、自分で近所の借家を捜して歩いた。

何軒も見た中で、末造の気に入った家が二軒あった。

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何軒も見たうちで、末造の気に入ったたなが二軒あった。

一つは同じ池の端で、自分の住んでいる福地源一郎の邸宅の隣と、その頃名高かった蕎麦屋の蓮玉庵との真ん中くらいの所、池の西南の隅から少し蓮玉庵の方へ寄った、往来から少し引っ込めて建てた家である。

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一つは同じ池の端で、自分の住まっている福地源一郎の邸宅の隣と、その頃名高かった蕎麦屋そばや蓮玉庵れんぎょくあんとの真ん中位の処で、池の西南の隅から少し蓮玉庵の方へ寄った、往来から少し引っ込めて立てた家である。

四つ目垣の内に高野槙が一本とちゃぼ檜葉が二三本植えてあって、植木の間から、竹格子を打った肘掛け窓が見えている。

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四つ目垣の内に、高野槙こうやまきが一本とちゃぼ檜葉ひばが二三本と植えてあって、植木の間から、竹格子を打った肘懸窓ひじかけまどが見えている。

貸家の札が張ってあるので入ってみると、まだ人が住んでいて、五十ばかりの婆さんが案内をして中を見せてくれた。

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貸家の札が張ってあるので這入って見ると、まだ人が住んでいて、五十ばかりの婆あさんが案内をして中を見せてくれた。

その婆さんが問わず語りに言うには、主人は中国地方あたりのある大名の家老だったが、廃藩になってから、小遣い取りに大蔵省の属官を勤めている。

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その婆あさんが問わずがたりに云うには、主人は中国辺の或る大名の家老であったが、廃藩になってから、小使取りに大蔵省の属官を勤めている。

もう六十いくつとかになるが、きれい好きで、東京中を歩いて新築の借家を探しては借りるものの、少し古びてくるとすぐ引っ越す。

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もう六十幾つとかになるが、綺麗好きで、東京中を歩いて、新築の借家を捜して借りるが、少し古びて来ると、すぐ引き越す。

もちろん子供は別に暮らすようになってから久しいので、家を荒らすようなことはないが、どうせ住んでいるうちに古くなるので、障子の張り替えもしなくてはならず、畳の表も換えなくてはならない。

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勿論子供は別になってしまってから久しくなるので、家を荒すような事はないが、どうせ住んでいるうちに古くなるので、障子の張替もしなくてはならず、畳の表も換えなくてはならない。

そんな面倒をなるべくしないようにして、さっさと引っ越すのだ、というのである。

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そんな面倒をなるたけせぬようにして、さっさと引き越すのだと云うのである。

婆さんはそれが嫌でならないので、知らない人にまで夫への不平をこぼす。

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婆あさんはそれが厭でならぬので、知らぬ人にも夫の壁訴訟をする。

「この家なんぞもまだこんなにきれいなのに、もう越すと申すのでございますよ」

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「この内なんぞもまだこんなに綺麗なのに、もう越すと申すのでございますよ」

と言って、家じゅうを細かく見せてくれた。

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と云って、内じゅうを細かに見せてくれた。

どこからどこまで、かなりきれいに掃除がしてある。

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どこからどこまで、可なり綺麗に掃除がしてある。

末造はちょっといいと思って、敷金と家賃と差配の名とを手帳に書き留めて出た。

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末造は一寸いと思って、敷金と家賃と差配の名とを、手帳に書き留めて出た。

もう一つは無縁坂の中ほどにある小さな家である。

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今一つは無縁坂の中程にある小家こいえである。

そちらは札も何も出ていなかったが、売りに出たのを聞いて見に行った。

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それは札も何も出ていなかったが、売りに出たのを聞いて見に行った。

持ち主は湯島切通しの質屋で、そこの隠居がついこの間まで住んでいたのが亡くなったので、婆さんは本店へ引き取られたというのである。

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持主は湯島切通しの質屋で、そこの隠居がついこの間まで住んでいたのが亡くなったので、婆あさんは本店ほんてんへ引き取られたと云うのである。

隣が裁縫の師匠をしているので少し騒がしいが、わざわざ隠居所にと木なども選んで建てたものだけに、どことなく住み心地がよさそうである。

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隣が裁縫の師匠をしているので、少し騒がしいが、わざわざ隠居所に木なんぞを選んで立てたものゆえ、どことなく住心地が好さそうである。

入口の格子戸から、御影石を塗り込めたたたきの庭まで、小ざっぱりと奥ゆかしくできている。

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入口の格子戸から、花崗石みかげいしを塗り込めたたたきの庭まで、小ざっぱりと奥床しげに出来ている。

末造は一晩、床の上に寝転んで、二つのうちどちらにしようかと考えた。

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末造は一晩床の上に寝転んで、二つのうちどれにしようかと考えた。

そばでは女房が子供を寝かそうとして、自分も一緒に寝入ってしまい、大きな口を開けて、女らしくないいびきをかいている。

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傍には女房が子供をかそうと思って、自分も一しょに寐入ってしまって、大きな口をいて、女らしくないいびきをしている。

亭主が夜、貸金の利回りを考えていつまでも眠らずにいるのはいつものことなので、女房は亭主がいつまで目を開けていようが、少しも気になどしないのである。

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亭主が夜、貸金の利廻しを考えて、いつまでも眠らずにいるのは常の事なので、女房は何時いつまで亭主が目を開いていようが、少しも気になんぞはせぬのである。

末造は腹の中でおかしくてたまらない。

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末造は腹のうちで可笑おかしくてたまらない。

考えながら女房の顔を見て、こう思った。

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考えつつ女房の顔を見て、こう思った。

「まあ、同じ女でもこんな面をしているのもある。あのお玉はだいぶ長いこと見ていないが、あの時はまだ子供上がりだったのに、おとなしい中に粋なところのある、震い付きたいような顔をしていた。さぞこの頃は女振りを上げているだろうな。顔を見るのが楽しみだ。かかあめ、平気で寝ていやがる。おれだっていつも金のことばかり考えているのだと思ったら、大違いだぞ。おや、もう蚊が出やがった。下谷はこれだから嫌だ。そろそろ蚊帳を吊らなくては、かかあはいいが、子供が食われるだろう」

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「まあ、同じ女でもこんなつらをしているのもある。あのお玉はだいぶ久しく見ないが、あの時はまだ子供上がりであったのに、おとなしい中に意気な処のある、震い附きたいような顔をしていた。さぞこの頃は女振を上げているだろうな。顔を見るのが楽みだな。かかあ。平気で寐てけつかる。己だって、いつも金のことばかり考えているのだと思うと、大違いだぞ。おや。もう蚊が出やがった。下谷はこれだから厭だ。そろそろ蚊屋かやらなくちゃあ、かかあはいが、子供が食われるだろう」

こんなことを思っては、また家のことを考えてみる。

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こんな事を思っては、又家の事を考えて見る。

どうにかこうにか結論に行き着いたらしく思われたのは、一時過ぎだった。

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どうか、こうか断案に到着したらしく思ったのは、一時過ぎであった。

それはこうである。

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それはこうである。

「あの池の端の家は、人は見晴らしがあっていいなどと言うかも知れないが、見晴らしはこの家で十分だ。家賃は安いが、借家となると何やかやと手が掛かる。それに何となく開け広げたような場所で、人の目に付きそうだ。うっかり窓でも開けていて、子供を連れて仲町へ出掛けるかかあにでも見られようものなら面倒だ。無縁坂の方は陰気なようだが、学生が散歩に出て通るくらいよりほか、人のあまり通らない所になっている。一度に金を出して買うのは億劫なようだが、木の道具のいいのが使ってあるわりに安いから、保険でも付けておけば、いつ売ることになっても元値は取れると思って安心していられる。無縁坂にしよう、しよう。おれが夕方にでもなって、湯にでも行って、気の利いた身支度をして、かかあにいい加減なことを言ってごまかして出掛けるのだな。

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「あの池の端の家は、人は見晴しがあって好いなんぞと云うかも知れないが、見晴しはこの家で沢山だ。家賃が安いが、借家となると何やかや手が掛かる。それになんとなく開け広げたような場所で、人の目に着きそうだ。うっかり窓でもあけていて、子供を連れて仲町へ出掛けるかかあにでも見られようものなら面倒だ。無縁坂の方は陰気なようだが、学生が散歩に出て通る位より外に、人の余り通らない処になっている。一時に金を出して買うのはおっくうなようだが、木道具の好いのが使ってあるわりに安いから、保険でも附けて置けばいつ売ることになっても元値は取れると思って安心していられる。無縁坂にしよう、しよう。己が夕方にでもなって、湯にでも行って、気の利いた支度をして、かかあに好い加減な事を言って、だまくらかして出掛けるのだな。

そしてあの格子戸を開けて、ずっと入って行ったら、どんな具合だろう。

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そしてあの格子戸を開けて、ずっと這入って行ったら、どんな塩梅あんばいだろう。

お玉のやつめ。

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お玉の奴め。

猫か何かを膝に乗せて、寂しがって待っていやがるだろうな。

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猫か何かをひざにのっけて、さびしがって待っていやがるだろうなあ。

もちろん化粧をして待っているのだ。

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勿論お作りをして待っているのだ。

着物などはどうにでもしてやる。

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着物なんぞはどうでもしてる。

待てよ。

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待てよ。

馬鹿な銭を使ってはいけないぞ。

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馬鹿な銭を使ってはならないぞ。

質流れにだって、立派なものがある。

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質流れにだって、立派なものがある。

女一人に着物や髪の物の贅沢をさせるくらいなら、世間の連中がするような馬鹿を尽くさなくてもいい。

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女一人に着物や頭の物の贅沢ぜいたくをさせるには、世間の奴のするような、馬鹿を尽さなくても好い。

隣の福地さんなんぞは、おれの家より大きな構えをして、数寄屋町の芸者を連れて池の端をぶらついて、書生さんを羨ましがらせて、いい気になっていなさるが、内証は火の車だ。

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隣の福地さんなんぞは、己の内より大きなかまえをしていて、数寄屋町すきやまちの芸者を連れて、池の端をぶら附いて、書生さんをうらやましがらせて、好い気になっていなさるが、内証は火の車だ。

学者が聞いてあきれるよ。

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学者が聞いてあきれらあ。

筆先でうまいことができるものなら、店者だって用なしになるさ。

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筆尖ふでさきうまい事をすりゃあ、おたなものだってお払箱にならあ。

おう、そうそう。

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おう、そうそう。

お玉は三味線が弾けたっけ。

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お玉は三味線が弾けたっけ。

爪弾きで心意気でも聞かせてくれるといいが、巡査の女房になったよりほかに世間を知らずにいるのだから、駄目だろうな。

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爪弾つめびきで心意気でも聞かせてくれるようだと好いが、巡査の上さんになったより外に世間を知らずにいるのだから、駄目だろうなあ。

お笑いなさるからいやだわ、とか何とか言って、弾けと言ってもなかなか弾かないだろうよ。

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お笑いなさるからいやだわとか、なんとか云って、弾けと云っても、なかなか弾かないだろうて。

本当に何につけても、はにかみやがるだろう。

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ほんになんに附けても、はにかみやあがるだろう。

顔を赤くしてもじもじするに違いない。

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顔を赤くしてもじもじするに違いない。

おれが初めて行った晩には、どうするだろう」

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己が始て行った晩には、どうするだろう」

空想は縦横に駆け回って、止まるところを知らない。

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空想は縦横に馳騁ちへいして、底止する所を知らない。

そうこうするうち、想像が切れ切れになって、白い肌がちらつく。

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かれこれするうち、想像が切れ切れになって、白い肌がちらつく。

ささやきが聞こえる。

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ささやきが聞える。

末造はいい心持ちに寝入ってしまった。

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末造は好い心持に寐入ってしまった。

そばでは女房が相変わらずいびきをかいている。

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傍に上さんは相変らず鼾をしている。

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ろく

松源での目見えというのは、末造にとって一つの祝祭だった。

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松源の目見えと云うのは、末造が為めにはいつの 〔fe^te〕《フェエト》 であった。

一口に爪に火をともすなどと言うが、金を貯める人にもいろいろある。

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一口に爪に火をともすなどとは云うが、金をめる人にはいろいろある。

細かい所に気をつけて、ちり紙を二つに切っておいて使ったり、用事を葉書で済ませるために顕微鏡がなくては読めないような字を書いたりするのは、どの人にも共通した性質だろうが、それを徹底して自分の生活の全範囲に及ぼし、本当に爪に火をともす人と、どこかに一つ穴を開けて息を抜くようにしている人とがある。

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細かい所に気を附けて、塵紙ちりがみを二つに切って置いて使ったり、用事を葉書で済ますために、顕微鏡がなくては読まれぬような字を書いたりするのは、どの人にも共通している性質だろうが、それを絶待的に自己の生活の全範囲に及ぼして、真に爪に火をとぼす人と、どこかに一つ穴を開けて、息を抜くようにしている人とがある。

これまで小説に書かれたり、芝居に仕組まれたりしている守銭奴は、ほとんど徹底した手合いばかりのようである。

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これまで小説に書かれたり、芝居に為組しくまれたりしている守銭奴は、殆ど絶待的な奴ばかりのようである。

生きた、金を貯める男には、実際そうでないのが多い。

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きた、金を溜める男には、実際そうでないのが多い。

けちな癖に女には目がないとか、不思議に食い道楽だけはするとかいうのがそれである。

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けちな癖に、女には目がないとか、不思議に食奢くいおごりだけはするとか云うのがそれである。

前にもちょっと話したようだが、末造は小ぎれいな身なりをするのが道楽で、まだ大学の小使をしていた時などは、休日になると、お定まりの小倉の筒袖を脱ぎ捨てて、気の利いた商人らしい着物に着替えるのだった。

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前にもちょっと話したようであったが、末造は小綺麗な身なりをするのが道楽で、まだ大学の小使をしていた時なんぞは、休日になると、おさだまりの小倉の筒袖を脱ぎ棄てて、気の利いた商人あきんどらしい着物に着換えるのであった。

そしてそれを一種の楽しみにしていた。

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そしてそれを一種の楽みにしていた。

学生たちがまれに唐桟ずくめの末造に出くわしてびっくりすることがあったのは、こういうわけである。

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学生どもがまれに唐桟ずくめの末造に邂逅かいこうして、びっくりすることのあったのは、こうしたわけである。

そこで末造には、このほかにこれという道楽がない。

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そこで末造には、この外にこれと云う道楽がない。

芸者や娼妓などに関わり合ったこともなければ、料理屋を飲み歩いたこともない。

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芸娼妓なんぞに掛かり合ったこともなければ、料理屋を飲んで歩いたこともない。

蓮玉で蕎麦を食うくらいがすでに奮発の一つになっていて、女房や子供はよほど前まで、こういう時に連れて行ってもらうことができなかった。

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蓮玉で蕎麦を食う位が既に奮発の一つになっていて、女房や子供は余程前まで、こう云う時連れて行って貰うことが出来なかった。

それは女房の身なりを、自分の身支度に釣り合うようにはしていなかったからである。

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それは女房の身なりを自分の支度に吊り合うようにはしていなかったからである。

女房が何かねだると、末造はいつも「馬鹿を言うな、お前などはおれとは違う、おれは付き合いがあるから、仕方なしにしているのだ」

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女房が何かねだると、末造はいつも「馬鹿を言うな、手前なんぞは己とは違う、己は附合があるから、為方なしにしているのだ」

と言ってはねつけたのである。

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と云ってね附けたのである。

その後だいぶ金が子を生んでからは、末造も料理屋へ出入りすることがあったが、これは大勢が寄り合う時に限っていて、自分だけが客になって行くのではなかった。

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そののちだいぶ金が子を生んでからは、末造も料理屋へ出這入ではいりすることがあったが、これはおお勢の寄り合う時に限っていて、自分だけが客になって行くのではなかった。

それがお玉に目見えをさせるということになって、ふいと晴れがましい、厳かな気持ちになり、目見えは松源にしようと言い出したのである。

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それがお玉に目見えをさせると云うことになって、ふいと晴がましい、solennelソランネル な心持になって、目見えは松源にしようと云い出したのである。

さていよいよ目見えをさせようとなった時、避けられない問題が出てきた。

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さていよいよ目見えをさせようとなった時、避くべからざる問題が出来た。

それはお玉さんの支度である。

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それはお玉さんの支度である。

お玉さんのだけならいいが、父親の支度までしてやらなくてはならないことになった。

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お玉さんのばかりならいが、爺いさんの支度までして遣らなくてはならないことになった。

これには間に立って口を利いた婆さんもたいそう困ったが、父親の言うことには娘が一も二もなく同意するので、それを無理に抑えようとすると、根本から談判が破裂しないとも限らないという状況になったから仕方がない。

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これには中に立って口を利いた婆あさんもすこぶる窮したが、爺いさんの云うことは娘が一も二もなく同意するので、それを強いて抑えようとすると、根本的に談判が破裂しないにも限らぬと云う状況になったから為方がない。

父親の言い分はざっとこうだった。

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爺いさんの申分はざっとこうであった。

「お玉はわたしの大事な一人娘で、それもよその一人娘とは違って、わたしの身寄りというものは、あれよりほかに一人もない。わたしは亡くなった女房一人を頼りにして寂しい生涯を送ってきたが、その女房が三十を越してからの初産でお玉を生んで、とうとうそれが元で亡くなった。もらい乳をして育てていると、やっと四月ばかりになった時、江戸中に流行った麻疹にかかって、医者が見放してしまったのを、わたしは商売も何も投げやりにして介抱し、やっと命を取り留めた。世間は物騒な最中で、井伊様が殺されなすってから二年目、生麦で西洋人が斬られたという年だった。それからというものは、店も何もなくしてしまったわたしが、何遍もいっそ死んでしまおうかと思ったのを、小さい手でわたしの胸をいじって、大きい目でわたしの顔を見て笑う、可愛いお玉を一緒に殺す気になれないばっかりに、できない我慢をして一日一日と命をつないでいた。お玉が生まれた時、わたしはもう四十五で、おまけに苦労をし続けて年より老けていたのだが、一人口は食えなくても二人口は食えるなどと言って、小金を持った後家さんの所へ入り婿に世話をしよう、子供は里にでもやってしまえと、親切に言ってくれた人もあったが、わたしはお玉が可愛さに、そっけもなく断った。それほどにして育てたお玉を、貧すれば鈍するとやらいうわけで、とんだ不実な男の慰み物にされたのが、悔しくて悔しくてならないのだ。

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「お玉はわたしの大事な一人娘で、それも余所よその一人娘とは違って、わたしの身よりと云うものは、あれより外には一人もない。わたしは亡くなった女房一人をたよりにして、寂しい生涯を送ったものだが、その女房が三十を越しての初産ういざんでお玉を生んで置いて、とうとうそれが病附やみつきで亡くなった。貰乳もらいちちをして育てていると、やっと四月よつきばかりになった時、江戸中に流行はやった麻疹はしかになって、お医者が見切ってしまったのを、わたしは商売も何も投遣なげやりにして介抱して、やっと命を取り留めた。世間は物騒な最中で、井伊様がお殺されなすってから二年目、生麦なまむぎで西洋人が斬られたと云う年であった。それからと云うものは、店も何もなくしてしまったわたしが、何遍もいっその事死んでしまおうかと思ったのを、小さい手でわたしの胸をいじって、大きい目でわたしの顔を見て笑う、可哀かわいいお玉を一しょに殺す気になられないばっかりに、出来ない我慢をして一日々々と命をつないでいた。お玉が生れた時、わたしはもう四十五しじゅうごで、おまけに苦労をし続けて年よりけていたのだが、一人口は食えなくても二人口は食えるなどと云って、小金を持った後家さんの所へ、入壻いりむこに世話をしよう、子供は里にでも遣ってしまえと、親切に云ってくれた人もあったが、わたしはお玉が可哀さに、そっけもなくことわった。それまでにして育てたお玉を、貧すれば鈍するとやら云うわけで、飛んだ不実な男の慰物なぐさみものにせられたのが、悔やしくて悔やしくてならないのだ。

幸いなことには、いい娘だと人も言ってくださるあの子だから、どうか堅気な人にやりたいと思っても、わたしという親がいるので、誰も貰おうと言ってくれない。

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為合しあわせな事には、好い娘だと人も云って下さるあの子だから、どうか堅気な人に遣りたいと思っても、わたしと云う親があるので、誰も貰おうと云ってくれぬ。

それでも囲い者や妾には、どんなことがあっても出すまいと思っていたが、堅い旦那だとお前さん方がおっしゃるから、お玉も来年は二十になるし、あまり薹の立たないうちにどうにかしてやりたさに、とうとうわたしは折れたのだ。

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それでも囲物や妾には、どんな事があっても出すまいと思っていたが、堅い檀那だと、お前さん方がおっしゃるから、お玉も来年は二十はたちになるし、余りとうの立たないうちに、どうかして遣りたさに、とうとうわたしは折れ合ったのだ。

そうした大事なお玉を差し上げるのだから、ぜひわたしが一緒に出て、旦那にお目に掛からなくてはならない」

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そうした大事なお玉を上げるのだから、是非わたしが一しょに出て、檀那にお目に掛からなくてはならぬ」

と言うのである。

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と云うのである。

この話を持ち込まれた時、末造は自分の思惑が少し違ってきたのを物足りなく思った。

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この話を持ち込まれた時、末造は自分の思わくの少し違って来たのをあきたらず思った。

それは、お玉を松源へ連れて来てもらったら、世話をする婆さんをなるべく早く帰してしまって、お玉と差し向かいになって楽しもうと思っていた当てがはずれそうになったからである。

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それはお玉を松源へ連れて来て貰ったら、世話をする婆あさんをなるたけ早く帰してしまって、お玉と差向いになって楽もうと思ったあてがはずれそうになったからである。

どうも父親が一緒に来るとなると、思いのほか晴れがましいことになりそうである。

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どうも父親が一しょに来るとなると、意外に晴がましい事になりそうである。

末造自身も一種の晴れがましい気持ちはしているが、それはこれまで抑えに抑えてきた欲望の縛めを解く第一歩を踏み出そうという門出の喜びの意味で、差し向かいであることはそれには第一の要件になっていた。

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末造自身も一種の晴がましい心持はしているが、それはこれまで抑え抑えて来た慾望のいましめを解く第一歩を踏み出そうと云う、門出かどでのよろこびの意味で、〔te^te-a`-te^te〕《テタテト》 はそれには第一要件になっていた。

ところがそこへ親父が出て来るとなると、その晴れがましさの性質がまるで変わってくる。

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ところがそこへ親父が出て来るとなると、その晴がましさの性質がまるで変って来る。

婆さんの話に聞けば、親子ともに物堅い人間で、最初は妾奉公は嫌だと言って二人一緒になって断ったのを、婆さんがある日娘を外へ呼び出して、だんだん稼げなくなるお父っさんに楽をさせたくはないかと言い、いろいろに説き勧めて、とうとう承知させ、その上で親父を納得させたということである。

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婆あさんの話に聞けば、親子共物堅い人間で、最初は妾奉公は厭だと云って、二人一しょになってことわったのを、婆あさんが或る日娘を外へ呼んで、もう段々稼がれなくなるお父っさんに楽がさせたくはないかと云って、いろいろに説き勧めて、とうとう合点させて、その上で親父に納得させたと云うことである。

それを聞いた時は、そんな優しい、おとなしい娘を手に入れることができるのかと心中ひそかに喜んだのだが、それほど物堅い親子が揃って来るとなると、松源での初対面はなんとなく婿が舅にお目通りするという風になりそうなので、その向きの変わった晴れがましさは、末造の熱した頭に一杯の冷水を浴びせたのである。

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それを聞いた時は、そんな優しい、おとなしい娘を手に入れることが出来るのかと心中ひそかに喜んだのだが、それ程物堅い親子がそろって来るとなると、松源での初対面はなんとなく壻が岳父しゅうと見参げんざんすると云う風になりそうなので、その方角の変った晴がましさは、末造の熱した頭に一杓いっしゃくの冷水を浴せたのである。

しかし末造は、あくまで立派な実業家だという触れ込みを本当にしなくてはならないと思っているので、先方へは大様なところが見せたさに、とうとう二人の支度を引き受けた。

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しかし末造は飽くまで立派な実業家だと云う触込ふれこみを実にしなくてはならぬと思っているので、先方へはおお様な処が見せたさに、とうとう二人の支度を引き受けた。

それには、お玉を手に入れた上は、どうせ親父の身の上も捨ててはおけないのだから、ただ後ですることが先になるに過ぎないという諦めも手伝って、末造に決心させたのである。

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それにはお玉を手に入れた上では、どうせ親父の身の上も棄てては置かれぬのだから、只あとですることが先になるに過ぎぬと云うあきらめも手伝って、末造に決心させたのである。

そこで当たり前なら支度料いくらと言ってまとまった金を先方へ渡すのだが、末造はそうはしない。

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そこで当前あたりまえなら支度料幾らと云って、まとまった金を先方へ渡すのであるが、末造はそうはしない。

身なりを立派にする道楽のある末造は、自分の仕立物をさせる家があるので、そこへ事情を打ち明けて、似つかわしい二人の衣類をあつらえた。

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身なりを立派にする道楽のある末造は、自分だけの為立物したてものをさせる家があるので、そこへ事情を打ち明けて、似附かわしい二人の衣類をあつらえた。

ただ寸法だけを、世話を頼んだ婆さんの手でお玉さんに尋ねさせたのである。

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只寸法だけを世話を頼んだ婆あさんの手でお玉さんに問わせたのである。

気の毒なことには、この油断のない、けちな末造の処置を、お玉親子はたいそう善意に解釈して、現金を手に渡されないのを、自分たちが尊敬されているからだと思った。

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気の毒な事には、この油断のない、けちな末造の処置を、お玉親子は大そう善意に解釈して、現金を手に渡されぬのを、自分達が尊敬せられているからだと思った。

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しち

上野広小路は火事の少ない所で、松源の焼けたことは記憶にないから、今もその座敷があるかも知れない。

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上野広小路は火事の少い所で、松源の焼けたことは記憶にないから、今もその座鋪ざしきがあるかも知れない。

どこか静かな小さい一間をと注文しておいたので、南向きの玄関から上がって、まっすぐに廊下を少し歩いてから左へ入る六畳の間に、末造は案内された。

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どこか静かな、小さい一間をと誂えて置いたので、南向の玄関から上がって、真っ直に廊下を少し歩いてから、左へ這入る六畳の間に、末造は案内せられた。

印半纏を着た男が、渋紙の大きな日覆いを巻いている最中だった。

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印絆纏しるしばんてんを着た男が、渋紙の大きな日覆ひおいを巻いている最中であった。

「どうも暮れてしまいますまでは夕日が入りますので」

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「どうも暮れてしまいますまでは夕日がれますので」

と、案内をした女中が説明をしておいて下がった。

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と、案内をした女中が説明をして置いて下がった。

真偽の分からない肉筆の浮世絵の軸物を掛け、一輪挿しにくちなしの花を活けた床の間を背にして座を占めた末造は、鋭い目であたりを見回した。

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真偽の分からぬ肉筆の浮世絵の軸物を掛けて、一輪挿いちりんざし山梔くちなしの花を活けた床の間を背にして座を占めた末造は、鋭い目であたりを見廻した。

二階と違って、その頃からずっと後になって、殺風景にも競馬の柵にされ、それからまた移り変わりを経て自転車の競走場になった、あの池のふちの往来から見込まれないようにと、せっかくの不忍の池に向いた座敷の外は籠塀で囲んである。

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二階と違って、その頃からずっとのちに、殺風景にも競馬のらちにせられて、それから再び滄桑そうそうけみして、自転車の競走場になった、あの池のふちの往来から見込まれぬようにと、切角せっかくの不忍の池に向いた座敷の外は籠塀かごべいで囲んである。

塀と家との間には、帯のように狭く長い地面があるきりなので、もとより庭というほどのものは作れない。

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塀と家との間には、帯のように狭く長い地面があるきりなので、もとより庭と云う程の物は作られない。

末造の座っている所からは、二三本寄せて植えた青桐の、油雑巾で拭いたような幹が見えている。

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末造の据わっている所からは、二三本寄せて植えた梧桐あおぎりの、油雑巾で拭いたような幹が見えている。

それから春日燈籠が一つ見える。

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それから春日燈籠かすがどうろうが一つ見える。

そのほかには、飛び飛びに立っている小さいひのきがあるばかりである。

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そのほかには飛び飛びに立っている、小さい側栢ひのきがあるばかりである。

しばらく照り続けて、広小路は往来の人の足元から白い土煙が立つのに、この塀の内は打ち水をした苔が青々としている。

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しばらく照り続けて、広小路は往来の人の足許あしもとから、白い土烟つちけぶりが立つのに、この塀のうちは打水をしたこけが青々としている。

間もなく女中が蚊遣りと茶を持って来て、注文を聞いた。

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間もなく女中が蚊遣かやりと茶を持って来て、注文を聞いた。

末造は連れが来てからにしようと言って女中を立たせ、一人でたばこを吸っていた。

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末造は連れが来てからにしようと云って、女中を立たせて、ひとり烟草たばこんでいた。

初め座った時は少し暑いように思ったが、しばらくすると台所や便所のあたりを通っていろいろな物の香りをかすかに帯びた風が、廊下の方から時々吹いて来て、そばに女中の置いて行った汚れた団扇を手に取るには及ばないくらいだった。

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初め据わった時は少し熱いように思ったが、暫く立つと台所や便所のあたりを通って、いろいろの物の香を、かすかに帯びた風が、廊下の方から折々吹いて来て、そばに女中の置いて行った、よごれた団扇うちわを手に取るには及ばぬ位であった。

末造は床の間の柱に寄り掛かって、たばこの煙を輪に吹きながら、空想にふけった。

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末造は床の間の柱に寄り掛かって、烟草のけぶりを輪に吹きつつ、空想にふけった。

いい娘だと思って見ながら通っていた頃のお玉は、何と言ってもまだ子供だった。

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い娘だと思って見て通った頃のお玉は、なんと云ってもまだ子供であった。

どんな女になっただろう。

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どんな女になっただろう。

どんな様子をして来るだろう。

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どんな様子をして来るだろう。

とにかく爺さんが付いて来ることになったのは、いかにもまずかった。

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とにかく爺いさんが附いて来ることになったのは、いかにもまずかった。

どうにかして爺さんを早く帰してしまうことはできないものかなどと思っている。

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どうにかして爺いさんを早く帰してしまうことは出来ぬか知らんなんぞと思っている。

二階では三味線の調子を合わせはじめた。

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二階では三味線の調子を合せはじめた。

廊下に二三人の足音がして、「お連れ様が」

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廊下に二三人の足音がして、「お連様が」

と女中が先に顔を出して言った。

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と女中が先へ顔を出して云った。

「さあ、ずっとお入りなさいよ。旦那はさばけた方だから、遠慮なんぞなさらなくていい」

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「さあ、ずっとお這入なさいよ。檀那はさばけた方だから、遠慮なんぞなさらないがい」

くつわ虫の鳴くような調子でこう言うのは、世話をしてくれた例の婆さんの声である。

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轡虫くつわむしの鳴くような調子でこう云うのは、世話をしてくれた、例の婆あさんの声である。

末造はつと席を立った。

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末造はつと席をった。

そして廊下に出てみると、腰をかがめて曲がり角の壁際にためらっている爺さんの後ろに、臆した様子もなく、物珍しそうにあたりを見て立っているのがお玉だった。

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そして廊下に出て見ると、腰をかがめて、曲角の壁際に躊躇ちゅうちょしている爺いさんの背後うしろに、おくれた様子もなく、物珍らしそうにあたりを見て立っているのがお玉であった。

ふっくりした丸顔の可愛らしい子だと思っていたのに、いつの間にか細面になって、体も前よりすらりとしている。

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ふっくりした円顔の、可哀らしい子だと思っていたに、いつの間にか細面になって、体も前よりはすらりとしている。

さっぱりとした銀杏返しに結って、こんな場合に人がする厚化粧などはせず、ほとんど素顔と言っていい。

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さっぱりとした銀杏返いちょうがえしにって、こんな場合に人のする厚化粧なんぞはせず、殆ど素顔と云ってもい。

それが想像していたのとはまるで趣が変わっていて、しかも一層美しい。

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それが想像していたとは全く趣が変っていて、しかも一層美しい。

末造はその姿を目に吸い込むように見て、心の内に非常な満足を覚えた。

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末造はその姿を目に吸い込むように見て、心の内に非常な満足を覚えた。

お玉の方では、どうせ親の貧苦を救うために自分を売るのだから、買い手はどんな人でも構わないと、捨て身の決心で来たのに、色の浅黒い、鋭い目に愛敬のある末造が、上品で目立たない好みの身支度をしているのを見て、捨てた命を拾ったように思い、これも一瞬の満足を覚えた。

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お玉の方では、どうせ親の貧苦を救うために自分を売るのだから、買手はどんな人でも構わぬと、捨身の決心で来たのに、色の浅黒い、鋭い目に愛敬あいきょうのある末造が、上品な、目立たぬ好みの支度をしているのを見て、捨てた命を拾ったように思って、これも刹那せつなの満足を覚えた。

末造は爺さんに、「ずっとあちらへお通りなすってください」

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末造は爺いさんに、「ずっとあっちへお通りなすって下さい」

と丁寧に言って、座敷の方を指さしながら、目をお玉さんの方へ移して、「さあ」

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と丁寧に云って、座鋪の方を指さしながら、目をお玉さんの方へ移して、「さあ」

と促した。

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と促した。

そして二人を座敷へ入れておいて、世話をする婆さんを物陰へ呼び、紙に包んだ物を手に握らせて、何やらささやいた。

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そして二人を座鋪へ入れて置いて、世話をする婆あさんを片蔭へ呼んで、紙に包んだ物を手に握らせて、何やら咡いた。

婆さんはお歯黒をはがした跡の汚い歯を見せて、恭しいような、人を馬鹿にしたような笑い方をして、頭を二三遍下げ、そのまま後へ引き返して行った。

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婆あさんはお歯黒をがしたあとのきたない歯を見せて、恭しいような、人を馬鹿にしたような笑いようをして、頭を二三遍屈めて、そのまま跡へ引き返して行った。

座敷に帰って、親子の者が遠慮して入口に一かたまりになっているのを見ると、末造は愛想よく席を勧め、待っていた女中に料理の注文をした。

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座鋪に帰って、親子のものの遠慮して這入口に一塊ひとかたまりになっているのを見て、末造は愛想あいそ好く席を進めさせて、待っていた女中に、料理の注文をした。

間もなく「おとし」

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間もなく「おとし」

を添えた酒が出たので、まず爺さんに杯を勧めて話をしてみると、もとは相応な暮らしをしただけあって、にわかに身なりをこしらえて座敷へ通った人のようではなかった。

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を添えた酒が出たので、ず爺いさんにさかずきすすめて、物を言って見ると、元は相応な暮しをしただけあって、にわかに身なりをこしらえて座敷へ通った人のようではなかった。

最初は爺さんを邪魔にして、いらいらしたような気持ちになっていた末造も、次第に感情をやわらげられて、まったく予想もしなかった、しんみりした話をすることになった。

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最初は爺いさんを邪魔にして、苛々いらいらしたような心持になっていた末造も、次第に感情を融和させられて、全く預想よそうしなかった、しんみりした話をすることになった。

そして末造は、自分の持っている限りのあらゆる善良な性質を表に出すように努めながら、心の奥では、おとなしい気立てのお玉に信頼の念を起こさせるには、この上もなく適当な機会が偶然に生まれてきたのを喜んだ。

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そして末造は自分の持っているかぎりのあらゆる善良な性質を表へ出すことを努めながら、心の奥には、おとなしい気立の、お玉に信頼する念を起さしめるには、この上もない、適当な機会が、偶然に生じて来たのを喜んだ。

料理が運ばれた頃には、一座はなんとなく一家の者が遊山にでも出て料理屋に立ち寄ったかと思われるような様子になっていた。

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料理が運ばれた頃には、一座はなんとなく一家のものが遊山ゆさんにでも出て、料理屋に立ち寄ったかと思われるような様子になっていた。

日頃、妻子に対しては暴君のようなふるまいをしているので、妻からはある時は反抗を、ある時は屈従をもって扱われている末造は、女中の立った後で、恥ずかしさに赤くした顔につつましやかな微笑を浮かべて酌をするお玉を見て、これまで覚えたことのない淡い、地味な喜びを覚えた。

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平生妻子に対しては、tyranチラン のような振舞をしているので、妻からは或るときは反抗を以て、或るときは屈従を以て遇せられている末造は、女中の立った跡で、恥かしさに赤くした顔に、つつましやかな微笑をたたえて酌をするお玉を見て、これまで覚えたことのない淡い、地味な歓楽を覚えた。

しかし末造は、この席で幻のように浮かんだ幸福の影を無意識に感じ取りながらも、なぜ自分の家庭生活にこういう味が出ないのかと反省したり、こういうよそ行きの感情を絶えず保つにはどれだけの条件がいるか、その条件が自分や妻に満たせるものかどうかと勘定したりするほどの、緻密な思慮は持っていなかった。

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しかし末造はこの席で幻のように浮かんだ幸福の影を、無意識に直覚しつつも、なぜ自分の家庭生活にこう云う味が出ないかと反省したり、こう云う余所行よそゆきの感情を不断に維持するには、どれだけの要約がいるか、その要約が自分や妻に充たされるものか、充たされないものかと商量したりする程の、緻密ちみつな思慮は持っていなかった。

突然、塀の外でかちかちと拍子木を打つ音がした。

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突然塀の外に、かちかちと拍子木を打つ音がした。

続いて「へい、何か一枚ご贔屓様を」

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続いて「へい、何か一枚御贔屓様ごひいきさまを」

と言った。

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と云った。

二階で鳴っていた三味線の音が止まって、女中が手すりにつかまって何か言っている。

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二階にしていた三味線のが止まって、女中が手摩てすりつかまって何か言っている。

下では、「へい、それでは成田屋の河内山と音羽屋の直侍を一つ、最初は河内山」

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下では、「へい、さようなら成田屋の河内山こうちやま音羽屋おとわや直侍なおざむらいを一つ、最初は河内山」

と言って、声色を使いはじめた。

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と云って、声色こわいろを使いはじめた。

銚子を替えに来た女中が、「おや、今晩のは本物でございます」

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銚子ちょうしを換えに来ていた女中が、「おや、今晩のは本当のでございます」

と言った。

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と云った。

末造には分からなかった。

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末造には分からなかった。

「本当のだの嘘のだのと言って、いろいろあるんですかい」

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「本当のだの、うそのだのと云って、色々ありますかい」

「いえ、近頃は大学の学生さんがやってお回りになります」

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「いえ、近頃は大学の学生さんが遣ってお廻りになります」

「やっぱり鳴り物入りで」

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ぱり鳴物入で」

「ええ。支度から何から、そっくりでございます。でも、お声で分かります」

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「ええ。支度から何からそっくりでございます。でもお声で分かります」

「それなら決まった人ですね」

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「そんならまった人ですね」

「ええ。あれをなさる方はお一人しかございません」

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「ええ。お一人しか、なさる方はございません」

女中は笑っている。

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女中は笑っている。

「姉さん、知っているんだね」

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えさん、知っているのだね」

「こちらへもちょいちょいいらっしゃった方なものですから」

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「こちらへもちょいちょいいらっしゃった方だもんですから」

爺さんがそばから言った。

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爺いさんがそばから云った。

「学生さんにも、ご器用な方があるものですね」

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「学生さんにも、御器用な方があるものですね」

女中は黙っていた。

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女中は黙っていた。

末造が妙な笑い方をした。

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末造が妙に笑った。

「どうせそんなのは、学校ではできない学生ですよ」

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「どうせそんなのは、学校では出来ない学生なのですよ」

こう言って、心の中では自分の所へいつも来る学生たちのことを考えている。

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こう云って、心のうちには自分の所へ、いつも来る学生共の事を考えている。

中にはずいぶん職人の真似をして、小店というところを冷やかすのが面白いなどと言い、普段から職人のような言葉遣いをしている人がある。

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中には随分職人の真似をして、小店と云う所を冷かすのが面白いなどと云って、不断も職人のような詞遣ことばづかいをしている人がある。

しかしまさか真面目に声色を使って歩く人があろうとは、末造も思っていなかったのである。

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しかしまさか真面目に声色を遣って歩く人があろうとは、末造も思っていなかったのである。

一座の話を黙って聞いているお玉を、末造がちょっと見て言った。

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一座の話を黙って聞いているお玉を、末造がちょっと見て云った。

「お玉さんは誰が贔屓ですか」

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「お玉さんは誰が贔屓ですか」

「わたくし、贔屓なんかございませんの」

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「わたくし贔屓なんかございませんの」

爺さんが言葉を添えた。

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爺いさんが詞を添えた。

「芝居へはいっこう参りませんのですから。柳盛座がすぐ近所なので、町内の娘さん方がみな覗きに参りましても、お玉はちっとも参りません。好きな娘さん方は、あのどんちゃんどんちゃんが聞こえると家にじっとしていられないそうで」

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「芝居へ一向まいりませんのですから。柳盛座がじき近所なので、町内の娘さん達がみなのぞきにまいりましても、お玉はちっともまいりません。好きな娘さん達は、あのどんちゃんどんちゃんが聞えては内にじっとしてはいられませんそうで」

爺さんの話は、つい娘自慢になりたがるのである。

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爺いさんの話は、つい娘自慢になりたがるのである。

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はち

話が決まって、お玉は無縁坂へ越して来ることになった。

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話が極まって、お玉は無縁坂へ越して来ることになった。

ところが、末造がひどく簡単に考えていたこの引っ越しにも、多少の面倒が付きまとった。

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ところが、末造がひどく簡単に考えていた、この引越ひきこしにも多少の面倒が附き纏った。

それはお玉が、父親をなるべく近い所に置いて、ちょいちょい訪ねて行って気をつけてあげるようにしたいと言い出したからである。

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それはお玉が父親をなるたけ近い所に置いて、ちょいちょい尋ねて行って、気を附けて上げるようにしたいと云い出したからである。

最初からお玉は、自分がもらう給金の大部分を割いて親に送り、もう六十を越している親に不自由のないよう、小女の一人くらい付けておこうと考えていた。

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最初からお玉は、自分が貰う給金の大部分を割いて親に送って、もう六十を越している親に不自由のないように、小女こおんなの一人位附けて置こうと考えていた。

そうするなら、今まで住んでいた鳥越の車屋と隣り合わせの見苦しい家に親を置かなくてもいい。

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そうするには、今まで住まった鳥越の車屋と隣合せになっている、見苦しい家に親を置かなくてもい。

同じことなら、もっと近い所へ越させたいということになった。

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同じ事なら、もっと近い所へ越させたいと云うことになった。

ちょうど見合いに娘だけを呼ぶはずの所へ親父が来ることになったのと同じわけで、末造は妾宅の支度をしてお玉を迎えさえすればいいと思っていたのに、実際は親子二人の引っ越しをさせなくてはならないことになったのである。

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丁度見合いに娘ばかり呼ぶ筈の所へ、親爺が来るようになったと同じわけで、末造は妾宅しょうたくの支度をしてお玉を迎えさえすれば好いと思っていたのに、実際は親子二人の引越をさせなくてはならぬ事になったのである。

もちろんお玉は、親の引っ越しは自分が勝手にさせるのだから、一切旦那に迷惑を掛けないようにしたいと言っている。

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勿論もちろんお玉は親の引越は自分が勝手にさせるのだから、一切檀那に迷惑を掛けないようにしたいと云っている。

しかし話を聞かされてみれば、末造もまるで知らん顔をしているわけにはいかない。

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しかし話をきかせられて見れば、末造もまるで知らぬ顔をしていることは出来ない。

見合いをして一層気に入ったお玉に、例の気前を見せてやりたい気持ちも手伝って、とうとうお玉が無縁坂へ越すと同時に、かねて末造が見ておいたもう一軒の池の端の家へ親父も越すということになった。

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見合いをして一層気に入ったお玉に、例の気前を見せて遣りたい心持が手伝って、とうとうお玉が無縁坂へ越すと同時に、兼て末造が見て置いた、今一軒の池の端の家へ親爺も越すということになった。

こう相談相手になってみれば、いくらお玉が自分のもらう給金の内で万事済ませたいと言ったところで、見す見す苦しい思いをするのを知らん顔はできず、何かにつけて物入りがある。

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こう相談相手になって見れば、幾らお玉が自分の貰う給金の内で万事済ましたいと云ったと云って、見す見す苦しい事をするのを知らぬ顔は出来ず、何かにつけて物入がある。

それを末造が平気で出すので、世話を焼いている婆さんが目を見張ることが度々だった。

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それを末造が平気で出すのに、世話を焼いている婆あさんの目をみはることが度々であった。

両方の引っ越し騒ぎが片付いたのは、七月の中頃でもあっただろうか。

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両方の引越騒ぎが片附いたのは、七月の中頃でもあったか。

初々しい言葉遣いや立ち居振る舞いがひどく気に入ったと見えて、金貸業の方ではあらゆる厳しい性分を働かせている末造が、お玉に対しては柔和な手段の限りを尽くし、毎晩のように無縁坂へ通って来てはお玉の機嫌を取っていた。

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ういういしい詞遣や立居振舞が、ひどく気に入ったと見えて、金貸業の方で、あらゆる峻烈しゅんれつな性分を働かせている末造が、お玉に対しては、柔和な手段の限を尽して、毎晩のように無縁坂へ通って来て、お玉の機嫌を取っていた。

ここにはちょっと、歴史家がよく言う英雄の半面といったような趣がある。

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ここにはちょっと歴史家の好く云う、英雄の半面と云ったような趣がある。

末造は一夜も泊まって行かない。

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末造は一夜も泊って行かない。

しかし毎晩のように来る。

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しかし毎晩のように来る。

例の婆さんが世話をして、梅という十三になる小女を一人置き、台所で子供のままごとのような真似をさせているだけなので、お玉は次第に話し相手のない退屈を感じて、夕方になると早く旦那が来てくれればいいと待つ心になり、それに気がついて自分で自分を笑うのである。

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例の婆あさんが世話をして、梅と云う、十三になる小女を一人置いて、台所で子供の飯事ままごとのような真似をさせているだけなので、お玉は次第に話相手のない退屈を感じて、夕方になれば、早く檀那が来てくれればいと待つ心になって、それに気が附いて、自分で自分を笑うのである。

鳥越にいた時も、お父っさんが商売に出た後、お玉は留守に一人で内職をしていたが、もうこれだけ仕上げればいくらになる、そうしたらお父っさんが帰って驚くだろうと励んでいたので、近所の娘たちと親しくしないお玉も、退屈だと思ったことはなかったのである。

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鳥越にいた時も、お父っさんが商売に出た跡で、お玉は留守に独りで、内職をしていたが、もうこれだけ為上しあげれば幾らになる、そうしたらお父っさんが帰って驚くだろうと励んでいたので、近所の娘達と親しくしないお玉も、退屈だと思ったことはなかったのである。

それが暮らしの苦労がなくなると同時に、初めて退屈というものを知った。

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それが生活の上の苦労がなくなると同時に、始て退屈と云うことを知った。

それでもお玉の退屈は、夕方になると旦那が来て慰めてくれるから、まだいい。

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それでもお玉の退屈は、夕方になると、檀那が来て慰めてくれるから、まだ好い。

おかしいのは池の端へ越した爺さんの身の上で、これも暮らしに追われていたのが急に楽になり過ぎて、自分でも狐につままれたようだと思っている。

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可笑おかしいのは、池の端へ越した爺いさんの身の上で、これも渡世に追われていたのが、急に楽になり過ぎて、自分でもきつねつままれたようだと思っている。

そして小さいランプの下で、これまでお玉と世間話をして過ごした水入らずの晩が、過ぎ去った美しい夢のように恋しくてならない。

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そして小さいランプのしたで、これまでお玉と世間話をして過した水入らずの晩が、過ぎ去った、美しい夢のように恋しくてならない。

そしてお玉が訪ねて来そうなものだと、絶えずそればかり待っている。

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そしてお玉が尋ねて来そうなものだと、絶えずそればかり待っている。

ところがもうだいぶ日が経ったのに、お玉は一度も来ない。

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ところがもう大分だいぶ日が立ったのに、お玉は一度も来ない。

最初の一日二日の間、爺さんはきれいな家に入った嬉しさに、田舎出の女中には水汲みや飯炊きだけさせて、自分で片付けたり掃除をしたりし、ちょいちょい足りない物のあるのを思い出しては、女中を仲町へ走らせて買って来させた。

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最初一日二日の間、爺いさんは綺麗きれいな家に這入った嬉しさに、田舎出の女中には、水汲みずくみ飯炊めしたきだけさせて、自分で片附けたり、掃除をしたりして、ちょいちょい足らぬ物のあるのを思い出しては、女中を仲町へ走らせて、買って来させた。

それから夕方になると、女中が台所でことこと音をさせているのを聞きながら、肘掛け窓の外の高野槙の植えてある所に打ち水をして、たばこを吸いながら、上野の山で鴉が騒ぎ出し、中島の弁天の森や、蓮の花の咲いた池の上に、次第に夕靄が漂ってくるのを見ていた。

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それから夕方になると、女中が台所でことこと音をさせているのを聞きながら、肘掛窓ひじかけまどの外の高野槙こうやまきの植えてある所に打水をして、煙草をみながら、上野の山でからすが騒ぎ出して、中島の弁天の森や、はすの花の咲いた池の上に、次第に夕靄ゆうもやが漂って来るのを見ていた。

爺さんはありがたい、結構だとは思っていた。

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爺いさんは難有ありがたい、結構だとは思っていた。

しかしその時から、なんだか物足りないような気持ちがし始めた。

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しかしその時から、なんだか物足らぬような心持がし始めた。

それは赤子の時から自分一人の手で育てて、ほとんど物を言わなくても互いに意志が通じるようになっていたお玉、何事につけても優しくしてくれたお玉、外から帰って来れば待っていてくれたお玉がいないからである。

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それは赤子の時から、自分一人の手で育てて、殆ど物を言わなくても、互に意志を通じ得られるようになっていたお玉、何事につけても優しくしてくれたお玉、外から帰って来れば待っていてくれたお玉がいぬからである。

窓に座って、池の景色を見る。

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窓に据わっていて、池の景色を見る。

往来の人を見る。

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往来の人を見る。

今跳ねたのは大きな鯉だった。

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今跳ねたのは大きな鯉であった。

今通った西洋婦人の帽子には、鳥が一羽まるごと付けてあった。

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今通った西洋婦人の帽子には、鳥が一羽丸で附けてあった。

そのたびに、「お玉、あれを見い」

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その度毎に、「お玉あれを見い」

と言いたい。

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と云いたい。

それがいないのが物足りないのである。

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それがいないのが物足らぬのである。

三日四日となった頃には、次第に気がいらいらしてきて、女中がそばへ来て何かするのが気に障る。

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三日四日となった頃には、次第に気が苛々して来て、女中の傍へ来て何かするのが気に障る。

もう何十年も奉公人を使ったことがないのに、もともと優しい性分だから、小言は言わない。

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もう何十年か奉公人を使ったことがないのに、原来がんらい優しい性分だから、小言は言わない。

ただ女中のすることが一々自分の思うとおりにならないので、不平でならない。

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只女中のする事が一々自分の意志に合わぬので、不平でならない。

立ち居のおとなしい、何をしても物柔らかに当たるお玉と比べられるのだから、田舎から出たばかりの女中こそいい迷惑である。

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起居たちいのおとなしい、何をしても物にやわらかに当るお玉と比べて見られるのだから、田舎から出たばかりの女中こそい迷惑である。

とうとう四日目の朝飯の給仕をさせている時、汁椀の中へ親指を突っ込んだのを見て、「もう給仕はしなくてもいいから、あっちへ行っていておくれ」

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とうとう四日目の朝飯の給事きゅうじをさせている時、汁椀の中へ栂指おやゆびを突っ込んだのを見て、「もう給仕はしなくても好いから、あっちへ行っていておくれ」

と言ってしまった。

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と云ってしまった。

食事を済ませて窓から外を見ていると、空は曇っていても雨の降りそうな様子はなく、かえって晴れた日より暑くなくてよさそうなので、気を晴らそうと思って外へ出た。

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食事をしまって、窓から外を見ていると、空は曇っていても、雨の降りそうな様子もなく、かえって晴れた日よりは暑くなくて好さそうなので、気を晴そうと思って、外へ出た。

それでも、もし留守にお玉が来はしまいかと気遣って、我が家の門口を時々振り返って見ながら、池のそばを歩いている。

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それでもし留守にお玉が来はすまいかと気遣って、我家の門口かどぐちを折々振り返って見つつ、池のそばを歩いている。

そのうち、茅町と七軒町との間から無縁坂の方へ行く筋に、小さい橋の掛かっている所へ来た。

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そのうち茅町かやちょう七軒町しちけんちょうとの間から、無縁坂の方へ行く筋に、小さい橋の掛っているところに来た。

ちょっと娘の家へ行ってみようかと思ったが、なんだか改まったような気がして、我ながら不思議な遠慮がある。

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ちょっと娘の内へ行って見ようかと思ったが、なんだか改まったような気がして、我ながら不思議な遠慮がある。

これが女親だったら、こんな隔てはどんな場合にもできまいのに、不思議だ、不思議だと思いながら、橋を渡らずに、やはり池のそばを歩いている。

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これが女親であったら、こんな隔てはどんな場合にも出来まいのに、不思議だ、不思議だと思いながら、橋を渡らずに、矢張池の傍を歩いている。

ふと気がつくと、ちょうど末造の家がどぶの向こうにある。

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ふと心附くと、丁度末造の家がどぶの向うにある。

これは口入れの婆さんが、今度越して来た家の窓から指さして教えてくれたのである。

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これは口入くちいれの婆あさんが、こん度越して来た家の窓から、指さしをして教えてくれたのである。

見れば、なるほど立派な構えで、高い土塀の外回りに、そぎ竹が斜めに打ち付けてある。

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見れば、なる程立派なかまえで、高い土塀の外廻に、殺竹そぎだけななめに打ち附けてある。

福地さんという偉い学者の家だと聞いた隣の方は、広いことは広いが、建物も古く、こちらの家に比べるとけばけばしい所も厳めしげな所もない。

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福地さんと云う、えらい学者の家だと聞いた、隣の方は、広いことは広いが、建物も古く、こっちの家に比べると、けばけばしい所といかめしげな所とがない。

しばらく立ち止まって、昼も厳重に締め切ってある白木造りの裏門の扉を見ていたが、あの中へ入ってみたいと思う心は起こらなかった。

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暫く立ち留まって、昼も厳重に締め切ってある、白木造の裏門の扉を見ていたが、あの内へ這入って見たいと思う心は起らなかった。

しかし何をどう思うでもなく、一種のはかない、寂しい感じに襲われて、しばらくぼんやりしていた。

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しかし何をどう思うでもなく、一種のはかない、寂しい感じに襲われて、暫く茫然ぼうぜんとしていた。

言葉にあらわして言うなら、落ちぶれて娘を妾に出した親の感じ、とでも言うよりほかあるまい。

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詞にあらわして言ったら、落ちぶれて娘をめかけに出した親の感じとでも云うより外あるまい。

とうとう一週間経っても、まだ娘は来なかった。

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とうとう一週間立っても、まだ娘は来なかった。

恋しい、恋しいと思う念が内にこもるように奥深く潜んで、あいつは楽な身の上になって親のことを忘れたのではあるまいか、という疑いが頭をもたげてくる。

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恋しい、恋しいと思う念が、内攻するように奥深く潜んで、あいつ楽な身の上になって、親の事を忘れたのではあるまいかと云ううたがいが頭をもたげて来る。

この疑いは、仮にわざと起こしてみて、それをもてあそんでいるとでも言うべき、きわめて淡いもので、疑いは疑いながら、どうも娘を憎いとは思えない。

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この疑は仮に故意に起して見て、それをもてあそんでいるとでも云うべき、極めて淡いもので、疑いは疑いながら、どうも娘を憎く思われない。

ちょうど人に向かって物を言う時に使う反語のように、いっそ娘が憎くなったらよかろうと、心の上辺で思ってみるに過ぎない。

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丁度人に対して物を言う時に用いる反語のように、いっそ娘が憎くなったら好かろうと、心の上辺で思って見るに過ぎない。

それでも爺さんはこの頃になって、こんなことを思うことがある。

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それでも爺いさんはこの頃になって、こんな事を思うことがある。

家にばかりいるといろいろなことを思ってならないから、おれはこれから外へ出るが、その後へ娘が来て、おれに会えないのを残念がるだろう。

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内にばかりいると、いろんな事を思ってならないから、おれはこれから外へ出るが、跡へ娘が来て、己に逢われないのを残念がるだろう。

残念がらないにしたところで、せっかく来たのが無駄になったとだけは思うに違いない。

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残念がらないにしたところが、切角来たのが無駄になったとだけは思うに違いない。

そのくらいのことは思わせてやってもいい。

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その位な事は思わせて遣ってもい。

こんなことを思って出て行くようになったのである。

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こんな事を思って出て行くようになったのである。

上野公園に行って、ちょうど日陰になっているベンチを見つけて腰を休め、公園を通り抜ける、幌を掛けた人力車を見ながら、今頃留守の家へ娘が来て、まごまごしていはしないかと想像する。

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上野公園に行って、丁度日蔭ひかげになっている、ろは台を尋ねて腰を休めて、公園を通り抜ける、母衣ほろを掛けた人力車を見ながら、今頃留守へ娘が来て、まごまごしていはしないかと想像する。

この時の感じは、いい気味だと思ってみたいという、自分で自分を試してみるような感じである。

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この時の感じは、好い気味だと思って見たいと云う、自分で自分をためして見るような感じである。

この頃は夜も吹抜亭へ、円朝の話や駒之助の義太夫を聞きに行くことがある。

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この頃は夜も吹抜亭ふきぬきていへ、円朝の話や、駒之助こまのすけ義太夫ぎだゆうを聞きに行くことがある。

寄席にいても、やはり娘が留守に来ているだろうかという想像をする。

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寄席にいても、矢張娘が留守に来ているだろうかと云う想像をする。

そうかと思うと、またふいと娘がこの中に来てはいないかと思って、銀杏返しに結っている若い女を選り出すようにして見ることなどがある。

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そうかと思うと又ふいと娘がこの中に来ていはせぬかと思って、銀杏返しにっている、若い女をり出すようにして見ることなどがある。

一度などは、中入りが済んだ頃、その時代にはまだ珍しかったパナマ帽を目深にかぶった浴衣がけの男に連れられて、後ろの二階へ来て、手すりにつかまって座りしなに下の客を見下ろした銀杏返しの女を、一瞬の間お玉だと思ったことがある。

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一度なんぞは、中入なかいりが済んだ頃、その時代にまだ珍らしかった、パナマ帽を目深にかぶった、湯帷子掛ゆかたがけの男に連れられて、背後うしろの二階へ来て、手摩につかまって据わりしなに、下の客を見卸した、銀杏返しの女を、一刹那いっせつなの間お玉だと思った事がある。

よく見れば、お玉よりは顔が丸くて背が低い。

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好く見れば、お玉よりは顔が円くて背が低い。

それにパナマ帽の男は、その女ばかりでなく、後ろにまだ三人ばかりの島田やら桃割れやらを連れていた。

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それにパナマ帽の男は、その女ばかりではなく、背後うしろにまだ三人ばかりの島田やら桃割ももわれやらを連れていた。

みな芸者やお酌だった。

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皆芸者やお酌であった。

爺さんのそばにいた書生が、「や、吾曹先生が来た」

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爺いさんのそばにいた書生が、「や、吾曹ごそう先生が来た」

と言った。

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と云った。

寄席がはねて帰る時に見ると、赤く「ふきぬき亭」

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寄席がはねて帰る時に見ると、赤く「ふきぬき亭」

と斜めに書いた、柄の長い大きな提灯を一人の女が持って、芸者やお酌がぞろぞろ付いて、パナマ帽の男を送って行く。

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ななめに書いた、大きい柄の長い提灯ちょうちんを一人の女が持って、芸者やお酌がぞろぞろ附いて、パナマ帽の男を送って行く。

爺さんは自分の家の前まで、この一行と後になったり先になったりして帰った。

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爺いさんは自分の内の前まで、この一行と跡になったり、先になったりして帰った。

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お玉も、小さい時から別れて暮らしたことのない父親がどんな暮らしをしているか、行ってみたいとは思っている。

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お玉も小さい時から別れていたことのない父親が、どんな暮らしをしているか、って見たいとは思っている。

しかし旦那が毎日のように来るので、もし留守を空けていて機嫌を損じてはならないという心配から、一日一日と、思いながら父親の所へ訪ねて行かずに過ごすのである。

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しかし檀那だんなが毎日のように来るので、若し留守を明けていて、機嫌を損じてはならないと云う心配から、一日一日と、思いながら父親の所へ尋ねて行かずに過すのである。

旦那は朝までいることはない。

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檀那は朝までいることはない。

早い時は十一時頃に帰ってしまう。

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早い時は十一時頃に帰ってしまう。

また、今日はほかへ行かなくてはならないのだが、ちょっと寄ったと言って、箱火鉢の向こうに座り、たばこを吸って帰ることもある。

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又きょうはほかへ行かなくてはならぬのだが、ちょいと寄ったと云って、箱火鉢の向うに据わって、烟草を呑んで帰ることもある。

それでも、今日は旦那がきっと来ないと見極めのついた日というのがないので、思い切って出ることができない。

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それでもきょうは檀那がきっと来ないと見極めの附いた日というのがないので、思い切って出ることが出来ない。

昼間出れば出られないことはないはずだが、使っている小女が子供と言ってもいいくらいだから、何一つ任せておけない。

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昼間出れば出られぬことはない筈だが、使っている小女が子供と云っても好い位だから、何一つ任せて置かれない。

それに、なんだか近所の者に顔を見られるような気がして、昼間は外へ出たくない。

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それになんだか近所のものに顔を見られるような気がして、昼間は外へ出たくない。

初めのうちは坂下の湯に入りに行くにも、今頃は空いているか見て来ておくれと、小女に様子を見て来させた上で、そっと行ったくらいである。

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初のうちは坂下の湯に這入りに行くにも、今頃は透いているか見て来ておくれと、小女に様子を見て来させた上で、そっと行った位である。

何事もなくてもこんな風に臆しがちなお玉の、その肝をつぶさせる出来事が、越して来て三日目にあった。

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何事もなくても、こんな風におくれがちなお玉のきもをとりひしいだ事が、越して来てから三日目にあった。

それは、越した日に八百屋も魚屋も通帳を持って来て出入りを頼んだのに、その日は魚屋が来ないので、小さい梅を坂下へやって、何か切り身でも買って来させようとした時のことである。

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それは越した日に八百屋も、肴屋さかなや通帳かよいちょうを持って来て、出入でいりを頼んだのに、その日には肴屋が来ぬので、小さい梅を坂下へって、何か切身でも買って来させようとした時の事である。

お玉は毎日魚などが食べたいわけではない。

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お玉は毎日肴なんぞが食いたくはない。

酒を飲まない父が、体に障らないおかずでさえあれば何でもいいという性分だったから、有り合わせの物で御飯を食べる癖が付いていた。

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酒を飲まぬ父が体に障らぬおかずでさえあれば、なんでもいと云うたちだから、有り合せの物で御飯を食べる癖が附いていた。

しかし隣が近い貧乏所帯で、あの家では何日経っても生ぐさい物も食べないと言われたことがあったので、もし梅などが不満に思ってはならない、それでは手厚くしてくださる旦那に済まないというような心から、わざわざ坂下の魚屋へ見に行かせたのである。

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しかし隣の近い貧乏所帯で、あの家では幾日いくか立っても生腥気なまぐさけも食べぬと云われた事があったので、若し梅なんぞが不満足に思ってはならぬ、それでは手厚くして下さる檀那に済まぬというような心から、わざわざ坂下の肴屋へ見せに遣ったのである。

ところが、梅が泣き顔をして帰って来た。

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ところが、梅が泣顔をして帰って来た。

どうしたのかと尋ねると、こう言うのである。

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どうしたかと問うと、こう云うのである。

魚屋を見つけて入ったら、その家はうちへ通帳を持って来た家とは違う家だった。

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肴屋を見附けて這入ったら、その家はお内へかよいを持って来たのとは違った家であった。

御亭主がいなくて、おかみさんが店にいた。

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御亭主がいないで、かみさんが店にいた。

たぶん御亭主は河岸から帰って、店に置くだけの物を置いて、得意先を回りに出たのだろう。

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多分御亭主は河岸から帰って、店に置くだけの物を置いて、得意先きを廻りに出たのであろう。

店には新しそうな魚がたくさんあった。

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店に新しそうな肴が沢山あった。

梅は小鯵の色のいいのが一山あるのに目を付けて、値を聞いてみた。

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梅は小鯵こあじの色のいのが一山あるのに目を附けて、値を聞いて見た。

するとおかみさんが、「お前さんは見かけない女中さんだが、どこから買いにお出でだ」

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すると上さんが、「お前さんは見附けない女中さんだが、どこから買いにおいでだ」

と言ったので、これこれの家から来たと話した。

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と云ったので、これこれの内から来たと話した。

おかみさんは急にひどく不機嫌な顔をして、「おやそう、お前さん、お気の毒だが帰ってね、こう言いなさい、ここの家には高利貸の妾なんぞに売る魚はないのだから」

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上さんは急にひどく不機嫌な顔をして、「おやそう、お前さんお気の毒だが帰ってね、そうお云い、ここの内には高利貸の妾なんぞに売る肴はないのだから」

と言って、それきり横を向き、たばこを吸って相手にしてくれない。

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と云って、それきり横を向いて、烟草を呑んで構い附けない。

梅はあまり悔しいので、ほかの魚屋へ行く気もなくなって、駆けて帰った。

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梅は余り悔やしいので、外の肴屋へ行く気もなくなって、駈けて帰った。

そして主人の前で、気の毒そうに、魚屋のおかみさんの口上を切れ切れに繰り返したのである。

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そして主人の前で、気の毒そうに、肴屋の上さんの口上を、きれぎれに繰り返したのである。

お玉は聞いているうちに、顔の色が唇まで青くなった。

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お玉は聞いているうちに、顔の色がくちびるまであおくなった。

そしてやや長い間黙っていた。

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そしてやや久しく黙っていた。

世慣れない娘の胸の中で、込み入ったさまざまな感情が混沌をなし、自分でもその織り交ぜられた糸をほぐしてみることはできないが、その感情の入り乱れたままの全体が、売られた無垢の処女の心の上に強い圧力を加えて、体じゅうの血を心の臓へ流れ込ませ、顔は色を失い、背中には冷たい汗が出たのである。

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世馴れぬ娘の胸のうちで、込み入った種々の感情が chaosカオス をなして、自分でもその織り交ぜられた糸をほぐして見ることは出来ぬが、その感情の入り乱れたままの全体が、強い圧を売られた無垢むくの処女の心の上に加えて、体じゅうの血を心の臓に流れ込ませ、顔は色を失い、背中には冷たい汗が出たのである。

こんな時には、格別重大でないことが最初に意識されるものと見えて、お玉は、こんなことがあっては梅がもうこの家にはいられないと言うだろうか、とまず思った。

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こんな時には、格別重大でない事が、最初に意識せられるものと見えて、お玉はこんな事があっては梅がもうこの内にはいられぬと云うだろうかと先ず思った。

梅はじっと血の気の失せた主人の顔を見ていて、主人がひどく困っているということだけは察したが、何に困っているのか分からない。

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梅はじっと血色ちいろの亡くなった主人の顔を見ていて、主人がひどく困っていると云うことだけはさとったが、何に困っているのか分からない。

つい腹が立って帰っては来たものの、昼のおかずがまだないのに、このままにしていては済まないということに気がついた。

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つい腹が立って帰っては来たが、ひるのおさいがまだないのに、このままにしていては済まぬと云うことに気が付いた。

さっきもらって出て行った銭さえ、まだ帯の間に挟んだきり出さずにいるのだった。

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さっき貰って出て行ったおあしさえ、まだ帯の間にはさんだきりで出さずにいるのであった。

「ほんとにあんな嫌なおかみさんてありゃしないわ。あんな家のお魚を誰が買ってやるものか。もっと先の、小さいお稲荷さんのある近所にもう一軒ありますから、すぐに行って買って来ましょうね」

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「ほんとにあんないやなお上さんてありやしないわ。あんな内のお肴を誰が買って遣るものか。もっと先の、小さいお稲荷いなりさんのある近所に、もう一軒ありますから、すぐに行って買って来ましょうね」

慰めるようにお玉の顔を見て立ち上がる。

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慰めるようにお玉の顔を見て起ち上がる。

お玉は梅が自分の味方になってくれた一瞬の嬉しさに動かされて、反射的に微笑んでうなずく。

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お玉は梅が自分の身方になってくれた、刹那の嬉しさに動されて、反射的に微笑ほほえんでうなずく。

梅はすぐばたばたと出て行った。

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梅はすぐばたばたと出て行った。

お玉は後にそのまま動かずにいる。

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お玉は跡にそのまま動かずにいる。

気の張りが少し緩んで、次第に湧いてくる涙があふれそうになるので、袂からハンカチを出して押さえた。

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気のはりが少しゆるんで、次第にいて来る涙があふれそうになるので、たもとからハンカチイフを出して押えた。

胸の内には、ただ悔しい、悔しいという叫びが聞こえる。

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胸の内には只悔やしい、悔やしいと云う叫びが聞える。

これがあの混沌としたものの発する声である。

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これがかの混沌こんとんとした物の発する声である。

魚屋が売ってくれないのが憎いとか、売ってくれないような身の上だと知って悔しいとか悲しいとか言うのでないのはもちろんだが、身を任せることになっている末造が高利貸だったと分かって、その末造を憎むとか、そういう男に身を任せているのが悔しいとか悲しいとか言うのでもない。

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肴屋が売ってくれぬのが憎いとか、売ってくれぬような身の上だと知って悔やしいとか、悲しいとか云うのでないことは勿論であるが、身を任せることになっている末造が高利貸であったと分かって、その末造を憎むとか、そう云う男に身を任せているのが悔やしいとか、悲しいとか云うのでもない。

お玉も、高利貸は嫌なもの、こわいもの、世間の人に嫌われるものとはほのかに聞き知っているが、父親が質屋の金しか借りたことがなく、それも借りたい金高を番頭が因業で貸してくれないことがあっても、父親はただ困ると言うだけで番頭を無理だと言って怨んだこともないくらいだから、子供が鬼をこわがり、おまわりさんをこわがるのと同じように、高利貸というこわいものの存在を教えられていても、別に痛切な感じは持っていない。

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お玉も高利貸は厭なもの、こわいもの、世間の人に嫌われるものとは、ほのかに聞き知っているが、父親が質屋の金しか借りたことがなく、それも借りたい金高きんだかを番頭が因業で貸してくれぬことがあっても、父親は只困ると云うだけで番頭を無理だと云って怨んだこともない位だから、子供が鬼がこわい、お廻りさんがこわいのと同じように、高利貸と云う、こわいものの存在ぞんざいを教えられていても、別に痛切な感じは持っていない。

それなら何が悔しいのだろう。

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そんなら何が悔やしいのだろう。

そもそもお玉の持っている悔しいという概念には、世を怨み人を恨む意味がはなはだ薄い。

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一体お玉の持っている悔やしいと云う概念には、世を怨み人を恨む意味が甚だ薄い。

強いて何かを怨む意味があるとするなら、それは我が身の運命を怨むのだとでも言おうか。

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強いて何物をか怨む意味があるとするなら、それは我身の運命を怨むのだとでも云おうか。

自分が何の悪いこともしていないのに、よそから迫害を受けなくてはならないようになる。

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自分が何の悪い事もしていぬのに、余所よそから迫害を受けなくてはならぬようになる。

それを苦痛として感じる。

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それを苦痛として感ずる。

悔しいとは、この苦痛を指すのである。

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悔やしいとはこの苦痛をすのである。

自分が人にだまされて捨てられたと思った時、お玉は初めて悔しいと言った。

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自分が人にだまされて棄てられたと思った時、お玉は始て悔やしいと云った。

それからついこの間、妾というものにならなくてはならないことになった時、また悔しいを繰り返した。

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それからたったこの間妾と云うものにならなくてはならぬ事になった時、又悔やしいを繰り返した。

今はそれがただ妾というだけでなく、人の嫌う高利貸の妾でさえあったと知って、昨日今日「時間」

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今はそれが只妾と云うだけでなくて、人の嫌う高利貸の妾でさえあったと知って、きのうきょう「時間」

の歯で噛まれて角がつぶれ、「あきらめ」

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の歯でまれてかどつぶれ、「あきらめ」

の水で洗われて色のあせた「悔しさ」

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の水で洗われて色のめた「悔やしさ」

が、再びはっきりした輪郭と強い色彩をもって、お玉の心の目に現われた。

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が、再びはっきりした輪廓りんかく、強い色彩をして、お玉の心の目に現われた。

お玉の胸にこり固まっているものの本体は、強いて筋道を立ててみれば、まずこんなものででもあろうか。

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お玉が胸に鬱結うっけつしている物の本体は、強いて条理を立てて見れば先ずこんな物ででもあろうか。

しばらくするとお玉は立って押入れを開け、象皮まがいの鞄から、自分で縫った白い金巾の前掛けを出して腰に結び、深い溜息をついて台所へ出た。

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しばらくするとお玉は起って押入を開けて、象皮賽ぞうひまがいかばんから、自分で縫った白金巾しろかなきんの前掛を出して腰に結んで、深い溜息ためいきいて台所へ出た。

同じ前掛けでも、絹のはこの女にとって一種の晴れ着になっていて、台所へ出る時には掛けないことにしてある。

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同じ前掛でも、絹のはこの女の為めに、一種の晴着になっていて、台所へ出る時には掛けぬことにしてある。

彼女は浴衣にさえ襟垢の付くのを嫌って、鬢や髱の触れる襟の所へ手拭いを折り掛けておくくらいである。

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かれは湯帷子ゆかたにさえ領垢えりあかの附くのをいとって、鬢やたぼの障る襟の所へ、手拭てぬぐいを折り掛けて置く位である。

お玉はこの時、もうよほど落ち着いていた。

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お玉はこの時もう余程落ち着いていた。

あきらめはこの女が最も多く経験している心の働きで、彼女の精神はこの方角へなら、油をさした機械のように滑らかに動く習慣になっている。

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あきらめはこの女の最も多く経験している心的作用で、かれの精神はこの方角へなら、油をさした機関のように、なめらかに働く習慣になっている。

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じゅう

ある日の晩のことだった。

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或る日の晩の事であった。

末造が来て箱火鉢の向こうに座った。

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末造が来て箱火鉢の向うに据わった。

初めての晩から、お玉はいつも末造が入って来るのを見ると、座布団を出して箱火鉢の向こうに敷く。

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始ての晩からお玉はいつも末造の這入はいって来るのを見ると、座布団を出して、箱火鉢の向うに敷く。

末造はその上にあぐらをかいて、たばこを吸いながら世間話をする。

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末造はその上に胡坐あぐらを掻いて、烟草たばこを飲みながら世間話をする。

お玉は手持ち無沙汰なように、普段自分のいる場所にいて、火鉢の縁を撫でたり火箸をいじったりしながら、恥ずかしそうに、言葉数少なく受け答えをしている。

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お玉は手持不沙汰なように、不断自分のいる所にいて、火鉢のへりでたり、火箸ひばしをいじったりしながら、恥かしげに、詞数ことばかず少く受答うけこたえをしている。

その様子は、火鉢から離れて座らせたら身の置き所に困りはしまいかと思われるほどである。

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その様子が火鉢から離れて据わらせたら、身の置所に困りはすまいかと思われるようである。

火鉢という胸壁に拠って、辛うじて敵に当たっていると言ってもいいくらいである。

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火鉢と云う胸壁むなかべって、僅かに敵に当っていると云っても好い位である。

しばらく話しているうちに、お玉はふと調子づいて長い話をする。

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暫く話しているうちに、お玉はふと調子附いて長い話をする。

それはたいてい、これまで父親と二人で暮らしてきた何年かの間に経てきた、小さな喜怒哀楽に過ぎない。

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それが大抵これまで父親と二人で暮していた、何年かの間にけみして来た、小さい喜怒哀楽に過ぎない。

末造はその話の中身を聴くよりも、籠に飼ってある鈴虫の鳴くのでも聞くように、可愛らしいさえずりの声を聞いて、思わず微笑む。

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末造はその話の内容を聴くよりは、かごに飼ってある鈴虫の鳴くのをでも聞くように、可哀らしいさえずりの声を聞いて、覚えず微笑む。

その時お玉はふいと自分がしゃべっているのに気がついて、顔を赤くし、急に話を切り上げて、元の言葉数の少ない受け答えに戻ってしまう。

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その時お玉はふいと自分の饒舌しゃべっているのに気が附いて、顔を赤くして、急に話を端折はしょって、元の詞数の少い対話に戻ってしまう。

そのすべての言葉と振る舞いがいかにも無邪気で、ある方面ではたいそう鋭い観察をすることに慣れている末造の目で見れば、澄み切った水盤の水を見るように、隅々まで隠れる所もなく見渡すことができる。

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その総ての言語挙動が、いかにも無邪気で、或る向きにはすこぶる鋭利な観察をすることに慣れている末造の目で見れば、澄み切った水盤の水を見るように、隅々まで隠れる所もなく見渡すことが出来る。

こういう差し向かいの味は、末造にとっては、手足を働かせた後で加減のいい湯に入り、じっとして温まっているように愉快である。

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こう云う差向いの味は、末造がためには、手足を働かせた跡で、加減のい湯に這入って、じっとしてあたたまっているように愉快である。

そしてこの味を味わうのが末造にとってはまったく新しい経験なので、末造はこの家に通い始めてから、猛獣が人に馴れるように、意識せずに一種の教化を受けているのである。

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そしてこの味を味うのが、末造がためには全く新しい経験に属するので、末造はこの家に通い始めてから、猛獣が人に馴れるように、意識せずに一種の cultureキュルチュウル を受けているのである。

それに三四日経った頃から、自分がいつものように箱火鉢の向こうにあぐらをかくと、お玉はこれという用もないのに立ち働いたりして、とかく落ち着かなくなったのに、末造はだんだん気がついてきた。

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それに三四日立った頃から、自分が例の通りに箱火鉢の向うに胡坐を掻くと、お玉はこれと云う用もないに立ち働いたり何かして、とかく落ち着かぬようになったのに、末造は段々気が附いて来た。

はにかんで目を見合わせないようにしたり、返事を手間取らせたりすることは最初にもあったが、今晩などの素振りには何か特別な事情がありそうである。

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はにかんで目を見合せぬようにしたり、返事を手間取らせたりすることは最初にもあったが、今晩なんぞの素振には何か特別な仔細しさいがありそうである。

「おい、お前、何か考えているね」

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「おい、お前何か考えているね」

と、末造がきせるにたばこを詰めながら言った。

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と、末造が烟管きせるに烟草を詰めつつ云った。

わざわざ片付けてあるような箱火鉢の抽斗を半分抜いて、探すものもないのに中を覗き込んでいたお玉は、「いいえ」

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わざわざ片附けてあるような箱火鉢の抽斗ひきだしを、半分抜いて、捜すものもないのに、中を見込んでいたお玉は、「いいえ」

と言って、大きい目を末造の顔に注いだ。

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と云って、大きい目を末造の顔に注いだ。

昔話の神秘は知らず、あまり大した秘密などしまっておけそうな目ではない。

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昔話の神秘は知らず、余り大した秘密なんぞをしまって置かれそうな目ではない。

末造は思わずしかめていた顔を、また思わず晴れやかにせずにはいられなかった。

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末造は覚えずしかめていた顔を、又覚えず晴やかにせずにはいられなかった。

「いいえじゃあないぜ。困っちまう、どうしよう、どうしようと、ちゃんと顔に書いてあらあ」

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「いいえじゃあないぜ。困っちまう。どうしよう。どうしようと、ちゃんと顔に書いてあらあ」

お玉の顔はすぐに真っ赤になった。

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お玉の顔はすぐに真っ赤になった。

そしてしばらく黙っている。

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そしてしばらく黙っている。

どう言おうかと考える。

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どう言おうかと考える。

細かい器械の動きが透き通って見えるようである。

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細かい器械の運転が透き通って見えるようである。

「あの、父の所へとうから行ってみよう、行ってみようと思っていながら、もうずいぶん長くなりましたものですから」

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「あの、父の所へうから行って見よう、行って見ようと思っていながら、もう随分長くなりましたもんですから」

細かい器械がどう動くかは見えても、何をするかは見えない。

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細かい器械がどう動くかは見えても、何をするかは見えない。

常に自分より大きい、強いものの迫害を避けなくてはいられない虫は、擬態を持っている。

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常に自分より大きい、強い物の迫害を避けなくてはいられぬ虫は、mimicryミミクリイ を持っている。

女は嘘をつく。

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女は嘘を衝く。

末造は顔で笑って、叱るような物の言い方をした。

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末造は顔で笑って、叱るような物の言様いいようをした。

「なんだ。つい鼻の先の池の端に越して来ているのに、まだ行ってみないでいたのか。向かいの岩崎の屋敷のことなんぞを思えば、同じ家にいるようなものだぜ。今からだって、行こうと思えば行けるのだが、まあ、あすの朝にするがいい」

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「なんだ。つい鼻の先の池の端に越して来ているのに、まだ行って見ないでいたのか。向いの岩崎のやしきの事なんぞを思えば、同じ内にいるようなものだぜ。今からだって、行こうと思えば行けるのだが、まあ、あすの朝にするがい」

お玉は火箸で灰をいじりながら、盗むように末造の顔を見ている。

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お玉は火箸で灰をいじりながら、ぬすむように末造の顔を見ている。

「でも、いろいろと思ってみますものですから」

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「でもいろいろと思って見ますものですから」

「冗談じゃないぜ。そのくらいのことを、どう思ってみようもないじゃないか。いつまでねんねえでいるのだい」

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笑談じょうだんじゃないぜ。その位な事を、どう思って見ようもないじゃないか。いつまでねんねえでいるのだい」

今度は声も優しかった。

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こん度は声も優しかった。

この話はこれだけで済んだ。

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この話はこれだけで済んだ。

とうとうしまいには末造が、そんなに億劫がるようなら、自分が朝出掛けて来て、四五町の道を連れて行ってやろうか、などとも言った。

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とうとうしまいには末造が、そんなにおっくうがるようなら、自分が朝出掛けて来て、四五町の道を連れて行って遣ろうかなどとも云った。

お玉はこの頃、いろいろに思ってみた。

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お玉はこの頃種々に思って見た。

旦那に会って、頼もしげな、気の利いた、優しい様子を目の前に見て、この人がどうしてそんな嫌な商売をするのかと不思議に思ったり、何とか話をして堅気な商売になってもらうことはできまいかと、無理なことを考えたりしていた。

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檀那に逢って、頼もしげな、気の利いた、優しい様子を目の前に見て、この人がどうしてそんな、厭な商売をするのかと、不思議に思ったり、なんとか話をして、堅気な商売になって貰うことは出来まいかと、無理な事を考えたりしていた。

しかしまだ嫌な人だとは少しも思わなかった。

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しかしまだ厭な人だとは少しも思わなかった。

末造はお玉の心の底に何か隠しているものがあるのをかすかに感じ取って、探りを入れてみたが、子供らしい、何でもないことだと言うのだった。

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末造はお玉の心の底に、何か隠している物のあるのをかすかに認めて、探りを入れて見たが、子供らしい、なんでもない事だと云うのであった。

しかし十一時過ぎにこの家を出て、無縁坂をぶらぶら降りながら考えてみれば、どうもまだその奥に何かが潜んでいそうである。

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しかし十一時過ぎにこの家を出て、無縁坂をぶらぶらりながら考えて見れば、どうもまだその奥に何物かが潜んでいそうである。

末造の物慣れた鋭い観察は、この何かをまるで見逃してはいないのである。

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末造の物馴れた、鋭い観察は、この何物かをまるで見遁みのがしてはおらぬのである。

少なくとも、何か気まずい感情を起こさせるようなことを、誰かがお玉に話したのではあるまいか、というところまで末造は推測をたくましくしてみた。

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少くも或る気まずい感情を起させるような事を、たれかがお玉に話したのではあるまいかとまで、末造は推測をたくましゅうして見た。

それでも、誰が何を言ったのかは、とうとう分からずじまいだった。

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それでも誰が何を言ったかは、とうとう分からずにしまった。

拾壱

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拾壱じゅういち

翌朝お玉が池の端の父親の家に来た時、父親はちょうど朝飯を食べ終えた所だった。

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翌朝お玉が、池の端の父親の家に来た時は、父親は丁度朝飯あさはんを食べてしまった所であった。

化粧に手間を取らないお玉が、少し早過ぎはしないかと思いながら急いで来たのだが、早起きの老人はもう門口をきれいに掃いて、打ち水をして、それから手足を洗い、新しい畳の上に上がって、いつもの寂しい食事を済ませた所だった。

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化粧の手間を取らないお玉が、ちと早過ぎはせぬかと思いながら、急いで来たのだが、早起の老人はもう門口かどぐちを綺麗に掃いて、打水をして、それから手足を洗って、新しい畳の上に上がって、いつもの寂しい食事を済ませた所であった。

二三軒隔てて近頃は待合もできていて、夕方になれば騒がしい時もあるが、両隣は同じように格子戸の閉まった家で、殊に朝のうちはあたりがひっそりしている。

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二三軒隔てては、近頃待合も出来ていて、夕方になれば騒がしい時があるが、両隣は同じように格子戸の締まった家で、殊に朝のうちは、あたりがひっそりしている。

肘掛け窓から外を見れば、高野槙の枝の間から、爽やかな朝風にかすかに揺れている柳の糸と、その向こうの池一面に茂っている蓮の葉とが見える。

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肱掛窓ひじかけまどから外を見れば、高野槙の枝の間から、さわやかな朝風に、微かに揺れている柳の糸と、その向うの池一面に茂っているはすの葉とが見える。

そしてその緑の中に、所々に薄い紅を点じたように、今朝開いた花も見えている。

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そしてその緑の中に、所所に薄いべにを点じたように、今朝けさ開いた花も見えている。

北向きの家で寒くはあるまいかという話はあったが、夏は求めても住みたい所である。

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北向の家で寒くはあるまいかと云う話はあったが、夏は求めても住みたい所である。

お玉は物の分かる年になってから、もし身に幸せが向いてきたら、お父っさんをああもしてあげたい、こうもしてあげたいといろいろに思ってもみたが、今目の前に見るように、こんな家にこうして住まわせてあげられれば、日頃の願いがかなったと言ってもいいと、嬉しく思わずにはいられなかった。

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お玉は物をわきまえるようになってから、若し身に為合しあわせが向いて来たら、お父っさんをああもして上げたい、こうもして上げたいと、色々に思っても見たが、今目の前に見るように、こんな家にこうして住まわせて上げれば、平生のねがいかなったのだと云ってもいと、嬉しく思わずにはいられなかった。

しかしその嬉しさには一滴の苦いものが混じっている。

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しかしその嬉しさには一滴の苦い物が交っている。

それがなくて今朝お父っさんに会うのだったら、どんなに嬉しいだろうと、つくづく世の中のままならないのをじれったくも思うのである。

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それがなくて、けさお父っさんに逢うのだったら、どんなにか嬉しかろうと、つくづく世の中のままならぬを、じれったくも思うのである。

箸を置いて、湯呑みに注いだ茶を飲んでいた爺さんは、まだかつて人の訪れたことのない門の戸が開いた時、はっと思って、湯呑みを下に置いて上がり口の方を見た。

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箸を置いて、湯呑みにいだ茶を飲んでいた爺いさんは、まだついぞ人のおとずれたことのないかどの戸のいた時、はっと思って、湯呑を下に置いて、上り口の方を見た。

二枚折りの葭簀屏風にまだ姿を遮られているうちに、「お父っさん」

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二枚折の葭簀屏風よしずびょうぶにまだ姿の遮られているうちに、「お父っさん」

と呼んだお玉の声が聞こえた時は、すぐに立って出迎えたいような気がしたのを、じっとこらえて座っていた。

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と呼んだお玉の声が聞えた時は、すぐにって出迎えたいような気がしたのを、じっとこらえて据わっていた。

そして何と言ってやろうかと、心の内であわただしく思案をした。

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そしてなんと云って遣ろうかと、心の内にせわしい思案をした。

「よくお父っさんのことを忘れずにいたなあ」

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「好くお父っさんの事を忘れずにいたなあ」

とでも言おうかと思ったが、そこへ急いで入って来て、懐かしそうにそばへ来た娘を見ては、どうもそんな言葉は口に出せなくなって、自分で自分を不満足に思いながら、黙って娘の顔を見ていた。

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とでも云おうかと思ったが、そこへ急いで這入はいって来て、懐かしげにそばに来た娘を見ては、どうもそんなことばは口に出されなくなって、自分で自分を不満足に思いながら、黙って娘の顔を見ていた。

まあ、何という美しい子だろう。

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まあ、なんと云う美しい子だろう。

日頃から自慢に思って、貧しい中にも荒い仕事をさせず、身ぎれいにさせておいたつもりではあったが、十日ばかり見ずにいるうちに、まるで生まれ変わって来たようである。

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不断から自慢に思って、貧しい中にも荒い事をさせずに、身綺麗にさせて置いた積ではあったが、十日ばかり見ずにいるうちに、まるで生れ替って来たようである。

どんなに忙しい暮らしをしていても、本能のように、肌に垢の付くようなことはしていなかった娘ではあるが、意識して体を磨くようになっている昨日今日に比べてみれば、爺さんの記憶にあるお玉の姿は、まだ磨かれない原石のままだった。

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どんないそがしい暮らしをしていても、本能のように、肌に垢の附くような事はしていなかった娘ではあるが、意識して体を磨くようになっているきのうきょうに比べて見れば、爺いさんの記憶にあるお玉の姿は、まだあらたまのままであった。

親が子を見ても、老人が若い者を見ても、美しいものは美しい。

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親が子を見ても、老人が若いものを見ても、美しいものは美しい。

そして美しいものが人の心を和らげる威力の前には、親だって、老人だって屈せずにはいられない。

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そして美しいものが人の心を和げる威力のもとには、親だって、老人だって屈せずにはいられない。

わざと黙っている爺さんは、渋い顔をしているつもりだったが、不本意ながら、つい表情を和らげてしまった。

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わざと黙っている爺いさんは、渋い顔をしている積であったが、不本意ながら、つい気色けしきを和げてしまった。

お玉も、新しい境遇に身を委ねたために、これまで小さい時から一日も別れたことのない父親を、会いたい会いたいと思いながら十日も見ずにいたのだから、話そうと思って来たことも、しばらくは口に出すことができずに、嬉しそうに父親の顔を見ていた。

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お玉も新らしい境遇に身をゆだねた為めに、これまで小さい時から一日も別れていたことのない父親を、逢いたい逢いたいと思いながら、十日も見ずにいたのだから、話そうと思って来た事も、暫くは口に出すことが出来ずに、嬉しげに父親の顔を見ていた。

「もうお膳を下げてよろしゅうございましょうか」

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「もうお膳を下げましてよろしゅうございましょうか」

と、女中が勝手から顔を出して、尻上がりの早口で言った。

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と、女中が勝手から顔を出して、尻上がりの早言はやことに云った。

馴染みのないお玉には、何と言ったのか聞き取れない。

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馴染なじみのないお玉には、なんと云ったか聞き取れない。

髪を櫛巻きにした小さい頭の下に太った顔が付いているのが、いかにも不釣り合いである。

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髪を櫛巻くしまきにした小さい頭の下に太った顔の附いているのが、いかにも不釣合である。

そしてその顔が不遠慮に、さも驚いたようにお玉を見つめている。

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そしてその顔が不遠慮に、さも驚いたように、お玉を目守まもっている。

「早くお膳を下げて、お茶を入れ替えて来るのだ。あの棚にある青い方のお茶だ」

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「早くお膳を下げて、お茶を入れ替えて来るのだ。あの棚にある青い分のお茶だ」

爺さんはこう言って、膳を前へ突き出した。

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爺いさんはこう云って、膳を前へ衝き出した。

女中は膳を持って勝手へ入った。

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女中は膳を持って勝手へ這入った。

「あら。いいお茶なんかいただかなくてもいいのに」

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「あら。いお茶なんか戴かなくってもいのだから」

「馬鹿を言え。お茶請けもあるのだ」

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「馬鹿言え。お茶受もあるのだ」

爺さんは立って、押入れからブリキの缶を出し、菓子鉢へ玉子煎餅を盛っている。

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爺いさんは起って、押入からブリキのかんを出して、菓子鉢へ玉子煎餅せんべいを盛っている。

「これは宝丹のすぐ裏の家でこしらえているのだ。この辺は便利のいい所で、そのそばの横町には如燕の佃煮もある」

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「これは宝丹のじき裏の内でこしらえているのだ。この辺は便利のい所で、そのそばの横町には如燕じょえん佃煮つくだにもある」

「まあ。あの柳原の寄席へお父っさんと聞きに行った時、何かご馳走の話をして、そのうまきこと、おれの店の佃煮の如しと言って、みんなを笑わせましたっけね。本当に福々しいお爺さんね。高座へ出ると、いきなりお尻をくるっとまくって座るのですもの。わたくし、おかしくって。お父っさんもあんなにお太りになるといいわ」

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「まあ。あの柳原の寄席へ、お父っさんと聞きに行った時、何か御馳走のお話をして、そのうまきこと、おれの店の佃煮の如しと云って、みんなを笑わせましたっけね。本当に福福しいお爺いさんね。高座へ出ると、きなりお尻をくるっとまくって据わるのですもの。わたくし可笑おかしくって。お父っさんもあんなにお太りなさるようだといわ」

「如燕のように太ってたまるものか」

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「如燕のように太ってたまるものか」

と言いながら、爺さんは煎餅を娘の前へ出した。

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と云いながら、爺いさんは煎餅を娘の前へ出した。

そのうち茶が来たので、親子は昨日も一昨日も一緒にいた者のように、取り留めのない話をしていた。

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そのうち茶が来たので、親子はきのうもおとついも一しょにいたもののように、取留のない話をしていた。

爺さんがふと、何か言いにくいことを言うように、こう言った。

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爺いさんがふと何か言いにくい事を言うように、こう云った。

「どうだい、具合は。旦那は時々お出でになるかい」

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「どうだい、工合は。檀那は折々お出になるかい」

「ええ」

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「ええ」

とお玉は言ったきり、ちょっと返事にまごついた。

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とお玉は云ったぎり、ちょいと返事にまごついた。

末造の来るのは時々どころではない。

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末造の来るのは折々どころではない。

毎晩顔を出さないことはない。

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毎晩顔を出さないことはない。

これが嫁に行ったので、折り合いがいいかと聞かれたのなら、たいそういいから安心してくださいと、晴れ晴れと返事ができるのだろう。

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これがよめに往ったので、折合がいかと問われたのなら、大層好いから安心して下さいと、晴れ晴れと返事が出来るのだろう。

それがこうした身の上とあっては、どうも旦那が毎晩お出でになるとは、気がとがめて言いにくい。

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それがこうした身の上で見れば、どうも檀那が毎晩お出になるとは、気がとがめて言いにくい。

お玉はしばらく考えて、「まあ、いい具合のようですから、お父っさん、お案じなさらなくてもようございますわ」

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お玉は暫く考えて、「まあ、好い工合のようですから、お父っさん、お案じなさらなくってもござんすわ」

と言った。

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と云った。

「それならいいが」

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「そんならいが」

と爺さんは言ったが、娘の答えにどこか物足りない所があるのを感じた。

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と爺いさんは云ったが、娘の答にどこやら物足らぬ所のあるのを感じた。

問う人も答える人も、無意識にあいまいな言い方で物を言うようになったのである。

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問う人も、答える人も無意識に含糊がんこたいをなして物を言うようになったのである。

これまで何事も打ち明け合って、互いの間に秘密というものを持ったことのない二人が、嫌でも秘密のあるらしい、他人行儀のやり取りをしなくてはならなくなったのである。

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これまで何事も打ち明け合って、お互の間に秘密と云うものを持っていたことのない二人が、厭でも秘密のあるらしい、他人行儀の挨拶をしなくてはならなくなったのである。

前に悪い婿を取ってだまされた時などは、近所の人に面目ないとは思っても、親子ともに胸の底には非は向こうにあるという気持ちがあったので、互いに話をするのに少しも遠慮はしなかった。

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前に悪いむこを取って騙された時なんぞは、近所の人に面目めんぼくないとは思っても、親子共胸の底にはきょくかれに在りと云う心持があったので、互に話をし合うには、少しも遠慮はしなかった。

その時とは違って、親子は一旦決心してまとめた話がうまくまとまり、不自由のない身の上になっていながら、今は親しい会話の上に暗い影のさす、悲しい味を知ったのである。

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その時とは違って、親子は一旦決心してまとめた話が旨く纏まって、不自由のない身の上になっていながら、今は親しい会話の上に、暗い影のさす、悲しい味を知ったのである。

しばらくして爺さんは、何か娘の口から具体的な返事が聞きたいような気がしたので、「いったいどんな方だい」

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暫くして爺いさんは、何か娘の口から具体的な返事が聞きたいような気がしたので、「一体どんな方だい」

と、また新しい方角から尋ねてみた。

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と、又新しい方角から問うて見た。

「そうね」

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「そうね」

と言って、お玉は首をかしげていたが、独り言のような調子で言い足した。

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と云って、お玉は首をかしげていたが、独語ひとりごとのような調子で言い足した。

「どうも悪い人だとは思えませんわ。まだ日も経たないのだけれど、荒い言葉なんぞは掛けないのですもの」

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「どうも悪い人だとは思われませんわ。まだ日も立たないのだけれども、荒い詞なんぞは掛けないのですもの」

「ふん」

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「ふん」

と言って、爺さんは納得のいかないような顔をした。

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と云って、爺いさんは得心のかぬような顔をした。

「悪い人のはずはないじゃないか」

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「悪い人の筈はないじゃないか」

お玉は父親と顔を見合わせて、急に動悸がするのを覚えた。

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お玉は父親と顔を見合せて、急に動悸どうきのするのを覚えた。

今日話そうと思って来たことを、話すなら今がいい折だとは思いながら、せっかく暮らしを楽にして安心させようとしている父親に、新しい苦痛を感じさせるのがつらいからである。

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きょう話そうと思って来た事を、話せば今がい折だとは思いながら、切角暮らしを楽にして、安心をさせようとしている父親に、新しい苦痛を感ぜさせるのがつらいからである。

そう思ったので、お玉は父親との隔たりが大きくなるような不快をこらえて、日陰者という秘密の奥にもう一つある秘密を、ここまで持って来たまま蓋を開けずに、そっくり持って帰ろうと、際どい所で決心し、話をよそへ逸らしてしまった。

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そう思ったので、お玉は父親との隔たりの大きくなるような不快を忍んで、日影ひかげものと云う秘密の奥に、今一つある秘密を、ここまで持って来たままふたを開けずに、そっくり持って帰ろうと、際どい所で決心して、話を余所にらしてしまった。

「だって、ずいぶんいろいろなことをして、一代のうちに身代をこしらえた人だと言うのですから、わたくし、どんな気立ての人だか分からないと思って心配していたのですわ。そうですね、何と言ったらいいでしょう。まあ、男気のある人という風でございますの。真底からそんな人なのかどうか、それはなかなか分からないのですけれど、人にそう見せようと心掛けて何か言ったりしたりしている人のようね。ねえ、お父っさん。心掛けだけだって、そういうのはいいじゃございませんか」

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「だって随分いろいろな事をして、一代のうちに身上しんしょうを拵えた人だと云うのですから、わたくしどんな気立の人だか分からないと思って、心配していたのですわ。そうですね。なんと云ったらいでしょう。まあ、おとこ気のある人と云う風でございますの。真底からそんな人なのだか、それはなかなか分からないのですけれど、人にそう見せようと心掛けて何か言ったりしたりしている人のようね。ねえ、お父っさん。心掛ばかりだってそんなのは好いじゃございませんか」

こう言って、父親の顔を見上げた。

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こう云って、父親の顔を見上げた。

女はどんな正直な女でも、その時心に持っていることを隠してほかのことを言うのを、男ほど苦にしはしない。

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女はどんな正直な女でも、その時心に持っている事を隠して、外の事を言うのを、男程苦にしはしない。

そしてそういう場合に言葉数が多くなるのは、女としてはよほど正直なのだと言ってもいいかも知れない。

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そしてそう云う場合に詞数の多くなるのは、女としては余程正直なのだと云っても好いかも知れない。

「さあ。それはそんなものかも知れないな。だが、なんだかお前、旦那を信用していないような物の言い方をするじゃないか」

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「さあ。それはそんな物かも知れないな。だが、なんだかお前、檀那を信用していないような、物の言いようをするじゃないか」

お玉はにっこりした。

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お玉はにっこりした。

「わたくし、これでだんだん偉くなってよ。これからは人に馬鹿にされてばかりはいないつもりなの。豪気でしょう」

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「わたくしこれで段々えらくなってよ。これからは人に馬鹿にせられてばかりはいない積なの。豪気ごうぎでしょう」

父親は、おとなしい一方の娘が珍しく矛先を自分に向けたように感じて、不安そうな顔をして娘を見た。

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父親はおとなしい一方の娘が、めずらしくほこさきを自分に向けたように感じて、不安らしい顔をして娘を見た。

「うん。おれはずいぶん人に馬鹿にされ通しに馬鹿にされて、世の中を渡ったものだ。だがな、人をだますよりは、人にだまされている方が気が安い。何の商売をしても、人に不義理をしないように、恩になった人を大事にするようにしていなくてはならないぞ」

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「うん。おれは随分人に馬鹿にせられ通しに馬鹿にせられて、世の中を渡ったものだ。だがな、人を騙すよりは、人に騙されている方が、気が安い。なんの商売をしても、人に不義理をしないように、恩になった人を大事にするようにしていなくてはならないぜ」

「大丈夫よ。お父っさんがいつも、たあ坊は正直だからと言ったでしょう。わたくし、まったく正直なの。ですけれど、この頃つくづくそう思ってよ。もう人にだまされることだけは御免を蒙りたいわ。わたくし、嘘をついたり人をだましたりなんかしない代わりには、人にだまされもしないつもりなの」

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「大丈夫よ。お父っさんがいつも、たあ坊は正直だからとそう云ったでしょう。わたくし全く正直なの。ですけれど、この頃つくづくそう思ってよ。もう人に騙されることだけは、御免をこうむりたいわ。わたくし嘘を衝いたり、人を騙したりなんかしないかわりには、人に騙されもしない積なの」

「それで、旦那の言うこともうかとは信用しないと言うのかい」

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「そこで檀那の言うことも、うかとは信用しないと云うのかい」

「そうなの。あの方はわたくしをまるで赤ん坊のように思っていますの。それはあんな目から鼻へ抜けるような人ですから、そう思うのも無理はないのですけれど、わたくし、これでもあの人が思うほど赤ん坊ではないつもりなの」

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「そうなの。あの方はわたくしをまるで赤ん坊のように思っていますの。それはあんな目から鼻へ抜けるような人ですから、そう思うのも無理はないのですけれど、わたくしこれでもあの人の思う程赤ん坊ではない積なの」

「では何かい。これまで旦那のおっしゃったことに、本当でなかったことでもあったのに、お前が気がついたとでも言うのかい」

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「では何かい。何かこれまで檀那のおっしゃった事に、本当でなかった事でもあったのを、お前が気が附いたとでも云うのかい」

「それはあってよ。あの婆さんが度々そう言ったでしょう。あの人は奥さんが子供を置いて亡くなったのだから、あの人の世話になるのは、本妻ではなくても本妻と同じことだ、ただ世間体があるから、裏長屋にいた者を家に入れることはできないのだ、と言ったのね。ところが奥さんがちゃんといるの。自分で平気でそう言うのですもの。わたくし、びっくりしてよ」

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「それはあってよ。あの婆あさんが度々そう云ったでしょう。あの人は奥さんが子供を置いて亡くなったのだから、あの人の世話になるのは、本妻ではなくっても、本妻も同じ事だ。只世間体があるから、裏店うらだなにいたものを内に入れることは出来ないのだと云ったのね。ところが奥さんがちゃあんとあるの。自分で平気でそう云うのですもの。わたくしびっくりしてよ」

爺さんは目を大きくした。

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爺いさんは目を大きくした。

「そうかい。やっぱり仲人口だなあ」

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「そうかい。ぱり媒人口なこうどぐちだなあ」

「ですから、わたくしのことは奥さんにはごく内証にしているのでしょう。奥さんに嘘をつくくらいですから、わたくしにだって本当ばかり言ってはいませんわ。わたくし、眉毛に唾を付けていなくちゃあ」

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「ですから、わたくしの事を奥さんにはごくの内証にしているのでしょう。奥さんに嘘を衝く位ですから、わたくしにだって本当ばかし云っていやしませんわ。わたくし眉毛につばを附けていなくちゃあ」

爺さんは吸ってしまったたばこの吸い殻をはたくのも忘れて、なんだか急に偉くなったような娘の様子をぼんやり眺めていると、娘は急に思い出したように言った。

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爺いさんは飲んでしまった烟草の吸殻をはたくのも忘れて、なんだか急にえらくなったような娘の様子をぼんやりと眺めていると、娘は急に思い出した様に云った。

「わたくし、今日はもう帰ってよ。こうして一度来てみれば、もう何でもなくなったから、これからはお父っさんの所へ毎日のように様子を見に来てあげるわ。実はあの人が行けと言わないうちに来ては悪いかと思って、遠慮していたの。とうとうゆうべそう言って断っておいて、今朝来たのだわ。わたくしの所へ来た女中は、それは子供で、お昼の支度だって、わたくしが帰って手伝ってやらなくてはできないの」

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「わたくしきょうはもう帰ってよ。こうして一度来て見れば、もうなんでもなくなったから、これからはお父っさんとこへ毎日のように見に来て上げるわ。実はあの人がけと云わないうちに来ては悪いかと思って、遠慮していたの。とうとうゆうべそう云ってことわって置いて、けさ来たのだわ。わたくしの所へ来た女中は、それは子供で、おひるの支度だって、わたくしが帰って手伝って遣らなくては出来ないの」

「旦那に断って来たのなら、昼もこっちで食べて行けばいい」

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「檀那にことわって来たのなら、午もこっちで食べて行けばい」

「いいえ。不用心ですわ。またすぐ出掛けて来てよ。お父っさん、さようなら」

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「いいえ。不用心ですわ。またすぐ出掛けて来てよ。お父っさん。さようなら」

お玉が立ち上がったとたんに、女中が慌てて履物を直しに出た。

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お玉が立ち上がるとたんに、女中が慌てて履物を直しに出た。

気が利かないようでも、女は女に出会えば観察をせずにはおかない。

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気が利かぬようでも、女は女に遭遇して観察をせずには置かない。

道で行き合っても、女は自分の競争者としてほかの女を見る、とある哲学者は言った。

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道でき合っても、女は自己の競争者として外の女を見ると、或る哲学者は云った。

汁椀の中へ親指を突っ込む田舎出の女でも、美しいお玉を気にして立ち聞きをしていたものと見える。

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汁椀の中へ親指を衝っ込む山出しの女でも、美しいお玉を気にして、立聴たちぎきをしていたものと見える。

「じゃあ、また来るがいい。旦那によろしく言ってくれ」

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「じゃあ又来るが好い。檀那に宜しく言ってくれ」

爺さんは座ったままこう言った。

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爺いさんは据わったままこう云った。

お玉は小さい紙入れを黒繻子の帯の間から出して、いくらか紙にひねって女中にやっておいて、駒下駄を引っ掛け、格子戸の外へ出た。

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お玉は小さい紙入を黒襦子くろじゅすの帯の間から出して、幾らか紙にひねって女中に遣って置いて、駒下駄を引っ掛けて、格子戸の外へ出た。

頼りに思う父親に苦しい胸を訴えて、一緒に不幸を嘆くつもりで入った門を、我ながら不思議なほど元気よくお玉は出た。

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たよりに思う父親に、苦しい胸を訴えて、一しょに不幸を歎く積で這入ったかどを、我ながら不思議な程、元気好くお玉は出た。

せっかく安心している父親に余計な苦労を掛けたくない、それよりは自分を強く、丈夫に見せてやりたいと努力して話しているうちに、これまで自分の胸の中に眠っていた何かが目を覚ましたような、これまで人に頼っていた自分が思いがけず独立したような気持ちになって、お玉は不忍の池のほとりを晴れやかな顔をして歩いている。

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切角安心している父親に、余計な苦労を掛けたくない、それよりは自分を強く、丈夫に見せて遣りたいと、努力して話をしているうちに、これまで自分の胸のうちに眠っていた或る物が醒覚せいかくしたような、これまで人にたよっていた自分が、思い掛けず独立したような気になって、お玉は不忍の池のほとりを、晴やかな顔をして歩いている。

もう上野の山をだいぶ外れた日がかっと照って、中島の弁天の社を真っ赤に染めているのに、お玉は持って来た小さいこうもり傘もささずに歩いているのである。

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もう上野の山をだいぶはずれた日がくわっと照って、中島の弁天のやしろを真っ赤に染めているのに、お玉は持って来た、小さい蝙蝠こうもりをもさずに歩いているのである。

拾弐

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拾弐じゅうに

ある晩、末造が無縁坂から帰ってみると、お上さんはもう子供を寝かしつけて、自分だけ起きていた。

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或る晩末造が無縁坂から帰って見ると、お上さんがもう子供を寝かして、自分だけ起きていた。

いつもなら子供が寝ると自分も一緒に横になるのに、その晩は座ったままうつむき加減になっていて、末造が蚊帳の中に入って来たのを知っていながら、振り向いても見ない。

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いつも子供が寝ると、自分も一しょに横になっているのが、その晩は据わって俯向うつむき加減になっていて、末造が蚊屋かやの中に這入って来たのを知っていながら、振り向いても見ない。

末造の床は一番奥の壁際に、少し離して取ってある。

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末造の床は一番奥の壁際に、少し離して取ってある。

その枕元には座布団が敷いてあって、煙草盆と茶道具とが置いてある。

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その枕元には座布団が敷いて、烟草盆と茶道具とが置いてある。

末造は座布団の上に座って、煙草に火をつけながら、優しい声で言った。

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末造は座布団の上に据わって、烟草を吸い附けながら、優しい声で云った。

「どうしたのだ。まだ寝ないでいるね」

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「どうしたのだ。まだないでいるね」

お上さんは黙っている。

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お上さんは黙っている。

末造も二度と譲歩しようとはしない。

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末造も再び譲歩しようとはしない。

こちらから和解を持ちかけたのに相手が応じないなら、それまでの事だと思って、わざと平気な顔で煙草を吸っている。

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こっちから媾和こうわを持ち出したに、彼が応ぜぬなら、それまでの事だと思って、わざと平気で烟草をんでいる。

「あなた、今までどこにいたんです」

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「あなた今までどこにいたんです」

お上さんは突然頭を持ち上げて、末造を見た。

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お上さんは突然頭を持ち上げて、末造を見た。

奉公人を置くようになってから、だんだん言葉づかいを上品にしてきたのだが、差し向かいになるとぞんざいになる。

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奉公人を置くようになってから、次第に詞を上品にしたのだが、差向いになると、ぞんざいになる。

かろうじて「あなた」

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ようよう「あなた」

だけが保たれている。

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だけが維持せられている。

末造は鋭い目でちらりと女房を見たが、何とも言わない。

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末造は鋭い目で一目女房を見たが、なんとも云わない。

女房が何かしら知ったらしいとは分かっても、その知識がどこまで及んでいるのかを測りかねるので、何とも言うことができない。

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何等なにらかの知識を女房が得たらしいとは認めても、その知識の範囲を測り知ることが出来ぬので、なんとも云うことが出来ない。

末造はむやみに口をきいて、相手に材料を与えてやるような男ではない。

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末造はみだりに語って、相手に材料を供給するような男ではない。

「もう何もかも分かっています」

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「もう何もかも分かっています」

鋭い声である。

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鋭い声である。

そして終わりの方は泣き声になりかけている。

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そして末の方は泣声になり掛かっている。

「変な事を言うなあ。何が分かったのだい」

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「変な事を言うなあ。何が分かったのだい」

いかにも思いがけない事に出くわしたという調子で、声はいたわるように優しい。

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さも意外な事に遭遇したと云うような調子で、声はいたわるように優しい。

「ひどいじゃありませんか。よくもそんなにしらばくれていられるものですね」

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「ひどいじゃありませんか。好くそんなにしらばっくれていられる事ね」

夫が落ち着いているのが、かえって強い刺激になって効くので、お上さんは声が切れ切れになり、湧いてくる涙を襦袢の袖で拭いている。

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夫の落ち着いているのが、かえって強い刺戟しげきのように利くので、上さんは声が切れ切れになって、いて来る涙を襦袢じゅばんの袖でふいている。

「困るなあ。まあ、何なのか言ってみろよ。まるっきり見当がつかない」

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「困るなあ。まあ、なんだかそう云って見ねえ。まるっきり見当が附かない」

「あら。そんな事を。今夜どこにいたのだか、わたしに言ってくださいと言っているのに。あなた、よくもそんな真似ができたものですね。わたしには商用があるの何のと言っておいて、囲い者なんぞをこしらえて」

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「あら。そんな事を。今夜どこにいたのだか、わたしにそう云って下さいと云っているのに。あなた好くそんな真似が出来た事ね。わたしには商用があるのなんのと云って置いて、囲物なんぞを拵えて」

鼻の低い赤ら顔が涙で茹でたようになったところに、崩れた丸髷の鬢の毛がひと握りへばりついている。

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鼻の低い赤ら顔が、涙ででたようになったのに、こわれた丸髷まるまげびんの毛が一握ひとにぎりへばり附いている。

潤んだ細い目を無理に大きく見開いて末造の顔を見ていたが、ずっとそばへにじり寄って、金天狗の吸いさしをつまんでいた末造の手に、力いっぱいしがみついた。

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潤んだ細い目を、無理に大きくみはって、末造の顔を見ていたが、ずっと傍へいざり寄って、金天狗きんてんぐの燃えさしをつまんでいた末造の手に、力一ぱいしがみ附いた。

「よせ」

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せ」

と言って、末造はその手を振り放し、畳の上に散った煙草の火種を揉み消した。

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と云って、末造はその手を振り放して、畳の上に散った烟草の燃えさしをみ消した。

お上さんはしゃくり上げながら、また末造の手にしがみついた。

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お上さんはしゃくり上げながら、又末造の手にしがみ附いた。

「どこにあなたのような人がいるでしょうか。いくらお金ができたって、自分ばかり旦那顔をして、女房には着物一つこしらえてもくれずに、子供の世話をさせておいて、いい気になって妾狂いをするなんて」

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「どこにだって、あなたのような人があるでしょうか。いくらお金が出来たって、自分ばかり檀那顔だんながおをして、女房には着物一つ拵えてはくれずに、子供の世話をさせて置いて、い気になって妾狂めかけぐるいをするなんて」

「よせと言っているのに」

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「廃せと云えば」

末造はもう一度女房の手を振り放した。

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末造は再び女房の手を振り放した。

「子供が目を覚ますじゃないか。それに女中部屋にも聞こえる」

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「子供が目を覚すじゃないか。それに女中部屋にも聞える」

押し殺した声に力を込めて言ったのである。

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かすめた声に力を入れて云ったのである。

末の子が寝返りを打って、何か寝ぼけて言ったので、お上さんも思わず声を低くして、「一体わたしはどうすればいいのでしょう」

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末の子が寝返りをして、何か夢中で言ったので、お上さんも覚えず声を低うして、「一体わたしどうすればいのでしょう」

と言って、今度は末造の胸のあたりに顔を押しつけて、しくしく泣いている。

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と云って、今度は末造の胸の所に顔を押し附けて、しくしく泣いている。

「どうするにも及ばないのだ。お前が人がいいものだから、人にたきつけられたのだ。妾だの、囲い者だのって、誰がそんな事を言ったのだい」

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「どうするにも及ばないのだ。お前が人がいもんだから、人にき附けられたのだ。妾だの、囲物だのって、たれがそんな事を言ったのだい」

こう言いながら、末造は崩れた丸髷がぶるぶる震えているのを見て、醜い女はなぜ似合わない丸髷を結いたがるものだろうと、気楽な問題を考えた。

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こう云いながら、末造はこわれた丸髷のぶるぶる震えているのを見て、醜い女はなぜ似合わない丸髷を結いたがるものだろうと、気楽な問題を考えた。

そして丸髷の震えが次第に細かく刻むようになると同時に、どの子供にも十分な乳を与えてきた大きな乳房が、懐炉を抱いたようにみぞおちのあたりに押しつけられるのを感じながら、末造は「誰が言ったのだ」

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そして丸髷の震動が次第に細かく刻むようになると同時に、どの子供にも十分の食料を供給した、大きい乳房が、懐炉を抱いたように水落みずおちあたりに押し附けられるのを末造は感じながら、「誰が言ったのだ」

と繰り返した。

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と繰り返した。

「誰だっていいじゃありませんか。本当なんだから」

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「誰だって好いじゃありませんか。本当なんだから」

乳房の圧力はいよいよ強くなってくる。

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乳房の圧はいよいよ加わって来る。

「本当でないから、誰でもいいというわけにはいかないのだ。誰なのか言え」

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「本当でないから、誰でも好くはないのだ。誰だかそう云え」

「そりゃ言ったってかまいませんとも。魚金のお上さんなの」

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「それは言ったってかまいませんとも。魚金うおきんのお上さんなの」

「なんだ、まるで狸が物を言うようで、分かりゃしない。むにゃむにゃのむにゃむにゃさんなの、とはなんだい」

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「なにまるでたぬきが物を言うようで、分かりゃあしない。むにゃむにゃのむにゃむにゃさんなのとはなんだい」

お上さんは顔を末造の胸から離して、悔しそうに笑った。

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お上さんは顔を末造の胸から離して、悔やしそうに笑った。

「魚金のお上さんだと、そう言っているじゃありませんか」

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「魚金のお上さんだと、そう云っているじゃありませんか」

「うん。あいつか。おおかたそんな事だろうと思った」

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「うん。あいつか。おお方そんな事だろうと思った」

末造は優しい目をして、逆上したような女房の顔を見ながら、静かに金天狗に火をつけた。

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末造は優しい目をして、女房の逆上したような顔を見ながら、しずかに金天狗に火を附けた。

「新聞屋なんかがよく社会の制裁だの何のと言うが、おれはその社会の制裁とやらを見た事がない。ことによると、あの噂好きなんかが、その制裁とやらかも知れない。近所じゅうのおせっかいをやきやがる。あんな奴の言う事を真に受けてたまるものか。おれが今、本当の事を言って聞かせてやるから、よく聞いていろ」

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「新聞屋なんかが好く社会の制裁だのなんのと云うが、己はその社会の制裁と云う奴を見た事がねえ。どうかしたら、あの金棒引なんかが、その制裁と云う奴かも知れねえ。近所中のおせっかいをしやがる。あんな奴の言う事をに受けてたまるものか。己が今本当の事を云って聞してるから、好く聞いていろ」

お上さんの頭は霧がかかったようにぼうっとしているが、もしや騙されるのではあるまいかという疑いだけは冴えている。

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お上さんの頭は霧が掛かったように、ぼうっとしているが、もしやだまされるのではあるまいかと云う猜疑さいぎだけはめている。

それでも熱心に末造の顔を見て、謹んで聞いている。

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それでも熱心に末造の顔を見て謹聴している。

今、社会の制裁という事を言われた時もそうだが、いつでも末造が新聞で読んだ難しい言葉を使って何か言うと、お上さんは気後れがして、分からないなりに屈服してしまうのである。

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今社会の制裁と云うことを言われた時もそうであるが、いつでも末造が新聞で読んだ、むずかしい詞を使って何か言うと、お上さんは気おくれがして、分からぬなりに屈服してしまうのである。

末造は時々煙草を吸って煙を吹きながら、やはり女房の顔を暗示するようにじっと見て、こんな事を言っている。

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末造は折々烟草を呑んでけぶりを吹きながら、矢張やはり女房の顔を暗示するようにじっと見て、こんな事を言っている。

「ほら、お前も知っているだろう。まだ大学があっちにあった頃、よく家に来た吉田さんという人がいたな。あの金縁の眼鏡をかけて、べらべらした着物を着ていた人だよ。あれが千葉の病院へ行っているが、おれの方の勘定はまだ二年や三年じゃ片がつかないんだ。あの吉田さんが寄宿舎にいた時からできていた女で、この間まで七曲りの店を借りて住まわせてあったのだ。最初は月々きまって仕送りをしていたところが、今年になってから手紙もよこさなければ、金もよこさない。そこで女が、先方へ掛け合ってくれと言っておれに頼んだのだ。どうしておれを知っているかと思うだろうが、吉田さんは、たびたびおれの家へ来ると人目について困るからと言って、おれを七曲りの家へ呼んで、証文の書き換えの話なんぞをした事がある。その時から女がおれを知っていたのだ。おれも随分迷惑な話だが、ついでだから掛け合ってやったよ。ところがなかなか片がつかない。女はしつこく頼む。おれはとんだ奴に引っかかったと思って持て余しているのだ。おまけに小綺麗な所で店賃の安い所へ越したいから世話をしてくれと言うので、切通しの質屋の隠居がいた跡へ、面倒を見て越させてやった。それやこれやで、この間からちょいちょい寄って、煙草を二、三服吸った事があるものだから、近所の奴があれこれ言いやがるのだろう。隣は女の子を集めて裁縫の師匠をしているというのだから、口はうるさいさ。あんな所に女を囲っておく馬鹿があるものか」

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「それ、お前も知っているだろう。まだ大学があっちにあった頃、好く内に来た吉田さんと云うのがいたなあ。あの金縁目金きんぶちめがねを掛けて、べらべらした着物を着ていた人よ。あれが千葉の病院へ行っているが、まだ己の方の勘定が二年や三年じゃあらちが明かねえんだ。あの吉田さんが寄宿舎にいた時から出来ていた女で、こないだまで七曲ななまがりのたなを借りて入れてあったのだ。最初は月々まって為送しおくりをしていたところが、今年になってから手紙もよこさなけりゃ、金もよこさねえ。そこで女が先方へ掛け合ってくれろと云って己に頼んだのだ。どうして己を知っているかと思うだろうが、吉田さんは度々己の内へ来ると人の目に附いて困るからと云って、己を七曲の内へ呼んで書換の話なんぞをした事がある。その時から女が己を知っていたのだ。己も随分迷惑な話だが、ついでだから掛け合って遣ったよ。ところがなかなか埒は明かねえ。女はしつっこく頼む。己は飛んだ奴に引っ掛かったと思って持て扱っているのだ。おまけ小綺麗こぎれいな所で店賃の安い所へ越したいから、世話をしてくれろと云うので、切通しの質屋の隠居のいた跡へ、面倒を見て越させて遣った。それやこれやで、こないだからちょいちょい寄って、烟草を二三服呑んだ事があるもんだから、近所の奴がかれこれ言やあがるのだろう。隣は女の子を集めて、為立物の師匠をしていると云うのだから、口はうるさいやな。あんな所に女を囲って置く馬鹿があるものか」

こんな事を言って、末造は見下したように笑った。

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こんな事を言って、末造はさげすんだように笑った。

お上さんは小さい目を輝かせて熱心に聞いていたが、この時、甘えたような調子でこう言った。

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お上さんは小さい目をかがやかして、熱心に聞いていたが、この時甘えたような調子でこう云った。

「それはお前さんの言うとおりかも知れないけれど、そんな女の所へたびたび行くうちには、どうなるか知れたものじゃありゃしない。どうせお金で自由になるような女だもの」

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「それはお前さんの云う通りかも知れないけれど、そんな女の所へ度々行くうちには、どうなるか知れたものじゃありゃしない。どうせお金で自由になるような女だもの」

お上さんはいつのまにか「あなた」

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お上さんはいつか「あなた」

を忘れている。

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を忘れている。

「馬鹿を言え。おれはお前というものがあるのに、ほかの女に手を出すような人間かい。これまでだって、女をどうしたという事が、ただの一度でもあったかい。もうお互いに焼き餅喧嘩をする年でもあるまい。いい加減にしろ」

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「馬鹿言え。己がお前と云うものがあるのに、ほかの女に手を出すような人間かい。これまでだって、女をどうしたと云うことが、只の一度でもあったかい。もうお互に焼餅喧嘩やきもちげんかをする年でもあるめえ。好い加減にしろ」

末造は思いのほか楽に言い訳が功を奏したと思って、心の中で勝ちどきを上げている。

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末造は存外容易に弁解が功を奏したと思って、心中に凱歌がいかを歌っている。

「だって、お前さんのようにしている人を、女は好くものだから、わたしは心配なのさ」

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「だってお前さんのようにしている人を、女は好くものだから、わたしゃあ心配さ」

「へん。わが仏尊し、という奴だ」

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「へん。あが仏尊しと云う奴だ」

「どういう意味なの」

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「どう云うわけなの」

「おれのような男を好いてくれるのは、お前ばかりだという事さ。なんだ、もう一時を過ぎている。寝よう、寝よう」

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「己のような男を好いてくれるのは、お前ばかりだと云うことよ。なんだ。もう一時を過ぎている。寝よう寝よう」

拾参

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拾参じゅうさん

本当の事とこしらえ事とをより合わせた末造の言い訳が、ひとまずお上さんの嫉妬の火を消したように見えても、その効き目はもちろん一時しのぎでしかないのだから、無縁坂の上に現に存在している物が依然として存在している限りは、陰口や当てこすりの絶えることはない。

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真実と作為とを綯交ないまぜにした末造の言分けが、一時いちじお上さんの嫉妬しっとの火を消したようでも、その効果は勿論もちろん palliatifパリアチイフ なのだから、無縁坂上に実在している物が、依然実在しているかぎりは、蔭口かげぐちやら壁訴訟やらの絶えることはない。

それが女中の口から、「今日も誰それが旦那様の格子戸にお入りになるのを見たそうでございます」

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それが女中の口から、「今日も何某なにがしが檀那様の格子戸にお這入になるのを見たそうでございます」

というような言葉になって、お上さんの耳に届く。

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と云うような詞になって、お上さんの耳に届く。

しかし末造は言い訳に困らない。

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しかし末造は言分けには窮せない。

商用とやらが、そう決まって晩方にあるものではあるまい、と言えば、「金を借りる相談を朝っぱらからする奴があるものか」

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商用とやらが、そう極まって晩方にあるものではあるまいと云えば、「金をかりる相談を朝っぱらからする奴があるものか」

と言う。

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と云う。

なぜ今までは今のようでなかったのか、と言えば、「それは商売を手広くやり出す前の事だ」

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なぜこれまでは今のようでなかったかと云えば、「それは商売を手広に遣り出さない前の事だ」

と言う。

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と云う。

末造は池の端へ越すまでは何もかも一人でしていたのに、今は住まいの近所に事務所めいたものを置いてあるほか、竜泉寺町にまで出張所とでもいうような家があって、学生がいわゆる金策のために遠道を歩かなくても済むようにしてある。

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末造は池の端へ越すまでは、何もかも一人でしていたのに、今は住まいの近所に事務所めいたものが置いてある外に、竜泉寺町りゅうせんじまちにまで出張所とでも云うような家があって、学生が所謂いわゆる金策のために、遠道を踏まなくても済むようにしてある。

根津で金の要る者は事務所へ駆けつける。

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根津で金のいるものは事務所に駈け附ける。

吉原で要る者は出張所へ駆けつける。

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吉原でいるものは出張所に駈け附ける。

のちには吉原の西の宮という引手茶屋と末造の出張所とが気脈を通じていて、出張所が承知していれば、金がなくても遊べるようになっていた。

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のちには吉原の西の宮と云う引手茶屋と、末造の出張所とは気脈を通じていて、出張所で承知していれば、金がなくても遊ばれるようになっていた。

まるで遊蕩のための兵站が編成されていたようなものである。

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宛然えんぜんたる遊蕩ゆうとう兵站へいたんが編成せられていたのである。

末造夫婦は、不和の度合いを新たに一段進めるほどの衝突もせずに、一月ばかりを暮らしていた。

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末造夫婦はあらたに不調和の階級を進める程の衝突をせずに、一月ばかりも暮していた。

つまりその間は末造の詭弁が功を奏していたのである。

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つまりそのあいだは末造の詭弁きべんが功を奏していたのである。

ところがある日、思いがけない方角から破綻が生じた。

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然るに或る日意外な辺から破綻はたんが生じた。

幸い夫が家にいるので、朝の涼しいうちに買物をして来ると言って、お常は女中を連れて広小路まで行った。

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さいわい夫が内にいるので、朝の涼しいうちに買物をして来ると云って、お常は女中を連れて広小路まで行った。

その帰りに仲町を通りかかると、後ろから女中が袂をそっと引く。

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その帰りに仲町を通り掛かると、背後うしろから女中がたもとをそっと引く。

「なんだい」

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「なんだい」

と叱るように言って、女中の顔を見る。

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と叱るように云って、女中の顔を見る。

女中は黙って左側の店に立っている女を指さす。

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女中は黙って左側の店に立っている女を指さす。

お常はしぶしぶそちらを見て、思わず足を止める。

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お常はしぶしぶその方を見て、覚えず足をめる。

そのとたんに女は振り返る。

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そのとたんに女は振り返る。

お常とその女とは顔を見合わせたのである。

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お常とその女とは顔を見合せたのである。

お常は最初、芸者かと思った。

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お常は最初芸者かと思った。

もし芸者なら、数寄屋町にこの女ほどどこもかしこも整って美しいのは、ほかにあるまいと、あわただしい合間に判断した。

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若し芸者なら、数寄屋町すきやまちにこの女程どこもかしこもそろって美しいのは、外にあるまいと、せわしい暇に判断した。

しかし次の瞬間には、この女が芸者の持っている何物かを持っていないのに気がついた。

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しかし次の瞬間には、この女が芸者の持っている何物かを持っていないのに気が附いた。

その何物かをお常は言い表すことができない。

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その何物かはお常には名状することは出来ない。

それを説明しようとすれば、身のこなしの誇張とでも言おうか。

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それを説明しようとすれば、態度の誇張とでも云おうか。

芸者は着物を格好よく着る。

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芸者は着物をい恰好に着る。

その格好のよさには必ずいくらかの誇張がある。

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その好い恰好は必ず幾分か誇張せられる。

誇張があるから、おとなしさというものが失われる。

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誇張せられるから、おとなしいと云う所が失われる。

お常の目に、何物かが無いと感じられたのは、この誇張である。

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お常の目に何物かが無いと感ぜられたのは、この誇張である。

店の前の女は、そばを通り過ぎる誰かが足を止めたのをほとんど意識せずに感じ取って振り返ってみたが、その通り過ぎる人に何ら注意を引く点も見出さなかったので、こうもり傘を少し内側へ回して膝の間に寄せ掛け、帯の間から出して持っていた小さながま口の中を、首をかがめて覗き込んだ。

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店の前の女は、傍を通り過ぎる誰やらが足を駐めたのを、殆ど意識せずに感じて、振り返って見たが、その通り過ぎる人の上に、なんの注意すべき点をも見出さなかったので、蝙蝠傘を少し内廻転をさせたひざの間に寄せ掛けて、帯の間から出して持っていた、小さい蝦蟇口がまぐちの中を、うなじかがめてのぞき込んだ。

小銭を探しているのである。

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小さい銀貨を捜しているのである。

店は仲町の南側の「たしがらや」

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店は仲町の南側の「たしがらや」

であった。

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であった。

「たしがらや、逆さに読めばやらかした」

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「たしがらやさかさに読めばやらかした」

と誰かが言い出した、珍しい屋号のこの店では、金文字を印刷した赤い紙袋に入れた歯磨きを売っていた。

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と、何者かの言い出した、珍らしい屋号のこの店には、金字を印刷した、赤い紙袋に入れた、歯磨を売っていた。

まだ練り歯磨きなどが輸入されていなかったその頃、上等でざらつかない製品といえば、牡丹の香りのする岸田の花王散と、このたしがらやの歯磨きとであった。

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まだ錬歯磨なんぞの舶来していなかったその頃、上等のざら附かない製品は、牡丹ぼたんにおいのする、岸田の花王散と、このたしがらやの歯磨とであった。

店の前の女は他でもない。

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店の前の女は別人でない。

朝早く父親の所を訪ねた帰りに、歯磨きを買いに寄ったお玉であった。

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朝早く父親の所を訪ねた帰りに、歯磨を買いに寄ったお玉であった。

お常が四、五歩通り過ぎた時、女中がささやいた。

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お常が四五歩通り過ぎた時、女中がささやいた。

「奥さん。あれですよ。無縁坂の女は」

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「奥さん。あれですよ。無縁坂の女は」

黙ってうなずいただけで、この言葉がお常に格別の効果を与えなかったので、女中は意外に思った。

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黙ってうなずいたお常には、この詞が格別の効果を与えないので、女中は意外に思った。

あの女は芸者ではないと思うのと同時に、お常は本能的に、無縁坂の女だと悟っていたのである。

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あの女は芸者ではないと思うと同時に、お常は本能的に無縁坂の女だと云うことをさとっていたのである。

それには、女中がただ美しい女がいるというだけで袖を引いて教えたりはしないはずだ、という判断も手伝っているが、もう一つ思いがけない事が影響している。

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それには女中が只美しい女がいると云うだけで、袖を引いて教えはしない筈だと云う判断も手伝っているが、今一つ意外な事が影響している。

それはお玉が膝の所に寄せ掛けていたこうもり傘である。

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それはお玉が膝の所に寄せ掛けていた蝙蝠傘である。

もう一月あまり前の事であった。

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もう一月余り前の事であった。

夫がある日横浜から帰って、みやげにこうもりの日傘を買って来た。

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夫が或る日横浜から帰って、みやげに蝙蝠の日傘を買って来た。

柄がひどく長くて、張ってある布は割合に小さい。

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柄がひどく長くて、張ってある切れが割合に小さい。

背の高い西洋の女が手に持って遊ばせるにはよかろうが、ずんぐりむっくりしたお常が持ってみると、極端に言えば、物干し竿の先におむつを引っ掛けて持ったようである。

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背の高い西洋の女が手に持っておもちゃにするには好かろうが、ずんぐりむっくりしたお常が持って見ると、極端に言えば、物干竿ものほしざおさきへおむつを引っ掛けて持ったようである。

それでそのまま差さずにしまっておいた。

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それでそのまま差さずにしまって置いた。

その傘は白地に、細かい弁慶縞のような柄が藍で染め出してあった。

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その傘は白地に細かい弁慶縞べんけいじまのようなかたが、あいで染め出してあった。

たしがらやの店にいた女のこうもり傘がそれと同じだということを、お常ははっきり見て取った。

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たしがらやの店にいた女の蝙蝠傘がそれと同じだと云うことを、お常ははっきり認めた。

酒屋の角を池の方へ曲がる時、女中が機嫌を取るように言った。

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酒屋の角を池の方へ曲がる時、女中が機嫌を取るように云った。

「ねえ、奥さん。そんなにいい女じゃありませんでしょう。顔が平べったくて、いやに背が高くて」

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「ねえ、奥さん。そんなに好い女じゃありませんでしょう。顔が平べったくて、いやに背が高くて」

「そんな事を言うものじゃないよ」

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「そんな事を言うものじゃないよ」

と言ったきり、相手にならずにずんずん歩く。

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と云ったぎり、相手にならずにずんずん歩く。

女中は当てがはずれて、不平そうな顔をしてついて行く。

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女中は当がはずれて、不平らしい顔をして附いてく。

お常はただ胸の中が湧き返るようで、何一つはっきり考えることができない。

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お常は只胸のうちき返るようで、何事をもはっきり考えることが出来ない。

夫に対してどうしよう、何と言おうという思案もない。

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夫に対してどうしよう、なんと云おうと云う思案も無い。

そのくせ、早く夫にぶつかって何とか言わずにはいられないような気がする。

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その癖早く夫にっ附かって、なんとか云わなくてはいられぬような気がする。

そしてこんな事を思う。

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そしてこんな事を思う。

あのこうもり傘を買って来てもらった時、わたしはどんなに喜んだだろう。

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あの蝙蝠傘を買って来て貰った時、わたしはどんなにか喜んだだろう。

これまで、こちらから頼みもしないのに物を買って来てくれた事などない。

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これまでこっちから頼まぬのに、物なんぞ買って来てくれたことはない。

どうして今度に限ってみやげを買って来てくれたのだろうと不思議には思ったが、その不思議というのも、どうして夫が急に親切になったのかと思ったのであった。

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どうして今度に限って、みやげを買って来てくれたのだろうと、不思議には思ったが、その不思議と云うのも、どうして夫が急に親切になったかと思ったのであった。

今考えれば、おおかたあの女が頼んで買ってもらった時に、ついでにわたしのを買ったのだろう。

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今考えれば、おお方あの女が頼んで買って貰った時、ついでにわたしのを買ったのだろう。

きっとそうに違いない。

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きっとそうに違いない。

そうとは知らずに、わたしはありがたく思ったのだ。

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そうとは知らずに、わたしは難有ありがたく思ったのだ。

わたしには差すこともできない、あんな傘をもらって、ありがたく思ったのだ。

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わたしには差されもしない、あんな傘を貰って、難有く思ったのだ。

傘ばかりではない。

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傘ばかりでは無い。

あの女の着物や髪の飾りも、家の金で買ってやったのかも知れない。

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あの女の着物や髪の物も、内で買って遣ったのかも知れない。

ちょうどわたしの差している毛繻子張りのこの傘と、あの舶来のこうもりとが違うように、わたしとあの女とは、身に着けている物という物がみな違っている。

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丁度わたしの差している、毛繻子張のこの傘と、あの舶来の蝙蝠とが違うように、わたしとあの女とは、身に着けている程の物が皆違っている。

それにわたしばかりではない。

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それにわたしばかりではない。

子供に着物を着せたいと思っても、なかなかこしらえてはくれない。

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子供に着物を着せたいと思っても、なかなかこしらえてくれはしない。

男の子には筒っぽが一枚あればいいものだと言う。

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男の子には筒っぽが一枚あれば好いものだと云う。

女の子だと、小さいうちに着物をこしらえるのは損だと言う。

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女の子だと、小さいうちに着物を拵えるのは損だと云う。

何万という金を持った人の女房や子供に、わたしたち親子のようななりをしているものがあるだろうか。

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何万と云う金を持った人の女房や子供に、わたし達親子のようななりをしているものがあるだろうか。

今から思ってみれば、あの女がいたおかげで、わたしたちに構ってくれなかったのかも知れない。

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今から思って見れば、あの女がいたお蔭で、わたし達に構ってくれなかったかも知れない。

吉田さんの持ち物だったなどというのも、本当だかどうだか当てにはならない。

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吉田さんの持物だったなんと云うのも、本当だかどうだか当にはならない。

七曲りとかにいた時分から、うちで囲っておいたのかも知れない。

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七曲りとかにいた時分から、内で囲って置いたかも知れない。

いや。

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いや。

きっとそうに違いない。

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きっとそうに違ない。

金回りがよくなって、自分の着物や持ち物に贅沢をするようになったのを、付き合いがあるからだの何のと言っていたが、あの女がいたからだろう。

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金廻りが好くなって、自分の着物や持物に贅沢ぜいたくをするようになったのを、附合があるからだのなんのと云ったが、あの女がいたからだろう。

わたしをどこへも連れて行かずに、あの女を連れて行ったに違いない。

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わたしをどこへでも連れて行かずに、あの女を連れて行ったに違ない。

ええ、悔しい。

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ええ、悔やしい。

こんな事を思っていると、突然女中が叫んだ。

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こんな事を思っていると、突然女中が叫んだ。

「あら、奥さん。どこへいらっしゃるのです」

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「あら、奥さん。どこへいらっしゃるのです」

お常はびっくりして立ち止まった。

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お常はびっくりして立ち留まった。

下を向いてずんずん歩いていて、我が家の門を通り過ぎようとしたのである。

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下を向いてずんずん歩いていて、我家のかどを通り過ぎようとしたのである。

女中が無遠慮に笑った。

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女中が無遠慮に笑った。

拾肆

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拾肆じゅうし

朝の食事の後片付けをしておいて、お常が買物に出掛ける時、末造は煙草を吸いながら新聞を読んでいたが、帰ってみると、もう留守になっていた。

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朝の食事の跡始末をして置いて、お常が買物に出掛ける時、末造は烟草を呑みつつ新聞を読んでいたが、帰って見れば、もう留守になっていた。

もし家にいたら、何と言えばいいのかは分からないが、とにかくぶつかって、むしゃぶりついて、何とでも言ってやりたい、そんな気持ちで帰って来たお常は拍子抜けした。

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若し内にいたら、なんと云っていかは知らぬが、とにかく打っ附かって、むしゃぶり附いて、なんとでも云って遣りたいような心持で帰ったお常は拍子抜けがした。

昼食の支度もしなくてはならない。

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午食ひるしょくの支度もしなくてはならない。

もう間もなく要る子供の袷の、縫いかけになっているのも縫わなくてはならない。

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もう間もなく入用いりようになる子供のあわせの縫い掛けてあるのも縫わなくてはならない。

お常が機械的に、いつものように働いているうちに、夫にぶつかろうと思った勢いは次第にくじけてきた。

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お常は器械的に、いつものように働いているうちに、夫に打っ附かろうと思った鋭鋒えいほうは次第にくじけて来た。

これまでにも、ひどい勢いで、石垣に頭を打ちつけるつもりで夫に衝突した事はたびたびある。

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これまでもひどいいきおいで、石垣に頭を打ち附ける積りで、夫に衝突したことは、度々ある。

しかしいつも、頭に立ちはだかるはずの石垣が、腕を受け流す暖簾であるのに驚かされる。

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しかしいつも頭にあらがう筈の石垣が、腕を避ける暖簾のれんであるのに驚かされる。

そして夫がなめらかな舌で、もっともらしい理屈を言うのを聞いていると、いつの間にか、その理屈に納得するのではなく、ただ何となく萎えさせられてしまうのである。

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そして夫が滑かな舌で、道理らしい事を言うのを聞いていると、いつかその道理に服するのではなくて、只何がなしにやされてしまうのである。

今日はなんだか、その最初の一撃さえうまくできそうには思われなくなってくる。

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きょうはなんだか、その第一の襲撃もうまく出来そうには思われなくなって来る。

お常は子供を相手に昼食を食べる。

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お常は子供を相手に午食を食べる。

喧嘩をする子供の裁きをする。

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喧嘩をする子供の裁判をする。

袷を縫う。

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袷を縫う。

また夕食の支度をする。

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又夕食の支度をする。

子供に行水を使わせて、自分も使う。

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子供に行水を遣わせて、自分も使う。

蚊やりを焚きながら夕食を食べる。

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蚊遣かやりをしながら夕食を食べる。

食後に遊びに出た子供が、遊び疲れて帰る。

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食後に遊びに出た子供が遊び草臥くたびれて帰る。

女中が台所から出て来て、決まった所に床を取ったり、蚊帳を吊ったりする。

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女中が勝手から出て来て、極まった所に床を取ったり、蚊帳かやったりする。

手や口をすすがせて子供を寝かせる。

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手水ちょうずをさせて子供を寝かす。

夫の夕食の膳に蠅よけをかぶせ、火鉢に鉄瓶をかけて、次の間に置く。

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夫の夕食の膳に蝿除はえよけかぶせて、火鉢に鉄瓶を掛けて、次のに置く。

夫が夕食に帰らなかった時は、いつでもこうしておくのである。

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夫が夕食に帰らなかった時は、いつでもこうして置くのである。

お常はこれだけの事を機械的にしてしまった。

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お常はこれだけの事を器械的にしてしまった。

そして団扇を一本持って蚊帳の中へ入って座った。

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そして団扇うちわを一本持って蚊屋かやの中へ這入はいって据わった。

その時、今朝道で会ったあの女の所に、今頃夫が行っているだろうという事が、今さらのようにはっきりと想像された。

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その時けさみちで逢った、あの女の所に、今時分夫が往っているだろうと云うことが、今更のようにはっきりと想像せられた。

どうにも体を落ち着けて、座ってはいられないような気持ちがする。

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どうも体を落ち着けて、据わってはいられぬような気持がする。

どうしよう、どうしようと思ううちに、ふらふらと無縁坂の家の所まで行ってみたくなる。

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どうしよう、どうしようと思ううちに、ふらふらと無縁坂のうちの所まで往って見たくなる。

いつか藤村へ、子供の一番好きな田舎饅頭を買いに行った時、仕立物の師匠の家の隣というのはこの家だなと思って見ながら通ったので、それらしい格子戸の家は分かっている。

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いつか藤村ふじむらへ、子供の一番好きな田舎饅頭いなかまんじゅうを買いに往った時、したて物の師匠の内の隣と云うのはこの家だなと思って、見て通ったので、それらしい格子戸の家は分かっている。

つい、あそこまで行ってみたい。

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ついあそこまで往って見たい。

灯の光が外へ差しているか。

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火影ほかげが外へ差しているか。

話し声がかすかにでも聞こえているか。

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話声がかすかにでも聞えているか。

それだけでも見て来たい。

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それだけでも見て来たい。

いやいや、そんな事はできない。

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いやいや、そんな事は出来ない。

外へ出るには、女中部屋のそばの廊下を通らないわけにはいかない。

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外へ出るには女中部屋の傍の廊下を通らぬわけには行かない。

この頃はあの廊下の所の障子がはずしてある。

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この頃はあの廊下の所の障子がはずしてある。

松はまだ起きて縫物をしているはずである。

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松はまだ起きて縫物をしている筈である。

こんな時刻にどこへ行くのかと聞かれた時、何とも返事のしようがない。

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今時分どこへ往くのだと聞かれた時、なんとも返事のしようがない。

何か買いに出ると言ったら、松が自分で行こうと言うだろう。

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何か買いに出ると云ったら、松が自分で行こうと云うだろう。

そうしてみると、どんなに行ってみたくても、そっと行ってみることはできない。

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して見れば、どんなに往って見たくても、そっと往って見ることは出来ない。

ええ、どうしたらいいだろう。

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ええ、どうしたら好かろう。

今朝家へ帰る時は、少しでも早くあの人に会いたいと思ったが、あの時会っていたら、わたしは何と言っただろう。

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けさ内へ帰る時は、ちっとも早くあの人に逢いたいと思ったが、あの時逢ったら、わたしはなんと云っただろう。

会ったら、わたしの事だから、取り留めのない事ばかり言ったに違いない。

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逢ったら、わたしの事だから、取留のない事ばかり言ったに違いない。

そうしたら、あの人がまたいい加減な事を言って、わたしを騙してしまっただろう。

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そうしたらあの人が又好い加減の事を言って、わたしを騙してしまっただろう。

あんな利口な人だから、どうせ喧嘩をしてはかなわない。

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あんな利口な人だから、どうせ喧嘩をしてはかなわない。

いっそ黙っていようか。

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いっそ黙っていようか。

しかし黙っていてどうなるだろうか。

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しかし黙っていてどうなるだろうか。

あんな女がついていては、わたしなんぞはどうなっても構わない気になっているだろう。

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あんな女が附いていては、わたしなんぞはどうなっても構わぬ気になっているだろう。

どうしよう。

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どうしよう。

どうしよう。

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どうしよう。

こんな事を繰り返し繰り返し思っては、何度も考えが最初の出発点へ後戻りする。

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こんな事を繰り返し繰り返し思っては、何遍か思想が初の発足点ほっそくてん跡戻あともどりをする。

そのうちに頭がぼんやりしてきて、何が何だか分からなくなる。

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そのうちに頭がぼんやりして来て、何がなんだか分からなくなる。

しかしとにかく、激しく夫にぶつかったところで駄目だから、やめようという事だけは決めることができた。

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しかしとにかくはげしく夫に打っ附かったって駄目だから、よそうと云うことだけは極めることが出来た。

そこへ末造が入って来た。

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そこへ末造が這入って来た。

お常はわざとらしく取り上げた団扇の柄をいじって黙っている。

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お常はわざとらしく取り上げた団扇の柄をいじって黙っている。

「おや。また変な様子をしているな。どうしたのだい」

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「おや。又変な様子をしているな。どうしたのだい」

お上さんがいつもする「お帰りなさい」

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上さんがいつもする「お帰りなさい」

という挨拶をしないでいても、別に腹は立てない。

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と云う挨拶をしないでいても、別に腹は立てない。

機嫌がいいからである。

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機嫌がいからである。

お常は黙っている。

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お常は黙っている。

衝突を避けようとは思ったが、夫が帰ったのを見ると悔しさが込み上げてきて、まるで反抗せずにはいられそうになくなった。

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衝突を避けようとは思ったが、夫の帰ったのを見ると、悔やしさが込み上げて来て、まるで反抗せずにはいられそうになくなった。

「またくだらない事を考えているな。よせよせ」

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「又何かだらない事を考えているな。よせよせ」

お上さんの肩に手をかけて、二、三度ゆさぶっておいてから、自分の床に座った。

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上さんの肩の所に手を掛けて、二三遍ゆさぶって置いて、自分の床に据わった。

「わたし、どうしようかと思っていますの。実家へ帰ろうと言ったって、帰る家はなし、子供もいるし」

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「わたしどうしようかと思っていますの。帰ろうと云ったって、帰る内は無し、子供もあるし」

「なんだと。どうしようかと思っている。どうもしなくたっていいじゃないか。天下は太平無事だ」

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「なんだと。どうしようかと思っている。どうもしなくたって好いじゃないか。天下は太平無事だ」

「そりゃ、あなたは呑気な事を言っていられるでしょう。わたしさえどうにかなってしまえばいいのだから」

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「それはあなたは太平楽を言っていられますでしょう。わたしさえどうにかなってしまえばいのだから」

「おかしいなあ。どうにかなるなんて。どうなるにも及ばない。そのままでいればいい」

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「おかしいなあ。どうにかなるなんて。どうなるにも及ばない。そのままでいればい」

「たんと茶化していらっしゃい。いてもいなくてもいい人間だから、相手にはならないでしょう。そうね。いてもいなくてもじゃない。いない方がいいに決まっているのだったわ」

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「たんと茶にしておいでなさい。いてもいなくっても好い人間だから、相手にはならないでしょう。そうね。いてもいなくってもじゃない。いない方が好いに極まっているのだっけ」

「いやにひねくれた物の言い方をするなあ。いない方がいいだって。大違いだ。いなくては困る。子供の面倒を見てもらうだけでも大役だからな」

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「いやにひねくれた物の言いようをするなあ。いない方が好いのだって。大違だ。いなくては困る。子供の面倒を見て貰うばかりでも、大役だからな」

「そりゃ、後に綺麗なおっ母さんが来て面倒を見てくれるでしょう。継子になるのだけれど」

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「それは跡へ綺麗なおっ母さんが来て、面倒を見てくれますでしょう。継子ままこになるのだけど」

「分からないな。両親そろってついているのだから、継子なんぞにはならないはずだ」

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「分からねえ。二親揃って附いているから、継子なんぞにはならない筈だ」

「そう。きっとそうなのね。まあ、いい気なものね。ではいつまでも今のようにしているつもりなのね」

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「そう。きっとそうなの。まあ、好い気な物ね。ではいつまでも今のようにしている積なのね」

「知れた事さ」

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「知れた事よ」

「そう。別嬪とおたふくとに、お揃いのこうもりを差させて」

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「そう。別品とおたふくとに、お揃の蝙蝠を差させて」

「おや。なんだい、それは。茶番の趣向みたいな事を言っているじゃないか」

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「おや。なんだい、それは。お茶番の趣向見たいな事を言っているじゃないか」

「ええ。どうせわたしなんぞは真面目な芝居には出られませんからね」

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「ええ。どうせわたしなんぞは真面目な狂言には出られませんからね」

「芝居より、話をもう少し真面目にしてもらいたいなあ。一体そのこうもりというのはなんだい」

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「狂言より話が少し真面目にして貰いたいなあ。一体その蝙蝠てえのはなんだい」

「分かっているでしょう」

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「分かっているでしょう」

「分かるものか。まるっきり見当がつかない」

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「分かるものか。まるっきり見当が附かねえ」

「それなら言いましょう。あの、いつか横浜からこうもりを買って来たでしょう」

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「そんなら言いましょう。あの、いつか横浜から蝙蝠を買って来たでしょう」

「それがどうした」

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「それがどうした」

「あれはわたしだけに買ってくださったのじゃなかったのね」

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「あれはわたしばかしに買って下すったのじゃなかったのね」

「お前のほかに、誰に買ってやるものかい」

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「お前ばかしでなくて、誰に買って遣るものかい」

「いいえ。そうじゃないでしょう。あれは無縁坂の女のを買ったついでに、ふと思いついて、わたしのも買って来たのでしょう」

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「いいえ。そうじゃないでしょう。あれは無縁坂の女のを買った序に、ふいと思い附いて、わたしのをも買って来たのでしょう」

さっきからこうもりの話はしていたが、こうして具体的に口に出すと同時に、お常は悔しさが込み上げてくるのを感じるのである。

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さっきから蝙蝠の話はしていても、こう具体的に云うと同時に、お常は悔やしさが込み上げて来るように感ずるのである。

「お見事、当たり」

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「お手の筋」

とでも言いたいほど図星だったので、末造はぎくりとしたが、逆に呆れたような顔をしてみせた。

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だとでも云いたい程適中したので、末造はぎくりとしたが、反対にあきれたような顔をして見せた。

「べらぼうな話だなあ。なんだい。その、お前に買った傘と同じ傘を、吉田さんの女が持っているとでも言うわけかい」

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「べらぼうな話だなあ。何かい。その、お前に買った傘と同じ傘を、吉田さんの女が持っているとでも云うわけかい」

「そりゃ、同じものを買ってやったのだから、同じものを持っているに決まっています」

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「それは同じのを買って遣ったのだから、同じのを持っているに極まっています」

声が際立って鋭くなっている。

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声が際立って鋭くなっている。

「なんの事だ。呆れたものだぜ。いい加減にしろ。なるほど、お前に横浜で買ってやった時は、見本として入って来たものだという事だったが、もう今頃は銀座あたりでざらに売っているに違いない。芝居なんぞによくある奴で、これがほんとの無実の罪というやつだ。それで何かい。お前、あの吉田さんの女にどこかで会ったとでも言うのかい。よく分かったなあ」

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「なんの事だ。呆れたものだぜ。好い加減にしろい。なる程お前に横浜で買って遣った時は、サンプルで来たのだと云うことだったが、もう今頃は銀座辺でざらに売っているに違ない。芝居なんぞに好くある奴で、これがほんとの無実の罪と云うのだ。そして何かい。お前、あの吉田さんの女に、どこかで逢ったとでも云うのかい。好く分かったなあ」

「そりゃ分かりますとも。このあたりで知らない者はいないのです。別嬪だから」

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「それは分かりますとも。ここいらで知らないものはないのです。別品だから」

憎々しい声である。

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にくにくしい声である。

これまでは末造がしらばくれると、つい、そうかと思ってしまったが、今度はあまりに強烈に直感して、その出来事を目の前に見たように感じているので、末造の言葉を、なるほどそうでもあろうかとは、どうしても思えなかった。

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これまでは末造がしらばっくれると、ついそうかと思ってしまったが、今度は余り強烈な直覚をして、その出来事を目前に見たように感じているので、末造のことばを、なる程そうでもあろうかとは、どうしても思われなかった。

末造はどうして会ったのか、話でもしたのかと、あれこれ考えながらも、この場合に根掘り葉掘り問うのは不利だと思って、わざと追及しない。

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末造はどうして逢ったか、話でもしたのかと、種々いろいろに考えていながら、この場合に根掘り葉掘り問うのは不利だと思って、わざと追窮しない。

「別嬪だって。あんなのが別嬪と言うのかなあ。妙に顔の平べったいような女だが」

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「別品だって。あんなのが別品と云うのかなあ。妙に顔の平べったいような女だが」

お常は黙っていた。

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お常は黙っていた。

しかし憎い女の顔に難癖をつけた夫の言葉に、いくらか気持ちを和らげられた。

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しかし憎い女の顔に難癖を附けた夫の詞に幾分か感情を融和させられた。

この晩にも、言い合って興奮した後の夫婦の仲直りがあった。

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この晩にも物を言い合って興奮した跡の夫婦の中直りがあった。

しかしお常の心には、刺さった棘が抜けないような痛みが残っていた。

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しかしお常の心には、刺されたとげの抜けないような痛みが残っていた。

拾伍

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拾伍じゅうご

末造の家の空気は、次第に沈んだ、重苦しい方へ傾いてきた。

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末造の家の空気は次第に沈んだ、重くろしい方へ傾いて来た。

お常は時々、ただぼうっとして空を見つめ、何事も手につかないことがある。

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お常は折々只ぼうっとしてくうを見ていて、何事も手に附かぬことがある。

そんな時には子供の世話も何もできなくなって、子供が何か欲しいと言えば、すぐに荒々しく叱る。

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そんな時には子供の世話も何も出来なくなって、子供が何か欲しいと云えば、すぐにあらあらしく叱る。

叱っておいてから気がついて、子供に謝ったり、一人で泣いたりする。

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叱って置いて気が附いて、子供にあやまったり、独りで泣いたりする。

女中が飯のおかずを何にしようかと尋ねても、返事をしなかったり、「お前のいいようにおし」

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女中が飯の菜を何にしようかと問うても、返事をしなかったり、「お前のいようにおし」

と言ったりする。

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と云ったりする。

末造の子供は、学校では高利貸の子だと言って友達に爪弾きにされても、末造が綺麗好きで女房に世話をさせるので、目立って清潔にしていたのに、今ではごみだらけの頭をして、ほころびたままの着物を着て往来で遊んでいる事があるようになった。

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末造の子供は学校では、高利貸の子だと云って、友達に擯斥ひんせきせられても、末造が綺麗好で、女房に世話をさせるので、目立って清潔になっていたのが、今は五味ごみだらけの頭をして、ほころびたままの着物を着て往来で遊んでいることがあるようになった。

下女は、お上さんがあれでは困ると小言をつぶやきながら、下手な乗り手を乗せた馬が怠けて道草を食うように、物事を投げやりにするので、鼠入らずの中で魚が腐ったり、野菜が干物になったりする。

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下女はお上さんがあんなでは困ると、口小言を言いながら、下手の乗っている馬がなまけて道草を食うように、物事を投遣なげやりにして、鼠入らずの中でさかなが腐ったり、野菜が干物になったりする。

家の中の事を几帳面にしたがる末造には、こんな不始末を見ているのが苦痛でならない。

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家の中の事を生帳面きちょうめんにしたがる末造には、こんな不始末を見ているのが苦痛でならない。

しかしこうなった大もとは分かっていて、自分が悪いのだと思うので、小言を言うわけにもいかない。

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しかしこうなった元は分かっていて、自分が悪いのだと思うので、小言を言うわけにも行かない。

それに末造は、普段小言を言う場合にも、冗談のように軽く言って相手に反省させるのを得意としているのに、その冗談めかした態度が、かえって女房の機嫌を損ねるように見える。

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それに末造は平生小言を言う場合にも、笑談じょうだんのように手軽に言って、相手に反省させるのを得意としているのに、その笑談らしい態度がかえって女房の機嫌を損ずるように見える。

末造は黙って女房を観察し始めた。

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末造は黙って女房を観察し出した。

そして意外な事を発見した。

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そして意外な事を発見した。

それは、お常の変な素振りが亭主の家にいる時にことにひどくて、留守になるとかえって目が覚めたようになって働いている事が多い、という事である。

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それはお常の変な素振が、亭主の内にいる時殊に甚しくて、留守になると、却って醒覚せいかくしたようになって働いていることが多いと云う事である。

子供や下女の話を聞いてこの関係を知った時、末造は最初は驚いたが、利口な頭であれこれと考えてみた。

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子供や下女の話を聞いて、この関係を知った時、末造は最初は驚いたが、怜悧れいりな頭で色々に考えて見た。

これは、することが気に食わないおれの顔を見ている間、この頃の病気が出るのだ。

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これはする事の気に食わぬおれの顔を見ている間、この頃の病気を出すのだ。

おれは女房に、どうにかして夫が冷淡だと思わせまい、疎まれているように感じさせまいとしているのに、かえっておれが家にいる時の方が不機嫌だとすると、ちょうど薬を飲ませて病気を悪くするようなものである。

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己は女房にどうかして夫が冷澹れいたんだと思わせまい、疎まれるように感ぜさせまいとしているのに、却って己が内にいる時の方が不機嫌だとすると、丁度薬を飲ませて病気を悪くするようなものである。

こんなつまらない事はない。

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こんなつまらぬ事はない。

これからは一つ、逆にしてみようと末造は思った。

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これからは一つ反対にして見ようと末造は思った。

末造はいつもより早く家を出たり、いつもより遅く家へ帰ったりするようになった。

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末造はいつもより早く内を出たり、いつもより遅く内へ帰ったりするようになった。

しかしその結果は非常に悪かった。

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しかしその結果は非常に悪かった。

早く出た時は、女房は最初、ただ驚いて黙って見ていた。

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早く出た時は、女房が最初は只驚いて黙って見ていた。

遅く帰った時は、最初のうちこそいつもの拗ねてみせる消極的な手段だったが、もう我慢がしきれない、堪忍袋の緒が切れたという風で、「あなた、今までどこにいましたの」

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遅く帰った時は、最初の度にいつものねて見せる消極的手段と違って、もう我慢がし切れない、勘忍袋の緒が切れたと云う風で、「あなた今までどこにいましたの」

と詰め寄って来た。

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と詰め寄って来た。

そして爆発するように泣き出した。

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そして爆発的に泣き出した。

その次からは、早く出ようとすると、「あなた、今からどこへ行くのです」

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その次の度からは早く出ようとすると、「あなた今からどこへ行くのです」

と言って、無理に引き止めようとする。

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と云って、無理に留めようとする。

行き先を言えば嘘だと言う。

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行先ゆくさきを言えば嘘だと云う。

構わずに出ようとすると、どうしても聞きたい事があるから、ちょっとでいい、待ってもらいたいと言う。

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構わずに出ようとすると、是非聞きたい事があるから、ちょいとでもい、待って貰いたいと云う。

着物をつかまえて放さなかったり、玄関に立ちふさがったり、女中の目も構わずに、出て行くのを妨げようとする。

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着物をつかまえて放さなかったり、玄関に立ちふさがったり、女中の見る目もいとわずに、出て行くのを妨げようとする。

末造は気に食わない事も冗談のようにして、荒立てずに済ますやり方なのに、むしゃぶりつくのを振り放したはずみに女房が倒れる、という体裁の悪いところを女中に見られた事もある。

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末造は気に食わぬ事をも笑談のようにして荒立てずに済ます流義なのに、むしゃぶり附くのを振り放す、女房が倒れると云う不体裁を女中に見られた事もある。

そんな時、末造がおとなしく引き止められて家にいて、さあ用事を聞こう、と言うと、「あなた、わたしをどうしてくれる気なの」

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そんな時に末造がおとなしく留められて内にいて、さあ、用事を聞こうと云うと、「あなたわたしをどうしてくれる気なの」

とか、「こうしていて、わたしの行く末はどうなるでしょう」

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とか、「こうしていて、わたしの行末はどうなるでしょう」

とか、なかなか一朝一夕には解決のつかない難問を持ち出す。

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とか、なかなか一朝一夕に解決の出来ぬ難問題を提出する。

要するに、末造が女房の病に試みた早出・遅帰りの対症療法は、まったく功を奏さなかったのである。

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要するに末造が女房の病気に試みた早出はやで遅帰おそがえりの対症療法は全く功を奏せなかったのである。

末造はまた考えてみた。

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末造は又考えて見た。

女房はおれが家にいる時の方が機嫌が悪い。

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女房は己の内にいる時の方が機嫌が悪い。

そこで家にいまいとすれば、無理にでも家にいさせようとする。

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そこで内にいまいとすれば、強いて内にいさせようとする。

そうしてみると、自分から求めておれを家にいさせて、自分から求めて自分の機嫌を悪くしているのである。

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そうして見れば、求めて己を内にいさせて、求めて自分の機嫌を悪くしているのである。

それについて思い出した事がある。

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それに就いて思い出した事がある。

和泉橋時代に金を貸してやった学生に、猪飼という男がいた。

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和泉橋いずみばし時代に金を貸して遣った学生に猪飼いかいと云うのがいた。

身なりに少しも構わないという風をして、素足に足駄を履き、左の肩を二、三寸高くして歩いていた。

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身なりに少しも構わないと云う風をして、素足に足駄を穿いて、左の肩を二三寸高くして歩いていた。

そいつがどうしても金を返さず、証文の書き換えもせずに逃げ回っていたのに、ある日、青石横町の角で出くわした。

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そいつがどうしても金を返さず、書換もせずに逃げ廻っていたのに、或日青石横町あおいしよこちょうの角で出くわした。

「どこへ行くのです」

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「どこへ行くのです」

と言うと、「すぐそこの柔術の先生の所へ行くのだよ。例のはいずれそのうちに」

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と云うと、「じきそこの柔術の先生の所へ行くのだよ。例のはいずれそのうち」

と言ってすり抜けて行った。

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と云ってり抜けて行った。

おれはそのまま別れて歩き出すふりをして、そっと後へ戻り、角に立って見ていた。

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己はそのまま別れて歩き出す真似をして、そっと跡へ戻って、角に立って見ていた。

猪飼は伊予紋に入った。

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猪飼は伊予紋に這入った。

おれはそれを突き止めておいて、広小路で用を足し、しばらく経ってから伊予紋へ押しかけて行った。

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己はそれを突き留めて置いて、広小路で用をして、しばらく立ってから伊予紋へ押し掛けて行った。

猪飼の奴、さすがに驚いたが、持ち前の豪傑気取りで、芸者を二人呼んで馬鹿騒ぎをしている席へおれを無理に引きずり上げ、「野暮を言わずに、今日は一杯飲んでくれ」

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猪飼さすがに驚いたが、持前の豪傑気取で、芸者を二人呼んで馬鹿騒ぎをしている席へ、己を無理に引きり上げて、「野暮を言わずにきょうは一杯飲んでくれ」

と言って、おれに酒を飲ませやがった。

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と云って、己に酒を飲ませやがった。

あの時おれは初めて芸者というものを座敷で見たが、その中にぞっとするほど粋な女がいた。

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あの時己は始て芸者と云うものを座敷で見たが、その中にすごいような意気な女がいた。

おしゅんと言ったっけ。

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おしゅんと云ったっけ。

そいつが酔っ払って猪飼の前に座り、何が癪に障ったのだか、毒づき始めた。

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そいつが酔っ払って猪飼の前に据わって、何がしゃくに障っていたのだか、毒づき始めた。

その時の言葉を、おれは黙って聞いていたが、今でも忘れない。

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その時の詞を、己は黙って聞いていたが、いまだに忘れない。

「猪飼さん。あなた、強そうな風をしていても、まるで意気地のない方ね。あなたに言って聞かせておきますけれど、女というものは、時々ぶんなぐってくれる男にでなくては惚れません。よく覚えていらっしゃい」

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「猪飼さん。あなたきつそうな風をしていても、まるでいく地のない方ね。あなたに言って聞かせて置くのですが、女と云うものは時々ぶんなぐってくれる男にでなくってはれません。好く覚えていらっしゃい」

と言ったっけ。

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と云ったっけ。

芸者には限らない。

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芸者には限らない。

女というものはそうしたものかも知れない。

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女と云うものはそうしたものかも知れない。

この頃のお常の奴は、おれをそばに引きつけておいて、ふくれ面をして逆らってばかりいようとしやがる。

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この頃のお常は、己を傍に引き附けて置いてふくれ面をしてあらがってばかしいようとしやがる。

おれにどうにかしてもらいたいという様子が見えている。

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己にどうかして貰いたいと云う様子が見えている。

打たれたいのだ。

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打たれたいのだ。

そうだ。

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そうだ。

打たれたいのだ。

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打たれたいのだ。

それに違いない。

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それに相違ない。

お常の奴は、おれがこれまで食う物もろくに食わせないで牛馬のように働かせていたものだから、獣のようになっていて、女らしい性質が出ずにいたのだ。

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お常奴は己がこれまで食う物もろくに食わせないで、牛馬うしうまのように働かせていたものだから、獣のようになっていて、女らしい性質が出ずにいたのだ。

それが今の家へ引っ越した頃から、女中を使い、奥さんと言われて、だいぶ人間らしい暮らしをして、少し世間並みの女になりかかってきたのだ。

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それが今の家に引き越した頃から、女中を使って、奥さんと云われて、だいぶ人間らしい暮らしをして、少し世間並の女になり掛かって来たのだ。

それでおしゅんの言ったように、ぶんなぐってもらいたくなったのだ。

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そこでおしゅんの云ったようにぶんなぐって貰いたくなったのだ。

それではおれはどうだ。

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そこで己はどうだ。

金ができるまでは、人に何と言われても構わない。

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金の出来るまでは、人になんと云われても構わない。

乳臭い青二才にも、旦那と言ってお辞儀をする。

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乳臭い青二才にも、旦那と云ってお辞儀をする。

踏まれても蹴られても、損さえしなければいいという気になって世間を渡って来た。

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踏まれてもられても、損さえしなければいと云う気になって、世間を渡って来た。

毎日毎日、どこへ行っても、誰の前でも、平蜘蛛のようになって這いつくばって通った。

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毎日毎日どこへっても、たれの前でも、平蜘蛛ひらぐものようになって這いつくばって通った。

世間の奴らと付き合ってみると、目上に腰の低い奴は目下につらく当たって、弱い者いじめをする。

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世間の奴等に附き合って見るに、目上に腰の低い奴は、目下にはつらく当って、弱いものいじめをする。

酔って女や子供をなぐる。

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酔って女や子供をなぐる。

おれには目上も目下もない。

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己には目上も目下もない。

おれに金を儲けさせてくれる者の前には這いつくばう。

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己に金をもうけさせてくれるものの前には這いつくばう。

そうでない奴は、誰も彼も、一切いようがいまいが同じ事だ。

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そうでない奴は、誰でも彼でも一切いるもいないも同じ事だ。

はなから相手にしない。

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てんで相手にならない。

打ち捨てておく。

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打ち遣って置く。

なぐるなどという余計な手間はかけない。

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なぐるなんと云う余計な手数てすうは掛けない。

そんな無駄をするくらいなら、おれは利息の勘定でもする。

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そんな無駄をする程なら、己は利足りそくの勘定でもする。

女房もその扱いにしていたのだ。

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女房をもその扱いにしていたのだ。

お常の奴、おれになぐってもらいたくなったのだ。

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お常奴己になぐって貰いたくなったのだ。

当人には気の毒だが、これだけはあいにく様だ。

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当人には気の毒だが、こればかりはお生憎様あいにくさまだ。

債務者の脂を、柚子なら苦い汁が出るまで絞る事はおれにできる。

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債務者の脂を柚子ゆずなら苦い汁が出るまで絞ることは己に出来る。

誰かを打つ事はできない。

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誰をも打つことは出来ない。

末造はこんな事を考えたのである。

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末造はこんな事を考えたのである。

拾陸

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拾陸じゅうろく

無縁坂の人通りが多くなった。

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無縁坂の人通りが繁くなった。

九月になって大学の課程が始まるので、国々へ帰っていた学生が、一度に本郷界隈の下宿屋へ戻ったのである。

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九月になって、大学の課程が始まるので、国々へ帰っていた学生が、一時いちじに本郷界隈かいわいの下宿屋に戻ったのである。

朝晩はもう涼しくても、昼間はまだ暑い日がある。

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朝晩はもう涼しくても、昼中はまだ暑い日がある。

お玉の家では、越して来た時に掛け替えた青簾の、まだ色の褪せる間もないのが、肱掛窓の竹格子の内側を、上から下まで隙間なく深く閉ざしている。

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お玉の家では、越して来た時掛け替えた青簾あおすだれの、色のめるひまのないのが、肱掛窓ひじかけまどの竹格子の内側を、上から下まで透間すきまなく深くとざしている。

退屈をもてあましているお玉は、その窓の内で、暁斎や是真の絵のある団扇をいくつも挿した団扇挿しの下の柱にもたれて、ぼんやり往来を眺めている。

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無聊ぶりょうに苦んでいるお玉は、その窓の内で、暁斎ぎょうさい是真ぜしんの画のある団扇を幾つも挿した団扇挿しの下の柱にもたれて、ぼんやり往来を眺めている。

三時を過ぎると、学生が三、四人ずつの群れをなして通る。

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三時が過ぎると、学生が三四人ずつの群をなして通る。

そのたびに、隣の裁縫の師匠の家で、小雀のさえずるような娘たちの声がひときわやかましくなる。

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その度毎に、隣の裁縫の師匠の家で、小雀のさえずるような娘達の声が一際やかましくなる。

それに促されて、お玉もどんな人が通るのかと、思わず気をつけて見ることがある。

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それに促されてお玉もどんな人が通るかと、覚えず気を附けて見ることがある。

その頃の学生は七、八分どおりが、のちに言う壮士肌で、まれに紳士風なのがいると、それは卒業直前の人たちであった。

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その頃の学生は、七八分通りはのちに言う壮士肌で、まれに紳士風なのがあると、それは卒業直前すぐまえの人達であった。

色の白い、目鼻立ちのいい男は、とかく軽薄らしく、気取っていて、心が引かれない。

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色の白い、目鼻立のい男は、とかく軽薄らしく、利いた風で、懐かしくない。

そうでない者は、学問のできる人がその中にいるのかも知れないが、女の目には荒々しく見えて嫌である。

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そうでないのは、学問の出来る人がその中にあるのかは知れぬが、女の目には荒々しく見えていやである。

それでもお玉は毎日、見るともなしに窓の外を通る学生を見ている。

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それでもお玉は毎日見るともなしに、窓の外を通る学生を見ている。

そしてある日、自分の胸に何かが芽ざしてきているらしいと感じて、はっと驚いた。

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そして或る日自分の胸に何物かが芽ざして来ているらしく感じて、はっと驚いた。

意識の敷居の下で胎を結び、形ができてから突然躍り出したような想像の塊に驚かされたのである。

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意識のしきいの下で胎を結んで、形が出来てから、突然躍り出したような想像のかたまりに驚かされたのである。

お玉は父親を幸福にしようという目的のほかに何の目的も持っていなかったので、無理に堅い父親を口説き落とすようにして人の妾になった。

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お玉は父親を幸福にしようと云う目的以外に、何の目的も有していなかったので、無理に堅い父親を口説き落すようにして人のめかけになった。

そしてそれを、堕ちられるだけ堕ちるのだと見て、その人のためになる行いの中に一種の安心を求めていた。

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そしてそれを堕落せられるだけ堕落するのだと見て、その利他的行為のうちに一種の安心を求めていた。

しかし旦那と頼んだ人が、人もあろうに高利貸だったと知った時は、あまりの事に途方に暮れた。

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しかしその檀那だんなと頼んだ人が、人もあろうに高利貸であったと知った時は、余りの事に途方に暮れた。

そこで、どうにも自分一人では胸のもやもやを払いのけることができなくなって、その気持ちを父親に打ち明け、一緒に苦しみ悶えてもらおうと思った。

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そこでどうも自分一人で胸のうやもやを排し去ることが出来なくなって、その心持を父親に打ち明けて、一しょに苦みもだえて貰おうと思った。

そうは思ったものの、池の端の父親を訪ねてその平穏な暮らしを目の当たりにすると、どうしても老人の手にしている杯の中へ一滴の毒を注ぐには忍びない。

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そうは思ったものの、池の端の父親を尋ねてその平穏な生活をのあたり見ては、どうも老人の手にしているさかずきうちに、一滴の毒を注ぐに忍びない。

たとえせつない思いをしても、その思いを自分の胸ひとつにたたんでおこうと決心した。

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よしやせつない思をしても、その思を我胸一つに畳んで置こうと決心した。

そしてこの決心と同時に、これまで人に頼ることしか知らなかったお玉が、初めて独立したような気持ちになった。

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そしてこの決心と同時に、これまで人にたよることしか知らなかったお玉が、始て独立したような心持になった。

この時からお玉は、自分の言う事なす事をひそかに観察するようになり、末造が来ても、これまでのようにわだかまりのない素直な気持ちで接するのではなく、意識してもてなすようになった。

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この時からお玉は自分で自分の言ったりたりする事をひそかに観察するようになって、末造が来てもこれまでのようにわだかまりのない直情で接せずに、意識してもてなすようになった。

その間、別に本心があって、体を離れてわきへ退いて見ている。

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そのあいだ別に本心があって、体を離れてわき退いて見ている。

そしてその本心は、末造をも、末造の自由になっている自分をもあざ笑っている。

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そしてその本心は末造をも、末造の自由になっている自分をも嘲笑あざわらっている。

お玉はそれに初めて気がついた時、ぞっとした。

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お玉はそれに始て気が附いた時ぞっとした。

しかし時が経つにつれてお玉は慣れて、自分の心はそうでなくてはならないもののように感じてきた。

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しかし時が立つと共に、お玉は慣れて、自分の心はそうなくてはならぬもののように感じて来た。

それからお玉が末造をもてなす態度はいよいよ手厚くなり、お玉の心はいよいよ末造から遠のいた。

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それからお玉が末造を遇することはいよいよ厚くなって、お玉の心は愈末造に疎くなった。

そして末造に世話になっているのがありがたくもなく、末造がしてくれる事を恩に着なくても、それを末造に対して気の毒に思うには及ばないように感じる。

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そして末造に世話になっているのが難有ありがたくもなく、自分が末造の為向けてくれる事を恩にないでも、それを末造に対して気の毒がるには及ばぬように感ずる。

それと同時にまた、何のしつけも受けていない、芸のない自分ではあるが、その自分が末造の持ち物になって終わるのは惜しいように思う。

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それと同時に又なんのしつけをも受けていない芸なしの自分ではあるが、その自分が末造の持物になって果てるのは惜しいように思う。

とうとう、往来を通る学生を見ていて、あの中にもし頼もしい人がいて、自分を今の境遇から救ってくれるようにはならないだろうか、とまで考えた。

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とうとう往来を通る学生を見ていて、あの中に若し頼もしい人がいて、自分を今の境界きょうがいから救ってくれるようにはなるまいかとまで考えた。

そしてそんな想像にふけっている自分を、ふと意識した時、はっと驚いたのである。

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そしてそう云う想像にふける自分を、忽然こつぜん意識した時、はっと驚いたのである。

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この時お玉と顔を知り合ったのが岡田であった。

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この時お玉と顔をり合ったのが岡田であった。

お玉にとって、岡田もただ窓の外を通る学生の一人に過ぎない。

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お玉のためには岡田も只窓の外を通る学生の一人に過ぎない。

しかし際立って立派な、血色のいい美少年でありながら、うぬぼれたような、気障な態度がないのにお玉は気がついて、何となく心の引かれる人柄だと思い始めた。

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しかし際立って立派な紅顔の美少年でありながら、己惚うぬぼれらしい、気障きざな態度がないのにお玉は気が附いて、何とはなしに懐かしい人柄だと思いめた。

それから毎日、窓から外を見ているにも、またあの人が通りはしないかと待つようになった。

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それから毎日窓から外を見ているにも、又あの人が通りはしないかと待つようになった。

まだ名前も知らず、どこに住んでいる人かも知らないうちに、たびたび顔を見合わせるので、お玉はいつしか自然に親しい気持ちになった。

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まだ名前も知らず、どこに住まっている人か知らぬうちに、度々顔を見合わすので、お玉はいつか自然に親しい心持になった。

そしてふと自分の方から笑いかけたが、それは気の緩んだ、抑制のはたらきが麻痺した一瞬の出来事で、おとなしい性質のお玉には、こちらから恋を仕掛けようと、はっきり意識して、わざとそんな事をする気持ちはなかった。

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そしてふと自分の方から笑い掛けたが、それは気のゆるんだ、抑制作用の麻痺まひした刹那の出来事で、おとなしいたちのお玉にはこちらから恋をし掛けようと、はっきり意識して、故意にそんな事をする心はなかった。

岡田が初めて帽子を取って会釈した時、お玉は胸を躍らせ、自分でも顔が赤くなるのを感じた。

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岡田が始て帽子を取って会釈した時、お玉は胸を躍らせて、自分で自分の顔の赤くなるのを感じた。

女は直感が鋭い。

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女は直覚が鋭い。

お玉には、岡田が帽子を取ったのが思わずの振る舞いで、わざとしたのではないという事がはっきりと分かっていた。

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お玉には岡田の帽子を取ったのが発作的行為で、故意にしたのでないことが明白に知れていた。

そこで、窓の格子を隔てた頼りない、言葉のない付き合いがここで新しい時期に入ったのを、この上もなく嬉しく思って、何度も繰り返しては、その時の岡田の様子を想像に描いてみるのであった。

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そこで窓の格子を隔てた覚束おぼつかない不言の交際がここに新しい 〔e'poque〕《エポック》 に入ったのを、この上もなく嬉しく思って、幾度いくたびも繰り返しては、その時の岡田の様子を想像にえがいて見るのであった。

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妾も旦那の家にいれば世間並みの保護の下にあるが、囲われた女には人の知らない苦労がある。

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妾も檀那の家にいると、世間並の保護のもとに立っているが、囲物には人の知らぬ苦労がある。

お玉の家へも、ある日、印半纏を裏返しに着た三十前後の男が来て、下総の者で国へ帰るのだが、足を傷めて歩けないから、いくらか恵んでくれと言った。

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お玉の内へも或る日印絆纏しるしばんてんを裏返して着た三十前後の男が来て、下総しもうさのもので国へ帰るのだが、足を傷めて歩かれぬから、合力ごうりきをしてくれと云った。

十銭銀貨を紙に包んで梅に持たせて出すと、紙を開けて見て、「十銭ですかい」

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十銭銀貨を紙に包んで、梅に持たせて出すと紙を明けて見て、「十銭ですかい」

と言って、にやりと笑い、「おおかた間違いだろうから、聞いてみてくんねえ」

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と云って、にやりと笑って、「おお方間違だろうから、聞いて見てくんねえ」

と言いながら投げ出した。

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と云いつつ投げ出した。

梅が真っ赤になってそれを拾って入る後から、男は無遠慮に上がって来て、お玉が炭をついでいる箱火鉢の向こうに座った。

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梅が真っ赤になって、それを拾って這入る跡から、男は無遠慮に上がって来て、お玉の炭をついでいる箱火鉢の向うに据わった。

なんだか色々な事を言うが、取り留めのある話ではない。

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なんだか色々な事を云うが、取り留めた話ではない。

監獄にいた時はどうだったとかいう事を何度も言って、いばるかと思えば、泣き言を言っている。

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監獄にいた時どうだとか云うことを幾度いくども云って、息張いばるかと思えば、泣言を言っている。

酒の匂いが胸の悪くなるほどするのである。

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酒のにおいが胸の悪い程するのである。

お玉は恐ろしくて泣き出したいのを我慢して、その頃通用していた、かるたのような形の青い五十銭札を二枚、男の見ている前で出して紙に包み、黙って男の手に渡した。

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お玉はこわくて泣き出したいのを我慢して、その頃通用していた骨牌かるたのような形の青い五十銭札を二枚、見ている前で出して紙に包んで、黙って男の手に渡した。

男は思いのほかあっさり満足して、「半助でも二枚ありゃあ結構だ。姉さん、お前さんは物の分かるいい人だ。きっと出世しますよ」

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男は存外造作なく満足して、「半助でも二枚ありやあ結構だ、えさん、お前さんは分りのい人だ、きっと出世しますよ」

と言って、覚束ない足を踏みしめて帰った。

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と云って、覚束ない足を踏み締めて帰った。

こんな出来事があったので、お玉は心細くてならず、「隣を買う」

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こんな出来事があったので、お玉は心細くてならぬ所から、「隣を買う」

という事も覚えて、変わったおかずでもこしらえた時は、一人暮らしをしている右隣の裁縫のお師匠さんの所へ、梅に持たせてやるようになった。

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と云うことをも覚えて、変った菜でもこしらえた時は、一人暮らしでいる右隣の裁縫のお師匠さんの所へ、梅に持たせて遣るようになった。

師匠はお貞といって、四十を越しているのに、まだどこか若く見えるところのある、色の白い女である。

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師匠はおていと云って、四十を越しているのに、まだどこやら若く見える所のある、色の白い女である。

前田家の奥で三十になるまで勤め、夫を持ったが、間もなく先立たれてしまったという。

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前田家の奥で、三十になるまで勤めて、夫を持ったが間もなく死なれてしまったと云う。

言葉づかいが上品で、お家流の字をよく書く。

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詞遣が上品で、お家流の手を好く書く。

お玉が手習いをしたいと言った時、手本などを貸してくれた。

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お玉が手習がしたいと云った時、手本などを貸してくれた。

ある日の朝、お貞が裏口から、前の日にお玉がやった何かの礼を言いに来た。

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或る日の朝お貞が裏口から、前日にお玉の遣った何やらの礼を言いに来た。

しばらく立ち話をしているうちに、お貞が「あなた、岡田さんとお近づきなのですね」

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暫く立話をしているうちに、お貞が「あなた岡田さんがお近づきですね」

と言った。

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と云った。

お玉はまだ岡田という名を知らない。

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お玉はまだ岡田と云う名を知らない。

それでいて、お師匠さんの言うのはあの学生さんの事だという事、こう聞かれるのは自分に会釈をした所を見られたのだという事、この場合はいやでも知ったふりをしなくてはならないという事などが、稲妻のように頭をかすめて過ぎた。

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それでいて、お師匠さんの云うのはあの学生さんの事だと云うこと、こう聞かれるのは自分に辞儀をした所を見られたのだと云うこと、この場合では厭でも知った振をしなくてはならぬと云うことなどが、稲妻のように心頭をかすめて過ぎた。

そして、ためらった跡をお貞が気づかないほど素早く、「ええ」

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そして遅疑した跡をお貞が認め得ぬ程すみやかに、「ええ」

と答えた。

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と答えた。

「あんなに立派な方でいて、たいそう品行がよくていらっしゃるのですってね」

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「あんなお立派な方でいて、大層品行が好くてお出なさるのですってね」

とお貞が言った。

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とお貞が云った。

「あなた、よく御存じね」

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「あなた好く御存じね」

と大胆にお玉が言った。

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と大胆にお玉が云った。

「上条のお上さんも、大勢学生さんたちが下宿していても、あんな方はほかにないと言っていますの」

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「上条のお上さんも、大勢学生さん達が下宿していなすっても、あんな方は外にないと云っていますの」

こう言っておいて、お貞は帰った。

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こう云って置いて、お貞は帰った。

お玉は自分が褒められたような気がした。

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お玉は自分が褒められたような気がした。

そして「上条、岡田」

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そして「上条、岡田」

と口の中で繰り返した。

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と口の内で繰り返した。

拾漆

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拾漆じゅうしち

お玉の所へ末造が来る回数は、時が経つにつれて少なくはならず、かえって多くなった。

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お玉の所へ末造の来る度数は、時の立つに連れて少くはならないで、かえって多くなった。

これまでのように決まって晩に来るほかに、不規則な時間にちょいちょい来るようになったのである。

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それはこれまでのようにまって晩に来る外に、不規則な時間にちょいちょい来るようになったのである。

なぜそうなったかというと、女房のお常がうるさくつきまとって、どうかしてくれ、どうかしてくれと言うので、ふいと逃げ出して無縁坂へ来るからである。

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なぜそうなったかと云うに、女房のお常がうるさく附きまとって、どうかしてくれ、どうかしてくれと云うので、ふいと逃げ出して無縁坂へ来るからである。

いつも末造がそんな時、どうもする事はない、これまで通りにしていればいいのだと言うと、どうにかしなくてはいられないと言って、実家へ帰れない事や、子供を手放せない事や、自分が年を取った事や、つまり暮らし向きを変えることに対するあらゆる障害を並べ立てて口説き立てる。

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いつも末造がそんな時、どうもすることはない、これまで通りにしていればいのだと云うと、どうにかしなくてはいられぬと云って、里へ帰られぬ事や、子供の手放されぬ事や、自分の年を取った事や、つまり生活状態の変更に対するあらゆる障碍しょうがいを並べて口説き立てる。

それでも末造は、どうもする事はない、どうもしなくてもいいと繰り返す。

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それでも末造はどうもすることはない、どうもしなくても好いと繰り返す。

そのうちにお常は次第に腹を立ててきて、手のつけられないようになる。

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そのうちにお常は次第に腹を立てて来て、手が附けられぬようになる。

そこで飛び出すことになっている。

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そこで飛び出すことになっている。

何事も理屈っぽく、数学的に物を考える末造には、お常の言っている事が不思議でならない。

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何事も理窟りくつっぽく、数学的に物を考える末造がめには、お常の言っている事が不思議でならない。

ちょうど一方が開け放たれ、三方が壁でふさがれた部屋の、その開け放たれた戸口を背にして立っていながら、どちらへも行けないと言って悶え苦しむ人を見るような気がする。

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丁度一方が開け放されて、三方が壁でふさがれているの、その開け放された戸口を背にして立っていて、どちらへもかれぬと云って、悶え苦む人を見るような気がする。

戸口は開け放されているではないか。

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戸口は開け放されているではないか。

なぜ振り返って見ないのだと言うよりほかに、その人に向かって言うべき言葉はない。

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なぜ振り返って見ないのだと云うより外に、その人に対して言うべき詞はない。

お常の身の上はこれまでより楽になりこそすれ、少しも圧制も、締めつけも、束縛も受けてはいない。

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お常の身の上はこれまでより楽にこそなっているが、少しも圧制だの窘迫きんぱくだの掣肘せいちゅうだのを受けてはいない。

なるほど無縁坂というものが新しくできたのには違いない。

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なるほど無縁坂と云うものが新に出来たには相違ない。

しかし世間の男のように、自分はそのために女房に冷淡になったとか、苛酷になったとかいう事はない。

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しかし世間の男のように、自分はその為めに、女房に冷澹れいたんになったとか、苛酷になったとか云うことはない。

むしろこれまでよりは親切に、寛大に扱っている。

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むしろこれまでよりは親切に、寛大に取り扱っている。

戸口は依然として開け放されているではないか、と思うのである。

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戸口は依然として開け放されているではないかと思うのである。

もちろん末造のこういう考えには身勝手が混じっている。

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無論末造のこう云う考には、身勝手が交っている。

なぜなら、物質的に女房にしてやる事がこれまでと変わらないにしても、また自分が女房に対する言葉や態度が変わらないにしても、お玉というものがいる今を、いなかった昔と同じように思えというのは無理な要求である。

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なぜと云うに、物質的に女房に為向ける事がこれまでと変らぬにしても、又自分が女房に対する詞や態度が変らぬにしても、お玉と云うものがいる今を、いなかった昔と同じように思えと云うのは、無理な要求である。

お常にとっては目の中の棘になっているお玉ではないか。

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お常がために目の内のとげになっているお玉ではないか。

それを抜いて安心させてやろうという気は、自分にはないではないか。

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それを抜いて安心させて遣ろうと云う意志が自分には無いではないか。

もとよりお常は物事に筋道を立てて考えるような女ではないから、そんな事をはっきり意識してはいないが、末造の言う戸口は、依然として開け放されてはいない。

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もとよりお常は物事に筋道を立てて考えるような女ではないから、そんな事をはっきり意識してはいぬが、末造のう戸口が依然として開け放されてはいない。

お常が今の安心や先々の望みを覗く戸口には、重苦しい黒い影が落ちているのである。

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お常が現在の安心や未来の希望をのぞく戸口には、重くろしい、黒い影が落ちているのである。

ある日、末造は喧嘩をして、家をひょいと飛び出した。

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或る日末造は喧嘩けんかをして、内をひょいと飛び出した。

時刻は午前十時過ぎでもあっただろう。

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時刻は午前十時過ぎでもあっただろう。

すぐに無縁坂へ行こうかとも思ったが、あいにく女中が小さい子を連れて七軒町の通りにいたので、わざと切通しの方へ抜けて、どこへ行くという当てもなしに、天神町から五軒町へと、忙しそうに歩いて行った。

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直ぐに無縁坂へ往こうかとも思ったが、生憎女中が小さい子を連れて、七軒町の通にいたので、わざと切通きりどおしの方へ抜けて、どこへ往くと云う気もなしに、天神町から五軒町へと、忙がしそうに歩いて行った。

時々「くそ」

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折々「くそ

「畜生」

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「畜生」

などという、はしたない言葉を口の中でつぶやいているのである。

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などと云う、いかがわしい単語を口の内でつぶやいているのである。

昌平橋にさしかかる時、向こうから芸者が来た。

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昌平橋に掛かる時、向うから芸者が来た。

どこかお玉に似ていると思って、そばをすれ違うのをよく見ると、顔はそばかすだらけであった。

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どこかお玉に似ていると思って、わきを摩れ違うのを好く見れば、顔は雀斑そばかすだらけであった。

やはりお玉の方が別嬪だなと思うと同時に、心に愉快と満足とを覚えて、しばらく足を橋の上に止めて、芸者の後ろ姿を見送った。

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ぱりお玉の方が別品だなと思うと同時に、心に愉快と満足とを覚えて、暫く足を橋の上にめて、芸者の後影うしろかげを見送った。

たぶん買物にでも出たのだろう、そばかす芸者は講武所の横町へ姿を消してしまった。

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多分買物にでも出たのだろう、雀斑芸者は講武所の横町へ姿を隠してしまった。

その頃まだ珍しい見物になっていた眼鏡橋のたもとを、柳原の方へ向いてぶらぶら歩いて行く。

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その頃まだ珍らしい見物みものになっていた眼鏡橋めがねばしたもとを、柳原の方へ向いてぶらぶら歩いて行く。

川岸の柳の下に大きな傘を張って、その下で十二、三の娘にかっぽれを踊らせている男がいる。

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川岸の柳の下に大きい傘を張って、その下で十二三の娘にかっぽれを踊らせている男がある。

その周りにはいつものように人が集まって見ている。

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その周囲にはいつものように人が集まって見ている。

末造がちょっと足を止めて踊りを見ていると、印半纏を着た男がぶつかりそうにして、よけて行った。

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末造がちょいと足を駐めて踊を見ていると、印半纏を着た男がっ附かりそうにして、けて行った。

目ざとく振り返った末造と、その男は目を見合わせ、男はすぐに背中を向けて通り過ぎた。

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目ざとく振り返った末造と、その男は目を見合せて直ぐに背中を向けて通り過ぎた。

「なんだ、目先の見えない奴だ」

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「なんだ、目先の見えねえ」

とつぶやきながら、末造は袖に入れていた手で懐を探った。

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とつぶやきながら、末造は袖に入れていた手で懐中をさぐった。

もちろん何も取られてはいなかった。

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無論何も取られてはいなかった。

このすりは実際、目先が見えなかったのである。

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この攫徒すりは実際目先が見えぬのであった。

なぜなら、末造は夫婦喧嘩をした日には神経が張りつめていて、普段なら気づかないほどの事にも気がつく。

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なぜと云うに、末造は夫婦喧嘩をした日には、神経が緊張していて、不断気の附かぬ程の事にも気が附く。

鋭い感覚がいっそう鋭くなっている。

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鋭敏な感覚が一層鋭敏になっている。

すりの方に、すろうという気が起こるより先に、末造はそれを感じ取るくらいである。

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攫徒の方ですろうと云う意志が生ずるに先だって、末造はそれを感ずる位である。

こんな時には、自分を抑えられる事を誇りにしている末造も、いくらかその抑えが緩んでいる。

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こんな時には自己を抑制することの出来るのを誇っている末造も、多少その抑制力がゆるんでいる。

しかしたいていの人にはそれが分からない。

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しかし大抵の人にはそれが分からない。

もし非常に感覚の鋭い人がいて、細かく末造を観察したら、彼が普段よりやや饒舌になっているのに気がつくだろう。

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若し非常に感覚の鋭敏な人がいて、細かに末造を観察したら、彼が常よりやや能弁になっているのに気が附くだろう。

そして彼が人の世話を焼いたり、人に親切らしい事を言ったりする言葉や振る舞いのどこかに、あわただしいような、やや不自然なところがあるのを認めるだろう。

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そして彼の人の世話を焼いたり、人に親切らしい事を言ったりする言語挙動の間に、どこか慌ただしいような、稍不自然なところのあるのを認めるだろう。

もう家を飛び出してからよほど時間が経ったように思って、川岸を引き返しながら懐中時計を出して見た。

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もう内を飛び出してから余程時間が立ったように思って、川岸を跡へ引き返しつつ懐時計ふところどけいを出して見た。

まだやっと十一時である。

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まだやっと十一時である。

家を出てから三十分も経ってはいないのである。

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内を出てから三十分も立ってはいぬのである。

末造はまた、どこを当てともなしに、淡路町から神保町へと、何か急な用事でもありそうな様子をして歩いて行く。

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末造は又どこを当ともなしに、淡路町あわじちょうから神保町じんぼうちょうへ、何か急な用事でもありそうな様子をして歩いて行く。

今川小路の少し手前に、御茶漬という看板を出した家がその頃あった。

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今川小路の少し手前に御茶漬と云う看板を出した家がその頃あった。

二十銭ばかりで膳を据えて、香の物に茶まで出す。

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二十銭ばかりでお膳を据えて、香の物に茶まで出す。

末造はこの家を知っているので、昼を食べに寄ろうかと思ったが、それにはまだ少し早かった。

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末造はこの家を知っているので、ひるを食べに寄ろうかと思ったが、それにはまだ少し早かった。

そこを通り過ぎると、右へ回って爼橋の手前の広い町に出る。

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そこを通り過ぎると、右へ廻って爼橋まないたばしの手前の広い町に出る。

この町は、今のように駿河台の下まで広々と続いていたのではない。

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この町は今のように駿河台するがだいの下まで広々と附いていたのではない。

ほとんど袋小路のように、今末造の来た方角へ曲がる所で終わっていて、そこから先は、医学生が虫様突起と名づけた狭い横町が、あの山岡鉄舟の字を柱に彫りつけた社の前を通っていた。

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殆ど袋町ふくろまちのように、今末造の来た方角へ曲がる処で終って、それから医学生が虫様突起と名づけた狭い横町が、あの山岡鉄舟の字を柱に掘り附けたやしろの前を通っていた。

これは袋小路めいた、爼橋の手前の広い町を盲腸にたとえたものである。

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これは袋町めいた、爼橋の手前の広い町を盲腸にたとえたものである。

末造は爼橋を渡った。

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末造は爼橋を渡った。

右側に飼い鳥を売る店があって、いろいろな鳥の賑やかなさえずりが聞こえる。

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右側に飼鳥かいとりを売る店があって、いろいろな鳥のにぎやかなさえずりが聞える。

末造は今でも残っているこの店の前に立ち止まって、軒に高く吊ってある鸚鵡やいんこの籠、下に置き並べてある白鳩や朝鮮鳩の籠などを眺め、それから奥の方に幾段にも積み重ねてある小鳥の籠に目を移した。

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末造は今でも残っているこの店の前に立ち留まって、のきに高くってある鸚鵡おうむ秦吉了いんこかご、下に置き並べてある白鳩しらはとや朝鮮鳩の籠などを眺めて、それから奥の方に幾段にも積みかさねてある小鳥の籠に目を移した。

鳴くのも飛び回るのも、この小さい連中が一番声高で一番活発だが、中でも目立って籠の数が多く賑やかなのは、明るい黄色の外国種のカナリアたちであった。

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くにも飛び廻るにも、この小さい連中が最も声高こわだかで最も活溌であるが、中にも目立って籠の数が多く、賑やかなのは、明るい黄いろな外国だねのカナリア共であった。

しかしなおよく見ているうちに、沈んだ強い色で小さい体を彩られている紅雀が末造の目を引いた。

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しかしなお好く見ているうちに、沈んだ強い色で小さい体を彩られている紅雀べにすずめが末造の目を引いた。

末造はふと、あれを買って持って行き、お玉に飼わせておいたら、さぞ似合うだろうと感じた。

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末造はふいとあれを買って持って往って、お玉に飼わせて置いたら、さぞふさわしかろうと感じた。

そこで、あまり売りたがりもしなさそうな様子をしている爺さんに値を聞いて、一つがいの紅雀を買った。

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そこで余り売りたがりもしなさそうな様子をしている爺いさんに値を問うて、一つがいの紅雀を買った。

代金を払ってしまうと、爺さんはどうやって持って行くのかと尋ねた。

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代を払ってしまった時、爺いさんはどうして持って行くかと問うた。

籠に入れて売るのではないのかと言えば、そうではないと言う。

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籠に入れて売るのではないかと云えば、そうでないと云う。

ようやく籠を一つ、頼み込むようにして売ってもらい、それに紅雀を入れさせた。

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ようよう籠を一つ頼むようにして売って貰って、それに紅雀を入れさせた。

何羽もいる籠へ、しなびた手を荒々しく差し込んで、二羽つかみ出して空の籠に移し入れるのである。

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幾羽もいる籠へ、しなびた手をあらあらしく差し込んで、二羽つかみ出して、空籠からかごに移し入れるのである。

それで雌雄が分かるのかと言えば、しぶしぶ「へえ」

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それでめすおすが分かるかと云えば、しぶしぶ「へえ」

と返事をした。

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と返事をした。

末造は紅雀の籠を提げて爼橋の方へ引き返した。

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末造は紅雀の籠を提げて爼橋の方へ引き返した。

今度は歩き方がゆるやかになって、時々籠を持ち上げては、中の鳥を覗いてみた。

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こん度は歩き方が緩やかになって、折々籠を持ち上げては、中の鳥を覗いて見た。

喧嘩をして家を飛び出した気分は拭い去ったように消えてしまい、普段この男のどこかに潜んでいる優しい心が表に浮かび出ている。

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喧嘩をして内を飛び出した気分が、拭い去ったように消えてしまって、不断この男のどこかに潜んでいる、優しい心が表面に浮び出ている。

籠の中の鳥は、籠の揺れるのを恐れてか、止まり木をしっかりつかんで、羽をすぼめるようにして身動きもしない。

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籠の中の鳥は、籠の揺れるのをおそれてか、止まり木をしっかり攫んで、羽をすぼめるようにして、身動きもしない。

末造は覗いてみるたびに、早く無縁坂の家へ持って行って、窓の所に吊るしてやりたいと思った。

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末造は覗いて見る度に、早く無縁坂の家に持って往って、窓の所に弔るして遣りたいと思った。

今川小路を通る時、末造は茶漬屋に寄って昼食をとった。

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今川小路を通る時、末造は茶漬屋に寄って午食ひるしょくをした。

女中が据えた黒塗りの膳の向こうに紅雀の籠を置いて、目には可愛らしい小鳥を見、心には可愛らしいお玉の事を思いながら、末造はさして御馳走でもない茶漬屋の飯をうまそうに食った。

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女中の据えた黒塗の膳の向うに、紅雀の籠を置いて、目に可哀らしい小鳥を見、心に可哀らしいお玉の事を思いつつ、末造は余り御馳走でもない茶漬屋の飯をうまそうに食った。

拾捌

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拾捌じゅうはち

末造がお玉に買ってやった紅雀は、思いがけずお玉と岡田とが言葉を交わす仲立ちとなった。

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末造がお玉に買って遣った紅雀は、図らずもお玉と岡田とがことばを交すなかだちとなった。

この話をしかけたので、僕はあの年の気候の事を思い出した。

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この話をし掛けたので、僕はあの年の気候の事を思い出した。

あの頃は、亡くなった父が秋草を北千住の家の裏庭に作っていたので、土曜日に上条から父の所へ帰ってみると、もう二百十日が近いからと言って、篠竹をたくさん買って来て、女郎花や藤袴に一本一本それを立て添えて縛っていた。

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あの頃は亡くなった父が秋草を北千住きたせんじゅの家の裏庭に作っていたので、土曜日に上条から父の所へ帰って見ると、もう二百十日が近いからと云って、篠竹しのだけを沢山買って来て、女郎花おみなえしやら藤袴ふじばかまやらに一本一本それを立てえて縛っていた。

しかし二百十日は無事に過ぎてしまった。

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しかし二百十日は無事に過ぎてしまった。

それから二百二十日が危ないと言っていたが、それも無事に過ぎた。

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それから二百二十日があぶないと云っていたが、それも無事に過ぎた。

しかしその頃から毎日毎日、雲の様子が不穏になって、荒れ模様が見える。

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しかしその頃から毎日毎日雲のたたずまいが不穏になって、暴模様あれもようが見える。

時々また夏に戻ったかと思うような蒸し暑い日がある。

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折々又夏に戻ったかと思うような蒸暑いことがある。

東南から吹く風が強くなりそうになっては、また止む。

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たつみから吹く風が強くなりそうになっては又む。

父は、二百十日が「なしくずし」

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父は二百十日が「なしくずし」

になったのだと言っていた。

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になったのだと云っていた。

僕はある日曜日の夕方に、北千住から上条へ帰って来た。

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僕は或る日曜日の夕方に、北千住から上条へ帰って来た。

書生はみな外へ出ていて、下宿屋はひっそりしていた。

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書生は皆外へ出ていて、下宿屋はひっそりしていた。

自分の部屋へ入ってしばらくぼんやりしていると、今まで誰もいないと思っていた隣の部屋でマッチを擦る音がする。

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自分の部屋へ這入はいって、しばらくぼんやりしていると、今まで誰もいないと思っていた隣の部屋でマッチをる音がする。

僕は寂しく思っていた時だから、すぐに声をかけた。

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僕は寂しく思っていた時だから、直ぐに声を掛けた。

「岡田君。いたのか」

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「岡田君。いたのか」

「うん」

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「うん」

返事だか何だか分からないような声である。

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返事だか、なんだか分からぬような声である。

僕と岡田とは随分親しくなって、他人行儀はしなくなっていたが、それにしてもこの時の返事はいつもとは違っていた。

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僕と岡田とは随分心安くなって、他人行儀はしなくなっていたが、それにしてもこの時の返事はいつもとは違っていた。

僕は腹の中で思った。

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僕は腹の中で思った。

こちらもぼんやりしていたが、岡田もやはりぼんやりしていたようだ。

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こっちもぼんやりしていたが、岡田もぱりぼんやりしていたようだ。

何か考え込んでいたのではあるまいか。

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何か考え込んでいたのではあるまいか。

そう思うと同時に、岡田がどんな顔をしているか見たいような気がした。

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こう思うと同時に、岡田がどんな顔をしているか見たいような気がした。

そこで重ねて声をかけてみた。

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そこで重ねて声を掛けて見た。

「君、邪魔をしに行ってもいいかい」

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「君、邪魔をしに往ってもいかい」

「いいどころじゃない。実はさっき帰ってからぼんやりしていた所へ、君が隣へ帰って来てがたがた音を立てたので、思い切って明かりでもつけようという気になったのだ」

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「好いどころじゃない。実はさっき帰ってからぼんやりしていた所へ、君が隣へ帰って来てがたがた云わせたので、奮って明りでも附けようと云う気になったのだ」

今度は声がはっきりしている。

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こん度は声がはっきりしている。

僕は廊下に出て、岡田の部屋の障子を開けた。

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僕は廊下に出て、岡田の部屋の障子を開けた。

岡田はちょうど鉄門の真向かいになっている窓を開けて、机に肘をついて、暗い外の方を見ている。

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岡田は丁度鉄門の真向いになっている窓を開けて、机にひじいて、暗い外の方を見ている。

縦に鉄の棒を打ちつけた窓で、その外には犬走りに植えた檜が二、三本、埃を浴びて立っているのである。

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たてに鉄の棒を打ち附けた窓で、その外には犬走りに植えた側柏ひのきが二三本ほこりを浴びて立っているのである。

岡田は僕の方へ振り向いて言った。

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岡田は僕の方へ振り向いて云った。

「今日もまた妙にむしむしするじゃないか。僕の所には蚊が二、三匹いて、うるさくてしようがない」

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「きょうも又妙にむしむしするじゃないか。僕の所には蚊が二三びきいてうるさくてしようがない」

僕は岡田の机の横の方にあぐらをかいた。

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僕は岡田の机の横の方に胡坐あぐらいた。

「そうだねえ。僕の親父は二百十日のなしくずしと言っている」

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「そうだねえ。僕の親父は二百十日のなし崩しと称している」

「ふん。二百十日のなしくずしとは面白いねえ。なるほどそうかも知れないよ。僕は空が曇ったり晴れたりしているものだから、出ようかどうしようかと思って、とうとう午前中ずっと寝転んで、君に借りた金瓶梅を読んでいたのだ。それから頭がぼうっとしてきたので、昼飯を食ってからぶらぶら出掛けると、妙な事に出くわしてねえ」

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「ふん。二百十日のなし崩しとは面白いねえ。なる程そうかも知れないよ。僕は空が曇ったり晴れたりしているもんだから、出ようかどうしようかと思って、とうとう午前の間中寝転んで、君に借りた金瓶梅きんぺいばいを読んでいたのだ。それから頭がぼうっとして来たので、午飯ひるめしを食ってからぶらぶら出掛けると、妙な事に出逢ってねえ」

岡田は僕の顔を見ずに、窓の方を向いてこう言った。

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岡田は僕の顔を見ずに、窓の方へ向いてこう云った。

「どんな事だい」

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「どんな事だい」

「蛇退治をやったのだ」

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「蛇退治を遣ったのだ」

岡田は僕の方へ顔を向けた。

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岡田は僕の方へ顔を向けた。

「美人でも助けたのじゃないか」

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「美人をでも助けたのじゃないか」

「いや。助けたのは鳥だがね、美人にも関係しているのだよ」

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「いや。助けたのは鳥だがね、美人にも関係しているのだよ」

「それは面白い。話して聞かせたまえ」

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「それは面白い。話して聞かせ給え」

拾玖

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拾玖じゅうく

岡田はこんな話をした。

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岡田はこんな話をした。

雲があわただしく飛び、狂おしい風がひと吹き、ふた吹き、ぶつかるように起こっては町の塵を巻き上げ、また止む昼過ぎに、半日読んだ中国の小説に頭を痛めた岡田は、どこへ行くという当てもなしに上条の家を出て、習慣のままに無縁坂の方へ曲がった。

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雲が慌ただしく飛んで、物狂おしい風が一吹二吹衝突的に起って、ちまたちりき上げては又む午過ぎに、半日読んだ支那小説に頭を痛めた岡田は、どこへ往くと云う当てもなしに、上条の家を出て、習慣に任せて無縁坂の方へ曲がった。

頭はぼんやりしていた。

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頭はぼんやりしていた。

だいたい中国の小説はどれもそうだが、中でも金瓶梅は、平穏な叙述が十枚か二十枚か続いたと思うと、決まったようにとんでもない事が書いてある。

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一体支那小説はどれでもそうだが、中にも金瓶梅は平穏な叙事が十枚か二十枚かあると思うと、約束したようにしからん事が書いてある。

「あんな本を読んだ後だからねえ、僕はさぞ間の抜けた顔をして歩いていただろうと思うよ」

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「あんな本を読んだ跡だからねえ、僕はさぞ馬鹿げた顔をして歩いていただろうと思うよ」

と、岡田は言った。

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と、岡田は云った。

しばらくして右側が岩崎の屋敷の石垣になり、道が爪先下がりになった頃、左側に人だかりがしているのに気がついた。

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暫くして右側が岩崎の屋敷の石垣になって、道が爪先下つまさきさがりになった頃、左側に人立ちのしているのに気が附いた。

それがちょうど、いつも自分がことさら見ながら通る家の前だったのだが、その事だけは、岡田は話す時に打ち明けずじまいだった。

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それが丁度いつも自分の殊更に見て通る家の前であったが、その事だけは岡田が話す時打ち明けずにしまった。

集まっているのは女ばかりで、十人ばかりもいただろう。

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集まっているのは女ばかりで、十人ばかりもいただろう。

大半は小娘だから、小鳥がさえずるように何やら言って騒いでいる。

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大半は小娘だから、小鳥の囀るように何やら言ってさわいでいる。

岡田は何事とも分からず、またそれを知ろうという好奇心を起こす暇もなく、今まで道の真ん中を歩いていた足を二、三歩そちらへ向けた。

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岡田は何事もわきまえず、又それを知ろうと云う好奇心を起すひまもなく、今まで道の真ん中を歩いていた足を二三歩その方へ向けた。

大勢の女の目がただ一つの物に集まっているので、岡田はその視線をたどってこの騒ぎの元を見つけた。

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大勢の女の目が只一つの物に集注しているので、岡田はその視線を辿たどってこの騒ぎの元を見附けた。

それはその家の格子窓の上に吊るしてある鳥籠である。

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それはそこの家の格子窓の上にるしてある鳥籠とりかごである。

女たちが騒ぐのも無理はない。

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女共の騒ぐのも無理は無い。

岡田もその籠の中の様子を見て驚いた。

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岡田もその籠の中の様子を見て驚いた。

鳥はばたばたと羽ばたきをして、鳴きながら狭い籠の中を飛び回っている。

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鳥はばたばた羽ばたきをして、きながら狭い籠の中を飛び廻っている。

何が鳥に不安を与えているのかと思ってよく見ると、大きな青大将が首を籠の中に入れているのである。

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何物が鳥に不安を与えているのかと思って好く見れば、大きい青大将が首を籠の中に入れているのである。

頭を楔のように細い竹と竹との間へ押し込んだものと見えて、籠はちょっと見たところでは破れていない。

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頭をくさびのように細い竹と竹との間に押し込んだものと見えて、籠は一寸ちょっと見た所では破れてはいない。

蛇は自分の体の太さの入口を開けて首を入れたのである。

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蛇は自分の体のおおきさの入口を開けて首を入れたのである。

岡田はよく見ようと思って二、三歩進んだ。

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岡田は好く見ようと思って二三歩進んだ。

小娘たちが肩を並べている後ろに立つことになったのである。

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小娘共の肩を並べている背後うしろに立つようになったのである。

小娘たちは申し合わせたように岡田を助け手として迎える気になったらしく、道を開けて岡田を前へ出した。

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小娘共は言い合せたように岡田を救助者として迎える気になったらしく、道を開いて岡田を前へ出した。

岡田はこの時また新しい事実を見つけた。

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岡田はこの時又新しい事実を発見した。

それは鳥が一羽ではないという事である。

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それは鳥が一羽いちわではないと云う事である。

羽ばたきをして逃げ回っている鳥のほかに、同じ羽色の鳥がもう一羽、すでに蛇にくわえられている。

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羽ばたきをして逃げ廻っている鳥の外に、同じ羽色の鳥が今一羽もう蛇にくわえられている。

片方の羽の全部を口に含まれているに過ぎないのに、恐ろしさのためか死んだようになって、もう一方の羽をぐたりと垂らし、体が綿のようになっている。

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片方の羽の全部を口に含まれているに過ぎないのに、恐怖のためか死んだようになって、一方の羽をぐたりと垂れて、体が綿のようになっている。

この時、家の主人らしい少し年上の女が、あわてた様子で、それでいて遠慮がちに岡田に声をかけた。

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この時家の主人らしい稍年上の女が、慌ただしげに、しかも遠慮らしく岡田に物を言った。

蛇をどうにかしてもらうわけにはいくまいか、と言うのである。

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蛇をどうかしてくれるわけには行くまいかと云うのである。

「お隣へお針のお稽古に来ていらっしゃる皆さんが、すぐに大勢でいらしてくださったのですが、どうも女の手ではどうする事もできませんでございます」

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「お隣へお為事しごとのお稽古けいこに来ていらっしゃる皆さんが、すぐに大勢でいらっしゃって下すったのですが、どうも女の手ではどうする事も出来ませんでございます」

と女は言い足した。

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と女は言い足した。

小娘の中の一人が、「この方が鳥の騒ぐのを聞いて、障子を開けて見て、蛇を見つけなさった時、きゃっと声をお立てになったものですから、わたしたちはお針を置いて皆出て来ましたが、本当にどうする事もできませんの。お師匠さんはお留守ですけれど、いらしたっておばあさんの方ですから駄目ですわ」

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小娘の中の一人が、「この方が鳥の騒ぐのを聞いて、障子を開けて見て、蛇を見附けなすった時、きゃっと声を立てなすったもんですから、わたし共はお為事を置いて、皆出て来ましたが、本当にどうもいたすことが出来ませんの、お師匠さんはお留守ですが、いらっしゃったってお婆あさんのかたですから駄目ですわ」

と言った。

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と云った。

師匠は日曜日に休まず、一と六のつく日に休むので、弟子が集まっていたのである。

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師匠は日曜日に休まずに一六いちろくに休むので、弟子が集まっていたのである。

この話をする時、岡田は「その主人の女というのが、なかなかの別嬪なのだよ」

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この話をする時岡田は、「その主人の女と云うのがなかなか別品なのだよ」

と言った。

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と云った。

しかし、前から顔を見知っていて、通るたびに挨拶をする女だとは言わなかった。

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しかし前から顔を見知っていて、通る度に挨拶をする女だとは云わなかった。

岡田は返事をするより先に、籠の下へ近寄って蛇の様子を見た。

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岡田は返辞をするより先きに、籠の下へ近寄って蛇の様子を見た。

籠は隣の裁縫の師匠の家の方へ寄せて窓に吊るしてあり、蛇はこの家と隣家との間から庇の下を伝って籠に狙い寄り、首を差し込んだのである。

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籠は隣の裁縫の師匠の家の方に寄せて、窓に吊るしてあって、蛇はこの家と隣家との間から、ひさしの下をつたって籠にねらい寄って首を挿し込んだのである。

蛇の体は縄をかけたように庇の腕木を横切っていて、尾はまだ隅の柱の先に隠れている。

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蛇の体は縄を掛けたように、庇の腕木を横切っていて、尾はまだ隅の柱のさきに隠れている。

随分長い蛇である。

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随分長い蛇である。

どうせ草木の茂った加賀屋敷のどこかに住んでいたのが、この頃の気圧の変わり方を感じてさまよい出て、途中でこの籠の鳥を見つけたものだろう。

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いずれ草木くさきの茂った加賀屋敷のどこかに住んでいたのがこの頃の気圧の変調を感じてさまよい出て、途中でこの籠の鳥を見附けたものだろう。

岡田もどうしようかと、ちょっと迷った。

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岡田もどうしようかとちょいと迷った。

女たちがどうする事もできなかったのは無理もないのである。

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女達がどうもすることの出来なかったのは無理も無いのである。

「何か刃物はありませんか」

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「何か刃物はありませんか」

と岡田は言った。

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と岡田は云った。

主人の女が一人の小娘に、「あの台所にある出刃を持っておいで」

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主人の女が一人の小娘に、「あの台所にある出刃を持っておで」

と言いつけた。

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と言い附けた。

その娘は女中だったと見えて、稽古に隣へ来ているという他の娘たちと同じような浴衣を着た上に、紫のメリンスでくけた襷をかけていた。

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その娘は女中だったと見えて、稽古に隣へ来ていると云う外の娘達と同じような湯帷子ゆかたを着た上に紫のメリンスでくけたたすきを掛けていた。

魚を切る包丁で蛇を切られては困るとでも思ったのか、娘は抗議をするような目つきをして主人の顔を見た。

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さかなを切る庖刀ほうちょうで蛇を切られては困るとでも思ったか、娘は抗議をするような目附きをして主人の顔を見た。

「いいよ、お前の使うのは新しく買ってやるから」

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「好いよ、お前の使うのは新らしく買ってるから」

と主人が言った。

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と主人が云った。

娘は納得がいったと見えて、駆けて内へ入り、出刃包丁を取って来た。

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娘は合点が行ったと見えて、駆けて内へ這入って出刃庖刀を取って来た。

岡田は待ちかねたようにそれを受け取り、履いていた下駄を脱ぎ捨てて、肱掛窓へ片足をかけた。

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岡田は待ち兼ねたようにそれを受け取って、穿いていた下駄を脱ぎ棄てて、肱掛窓ひじかけまどへ片足を掛けた。

体操は彼の得意とするところである。

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体操は彼の長技である。

左の手はもう庇の腕木を握っている。

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左の手はもう庇の腕木を握っている。

岡田は、包丁が新しくてもさほど鋭くはないと分かっていたので、初めから一撃で切ろうとはしない。

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岡田は庖刀が新しくはあっても余り鋭利でないことを知っていたので、初から一撃に切ろうとはしない。

包丁で蛇の体を腕木に押しつけるようにして、ぐりぐりと刃を二、三度前後に動かした。

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庖刀で蛇の体を腕木に押し附けるようにして、ぐりぐりと刃を二三度前後に動かした。

蛇の鱗が切れる時、ガラスを砕くような手ごたえがした。

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蛇のうろこの切れる時、硝子がらすを砕くような手ごたえがした。

この時、蛇はもう羽をくわえていた鳥の頭を頬の中へ手繰り込んでいたが、体に重い傷を負って、波が起き伏すような動きをしながら、獲物を口から吐こうともせず、首を籠から抜こうともしなかった。

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この時蛇はもう羽を銜えていた鳥の頭を頬のうちに手繰り込んでいたが、体に重傷を負って、波の起伏のような運動をしながら、獲物を口から吐こうともせず、首を籠から抜こうともしなかった。

岡田が手を緩めずに包丁を五、六度も前後に動かしたかと思う時、鋭くもない刃がとうとう、まな板の上の肉のように蛇を両断した。

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岡田は手を弛めずに庖刀を五六度も前後に動かしたかと思う時、鋭くもない刃がとうとう蛇を爼上そじょうの肉の如くに両断した。

絶えず体に波を打たせていた蛇の下半身が、まずばたりと、竜の髭の植えてある雨だれ落ちの上に落ちた。

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絶えず体に波を打たせていた蛇の下半身しもはんしんが、ずばたりと麦門冬りゅうのひげの植えてある雨垂落の上に落ちた。

続いて上半身が、這っていた窓の鴨居の上をはずれて、首を籠に差し込んだままぶらりと下がった。

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続いて上半身かみはんしんが這っていた窓の鴨居かもいの上をはずれて、首を籠に挿し込んだままぶらりと下がった。

鳥を半分くわえて膨らんだ頭が、弓なりにたわめられて折れずにいた籠の竹につかえて抜けないので、上半身の重みが籠にかかり、籠は四十五度ほどに傾いた。

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鳥を半分銜えてふくらんだ頭が、弓なりにめられて折れずにいた籠の竹につかえて抜けずにいるので、上半身の重みが籠に加わって、籠は四十五度位に傾いた。

その中では、生き残った一羽の鳥が、不思議に力を使い果たさずに、また羽ばたきをして飛び回っているのである。

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その中では生き残った一羽の鳥が、不思議に精力を消耗し尽さずに、また羽ばたきをして飛び廻っているのである。

岡田は腕木に絡めていた手を放して飛び降りた。

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岡田は腕木にからんでいた手を放して飛び降りた。

女たちはこの時まで一同息を詰めて見ていたが、二、三人はここまで見て裁縫の師匠の家へ入ってしまった。

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女達はこの時まで一同息をめて見ていたが、二三人はここまで見て裁縫の師匠のうちに這入った。

「あの籠を下ろして蛇の首を取らなくては」

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「あの籠を卸して蛇の首を取らなくては」

と言って、岡田は女主人の顔を見た。

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と云って、岡田は女主人の顔を見た。

しかし蛇の半身がぶらりと下がって、切り口から黒ずんだ血がぽたぽたと窓板の上に垂れているので、主人も女中も、内へ入って吊るしてある麻糸をはずす勇気がなかった。

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しかし蛇の半身がぶらりと下がって、切口から黒ずんだ血がぽたぽた窓板の上に垂れているので、主人も女中も内に這入って吊るしてある麻糸をはずす勇気がなかった。

その時、「籠を下ろしてあげましょうか」

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その時「籠を卸して上げましょうか」

と、すっとんきょうな声で言った者がいる。

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と、とんきょうな声で云ったものがある。

集まっている一同の目が、その声の方に向いた。

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集まっている一同の目はその声の方に向いた。

声の主は酒屋の小僧であった。

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声の主は酒屋の小僧であった。

岡田が蛇退治をしている間、寂しい日曜日の午後の無縁坂を通る者はなかったが、この小僧が一人通りかかって、くくり縄で縛った徳利と通い帳とをぶら下げたまま、蛇退治を見物していた。

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岡田が蛇退治をしている間、寂しい日曜日の午後に無縁坂を通るものはなかったが、この小僧がひとり通り掛って、括縄くぐなわで縛った徳利と通帳かよいちょうとをぶら下げたまま、蛇退治を見物していた。

そのうち蛇の下半身が竜の髭の上に落ちたので、小僧は徳利も帳面も捨てておいて、すぐに小石を拾って蛇の傷口を叩き、叩くたびにまだ死にきらない下半身が波を打つように動くのを眺めていたのである。

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そのうち蛇の下半身が麦門冬の上に落ちたので小僧は徳利も帳面も棄てて置いて、すぐに小石を拾って蛇の創口きずぐちを叩いて、叩く度にまだ死に切らない下半身が波を打つように動くのを眺めていたのである。

「それなら小僧さん、済みませんが」

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「そんなら小僧さん済みませんが」

と女主人が頼んだ。

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と女主人が頼んだ。

小さい女中が格子戸から小僧を連れて内へ入った。

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小さい女中が格子戸から小僧を連れて内へ這入った。

間もなく窓に現れた小僧は、万年青の鉢の置いてある窓板の上に登り、一生懸命に背伸びをして、籠を吊るしてある麻糸を釘からはずした。

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間もなく窓に現れた小僧は万年青おもとの鉢の置いてある窓板の上に登って、一しょう懸命背伸びをして籠を吊るしてある麻糸をくぎからはずした。

そして女中が受け取ってくれないので、小僧は籠を持ったまま窓板から降りて、戸口に回って外へ出た。

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そして女中が受け取ってくれぬので、小僧は籠を持ったまま窓板から降りて、戸口に廻って外へ出た。

小僧は一緒についてきた女中に、「籠はわたしが持っているから、あの血を掃除しなくちゃいけませんぜ。畳にも落ちましたからね」

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小僧は一しょに附いて来た女中に、「籠はわたしが持っているから、あの血を掃除しなくちゃ行けませんぜ、畳にも落ちましたからね」

と、得意そうに忠告した。

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と、高慢らしく忠告した。

「本当に、早く血を拭いておしまいよ」

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「本当に早く血をふいておしまいよ」

と、女主人が言った。

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と、女主人が云った。

女中は格子戸の中へ引き返した。

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女中は格子戸の中へ引き返した。

岡田は小僧の持って出た籠を覗いてみた。

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岡田は小僧の持って出た籠をのぞいて見た。

一羽の鳥は止まり木に止まって、ぶるぶる震えている。

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一羽の鳥は止まり木に止まって、ぶるぶるふるえている。

蛇にくわえられた鳥の体は、半分以上口の中に入っている。

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蛇に銜えられた鳥の体は半分以上口の中に這入っている。

蛇は体を切られながらも、最期の瞬間まで鳥を呑もうとしていたのである。

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蛇は体をられつつも、最期の瞬間まで鳥を呑もうとしていたのである。

小僧は岡田の顔を見て、「蛇を取りましょうか」

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小僧は岡田の顔を見て、「蛇を取りましょうか」

と言った。

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と云った。

「うん、取るのはいいが、首を籠の真ん中の所まで持ち上げて抜くようにしないと、まだ折れていない竹が折れるよ」

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「うん、取るのはいが、首を籠の真ん中の所まで持ち上げて抜くようにしないと、まだ折れていない竹が折れるよ」

と、岡田は笑いながら言った。

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と、岡田は笑いながら云った。

小僧はうまく首を抜き出して、指先で鳥の尻を引っ張ってみて、「死んでも放しやがらない」

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小僧は旨く首を抜き出して、指尖ゆびさきで鳥の尻を引っ張って見て、「死んでも放しゃあがらない」

と言った。

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と云った。

この時まで残っていた裁縫の弟子たちは、もう見る物がないと思ったのか、そろって隣の家の格子戸の内へ入った。

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この時まで残っていた裁縫の弟子達は、もう見る物が無いと思ったか、そろって隣の家の格子戸の内に這入った。

「さあ、僕もそろそろ失礼しましょう」

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「さあ僕もそろそろおいとまをしましょう」

と言って、岡田はあたりを見回した。

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と云って、岡田があたりを見廻した。

女主人はうっとりと何か考えているらしく見えていたが、この言葉を聞いて岡田の方を見た。

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女主人はうっとりと何か物を考えているらしく見えていたが、このことばを聞いて、岡田の方を見た。

そして何か言いそうにしてためらい、目をわきへそらした。

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そして何か言いそうにして躊躇ちゅうちょして、目を脇へそらした。

それと同時に、女は岡田の手に少し血がついているのを見つけた。

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それと同時に女は岡田の手に少し血の附いているのを見附けた。

「あら、あなた、お手が汚れていますわ」

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「あら、あなたお手がよごれていますわ」

と言って、女中を呼んで上がり口へ手水盥を持って来させた。

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と云って、女中を呼んで上り口へ手水盥ちょうずだらいを持って来させた。

岡田はこの話をする時、女の様子を細かくは言わなかったが、「ほんの少し小指の所に血がついていただけなのを、よく女が見つけたものだと、僕は思ったよ」

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岡田はこの話をする時女の態度を細かには言わなかったが、「ほんの少しばかり小指の所に血の附いていたのを、よく女が見附けたと、僕は思ったよ」

と言った。

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と云った。

岡田が手を洗っている最中に、それまで蛇の喉から鳥の死骸を引き出そうとしていた小僧が、「やあ、大変」

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岡田が手を洗っている最中に、それまで蛇ののどから鳥の死骸を引き出そうとしていた小僧が、「やあ大変」

と叫んだ。

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と叫んだ。

新しい手拭いを畳んだのを持って岡田のそばに立っていた女主人が、開けたままにしてある格子戸に片手をかけて外を覗き、「小僧さん、何」

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新しい手拭てぬぐいの畳んだのを持って、岡田の側に立っている女主人が、開けたままにしてある格子戸に片手を掛けて外を覗いて、「小僧さん、何」

と言った。

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と云った。

小僧は手を広げて鳥籠を押さえながら、「もう少しで、蛇が首を入れた穴から、生きている方の鳥が逃げる所でした」

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小僧は手をひろげて鳥籠を押さえていながら、「も少しで蛇が首を入れた穴から、生きている分の鳥が逃げる所でした」

と言った。

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と云った。

岡田は手を洗い終えて、女の渡した手拭いで拭きながら、「その手を放さずにいるのだぞ」

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岡田は手を洗ってしまって、女のわたした手拭でふきつつ、「その手を放さずにいるのだぞ」

と小僧に言った。

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と小僧に言った。

そして、何かしっかりした糸のような物があるならもらいたい、鳥が籠の穴から出ないようにするのだと言った。

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そして何かしっかりした糸のような物があるなら貰いたい、鳥が籠の穴から出ないようにするのだと云った。

女は少し考えて、「あの元結ではいかがでしょうか」

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女はちょっと考えて、「あの元結もとゆいではいかがでございましょう」

と言った。

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と云った。

「結構です」

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「結構です」

と岡田が言った。

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と岡田が云った。

女主人は女中に言いつけて、鏡台の抽斗から元結を出して来させた。

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女主人は女中に言い附けて、鏡台の抽斗ひきだしから元結を出して来させた。

岡田はそれを受け取って、鳥籠の竹の折れた跡に縦横に結びつけた。

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岡田はそれを受け取って、鳥籠の竹の折れた跡に縦横に結び附けた。

「まあ、僕の仕事はこのくらいでおしまいでしょうね」

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「先ず僕の為事はこの位でおしまいでしょうね」

と言って、岡田は戸口を出た。

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と云って、岡田は戸口を出た。

女主人は「どうも本当に」

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女主人は「どうもまことに」

と、いかにも言葉に詰まったように言って、後からついて出た。

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と、さも詞に窮したように云って、跡から附いて出た。

岡田は小僧に声をかけた。

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岡田は小僧に声を掛けた。

「小僧さん。御苦労ついでに、その蛇を捨ててくれないか」

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「小僧さん。御苦労ついでにその蛇を棄ててくれないか」

「ええ。坂下のどぶの深い所へ捨てましょう。どこかに縄はないかなあ」

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「ええ。坂下のどぶの深い処へ棄てましょう。どこかに縄は無いかなあ」

こう言って小僧はあたりを見回した。

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こう云って小僧はあたりを見廻した。

「縄はあるから差し上げますよ。それに、ちょっと待っていてくださいな」

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「縄はあるから上げますよ。それにちょっと待っていて下さいな」

女主人は女中に何か言いつけている。

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女主人は女中に何か言い附けている。

その隙に岡田は「さようなら」

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そのひまに岡田は「さようなら」

と言って、後ろを見ずに坂を降りた。

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と云って、跡を見ずに坂を降りた。

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ここまで話してしまった岡田は僕の顔を見て、「ねえ、君、美人のためとは言いながら、僕は随分働いただろう」

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ここまで話してしまった岡田は僕の顔を見て、「ねえ、君、美人の為めとは云いながら、僕は随分働いただろう」

と言った。

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と云った。

「うん。女のために蛇を殺すというのは神話めいていて面白いが、どうもその話はそれきりでは済みそうにないね」

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「うん。女のために蛇を殺すと云うのは、神話めいていて面白いが、どうもその話はそれぎりでは済みそうにないね」

僕は正直に心に思うとおりを言った。

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僕は正直に心に思う通りを言った。

「馬鹿を言いたまえ。未完のものなら、発表はしないよ」

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「馬鹿を言い給え、未完の物なら、発表しはしないよ」

岡田がこう言ったのも、体裁をつくろって言ったわけではなかったらしい。

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岡田がこう云ったのも、矯飾きょうしょくして言ったわけではなかったらしい。

しかし仮にそれきりで済むものとして、いくらか名残惜しく思うくらいの事はあったのだろう。

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しかし仮にそれぎりで済む物として、幾らか残惜しく思う位の事はあったのだろう。

僕は岡田の話を聞いて、ただ神話らしいと言ったが、実はもう一つ、すぐに胸に浮かんだ事があるのを隠していた。

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僕は岡田の話を聞いて、単に神話らしいと云ったが、実は今一つすぐに胸に浮んだ事のあるのを隠していた。

それは、金瓶梅を読みさして出た岡田が、金蓮に出会ったのではないかと思ったのである。

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それは金瓶梅を読みさして出た岡田が、金蓮きんれんに逢ったのではないかと思ったのである。

大学の小使い上がりで、今は金貸しをしている末造の名は、学生の中に知らない者がない。

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大学の小使上がりで今金貸しをしている末造の名は、学生中に知らぬものが無い。

金を借りないまでも、名前だけは知っている。

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金を借らぬまでも、名だけは知っている。

しかし無縁坂の女が末造の妾だという事は、知らない人もいた。

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しかし無縁坂の女が末造のめかけだと云うことは、知らぬ人もあった。

岡田はその一人である。

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岡田はその一人いちにんである。

僕はその頃まだ女の素性をよくは知らなかったが、それを裁縫の師匠の隣に囲っているのが末造だという事だけは知っていた。

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僕はその頃まだ女の種性すじょうを好くも知らなかったが、それを裁縫の師匠の隣に囲って置くのが末造だと云うことだけは知っていた。

僕の知識には、岡田に比べて一日の長があった。

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僕の智識には岡田に比べて一日いちじつの長があった。

弐拾

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弐拾にじゅう

岡田に蛇を殺してもらった日のことである。

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岡田に蛇を殺して貰った日の事である。

お玉は、これまで目で会釈を交わしただけだった岡田と親しく話をしたために、自分の気持ちが、我ながら驚くほど急激に変わってきたのを感じた。

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お玉はこれまで目で会釈をした事しか無い岡田と親しく話をした為めに、自分の心持が、我ながら驚く程急劇に変化して来たのを感じた。

女には、欲しいとは思いながらも買おうとまでは思わない品物がある。

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女には欲しいとは思いつつも買おうとまでは思わぬ品物がある。

そういう時計や指環がガラス窓の内側に飾ってある店を、女はそこを通るたびに覗いて行く。

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そう云う時計だとか指環ゆびわだとかが、硝子窓の裏に飾ってある店を、女はそこを通る度にのぞいて行く。

わざわざその店の前まで行こうとはしない。

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わざわざその店の前に往こうとまではしない。

何か別の用事でその前を通り過ぎることになると、きっと覗いて見るのである。

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何か外の用事でそこの前を通り過ぎることになると、きっと覗いて見るのである。

欲しいという望みと、それを買うことなど所詮できはしないという諦めとが一つになって、痛切ではない、かすかな、甘い哀しみの情が生まれている。

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欲しいと云う望みと、それを買うことは所詮しょせん企て及ばぬと云うあきらめとが一つになって、或る痛切で無い、かすかな、甘い哀傷的情緒が生じている。

女はそれを味わうことを楽しみにしている。

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女はそれを味うことを楽みにしている。

それとは違って、女が買おうと思う品物は、その女に強烈な苦痛を感じさせる。

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それとは違って、女が買おうと思う品物はその女に強烈な苦痛を感ぜさせる。

女は落ち着いていられないほどその品物に悩まされる。

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女は落ち着いていられぬ程その品物に悩まされる。

たとえ何日か待てばたやすく手に入ると分かっていても、それを待つ余裕がない。

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たとい幾日か待てば容易たやすく手にると知っても、それを待つ余裕が無い。

女は暑さも寒さも夜の闇も雨や雪もいとわず、衝動的に思い立って、それを買いに行くことがある。

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女は暑さをも寒さをも夜闇よやみをも雨雪うせつをもいとわずに、衝動的に思い立って、それを買いに往くことがある。

万引きなどをする女も、格別変わった木で刻まれたものではない。

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万引なんと云うことをする女も、別に変った木で刻まれたものでは無い。

ただ、この欲しい物と買いたい物との境目がぼやけてしまった女にすぎない。

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只この欲しい物と買いたい物との境界がぼやけてしまった女たるに過ぎない。

岡田はお玉にとって、これまではただ欲しい物であったが、今やたちまち変わって買いたい物になったのである。

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岡田はお玉のためには、これまで只欲しい物であったが、今やたちまち変じて買いたい物になったのである。

お玉は小鳥を助けてもらったのを縁に、どうにかして岡田に近づきたいと思った。

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お玉は小鳥を助けて貰ったのを縁に、どうにかして岡田に近寄りたいと思った。

最初に考えたのは、何か品物を梅に持たせて礼にやろうかということである。

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最初に考えたのは、何か品物を梅に持たせて礼に遣ろうかと云う事である。

さて品物は何にしようか、藤村の田舎饅頭でも買ってやろうか。

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さて品物は何にしようか、藤村の田舎饅頭いなかまんじゅうでも買って遣ろうか。

それではあまりに知恵がなさすぎる。

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それでは余り智慧ちえが無さ過ぎる。

世間並みのこと、誰でもしそうなことになってしまう。

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世間並の事、たれでもしそうな事になってしまう。

それならと言って、小切れで肘掛けでも縫って差し上げたら、岡田さんには生娘の恋のようでおかしいと思われるだろう。

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そんならと云って、小切れで肘衝ひじつきでも縫って上げたら、岡田さんにはおぼこ娘の恋のようで可笑おかしいと思われよう。

どうもいい思いつきがない。

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どうも思附おもいつきが無い。

さて品物は何か工夫がついたとして、それをそのまま梅に持たせてやったものだろうか。

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さて品物は何か工夫が附いたとして、それをつい梅に持たせて遣ったものだろうか。

名刺はこの間仲町でこしらえさせたのがあるが、それを添えただけでは物足りない。

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名刺はこないだ仲町でこしらえさせたのがあるが、それを添えただけでは、物足らない。

ちょっと一筆書いてやりたい。

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ちょっと一筆ひとふで書いて遣りたい。

さあ困った。

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さあ困った。

学校は尋常科が済むと下がってしまって、それからは手習いをする暇もなかったので、自分にはまともな手紙は書けない。

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学校は尋常科が済むと下がってしまって、それからは手習をする暇も無かったので、自分には満足な手紙は書けない。

もちろん、あのお屋敷奉公をしたという隣のお師匠さんに頼めばわけはない。

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無論あの御殿奉公をしたと云うお隣のお師匠さんに頼めばわけは無い。

しかしそれはいやだ。

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しかしそれはいやだ。

手紙には人に言えないようなことを書くつもりではないが、とにかく岡田さんに手紙をやるということを、誰にも知らせたくない。

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手紙には何も人に言われぬような事を書く積りではないが、とにかく岡田さんに手紙を遣ると云うことを、誰にも知らせたくない。

まあ、どうしたものだろう。

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まあ、どうしたものだろう。

ちょうど同じ道を行ったり来たりするように、お玉はこれだけのことを順に考え逆に考え、化粧や台所の指図に一度はまぎれて忘れては、また思い出していた。

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丁度同じ道を往ったり来たりするように、お玉はこれだけの事を順に考え逆に考え、お化粧や台所の指図に一旦まぎれて忘れては又思い出していた。

そのうち末造が来た。

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そのうち末造が来た。

お玉が酌をしながらも思い出していると、「何をそんなに考え込んでいるのだい」

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お玉は酌をしつつも思い出して、「何をそんなに考え込んでいるのだい」

ととがめられた。

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とがめられた。

「あら、わたくし、なんにも考えてなんぞおりませんわ」

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「あら、わたくしなんにも考えてなんぞいはしませんわ」

と、意味のない笑顔をしてみせて、ひそかに胸をどきりとさせた。

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と、意味の無い笑顔をして見せて、ひそかに胸をどき附かせた。

しかしこの頃はだいぶ修行が積んできたので、何かを隠しているということを、鋭い末造の目にも、たやすく見抜かれるようなことはなかった。

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しかしこの頃はだいぶ修行がんで来たので、何物かを隠していると云うことを、鋭い末造の目にも、容易に見抜かれるような事は無かった。

末造が帰ったあとで見た夢に、お玉はとうとう菓子折を買ってきて、急いで梅に持たせて出した。

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末造が帰った跡で見た夢に、お玉はとうとう菓子折を買って来て、急いで梅に持たせて出した。

そのあとで名刺も添えず手紙も付けずにやったのに気がついて、はっと思うと、夢が覚めた。

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その跡で名刺も添えず手紙も附けずに遣ったのに気が附いて、はっと思うと、夢がめた。

翌日になった。

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翌日になった。

この日は岡田が散歩に出なかったのか、それともこちらで見そこなったのか、お玉は恋しい顔を見ることができなかった。

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この日は岡田が散歩に出なかったか、それともこっちで見はずしたか、お玉は恋しい顔を見ることが出来なかった。

その次の日は、岡田がまたいつものように窓の外を通った。

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その次の日は岡田が又いつものように窓の外を通った。

窓の方をちょっと見て通り過ぎたが、内が暗いのでお玉と顔を見合わせることはできなかった。

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窓の方をちょいと見て通り過ぎたが、内が暗いのでお玉と顔を見合せることは出来なかった。

そのまた次の日は、いつも岡田の通る時刻になると、お玉は草箒を持ち出して、格別ごみもない格子戸の内を丁寧に掃除して、自分の履いている雪駄のほか、たった一足しか出していない駒下駄を、右に置いたり左に置いたりしていた。

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その又次の日は、いつも岡田の通る時刻になると、お玉は草帚くさぼうきを持ち出して、格別五味ごみも無い格子戸の内を丁寧に掃除して、自分の穿いている雪踏せったの外、只一足しか出して無い駒下駄を、右に置いたり、左に置いたりしていた。

「あら、わたくしが掃きますわ」

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「あら、わたくしが掃きますわ」

と言って台所から出てきた梅を、「いいよ、お前は煮物を見ていておくれ。わたしは用がないからしているのだよ」

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と云って、台所から出た梅を、「好いよ、お前は煮物を見ていておくれ、わたし用が無いからしているのだよ」

と言って追い返した。

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と云って追い返した。

そこへちょうど岡田が通りかかって、帽子を脱いで会釈をした。

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そこへ丁度岡田が通り掛かって、帽を脱いで会釈をした。

お玉は箒を持ったまま顔を真っ赤にして棒立ちになっていたが、何も言うことができずに、岡田を行き過ぎさせてしまった。

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お玉は帚を持ったまま顔を真っ赤にして棒立に立っていたが、何も言うことが出来ずに、岡田を行き過ぎさせてしまった。

お玉は手を焼いた火箸を放り出すように箒を捨て、雪駄を脱いで急いで上がった。

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お玉は手を焼いた火箸ひばしをほうり出すように帚を棄てて、雪踏を脱いで急いで上がった。

お玉は箱火鉢のそばにすわって、火をいじりながら思った。

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お玉は箱火鉢のそばへすわって、火をいじりながら思った。

まあ、わたしはなんという馬鹿だろう。

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まあ、私はなんと云う馬鹿だろう。

きょうのような涼しい日には、もう窓を開けて覗いていてはおかしいと思って、余計な掃除の真似などをして、せっかく待っていたくせに、いざという場になると、なんにも言うことができなかった。

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きょうのような涼しい日には、もう窓を開けて覗いていては可笑しいと思って、余計な掃除の真似なんぞをして、切角待っていた癖に、いざと云う場になると、なんにも言うことが出来なかった。

旦那の前では気まずいような様子はしていても、言おうとさえ思えば、どんなことでも言えないことはない。

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檀那の前では間の悪いような風はしていても、言おうとさえ思えば、どんな事でも言われぬことは無い。

それなのに、岡田さんにはなぜ声がかけられなかったのだろう。

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それに岡田さんにはなぜ声が掛けられなかったのだろう。

あんなに世話になったのだから、礼を言うのは当たり前だ。

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あんなにお世話になったのだから、お礼を言うのは当前あたりまえだ。

それがきょう言えないようでは、あの方に物を言う折はなくなってしまうかもしれない。

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それがきょう言われぬようでは、あの方に物を言う折は無くなってしまうかも知れない。

梅を使いにして何か持たせて差し上げようと思っても、それはできず、お目にかかっても物が言えなくては、どうにもしようがなくなってしまう。

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梅を使にして何か持たせて上げようと思っても、それは出来ず、お目に掛かっても、物を言うことが出来なくては、どうにも為様しようがなくなってしまう。

いったいわたしはあの時なぜ声が出なかったのだろう。

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一体わたしはあの時なぜ声が出なかったのだろう。

そう、そう。

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そう、そう。

あの時わたしは確かに物を言おうとした。

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あの時わたしはたしかに物を言おうとした。

ただ何と言っていいか分からなかったのだ。

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唯何と云っていか分からなかったのだ。

「岡田さん」

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「岡田さん」

となれなれしく呼びかけることはできない。

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と馴々しく呼び掛けることは出来ない。

それならと言って、顔を見合わせて「もしもし」

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そんならと云って、顔を見合せて「もしもし」

とも言いにくい。

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とも云いにくい。

ほんとうにこう思ってみると、あの時まごまごしたのも無理はない。

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ほんにこう思って見ると、あの時まごまごしたのも無理はない。

こうしてゆっくり考えてみてさえ、何と言っていいか分からないのだもの。

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こうしてゆっくり考えて見てさえ、なんと云っていか分からないのだもの。

いやいや。

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いやいや。

こんなことを思うのは、やっぱりわたしが馬鹿なのだ。

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こんな事を思うのはぱりわたしが馬鹿なのだ。

声などをかけるには及ばない。

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声なんぞを掛けるには及ばない。

すぐに外へ駆け出せばよかったのだ。

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すぐに外へ駆け出せば好かったのだ。

そうしたら岡田さんが足を止めたに違いない。

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そうしたら岡田さんが足をめたに違いない。

足さえ止めてもらえば、「あの、この間はとんだことでお世話になりまして」

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足さえ駐めて貰えば、「あの、こないだは飛んだ事でお世話様になりまして」

とでも、何とでも言うことができたのだ。

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とでも、なんとでも云うことが出来たのだ。

お玉がこんなことを考えて火をいじっているうちに、鉄瓶の蓋が踊り出したので、湯気を漏らすように蓋をずらした。

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お玉はこんな事を考えて火をいじっているうちに、鉄瓶のふたおどり出したので、湯気をらすように蓋を切った。

それからお玉は、自分で物を言おうか、使いをやろうかと、二通りに工夫を凝らしはじめた。

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それからはお玉は自分で物を言おうか、使を遣ろうかと二様に工夫を凝らしはじめた。

そのうち夕方は次第に涼しくなって、窓の障子は開けておきにくくなった。

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そのうち夕方は次第に涼しくなって、窓の障子は開けていにくい。

庭の掃除はこれまで朝一度と決まっていたのに、この間のことがあってからは、梅が朝晩に掃除をするので、これも手が出しにくい。

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庭の掃除はこれまで朝一度にまっていたのに、こないだの事があってからは、梅が朝晩に掃除をするので、これも手が出しにくい。

お玉は湯に行く時刻を遅くして、途中で岡田に会おうとしたが、坂下の湯屋までの道はあまりに近いので、なかなか会うことができなかった。

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お玉は湯に往く時刻を遅くして、途中で岡田に逢おうとしたが、坂下の湯屋までの道は余り近いので、なかなか逢うことが出来なかった。

また使いをやるということも、日数が経てば経つほどしにくくなった。

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又使を遣ると云うことも、日数ひかずが立てば立つ程出来にくくなった。

そこでお玉は、しばらくこんなふうに思って、無理に諦めをつけていた。

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そこでお玉は一時こんな事を思って、無理に諦めを附けていた。

わたしはあれきり岡田さんに礼を言わないでいる。

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わたしはあれきり岡田さんにお礼を言わないでいる。

言わなくては済まない礼が言わずにあるからには、わたしは岡田さんのしてくれたことを恩に着ている。

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言わなくては済まぬお礼が言わずにあって見れば、わたしは岡田さんのしてくれた事を恩にている。

このわたしが恩に着ているということは、岡田さんには分かっているはずである。

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このわたしが恩に被ていると云うことは岡田さんには分かっている筈である。

こうなっているほうが、かえって下手に礼をしてしまったよりいいかもしれない、と思ったのである。

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こうなっているのが、かえって下手にお礼をしてしまったよりいかも知れぬと思ったのである。

しかしお玉は、その恩に着ているということを糸口にして、一刻も早く岡田に近づいてみたい。

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しかしお玉はその恩に被ていると云うことを端緒にして、一刻も早く岡田に近づいて見たい。

ただその方法手段が得られないので、毎日人知れず心を砕いている。

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唯その方法手段が得られぬので、日々にちにち人知れず腐心している。

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お玉は気の強い女で、末造に囲われることになってから、短い月日のあいだに、周囲から表立って見下され、陰では羨まれるという妾の苦しさを味わい、そのおかげで一種の世間を馬鹿にしたような気性を身につけてはいるが、根が善人で、まだ人にもまれていないので、下宿屋に住んでいる書生の岡田に近づくのをひどく気重に思っていたのである。

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お玉は気の勝った女で、末造に囲われることになってから、短い月日の間に、周囲から陽におとしめられ、陰にうらやまれる妾と云うものの苦しさを味って、そのおかげで一種の世間を馬鹿にしたような気象を養成してはいるが、根が善人で、まだ人にまれていぬので、下宿屋に住まっている書生の岡田に近づくのをひどくおっくうに思っていたのである。

そのうち秋日和に窓を開けていて、また岡田と会釈を交わす日があっても、せっかく親しく物を言って手拭いを手渡ししたのが、少しも近づくための段取りにはならずじまいで、それだけのことがあった後が、何事もなかった前と、何ら変わるところもなくなっていた。

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そのうち秋日和に窓を開けていて、又岡田と会釈を交す日があっても、切角親しく物を言って、手拭を手渡ししたのが、少しも接近の階段を形づくらずにしまって、それ程の事のあったのちが、何事もなかった前と、なんの異なる所もなくなっていた。

お玉はそれをひどくじれったく思った。

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お玉はそれをひどくじれったく思った。

末造が来ていても、箱火鉢を中に置いて向き合って話をしているあいだに、これが岡田さんだったら、と思う。

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末造が来ていても、箱火鉢を中に置いて、向き合って話をしている間に、これが岡田さんだったらと思う。

最初はそう思うたびに自分で自分のずうずうしさを責めていたが、次第に平気で岡田のことばかり思いながらも、話の調子を合わせているようになった。

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最初はそう思う度に、自分で自分の横着を責めていたが、次第に平気で岡田の事ばかり思いつつも、話の調子を合せているようになった。

それから、末造の思うままにされていて、目をつぶって岡田のことを思うようになった。

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それから末造の自由になっていて、目をつぶって岡田の事を思うようになった。

時々は夢の中で岡田と一緒になる。

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折々は夢の中で岡田と一しょになる。

わずらわしい順序も運びもなく一緒になる。

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煩わしい順序も運びもなく一しょになる。

そして「ああ、うれしい」

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そして「ああ、嬉しい」

と思ったとたんに、相手が岡田ではなくて末造になっている。

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と思うとたんに、相手が岡田ではなくて末造になっている。

はっと驚いて目を覚まし、それから神経が高ぶって眠れないので、じれて泣くこともある。

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はっと驚いて目を醒まして、それから神経が興奮してられぬので、じれて泣くこともある。

いつの間にか十一月になった。

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いつの間にか十一月になった。

小春日和が続いて、窓を開けておいても目立たないので、お玉はまた岡田の顔を毎日のように見ることができた。

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小春日和が続いて、窓を開けて置いても目立たぬので、お玉は又岡田の顔を毎日のように見ることが出来た。

これまで、うそ寒い雨の日などが続いて、二、三日も岡田の顔が見られないことがあると、お玉はふさぎこんでいた。

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これまで薄ら寒い雨の日などが続いて、二三日も岡田の顔の見られぬことがあると、お玉はふさいでいた。

それでもあくまで素直な性質なので、梅に無理を言って迷惑をかけるようなことはない。

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それでも飽くまで素直なたちなので、梅に無理を言って迷惑させるような事はない。

まして末造に不機嫌な顔を見せたりはしない。

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ましてや末造に不機嫌な顔を見せなんぞはしない。

ただそんな時は箱火鉢の縁に肘をついて、ぼんやりして黙っているので、梅が「どこかお悪いのですか」

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唯そんな時は箱火鉢のふちに肘をいて、ぼんやりして黙っているので、梅が「どこかお悪いのですか」

と言ったことがあるだけである。

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と云ったことがあるだけである。

それが、この頃は岡田の顔が続けて見られるので、珍しく浮き浮きしてきて、ある朝いつもよりも気軽に家を出て、池の端の父親のところへ遊びに行った。

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それが岡田の顔がこの頃続いて見られるので、珍らしく浮き浮きして来て、或る朝いつもよりも気軽に内を出て、池の端の父親の所へ遊びに往った。

お玉は父親を一週間に一度くらいはきっと訪ねることにしているが、まだ一度も一時間以上腰を落ち着けていたことはない。

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お玉は父親を一週間に一度ずつ位はきっと尋ねることにしているが、まだ一度も一時間以上腰を落ち着けていたことは無い。

それは父親が許さないからである。

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それは父親が許さぬからである。

父親は行くたびに優しくしてくれる。

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父親は往く度に優しくしてくれる。

何かうまい物でもあると、それを出して茶を飲ませる。

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何かうまい物でもあると、それを出して茶を飲ませる。

しかしそれだけのことをしてしまうと、すぐに帰れと言う。

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しかしそれだけの事をしてしまうと、すぐに帰れと云う。

これは老人の気が短いためばかりではない。

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これは老人の気の短い為めばかりでは無い。

奉公に出したからには、勝手に自分のところへ引き留めておいては済まないと思うのである。

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奉公に出したからには、勝手に自分の所に引き留めて置いては済まぬと思うのである。

お玉が二度目か三度目に父親のところへ来た時、午前のうちは旦那の見えることは決してないから、少しはゆっくりしていてもいい、と言ったことがある。

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お玉が二度目か三度目に父親の所に来た時、午前のうちは檀那の見えることは決して無いから、少しはゆっくりしていてもいと云ったことがある。

父親は承知しなかった。

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父親は承知しなかった。

「なるほど、これまではおいでがなかったかもしれない。それでも、いつ何の御用事があっておいでになるか分からないではないか。旦那に申し上げて暇をいただいた日は別だが、お前のように買物に出た途中で寄って、ゆっくりしていてはいけない。それでは、どこをうろついているのかと旦那がお思いになっても仕方がない」

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「なる程これまではおいでがなかったかも知れない。それでもいつ何の御用事があってお出なさるかも知れぬではないか。檀那に申し上げておひまを戴いた日は別だが、お前のように買物に出て寄って、ゆっくりしていてはならない。それではどこをうろついているかと、檀那がお思なされても為方が無い」

と言うのであった。

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と云うのであった。

もし父親が末造の職業を聞いて気を悪くしはしないかと、お玉は始終心配して、訪ねて行くたびに様子を見るが、父親はまったく知らずにいるらしい。

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若し父親が末造の職業を聞いて心持を悪くしはすまいかと、お玉は始終心配して、尋ねて往く度に様子を見るが、父親は全く知らずにいるらしい。

それも当然である。

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それはその筈である。

父親は池の端に越して来てから、しばらく経つうちに貸本を読むことを始めて、昼間はいつも眼鏡をかけて貸本を読んでいる。

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父親は池の端に越して来てから、しばらく立つうちに貸本を読むことを始めて、昼間はいつも眼鏡を掛けて貸本を読んでいる。

それも実録物とか講談物とかいう「書き本」

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それも実録物とか講談物とか云う「書き本」

に限っている。

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に限っている。

この頃読んでいるのは三河後風土記である。

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この頃読んでいるのは三河後風土記みかわごふうどきである。

これはだいぶ冊数が多いから、当分この本だけで楽しめると言っている。

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これはだいぶ冊数が多いから、当分この本だけで楽めると云っている。

貸本屋が「読み本」

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貸本屋が「読み本」

を見せて勧めると、それは嘘の書いてある本だろうと言って、手に取って見ようともしない。

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を見せて勧めると、それはうその書いてある本だろうと云って、手に取って見ようともしない。

夜は目が疲れると言って本を読まずに、寄席へ行く。

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夜は目が草臥くたびれると云って本を読まずに、寄せへ往く。

寄席で聞くものなら、本当か嘘かなどとは言わずに、落語も聞けば義太夫も聴く。

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寄せで聞くものなら、本当か譃かなどとは云わずに、落語も聞けば義太夫も聴く。

主に講釈ばかりかかる広小路の席へは、よほど気に入った人が出なくては行かないのである。

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主に講釈ばかり掛かる広小路の席へは、余程気に入った人が出なくては往かぬのである。

道楽はただそれだけで、人と無駄話をするということがないから、友達もできない。

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道楽は只それだけで、人と無駄話をすると云うことが無いから、友達も出来ない。

そこで末造の身の上などを聞き出すきっかけは生まれてこないのである。

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そこで末造の身の上なぞを聞き出す因縁は生じて来ぬのである。

それでも近所には、あの隠居の家へ訪ねて来るきれいな女は何だろうと詮索して、とうとう高利貸の妾だそうだと突き止めた者もある。

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それでも近所には、あの隠居の内へ尋ねて来る好い女はなんだろうと穿鑿せんさくして、とうとう高利貸の妾だそうだと突き留めたものもある。

もし両隣に口うるさい人でもいたら、爺さんがどんなに打ち解けずにいても、いやでもいやな噂を聞かされるのだが、幸いなことに、一方の隣は博物館の属官で法帖などをいじって手習いばかりしている男、もう一方の隣はもう珍しいものになっている板木師で、篆刻などには手を出さない男だから、どちらも爺さんの心の平和を破るおそれはない。

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若し両隣に口のうるさい人でもいると、爺いさんがどんなに心安立こころやすだてをせずにいても、無理にも厭なうわさを聞せられるのだが、為合せな事には一方の隣が博物館の属官で、法帖ほうじょうなんぞをいじって手習ばかりしている男、一方の隣がもう珍らしいものになっている板木師はんぎしで、篆刻てんこくなんぞには手を出さぬ男だから、どちらも爺いさんの心の平和を破るようなおそれはない。

まだ、並んでいる家のうちで店を開けて商売をしているのは、蕎麦屋の蓮玉庵と煎餅屋と、その先のもう広小路の角に近いところにある十三屋という櫛屋のほかにはなかった時代である。

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まだ並んでいる家の中で、店を開けて商売をしているのは蕎麦屋そばやの蓮玉庵と煎餅屋せんべいやと、その先きのもう広小路の角に近い処の十三屋と云う櫛屋くしやとの外には無かった時代である。

爺さんは格子戸を開けて入る人の気配、軽やかな駒下駄の音だけで、まだ優しい声の訪れを聞かないうちに、もうお玉が来たのだということを知って、読みさしの後風土記を下に置いて待っている。

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爺いさんは格子戸を開けて這入はいる人のけはい、軽げな駒下駄の音だけで、まだ優しい声のおとないを聞かぬうちに、もうお玉が来たのだと云うことを知って、読みさしの後風土記を下に置いて待っている。

かけていた眼鏡をはずして、かわいい娘の顔を見る日は、爺さんにとっては祭日である。

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掛けていた目金をはずして、可哀い娘の顔を見る日は、爺いさんのためには祭日である。

娘が来れば、きっと眼鏡をはずす。

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娘が来れば、きっと目金を脱す。

眼鏡で見たほうがよく見えるはずだが、どうしても眼鏡越しでは隔てがあるようで気が済まないのである。

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目金で見た方が好く見える筈だが、どうしても目金越しでは隔てがあるようで気が済まぬのである。

娘に話したいことはいつも溜まっていて、その一部を忘れて残したのに、いつも娘の帰ったあとで気がつく。

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娘に話したい事はいつもまっていて、その一部分を忘れて残したのに、いつも娘の帰った跡で気が附く。

しかし「旦那は御機嫌よくていらっしゃるかい」

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しかし「檀那は御機嫌好くてお出になるかい」

と末造の様子を尋ねることだけは忘れない。

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と末造の安否を問うことだけは忘れない。

お玉はきょう機嫌のいい父親の顔を見て、阿茶の局の話を聞かせてもらい、広小路にできた大千住の出店で買ったという、一尺四方もある軽焼のごちそうになった。

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お玉はきょう機嫌のい父親の顔を見て、阿茶あちゃつぼねの話を聞せて貰い、広小路に出来た大千住おおせんじゅの出店で買ったと云う、一尺四方もある軽焼の馳走になった。

そして父親が「まだ帰らなくてもいいのかい」

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そして父親が「まだ帰らなくても好いかい」

と何度も聞くのに、「大丈夫よ」

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と度々聞くのに、「大丈夫よ」

と笑いながら言って、とうとう正午近くまで遊んでいた。

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と笑いながら云って、とうとう正午近くまで遊んでいた。

そして、この頃のように末造が不意に来ることのあるのを父親に話したら、あの帰らなくてもいいのかという催促がいっそう激しくなるだろうと、心の中で思った。

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そしてこの頃のように末造が不意に来ることのあるのを父親に話したら、あの帰らなくても好いかと云う催促が一層はげしくなるだろうと、心のうちで思った。

自分はいつのまにかずうずうしくなって、末造に留守のあいだに来られてはならないというような心遣いをしなくなっているのである。

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自分はいつか横着になって、末造に留守のに来られてはならぬと云うような心遣をせぬようになっているのである。

弐拾壱

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弐拾壱にじゅういち

時候が次第に寒くなって、お玉の家の流しの前には、下駄で踏むところだけ板が土に埋めてあり、その板の上に朝霜が真っ白に置く。

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時候が次第に寒くなって、お玉の家の流しの前に、下駄で踏むところだけ板が土にめてある、その板の上には朝霜が真っ白に置く。

深い井戸の長い釣瓶縄が冷たいから梅に気の毒だと言って、お玉は手袋を買ってやったが、それをいちいち嵌めたり脱いだりして台所の用ができるものではないと思った梅は、もらった手袋を大切にしまっておいて、やはり素手で水を汲む。

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深い井戸の長い弔瓶縄つるべなわが冷たいから、梅に気の毒だと云って、お玉は手袋を買ってったが、それを一々めたり脱いだりして、台所の用が出来るものでは無いと思った梅は、貰った手袋を大切にしまって置いて、矢張やはり素手で水を汲む。

洗い物をさせるにも雑巾がけをさせるにも湯を沸かして使わせるのに、梅の手はそろそろ荒れてくる。

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洗物をさせるにも、雑巾掛ぞうきんがけをさせるにも、湯をかして使わせるのに、梅の手がそろそろ荒れて来る。

お玉はそれを気にして、こんなことを言った。

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お玉はそれを気にして、こんな事を言った。

「なんでも、手を濡らしたあとをそのままにしておくのが悪いのだよ。水から手を出したら、すぐによく拭いて乾かしておおき。用が片づいたら、忘れないでシャボンで手を洗うのだよ」

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「なんでも手を濡らした跡をそのままにして置くのが悪いのだよ。水から手を出したら、すぐに好く拭いて乾かしてお置。用が片附いたら、忘れないでシャボンで手を洗うのだよ」

こう言ってシャボンまで買って渡した。

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こう云ってシャボンまで買って渡した。

それでも梅の手が次第に荒れるのを、お玉は気の毒がっている。

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それでも梅の手が次第に荒れるのを、お玉は気の毒がっている。

そして、あのくらいのことは自分もしたが、梅のように手の荒れたことはなかったのに、と不思議にも思うのである。

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そしてあの位の事は自分もしたが、梅のように手の荒れたことは無かったのにと、不思議にも思うのである。

朝、目を覚まして起きずにはいられなかったお玉も、この頃は梅が「けさは流しに氷が張っています。もう少しお休みになっていらっしゃいまし」

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朝目を醒まして起きずにはいられなかったお玉も、この頃は梅が、「けさは流しに氷が張っています、も少しお休になっていらっしゃいまし」

などと言うと、つい布団にくるまっているようになった。

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なぞと云うと、つい布団にくるまっている様になった。

教育家は、よからぬ想像を起こさせないために、青年に、床に入ってから寝つかずにいるな、目が覚めてから起きずにいるなと戒める。

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教育家は妄想もうぞうを起させぬために青年に床にってから寐附かずにいるな、目が醒めてから起きずにいるなと戒める。

若い身を暖かい夜具の中に置けば、毒草の花を火の中に咲かせたような像が心に萌すからである。

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少壮な身を暖いふすまうちに置けば、毒草の花を火の中に咲かせたような写象がきざすからである。

お玉の想像も、こんな時にはずいぶん奔放になってくることがある。

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お玉の想像もこんな時には随分放恣ほうしになって来ることがある。

そういう時には目に一種の光が生じて、酒に酔ったように瞼から頬にかけて紅がさすのである。

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そう云う時には目に一種の光が生じて、酒に酔ったようにまぶたから頬に掛けくれないみなぎるのである。

前の晩に空が晴れ渡って、星がきらめいて、明け方に霜の置いたある日のことであった。

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前晩ぜんばんに空が晴れ渡って、星がきらめいて、暁に霜の置いた或る日の事であった。

お玉はだいぶ長いこと布団の中で、近頃覚えた無精をしていて、梅がとっくに雨戸を繰り開けた表の窓から朝日が差し入るのを見て、やっと起きた。

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お玉はだいぶ久しく布団の中で、近頃覚えた不精ぶしょうをしていて、梅がっくに雨戸を繰り開けた表の窓から、朝日のさし入るのを見て、やっと起きた。

そして細帯一つでねんねこ半纏を羽織り、縁側に出て楊枝を使っていた。

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そして細帯一つでねんねこ半纏はんてんを羽織って、縁側に出て楊枝ようじを使っていた。

すると格子戸をがらりと開ける音がする。

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すると格子戸をがらりと開ける音がする。

「いらっしゃいまし」

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「いらっしゃいまし」

と愛想よく言う梅の声がする。

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と愛想好く云う梅の声がする。

そのまま上がって来る足音がする。

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そのまま上がって来る足音がする。

「やあ。寝坊だなあ」

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「やあ。寐坊だなあ」

こう言って箱火鉢の前にすわったのは末造である。

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こう云って箱火鉢の前に据わったのは末造である。

「おや。御免なさいましよ。たいそうお早いじゃございませんか」

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「おや。御免なさいましよ。大そうお早いじゃございませんか」

くわえていた楊枝を急いで出し、唾をバケツの中に吐いてこう言ったお玉の、少しのぼせたような笑顔が、末造の目にはこれまでになく美しく見えた。

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くわえていた楊枝を急いで出して、つばきをバケツの中に吐いてこう云ったお玉の、少しのぼせたような笑顔が、末造の目にはこれまでになく美しく見えた。

だいたいお玉は、無縁坂に越して来てから、一日一日と美しくなるばかりである。

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一体お玉は無縁坂に越して来てから、一日一日と美しくなるばかりである。

最初は娘らしいかわいらしさが気に入っていたのだが、この頃はそれが一種の人を惹きつけるような態度に変わってきた。

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最初は娘らしい可哀さが気に入っていたのだが、この頃はそれが一種の人を魅するような態度に変じて来た。

末造はこの変化を見て、お玉に情愛が分かってきたのだ、自分が分からせてやったのだと思って、得意になっている。

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末造はこの変化を見て、お玉に情愛が分かって来たのだ、自分が分からせて遣ったのだと思って、得意になっている。

しかしこれは、何事も鋭く見抜く末造の目が、おかしなことに、愛する女の心の内を取り違えているのである。

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しかしこれは何事をも鋭く看破する末造の目が、笑止にも愛する女の精神状態をあやまり認めているのである。

お玉は最初、主人第一に奉公をする女であったのが、急激な身の上の変化のために、思い悩んでみたり自分を省みたりしたあげく、ずうずうしいと言ってもいいような自覚に到達して、世間の女が多くの男に触れたあとにようやく手に入れる冷静な心と同じような心になった。

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お玉は最初主人大事に奉公をする女であったのが、急劇な身の上の変化のために、煩悶はんもんして見たり省察せいさつして見たりした挙句、横着と云ってもいような自覚に到達して、世間の女が多くの男に触れたのちわずかにち得る冷静な心と同じような心になった。

この心に翻弄されるのを、末造は愉快な刺激として感じるのである。

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この心に翻弄ほんろうせられるのを、末造は愉快な刺戟しげきとして感ずるのである。

それにお玉は、ずうずうしくなると同時に、次第に少しずつしまりがなくなる。

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それにお玉は横着になると共に、次第に少しずつじだらくになる。

末造はこのしまりのなさに情欲をあおられて、いっそうお玉に引きつけられるように感じる。

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末造はこのじだらくに情慾をあおられて、一層お玉に引き附けられるように感ずる。

この一切の変化が末造には分からない。

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この一切の変化が末造には分からない。

魅せられるような感じは、そこから生まれるのである。

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魅せられるような感じはそこから生れるのである。

お玉はしゃがんで金だらいを引き寄せながら言った。

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お玉はしゃがんで金盥かなだらいを引き寄せながら云った。

「あなた、ちょっとあちらへ向いていてくださいましな」

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「あなた一寸ちょっとあちらへ向いていて下さいましな」

「なぜ」

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「なぜ」

と言いながら、末造は金天狗に火をつけた。

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と云いつつ、末造は金天狗きんてんぐに火を附けた。

「だって顔を洗わなくちゃ」

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「だって顔を洗わなくちゃ」

「いいじゃないか。さっさと洗え」

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「好いじゃないか。さっさと洗え」

「だって、見ていらっしゃっては洗えませんわ」

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「だって見ていらっしゃっちゃ、洗えませんわ」

「面倒だなあ。これでいいか」

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「むずかしいなあ。これで好いか」

末造は煙を吹きながら縁側に背中を向けた。

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末造はけぶりを吹きつつ縁側に背中を向けた。

そして心の中で、なんというあどけないやつだろうと思った。

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そして心中になんと云うあどけない奴だろうと思った。

お玉は肌も脱がずに、ただ襟だけをくつろげて、忙しそうに顔を洗う。

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お玉は肌も脱がずに、只えりだけくつろげて、忙がしげに顔を洗う。

いつもよりよほど手を抜いてはいるが、化粧の力を借りて欠点を隠し美しく装おうという弱みもないので、別に見られていて困ることはない。

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いつもより余程手を抜いてはいるが、化粧の秘密をりて、きずおおい美をよそおうと云う弱点も無いので、別に見られていて困ることは無い。

末造は最初背中を向けていたが、しばらくするとお玉の方へ向き直った。

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末造は最初背中を向けていたが、暫くするとお玉の方へ向き直った。

顔を洗うあいだ末造に背中を向けていたお玉はこれを知らずにいたが、洗ってしまって鏡台を引き寄せると、それに末造の紙巻をくわえた顔が映った。

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顔を洗う間末造に背中を向けていたお玉はこれを知らずにいたが、洗ってしまって鏡台を引き寄せると、それに末造の紙巻を銜えた顔がうつった。

「あら、ひどい方ね」

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「あら、ひどい方ね」

とお玉は言ったが、そのまま髪を撫でつけている。

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とお玉は云ったが、そのまま髪をで附けている。

くつろげた襟の下に、うなじから背へかけて三角形に見える白い肌、手を高く挙げているので肘の上二、三寸のところまで見えるふっくりした腕が、末造にとってはいつまでも見飽きない見ものである。

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くつろげた領の下にうなじから背へ掛けて三角形に見える白い肌、手を高く挙げているので、肘の上二三寸の所まで見えるふっくりしたひじが、末造のためにはいつまでもきない見ものである。

そこで、自分が黙って待っていたらお玉が無理に急ぐかもしれないと思って、わざと気楽そうにゆっくりした調子で話し出した。

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そこで自分が黙って待っていたら、お玉が無理に急ぐかも知れぬと思って、わざと気楽げにゆっくりした調子で話し出した。

「おい、急ぐには及ばないよ。何も用があってこんなに早く出掛けて来たのではないのだ。実はこの間お前に聞かれて、今晩あたり来るように言っておいたが、ちょっと千葉へ行かなくてはならないことになったのだ。話がうまく運べば、あすのうちに帰って来られるのだが、どうかするとあさってになるかもしれない」

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「おい急ぐには及ばないよ。何も用があってこんなに早く出掛けて来たのではないのだ。実はこないだお前に聞かれて、今晩あたり来るように云って置いたが、ちょいと千葉へ往かなくてはならない事になったのだ。話が旨く運べば、あすのうちに帰って来られるのだが、どうかするとあさってになるかも知れない」

櫛を拭いていたお玉は「あら」

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櫛をふいていたお玉は「あら」

と言って振り返った。

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と云って振り返った。

顔に不安そうな表情が見えた。

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顔に不安らしい表情が見えた。

「おとなしくして待っているのだよ」

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「おとなしくして待っているのだよ」

と、冗談らしく言って、末造は巻煙草入れをしまった。

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と、笑談じょうだんらしく云って、末造は巻烟草入まきたばこいれをしまった。

そしてついと立って戸口へ出た。

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そしてついと立って戸口へ出た。

「まあ、お茶も差し上げないうちに」

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「まあお茶も上げないうちに」

と言いかけて、投げるように櫛を櫛箱に入れたお玉が見送りに立って出た時には、末造はもう格子戸を開けていた。

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と云いさして、投げるように櫛を櫛箱に入れたお玉が、見送りにって出た時には、末造はもう格子戸を開けていた。

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朝飯の膳を台所から運んで来た梅が、膳を下に置いて、「どうも済みません」

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朝飯の膳を台所から運んで来た梅が、膳を下に置いて、「どうも済みません」

と言って手をついた。

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と云って手を衝いた。

箱火鉢のそばにすわって、火の上にかぶさった灰を火箸で掻き落としていたお玉は、「おや、何を謝るのだい」

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箱火鉢の傍に据わって、火の上にかぶさった灰を火箸でき落していたお玉は、「おや、何をあやまるのだい」

と言って、にっこりした。

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と云って、にっこりした。

「でも、ついお茶を差し上げるのが遅くなりまして」

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「でもついお茶を上げるのが遅くなりまして」

「ああ。そのことかい。あれはわたしが挨拶に言ったのだよ。旦那は何とも思ってはいらっしゃらないよ」

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「ああ。その事かい。あれはわたしが御挨拶に云ったのだよ。檀那はなんとも思ってはおいでなさらないよ」

こう言って、お玉は箸を取った。

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こう云って、お玉は箸を取った。

けさ、御膳を食べている主人の顔を梅が見ると、めったに機嫌を悪くしない性分ではあるが、格別にうれしそうに見える。

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けさ御膳を食べている主人の顔を梅が見ると、めったに機嫌を悪くせぬ性分ではあるが、特別に嬉しそうに見える。

さっき「何を謝るのだい」

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さっき「何をあやまるのだい」

と言って笑った時から、ほんのりと赤く匂った頬のあたりを、まだ微笑の影が去らずにいる。

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と云って笑った時から、ほんのりと赤くにおった頬のあたりをまだ微笑ほほえみの影が去らずにいる。

なぜだろうかという問いが梅の頭にも浮かばずには済まなかったが、あくまで単純な梅の頭には、それが根を下ろしもしない。

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なぜだろうかと云う問題が梅の頭にも生ぜずには済まなかったが、飽くまで単純な梅の頭にはそれが根を卸しもしない。

ただいい気持が伝染して、自分もいい気持になっただけである。

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只好い気持が伝染して、自分も好い気持になっただけである。

お玉はじっと梅の顔を見て、機嫌のいい顔をいっそう機嫌よくして言った。

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お玉はじっと梅の顔を見て、機嫌の好い顔を一層機嫌を好くして云った。

「ねえ、お前、家へ行きたくないかい」

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「あの、お前お内へきたかなくって」

梅はいぶかしげに目を見張った。

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梅は怪訝かいがの目をみはった。

まだ明治十何年という頃には江戸の町家のしきたりが惰性で残っていたので、市中から市中へ奉公に上がっていても、藪入りの日のほかにはたやすく家へは帰れないことに決まっていた。

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まだ明治十何年と云う頃には江戸の町家の習慣律が惰力を持っていたので、市中から市中へ奉公に上がっていても、藪入やぶいりの日の外には容易に内へは帰られぬことに極まっていた。

「あの、今晩は旦那様がいらっしゃらないだろうと思うから、お前、家へ行って泊まって来たければ泊まって来てもいいよ」

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「あの今晩は檀那様がいらっしゃらないだろうと思うから、お前内へ往って泊って来たけりゃあ泊って来ても好いよ」

お玉は重ねてこう言った。

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お玉は重ねてこう云った。

「あの、本当でございますの」

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「あの本当でございますの」

梅は疑って問い返したのではない。

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梅は疑って問い返したのでは無い。

分に過ぎた恵みだと感じて、この言葉を発したのである。

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過分の恩恵だと感じて、このことばを発したのである。

「嘘なんぞ言うものかね。わたしはそんな罪なことをして、お前をからかったりなんかしやしないよ。御飯のあとは片づけなくてもいいから、すぐに行ってもいいよ。そしてきょうはゆっくり遊んで、晩には泊まっておいで。その代わり、あしたは早く帰るのだよ」

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「譃なんぞ言うものかね。わたしはそんな罪な事をして、お前をからかったり何かしやしないわ。御飯の跡は片附けなくっても好いから、すぐに往っても好いよ。そしてきょうはゆっくり遊んで、晩には泊ってお出。その代りあしたは早く帰るのだよ」

「はい」

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「はい」

と言って、お梅はうれしさに顔を真っ赤にしている。

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と云ってお梅は嬉しさに顔を真っ赤にしている。

そして、父が車夫をしているので、車の二、三台並べてある入口の土間や、箪笥と箱火鉢との間にやっと座布団が一枚敷けるようになっていて、そこに仕事に出ないあいだは父親がすわっており、留守には母親のすわっているところや、鬢の毛がいつも片頬に垂れかかっていて肩から襷をはずしたことのめったにない母親の姿などが、たいへんな速さで入れ替わりながら、小さい頭の中に影絵のように浮かんでくるのである。

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そして父が車夫をしているので、車の二三台並べてある入口の土間や、箪笥たんすと箱火鉢との間に、やっと座布団が一枚かれる様になっていて、そこに為事しごとに出ない間は父親が据わっており、留守には母親の据わっている所や、びんの毛がいつも片頬に垂れ掛かっていて、肩からたすきはずしたことのめったに無い母親の姿などが、非常な速度をもって入り替りつつ、小さい頭の中に影絵のように浮かんで来るのである。

食事が済んだので、お梅は膳を下げた。

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食事が済んだので、お梅は膳を下げた。

片づけなくてもいいとは言われても、洗う物だけは洗っておかなくてはと思って、小桶に湯を取って茶碗や皿をちゃらちゃら言わせていると、そこへお玉が紙に包んだ物を持って出て来た。

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片附けなくても好いとは云われても、洗う物だけは洗って置かなくてはと思って、小桶こおけに湯を取って茶碗や皿をちゃらちゃら言わせていると、そこへお玉は紙に包んだ物を持って出て来た。

「あら、やっぱり片づけているのね。それっぱかりの物を洗うのはわけはないから、わたしがするよ。お前、髪はゆうべ結ったのだからそれでいいわね。早く着物をお着替えよ。それから、なんにも土産がないから、これを持っておいで」

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「あら、矢っ張り片附けているのね。それんばかりの物を洗うのはわけは無いから、わたしがするよ。お前髪はゆうべったのだからそれで好いわね。早く着物をお着替よ。そしてなんにもお土産が無いから、これを持ってお出」

こう言って紙包みを渡した。

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こう云って紙包をわたした。

中には、例のかるたのような恰好をした半円の青い札が入っていたのである。

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中には例の骨牌かるたのような恰好をした半円の青い札がはいっていたのである。

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梅をせき立てて出してしまうと、お玉はかいがいしく襷をかけ、褄をはしょって台所に出た。

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梅をせき立てて出して置いて、お玉は甲斐甲斐かいがいしく襷を掛けつま端折はしょって台所に出た。

そして、いかにも面白いことをするように、梅が洗いかけておいた茶碗や皿を洗い始めた。

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そしてさも面白い事をするように、梅が洗い掛けて置いた茶碗や皿を洗い始めた。

こんな仕事は昔取った杵柄で、梅などが及びもつかないほど手早く、しかも行き届いてできるはずのお玉が、きょうは子供がおもちゃを持って遊ぶよりも手ぬるい洗い方をしている。

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こんな為事は昔取った杵柄きねづかで、梅なんぞが企て及ばぬ程迅速に、しかも周密に出来る筈のお玉が、きょうは子供がおもちゃを持って遊ぶより手ぬるい洗いようをしている。

取り上げた皿一枚が五分間も手を離れない。

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取り上げた皿一枚が五分間も手を離れない。

そしてお玉の顔は活気のある淡い紅色に輝いて、目は宙を見ている。

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そしてお玉の顔は活気のある淡紅色にかがやいて、目はくうを見ている。

そしてその頭の中には、きわめて楽観的な思い描きが行き来している。

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そしてその頭の中には、極めて楽観的な写象が往来している。

だいたい女は、何事によらず決心するまでは気の毒なほど迷って、あれこれ思い惑うくせに、いったん決心したとなると、男のように左右を見回したりせず、目隠しをつけられた馬のように、前ばかり見て突き進むものである。

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一体女は何事によらず決心するまでには気の毒な程迷って、とつおいつする癖に、既に決心したとなると、男のように左顧右眄さこゆうべんしないで、〔oe&ille`res〕《オヨイエエル》 を装われた馬のように、向うばかり見て猛進するものである。

思慮のある男なら不安を抱かずにいられないほどの障害が行く手に横たわっていても、女はそれをものともしない。

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思慮のある男には疑懼ぎくいだかしむる程の障礙物しょうがいぶつが前途によこたわっていても、女はそれをもののくずともしない。

それでどうかすると、男が思い切ってしないことを思い切ってやって、思いのほかに成功することもある。

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それでどうかすると男のあえてせぬ事を敢てして、おもいの外に成功することもある。

お玉は岡田に近づこうとするのに、もし第三者がいて見ていたら、もどかしさに堪えられまいと思われるほどためらっていたが、けさ末造が千葉へ発つと言って暇乞いに来てから、追い風を帆にはらませた舟のように、目指す岸に向かって走る気になった。

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お玉は岡田に接近しようとするのに、若し第三者がいて観察したら、もどかしさに堪えまいと思われる程、逡巡しゅんじゅんしていたが、けさ末造が千葉へ立つと云って暇乞いとまごいに来てから、追手おいてを帆にはらませた舟のように、志す岸に向って走る気になった。

それで梅をせき立てて、親元へ返してやったのである。

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それで梅をせき立てて、親許おやもとに返して遣ったのである。

邪魔になる末造は千葉へ行って泊まる。

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邪魔になる末造は千葉へ往って泊る。

女中の梅も親の家に帰って泊まる。

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女中の梅も親の家に帰って泊る。

これからあすの朝までは、誰にも縛られることのない身の上だと感じるのが、お玉にとってはまず愉快でたまらない。

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これからあすの朝までは、誰にも掣肘せいちゅうせられることの無い身の上だと感ずるのが、お玉のためにはず愉快でたまらない。

そして、こうとんとん拍子に事が運んで行くのが、最後の目的がたやすく達せられる前触れでなくてはならないように思われる。

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そしてこうとんとん拍子に事が運んで行くのが、終局の目的の容易に達せられる前兆でなくてはならぬように思われる。

きょうに限って岡田さんが家の前をお通りにならないことは決してない。

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きょうに限って岡田さんが内の前をお通なさらぬことは決して無い。

行き帰りに二度お通りになる日もあるのだから、どうかして一度会えずにしまうにしても、二度とも見のがすようなことはない。

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往反ゆきかえりに二度お通なさる日もあるのだから、どうかして一度逢われずにしまうにしても、二度共見のがすようなことは無い。

きょうはどんな犠牲を払っても声をかけずにはおかない。

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きょうはどんな犠牲を払っても物を言い掛けずには置かない。

思い切って声をかけるからには、あの方の足が止められないはずがない。

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思い切って物を言い掛けるからは、あの方の足が留められぬ筈が無い。

わたしは卑しい妾に身を落としている。

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わたしは卑しい妾に身をおとしている。

しかも高利貸の妾になっている。

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しかも高利貸の妾になっている。

けれども、生娘でいた時より美しくはなっても、醜くはなっていない。

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だけれど生娘きむすめでいた時より美しくはなっても、醜くはなっていない。

その上、どうすれば男に気に入られるかということは、不幸な目に遭ったせめてもの幸いに、次第に分かってきているのである。

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その上どうしたのが男に気に入ると云うことは、不為合ふしあわせな目に逢った物怪もっけさいわいに、次第に分かって来ているのである。

それなら、まさか岡田さんに一も二もなくいやな女だと思われることはあるまい。

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して見れば、まさか岡田さんに一も二もなくいやな女だと思われることはあるまい。

いや。

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いや。

そんなことは確かにない。

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そんな事は確かに無い。

もしいやな女だと思っていらっしゃるなら、顔を見合わせるたびに礼をしてくださるはずがない。

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若し厭な女だと思ってお出なら、顔を見合せる度に礼をして下さる筈が無い。

いつか蛇を殺してくださったのだってそうだ。

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いつか蛇を殺して下すったのだってそうだ。

あれがどこの家の出来事でも、きっと手を貸してくださったのだ、というわけではあるまい。

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あれがどこの内の出来事でも、きっと手を藉して下すったのだと云うわけではあるまい。

もしわたしの家でなかったら、知らん顔をして通り過ぎておしまいになったかもしれない。

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若しわたしの内でなかったら、知らぬ顔をして通り過ぎておしまいなすったかも知れない。

それに、こちらでこれだけ思っているのだから、全部とはいかないにしても、この心がいくらか向こうに通じていないことはないはずだ。

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それにこっちでこれだけ思っているのだから、皆までとは行かぬにしても、この心が幾らか向うにとおっていないことはない筈だ。

なに。

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なに。

案じるより産むが易しかもしれない。

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案じるよりは生むが易いかも知れない。

こんなことを思い続けているうちに、小桶の湯がすっかり冷えてしまったのを、お玉は冷たいとも思わずにいた。

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こんな事を思い続けているうちに、小桶の湯がすっかり冷えてしまったのを、お玉はつめたいとも思わずにいた。

膳を膳棚にしまって箱火鉢のところに戻ってすわったお玉は、なんだか気がそわそわしてじっとしてはいられないという様子をしていた。

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膳を膳棚にしまって箱火鉢の所に帰って据わったお玉は、なんだか気がそわそわしてじっとしてはいられぬと云う様子をしていた。

そして、けさ梅がきれいにふるった灰を火箸で二、三度かき回したかと思うと、つと立って着物を着替えはじめた。

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そしてけさ梅が綺麗きれいふるった灰を、火箸で二三度掻き廻したかと思うと、つと立って着物を着換えはじめた。

同朋町の女髪結いのところへ行くのである。

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同朋町どうぼうちょうの女髪結の所へ往くのである。

これは、いつも来る髪結いが人のいい女で、よそ行きの時には結いに行けと言って紹介しておいてくれたのに、これまでまだ一度も行ったことのない家なのである。

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これは不断来る髪結が人の好い女で、余所行よそゆきの時に結いに往けと云って、紹介して置いてくれたのに、これまでまだ一度も往かなかった内なのである。

弐拾弐

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弐拾弐にじゅうに

西洋の子供の読む本に、釘一本という話がある。

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西洋の子供の読む本に、くぎ一本と云う話がある。

僕はよくは覚えていないが、たしか車の輪の釘が一本抜けていたために、それに乗って出かけた百姓の息子がさまざまな難儀に出会うという筋であった。

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僕は好くは記憶していぬが、なんでも車の輪の釘が一本抜けていたために、それに乗って出た百姓の息子が種々の難儀に出会うと云う筋であった。

僕が話しはじめたこの物語では、鯖の味噌煮がちょうど釘一本と同じはたらきをするのである。

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僕のし掛けたこの話では、青魚さば未醤煮みそにが丁度釘一本と同じ効果をなすのである。

僕は下宿屋や学校の寄宿舎の「まかない」

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僕は下宿屋や学校の寄宿舎の「まかない」

で飢えをしのいでいるうちに、身の毛のよだつほどいやなおかずができた。

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うえしのいでいるうちに、身の毛の弥立よだつ程厭な菜が出来た。

どんなに風通しのいい座敷で、どんなに清潔な膳の上に載せて出されようとも、僕の目がひとたびそのおかずを見ると、僕の鼻は何とも言いようのない寄宿舎の食堂の臭いを嗅ぐ。

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どんな風通しのい座敷で、どんな清潔な膳の上に載せて出されようとも、僕の目が一たびその菜を見ると、僕の鼻は名状すべからざる寄宿舎の食堂の臭気をぐ。

煮魚にひじきや相良麩が添えてあると、もうそろそろこの嗅覚の幻覚が起こりかかる。

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煮肴にざかな羊栖菜ひじき相良麩さがらぶが附けてあると、もうそろそろこの嗅覚きゅうかくhallucinationアリュシナション が起り掛かる。

そしてそれが、鯖の味噌煮に至って極限まで達する。

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そしてそれが青魚の未醤煮に至って窮極の程度に達する。

ところが、その鯖の味噌煮がある日、上条の晩飯の膳に上った。

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然るにその青魚の未醤煮が或日あるひ上条の晩飯の膳にのぼった。

いつもは膳が出るとすぐに箸を取る僕がためらっているので、女中が僕の顔を見て言った。

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いつも膳が出ると直ぐに箸を取る僕が躊躇ちゅうちょしているので、女中が僕の顔を見て云った。

「あなた、鯖がお嫌い」

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「あなた青魚がおきらい

「いや、鯖は嫌いじゃない。焼いたのならずいぶん食うが、味噌煮は閉口だ」

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「さあ青魚は嫌じゃない。焼いたのなら随分食うが、未醤煮は閉口だ」

「まあ。おかみさんが存じませんものですから。なんなら玉子でも持ってまいりましょうか」

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「まあ。お上さんが存じませんもんですから。なんなら玉子でも持ってまいりましょうか」

こう言って立ちそうにした。

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こう云って立ちそうにした。

「待て」

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「待て」

と僕は言った。

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と僕は云った。

「実はまだ腹も空いていないから、散歩をして来よう。おかみさんには何とでも言っておいてくれ。おかずが気に入らなかったなんて言うなよ。余計な心配をさせなくてもいいから」

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「実はまだ腹も透いていないから、散歩をしてよう。お上さんにはなんとでも云って置いてくれ。菜が気に入らなかったなんて云うなよ。余計な心配をさせなくてもいから」

「それでも、なんだかお気の毒で」

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「それでもなんだかお気の毒様で」

「馬鹿を言え」

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「馬鹿を言え」

僕が立って袴を履きかけたので、女中は膳を持って廊下へ出た。

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僕が立ってはかま穿き掛けたので、女中は膳を持って廊下へ出た。

僕は隣の部屋へ声をかけた。

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僕は隣の部屋へ声を掛けた。

「おい。岡田君、いるか」

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「おい。岡田君いるか」

「いる。何か用かい」

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「いる。何か用かい」

岡田ははっきりした声で答えた。

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岡田ははっきりした声で答えた。

「用ではないがね、散歩に出て、帰りに豊国屋へでも行こうかと思うのだ。一緒に来ないか」

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「用ではないがね、散歩に出て、帰りに豊国屋へでも往こうかと思うのだ。一しょに来ないか」

「行こう。ちょうど君に話したいこともあるのだ」

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「行こう。丁度君に話したい事もあるのだ」

僕は釘にかけてあった帽子を取ってかぶり、岡田と一緒に上条を出た。

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僕は釘に掛けてあった帽を取って被って、岡田と一しょに上条を出た。

午後四時過ぎであったかと思う。

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午後四時過であったかと思う。

どこへ行こうという相談もせずに上条の格子戸を出たのだが、二人は門口から右へ曲がった。

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どこへ往こうと云う相談もせずに上条の格子戸を出たのだが、二人は門口から右へ曲った。

無縁坂を下りかかる時、僕は「おい、いるぜ」

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無縁坂を降り掛かる時、僕は「おい、いるぜ」

と言って、肘で岡田を突いた。

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と云って、ひじで岡田を衝いた。

「何が」

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「何が」

と口では言ったが、岡田は僕の言葉の意味が分かっていたので、左側の格子戸のある家を見た。

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と口には云ったが、岡田は僕の詞の意味を解していたので、左側の格子戸のある家を見た。

家の前にはお玉が立っていた。

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家の前にはお玉が立っていた。

お玉はやつれていても美しい女であった。

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お玉はやつれていても美しい女であった。

しかし若い健康な美人の常として、装った甲斐もあった。

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しかし若い健康な美人の常として、粧映つくりばえもした。

僕の目には、いつも見た時とどこがどう変わっているのか分からなかったが、とにかくいつもとはまるで違った美しさであった。

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僕の目には、いつも見た時と、どこがどう変っているか、わからなかったが、とにかくいつもとまるで違った美しさであった。

女の顔が照り輝いているようなので、僕は一種のまぶしさを感じた。

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女の顔が照り赫いているようなので、僕は一種の羞明まぶしさを感じた。

お玉の目は、うっとりしたように岡田の顔に注がれていた。

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お玉の目はうっとりとしたように、岡田の顔に注がれていた。

岡田は慌てたように帽子を取って礼をし、無意識に足を速めた。

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岡田は慌てたように帽を取って礼をして、無意識に足のはこびを早めた。

僕は第三者にありがちな無遠慮さで何度も後ろを振り向いて見たが、お玉の見つめる目はずいぶん長く続いていた。

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僕は第三者に有勝ありがちな無遠慮を以て、度々背後うしろを振り向いて見たが、お玉の注視はすこぶる長く継続せられていた。

岡田はうつむき加減になって、速めた足を緩めずに坂を下りる。

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岡田は俯向うつむき加減になって、早めた足のはこびを緩めずに坂を降りる。

僕も黙ってついて下りる。

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僕も黙って附いて降りる。

僕の胸の中ではさまざまな感情が戦っていた。

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僕の胸のうちでは種々の感情が戦っていた。

この感情には、自分を岡田の立場に置きたいということが根っこにある。

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この感情には自分を岡田の地位に置きたいと云うことが根調をなしている。

しかし僕の意識は、それを認めることを嫌がっている。

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しかし僕の意識はそれを認識することを嫌っている。

僕は心の内で、「なに、おれがそんな卑劣な男なものか」

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僕は心の内で、「なに、おれがそんな卑劣な男なものか」

と叫んで、それを打ち消そうとしている。

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と叫んで、それを打ち消そうとしている。

そしてこの抑えつけが功を奏さないのを、僕は腹立たしく思っている。

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そしてこの抑制が功を奏せぬのを、僕は憤っている。

自分を岡田の立場に置きたいというのは、あの女の誘惑に身を任せたいと思うのではない。

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自分を岡田の地位に置きたいと云うのは、彼女かのおんなの誘惑に身を任せたいと思うのではない。

ただ岡田のように、あんな美しい女に慕われたら、さぞ愉快だろうと思うにすぎない。

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只岡田のように、あんな美しい女に慕われたら、さぞ愉快だろうと思うに過ぎない。

それなら慕われてどうするのか、僕はそこに意志の自由を残しておきたい。

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そんなら慕われてどうするか、僕はそこに意志の自由を保留して置きたい。

僕は岡田のように逃げはしない。

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僕は岡田のように逃げはしない。

僕は会って話をする。

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僕は逢って話をする。

自分の清潔な身は汚さないが、会って話だけはする。

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自分の清潔な身は汚さぬが、逢って話だけはする。

そして彼女を妹のように愛する。

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そして彼女を妹の如くに愛する。

彼女の力になってやる。

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彼女の力になって遣る。

彼女を泥の中から救い出す。

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彼女を淤泥おでいうちから救抜する。

僕の想像はこんな取り留めのないところに落ち着いてしまった。

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僕の想像はこんな取留のない処に帰着してしまった。

坂下の四つ辻まで、岡田と僕とは黙って歩いた。

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坂下の四辻よつつじまで岡田と僕とは黙って歩いた。

まっすぐに巡査派出所の前を通り過ぎる時、僕はようやく物を言うことができた。

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真っ直に巡査派出所の前を通り過ぎる時、僕はようよう物を言うことが出来た。

「おい。すごい状況になっているじゃないか」

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「おい。すごい状況になっているじゃないか」

「ええ。何が」

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「ええ。何が」

「何がも何もないじゃないか。君だってさっきからあの女のことを思って歩いていたに違いない。僕は何度も振り返って見たが、あの女はいつまでも君の後ろ姿を見ていた。おおかた、まだこっちの方角を見て立っているだろう。あの左伝の、目で迎えてそして目で送るという文句だねえ。あれをあべこべに、女の方でやっているのだ」

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「何がも何も無いじゃないか。君だってさっきからあの女の事を思って歩いていたに違ない。僕は度々振り返って見たが、あの女はいつまでも君の後影を見ていた。おおかたまだこっちの方角を見て立っているだろう。あの左伝の、目迎えてしこうしてこれを送ると云う文句だねえ。あれをあべこべに女の方で遣っているのだ」

「その話はもうよしてくれたまえ。君にだけは一部始終を打ち明けて話してあるのだから、この上僕をいじめなくてもいいじゃないか」

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「その話はもうよしてくれ給え。君にだけは顛末てんまつを打ち明けて話してあるのだから、この上僕をいじめなくても好いじゃないか」

こう言っているうちに池の縁に出たので、二人ともちょっと足を止めた。

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こう云っているうちに、池のふちに出たので、二人共ちょいと足を停めた。

「あっちを回ろうか」

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「あっちを廻ろうか」

と、岡田が池の北の方を指さした。

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と、岡田が池の北の方を指ざした。

「うん」

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「うん」

と言って、僕は左へ池に沿って曲がった。

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と云って、僕は左へ池に沿うて曲った。

そして十歩ばかり歩いた時、僕は左手に並んでいる二階建ての家を見て、「ここが桜痴先生と末造君との御邸宅だ」

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そして十歩ばかりも歩いた時、僕は左手に並んでいる二階造の家を見て、「ここが桜痴おうち先生と末造君との第宅ていたくだ」

と独り言のように言った。

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独語ひとりごとのように云った。

「妙な取り合わせのようだが、桜痴居士もあまり清廉ではないというじゃないか」

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「妙な対照のようだが、桜痴居士も余り廉潔じゃないと云うじゃないか」

と、岡田が言った。

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と、岡田が云った。

僕は特に考えもなく、反論めいたことを言った。

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僕は別に思慮もなく、弁駁べんばくらしい事を言った。

「そりゃあ政治家になると、どんなにしていたって難癖をつけられるさ」

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「そりゃあ政治家になると、どんなにしていたって、難癖を附けられるさ」

おそらくは、福地さんと末造との距離を、なるべく大きく考えたかったのだろう。

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恐らくは福地さんと末造との距離を、なるたけ大きく考えたかったのであろう。

福地の屋敷の板塀のはずれから北へ二、三軒目の小さな家に、ついこの頃「川魚」

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福地のやしきの板塀のはずれから、北へ二三軒目の小家こいえに、ついこの頃「川魚」

という看板を掛けたのがある。

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と云う看板を掛けたのがある。

僕はそれを見て言った。

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僕はそれを見て云った。

「この看板を見ると、なんだか不忍の池の魚を食わせそうに見えるなあ」

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「この看板を見ると、なんだか不忍の池の肴を食わせそうに見えるなあ」

「僕もそう思った。しかし、まさか梁山泊の豪傑が店を出したというわけでもあるまい」

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「僕もそう思った。しかしまさか梁山泊りょうざんぱくの豪傑が店を出したと云うわけでもあるまい」

こんな話をして、池の北の方へ行く小橋を渡った。

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こんな話をして、池の北の方へ往く小橋を渡った。

すると、岸の上に立って何か見ている学生らしい青年がいた。

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すると、岸の上に立って何か見ている学生らしい青年がいた。

それが二人の近づくのを見て、「やあ」

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それが二人の近づくのを見て、「やあ」

と声をかけた。

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と声を掛けた。

柔術に凝っていて、学科のほかの本は一切読まないという質だから、岡田も僕も親しくはしないが、そうかと言って嫌ってもいない、石原という男である。

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柔術に凝っていて、学科の外の本は一切読まぬと云うたちだから、岡田も僕も親しくはせぬが、そうかと云って嫌ってもいぬ石原と云う男である。

「こんな所に立って何を見ていたのだ」

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「こんな所に立って何を見ていたのだ」

と、僕が尋ねた。

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と、僕が問うた。

石原は黙って池の方を指さした。

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石原は黙って池の方を指ざした。

岡田も僕も、灰色に濁った夕方の空気を透かして、指さす方角を見た。

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岡田も僕も、灰色に濁ったゆうべの空気を透かして、指ざす方角を見た。

その頃は根津に通じる小溝から、今三人の立っている水際まで、一面に葦が茂っていた。

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その頃は根津に通ずる小溝こみぞから、今三人の立っているみぎわまで、一面にあしが茂っていた。

その葦の枯葉が池の中心に向かって次第にまばらになり、ただ枯れた蓮のぼろのような葉、海綿のような房が碁石のように散らばっていて、葉や房の茎はさまざまな高さに折れ、それが鋭く尖って突き立ち、景色に荒涼とした趣を添えている。

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その葦の枯葉が池の中心に向って次第にまばらになって、只枯蓮かれはす襤褸ぼろのような葉、海綿のようなぼう碁布きふせられ、葉や房の茎は、種々の高さに折れて、それが鋭角にそびえて、景物に荒涼な趣を添えている。

この黒褐色の茎の間を縫って、黒ずんだ上に鈍い反射を見せている水の面を、十羽ばかりの雁がゆっくりと行き来している。

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この bitumeビチュウム 色の茎の間を縫って、黒ずんだ上に鈍い反射を見せている水のおもてを、十羽ばかりのがんが緩やかに往来している。

中には止まったまま動かないのもある。

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中には停止して動かぬのもある。

「あれまで石が届くか」

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「あれまで石が届くか」

と、石原が岡田の顔を見て言った。

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と、石原が岡田の顔を見て云った。

「届くことは届くが、当たるか当たらないかが問題だ」

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「届くことは届くが、あたるか中らぬかが疑問だ」

と、岡田は答えた。

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と、岡田は答えた。

「やってみたまえ」

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「遣って見給え」

岡田はためらった。

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岡田は躊躇ちゅうちょした。

「あれはもう寝るのだろう。石を投げつけるのはかわいそうだ」

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「あれはもうるのだろう。石を投げ附けるのは可哀そうだ」

石原は笑った。

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石原は笑った。

「そう物の哀れを知り過ぎては困るなあ。君が投げないと言うなら、僕が投げる」

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「そう物のあわれを知り過ぎては困るなあ。君が投げんと云うなら、僕が投げる」

岡田は気の進まない様子で石を拾った。

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岡田は不精らしく石を拾った。

「それなら僕が逃がしてやる」

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「そんなら僕が逃がして遣る」

つぶてはひゅうというかすかな音を立てて飛んだ。

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つぶてはひゅうと云うかすかな響をさせて飛んだ。

僕がその行方をじっと見ていると、一羽の雁が持ち上げていた首をぐたりと垂れた。

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僕がその行方をじっと見ていると、一羽の雁がもたげていたくびをぐたりと垂れた。

それと同時に二、三羽の雁が鳴きながら羽ばたきをして、水面を滑って散った。

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それと同時に二三羽の雁が鳴きつつ羽たたきをして、水面を滑って散った。

しかし飛び立ちはしなかった。

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しかし飛び起ちはしなかった。

首を垂れた雁は動かずにもとの所にいる。

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頸を垂れた雁は動かずにもとの所にいる。

「当たった」

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「中った」

と、石原が言った。

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と、石原が云った。

そしてしばらく池の面を見ていて、言葉を継いだ。

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そしてしばらく池のおもてを見ていて、詞を継いだ。

「あの雁は僕が取って来るから、その時は君たちも少し手伝ってくれたまえ」

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「あの雁は僕が取って来るから、その時は君達も少し手伝ってくれ給え」

「どうやって取る」

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「どうして取る」

と、岡田が尋ねた。

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と、岡田が問うた。

僕も思わず耳をそばだてた。

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僕も覚えず耳をそばだてた。

「まず今は時が悪い。もう三十分経つと暗くなる。暗くさえなれば、僕がわけなく取ってみせる。君たちは手を出してくれなくてもいいが、その時居合わせて、僕の頼むことを聞いてくれたまえ。雁はごちそうするから」

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「先ず今は時が悪い。もう三十分立つと暗くなる。暗くさえなれば、僕がわけなく取って見せる。君達は手を出してくれなくても好いが、その時居合せて、僕の頼むことを聴いてくれ給え。雁は御馳走するから」

と、石原は言った。

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と、石原は云った。

「面白いな」

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「面白いな」

と、岡田が言った。

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と、岡田が云った。

「しかし三十分経つまではどうしているのだい」

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「しかし三十分立つまでどうしているのかい」

「僕はこのあたりをぶらついている。君たちはどこへでも行って来たまえ。三人ここにいると目立つから」

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「僕はこのへんをぶらついている。君達はどこへでも往って来給え。三人ここにいると目立つから」

僕は岡田に言った。

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僕は岡田に言った。

「それなら二人で池を一周して来ようか」

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「そんなら二人で池を一周して来ようか」

「いいだろう」

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「好かろう」

と言って岡田はすぐに歩き出した。

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と云って岡田はすぐに歩き出した。

弐拾参

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弐拾参にじゅうさん

僕は岡田と一緒に花園町の端を横切って、東照宮の石段の方へ行った。

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僕は岡田と一しょに花園町のはなを横切って、東照宮の石段の方へ往った。

二人の間にはしばらく言葉が絶えている。

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二人の間には暫く詞が絶えている。

「不幸せな雁もあるものだ」

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「不しあわせな雁もあるものだ」

と、岡田が独り言のように言う。

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と、岡田が独言の様に云う。

僕の頭には、何の理屈のつながりもなく、無縁坂の女が浮かぶ。

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僕の写象には、何の論理的連繋れんけいもなく、無縁坂の女が浮ぶ。

「僕はただ雁のいる方を狙って投げただけなのだがなあ」

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「僕は只雁のいる所を狙って投げたのだがなあ」

と、今度は僕に向かって岡田が言う。

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と、今度は僕に対して岡田が云う。

「うん」

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「うん」

と言いながらも、僕はやはり女のことを思っている。

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と云いつつも、僕は矢張やはり女の事を思っている。

「でも、石原があれを取りに行くのは見たいよ」

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「でも石原のあれを取りに往くのが見たいよ」

と、僕がしばらく経ってから言う。

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と、僕が暫く立ってから云う。

今度は岡田が「うん」

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こん度は岡田が「うん」

と言って、何やら考えながら歩いている。

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と云って、何やら考えつつ歩いている。

たぶん雁が気になっているのだろう。

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多分雁が気になっているのであろう。

石段の下を南へ、弁天の方へ向かって歩く二人の心には、とにかく雁の死が暗い影を落としていて、話は途切れがちであった。

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石段の下を南へ、弁天の方へ向いて歩く二人の心には、とにかく雁の死が暗い影をいんしていて、話がきれぎれになり勝であった。

弁天の鳥居の前を通る時、岡田は無理に考えを別の方角へ移そうとするらしく、「僕は君に話すことがあったのだった」

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弁天の鳥居の前を通る時、岡田は強いて思想を他の方角に転ぜようとするらしく、「僕は君に話す事があるのだった」

と言い出した。

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と言い出した。

そして僕は、まったく思いもかけないことを聞かされた。

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そして僕は全く思いも掛けぬ事を聞せられた。

その話はこうである。

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その話はこうである。

岡田は今夜おれの部屋へ来て話そうと思っていたが、ちょうどおれに誘われたので、一緒に外へ出た。

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岡田は今夜己の部屋へ来て話そうと思っていたが、丁度己にさそわれたので、一しょに外へ出た。

出てからは、食事をする時に話そうと思っていたが、それもどうやら駄目になりそうである。

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出てからは、食事をする時話そうと思っていたが、それもどうやら駄目になりそうである。

そこで歩きながら、かいつまんで話すことにする。

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そこで歩きながらまんで話すことにする。

岡田は卒業の時期を待たずに洋行することに決まって、もう外務省から旅券を受け取り、大学へ退学届を出してしまった。

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岡田は卒業の期を待たずに洋行することにまって、もう外務省から旅行券を受け取り、大学へ退学届を出してしまった。

それは、東洋の風土病を研究しに来たドイツのW教授が、往復旅費四千マルクと月給二百マルクを出して岡田を雇ったからである。

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それは東洋の風土病を研究しに来たドイツの Professorプロフェッソル Wウエエ. が、往復旅費四千マルクと、月給二百マルクを給して岡田をやとったからである。

ドイツ語を話す学生のうちで、漢文を楽に読める者、という注文を受けて、ベルツ教授が岡田を紹介した。

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ドイツ語を話す学生のうちで、漢文を楽に読むものと云う注文を受けて、Baelzベルツ 教授が岡田を紹介した。

岡田は築地にWさんを訪ねて、試験を受けた。

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岡田は築地にウエエさんを尋ねて、試験を受けた。

素問と難経とを二、三行ずつ、傷寒論と病源候論とを五、六行ずつ訳させられたのである。

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素問そもん難経なんきょうとを二三行ずつ、傷寒論と病源候論とを五六行ずつ訳させられたのである。

難経はあいにく「三焦」

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難経は生憎あいにく「三焦」

の一節が出て、何と訳していいかまごついたが、これはそのまま音で写して済ませた。

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の一節が出て、何と訳して好いかとまごついたが、これは chiaoチャオ と音訳して済ませた。

とにかく試験に合格して、その場で契約ができた。

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とにかく試験に合格して、即座に契約が出来た。

Wさんはベルツさんが今も籍を置いているライプチヒ大学の教授だから、岡田をライプチヒへ連れて行って、博士の試験はWさんの手で引き受けて受けさせる。

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Wさんは Baelz さんの現に籍を置いているライプチヒ大学の教授だから、岡田をライプチヒへ連れて往って、ドクトルの試験はWさんの手で引き受けてさせる。

学位論文にはWさんのために訳した東洋の文献を使ってもいい、ということである。

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卒業論文にはWさんのために訳した東洋の文献を使用してもいと云うことである。

岡田はあす上条を出て、築地のWさんのところへ移り、Wさんが中国と日本とで買い集めた書物の荷造りをする。

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岡田はあす上条を出て、築地のWさんの所へ越して往って、Wさんが支那と日本とで買い集めた書物の荷造をする。

それからWさんについて九州を視察し、九州からすぐにメサジュリ・マリティム会社の船に乗るのである。

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それからWさんに附いて九州を視察して、九州からすぐに Messagerieメッサジュリィ Maritimeマリチィム 会社の舟に乗るのである。

僕は時々立ち止まって、「驚いたね」

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僕は折々立ち留まって、「驚いたね」

とか、「君は思い切りがいいよ」

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とか、「君は果断だよ」

とか言って、ずいぶんゆっくり歩きながらこの話を聞いたつもりであった。

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とか云って、随分ゆるゆる歩きつつこの話を聞いた積であった。

しかし聞き終わって時計を見れば、石原と別れてからまだ十分しか経っていない。

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しかし聞いてしまって時計を見れば、石原に分れてからまだ十分しか立たない。

それにもう池の周囲のほとんど三分の二を通り過ぎて、仲町裏の池の端をはずれかかっている。

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それにもう池の周囲の殆ど三分の二を通り過ぎて、仲町裏の池の端をはずれ掛かっている。

「このまま行っては早すぎるね」

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「このまま往っては早過ぎるね」

と、僕は言った。

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と、僕は云った。

「蓮玉へ寄って蕎麦を一杯食って行こうか」

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「蓮玉へ寄って蕎麦そばを一杯食って行こうか」

と、岡田が言い出した。

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と、岡田が提議した。

僕はすぐに同意して、一緒に蓮玉庵へ引き返した。

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僕はすぐに同意して、一しょに蓮玉庵へ引き返した。

その頃、下谷から本郷にかけて一番名高かった蕎麦屋である。

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その頃下谷から本郷へ掛けて一番名高かった蕎麦屋である。

蕎麦を食いながら岡田は言った。

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蕎麦を食いつつ岡田は云った。

「せっかく今までやって来て、卒業しないのは残念だが、どうせ官費留学生になれない僕がこの機会を逃すと、ヨーロッパが見られないからね」

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「切角今まで遣って来て、卒業しないのは残念だが、所詮しょせん官費留学生になれない僕がこの機会を失すると、ヨオロッパが見られないからね」

「そうだとも。好機は逃すべきではない。卒業が何だ。向こうで博士になれば同じことだし、またその博士にならなくたって、それも心配するには当たらないじゃないか」

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「そうだとも。機逸すべからずだ。卒業がなんだ。向うでドクトルになれば同じ事だし、又そのドクトルをしなくたって、それも憂うるに足りないじゃないか」

「僕もそう思う。ただ資格をこしらえるというだけだ。世間並みに従ってみるまでのことさ」

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「僕もそう思う。只資格をこしらえると云うだけだ。俗にしたがっていささかまたしかりだ」

「支度はどうだい。ずいぶんあわただしい旅立ちになりそうだが」

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「支度はどうだい。随分慌ただしい旅立になりそうだが」

「なに。僕はこのままで行く。Wさんが言うには、日本で洋服をこしらえて行ったって、向こうでは着られないそうだ」

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「なに。僕はこのままで往く。Wさんの云うには、日本で洋服を拵えて行ったって、向うでは着られないそうだ」

「そうかなあ。いつか花月新誌で読んだが、成島柳北も横浜でふと思い立って、その場で決心して船に乗ったということだった」

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「そうかなあ。いつか花月新誌で読んだが、成島柳北も横浜でふいと思い立って、即坐に決心して舟に乗ったと云うことだった」

「うん。僕も読んだ。柳北は家へ手紙も出さずに発ったそうだが、僕は家の方へは詳しく言ってやった」

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「うん。僕も読んだ。柳北は内へ手紙も出さずに立ったそうだが、僕は内の方へはくわしく言って遣った」

「そうか。羨ましいな。Wさんについて行くのだから途中でまごつくことはあるまいが、旅行はどんな具合だろう。僕には想像もできない」

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「そうか。うらやましいな。Wさんに附いて行くのだから、途中でまごつくことはあるまいが、旅行はどんな塩梅あんばいだろう。僕には想像も出来ない」

「僕もどんなものだか分からないが、きのう柴田承桂さんに会って、これまで世話になった人だから今度の一件を話したら、先生の書いた洋行案内をくれたよ」

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「僕もどんな物だか分からないが、きのう柴田承桂しょうけいさんに逢って、これまで世話になった人だから、今度の一件を話したら、先生の書いた洋行案内をくれたよ」

「へえ。そんな本があるのかねえ」

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「はあ。そんな本があるかねえ」

「うん。非売品だ。洋行する連中に配るのだそうだ」

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「うん。非売品だ。椋鳥むくどり連中に配るのだそうだ」

こんな話をしているうちに、時計を見れば、もう三十分まで五分しかなかった。

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こんな話をしているうちに、時計を見れば、もう三十分までに五分しかなかった。

僕は岡田と急いで蓮玉庵を出て、石原の待っているところへ行った。

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僕は岡田と急いで蓮玉庵を出て、石原の待っている所へ往った。

もう池は闇に閉ざされて、弁天の朱塗りの祠がぼんやりと靄の中に見える頃であった。

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もう池は闇にとざされて、弁天の朱塗のほこら模糊もことしてもやうちに見える頃であった。

待ち受けていた石原は、岡田と僕とを引っ張って、池の縁に出て言った。

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待ち受けていた石原は、岡田と僕とを引っ張って、池の縁に出て云った。

「時刻はちょうどいい。無事な雁はみんなねぐらを変えてしまった。僕はすぐに仕事にかかる。それには君たちがここにいて、号令をかけてくれなくてはならないのだ。見たまえ。そこの三間ばかり前のところに、蓮の茎の右へ折れたのがある。その延長線上に、少し低い茎の左へ折れたのがある。僕はあの延長線を前へ前へと進まなくてはならないのだ。そこで、僕がそれをはずれそうになったら、君たちがここから右とか左とか言って直してくれるのだ」

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「時刻は丁度好い。達者な雁は皆ねぐらを変えてしまった。僕はすぐに為事に掛かる。それには君達がここにいて、号令を掛けてくれなくてはならないのだ。見給え。そこの三間ばかり前の所に蓮の茎の右へ折れたのがある。その延線に少し低い茎の左へ折れたのがある。僕はあの延線を前へ前へと行かなくてはならないのだ。そこで僕がそれをはずれそうになったら、君達がここから右とか左とか云って修正してくれるのだ」

「なるほど。視差のような理屈だな。しかし深くはないだろうか」

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「なる程。Parallaxeパララックセ のような理窟りくつだな。しかし深くはないだろうか」

と岡田が言った。

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と岡田が云った。

「なに。背の立たない心配はない」

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「なに。背の立たない気遣きづかいは無い」

こう言って、石原は素早く裸になった。

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こう云って、石原は素早く裸になった。

石原の踏み込んだところを見ると、泥は膝の上までしかない。

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石原の踏み込んだ処を見ると、泥はひざの上までしか無い。

鷺のように足を上げては踏み込んで、ごぼりごぼりとやって行く。

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さぎのように足をげては踏み込んで、ごぼりごぼりと遣って行く。

少し深くなるかと思うと、また浅くなる。

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少し深くなるかと思うと、又浅くなる。

見る見るうちに二本の蓮の茎より前に出た。

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見る見る二本の蓮の茎より前に出た。

しばらくすると、岡田が「右」

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暫くすると、岡田が「右」

と言った。

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と云った。

石原は右へ寄って歩く。

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石原は右へ寄って歩く。

岡田がまた「左」

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岡田が又「左」

と言った。

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と云った。

石原があまり右へ寄りすぎたのである。

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石原が余り右へ寄り過ぎたのである。

たちまち石原は足を止めて身をかがめた。

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たちまち石原は足を停めて身をかがめた。

そしてすぐにあとへ引き返して来た。

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そしてすぐに跡へ引き返して来た。

遠い方の蓮の茎のあたりを過ぎた頃には、もう右の手に提げている獲物が見えた。

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遠い方の蓮の茎のあたりを過ぎた頃には、もう右の手に提げている獲ものが見えた。

石原は太股を半分泥で汚しただけで、岸に着いた。

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石原は太股ふとももを半分泥によごしただけで、岸に着いた。

獲物は思いがけない大きさの雁であった。

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獲ものは思い掛けぬ大さの雁であった。

石原はざっと足を洗って、着物を着た。

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石原はざっと足を洗って、着物を着た。

このあたりはその頃まだ人の行き来が少なくて、石原が池に入ってからまた上がって来るまで、一人も通りかかった者がなかった。

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このへんはその頃まだ人の往来ゆききが少くて、石原が池に這入はいってから又上がって来るまで、一人も通り掛かったものが無かった。

「どうやって持って行こう」

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「どうして持って行こう」

と僕が言うと、石原が袴を履きながら言った。

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と僕が云うと、石原が袴を穿きつつ云った。

「岡田君の外套が一番大きいから、あの下に入れて持ってもらうのだ。料理は僕のところでさせる」

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「岡田君の外套がいとうが一番大きいから、あの下に入れて持って貰うのだ。料理は僕の所でさせる」

石原は素人の家の一間を借りていた。

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石原は素人家の一間を借りていた。

主人の婆さんは、あまり人がよくないのが取り柄で、獲物を分けてやれば口をつぐませることもできそうである。

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主人の婆あさんは、余り人の好くないのが取柄で、獲ものを分けて遣れば、口をつぐませることも出来そうである。

その家は湯島の切通しから岩崎邸の裏手へ出る横町で、曲がりくねった奥にある。

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その家は湯島切通しから、岩崎邸の裏手へ出る横町で、曲りくねった奥にある。

石原はそこへ雁を持ち込む道筋を手短に説明した。

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石原はそこへ雁を持ち込む道筋を手短に説明した。

まず、ここから石原のところへ行くには、通るべき道が二筋ある。

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先ずここから石原の所へ往くには、るべき道が二条ふたすじある。

すなわち南から切通しを経る道と、北から無縁坂を経る道とで、この二筋は岩崎邸の内に中心を持つ円を描いている。

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即ち南から切通しを経る道と、北から無縁坂を経る道とで、この二条は岩崎邸の内に中心を有した圏をえがいている。

遠い近いの差は少ない。

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遠近の差は少い。

またこの場合に問題にすることでもない。

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又この場合に問う所でも無い。

障害は巡査派出所だが、これはどちらにも一か所ずつある。

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障礙物しょうがいぶつは巡査派出所だが、これはどちらにも一箇所ずつある。

そこで利害を比べれば、ただにぎやかな切通しを避けて、寂しい無縁坂を選ぶということに落ち着く。

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そこで利害を比較すれば、只にぎやかな切通しを避けて、寂しい無縁坂を取ると云うことに帰着する。

雁は岡田に外套の下に入れて持たせ、あとの二人が左右に並んで岡田の体を隠して行くのが最良の策だ、というのである。

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雁は岡田に、外套の下に入れて持たせ、跡の二人が左右に並んで、岡田の体を隠蔽いんぺいして行くが最良の策だと云うのである。

岡田は苦笑しながらも雁を持った。

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岡田は苦笑しつつも雁を持った。

どんなふうに持ってみても、外套の裾から下へ羽が二、三寸出る。

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どんなにして持って見ても、外套のすそから下へ、羽が二三寸出る。

その上、外套の裾が不恰好に広がって、岡田の姿は円錐形に見える。

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その上外套の裾が不恰好に拡がって、岡田の姿は円錐形えんすいけいに見える。

石原と僕とは、それを目立たせないようにしなくてはならないのである。

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石原と僕とは、それを目立たせぬようにしなくてはならぬのである。

弐拾肆

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弐拾肆にじゅうし

「さあ、こういうふうにして歩くのだ」

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「さあ、こう云う風にして歩くのだ」

と言って、石原と僕と二人で、岡田を中に挟んで歩き出した。

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と云って、石原と僕と二人で、岡田を中に挟んで歩き出した。

三人が初めから気にかけているのは、無縁坂下の四つ辻にある交番である。

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三人で初から気に掛けているのは、無縁坂下の四辻にある交番である。

そこを通り抜ける時の心得だと言って、石原が盛んな講釈をし出した。

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そこを通り抜ける時の心得だと云って、石原が盛んな講釈をし出した。

なんでも、僕の聞き取ったところでは、心が動いてはならない、動けば隙が生じる、隙が生じれば付け込まれる、というようなことであった。

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なんでも、僕の聴き取った所では、心が動いてはならぬ、動けばすきを生ずる、隙を生ずれば乗ぜられると云うような事であった。

石原は、虎は酔っ払いを食わないというたとえを引いた。

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石原は虎が酔人をわぬと云うたとえを引いた。

たぶんこの講釈は、柔術の先生に聞いたことをそのまま繰り返したものだろうと思われた。

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多分この講釈は柔術の先生に聞いた事をそのまま繰り返したものかと思われた。

「してみると、巡査が虎で、我々三人が酔っ払いだね」

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「して見ると、巡査が虎で、我々三人が酔人だね」

と、岡田が冷やかした。

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と、岡田が冷かした。

「静かに!」

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Silentiumシレンチウム !」

と石原が叫んだ。

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と石原が叫んだ。

もう無縁坂の方角へ曲がる角に近くなったからである。

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もう無縁坂の方角へ曲る角に近くなったからである。

角を曲がれば、茅町の町家と池に沿った屋敷とが背中合わせになった横町で、その頃は両側に荷車や何かが置いてあった。

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角を曲れば、茅町かやちょう町家まちやと池に沿うた屋敷とが背中合せになった横町で、その頃は両側に荷車や何かが置いてあった。

四つ辻に立っている巡査の姿は、もう角から見えていた。

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四辻に立っている巡査の姿は、もう角から見えていた。

突然、岡田の左に寄り添って歩いていた石原が、岡田に言った。

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突然岡田の左に引き添って歩いていた石原が、岡田に言った。

「君、円錐の体積を出す公式を知っているか。なに。知らない。あれは造作もないさ。底面積に高さを掛けたものの三分の一だから、もし底面が円になっていれば、三分の一かける半径の二乗かける円周率かける高さが体積だ。円周率が三・一四一六だということを覚えていれば、わけなくできるのだ。僕は円周率を小数点以下八桁まで覚えている。三・一四一五九二六五になるのだ。実際、それ以上の数は必要ないよ」

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「君円錐の立方積を出す公式を知っているか。なに。知らない。あれは造做ぞうさはないさ。基底面に高さを乗じたものの三分の一だから、若し基底面が圏になっていれば、⅓r2πhが立方積だ。π=3.1416だと云うことを記憶していれば、わけなく出来るのだ。僕はπを小数点下八位まで記憶している。π=3.14159265になるのだ。実際それ以上の数は不必要だよ」

こう言っているうちに、三人は四つ辻を通り過ぎた。

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こう云っているうちに、三人は四辻を通り過ぎた。

巡査は我々の通る横町の左側、交番の前に立って、茅町を根津の方へ走る人力車を見ていたが、我々にはただ意味のない一瞥を投げただけであった。

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巡査は我々の通る横町の左側、交番の前に立って、茅町を根津の方へ走る人力車を見ていたが、我々には只無意味な一瞥いちべつを投じたに過ぎなかった。

「どうして円錐の体積なんぞを計算し出したのだ」

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「なんだって円錐の立方積なんぞを計算し出したのだ」

と、僕は石原に言ったが、それと同時に僕の目は坂の中ほどに立ってこちらを見ている女の姿を認め、僕の心は一種異様な激しい動揺を感じた。

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と、僕は石原に言ったが、それと同時に僕の目は坂の中程に立って、こっちを見ている女の姿を認めて、僕の心は一種異様な激動を感じた。

僕は池の北の端から引き返す道すがら、交番の巡査のことを思うよりは、この女のことを思っていた。

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僕は池の北の端から引き返すみちすがら、交番の巡査の事を思うよりは、この女の事を思っていた。

なぜだか知らないが、僕にはこの女が岡田を待ち受けていそうに思われたのである。

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なぜだか知らぬが、僕にはこの女が岡田を待ち受けていそうに思われたのである。

果たして僕の想像は僕を裏切らなかった。

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果して僕の想像は僕を欺かなかった。

女は自分の家より二、三軒先まで出迎えていた。

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女は自分の家よりは二三軒先へ出迎えていた。

僕は石原の目を盗むようにして、女の顔と岡田の顔とを見比べた。

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僕は石原の目をかすめるように、女の顔と岡田の顔とを見較みくらべた。

いつも薄紅に匂っている岡田の顔は、確かにひときわ赤く染まった。

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いつも薄紅うすくれないにおっている岡田の顔は、確に一入ひとしお赤く染まった。

そして彼は、たまたま帽子を直すように装って、帽子の庇に手をかけた。

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そして彼は偶然帽を動かすらしくよそおって、帽のひさしに手を掛けた。

女の顔は石のように固まっていた。

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女の顔は石のように凝っていた。

そして、美しく見張った目の底には、限りない名残惜しさが込められているようであった。

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そして美しくみはった目の底には、無限の残惜しさが含まれているようであった。

この時、石原が僕に答えた言葉は、その響きが耳に入っただけで、その意味は心に通じなかった。

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この時石原の僕に答えた詞は、その響が耳にっただけで、その意は心に通ぜなかった。

たぶん、岡田の外套が下ぶくれになっていて円錐形に見えるところから思いついて、円錐の体積ということを言い出したのだと弁明したのだろう。

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多分岡田の外套が下ぶくれになっていて、円錐形に見える処から思い附いて、円錐の立方積と云うことを言い出したのだと、弁明したのであろう。

石原も女を見ることは見たが、ただ美しい女だと思っただけで、気に留めずにしまったらしかった。

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石原も女を見ることは見たが、只美しい女だと思っただけで意に介せずにしまったらしかった。

石原はまだしゃべり続けている。

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石原はまだ饒舌しゃべり続けている。

「僕は君たちに動じないための秘訣を説いて聞かせたが、君たちは修業がないから、いざという場に臨んでそれを実行できそうになかった。そこで僕は、君たちの心を別のところへ移す工夫をしたのだ。問題は何を出してもよかったのだが、今言ったようなわけで円錐の公式が出たのさ。とにかく僕の工夫はよかったね。君たちは円錐の公式のおかげで、何食わぬ態度を保って巡査の前を通り抜けることができたのだ」

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「僕は君達に不動の秘訣ひけつを説いて聞かせたが、君達は修養が無いから、急場に臨んでそれを実行することが出来そうでなかった。そこで僕は君達の心を外へ転ぜさせる工夫をしたのだ。問題は何を出しても好かったのだが、今云ったようなわけで円錐の公式が出たのさ。とにかく僕の工夫は好かったね。君達は円錐の公式のお蔭で、unbefangenウンベファンゲン な態度を保って巡査の前を通過することが出来たのだ」

三人は、岩崎邸に沿って東へ曲がるところに来た。

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三人は岩崎邸に附いて東へ曲る処に来た。

一人乗りの人力車がすれ違うこともできない横町に入るのだから、危険はもうまったくないと言ってもいい。

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一人乗いちにんのりの人力車が行き違うことの出来ぬ横町に這入るのだから、危険はもう全く無いと云っても好い。

石原は岡田のそばを離れて、案内者のように前に立った。

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石原は岡田のそばを離れて、案内者のように前に立った。

僕はもう一度振り返って見たが、もう女の姿は見えなかった。

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僕は今一度振り返って見たが、もう女の姿は見えなかった。

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僕と岡田とは、その晩石原のところに夜が更けるまでいた。

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僕と岡田とは、その晩石原の所に夜のけるまでいた。

雁を肴に酒を飲む石原の相伴をした、と言ってもいい。

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雁をさかなに酒を飲む石原の相伴をしたと云っても好い。

岡田が洋行のことをおくびにも出さないので、僕はいろいろ話したいことがあるのをこらえて、石原と岡田との間で交わされる競漕の思い出話などに耳を傾けていた。

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岡田が洋行の事を噫気おくびにも出さぬので、僕は色々話したい事のあるのをこらえて、石原と岡田との間に交換せられる競漕きょうそうの経歴談などに耳を傾けていた。

上条へ帰った時は、僕は疲れと酒の酔いとのために岡田と話すこともできず、別れて寝た。

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上条へ帰った時は、僕は草臥くたびれと酒のえいとのために、岡田と話すことも出来ずに、別れて寝た。

翌日、大学から帰ってみると、もう岡田はいなかった。

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翌日大学から帰って見ればもう岡田はいなかった。

一本の釘から大事件が生じるように、鯖の煮魚が上条の夕食の膳に上ったために、岡田とお玉とは永遠に会うことができずにしまった。

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一本のくぎから大事件が生ずるように、青魚さばの煮肴が上条の夕食のせんのぼったために、岡田とお玉とは永遠に相見ることを得ずにしまった。

それだけではない。

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そればかりでは無い。

しかし、それより先のことは雁という物語の範囲の外にある。

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しかしそれより以上の事は雁と云う物語の範囲外にある。

僕は今この物語を書き終えて、指を折って数えてみると、もうその時から三十五年が過ぎている。

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僕は今この物語を書いてしまって、指を折って数えて見ると、もうその時から三十五年を経過している。

物語の半分は、親しく岡田と付き合っていて自分の目で見たのだが、もう半分は岡田が去ったあとに、思いがけずお玉と知り合いになって聞いたのである。

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物語の一半は、親しく岡田にまじわっていて見たのだが、他の一半は岡田が去ったのちに、図らずもお玉と相識になって聞いたのである。

たとえば実体鏡の下にある左右二枚の図を一つの像として見るように、先に見たことと後に聞いたこととを照らし合わせて作ったのが、この物語である。

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たとえば実体鏡の下にある左右二枚の図を、いつの影像としてるように、前に見た事と後に聞いた事とを、照らし合せて作ったのがこの物語である。

読者は僕に問うかもしれない。

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読者は僕に問うかも知れない。

「お玉とはどうして知り合いになって、どんな折にそれを聞いたのか」

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「お玉とはどうして相識になって、どんな場合にそれを聞いたか」

と問うかもしれない。

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と問うかも知れない。

しかしこれに対する答えも、前に言ったとおり、物語の範囲の外にある。

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しかしこれに対する答も、前に云った通り、物語の範囲外にある。

ただ、僕にお玉の恋人になる条件が備わっていないことは言うまでもないから、読者は無用の憶測をしない方がいい。

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只僕にお玉の情人になる要約の備わっていぬことは論をたぬから、読者は無用の臆測をせぬがい。