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高瀬舟 現代語訳

森鴎外もりおうがい)・1938

AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23

高瀬舟は、京都の高瀬川を行き来する小さな舟だ。

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高瀬舟たかせぶねは京都の高瀬川たかせがわ上下じょうげする小舟である。

徳川時代、京都で罪を犯した者が島流しを言い渡されると、その親類が牢屋敷へ呼ばれて、そこで別れの挨拶を交わすことが許された。

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徳川時代に京都の罪人が遠島えんとうを申し渡されると、本人の親類が牢屋敷ろうやしきへ呼び出されて、そこで暇乞いとまごいをすることを許された。

そのあと罪人は高瀬舟に乗せられ、大阪へと回されることになっていた。

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それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪おおさかへ回されることであった。

護送を担当するのは京都町奉行の配下にいる同心で、この同心は罪人の親類のうち主だった一人を大阪まで同乗させることを認めるならわしだった。

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それを護送するのは、京都町奉行まちぶぎょうの配下にいる同心どうしんで、この同心は罪人の親類の中で、おも立った一にんを大阪まで同船させることを許す慣例であった。

これは上から正式に認められたことではなかったが、いわゆる大目に見られていた、黙って許されていたのだ。

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これはかみへ通った事ではないが、いわゆる大目に見るのであった、黙許であった。

当時、島流しを言い渡された罪人は確かに重い罪を犯したとみなされた人たちだったが、盗みのために人を殺したり火をつけたりするような凶悪な者が多数を占めていたわけではない。

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当時遠島を申し渡された罪人は、もちろん重いとがを犯したものと認められた人ではあるが、決して盗みをするために、人を殺し火を放ったというような、獰悪どうあくな人物が多数を占めていたわけではない。

高瀬舟に乗る罪人の半分以上は、いわゆる判断の誤りから、思いがけない罪を犯してしまった人たちだった。

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高瀬舟に乗る罪人の過半は、いわゆる心得違いのために、思わぬ科を犯した人であった。

よくある例を挙げると、当時「相対死」と言われた心中をはかって相手の女を死なせ、自分だけが生き残ってしまった男、といった類いの者だ。

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有りふれた例をあげてみれば、当時相対死あいたいしと言った情死をはかって、相手の女を殺して、自分だけ生き残った男というようなたぐいである。

そういう罪人を乗せ、夕暮れの鐘が鳴るころに漕ぎ出された高瀬舟は、黒ずんだ京都の町の家々を両岸に眺めながら東へ進み、加茂川を横切って下っていった。

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そういう罪人を載せて、入相いりあいの鐘の鳴るころにこぎ出された高瀬舟は、黒ずんだ京都の町の家々を両岸に見つつ、東へ走って、加茂川かもがわを横ぎって下るのであった。

舟の中で、罪人とその親類の者は夜通し身の上話を語り合う。

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この舟の中で、罪人とその親類の者とは夜どおし身の上を語り合う。

いつも決まって、悔やんでも取り返しのつかない愚痴ばかりだ。

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いつもいつも悔やんでも返らぬごとである。

護送役の同心は傍らでそれを聞きながら、罪人を出した家族や親族の悲惨な事情を細かく知ることができた。

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護送の役をする同心どうしんは、そばでそれを聞いて、罪人を出した親戚眷族しんせきけんぞくの悲惨な境遇を細かに知ることができた。

それは町奉行の白砂の上で表向きの証言を聞いたり、役所の机の上で調書を読んだりする役人には、夢にも想像のできない境遇だった。

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所詮しょせん町奉行の白州しらすで、表向きの口供こうきょうを聞いたり、役所の机の上で、口書くちがきを読んだりする役人の夢にもうかがうことのできぬ境遇である。

同心にもさまざまな性格の人がいたから、うるさいと思って耳をふさぎたくなるような冷淡な同心もいれば、人の哀れをしみじみと自分のこととして受け止め、役目柄それを表には出せないながら、無言のうちにひそかに胸を痛める同心もいた。

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同心を勤める人にも、いろいろの性質があるから、この時ただうるさいと思って、耳をおおいたく思う冷淡な同心があるかと思えば、またしみじみと人の哀れを身に引き受けて、役がらゆえ気色けしきには見せぬながら、無言のうちにひそかに胸を痛める同心もあった。

ひどく悲惨な境遇の罪人とその親類を、特に気の弱い涙もろい同心が引率することになると、その同心は思わず涙をこらえきれなかった。

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場合によって非常に悲惨な境遇に陥った罪人とその親類とを、特に心弱い、涙もろい同心が宰領してゆくことになると、その同心は不覚の涙を禁じ得ぬのであった。

そのため高瀬舟の護送は、町奉行所の同心仲間では嫌われる役目として知られていた。

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そこで高瀬舟の護送は、町奉行所の同心仲間で不快な職務としてきらわれていた。

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いつのころのことだったか。

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いつのころであったか。

おそらく江戸で白河楽翁侯が政権を握っていた寛政のころだっただろう。

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たぶん江戸で白河楽翁侯しらかわらくおうこう政柄せいへいを執っていた寛政のころででもあっただろう。

知恩院の桜が夕暮れの鐘の音に散る春の夕べに、これまでに例のない珍しい罪人が高瀬舟に乗せられた。

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智恩院ちおんいんの桜が入相いりあいの鐘に散る春の夕べに、これまで類のない、珍しい罪人が高瀬舟に載せられた。

名を喜助といい、三十歳ほどになる、住所不定の男だった。

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それは名を喜助きすけと言って、三十歳ばかりになる、住所不定じゅうしょふじょうの男である。

もちろん牢屋敷に呼び出されるような親類もいないので、舟にもたった一人で乗り込んだ。

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もとより牢屋敷ろうやしきに呼び出されるような親類はないので、舟にもただ一人ひとりで乗った。

護送を命じられて一緒に舟に乗り込んだ同心の羽田庄兵衛は、喜助が弟を殺した罪人だということだけを聞いていた。

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護送を命ぜられて、いっしょに舟に乗り込んだ同心羽田庄兵衛はねだしょうべえは、ただ喜助が弟殺しの罪人だということだけを聞いていた。

さて、牢屋敷から桟橋まで連れてくる間、この痩せた青白い顔の喜助の様子を見ると、いかにも神妙で、いかにもおとなしく、庄兵衛を公の役人として敬い、何事につけても逆らわないようにしていた。

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さて牢屋敷から棧橋さんばしまで連れて来る間、この痩肉やせじしの、色の青白い喜助の様子を見るに、いかにも神妙しんびょうに、いかにもおとなしく、自分をば公儀の役人として敬って、何事につけても逆らわぬようにしている。

しかしそれは、罪人によく見られるような、従順を装って権力に媚びる態度ではなかった。

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しかもそれが、罪人の間に往々見受けるような、温順を装って権勢にびる態度ではない。

庄兵衛は不思議に思った。

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庄兵衛は不思議に思った。

そして舟に乗ってからも、単に役目として見張るだけでなく、絶えず喜助の一挙一動に細かく注意を向けていた。

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そして舟に乗ってからも、単に役目の表で見張っているばかりでなく、絶えず喜助の挙動に、細かい注意をしていた。

その日は夕方から風がやんで、空一面を覆った薄い雲が月の輪郭をぼかし、じわじわと近づいてくる夏の温かさが、両岸の土からも川底の土からも靄となって立ち上るかと思われるような夜だった。

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その日は暮れ方から風がやんで、空一面をおおった薄い雲が、月の輪郭をかすませ、ようよう近寄って来る夏のあたたかさが、両岸の土からも、川床かわどこの土からも、もやになって立ちのぼるかと思われるであった。

下京の町を離れ、加茂川を横切ったころからは、あたりがしんと静まり返り、ただ舳先が水を切る音だけが聞こえるばかりだった。

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下京しもきょうの町を離れて、加茂川を横ぎったころからは、あたりがひっそりとして、ただへさきにさかれる水のささやきを聞くのみである。

夜の舟では寝てもいいのに、喜助は横になろうともせず、雲の濃淡に合わせて明るさが増したり減ったりする月を見上げ、黙っていた。

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夜舟よふねで寝ることは、罪人にも許されているのに、喜助は横になろうともせず、雲の濃淡に従って、光の増したり減じたりする月を仰いで、黙っている。

その額は晴れやかで、目にはかすかな輝きがある。

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その額は晴れやかで目にはかすかなかがやきがある。

庄兵衛はまともには見ていないが、ずっと喜助の顔から目を離さずにいる。

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庄兵衛はまともには見ていぬが、始終喜助の顔から目を離さずにいる。

そして「不思議だ、不思議だ」と、心の中で繰り返していた。

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そして不思議だ、不思議だと、心の内で繰り返している。

それは喜助の顔がどこから見ても、いかにも楽しそうで、役人に対する遠慮さえなければ、口笛を吹き始めるとか鼻歌を歌い出すとかしそうに思われたからだ。

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それは喜助の顔が縦から見ても、横から見ても、いかにも楽しそうで、もし役人に対する気がねがなかったなら、口笛を吹きはじめるとか、鼻歌を歌い出すとかしそうに思われたからである。

庄兵衛は心の中でこう思った。

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庄兵衛は心の内に思った。

これまで何度この高瀬舟の引率をしたかわからない。

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これまでこの高瀬舟の宰領をしたことは幾たびだか知れない。

しかし乗せてゆく罪人は、いつもほとんど同じように、見ていられないほど気の毒な様子をしていた。

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しかし載せてゆく罪人は、いつもほとんど同じように、目も当てられぬ気の毒な様子をしていた。

それなのにこの男はどうしたのだろう。

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それにこの男はどうしたのだろう。

遊びの舟にでも乗ったような顔をしている。

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遊山船ゆさんぶねにでも乗ったような顔をしている。

罪は弟を殺したということらしいが、たとえその弟が悪い奴で、どんな成り行きで殺すことになったにしても、人の気持ちとしていい気分なはずがない。

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罪は弟を殺したのだそうだが、よしやその弟が悪いやつで、それをどんなゆきがかりになって殺したにせよ、人のじょうとしていい心持ちはせぬはずである。

この青白い痩せた男が、人としての情というものが全く欠けているほどの、世にも稀な悪人なのだろうか。

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この色の青いやせ男が、その人の情というものが全く欠けているほどの、世にもまれな悪人であろうか。

どうもそうは思えない。

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どうもそうは思われない。

ひょっとして気でも狂っているのではないだろうか。

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ひょっと気でも狂っているのではあるまいか。

いや、それはない。

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いやいや。

それにしては言葉も行動も何一つ筋の通らないことがない。

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それにしては何一つつじつまの合わぬことばや挙動がない。

この男はいったいどうしたのだろう。

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この男はどうしたのだろう。

庄兵衛には、喜助の態度が考えれば考えるほどわからなくなるのだった。

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庄兵衛がためには喜助の態度が考えれば考えるほどわからなくなるのである。

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しばらくして、庄兵衛はこらえきれなくなって声をかけた。

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しばらくして、庄兵衛はこらえ切れなくなって呼びかけた。

「喜助。お前は何を考えているんだ。」

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「喜助。お前何を思っているのか。」

「はい」

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「はい」

と言ってあたりを見回した喜助は、何か役人に見とがめられたのではないかと心配するように、居ずまいを正して庄兵衛の様子をうかがった。

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と言ってあたりを見回した喜助は、何事をかお役人に見とがめられたのではないかと気づかうらしく、居ずまいを直して庄兵衛の気色けしきを伺った。

庄兵衛は、突然問いかけた理由を説明して、役目を離れた話をしたいという気持ちを打ち明けなければならないと感じた。

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庄兵衛は自分が突然問いを発した動機を明かして、役目を離れた応対を求める言いわけをしなくてはならぬように感じた。

そこでこう言った。

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そこでこう言った。

「いや、別に他の理由があって聞いたわけじゃない。実はな、さっきからお前が島へ行く気持ちを聞いてみたかったんだ。おれはこれまでこの舟でたくさんの人を島へ送った。いろいろな身の上の人がいたが、どいつもこいつも島へ行くのを悲しがって、見送りに来て一緒に舟に乗った親類と、夜通し泣くのが決まりだった。それなのにお前の様子を見ると、どうも島へ行くのを気に病んでいないようだ。いったいお前はどう思っているんだい。」

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「いや。別にわけがあって聞いたのではない。実はな、おれはさっきからお前の島へゆく心持ちが聞いてみたかったのだ。おれはこれまでこの舟でおおぜいの人を島へ送った。それはずいぶんいろいろな身の上の人だったが、どれもどれも島へゆくのを悲しがって、見送りに来て、いっしょに舟に乗る親類のものと、夜どおし泣くにきまっていた。それにお前の様子を見れば、どうも島へゆくのを苦にしてはいないようだ。いったいお前はどう思っているのだい。」

喜助はにっこりと笑った。

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喜助はにっこり笑った。

「親切におっしゃってくださって、ありがとうございます。なるほど島へ行くというのは、ほかの人には悲しいことでしょう。その気持ちはわたしにも想像できます。でもそれは、世間で楽に暮らしていた人のことです。京都は立派な土地ではありますが、その立派な土地でこれまでわたしが味わってきたような苦しみは、どこへ行ってもないだろうと思います。お上のお慈悲で、命を助けて島へやってくださいます。島はたとえつらい場所でも、鬼の住む所ではないでしょう。わたしはこれまで、どこといって自分がいていい場所というものがありませんでした。今度お上が島にいろとおっしゃってくださいます。そのいろとおっしゃる場所に落ち着いていられるというのが、まず何よりもありがたいことです。それにわたしはこんなに体が細いですが、これまで病気をしたことはありませんから、島へ行ってどんなつらい仕事をしても、体を壊すようなことはあるまいと思います。それから今度島へやってくださるにあたって、二百文のお金をいただきました。それをここに持っています。」

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「御親切におっしゃってくだすって、ありがとうございます。なるほど島へゆくということは、ほかの人には悲しい事でございましょう。その心持ちはわたくしにも思いやってみることができます。しかしそれは世間でらくをしていた人だからでございます。京都は結構な土地ではございますが、その結構な土地で、これまでわたくしのいたして参ったような苦しみは、どこへ参ってもなかろうと存じます。おかみのお慈悲で、命を助けて島へやってくださいます。島はよしやつらい所でも、鬼のすむ所ではございますまい。わたくしはこれまで、どこといって自分のいていい所というものがございませんでした。こん度おかみで島にいろとおっしゃってくださいます。そのいろとおっしゃる所に落ち着いていることができますのが、まず何よりもありがたい事でございます。それにわたくしはこんなにかよわいからだではございますが、ついぞ病気をいたしたことはございませんから、島へ行ってから、どんなつらい仕事をしたって、からだを痛めるようなことはあるまいと存じます。それからこん度島へおやりくださるにつきまして、二百もん鳥目ちょうもくをいただきました。それをここに持っております。」

こう言いかけて、喜助は胸に手を当てた。

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こう言いかけて、喜助は胸に手を当てた。

島流しを言い渡された者には銅銭二百文を与えるというのが、当時の決まりだった。

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遠島を仰せつけられるものには、鳥目二百銅をつかわすというのは、当時のおきてであった。

喜助は話を続けた。

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喜助はことばをついだ。

「お恥ずかしいことを申し上げなくてはなりませんが、わたしは今日まで二百文というお金を、こうして懐に入れて持っていたことがありません。どこかで仕事を見つけようと働き口を探し歩いて、見つかり次第、惜しまず働きました。そしてもらった銭は、いつも右から左へ人手に渡してしまわなくてはなりませんでした。それも現金で食べ物を買える時はまだましな時で、たいていは借りたものを返して、またあとを借りるの繰り返しでした。それがお牢に入ってからは、仕事もせずに食べさせていただきます。それだけでもお上に対して申し訳ない気がしてなりません。それなのにお牢を出る時に、この二百文をいただいたのです。こうして引き続きお上の食を食べておりますので、この二百文は使わずに持っていることができます。お金を自分のものとして持っているのは、これがわたしにとって初めてのことです。島へ行ってみるまでどんな仕事ができるかわかりませんが、わたしはこの二百文を島でする仕事の元手にしようと楽しみにしています。」

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「お恥ずかしい事を申し上げなくてはなりませぬが、わたくしは今日こんにちまで二百文というおあしを、こうしてふところに入れて持っていたことはございませぬ。どこかで仕事に取りつきたいと思って、仕事を尋ねて歩きまして、それが見つかり次第、骨を惜しまずに働きました。そしてもらったぜには、いつも右から左へ人手に渡さなくてはなりませなんだ。それも現金で物が買って食べられる時は、わたくしの工面くめんのいい時で、たいていは借りたものを返して、またあとを借りたのでございます。それがおろうにはいってからは、仕事をせずに食べさせていただきます。わたくしはそればかりでも、おかみに対して済まない事をいたしているようでなりませぬ。それにお牢を出る時に、この二百文をいただきましたのでございます。こうして相変わらずおかみの物を食べていて見ますれば、この二百もんはわたくしが使わずに持っていることができます。お足を自分の物にして持っているということは、わたくしにとっては、これが始めでございます。島へ行ってみますまでは、どんな仕事ができるかわかりませんが、わたくしはこの二百文を島でする仕事の本手もとでにしようと楽しんでおります。」

こう言って、喜助は口を閉じた。

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こう言って、喜助は口をつぐんだ。

庄兵衛は「うん、そうか」

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庄兵衛は「うん、そうかい」

とは言ったものの、聞くことごとに予想の外れることばかりなので、しばらく何も言えず、考え込んで黙っていた。

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とは言ったが、聞く事ごとにあまり意表に出たので、これもしばらく何も言うことができずに、考え込んで黙っていた。

庄兵衛はそろそろ初老に差し掛かる年頃で、すでに女房に子供を四人産ませていた。

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庄兵衛はかれこれ初老に手の届く年になっていて、もう女房に子供を四人生ませている。

そこに老いた母も生きているので、家は七人暮らしだった。

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それに老母が生きているので、家は七人暮らしである。

ふだんから人にけちと言われるほど倹約な生活をしていて、着物は役目のために着るもの以外、寝巻きしか作らないほどだった。

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平生人には吝嗇りんしょくと言われるほどの、倹約な生活をしていて、衣類は自分が役目のために着るもののほか、寝巻しかこしらえぬくらいにしている。

しかし不幸なことに、妻を裕福な商人の家から迎えていた。

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しかし不幸な事には、妻をいい身代しんだいの商人の家から迎えた。

そのため女房は夫のもらう扶持米で暮らしを立てようという気持ちはあるものの、豊かな家で大事に育てられた癖があるので、夫が満足するほど出費を締めて暮らすことができない。

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そこで女房は夫のもらう扶持米ふちまいで暮らしを立ててゆこうとする善意はあるが、ゆたかな家にかわいがられて育った癖があるので、夫が満足するほど手元を引き締めて暮らしてゆくことができない。

ともすると月末になって金が足りなくなる。

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ややもすれば月末になって勘定が足りなくなる。

すると女房が内緒で実家から金を持ってきて帳尻を合わせる。

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すると女房が内証で里から金を持って来て帳尻ちょうじりを合わせる。

それは夫が借金というものを毛虫のように嫌うからだった。

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それは夫が借財というものを毛虫のようにきらうからである。

そういうことはどうしても夫の知るところになってしまう。

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そういう事は所詮しょせん夫に知れずにはいない。

庄兵衛は節句のたびに実家から物をもらい、子供の七五三のたびに実家から衣類をもらうことさえ心苦しく思っているくらいだから、生活の穴を埋めてもらったとわかれば、いい顔はしなかった。

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庄兵衛は五節句だと言っては、里方さとかたから物をもらい、子供の七五三の祝いだと言っては、里方から子供に衣類をもらうのでさえ、心苦しく思っているのだから、暮らしの穴をうめてもらったのに気がついては、いい顔はしない。

特に大きな争いのない羽田の家に、ときおり波風が立つのはこれが原因だった。

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格別平和を破るような事のない羽田の家に、おりおり波風の起こるのは、これが原因である。

庄兵衛は今、喜助の話を聞いて、喜助の身の上を自分の身の上と比べてみた。

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庄兵衛は今喜助の話を聞いて、喜助の身の上をわが身の上に引き比べてみた。

喜助は仕事をして給料をもらっても、右から左へ人手に渡してなくなってしまうと言った。

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喜助は仕事をして給料を取っても、右から左へ人手に渡してなくしてしまうと言った。

いかにも哀れで気の毒な境遇だ。

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いかにも哀れな、気の毒な境界きょうがいである。

しかし翻って自分の身の上を振り返れば、彼と自分の間にどれほどの差があるだろうか。

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しかし一転してわが身の上を顧みれば、彼と我れとの間に、はたしてどれほどの差があるか。

自分もお上からもらう扶持米を、右から左へ使ってしまって暮らしているに過ぎないではないか。

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自分もかみからもらう扶持米ふちまいを、右から左へ人手に渡して暮らしているに過ぎぬではないか。

彼と自分の違いは、いわばそろばんの桁が違うだけで、喜助がありがたがる二百文に相当する貯えすら、こちらにはないのだ。

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彼と我れとの相違は、いわば十露盤そろばんけたが違っているだけで、喜助のありがたがる二百もんに相当する貯蓄だに、こっちはないのである。

そう桁を違えて考えてみれば、銅銭二百文でも、喜助がそれを貯えと見て喜んでいるのは無理もない。

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さて桁を違えて考えてみれば、鳥目ちょうもく二百文をでも、喜助がそれを貯蓄と見て喜んでいるのに無理はない。

その気持ちはこちらからも察してやれる。

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その心持ちはこっちから察してやることができる。

しかしいくら桁を違えて考えてみても、不思議なのは喜助の欲のなさ、足ることを知っていることだ。

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しかしいかに桁を違えて考えてみても、不思議なのは喜助の欲のないこと、足ることを知っていることである。

喜助は世間で仕事を探すのに苦労した。

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喜助は世間で仕事を見つけるのに苦しんだ。

それが見つかりさえすれば、骨惜しみせずに働いて、どうにか食いつないでいけるだけで満足していた。

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それを見つけさえすれば、骨を惜しまずに働いて、ようよう口をのりすることのできるだけで満足した。

そして牢に入ってからは、それまで苦労して手に入れていた食が、まるで天から与えられるように働かずに得られることに驚き、生まれてから知らなかった満足感を覚えたのだった。

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そこでろうに入ってからは、今まで得がたかった食が、ほとんど天から授けられるように、働かずに得られるのに驚いて、生まれてから知らぬ満足を覚えたのである。

庄兵衛はいくら桁を違えて考えてみても、ここに彼と自分の間に大きな隔たりがあることを知った。

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庄兵衛はいかにけたを違えて考えてみても、ここに彼と我れとの間に、大いなる懸隔けんかくのあることを知った。

自分の扶持米で立てていく暮らしは、ときおり足りなくなることはあっても、だいたい収支が合っている。

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自分の扶持米ふちまいで立ててゆく暮らしは、おりおり足らぬことがあるにしても、たいてい出納すいとうが合っている。

いっぱいいっぱいの生活だ。

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手いっぱいの生活である。

しかしそこに満足を感じたことはほとんどない。

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しかるにそこに満足を覚えたことはほとんどない。

ふだんは幸せとも不幸とも感じずに過ごしている。

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常は幸いとも不幸とも感ぜずに過ごしている。

しかし心の奥には、こうして暮らしていてふいにお役御免になったらどうしよう、大病にでもなったらどうしようという不安が潜んでいて、ときおり妻が実家から金を取り出して穴埋めをしたことなどが知れると、この不安が意識の表面に顔を出してくるのだった。

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しかし心の奥には、こうして暮らしていて、ふいとお役が御免になったらどうしよう、大病にでもなったらどうしようという疑懼ぎくが潜んでいて、おりおり妻が里方から金を取り出して来て穴うめをしたことなどがわかると、この疑懼が意識のしきいの上に頭をもたげて来るのである。

いったいこの大きな隔たりはどこから生じるのだろう。

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いったいこの懸隔はどうして生じて来るだろう。

表面だけを見て、喜助には身寄りがないが、こちらには家族がいるからだと言ってしまえばそれまでだ。

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ただうわべだけを見て、それは喜助には身に係累がないのに、こっちにはあるからだと言ってしまえばそれまでである。

しかしそれは違う。

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しかしそれはうそである。

たとえ自分が一人身だったとしても、どうも喜助のような気持ちにはなれそうにない。

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よしや自分が一人者ひとりものであったとしても、どうも喜助のような心持ちにはなられそうにない。

この根っこはもっと深いところにあるようだと、庄兵衛は思った。

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この根底はもっと深いところにあるようだと、庄兵衛は思った。

庄兵衛はただぼんやりと、人の一生というようなことを考えてみた。

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庄兵衛はただ漠然ばくぜんと、人の一生というような事を思ってみた。

人は体に病気があると、この病気がなければと思う。

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人は身に病があると、この病がなかったらと思う。

その日その日の食べ物がないと、食べていければと思う。

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その日その日の食がないと、食ってゆかれたらと思う。

万一の時のための蓄えがないと、少しでも蓄えがあればと思う。

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万一の時に備えるたくわえがないと、少しでもたくわえがあったらと思う。

蓄えがあっても、またその蓄えがもっと多ければと思う。

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たくわえがあっても、またそのたくわえがもっと多かったらと思う。

このようにどこまでも先へ先へと考えていけば、人はどこまで行って踏み止まれるものかわからない。

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かくのごとくに先から先へと考えてみれば、人はどこまで行って踏み止まることができるものやらわからない。

それを今目の前で踏み止まって見せてくれているのがこの喜助だと、庄兵衛は気がついた。

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それを今目の前で踏み止まって見せてくれるのがこの喜助だと、庄兵衛は気がついた。

庄兵衛は今さらながら驚きの目で喜助を見た。

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庄兵衛は今さらのように驚異の目をみはって喜助を見た。

この時庄兵衛は、空を見上げている喜助の頭から後光が差すように感じた。

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この時庄兵衛は空を仰いでいる喜助の頭から毫光ごうこうがさすように思った。

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庄兵衛は喜助の顔を見つめながら、また「喜助さん」

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庄兵衛は喜助の顔をまもりつつまた、「喜助さん」

と呼びかけた。

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と呼びかけた。

今度は「さん」

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今度は「さん」

とつけたが、これは十分に意識して呼び方を変えたわけではない。

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と言ったが、これは充分の意識をもって称呼を改めたわけではない。

その声が自分の口から出て耳に入るや否や、庄兵衛はこの呼び方が不適切だと気づいたが、今さら出てしまった言葉を取り消すこともできなかった。

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その声がわが口から出てわが耳にるや否や、庄兵衛はこの称呼の不穏当なのに気がついたが、今さらすでに出たことばを取り返すこともできなかった。

「はい」

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「はい」

と答えた喜助も、「さん」

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と答えた喜助も、「さん」

と呼ばれたのを不審に思うらしく、おそるおそる庄兵衛の様子をうかがった。

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と呼ばれたのを不審に思うらしく、おそるおそる庄兵衛の気色けしきをうかがった。

庄兵衛は少し気まずさをこらえて言った。

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庄兵衛は少しの悪いのをこらえて言った。

「いろいろと聞くようで悪いが、お前が今度島へやられるのは人を殺したからだということだ。よかったらそのわけをおれに話して聞かせてくれないか。」

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「いろいろの事を聞くようだが、お前が今度島へやられるのは、人をあやめたからだという事だ。おれについでにそのわけを話して聞せてくれぬか。」

喜助はひどく恐縮した様子で、「かしこまりました」

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喜助はひどく恐れ入った様子で、「かしこまりました」

と言って、小声で話し始めた。

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と言って、小声で話し出した。

「どうもとんでもない心得違いをして、恐ろしいことをしてしまいまして、なんとも申し上げようがありません。あとで考えてみますと、どうしてあんなことができたのかと、自分でも不思議でなりません。まったく夢中でやってしまったのです。わたしは小さい時に両親が流行病で亡くなって、弟と二人で残されました。最初はちょうど軒下で生まれた子犬をかわいそうに思うように、町内の人たちが恵んでくださったので、近所の使い走りなどをして、飢えも寒さも免れながら育ちました。次第に大きくなって仕事を探す時も、なるべく二人が離れないようにして、一緒にいて助け合って働きました。去年の秋のことです。わたしは弟と一緒に、西陣の織場に入って、空引きという仕事をすることになりました。そのうち弟が病気で働けなくなってしまったのです。そのころわたしたちは北山の掘っ立て小屋同然の所に寝起きして、紙屋川の橋を渡って織場へ通っていましたが、わたしが暮れてから食べ物などを買って帰ると、弟は待ちかまえていて、わたしを一人で働かせて申し訳ないと言っておりました。ある日、いつものように何気なく帰ってみると、弟は布団の上に突っ伏していて、周りが血だらけなのです。わたしはびっくりして、手に持っていた竹の皮包みなどをそこへ放り出して、そばへ行って『どうしたどうした』と言いました。すると弟は真っ青な顔の、両頬からあごにかけて血に染まったのを上げて、わたしを見ましたが、物を言うことができません。息をするたびに、傷口でひゅうひゅうという音がするばかりです。わたしには様子がわからないので、『どうしたんだい、血を吐いたのか』と言って、そばへ寄ろうとすると、弟は右の手を床に突いて、少し体を起こしました。

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「どうも飛んだ心得違いで、恐ろしい事をいたしまして、なんとも申し上げようがございませぬ。あとで思ってみますと、どうしてあんな事ができたかと、自分ながら不思議でなりませぬ。全く夢中でいたしましたのでございます。わたくしは小さい時に二親ふたおや時疫じえきでなくなりまして、弟と二人ふたりあとに残りました。初めはちょうど軒下に生まれた犬の子にふびんを掛けるように町内の人たちがお恵みくださいますので、近所じゅうの走り使いなどをいたして、飢え凍えもせずに、育ちました。次第に大きくなりまして職を捜しますにも、なるたけ二人が離れないようにいたして、いっしょにいて、助け合って働きました。去年の秋の事でございます。わたくしは弟といっしょに、西陣にしじん織場おりばにはいりまして、空引そらびきということをいたすことになりました。そのうち弟が病気で働けなくなったのでございます。そのころわたくしどもは北山きたやま掘立小屋ほったてごや同様の所に寝起きをいたして、紙屋川かみやがわの橋を渡って織場へかよっておりましたが、わたくしが暮れてから、食べ物などを買って帰ると、弟は待ち受けていて、わたくしを一人ひとりでかせがせてはすまないすまないと申しておりました。ある日いつものように何心なく帰って見ますと、弟はふとんの上に突っ伏していまして、周囲まわりは血だらけなのでございます。わたくしはびっくりいたして、手に持っていた竹の皮包みや何かを、そこへおっぽり出して、そばへ行って『どうしたどうした』と申しました。すると弟はまっさおな顔の、両方のほおからあごへかけて血に染まったのをあげて、わたくしを見ましたが、物を言うことができませぬ。息をいたすたびに、傷口でひゅうひゅうという音がいたすだけでございます。わたくしにはどうも様子がわかりませんので、『どうしたのだい、血を吐いたのかい』と言って、そばへ寄ろうといたすと、弟は右の手をとこに突いて、少しからだを起こしました。

左の手はしっかりあごの下のあたりを押さえていましたが、その指の間から黒い血の固まりがはみ出しています。

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左の手はしっかりあごの下の所を押えていますが、その指の間から黒血の固まりがはみ出しています。

弟は目で、わたしがそばへ寄るのを止めるようにしながら、口を開きました。

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弟は目でわたくしのそばへ寄るのを留めるようにして口をききました。

ようやく物が言えるようになったのです。

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ようよう物が言えるようになったのでございます。

『すまない。どうか許してくれ。どうせ治りそうにない病気だから、早く死んで少しでも兄さんを楽にしてやりたいと思ったんだ。のどを切ったら、すぐ死ねるだろうと思ったが、息がそこから漏れるだけで死ねない。深く深くと思って、力いっぱい押し込んだら、横へ滑ってしまった。刃はこぼれていなかったようだ。これをうまく抜いてくれたら、おれは死ねると思っている。物を言うのがつらくていけない。どうか手を貸して抜いてくれ』

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『すまない。どうぞ堪忍してくれ。どうせなおりそうにもない病気だから、早く死んで少しでも兄きにらくがさせたいと思ったのだ。ふえを切ったら、すぐ死ねるだろうと思ったが息がそこから漏れるだけで死ねない。深く深くと思って、力いっぱい押し込むと、横へすべってしまった。刃はこぼれはしなかったようだ。これをうまく抜いてくれたらおれは死ねるだろうと思っている。物を言うのがせつなくっていけない。どうぞ手を借して抜いてくれ』

と言うのです。

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と言うのでございます。

弟が左の手を緩めると、そこからまた息が漏れます。

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弟が左の手をゆるめるとそこからまた息が漏ります。

わたしはなんと言ってよいかわからず、黙って弟ののどの傷をのぞいて見ると、どうやら右の手に剃刀を持って横にのどを切ったが、それでは死にきれなかったので、そのまま剃刀をえぐるように深く突き込んだようでした。

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わたくしはなんと言おうにも、声が出ませんので、黙って弟ののどの傷をのぞいて見ますと、なんでも右の手に剃刀かみそりを持って、横に笛を切ったが、それでは死に切れなかったので、そのまま剃刀を、えぐるように深く突っ込んだものと見えます。

柄がやっと二寸ばかり傷口から出ています。

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がやっと二寸ばかり傷口から出ています。

わたしはそれだけのことを見て、どうすればいいかも思いつかず、弟の顔を見ました。

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わたくしはそれだけの事を見て、どうしようという思案もつかずに、弟の顔を見ました。

弟はじっとわたしを見つめています。

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弟はじっとわたくしを見詰めています。

わたしはやっとのことで、『待っていてくれ、お医者を呼んでくるから』

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わたくしはやっとの事で、『待っていてくれ、お医者を呼んで来るから』

と言いました。

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と申しました。

弟は恨めしそうな目つきをしましたが、また左の手でのどをしっかり押さえて、『医者が何になる、ああ苦しい、早く抜いてくれ、頼む』

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弟は恨めしそうな目つきをいたしましたが、また左の手でのどをしっかり押えて、『医者がなんになる、あゝ苦しい、早く抜いてくれ、頼む』

と言うのです。

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と言うのでございます。

わたしは途方に暮れたような気持ちになって、ただ弟の顔ばかり見ていました。

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わたくしは途方に暮れたような心持ちになって、ただ弟の顔ばかり見ております。

こんな時は不思議なもので、目が物を言います。

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こんな時は、不思議なもので、目が物を言います。

弟の目は『早くしろ、早くしろ』

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弟の目は『早くしろ、早くしろ』

と言って、いかにも恨めしそうにわたしを見ています。

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と言って、さも恨めしそうにわたくしを見ています。

わたしの頭の中では何か車の輪のようなものがぐるぐると回っているようでしたが、弟の目は恐ろしい催促をやめません。

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わたくしの頭の中では、なんだかこう車の輪のような物がぐるぐる回っているようでございましたが、弟の目は恐ろしい催促をやめません。

しかもその目の恨めしそうな色がだんだん険しくなっていって、とうとう敵の顔でもにらむような、憎々しい目になってしまいました。

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それにその目の恨めしそうなのがだんだん険しくなって来て、とうとうかたきの顔をでもにらむような、憎々しい目になってしまいます。

それを見ていて、わたしはとうとう、弟の言ったとおりにしてやらなくてはいけないと思いました。

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それを見ていて、わたくしはとうとう、これは弟の言ったとおりにしてやらなくてはならないと思いました。

わたしは『しかたがない、抜いてやるぞ』

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わたくしは『しかたがない、抜いてやるぞ』

と言いました。

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と申しました。

すると弟の目の色がさっと変わって、晴れやかに、いかにもうれしそうになりました。

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すると弟の目の色がからりと変わって、晴れやかに、さもうれしそうになりました。

わたしはひと思いにやらなくてはと思って、ひざをつくようにして体を前へ乗り出しました。

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わたくしはなんでもひと思いにしなくてはと思ってひざをくようにしてからだを前へ乗り出しました。

弟は突いていた右の手を放して、今まで喉を押さえていた手のひじを床に突いて、横になりました。

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弟は突いていた右の手を放して、今まで喉を押えていた手のひじをとこに突いて、横になりました。

わたしは剃刀の柄をしっかり握って、ずっと引き抜きました。

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わたくしは剃刀かみそりの柄をしっかり握って、ずっと引きました。

この時、わたしが内側から閉めておいた表口の戸を開けて、近所のおばあさんが入ってきました。

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この時わたくしの内から締めておいた表口の戸をあけて、近所のばあさんがはいって来ました。

留守の間、弟に薬を飲ませたりしてくれるようにわたしが頼んでいたおばあさんです。

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留守の間、弟に薬を飲ませたり何かしてくれるように、わたくしの頼んでおいたばあさんなのでございます。

もうだいぶ中が暗くなっていたので、わたしにはおばあさんがどれほどのことを見たかわかりませんでしたが、おばあさんは「あっ」と言ったきり、表口を開け放したまま駆け出してしまいました。

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もうだいぶ内のなかが暗くなっていましたから、わたくしにはばあさんがどれだけの事を見たのだかわかりませんでしたが、ばあさんはあっと言ったきり、表口をあけ放しにしておいて駆け出してしまいました。

わたしは剃刀を抜く時、すばやく抜こう、まっすぐに抜こうとだけ気をつけましたが、どうも抜いた時の手応えは、それまで切れていなかった所を切ったように思われました。

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わたくしは剃刀かみそりを抜く時、手早く抜こう、まっすぐに抜こうというだけの用心はいたしましたが、どうも抜いた時の手ごたえは、今まで切れていなかった所を切ったように思われました。

刃が外のほうを向いていたので、外のほうが切れたのでしょう。

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刃が外のほうへ向いていましたから、外のほうが切れたのでございましょう。

わたしは剃刀を握ったまま、おばあさんが入ってきてまた駆け出していったのを、ぼんやりして見ていました。

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わたくしは剃刀を握ったまま、ばあさんのはいって来てまた駆け出して行ったのを、ぼんやりして見ておりました。

おばあさんが行ってしまってから、気がついて弟を見ると、弟はもう息が絶えていました。

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ばあさんが行ってしまってから、気がついて弟を見ますと、弟はもう息が切れておりました。

傷口からはひどく血が出ていました。

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傷口からはたいそうな血が出ておりました。

それから年寄りの方々がいらっしゃって、役場に連れていかれるまで、わたしは剃刀をそばに置いて、目を半分開けたまま死んでいる弟の顔を見つめていたのでございます。」

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それから年寄衆としよりしゅうがおいでになって、役場へ連れてゆかれますまで、わたくしは剃刀をそばに置いて、目を半分あいたまま死んでいる弟の顔を見詰めていたのでございます。」

少しうつむきがちに庄兵衛の顔を下から見上げながら話していた喜助は、こう言い終えて視線をひざの上へ落とした。

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少しうつ向きかげんになって庄兵衛の顔を下から見上げて話していた喜助は、こう言ってしまって視線をひざの上に落とした。

喜助の話はよく筋が通っている。

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喜助の話はよく条理が立っている。

ほとんど筋が通り過ぎているくらいだと言ってもいい。

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ほとんど条理が立ち過ぎていると言ってもいいくらいである。

これは半年ほどの間、当時のことを何度も思い浮かべてきたのと、役場で問われ、町奉行所で調べられるたびに、注意に注意を重ねて頭の中でなぞってきたためだ。

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これは半年ほどの間、当時の事を幾たびも思い浮かべてみたのと、役場で問われ、町奉行所まちぶぎょうしょで調べられるそのたびごとに、注意に注意を加えてさらってみさせられたのとのためである。

庄兵衛はその場の様子を目の前で見るような思いで聞いていたが、これが果たして弟殺しというものだろうか、人殺しというものだろうかという疑いが、話を半分聞いた時から湧いてきて、聞き終わっても、その疑いを解くことができなかった。

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庄兵衛はその場の様子をのあたり見るような思いをして聞いていたが、これがはたして弟殺しというものだろうか、人殺しというものだろうかという疑いが、話を半分聞いた時から起こって来て、聞いてしまっても、その疑いを解くことができなかった。

弟は剃刀を抜いてくれれば死ねるから、抜いてくれと言った。

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弟は剃刀かみそりを抜いてくれたら死なれるだろうから、抜いてくれと言った。

それを抜いてやって死なせたのだ、殺したのだとは言える。

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それを抜いてやって死なせたのだ、殺したのだとは言われる。

しかしそのままにしておいても、どうせ死なざるを得ない弟だったらしい。

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しかしそのままにしておいても、どうせ死ななくてはならぬ弟であったらしい。

それが早く死にたいと言ったのは、苦しさに耐えられなかったからだ。

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それが早く死にたいと言ったのは、苦しさに耐えなかったからである。

喜助はその苦しみを見ているに忍びなかった。

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喜助はそのを見ているに忍びなかった。

苦しみから救ってやろうと思って命を絶った。

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苦から救ってやろうと思って命を絶った。

それが罪になるのだろうか。

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それが罪であろうか。

殺したのは罪に違いない。

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殺したのは罪に相違ない。

しかしそれが苦しみから救うためだったと思うと、そこに疑問が生じて、どうしても解けないのだ。

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しかしそれが苦から救うためであったと思うと、そこに疑いが生じて、どうしても解けぬのである。

庄兵衛の心の中には、あれこれ考えた末に、自分より上の者の判断に任せるほかないという気持ち、権威に従うほかないという気持ちが生じた。

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庄兵衛の心の中には、いろいろに考えてみた末に、自分よりも上のものの判断に任すほかないという念、オオトリテエに従うほかないという念が生じた。

庄兵衛はお奉行様の判断を、そのまま自分の判断にしようと思ったのだ。

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庄兵衛はお奉行ぶぎょう様の判断を、そのまま自分の判断にしようと思ったのである。

そうは思っても、庄兵衛にはまだどこかに腑に落ちないものが残っているので、なんだかお奉行様に聞いてみたくてならなかった。

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そうは思っても、庄兵衛はまだどこやらにふに落ちぬものが残っているので、なんだかお奉行様に聞いてみたくてならなかった。

次第に夜が更けていくおぼろな月夜に、黙り込んだ二人を乗せた高瀬舟は、黒い水面をすべって行った。

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次第にふけてゆくおぼろ夜に、沈黙の人二人ふたりを載せた高瀬舟は、黒い水のおもてをすべって行った。