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五重塔 小学生向け

幸田露伴こうだろはん)・1970

AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23

その一

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其一

木目の美しいケヤキでできた長火鉢に向かって、話し相手もなくたった一人、少し寂しそうに座っている三十歳前後の女がいた。男のように立派な眉を剃った跡が青々として、雨上がりの山のように鮮やかな緑の色を感じさせ、鼻筋はすっと通り、目尻はキリリと上がっている。洗ったばかりの髪をぐるぐると固く丸めて、引き裂いた紙を飾りに一本かんざしで留めただけの、あまり飾り気のない様子ではあるが、真っ黒でつやのある髪の毛が二、三本ほつれて乱れ、浅黒いながらも渋さのとれた顔にかかっているところは、年かさの女でも褒めずにはいられないほどの美しさで、あの女を妻にできたらと男たちがひそかに思うほどであった。

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木理もくめうるわしき槻胴けやきどう、縁にはわざと赤樫あかがしを用いたる岩畳作りの長火鉢ながひばちむかいて話しがたきもなくただ一人、少しはさびしそうにすわり居る三十前後の女、男のように立派なまゆをいつはらいしかったるあとの青々と、見る眼もむべき雨後の山の色をとどめてみどりにおいひとしお床しく、鼻筋つんと通り眼尻めじりキリリと上り、洗い髪をぐるぐるとむごまろめて引裂紙ひっさきがみをあしらいに一本簪いっぽんざしでぐいととどめを刺した色気なしの様はつくれど、憎いほど烏黒まっくろにて艶ある髪の毛の一綜ふさ二綜おくれ乱れて、浅黒いながら渋気の抜けたる顔にかかれる趣きは、年増嫌としまぎらいでもめずにはおかれまじき風体、わがものならば着せてやりたい好みのあるにと好色漢しれものが随分頼まれもせぬ詮議せんぎかげではすべきに、さりとは

見栄を捨てて堅実さを自慢にしている身の装いで、柄の選び方こそ野暮ではないが、せいぜい綿入れに縮緬の衿をかけただけのもので、どこにも派手なところはなく、羽織っているねんねこだけは、昔は何であったかわからないが、粗い縞模様の糸織物で、これも何度も洗われてきたものだろう。

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外見みえを捨てて堅義を自慢にした身のつくり方、柄の選択えらみこそ野暮ならね高が二子の綿入れに繻子襟しゅすえりかけたを着てどこにべにくさいところもなく、引っ掛けたねんねこばかりは往時むかし何なりしやらあらしまの糸織なれど、これとて幾たびか水を潜って来たやつなるべし。

今ちょうど台所では下働きの女が器を洗う音だけがして家の中は静かで、ほかに人がいる様子もなく、女は何となくつまらなそうに楊枝を舌先で転がして遊んでいたが、ぷつりとそれを噛み切ってぷいと吹き飛ばし、火鉢の灰をかき均して炭火をうまく埋め、芋籠から小切れを取り出して、銀のように光る長五徳を磨いて拭き、銅壺の蓋まできれいにして、それから南部霰地の大きな鉄瓶をちゃんとかけた後、石尊様参りのついでに箱根へ寄ってきたという人から姉御への土産にもらったらしい寄木細工の小さな煙草箱を、右の手に持った鼈甲の煙管で手元に引き寄せ、のんびりと一服吸ってお線香の煙のようにゆっくりと煙を吹き出し、思わずため息をついた。きっと夫のところに仕事が来るだろうが、あの憎らしい「のっそり」めが反対側に回り、去年お世話になった恩も忘れて上人様にうまくとりいり、今度の仕事をどうしても受けようと身の丈も考えずに願いを出したとやら、清吉の話では上人様に依怙贔屓のお気持ちはあっても、名もあまり知られていないのっそりに大切な仕事を任せることは、檀家の方々や寄進者の方々への手前もあって難しかろうから、きっとこちらに命じられるに決まっている。もしまたのっそりに命じられるとしても、あいつにできる仕事でもなく、あいつの下で働くものもいないだろうから、見事に仕損じるのは目に見えていることとのことだけれど、早く夫がいよいよ命じられたと笑顔で帰ってきてくれればよい。類の少ない仕事だけにぜひやってみたい、引き受けてみたい。儲けはどうでもかまわない。谷中感応寺の

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今しも台所にては下婢おさん器物もの洗う音ばかりして家内静かに、ほかには人ある様子もなく、何心なくいたずらに黒文字を舌端したさきなぶおどらせなどしていし女、ぷつりとそれをみ切ってぷいと吹き飛ばし、火鉢の灰かきならし炭火ていよくけ、芋籠いもかごより小巾こぎれとりいだし、銀ほど光れる長五徳ながごとくみがおとし銅壺どうこふたまで奇麗にして、さて南部霰地なんぶあられ大鉄瓶おおてつびんをちゃんとかけし後、石尊様詣りのついでに箱根へ寄って来しものが姉御あねご御土産おみやとくれたらしき寄木細工の小繊麗こぎようなる煙草箱たばこばこを、右の手に持った鼈甲管べっこうらお煙管きせるで引き寄せ、長閑のどかに一服吸うて線香の煙るように緩々ゆるゆると煙りをいだし、思わず知らず太息ためいきいて、多分は良人うちの手に入るであろうが憎いのっそりめがむこ

五重塔は川越の源太が作ったのだ、ああよくやったと感心なと言われてみたいと面白がって、普段になく仕事に気をはずませていらっしゃるのに、もしこの仕事を他の人に取られたらどのように腹を立てられるか、かんしゃくを起こされるかわからない。それも当然のことだから、傍から私が慰めようもないわけ。ああ何にせよ、めでとう早く帰ってきてくれればよいと、口には出さないが女房気質で、今朝背中から自分の縫った羽織を着せて出した夫のことを気づかっているところへ、表の格子戸を荒々しく開けて、「姉御、兄貴は?」「なに、感応寺へ」「仕方がない、それでは姉御に、済みませんがお頼み申します、つい昨夜酔いまして」と後は言わず変な手つきをして話しかければ、眉をひそめながら笑い、

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まわり、去年使うてやった恩も忘れ上人様に胡麻摺ごますり込んで、たってこん度の仕事をしょうと身の分も知らずに願いを上げたとやら、清吉せいきちの話しでは上人様に依怙贔屓えこひいきのおこころはあっても、名さえ響かぬのっそりに大切だいじの仕事を任せらるることは檀家方の手前寄進者方の手前もむつかしかろうなれば、大丈夫此方こちいいつけらるるにきまったこと、よしまたのっそりに命けらるればとて彼奴あれめにできる仕事でもなく、彼奴の下に立って働く者もあるまいなれば見事でかし損ずるは眼に見えたこととのよしなれど、早く良人うちのひとがいよいよ御用いいつかったと笑い顔して帰って来られればよい、類の少い仕事だけに是非して見たい受け合って見たい、欲徳はどうでもかまわぬ、谷中感応寺やなかかんおうじ

「仕方のないもないもの、少し締まりなさい」と言い言い立って、いくらかのお金を渡せば、それを持って門口に出て何やらくどくど押し問答した末にこちらへ来て、拳骨で額を押さえ「どうも済みませんでした、ありがとうございます」と無骨な礼をしたのもおかしかった。

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五重塔は川越かわごえ源太げんたが作りおった、ああよくでかした感心なと云われて見たいと面白がって、いつになく職業しょうばいに気のはずみを打って居らるるに、もしこの仕事をひとられたらどのように腹を立てらるるか肝癪かんしゃくを起さるるか知れず、それも道理であって見ればわきからわたしの慰めようもないわけ、ああなんにせよめでとう早く帰って来られればよいと、口には出さねど女房気質、今朝背面うしろからわが縫いし羽織打ち掛け着せて出したる男の上を気遣うところへ、表の骨太格子ほねぶとごうし手あらくけて、姉御、兄貴は、なに感応寺へ、仕方がない、それでは姉御に、済みませんがお頼み申します、つい昨晩ゆうべへべまして、と後は云わず異な手つきをして話せば、眉頭まゆがしらしわをよせて笑いながら

「仕方のないもないもの、少し締まりなさい」と言い言い立って、いくらかのお金を渡せば、それを持って門口に出て何やらくどくど押し問答した末にこちらへ来て、拳骨で額を押さえ「どうも済みませんでした、ありがとうございます」と無骨な礼をしたのもおかしかった。

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、仕方のないもないもの、少し締まるがよい、と云い云い立って幾らかの金を渡せば、それをもって門口かどぐちに出で何やらくどくど押し問答せし末こなたに来たりて、拳骨げんこつで額を抑え、どうも済みませんでした、ありがとうござりまする、と無骨な礼をしたるもおかし。

その二

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其二

「火は別にとらないからこちらへ来るとよい」と言いながら重そうに鉄瓶を取り下して、部下にも如才なく愛嬌を示す桜湯一杯、心に花がある扱いは、口先だけで言葉が多いよりも温かみがあって、悪いお願いさえすらりと聞いてくれた上、胸にこだわりなくさっぱりといつものように接されては、清吉はかえって内心恥ずかしく、何やら心の底がむず痒いように感じられ、茶碗を取る手もおずおずとして進み出られないほどで、「済みません」という言葉を二度ほど繰り返した後、ようやく乾き切った舌を潤す間もあらせず、「今ごろの帰りとはあまり可愛がられ過ぎたの、ホホ、遊ぶはよいけれど仕事の間を欠いて母親に心配させるようでは、男振りが悪いではないか清吉、あなたはこのごろ

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火は別にとらぬから此方こちへ寄るがよい、と云いながら重げに鉄瓶を取り下して、属輩めしたにも如才なく愛嬌あいきょうんでやる桜湯一杯、心に花のある待遇あしらいは口に言葉のあだしげきより懐かしきに、悪い請求たのみをさえすらりといてくれし上、胸にわだかまりなくさっぱりと平日つねのごとく仕做しなされては、清吉かえって心羞うらはずかしく、どうやら魂魄たましいの底の方がむずがゆいように覚えられ、茶碗ちゃわん取る手もおずおずとして進みかぬるばかり、済みませぬという辞誼じぎを二度ほど繰り返せし後、ようやくかわききったる舌を湿うるおす間もあらせず、今ごろの帰りとはあまり可愛がられ過ぎたの、ホホ、遊ぶはよけれど職業しごとの間を欠いて母親おふくろに心配さするようでは、男振りが悪いではないか清吉、そなたはこのごろ

仲町の甲州屋様の本宅の仕事が済むとすぐに根岸の別荘のお茶席の方へ廻っているではないか、夫も遊ぶのは随分好きで、あなたたちの先に立って騒ぐのは毎度のことだけれど、仕事をおろそかにするのは大嫌い。今もしあなたの顔でも見たらまたあの例のかんしゃくを立てるに決まっているのを知らないわけでもあるまいに、さあ少し遅くはなったけれど母親の持病が起きたとか何とか言い訳はいくらでもつくはず、早く根岸へ行くがよい。五三様もわかった人だから、一日さぼって怠けないことに免じて、見透かしても旦那の前はかばってくれるだろう。おお朝飯がまだらしい、三さん何でもよいほどにご飯をそちらへ用意しなさい、湯豆腐に蛤鍋とはいかないが新漬に煮豆でもかまわないでしょう、二三杯かっ込んですぐ

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仲町なかちょうの甲州屋様の御本宅の仕事が済むとすぐに根岸の御別荘のお茶席の方へ廻らせられて居るではないか、良人うちのも遊ぶは随分好きで汝たちの先に立って騒ぐは毎々なれど、職業を粗略おろそかにするは大の嫌い、今もし汝の顔でも見たらばまた例の青筋を立つるにまって居るを知らぬでもあるまいに、さあ少し遅くはなったれど母親の持病が起ったとか何とか方便は幾らでもつくべし、早う根岸へ行くがよい、五三ごさ様もわかった人なれば一日をふてて怠惰なまけぬに免じて、見透みすかしても旦那の前は庇護かぼうてくるるであろう、おお朝飯がまだらしい、三や何でもよいほどに御膳ごぜん其方そちへこしらえよ、湯豆腐に蛤鍋はまなべとは行かぬが新漬に煮豆でも構わぬわのう、二三杯かっこんですぐ

と仕事に走りなさい、ホホ、眠くても昨夜のことを思えば我慢できるでしょう、精を出しなさい辛抱しなさい、よければ弁当も松に持たせてあげるわ」と、苦くはないけれど効き目のある薬のような行き届いた言葉に、汗を出して自分の不始末を恥じる正直者の清吉だった。

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と仕事に走りゃれ走りゃれ、ホホねむくても昨夜ゆうべをおもえば堪忍がまんのなろうに精を惜しむな辛防しんぼうせよ、よいは弁当も松に持たせてやるわ、とにがくはなけれど効験ききめある薬の行きとどいた意見に、汗を出して身の不始末をずる正直者の清吉。

「姉御、ではお世話になってすぐに仕事に突っ走ります」と、鷲掴みにした手拭で額を拭きながら台所の方に立ったかと思えば、もうざらざらとまるで口の中へ打ち込むように茶漬け飯を五六杯、早くも食べ終えて出てきて、「さようなら、行ってまいります」と肩ごと頭をさっと一つ下げ、煙管を収め、壺屋の煙草入れを三尺帯に挟み、さすがは気が早い江戸っ子気質で、草履をつっかけて門口を出る途端に、今まで黙っていた女は急に呼び止めて、「この二三日にのっそりめに逢ったか」と石から火が出るほど声を走らせて問いかければ、清吉は振り向いて、「逢いました逢いました、しかも昨日御殿坂でいつものっそりがひとしおのっそりと、往生した鶏のようにぐたりと首を垂れ

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姉御、では御厄介ごやっかいになってすぐに仕事に突っ走ります、と鷲掴わしづかみにした手拭てぬぐいで額き拭き勝手の方に立ったかとおもえば、もうざらざらざらっと口の中へち込むごとく茶漬飯五六杯、早くも食うてしまって出て来たり、さようなら行ってまいります、と肩ぐるみに頭をついと一ツげて煙草管きせるを収め、壺屋つぼや煙草入りょうさげ三尺帯に、さすがは気早き江戸ッ子気質かたぎ草履ぞうりつっかけ門口出づる、途端に今まで黙っていたりし女は急に呼びとめて、この二三日にのっそりめにうたか、と石から飛んで火の出しごとく声をはしらし問いかくれば、清吉ふりむいて、逢いました逢いました、しかも昨日御殿坂で例ののっそりがひとしおのっそりと、往生したとりのようにぐたりと首を

ながら歩いているのを見かけましたが、今度こちらの棟梁の反対側に立って、のっそりの癖に及びもない望みをかけ、まあ大丈夫ではあるものの、多少棟梁にも姉御にも心配をさせるその面が憎くて憎くてたまりませんので、『やいのっそりめ』と頭から毒を浴びせてやりましたに、あいつのことだから気がつかず、やいのっそりめ、のっそりめと三度めには傍へ行って大声で怒鳴ってやりましたところ、ようやくびっくりしてフクロウに似た目でこちらの顔を見つめ、『ああ清吉兄さん』と寝ぼけたような声で挨拶し、『やい、お前はずいぶん立派な男になったものだな、染め物屋の干し場へ夢でも上ったか、大層高いものを建てたがって、感応寺の和尚様にうまくとりいるという話だが、それは正気の沙汰か寝ぼけているのか』と

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れながら歩行あるいて居るを見かけましたが、今度こっちの棟梁とうりょう対岸むこうに立ってのっそりの癖に及びもない望みをかけ、大丈夫ではあるものの幾らか棟梁にも姉御にも心配をさせるそのつらが憎くって面が憎くってたまりませねば、やいのっそりめと頭から毒を浴びせてくれましたに、あいつのことゆえ気がつかず、やいのっそりめ、のっそりめと三度めには傍へ行って大声で怒鳴ってやりましたればようやくびっくりしてふくろに似た眼でひとの顔を見つめ、ああ清吉あーにーいかと寝惚声ねぼけごえ挨拶あいさつ、やい、きさまは大分好い男児おとこになったの、紺屋こうやの干場へ夢にでものぼったか大層高いものを立てたがって感応寺の和尚様に胡麻をり込むという話しだが、それは正気の沙汰か寝惚けてかと

まともから冷やかしてやったところ、ハハハ、姉御、愚鈍な奴というものは正直ではありませんか。何と返事をするかと思えば、『私も随分骨を折って胡麻は擦っているが、源太親方を向こうに立てているのでどうも胡麻が擦りにくくて困る、親方がのっそり、お前やってみろよと譲ってくれればいいけれどね』と馬鹿に虫のいい答えで、ハハハ、思い出しても、心配そうに大真面目くさって言ったその顔がおかしくてたまりませんでした。あまりおかしいので憎さもなくなり、ばかめと言い捨てに別れましたが。

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冷語ひやかしをまっ向からやったところ、ハハハ姉御、愚鈍うすのろい奴というものは正直ではありませんか、なんと返事をするかとおもえば、わしも随分骨を折って胡麻は摺って居るが、源太親方を対岸に立てて居るのでどうも胡麻が摺りづらくて困る、親方がのっそりきさまやって見ろよと譲ってくれればいいけれどものうとの馬鹿に虫のいい答え、ハハハおもい出しても、心配そうに大真面目くさく云ったその面がおかしくて堪りませぬ、あまりおかしいので憎っ気もなくなり、箆棒べらぼうめと云い捨てに別れましたが。

「それきりか」

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それぎりか。

「はい」

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へい。

「そうかい、さあ遅くなる、かまわずに行くがよい」

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そうかえ、さあ遅くなる、関わずに行くがよい。

さようならと清吉は自分の仕事に向かった。後はひとりで物思いに沈み、外では無心な子どもたちが独楽をぶつけ合って遊びに声々かしましく、「一人殺しじゃ二人殺しじゃ、ざまを見ろ、敵を取ったぞ」と叫び散らしていた。

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さようならと清吉は自己おのが仕事におもむきける、後はひとりで物思い、戸外おもてでは無心の児童こどもたちが独楽戦こまあての遊びに声々かしましく、一人殺しじゃ二人殺しじゃ、醜態ざまを見よかたきをとったぞとわめきちらす。

思えばこれもお互い次々に競い合う世の姿だった。

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おもえばこれも順々競争がたきの世のさまなり。

その三

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其三

世に栄えて豊かな人々は初霜月の衣替えも何の苦もなく、紬や糸織に好みの着物を着て寒さに向かう貧者の心配も知らず、「やれ炉開きだ、やれ口切りだ、それに間に合うよう是非とも急いで茶室を仕上げなさい、待合の庇を繕いなさい」「夜中のにわか時雨も一服しながらでなければ窓を打つ音を楽しみ難い」などと贅沢を言って、木枯らしがすさまじく鐘の音が凍るようになってくる辛い冬を快いものだなどと感じているようだが、その茶室の床板を削るのに鉋を砥ぐ手が冷え切り、その庇の大和垣を結うのに吹きさらされて疝痛を起こすこともある職人連中は、どれほど前の世に悪い業をなしてきたからこそ、同じ季節に他の人とは違って悩み苦しめられるのだろうか。特に職人仲間の中でも世渡りに疎く、心

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世に栄え富める人々は初霜月の更衣うつりかえも何の苦慮くるしみなく、つむぎに糸織に自己おのが好き好きのきぬ着て寒さに向う貧者の心配も知らず、やれ炉開きじゃ、やれ口切りじゃ、それに間に合うよう是非とも取り急いで茶室成就しあげよ待合の庇廂ひさし繕えよ、夜半よわのむら時雨しぐれも一服やりながらでのうては面白く窓つ音を聞きがたしとの贅沢ぜいたくいうて、木枯こがらしすさまじく鐘の氷るようなって来る辛き冬をば愉快こころよいものかなんぞに心得らるれど、その茶室の床板とこいた削りにかんなぐ手の冷えわたり、その庇廂の大和やまとがき結いに吹きさらされて疝癪せんしゃくも起すことある職人風情ふぜいは、どれほどの悪いごうを前の世になしおきて、同じ時候にひととは違い悩めくるしませらるるものぞや、取り分け職人仲間の中でも世才にうとく心

ばかり良い夫。腕前は源太親方でさえ去年いろいろ世話してくれた折に、「立派なものだ」と褒めたほど確かなのだが、おっとりした気性のせいで仕事も取り損ないがちで、良いことはいつも他の人に奪われ、年中嬉しくもない暮らしかたで日を送り月を迎える味気なさ。膝のところが抜けているのを辛くも縫い繕った股引きだけを夫にはかせておくこと、女の身としては他人に見られるのも恥ずかしいけれど、何もかも貧乏がさせる不如意に仕方がなく、今縫っている猪之の綿入れも洗いさらした松坂縞で、丹誠一つで着させても着映えしないばかりでなく見苦しいほど針目がちである。それを先ほどは何も知らない幼い心ながら、「母様、それは誰のもの?小さいから俺の着物か、嬉しいな」と喜んでそのまま外へ駆け

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好き吾夫うちのひと、腕は源太親方さえ去年いろいろ世話して下されしおりに、立派なものじゃとめられしほど確実たしかなれど、寛濶おうよう気質きだてゆえに仕事も取りはぐりがちで、好いことはいつもひとられ年中嬉しからぬ生活くらしかたに日を送り月を迎うる味気なさ、膝頭ひざがしらの抜けたを辛くも埋めつづった股引ももひきばかりわが夫にはかせおくこと、婦女おんなの身としては他人よその見る眼も羞ずかしけれど、何にもかも貧がさする不如意に是非のなく、いま縫う猪之いのが綿入れも洗いざらした松坂縞まつざかじま、丹誠一つで着させても着させえなきばかりでなく見ともないほど針目がち、それを先刻さっき頑是がんぜない幼な心といいながら、母様其衣それは誰がのじゃ、小さいからはおれ衣服べべか、嬉しいのうとよろこんでそのまま戸外おもてへ駈け

出し、珍しく暖かい天気に浮かれて小竿を持ち、空に飛び交う赤蜻蛉を叩いて取ろうとどこの町まで行ったやら。ああ、考え込めば縫い物も嫌気になってくる。せめて腕の半分でも夫の気働きがあれば、こんなに貧乏はしないのに。腕はあっても宝の持ち腐れとはまさにこのたとえの通り、いつその腕前が現れて万人の目に止まるということのあてもない。たたき大工、穴掘り大工、『のっそり』というむかつく渾名さえつけられて仲間内でも軽んじられている歯痒さ恨めしさ。陰でやきもきと私が思うのと違って平気なのが憎らしいほどだったが、今度はまたどうしたことか、感応寺に五重塔が建つと聞くや否や、急にむらむらとその仕事をぜひやる気になって、恩のある親方様が

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いだし、珍らしゅう暖かい天気に浮かれて小竿こざお持ち、空に飛び交う赤蜻蜓あかとんぼはたいて取ろうとどこの町まで行ったやら、ああ考え込めば裁縫しごとも厭気になって来る、せめて腕の半分も吾夫の気心が働いてくれたならばこうも貧乏はしまいに、技倆わざはあっても宝の持ち腐れの俗諺たとえの通り、いつその手腕うであらわれて万人の眼に止まるということの目的あてもない、たたき大工穴鑿あなほり大工、のっそりという忌々いまいましい諢名あだなさえ負わせられて同業中なかまうちにもかろしめらるる歯痒はがゆさ恨めしさ、かげでやきもきとわたしが思うには似ず平気なが憎らしいほどなりしが、今度はまたどうしたことか感応寺に五重塔の建つということ聞くや否や、急にむらむらとその仕事を是非する気になって、恩のある親方様が

望まれるのも関わらず欲張りにも、このような身分でありながら引き受けようとは、ちょっと大げさ過ぎると連れ添う私でさえ思うのに、他の人はなんと噂するだろうか。まして親方様はきっと「憎いのっそりめ」と怒っておられることだろう。お吉様はなおさら「義理知らずの奴め」と恨んでおられることだろう。今日は大体どちらかに任せると上人様がお決めになるはずで、今朝出て行かれたがまだ帰られない。どうか今度の仕事だけはあれほど夫は望んでいるとしても、こちらは分に応ぜず、親方には義理もありかたがた、親方の方に上人様が任されればよいと思うような気持ちもするし、また親方様が大らかにして別段怒りもなさらないならば、夫にさせて見事に完成させたいような気持ちもする。ええ気が揉める。どう

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望まるるをも関わず胴欲に、このような身代の身に引き受きょうとは、ちとえら過ぎると連れ添うわたしでさえ思うものを、他人はなんとうわさするであろう、ましてや親方様は定めし憎いのっそりめと怒ってござろう、お吉様はなおさら義理知らずの奴めと恨んでござろう、今日は大抵どちらにか任すと一言上人様のおめなさるはずとて、今朝出て行かれしがまだ帰られず、どうか今度の仕事だけはあれほど吾夫は望んで居らるるとも此方こちは分に応ぜず、親方には義理もありかたがた親方の方に上人様の任さるればよいと思うような気持もするし、また親方様の大気にて別段怒りもなさらずば、吾夫にさせて見事成就させたいような気持もする、ええ気のめる、どうな

なることか。とても夫にはお任せなさるまいが、もしもいよいよ夫のすることになったら、どのように親方様やお吉様が腹を立てられるかわからない。ああ心配で頭が痛い。またこれが知れたならば女の余計な、無駄な心配として、それゆえいつも身体が弱いと、優しくて無理な叱り言葉を受けることだろう。もう止めましょ止めましょ。ああ痛い、とかすかなあばたのある青白い顔をしかめながら、即効紙の貼ってある左右のこめかみを、縫い物を捨てて両手で押さえる女は、齢二十五六、顔立ちも醜くはないが、おいしいものを食べていないせいで脂気が少なく肌が荒れた様子がいたいたしく、ぼろぼろの着物にぼさぼさの髪がいっそう悲しい風情であるが、つくづくひとり嘆いている折しも、台所との仕切りの破れ障子がらりと開けて、「母様、これを見てくれ」と

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ることか、とても良人うちにはお任せなさるまいがもしもいよいよ吾夫のすることになったら、どのようにまあ親方様お吉様の腹立てらるるか知れぬ、ああ心配に頭脳あたまの痛む、またこれが知れたらば女のらぬ無益むだ心配、それゆえいつも身体の弱いと、有情やさしくて無理な叱言こごとを受くるであろう、もう止めましょ止めましょ、ああ痛、と薄痘痕うすいものあるあおい顔をしかめながら即効紙のってある左右の顳顬こめかみを、縫い物捨てて両手でおさえる女の、齢は二十五六、眼鼻立ちも醜からねど美味うまきもの食わぬに膩気あぶらけ少く肌理きめ荒れたるさまあわれにて、襤褸衣服ぼろぎものにそそけ髪ますます悲しき風情なるが、つくづくひとり歎ずる時しも、台所のしきりの破れ障子がらりと開けて、母様これを見てくれ、と

猪之が言うのにびっくりして、「あなたはいつからそこにいたの」と言いながら見れば、四分板や六分板の切れ端を積んでありありと真似て建てた五重塔だった。思わず母親は涙になって、「ああ、いい子ね」と声を曇らせ、いきなり猪之に抱きついた。

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猪之が云うにびっくりして、そなたはいつからそこにいた、と云いながら見れば、四分板六分板の切れ端を積んで現然ありありと真似び建てたる五重塔、思わず母親涙になって、おお好い児ぞと声曇らし、いきなり猪之にいだきつきぬ。

その四

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其四

当時有名な大工である川越の源太が受け負って作り上げた谷中感応寺は、どこに一つ欠点をつける場所があるはずもなく、五十畳敷きの格天井の本堂、橋のように長い廻廊、いくつもの客殿、大和尚の居室、茶室、学徒たちのいる部屋、台所、浴室、玄関まで、あるものは荘厳を尽くしあるものは堅固を極め、あるものは清らかに、あるものはしっとりと落ち着いて、それぞれにふさわしく、出来映えは少しも申し分なかった。

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当時に有名なうての番匠川越の源太が受け負いて作りなしたる谷中感応寺の、どこに一つ批点を打つべきところあろうはずなく、五十畳敷格天井ごうてんじょうの本堂、橋をあざむく長き廻廊、幾部いくつかの客殿、大和尚が居室いま、茶室、学徒所化しょけの居るべきところ、庫裡くり、浴室、玄関まで、あるは荘厳を尽しあるは堅固をきわめ、あるは清らかにあるはびておのおのそのよろしきにかない、結構少しも申し分なし。

そもそも小さな古い基礎からこれほどの大きな寺を成し遂げたのは誰か。

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そもそも微々たる旧基を振るいてかほどの大寺を成せるは誰ぞ。

法名を聞けばそのころの三歳の子どもさえも手を合わせて礼拝するほど世に知られた宇陀の朗円上人(ろうえんしょうにん)とて、早くから身延山で蛍雪の苦学を積まれ、中ごろ日本中六十余州を雲水の修行で重ね、瞑想の修行に智慧の剣を磨き、仏の教えに衆生を導く法の声を響かせてこられた七十有余の老和尚で、骨は俗世の汚れを避けるゆえに鶴のように痩せ、眼は人の世の騒がしさに飽きて半ば眠れるようであり、もとより万物は空という真理を悟って欲望の炎を胸に燃やされることもなく、悟りの真を会得して執着の彩りに心を染めることもなければ、堂や塔を起こし伽藍を立てようと望まれたわけでもなかったが、徳を慕い風格を仰いで集まってくる学徒がとても多くて、それらの者が雨露をしのぐ便りも古いままでは不都合になり

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法諱おんなを聞けばそのころの三歳児みつごも合掌礼拝すべきほど世に知られたる宇陀うだ朗円上人ろうえんしょうにんとて、早くより身延みのぶの山に螢雪けいせつの苦学を積まれ、中ごろ六十余州に雲水の修行をかさね、毘婆舎那びばしゃな三行さんぎょう寂静じゃくじょう慧剣えけんぎ、四種の悉檀しったんに済度の法音を響かせられたる七十有余の老和尚、骨は俗界の葷羶くんせんを避くるによってつるのごとくにせ、まなこ人世じんせい紛紜ふんうんきて半ばねむれるがごとく、もとより壊空えくうの理をたいして意欲の火炎ほのおを胸に揚げらるることもなく、涅槃ねはんの真をして執着しゅうじゃく彩色いろに心を染まさるることもなければ、堂塔をおこ伽藍がらんを立てんと望まれしにもあらざれど、徳を慕い風を仰いで寄り来る学徒のいと多くて、それらのものが雨露しのがん便宜たよりもとのままにてはなくなり

しまいのまま、なおもう少し堂が広くあればよいとつぶやかれたことが根となって、道徳の高い上人が新たに規模を大きくして寺を建てようとおっしゃった、というこのことが八方に広まれば、中には弟子の賢いものが自ら奮って四方に走り感応寺建立に寄附を勧めて歩くものもあり、力になろうという顔で上人の高徳を述べ説き聞かせ富豪を勧めて喜捨させる信徒もあり、元来から日ごろより随喜渇仰の思いを運ぶものが雲霞のようにいたところにこの勢いをもってしたのだから、上は諸侯から下は町人まで先を争い財を投じて、我一番に福田へ種子を投じて来世を安楽にしようと、富者は黄金白銀を、貧者は百文二百文を分に応じて寄進したので、百の川が海に入るように瞬く間に驚くほどの金銭が集まったが、それ

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しまま、なお少し堂の広くもあれかしなんど独語つぶやかれしが根となりて、道徳高き上人の新たに規模を大きゅうして寺を建てんと云いたまうぞと、このこと八方に伝播ひろまれば、中には徒弟の怜悧りこうなるがみずから奮って四方にせ感応寺建立に寄附を勧めてあるくもあり、働き顔に上人の高徳をべ説き聞かし富豪を慫慂すすめて喜捨せしむる信徒もあり、さなきだに平素ひごろより随喜渇仰かつごうの思いを運べるもの雲霞のごときにこの勢いをもってしたれば、上諸侯より下町人まで先を争い財を投じて、我一番に福田ふくでんへ種子を投じて後の世を安楽やすくせんと、富者は黄金白銀を貧者は百銅二百銅を分に応じて寄進せしにぞ、百川海に入るごとくまたたひまに金銭の驚かるるほど集まりけるが、それ

より世渡りに長けたものの世話人となり用人となり、万事取り行ってやがて立派に完成したとは、聞いてさえ小気味のよい話だった。

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より世才にけたるものの世話人となり用人となり、万事万端り行うてやがて立派に成就しけるとは、聞いてさえ小気味のよき話なり。

しかるに全て完成した暁、用人頭の為右衛門が普請の諸々の入用と雑費を一切しめくくり、抜かりなく決算したところになお大金が余っていた。

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しかるに悉皆しっかい成就の暁、用人頭の為右衛門普請諸入用諸雑費一切しめくくり、手脱てぬかることなく決算したるになお大金のあまれるあり。

これをどうすべきかと役僧の円道ともろとも、髪のある頭と髪のない頭を突き合わせて相談したが、別に優れた知恵も出ず、田地を買おうか畑を買おうかと考えても、田も畑も余るほど寄附があれば今さらまたこの浄財をそのようなことに費やすにも及ばないと思案にあまし、「面倒なり、よきに計らえ」と皺枯れた御声でおっしゃるのは知れていたが、恐る恐る円道がある時、「お考えの使い道でもありますか」と伺ったところ、「塔を建てよ」とただ一言おっしゃったきり振り向きもしたまわず、鼈甲縁の大きな眼鏡の中からかすかな眼の光りを放たれて、何かの経やら論やらを黙々と読み続けられたが、いよいよ塔を建てると決まって、あの源太に「積もり書を出せ」と円道が命じたことを、知ってか知らずにか上人様にお

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これをばいかになすべきと役僧の円道えんどうもろとも、髪ある頭に髪なき頭突き合わせて相談したれど別に殊勝なる分別も出でず、田地を買わんかはた買わんか、田も畠も余るほど寄附のあれば今さらまたこの浄財をそのようなことに費すにも及ばじと思案にあまして、面倒なりよきに計らえと皺枯しわがれたる御声にて云いたまわんは知れてあれど、恐る恐る円道ある時、おぼさるる用途みちもやと伺いしに、塔を建てよとただ一言云われしぎり振り向きもしたまわず、鼈甲縁べっこうぶちの大きなる眼鏡めがねうちよりかすかなる眼の光りを放たれて、何の経やら論やらを黙々と読み続けられけるが、いよいよ塔の建つに定まって例の源太に、積り書いだせと円道が命令いいつけしを、知ってか知らずにか上人様にお

目通りを願いたいと、のっそりがやって来たのは今から二か月ほど前のことだった。

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目通り願いたしと、のっそりが来しは今より二月ほど前なりし。

その五

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其五

紺とはいえ汗に色あせ風に変わって異様な色になった上、何度も洗い濯がれたためにそれともわからず、衿の印の字さえぼんやりとなっている半纏を着て、継ぎのあたった古い股引をはいた男が、髪は埃にまみれて白っちゃけ、顔は日に焼けて品のない様子がいっそう品なく、うろうろのそのそと感応寺の大門を入りかかるのを、門番が尖った声で「何者か」と怪しんで問いただせば、びっくりしてしばらく眼を見張り、ようやく腰をかがめて馬鹿丁寧に「大工の十兵衛と申しまする、お普請につきましてお願いに出ました」とおずおずと言う様子が何となく腑に落ちないものの、大工とあるので大方源太の弟子か何かの使いにきたものだろうと推察して、「通れ」と一言偉そうに許した。

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紺とはいえど汗にめ風にかわりて異な色になりし上、幾たびか洗いすすがれたるためそれとしも見えず、えり記印しるしの字さえおぼろげとなりし絆纏はんてんを着て、補綴つぎのあたりし古股引ふるももひきをはきたる男の、髪は塵埃ほこりまみれてしらけ、面は日に焼けて品格ひんなき風采ようすのなおさら品格なきが、うろうろのそのそと感応寺の大門を入りにかかるを、門番とがり声で何者ぞと怪しみ誰何ただせば、びっくりしてしばらく眼を見張り、ようやく腰をかがめて馬鹿丁寧に、大工の十兵衛と申しまする、御普請につきましてお願いに出ました、とおずおず云う風態そぶりの何となくには落ちねど、大工とあるに多方源太が弟子かなんぞの使いに来たりしものならんと推察すいして、通れと一言押柄おうへいに許しける。

十兵衛これに力を得て、周りを見廻しながら厳めしい玄関前にさしかかり、「お頼み申す」と二三度言えば、鼠色の着物を着た愛らしい小坊主が「おお」と答えて障子を引き開けたが、応接に慣れたものの目ばやく人を見て、式台にも降りず突っ立ちながら「用事なら庫裡の方へ廻れ」と情なく言い捨てて障子をぴっしゃり。後はどこかの木に鳴くヒヨドリの声ばかりして音もなく響きもなかった。

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十兵衛これに力を得て、四方あたりを見廻わしながら森厳こうごうしき玄関前にさしかかり、お頼申たのもうすと二三度いえば鼠衣ねずみごろも青黛頭せいたいあたま可愛かわゆらしき小坊主の、おおと答えて障子引きけしが、応接に慣れたるものの眼捷めばやく人を見て、敷台までも下りず突っ立ちながら、用事なら庫裡くりの方へ廻れ、とつれなく云い捨てて障子ぴっしゃり、後はどこやらの樹頭ひよの声ばかりして音もなく響きもなし。

なるほどとひとり言しつつ、十兵衛は庫裡に廻ってまた案内を乞えば、用人の為右衛門がもっともらしい理屈顔で立ち出でて、「見慣れない棟梁殿、どこからどんな用事でいらっしゃった」と身なりが粗末なのでもう馬鹿にした言葉遣い。十兵衛はさらに気にもとめず、「私は大工の十兵衛と申すもの、上人様の御前にかかってお願いをしたいことがありましてまいりました、どうぞお取次ぎ下さいませ」と頭を低くして頼み入るに、為右衛門はじろりと十兵衛のうす汚い頭から白の鼻緒が鼠色になった草履を履いている足先まで睨め下し、「ならぬ、ならぬ、上人様は俗用には関わりはなされぬわ、願いというは何か知らないが言ってみよ、次第によっては我が取り計らってやる」とさも万事わかったような

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なるほどとひとごとしつつ十兵衛庫裡にまわりてまた案内を請えば、用人為右衛門仔細しさいらしき理屈顔して立ち出で、見なれぬ棟梁殿、いずくより何の用事で見えられた、と衣服みなりの粗末なるにはやあなどかろしめた言葉づかい、十兵衛さらに気にもとめず、野生わたくしは大工の十兵衛と申すもの、上人様の御眼にかかりお願いをいたしたいことのあってまいりました、どうぞお取次ぎ下されまし、とこうべを低くして頼み入るに、為右衛門じろりと十兵衛が垢臭あかくさ頭上あたまより白の鼻緒の鼠色になった草履はき居る足先までめ下し、ならぬ、ならぬ、上人様は俗用におかかわりはなされぬわ、願いというは何か知らねど云うて見よ、次第によりては我が取り計ろうてやる、とさもさも万事心得た

用人めかした才物ぶりだった。

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用人めかせる才物ぶり。

それを無頓着な男の不器用な感じで突き放して、「いえ、ありがとうはございますが、上人様に直々でなければ申しても役に立ちませんこと、どうぞただお取次ぎをお願いいたします」と、こちらの心が一本気だから相手の気に触る言葉とも考えず押し返して言えば、為右衛門は腹には頼まないのが憎くて怒りを含み、「わけのわからない男だな、上人様はお前ごとき職人らに耳を貸したまわないというのに、取り次いでも無駄だから我が計らって得させようと、甘く扱えばつけ上がる言い分、もはや何もかも聞いてやらない、帰れ帰れ」と小人の常として語気たちまち荒くなり、つれなく言い捨てて立とうとするのにあわてた十兵衛、「ではございましょうなれど」と半分言う間もなく、「うるさい、やかましい」と打ち消

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それを無頓着むとんじゃくの男の質朴ぶきようにも突き放して、いえ、ありがとうはござりますれど上人様に直々じきじきでのうては、申しても役に立ちませぬこと、どうぞただお取次ぎを願いまする、と此方こちの心が醇粋いっぽんぎなれば先方さきの気にさわる言葉とも斟酌しんしゃくせず推し返し言えば、為右衛門腹には我を頼まぬが憎くていかりを含み、わけのわからぬ男じゃの、上人様はきさまごとき職人らに耳はしたまわぬというに、取り次いでも無益むやくなれば我が計ろうて得させんと、甘くあしらえばつけ上る言い分、もはや何もかも聞いてやらぬ、帰れ帰れ、と小人の常態つねとて語気たちまち粗暴あらくなり、にべなく言い捨て立たんとするにあわてし十兵衛、ではござりましょうなれど、と半分いう間なく、うるさい、やかましいと打ち消

され、奥の方に入ってしまって、ぼんやりと土間に突っ立ったまま手のひらに捕まえた蛍に逃げられたような思いをしたが、仕方なく声を上げてまた案内を乞うに、口ある人がいるやらいないやら薄ら寒い大寺がひっそりとして、響きだけは耳に落ちてくるが咳一つ聞こえず、玄関に廻ってまた頼むと言えば、先ほど見た憎らしげな賢そうな小坊主がちょっと顔を出して、「庫裡へ行けと教えたのに」とつぶやいて早くも障子をぴしゃり。

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され、奥の方に入られてしもうて茫然ぼんやりと土間に突っ立ったままうちほたる脱去ぬけられしごとき思いをなしけるが、是非なく声をあげてまた案内を乞うに、口ある人のありやなしや薄寒き大寺の岑閑しんかんと、反響ひびきのみはわが耳にち来れど咳声しわぶき一つ聞えず、玄関にまわりてまた頼むといえば、先刻さき見たる憎げな怜悧小僧りこうこぼうずのちょっと顔出して、庫裡へ行けと教えたるに、と独語つぶやきて早くも障子ぴしゃり。

また庫裡に廻り、また玄関に行き、また玄関に行って庫裡に廻り、ついには遠慮を忘れて本堂にまで響く大声を上げ、「頼む頼む、お頼み申す」と叫べば、その声より大きな声を発して「馬鹿め」と罵りながら為右衛門がずかずかと立ち出でて、「下男どもよ、この気違いを門外に引き出せ、騒々しいのを嫌いたまう上人様に知れれば、我らがこいつのために叱られることになろう」との命令。「心得ました」と先ほどより男部屋に転がっていた寺の下男らが立ちかかり、引き出そうとする。土間に坐り込んで出されまいとする十兵衛。

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また庫裡に廻りまた玄関に行き、また玄関に行き庫裡に廻り、ついには遠慮を忘れて本堂にまで響く大声をあげ、頼む頼むお頼申すと叫べば、其声それよりでかき声をいだして馬鹿めとののしりながら為右衛門ずかずかと立ち出で、僮僕おとこどもこの狂漢きちがいを門外に引きいだせ、騒々しきを嫌いたまう上人様に知れなば、我らがこやつのために叱らるべしとの下知げじ、心得ましたと先刻さきより僕人部屋おとこべやころがりいし寺僕おとこら立ちかかり引き出さんとする、土間に坐り込んでいだされじとする十兵衛。

「それ手を取れ、足を持ち上げよ」と大勢が口々に罵り騒いでいるところへ、後園の花を二枝三枝切って床に飾ろうと、境内をあちこち逍遥されていた朗円上人が、木蘭色の無垢の衣を着て左の手に女郎花と桔梗、右の手に朱塗りの柄の鋏を持ったまま、思いがけなくここに来かかられた。

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それ手を取れ足を持ち上げよと多勢おおぜい口々に罵り騒ぐところへ、後園の花二枝にし三枝はさんで床の眺めにせんと、境内けいだいあちこち逍遙しょうようされし朗円上人、木蘭色もくらんじき無垢むくを着て左の手に女郎花おみなえし桔梗ききょう、右の手に朱塗しゅにぎりのはさみ持たせられしまま、図らずここに来かかりたまいぬ。

その六

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其六

「何事で罵り騒ぐのか」と上人が下される鶴の一声のお言葉に、群れ雀の輩が鳴りを鎮めて、振り上げた拳を隠す場所もなく、禅僧の問答にありやありやと言いかけたまま一喝されて腰が折れたような様子のものもあり、まくり縮めた袖を格好悪そうに下ろしてこそこそと人の後ろに隠れるものもあった。

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何事に罵り騒ぐぞ、と上人が下したまうつるの一声のお言葉に群雀のともがら鳴りをとどめて、振り上げしこぶしかくすにところなく、禅僧の問答にありやありやと云いかけしまま一喝されて腰のくだけたるごとき風情なるもあり、まくり縮めたる袖を体裁きまり悪げに下してこそこそと人の後ろに隠るるもあり。

天を仰げる鼻の穴から火煙も噴くべき高慢の怒りに意気高ぶっていた為右衛門も、少しは恥じてか首をたれて手を揉みながら、自分が言い出したことだから仕方なく、ありし次第を自分に都合よく申し出れば、痩せて皺ばった顔に深く長くついた法令の皺をいっそう深めて、にったりとゆっくりと笑たまい、女のように軽く柔らかな声で小さく、「それならば騒がずともよいこと、為右衛門よ、お前がただすなおに取り次ぎさえすれば仔細はなかったものを、さあ十兵衛殿とやら、私についてこちらへおいで、とんだ気の毒な目に遭わせました」と万人に敬われ慕われる人はまた格別の心の行き方で、学徒を軽んぜず下の者も侮らず、親切に穏やかに先に立って静かに導きたまう後に

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天を仰げる鼻のあなより火煙もくべき驕慢きょうまんの怒りに意気たかぶりし為右衛門も、少しはじてや首をたれみながら、自己おのれが発頭人なるに是非なく、ありし次第をわが田に水引き水引き申し出づれば、痩せ皺びたる顔に深く長くいたる法令の皺溝すじをひとしお深めて、にったりとゆるやかに笑いたまい、婦女おんなのようにかろやわらかな声小さく、それならば騒がずともよいこと、為右衛門そなたがただ従順すなおに取り次ぎさえすれば仔細はのうてあろうものを、さあ十兵衛殿とやら老衲わしについて此方こちへおいで、とんだ気の毒な目にわせました、と万人に尊敬うやまい慕わるる人はまた格別の心の行き方、未学を軽んぜず下司をも侮らず、親切に温和ものやさしく先に立って静かに導きたまう後に

ついて、うっかりした根性にも慈悲が浸み透れば感涙がとまらない十兵衛は、だんだんと赤土のしっとりとしたところ、飛び石の趣きに敷かれたところ、青桐の影が深く四方竹の色がゆかしく茂るところなどを廻り廻って過ぎ、小さな折戸を入れると、花もこれというはない小庭がただ静かに古びていて、有楽型の燈籠に松の落ち葉が散りかかり、星型の手水鉢に苔が生えているのが見る目の塵をも洗うほどだった。

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ついて、迂濶うかつな根性にも慈悲の浸み透れば感涙とどめあえぬ十兵衛、だんだんと赤土のしっとりとしたるところ、飛石の画趣えごころかれあるところ、梧桐あおぎりの影深く四方竹の色ゆかしく茂れるところなどめぐめぐり過ぎて、ささやかなる折戸を入れば、花もこれというはなき小庭のただものさびて、有楽形うらくがた燈籠とうろうに松の落葉の散りかかり、方星宿ほうせいしゅく手水鉢ちょうずばちこけの蒸せるが見る眼のちりをも洗うばかりなり。

上人は庭下駄を脱ぎ捨てて上にあがり、「さあ、お前もこちらへ」と言いさして手に持たれていた花を早速に釣り花入れに投げ込まれたので、十兵衛は少しもひるまず臆せず、手拭いで足をはたくほどのことも気がつかない男なので何もせず、草履を脱いでのっそりと三畳台目の茶室に入り込み、鼻を突き合わせるほど上人に近づいて座って黙々と一礼する様子は、礼儀に慣れてはいないけれど十分に偽りのない心の誠実を表していた。何度かすぐにでも言い出そうとしてもまだ開けないでいた口をようやく開いて、舌の動きもたどたどしく、「五重の塔の、お願いに出ましたは五重の塔のためでございます」と藪から棒を突き出したように突然に声の調子も不揃いに、辛くも胸にあることを額や脇の下の汗とともに絞り出

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上人庭下駄脱ぎすてて上にあがり、さあそなた此方こちへ、と云いさしてに持たれし花を早速さそく釣花活つりはないけに投げこまるるにぞ、十兵衛なかなかめずおくせず、手拭てぬぐいで足はたくほどのことも気のつかぬ男とてなすことなく、草履脱いでのっそりと三畳台目の茶室に入りこみ、鼻突き合わすまで上人に近づき坐りて黙々と一礼するさまは、礼儀にならわねど充分に偽飾いつわりなきこころ真実まことをあらわし、幾たびかすぐにも云い出でんとしてなお開きかぬる口をようやくに開きて、舌の動きもたどたどしく、五重の塔の、御願いに出ましたは五重の塔のためでござります、とやぶから棒を突き出したようにしりもったてて声の調子も不揃ふぞろいに、辛くも胸にあることを額やらわきの下の汗とともに絞り出

せば、上人は思わず笑いをもよおされ、「何か知らないが私を怖いものなどと思わずに、遠慮を忘れてゆっくりと話をするがよい。庫裡の土間に坐り込んで動かずにいた様子では、何か深く思い詰めてきたことだろう、さあ遠慮を捨てて急がずに、私を友達同様と思って話すがよい」とあくまで優しいお心づかいだった。

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せば、上人おもわず笑いを催され、何か知らねど老衲わしをばこわいものなぞと思わず、遠慮を忘れてゆるりと話をするがよい、庫裡の土間に坐りうで動かずにいた様子では、何か深う思い詰めて来たことであろう、さあ遠慮を捨ててかずに、老衲をば朋友ともだち同様におもうて話すがよい、とあくまでやさしき注意こころぞえ

十兵衛はすぐに「フクロウ」といつも悪口を受ける大きな丸い眼に早くも涙を浮かべて、「はい、はい、はい、ありがとうございます。思い詰めてまいりました。その五重の塔を、こういう野郎でございます。ご覧の通り、のっそり十兵衛と悔しい渾名をつけられている男でございます。しかしお上人様、本当でございます、仕事は下手ではございません。知っています。私は馬鹿でございます。馬鹿にされております。意気地のない奴でございます。嘘はなかなか申しません。お上人様、大工はできます。大隅流は子どもの時から、後藤、立川の二つの流儀も合点いたしております。させて、五重塔の仕事を私にさせていただきたい。それでまいりました。川越の源太様が積もりをしたとは五六

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十兵衛もろくもふくろと常々悪口受くる銅鈴眼すずまなこにはや涙を浮めて、はい、はい、はいありがとうござりまする、思い詰めて参上まいりました、その五重の塔を、こういう野郎でござります、御覧の通り、のっそり十兵衛と口惜くやしい諢名あだなをつけられて居るやっこでござりまする、しかしお上人様、真実ほんとでござりまする、工事しごとは下手ではござりませぬ、知っておりますわたくしは馬鹿でござります、馬鹿にされております、意気地のないやつでござります、虚誕うそはなかなか申しませぬ、お上人様、大工はできます、大隅流おおすみりゅう童児こどもの時から、後藤ごとう立川たてかわ二ツの流義も合点がてん致しておりまする、させて、五重塔の仕事を私にさせていただきたい、それで参上まいりました、川越の源太様が積りをしたとは五六

日前に聞きました。それから私は眠れません。お上人様、五重塔は百年に一度、一生に一度建つものではございません。恩を受けております源太様の仕事を奪いたくはおもいませんが、ああ賢い人は羨ましい。一生一度百年一度の良い仕事を源太様はなさる。死んでも立派に名を残される。ああ羨ましい羨ましい。大工となって生きている甲斐もあるというもの。それに引き換えこの十兵衛は、鑿や手斧を持っては源太様にでも誰にでも、打つ墨縄の曲がることはあれ、万が一にも後れを取るようなことは必ず必ずないと思えど、年中長屋の羽目板の繕いやら馬小屋の溝の数仕事。天道様が知恵というものを俺には下さらないから仕方がないと諦めて諦めても、出来の悪い

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日前聞きました、それから私は寝ませぬわ、お上人様、五重塔は百年に一度一生に一度建つものではござりませぬ、恩を受けております源太様の仕事をりたくはおもいませぬが、ああ賢い人は羨ましい、一生一度百年一度の好い仕事を源太様はさるる、死んでも立派に名を残さるる、ああ羨ましい羨ましい、大工となって生きている生き甲斐もあらるるというもの、それに引き代えこの十兵衛は、のみ手斧ちょうなもっては源太様にだとて誰にだとて、打つ墨縄の曲ることはあれ万が一にも後れを取るようなことは必ず必ずないと思えど、年が年中長屋の羽目板はめの繕いやら馬小屋箱溝はこどぶの数仕事、天道様が知恵というものをおれにはくださらないゆえ仕方がないとあきらめて諦めても、まず

奴らが宮を作り堂を請け負い、見るものの目から見れば建てさせた人が気の毒なほどのものを作ったのを見るたびごとに、内々自分の不運を泣きます。お上人様、時々は口惜しくて腕もない癖に知恵ばかり達者な奴が憎くもなりますよ。お上人様、源太様は羨ましい。知恵も達者なれば腕も達者、ああ羨ましい仕事をなさるか。俺はよ、源太様はよ、情けないこの俺はよと、羨ましいがついに高じて女房にも口をきかず泣きながら寝ましたその夜のこと、五重塔をお前が作れ今すぐつくれと恐ろしい人に言いつけられ、あわてて飛び起きさまに道具箱へ手を突っ込んだのは半分夢で半分うつつ、目が全くさめて見れば指の先を鐔鑿につっかけてけがをしながら道具箱につ

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い奴らが宮を作り堂を受け負い、見るものの眼から見れば建てさせた人が気の毒なほどのものを築造こしらえたを見るたびごとに、内々自分の不運を泣きますわ、お上人様、時々は口惜しくて技倆うでもない癖に知恵ばかり達者な奴が憎くもなりまするわ、お上人様、源太様は羨ましい、知恵も達者なれば手腕うでも達者、ああ羨ましい仕事をなさるか、おれはよ、源太様はよ、情ないこのおれはよと、羨ましいがつい高じて女房かかにも口きかず泣きながら寝ましたその夜のこと、五重塔をきさま作れ今すぐつくれとおそろしい人にいいつけられ、狼狽うろたえて飛び起きさまに道具箱へ手を突っ込んだは半分夢で半分うつつ、眼が全く覚めて見ますれば指の先を鐔鑿つばのみにつっかけて怪我をしながら道具箱につ

かまって、いつの間にか夜具の中から出ていた情けなさ。行燈の前にぼんやりと座って、ああ情けない、つまらないと思いましたその時の心持ち、お上人様、わかりますか、ええ、わかりますか。これだけが誰にでもわかってくれれば塔も建てなくてもよいのです。どうせ馬鹿なのっそり十兵衛は死んでもよいのでございます。腰抜け鋸のように生きていたくもないのですよ。その夜からというものは、本当に、本当でございますお上人様、晴れている空を見ても、明かりの届かない部屋の隅の暗いところを見ても、白木造りの五重の塔がぬっと突っ立って私を見下ろしておりますよ。とうとう自分が造りたい気になって、とても及ばないとは知りながら毎日仕事を終わるとすぐに夜にこもっ

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かまって、いつの間にか夜具の中から出ていたつまらなさ、行燈あんどんの前につくねんと坐ってああ情ない、つまらないと思いました時のその心持、お上人様、わかりまするか、ええ、わかりまするか、これだけが誰にでも分ってくれれば塔も建てなくてもよいのです、どうせ馬鹿なのっそり十兵衛は死んでもよいのでござりまする、腰抜鋸こしぬけのこのように生きていたくもないのですわ、其夜それからというものは真実ほんと、真実でござりまする上人様、晴れて居る空を見ても燈光あかりとどかぬへやすみの暗いところを見ても、白木造りの五重の塔がぬっと突っ立って私を見下しておりまするわ、とうとう自分が造りたい気になって、とても及ばぬとは知りながら毎日仕事を終るとすぐに夜を

て、五十分の一の雛形を作り、昨夜ちょうど仕上げました。見に来て下さいお上人様。頼まれもしない仕事はできてしたい仕事はできない口惜しさ、ええ不運ほど情けないものはないと私が嘆けば、お上人様、なまじできなければ不運も知らないでしょうと女房めがその雛形を揺り動かしての述懐、無理とは聞こえないだけによけい泣きました。お上人様、お慈悲に今度の五重塔は私に建てさせて下さい。拝みます、こここの通り」と両手を合わせて頭を畳につけ、涙は塵を浮かべた。

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て五十分一の雛形ひながたをつくり、昨夜ゆうべでちょうど仕上げました、見に来て下されお上人様、頼まれもせぬ仕事はできてしたい仕事はできない口惜しさ、ええ不運ほど情ないものはないとわしが歎けばお上人様、なまじできずば不運も知るまいと女房めが其雛形それをば揺り動かしての述懐、無理とは聞えぬだけによけい泣きました、お上人様お慈悲に今度の五重塔は私に建てさせて下され、拝みます、こここの通り、と両手を合わせてかしらを畳に、涙は塵を浮べたり。

その七

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其七

木彫りの羅漢(らかん)のように黙々と座って、菩提樹の実の数珠を繰りながら十兵衛の取り留めのない述懐に耳を傾けておられた上人は、十兵衛が頭を下げるのを止めとどめて、「わかりました、よく合点がいきました。ああ殊勝な心がけを持っておられる、立派な考えを蓄えていらっしゃる。学徒どもの手本にもしたいような、私も思わず涙がこぼれました。五十分の一の雛形とやらも是非見に行きましょう。しかし、あなたに感服したからといって今すぐに五重の塔の仕事をあなたに任すと、軽はずみなことを私の独り決めで言うわけにもならないから、これだけははっきりとお断わりしておきます。いずれ頼むとも頼まないともそれは表立って、私からではなく感応寺から沙汰をしましょう。ともかくも幸い今日は暇が

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木彫りの羅漢らかんのように黙々と坐りて、菩提樹ぼだいじゅの実の珠数ずず繰りながら十兵衛がらちなき述懐に耳を傾け居られし上人、十兵衛がかしらを下ぐるを制しとどめて、わかりました、よく合点が行きました、ああ殊勝な心がけを持って居らるる、立派な考えをたくわえていらるる、学徒どもの示しにもしたいような、老衲わしも思わず涙のこぼれました、五十分一の雛形とやらも是非見にまいりましょう、しかしそなたに感服したればとて今すぐに五重の塔の工事しごとを汝に任するわと、軽忽かるはずみなことを老衲の独断ひとりぎめで言うわけにもならねば、これだけは明瞭はっきりとことわっておきまする、いずれ頼むとも頼まぬともそれは表立って、老衲からではなく感応寺から沙汰をしましょう、ともかくも幸い今日は閑暇ひま

あれば、あなたが作った雛形を見たい。案内してこれよりすぐにあなたの家へ私を連れて行ってはくれないか」と少しも体裁を飾らない人の、道理は明らかに言葉を渋滞なくおっしゃれば、十兵衛は満面に笑みを含みながら米を搗くように無闇に頭を下げて、「はい、はい、はい」と答えていたが、「お願いをお取り上げ下さいましたか、ああありがとうございます。私の宅においでなさいますると、ああもったいない、雛形はすぐに私めが持ってまいります。御免下さい」と言うや否やさすがののっそりも喜びに狂って普段には似ず、大げさに一つぽっくりとお辞儀をするや否や、飛び石につまずきながら駆け出して我が家に帰り、帰ったと一言女房にも言わず、いきなり雛形を持ち出して人を

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のあれば汝が作った雛形を見たし、案内してこれよりすぐに汝が家へ老衲を連れて行てはくれぬか、とすこしも辺幅ようだいを飾らぬ人の、義理すじみち明らかに言葉渋滞しぶりなく云いたまえば、十兵衛満面に笑みを含みつつ米くごとくむやみに頭を下げて、はい、はい、はいと答えおりしが、願いをお取り上げ下されましたか、ああありがとうござりまする、野生わたくしうちへおいで下さりますると、ああもったいない、雛形はじきに野生めが持ってまいりまする、御免下され、と云いさまさすがののっそりも喜悦に狂して平素つねには似ず、大げさに一つぽっくりと礼をばするや否や、飛石に蹴躓けつまずきながら駈け出してわが家に帰り、帰ったと一言女房にも云わず、いきなりに雛形持ち出して人を

頼み、二人で息せき急いで感応寺へと持ち込み、上人の前にさし置いて帰ったが、上人がこれをよくご覧になると、初重より五重までのつりあい、屋根の庇の勾配、腰の高さ、椽木の割り振り、九輪や受花・露盤・宝珠の体裁まで、どこにも嫌なところがなく、際立った細工ぶりで、これがあの不器用らしき男の手でできたものかと疑われるほど巧みなので、独りひそかに感心されて、これほどの腕前を持ちながら空しく埋もれ、名を出さずに世を過ごすものもあることか、傍目から見てさえも気の毒なのを当人の身になってはいかに口惜しいことだろうか。あわれこのようなものに、その力を活かさせ、長年抱いてきた心の願いに背かないようにしてやりたい。草木とともに朽ちていく人の身はもとより因縁仮和合にて、

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頼み、二人して息せき急ぎ感応寺へと持ち込み、上人が前にさし置きて帰りけるが、上人これをよくたまうに、初重より五重までの配合つりあい、屋根庇廂ひさし勾配こうばい、腰の高さ、椽木たるき割賦わりふり九輪請花露盤宝珠くりんうけばなろばんほうじゅの体裁までどこに可厭いやなるところもなく、水際みずぎわ立ったる細工ぶり、これがあの不器用らしき男の手にてできたるものかと疑わるるほど巧緻たくみなれば、独りひそかに歎じたまいて、かほどの技倆うでをもちながらむなしくうずもれ、名を発せず世を経るものもあることか、傍眼わきめにさえも気の毒なるを当人の身となりてはいかに口惜しきことならん、あわれかかるものに成るべきならば功名てがらを得させて、多年いだける心願こころだのみそむかざらしめたし、草木とともに朽ちて行く人の身はもとより因縁仮和合いんねんけわごう

よしや惜しんでも惜しんで甲斐なく留めても留まらないが、たとえば大工の道は小さいにせよ、それに一心の誠を委ね命をかけて、欲もあらかたは忘れ卑しい念も起こさず、ただただ鑿を持っては良く穿つことを思い、鉋を持っては良く削ることを思う心の尊さは、金にも銀にも比べがたいのに、わずかに残すよすがもなくていたずらに墓の土に埋め、冥途の土産として持ち去らせることを思えば哀れ至極だ。良馬が主を得ない悲しみ、高士が世に容れられない恨みも、つまりのところは変わりない。よしよし、我が思いがけずも十兵衛が胸に抱える価値のない宝珠の微かな光を認めたことこそ縁であれ、このたびの仕事を彼に命じ、せめては少しの報いを彼が誠実な心に得させようと思われたが、ふと思

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、よしや惜しむとも惜しみて甲斐なくとどめて止まらねど、たとえば木匠こだくみの道は小なるにせよそれに一心の誠をゆだ生命いのちをかけて、欲も大概あらましは忘れ卑劣きたなおもいも起さず、ただただのみをもってはよく穿らんことを思い、かんなを持ってはよく削らんことを思う心のたっとさは金にも銀にもたぐえがたきを、わずかに残す便宜よすがもなくていたずらに北邙ほくぼうの土にうずめ、冥途よみじつともたらし去らしめんこと思えば憫然あわれ至極なり、良馬りょうめしゅうを得ざるの悲しみ、高士世にれられざるの恨みもせんずるところはかわることなし、よしよし、我図らずも十兵衛が胸にいだける無価の宝珠の微光を認めしこそ縁なれ、こたびの工事しごとを彼にいいつけ、せめては少しの報酬むくいをば彼が誠実まことの心に得させんと思われけるが、ふと思

いよられたのは、川越の源太もこの仕事をことのほか望んでいる上、彼には本堂・庫裡・客殿を作らせた縁もあり、しかも設計予算(つもりがき)まですでに作り上げて目に入れたのは四五日前だ。腕は彼とて鈍いわけではなく、人の信用は遥かに十兵衛を超えていた。

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いよりたまえば川越の源太もこの工事をことのほかに望める上、彼には本堂庫裏くり客殿作らせしちなみもあり、しかも設計予算つもりがきまではやいだしてわが眼に入れしも四五日前なり、手腕うでは彼とて鈍きにあらず、人の信用うけははるかに十兵衛に超えたり。

一つの仕事に二人の大工、これにもさせたし彼にもさせたし、どちらにしようと上人もさすがにこれには迷われた。

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一ツの工事に二人の番匠、これにもさせたし彼にもさせたし、いずれにせんと上人もさすがこれには迷われける。

その八

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其八

「明日の辰の刻(午前八時ごろ)までに自身でこの寺に来るべきこと。かねてその方が仕事をご命令いただきたいと願い出た五重塔の件につき、上人が直接にお話しになるとのことであるから、着物等失礼のないように心得て出頭せよ」と、厳かに口上を述べているのは弁舌自慢の円珍とて、唐辛子をむやみに好んで食べたたたりが鼻の先に現れているおどけた納所(なっしょ)役の坊主だ。

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明日たつの刻ごろまでに自身当寺へ来たるべし、かねてその方工事仰せつけられたきむね願いたる五重塔の儀につき、上人直接じきにお話示はなしあるべきよしなれば、衣服等失礼なきよう心得て出頭せよと、厳格おごそかに口上をぶるは弁舌自慢の円珍えんちんとて、唐辛子をむざとたしなくらえるたたり鼻のさきにあらわれたる滑稽納所おどけなっしょ

普段ならば「南蛮和尚」という渾名で呼んで冗談を言い合うほどの仲だったが、本堂建立の間は朝夕顔を見ていたことで自然と慣れ親しんだ馴染みも今は薄くなった上、使僧らしく威儀を整えて、人差し指と中指の二本でともすれば兜みたいな形の頭のてっぺんを掻く癖のある手も法衣の袖に殊勝くさく隠しているのに、源太も敬い慎んで承知の旨を頭を下げながら答えたが、如才ないお吉は夫をこのような俗な坊主にまでよく言わせようとしてか、帰り際に、出したままにしていった茶菓子とともにいくらかを包み込み、是非にということで取らせたのは、思えばけしからない布施のしかただった。

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平日ふだんならば南蛮なんばん和尚といえる諢名あだなを呼びて戯談口じょうだんぐちきき合うべき間なれど、本堂建立中朝夕ちょうせき顔を見しよりおのずとれし馴染なじみも今は薄くなりたる上、使僧らしゅう威儀をつくろいて、人さし指中指の二本でややもすれば兜背形とっぱいなり頭顱あたま頂上てっぺんく癖ある手をも法衣ころもの袖に殊勝くさく隠蔽かくし居るに、源太もうやまつつしんで承知の旨を頭下げつつ答えけるが、如才なきお吉はわが夫をかかる俗僧ずくにゅうにまでよくわせんとてか帰り際に、出したままにして行く茶菓子とともに幾干銭いくらか包み込み、是非にというて取らせけるは、思えばけしからぬ布施のしようなり。

円珍は十兵衛の家にも参って同じことを述べて帰ったが、さてその翌日となれば源太はひげを剃り月代をして衣服を改めて、「今日こそは上人が自ら我に御用を命じてくださるに違いない」と勢い込んで、庫裡より通り、ある一間に待たされて座を正しく控えていた。

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円珍十兵衛が家にもいたりて同じことをべ帰りけるが、さてその翌日となれば源太は鬚剃ひげそ月代さかやきして衣服をあらため、今日こそは上人のみずから我に御用仰せつけらるるなるべけれと勢い込んで、庫裏より通り、とある一間に待たされてを正しくしひかえける。

様子こそ違え、十兵衛も同じ張り合いを持ち、導かれるまま打ち通って、人気のない寒さの湧く一室の中にただ一人ぼんやりとして、今や上人がお招きくださるか、五重の塔の工事一切をあなたに任すとお命じになるか、もしまた我には命じずに源太に任すとお決めになったことを我に知らせるために招かれたのか。そうならばどうしよう。浮かぶすがたのない埋れ木の我が身の末に花咲く頼みも永くなくなるだろう。ただ願わくは上人が我の愚かさを憐れんで我に命じてくださらんことをと、九尺二枚の唐襖に金鳳銀凰が翔り舞うその箔模様の美しいのも目に止めずして、ぼんやりと暗路で物を探るように思いを空に漂わせることしばらくのところへ、あの賢そうな小坊主が出てきて「方丈様のお召しですのでこちらへおいでなさいませ」

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さまこそかわれ十兵衛も心は同じ張りをもち、導かるるまま打ち通りて、人気のなきに寒さ一室ひとまうちにただ一人兀然つくねんとして、今や上人のびたまうか、五重の塔の工事一切そなたに任すと命令いいつけたまうか、もしまた我には命じたまわず源太に任すとめたまいしを我にことわるため招ばれしか、そうにもあらば何とせん、浮むよしなき埋れ木のわが身の末に花咲かん頼みも永くなくなるべし、ただ願わくは上人のわが愚かしきをあわれみて我に命令たまわんことをと、九尺二枚の唐襖からかみ金鳳銀凰きんほうぎんおうかけり舞うそのはく模様の美しきも眼に止めずして、茫々ぼうぼう暗路やみじに物をさぐるごとく念想おもいを空に漂わすことやや久しきところへ、例の怜悧りこうげな小僧こぼうずいで来たりて、方丈さまの召しますほどに

と先に立って案内すれば、「さあや、願いがかなうもかなわないも定まる時ぞ」と愚かな男も胸を騒がせ、導かれるまま従って一室の中へずっと入る。途端にこちらをぎろりっと見る目が鋭く怒りを含んで斜めに睨むのは思いがけない源太で、座に上人の姿もなかった。

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こちらへおいでなされまし、と先に立って案内すれば、すわや願望のぞみのかなうともかなわざるとも定まる時ぞと魯鈍おろかの男も胸を騒がせ、導かるるまま随いて一室ひとまうちへずっと入る、途端にこなたをぎろりっと見る眼鋭く怒りを含んで斜めににらむは思いがけなき源太にて、座に上人の影もなし。

事の意外に十兵衛も足踏みとめて突っ立ったまま一言もなく睨み合いをしたが、仕方なく畳二枚ばかりを隔てたところにようやく座り、力なげに首をしょんぼりと自分の膝に元気のなさそうな目を注いでいるのに引き換え、源太郎は子犬を見下ろす猛鷹の風に、臨んで千尺の岩の上に立つ風情で、腹に十分の強みを抱いて、背もかがめず肩も歪めず、すっきりとしゃんと構えた様子といい顔立ちといい、水際立った男ぶりで、万人が万人とも好かずにはいられない天晴れな小気味よい好男だった。

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事の意外に十兵衛も足踏みとめて突っ立ったるまま一言もなく白眼にらみ合いしが、是非なく畳二ひらばかりを隔てしところにようやく坐り、力なげ首悄然しおしおおのれがひざ気勢いきおいのなきたそうなる眼をそそぎ居るに引き替え、源太郎は小狗こいぬ瞰下みおろ猛鷲あらわしの風に臨んで千尺のいわおの上に立つ風情、腹に十分じゅうぶの強みを抱きて、背をもげねば肩をもゆがめず、すっきり端然しゃんと構えたる風姿ようだいといい面貌きりょうといい水際立ったる男振り、万人が万人とも好かずには居られまじき天晴あっぱれ小気味のよき好漢おとこなり。

しかし世間的な見方には落ちない心の明鏡に照らしてどちらも愛し、外見の美醜に少しも引っかからない上人が、かえっていずれをとも昨日まで選びかねておられたが、思いつかれることがあってか、今日はわざわざ二人を招び出して一室に待たせておかれたが、今しも静々と居間を出られ、畳を踏まれる足も軽く、先に立った小坊主が障子を開ける後から、すっと入って座につきたまえば、二人は恭しく慎んでともに等しく頭を下げ、しばらくは上げることもできなかったが、ああいたいたしや十兵衛が辛くも上げた顔には、まだ世慣れていない田舎の子が貴人の前に出たようにはにかみを含んで紅が差し、額の皺のいくすじかの溝には滲み出た熱い汗をたたえ、鼻の先にも玉を吹かせれば脇の下には雨だろう。

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されども世俗の見解けんげにはちぬ心の明鏡に照らしてかれこれともに愛し、表面うわべの美醜に露なずまれざる上人のかえっていずれをとも昨日まではえらびかねられしが、思いつかるることのありてか今日はわざわざ二人を招び出されて一室に待たせおかれしが、今しも静々居間を出でられ、畳踏まるる足もかろく、先に立ったる小僧が襖明くる後より、すっと入りて座につきたまえば、二人はうやまつつしみてともにひとしくこうべを下げ、しばらく上げも得せざりしが、ああいじらしや十兵衛が辛くも上げし面には、まだ世馴れざる里の子の貴人きにんの前に出でしようにはじを含みてくれないし、額の皺の幾条いくすじみぞには沁出にじみ熱汗あせたたえ、鼻のさきにもたまを湧かせばわきの下には雨なるべし。

膝に置いた骨太の太い指は枯れた松の枝のようにごつごつしているのに、一本一本それさえもわなわなと震えて、一心にただ上人の一言を一世の大事として待つ哀れさよ。

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膝におきたる骨太の掌指ゆびは枯れたる松が枝ごとき岩畳作りにありながら、一本ごとにそれさえもわなわなふるえて一心にただ上人の一言を一期の大事と待つ笑止さ。

源太も黙して言葉なく耳を澄まして命を待つ。どちらをどちらと分けかねる二人の心を汲んで知る上人もまたなかなか口を開くきっかけもなく、しばらくは静まり返られたが、「源太、十兵衛ともに聞け。今度建つべき五重塔はただ一つで建てようというのはあなたたち二人、二人の願いを双方とも聞き届けてあげたいけれど、それはもとよりかなわず、一人に任せれば一人の嘆き。誰に決めて命じようという基準があるわけではなし、役僧用人らの知恵にも及ばないし、老僧が知恵にも及ばないほどに、この判断はあなたたちの相談に任す。老僧は関わらない。あなたたちの相談のまとまった通りに取り上げてやるから、よく家に帰って相談して来なさい。老僧が言うべきことはこれきりだからそ

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源太も黙して言葉なく耳を澄まして命を待つ、どちらをどちらとけかぬる、二人のこころを汲みて知る上人もまたなかなかに口を開かん便宜よすがなく、しばしは静まりかえられしが、源太十兵衛ともに聞け、今度建つべき五重塔はただ一ツにて建てんというはそなたたち二人、二人の願いを双方とも聞き届けてはやりたけれど、それはもとよりかないがたく、一人に任さば一人の歎き、誰に定めていいつけんという標準きめどころのあるではなし、役僧用人らの分別にも及ばねば老僧わしが分別にも及ばぬほどに、この分別は汝たちの相談に任す、老僧はかまわぬ、汝たちの相談のまとまりたる通り取り上げてやるべければ、よく家に帰って相談して来よ、老僧が云うべきことはこれぎりじゃによってそ

う心得て帰るがよいぞ。さあしかと言い渡したぞ、もはや帰ってもよい。しかし今日は老僧も暇で退屈だから、茶話の相手になってしばらくいてくれ。浮世の噂などを老僧に聞かせてくれないか。その代わり老僧も古い話のおかしなのを二つ三つ昨日見つけたのを話して聞かせよう」と笑顔やさしく、友達のように二人をあしらって、さて何事をおっしゃるやら。

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う心得て帰るがよいぞ、さあしかと云い渡したぞ、もはや帰ってもよい、しかし今日は老僧も閑暇ひまで退屈なれば茶話しの相手になってしばらくいてくれ、浮世の噂なんど老衲わしに聞かせてくれぬか、その代り老僧も古い話しのおかしなを二ツ三ツ昨日見出したを話して聞かそう、と笑顔やさしく、朋友ともだちかなんぞのように二人をあしろうて、さて何事を云い出さるるやら。

その九

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其九

小坊主が持ってきたお茶を上人が自ら汲まれてすすめられれば、二人ともありがたがって恐れ入りながら頂戴するのを、「そう遠慮されては言葉に角が取れないで話が丸く行かない。さあ菓子も挟んではやらないから勝手に摘んでくれ」と高坏を推しやって自らも天目を取り上げて喉を潤したまい、「面白い話というも世を捨てた老僧らにはそうたくさんないものながら、このごろ読んだお経の中につくづくなるほどと感心したことがある。聞いてくれ。こういう話じゃ。むかしある国の長者が二人の子を引きつれて、うらうらと天気の良い日に、香りのする花の咲き、軟らかな草の茂っている広野を楽しげに歩いたところ、水は大分に夏の初めなので干上がってきたがなお清らかに流れて岸を洗

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小僧こぼうずがもって来し茶を上人みずから汲みたまいてすすめらるれば、二人とももったいながりて恐れ入りながら頂戴するを、そう遠慮されては言葉に角が取れいで話が丸う行かぬわ、さあ菓子もはさんではやらぬから勝手につまんでくれ、と高坏たかつき推しやりてみずからも天目取り上げのど湿うるおしたまい、面白い話というも桑門よすてびと老僧わしらにはそうたくさんないものながら、このごろ読んだお経のうちにつくづくなるほどと感心したことのある、聞いてくれこういう話しじゃ、むかしある国の長者が二人の子を引きつれてうららかな天気のおりに、かおりのする花の咲き軟らかな草のしげって居る広野ひろの愉快たのしげに遊行ゆぎょうしたところ、水は大分に夏の初めゆえれたれどなお清らかに流れて岸を洗

っている大きな川に出会った。その川の中には玉のような小石や銀のような砂でできている美しい州があったから、長者は興に乗じて一尋(約一八○センチ)ほどの流れを気軽に飛び越え、あちこちを見渡せば、州の後ろの方もまた一尋ほどの流れで陸と隔てられた別世界で、まるで浮世の俗臭い土地とはかけ離れた清らかな地であった。独り喜び踊り上がったが、渡ろうとしても渡れない二人の子どもが羨ましがって呼び叫ぶのを哀れに思い、『あなたたちには来ることのできない清浄の地だが、それほどに来たければ渡らせてあげるから待っていなさい。見なさい、私の足元のこの小石は一々蓮の花の形をなしている世に珍しい小石だ。私の眼の前のこの砂は一々五金の光を持つ比類ま

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うて居る大きな川に出で逢うた、その川の中には珠のような小磧こいしやら銀のような砂でできて居る美しいのあったれば、長者は興に乗じて一尋ひとひろばかりの流れを無造作に飛び越え、あなたこなたを見廻せば、洲の後面うしろの方もまた一尋ほどの流れでおかと隔てられたる別世界、まるで浮世のなまぐさい土地つちとは懸絶かけはなれた清浄しょうじょうの地であったままひとり歓び喜んで踊躍ゆやくしたが、わたろうとしても渉り得ない二人の児童こどもが羨ましがってび叫ぶを可憐あわれに思い、そなたたちには来ることのできぬ清浄の地であるが、さほどに来たくば渡らしてやるほどに待っていよ、見よ見よわが足下あしもとのこのこいしは一々蓮華れんげ形状かたちをなし居る世に珍しき磧なり、わが眼の前のこの砂は一々五金の光をもてる比類たぐい

れなる砂だぞ』と説き示せば、二人は遠目にそれを見ていよいよあせって渡ろうとするのを、長者は静かに制しながら、洪水の時にでも根こぎになったらしい棕櫚の木の一尋余りのものを架け渡して橋としてあげたに、私が先へお前は後にと兄弟が争い競い合った末、兄は兄だけ力強く弟をついに投げ伏せて我意の勝を得たことに誇り高ぶり、急いでその橋を渡りかけ半分にようやく至ったとき、弟は起き上がりさま口惜しさに力を込めて橋を動かせば兄はたちまち水に落ち、苦しみもがいて州に達したが、このとき弟はもうその橋を難なく渡り超えるのを見るより、兄もその橋の端を一揺り揺り動かせば、もとより丸木の橋なので弟も堪らず水に落ち、わずかに長者の立ったところへ濡れ滴り

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れなる砂なるぞと説き示せば、二人は遠眼にそれを見ていよいよ焦躁あせり渡ろうとするを、長者はしずかに制しながら、洪水おおみずの時にても根こぎになったるらしき棕櫚しゅろの樹の一尋余りなをけ渡して橋としてやったに、我が先へ汝は後にと兄弟争いせめいだ末、兄は兄だけ力強くおととをついに投げ伏せて我意がいの勝を得たに誇り高ぶり、急ぎその橋を渡りかけ半途なかばにようやくいたりし時、弟は起き上りさま口惜しさに力をめて橋をうごかせば兄はたちまち水に落ち、苦しみもがいて洲に達せしが、この時弟ははやその橋を難なく渡り超えかくるを見るより兄もその橋の端を一揺り揺り動かせば、もとより丸木の橋なるゆえ弟もたまらず水に落ち、わずかに長者の立ったるところへしたた

てはい上がった。その時長者は歎息して、『あなたたちには何と見えるか。今あなた方が足を踏みかけたよりこの州はたちまち前と異なり、小石は黒く醜くなり砂は黄ばんだ普通の砂となった。見なさい見なさいいかに』と告げ知らすに、二人は驚き、目を見張って見れば全く父の言葉に少しも違わない砂小石で、『ああ、こんなものを取ろうとして、かわいい弟を悩ませたか、尊い兄を溺らせたか』と兄弟ともに恥じ悲しんで、弟の袂を兄は絞り、兄の衣裾を弟は絞って互いにいたわり慰め合ったが、あの橋をまた引いてきて州の後ろの流れに渡し、『もうこの州には用はないから、なお向こうに遊び歩こう、あなたたちまずこれを渡れ』との長者の言葉に、兄弟は顔を見合わせて先ほどとは違い、『兄上先にお渡りなされ』『弟よ先に

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りてい上った、その時長者は歎息して、汝たちには何と見ゆる、今汝らが足踏みかけしよりこの洲はたちまち前と異なり、磧は黒く醜くなりすなは黄ばめる普通つねの沙となれり、見よ見よいかにと告げ知らするに二人は驚き、まなこみはりて見れば全く父の言葉に少しもたがわぬすなこいし、ああかかるもの取らんとて可愛き弟を悩ませしか、たっとき兄をおぼらせしかと兄弟ともにじ悲しみて、弟のたもとを兄は絞り兄の衣裾もすそを弟は絞りて互いにいたわり慰めけるが、かの橋をまた引き来たりて洲の後面うしろなる流れに打ちかけ、はやこの洲には用なければなおもあなたに遊び歩かん、汝たちまずこれを渡れと、長者の言葉に兄弟は顔を見合いて先刻さきには似ず、兄上先にお渡りなされ、弟よ先に

渡るがよい』と譲り合ったが、年の順で兄がまず渡るそのときに、転びやすいのを気遣って弟は端を揺がないようしっかりと押さえる。その次に弟が渡れば兄もまた揺がないよう押さえてやり、長者は苦もなく飛び越えて、三人ともにのどかにそぞろに歩むうちに、兄が思いがけず拾った石を弟が見れば美しい蓮の形をなした石、弟が摘み上げた砂を兄がのぞけば目もまばゆく五金の光を放っていたのに、兄弟ともどもよろこび楽しみ、互いに得た幸せを互いに深く讃え合う。その時長者は懐中より本物の玉の蓮花を取り出し兄に与えて、弟にも本物の砂金を袖より出して『大切にしなさい』と与えたという。話してしまえば子ども騙しのようだが仏説に嘘はない、子ども騙しでは決してない、噛み

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渡るがよいと譲り合いしが、年順なれば兄まず渡るその時に、まろびやすきを気遣いて弟は端を揺がぬようしかとおさゆる、その次に弟渡れば兄もまた揺がぬように抑えやり、長者は苦なく飛び越えて、三人ともにいと長閑のどけくそぞろに歩むそのうちに、兄が図らず拾いし石を弟が見れば美しき蓮華の形をなせる石、弟がつまみ上げたる砂を兄がのぞけば眼もまばゆく五金の光を放ちていたるに、兄弟ともども歓喜よろこび楽しみ、互いに得たる幸福しあわせを互いに深く讃歎し合う、その時長者は懐中ふところより真実まことたまの蓮華を取り出し兄に与えて、弟にも真実の砂金を袖より出して大切だいじにせよと与えたという、話してしまえば小供だましのようじゃが仏説に虚言うそはない、小児欺しでは決してない、噛み

しめて見れば味のある話ではないか。どうだ、あなたたちにも面白いか。老僧には大層面白いが」と軽くおっしゃって深く浸む。たとえの方便も御胸の中に持てる誠から。

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しめて見よ味のある話しではないか、どうじゃ汝たちにも面白いか、老僧には大層面白いが、と軽く云われて深く浸む、譬喩ひゆ方便も御胸のうちにもたるる真実まことから。

源太と十兵衛の二人とも顔を見合わせてぼんやりとしていた。

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源太十兵衛二人とも顔見合わせて茫然たり。

その十

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其十

感応寺からの帰り道、半分は死んだようになって十兵衛は、厚い綿入れの袖を組み合わせ、腕を組みながらうかうかと歩き、お上人様があのようにおっしゃったのはどちらか一方がおとなしく譲れとの諭しの謎かけとは、どんなに愚かな俺にもわかった。が、ああ譲りたくはないものだ。せっかく丹誠に丹誠を凝らして、きっと冷えて寒かろうに「お休みなさい」と親切にしてくれる女房の世話までも、黙っていると余計なと叱り飛ばして夜の目も合わさず、工夫に工夫を積み重ね、今度という今度は一世一代、腕いっぱいのものを建てたら死んでも恨みはないとまで思い込んだのに、悲しいことよ上人様の今日のお諭し。道理には違いないし、そうもしなければならないことだが、これを譲っていつまた五重塔が建つという当て

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感応寺よりの帰り道、半分は死んだようになって十兵衛、どんつく布子の袖組み合わせ、腕こまぬきつつうかうか歩き、お上人様のああおっしゃったはどちらか一方おとなしく譲れとさとしの謎々なぞなぞとは、何ほど愚鈍おろかおれにも知れたが、ああ譲りたくないものじゃ、せっかく丹誠に丹誠凝らして、定めし冷えて寒かろうにおやすみなされと親切でしてくるる女房かかの世話までを、黙っていよよけいなと叱り飛ばして夜の眼も合わさず、工夫に工夫を積み重ね、今度という今度は一世一代、腕一杯の物を建てたら死んでも恨みはないとまで思い込んだに、悲しや上人様の今日のおさとし、道理には違いないそうもなければならぬことじゃが、これを譲っていつまた五重塔の建つというあて

がどこにあるというわけでもなし。一生ともこの十兵衛は世に出ることのできない身なのか。ああ情けない、恨めしい。天道様が恨めしい。尊い上人様のお慈悲は十分わかっていてありがたく思わないわけではないが、ああどうにもこうにもならないことだ。相手は恩のある源太親方、それに恨みの向けようもなし。どうしてもこうしても素直にこちらの身を引くよりほかに思案も何もないのか。ああないのか。といって今さら残念だ。なまじこのようなことを思い立たずに、のっそりだけで済ましていたらばこのように残念な苦しみもしないものを。分際を忘れた俺が悪かった。ああ俺が悪い、俺が悪い。しかしも、ええ、しかしも、ええ、思うまい思うまい。十兵衛がのっそりで浮世の賢い人たち

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のあるではなし、一生とてもこの十兵衛は世に出ることのならぬ身か、ああ情ない恨めしい、天道様が恨めしい、たっとい上人様のお慈悲は充分わかっていて露ばかりもありがとうなくは思わぬが、ああどうにもこうにもならぬことじゃ、相手は恩のある源太親方、それに恨みの向けようもなし、どうしてもこうしても温順すなお此方こちの身を退くよりほかに思案も何もないか、ああないか、というて今さら残念な、なまじこのようなことおもいたたずに、のっそりだけで済ましていたらばこのように残念な苦悩おもいもすまいものを、分際忘れたおれが悪かった、ああ我が悪い、我が悪い、けれども、ええ、けれども、ええ、思うまい思うまい、十兵衛がのっそりで浮世の怜悧りこうな人たち

の物笑いになってしまえばそれで済むのだ。連れ添う女房にまでも内々気働きの利かない夫だとかこつけられながら、夢のように生きて夢のように死んでしまえばそれで済むこと。諦めて見れば情けない、つくづく世間がつまらない、あんまり世間が酷すぎる、と思うのもやっぱり愚痴か。愚痴か知らないけれど情なすぎるが、言わず語らず諭された上人様のあのお言葉の誠のところを味わえば、あくまでお慈悲の深いのが五臓六腑に浸み透って、未練な愚痴の出端もないわけ。争う二人をどちらにも傷つかないよう裁きたまい、末の末までともによかれと兄弟の子に事寄せて尊いお経を解きほぐして、噛んで含めてくださったあのお話に比べて見れば、もとより我は弟の身、ひとしお

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の物笑いになってしまえばそれで済むのじゃ、連れ添う女房かかにまでも内々活用はたらきの利かぬ夫じゃとかこたれながら、夢のように生きて夢のように死んでしまえばそれで済むこと、あきらめて見れば情ない、つくづく世間がつまらない、あんまり世間がむご過ぎる、と思うのもやっぱり愚痴か、愚痴か知らねど情な過ぎるが、言わず語らず諭された上人様のあのお言葉の真実まことのところを味わえば、あくまでお慈悲の深いのが五臓六腑に浸み透って未練な愚痴の出端もないわけ、争う二人をどちらにも傷つかぬようさばきたまい、末の末までともによかれと兄弟の子に事寄せてとうといお経を解きほぐして、んで含めて下さったあのお話に比べて見ればもとより我はおととの身、ひとしお

他の人に譲らなければ人間らしくもないものになる。ああ弟とは辛いものだと、道も見分けられず心配そうな目は涙で曇りながら、とぼとぼとして何一つ楽しみもない我が家の方に、糸で引かれる人形のように我を忘れて歩いていく途中、「この馬鹿野郎め、俺がせっかく洗ったものに何をする、馬鹿め」とだしぬけに噛みつくように怒鳴られ、甲高い声に肝を冷やしてハッと思えばがらりと転倒し、手桶を枕に立てかけてあった張り板に我知らず一足二足踏みかけて踏み倒してしまった格好の悪さ。

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ひとに譲らねば人間ひとらしくもないものになる、ああ弟とは辛いものじゃと、みちも見分かで屈托のまなこなんだに曇りつつ、とぼとぼとして何一ツ愉快たのしみもなきわが家の方に、糸でかるる木偶でくのように我を忘れて行く途中、この馬鹿野郎発狂漢きちがいめ、ひとのせっかく洗ったものに何する、馬鹿めとだしぬけにみつくごとくののしられ、癇張声かんばりごえに胆を冷やしてハッと思えばぐゎらり顛倒てんどう手桶ておけ枕に立てかけありし張物板に、我知らず一足二足踏みかけて踏みかえしたる不体裁ざまのなさ。

尻もちをついてびっくりするところを、「狐につかれたやつ、忌々しい」と怪力だけは近江のお兼(おかね)のよう、顔は子どもの福笑いで目を付け歪めたお多福面のような房州出の下働きの女の怒り、拳を振り上げてどんと打ち、長い腕を伸ばして突き飛ばせば、十兵衛は堪らず埃にまみれ、「はいはい、狐にだまされました、ご免なさい」と言いながら悪口雑言を聞き捨てに痛さを忍んで逃げ走り、ようやく我が家に帰りつけば、「おお、お帰りか、遅いのでどういうことかと案じていました、まあ埃だらけになってどうなされました」と払いにかかるのを、「構うな」と一言気のなさそうな声で打ち消した。

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尻餅しりもちついて驚くところを、狐憑きつねつきめ忌々いまいましい、と駄力だぢからばかりは近江おうみのおかね、顔は子供の福笑戯ふくわらいに眼をつけゆがめた多福面おかめのごとき房州出らしき下婢おさんの憤怒、こぶしを挙げて丁と打ち猿臂えんぴを伸ばして突き飛ばせば、十兵衛たまらず汚塵ほこりまみれ、はいはい、狐につままれました御免なされ、と云いながら悪口雑言聞き捨てに痛さを忍びて逃げ走り、ようやくわが家に帰りつけば、おおお帰りか、遅いのでどういうことかと案じていました、まあ塵埃ほこりまぶれになってどうなされました、と払いにかかるを、構うなと一言、気のなさそうな声で打ち消す。

その顔をのぞき込む女房の本当に心配そうな様子を見て、何か知らず無性に悲しくなってじっと潤みのさしてくる目。自分で自分を叱るように「ええ」と思いがけず声を出し、煙草を捻って何気なくもてなすことはもてなすものの言葉もなかった。

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その顔を覗き込む女房にょうぼの真実心配そうなを見て、何か知らず無性に悲しくなってじっと湿うるみのさしくるまなこ、自分で自分を叱るように、ええと図らず声を出し、煙草をひねって何気なくもてなすことはもてなすものの言葉もなし。

普段とは違う様子を大方それとわかって、なんとも慰める方法もなく、聞いたほうがよいやら聞かないほうがよいやら心にかかる今日の結果も、口には出して尋ねられない女房は胸を痛めつつ、その一本は杉箸で辛くも用を足す火箸で挟んで添える消炭の、あわれ甲斐なき火力をたよりに土瓶のお茶を温めているところへ、遊びに出ていた猪之が戻ってきて、「やあ、父様帰ってきたな、父様も建てるか、坊も建てたぞ、これを見てくれ」とさも勇ましく障子を開けて褒められたいのが一杯に罪なくにこりと笑いながら、指さして示す塔の模型。

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平時つねに変れる状態ありさまを大方それと推察すいしてさて慰むる便すべもなく、問うてよきやら問わぬがよきやら心にかかる今日の首尾をも、口には出して尋ね得ぬ女房は胸を痛めつつ、その一本は杉箸すぎばしで辛くも用を足す火箸に挾んで添える消炭の、あわれ甲斐なき火力ちからを頼り土瓶どびんの茶をばぬくむるところへ、遊びに出たる猪之の戻りて、やあ父様帰って来たな、父様も建てるか坊も建てたぞ、これ見てくれ、とさも勇ましく障子を明けてめられたさが一杯に罪なくにこりと笑いながら、指さし示す塔の模形まねかた

母は襦袢の袖を噛んで声も立てられず泣き出せば、十兵衛は涙に浮かぶほどの大きな丸い目をむき出し、まばたきもせでぐいと睨んでいたが、「おお、よくやった、よくできた、褒美をやろう、ハッハハハ」と咽びながら笑う声を高く屋の棟まで響かせたが、そのまま頭を天に向かわせ、「ああ、弟とは辛いなあ」。

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母は襦袢じゅばんの袖を噛み声も得たてず泣き出せば、十兵衛涙に浮くばかりのつぶらまなこいだし、まじろぎもせでぐいとめしが、おおでかしたでかした、よくできた、褒美ほうびをやろう、ハッハハハとむせび笑いの声高く屋のむねにまで響かせしが、そのままこうべを天にむかわし、ああ、弟とは辛いなあ。

その十一

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其十一

格子戸を開ける響きがさわやかなこと普段のごとく、「お吉、今帰った」と元気よく上ってくる夫の声を聞くより、心配を輪に吹き吸っていた煙管を邪見に放り出して忙しく立ち迎え、「大層遅かったではないか」と言いながら後ろに廻って羽織を脱がせ、立ちながらあごに手伝わせての袖たたみを手早く部屋の隅にそのままさし置き、火鉢のそばへすぐまた戻ってたちまち鉄瓶に松虫の音を立て、ぐっと大胡坐をかいて座っている男の顔をちょっと見るやいなや、「日は暖かでも風が冷たく途中は随分冷えましたろ、一瓶お燗をつけましょうか」と痒いところへよく届かす手は口をきくその間に、がたぴしさせずにご飯の用意をし、三輪漬けは柚の香がゆかしく、大根おろしで食わせる鮭の卵は、さりげなくして気が利

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格子こうし開くる響きさわやかなること常のごとく、お吉、今帰った、と元気よげに上り来たる夫の声を聞くより、心配を輪に吹き吹き吸うていし煙草管きせるを邪見至極にほうり出して忙わしく立ち迎え、大層遅かったではないか、と云いつつ背面うしろへ廻って羽織を脱がせ、立ちながらあごに手伝わせての袖畳み小早く室隅すみの方にそのままさし置き、火鉢のそばへすぐまたもどってたちまち鉄瓶に松虫のおこさせ、むずと大胡坐おおあぐらかき込み居る男の顔をちょっと見しなに、日は暖かでも風が冷たく途中は随分ひえましたろ、一瓶ひとつ煖酒つけましょか、とかゆいところへよく届かす手は口をきくそのひまに、がたぴしさせずぜんごしらえ、三輪漬はの香ゆかしく、大根卸おろしで食わする鮏卵はららごは無造作にして気が利

いていた。

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きたり。

源太は胸には悩みがあれどいくらかこれに慰められて、猪口を取るや否や二三杯、後一杯をゆるく飲んで、「お前も飲めよ」と与えれば、お吉は一口、つけて、置き、焼きかけの海苔を畳み折って、「そのうち三子が来そうなもの」と魚屋の名を独りごちながら、猪口を返して酌をした後、上々吉と腹に思えば動かす舌も滑らかに、「それはそうと今日の首尾は、大丈夫こちらのものとは決まっていても、知らせてくださらないうちは余計な苦労を私はします。お上人様は何とおっしゃいましたか、またのっそりめはどうなりましたか。そう真面目顔でむっつりとしていられては心配で心配でなりません」と言われて源太は高笑い。

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源太胸には苦慮おもいあれども幾らかこれに慰められて、猪口ちょくりさまに二三杯、後一杯をゆるく飲んで、きさまれと与うれば、お吉一口、つけて、置き、焼きかけの海苔のり畳み折って、追っつけ三子の来そうなもの、と魚屋の名をひとごとしつ、猪口を返してしゃくせし後、上々吉と腹に思えば動かす舌もなめらかに、それはそうと今日の首尾は、大丈夫此方こちのものとはめていても、知らせて下さらぬうちは無益むだな苦労をわたしはします、お上人様は何と仰せか、またのっそりめはどうなったか、そう真面目顔でむっつりとして居られては心配で心配でなりませぬ、と云われて源太は高笑い。

「案じてもらうことはない、お慈悲の深い上人様はどの道、俺をいい男にしてくださるのよ、ハハハ。なあ、お吉。弟を可愛がれば良い兄貴ではないか。腹の減ったものには自分が少しは辛くても飯を分けてやらなければならない場合もある。他の人が怖いことは一厘もないが、強いばかりが男じゃないんだな。ハハハ。じっと我慢して無理に弱くなるのも男だ、ああ立派な男だ。五重塔は名誉の仕事、ただ俺一人でものの見事に千年も壊れない名物を万人の目に残したいが、他の手も知恵も寸分混ぜず川越の源太が腕だけで遺したいが、ああかんしゃくを我慢するのが、ええ、男だ、男だ、なるほどいい男だ。上人様に嘘はない、せっかく望みをかけた仕事を半分他にあげるのはつくづく

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案じてもらうことはない、お慈悲の深い上人様はどの道おれ好漢いいおとこにして下さるのよ、ハハハ、なあお吉、弟を可愛がればいい兄きではないか、腹のったものには自分が少しは辛くても飯を分けてやらねばならぬ場合もある、ひとこわいことは一厘ないが強いばかりが男児おとこではないなあ、ハハハ、じっと堪忍がまんして無理に弱くなるのも男児だ、ああ立派な男児だ、五重塔は名誉の工事しごと、ただおれ一人でものの見事に千年こわれぬ名物を万人の眼に残したいが、他の手も知恵も寸分交ぜず川越の源太が手腕うでだけでのこしたいが、ああ癇癪かんしゃくを堪忍するのが、ええ、男児だ、男児だ、なるほどいい男児だ、上人様に虚言うそはない、せっかく望みをかけた工事を半分他にくれるのはつくづく

忌々しいけれど、ああ辛いが、ええ兄貴だ、ハハハ。お吉、俺はのっそりに半口やって二人で塔を建てようと思うわ。立派な弱い男だろうか。褒めてくれ褒めてくれ、お前にでも褒めてもらわなくてはあまり張り合いのない話だ、ハハハ」と嬉しそうな顔もせずに意味のない声ばかりはずませて笑えば、お吉は夫の気をはかりかね、「上人様が何とおっしゃったか知らないが私にはさっぱり分からず少しも面白くない話。唐変木のあののっそりめに半口やるとはどういうわけ、日頃の気性にも似合わない。やるものならば未練気なしにすっかりやってしまうのがよいし、もとよりこちらで取るはずなのだから、要りもしない助太刀を頼んで、一人の首を二人で切るような卑劣なことをするにも当

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忌々いまいましけれど、ああ、辛いが、ええ兄きだ、ハハハ、お吉、我はのっそりに半口やって二人で塔を建てようとおもうわ、立派な弱い男児か、めてくれ賞めてくれ、きさまにでも賞めてもらわなくてはあまり張合いのない話しだ、ハハハと嬉しそうな顔もせで意味のない声ばかりはずませて笑えば、お吉は夫の気をはかりかね、上人様が何とおっしゃったか知らぬがわたしにはさっぱり分らずちっとも面白くない話し、唐偏朴とうへんぼくのあののっそりめに半口やるとはどういうわけ、日ごろの気性にも似合わない、やるものならば未練気なしにすっかりやってしまうが好いし、もとより此方こちで取るはずなればりもせぬ助太刀頼んで、一人の首を二人で切るような卑劣けちなことをするにも当

たらないではありませんか。冷水で洗ったようなきれいな腹を持っていると他にも言われ自分でもいつも言っていたお前が、今日に限って何という煮え切れない判断、女の私から見ても意地の足りないぐずぐず思案。褒めません褒めません、どうしてなかなか褒められません。高が相手はこちらの恩を受けているのっそりめ、本来ならばこちらの仕事に先回りするとんでもない奴と高飛車に叱りつけて、ぐうの音も出させないようにすればいいのっそりめを、そう甘やかして胸の焼ける連名仕事をなんでするに当たるはずがあろうぞ。甘いばかりが立派なことか、弱いばかりが良い男か。私の虫には受け取れません。なんなら私が一走りのっそりめのところに行って、『重々恐れ入りました』と思

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らないではありませぬか、冷水ひやみずで洗ったような清潔きれいな腹をもって居ると他にも云われ自分でも常々云うていたおまえが、今日に限って何という煮えきれない分別、女の妾から見ても意地の足らないぐずぐず思案、賞めませぬ賞めませぬ、どうしてなかなか賞められませぬ、高が相手は此方こちの恩を受けて居るのっそりめ、一体ならば此方こちの仕事を先潜さきくぐりする太い奴と高飛車に叱りつけて、ぐうの音も出させぬようにすればなるのっそりめを、そう甘やかして胸の焼ける連名工事れんみょうしごとをなんでするに当るはずのあろうぞ、甘いばかりが立派のことか、弱いばかりが好い男児か、妾の虫には受け取れませぬ、なんなら妾が一走りのっそりめのところに行って、重々恐れ入りましたと思

い切らせて謝らせて両手をつかせてきましょうか」と女ながらよく気を働かせて夫を思う。

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い切らせて謝罪あやまらせて両手を突かせて来ましょうか、と女さかしき夫思い。

源太は聞いて冷笑い、「何が、お前にわかるものか。俺のすることを好いと思っていてさえくれればそれでよいのよ」。

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源太は聞いて冷笑あざわらい、何が汝にわかるものか、我のすることを好いとおもうていてさえくるればそれでよいのよ。

その十二

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其十二

色も香もなく一言で黙っていろとやり込められて、聞かぬ気のお吉は顔を振り上げて何か言い出したそうだったが、自分よりは一倍意地っ張りの夫が制するものを、押し返してどれほど言っても機嫌を損なうことこそあれ、口答えの甲斐は少しもないのを経験として知っていれば、連れ添うものに心の奥を語り明かして相談をかけない夫を恨めしく思いながら、そこは賢い女の判断で、「何も私が遮って女の癖に余計な口を出すわけではないが、つい気にかかる仕事の話なので思わず様子を聞きたくて、余計なことも胸が狭いだけにしゃべったわけ」と自分が誠を込めた言葉をわざとごくごく軽くしてしまって、どこまでも夫の考えに従うよう表面を整えているのも、いくらか夫の腹の底にある

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色も香もなく一言に黙っていよとやり込められて、かぬ気のお吉顔ふり上げ何か云い出したげなりしが、自己おのれよりは一倍きかぬ気の夫の制するものを、押し返して何ほど云うとも機嫌きげんを損ずることこそはあれ、口答えの甲斐かいは露なきを経験おぼえあって知り居れば、連れ添うものに心の奥を語り明かして相談かけざる夫を恨めしくはおもいながら、そこは怜悧りこうの女の分別早く、何も妾がさえぎって女の癖に要らざるくちを出すではなけれど、つい気にかかる仕事の話しゆえ思わず様子の聞きたくて、よけいなことも胸の狭いだけに饒舌しゃべったわけ、と自分が真実めし言葉をわざとごくごく軽うしてしもうて、どこまでも夫の分別に従うよう表面うわべを粧うも、幾らか夫の腹の底にある

もやもやを取り除いてあげたさよりの誠だった。

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煩悶もしゃくしゃいでやりたさよりの真実まこと

源太もこれに角張りかけた顔をやわらげ、「何ごとも皆、巡り合わせだ。こちらの了見さえすなおに優しく持っていたら、また良いことの廻ってこようと、こう思ってみればのっそりに半口やるのもかえって良い心持ち。世間は気次第で忌々しくも面白くもなるものだから、できるだけ卑劣な錆を根性につけずさっぱりと世をきれいに渡りさえすればそれで良いわ」と言いさしてぐいと飲み干し、後は芝居の噂やら弟子どもの行状の噂、まことに罪のない雑談を肴に酒も過ぎない程度に心よく飲んで、下品な格好ではあれど膳を囲んで仲むつまじく飯を食べ終わり、大方もう十兵衛がきそうなものと何事もせず待ちかくるに、時は空しく過ぎて障子の日影が一尺動いてもまだ見えず、二尺も移ってもまだ見えず。

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源太もこれに角張りかかった顔をやわらげ、何ごとも皆天運まわりあわせじゃ、此方こちの了見さえ温順すなおやさしくもっていたならまた好いことの廻って来ようと、こうおもって見ればのっそりに半口やるもかえって好い心持、世間は気次第で忌々いまいましくも面白くもなるものゆえ、できるだけは卑劣けちさびを根性に着けず瀟洒あっさりと世を奇麗に渡りさえすればそれで好いわ、と云いさしてぐいと仰飲あおぎ、後は芝居の噂やら弟子どもが行状みもちの噂、真に罪なき雑話を下物さかなに酒も過ぎぬほど心よく飲んで、下卑げび体裁さまではあれどとりむつまじく飯を喫了おわり、多方おおかたもう十兵衛が来そうなものと何事もせず待ちかくるに、時はむなしく経過たって障子の日晷ひかげ一尺動けどなお見えず、二尺も移れどなお見えず。

是非相手のほうから頭を低くして身を縮めてこちらへ相談に来て、「何とぞ半分なりと仕事を分けてください」と、今日の上人様のお慈悲深いお言葉をたよりに泣きついても頼みをかけるべきなのに、どうしてこう遅いのか。諦めて望みを捨て、もはや相談にも及ばずとして独り我が家にくすぶっているのか。それとも今度はこちらから行くのを待っているのか。もしもこちらの行くのを待っているということならばあまり増長した考えだが、まさかそのような高慢な気持ちは出さないだろう。例ののっそりでのんびり構えているだけのことだろうが、さても気の長い男め、うっかりにもほどがあれと、煙草ばかりいたずらに吸って、待つには短い日も随分長くなってきたが、それさえ暮れて群れ烏が塒に帰るころとなれば、さすが

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是非先方むこうよりかしらを低くし身をすぼめて此方こちへ相談に来たり、何とぞ半分なりと仕事をわけて下されと、今日の上人様のお慈愛なさけ深きお言葉を頼りに泣きついても頼みをかけべきに、何としてこうは遅きや、思いあきらめて望みを捨て、もはや相談にも及ばずとて独りわが家にくすぼり居るか、それともまた此方より行くを待って居るか、もしも此方の行くを待って居るということならばあまり増長した了見なれど、まさかにそのような高慢気もいだすまじ、例ののっそりで悠長ゆうちょうに構えて居るだけのことならんが、さても気の長い男め迂濶うかつにもほどのあれと、煙草ばかりいたずらにかしいて、待つには短き日も随分長かりしに、それさえ暮れて群烏むらがらすねぐらに帰るころとなれば、さすが

に心面白からず、ようやくかんしゃくが起り始めて耐えきれなくなってきた頃合い、用意された夕飯の膳に向かうとそのまま言い訳ばかりに箸をつけて、お茶さえゆっくりとは飲まず、「お吉、十兵衛めのところにちょっと行ってくる。行き違いになって留守に来たら待たせておけ」と言う言葉さえとげとげしく怒りを含んで立ち出でかかれば、気にはかかれどどうしようもなく、女房は送り出した後にただため息をするのみだった。

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に心おもしろからずようやく癇癪の起り起りてこらえきれずなりし潮先、えられし晩食ゆうめしの膳にむかうとそのまま云いわけばかりに箸をつけて茶さえゆるりとは飲まず、お吉、十兵衛めがところにちょっと行て来る、行違いになって不在るすば待たしておけ、と云う言葉さえとげとげしく怒りを含んで立ち出でかかれば、気にはかかれど何とせん方もなく、女房は送って出したる後にて、ただ溜息ためいきをするのみなり。

その十三

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其十三

開けにくい雨戸に一段とかんしゃくの火の手を昂らせながら、力まかせにがちがちと引き退け、「十兵衛、家にいるか」と言うや否やつと入れば、声の調子を知ったお浪は早くもそれとさとって、恩ある人が今は向こう側に立っている十兵衛に連れ添う身として顔を合わすことが辛く、女気のかよわさに胸をどきつかせながら「まあ、親方様」とただ一言、我知らず言い出したきり挨拶さえあわてて急には次の言葉が出ないうちに、すすけた紙に針の穴、油染みなどが多い行燈の影にしょんぼりと座り込んでいる十兵衛を見かけて、源太がずっと通られ、あわてて火鉢の前に案内する機転の遅さも、正直なだけで世のことを呑み込まない姿なのだろう。

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渋ってきかぬる雨戸にひとしお源太は癇癪の火の手をたかぶらせつつ、力まかせにがちがち引き退け、十兵衛うちにか、と云いさまにつとはいれば、声色こわいろ知ったるおなみ早くもそれと悟って、恩あるその人のむこうに今は立ち居る十兵衛に連れ添える身のおもてあわすこと辛く、女気の繊弱かよわくも胸をどきつかせながら、まあ親方様、とただ一言我知らず云い出したるぎり挨拶あいさつさえどぎまぎして急には二の句の出ざるうち、すすけし紙に針のあな、油染みなんど多き行燈あんどん小蔭こかげ悄然しょんぼりと坐り込める十兵衛を見かけて源太にずっと通られ、あわてて火鉢の前にしょうずる機転の遅鈍まずきも、正直ばかりで世態知悉のみこまぬ姿なるべし。

十兵衛は不束に一礼して重々しく口を開き、「明日の朝まいろうと思っておりました」と言えば、じろりとその顔を下目で睨み、わざと落ち着いた源太は「おお、そういうお前のつもりであったか。こちらは例の気が短いので今しがたまで待っていたが、いつになってお前がくるかわからないとして出かけてきただけ馬鹿だったか、ハハハ。しかし十兵衛、お前は今日の上人様のあのお言葉をどう聞いたか。二人でよくよく相談して来よとおっしゃった揚句に長者の二人の子のお話、それでわざわざ相談に来たが、お前も大抵考えはもう決めているだろう。俺も随分虫持ちだが、悟ってみればあのたとえの通り、争い合うのはお互いにつまらないこと。まんざら敵同士でもないのに身勝手ば

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十兵衛は不束ふつつかに一礼して重げに口を開き、明日の朝参上あがろうとおもうておりました、といえばじろりとその顔下眼ににらみ、わざと泰然おちつきたる源太、おお、そういう其方そちのつもりであったか、こっちは例の気短ゆえ今しがたまで待っていたが、いつになってそなたの来るか知れたことではないとして出かけて来ただけ馬鹿であったか、ハハハ、しかし十兵衛、汝は今日の上人様のあのお言葉をなんと聞いたか、両人ふたりでよくよく相談して来よと云われた揚句に長者の二人の児のお話し、それでわざわざ相談に来たが汝も大抵分別はもうめて居るであろう、おれも随分虫持ちだが悟って見ればあの譬諭たとえの通り、とがりあうのは互いにつまらぬこと、まんざらかたき同士でもないに身勝手ば

かりは俺も言わない。つまりは和解した結論のところが欲しいから、俺の欲は十分折って砕いて思案を凝らしてきたが、なおお前の考えも腹蔵のないところを聞きたく、その上にまたどうともしようと。俺も男ならば汚い策略は腹には持たない、本当にこう思ってきたわ」と言葉をしばし止めて十兵衛の顔を見るに、うつむいたままただ「はい、はい」と答えるのみで、乱れた髪の中に五六本の白髪がまたたく灯火の光を受けてちらりちらりと見えるばかり。

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かりは我も云わぬ、つまりは和熟した決定けつじょうのところが欲しいゆえに、我欲は充分折ってくだいて思案を凝らして来たものの、なお汝の了見も腹蔵のないところを聞きたく、その上にまたどうともしようと、我も男児おとこなりゃきたな謀計たくみを腹には持たぬ、真実ほんとにこうおもうて来たわ、と言葉をしばしとどめて十兵衛が顔を見るに、俯伏うつむいたままただはい、はいと答うるのみにて、乱鬢らんびんうちに五六本の白髪しらがまたた燈火あかりの光を受けてちらりちらりと見ゆるばかり。

お浪はもう寝ていた猪之助が枕の方につい座って、息さえしないようにこれもまた静まり返っている寂しさだった。

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お浪ははや寝しすけが枕の方につい坐って、呼吸いきさえせぬようこれもまた静まりかえり居るさびしさ。

かえって遠くで売り歩く鍋焼きうどんの呼び声が、かすかに外から家の中に染み込んでくるほどのしんとした静けさだった。

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かえって遠くに売りあるく鍋焼饂飩うどんの呼び声の、かすかに外方そとよりうちに浸みこみ来たるほどなりけり。

源太はいよいよ気を静め、語気を穏やかにして話し出すには、「まあ遠慮もなく体裁もつくらずに俺の方から打ち明けよう。なんだ十兵衛、こうしてはくれないか。せっかくお前も望みをかけ、天晴れ名誉の仕事をして持った腕の光を現し、欲得ではない職人の本望を見事に遂げて、末代に十兵衛という男の意匠ぶり細工ぶりを見て知れと残すつもりだろうが、察しもつこう。俺とてもそれは同じことで、さらにあるべき普請ではなし、取りはぐっては一生に又出逢うことはおぼつかないのだから、源太は源太で俺が意匠ぶり細工ぶりをぜひ遺したいのは、理屈を自分のためにつけて言えば俺はまあ感応寺の出入り、お前は何の縁もないことになる。俺は先口、お前は後。俺は頼まれて

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源太はいよいよ気を静め、語気なだらかに説きいだすは、まあ遠慮もなく外見みえもつくらず我の方から打ち明けようが、なんと十兵衛こうしてはくれぬか、せっかく汝も望みをかけ天晴あっぱれ名誉の仕事をして持ったる腕の光をあらわし、欲徳ではない職人の本望を見事に遂げて、末代に十兵衛という男が意匠おもいつきぶり細工ぶりこれて知れと残そうつもりであろうが、察しもつこう我とてもそれは同じこと、さらにあるべき普請ではなし、取りはぐっては一生にまた出逢うことはおぼつかないなれば、源太は源太で我が意匠ぶり細工ぶりを是非のこしたいは、理屈を自分のためにつけて云えば我はまあ感応寺の出入り、汝はなんのゆかりもないなり、我は先口、汝は後なり、我は頼まれて

設計まで済ませたのにお前は頼まれてはいない。他の口から言えばまた俺は受け負っても相応で、お前の身柄では不相応と誰もが難を言うだろう。だとて俺が今理屈を味方にするわけでもない。世間を味方にするわけでもない。お前の腕があるのに不幸せでいるということも知っている。お前が普段から不運を口には出さないが、腹の底ではどのくらい泣いているということも知っている。俺をお前の身にしては我慢のできないほど悲しい一生だということも知っている。それゆえにこそ去年一昨年、何にもならないことではあるが、まあできるだけの世話はしたつもり。しかし恩に着せると思ってくれるな。上人様だって、お前のきれいな腹の中をお見通しになったればこそ、お前の不運を気の毒と思われたればこそ今日

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設計つもりまでしたに汝は頼まれはせず、ひとの口から云うたらばまた我は受け負うても相応、汝が身柄がらでは不相応と誰しも難をするであろう、だとて我が今理屈を味方にするでもない、世間を味方にするでもない、汝が手腕うでのありながら不幸せで居るというも知って居る、汝が平素ふだん薄命ふしあわせを口へこそ出さね、腹の底ではどのくらい泣いて居るというも知って居る、我を汝の身にしては堪忍がまんのできぬほど悲しい一生というも知って居る、それゆえにこそ去年一昨年おととしなんにもならぬことではあるが、まあできるだけの世話はしたつもり、しかし恩にせるとおもうてくれるな、上人様だとて汝の清潔きれいな腹の中をお洞察みとおしになったればこそ、汝の薄命ふしあわせを気の毒とおもわれたればこそ今日

のようなお諭し。俺もお前が欲かなんぞで向こうに廻る奴ならば、俺の仕事に邪魔を入れる生意気な死に節野郎と一釿(ひとちょうな)で脳天を打ち欠かずにはおかないが、つくづくお前の身を察せればいっそ仕事もくれたいような気のするほど。といって俺も欲は捨てきれない、仕事は本当にどうあってもしたいわ。そこで十兵衛、聞いてももらいにくく言っても退けにくい相談だが、まあこうじゃ。堪忍して承知してくれ。五重塔は二人で建てよう。俺を主にしてお前が不足であろうが副になって力を貸してはくれないか。不足であろうが、まあ嫌でも源太が頼む、聞いてはくれないか。頼む頼む、頼むのじゃ。黙っているのは聞いてくれないのか。お浪さんも俺の言うことがわかったなら

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のようなお諭し、我も汝が欲かなんぞで対岸むこうにまわる奴ならば、ひとの仕事に邪魔を入れる猪口才ちょこざい死節野郎しにぶしやろう一釿ひとちょうなに脳天っ欠かずにはおかぬが、つくづく汝の身を察すればいっそ仕事もくれたいような気のするほど、というておれも欲は捨てれぬ、仕事は真実どうあってもしたいわ、そこで十兵衛、聞いてももらいにくく云うても退けにくい相談じゃが、まあこうじゃ、堪忍して承知してくれ、五重塔は二人で建ちょう、我を主にして汝不足でもあろうがそえになって力を仮してはくれまいか、不足ではあろうが、まあ厭でもあろうが源太が頼む、聴いてはくれまいか、頼む頼む、頼むのじゃ、黙って居るのは聴いてくれぬか、お浪さんもわしの云うことのわかったなら

どうぞ口を添えて聞いてもらっては下さらないか」とあっさりと涙になっていった女房にまで頼めば、「お、お、親方様、ええ、ありがとうございます、どこにこのような御親切の相談をかけてくださる方がまたあろうか。なぜお礼を言われないか」と左の袖は露時雨に涙で重くしながら、夫の膝を右の手で揺り動かしつかきくどけど、先ほどから無言の仏となっていた十兵衛は何とも言わず、再度三度かきくどいても黙ってなお言わなかったが、やがて垂れていた頭を持ち上げ、「どうも十兵衛、それは嫌でございます」と無愛想に放つ一言に、胸をつかれて驚く女房だった。

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どうぞ口をえて聴いてもらっては下さらぬか、ともろくも涙になりいる女房にまで頼めば、お、お、親方様、ええありがとうござりまする、どこにこのような御親切の相談かけて下さる方のまたあろうか、なぜお礼をば云われぬか、と左の袖は露時雨つゆしぐれ、涙に重くなしながら、夫の膝を右の手で揺り動かしつ口説くどけど、先刻さきより無言の仏となりし十兵衛何ともなお言わず、再度ふたたび三度かきくどけど黙黙むっくりとしてなお言わざりしが、やがてれたるこうべもたげ、どうも十兵衛それは厭でござりまする、と無愛想に放つ一言、吐胸とむねをついて驚く女房。

「なんと」と一声激しく鋭く、首を二、三センチほど反らし、目に角を立てて、のっそりをまともから見下ろす源太だった。

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なんと、と一声はげしく鋭く、頸首くびぼね反らす一二寸、眼に角たててのっそりをまっ向よりして瞰下みおろす源太。

その十四

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其十四

人情の花も失くさず義理の幹もしっかり立てて、普通の人にはできないほどの親切な相談を、一方ならぬ誠があればこそ源太がかけてくれたのに、どのように切って投げ出したような性質がさせる返答だとしても、十兵衛が「嫌でございます」とはあまりにひどい挨拶で、他の人の情けがまるでわからない土人形でもこうは言わないだろうに、さりとては恨めしいほど義理知らずな、口惜しいほど無分別な。どうすればそのように無茶な夫の考えかと、お浪はあきれもし驚きもし、我が身の急に絞木にかけて絞られるような心地がして、思わずに夫にすり寄り、「それはまあ何ということ。親方様があれほどにあなたとこちらのためを計って、見る影もないこちら連れ、言えば一足で蹴落としてお

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人情の花もくさず義理の幹もしっかり立てて、普通なみのものにはできざるべき親切の相談を、一方ならぬ実意じつのあればこそ源太のかけてくれしに、いかにってげ出したような性質もちまえがさする返答なればとて、十兵衛厭でござりまするとはあまりなる挨拶あいさつひと情愛なさけのまるでわからぬ土人形でもこうは云うまじきを、さりとては恨めしいほど没義道もぎどうな、口惜しいほど無分別な、どうすればそのように無茶なる夫の了見と、お浪はあきれもし驚きもしわが身の急に絞木しめぎにかけて絞めらるるごとき心地のして、思わず知らず夫にすり寄り、それはまあなんということ、親方様があれほどにあなたこなたのためを計って、見るかげもないこの方連れ、云わば一足に蹴落しておし

しまいにもなさることもなさらないでできるこちら連れに、大抵ではないお情けをかけてくださり、御自分一人でなさりたい仕事を分けてあげようと半口乗せてくださろうと、身に染みるほどありがたい御親切の御相談。しかもお呼びつけにでもなってのことか、座布団さえ上げることのできないこのようなところへわざわざおいでになってのお話。それを無にしてもったいない、十兵衛が嫌でございますとはとんでもない我がまま勝手。親方様の御親切の分からないはずはなかろうに、胴欲なも無遠慮なも大抵は程度があったもの。これ、この私が今着ているのも去年の冬の取りつきに袷姿の寒げなのを気の毒がられてお吉様の、縫い直して着なさいと下さったのとはお前の目には映らないか。一方ならぬ御恩を受

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まいなさるることもなさらばできるこの方連れに、大抵ではないお情をかけて下され、御自分一人でなさりたい仕事をも分けてやろう半口乗せてくりょうと、身に浸みるほどありがたい御親切の御相談、しかもお招喚よびつけにでもなってでのことか、坐蒲団ざぶとんさえあげることのならぬこのようなところへわざわざおいでになってのお話し、それを無にしてもったいない、十兵衛厭でござりまするとは冥利みょうりの尽きた我儘わがまま勝手、親方様の御親切の分らぬはずはなかろうに胴欲なも無遠慮なも大方程度ほどあいのあったもの、これこのわたしの今着て居るのも去年の冬の取りつきに袷姿あわせすがたの寒げなを気の毒がられてお吉様の、縫直なおして着よと下されたのとはおまえの眼にはうつらぬか、一方ならぬ御恩を受

けていながら親方様の向こうへ廻るさえあるのに、それを「生意気な」とも「恩知らず」ともおっしゃらず、どこまでも弱い者をかばってくださるお情け深い御分別にも頼り縋らないで、一概に嫌じゃとは、たとえば本心から嫌にせよ、記憶のある人間の口から出せた言葉でございますか。親方様の手前、お吉様のお気持ちをよくとっくりと考えてみてください。私はもはやこれから先、どの顔を下げてあつかましくお吉様の御眼にかかることができますか。親方様はお胸が広くて、ああ十兵衛夫婦はわけのわからない愚か者だから是も非もないと、そのまま何ともお思いにならずただ打ち捨ててくださるかもしれないが、世間はあなたを何と言うでしょう。恩知らずめ、義理知らずめ、人情のわからない畜生め。あれは犬だ鴉

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けていながら親方様の対岸むこうへ廻るさえあるに、それを小癪こしゃくなとも恩知らずなともおっしゃらず、どこまでも弱い者を愛護かぼうて下さるお仁慈なさけ深い御分別にもすがらいで一概に厭じゃとは、たとえば真底から厭にせよ記臆ものおぼえのある人間ひとの口から出せた言葉でござりまするか、親方様の手前お吉様の所思おもわくをもよくとっくりと考えて見て下され、妾はもはやこれから先どの顔さげてあつかましくお吉様のお眼にかかることのなるものぞ、親方様はお胸の広うて、ああ十兵衛夫婦はわけの分らぬ愚か者なりゃ是も非もないと、そのまま何ともおぼしめされずただ打ち捨てて下さるか知らねど、世間は汝を何と云おう、恩知らずめ義理知らずめ、人情せぬ畜生め、あれは犬じゃ烏

だと万人の爪に弾かれる者となるのは必定。犬や鴉と身をなして仕事をしたとて何の手柄。欲をかくな、あくせくするなと常々私に諭した自分の言葉に対しても恥ずかしくはお思いにならないか。どうぞ素直に親方様の御意見についてください。天に聳える生雲塔(しょううんとう)は誰々二人で作ったと、親方様ともろともに肩を並べて世に称えられれば、あなたの苦労の甲斐も立ち、親方様のありがたいお志も知れる道理。私もどのように嬉しいか喜ばしいか。もしそうなれば不足というのは薬にも欲しくないはずなのに、あなたは天魔にたぶらかされてそれをまだまだ不足だと思われるのか。ああ情けない、私が言わずとも知れているあなた自身の身のほどを、身の分際を忘れているのか」と泣き声になりかきく

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じゃと万人の指甲つめはじかれものとなるは必定ひつじょう、犬や烏と身をなして仕事をしたとて何の功名てがら、欲をかわくな齷齪あくせくするなと常々妾にさとされた自分の言葉に対しても恥かしゅうはおもわれぬか、どうぞ柔順すなおに親方様の御異見について下さりませ、天にそびゆる生雲塔しょううんとうは誰々二人で作ったと、親方様ともろともに肩を並べて世にうたわるれば、汝の苦労の甲斐も立ち親方様のありがたいお芳志こころざしも知るる道理、妾もどのように嬉しかろか喜ばしかろか、もしそうなれば不足というは薬にしたくもないはずなるに、汝は天魔にみいられてそれをまだまだ不足じゃとおもわるるのか、ああ情ない、妾が云わずと知れている汝自身の身のほどを、身の分際を忘れてか、と泣き声になり掻き口

どく女房の頭は低く垂れて、髷に刺されていた縫い針の針穴にくわえた一本の糸がゆらゆらと震えているのにも千々に砕ける心の様子が知られてますますいたいたしいのに、目を閉じていた十兵衛はその時例のがらがら声を出し、「うるさいわ、お浪、黙っていろ。俺の話の邪魔になる。親方様、聞いてください」。

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説く女房のこうべは低く垂れて、まげにさされし縫針のめどくわえし一条ひとすじの糸ゆらゆらと振うにも、千々に砕くる心のさまの知られていとどいじらしきに、眼をふさぎいし十兵衛は、その時例の濁声だみごえ出し、やかましいわお浪、黙っていよ、おれの話しの邪魔になる、親方様聞いて下され。

その十五

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其十五

思いの中に激しているのか、じたじたと震え出す膝の頭をしっかりと寄せ合わせて、その上に両手を突っ張り、身を固くして十兵衛は、「情けない親方様、二人でしようとは情けない。十兵衛に半分仕事を譲ってくださろうとはお慈悲のようで情けない。嫌でございます、嫌でございます。塔を建てたいのはやまやまでもう十兵衛は諦めています。お上人様のお諭しを聞いてからの帰り道でさっぱりと思い諦めました。身のほどにもない考えを持ったのが間違い。ああ、私が馬鹿でございました。のっそりはどこまでものっそりで馬鹿にさえなっていればそれでよいわけ。溝板でもたたいて一生を終わりましょう。親方様、堪忍してください。私が悪い。塔を建てようとはもう申しません。見ず知

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思いのうちに激すればや、じたじたとふるい出すひざかしらをしっかと寄せ合わせて、その上に両手もろて突っ張り、身を固くして十兵衛は、情ない親方様、二人でしょうとは情ない、十兵衛に半分仕事を譲って下さりょうとはお慈悲のようで情ない、厭でござります、厭でござります、塔の建てたいは山々でももう十兵衛は断念あきらめておりまする、お上人様のお諭しを聞いてからの帰り道すっぱり思いあきらめました、身のほどにもない考えを持ったが間違い、ああ私が馬鹿でござりました、のっそりはどこまでものっそりで馬鹿にさえなって居ればそれでよいわけ、溝板どぶいたでもたたいて一生を終りましょう、親方様堪忍かにして下されわたしが悪い、塔を建ちょうとはもう申しませぬ、見ず知

らずの他の人ではなし、御恩になった親方様の、一人で立派に建てられるのをよそながら見て喜びましょう」と元気なげに言い出すのを、気が早い源太はゆっくりとは聞いておらず、ずいと身を進めて、「馬鹿を言え、十兵衛、あまり道理がわからなすぎる。上人様のお諭しはお前一人に聞けとおっしゃったのではない、俺の耳にも入れられたのは、お前の腹でも聞いたなら俺の胸でも受け取った。お前一人に重石を背負ってそう沈んでしまっては源太が男になれるかやい。つまらない思案に身を引いて馬鹿にさえなっていればよいとは、判断が本物過ぎてもっともとは言われまいぞ。おお、そうならば俺がすると得たりとばかりに引き受けては、上人様にも恥ずかしく、第一源太がせっかく磨いた侠気もそこで

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らずの他の人ではなし御恩になった親方様の、一人で立派に建てらるるをよそながら視て喜びましょう、と元気なげに云い出づるを走り気の源太ゆるりとは聴いていず、ずいと身を進めて、馬鹿を云え十兵衛、あまり道理が分らな過ぎる、上人様のお諭しはきさま一人に聴けというてなされたではないおれが耳にも入れられたは、汝の腹でも聞いたらば我の胸でも受け取った、汝一人に重石おもし背負しょってそう沈まれてしもうては源太が男になれるかやい、つまらぬ思案に身を退いて馬鹿にさえなって居ればよいとは、分別が摯実くすみ過ぎて至当もっともとは云われまいぞ、おおそうならば我がすると得たりかしこで引き受けては、上人様にも恥かしく第一源太がせっかくみがいた侠気おとこもそこで

廃ってしまうし、お前はもとより取らぬなら取らぬで損、知恵のないにもほどのあるもの。それでは二人が何がよかろう。さあそれゆえに美しく二人で仕事をしようというのに、少しは気まずいところがあってもそれはお互い、お前が不足なほどにこちらにも面白くないのはわかりきったことだから、双方が我慢し合うとして我慢のできないわけはないはず。何もわざわざ骨を折ってお前が馬鹿になってしまい、いく日もの心配を煙と消やし、天晴れな腕前を寝かせ殺しにするにも当たらない。のう十兵衛、俺の言うのが腑に落ちたら思案をがらりと変えてくれ。源太は無理は言わないつもりだ。これ、なぜ黙っている。不足か、不承知か。承知してはくれないか。ええ、俺の了見をまだ呑み込んではくれな

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すたってしまうし、汝はもとより虻蜂あぶはち取らず、知恵のないにもほどのあるもの、そしては二人が何よかろう、さあそれゆえに美しく二人で仕事をしょうというに、少しは気まずいところがあってもそれはお互い、汝が不足なほどにこっちにも面白くないのあるは知れきったことなれば、双方忍耐がまんしあうとして忍耐のできぬわけはないはず、何もわざわざ骨を折って汝が馬鹿になってしまい、幾日の心配を煙とやし天晴れな手腕うでを寝せ殺しにするにも当らない、のう十兵衛、我の云うのが腑に落ちたら思案をがらりとし変えてくれ、源太は無理は云わぬつもりだ、これさなぜ黙って居る、不足か不承知か、承知してはくれないか、ええ我の了見をまだ呑み込んではくれな

いか。十兵衛、あんまり情けないではないか。何とか言ってくれ、不承知か不承知か、ええ情けない、黙っていられてはわからない。俺の言うのが不道理か、それとも不足で腹を立てているのか」と義には強くて情には弱く、意地も立てれば親切も飽くまで通す江戸っ子腹の源太が柔和に問いかくれば、聞いているお浪は嬉しさが骨身に染みて、「親方様、ああありがとうございます」と口には出さないが、舌よりも誠を語る涙を溢れさせる目に、返事をしない夫の方を気遣って、見れば男は露一厘身動きもせず無言にて思案の頭重く垂れ、ぽろりぽろりと膝の上に散らす涙の玉の落ちて声あり。

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いか、十兵衛、あんまり情ないではないか、何とか云うてくれ、不承知か不承知か、ええ情ない、黙って居られてはわからない、我の云うのが不道理か、それとも不足で腹立ててか、と義には強くて情には弱く意地も立つれば親切も飽くまでとおす江戸ッ子腹の、源太は柔和やさしく問いかくれば、聞き居るお浪は嬉しさの骨身に浸みて、親方様ああありがとうござりますると口には出さねど、舌よりも真実まことを語る涙をばあふらすまなこに、返辞せぬ夫の方を気遣きづかいて、見れば男は露一厘身動きなさず無言にて思案のこうべ重くれ、ぽろりぽろりと膝の上に散らす涙珠なみだちて声あり。

源太も今は無言となって、しばらく独り考えたが、「十兵衛、お前はまだわからないか、それとも不足と思うのか。なるほどせっかく望んだことを二人でするのは口惜しかろう、しかも源太を主にして副になるのは口惜しかろう、ええ負けてやれ、こうしてやろう、源太は副になってもよい、お前を主に立てるほどに。さあさあ、清くなっとくして二人でしようと合点しろ」と自分の望みは無理に折り、思い切って言い放った。

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源太も今は無言となりしばらくひとり考えしが、十兵衛汝はまだわからぬか、それとも不足とおもうのか、なるほどせっかく望んだことを二人でするは口惜しかろ、しかも源太をしんにしてそえになるのは口惜しかろ、ええ負けてやれこうしてやろう、源太は副になってもよい汝を心に立てるほどに、さあさあ清く承知して二人でしょうと合点せい、とおのが望みは無理に折り、思いきってぞ云い放つ。

「とんでもない、親方様、たとえ十兵衛が気が狂えばとてどうしてそうはできますものぞ、もったいない」とあわてて言うに、「そうなら俺の意見につくか」とただ一言に返されて、「それは」とつまるのをまた追いかけ、「お前を主に立てようか、それとも不足か」と激しく突かれて度を失う傍で、女房が気もはずみ、「親方様の御意見になぜまあ早くつかれないのですか」と責めるように恨みわび、言葉そぞろに勧めれば十兵衛はついに絶体絶命。下げていた頭をゆっくりと上げて大きな丸い目をむき出して、「一つの仕事を二人でするのは、たとえ十兵衛が主になっても副になっても、嫌ならどうしてもできません。親方一人でお建てなさってください、私は馬鹿で終わります」と言い終わらせずに源太は怒って「これ

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とッとんでもない親方様、たとえ十兵衛気が狂えばとてどうしてそうはできますものぞ、もったいない、とあわてて云うに、そうなら我の異見につくか、とただ一言に返されて、それは、とつまるをまた追っかけ、汝を心に立てようか乃至ないしそれでも不足か、とはげしく突かれて度を失うそばにて女房が気もわくせき、親方様の御異見になぜまあ早く付かれぬ、と責むるがごとく恨みわび、言葉そぞろに勧むれば十兵衛ついに絶体絶命、下げたるこうべしずかに上げつぶらまなこき出して、一ツの仕事を二人でするは、よしや十兵衛心になっても副になっても、厭なりゃどうしてもできませぬ、親方一人でお建てなされ、私は馬鹿で終りまする、と皆まで云わせず源太は怒って、これ

ほど事を分けて言う俺の親切を無にしてもか」。

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ほど事を分けて云う我の親切なさけを無にしてもか。

「はい、ありがとうはございますが、嘘は申せず、嫌ならできません」。

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はい、ありがとうはござりまするが、虚言うそは申せず、厭なりゃできませぬ。

「お前よく言った、源太の言葉にどうしてもつかないか」。

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おのれよく云った、源太の言葉にどうでもつかぬか。

「是非ないことでございます」。

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是非ないことでござります。

「やあ覚えていろ、このっそりめ、人の情けのわからない奴、そのようなこと言えた義理か。よしよし、お前に口は利かない。一生溝でもいじって暮らせ。五重塔は気の毒ながらお前に指もさせまい、源太一人で立派に建てる。ならば手柄に批点でも打て」。

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やあ覚えていよこののっそりめ、ひとの情の分らぬ奴、そのようのこと云えた義理か、よしよし汝に口は利かぬ、一生どぶでもいじって暮せ、五重塔は気の毒ながら汝に指もささせまい、源太一人で立派に建てる、ならば手柄に批点てんでも打て。

その十六

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其十六

「えい、ありがとうございます、めっぽう酔いました、もう飲めません」と空返事はうるさいほどしながら、猪口を持つ手を後へは引かないのがおかしい上戸(じょうご)の常で、清吉はもうご馳走の酒に十分酔ったけれど遠慮に三分の真面目さをとどめて殊勝らしく坐り込み、「親方のいない時にこんなに酔っては済みません、姉御と差し向かいでは夕暮を踊るようになってもなりませんからな、アハハ、むやみに嬉しくなってきました、もう行きましょう、羽目を外すと親方のお灸だ。だがしかし姉御、うちの親方には灸を据えられても私は嬉しいと思っています。何も姉御の前だからとて軽薄を言うわけではありません。本当にうちの親方は茶袋よりもありがたいと思っています。いつぞやの凌雲院(りょううんいん)の仕事の時も鉄や

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えい、ありがとうござります、滅法界に酔いました、もういけやせぬ、と空辞誼そらじぎはうるさいほどしながら、猪口ちょくもつ手を後へは退かぬがおかしき上戸じょうご常態つね、清吉はや馳走酒ちそうざけに十分酔ったれど遠慮に三分の真面目をとどめて殊勝らしく坐り込み、親方の不在るすにこう爛酔へべでは済みませぬ、姉御と対酌さしでは夕暮をおどるようになってもなりませんからな、アハハむやみに嬉しくなって来ました、もう行きましょう、はめをはずすと親方のお眼玉だ、だがしかし姉御、内の親方には眼玉をもらってもわっちは嬉しいとおもっています、なにも姉御の前だからとて軽薄を云うではありませぬが、真実ほんとに内の親方は茶袋よりもありがたいとおもっています、いつぞやの凌雲院りょううんいんの仕事の時も鉄や

慶を向こうにしてつまらないことから喧嘩を始め、鉄が肩先へ大怪我をさせてその後で鉄の親から泣き込まれ、ああ悪かった気の毒なことをしたと後悔してもこちらも貧乏で、どうしてあげるにもあげようもなく、困り果てて逃げ出しとまで思ったところを、黙って親方から治療費も出してくれてやった上、かけら半分、叱りごとらしいことを私に言われず、ただ物やさしく、『清よ、お前は喧嘩は時のはずみで仕方はないが、気の毒と思ったなら謝っておけ。鉄の親の気持ちもよかろうし、お前の寝覚めもよいというものだ』と心づけてくださったその時は、ああどうしてこんなに情け深かろうとありがたくてありがたくて私は泣きました。鉄に謝るわけはないが、親方の一言に我慢して私も謝りに行きました

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けいむこうにしてつまらぬことから喧嘩けんかを初め、鉄が肩先へ大怪我をさしたその後で鉄が親から泣き込まれ、ああ悪かった気の毒なことをしたと後悔してもこっちも貧的、どうしてやるにもやりようなく、困りきって逃亡かけおちとまで思ったところを、黙って親方から療治手当もしてやって下された上、かけら半分叱言こごとらしいことを私に云われず、ただ物和ものやさしく、清やてめえ喧嘩は時のはずみで仕方はないが気の毒とおもったら謝罪あやまっておけ、鉄が親の気持もよかろし汝の寝覚めもよいというものだと心づけて下すったその時は、ああどうしてこんなに仁慈なさけ深かろとありがたくてありがたくて私は泣きました、鉄に謝罪るわけはないが親方の一言に堪忍がまんして私も謝罪りに行きました

が、それから不思議なもので、いつとなく鉄とは仲良しになり、今ではどちらにでもひょっとしたことがあれば骨を拾ってやろう、もらおうかというくらいの付き合いになったのも皆親方のおかげ。それに引き換え、茶袋などはやたらに小言を言うばかりで、やれ喧嘩をするな、遊びをするなとくだらないことをうるさく耳の傍でくどきます。ハハハ、いやはや話になったものではありません。え、茶袋とは母親のことです。なにひどくはありません。茶袋でたくさんです、しかも渋をひいた番茶の方です。あっハハハ、ありがとうございます。もう行きましょう、え、また一本燗をつけたから飲んで行けとおっしゃるんですか。ああありがたい、茶袋だとこちらで一本というところを逆にもう

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が、それからおつなものでいつとなく鉄とは仲好しになり、今ではどっちにでもひょっとしたことのあれば骨を拾ってやろうかもらおうかというぐらいの交際つきあいになったも皆親方のおかげ、それに引き変え茶袋なんぞはむやみに叱言こごとを云うばかりで、やれ喧嘩をするな遊興あそびをするなとくだらぬことを小うるさく耳のはたで口説きます、ハハハいやはや話になったものではありませぬ、え、茶袋とは母親おふくろのことです、なにひどくはありませぬ茶袋でたくさんです、しかも渋をひいた番茶の方です、あッハハハ、ありがとうござります、もう行きましょう、え、また一本けたから飲んで行けとおっしゃるのですか、ああありがたい、茶袋だと此方こちで一本というところを反対あべこべにもう

やめろと言いますよ。ああよい心持ちになりました、歌いたくなりましたな。歌えるかとは情けない。松づくしなどはあいつに褒められたほどで」と罪のないことを言えばお吉も笑いを含んで、そろそろと冗談でからかっているところへ帰ってきた源太、「おお、ちょうどよい清吉がいたか、お吉、飲もうぞ支度しろ、清吉今夜は酔い潰れろ、どら声の松づくしでも聞いてやろう」。

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せと云いますわ、ああ好い心持になりました、歌いたくなりましたな、歌えるかとは情ない、松づくしなぞはあいつにめられたほどで、と罪のないことを云えばお吉も笑いを含んで、そろそろ惚気のろけは恐ろしい、などと調戯からかい居るところへ帰って来たりし源太、おおちょうどよい清吉いたか、お吉飲もうぞ、支度させい、清吉今夜は酔いつぶれろ、胴魔声の松づくしでも聞いてやろ。

「や、親方、立ち聞きしていましたね」。

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や、親方立聞きして居られたな。

その十七

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其十七

清吉は酔って歯止めがなくなり、砕けた源太の話しぶり、さばけたお吉の接待ぶりに、いつしか遠慮も打ち忘れ、勧められて断らず受けてはさっと飲み干し、盃の数を重ねるままに、普段から可愛らしい紅顔をいっそうみずみずと、熟れた丹波のほおずきほど紅くして、罪もない高笑いやら相手もなしの空張り、仲間の誰の噂、彼の噂、自分の物まねがどこそこで喝采を得た自慢、奪われた奪られるのの言い争いの末、どこかの店の獅子顔の火鉢を盗み出そうとして友達の仙の野郎が大失敗した話、五十間で地廻りを殴ったことなど、縁に引かれて乗り合わせそれからそれへとしゃべり散らすうち、ふとのっそりの噂に火が飛べば、とろりとなった目を急に見張って、ぐにゃりとしていた肩を聳やかし、冷えた

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清吉酔うてはしまりなくなり、砕けた源太が談話はなしぶりさばけたお吉が接待とりなしぶりにいつしか遠慮も打ち忘れ、されていなまず受けてはつと酒盞さかずきの数重ぬるままに、平常つねから可愛らしきあから顔を一層みずみずと、実のった丹波王母珠ほおずきほど紅うして、罪もなき高笑いやら相手もなしの空示威からりきみ、朋輩の誰の噂彼の噂、自己おのれ仮声こわいろのどこそこで喝采やんやを獲たる自慢、あげられぬ奪られるの云い争いの末何楼なにや獅顔火鉢しかみひばちり出さんとして朋友ともだちの仙の野郎が大失策おおしくじりをした話、五十間で地廻りをなぐったことなど、縁に引かれ図に乗ってそれからそれへと饒舌しゃべり散らすうち、ふとのっそりの噂に火が飛べば、とろりとなりし眼を急に見張って、ぐにゃりとしていし肩をそばだて、冷とうな

飲みかけの酒を変な感じで唇を曲げながら吸い干し、「一体あんな馬鹿野郎を親方が可愛がるというのが、私には頭からわかりません。仕事といえば馬鹿丁寧で進みは一向つかず、柱一本、敷居一つで嘘を言えば鉋を三度も研ぐような鈍い奴。何を一つ頼んでも間に合った例がなく、赤松の炉縁一つに三日の手間を取るというのは、大方ああいう手合いだろうと仙が笑ったのも無理はありません。それを親方がえこひいきしたので、一時は正直なところ申し訳ないですが私も金(こん)も仙も六(ろく)も、あんまり親方の腹が大きすぎてそれほどでもないものを買い込みすぎているのではないかと思いました。念入りなだけで気に入るなら俺たちもこれから羽目板にも仕上げ鉋で、のろりのろりと十分磨いて碁盤肌

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った飲みかけの酒をおかしく唇まげながら吸い干し、一体あんな馬鹿野郎を親方の可愛がるというがわっちにはてんからわかりませぬ、仕事といえば馬鹿丁寧ではこびは一向つきはせず、柱一本鴫居しきい一ツで嘘をいえばかんなを三度もぐような緩慢のろまな奴、何を一ツ頼んでも間に合ったためしがなく、赤松の炉縁ろぶち一ツに三日の手間を取るというのは、多方ああいう手合だろうと仙が笑ったも無理はありませぬ、それを親方が贔屓ひいきにしたので一時は正直のところ、済みませんが私もきんも仙も六も、あんまり親方の腹が大きすぎてそれほどでもないものを買い込み過ぎて居るではないか、念入りばかりで気に入るならおれたちもこれから羽目板にも仕上げがんな、のろりのろりとしたたか清めて碁盤肌ごばんはだ

にでも削ろうかと僻んだことを言ったこともありました。第一あいつは付き合い知らずで女郎買いを一度も一緒にせず、軍鶏鍋をつついたこともない頑固者。いつか大師へみんなで行く時も、まあ親方のそばについているものを一人だけ仲間外れにするでもないと私が親切に誘ってやったのに、『俺は貧乏で行かれない』と言ったきりの挨拶は、なんと愛想も義理も知らなすぎるではありませんか。お金がなければ女房の一枚着を売り込んでも付き合いは付き合いで立てるのが友だちというもの。それもわからない白痴の癖に段々と親方の恩を受けて、私や金と同じことに今ではどうか一人立ちになり、しかも失礼ながら青っ洟を垂らして弁当箱の持ち運び、木っ端を担いでひょろひょろ帰るガキのころから親方の手について

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にでも削ろうかとひがみを云ったこともありました、第一あいつは交際つきあい知らずで女郎買い一度一所にせず、好闘鶏鍋しゃもなべつつき合ったこともない唐偏朴とうへんぼく、いつか大師だいし一同みんなが行く時も、まあ親方の身辺まわりについて居るものを一人ばかり仲間はずれにするでもないと私が親切に誘ってやったに、我は貧乏で行かれないと云ったきりの挨拶あいさつは、なんと愛想も義理も知らな過ぎるではありませんか、銭がなければ女房かかの一枚着を曲げ込んでも交際は交際で立てるが朋友ともだちずく、それもわからない白痴たわけの癖に段々親方の恩をて、私や金と同じことに今ではどうか一人立ち、しかもはばかりながらあおぱならして弁当箱の持運び、木片こっぱを担いでひょろひょろ帰る餓鬼がきのころから親方の手につい

いた私や仙とは違って、あいつは渡り者。次第を言えば私らより一倍深く親方をありがたい、かたじけないと思っていなければならないはずなのに、親方、姉御、私は悲しくなってきました。私はもしものことがあれば親方や姉御のためと言えば黒煙のあおりを食っても飛び込むくらいの気持ちは持っているのに、畜生っ、ああ人情ない野郎め、のっそりめ、あいつは火の中へは恩を背負っても入りきるまい、ろくな根性はもっていまい。ああ人情ない畜生めだ」と酔いが思いがけず言い出せた不平の中に潜り込んで、めそめそめそめそ泣き出せば、お吉は夫の顔を見て、「例の癖が出てきたか」と困った様子はしながらも、自分の胸にものっそりの憎さがあれば、いくらかは清の言葉をもっともと聞く傾きも

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ていた私や仙とは違って奴は渡り者、次第を云えば私らより一倍深く親方をありがたいかたじけないと思っていなけりゃならぬはず、親方、姉御、私は悲しくなって来ました、私はもしものことがあれば親方や姉御のためと云や黒煙のあおりを食っても飛び込むぐらいの了見は持って居るに、畜生ッ、ああ人情なさけない野郎め、のっそりめ、あいつは火の中へは恩を背負しょっても入りきるまい、ろくな根性はもっていまい、ああ人情ない畜生めだ、と酔いが図らず云い出せし不平の中に潜り込んで、めそめそめそめそ泣き出せば、お吉は夫の顔を見て、いつもの癖が出て来たかと困った風情はしながらも自己の胸にものっそりの憎さがあれば、幾らかは清が言葉を道理もっともと聞く傾きもあるな

あったのだろう。

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るべし。

源太は腹に見通しがないほど愚かではないので、猪口を持ってつけながら高笑いし、「何を言い出した清吉、寝ぼけるな、俺の前だわ。三の切(泣き真似の技)を出してもはじまらないぞ。その手で女でも口説きなさい、随分くろりとくるだろう。お前がほろりとした小蝶さまのお部屋ではないぞ、あっハハハ」と冗談を言えばなお真面目に、ずずだまほどの涙を払うその手をぺたりと刺身皿の中につっこみ、しゃくり上げて泣き出し、「ああ情ない、親方、私を酔っ払いあしらいは情ない。酔っていません。小蝶なんぞは食べません。そういえばあいつの顔がどこかのっそりに似ているようで口惜しくて情けない。のっそりは憎い奴、親方の向こうを張って大それた、五重の塔を生意気にも建てようなんとは憎い奴憎い奴、

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源太は腹に戸締りのなきほどおろかならざれば、猪口ちょくしつけ高笑いし、何を云い出した清吉、寝ぼけるな我の前だわ、三の切を出しても初まらぬぞ、その手で女でも口説きやれ、随分ころりと来るであろう、きさまのろけた小蝶こちょうさまのお部屋ではない、アッハハハと戯言おどけを云えばなお真面目に、木槵珠ずずだまほどの涙を払うその手をぺたりと刺身皿さしみざらの中につっこみ、しゃくり上げ歔欷しゃくりあげして泣き出し、ああ情ない親方、私を酔漢よっぱらいあしらいは情ない、酔ってはいませぬ、小蝶なんぞはべませぬ、そういえばあいつのつらがどこかのっそりに似て居るようで口惜しくて情ない、のっそりは憎い奴、親方のむこうを張って大それた、五重の塔を生意気にも建てようなんとは憎い奴憎い奴、

親方が優しすぎるので増長した謀反人め。謀反人も明智光秀のようなのはもっともだと講釈で言いましたが、あいつのようなのは大悪無道。親方はいつのっそりの頭を鉄扇で打ちましたか、いつ家臣にのっそりの領地を与えると言いましたか。私は今にもしもあいつが親方の言葉に甘えて名を並べて塔を建てれば、打ち捨てておけません、叩き殺して犬にくれてやります、こういうように叩き殺して」と空になった徳利の横面をいきなり叩き飛ばせば、かけらは散って皿小鉢が跳び出して、ちゃんからり。

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親方がやさし過ぎるので増長した謀反人め、謀反人も明智あけちのようなは道理もっともだと伯龍はくりゅうが講釈しましたがあいつのようなは大悪無道ぶどう、親方はいつのっそりの頭を鉄扇でちました、いつ蘭丸らんまるにのっそりの領地をると云いました、私は今にもしもあいつが親方の言葉に甘えて名をならべて塔を建てれば打捨うっちゃってはおけませぬ、たたき殺していぬにくれますこういうように擲き殺して、と明徳利あきどくりの横面いきなりたたき飛ばせば、砕片かけらは散って皿小鉢おどり出すやちんからり。

「馬鹿野郎め」と親方に大喝されてそのままにぐずりと座っておとなしくしているかと思えば、散らかっていた戻し海苔の上に額を押しつけ、もういびきをかいていた。

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馬鹿野郎め、と親方に大喝されてそのままにぐずりとすわりおとなしく居るかと思えば、散らかりし還原海苔もどしのりの上に額おしつけはや鼾声いびきなり。

源太はこれに打ち笑い、「愛嬌のある阿呆めに掻巻をかけてやれ」と言いながら手酌にぐいっと引っかけて酒気を吐くことしばらく。「怒って帰っては来たものの、ああでは高が清吉と同じ。さて、考えがまだ要るわ」。

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源太はこれに打ち笑い、愛嬌のある阿呆めに掻巻かいまきかけてやれ、と云いつつ手酌にぐいと引っかけて酒気を吹くことやや久しく、おこって帰って来はしたもののああでは高が清吉同然、さて分別がまだるわ。

その十八

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其十八

源太が怒って帰っていった後、腕を組んでぼんやりしている夫の顔をのぞき込んで、吐息をつくつくお浪は嘆き、「親方様を怒らせた仕事はつまり手に入らず、夜の目も合わさず雛形まで作り上げた幾日もの骨折りも苦労も無駄にした挙句の果てに、他の人の気持ちを悪くして、恩知らず人情なしと人の口端にかかるのはあまりといえば情けない。女の差し出たことを言うと一口に言われるかもしれないが、正直律儀にもほどというもの。親方様があれほどに言ってくださる意見についていっしょにしたとて恥辱にはなるまいに、意地を張って何のつまらない意地立て。それを誰が感心だと褒めますか。親方様の御料簡につけば第一御恩のある親方のお気持ちもよいわけ、またお前の名も上り苦労骨折りの甲斐も立つわ

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源太が怒って帰りし後、腕こまぬきて茫然ぼうぜんたる夫の顔をさしのぞきて、吐息つくづくお浪は歎じ、親方様は怒らする仕事はつまり手に入らず、夜の眼も合わさず雛形ひながたまで製造こしらえた幾日の骨折りも苦労も無益むだにした揚句の果てにひとの気持を悪うして、恩知らず人情なしと人の口端にかかるのはあまりといえば情ない、女の差し出たことをいうとただ一口に云わるるか知らねど、正直律義りちぎもほどのあるもの、親方様があれほどに云うて下さる異見について一緒にしたとて恥辱はじにはなるまいに、偏僻かたいじ張ってなんのつまらぬ意気地立て、それを誰が感心なとめましょう、親方様の御料簡につけば第一御恩ある親方のお心持もよいわけ、またお前の名も上り苦労骨折りの甲斐も立つわ

け。三方四方みなよいのに、なぜその気にはなられないのか。少しもお前の考えが私の腹には呑み込めない。よくよく考え直して親方様の御意見に素直に従ってはくださらないか。お前の考えさえ変えれば私がすぐにも親方様のところへ行き、どうにかこうにか謝りを言って一生懸命精一杯、打たれても叩かれても動くまいほど覚悟を決め、謝って謝って謝り通したら、お情け深い親方様が、まさかにいつまで怒ってばかりもいられまい。一時の考え違いは堪忍してくださることもあろう。考えを改めて意地を張らずに、親方様の言われた通りにしてみる気にはなられないか」と夫思いの一筋に口説くのも女としての道理ではあるが、十兵衛はなお目も動かさず、「ああ、もう言ってくれるな、ああ、五重塔とも言

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け、三方四方みな好いになぜその気にはなられぬか、少しもお前の料簡がわたしの腹には合点のみこめぬ、よくまあ思案し直して親方様の御異見につい従うては下されぬか、お前が分別さええれば妾がすぐにも親方様のところへ行き、どうにかこうにか謝罪あやまり云うて一生懸命精一杯、たれてもたたかれても動くまいほど覚悟をきめ、謝罪って謝罪って謝罪りいたらお情深い親方様が、まさかにいつまで怒ってばかりも居られまい、一時の料簡違いは堪忍かにして下さることもあろう、分別しかえて意地らずに、親方様の云われた通りして見る気にはなられぬか、と夫思いの一筋に口説くも女の道理もっともなれど、十兵衛はなお眼も動かさず、ああもう云うてくれるな、ああ、五重塔とも云

ってくれるな。よしないことを思い立って、なるほど恩知らずとも言われよう、人情なしとも言われよう。それも十兵衛の考えが足りなかったためのこと。今さらなんとも是非がない。しかしお前の言うように思案しなおすのはどうしても嫌。十兵衛が仕事に手下は使おうが助言は頼まない。人の仕事の手下になって使われようが、助言はすまい。桝組も椽配りも俺がする日には俺の勝手、どこからどこまで一寸たりとも人の指図は決して受けない。善いも悪いも一人で背負って立つ。他の仕事に使われれば、ただ正直な手間取りとなって渡されただけのことをするばかり。生意気な差し出口は夢にもすまない。自分が主でもない癖に自分の色を際立てて変わった風を誇り顔の寄生木は

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うてくれるな、よしないことを思いたってなるほど恩知らずとも云わりょう人情なしとも云わりょう、それも十兵衛の分別が足らいででかしたこと、今さらなんとも是非がない、しかしきさまの云うように思案しかえるはどうしても厭、十兵衛が仕事に手下は使おうが助言じょごんは頼むまい、人の仕事の手下になって使われはしょうが助言はすまい、桝組ますぐみ椽配たるきわりもおれがする日には我の勝手、どこからどこまで一寸たりとも人の指揮さしずは決して受けぬ、善いも悪いも一人で背負しょって立つ、ひとの仕事に使われればただ正直の手間取りとなって渡されただけのことするばかり、生意気な差し出口は夢にもすまい、自分が主でもない癖に自己おのが葉色を際立ててかわった風をほこ寄生木やどりぎ

十兵衛の虫が好かない。人の仕事に寄生木となるも嫌なら、我が仕事に寄生木を入れるのも虫が嫌えば是非がない。優しい源太親方が義理人情を噛み砕いてわざわざ勧めてくださるのは俺にもわかってありがたいが、なまじいに俺の心を生かして寄生木扱いは情けない。十兵衛は馬鹿でのっそりでもよい。寄生木になって栄えるのは嫌いだ。矮小な下草になって枯れようが、大樹を頼れば肥料にもなろうが、ただ寄生木になって高くとまる奴らを日ごろいくらも見ては卑しい奴めと心中で蔑んできたのに、今俺が自然と親方の情に甘えてそれになるのはどうあっても小恥ずかしくてなれきれないわ。いっそのことに親方の指図の通りこれを削れあれを挽き割れと使われるなら嬉し

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十兵衛の虫が好かぬ、人の仕事に寄生木となるも厭ならわが仕事に寄生木をるるも虫が嫌えば是非がない、やさしい源太親方が義理人情をみ砕いてわざわざ慫慂すすめて下さるは我にもわかってありがたいが、なまじい我の心を生かして寄生木あしらいは情ない、十兵衛は馬鹿でものっそりでもよい、寄生木になって栄えるは嫌いじゃ、矮小けちな下草になって枯れもしょう大樹おおきを頼まば肥料こやしにもなろうが、ただ寄生木になって高く止まる奴らを日ごろいくらも見ては卑しい奴めと心中で蔑視みさげていたに、今我が自然親方の情に甘えてそれになるのはどうあっても小恥かしゅうてなりきれぬわ、いっそのことに親方の指揮さしずのとおりこれを削れあれをき割れと使わるるなら嬉し

いけれど、なまじ情がかえって悲しい。お前もきっとわからない奴と恨みもしようが堪忍してくれ。ええ是非がない、わからないところが十兵衛だ、ここがのっそりだ、馬鹿だ、白痴漢だ。何と言われても仕方はないわ。ああっ、火も小さくなって寒くなった。もうもう寝てでもしまおうよ」と聞けば一々道理のある述懐だった。

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けれど、なまじ情がかえって悲しい、汝も定めてわからぬ奴と恨みもしょうが堪忍かにしてくれ、ええ是非がない、わからぬところが十兵衛だ、ここがのっそりだ、馬鹿だ、白痴漢たわけだ、何と云われても仕方はないわ、ああッ火も小さくなって寒うなった、もうもう寝てでもしまおうよ、とけば一々道理の述懐。

お浪も返す言葉なく無言となれば、なお寒い一室を照らす行燈も灯花(とうか)に暗くなっていった。

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お浪もかえす言葉なく無言となれば、なお寒き一室ひとまを照らせる行燈あんどん灯花ちょうじに暗うなりにけり。

その十九

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其十九

その夜は源太は床に入ってもなかなか眠れず、一番鶏二番鶏を耳たしかに聞いて、朝も普段よりは早く起き、うがい洗顔に見ない夢を洗って熱茶一杯に酒の残り香を払う折しも、むくむくと起き上がった清吉が寝ぼけ眼をこすりこすり、不思議そうな顔でまごつくに、お吉ともども吹き出して笑い、「清吉、昨夜はどうしたか」とからかえば急にかしこまって無茶苦茶に頭を下げ、「つい御馳走になりすぎていつか知らず寝てしまいました。姉御、昨夜私は何か悪いことでもしませんか」と心配そうに尋ねるのもおかしく、「まあ何でもいいわ、飯でも食って仕事に行きなさい」と優しく言われてますます恐れ、うっとりとして腕を組みしきりに考え込む様子が、正直なだけに可愛らしかった。

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その夜は源太床に入りてもなかなか眠らず、一番鶏いちばんどり二番鶏を耳たしかに聞いて朝も平日つねよりははよう起き、含嗽手水うがいちょうずに見ぬ夢を洗って熱茶一杯に酒の残り香を払う折しも、むくむくと起き上ったる清吉寝惚眼ねぼれめをこすりこすり怪訝顔けげんがおしてまごつくに、お吉ともども噴飯ふきだして笑い、清吉昨夜ゆうべはどうしたか、となぶれば急にかしこまって無茶苦茶に頭を下げ、つい御馳走になり過ぎていつか知らず寝てしまいました、姉御、昨夜わっちは何か悪いことでもしはしませぬか、と心配そうに尋ぬるもおかしく、まあ何でも好いわ、飯でも食って仕事に行きやれ、とやさしく云われてますますおそれ、恍然うっとりとして腕を組みしきりに考え込む風情ふぜい、正直なるが可愛らし。

清吉を出かけさせた後、源太はなおも考えに独り沈んで、日ごろのさっぱりとした調子にも似もやらず、ろくろくお吉に口さえきかずに思案に思案を凝らしたが、「ああわかった」と独りごとするかと思えば「ふびんだな」とため息つき、「ええ投げようか」と言うかと思えば「どうしてやろう」と腹立つ様子を傍でお吉が見る辛さ。問い慰めようと口を出せば「黙っていろ」とやり込められ、仕方なしに胸の中でむなしく心を痛めるばかりだった。

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清吉を出しやりたる後、源太はなおも考えにひとり沈みて日ごろの快活さっぱりとした調子に似もやらず、ろくろくお吉に口さえきかで思案に思案を凝らせしが、ああわかったとひとごとするかと思えば、愍然ふびんなと溜息つき、ええげようかと云うかとおもえば、どうしてくりょうと腹立つ様子を傍にてお吉の見る辛さ、問い慰めんと口をいだせば黙っていよとやりこめられ、詮方せんかたなさに胸の中にて空しく心をいたむるばかり。

源太はそれらにかまいもせず夕暮方まで考え考えて、ようやく思い定めたか、つと身を起こして衣服を改め、感応寺に行き上人にお目にかかって昨夜の始終を隠すことなく物語りした末、「一旦は私もあまりわからない十兵衛の答えに腹を立てたものの、帰ってよくよく考えると、たとえば私一人して立派に塔は建てるとしても、それではせっかくお諭しを受けた甲斐なく、源太がまた我欲にばかり強いようで男らしくもない話。といって十兵衛は十兵衛の気持ちをそう簡単には捨てないだろう様子。あれも全く自分を押さえて譲れば、源太も自分を押さえてあれに仕事をさせてください」と譲らなければならない義理と人情で、いろいろ愚かな考えを使ってようやく案じ出したことも十兵衛が乗らなければ仕方な

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源太はそれらにかまいもせず夕暮方まで考え考え、ようやく思い定めやしけんつと身を起して衣服をあらため、感応寺に行き上人にまみえて昨夜の始終をば隠すことなく物語りし末、一旦は私もあまりわからぬ十兵衛の答えに腹を立てしものの帰ってよくよく考うれば、たとえば私一人して立派に塔は建つるにせよ、それではせっかくおさとしを受けた甲斐なく源太がまた我欲にばかり強いようで男児おとこらしゅうもない話し、というて十兵衛は十兵衛の思わくを滅多に捨てはすまじき様子、あれも全く自己おのれを押えて譲れば源太も自己を押えてあれに仕事をさせ下されと譲らねばならぬ義理人情、いろいろ愚かな考えを使ってようやく案じ出したことにも十兵衛が乗らねば仕方な

く、それを怒っても恨んでも是非のないわけ。もうこの上には変わった考えも私には出ません。ただ願うはお上人様、たとえば十兵衛一人にお命じになられましても私は必ず何とも思いませんほどに、十兵衛になり私になり二人ともどもになり、どうともお命じになってください。御口直々のことなれば十兵衛も私も互いに争う心は捨てていますほどに、少しも支障はございません。我ら二人の相談には余って願いにまいりました」と誠を顔に現しながら願えば、上人はほくほくと笑われ、「そうじゃろそうじゃろ、さすがにお前も見上げた男じゃ。よいよい、その心がけ一つだけでもうこの生雲塔を見事に建てたより立派にお前はなっておる。十兵衛も先ほどに来て同じことを言って

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く、それを怒っても恨んでも是非のないわけ、はやこの上には変った分別も私には出ませぬ、ただ願うはお上人様、たとえば十兵衛一人に仰せつけられますればとて私かならず何とも思いますまいほどに、十兵衛になり私になり二人ともどもになりどうとも仰せつけられて下さりませ、御口ずからのことなれば十兵衛も私も互いに争う心は捨てておりまするほどに露さら故障はござりませぬ、我ら二人の相談には余って願いにまいりました、と実意を面に現わしつつ願えば上人ほくほく笑われ、そうじゃろそうじゃろ、さすがにそなたも見上げた男じゃ、よいよい、その心がけ一つでもう生雲塔見事に建てたより立派に汝はなっておる、十兵衛も先刻さっきに来て同じことを云う

帰ったわ。あれも可愛い男ではないか。のう源太、可愛がってやれ、可愛がってやれ」と心ありげにおっしゃる言葉を源太は早くも合点して、「ええ、可愛がってあげますとも」と大変すがすがしく答えれば、上人は満面の皺で喜ばれ、「よいわよいわ、ああ気持ちのよい男だな」と本当に心から底から褒められて、もったいなさはありながら源太は思わず頭を上げ、「おかげで男になれましたか」と一言に無限の感慨を込めて喜ぶ男泣きだった。

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て帰ったわ、あれも可愛い男ではないか、のう源太、可愛がってやれ可愛がってやれ、と心ありげに云わるる言葉を源太早くも合点して、ええ可愛がってやりますとも、といとすずしげに答うれば、上人満面しわにしてよろこびたまいつ、よいわよいわ、ああ気味のよい男児じゃな、と真から底からほめられて、もったいなさはありながら源太おもわずこうべをあげ、おかげで男児になれましたか、と一語に無限の感慨を含めて喜ぶ男泣き。

もうこの時に十兵衛の仕事に助力しようという心が、世に美しくも湧き上がったのだろう。

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はやこの時に十兵衛が仕事に助力せん心の、世に美しくも湧きたるなるべし。

その二十

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其二十

十兵衛が感応寺にいたって朗円上人にお目にかかり、涙ながらに辞退の旨を言って帰ったその日の味気なさ、煙草を吸うだけの気力も体を動かすに力なく、ぼんやりとしてつくづく我が身の不運、浮世を渡りにくいことなどを思い廻らせば思い廻らすほど嬉しくなく、時刻になって食う飯の味が今さら変わるわけではないけれど、箸を持つ手さえふらふらがちで、舌がうまく受けとらないで、普段は六碗七碗を快く食べていたのがわずかに一碗二碗で終え、お茶ばかりかえって多く飲むのも、心に不満のある人の免れがたい習いだった。

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十兵衛感応寺にいたりて朗円上人にまみえ、涙ながらに辞退の旨云うて帰りしその日の味気なさ、煙草のむだけの気も動かすに力なく、茫然ぼんやりとしてつくづくわが身の薄命ふしあわせ、浮世の渡りぐるしきことなど思いめぐらせば思い廻らすほどうれしからず、時刻になりて食う飯の味が今さらかわれるではなけれど、はし持つ手さえ躊躇たゆたいがちにて舌が美味うもうは受けとらぬに、平常つねは六碗七碗を快ういしもわずかに一碗二碗で終え、茶ばかりかえって多く飲むも、心に不悦まずさのある人の免れがたき慣例ならいなり。

主人が浮かなければ女房も、何の罪もないやんちゃ盛りの猪之まで、自然と浮き立たず、寂しい貧家がいっそう寂しく、希望もなければ楽しみも一点もなく日を暮らし、暖かみのない夢にもの寂びた夜を明かしていたが、お浪が夜明けの鐘に目覚めて、猪之と一緒に寝ている床からそっと出るのも、「朝風の寒いのに火のないうちから起こすまい、もう少し寝かせておこう」との優しい親の心であるのに、何もかも知らないでたわいなく眠っていた普段とは違い、どうしたことかたちまち飛び起き、襦袢一枚で夜具の上を跳ね廻り跳ね廻り、「嫌じゃい嫌じゃい、父様を打っちゃ嫌じゃい」と蕨のような手を目にあてて何かわからず泣き出せば、「ええ、これ、猪之はどうしたのか」とびっくりしながら抱き止めるに、抱か

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主人あるじが浮かねば女房も、何の罪なきやんちゃざかりの猪之いのまで自然おのずと浮き立たず、さびしき貧家のいとど淋しく、希望のぞみもなければ快楽たのしみも一点あらで日を暮らし、暖か味のない夢に物寂ものさびた夜を明かしけるが、お浪暁天あかつきの鐘に眼覚めて猪之と一所に寝たる床よりそっと出づるも、朝風の寒いに火のないうちから起すまじ、も少しさせておこうとのやさしき親の心なるに、何もかも知らいでたわいなく寝ていし平生いつもとは違い、どうせしことやらたちまち飛び起き、襦袢じゅばん一つで夜具の上ね廻り跳ね廻り、厭じゃい厭じゃい、父様をっちゃ厭じゃい、とわらびのような手を眼にあてて何かは知らず泣き出せば、ええこれ猪之はどうしたものぞ、とびっくりしながら抱き止むるに抱

れながらもまだ泣き止まなかった。

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かれながらもなお泣き止まず。

「誰も父様を打ちはしません、夢でも見たか。ほら、そこに父様はまだ寝ておられる」と顔を向け知らせれば、不思議そうにのぞき込んで、ようやく安心はしてもまだ疑いの晴れない様子だった。

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誰も父様を打ちはしませぬ、夢でも見たか、それそこに父様はまだ寝て居らるる、と顔を押し向け知らすれば不思議そうに覗き込んで、ようやく安心しはしてもまだ疑惑うたがいの晴れぬ様子。

「猪之や、何もありはしないわ、夢を見たのだよ。さあ寒いのに風邪をひいてはいけません、床に入って寝ていなさい」と引き倒すようにして横にならせ、掻巻をかけて隙間なく上から押しつけてやる母の顔を見ながら眼をぱっちり、「ああ怖かった、今よその怖い人が」。

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猪之やなんにもありはしないわ、夢を見たのじゃ、さあ寒いに風邪をひいてはなりませぬ、床にはいって寝て居るがよい、と引き倒すようにして横にならせ、掻巻かいまきかけて隙間すきまなきよう上から押しつけやる母の顔を見ながら眼をぱっちり、ああこわかった、今よその怖い人が。

「おお、どうかしましたか」。

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おゝおゝ、どうかしましたか。

「大きな、大きな玄翁(鉄槌)で、黙って座っている父様の頭を打って幾つも打って、頭が半分壊れたので坊は大変びっくりした」。

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大きな、大きな鉄槌げんのうで、黙って坐って居る父様の、頭を打って幾つも打って、頭が半分こわれたので坊は大変びっくりした。

縁起でもない、と眉をひそめるちょうどその時、外を通る納豆売りのふるえ声がして、くしゃみでもしたのか「ちぇっ、草鞋が切れた」とつぶやきながら通り過ぎた。女房はますます気分が悪くなり、台所に出て竈の下を焚こうとしても薪がうまく燃えず、引き窓もうまく開かず、何となくいやな日だと思いながらも、それは自分の心からくることだとわかっているので、なるべく笑顔を作り、夫や子どもに明るく接しようとした。しかし無理に作った笑いの声の裏には、どこかしら悲しい響きが残ってしまうのだった。

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ええ鶴亀鶴亀、厭なこと、延喜でもないことを云う、とまゆしわむる折も折、戸外おもてを通る納豆売りのふるえ声に覚えある奴が、ちェッ忌々いまいましい草鞋わらじが切れた、と打ち独語つぶやきて行き過ぐるに女房ますます気色をしくし、台所に出てかまの下をきつくれば思うごとく燃えざるまきも腹立たしく、引窓のすべりよく明かぬも今さらのようにれったく、ああ何となく厭な日と思うも心からぞとは知りながら、なお気になることのみ気にすればにや多けれど、また云い出さば笑われんと自分でしかって平日いつもよりは笑顔をつくり言葉にも活気をもたせ、いきいきとして夫をあしらい子をあしらえど、根がわざとせし偽飾いつわりなればかえって笑いの尻声が憂愁うれいの響きを遺して去る光景ありさまの悲しげな

そんな折に、「十兵衛殿のお宅ですか」と大人びた口ぶりで入ってきた小坊主が、偉そうにちょこんと上がり込み、「御用があるのですぐにお越しください」とだけ言って立った。

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るところへ、十兵衛殿お宅か、と押柄おうへいに大人びた口ききながらはいり来る小坊主、高慢にちょこんと上り込み、御用あるにつきすぐと来たられべしと前後あとさきなしの棒口上。

お浪も十兵衛も何の用かわからないまま、呼ばれたからには行かないわけにいかず、感応寺の門をくぐると、なんとそこには円道、為右衛門、そして朗円上人がおそろいで座っておられた。円道が厳かな声で告げた。「このたびの生雲塔の工事は川越源太に任せるはずであったが、方丈(住職)の思し召しによって特別に十兵衛、そなたに任せることになった。辞退は決して無用、ありがたくお受け申せ」。そして上人が穏やかに「十兵衛よ、思う存分仕上げてみよ、うまく完成したら嬉しいぞ」とおっしゃった。

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お浪も不審、十兵衛も分らぬことに思えどもいなみもならねば、はや感応寺の門くぐるさえ無益むやくしくは考えつつも、何御用ぞと行って問えば、天地顛倒てんどうこりゃどうじゃ、夢かうつつか真実か、円道右に為右衛門左に朗円上人中央まんなかに坐したもうて、円道言葉おごそかに、このたび建立なるところの生雲塔の一切工事川越源太に任せられべきはずのところ、方丈おぼしめし寄らるることあり格別の御詮議例外の御慈悲をもって、十兵衛そのほうにしかとお任せ相成る、辞退の儀は決して無用なり、早々ありがたく御受け申せ、と云い渡さるるそれさえあるに、上人皺枯れたる御声にて、これ十兵衛よ、思う存分し遂げて見い、よう仕上らば嬉しいぞよ、と荷担になうに余る冥加みょうがのお言葉。

のっそり十兵衛はその場に五体を地に伏せ、「十兵衛めが命をさ、さ、ささげます」と言いかけたが、声が喉に詰まって言葉が続かず、静まりかえった広間に、ただ細い息の音だけがかすかに聞こえた。

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のっそりハッと俯伏うつぶせしまま五体をなみゆるがして、十兵衛めが生命いのちはさ、さ、さし出しまする、と云いしぎりのどふさがりて言語絶え、岑閑しんかんとせし広座敷に何をか語る呼吸の響きかすかにしてまた人の耳に徹しぬ。

その二十一

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其二十一

夏の終わり、不忍(しのばず)の池のほとりにある料理屋「蓬莱屋(ほうらいや)」の二階に、ご機嫌のいい男が一人、人を待っていた。蓮の花の香りも消え、赤蜻蛉(あかとんぼ)が飛ぶ秋の景色の中、紺青色に暮れていく空に星が輝き始め、雁の鳴き声も聞こえる夕暮れの池を眺めながら、男はゆったり酒を飲んでいた。

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紅蓮白蓮ぐれんびゃくれんにおいゆかしく衣袂たもとすそかおり来て、浮葉に露の玉ゆらぎ立葉に風のそよ吹ける面白の夏の眺望ながめは、赤蜻蛉あかとんぼ菱藻ひしもなぶり初霜向うが岡の樹梢こずえを染めてより全然さらりとなくなったれど、赭色たいしゃになりてはすの茎ばかり情のう立てる間に、世を忍びげの白鷺しらさぎがそろりと歩む姿もおかしく、紺青色こんじょういろに暮れて行くそらにようやくひかり出す星を背中にって飛ぶかりの、鳴き渡る音も趣味おもむきある不忍しのばずの池の景色を下物さかなのほかの下物にして、客に酒をば亀の子ほど飲まする蓬莱屋ほうらいやの裏二階に、気持のよさそうな顔して欣然と人を待つ男一人。

落ち着いた身なりで銀の煙管(きせる)を持ち、職人らしい気概はあるが少しも下品でなく、いかにも多くの者から「親方」と慕われる棟梁(とうりょう)の風格があった。なじみの女中お伝が「お待ち遠でございましょう」と膳を置きながら言えば、「待ち遠で待ち遠でたまりきれないよ、お化粧に時間がかかるのは仕方ないか」と答えた。

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唐桟揃とうざんぞろいの淡泊あっさりづくりに住吉張りの銀煙管おとなしきは、職人らしき侠気きおいの風の言語ものいい挙動そぶりに見えながら毫末すこしも下卑ぬ上品だち、いずれ親方親方と多くのものに立てらるる棟梁株とうりょうかぶとは、かねてから知り居る馴染なじみのお伝という女が、さぞお待ち遠でござりましょう、と膳を置きつつ云う世辞を、待つ退屈さにつかまえて、待ち遠で待ち遠でたまりきれぬ、ほんとに人の気も知らないで何をして居るであろう、と云えば、それでもお化粧しまいに手間の取れまするが無理はないはず、と云いさしてホホと笑う慣れきった返しの太刀筋。

「アハハハ、それも道理だ。来たらよく見てくれ、まあこのあたりで並ぶものはなかろうというものだ」。

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アハハハそれも道理もっともじゃ、今に来たらばよく見てくれ、まあ恐らくここらに類はなかろう、というものだ。

「おや恐ろしい、何をご馳走してくださるのですか。その親方というのはお師匠様ですか」。

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おや恐ろしい、何を散財おごって下さります、そして親方、というものは御師匠さまですか。

「いいや」。

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いいや。

「娘さんですか」。

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娘さんですか。

「いいや」。

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いいや。

「後家様ですか」。

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後家様。

「いいや」。

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いいや。

「お婆さんですか」。

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ばあさんですか。

「馬鹿を言え、かわいそうに」。

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馬鹿を云え可愛そうに。

「では赤ちゃんですか」。

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では赤ん坊。

「こいつめ、人をからかうな、ハハハハハ」。

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こいつめ人をからかうな、ハハハハハ。

「ホホホホホ」と笑っているところへ、お伝が「お連れ様がおいでになりました」と告げて障子を開けた。お伝は後ろを向いてにやりと笑い、源太の顔を見た。それは「お楽しみですよ」という意味のからかいだったが、源太は本当におかしくて笑った。しかし入ってきた客は、お伝が期待させた美しい女ではなく、ぼさぼさの頭に無精ひげ、汚れた顔と垢じみた破れ着物の無骨な男だった。お伝はあっけにとられてすぐには挨拶が出なかった。

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ホホホホホとくだらなく笑うところへふすまの外から、お伝さんと名を呼んでお連れ様と知らすれば、立ち上って唐紙明けにかかりながらちょっと後ろ向いて人の顔へおつに眼をくれ無言で笑うは、お嬉しかろと調戯からかってらして底悦喜そこえっきさする冗談なれど、源太はかえってしんからおかしく思うとも知らずにお伝はすいと明くれば、のろりと入り来る客は色ある新造しんぞどころか香も艶もなき無骨男、ぼうぼう頭髪あたまのごりごり腮髯ひげかおよごれて衣服きものあかづき破れたる見るから厭気のぞっとたつほどな様子に、さすがあきれて挨拶あいさつさえどぎまぎせしまま急には出ず。

源太は笑みを含みながら、「さあ、十兵衛、こちらへ来てくれ、遠慮せず大胡座(おおあぐら)で楽にしていてくれ」と、おずおずしている十兵衛を席に座らせた。やがて膳も整い、盃を一気に飲み干してから源太は改まって言った。「十兵衛、先ほど富松を使いに出して呼んだのはほかでもない、仲直りしたくてだ。あの夜の俺の言い過ぎを忘れてほしい。あの夜はあまりにもお前がわからない奴だと一途に思って腹も立ったし、恥ずかしいことに癇癪も起こしてお前の頭を打ち砕いてやりたいくらいにまで思ったが」。

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源太は笑みを含みながら、さあ十兵衛ここへ来てくれ、かまうことはない大胡坐おおあぐらで楽にいてくれ、とおずおずし居るを無理に坐にえ、やがて膳部も具備そなわりし後、さてあらためて飲み干したる酒盃さかずきとって源太はし、沈黙だんまりで居る十兵衛にむかい、十兵衛、先刻さっき富松とみまつをわざわざってこんなところに来てもらったは、何でもない、実は仲直りしてもらいたくてだ、どうかきさまとわっさり飲んで互いの胸を和熟させ、過日こないだの夜のおれが云うたあの云い過ぎも忘れてもらいたいとおもうからのこと、聞いてくれこういうわけだ、過日の夜は実は我もあまり汝をわからぬ奴と一途いちずに思って腹も立った、恥かしいが肝癪かんしゃくも起しごうにやし汝の頭を打砕ぶっかいてやりたいほどにまでも思うたが、

「しかし幸いに俺の頭が悪玉ばかりに乗っ取られず、清吉が酔っ払って言い散らした無茶苦茶を聞いているうちに、了見の小さい奴はつまらないことを恥ずかしくもなく言うものだとおかしくなった途端、あの夜お前の家で俺が言ったことも清吉の言葉と似たり寄ったりと気がついて、ええ間違った、と反省したわ。お前が何もかも捨てて辞退しているのに、逆に意地を張れば大間違い、と思いながらもお前の分からなさに腹が立ち、どこから考えてもここを立てればあそこに無理が出ると」、

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しかし幸福しあわせに源太の頭が悪玉にばかりは乗っ取られず、清吉めが家へ来て酔った揚句に云いちらした無茶苦茶を、ああ了見のちさい奴はつまらぬことを理屈らしく恥かしくもなく云うものだと、聞いているさえおかしくてたまらなさにふとそう思ったその途端、その夜汝の家でならべ立って来た我の云い草に気がついて見れば清吉が言葉と似たり寄ったり、ええ間違った一時の腹立ちにき込まれたか残念、源太男がすたる、意地が立たぬ、上人の蔑視さげすみも恐ろしい、十兵衛が何もかも捨てて辞退するものをはすに取って逆意地さかいじたてれば大間違い、とは思ってもあまり汝のわからな過ぎるが腹立たしく、四方八方どこからどこまで考えて、ここを推せばそこに襞襀ひずみが出る、あすこを

「俺の知恵と分別をありたけ尽くして考えたことをむげに否定されたのが腹立たしくて、かなり我慢もしたが、決心して上人様にお目にかかって事情を申し上げたら、よいよいとたった一言でもやもやが全部消えて、清々しい風が大空を吹いているような気持ちになったわ。昨日はまた上人様から特別のお呼びで、行ってみたら俺を褒めてくださった上に、いよいよ十兵衛に工事一切を申しつけたから陰になって助けてやれ、それが皆お前の徳になるのじゃ、十兵衛には職人も足りないだろう、彼がいよいよ取りかかる日には何人も雇うその中にお前の手下も交じろう」。

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立てればここに無理があると、まあ我の知恵分別ありたけ尽して我のためばかりはかるではなく云うたことを、むげに云い消されたが忌々いまいましくて忌々しくて随分堪忍がまんもしかねたが、さていよいよ了見をめて上人様のお眼にかかり所存を申し上げて見れば、よいよいと仰せられたただの一言に雲霧もやもやはもうなくなって、すずしい風が大空を吹いて居るような心持になったわ、昨日きのうはまた上人様からわざわざのお招きで、行って見たれば我を御賞美のお言葉数々のその上、いよいよ十兵衛に普請一切申しつけたがかげになって助けてやれ、皆そなたの善根福種になるのじゃ、十兵衛が手には職人もあるまい、あれがいよいよ取りかかる日には何人いくらやとうそのうちに汝が手下の者も交じろう

「必ずそねんだり恨んだりしないよう、それらにはお前からよく言い含めてやるがよいとの細かいお諭し、何から何まで見通しでお慈悲深い上人様のありがたさにつくづく我を折って帰ってきたが、十兵衛、あの夜の言い過ぎは堪忍してくれ。こうした俺の心意気がわかってくれたら、今まで通りきれいに仲よく付き合ってもらおう。材木の仕入れ、鳶人足への取引など、まだ顔が売れていないお前にはやりにくいこともあろうが、それには俺の顔も貸そうし手も貸そう、丸丁・山六・遠州屋、いい問屋は」。

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、必ず猜忌邪曲そねみひがみなど起さぬようにそれらには汝からよく云い含めてやるがよいとの細かいおさとし、何から何まで見透しでお慈悲深い上人様のありがたさにつくづく我折って帰って来たが、十兵衛、過日こないだの云い過ごしは堪忍かにしてくれ、こうした我の心意気がわかってくれたら従来いままで通りきよむつまじく交際つきあってもらおう、一切がこう定まって見れば何と思ったと思ったは皆夢の中の物詮議、後にのこして面倒こそあれやくないこと、この不忍の池水にさらりと流して我も忘りょう、十兵衛きさまも忘れてくれ、木材きしなの引合い、鳶人足とびへの渡りなんど、まだ顔を売り込んでいぬ汝にはちょっとしにくかろうが、それらには我の顔も貸そうし手も貸そう、丸丁まるちょう山六やまろく遠州屋えんしゅうや、いい問屋といや

「皆馴染みでないと向こうがこちらを安く見るから、何でも歯がゆいことのないよう俺を自由に使え。め組の頭(かしら)の鋭次というのは短気なのはお前も知っているだろうが、骨は黒鉄、根性は火の玉だと普段から言うだけあって、じっくり頼めばぐっと引き受けてくれる頼もしい男。塔は何より土台が大事、地盤の固めをあれにさせれば、火の玉鋭次の根性だけでも不動の台座の岩より堅く基礎(いしずえ)をしっかり据えてくれるのは間違いない。あれにもやがて紹介しよう。もうこうなった以上は源太の望みはただ一つ、天晴れ(あっぱれ)十兵衛お前がよくやりさえすればそれでよい。ただただ塔さえよくできればそれに越した嬉しいことはな」。

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は皆馴染なじみでのうては先方さきがこっちを呑んでならねば、万事歯痒はがゆいことのないよう我を自由に出しに使え、め組のかしら鋭次えいじというは短気なは汝も知って居るであろうが、骨は黒鉄くろがね、性根玉ははばかりながら火の玉だと平常ふだん云うだけ、さてじっくり頼めばぐっと引き受け一寸退かぬ頼もしい男、塔は何より地行じぎょうが大事、空風火水の四ツを受ける地盤の固めをあれにさせれば、火の玉鋭次が根性だけでも不動が台座の岩より堅く基礎いしずえしかとえさすると諸肌もろはだぬいでしてくるるは必定ひつじょう、あれにもやがて紹介ひきあわしょう、もうこうなった暁には源太が望みはただ一ツ、天晴あっぱれ十兵衛汝がよくしでかしさえすりゃそれでよいのじゃ、ただただ塔さえよくできればそれに越した嬉しいことはな

「い。もし百年千年後の世に残るものに失敗があっては悲しかろうではないか。情けないではないか。源太十兵衛の時代にはこんなくだらない建物で泣いたり笑ったりしたそうな、と言われる日には、なあ十兵衛、二人の骨も魂も粉々にされて消し飛ばされるぞ。下手な細工で世に出ないのは恥も少ないが、残したものを弟子たちに笑われる日には、親に意見される息子よりも何倍も恥ずかしかろう。初めは俺もここまで深く思い寄らなかったが、お前が俺の向こうに回ったその意気張りから、十兵衛に塔を建てさせて見よ、源太に劣りはすまいとなるか、源太が建てて見せよう、何で十兵衛に劣ろうぞと」。

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い、かりそめにも百年千年末世に残って云わば我たちの弟子筋の奴らが眼にも入るものに、へまがあっては悲しかろうではないか、情ないではなかろうか、源太十兵衛時代にはこんなくだらぬ建物に泣いたり笑ったりしたそうなと云われる日には、なあ十兵衛、二人が舎利しゃり魂魄たましい粉灰こばいにされて消し飛ばさるるわ、へたな細工で世に出ぬは恥もかえって少ないが、遺したものを弟子めらに笑わる日には馬鹿親父おやじが息子に異見さるると同じく、親に異見を食う子より何段増して恥かしかろ、生き磔刑はりつけより死んだ後塩漬の上磔刑になるような目にあってはならぬ、初めは我もこれほどに深くも思い寄らなんだが、汝が我の対面むこうにたったその意気張りから、十兵衛に塔建てさせ

「腹の底では先の先まで見通して、我意はなんにもなくなった。ただよくできてくれさえすればお前も名誉、俺も喜び、今日はこれだけ言いたかっただけ。ああ十兵衛、その大きな目を潤ませて聞いてくれたか、嬉しいやい」と磨き上げられた純粋な江戸っ子気質の源太が言い終えると、じっと聞いていた十兵衛は何も言わずに畳に額をつけ、「親方、堪忍してください、口がきけません。十兵衛には口がきけません、こ、この通り、ありがとうございます」と愚かしくも誠実に土下座して泣いた。

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見よ源太に劣りはすまいというか、源太が建てて見せくりょう何十兵衛に劣ろうぞと、腹の底には木をって出した火でる先の先、我意はなんにもなくなったただよくできてくれさえすれば汝も名誉ほまれ我も悦び、今日はこれだけ云いたいばかり、ああ十兵衛その大きな眼を湿うるませていてくれたか嬉しいやい、とみがいていで礪ぎ出した純粋きっすい江戸ッ子粘り気なし、ぴんでなければ六と出る、忿怒いかりの裏の温和やさしさもあくまで強き源太が言葉に、身動みじろぎさえせで聞きいし十兵衛、何も云わず畳に食いつき、親方、堪忍かにして下され口がきけませぬ、十兵衛には口がきけませぬ、こ、こ、この通り、ああありがとうござりまする、と愚かしくもまた真実まことにただ平伏ひれふして泣きいたり。

その二十二

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其二十二

言葉はなくても誠実が見える十兵衛の様子に源太は喜び、春風が湖の水を渡って霞が日に蒸すような穏やかな表情で、やさしく続けた。「こう打ち解けた上は互いにまずいこともなく、上人様の思し召しにもかない、我たちの面目も皆立つというもの。ああなんにせよいい気持ちだ。十兵衛、お前も許してくれ、俺も今日こそ十分酔おう」と言いつつ立って違い棚に置いてあった風呂敷の包みを取り下ろし、中の書類を取り出して十兵衛の前に置いた。材木の詳細な調べから人足その他の費用計算まで幾晩もかかって調べ上げた見積書と、あそこをどうしてここをこう」。

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言葉はなくても真情まことは見ゆる十兵衛が挙動そぶりに源太は悦び、春風みずを渡ってかすみ日に蒸すともいうべき温和の景色を面にあらわし、なおもやさしき語気円暢なだらかに、こう打ち解けてしもうた上は互いにまずいこともなく、上人様の思召おぼしめしにもかない我たちの一分いちぶんも皆立つというもの、ああなんにせよ好い心持、十兵衛汝も過してくれ、我も充分今日こそ酔おう、と云いつつ立って違いだなに載せて置いたる風呂敷包みとりおろし、結び目といて二束ふたつかねにせし書類かきものいだし、十兵衛が前に置き、我にあっては要なき此品これの、一ツは面倒な材木きしな委細くわしい当りを調べたのやら、人足軽子かるこそのほかさまざまの入目を幾晩かかかってようやく調べあげた積り書、また一ツはあすこをどうしてこ

「というふうに工夫を凝らした下絵図、腰屋根の設計もあり、平地割りもあり、初重の仕形もあり、出し組のみのもあり、彫物の図もあり、もっとも複雑な真柱から各部材の寸法・算法・墨縄の引き方・矩尺(かねじゃく)の取り方まで余さず記したものもあり、中には先祖の遺した秘蔵の絵図や、京都・奈良の堂塔を写し取ったものまであった。これらはみんなお前に預ける。見たら何かの足しになろう」と、自分の心血を込めたものを惜しげもなく譲り渡す胸の広さの」。

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こをこうしてと工夫に工夫した下絵図、腰屋根の地割りだけなもあり、平地ひらじ割りだけなのもあり、初重の仕形だけのもあり、二手先または三手先、出し組ばかりなるもあり、雲形波形唐草からくさ生類しょうるい彫物のみを書きしもあり、何よりかより面倒なる真柱から内法うちのり長押なげし腰長押切目長押に半長押、縁板えんいた縁かつら亀腹柱高欄垂木たるきます肘木ひじきぬきやら角木すみぎの割合算法、墨縄すみの引きよう規尺かねの取りよう余さずらさず記せしもあり、中には我のせしならで家に秘めたる先祖の遺品かたみ、外へは出せぬ絵図もあり、京都きょうやら奈良の堂塔を写しとりたるものもあり、これらはみんなきさまに預くる、見たらば何かの足しにもなろ、と自己おの精神こころめたるものを惜しげもなしに譲りあたうる、胸の広さの

頼もしさはわかるが、のっそりにはまた独自の気持ちがあり、他人の財布で自分の口を潤すようなことは好まなかった。「親方、誠にありがとうございますが、お気持ちはいただいたも同然、これはそちらにお納めを」と膠(にべ)もない返事をすれば、源太は大いに喜ばなかった。

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頼もしきをせぬというにはあらざれど、のっそりもまた一気性、ひと巾着きんちゃくでわが口らすようなことは好まず、親方まことにありがとうはござりまするが、御親切は頂戴いただいたも同然、これはそちらにお納めを、と心はさほどになけれども言葉ににべのなさ過ぎる返辞をすれば、源太大きに悦ばず。

「それはお前が要らないというのか」と内心の怒りを抑えて問うのに、のっそりは気づかず「別に拝借いたしましても」とうっかり答えた途端、鋭い気性の源太はたまらず、「親切に親切を尽くして俺の知恵と工夫を込めた絵図まであげようというのに、むげに返すのは失礼だ。いくらお前の腕がよくとも他人の親切を無にするのか。そもそも最初にお前が俺の向こうに回った時も腹が立ったが、じっと我慢して争わなかった。普通の人ならば俺の庇護(ひご)を受けた身で一つの仕事に手を入れるかと叩きのめしても飽きない奴と怒って怒ってどうにでもすべきところを、かわいいと思えばこそ一言半句の嫌みも言わず、ただただ成り行きに任せておいたのを忘れたか。上人様のお諭しを」

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此品これをば汝はらぬと云うのか、といかりを底にかくして問うに、のっそりそうとは気もつかねば、別段拝借いたしても、と一句うっかり答うる途端、鋭き気性の源太はたまらず、親切の上親切を尽してわが知恵思案を凝らせし絵図までやらんというものを、むげに返すか慮外なり、何ほど自己おのれ手腕うでのよくてひと好情なさけを無にするか、そもそも最初におのれめがわが対岸むこうへ廻わりし時にも腹は立ちしが、じっとこらえて争わず、普通大体なみたいていのものならばわが庇蔭かげたる身をもって一つ仕事に手を入るるか、打ちたたいても飽かぬ奴と、怒って怒ってどうにもすべきを、可愛かわゆきものにおもえばこそ一言半句の厭味も云わず、ただただ自然の成行きに任せおきしを忘れしか、上人様のお諭し

「受けた後も知恵を絞りに絞ってわざわざ出かけ、お前のために相談をかけてやったのも、当然できないことでも我慢すべきところをよくよくお前をいとしく思えばこそ踏み堪えたとも知らないのか。お前の運の良さだけで、お前の腕の良さだけで、お前の心の正直さだけで、上人様から今度の仕事を命じられたと思っているのか。これをやって俺が恩着せがましく思うとでも思うか。それとももう慢心が芽生えてお前の知らないことなどないと人の絵図を容易く思うのか。取らないというなら強いるまいが、あまりにも人情がない奴だ。ありがとうございますと喜んで受けて、中の設計を一か所二か所使った上に、あの箇所はおかげでうまくいきましたと後で挨拶す」。

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を受けての後も分別に分別らしてわざわざ出かけ、汝のために相談をかけてやりしも勝手の意地張り、大体ならぬものとても堪忍がまんなるべきところならぬを、よくよく汝をいとしがればぞ踏みこたえたるとも知らざるか、汝が運のよきのみにて汝が手腕うでのよきのみにて汝が心の正直のみにて、上人様より今度の工事しごといいつけられしと思い居るか、此品これをばやってこの源太が恩がましくでも思うと思うか、乃至ないしはもはや慢気のきざしててんからなんのつまらぬものと人の絵図をも易く思うか、取らぬとあるに強いはせじ、あまりといえば人情なき奴、ああありがとうござりますると喜び受けてこのうちの仕様を一所二所ひととこふたとこは用いし上に、あの箇所はお蔭でうもう行きましたと後で挨拶あいさつ

「るくらいのことがあっても当然なのに、開けて見もせずのぞきもせず、知れきっているとでも言いたいばかりに愛想もなく要らぬとは、十兵衛よくも断れたな。この源太の描いた図の中にお前の知っているものしかあるものか。お前らの工夫の輪の外に源太が飛び出ていないとでも思うか。見るに足らないとそちで思えばお前の腕前も知れてある。大方どんな塔ができるか建てる前から目に映って批判もあろう、もう我慢の緒も切れた。卑劣(きたな)い仕返しはしないが源太の激しい意趣返しは、する時しないでおくべきか。酸くなるほど今まで口をきいたがもうきかない。一旦思い捨てる上は未練もない。三年でも十年でも仕返しするに十分なことのあるまで、物陰から目を光」。

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るほどのことはあっても当然なるに、けて見もせずのぞきもせず、知れきったると云わぬばかりに愛想もすげもなく要らぬとは、汝十兵衛よくもねたの、この源太がした図の中に汝の知ったもののみあろうや、うぬらが工風の輪の外に源太がおどり出ずにあろうか、見るに足らぬとそちで思わばおのれが手筋も知れてある、大方高の知れた塔建たぬ前から眼にうつって気の毒ながら批難なんもある、もう堪忍の緒もれたり、卑劣きたな返報かえしはすまいなれど源太がはげしい意趣返報がえしは、する時なさでおくべきか、酸くなるほどに今までは口もきいたがもうきかぬ、一旦思い捨つる上は口きくほどの未練ももたぬ、三年なりとも十年なりとも返報しかえしするに充分なことのあるまで、物蔭から眼を光

「らせて睨みつめ無言でじっと待っていてくれよう」と気性の違いから二度三度とすれ違い、とうとう物静かに声を低めて「十兵衛殿」と殿の字を急につけ丁寧に、「要らないという図はしまいましょ。あなた一人で建てる塔は定めて立派にできるだろうが、地震か風の時に壊れることはあるまいな」と軽く言いながら深く嘲る言葉に十兵衛も気持ちよくなく、「のっそりでも恥辱(はじ)は知っています」と底力ある一言を返せば、「なかなか見事な一言だ、忘れないように覚えておこう」と釘をさしながら恐ろしく睨んで後は物も言わず、やがてたちまち立ち上がって、「ああとんでもないことを忘れた、十兵衛殿、ゆっくりしていてくれ、俺は帰らないといけないことを思い出し」。

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らして睨みつめ無言でじっと待っててくりょうと、気性が違えば思わくも一二度ついに三度めで無残至極に齟齬くいちがい、いと物静かに言葉を低めて、十兵衛殿、と殿の字を急につけ出し叮嚀ていねいに、要らぬという図はしまいましょ、そなた一人で建つる塔定めて立派にできようが、地震か風のあろう時こわるることはあるまいな、と軽くは云えど深く嘲けることばに十兵衛も快よからず、のっそりでも恥辱はじは知っております、と底力味あるくさびを打てば、なかなか見事な一言じゃ、忘れぬように記臆おぼえていようと、くぎをさしつつ恐ろしくにらみて後は物云わず、やがてたちまち立ち上って、ああとんでもないことを忘れた、十兵衛殿ゆるりと遊んでいてくれ、我は帰らねばならぬこと思い出し

「た」と風のようにその場を去り、あれという間に代金を置いてふいと出て行った。すぐその足で同じ町の別の店に飛び込むや、「厭だ厭だ、厭だ厭だ、つまらないくだらない馬鹿馬鹿しい、ぐずぐずせず酒を持て来い、ろうそくいじってそれが食えるか、肴(さかな)で酒が飲めるか、小兼、春吉、お房、蝶子、四の五の言わせず連れて来い、足の達者な若い衆を頼も、うちに行って清・仙・鉄・政、誰でも彼でもすぐに遊びに寄こすよう」と言いながらぐいぐい飲み、入ってきた女たちに、「今晩なんかでは手ぬるいぞ」と焦りをぶつけ、「飲め、酒は車懸かり、猪口(ちょく)は巴(ともえ)と回せ回せ、お房見栄を張るな、春婆大人ぶるな、ええお蝶め、それでも血が巡っているのか、頭上に」。

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た、と風のごとくにその座を去り、あれという間に推量勘定、幾金いくらか遺してふいと出つ、すぐその足で同じ町のある家がしきいまたぐや否、厭だ厭だ、厭だ厭だ、つまらぬくだらぬ馬鹿馬鹿しい、ぐずぐずせずと酒もて来い、蝋燭ろうそくいじってそれが食えるか、鈍痴どじさかなで酒が飲めるか、小兼こかね春吉はるきちふさ蝶子ちょうこ四の五の云わせず掴んで来い、すねの達者な若い衆頼も、我家うちへ行て清、仙、鉄、政、誰でも彼でもすぐに遊びによこすよう、という片手間にぐいぐい仰飲あおる間もなく入り来る女どもに、今晩なぞとは手ぬるいぞ、とまっ向から焦躁じれを吹っかけて、飲め、酒は車懸くるまがかり、猪口ちょくは巴と廻せ廻せ、お房外見みえをするな、春婆大人ぶるな、ええお蝶めそれでも血が循環めぐって居るのか頭上あたま

「鼬花火(いたちはなび)載せて火をつけるぞ、さあ歌え、じゃんじゃんとやれ、小兼め気持ちのいい声を出す、あぐり踊るか、かぐりもっと跳ねろ、やあ清吉来たか鉄も来たか、なんでもいい滅茶苦茶に騒げ、俺に嬉しいことがあるのだ、無礼講にやれやれ」と大将無法の元気なので、遅れて来た仙も政も巻き込まれて浮き立ち、天井が抜けようが根太が抜けようがお手のものと、飛ぶやら舞うやら唸るやら、踊りに鬨(とき)の声を湧かし、かっぽれで転んで、手品の太鼓を杯洗(はいせん)で鉄がたたけば、清吉はお房の傍に寝転んで銀のかんざしで歌の稽古をする馬鹿騒ぎの中で、一了見ありそうな政が木遣(きやり)をつぶしたような声で」。

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鼬花火いたちはなび載せて火をつくるぞ、さあ歌え、じゃんじゃんとやれ、小兼め気持のいい声を出す、あぐり踊るか、かぐりもっとねろ、やあ清吉来たか鉄も来たか、なんでもいい滅茶滅茶に騒げ、我に嬉しいことがあるのだ、無礼講にやれやれ、と大将無法の元気なれば、後れて来たる仙も政もけぶに巻かれて浮かれたち、天井抜きょうが根太抜きょうが抜けたら此方こちのお手のものと、飛ぶやら舞うやらうなるやら、潮来出島いたこでじまもしおらしからず、甚句にときの声を湧かし、かっぽれにすべって転倒ころび、手品てずまの太鼓を杯洗で鉄がたたけば、清吉はお房が傍に寝転んで銀釵かんざしにお前そのよに酢ばかり飲んでを稽古する馬鹿騒ぎの中で、一了簡あり顔の政が木遣きやりを丸めたような声しながら、

「北に峨々たる青山を」などと妙なことを歌い出す勝手三昧、やたらに騒ぐ末には品のないことにもなって、「さあもうここは切り上げて」と源太が一言言えば、それから先はどこへやらと皆散っていった。

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北に峨々ががたる青山せいざんをとおつなことを吐き出す勝手三昧ざんまい、やっちゃもっちゃの末はけんも下卑て、乳房ちちふくれた奴が臍の下に紙幕張るほどになれば、さあもうここは切り上げてと源太が一言、それから先はどこへやら。

その二十三

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其二十三

鷹が空を飛ぶ時によそ見はしないように、鶴なら鶴一点張りに雲をも突き抜け風にも向かって目指す獲物の喉元(のどもと)を掴むまでは満足しないものだ。

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蒼鸇たかの飛ぶ時よそはなさず、鶴なら鶴の一点張りに雲をも穿うがち風にもむかって目ざす獲物の、咽喉仏のどぼとけ把攫ひっつかまでは合点せざるものなり。

十兵衛はいよいよ五重塔の工事をすることに決まってから、寝ても起きてもそれ一筋で、朝ご飯を食べる時も心の中では塔のことを考え、夜の夢でも魂は九輪の頂を巡るほどだったから、まして仕事にかかっては妻のことも子のことも忘れ果て、昨日の自分も明日の自分も念頭になく、ただ一つの釿(ちょうな)を振り上げて木を切る時は満身の力をそれに込め、一枚の図を引く時は一心の誠をそれに注ぎ、五尺の体こそ俗世にあるものの、心は紛れる縁に奪われず必死に励んでいれば、あの夜源太に面白くなく思われたことは気にかからないでもないが、日ごろからののっそりますます長じて、

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十兵衛いよいよ五重塔の工事しごとするに定まってより寝ても起きてもそれ三昧ざんまい、朝の飯うにも心の中では塔をみ、夜の夢結ぶにも魂魄たましいは九輪の頂をめぐるほどなれば、まして仕事にかかっては妻あることも忘れ果てのあることも忘れ果て、昨日きのうの我を念頭に浮べもせず明日あすの我を想いもなさず、ただ一釿ちょうなふりあげて木をるときは満身の力をそれにめ、一枚の図をひく時には一心の誠をそれに注ぎ、五尺の身体こそ犬鳴きとり歌い権兵衛が家に吉慶よろこびあれば木工右衛門もくえもんがところに悲哀かなしみある俗世にりもすれ、精神こころは紛たる因縁にられで必死とばかり勤め励めば、さきの夜源太に面白からず思われしことの気にかからぬにはあらざれど、日ごろののっそりますます長じて、

いつのまにか風が吹いたくらいのことと自然に軽く受け取り、やがてはとんと打ち忘れ、ただひたすら仕事にのみかかったのは、愚かなだけに情けに鈍くて、一本道よりほかを走れない老牛の鈍さに似ていた。

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はやいずくにか風吹きたりしぐらいに自然軽う取りし、やがてはとんと打ち忘れ、ただただ仕事にのみかかりしは愚かなるだけ情に鈍くて、一条道ひとすじみちより外へはけぬ老牛おいうしの痴に似たりけり。

金箔・銀箔・瑠璃(るり)・真珠・水晶などの五宝、丁子(ちょうじ)・沈香(じんこう)などの五香、五薬・五穀まで備えて地の神々を祭る地鎮の式も済み、土台の石を生気の方から右回りに次第に据えて五星を祭り、釿初(ちょうなはじめ)の大礼には大工の道を開いた神々まで七神を祭り、清鉋(きよがんな)の礼も首尾よく済み、四方を守る四天王にかたどる四方の柱を千年万年揺るぐなと祈り定める柱立式が行われ、北斗七星を祭って永久の安護を願い、順に柱の仮楔を三つずつ打って手下に打ち固めさせる十兵衛は、幾多の苦心もここまで進められ」。

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金箔きんぱく銀箔瑠璃るり真珠水精すいしょう以上合わせて五宝、丁子ちょうじ沈香じんこう白膠はくきょう薫陸くんろく白檀びゃくだん以上合わせて五香、そのほか五薬五穀まで備えて大土祖神おおつちみおやのかみ埴山彦神はにやまひこのかみ埴山媛神はにやまひめのかみあらゆる鎮護の神々を祭る地鎮の式もすみ、地曳じびき土取り故障なく、さて竜伏いしずえはその月の生気の方より右旋みぎめぐりに次第え行き五星を祭り、釿初ちょうなはじめの大礼には鍛冶かじの道をばはじめられしあま一箇ひとつみこと、番匠の道ひらかれし手置帆負ておきほおいみこと彦狭知ひこさちみことより思兼おもいかねみこと天児屋根あまつこやねみこと太玉ふとだまみこと、木の神という句々廼馳くくのちかみまで七神祭りて、その次の清鉋きよがんなの礼も首尾よく済み、東方提頭頼吒持国天王とうほうたいとらだじごくてんおう西方尾嚕叉広目天王さいほうびろしゃこうもくてんおう南方毘留勒叉増長天なんぽうびるろしゃぞうちょうてん北方毘沙門多聞天王ほっぽうびしゃもんたもんてんおう、四天にかたどる四方の柱千年万年ゆるぐなと祈り定むる柱立式はしらだて天星色星多願てんせいしきせいたがん

「ば垢まみれの顔にも光が出るほど喜びに気が勇み立ち、動かない太い柱と式で唱える古歌さえも何となくつくづく嬉しく、身を立てる世のためしぞとその下の句を吟じながらにこにこして二度繰り返し、壇に向かって礼拝し、拍手(かしわで)の音清く響かせ一切成就の祓(はらい)を終えるここの光景とは引き替えに、源太の家の物寂しさよ。

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玉女ぎょくじょ三神、貪狼巨門たんろうきょもん等北斗の七星を祭りて願う永久安護、順に柱の仮轄かりくさびを三ッずつ打って脇司わきつかさに打ちめさする十兵衛は、幾干いくその苦心もここまで運べば垢穢きたなきかおにも光の出るほど喜悦よろこびに気の勇み立ち、動きなき下津盤根しもついわねの太柱と式にて唱うる古歌さえも、何とはなしにつくづく嬉しく、身を立つる世のためしぞとその下の句を吟ずるにも莞爾にこにこしつつ二たびし、壇に向うて礼拝つつしみ、拍手かしわでの音清く響かし一切成就のはらいを終るここの光景さまには引きかえて、源太が家の物淋ものさびしさ。

主人は男として心強く思いを外に現さないが、お吉はいくらさばけているとはいえさすが女の胸は小さく、出入りする人から感応寺の塔の地鎮式が今日済んだ、柱立式が昨日済んだと聞くたびに癪(しゃく)に障り、嫉妬の炎が突き上がって、「お前、十兵衛、恩知らずめ、夫の心の広いのをよいことにして得意になり、うまうま名を上げ身を立てるのか。よし名が上がり身が立てば、さしずめお礼に来るべきはずなのに、知らぬ顔して鼻高々とその日その日を送りくさるのか。優しすぎる夫も夫なら面憎いのっそりめもまたのっそりめ」と、折にふれては縦横に癇癪の虫を跳ね回らせ、自分の後れ毛を上げても「えい、じれったい」と罪のない髪をかきむしり、一文もらいに乞食が来ても甲高い声で」。

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主人あるじは男の心強く思いを外には現わさねど、お吉は何ほどさばけたりとてさすが女の胸小さく、出入るものに感応寺の塔の地曳きの今日済みたり柱立式昨日済みしと聞くたびごとに忌々いまいましく、嫉妬の火炎ほむらき上がりて、おのれ十兵衛恩知らずめ、良人うちの心の広いのをよいことにしてつけ上り、うまうま名を揚げ身を立つるか、よし名のあがり身の立たばさしずめ礼にも来べきはずを、知らぬ顔して鼻高々とその日その日を送りくさるか、あまりに性質ひとのよ過ぎたる良人も良人なら面憎きのっそりめもまたのっそりめと、折にふれては八重縦横に癇癪かんしゃくの虫ね廻らし、自己おの小鬢こびんの後れ毛上げても、ええれったいと罪のなき髪をきむしり、一文もらいに乞食が来ても甲張り声

「きつく断ったりしていたが、ある日源太が留守のところへ、顔なじみの医者・道益(どうえき)というおしゃべりな坊主が遊びに来て、あれこれ話した末に、「ある人に連れられてこのあいだ蓬莱屋に参りましたが、お伝という女から聞きました一部始終、いやどうも棟梁は違ったもの、えらいもの、男はそうありたいと感服いたしました」とお世辞半分何の気なしに話し出した言葉を手がかりに、その夜の詳しい様子を聞けば、知らないだけでも口惜しいのに知っては重々憎き十兵衛、お吉はいよいよ腹を立てた。

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むご謝絶ことわりなどしけるが、ある日源太が不在るすのところへ心易き医者道益どうえきという饒舌おしゃべり坊主遊びに来たりて、四方八方よもやまの話の末、ある人に連れられてこのあいだ蓬莱屋へまいりましたが、お伝という女からききました一分始終、いやどうも此方こちの棟梁は違ったもの、えらいもの、男児おとこはそうありたいと感服いたしました、とお世辞半分何の気なしに云い出でしことばを、手繰たぐってその夜の仔細しさいをきけば、知らずにいてさえ口惜しきに知っては重々憎き十兵衛、お吉いよいよ腹を立ちぬ。

その二十四

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其二十四

「清吉、あなたは情けない、意地も察しもない男、なぜ私に打ち明けて先日の夜の様子を今まで話してくれなかった。気の毒と変に遠慮したのか、あまりにもけちな根性。よしや詳しく聞いたとてまさか私が取り乱すようなことはしないのに、女と軽しめて何事も知らせず隠し立てしておく夫の了簡はともかく、あなたたちまで私を耳が聞こえない目も見えない扱いにして澄ましているとはひどい仕打ち。また親方の腹の中が見え見えなのに平気の平左で酒に浮かれ、女郎買いの供するばかりが男の能でもあるまいに、のんきにこうして遊びに来るとは、清吉あなたもお気楽なの。いつもは留守でも飲ませるところだが今日は私は関わらない、海苔」

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清吉そなた腑甲斐ふがいない、意地も察しもない男、なぜ私には打ち明けてこないだの夜の始末をば今まで話してくれなかった、私に聞かして気の毒とおつに遠慮をしたものか、あまりといえば狭隘けちな根性、よしや仔細を聴いたとてまさか私が狼狽うろたえまわり動転するようなことはせぬに、女とかろしめて何事も知らせずにおき隠し立てしておく良人うちのひとの了簡はともかくも、汝たちまで私をつんぼ盲目めくらにして済まして居るとはあまりな仕打ち、また親方の腹の中がみすみす知れていながらに平気の平左で酒に浮かれ、女郎買いの供するばかりが男の能でもあるまいに、長閑気のんきでこうして遊びに来るとは、清吉おまえもおめでたいの、平生いつも不在るすでも飲ませるところだが今日は私はかまえない、海苔のり

「一枚焼いてやるのも嫌ならくだらない世間話の相手するのも虫が嫌う、飲みたければ勝手に台所に行って蛇口をひねりな、話がしたければ猫でも相手にするがよい」と何も知らない清吉、道益が帰った後でたまたま来合わせてさんざんお吉の不機嫌を浴びせかけられ、わけもわからず驚きあきれてへどもどしながらだんだんと様子を聞けば、自分も知らずにいたことだが、聞けばなるほどどうあっても我慢のならないのっそりの憎さ、命と頼む親方に重々恩を着た身でありながら無遠慮すぎた十兵衛の処置、あくまで親切まっすぐの親方の顔を踏みつけたその憎さ、どうしてくれよう。

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一枚焼いてやるも厭ならくだらぬ世間咄せけんばなしの相手するも虫が嫌う、飲みたくば勝手に台所へ行ってみ口ひねりや、談話はなしがしたくばねこでも相手にするがよい、と何も知らぬ清吉、道益が帰りし跡へ偶然ふと行き合わせてさんざんにお吉が不機嫌を浴びせかけられ、わけもわからず驚きあきれて、へどもどなしつつだんだんと様子を問えば、自己おのれも知らずに今の今までいしことなれど、聞けばなるほどどうあっても堪忍がまんのならぬのっそりの憎さ、生命いのちと頼むわが親方に重々恩をた身をもって無遠慮過ぎた十兵衛めが処置振り、あくまで親切真実の親方の顔踏みつけたる憎さも憎しどうしてくりょう。

「ムム、親方と十兵衛とは相撲にならない身分の違い、のっそり相手に争っては夜光の玉を小石にぶつけるようなものだから、腹は十分立てられても分別強くこらえてこらえて、誰にも鬱憤(うっぷん)を漏らさず知らせずいるのだろう、ええ親方は情けない、ほかの奴はともかく清吉だけには知らせてもよさそうなものを。親方とのっそりなら向こうが損、俺とのっそりなら損はない、よし、十兵衛め、ただ置いておくか」とはやり立った鼻先思案。

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ムム親方と十兵衛とは相撲すもうにならぬ身分のちがい、のっそり相手に争っては夜光のたま小礫いしころつけるようなものなれば、腹は十分立たれても分別強くこらえて堪えて、誰にも彼にも欝憤うっぷんらさず知らさず居らるるなるべし、ええ親方は情ない、ほかの奴はともかく清吉だけには知らしてもよさそうなものを、親方と十兵衛では此方こちが損、おれとのっそりなら損はない、よし、十兵衛め、ただ置こうやとはやりきったる鼻先思案。

「姉御、知らない間は是非がない、堪忍してください、様子を知ってはもう叱られてはいません。この清吉が女郎買いの供するばかりを能の野郎か野郎でないか見ていてください、さようなら」と後声(しりごえ)激しく言い捨てて格子戸をがらりと明け放し、草履もはかず後も見ず風より速く駆け去れば、お吉は今さら気遣わしくて追いかけて二声三声呼び止めようとしたが、四声目にはもう影さえも見えなくなっていた。

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姉御、知らぬ中は是非がない、堪忍かにして下され、様子知ってははばかりながらもう叱られてはおりますまい、この清吉が女郎買いの供するばかりを能の野郎か野郎でないか見ていて下され、さようならば、と後声しりごえはげしく云い捨てて格子戸こうしどがらり明けっ放し、草履ぞうりもはかず後も見ず風よりはやく駆け去れば、お吉今さら気遣きづかわしくつづいて追っかけ呼びとむる二声三声、四声めにははや影さえも見えずなったり。

その二十五

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其二十五

木を削る斧の音、板を削る鉋(かんな)の音、穴を掘るやら釘を打つやら、丁々かちかちと音が忙しく響き、木片(こっぱ)は飛んで疾風に木の葉がひるがえるように、鋸屑(おがくず)が舞って晴天に雪が降るよう、感応寺境内の工事現場は賑やかで、紺の腹掛けをして股引をいなせに履いた職人たちが、ある者は器用に働き、ある者は日当たりのよい場所に蹲踞(しゃがみ)んでのんびりと鑿(のみ)を研ぎ、道具を捜しにまごつく子どもの職人、しきりに木を挽く日雇い取り、人それぞれ骨を折り汗をかく中に、総棟梁ののっそり十兵衛が皆の仕事を監督しながら、墨壺・墨さし・矩尺(かねじゃく)を持って胸三寸に描いた設計を実物にする指図・命令を行っていた。

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はつよきの音、板削るかんなの音、あなるやらくぎ打つやら丁々かちかち響きせわしく、木片こっぱは飛んで疾風に木の葉のひるがえるがごとく、鋸屑おがくず舞って晴天に雪の降る感応寺境内普請場の景況ありさまにぎやかに、紺の腹掛け頸筋くびすじに喰い込むようなをかけて小胯こまたの切り上がった股引ももひきいなせに、つっかけ草履の勇み姿、さも怜悧りこうげに働くもあり、よご手拭てぬぐい肩にして日当りのよき場所に蹲踞しゃがみ、悠々然とのみ衣服なり垢穢きたなじじもあり、道具捜しにまごつく小童わっぱ、しきりに木をく日傭取り、人さまざまの骨折り気遣い、汗かき息張るその中に、総棟梁ののっそり十兵衛、皆の仕事を監督みまわりかたがた、墨壺墨さし矩尺かねもって胸三寸にある切組を実物にする指図命令いいつけ

「こう切れ、ああ掘れ、ここをどうしてどうやって、そこにこれだけ勾配をもたせよ」と口で指示し墨縄でも示し、面倒なところは板切れに矩尺の使い方を書いて示し、鵜の目鷹の目油断なく必死になってみずから励んでいたところへ、猪(いのしし)よりもなお速く埃を蹴立てて飛んで来た清吉。

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こうれああ穿れ、ここをどうしてどうやってそこにこれだけ勾配こうばいもたせよ、はらみが何寸くぼみが何分と口でも知らせ墨縄なわでも云わせ、面倒なるは板片いたきれに矩尺の仕様を書いても示し、の目たかの目油断なく必死となりてみずから励み、今しも一人の若佼わかものに彫物の画を描きやらんと余念もなしにいしところへ、野猪いのししよりもなお疾く塵土ほこりを蹴立てて飛び来し清吉。

怒りの表情を火玉のようにして逆吊った目を一層見開き、「畜生、のっそり、くたばれ」と大声で叫ぶので十兵衛はびっくりして振り向いた途端、まともから岩も裂けよと打ち下すのは鋭く研ぎ澄ませた釿(ちょうな)を縦に柄にすげた大工にとっての刀のようなもので、何としても避ける間が足りず左の耳を削ぎ落とされ肩先を少し切り割かれた。し損じたとまた踏み込んで打つのを逃げつつ、投げつけてくる釘箱・才槌(さいづち)・墨壺・矩尺(かねじゃく)、武器のないまま防ぐ術がなく、身を翻して退く拍子に道具箱に足を突っ込んで五寸釘をぐさと踏み貫き、思わず転ぶを得たりとばかりに清吉が振りかぶった釿の刃先に夕日の光がきらりと宿って空に電光のように閃いた。その時その瞬間、後ろの方に乳虎一声「馬鹿」

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忿怒ふんどの面火玉のごとくし逆釣ったる目を一段視開みひらき、畜生、のっそり、くたばれ、と大喝すれば十兵衛驚き、振り向く途端にまっ向より岩も裂けよと打ち下すは、ぎらぎらするまで硎ぎ澄ませしちょうなを縦にその柄にすげたる大工に取っての刀なれば、何かはたまらん避くる間足らず左の耳をぎ落され肩先少し切りかれしが、し損じたりとまた踏ん込んで打つを逃げつつ、げつくる釘箱才槌さいづち墨壺矩尺かねざし利器えもののなさに防ぐすべなく、身を翻えして退はずみに足を突っ込む道具箱、ぐざと踏みく五寸釘、思わず転ぶを得たりやとかさにかかって清吉が振りかぶったる釿の刃先に夕日の光のきらりと宿って空に知られぬ電光いなずまの、しや遅しやその時この時、背面うしろの方に乳虎一声、馬鹿

「め」と叫ぶ男があって二間丸太でもろに両足を薙ぎ倒せば、倒れてもますます怒る清吉がたちまちむっくりと起きようとする襟元を掴んで、「やい、俺だわ、血迷うなこの馬鹿め」と何の苦もなく釿をもぎ取り捨てながら上からぬっと出す顔は、八方睨みの大きな目、一文字の口の怒り鼻、渦巻き縮れの両鬢(りょうびん)は不動明王を欺くばかりの相貌(そうぎょう)だった。

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め、と叫ぶ男あって二間丸太に論もなく両臑もろずねもろぎ倒せば、倒れてますます怒る清吉、たちまち勃然むっくと起きんとする襟元えりもとって、やいおれだわ、血迷うなこの馬鹿め、と何の苦もなく釿もぎ取り捨てながら上からぬっと出す顔は、八方にらみの大眼おおまなこ、一文字口怒り鼻、渦巻うずまき縮れの両鬢りょうびんは不動をあざむくばかりの相形そうぎょう

「やあ、火の玉の親分か、わけがある、打っちゃっておいてくれ」と力の限り払い除けようとじたばたするのを、巻き貝のような拳骨(げんこつ)で押さえつけ、「ええ、じたばたすれば殴り殺すぞ、馬鹿め」。

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やあ火の玉の親分か、わけがある、打捨うっちゃっておいてくれ、と力を限り払いけんともが焦燥あせるを、栄螺さざえのごとき拳固げんこ鎮圧しずめ、ええ、じたばたすればり殺すぞ、馬鹿め。

「親分、情けない、ここをここを放してくれ」。

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親分、情ない、ここをここを放してくれ。

「馬鹿め」。

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馬鹿め。

「ええわからない、親分、あいつを生かしてはおけないんだ」。

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ええ分らねえ、親分、あいつをかしてはおかれねえのだ。

「馬鹿め、べそをかくのか、おとなしくしなければまだ打つぞ」。

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馬鹿野郎め、べそをかくのか、おとなしくしなければまだつぞ。

「親分、ひどい」。

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親分ひどい。

「馬鹿め、やかましいわ、殴り殺すぞ」。

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馬鹿め、やかましいわ、拳り殺すぞ。

「あんまりわからない、親分」。

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あんまり分らねえ、親分。

「馬鹿め、それ打つぞ」。

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馬鹿め、それ打つぞ。

「親分」。

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親分。

「馬鹿め」。

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馬鹿め。

「放して」。

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放して。

「馬鹿め」。

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馬鹿め。

「親分」。

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親分。

「馬鹿め」。

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馬鹿め。

「放して」。

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放して。

「馬鹿め」。

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馬鹿め。

「親」。

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親。

「馬鹿め」。

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馬鹿め。

「放」。

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放。

「馬鹿め」。

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馬鹿め。

「お」。

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お。

「馬鹿め馬鹿め馬鹿め馬鹿め、ざまを見ろ、おとなしくなったろう、野郎、俺の家へ来い、やいどうした、野郎、やあこいつは気絶したな、つまらなく弱い奴だな、やあい、どいつか来い、肝心の時は逃げ出して今ごろ十兵衛の周りに蟻のように群がって何の役に立つ、馬鹿ども、こっちには死にかけがいるのだ、鈍い奴め、水でも汲んできて打っかけてやれ、落ちた耳を拾っている奴があるものか、白痴め、汲んできたか、構うことない、一時に手桶の水を全部顔に打ちつけろ、こんな野郎はしぶとく生きているものだ、それ占めた、清吉ッ、しっかりしろ、意地のない奴め、どれどれこいつは俺が背負っていってやろう、十兵衛の肩の傷は浅かろうな、むむ、よしよし、馬鹿ど」。

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馬鹿め馬鹿め馬鹿め馬鹿め、醜態ざまを見ろ、おとなしくなったろう、野郎我の家へ来い、やいどうした、野郎、やあこいつは死んだな、つまらなく弱い奴だな、やあい、どいつか来い、肝心の時は逃げ出して今ごろ十兵衛が周囲まわりありのようにたかって何の役に立つ、馬鹿ども、こっちには亡者もうじゃができかかって居るのだ、鈍遅どじめ、水でも汲んで来て打っけてやれい、落ちた耳を拾って居る奴があるものか、白痴たわけめ、汲んで来たか、かまうことはない、一時に手桶ておけの水みんな面へ打つけろ、こんな野郎は脆く生きるものだ、それ占めた、清吉ッ、しっかりしろ、意地のねえ、どれどれこいつは我が背負って行ってやろう、十兵衛が肩のきずは浅かろうな、むむ、よしよし、馬鹿ど

「もさようなら」。

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もさようなら。

その二十六

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其二十六

「源太はいるか」と入って来た鋭次を、お吉が立ち上がって「おお、親分様、まあこちらへ」と迎えれば、ずっと通って火鉢の前に大胡座(おおあぐら)をかき、桜湯を半分ばかり飲み干してお吉の顔を見た。「顔色が悪いがどうかしたか。源太はどこかへ行ったのか。聞いたであろうが清吉が要らないことをしでかしてな、それでちょっと話があって来たが、ははもう十兵衛のところへ行ったと、ハハハ、敏捷(すばや)い敏捷い、さすがに源太だわ、俺の思案より先に体がとっくに動いているとは頼もしい。なあに、お吉、心配することはない。十兵衛と御上人様に源太が謝って、自分の示しが足らなかったので手下の者がとんだ心得違いをしました、と」。

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源太居るかとはいり来たる鋭次を、お吉立ち上って、おお親分さま、まあまあ此方こちへといざなえば、ずっと通って火鉢の前に無遠慮の大胡坐おおあぐらかき、汲んで出さるる桜湯を半分ばかり飲み干してお吉の顔を視、面色いろが悪いがどうかしたか、源太はどこぞへ行ったのか、定めしもう聴いたであろうが清吉めがつまらぬことをしでかしての、それゆえちょっと話があって来たが、むむそうか、もう十兵衛がところへ行ったと、ハハハ、敏捷すばやい敏捷い、さすがに源太だわ、おれの思案より先に身体がとっくに動いて居るなぞは頼もしい、なあにお吉心配することはない、十兵衛と御上人様に源太が謝罪わびをしてな、自分の示しが足らなかったで手下の奴がとんだ心得違いをしました。

「幾重にも勘弁してくれと三つ四つ頭を下げれば済んでしまうことだわ。それでも相手がぐずぐず言えば、まともに源太が喧嘩を買って始末をつければよいさ。薄々聞いた噂では十兵衛も耳たぶの一つや半分切り取られても恨まれないはず、随分清吉の行き過ぎも少しおかしないい洒落かもしれない。ハハハ、しかし、かわいそうに俺の拳骨を大分食らってうんうん苦しんでいるばかりか、十兵衛を殺した後どう始末がつくかと俺に言われてようやく悟ったらしく、ああ悪かった、やり過ぎた間違ったことをした、親方に頭を下げさせるようなことをしたかああ済まないと、自分の体の痛いよりも後悔にぼろぼろ涙をこぼしている気の毒さは、なんと可愛い」。

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幾重いくえにも勘弁して下されと三ツ四ツ頭を下げれば済んでしまうことだわ、案じ過しはいらぬもの、それでも先方さきがぐずぐずいえば正面まともに源太が喧嘩を買って破裂ばれの始末をつければよいさ、薄々聴いた噂では十兵衛も耳朶みみたぶの一ツや半分られても恨まれぬはず、随分清吉の軽躁行為おっちょこちょいもちょいとおかしないい洒落か知れぬ、ハハハ、しかし憫然かわいそに我の拳固を大分くらってうんうん苦しがって居るばかりか、十兵衛を殺した後はどう始末が着くと我に云われてようやく悟ったかして、ああ悪かった、はやり過ぎた間違ったことをした、親方に頭を下げさするようなことをしたかああ済まないと、自分の身体みうちの痛いのより後悔にぼろぼろ涙をこぼしている愍然ふびんさは、なんと可愛

「奴ではないか、なあお吉、源太はひどく清吉を叱って叱って、十兵衛のところへ謝りに行けとまで言うかどうか知らないが、それは表向きの義理なら仕方ないが、ここはあなたの稼ぎどころ、あいつをどうか、なあそれ、よいか、そこは源太を抱き寝するほどのお吉様にわからないことはない寸法か、アハハハハ、源太がいなければ話も要らない、どれ帰ろうか、ご馳走は預けておこう、用があったらいつでもおいで」とぽつぽつ語って帰った後、思えば申し訳ないことばかりだった。

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い奴ではないか、のうお吉、源太はむごく清吉を叱って叱って十兵衛がとこへ謝罪あやまりに行けとまで云うか知らぬが、それは表向きの義理なりゃ是非はないが、ここはおまえもうけ役、あいつをどうか、なあそれ、よしか、そこは源太を抱き寝するほどのお吉様にわからぬことはない寸法か、アハハハハ、源太がいないで話もらぬ、どれ帰ろうかい御馳走は預けておこう、用があったらいつでもおいで、とぼつぼつ語って帰りし後、思えば済まぬことばかり。

女の浅い心から分別もなく清吉に毒づいたが、出過ぎた若者が間違いをして気の毒や清吉は自分の世を狭め、大切の夫をも憎くてならないのっそりに謝らせるような成り行きになったのは、時の弾みの出来事ながら結局は自分の口から出た過ちで、どうすべきかと火鉢の縁に肘をついて、我を忘れてぐったり滑るまで考えに考え凝らしたが、思い定めて「おおそうじゃ」と立ち上がり、箪笥の大きな引き出しを開けて麝香(じゃこう)の香りとともに取り出すたしなみの、帯はそもそもここへ嫁いできた嬉しくも恥ずかしくも恐ろしかった時に締めた、ええそれよ。

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女の浅き心から分別もなく清吉に毒づきしが、逸りきったる若き男の間違いし出して可憫あわれや清吉は自己おのれの世をせばめ、わが身は大切だいじ所天おっとをまで憎うてならぬのっそりに謝罪らするようなり行きしは、時の拍子の出来事ながらつまりはわが口より出し過失あやまち、兎せん角せん何とすべきと、火鉢のふちもたするひじのついがっくりとすべるまで、我を忘れて思案に思案凝らせしが、思い定めて、おおそうじゃと、立って箪笥たんす大抽匣おおひきだし、明けて麝香じゃこうとともに投げ出し取り出すたしなみの、帯はそもそも此家ここへ来し嬉し恥かし恐ろしのその時締めし、ええそれよ。

ねだって買ってもらった博多帯(はかたおび)に繻子(しゅす)に未練もなし、三枚重ねに忍ばれる昔は罪のない夢だった。今は苦労の縞の着物、ひらりと飛ばす飛八丈(とびはちじょう)、このごろ好みの毛万筋(けまんすじ)。千筋百筋と気は乱れても夫を思うはただ一筋、ただ一筋の唐七糸帯(からしゅっちん)は、お屋敷奉公した叔母が形見として大切に秘めていたものでも何も惜しくはない手放そう、と何やかやありったけ出して女中に包ませ、夫の帰らないうちにと櫛・笄(こうがい)も手早く小箱にまとめて、それを無残にも他所(よそ)の蔵に預け、いくらかの金を懐に浅黄の頭巾・小提灯(こぢょうちん)で、闇夜も恐れず鋭次の家へと向かった。

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ねだって買ってもろうたる博多に繻子しゅすに未練もなし、三枚重ねに忍ばるる往時むかしは罪のない夢なり、今は苦労の山繭縞やままゆじま、ひらりと飛ばす飛八丈とびはちじょうこのごろ好みし毛万筋、千筋ちすじ百筋ももすじ気は乱るとも夫おもうはただ一筋、ただ一筋の唐七糸帯からしゅっちんは、お屋敷奉公せし叔母が紀念かたみ大切だいじ秘蔵ひめたれど何かいとわん手放すを、と何やらかやらありたけ出しておんなに包ませ、夫の帰らぬそのうちと櫛笄くしこうがいも手ばしこく小箱にまとめて、さてそれを無残や余所よそくらこもらせ、幾らかの金懐中ふところに浅黄の頭巾小提灯こぢょうちん闇夜やみよも恐れず鋭次が家に。

その二十七

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其二十七

不忍(しのばず)の池のほとりで行き違ってからがらりと変わった源太の腹の底、初めはかわいく思っていたが今はこしゃくに障ってならないその十兵衛に、頭を下げ両手をついて謝らなければならない腹立たしさ。

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池の端の行き違いより翻然からりと変りし源太が腹の底、初めは可愛かわゆう思いしも今は小癪こしゃくさわってならぬその十兵衛に、かしらを下げ両手をついて謝罪あやまらねばならぬ忌々いまいましさ。

かといって打ち捨てておけば清吉の乱暴も自分が命令してさせたのではないかと疑われて、何も知らない身で気持ちよくない濡れ衣を着せられることの口惜しく、ただでさえ面白くないこのごろに余計な魔が差してくだらない心労を、馬鹿馬鹿しい清吉のふるまいのためにしなければならない苦々しさにますます心が穏やかでないが、処置するやり方で済むべき話なのだから、これも皆自然に湧いたこと、なんとも仕方ないと諦めて嫌々ながら十兵衛の家を訪ね、不慮の難を見舞い慰め、かつは清吉をよく戒めなかったことを詫び、のっそり夫婦の様子を見ると十兵衛は例の無言三昧、お浪は女の物やさしく、「幸い傷も肩のは浅く大したことではございませんのでどうぞお案じ下されますな、わざわ」。

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さりとて打ち捨ておかば清吉の乱暴も命令いいつけてさせしかのよう疑がわれて、何も知らぬ身に心地からぬ濡衣ぬれぎぬせられんことの口惜しく、たださえおもしろからぬこのごろよけいな魔がさして下らぬ心労こころづかいを、馬鹿馬鹿しき清吉めが挙動ふるまいのためにせねばならぬ苦々しさにますます心平穏おだやかならねど、処弁さばく道の処弁さばかで済むべきわけもなければ、これも皆自然に湧きしこと、なんとも是非なしと諦めて厭々ながら十兵衛が家音問おとずれ、不慮の難をば訪い慰め、かつは清吉を戒むること足らざりしをび、のっそり夫婦が様子をるに十兵衛は例の無言三昧、お浪は女の物やさしく、幸い傷も肩のは浅く大したことではござりませねばどうぞお案じ下されますな、わざわ

「ざお見舞い下されては誠に恐れ入ります」と如才なく口はきけど言葉遣いが改まって、自然とどこかに角(かど)があるのは問わずと知れた胸の内で、もしや源太が清吉に内々含めてさせたのではないかと疑っているに違いなかった。

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ざお見舞い下されてはまことに恐れ入りまする、と如才なく口はきけど言葉遣いのあらたまりて、自然おのずとどこかに稜角かどあるは問わずと知れし胸のうち、もしや源太が清吉に内々含めてさせしかと疑い居るに極まったり。

「ええ腹の立つ、十兵衛もきっと俺をそう見ているだろう。よい時の来よ、この源太の仕返しの仕様を見せてくれよう。清吉ごときけちな野郎のしたことに何が似るものか、釿(ちょうな)で片耳を削ぎ取るようなくだらないことを俺がしようか。俺の腹立ちは木片(こっぱ)の火のぱっと燃えてすぐ消えるようなこらえも意地もないことでは済まさない。今日の変事は今日の変事、俺の癇癪は俺の癇癪、まるで別で関係ない。源太のやり方は知る時に知れ、悟らせる時に悟らせよう」と裏にはいよいよ不満を抱えながらもそれを露ほども外に出さず、義理の挨拶を見事に済ませてすぐその足を感応寺に向け、上人のお目通りを願い、一応自分の身内の者の不埒(ふらち)をお詫びし、家に帰って、さあこれよりは鋭次に会い」。

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ええ業腹ごうはらな、十兵衛も大方我をそう視て居るべし、とく時機ときの来よこの源太が返報しかえし仕様を見せてくれん、清吉ごとき卑劣けちな野郎のしたことに何似るべきか、ちょうなで片耳ぎ取るごときくだらぬことをがしょうや、わが腹立ちは木片こっぱの火のぱっと燃え立ちすぐ消ゆる、こらえも意地もなきようなることでは済まさじ承知せじ、今日の変事は今日の変事、わが癇癪はわが癇癪、まるで別なり関係かかりあいなし、源太がしようは知るとき知れ悟らする時悟らせくれんと、うちにいよいよ不平はいだけど露塵つゆちりほども外には出さず、義理の挨拶あいさつ見事に済ましてすぐその足を感応寺に向け、上人のお目通り願い、一応自己おのれ隷属みうちの者の不埒ふらちをお謝罪わびし、わが家に帰りて、いざこれよりは鋭次に会い

「清吉を止めてくれた礼を述べつつ、その時の様子を聞き、また一方では清吉をさんざん罵り叱って今後うちに出入り無用と言いつけようと立ち出かけ、お吉がいないのを不審に思ってどこへと問えば、「どちらへかちょっと行ってきます、とおでかけになりました」と何食わぬ顔で女中が答え、口止めされているとは知らないので、「おおそうか、よしよし、俺は火の玉の兄貴のところへ遊びに行ったとお吉が帰ったら言っておけ」と草履をつっかけて出合い頭に、胡麻竹(ごまだけ)の杖をとぼとぼとついて焦げた跡のある提灯を片手に、老いの歩みの見るも気の毒なへの字なりしてこちらへ来る婆さん。

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、その時清を押えくれたる礼をもべつその時の景状ようすをも聞きつ、また一ツにはさんざん清をののしり叱って以後こののちわが家に出入り無用と云いつけくれんと立ち出でかけ、お吉のいぬを不審してどこへと問えば、どちらへかちょと行て来るとてお出でになりました、と何食わぬ顔でおんなの答え、口禁くちどめされてなりとは知らねば、おおそうか、よしよし、おれは火の玉の兄きがところへ遊びに行たとお吉帰らば云うておけ、と草履ぞうりつっかけ出合いがしら、胡麻竹ごまだけつえとぼとぼと焼痕やけこげのある提灯ちょうちん片手、老いの歩みの見る目笑止にへの字なりして此方こちへ来るばば

「おお、清の母親(おふくろ)ではないか」。

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おお清の母親おふくろではないか。

「あ、親方様でしたか」。

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あ、親方様でしたか、

その二十八

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其二十八

「ああ、よいところでお目にかかりました、どちらへかお出かけですか」と忙しげに老婆が問うのに、源太は軽く会釈して「まあよい、遠慮せずここへ入りなさい。わざわざ夜道を歩いてきたのは何か急の用か、聞いてあげよう」と立ち戻れば、「ハイハイ、ありがとうございます。お出かけのところを申し訳ありません、御免ください、ハイハイ」と言いながら後につき格子戸をくぐり、「寒かったろうに、よく出て来たね、あいにくお吉もいなくて構えもできないが、縮こまっていないで火にでも当たるがよい」と親切に言ってくれる源太の言葉にいよいよ身を堅くして縮こまり、「お構い下さいましては恐れ入ります、ハイハイ、懐炉を入れておりますれ」。

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ああ好いところでお眼にかかりましたがどちらへかお出かけでござりまするか、とせわしげに老婆ばばが問うに源太かろく会釈して、まあよいわ、遠慮せずと此方こちへはいりゃれ、わざわざ夜道を拾うて来たは何ぞ急の用か、聴いてあげよう、と立ち戻れば、ハイハイ、ありがとうござります、お出かけのところを済みません、御免下さいまし、ハイハイ、と云いながら後にいて格子戸くぐり、寒かったろうによう出て来たの、あいにくお吉もいないでかまうこともできぬが、縮こまっていずとずっと前へて火にでもあたるがよい、と親切に云うてくるる源太が言葉にいよいよ身を堅くして縮こまり、お構い下さいましては恐れ入りまする、ハイハイ、懐炉を入れておりますれ

「ばこれで結構でございます」と意気地なく落ちかかる鼻水を袖で拭きながら遠く入口近くにうずくまり、何か言い出したそうな素振りだった。源太は早くも大方察して、老人の心の中をさぞかしと気の毒で堪まらず、余計なことをしてしまった清吉を罵り懲らして当分出入り禁止の旨を言いに鋭次のところへ行こうとしていた矢先だったが、見ればわが子を除いては阿弥陀様よりほかに親しい者もないであろうか弱い婆さんのあわれな姿に、自分が清吉を突き放せばこの婆は腰弱弓の弦を断ち切られた心地がして、生きる甲斐なき命ながらえるに張りもなく的もなくなり、どれほどか悲しみ歎いて余生を愚痴の涙で暮らし、晴れ晴れ」。

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ばこれで恰好かっこうでござりまする、と意久地なく落ちかかる水涕みずばなを洲の立った半天の袖できながらはるか下って入口近きところにうずくまり、何やら云い出したそうな素振り、源太早くも大方察して老婆としよりの心の中さぞかしと気の毒さたまらず、よけいなことしいだして我に肝煎きもいらせし清吉のお先走りをののしり懲らして、当分出入りならぬ由云いに鋭次がところへ行かんとせし矢先であれど、視ればわが子を除いては阿弥陀あみだ様よりほかに親しい者もなかるべきか弱き婆のあわれにて、われ清吉を突き放さば身は腰弱弓のつるれられし心地して、在るに甲斐なき生命いのちながらえんに張りもなく的もなくなり、どれほどか悲しみ歎いて多くもあらぬ余生を愚痴のなんだ時雨しぐれに暮らし、晴れ晴れ

「とした気持ちのする日もなく終わることだろうと、思いやれば思いやるだけ哀れさが増し、煙草をくるくる巻きながらじっとしているうちに、老婆は少し前ににじり出て、「夜分にまいりまして誠に申し訳ありませんが、少しお願い申したいことがございまして、ハイハイ、もう御存知でもございましょうが清吉めがとんだことをいたしましたそうで。ハイハイ、鉄五郎様から大概は聞きましたが、普段から気の早い奴で、すぐに打つの切るのと騒ぎましてそのたびにひやひやさせます。おかげさまで一人前にはなっておりましてもまだ子どものような一本気で、悪いことや曲がったことは決していたしませんが、夢中になると分別のなくなる困った奴で、ハイハイ、悪気は夢にもない奴でございます。ハイ」。

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とした気持のする日もなくて終ることならんと、思いやれば思いやるだけ憫然ふびんさの増し、煙草ひねってつい居るに、ばばは少しくにじり出で、夜分まいりましてまことに済みませんが、あの少しお願い申したいわけのござりまして、ハイハイ、もう御存知でもござりましょうがあの清吉めがとんだことをいたしましたそうで、ハイハイ、鉄五郎様から大概は聞きましたが、平常ふだんからして気のはややつで、じきにつのるのと騒ぎましてそのたびにひやひやさせまする、おかげさまで一人前にはなっておりましてもまだ児童がきのような真一酷まいっこく、悪いことや曲ったことは決してしませぬが取りのぼせては分別のなくなる困ったやっこで、ハイハイ、悪気は夢さらないやつでござります、ハイ

「ハイ、それは御存知で、ハイ、ありがとうございます。どういう筋で喧嘩をいたしましたか知りませんが大変な釿(ちょうな)などを振り回しましたそうで、そうきいた時は私が釿で斬られたような心持がいたしました。め組の親分とやらが幸い抱き留めてくださいましたとか、まあせめてもでございます。相手が死にでもしましたら清吉めは人を傷つけた罪人、わたくしは清吉を亡くして生きている道はございません。ハイ、ありがとうございます。清吉めが小さい時はひどい病気持ちで苦労をさせられましたが、ようやく中山の鬼子母神様の御利益(ごりやく)で育ちました。病気が治ったら七歳までにお庭の土を踏ませましょうと申しておきながら、ついなにかにかまけて」。

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ハイそれは御存知で、ハイありがとうござります、どういう筋で喧嘩をいたしましたか知りませぬが大それた手斧ちょうななんぞを振り舞わしましたそうで、そうききました時は私が手斧で斫られたような心持がいたしました、め組の親分とやらが幸い抱き留めて下されましたとか、まあせめてもでござります、相手が死にでもしましたらあれめは下手人、わたくしは彼を亡くして生きて居る瀬はござりませぬ、ハイありがとうござります、彼めが幼少ちいさいときはひどい虫持で苦労をさせられましたも大抵ではござりませぬ、ようやく中山の鬼子母神様の御利益ごりやくで満足には育ちましたが、なおりましたら七歳ななつまでにお庭の土を踏ませましょうと申しておきながら、ついなにかにかまけて

「お礼参りもいたさせなかったそのお罰か、丈夫にはなりましたがあの通りの無鉄砲で、毎々お世話をかけます。今日も今日とて鉄五郎様が掻い摘んで話されました時の私のびっくり、刃物を用意までしてと聞いた時には、えいまたかと思わず胸も裂けそうになりました。め組の親分様とかが預かってくださったとあれば安心のようなものの、清吉は怪我はしませんかと聞けば鉄様の曖昧な返事、別条はない案じるなと言われるだけにかえって案ぜられ、その親分の家を尋ねれば、そこへお前が行ったがよいか行かないがよいか俺にはわからない、ともかくも親方様のところへうかがって見ろと言い放って帰ってしまわれ、なおなお胸がしくしく痛んで居ても立っ」。

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お礼参りもいたさせなかったその御罰か、丈夫にはなりましたがあの通りの無鉄砲、毎々お世話をかけまする、今日も今日とて鉄五郎様がこれこれとつまんで話されました時の私のびっくり、刃物を準備よういまでしてと聞いた時には、ええまたかと思わずどっきり胸も裂けそうになりました、め組の親分様とかが預かって下されたとあれば安心のようなものの、清めは怪我はいたしませぬかと聞けば鉄様の曖昧あいまいな返辞、別条はない案じるなと云わるるだけになお案ぜられ、その親分の家を尋ぬれば、そこへおまえが行ったがよいか行かぬがよいかおれには分らぬ、ともかくも親方様のところへ伺って見ろと云いっ放しで帰ってしまわれ、なおなお胸がしくしく痛んでいても起っ

「ても居られませんので、留守を隣の傘張りに頼んでようやく参りました。どうかめ組の親分とやらの家を教えてください、ハイハイ、すぐにまいりますつもりで。どんな様子でおりますか。もしかえって大怪我などしていないでしょうか。大丈夫なら早く会って安心したいですし、喧嘩の模様も聞きたいです。曲がったことはよもやいたすまいと思っておりますが、若い者のこと、もし筋の違う恨みでのことなら、相手の十兵衛様にまずこの婆が一生懸命で謝り、婆はたとえどうされても惜しくはない老いぼれ、先のある清吉めが人様に恨まれないようにしなければなりません」とおろおろ涙になってのお話で」。

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ても居られませねば、留守を隣家となりの傘張りに頼んでようやく参りました、どうかめ組の親分とやらの家を教えて下さいまし、ハイハイすぐにまいりまするつもりで、どんなざましておりまするか、もしやかえって大怪我などして居るのではござりますまいか、よいものならば早うって安堵あんどしとうござりまするし喧嘩の模様も聞きとうござりまする、大丈夫曲ったことはよもやいたすまいと思うておりまするが若い者のこと、ひょっと筋の違った意趣ででもしたわけなら、相手の十兵衛様にまずこの婆が一生懸命で謝罪り、婆はたといどうされても惜しくない老耄おいぼれ生先おいさきの長い彼めが人様に恨まれるようなことのないようにせねばなりませぬ、とおろおろ涙になっての話

「した」。

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し。

始終を知らないで一筋にわが子を思う老いの繰言、この返答には源太も困った。

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始終を知らで一筋にわが子をおもう老いの繰言、この返答には源太こまりぬ。

その二十九

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其二十九

「八五郎、そこにいるか、誰か来たようだ、開けてやれ」と言われて、「なんだ不思議な、女らしいぞ」と口の中でつぶやきながら、「誰だ、女嫌いの親分のところへ今ごろ来るのは、さあ入りな」とがらりと戸を引いたところ、「八ッさんお世話」と軽い挨拶をして、提灯を消して頭巾を脱ぎかけているのは、盆にも正月にも心付けをしてくれたお吉だと気がついて八五郎はめんくらい、素肌に一枚どてら姿で「親分、なんの、あの、なんの、姉御だ」と忙しく奥へ声をかけた。

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八五郎そこに居るか、誰か来たようだ明けてやれ、と云われて、なんだ不思議な、女らしいぞと口のうち独語つぶやきながら、誰だ女嫌いの親分のところへ今ごろ来るのは、さあはいりな、とがらりと戸を引き退くれば、八ッさんお世話、と軽い挨拶、提灯吹きして頭巾を脱ぎにかかるは、この盆にもこの正月にも心付けしてくれたお吉と気がついて八五郎めんくらい、素肌に一枚どてらのまえ広がって鼠色ねずみになりしふんどしの見ゆるを急に押し隠しなどしつ、親分、なんの、あの、なんの姉御だ、とせわしく奥へ声をかくるに、なんの尽しで分る江戸ッ児。

「おおそうか、お吉が来たのか、よく来た、まあそこらの埃のなさそうなところへ坐ってくれ、油虫が這って行くから用心しな、男ばかりの家は汚いのがいい所だから仕方がない、俺もお前のようなよい女房でも持ったらきれいにしようよ、アハハハ」と笑えばお吉も笑いながら「そうしたらまた汚い汚いと厳しくお叱りになるかもしれない」と互いに二つ三つ冗談を話した後、お吉は少し改まり「清吉は寝ていますか、どういう様子か見てあげたいし、心にかかって参りました」と言えば鋭次もうなずき、「清は今しがたすやすや寝ついて起きそうにもない容態だが、傷というて別にあるでもなし、頭の骨を打ち割ったわけでもなければ、整骨医師の先刻言うには、ひどく逆上したと」。

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おおそうか、お吉来たの、よく来た、まあそこらの塵埃ごみのなさそうなところへ坐ってくれ、油虫がって行くから用心しな、野郎ばかりの家は不潔きたないのが粧飾みえだから仕方がない、おれおまえのような好いかかでも持ったら清潔きれいにしようよ、アハハハと笑えばお吉も笑いながら、そうしたらまた不潔不潔と厳しくおいじめなさるか知れぬ、と互いに二ツ三ツ冗話むだばなしして後、お吉少しく改まり、清吉はておりまするか、どういう様子か見てもやりたし、心にかかれば参りました、と云えば鋭次も打ちうなずき、清は今がたすやすやついて起きそうにもない容態じゃが、きずというて別にあるでもなし頭の顱骨さらを打ちったわけでもなければ、整骨医師ほねつぎいしゃ先刻さっき云うには、ひどく逆上したと

「ころを滅茶苦茶に殴られたため一時は気絶までもしたれど、大したことはない由で、見たければちょっとのぞいて見よ」と先に立って導く後に続いて行くお吉、三畳ばかりの部屋の中にぐっすり眠っている清吉を見ると、顔も頭も腫れ上がって、これほど殴ったとは鋭次の酷さが恨めしいくらい哀れな様子だったが、済んだことを今さら言ってもしかたない。座に戻って鋭次に向かい、「うちでは必ず清吉が余計な手出しに腹を立ち、お上人様やら十兵衛への義理もかねて厳しく叱るか出入りを禁めるか何とかするでしょうが、元はといえば清吉が自分の恨みでしたのではなく、つまりはこちらのことのため、筋の違う腹立ちをついむらむらとしただけなのでして、私はどうも夫のすることを傍で見ているわけには行かず、とくに少し分けがあって私がどうかしてやらないと私の胸が済まない事情もあり、それやこれやをいろいろと案じた末に浮かんだのが、一年か半年ほど清吉にここを出てもらうこと。人の噂も遠のいて夫の機嫌も直ったら取り成しようはいくらもあり、まずそれまでは上方(かみがた)あたりに遊んでいるようにしてやりたく、旅費の金も用意して来ましたので少しですがお預けします、どうぞよろしく言い含めて清吉めに与えてください。うちの人はあの通り表裏のない人で、腹の底はどうあれ必ず辛く清吉に一旦当たるに違いなく、未練げなしに叱りましょうが、その時何と清吉が言っても取り上げないのは知れたこと、傍から私が口を出しても義理は義」。

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ころを滅茶滅茶にたれたため一時は気絶までもしたれ、保証うけあい大したことはない由、見たくばちょっとのぞいて見よ、と先に立って導く後につき行くお吉、三畳ばかりの部屋の中に一切夢で眠り居る清吉を見るに、顔も頭もれ上りて、このようにってなしたる鋭次のむごさが恨めしきまで可憫あわれなるさまなれど、済んだことの是非もなく、座に戻って鋭次にむかい、我夫うちでは必ず清吉がよけいな手出しに腹を立ち、お上人様やら十兵衛への義理をかねて酷く叱るか出入りをむるか何とかするでござりましょうが、元はといえば清吉が自分の意恨でしたではなし、つまりは此方こちのことのため、筋の違った腹立ちをついむらむらとしたのみなれば、わたしはどうも我夫のするばかり

「理なら仕方ないし、かといって欲でやった過ちでもないのに男一人の寄り付く島もないようにして知らぬ顔ではどうしても私が居られません。清吉の一人の母のことは清吉さえいなければ夫にも話して助けさせるのに厭は言わせませんし、また厭というような分からないことも言いもしないでしょうから心配はないですが、私が今夜来たことや陰で清吉をいたわることは、夫へは当分内緒にしてください」。

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を見て居るわけには行かず、ことさら少しわけあって妾がどうとかしてやらねばこの胸の済まぬ仕誼しぎもあり、それやこれやをいろいろと案じた末に浮んだは一年か半年ほど清吉に此地こち退かすること、人の噂も遠のいて我夫の機嫌もなおったら取り成しようは幾らもあり、まずそれまでは上方あたりに遊んで居るようしてやりたく、路用の金も調こしらえて来ましたれば少しなれどもお預け申しまする、どうぞよろしく云い含めて清吉めにって下さりませ、我夫はあの通り表裏のない人、腹の底にはどう思っても必ず辛く清吉に一旦あたるに違いなく、未練げなしに叱りましょうが、その時何と清吉がたとい云うても取り上げぬは知れたこと、傍から妾が口を出しても義理は義

「わかった、えらい、もう用はなかろう、お帰りお帰り、源太が大抵来るかもしれない、出くわしてはまずかろう」と愛想はないけれど真実のある言葉に、お吉は嬉しく頼みおいて帰れば、その後へ入れ違いで来る源太が清吉に言い渡したのは出入りを禁める、師弟の縁を切るとのことだった。

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理なりゃしようはなし、さりとて欲でしでかしたとがでもないに男一人の寄りつく島もないようにして知らぬ顔ではどうしても妾が居られませぬ、あれが一人の母のことは彼さえいねば我夫にも話して扶助たすくるに厭は云わせまじく、また厭というような分らぬことを云いもしますまいなれば掛念けねんはなけれど、妾が今夜来たことやらかげで清をばいたわることは、我夫へは当分秘密ないしょにして。

鋭次は笑って黙り、清吉は泣いて詫びたが、その夜源太が帰った後、清吉は鋭次にまた泣かせられて、「犬になっても俺は姉御夫婦の門辺を去らない」と唸った。

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わかった、えらい、もう用はなかろう、お帰りお帰り、源太が大抵来るかも知れぬ、撞見でっくわしてはまずかろう、と愛想はなけれど真実はある言葉に、お吉うれしく頼みおきて帰れば、その後へ引きちがえて来る源太、はたして清吉に、出入りをむる師弟の縁るとの言い渡し。

四五日過ぎて清吉は八五郎に送られ、箱根の温泉(いでゆ)を目指して江戸を出たが、それよりたどる東海道の果てに着くのは京か大阪か、夢はいつでも江戸(東都)にあることだろう。

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鋭次は笑って黙り、清吉は泣いて詫びしが、その夜源太の帰りしあと、清吉鋭次にまた泣かせられて、いぬになっても我ゃ姉御夫婦の門辺は去らぬとうなりける。

その三十

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四五日過ぎて清吉は八五郎に送られ、箱根の温泉いでゆを志して江戸を出でしが、それよりたどる東海道いたるは京か大阪の、夢はいつでも東都あずまなるべし。

十兵衛が傷を負って帰った翌朝、いつものように早く起き出せばお浪が驚いて急に止め、「まあ滅相な、ゆっくり休んでいてください。今日は特に朝風が冷たいのに破傷風にでもなったらどうなさる。どうか寝ていてください、お湯ももうじき沸きますのでうがいも洗顔もそこで私がさせてあげましょう」と壊れた竈(へっつい)にかけた羽欠け釜の下を焚きつけながら気を揉んで言うけれど、一向平気の十兵衛は笑って「病人あしらいにされるほどのことはない、手拭だけを絞ってもらえれば顔も一人で洗ったほうが気持ちがいい」と、箍(たが)の緩んだ小盥(こだらい)にみずから水を汲み取って、別段悩んでいる様子もなく普段通りにふるまえば、お浪はあきれながら案じるに、のっそりは少しも気にせず」。

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其三十

「朝飯が終わると立ち上がり、いきなり着物を脱ぎ捨てて股引・腹掛けを着けにかかるのを「とんでもない、どこへ行かれる、いくら仕事が大事だとて昨日の今日では傷口が合いもすまいし痛みも去るまい、じっとしていて体を使わないで、細かいことはないけれど治るまでは万事慎み第一と言われたお医者様の言葉さえあるのに、無理押しして感応寺に行かれる気か。強すぎる、たとえ行ったとて働きはなるまい、行かなくても誰が咎めよう。行かないで済まないと思われるなら私がちょっと一走り、お上人様のお目にかかって三日四日の養生を直々に願ってきましょ。お慈悲深いお上人様が承知なさらない気遣いはない、必ず大切にせい軽はずみするなとおっしゃるのはわかりきったこと、さあその着物を着て家に引」。

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十兵衛傷を負うて帰ったる翌朝、平生いつものごとくく起き出づればお浪驚いて急にとどめ、まあ滅相な、ゆるりとやすんでおいでなされおいでなされ、今日は取りわけ朝風の冷たいに破傷風にでもなったら何となさる、どうか臥んでいて下され、お湯ももうじき沸きましょうほどに含嗽手水うがいちょうずもそこで妾がさせてあげましょう、と破れ土竈べっついにかけたる羽虧はかがまの下きつけながら気をんで云えど、一向平気の十兵衛笑って、病人あしらいにされるまでのことはない、手拭だけを絞ってもらえば顔も一人で洗うたが好い気持じゃ、とたがゆるみし小盥こだらいにみずから水を汲み取りて、別段悩める容態ようすもなく平日ふだんのごとく振舞えば、お浪はあきれかつ案ずるに、のっそり少しも頓着とんじゃくせず

「き籠り、せめて傷口がすっかりくっつくまで落ち着いていてください」とひたすら止めなだめ慰め、脱いだものを取ってまた着せようとすれば「余計な世話を焼かずとよし、腹掛けを着せい、これは要らぬ」と利く右手で払い退けた。

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朝食あさめししもうて立ち上り、いきなり衣物を脱ぎ捨てて股引ももひき腹掛け着けにかかるを、とんでもないことどこへ行かるる、何ほど仕事の大事じゃとて昨日の今日は疵口の合いもすまいし痛みも去るまじ、じっとしていよ身体を使うな、仔細はなけれど治癒なおるまでは万般よろず要慎つつしみ第一と云われたお医者様の言葉さえあるに、無理しして感応寺に行かるる心か、強過ぎる、たとい行ったとて働きはなるまじ、行かいでも誰がとがみょう、行かで済まぬと思わるるなら妾がちょと一走り、お上人様のお目にかかって三日四日の養生を直々じきじきに願うて来ましょ、お慈悲深いお上人様の御承知なされぬ気遣いない、かならず大切だいじにせい軽挙かるはずみすなとおっしゃるは知れたこと、さあ此衣これを着て家に引

「まあそう言わずに家にいて」とまた着せようとすれば払い退ける。男は意地、女は情で言葉争いが果てしなければ、さすがにのっそりも少し怒って「わけのわからない女の考えで邪魔立てするのか、癪に障る奴め、よしよし頼まぬ一人で着る。高が知れたミミズ腫れに一日なりとも仕事を休んで職人どもの上に立てるか。お前はちっとも知るまいが、この十兵衛はおろかで馬鹿と常々言われる身ゆえに職人どもが軽く見て、目の前ではわが指図に従い働くようだが、陰では勝手に怠けるやら悪口言うやら散々茶にしていて、表面こそ取り繕え、誰一人真実に仕事をよくしようという意気込みを持ってしてくれる者はない。ええ情けない、どうかして見せかけでなしに骨を折ってもらいたい、仕事に」。

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み、せめて疵口くちのすっかり密着くっつくまで沈静おちついていて下され、とひたすらとどめなだめ慰め、脱ぎしをとってまたすれば、よけいな世話を焼かずとよし、腹掛け着せい、これは要らぬ、と利く右の手にてね退くる。

「活気をもらいたいと諭せば頭は下げながら横向いて鼻で笑われ、叱れば口で謝られて顔色に怒られ、つくづく我を折って下手に出ればすぐと増長される口惜しさ悲しさ辛さ、毎日毎日棟梁棟梁と大勢に立てられるのは立派でよいけれど腹の中では泣きたいようなことばかり、いっそ穴掘りで引っ使われたほうが楽だと思うくらい、その中でどうにかこうにかここまで進めてきたのに今日休んでは大事のつまずき。胸が痛いから早帰りします、頭痛がするので遅くなりましたと皆に怠けられるのは間違いない。その時自分が休んでいれば何も一言も言いようがなく、仕事が雨垂れ拍子になってできるものもし損なう道理、万が一にも失敗してはお上人様・源太親方に十兵衛の顔が向け」。

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まあそう云わずと家にいて、とまた打ち被する、撥ね退くる、男は意気地女はじょう、言葉あらそい果てしなければさすがにのっそり少し怒って、わけの分らぬ女の分で邪魔立てするか忌々いまいましい奴、よしよし頼まぬ一人で着る、高の知れたる蚯蚓膨みみずばれに一日なりとも仕事を休んで職人どものかみに立てるか、うぬはちっとも知るまいがの、この十兵衛はおろかしくて馬鹿と常々云わるる身ゆえに職人どもが軽う見て、眼の前ではわが指揮さしずに従い働くようなれど、蔭では勝手に怠惰なまけるやらそしるやらさんざんに茶にしていて、表面うわべこそつくろえ誰一人真実仕事をよくしょうという意気組持ってしてくるるものはないわ、ええ情ない、どうかして虚飾みえでなしに骨を折ってもらいたい、仕事

「られようか。生きても塔ができなければ、この十兵衛は死んだ同然。死んでも仕事を成し遂げれば、お前の夫は生きているというものだ。二寸三寸の釿(ちょうな)傷に寝ていられるかいられないか。破傷風が恐ろしいか、仕事のできないのが恐ろしいか。たとえ片腕を取られたとて一切成就の暁(あかつき)までは駕籠(かご)に乗っても行かずにはいない。ましてやこれしきのミミズ腫れに」と言いつつお浪の手中から奪い取った腹掛けに左手を通そうとして顔をしかめるのを見るに女房も争えず、争い負けて傷をいたわり、ついに半天・股引まで着せて出した心の中は、何とも口には言いがたかった。

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あぶらを乗せてもらいたいと、さとせば頭は下げながら横向いて鼻で笑われ、叱れば口に謝罪あやまられて顔色かおつきに怒られ、つくづく折って下手に出ればすぐと増長さるる口惜しさ悲しさ辛さ、毎日毎日棟梁棟梁と大勢に立てられるは立派でよけれど腹の中では泣きたいようなことばかり、いっそ穴鑿あなほりで引っ使われたほうが苦しゅうないと思うくらい、その中でどうかこうか此日ここまで運ばして来たに今日休んでは大事のつまずき、胸が痛いから早帰りします、頭痛がするで遅くなりましたとみんな怠惰なまけられるは必定ひつじょう、その時自分が休んで居れば何と一言云いようなく、仕事が雨垂あまだれ拍子になってできべきものも仕損しそこなう道理、万が一にも仕損じてはお上人様源太親方に十兵衛の顔が向け

十兵衛はよもや来はしまいと思い合っていた職人ども、ちらりほらりと辰の刻(朝八時)ごろより来て見てびっくりした途端、「精出してくれるのは嬉しいぞ」との一言を十兵衛から受けて皆冷や汗をかいたが、これより一同励み勤め昨日と変わる身のこなし。一を聞いては三まで働き、二と言われれば四まで動けば、のっそりは片腕の用を欠いてかえって多くの腕を得て日々工事が捗(はかど)り、肩の傷が治るころには大抵塔も出来上がっていた。

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らりょうか、これ、生きても塔ができねばな、この十兵衛は死んだ同然、死んでもわざをし遂げれば汝がおやじは生きて居るわい、二寸三寸の手斧傷ちょうなきずて居られるか居られぬか、破傷風がおそろしいか仕事のできぬが怖ろしいか、よしや片腕られたとて一切成就の暁までは駕籠かごに乗っても行かではいぬ、ましてやこれしきの蚯蚓膨みみずばれに、と云いつつお浪が手中より奪いとったる腹掛けに、左の手を通さんとしてしかむる顔、見るに女房の争えず、争いまけて傷をいたわり、ついに半天股引まで着せて出しける心の中、何とも口には云いがたかるべし。

その三十一

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十兵衛よもや来はせじと思い合うたる職人ども、ちらりほらりと辰の刻ころより来て見てびっくりする途端、精出してくるる嬉しいぞ、との一言を十兵衛から受けて皆冷汗をかきけるが、これより一同みなみな励み勤め昨日に変る身のこなし、一をきいては三まで働き、二と云われしには四まで動けば、のっそり片腕の用を欠いてかえって多くの腕を得つ日々にちにち工事しごと捗取はかどり、肩疵治るころには大抵塔もできあがりぬ。

時は一月の末ごろ、のっそり十兵衛が辛苦して経営した甲斐あって、感応寺生雲塔はいよいよ見事に出来上がり、だんだんと足場を取り除けば次第次第に現れる一階また一階また一階、五重に高々とそびえるさまは、金剛力士が悪の軍勢を睥睨(へいげい)して十六丈の姿を現し大地を踏み鳴らして岩の上に突っ立ったごとく、天晴れ立派に建ったかな、ああ快よき細工ぶりかな、めったにないことだ、また見ることはあるまいと為右衛門から門番まで、最初のっそりを軽く見ていたことは忘れて讃嘆すれば、円道はじめ一山(いっさん)の僧たちも飛び上がって喜び、「これでこそ感応寺の五重塔なれ、ああ嬉しや、我らが頼む師は当世に肩を並べる人もなく、超えた智識の中にも並ぶ者なし、とりわけ絶類抜」。

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其三十一

「群で、例えれば獅子王・孔雀王、我らが頼むこの寺の塔も絶類抜群にて、奈良や京都はいざ知らず上野・浅草・芝山内、江戸でこの塔に勝るものなし。とくに埋もれて光も放たず終わるはずだった男を拾い上げ、心の宝珠の輝きを世に出された師の美徳、困苦にたゆまず知己(ちき)に報いてついにやり遂げた十兵衛の頼もしさ、面白くも美わしき不思議な縁ではないか。天のなせしか人のなせしか、はたまた諸天善神の陰で操られたのか、落成の式があれば我は詩を作ろう、文を書こう、歌をよみ詩を作り褒め讃えようと各々互いに語り合ったのは欲だけでない人情の、やさしくも殊勝なるに引き替えて、測りがたいのは天の心で、円道・為右衛門二人の計らいとして盛大な落成式執行の日もほぼ定まり、その日は身分の上下・男女の見物を許し貧者に金を施し、十兵衛その他をねぎらい賞する一方では、また音楽を奏して珍しい塔供養があるはずで準備が始まっていた最中、夜半の鐘の音が曇って普段とは違うように耳に聞えたのがそもそもの始まりで、だんだんと怪しい風が吹き出して、眠っている子どもも知らず夜具を踏み脱ぐほど生暖かくなるにつれ、雨戸のがたつく響きが激しくなってきた。

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時は一月の末つ方、のっそり十兵衛が辛苦経営むなしからで、感応寺生雲塔いよいよものの見事に出来上り、だんだん足場を取り除けば次第次第にあらわるる一階一階また一階、五重巍然ぎぜんそびえしさま、金剛力士が魔軍を睥睨にらんで十六丈の姿を現じ坤軸こんじくゆるがす足ぶみして巌上いわおに突っ立ちたるごとく、天晴あっぱれ立派に建ったるかな、あら快よき細工振りかな、希有けうじゃ未曽有みぞうじゃまたあるまじと為右衛門より門番までも、初手のっそりをかろしめたることは忘れて讃歎すれば、円道はじめ一山いっさんの僧徒もおどりあがって歓喜よろこび、これでこそ感応寺の五重塔なれ、あら嬉しや、我らが頼む師は当世に肩を比すべき人もなく、八宗九宗の碩徳せきとくたち虎豹鶴鷺こひょうかくろぐれたまえる中にも絶類抜

闇の中でもみくちゃにされる松柏(しょうはく)の梢に天魔の叫びがものすごく聞こえ、「人の心の平和を奪え、浮世の栄華に誇る者どもの肝(きも)を破れや、眠りを乱せや、愚か者の胸に血の波を打たせよ、偽り者の顔の赤い色を奪え、斧持てる者は斧を振るえ、矛持てる者は矛を振るえ、お前たちの鋭い剣は飢えている、剣に食を与えよ、人の膏血(あぶら)はよき食だ、お前たち剣にあくまで食わせよ、あくまで人の膏脂(あぶら)を餌にせよ」と号令厳しく発するや否や、猛風一陣どっと起こって、斧を持つ夜叉・矛を持てる夜叉・飢えた剣を持てる夜叉が皆一斉に暴れ出した。

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群にて、たとえば獅子王ししおう孔雀王くじゃくおう、我らが頼むこの寺の塔も絶類抜群にて、奈良や京都はいざ知らず上野浅草芝山内、江戸にて此塔これまさるものなし、ことさら塵土に埋もれて光も放たず終るべかりし男を拾いあげられて、心の宝珠たまの輝きを世に発出いだされし師の美徳、困苦にたゆまず知己にむくいてついにし遂げし十兵衛が頼もしさ、おもしろくまた美わしき奇因縁なり妙因縁なり、天のなせしか人のなせしかはたまた諸天善神のかげにて操りたまいしか、おくを造るに巧妙たくみなりし達膩伽尊者たにかそんじゃの噂はあれど世尊せそん在世の御時にもかく快きことありしをいまだきかねば漢土からにもきかず、いで落成の式あらば我を作らん文を作らん、我歌をよみ詩をしてしょうせん讃せん詠ぜん記せんと、お

夜半の夢を覚まされた江戸四里四方の老若男女が「悪風が来た」と驚き騒ぎ、雨戸の横桟(よこざん)をしっかりと挿し、頑張り棒を強く張れと家々ごとに慌てているのを、哀れとも見ない飛天夜叉王が怒号の声で「お前たち人を憚(はばか)るな、お前たち人間に憚られよ、人間は我らを軽んじた、長く我らを賤しんだ、我らに捧げるべき定めの生け贄(にえ)を忘れた、這う代わりに立って行く犬、驕りの塒(ねぐら)を作る鳥、尻尾のない猿、物言う蛇、誠実がない狐の子、汚れを知らない豚の女め、彼らに長く侮られていつまで忍び得よう、我らをいつまで侮らせて彼らをいつまで誇らせておくべきや、忍ぶべきだけ忍んだ、誇らすべきだけ誇らせた、六十四年はすでに過ぎた、我らを縛した機運の鉄の鎖も、我ら」。

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のおの互いに語り合いしは欲のみならぬ人間ひとの情の、やさしくもまた殊勝なるに引き替えて、測りがたきは天の心、円道為右衛門二人が計らいとしていと盛んなる落成式執行しゅうぎょうの日もほぼ定まり、その日は貴賤男女の見物をゆるし貧者にあまれる金を施し、十兵衛その他をねぎらい賞する一方には、また伎楽ぎがくを奏して世に珍しき塔供養あるべきはずに支度とりどりなりし最中、夜半の鐘の音の曇って平日つねには似つかず耳にきたなく聞えしがそもそも、漸々ぜんぜんあやしき風吹き出して、眠れる児童こどもも我知らず夜具踏み脱ぐほど時候生暖かくなるにつれ、雨戸のがたつく響きはげしくなりまさり、闇にまるる松柏のこずえに天魔のさけびものすごくも、人の心の平和を奪え平和を奪え、浮世

「らを囚えた慈忍の岩窟も神力でちぎり捨て崩れさせた、汝ら暴れよ今こそ暴れよ、何十年の恨みの毒を彼らに返せ一時に返せ、彼らの驕りの臭さを宇宙の果てに掴んで捨てよ、彼らの頭を地につかしめよ、無慈悲の斧の刃味のよさを彼らの胸に試みよ、残酷の矛、怒りの剣で彼らを屑にしてくれよ、彼らの喉に氷を与えて苦寒に震えさせよ、彼らの胆に針を与えて秘密の痛みに堪えさせよ、彼らの目の前で彼らが作った多くの子孫を殺して、おもちゃへの思いを嘆きの灰の河に埋めよ、彼らは蚕(かいこ)の家を奪った、汝ら彼らの家を奪え、彼らは蚕の知恵を笑った、汝ら彼らの知恵を讃せよ、彼らの巧みとおもう知恵を讃せよ、大きいとおもう意を讃せよ、美しいとみずからおもう情を讃せよ、協えりとなす理を讃せよ、強しとなせる力を讃せよ、すべては我らの矛の餌、剣の餌、斧の餌なれば、讃して後に武器に餌い、よき餌を作った彼らを笑え、嬲(なぶ)られるだけ彼らを嬲れ、急に屠(ほふ)るな嬲り殺せ、生かしながらに一枚一枚皮を剥ぎ取れ、肉を剥ぎ取れ、彼らの心臓を鞠(まり)として蹴よ、荊棘(からたち)で背を鞭打てよ、嘆息の息・涙の水・動悸(どうき)の血の音・悲鳴の声、それらをすべて人間より取れ、残忍の他に快楽なし、酷烈でなければ汝ら速く死ね、暴れよ進めよ、無法に住して放逸無残に無理無体に暴れ立て暴れ立て進め進め、神とも戦え仏をも叩け、道理を壊して壊り捨てれば天下は我らのものぞ」と

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の栄華に誇れる奴らのきもを破れやねむりをみだせや、愚物の胸に血のなみ打たせよ、偽物の面の紅き色れ、おの持てる者斧をふるえ、ほこもてるもの矛を揮え、なんじらがつるぎえたり汝ら剣に食をあたえよ、人の膏血あぶらはよき食なり汝ら剣にあくまで喰わせよ、あくまで人の膏膩あぶらえと、号令きびしく発するや否、猛風一陣どっと起って、斧をもつ夜叉やしゃ矛もてる夜叉餓えたる剣もてる夜叉、皆一斉にれ出しぬ。

その三十二

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其三十二

叱咤するたびに土石を飛ばして丑(うし)の刻(午前二時)から寅(とら)の刻、卯(う)となり辰(たつ)となっても少しも止まず励ましたてれば、数万の眷属(けんぞく・従者)が勇みをなし、水を渡るのは波を蹴返し、陸を走るのは砂を蹴返し、天地を埃で黄ばませて日の光さえほとんど覆い、斧を振って松を豪快に斬るものあり、矛を舞わして板屋根にたちまち穴を穿つ(うがつ)ものあり、ゆさゆさゆさと怪力でいかにも堅固な家を動かし橋を揺さぶるものもあった。

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長夜の夢を覚まされて江戸四里四方の老若男女、悪風来たりと驚き騒ぎ、雨戸の横柄子よこざるしっかとせ、辛張り棒を強く張れと家々ごとに狼狽うろたゆるを、可愍あわれとも見ぬ飛天夜叉王、怒号の声音こわねたけだけしく、汝ら人をはばかるな、汝ら人間ひとに憚られよ、人間は我らをかろんじたり、久しく我らをいやしみたり、我らにささぐべきはずの定めのにえを忘れたり、う代りとして立って行くいぬ驕奢おごり塒巣ねぐら作れるとり、尻尾なき猿、物言う蛇、露誠実まことなき狐の子、汚穢けがれを知らざるいのこ、彼らに長く侮られてついにいつまで忍び得ん、我らを長く侮らせて彼らをいつまで誇らすべき、忍ぶべきだけ忍びたり誇らすべきだけ誇らしたり、六十四年はすでに過ぎたり、我らを縛せし機運の鉄鎖、我

「手ぬるし手ぬるし、酷さが足らぬ、我に続け」と憤怒(ふんぬ)の牙を噛み鳴らしつつ夜叉王が躍り上って焦れば、虚空に充ち満ちた眷属がおたけびを鋭く叫んでやたら無法に暴威を振るうほどに、神前・寺内に立てる木も富家の庭で育てられた木も、声振り絞って泣き悲しみ、見る見る大地の毛は恐怖に一々逆立ちとなって柳は倒れ竹は割れた。折しも黒雲が空に流れて樫の実よりも大きな雨がばらりばらりと降り出せば、得たりとますます暴れる夜叉が垣を引き捨て塀(へい)を蹴倒し、門をも壊し屋根をもめくり、軒端の瓦を踏み砕き、ただ一揉みに屑屋を飛ばし二揉み揉んでは二階をねじ取り、三たび揉んでは某寺(なにがしでら)をものの見事に潰し崩し、どうどうどっと鬨(とき)の声を上げるそのたびごとに心を冷やし」。

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らをとらえし慈忍の岩窟いわやはわが神力にてちぎりてたり崩潰くずれさしたり、汝られよ今こそ暴れよ、何十年の恨みの毒気を彼らに返せ一時に返せ、彼らが驕慢ほこりの気の臭さを鉄囲山外てついさんげつかんで捨てよ、彼らのこうべを地につかしめよ、無慈悲の斧の刃味のよさを彼らが胸に試みよ、惨酷ざんこくの矛、瞋恚しんいの剣の刃糞はくそと彼らをなしくれよ、彼らがのんどに氷を与えて苦寒に怖れわななかしめよ、彼らが胆に針を与えて秘密の痛みに堪えざらしめよ、彼らが眼前めさきに彼らがしたる多数おおく奢侈しゃしの子孫を殺して、玩物がんぶつの念を嗟歎さたんの灰の河に埋めよ、彼らは蚕児かいこの家を奪いぬ汝ら彼らの家を奪えや、彼らは蚕児の知恵を笑いぬ汝ら彼らの知恵を讃せよ、すべて彼らの巧みとおもえる知恵を讃せよ、大とおも

「胸を騒がす人々の、あれを心配しこれを案じる様子を見ては喜び、居場所さえなくされて悲しむ者を見ては喜び、いよいよ図に乗って乱暴のあらん限りを尽くせば、江戸八百八町百万の人が皆生きた心地もせず顔色さえなかった。

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えるこころを讃せよ、美わしとみずからおもえる情を讃せよ、かなえりとなす理を讃せよ、つよしとなせる力を讃せよ、すべては我らの矛のなれば、剣の餌なれば斧の餌なれば、讃して後に利器えものい、よき餌をつくりし彼らを笑え、なぶらるるだけ彼らを嬲れ、急にほふるな嬲り殺せ、かしながらに一枚一枚皮をぎ取れ、肉を剥ぎとれ、彼らが心臓しんまりとして蹴よ、枳棘からたちをもて背をてよ、歎息の呼吸いき涙の水、動悸どうきの血の音悲鳴の声、それらをすべて人間より取れ、残忍のほか快楽けらくなし、酷烈ならずば汝らく死ね、暴れよ進めよ、無法に住して放逸無慚むざん無理無体に暴れ立て暴れ立て進め進め、神とも戦え仏をもたたけ、道理をやぶって壊りすてなば天下は我らがものなるぞと

その中でも特に驚いたのは円道・為右衛門で、せっかくわずかに出来上がったばかりの五重塔は揉まれ揉まれて九輪は揺れ、頂上の宝珠は空に読めない字を書き、岩をも転ばすべき風が突っかかってくるたびに、楯をも貫くべき雨がぶつかってくるたびにたわむ姿、木の軋(きし)む音、また揺れもどる姿、また軋む音、今にも傾(かたむ)き倒れそうな様子に「あれあれ危ない、仕方はないか、傾倒されては大事だ。止める術もないのか。雨さえ加わってきた上に周りに木もなければ、未曽有の風に土台が狭くて丈のみ高いこの塔がもちこたえることができるかどうかおぼつかない。本堂さえもここまで動けば塔はどれほどか。風を止める呪文はきかないか。こんなに恐ろしい大暴風雨に見舞いに来るはずの源太は見えないか、まだ新しい出入りだとて重」。

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叱咜しったするたび土石を飛ばしてうしの刻よりとらの刻、となりたつとなるまでもちっとも止まず励ましたつれば、数万すまん眷属けんぞく勇みをなし、水を渡るは波を蹴かえし、おかを走るはすなを蹴かえし、天地を塵埃ほこりに黄ばまして日の光をもほとほとおおい、斧を揮って数寄者が手入れ怠りなき松を冷笑あざわらいつつほっきとるあり、矛を舞わして板屋根にたちまち穴を穿うがつもあり、ゆさゆさゆさと怪力もてさも堅固なる家を動かし橋を揺がすものもあり。

「々来ては失礼と思う十兵衛は見えないか怠け者め、他の人でさえこれほど心配しているのに自分がした塔を気にかけないのか、あれあれ危しまたたわんだわ、誰か十兵衛を呼びに行け」と言えど、天に瓦が飛び板が飛び、地上に砂利の舞う中を行こうというものはなく、ようやく賞美の金に飽かして掃除人の七蔵じじいを出した。

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手ぬるし手ぬるしむごさが足らぬ、我に続けと憤怒ふんぬの牙噛み鳴らしつつ夜叉王のおどり上って焦躁いらだてば、虚空こくうち満ちたる眷属、おたけび鋭くおめき叫んでしゃに無に暴威を揮うほどに、神前寺内に立てる樹も富家ふうかの庭にわれし樹も、声振り絞って泣き悲しみ、見る見る大地の髪の毛は恐怖に一々竪立じゅりつなし、柳は倒れ竹は割るる折しも、黒雲空に流れてかしの実よりも大きなる雨ばらりばらりと降り出せば、得たりとますます暴るる夜叉、かきを引き捨てへいを蹴倒し、門をもこわし屋根をもめくり軒端のきばかわらを踏み砕き、ただ一揉みに屑屋くずやを飛ばし二揉み揉んでは二階をじ取り、三たび揉んでは某寺なにがしでらをものの見事についやくずし、どうどうどっとときをあぐるそのたびごとに心を冷や

その三十三

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し胸を騒がす人々の、あれに気づかいこれに案ずる笑止の様を見ては喜び、居所さえもなくされて悲しむものを見ては喜び、いよいよ図に乗り狼藉ろうぜきのあらん限りをたくましゅうすれば、八百八町百万の人みな生ける心地せず顔色さらにあらばこそ。

老いた頭巾に首を包んでその上に雨を防ごうと竹の皮笠を引き被り、鳶子合羽(とんびがっぱ)に胴締めして手ごろな杖を持ち、怖ごわながら烈風強雨の中を駆け抜けた七蔵じじい、ようやく十兵衛の家にたどり着くと、これはまたひどい有様で、屋根の半分はもうとっくに風に奪われて見るからも気の毒な親子三人の有様で、隅の方に固まり合って天井から落ちてくる雫(しずく)の飛沫(しぶき)を古い筵(ござ)でわずかに避けていた。「さてものっそりは気の利かない男」とあきれ果てつつ「これ棟梁殿、この暴風雨にそうしていては済まない、瓦が飛ぶ、樹が折れる。外はまるで戦争のような騒ぎの中に、あなたの建てられたあの塔はどうなるかと思われますぞ。丈は高し周りに物はなし土台は狭し、どの方角から吹く風もまとも」。

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中にもわけて驚きしは円道為右衛門、せっかくわずかに出来上りし五重塔は揉まれ揉まれて九輪はゆらぎ、頂上の宝珠は空に得読めぬ字を書き、岩をも転ばすべき風の突っかけ来たり、楯をも貫くべき雨のぶつかり来るたびたわむ姿、木のきしる音、もど姿さま、また撓む姿、軋る音、今にも傾覆くつがえらんず様子に、あれあれ危し仕様はなきか、傾覆られては大事なり、止むるすべもなきことか、雨さえ加わり来たりし上周囲まわりに樹木もあらざれば、未曽有の風に基礎どだい狭くて丈のみ高きこの塔のこらえんことのおぼつかなし、本堂さえもこれほどに動けば塔はいかばかりぞ、風を止むる呪文はきかぬか、かく恐ろしき大暴風雨おおあらしに見舞いに来べき源太は見えぬか、まだ新しき出入りなりとて重

「に受けて揺れるわ揺れるわ、旗竿(はたざお)ほどにたわんでは木の軋む音のものすごさ、今にも倒れるか壊れるかと、円道様も為右衛門様も肝を冷やしたり縮めたりして気が気でなく心配しておられるのに、普段ならば迎えなど受けずともこの天変を知らぬ顔では済まないあなたが出ても来ないとはあんまりな大それた話、あなたのお蔭で危険な使いを言いつかって、腹立たしいこのこぶを見てくれ、笠は吹き攫(さら)われるわずぶ濡れにはなるわ、おまけに木片(きぎれ)が飛んできて額にぶつかってきたぞ、いい面の皮とは俺のこと、さあさあ一緒に来てくれ来てくれ、為右衛門様・円道様が連れてこいとのご命令だ、ええびっくりした、雨戸が飛んでいってしまったのか、これだから塔が持ちこたえるものか、話しする間に」。

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々来ではかなわざる十兵衛見えぬか寛怠かんたいなり、ひとさえかほど気づかうにおのがせし塔気にかけぬか、あれあれ危しまた撓んだわ、誰か十兵衛びに行け、といえども天に瓦飛び板飛び、地上に砂利の舞う中を行かんというものなく、ようやく賞美の金に飽かして掃除人の七蔵爺しちぞうじじを出しやりぬ。

「もう倒れたか折れたか知れぬ、ぐずぐずせず身支度せい、はやくはやく」と急き立てれば、傍から女房も心配げに「出て行かれるなら途中が危ない、腐ってもあの火事頭巾、あれを出しましょ被っておいでなさい。何が飛んでくるか知れたものでなし、見た目よりも身が大切、いくらぼろでも仕方ない、刺し子の半纏(はんてん)も上に被っておいでなさい」と戸棚をがたがた開けにかかるのを、十兵衛は不機嫌な目でじっと見ながら、「ああ、構ってくれなくてもよい、出ては行かぬわ。風が吹いたとて騒ぐには及ばぬ。七蔵殿ご苦労でございましたが塔は大丈夫倒れません。なんのこれほどの暴風雨で倒れたり折れたりするようなもろいものではございませぬれば、十兵衛が出かけてまいるにも及びま」。

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其三十三

「せぬ。円道様にも為右衛門様にもそう言って下され。大丈夫、大丈夫でございます」と落ち着いて身動きもせず答えれば、七蔵は少し膨れ面(つら)して「まあともかくも一緒に来てくれ、来て見るがよい、あの塔のゆさゆさきちきちと動くさまを。ここにいて目に見なければこそ威張っていられるが、御開帳の幟(のぼり)のように頭を振っているさまを見たなら、いくら十兵衛殿が大様(おうよう)な気性でも、お気の毒ながら魂がふわりふわりとなるだろう。陰で強いのが役にはたたぬ。さあさあ一緒に来たり来たり、それまた吹くわ、ああ恐ろしい、なかなか止みそうにもない風の景色、円道様も為右衛門様も定めし肝を煎っておられるじゃろ、さっさと頭巾なり半纏なり被るとも着るとも」。

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耄碌頭巾もうろくずきんに首をつつみてその上に雨をしのがん準備よういの竹の皮笠引きかぶり、鳶子合羽とんびがっぱに胴締めして手ごろの杖持ち、恐怖こわごわながら烈風強雨の中をけ抜けたる七蔵おやじ、ようやく十兵衛が家にいたれば、これはまたむごいこと、屋根半分はもうとうに風にられて見るさえ気の毒な親子三人の有様、隅の方にかたまり合うて天井より落ち来る点滴しずく飛沫しぶき古筵ふるござでわずかにけ居る始末に、さてものっそりは気に働らきのない男と呆れ果てつつ、これ棟梁殿、この暴風雨あらしにそうして居られては済むまい、瓦が飛ぶ樹が折れる、戸外おもてはまるで戦争いくさのような騒ぎの中に、おまえの建てられたあの塔はどうあろうと思わるる、丈は高し周囲まわりに物はなし基礎どだいは狭し、どの方角から吹く風をも正面まとも

「してでかけなさい」とやり返した。

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に受けて揺れるわ揺れるわ、旗竿はたざおほどに撓んではきちきちときしる音の物凄ものすごさ、今にも倒れるかこわれるかと、円道様も為右衛門様も胆を冷やしたり縮ましたりして気が気ではなく心配して居らるるに、一体ならば迎いなど受けずともこの天変を知らず顔では済まぬおまえが出ても来ぬとはあんまりな大勇、汝のお蔭で険難けんのんな使いをいいつかり、忌々いまいましいこのこぶを見てくれ、笠は吹きさらわれるずぶれにはなる、おまけに木片きぎれが飛んで来て額にぶつかりくさったぞ、いい面の皮とはおれがこと、さあさあ一所に来てくれ来てくれ、為右衛門様円道様が連れて来いとの御命令おいいつけだわ、ええびっくりした、雨戸が飛んでてしもうたのか、これだもの塔が堪るものか、話しする間に

「大丈夫でございます、御安心なさってお帰り」と突っ張ねた。

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ももう倒れたか折れたか知れぬ、ぐずぐずせずと身支度せい、はやくはやくとり立つれば、傍から女房も心配げに、出て行かるるなら途中が危険あぶない、腐ってもあの火事頭巾、あれを出しましょかぶっておいでなされ、何が飛んで来るか知れたものではなし、外見みえよりは身が大切だいじ、いくら襤褸ぼろでも仕方ない刺子絆纏ばんてんも上にておいでなされ、と戸棚がたがた明けにかかるを、十兵衛不興げの眼でじっと見ながら、ああ構うてくれずともよい、出ては行かぬわ、風が吹いたとて騒ぐには及ばぬ、七蔵殿御苦労でござりましたが塔は大丈夫倒れませぬ、なんのこれほどの暴風雨で倒れたり折れたりするようなもろいものではござりませねば、十兵衛が出かけてまいるにも及びま

「その安心がそう手易(たやす)くはできないわ」とうるさく言った。

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せぬ、円道様にも為右衛門様にもそう云うて下され、大丈夫、大丈夫でござります、と泰然おちつきはらって身動きもせず答うれば、七蔵少しふくつらして、まあともかくも我と一緒に来てくれ、来て見るがよい、あの塔のゆさゆさきちきちと動くさまを、ここにいて目に見ねばこそ威張って居らるれ、御開帳ののぼりのように頭を振って居るさまを見られたらなんぼ十兵衛殿寛濶おうような気性でも、お気の毒ながら魂魄たましいがふわりふわりとならるるであろう、蔭で強いのが役にはたたぬ、さあさあ一所に来たり来たり、それまた吹くわ、ああ恐ろしい、なかなか止みそうにもない風の景色、円道様も為右衛門様も定めし肝をっておらるるじゃろ、さっさと頭巾なり絆纏なり冠るともると

「大丈夫でございます」と同じことを言った。

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もして出かけさっしゃれ、とやり返す。

末には七蔵が焦れこんで「なんでもかでも来いと言ったら来い、俺の言葉と思ったら違うぞ、円道様・為右衛門様のご命令じゃ」と語気があらくなれば十兵衛も少しむっとして、「私は円道様・為右衛門様から五重塔建ていとは命じられておりません。お上人様は定めし風が吹いたからとて十兵衛呼べとはおっしゃりますまい、そのような情けないことを言って下さりますまい。もしもお上人様までが塔が危ないぞ十兵衛呼べとおっしゃるようになれば、十兵衛一期(いちご)の大事、死ぬか生きるかの瀬戸に乗りかかる時、天命を覚悟して駆けつけましょうなれど、お上人様が一言半句十兵衛の細工をお疑いにならない以上は何の心配もなし。余の人たちが何を言われようと、紙を材木にして仕事もせ」。

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大丈夫でござりまする、御安心なさってお帰り、と突っぱねる。

「ず魔術も手抜きもしていない十兵衛、晴れの日と同じく雨の降る日も風の夜も楽々としております。暴風雨が恐いものでもなければ地震が恐くもございません、と円道様に言って下され」と愛想なく言い切ったので、七蔵は仕方なく風雨の中を駆け抜けて感応寺に帰り着いて円道・為右衛門にこの旨を伝えると、「さてもその場に臨んでの知恵のない奴め、なぜその時に上人様が十兵衛来いとの仰せじゃとは言わぬ。あれあれあの揺れる様を見よ。お前まで十兵衛にかぶれてだらしなさすぎる了簡じゃ、是非はない、もう一度行って上人様のお言葉じゃと欺き、文句言わせず連れてこい」と円道に激しく叱られ、腹立たしくつぶやきながら七蔵はふたたび寺門を出た。

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その安心がそう手易たやすくはできぬわい、とうるさく云う。

その三十四

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大丈夫でござりまする、と同じことをいう。

「さあ十兵衛、今度は是非に来い、四の五の言わせぬ、上人様のお召しじゃぞ」と七蔵じじいがいきり立って門口から怒鳴れば、十兵衛はそれを聞くや身を起して「なにあの、上人様のお召しなさるとか、七蔵殿それは本当でございますか。ああ情けない、どれほど風が強くとも頼みきっていたお上人様までが、この十兵衛が命をかけて建てたものをもろくも壊れるかのように思し召されたか、口惜しい。世界で俺を慈悲の眼で見てくださる唯一の神とも仏ともおもっていたお上人様にも、真底からは俺の腕をたしかとは思われなかったか。つくづく頼もしくない世間だ。もう十兵衛の生き甲斐なし。たまたま当世に並びない尊い智識(ちしき)に知られたのをこれ一生の面目とおもって空(あだ)に喜んでいたのも、真にはかないしばしの夢」。

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末には七蔵れこんで、なんでもかでも来いというたら来い、我の言葉とおもうたら違うぞ円道様為右衛門様の御命令おいいつけじゃ、と語気あらくなれば十兵衛も少し勃然むっとして、わしは円道様為右衛門様から五重塔建ていとは命令いいつかりませぬ、お上人様は定めし風が吹いたからとて十兵衛よべとはおっしゃりますまい、そのような情ないことを云うては下さりますまい、もしもお上人様までが塔あぶないぞ十兵衛呼べと云わるるようにならば、十兵衛一期の大事、死ぬか生きるかの瀬門せとに乗っかかる時、天命を覚悟して駈けつけましょうなれど、お上人様が一言半句十兵衛の細工をお疑いなさらぬ以上は何心配のこともなし、余の人たちが何を云わりょうと、紙をにして仕事もせ

「嵐の風のそよと吹けば丹誠凝らしたあの塔も倒れやしないかと疑われるとは、ええ腹の立つ、泣きたいような。それほど俺は腑のない奴か。恥をも知らぬ奴と見えるか。自分がした仕事が恥辱を受けてものめのめ顔を拭って生きているような男と見られるのか。たとえばあの塔が倒れた時、生きていようか生きたいと思うか。ええ口惜しい、腹の立つ、お浪、それほど俺が卑しいだろうか。ああ命ももういらない、わが身にも愛想が尽きた。この世界から見放された十兵衛は生きているだけ恥辱をかく苦しみを受ける。ええいっそのこと、塔も倒れよ、暴風雨もこの上激しくなれ。少しなりともあの塔に損じのできてくれればよいが。空吹く」。

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魔術てずまも手抜きもしていぬ十兵衛、天気のよい日と同じことに雨の降る日も風の夜も楽々としておりまする、暴風雨がこわいものでもなければ地震が怖うもござりませぬと円道様にいうて下され、と愛想なく云い切るにぞ、七蔵仕方なく風雨の中を駈け抜けて感応寺に帰りつき円道為右衛門にこのよし云えば、さてもその場に臨んでの知恵のない奴め、なぜその時に上人様が十兵衛来いとの仰せじゃとは云わぬ、あれあれあの揺るるさまを見よ、きさままでがのっそりに同化かぶれて寛怠過ぎた了見じゃ、是非はない、も一度行って上人様のお言葉じゃと欺誑たばかり、文句いわせず連れて来い、と円道に烈しく叱られ、忌々いまいましさに独語つぶやきつつ七蔵ふたたび寺門を出でぬ。

「風も地を打つ雨も人間ほど俺には情けなくはないから、塔が破壊されても倒されても喜びこそすれ恨みはしない。板一枚吹きめくられても釘一本抜けるとも、味気ない世に未練はもたないからものの見事に死んでやって、十兵衛という馬鹿者は自分の仕事のてぬかりから恥辱を受けても命惜しさに生きながらえているような卑劣な奴ではなかったか、かかる心を持っていたかと責めては後に弔われよう。一度はどうせ捨てる命の、捨て処よし捨て時よし。仏寺を汚すは恐れあるが自分が建てたものが壊れたならばその場を一歩も立ち去り得ない。諸仏菩薩もお許しあれ。生雲塔の頂上から直ちに飛んで身を捨てよう。投げる五尺の体は潰れて醜かろうが汚いものは入っていない、あわれ男の」。

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其三十四

「純粋な、清浄の血を流すなれば哀れとも照覧あれ」と思ったのやら思わなかったのやら十兵衛自身も半分知らないまま、夢路をいつのまにかたどり、七蔵ともどこかで別れて、ここはどこか、おお、それが、その塔なのだった。

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さあ十兵衛、今度は是非に来よ四の五のは云わせぬ、上人様のお召しじゃぞ、と七蔵じじいきりきって門口から我鳴がなれば、十兵衛聞くより身を起して、なにあの、上人様のお召しなさるとか、七蔵殿それは真実まことでござりまするか、ああなさけない、何ほど風の強ければとて頼みきったる上人様までが、この十兵衛の一心かけて建てたものをもろくも破壊こわるるかのように思し召されたか口惜しい、世界に我を慈悲の眼で見て下さるるただ一つの神とも仏ともおもうていた上人様にも、真底からはわが手腕うでたしかと思われざりしか、つくづく頼もしげなき世間、もう十兵衛の生き甲斐なし、たまたま当時にならびなきたっとき智識に知られしを、これ一生の面目とおもうてあだよろこびし

よじ登り切った第五層の戸を押し開けて今しもぬっと十兵衛が半身を現せば、礫(こいし)を投ぐるような激しい雨が目も開けさせず顔を打ち、残った一つの耳までもちぎらんばかりに猛風が息さえさせずに吹きかけてくるのに、思わず一足退いたが屈せず奮って立ち出て、欄干を握ってきっと睨めば空は五月の闇より黒く、ただごうごうたる風の音のみ宇宙に充ちて物騒がしく、さしも堅固な塔なれど虚空に高くそびえているので、どうどうどっと風の来るたびに揺らめき動いて、荒波の上に揉まれる底なし小舟があわや傾覆(くつがえ)らんような風情(ふぜい)で、さすが覚悟を極めていたものの今さらに思われて、一期の大事・死生の岐路(ちまた)と八万四千の身の毛をよだたせ、牙を噛みしめ目を見張り「いざその時は」と手にしてきた六分鑿(ろくぶのみ)の

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も真にはかなきしばしの夢、あらしの風のそよと吹けば丹誠凝らせしあの塔も倒れやせんと疑わるるとは、ええ腹の立つ、泣きたいような、それほどおれのないやつか、恥をも知らぬやっこと見ゆるか、自己おのれがしたる仕事が恥辱はじを受けてものめのめつら押しぬぐうて自己は生きて居るような男と我は見らるるか、たとえばあの塔倒れた時生きていようか生きたかろうか、ええ口惜しい、腹の立つ、お浪、それほど我がさもしかろうか、あゝあゝ生命いのちももういらぬ、わが身体にも愛想の尽きた、この世の中から見放された十兵衛は生きて居るだけ恥辱をかく苦悩くるしみを受ける、ええいっそのこと塔も倒れよ暴風雨もこの上烈しくなれ、少しなりともあの塔に損じのできてくれよかし、空吹く

「柄を忘れるほど引っ握んで、天命を静かに待つとも知るや知らずや、風雨もいとわず塔の周りを何度となく徘徊(はいかい)する、怪しの男が一人いた。

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風もつち打つ雨も人間ひとほど我にはつれなからねば、塔破壊こわされても倒されても悦びこそせめ恨みはせじ、板一枚の吹きめくられくぎ一本の抜かるるとも、味気なき世に未練はもたねばものの見事に死んで退けて、十兵衛という愚魯漢ばかものは自己が業の粗漏てぬかりより恥辱を受けても、生命惜しさに生存いきながらえて居るような鄙劣けちやつではなかりしか、かかる心をもっていしかと責めては後にてとむらわれん、一度はどうせ捨つる身の捨て処よし捨て時よし、仏寺を汚すは恐れあれどわが建てしものこわれしならばその場を一歩立ち去り得べきや、諸仏菩薩もお許しあれ、生雲塔の頂上てっぺんより直ちに飛んで身を捨てん、投ぐる五尺の皮嚢かわぶくろやぶれて醜かるべきも、きたなきものを盛ってはおらず、あわれ男児おとこ

その三十五

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醇粋いっぽんぎ清浄しょうじょうの血を流さんなれば愍然ふびんともこそ照覧あれと、おもいしことやら思わざりしや十兵衛自身も半分知らで、夢路をいつの間にかたどりし、七蔵にさえどこでか分れて、ここは、おお、それ、その塔なり。

「去る日の暴風雨は我ら生まれてから第一の騒ぎだった」と、普段は何事に遭っても二十年前三十年前にあった例を引き出して古いことを大げさに、新しいことをわけもなく言い消す気質の老人さえ、真底我を折って噂し合えば、まして天変地異を面白ずくで話の種にするような軽い若い人は分別もなく、後腹の痛まないのを幸いに、どこの火の見が壊れたかどこかの二階が吹き飛ばされたりと他人の憂いや災難をわが茶受けにし、「ざまを見よ、欲から芝居の金主(かねぬし)をして何某(なにがし)めが痛い目にあったのだろう。さても笑止(しょうし)、あの小屋の潰れ方よ、また日ごろから小面憎かった横町の生花の宗匠が二階、お神楽だけのことはあったのも気味よし。それよりは江戸で一二と言われる大寺の脆」。

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上りつめたる第五層の戸を押し明けて今しもぬっと十兵衛半身あらわせば、こいしを投ぐるがごとき暴雨の眼も明けさせず面を打ち、一ツ残りし耳までもちぎらんばかりに猛風の呼吸いきさえさせず吹きかくるに、思わず一足退きしが屈せずふるって立ち出でつ、欄をつかんできっとにらめばそら五月さつきやみより黒く、ただ囂々ごうごうたる風の音のみ宇宙にちて物騒がしく、さしも堅固の塔なれど虚空に高くそびえたれば、どうどうどっと風の来るたびゆらめき動きて、荒浪の上にまるるたななし小舟おぶねのあわや傾覆くつがえらん風情、さすが覚悟を極めたりしもまた今さらにおもわれて、一期の大事死生の岐路ちまたと八万四千の身の毛よだたせ牙みしめてまなこみはり、いざその時はと手にして来し六分鑿ろくぶのみ

「く倒れたのも仔細こそあれ、実は信徒(だんと)から多額の寄付金を集めながら役僧の私腹、受負師の手品でそこにはそこの訳があったのだろうな」などさまざまの沙汰(さた)に及んだが、いずれも感応寺生雲塔は釘一本緩まず板一枚剥がれなかったには舌を巻いて讃嘆し、「いや、あれを作った十兵衛というのはなんとえらいものではないか。あの塔が倒れたら生きていない覚悟だったそうな。すでのことに鑿(のみ)をくわえて十六間まさかしまに飛ぶところ、欄干(てすり)をこう踏み、風雨を睨んであれほどの大揉みの中にじっと構えていたというのが、その一念でも壊れまい、風の神も大方血眼(ちまなこ)で睨まれては遠慮が出たであろうか、甚五郎(じんごろう)このかたの名人だ、真の棟」。

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柄忘るるばかり引っ握んでぞ、天命を静かに待つとも知るや知らずや、風雨いとわず塔の周囲めぐりを幾たびとなく徘徊はいかいする、怪しの男一人ありけり。

「梁だ、浅草のも芝のもそれぞれ損じのあったのに一寸一分歪みもせず退きもせぬとはよく造ったことの」。

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其三十五

「いやそれについて話のある、その十兵衛という男の親分がまたひどくえらいもので、もしもちょっとでも壊れでもしたら同業(なかま)の恥辱、知り合いの面汚しになるから、お前はそれでも生きていられようかと、とても再び鉄槌(かなづち)も釿(ちょうな)も握ることができないほど叱りつけて、武士で言えば詰め腹(つめはら)同様の目に遭わそうと、ぐるぐると大雨を浴びながら塔の周りを巡っていたそうな」。

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去る日の暴風雨あらしは我ら生まれてから以来このかた第一の騒ぎなりしと、常は何事に逢うても二十年前三十年前にありしためしをひき出して古きを大げさに、新しきをわけもなく云い消す気質かたぎ老人としよりさえ、真底って噂し合えば、まして天変地異をおもしろずくで談話はなし種子たねにするようの剽軽ひょうきんな若い人は分別もなく、後腹のまぬを幸い、どこの火の見が壊れたりかしこの二階が吹き飛ばされたりと、ひとの憂い災難をわが茶受けとし、醜態ざまを見よ馬鹿欲から芝居の金主して何某なにがしめ痛い目に逢うたるなるべし、さても笑止あの小屋のつぶれ方はよ、また日ごろより小面憎かりし横町の生花の宗匠が二階、お神楽かぐらだけのことはありしも気味きびよし、それよりは江戸で一二といわるる大寺の脆

「いやいや、それは間違い、親分ではなく商売敵(かたき)だそうな」とわかり顔に語り伝えた。

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く倒れたも仔細こそあれ、実は檀徒だんとから多分の寄附金集めながら役僧の私曲わたくし、受負師の手品、そこにはそこのありし由、察するに本堂のあの太い柱もおけでがなあったろうなんどとさまざまの沙汰に及びけるが、いずれも感応寺生雲塔の釘一本ゆるまず板一枚がれざりしには舌を巻きて讃歎し、いや彼塔あれを作った十兵衛というはなんとえらいものではござらぬか、あの塔倒れたら生きてはいぬ覚悟であったそうな、すでのことにのみふくんで十六間真逆まさかしまに飛ぶところ、欄干てすりをこう踏み、風雨をにらんであれほどの大揉おおもめの中にじっと構えていたというが、その一念でも破壊こわるまい、風の神も大方血眼ちまなこで睨まれては遠慮が出たであろうか、甚五郎じんごろうこのかたの名人じゃ真の棟

暴風雨のために準備が狂ってしまった落成式もいよいよ済んだ日、上人がわざわざ源太をお召しになって十兵衛ともどもに塔に上られた。

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梁じゃ、浅草のも芝のもそれぞれ損じのあったに一寸一分ゆがみもせず退りもせぬとはよう造ったことの。

上人は心あって小僧に持たせておいたお筆に墨をたっぷり含ませ、「我、この塔に銘じて得させん、十兵衛も見よ、源太も見よ」とおっしゃりながら、「江都(こうと)の住人十兵衛これを造り、川越源太郎これを成す、年月日」と筆太に記し終えられた。

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いやそれについて話しのある、その十兵衛という男の親分がまた滅法えらいもので、もしもちとなり破壊れでもしたら同職なかま恥辱はじ知合いの面汚し、うぬはそれでも生きて居らりょうかと、とても再び鉄槌かなづち手斧ちょうなも握ることのできぬほど引っしかって、武士で云わば詰腹同様の目に逢わしょうと、ぐるぐるぐる大雨を浴びながら塔の周囲まわりを巡っていたそうな。

満面に笑みをたたえて振り返られれば、二人ともに言葉もなくただ平伏(ひれふ)してお参りした。

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いやいや、それは間違い、親分ではない商売上敵しょうばいがたきじゃそうな、と我れ知り顔に語り伝えぬ。

それより宝塔(ほうとう)は永久(とこしなえ)に天にそびえて、西から見れば空に月を吐き、東から望めば夕べに赤い日を呑んで、百有余年の今になるまで、話は生きて残っている。

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暴風雨のために準備したく狂いし落成式もいよいよ済みし日、上人わざわざ源太をびたまいて十兵衛とともに塔に上られ、心あって雛僧こぞうに持たせられしお筆に墨汁すみしたたか含ませ、我この塔に銘じて得させん、十兵衛も見よ源太も見よとのたまいつつ、江都の住人十兵衛これを造り川越源太郎これを成す、年月日とぞ筆太にしるしおわられ、満面に笑みをたたえて振りかえりたまえば、両人ともに言葉なくただ平伏ひれふして拝謝おがみけるが、それより宝塔とこしなえに天にそびえて、西よりれば飛檐ひえんある時素月を吐き、東より望めば勾欄こうらん夕べに紅日を呑んで、百有余年の今になるまで、はなしきてのこりける。