五重塔 小学生向け
幸田露伴(こうだろはん)・1970年
AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23)
その一
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其一
木目の美しいケヤキでできた長火鉢に向かって、話し相手もなくたった一人、少し寂しそうに座っている三十歳前後の女がいた。男のように立派な眉を剃った跡が青々として、雨上がりの山のように鮮やかな緑の色を感じさせ、鼻筋はすっと通り、目尻はキリリと上がっている。洗ったばかりの髪をぐるぐると固く丸めて、引き裂いた紙を飾りに一本かんざしで留めただけの、あまり飾り気のない様子ではあるが、真っ黒でつやのある髪の毛が二、三本ほつれて乱れ、浅黒いながらも渋さのとれた顔にかかっているところは、年かさの女でも褒めずにはいられないほどの美しさで、あの女を妻にできたらと男たちがひそかに思うほどであった。
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木理美しき槻胴、縁にはわざと赤樫を用いたる岩畳作りの長火鉢に対いて話し敵もなくただ一人、少しは淋しそうに坐り居る三十前後の女、男のように立派な眉をいつ掃いしか剃ったる痕の青々と、見る眼も覚むべき雨後の山の色をとどめて翠の匂いひとしお床しく、鼻筋つんと通り眼尻キリリと上り、洗い髪をぐるぐると酷く丸めて引裂紙をあしらいに一本簪でぐいと留めを刺した色気なしの様はつくれど、憎いほど烏黒にて艶ある髪の毛の一綜二綜後れ乱れて、浅黒いながら渋気の抜けたる顔にかかれる趣きは、年増嫌いでも褒めずにはおかれまじき風体、わがものならば着せてやりたい好みのあるにと好色漢が随分頼まれもせぬ詮議を蔭ではすべきに、さりとは
見栄を捨てて堅実さを自慢にしている身の装いで、柄の選び方こそ野暮ではないが、せいぜい綿入れに縮緬の衿をかけただけのもので、どこにも派手なところはなく、羽織っているねんねこだけは、昔は何であったかわからないが、粗い縞模様の糸織物で、これも何度も洗われてきたものだろう。
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外見を捨てて堅義を自慢にした身の装り方、柄の選択こそ野暮ならね高が二子の綿入れに繻子襟かけたを着てどこに紅くさいところもなく、引っ掛けたねんねこばかりは往時何なりしやら疎い縞の糸織なれど、これとて幾たびか水を潜って来た奴なるべし。
今ちょうど台所では下働きの女が器を洗う音だけがして家の中は静かで、ほかに人がいる様子もなく、女は何となくつまらなそうに楊枝を舌先で転がして遊んでいたが、ぷつりとそれを噛み切ってぷいと吹き飛ばし、火鉢の灰をかき均して炭火をうまく埋め、芋籠から小切れを取り出して、銀のように光る長五徳を磨いて拭き、銅壺の蓋まできれいにして、それから南部霰地の大きな鉄瓶をちゃんとかけた後、石尊様参りのついでに箱根へ寄ってきたという人から姉御への土産にもらったらしい寄木細工の小さな煙草箱を、右の手に持った鼈甲の煙管で手元に引き寄せ、のんびりと一服吸ってお線香の煙のようにゆっくりと煙を吹き出し、思わずため息をついた。きっと夫のところに仕事が来るだろうが、あの憎らしい「のっそり」めが反対側に回り、去年お世話になった恩も忘れて上人様にうまくとりいり、今度の仕事をどうしても受けようと身の丈も考えずに願いを出したとやら、清吉の話では上人様に依怙贔屓のお気持ちはあっても、名もあまり知られていないのっそりに大切な仕事を任せることは、檀家の方々や寄進者の方々への手前もあって難しかろうから、きっとこちらに命じられるに決まっている。もしまたのっそりに命じられるとしても、あいつにできる仕事でもなく、あいつの下で働くものもいないだろうから、見事に仕損じるのは目に見えていることとのことだけれど、早く夫がいよいよ命じられたと笑顔で帰ってきてくれればよい。類の少ない仕事だけにぜひやってみたい、引き受けてみたい。儲けはどうでもかまわない。谷中感応寺の
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今しも台所にては下婢が器物洗う音ばかりして家内静かに、ほかには人ある様子もなく、何心なくいたずらに黒文字を舌端で嬲り躍らせなどしていし女、ぷつりとそれを噛み切ってぷいと吹き飛ばし、火鉢の灰かきならし炭火体よく埋け、芋籠より小巾とり出し、銀ほど光れる長五徳を磨きおとしを拭き銅壺の蓋まで奇麗にして、さて南部霰地の大鉄瓶をちゃんとかけし後、石尊様詣りのついでに箱根へ寄って来しものが姉御へ御土産とくれたらしき寄木細工の小繊麗なる煙草箱を、右の手に持った鼈甲管の煙管で引き寄せ、長閑に一服吸うて線香の煙るように緩々と煙りを噴き出し、思わず知らず太息吐いて、多分は良人の手に入るであろうが憎いのっそりめが対う
五重塔は川越の源太が作ったのだ、ああよくやったと感心なと言われてみたいと面白がって、普段になく仕事に気をはずませていらっしゃるのに、もしこの仕事を他の人に取られたらどのように腹を立てられるか、かんしゃくを起こされるかわからない。それも当然のことだから、傍から私が慰めようもないわけ。ああ何にせよ、めでとう早く帰ってきてくれればよいと、口には出さないが女房気質で、今朝背中から自分の縫った羽織を着せて出した夫のことを気づかっているところへ、表の格子戸を荒々しく開けて、「姉御、兄貴は?」「なに、感応寺へ」「仕方がない、それでは姉御に、済みませんがお頼み申します、つい昨夜酔いまして」と後は言わず変な手つきをして話しかければ、眉をひそめながら笑い、
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へ廻り、去年使うてやった恩も忘れ上人様に胡麻摺り込んで、たってこん度の仕事をしょうと身の分も知らずに願いを上げたとやら、清吉の話しでは上人様に依怙贔屓のお情はあっても、名さえ響かぬのっそりに大切の仕事を任せらるることは檀家方の手前寄進者方の手前もむつかしかろうなれば、大丈夫此方に命けらるるにきまったこと、よしまたのっそりに命けらるればとて彼奴にできる仕事でもなく、彼奴の下に立って働く者もあるまいなれば見事でかし損ずるは眼に見えたこととのよしなれど、早く良人がいよいよ御用命かったと笑い顔して帰って来られればよい、類の少い仕事だけに是非して見たい受け合って見たい、欲徳はどうでも関わぬ、谷中感応寺の
「仕方のないもないもの、少し締まりなさい」と言い言い立って、いくらかのお金を渡せば、それを持って門口に出て何やらくどくど押し問答した末にこちらへ来て、拳骨で額を押さえ「どうも済みませんでした、ありがとうございます」と無骨な礼をしたのもおかしかった。
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五重塔は川越の源太が作りおった、ああよくでかした感心なと云われて見たいと面白がって、いつになく職業に気のはずみを打って居らるるに、もしこの仕事を他に奪られたらどのように腹を立てらるるか肝癪を起さるるか知れず、それも道理であって見れば傍から妾の慰めようもないわけ、ああなんにせよめでとう早く帰って来られればよいと、口には出さねど女房気質、今朝背面からわが縫いし羽織打ち掛け着せて出したる男の上を気遣うところへ、表の骨太格子手あらく開けて、姉御、兄貴は、なに感応寺へ、仕方がない、それでは姉御に、済みませんがお頼み申します、つい昨晩酔まして、と後は云わず異な手つきをして話せば、眉頭に皺をよせて笑いながら
「仕方のないもないもの、少し締まりなさい」と言い言い立って、いくらかのお金を渡せば、それを持って門口に出て何やらくどくど押し問答した末にこちらへ来て、拳骨で額を押さえ「どうも済みませんでした、ありがとうございます」と無骨な礼をしたのもおかしかった。
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、仕方のないもないもの、少し締まるがよい、と云い云い立って幾らかの金を渡せば、それをもって門口に出で何やらくどくど押し問答せし末こなたに来たりて、拳骨で額を抑え、どうも済みませんでした、ありがとうござりまする、と無骨な礼をしたるもおかし。
その二
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其二
「火は別にとらないからこちらへ来るとよい」と言いながら重そうに鉄瓶を取り下して、部下にも如才なく愛嬌を示す桜湯一杯、心に花がある扱いは、口先だけで言葉が多いよりも温かみがあって、悪いお願いさえすらりと聞いてくれた上、胸にこだわりなくさっぱりといつものように接されては、清吉はかえって内心恥ずかしく、何やら心の底がむず痒いように感じられ、茶碗を取る手もおずおずとして進み出られないほどで、「済みません」という言葉を二度ほど繰り返した後、ようやく乾き切った舌を潤す間もあらせず、「今ごろの帰りとはあまり可愛がられ過ぎたの、ホホ、遊ぶはよいけれど仕事の間を欠いて母親に心配させるようでは、男振りが悪いではないか清吉、あなたはこのごろ
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火は別にとらぬから此方へ寄るがよい、と云いながら重げに鉄瓶を取り下して、属輩にも如才なく愛嬌を汲んでやる桜湯一杯、心に花のある待遇は口に言葉の仇繁きより懐かしきに、悪い請求をさえすらりと聴いてくれし上、胸にわだかまりなくさっぱりと平日のごとく仕做されては、清吉かえって心羞かしく、どうやら魂魄の底の方がむず痒いように覚えられ、茶碗取る手もおずおずとして進みかぬるばかり、済みませぬという辞誼を二度ほど繰り返せし後、ようやく乾ききったる舌を湿す間もあらせず、今ごろの帰りとはあまり可愛がられ過ぎたの、ホホ、遊ぶはよけれど職業の間を欠いて母親に心配さするようでは、男振りが悪いではないか清吉、汝はこのごろ
仲町の甲州屋様の本宅の仕事が済むとすぐに根岸の別荘のお茶席の方へ廻っているではないか、夫も遊ぶのは随分好きで、あなたたちの先に立って騒ぐのは毎度のことだけれど、仕事をおろそかにするのは大嫌い。今もしあなたの顔でも見たらまたあの例のかんしゃくを立てるに決まっているのを知らないわけでもあるまいに、さあ少し遅くはなったけれど母親の持病が起きたとか何とか言い訳はいくらでもつくはず、早く根岸へ行くがよい。五三様もわかった人だから、一日さぼって怠けないことに免じて、見透かしても旦那の前はかばってくれるだろう。おお朝飯がまだらしい、三さん何でもよいほどにご飯をそちらへ用意しなさい、湯豆腐に蛤鍋とはいかないが新漬に煮豆でもかまわないでしょう、二三杯かっ込んですぐ
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仲町の甲州屋様の御本宅の仕事が済むとすぐに根岸の御別荘のお茶席の方へ廻らせられて居るではないか、良人のも遊ぶは随分好きで汝たちの先に立って騒ぐは毎々なれど、職業を粗略にするは大の嫌い、今もし汝の顔でも見たらばまた例の青筋を立つるに定まって居るを知らぬでもあるまいに、さあ少し遅くはなったれど母親の持病が起ったとか何とか方便は幾らでもつくべし、早う根岸へ行くがよい、五三様もわかった人なれば一日をふてて怠惰ぬに免じて、見透かしても旦那の前は庇護うてくるるであろう、おお朝飯がまだらしい、三や何でもよいほどに御膳を其方へこしらえよ、湯豆腐に蛤鍋とは行かぬが新漬に煮豆でも構わぬわのう、二三杯かっこんですぐ
と仕事に走りなさい、ホホ、眠くても昨夜のことを思えば我慢できるでしょう、精を出しなさい辛抱しなさい、よければ弁当も松に持たせてあげるわ」と、苦くはないけれど効き目のある薬のような行き届いた言葉に、汗を出して自分の不始末を恥じる正直者の清吉だった。
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と仕事に走りゃれ走りゃれ、ホホ睡くても昨夜をおもえば堪忍のなろうに精を惜しむな辛防せよ、よいは弁当も松に持たせてやるわ、と苦くはなけれど効験ある薬の行きとどいた意見に、汗を出して身の不始末を慚ずる正直者の清吉。
「姉御、ではお世話になってすぐに仕事に突っ走ります」と、鷲掴みにした手拭で額を拭きながら台所の方に立ったかと思えば、もうざらざらとまるで口の中へ打ち込むように茶漬け飯を五六杯、早くも食べ終えて出てきて、「さようなら、行ってまいります」と肩ごと頭をさっと一つ下げ、煙管を収め、壺屋の煙草入れを三尺帯に挟み、さすがは気が早い江戸っ子気質で、草履をつっかけて門口を出る途端に、今まで黙っていた女は急に呼び止めて、「この二三日にのっそりめに逢ったか」と石から火が出るほど声を走らせて問いかければ、清吉は振り向いて、「逢いました逢いました、しかも昨日御殿坂でいつものっそりがひとしおのっそりと、往生した鶏のようにぐたりと首を垂れ
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姉御、では御厄介になってすぐに仕事に突っ走ります、と鷲掴みにした手拭で額拭き拭き勝手の方に立ったかとおもえば、もうざらざらざらっと口の中へ打ち込むごとく茶漬飯五六杯、早くも食うてしまって出て来たり、さようなら行ってまいります、と肩ぐるみに頭をついと一ツ下げて煙草管を収め、壺屋の煙草入三尺帯に、さすがは気早き江戸ッ子気質、草履つっかけ門口出づる、途端に今まで黙っていたりし女は急に呼びとめて、この二三日にのっそりめに逢うたか、と石から飛んで火の出しごとく声を迸らし問いかくれば、清吉ふりむいて、逢いました逢いました、しかも昨日御殿坂で例ののっそりがひとしおのっそりと、往生した鶏のようにぐたりと首を垂
ながら歩いているのを見かけましたが、今度こちらの棟梁の反対側に立って、のっそりの癖に及びもない望みをかけ、まあ大丈夫ではあるものの、多少棟梁にも姉御にも心配をさせるその面が憎くて憎くてたまりませんので、『やいのっそりめ』と頭から毒を浴びせてやりましたに、あいつのことだから気がつかず、やいのっそりめ、のっそりめと三度めには傍へ行って大声で怒鳴ってやりましたところ、ようやくびっくりしてフクロウに似た目でこちらの顔を見つめ、『ああ清吉兄さん』と寝ぼけたような声で挨拶し、『やい、お前はずいぶん立派な男になったものだな、染め物屋の干し場へ夢でも上ったか、大層高いものを建てたがって、感応寺の和尚様にうまくとりいるという話だが、それは正気の沙汰か寝ぼけているのか』と
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れながら歩行いて居るを見かけましたが、今度こっちの棟梁の対岸に立ってのっそりの癖に及びもない望みをかけ、大丈夫ではあるものの幾らか棟梁にも姉御にも心配をさせるその面が憎くって面が憎くって堪りませねば、やいのっそりめと頭から毒を浴びせてくれましたに、あいつのことゆえ気がつかず、やいのっそりめ、のっそりめと三度めには傍へ行って大声で怒鳴ってやりましたればようやくびっくりして梟に似た眼で我の顔を見つめ、ああ清吉あーにーいかと寝惚声の挨拶、やい、汝は大分好い男児になったの、紺屋の干場へ夢にでも上ったか大層高いものを立てたがって感応寺の和尚様に胡麻を摺り込むという話しだが、それは正気の沙汰か寝惚けてかと
まともから冷やかしてやったところ、ハハハ、姉御、愚鈍な奴というものは正直ではありませんか。何と返事をするかと思えば、『私も随分骨を折って胡麻は擦っているが、源太親方を向こうに立てているのでどうも胡麻が擦りにくくて困る、親方がのっそり、お前やってみろよと譲ってくれればいいけれどね』と馬鹿に虫のいい答えで、ハハハ、思い出しても、心配そうに大真面目くさって言ったその顔がおかしくてたまりませんでした。あまりおかしいので憎さもなくなり、ばかめと言い捨てに別れましたが。
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冷語をまっ向からやったところ、ハハハ姉御、愚鈍い奴というものは正直ではありませんか、なんと返事をするかとおもえば、我も随分骨を折って胡麻は摺って居るが、源太親方を対岸に立てて居るのでどうも胡麻が摺りづらくて困る、親方がのっそり汝やって見ろよと譲ってくれればいいけれどものうとの馬鹿に虫のいい答え、ハハハ憶い出しても、心配そうに大真面目くさく云ったその面がおかしくて堪りませぬ、あまりおかしいので憎っ気もなくなり、箆棒めと云い捨てに別れましたが。
「それきりか」
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それぎりか。
「はい」
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へい。
「そうかい、さあ遅くなる、かまわずに行くがよい」
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そうかえ、さあ遅くなる、関わずに行くがよい。
さようならと清吉は自分の仕事に向かった。後はひとりで物思いに沈み、外では無心な子どもたちが独楽をぶつけ合って遊びに声々かしましく、「一人殺しじゃ二人殺しじゃ、ざまを見ろ、敵を取ったぞ」と叫び散らしていた。
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さようならと清吉は自己が仕事におもむきける、後はひとりで物思い、戸外では無心の児童たちが独楽戦の遊びに声々喧しく、一人殺しじゃ二人殺しじゃ、醜態を見よ讐をとったぞと号きちらす。
思えばこれもお互い次々に競い合う世の姿だった。
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おもえばこれも順々競争の世の状なり。
その三
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其三
世に栄えて豊かな人々は初霜月の衣替えも何の苦もなく、紬や糸織に好みの着物を着て寒さに向かう貧者の心配も知らず、「やれ炉開きだ、やれ口切りだ、それに間に合うよう是非とも急いで茶室を仕上げなさい、待合の庇を繕いなさい」「夜中のにわか時雨も一服しながらでなければ窓を打つ音を楽しみ難い」などと贅沢を言って、木枯らしがすさまじく鐘の音が凍るようになってくる辛い冬を快いものだなどと感じているようだが、その茶室の床板を削るのに鉋を砥ぐ手が冷え切り、その庇の大和垣を結うのに吹きさらされて疝痛を起こすこともある職人連中は、どれほど前の世に悪い業をなしてきたからこそ、同じ季節に他の人とは違って悩み苦しめられるのだろうか。特に職人仲間の中でも世渡りに疎く、心
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世に栄え富める人々は初霜月の更衣も何の苦慮なく、紬に糸織に自己が好き好きの衣着て寒さに向う貧者の心配も知らず、やれ炉開きじゃ、やれ口切りじゃ、それに間に合うよう是非とも取り急いで茶室成就よ待合の庇廂繕えよ、夜半のむら時雨も一服やりながらでのうては面白く窓撲つ音を聞きがたしとの贅沢いうて、木枯凄まじく鐘の音氷るようなって来る辛き冬をば愉快いものかなんぞに心得らるれど、その茶室の床板削りに鉋礪ぐ手の冷えわたり、その庇廂の大和がき結いに吹きさらされて疝癪も起すことある職人風情は、どれほどの悪い業を前の世になしおきて、同じ時候に他とは違い悩め困しませらるるものぞや、取り分け職人仲間の中でも世才に疎く心
ばかり良い夫。腕前は源太親方でさえ去年いろいろ世話してくれた折に、「立派なものだ」と褒めたほど確かなのだが、おっとりした気性のせいで仕事も取り損ないがちで、良いことはいつも他の人に奪われ、年中嬉しくもない暮らしかたで日を送り月を迎える味気なさ。膝のところが抜けているのを辛くも縫い繕った股引きだけを夫にはかせておくこと、女の身としては他人に見られるのも恥ずかしいけれど、何もかも貧乏がさせる不如意に仕方がなく、今縫っている猪之の綿入れも洗いさらした松坂縞で、丹誠一つで着させても着映えしないばかりでなく見苦しいほど針目がちである。それを先ほどは何も知らない幼い心ながら、「母様、それは誰のもの?小さいから俺の着物か、嬉しいな」と喜んでそのまま外へ駆け
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好き吾夫、腕は源太親方さえ去年いろいろ世話して下されし節に、立派なものじゃと賞められしほど確実なれど、寛濶の気質ゆえに仕事も取り脱りがちで、好いことはいつも他に奪られ年中嬉しからぬ生活かたに日を送り月を迎うる味気なさ、膝頭の抜けたを辛くも埋め綴った股引ばかりわが夫にはかせおくこと、婦女の身としては他人の見る眼も羞ずかしけれど、何にもかも貧がさする不如意に是非のなく、いま縫う猪之が綿入れも洗い曝した松坂縞、丹誠一つで着させても着させ栄えなきばかりでなく見ともないほど針目がち、それを先刻は頑是ない幼な心といいながら、母様其衣は誰がのじゃ、小さいからは我の衣服か、嬉しいのうと悦んでそのまま戸外へ駈け
出し、珍しく暖かい天気に浮かれて小竿を持ち、空に飛び交う赤蜻蛉を叩いて取ろうとどこの町まで行ったやら。ああ、考え込めば縫い物も嫌気になってくる。せめて腕の半分でも夫の気働きがあれば、こんなに貧乏はしないのに。腕はあっても宝の持ち腐れとはまさにこのたとえの通り、いつその腕前が現れて万人の目に止まるということのあてもない。たたき大工、穴掘り大工、『のっそり』というむかつく渾名さえつけられて仲間内でも軽んじられている歯痒さ恨めしさ。陰でやきもきと私が思うのと違って平気なのが憎らしいほどだったが、今度はまたどうしたことか、感応寺に五重塔が建つと聞くや否や、急にむらむらとその仕事をぜひやる気になって、恩のある親方様が
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出し、珍らしゅう暖かい天気に浮かれて小竿持ち、空に飛び交う赤蜻蜓を撲いて取ろうとどこの町まで行ったやら、ああ考え込めば裁縫も厭気になって来る、せめて腕の半分も吾夫の気心が働いてくれたならばこうも貧乏はしまいに、技倆はあっても宝の持ち腐れの俗諺の通り、いつその手腕の顕われて万人の眼に止まるということの目的もない、たたき大工穴鑿り大工、のっそりという忌々しい諢名さえ負わせられて同業中にも軽しめらるる歯痒さ恨めしさ、蔭でやきもきと妾が思うには似ず平気なが憎らしいほどなりしが、今度はまたどうしたことか感応寺に五重塔の建つということ聞くや否や、急にむらむらとその仕事を是非する気になって、恩のある親方様が
望まれるのも関わらず欲張りにも、このような身分でありながら引き受けようとは、ちょっと大げさ過ぎると連れ添う私でさえ思うのに、他の人はなんと噂するだろうか。まして親方様はきっと「憎いのっそりめ」と怒っておられることだろう。お吉様はなおさら「義理知らずの奴め」と恨んでおられることだろう。今日は大体どちらかに任せると上人様がお決めになるはずで、今朝出て行かれたがまだ帰られない。どうか今度の仕事だけはあれほど夫は望んでいるとしても、こちらは分に応ぜず、親方には義理もありかたがた、親方の方に上人様が任されればよいと思うような気持ちもするし、また親方様が大らかにして別段怒りもなさらないならば、夫にさせて見事に完成させたいような気持ちもする。ええ気が揉める。どう
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望まるるをも関わず胴欲に、このような身代の身に引き受きょうとは、ちとえら過ぎると連れ添う妾でさえ思うものを、他人はなんと噂さするであろう、ましてや親方様は定めし憎いのっそりめと怒ってござろう、お吉様はなおさら義理知らずの奴めと恨んでござろう、今日は大抵どちらにか任すと一言上人様のお定めなさるはずとて、今朝出て行かれしがまだ帰られず、どうか今度の仕事だけはあれほど吾夫は望んで居らるるとも此方は分に応ぜず、親方には義理もありかたがた親方の方に上人様の任さるればよいと思うような気持もするし、また親方様の大気にて別段怒りもなさらずば、吾夫にさせて見事成就させたいような気持もする、ええ気の揉める、どうな
なることか。とても夫にはお任せなさるまいが、もしもいよいよ夫のすることになったら、どのように親方様やお吉様が腹を立てられるかわからない。ああ心配で頭が痛い。またこれが知れたならば女の余計な、無駄な心配として、それゆえいつも身体が弱いと、優しくて無理な叱り言葉を受けることだろう。もう止めましょ止めましょ。ああ痛い、とかすかなあばたのある青白い顔をしかめながら、即効紙の貼ってある左右のこめかみを、縫い物を捨てて両手で押さえる女は、齢二十五六、顔立ちも醜くはないが、おいしいものを食べていないせいで脂気が少なく肌が荒れた様子がいたいたしく、ぼろぼろの着物にぼさぼさの髪がいっそう悲しい風情であるが、つくづくひとり嘆いている折しも、台所との仕切りの破れ障子がらりと開けて、「母様、これを見てくれ」と
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ることか、とても良人にはお任せなさるまいがもしもいよいよ吾夫のすることになったら、どのようにまあ親方様お吉様の腹立てらるるか知れぬ、ああ心配に頭脳の痛む、またこれが知れたらば女の要らぬ無益心配、それゆえいつも身体の弱いと、有情くて無理な叱言を受くるであろう、もう止めましょ止めましょ、ああ痛、と薄痘痕のある蒼い顔を蹙めながら即効紙の貼ってある左右の顳顬を、縫い物捨てて両手で圧える女の、齢は二十五六、眼鼻立ちも醜からねど美味きもの食わぬに膩気少く肌理荒れたる態あわれにて、襤褸衣服にそそけ髪ますます悲しき風情なるが、つくづく独り歎ずる時しも、台所の劃りの破れ障子がらりと開けて、母様これを見てくれ、と
猪之が言うのにびっくりして、「あなたはいつからそこにいたの」と言いながら見れば、四分板や六分板の切れ端を積んでありありと真似て建てた五重塔だった。思わず母親は涙になって、「ああ、いい子ね」と声を曇らせ、いきなり猪之に抱きついた。
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猪之が云うにびっくりして、汝はいつからそこにいた、と云いながら見れば、四分板六分板の切れ端を積んで現然と真似び建てたる五重塔、思わず母親涙になって、おお好い児ぞと声曇らし、いきなり猪之に抱きつきぬ。
その四
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其四
当時有名な大工である川越の源太が受け負って作り上げた谷中感応寺は、どこに一つ欠点をつける場所があるはずもなく、五十畳敷きの格天井の本堂、橋のように長い廻廊、いくつもの客殿、大和尚の居室、茶室、学徒たちのいる部屋、台所、浴室、玄関まで、あるものは荘厳を尽くしあるものは堅固を極め、あるものは清らかに、あるものはしっとりと落ち着いて、それぞれにふさわしく、出来映えは少しも申し分なかった。
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当時に有名の番匠川越の源太が受け負いて作りなしたる谷中感応寺の、どこに一つ批点を打つべきところあろうはずなく、五十畳敷格天井の本堂、橋をあざむく長き廻廊、幾部かの客殿、大和尚が居室、茶室、学徒所化の居るべきところ、庫裡、浴室、玄関まで、あるは荘厳を尽しあるは堅固を極め、あるは清らかにあるは寂びておのおのそのよろしきに適い、結構少しも申し分なし。
そもそも小さな古い基礎からこれほどの大きな寺を成し遂げたのは誰か。
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そもそも微々たる旧基を振るいてかほどの大寺を成せるは誰ぞ。
法名を聞けばそのころの三歳の子どもさえも手を合わせて礼拝するほど世に知られた宇陀の朗円上人(ろうえんしょうにん)とて、早くから身延山で蛍雪の苦学を積まれ、中ごろ日本中六十余州を雲水の修行で重ね、瞑想の修行に智慧の剣を磨き、仏の教えに衆生を導く法の声を響かせてこられた七十有余の老和尚で、骨は俗世の汚れを避けるゆえに鶴のように痩せ、眼は人の世の騒がしさに飽きて半ば眠れるようであり、もとより万物は空という真理を悟って欲望の炎を胸に燃やされることもなく、悟りの真を会得して執着の彩りに心を染めることもなければ、堂や塔を起こし伽藍を立てようと望まれたわけでもなかったが、徳を慕い風格を仰いで集まってくる学徒がとても多くて、それらの者が雨露をしのぐ便りも古いままでは不都合になり
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法諱を聞けばそのころの三歳児も合掌礼拝すべきほど世に知られたる宇陀の朗円上人とて、早くより身延の山に螢雪の苦学を積まれ、中ごろ六十余州に雲水の修行をかさね、毘婆舎那の三行に寂静の慧剣を礪ぎ、四種の悉檀に済度の法音を響かせられたる七十有余の老和尚、骨は俗界の葷羶を避くるによって鶴のごとくに痩せ、眼は人世の紛紜に厭きて半ば睡れるがごとく、もとより壊空の理を諦して意欲の火炎を胸に揚げらるることもなく、涅槃の真を会して執着の彩色に心を染まさるることもなければ、堂塔を興し伽藍を立てんと望まれしにもあらざれど、徳を慕い風を仰いで寄り来る学徒のいと多くて、それらのものが雨露凌がん便宜も旧のままにてはなくなり
しまいのまま、なおもう少し堂が広くあればよいとつぶやかれたことが根となって、道徳の高い上人が新たに規模を大きくして寺を建てようとおっしゃった、というこのことが八方に広まれば、中には弟子の賢いものが自ら奮って四方に走り感応寺建立に寄附を勧めて歩くものもあり、力になろうという顔で上人の高徳を述べ説き聞かせ富豪を勧めて喜捨させる信徒もあり、元来から日ごろより随喜渇仰の思いを運ぶものが雲霞のようにいたところにこの勢いをもってしたのだから、上は諸侯から下は町人まで先を争い財を投じて、我一番に福田へ種子を投じて来世を安楽にしようと、富者は黄金白銀を、貧者は百文二百文を分に応じて寄進したので、百の川が海に入るように瞬く間に驚くほどの金銭が集まったが、それ
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しまま、なお少し堂の広くもあれかしなんど独語かれしが根となりて、道徳高き上人の新たに規模を大きゅうして寺を建てんと云いたまうぞと、このこと八方に伝播れば、中には徒弟の怜悧なるがみずから奮って四方に馳せ感応寺建立に寄附を勧めて行くもあり、働き顔に上人の高徳を演べ説き聞かし富豪を慫慂めて喜捨せしむる信徒もあり、さなきだに平素より随喜渇仰の思いを運べるもの雲霞のごときにこの勢いをもってしたれば、上諸侯より下町人まで先を争い財を投じて、我一番に福田へ種子を投じて後の世を安楽くせんと、富者は黄金白銀を貧者は百銅二百銅を分に応じて寄進せしにぞ、百川海に入るごとく瞬く間に金銭の驚かるるほど集まりけるが、それ
より世渡りに長けたものの世話人となり用人となり、万事取り行ってやがて立派に完成したとは、聞いてさえ小気味のよい話だった。
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より世才に長けたるものの世話人となり用人となり、万事万端執り行うてやがて立派に成就しけるとは、聞いてさえ小気味のよき話なり。
しかるに全て完成した暁、用人頭の為右衛門が普請の諸々の入用と雑費を一切しめくくり、抜かりなく決算したところになお大金が余っていた。
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しかるに悉皆成就の暁、用人頭の為右衛門普請諸入用諸雑費一切しめくくり、手脱ることなく決算したるになお大金の剰れるあり。
これをどうすべきかと役僧の円道ともろとも、髪のある頭と髪のない頭を突き合わせて相談したが、別に優れた知恵も出ず、田地を買おうか畑を買おうかと考えても、田も畑も余るほど寄附があれば今さらまたこの浄財をそのようなことに費やすにも及ばないと思案にあまし、「面倒なり、よきに計らえ」と皺枯れた御声でおっしゃるのは知れていたが、恐る恐る円道がある時、「お考えの使い道でもありますか」と伺ったところ、「塔を建てよ」とただ一言おっしゃったきり振り向きもしたまわず、鼈甲縁の大きな眼鏡の中からかすかな眼の光りを放たれて、何かの経やら論やらを黙々と読み続けられたが、いよいよ塔を建てると決まって、あの源太に「積もり書を出せ」と円道が命じたことを、知ってか知らずにか上人様にお
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これをばいかになすべきと役僧の円道もろとも、髪ある頭に髪なき頭突き合わせて相談したれど別に殊勝なる分別も出でず、田地を買わんか畠買わんか、田も畠も余るほど寄附のあれば今さらまたこの浄財をそのようなことに費すにも及ばじと思案にあまして、面倒なりよきに計らえと皺枯れたる御声にて云いたまわんは知れてあれど、恐る恐る円道ある時、思さるる用途もやと伺いしに、塔を建てよとただ一言云われしぎり振り向きもしたまわず、鼈甲縁の大きなる眼鏡の中より微かなる眼の光りを放たれて、何の経やら論やらを黙々と読み続けられけるが、いよいよ塔の建つに定まって例の源太に、積り書出せと円道が命令けしを、知ってか知らずにか上人様にお
目通りを願いたいと、のっそりがやって来たのは今から二か月ほど前のことだった。
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目通り願いたしと、のっそりが来しは今より二月ほど前なりし。
その五
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其五
紺とはいえ汗に色あせ風に変わって異様な色になった上、何度も洗い濯がれたためにそれともわからず、衿の印の字さえぼんやりとなっている半纏を着て、継ぎのあたった古い股引をはいた男が、髪は埃にまみれて白っちゃけ、顔は日に焼けて品のない様子がいっそう品なく、うろうろのそのそと感応寺の大門を入りかかるのを、門番が尖った声で「何者か」と怪しんで問いただせば、びっくりしてしばらく眼を見張り、ようやく腰をかがめて馬鹿丁寧に「大工の十兵衛と申しまする、お普請につきましてお願いに出ました」とおずおずと言う様子が何となく腑に落ちないものの、大工とあるので大方源太の弟子か何かの使いにきたものだろうと推察して、「通れ」と一言偉そうに許した。
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紺とはいえど汗に褪め風に化りて異な色になりし上、幾たびか洗い濯がれたるためそれとしも見えず、襟の記印の字さえ朧げとなりし絆纏を着て、補綴のあたりし古股引をはきたる男の、髪は塵埃に塗れて白け、面は日に焼けて品格なき風采のなおさら品格なきが、うろうろのそのそと感応寺の大門を入りにかかるを、門番尖り声で何者ぞと怪しみ誰何せば、びっくりしてしばらく眼を見張り、ようやく腰を屈めて馬鹿丁寧に、大工の十兵衛と申しまする、御普請につきましてお願いに出ました、とおずおず云う風態の何となく腑には落ちねど、大工とあるに多方源太が弟子かなんぞの使いに来たりしものならんと推察して、通れと一言押柄に許しける。
十兵衛これに力を得て、周りを見廻しながら厳めしい玄関前にさしかかり、「お頼み申す」と二三度言えば、鼠色の着物を着た愛らしい小坊主が「おお」と答えて障子を引き開けたが、応接に慣れたものの目ばやく人を見て、式台にも降りず突っ立ちながら「用事なら庫裡の方へ廻れ」と情なく言い捨てて障子をぴっしゃり。後はどこかの木に鳴くヒヨドリの声ばかりして音もなく響きもなかった。
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十兵衛これに力を得て、四方を見廻わしながら森厳しき玄関前にさしかかり、お頼申すと二三度いえば鼠衣の青黛頭、可愛らしき小坊主の、おおと答えて障子引き開けしが、応接に慣れたるものの眼捷く人を見て、敷台までも下りず突っ立ちながら、用事なら庫裡の方へ廻れ、と情なく云い捨てて障子ぴっしゃり、後はどこやらの樹頭に啼く鵯の声ばかりして音もなく響きもなし。
なるほどとひとり言しつつ、十兵衛は庫裡に廻ってまた案内を乞えば、用人の為右衛門がもっともらしい理屈顔で立ち出でて、「見慣れない棟梁殿、どこからどんな用事でいらっしゃった」と身なりが粗末なのでもう馬鹿にした言葉遣い。十兵衛はさらに気にもとめず、「私は大工の十兵衛と申すもの、上人様の御前にかかってお願いをしたいことがありましてまいりました、どうぞお取次ぎ下さいませ」と頭を低くして頼み入るに、為右衛門はじろりと十兵衛のうす汚い頭から白の鼻緒が鼠色になった草履を履いている足先まで睨め下し、「ならぬ、ならぬ、上人様は俗用には関わりはなされぬわ、願いというは何か知らないが言ってみよ、次第によっては我が取り計らってやる」とさも万事わかったような
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なるほどと独り言しつつ十兵衛庫裡にまわりてまた案内を請えば、用人為右衛門仔細らしき理屈顔して立ち出で、見なれぬ棟梁殿、いずくより何の用事で見えられた、と衣服の粗末なるにはや侮り軽しめた言葉遣い、十兵衛さらに気にもとめず、野生は大工の十兵衛と申すもの、上人様の御眼にかかりお願いをいたしたいことのあってまいりました、どうぞお取次ぎ下されまし、と首を低くして頼み入るに、為右衛門じろりと十兵衛が垢臭き頭上より白の鼻緒の鼠色になった草履はき居る足先まで睨め下し、ならぬ、ならぬ、上人様は俗用にお関わりはなされぬわ、願いというは何か知らねど云うて見よ、次第によりては我が取り計ろうてやる、とさもさも万事心得た
用人めかした才物ぶりだった。
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用人めかせる才物ぶり。
それを無頓着な男の不器用な感じで突き放して、「いえ、ありがとうはございますが、上人様に直々でなければ申しても役に立ちませんこと、どうぞただお取次ぎをお願いいたします」と、こちらの心が一本気だから相手の気に触る言葉とも考えず押し返して言えば、為右衛門は腹には頼まないのが憎くて怒りを含み、「わけのわからない男だな、上人様はお前ごとき職人らに耳を貸したまわないというのに、取り次いでも無駄だから我が計らって得させようと、甘く扱えばつけ上がる言い分、もはや何もかも聞いてやらない、帰れ帰れ」と小人の常として語気たちまち荒くなり、つれなく言い捨てて立とうとするのにあわてた十兵衛、「ではございましょうなれど」と半分言う間もなく、「うるさい、やかましい」と打ち消
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それを無頓着の男の質朴にも突き放して、いえ、ありがとうはござりますれど上人様に直々でのうては、申しても役に立ちませぬこと、どうぞただお取次ぎを願いまする、と此方の心が醇粋なれば先方の気に触る言葉とも斟酌せず推し返し言えば、為右衛門腹には我を頼まぬが憎くて慍りを含み、理のわからぬ男じゃの、上人様は汝ごとき職人らに耳は仮したまわぬというに、取り次いでも無益なれば我が計ろうて得させんと、甘く遇えばつけ上る言い分、もはや何もかも聞いてやらぬ、帰れ帰れ、と小人の常態とて語気たちまち粗暴くなり、膠なく言い捨て立たんとするにあわてし十兵衛、ではござりましょうなれど、と半分いう間なく、うるさい、喧しいと打ち消
され、奥の方に入ってしまって、ぼんやりと土間に突っ立ったまま手のひらに捕まえた蛍に逃げられたような思いをしたが、仕方なく声を上げてまた案内を乞うに、口ある人がいるやらいないやら薄ら寒い大寺がひっそりとして、響きだけは耳に落ちてくるが咳一つ聞こえず、玄関に廻ってまた頼むと言えば、先ほど見た憎らしげな賢そうな小坊主がちょっと顔を出して、「庫裡へ行けと教えたのに」とつぶやいて早くも障子をぴしゃり。
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され、奥の方に入られてしもうて茫然と土間に突っ立ったまま掌の裏の螢に脱去られしごとき思いをなしけるが、是非なく声をあげてまた案内を乞うに、口ある人のありやなしや薄寒き大寺の岑閑と、反響のみはわが耳に堕ち来れど咳声一つ聞えず、玄関にまわりてまた頼むといえば、先刻見たる憎げな怜悧小僧のちょっと顔出して、庫裡へ行けと教えたるに、と独語きて早くも障子ぴしゃり。
また庫裡に廻り、また玄関に行き、また玄関に行って庫裡に廻り、ついには遠慮を忘れて本堂にまで響く大声を上げ、「頼む頼む、お頼み申す」と叫べば、その声より大きな声を発して「馬鹿め」と罵りながら為右衛門がずかずかと立ち出でて、「下男どもよ、この気違いを門外に引き出せ、騒々しいのを嫌いたまう上人様に知れれば、我らがこいつのために叱られることになろう」との命令。「心得ました」と先ほどより男部屋に転がっていた寺の下男らが立ちかかり、引き出そうとする。土間に坐り込んで出されまいとする十兵衛。
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また庫裡に廻りまた玄関に行き、また玄関に行き庫裡に廻り、ついには遠慮を忘れて本堂にまで響く大声をあげ、頼む頼むお頼申すと叫べば、其声より大き声を発して馬鹿めと罵りながら為右衛門ずかずかと立ち出で、僮僕どもこの狂漢を門外に引き出せ、騒々しきを嫌いたまう上人様に知れなば、我らがこやつのために叱らるべしとの下知、心得ましたと先刻より僕人部屋に転がりいし寺僕ら立ちかかり引き出さんとする、土間に坐り込んで出されじとする十兵衛。
「それ手を取れ、足を持ち上げよ」と大勢が口々に罵り騒いでいるところへ、後園の花を二枝三枝切って床に飾ろうと、境内をあちこち逍遥されていた朗円上人が、木蘭色の無垢の衣を着て左の手に女郎花と桔梗、右の手に朱塗りの柄の鋏を持ったまま、思いがけなくここに来かかられた。
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それ手を取れ足を持ち上げよと多勢口々に罵り騒ぐところへ、後園の花二枝三枝剪んで床の眺めにせんと、境内あちこち逍遙されし朗円上人、木蘭色の無垢を着て左の手に女郎花桔梗、右の手に朱塗の把りの鋏持たせられしまま、図らずここに来かかりたまいぬ。
その六
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其六
「何事で罵り騒ぐのか」と上人が下される鶴の一声のお言葉に、群れ雀の輩が鳴りを鎮めて、振り上げた拳を隠す場所もなく、禅僧の問答にありやありやと言いかけたまま一喝されて腰が折れたような様子のものもあり、まくり縮めた袖を格好悪そうに下ろしてこそこそと人の後ろに隠れるものもあった。
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何事に罵り騒ぐぞ、と上人が下したまう鶴の一声のお言葉に群雀の輩鳴りを歇めて、振り上げし拳を蔵すに地なく、禅僧の問答にありやありやと云いかけしまま一喝されて腰の折けたるごとき風情なるもあり、捲り縮めたる袖を体裁悪げに下してこそこそと人の後ろに隠るるもあり。
天を仰げる鼻の穴から火煙も噴くべき高慢の怒りに意気高ぶっていた為右衛門も、少しは恥じてか首をたれて手を揉みながら、自分が言い出したことだから仕方なく、ありし次第を自分に都合よく申し出れば、痩せて皺ばった顔に深く長くついた法令の皺をいっそう深めて、にったりとゆっくりと笑たまい、女のように軽く柔らかな声で小さく、「それならば騒がずともよいこと、為右衛門よ、お前がただすなおに取り次ぎさえすれば仔細はなかったものを、さあ十兵衛殿とやら、私についてこちらへおいで、とんだ気の毒な目に遭わせました」と万人に敬われ慕われる人はまた格別の心の行き方で、学徒を軽んぜず下の者も侮らず、親切に穏やかに先に立って静かに導きたまう後に
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天を仰げる鼻の孔より火煙も噴くべき驕慢の怒りに意気昂ぶりし為右衛門も、少しは慚じてや首をたれ掌を揉みながら、自己が発頭人なるに是非なく、ありし次第をわが田に水引き水引き申し出づれば、痩せ皺びたる顔に深く長く痕いたる法令の皺溝をひとしお深めて、にったりと徐やかに笑いたまい、婦女のように軽く軟らかな声小さく、それならば騒がずともよいこと、為右衛門汝がただ従順に取り次ぎさえすれば仔細はのうてあろうものを、さあ十兵衛殿とやら老衲について此方へおいで、とんだ気の毒な目に遇わせました、と万人に尊敬い慕わるる人はまた格別の心の行き方、未学を軽んぜず下司をも侮らず、親切に温和しく先に立って静かに導きたまう後に
ついて、うっかりした根性にも慈悲が浸み透れば感涙がとまらない十兵衛は、だんだんと赤土のしっとりとしたところ、飛び石の趣きに敷かれたところ、青桐の影が深く四方竹の色がゆかしく茂るところなどを廻り廻って過ぎ、小さな折戸を入れると、花もこれというはない小庭がただ静かに古びていて、有楽型の燈籠に松の落ち葉が散りかかり、星型の手水鉢に苔が生えているのが見る目の塵をも洗うほどだった。
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ついて、迂濶な根性にも慈悲の浸み透れば感涙とどめあえぬ十兵衛、だんだんと赤土のしっとりとしたるところ、飛石の画趣に布かれあるところ、梧桐の影深く四方竹の色ゆかしく茂れるところなど縈り繞り過ぎて、小やかなる折戸を入れば、花もこれというはなき小庭のただものさびて、有楽形の燈籠に松の落葉の散りかかり、方星宿の手水鉢に苔の蒸せるが見る眼の塵をも洗うばかりなり。
上人は庭下駄を脱ぎ捨てて上にあがり、「さあ、お前もこちらへ」と言いさして手に持たれていた花を早速に釣り花入れに投げ込まれたので、十兵衛は少しもひるまず臆せず、手拭いで足をはたくほどのことも気がつかない男なので何もせず、草履を脱いでのっそりと三畳台目の茶室に入り込み、鼻を突き合わせるほど上人に近づいて座って黙々と一礼する様子は、礼儀に慣れてはいないけれど十分に偽りのない心の誠実を表していた。何度かすぐにでも言い出そうとしてもまだ開けないでいた口をようやく開いて、舌の動きもたどたどしく、「五重の塔の、お願いに出ましたは五重の塔のためでございます」と藪から棒を突き出したように突然に声の調子も不揃いに、辛くも胸にあることを額や脇の下の汗とともに絞り出
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上人庭下駄脱ぎすてて上にあがり、さあ汝も此方へ、と云いさして掌に持たれし花を早速に釣花活に投げこまるるにぞ、十兵衛なかなか怯めず臆せず、手拭で足はたくほどのことも気のつかぬ男とてなすことなく、草履脱いでのっそりと三畳台目の茶室に入りこみ、鼻突き合わすまで上人に近づき坐りて黙々と一礼する態は、礼儀に嫻わねど充分に偽飾なき情の真実をあらわし、幾たびかすぐにも云い出でんとしてなお開きかぬる口をようやくに開きて、舌の動きもたどたどしく、五重の塔の、御願いに出ましたは五重の塔のためでござります、と藪から棒を突き出したように尻もったてて声の調子も不揃いに、辛くも胸にあることを額やら腋の下の汗とともに絞り出
せば、上人は思わず笑いをもよおされ、「何か知らないが私を怖いものなどと思わずに、遠慮を忘れてゆっくりと話をするがよい。庫裡の土間に坐り込んで動かずにいた様子では、何か深く思い詰めてきたことだろう、さあ遠慮を捨てて急がずに、私を友達同様と思って話すがよい」とあくまで優しいお心づかいだった。
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せば、上人おもわず笑いを催され、何か知らねど老衲をば怖いものなぞと思わず、遠慮を忘れてゆるりと話をするがよい、庫裡の土間に坐り込うで動かずにいた様子では、何か深う思い詰めて来たことであろう、さあ遠慮を捨てて急かずに、老衲をば朋友同様におもうて話すがよい、とあくまで慈しき注意。
十兵衛はすぐに「フクロウ」といつも悪口を受ける大きな丸い眼に早くも涙を浮かべて、「はい、はい、はい、ありがとうございます。思い詰めてまいりました。その五重の塔を、こういう野郎でございます。ご覧の通り、のっそり十兵衛と悔しい渾名をつけられている男でございます。しかしお上人様、本当でございます、仕事は下手ではございません。知っています。私は馬鹿でございます。馬鹿にされております。意気地のない奴でございます。嘘はなかなか申しません。お上人様、大工はできます。大隅流は子どもの時から、後藤、立川の二つの流儀も合点いたしております。させて、五重塔の仕事を私にさせていただきたい。それでまいりました。川越の源太様が積もりをしたとは五六
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十兵衛脆くも梟と常々悪口受くる銅鈴眼にはや涙を浮めて、はい、はい、はいありがとうござりまする、思い詰めて参上りました、その五重の塔を、こういう野郎でござります、御覧の通り、のっそり十兵衛と口惜しい諢名をつけられて居る奴でござりまする、しかしお上人様、真実でござりまする、工事は下手ではござりませぬ、知っております私しは馬鹿でござります、馬鹿にされております、意気地のない奴でござります、虚誕はなかなか申しませぬ、お上人様、大工はできます、大隅流は童児の時から、後藤立川二ツの流義も合点致しておりまする、させて、五重塔の仕事を私にさせていただきたい、それで参上りました、川越の源太様が積りをしたとは五六
日前に聞きました。それから私は眠れません。お上人様、五重塔は百年に一度、一生に一度建つものではございません。恩を受けております源太様の仕事を奪いたくはおもいませんが、ああ賢い人は羨ましい。一生一度百年一度の良い仕事を源太様はなさる。死んでも立派に名を残される。ああ羨ましい羨ましい。大工となって生きている甲斐もあるというもの。それに引き換えこの十兵衛は、鑿や手斧を持っては源太様にでも誰にでも、打つ墨縄の曲がることはあれ、万が一にも後れを取るようなことは必ず必ずないと思えど、年中長屋の羽目板の繕いやら馬小屋の溝の数仕事。天道様が知恵というものを俺には下さらないから仕方がないと諦めて諦めても、出来の悪い
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日前聞きました、それから私は寝ませぬわ、お上人様、五重塔は百年に一度一生に一度建つものではござりませぬ、恩を受けております源太様の仕事を奪りたくはおもいませぬが、ああ賢い人は羨ましい、一生一度百年一度の好い仕事を源太様はさるる、死んでも立派に名を残さるる、ああ羨ましい羨ましい、大工となって生きている生き甲斐もあらるるというもの、それに引き代えこの十兵衛は、鑿手斧もっては源太様にだとて誰にだとて、打つ墨縄の曲ることはあれ万が一にも後れを取るようなことは必ず必ずないと思えど、年が年中長屋の羽目板の繕いやら馬小屋箱溝の数仕事、天道様が知恵というものを我には賜さらないゆえ仕方がないと諦めて諦めても、拙
奴らが宮を作り堂を請け負い、見るものの目から見れば建てさせた人が気の毒なほどのものを作ったのを見るたびごとに、内々自分の不運を泣きます。お上人様、時々は口惜しくて腕もない癖に知恵ばかり達者な奴が憎くもなりますよ。お上人様、源太様は羨ましい。知恵も達者なれば腕も達者、ああ羨ましい仕事をなさるか。俺はよ、源太様はよ、情けないこの俺はよと、羨ましいがついに高じて女房にも口をきかず泣きながら寝ましたその夜のこと、五重塔をお前が作れ今すぐつくれと恐ろしい人に言いつけられ、あわてて飛び起きさまに道具箱へ手を突っ込んだのは半分夢で半分うつつ、目が全くさめて見れば指の先を鐔鑿につっかけてけがをしながら道具箱につ
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い奴らが宮を作り堂を受け負い、見るものの眼から見れば建てさせた人が気の毒なほどのものを築造えたを見るたびごとに、内々自分の不運を泣きますわ、お上人様、時々は口惜しくて技倆もない癖に知恵ばかり達者な奴が憎くもなりまするわ、お上人様、源太様は羨ましい、知恵も達者なれば手腕も達者、ああ羨ましい仕事をなさるか、我はよ、源太様はよ、情ないこの我はよと、羨ましいがつい高じて女房にも口きかず泣きながら寝ましたその夜のこと、五重塔を汝作れ今すぐつくれと怖ろしい人にいいつけられ、狼狽えて飛び起きさまに道具箱へ手を突っ込んだは半分夢で半分現、眼が全く覚めて見ますれば指の先を鐔鑿につっかけて怪我をしながら道具箱につ
かまって、いつの間にか夜具の中から出ていた情けなさ。行燈の前にぼんやりと座って、ああ情けない、つまらないと思いましたその時の心持ち、お上人様、わかりますか、ええ、わかりますか。これだけが誰にでもわかってくれれば塔も建てなくてもよいのです。どうせ馬鹿なのっそり十兵衛は死んでもよいのでございます。腰抜け鋸のように生きていたくもないのですよ。その夜からというものは、本当に、本当でございますお上人様、晴れている空を見ても、明かりの届かない部屋の隅の暗いところを見ても、白木造りの五重の塔がぬっと突っ立って私を見下ろしておりますよ。とうとう自分が造りたい気になって、とても及ばないとは知りながら毎日仕事を終わるとすぐに夜にこもっ
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かまって、いつの間にか夜具の中から出ていたつまらなさ、行燈の前につくねんと坐ってああ情ない、つまらないと思いました時のその心持、お上人様、わかりまするか、ええ、わかりまするか、これだけが誰にでも分ってくれれば塔も建てなくてもよいのです、どうせ馬鹿なのっそり十兵衛は死んでもよいのでござりまする、腰抜鋸のように生きていたくもないのですわ、其夜からというものは真実、真実でござりまする上人様、晴れて居る空を見ても燈光の達かぬ室の隅の暗いところを見ても、白木造りの五重の塔がぬっと突っ立って私を見下しておりまするわ、とうとう自分が造りたい気になって、とても及ばぬとは知りながら毎日仕事を終るとすぐに夜を籠め
て、五十分の一の雛形を作り、昨夜ちょうど仕上げました。見に来て下さいお上人様。頼まれもしない仕事はできてしたい仕事はできない口惜しさ、ええ不運ほど情けないものはないと私が嘆けば、お上人様、なまじできなければ不運も知らないでしょうと女房めがその雛形を揺り動かしての述懐、無理とは聞こえないだけによけい泣きました。お上人様、お慈悲に今度の五重塔は私に建てさせて下さい。拝みます、こここの通り」と両手を合わせて頭を畳につけ、涙は塵を浮かべた。
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て五十分一の雛形をつくり、昨夜でちょうど仕上げました、見に来て下されお上人様、頼まれもせぬ仕事はできてしたい仕事はできない口惜しさ、ええ不運ほど情ないものはないと私が歎けばお上人様、なまじできずば不運も知るまいと女房めが其雛形をば揺り動かしての述懐、無理とは聞えぬだけによけい泣きました、お上人様お慈悲に今度の五重塔は私に建てさせて下され、拝みます、こここの通り、と両手を合わせて頭を畳に、涙は塵を浮べたり。
その七
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其七
木彫りの羅漢(らかん)のように黙々と座って、菩提樹の実の数珠を繰りながら十兵衛の取り留めのない述懐に耳を傾けておられた上人は、十兵衛が頭を下げるのを止めとどめて、「わかりました、よく合点がいきました。ああ殊勝な心がけを持っておられる、立派な考えを蓄えていらっしゃる。学徒どもの手本にもしたいような、私も思わず涙がこぼれました。五十分の一の雛形とやらも是非見に行きましょう。しかし、あなたに感服したからといって今すぐに五重の塔の仕事をあなたに任すと、軽はずみなことを私の独り決めで言うわけにもならないから、これだけははっきりとお断わりしておきます。いずれ頼むとも頼まないともそれは表立って、私からではなく感応寺から沙汰をしましょう。ともかくも幸い今日は暇が
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木彫りの羅漢のように黙々と坐りて、菩提樹の実の珠数繰りながら十兵衛が埒なき述懐に耳を傾け居られし上人、十兵衛が頭を下ぐるを制しとどめて、わかりました、よく合点が行きました、ああ殊勝な心がけを持って居らるる、立派な考えを蓄えていらるる、学徒どもの示しにもしたいような、老衲も思わず涙のこぼれました、五十分一の雛形とやらも是非見にまいりましょう、しかし汝に感服したればとて今すぐに五重の塔の工事を汝に任するわと、軽忽なことを老衲の独断で言うわけにもならねば、これだけは明瞭とことわっておきまする、いずれ頼むとも頼まぬともそれは表立って、老衲からではなく感応寺から沙汰をしましょう、ともかくも幸い今日は閑暇
あれば、あなたが作った雛形を見たい。案内してこれよりすぐにあなたの家へ私を連れて行ってはくれないか」と少しも体裁を飾らない人の、道理は明らかに言葉を渋滞なくおっしゃれば、十兵衛は満面に笑みを含みながら米を搗くように無闇に頭を下げて、「はい、はい、はい」と答えていたが、「お願いをお取り上げ下さいましたか、ああありがとうございます。私の宅においでなさいますると、ああもったいない、雛形はすぐに私めが持ってまいります。御免下さい」と言うや否やさすがののっそりも喜びに狂って普段には似ず、大げさに一つぽっくりとお辞儀をするや否や、飛び石につまずきながら駆け出して我が家に帰り、帰ったと一言女房にも言わず、いきなり雛形を持ち出して人を
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のあれば汝が作った雛形を見たし、案内してこれよりすぐに汝が家へ老衲を連れて行てはくれぬか、とすこしも辺幅を飾らぬ人の、義理明らかに言葉渋滞なく云いたまえば、十兵衛満面に笑みを含みつつ米舂くごとくむやみに頭を下げて、はい、はい、はいと答えおりしが、願いをお取り上げ下されましたか、ああありがとうござりまする、野生の宅へおいで下さりますると、ああもったいない、雛形はじきに野生めが持ってまいりまする、御免下され、と云いさまさすがののっそりも喜悦に狂して平素には似ず、大げさに一つぽっくりと礼をばするや否や、飛石に蹴躓きながら駈け出してわが家に帰り、帰ったと一言女房にも云わず、いきなりに雛形持ち出して人を
頼み、二人で息せき急いで感応寺へと持ち込み、上人の前にさし置いて帰ったが、上人がこれをよくご覧になると、初重より五重までのつりあい、屋根の庇の勾配、腰の高さ、椽木の割り振り、九輪や受花・露盤・宝珠の体裁まで、どこにも嫌なところがなく、際立った細工ぶりで、これがあの不器用らしき男の手でできたものかと疑われるほど巧みなので、独りひそかに感心されて、これほどの腕前を持ちながら空しく埋もれ、名を出さずに世を過ごすものもあることか、傍目から見てさえも気の毒なのを当人の身になってはいかに口惜しいことだろうか。あわれこのようなものに、その力を活かさせ、長年抱いてきた心の願いに背かないようにしてやりたい。草木とともに朽ちていく人の身はもとより因縁仮和合にて、
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頼み、二人して息せき急ぎ感応寺へと持ち込み、上人が前にさし置きて帰りけるが、上人これを熟視たまうに、初重より五重までの配合、屋根庇廂の勾配、腰の高さ、椽木の割賦、九輪請花露盤宝珠の体裁までどこに可厭なるところもなく、水際立ったる細工ぶり、これがあの不器用らしき男の手にてできたるものかと疑わるるほど巧緻なれば、独りひそかに歎じたまいて、かほどの技倆をもちながら空しく埋もれ、名を発せず世を経るものもあることか、傍眼にさえも気の毒なるを当人の身となりてはいかに口惜しきことならん、あわれかかるものに成るべきならば功名を得させて、多年抱ける心願に負かざらしめたし、草木とともに朽ちて行く人の身はもとより因縁仮和合
よしや惜しんでも惜しんで甲斐なく留めても留まらないが、たとえば大工の道は小さいにせよ、それに一心の誠を委ね命をかけて、欲もあらかたは忘れ卑しい念も起こさず、ただただ鑿を持っては良く穿つことを思い、鉋を持っては良く削ることを思う心の尊さは、金にも銀にも比べがたいのに、わずかに残すよすがもなくていたずらに墓の土に埋め、冥途の土産として持ち去らせることを思えば哀れ至極だ。良馬が主を得ない悲しみ、高士が世に容れられない恨みも、つまりのところは変わりない。よしよし、我が思いがけずも十兵衛が胸に抱える価値のない宝珠の微かな光を認めたことこそ縁であれ、このたびの仕事を彼に命じ、せめては少しの報いを彼が誠実な心に得させようと思われたが、ふと思
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、よしや惜しむとも惜しみて甲斐なく止めて止まらねど、たとえば木匠の道は小なるにせよそれに一心の誠を委ね生命をかけて、欲も大概は忘れ卑劣き念も起さず、ただただ鑿をもってはよく穿らんことを思い、鉋を持ってはよく削らんことを思う心の尊さは金にも銀にも比えがたきを、わずかに残す便宜もなくていたずらに北邙の土に没め、冥途の苞と齎し去らしめんこと思えば憫然至極なり、良馬主を得ざるの悲しみ、高士世に容れられざるの恨みも詮ずるところは異ることなし、よしよし、我図らずも十兵衛が胸に懐ける無価の宝珠の微光を認めしこそ縁なれ、こたびの工事を彼に命け、せめては少しの報酬をば彼が誠実の心に得させんと思われけるが、ふと思
いよられたのは、川越の源太もこの仕事をことのほか望んでいる上、彼には本堂・庫裡・客殿を作らせた縁もあり、しかも設計予算(つもりがき)まですでに作り上げて目に入れたのは四五日前だ。腕は彼とて鈍いわけではなく、人の信用は遥かに十兵衛を超えていた。
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いよりたまえば川越の源太もこの工事をことのほかに望める上、彼には本堂庫裏客殿作らせし因みもあり、しかも設計予算まではや做し出してわが眼に入れしも四五日前なり、手腕は彼とて鈍きにあらず、人の信用ははるかに十兵衛に超えたり。
一つの仕事に二人の大工、これにもさせたし彼にもさせたし、どちらにしようと上人もさすがにこれには迷われた。
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一ツの工事に二人の番匠、これにもさせたし彼にもさせたし、いずれにせんと上人もさすがこれには迷われける。
その八
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其八
「明日の辰の刻(午前八時ごろ)までに自身でこの寺に来るべきこと。かねてその方が仕事をご命令いただきたいと願い出た五重塔の件につき、上人が直接にお話しになるとのことであるから、着物等失礼のないように心得て出頭せよ」と、厳かに口上を述べているのは弁舌自慢の円珍とて、唐辛子をむやみに好んで食べたたたりが鼻の先に現れているおどけた納所(なっしょ)役の坊主だ。
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明日辰の刻ごろまでに自身当寺へ来たるべし、かねてその方工事仰せつけられたきむね願いたる五重塔の儀につき、上人直接にお話示あるべきよしなれば、衣服等失礼なきよう心得て出頭せよと、厳格に口上を演ぶるは弁舌自慢の円珍とて、唐辛子をむざと嗜み食える祟り鼻の頭にあらわれたる滑稽納所。
普段ならば「南蛮和尚」という渾名で呼んで冗談を言い合うほどの仲だったが、本堂建立の間は朝夕顔を見ていたことで自然と慣れ親しんだ馴染みも今は薄くなった上、使僧らしく威儀を整えて、人差し指と中指の二本でともすれば兜みたいな形の頭のてっぺんを掻く癖のある手も法衣の袖に殊勝くさく隠しているのに、源太も敬い慎んで承知の旨を頭を下げながら答えたが、如才ないお吉は夫をこのような俗な坊主にまでよく言わせようとしてか、帰り際に、出したままにしていった茶菓子とともにいくらかを包み込み、是非にということで取らせたのは、思えばけしからない布施のしかただった。
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平日ならば南蛮和尚といえる諢名を呼びて戯談口きき合うべき間なれど、本堂建立中朝夕顔を見しよりおのずと狎れし馴染みも今は薄くなりたる上、使僧らしゅう威儀をつくろいて、人さし指中指の二本でややもすれば兜背形の頭顱の頂上を掻く癖ある手をも法衣の袖に殊勝くさく隠蔽し居るに、源太も敬い謹んで承知の旨を頭下げつつ答えけるが、如才なきお吉はわが夫をかかる俗僧にまでよく評わせんとてか帰り際に、出したままにして行く茶菓子とともに幾干銭か包み込み、是非にというて取らせけるは、思えばけしからぬ布施のしようなり。
円珍は十兵衛の家にも参って同じことを述べて帰ったが、さてその翌日となれば源太はひげを剃り月代をして衣服を改めて、「今日こそは上人が自ら我に御用を命じてくださるに違いない」と勢い込んで、庫裡より通り、ある一間に待たされて座を正しく控えていた。
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円珍十兵衛が家にも詣りて同じことを演べ帰りけるが、さてその翌日となれば源太は鬚剃り月代して衣服をあらため、今日こそは上人のみずから我に御用仰せつけらるるなるべけれと勢い込んで、庫裏より通り、とある一間に待たされて坐を正しくし扣えける。
様子こそ違え、十兵衛も同じ張り合いを持ち、導かれるまま打ち通って、人気のない寒さの湧く一室の中にただ一人ぼんやりとして、今や上人がお招きくださるか、五重の塔の工事一切をあなたに任すとお命じになるか、もしまた我には命じずに源太に任すとお決めになったことを我に知らせるために招かれたのか。そうならばどうしよう。浮かぶすがたのない埋れ木の我が身の末に花咲く頼みも永くなくなるだろう。ただ願わくは上人が我の愚かさを憐れんで我に命じてくださらんことをと、九尺二枚の唐襖に金鳳銀凰が翔り舞うその箔模様の美しいのも目に止めずして、ぼんやりと暗路で物を探るように思いを空に漂わせることしばらくのところへ、あの賢そうな小坊主が出てきて「方丈様のお召しですのでこちらへおいでなさいませ」
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態こそ異れ十兵衛も心は同じ張りをもち、導かるるまま打ち通りて、人気のなきに寒さ湧く一室の中にただ一人兀然として、今や上人の招びたまうか、五重の塔の工事一切汝に任すと命令たまうか、もしまた我には命じたまわず源太に任すと定めたまいしを我にことわるため招ばれしか、そうにもあらば何とせん、浮むよしなき埋れ木のわが身の末に花咲かん頼みも永くなくなるべし、ただ願わくは上人のわが愚かしきを憐れみて我に命令たまわんことをと、九尺二枚の唐襖に金鳳銀凰翔り舞うその箔模様の美しきも眼に止めずして、茫々と暗路に物を探るごとく念想を空に漂わすことやや久しきところへ、例の怜悧げな小僧いで来たりて、方丈さまの召しますほどに
と先に立って案内すれば、「さあや、願いがかなうもかなわないも定まる時ぞ」と愚かな男も胸を騒がせ、導かれるまま従って一室の中へずっと入る。途端にこちらをぎろりっと見る目が鋭く怒りを含んで斜めに睨むのは思いがけない源太で、座に上人の姿もなかった。
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こちらへおいでなされまし、と先に立って案内すれば、すわや願望のかなうともかなわざるとも定まる時ぞと魯鈍の男も胸を騒がせ、導かるるまま随いて一室の中へずっと入る、途端にこなたをぎろりっと見る眼鋭く怒りを含んで斜めに睨むは思いがけなき源太にて、座に上人の影もなし。
事の意外に十兵衛も足踏みとめて突っ立ったまま一言もなく睨み合いをしたが、仕方なく畳二枚ばかりを隔てたところにようやく座り、力なげに首をしょんぼりと自分の膝に元気のなさそうな目を注いでいるのに引き換え、源太郎は子犬を見下ろす猛鷹の風に、臨んで千尺の岩の上に立つ風情で、腹に十分の強みを抱いて、背もかがめず肩も歪めず、すっきりとしゃんと構えた様子といい顔立ちといい、水際立った男ぶりで、万人が万人とも好かずにはいられない天晴れな小気味よい好男だった。
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事の意外に十兵衛も足踏みとめて突っ立ったるまま一言もなく白眼合いしが、是非なく畳二ひらばかりを隔てしところにようやく坐り、力なげ首悄然と己れが膝に気勢のなきたそうなる眼を注ぎ居るに引き替え、源太郎は小狗を瞰下す猛鷲の風に臨んで千尺の巌の上に立つ風情、腹に十分の強みを抱きて、背をも屈げねば肩をも歪めず、すっきり端然と構えたる風姿といい面貌といい水際立ったる男振り、万人が万人とも好かずには居られまじき天晴れ小気味のよき好漢なり。
しかし世間的な見方には落ちない心の明鏡に照らしてどちらも愛し、外見の美醜に少しも引っかからない上人が、かえっていずれをとも昨日まで選びかねておられたが、思いつかれることがあってか、今日はわざわざ二人を招び出して一室に待たせておかれたが、今しも静々と居間を出られ、畳を踏まれる足も軽く、先に立った小坊主が障子を開ける後から、すっと入って座につきたまえば、二人は恭しく慎んでともに等しく頭を下げ、しばらくは上げることもできなかったが、ああいたいたしや十兵衛が辛くも上げた顔には、まだ世慣れていない田舎の子が貴人の前に出たようにはにかみを含んで紅が差し、額の皺のいくすじかの溝には滲み出た熱い汗をたたえ、鼻の先にも玉を吹かせれば脇の下には雨だろう。
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されども世俗の見解には堕ちぬ心の明鏡に照らしてかれこれともに愛し、表面の美醜に露泥まれざる上人のかえっていずれをとも昨日までは択びかねられしが、思いつかるることのありてか今日はわざわざ二人を招び出されて一室に待たせおかれしが、今しも静々居間を出でられ、畳踏まるる足も軽く、先に立ったる小僧が襖明くる後より、すっと入りて座につきたまえば、二人は恭い敬みてともに斉しく頭を下げ、しばらく上げも得せざりしが、ああいじらしや十兵衛が辛くも上げし面には、まだ世馴れざる里の子の貴人の前に出でしように羞を含みて紅潮し、額の皺の幾条の溝には沁出し熱汗を湛え、鼻の頭にも珠を湧かせば腋の下には雨なるべし。
膝に置いた骨太の太い指は枯れた松の枝のようにごつごつしているのに、一本一本それさえもわなわなと震えて、一心にただ上人の一言を一世の大事として待つ哀れさよ。
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膝におきたる骨太の掌指は枯れたる松が枝ごとき岩畳作りにありながら、一本ごとにそれさえもわなわな顫えて一心にただ上人の一言を一期の大事と待つ笑止さ。
源太も黙して言葉なく耳を澄まして命を待つ。どちらをどちらと分けかねる二人の心を汲んで知る上人もまたなかなか口を開くきっかけもなく、しばらくは静まり返られたが、「源太、十兵衛ともに聞け。今度建つべき五重塔はただ一つで建てようというのはあなたたち二人、二人の願いを双方とも聞き届けてあげたいけれど、それはもとよりかなわず、一人に任せれば一人の嘆き。誰に決めて命じようという基準があるわけではなし、役僧用人らの知恵にも及ばないし、老僧が知恵にも及ばないほどに、この判断はあなたたちの相談に任す。老僧は関わらない。あなたたちの相談のまとまった通りに取り上げてやるから、よく家に帰って相談して来なさい。老僧が言うべきことはこれきりだからそ
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源太も黙して言葉なく耳を澄まして命を待つ、どちらをどちらと判けかぬる、二人の情を汲みて知る上人もまたなかなかに口を開かん便宜なく、しばしは静まりかえられしが、源太十兵衛ともに聞け、今度建つべき五重塔はただ一ツにて建てんというは汝たち二人、二人の願いを双方とも聞き届けてはやりたけれど、それはもとよりかないがたく、一人に任さば一人の歎き、誰に定めて命けんという標準のあるではなし、役僧用人らの分別にも及ばねば老僧が分別にも及ばぬほどに、この分別は汝たちの相談に任す、老僧は関わぬ、汝たちの相談の纏まりたる通り取り上げてやるべければ、よく家に帰って相談して来よ、老僧が云うべきことはこれぎりじゃによってそ
う心得て帰るがよいぞ。さあしかと言い渡したぞ、もはや帰ってもよい。しかし今日は老僧も暇で退屈だから、茶話の相手になってしばらくいてくれ。浮世の噂などを老僧に聞かせてくれないか。その代わり老僧も古い話のおかしなのを二つ三つ昨日見つけたのを話して聞かせよう」と笑顔やさしく、友達のように二人をあしらって、さて何事をおっしゃるやら。
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う心得て帰るがよいぞ、さあしかと云い渡したぞ、もはや帰ってもよい、しかし今日は老僧も閑暇で退屈なれば茶話しの相手になってしばらくいてくれ、浮世の噂なんど老衲に聞かせてくれぬか、その代り老僧も古い話しのおかしなを二ツ三ツ昨日見出したを話して聞かそう、と笑顔やさしく、朋友かなんぞのように二人をあしろうて、さて何事を云い出さるるやら。
その九
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其九
小坊主が持ってきたお茶を上人が自ら汲まれてすすめられれば、二人ともありがたがって恐れ入りながら頂戴するのを、「そう遠慮されては言葉に角が取れないで話が丸く行かない。さあ菓子も挟んではやらないから勝手に摘んでくれ」と高坏を推しやって自らも天目を取り上げて喉を潤したまい、「面白い話というも世を捨てた老僧らにはそうたくさんないものながら、このごろ読んだお経の中につくづくなるほどと感心したことがある。聞いてくれ。こういう話じゃ。むかしある国の長者が二人の子を引きつれて、うらうらと天気の良い日に、香りのする花の咲き、軟らかな草の茂っている広野を楽しげに歩いたところ、水は大分に夏の初めなので干上がってきたがなお清らかに流れて岸を洗
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小僧がもって来し茶を上人みずから汲みたまいてすすめらるれば、二人とももったいながりて恐れ入りながら頂戴するを、そう遠慮されては言葉に角が取れいで話が丸う行かぬわ、さあ菓子も挾んではやらぬから勝手に摘んでくれ、と高坏推しやりてみずからも天目取り上げ喉を湿したまい、面白い話というも桑門の老僧らにはそうたくさんないものながら、このごろ読んだお経の中につくづくなるほどと感心したことのある、聞いてくれこういう話しじゃ、むかしある国の長者が二人の子を引きつれてうららかな天気の節に、香りのする花の咲き軟らかな草の滋って居る広野を愉快げに遊行したところ、水は大分に夏の初めゆえ涸れたれどなお清らかに流れて岸を洗
っている大きな川に出会った。その川の中には玉のような小石や銀のような砂でできている美しい州があったから、長者は興に乗じて一尋(約一八○センチ)ほどの流れを気軽に飛び越え、あちこちを見渡せば、州の後ろの方もまた一尋ほどの流れで陸と隔てられた別世界で、まるで浮世の俗臭い土地とはかけ離れた清らかな地であった。独り喜び踊り上がったが、渡ろうとしても渡れない二人の子どもが羨ましがって呼び叫ぶのを哀れに思い、『あなたたちには来ることのできない清浄の地だが、それほどに来たければ渡らせてあげるから待っていなさい。見なさい、私の足元のこの小石は一々蓮の花の形をなしている世に珍しい小石だ。私の眼の前のこの砂は一々五金の光を持つ比類ま
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うて居る大きな川に出で逢うた、その川の中には珠のような小磧やら銀のような砂でできて居る美しい洲のあったれば、長者は興に乗じて一尋ばかりの流れを無造作に飛び越え、あなたこなたを見廻せば、洲の後面の方もまた一尋ほどの流れで陸と隔てられたる別世界、まるで浮世のなまぐさい土地とは懸絶れた清浄の地であったまま独り歓び喜んで踊躍したが、渉ろうとしても渉り得ない二人の児童が羨ましがって喚び叫ぶを可憐に思い、汝たちには来ることのできぬ清浄の地であるが、さほどに来たくば渡らしてやるほどに待っていよ、見よ見よわが足下のこの磧は一々蓮華の形状をなし居る世に珍しき磧なり、わが眼の前のこの砂は一々五金の光をもてる比類ま
れなる砂だぞ』と説き示せば、二人は遠目にそれを見ていよいよあせって渡ろうとするのを、長者は静かに制しながら、洪水の時にでも根こぎになったらしい棕櫚の木の一尋余りのものを架け渡して橋としてあげたに、私が先へお前は後にと兄弟が争い競い合った末、兄は兄だけ力強く弟をついに投げ伏せて我意の勝を得たことに誇り高ぶり、急いでその橋を渡りかけ半分にようやく至ったとき、弟は起き上がりさま口惜しさに力を込めて橋を動かせば兄はたちまち水に落ち、苦しみもがいて州に達したが、このとき弟はもうその橋を難なく渡り超えるのを見るより、兄もその橋の端を一揺り揺り動かせば、もとより丸木の橋なので弟も堪らず水に落ち、わずかに長者の立ったところへ濡れ滴り
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れなる砂なるぞと説き示せば、二人は遠眼にそれを見ていよいよ焦躁り渡ろうとするを、長者は徐かに制しながら、洪水の時にても根こぎになったるらしき棕櫚の樹の一尋余りなを架け渡して橋としてやったに、我が先へ汝は後にと兄弟争い鬩いだ末、兄は兄だけ力強く弟をついに投げ伏せて我意の勝を得たに誇り高ぶり、急ぎその橋を渡りかけ半途にようやく到りし時、弟は起き上りさま口惜しさに力を籠めて橋をうごかせば兄はたちまち水に落ち、苦しみ踠いて洲に達せしが、この時弟ははやその橋を難なく渡り超えかくるを見るより兄もその橋の端を一揺り揺り動かせば、もとより丸木の橋なるゆえ弟も堪らず水に落ち、わずかに長者の立ったるところへ濡れ滴
てはい上がった。その時長者は歎息して、『あなたたちには何と見えるか。今あなた方が足を踏みかけたよりこの州はたちまち前と異なり、小石は黒く醜くなり砂は黄ばんだ普通の砂となった。見なさい見なさいいかに』と告げ知らすに、二人は驚き、目を見張って見れば全く父の言葉に少しも違わない砂小石で、『ああ、こんなものを取ろうとして、かわいい弟を悩ませたか、尊い兄を溺らせたか』と兄弟ともに恥じ悲しんで、弟の袂を兄は絞り、兄の衣裾を弟は絞って互いにいたわり慰め合ったが、あの橋をまた引いてきて州の後ろの流れに渡し、『もうこの州には用はないから、なお向こうに遊び歩こう、あなたたちまずこれを渡れ』との長者の言葉に、兄弟は顔を見合わせて先ほどとは違い、『兄上先にお渡りなされ』『弟よ先に
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りて這い上った、その時長者は歎息して、汝たちには何と見ゆる、今汝らが足踏みかけしよりこの洲はたちまち前と異なり、磧は黒く醜くなり沙は黄ばめる普通の沙となれり、見よ見よいかにと告げ知らするに二人は驚き、眼を睜りて見れば全く父の言葉に少しも違わぬ沙磧、ああかかるもの取らんとて可愛き弟を悩ませしか、尊き兄を溺らせしかと兄弟ともに慚じ悲しみて、弟の袂を兄は絞り兄の衣裾を弟は絞りて互いにいたわり慰めけるが、かの橋をまた引き来たりて洲の後面なる流れに打ちかけ、はやこの洲には用なければなおもあなたに遊び歩かん、汝たちまずこれを渡れと、長者の言葉に兄弟は顔を見合いて先刻には似ず、兄上先にお渡りなされ、弟よ先に
渡るがよい』と譲り合ったが、年の順で兄がまず渡るそのときに、転びやすいのを気遣って弟は端を揺がないようしっかりと押さえる。その次に弟が渡れば兄もまた揺がないよう押さえてやり、長者は苦もなく飛び越えて、三人ともにのどかにそぞろに歩むうちに、兄が思いがけず拾った石を弟が見れば美しい蓮の形をなした石、弟が摘み上げた砂を兄がのぞけば目もまばゆく五金の光を放っていたのに、兄弟ともどもよろこび楽しみ、互いに得た幸せを互いに深く讃え合う。その時長者は懐中より本物の玉の蓮花を取り出し兄に与えて、弟にも本物の砂金を袖より出して『大切にしなさい』と与えたという。話してしまえば子ども騙しのようだが仏説に嘘はない、子ども騙しでは決してない、噛み
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渡るがよいと譲り合いしが、年順なれば兄まず渡るその時に、転びやすきを気遣いて弟は端を揺がぬようしかと抑ゆる、その次に弟渡れば兄もまた揺がぬように抑えやり、長者は苦なく飛び越えて、三人ともにいと長閑くそぞろに歩むそのうちに、兄が図らず拾いし石を弟が見れば美しき蓮華の形をなせる石、弟が摘み上げたる砂を兄が覗けば眼も眩く五金の光を放ちていたるに、兄弟ともども歓喜び楽しみ、互いに得たる幸福を互いに深く讃歎し合う、その時長者は懐中より真実の璧の蓮華を取り出し兄に与えて、弟にも真実の砂金を袖より出して大切にせよと与えたという、話してしまえば小供欺しのようじゃが仏説に虚言はない、小児欺しでは決してない、噛み
しめて見れば味のある話ではないか。どうだ、あなたたちにも面白いか。老僧には大層面白いが」と軽くおっしゃって深く浸む。たとえの方便も御胸の中に持てる誠から。
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しめて見よ味のある話しではないか、どうじゃ汝たちにも面白いか、老僧には大層面白いが、と軽く云われて深く浸む、譬喩方便も御胸の中にもたるる真実から。
源太と十兵衛の二人とも顔を見合わせてぼんやりとしていた。
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源太十兵衛二人とも顔見合わせて茫然たり。
その十
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其十
感応寺からの帰り道、半分は死んだようになって十兵衛は、厚い綿入れの袖を組み合わせ、腕を組みながらうかうかと歩き、お上人様があのようにおっしゃったのはどちらか一方がおとなしく譲れとの諭しの謎かけとは、どんなに愚かな俺にもわかった。が、ああ譲りたくはないものだ。せっかく丹誠に丹誠を凝らして、きっと冷えて寒かろうに「お休みなさい」と親切にしてくれる女房の世話までも、黙っていると余計なと叱り飛ばして夜の目も合わさず、工夫に工夫を積み重ね、今度という今度は一世一代、腕いっぱいのものを建てたら死んでも恨みはないとまで思い込んだのに、悲しいことよ上人様の今日のお諭し。道理には違いないし、そうもしなければならないことだが、これを譲っていつまた五重塔が建つという当て
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感応寺よりの帰り道、半分は死んだようになって十兵衛、どんつく布子の袖組み合わせ、腕拱きつつうかうか歩き、お上人様のああおっしゃったはどちらか一方おとなしく譲れと諭しの謎々とは、何ほど愚鈍な我にも知れたが、ああ譲りたくないものじゃ、せっかく丹誠に丹誠凝らして、定めし冷えて寒かろうにお寝みなされと親切でしてくるる女房の世話までを、黙っていよよけいなと叱り飛ばして夜の眼も合わさず、工夫に工夫を積み重ね、今度という今度は一世一代、腕一杯の物を建てたら死んでも恨みはないとまで思い込んだに、悲しや上人様の今日のお諭し、道理には違いないそうもなければならぬことじゃが、これを譲っていつまた五重塔の建つという的
がどこにあるというわけでもなし。一生ともこの十兵衛は世に出ることのできない身なのか。ああ情けない、恨めしい。天道様が恨めしい。尊い上人様のお慈悲は十分わかっていてありがたく思わないわけではないが、ああどうにもこうにもならないことだ。相手は恩のある源太親方、それに恨みの向けようもなし。どうしてもこうしても素直にこちらの身を引くよりほかに思案も何もないのか。ああないのか。といって今さら残念だ。なまじこのようなことを思い立たずに、のっそりだけで済ましていたらばこのように残念な苦しみもしないものを。分際を忘れた俺が悪かった。ああ俺が悪い、俺が悪い。しかしも、ええ、しかしも、ええ、思うまい思うまい。十兵衛がのっそりで浮世の賢い人たち
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のあるではなし、一生とてもこの十兵衛は世に出ることのならぬ身か、ああ情ない恨めしい、天道様が恨めしい、尊い上人様のお慈悲は充分わかっていて露ばかりもありがとうなくは思わぬが、ああどうにもこうにもならぬことじゃ、相手は恩のある源太親方、それに恨みの向けようもなし、どうしてもこうしても温順に此方の身を退くよりほかに思案も何もないか、ああないか、というて今さら残念な、なまじこのようなことおもいたたずに、のっそりだけで済ましていたらばこのように残念な苦悩もすまいものを、分際忘れた我が悪かった、ああ我が悪い、我が悪い、けれども、ええ、けれども、ええ、思うまい思うまい、十兵衛がのっそりで浮世の怜悧な人たち
の物笑いになってしまえばそれで済むのだ。連れ添う女房にまでも内々気働きの利かない夫だとかこつけられながら、夢のように生きて夢のように死んでしまえばそれで済むこと。諦めて見れば情けない、つくづく世間がつまらない、あんまり世間が酷すぎる、と思うのもやっぱり愚痴か。愚痴か知らないけれど情なすぎるが、言わず語らず諭された上人様のあのお言葉の誠のところを味わえば、あくまでお慈悲の深いのが五臓六腑に浸み透って、未練な愚痴の出端もないわけ。争う二人をどちらにも傷つかないよう裁きたまい、末の末までともによかれと兄弟の子に事寄せて尊いお経を解きほぐして、噛んで含めてくださったあのお話に比べて見れば、もとより我は弟の身、ひとしお
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の物笑いになってしまえばそれで済むのじゃ、連れ添う女房にまでも内々活用の利かぬ夫じゃと喞たれながら、夢のように生きて夢のように死んでしまえばそれで済むこと、あきらめて見れば情ない、つくづく世間がつまらない、あんまり世間が酷過ぎる、と思うのもやっぱり愚痴か、愚痴か知らねど情な過ぎるが、言わず語らず諭された上人様のあのお言葉の真実のところを味わえば、あくまでお慈悲の深いのが五臓六腑に浸み透って未練な愚痴の出端もないわけ、争う二人をどちらにも傷つかぬよう捌きたまい、末の末までともによかれと兄弟の子に事寄せて尚いお経を解きほぐして、噛んで含めて下さったあのお話に比べて見ればもとより我は弟の身、ひとしお
他の人に譲らなければ人間らしくもないものになる。ああ弟とは辛いものだと、道も見分けられず心配そうな目は涙で曇りながら、とぼとぼとして何一つ楽しみもない我が家の方に、糸で引かれる人形のように我を忘れて歩いていく途中、「この馬鹿野郎め、俺がせっかく洗ったものに何をする、馬鹿め」とだしぬけに噛みつくように怒鳴られ、甲高い声に肝を冷やしてハッと思えばがらりと転倒し、手桶を枕に立てかけてあった張り板に我知らず一足二足踏みかけて踏み倒してしまった格好の悪さ。
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他に譲らねば人間らしくもないものになる、ああ弟とは辛いものじゃと、路も見分かで屈托の眼は涙に曇りつつ、とぼとぼとして何一ツ愉快もなきわが家の方に、糸で曳かるる木偶のように我を忘れて行く途中、この馬鹿野郎発狂漢め、我のせっかく洗ったものに何する、馬鹿めとだしぬけに噛みつくごとく罵られ、癇張声に胆を冷やしてハッと思えばぐゎらり顛倒、手桶枕に立てかけありし張物板に、我知らず一足二足踏みかけて踏み覆したる不体裁さ。
尻もちをついてびっくりするところを、「狐につかれたやつ、忌々しい」と怪力だけは近江のお兼(おかね)のよう、顔は子どもの福笑いで目を付け歪めたお多福面のような房州出の下働きの女の怒り、拳を振り上げてどんと打ち、長い腕を伸ばして突き飛ばせば、十兵衛は堪らず埃にまみれ、「はいはい、狐にだまされました、ご免なさい」と言いながら悪口雑言を聞き捨てに痛さを忍んで逃げ走り、ようやく我が家に帰りつけば、「おお、お帰りか、遅いのでどういうことかと案じていました、まあ埃だらけになってどうなされました」と払いにかかるのを、「構うな」と一言気のなさそうな声で打ち消した。
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尻餅ついて驚くところを、狐憑きめ忌々しい、と駄力ばかりは近江のお兼、顔は子供の福笑戯に眼をつけ歪めた多福面のごとき房州出らしき下婢の憤怒、拳を挙げて丁と打ち猿臂を伸ばして突き飛ばせば、十兵衛堪らず汚塵に塗れ、はいはい、狐に誑まれました御免なされ、と云いながら悪口雑言聞き捨てに痛さを忍びて逃げ走り、ようやくわが家に帰りつけば、おおお帰りか、遅いのでどういうことかと案じていました、まあ塵埃まぶれになってどうなされました、と払いにかかるを、構うなと一言、気のなさそうな声で打ち消す。
その顔をのぞき込む女房の本当に心配そうな様子を見て、何か知らず無性に悲しくなってじっと潤みのさしてくる目。自分で自分を叱るように「ええ」と思いがけず声を出し、煙草を捻って何気なくもてなすことはもてなすものの言葉もなかった。
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その顔を覗き込む女房の真実心配そうなを見て、何か知らず無性に悲しくなってじっと湿みのさしくる眼、自分で自分を叱るように、ええと図らず声を出し、煙草を捻って何気なくもてなすことはもてなすものの言葉もなし。
普段とは違う様子を大方それとわかって、なんとも慰める方法もなく、聞いたほうがよいやら聞かないほうがよいやら心にかかる今日の結果も、口には出して尋ねられない女房は胸を痛めつつ、その一本は杉箸で辛くも用を足す火箸で挟んで添える消炭の、あわれ甲斐なき火力をたよりに土瓶のお茶を温めているところへ、遊びに出ていた猪之が戻ってきて、「やあ、父様帰ってきたな、父様も建てるか、坊も建てたぞ、これを見てくれ」とさも勇ましく障子を開けて褒められたいのが一杯に罪なくにこりと笑いながら、指さして示す塔の模型。
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平時に変れる状態を大方それと推察してさて慰むる便もなく、問うてよきやら問わぬがよきやら心にかかる今日の首尾をも、口には出して尋ね得ぬ女房は胸を痛めつつ、その一本は杉箸で辛くも用を足す火箸に挾んで添える消炭の、あわれ甲斐なき火力を頼り土瓶の茶をば温むるところへ、遊びに出たる猪之の戻りて、やあ父様帰って来たな、父様も建てるか坊も建てたぞ、これ見てくれ、とさも勇ましく障子を明けて褒められたさが一杯に罪なくにこりと笑いながら、指さし示す塔の模形。
母は襦袢の袖を噛んで声も立てられず泣き出せば、十兵衛は涙に浮かぶほどの大きな丸い目をむき出し、まばたきもせでぐいと睨んでいたが、「おお、よくやった、よくできた、褒美をやろう、ハッハハハ」と咽びながら笑う声を高く屋の棟まで響かせたが、そのまま頭を天に向かわせ、「ああ、弟とは辛いなあ」。
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母は襦袢の袖を噛み声も得たてず泣き出せば、十兵衛涙に浮くばかりの円の眼を剥き出し、まじろぎもせでぐいと睨めしが、おおでかしたでかした、よくできた、褒美をやろう、ハッハハハと咽び笑いの声高く屋の棟にまで響かせしが、そのまま頭を天に対わし、ああ、弟とは辛いなあ。
その十一
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其十一
格子戸を開ける響きがさわやかなこと普段のごとく、「お吉、今帰った」と元気よく上ってくる夫の声を聞くより、心配を輪に吹き吸っていた煙管を邪見に放り出して忙しく立ち迎え、「大層遅かったではないか」と言いながら後ろに廻って羽織を脱がせ、立ちながらあごに手伝わせての袖たたみを手早く部屋の隅にそのままさし置き、火鉢のそばへすぐまた戻ってたちまち鉄瓶に松虫の音を立て、ぐっと大胡坐をかいて座っている男の顔をちょっと見るやいなや、「日は暖かでも風が冷たく途中は随分冷えましたろ、一瓶お燗をつけましょうか」と痒いところへよく届かす手は口をきくその間に、がたぴしさせずにご飯の用意をし、三輪漬けは柚の香がゆかしく、大根おろしで食わせる鮭の卵は、さりげなくして気が利
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格子開くる響き爽やかなること常のごとく、お吉、今帰った、と元気よげに上り来たる夫の声を聞くより、心配を輪に吹き吹き吸うていし煙草管を邪見至極に抛り出して忙わしく立ち迎え、大層遅かったではないか、と云いつつ背面へ廻って羽織を脱がせ、立ちながら腮に手伝わせての袖畳み小早く室隅の方にそのままさし置き、火鉢の傍へすぐまた戻ってたちまち鉄瓶に松虫の音を発させ、むずと大胡坐かき込み居る男の顔をちょっと見しなに、日は暖かでも風が冷たく途中は随分寒ましたろ、一瓶煖酒ましょか、と痒いところへよく届かす手は口をきくその間に、がたぴしさせず膳ごしらえ、三輪漬は柚の香ゆかしく、大根卸で食わする鮏卵は無造作にして気が利
いていた。
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きたり。
源太は胸には悩みがあれどいくらかこれに慰められて、猪口を取るや否や二三杯、後一杯をゆるく飲んで、「お前も飲めよ」と与えれば、お吉は一口、つけて、置き、焼きかけの海苔を畳み折って、「そのうち三子が来そうなもの」と魚屋の名を独りごちながら、猪口を返して酌をした後、上々吉と腹に思えば動かす舌も滑らかに、「それはそうと今日の首尾は、大丈夫こちらのものとは決まっていても、知らせてくださらないうちは余計な苦労を私はします。お上人様は何とおっしゃいましたか、またのっそりめはどうなりましたか。そう真面目顔でむっつりとしていられては心配で心配でなりません」と言われて源太は高笑い。
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源太胸には苦慮あれども幾らかこれに慰められて、猪口把りさまに二三杯、後一杯を漫く飲んで、汝も飲れと与うれば、お吉一口、つけて、置き、焼きかけの海苔畳み折って、追っつけ三子の来そうなもの、と魚屋の名を独り語しつ、猪口を返して酌せし後、上々吉と腹に思えば動かす舌も滑らかに、それはそうと今日の首尾は、大丈夫此方のものとは極めていても、知らせて下さらぬうちは無益な苦労を妾はします、お上人様は何と仰せか、またのっそりめはどうなったか、そう真面目顔でむっつりとして居られては心配で心配でなりませぬ、と云われて源太は高笑い。
「案じてもらうことはない、お慈悲の深い上人様はどの道、俺をいい男にしてくださるのよ、ハハハ。なあ、お吉。弟を可愛がれば良い兄貴ではないか。腹の減ったものには自分が少しは辛くても飯を分けてやらなければならない場合もある。他の人が怖いことは一厘もないが、強いばかりが男じゃないんだな。ハハハ。じっと我慢して無理に弱くなるのも男だ、ああ立派な男だ。五重塔は名誉の仕事、ただ俺一人でものの見事に千年も壊れない名物を万人の目に残したいが、他の手も知恵も寸分混ぜず川越の源太が腕だけで遺したいが、ああかんしゃくを我慢するのが、ええ、男だ、男だ、なるほどいい男だ。上人様に嘘はない、せっかく望みをかけた仕事を半分他にあげるのはつくづく
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案じてもらうことはない、お慈悲の深い上人様はどの道我を好漢にして下さるのよ、ハハハ、なあお吉、弟を可愛がればいい兄きではないか、腹の饑ったものには自分が少しは辛くても飯を分けてやらねばならぬ場合もある、他の怖いことは一厘ないが強いばかりが男児ではないなあ、ハハハ、じっと堪忍して無理に弱くなるのも男児だ、ああ立派な男児だ、五重塔は名誉の工事、ただ我一人でものの見事に千年壊れぬ名物を万人の眼に残したいが、他の手も知恵も寸分交ぜず川越の源太が手腕だけで遺したいが、ああ癇癪を堪忍するのが、ええ、男児だ、男児だ、なるほどいい男児だ、上人様に虚言はない、せっかく望みをかけた工事を半分他にくれるのはつくづく
忌々しいけれど、ああ辛いが、ええ兄貴だ、ハハハ。お吉、俺はのっそりに半口やって二人で塔を建てようと思うわ。立派な弱い男だろうか。褒めてくれ褒めてくれ、お前にでも褒めてもらわなくてはあまり張り合いのない話だ、ハハハ」と嬉しそうな顔もせずに意味のない声ばかりはずませて笑えば、お吉は夫の気をはかりかね、「上人様が何とおっしゃったか知らないが私にはさっぱり分からず少しも面白くない話。唐変木のあののっそりめに半口やるとはどういうわけ、日頃の気性にも似合わない。やるものならば未練気なしにすっかりやってしまうのがよいし、もとよりこちらで取るはずなのだから、要りもしない助太刀を頼んで、一人の首を二人で切るような卑劣なことをするにも当
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忌々しけれど、ああ、辛いが、ええ兄きだ、ハハハ、お吉、我はのっそりに半口やって二人で塔を建てようとおもうわ、立派な弱い男児か、賞めてくれ賞めてくれ、汝にでも賞めてもらわなくてはあまり張合いのない話しだ、ハハハと嬉しそうな顔もせで意味のない声ばかりはずませて笑えば、お吉は夫の気を量りかね、上人様が何とおっしゃったか知らぬが妾にはさっぱり分らずちっとも面白くない話し、唐偏朴のあののっそりめに半口やるとはどういうわけ、日ごろの気性にも似合わない、やるものならば未練気なしにすっかりやってしまうが好いし、もとより此方で取るはずなれば要りもせぬ助太刀頼んで、一人の首を二人で切るような卑劣なことをするにも当
たらないではありませんか。冷水で洗ったようなきれいな腹を持っていると他にも言われ自分でもいつも言っていたお前が、今日に限って何という煮え切れない判断、女の私から見ても意地の足りないぐずぐず思案。褒めません褒めません、どうしてなかなか褒められません。高が相手はこちらの恩を受けているのっそりめ、本来ならばこちらの仕事に先回りするとんでもない奴と高飛車に叱りつけて、ぐうの音も出させないようにすればいいのっそりめを、そう甘やかして胸の焼ける連名仕事をなんでするに当たるはずがあろうぞ。甘いばかりが立派なことか、弱いばかりが良い男か。私の虫には受け取れません。なんなら私が一走りのっそりめのところに行って、『重々恐れ入りました』と思
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らないではありませぬか、冷水で洗ったような清潔な腹をもって居ると他にも云われ自分でも常々云うていた汝が、今日に限って何という煮えきれない分別、女の妾から見ても意地の足らないぐずぐず思案、賞めませぬ賞めませぬ、どうしてなかなか賞められませぬ、高が相手は此方の恩を受けて居るのっそりめ、一体ならば此方の仕事を先潜りする太い奴と高飛車に叱りつけて、ぐうの音も出させぬようにすればなるのっそりめを、そう甘やかして胸の焼ける連名工事をなんでするに当るはずのあろうぞ、甘いばかりが立派のことか、弱いばかりが好い男児か、妾の虫には受け取れませぬ、なんなら妾が一走りのっそりめのところに行って、重々恐れ入りましたと思
い切らせて謝らせて両手をつかせてきましょうか」と女ながらよく気を働かせて夫を思う。
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い切らせて謝罪らせて両手を突かせて来ましょうか、と女賢しき夫思い。
源太は聞いて冷笑い、「何が、お前にわかるものか。俺のすることを好いと思っていてさえくれればそれでよいのよ」。
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源太は聞いて冷笑い、何が汝にわかるものか、我のすることを好いとおもうていてさえくるればそれでよいのよ。
その十二
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其十二
色も香もなく一言で黙っていろとやり込められて、聞かぬ気のお吉は顔を振り上げて何か言い出したそうだったが、自分よりは一倍意地っ張りの夫が制するものを、押し返してどれほど言っても機嫌を損なうことこそあれ、口答えの甲斐は少しもないのを経験として知っていれば、連れ添うものに心の奥を語り明かして相談をかけない夫を恨めしく思いながら、そこは賢い女の判断で、「何も私が遮って女の癖に余計な口を出すわけではないが、つい気にかかる仕事の話なので思わず様子を聞きたくて、余計なことも胸が狭いだけにしゃべったわけ」と自分が誠を込めた言葉をわざとごくごく軽くしてしまって、どこまでも夫の考えに従うよう表面を整えているのも、いくらか夫の腹の底にある
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色も香もなく一言に黙っていよとやり込められて、聴かぬ気のお吉顔ふり上げ何か云い出したげなりしが、自己よりは一倍きかぬ気の夫の制するものを、押し返して何ほど云うとも機嫌を損ずることこそはあれ、口答えの甲斐は露なきを経験あって知り居れば、連れ添うものに心の奥を語り明かして相談かけざる夫を恨めしくはおもいながら、そこは怜悧の女の分別早く、何も妾が遮って女の癖に要らざる嘴を出すではなけれど、つい気にかかる仕事の話しゆえ思わず様子の聞きたくて、よけいなことも胸の狭いだけに饒舌ったわけ、と自分が真実籠めし言葉をわざとごくごく軽うしてしもうて、どこまでも夫の分別に従うよう表面を粧うも、幾らか夫の腹の底にある
もやもやを取り除いてあげたさよりの誠だった。
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煩悶を殺いでやりたさよりの真実。
源太もこれに角張りかけた顔をやわらげ、「何ごとも皆、巡り合わせだ。こちらの了見さえすなおに優しく持っていたら、また良いことの廻ってこようと、こう思ってみればのっそりに半口やるのもかえって良い心持ち。世間は気次第で忌々しくも面白くもなるものだから、できるだけ卑劣な錆を根性につけずさっぱりと世をきれいに渡りさえすればそれで良いわ」と言いさしてぐいと飲み干し、後は芝居の噂やら弟子どもの行状の噂、まことに罪のない雑談を肴に酒も過ぎない程度に心よく飲んで、下品な格好ではあれど膳を囲んで仲むつまじく飯を食べ終わり、大方もう十兵衛がきそうなものと何事もせず待ちかくるに、時は空しく過ぎて障子の日影が一尺動いてもまだ見えず、二尺も移ってもまだ見えず。
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源太もこれに角張りかかった顔をやわらげ、何ごとも皆天運じゃ、此方の了見さえ温順に和しくもっていたならまた好いことの廻って来ようと、こうおもって見ればのっそりに半口やるもかえって好い心持、世間は気次第で忌々しくも面白くもなるものゆえ、できるだけは卑劣な鏽を根性に着けず瀟洒と世を奇麗に渡りさえすればそれで好いわ、と云いさしてぐいと仰飲ぎ、後は芝居の噂やら弟子どもが行状の噂、真に罪なき雑話を下物に酒も過ぎぬほど心よく飲んで、下卑た体裁ではあれどとり膳睦まじく飯を喫了り、多方もう十兵衛が来そうなものと何事もせず待ちかくるに、時は空しく経過て障子の日晷一尺動けどなお見えず、二尺も移れどなお見えず。
是非相手のほうから頭を低くして身を縮めてこちらへ相談に来て、「何とぞ半分なりと仕事を分けてください」と、今日の上人様のお慈悲深いお言葉をたよりに泣きついても頼みをかけるべきなのに、どうしてこう遅いのか。諦めて望みを捨て、もはや相談にも及ばずとして独り我が家にくすぶっているのか。それとも今度はこちらから行くのを待っているのか。もしもこちらの行くのを待っているということならばあまり増長した考えだが、まさかそのような高慢な気持ちは出さないだろう。例ののっそりでのんびり構えているだけのことだろうが、さても気の長い男め、うっかりにもほどがあれと、煙草ばかりいたずらに吸って、待つには短い日も随分長くなってきたが、それさえ暮れて群れ烏が塒に帰るころとなれば、さすが
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是非先方より頭を低くし身を縮めて此方へ相談に来たり、何とぞ半分なりと仕事をわけて下されと、今日の上人様のお慈愛深きお言葉を頼りに泣きついても頼みをかけべきに、何としてこうは遅きや、思いあきらめて望みを捨て、もはや相談にも及ばずとて独りわが家に燻り居るか、それともまた此方より行くを待って居るか、もしも此方の行くを待って居るということならばあまり増長した了見なれど、まさかにそのような高慢気も出すまじ、例ののっそりで悠長に構えて居るだけのことならんが、さても気の長い男め迂濶にもほどのあれと、煙草ばかりいたずらに喫かしいて、待つには短き日も随分長かりしに、それさえ暮れて群烏塒に帰るころとなれば、さすが
に心面白からず、ようやくかんしゃくが起り始めて耐えきれなくなってきた頃合い、用意された夕飯の膳に向かうとそのまま言い訳ばかりに箸をつけて、お茶さえゆっくりとは飲まず、「お吉、十兵衛めのところにちょっと行ってくる。行き違いになって留守に来たら待たせておけ」と言う言葉さえとげとげしく怒りを含んで立ち出でかかれば、気にはかかれどどうしようもなく、女房は送り出した後にただため息をするのみだった。
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に心おもしろからずようやく癇癪の起り起りて耐えきれずなりし潮先、据えられし晩食の膳に対うとそのまま云いわけばかりに箸をつけて茶さえゆるりとは飲まず、お吉、十兵衛めがところにちょっと行て来る、行違いになって不在へ来ば待たしておけ、と云う言葉さえとげとげしく怒りを含んで立ち出でかかれば、気にはかかれど何とせん方もなく、女房は送って出したる後にて、ただ溜息をするのみなり。
その十三
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其十三
開けにくい雨戸に一段とかんしゃくの火の手を昂らせながら、力まかせにがちがちと引き退け、「十兵衛、家にいるか」と言うや否やつと入れば、声の調子を知ったお浪は早くもそれとさとって、恩ある人が今は向こう側に立っている十兵衛に連れ添う身として顔を合わすことが辛く、女気のかよわさに胸をどきつかせながら「まあ、親方様」とただ一言、我知らず言い出したきり挨拶さえあわてて急には次の言葉が出ないうちに、すすけた紙に針の穴、油染みなどが多い行燈の影にしょんぼりと座り込んでいる十兵衛を見かけて、源太がずっと通られ、あわてて火鉢の前に案内する機転の遅さも、正直なだけで世のことを呑み込まない姿なのだろう。
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渋って開きかぬる雨戸にひとしお源太は癇癪の火の手を亢らせつつ、力まかせにがちがち引き退け、十兵衛家にか、と云いさまにつとはいれば、声色知ったるお浪早くもそれと悟って、恩あるその人の敵に今は立ち居る十兵衛に連れ添える身の面を対すこと辛く、女気の繊弱くも胸をどきつかせながら、まあ親方様、とただ一言我知らず云い出したるぎり挨拶さえどぎまぎして急には二の句の出ざるうち、煤けし紙に針の孔、油染みなんど多き行燈の小蔭に悄然と坐り込める十兵衛を見かけて源太にずっと通られ、あわてて火鉢の前に請ずる機転の遅鈍も、正直ばかりで世態を知悉まぬ姿なるべし。
十兵衛は不束に一礼して重々しく口を開き、「明日の朝まいろうと思っておりました」と言えば、じろりとその顔を下目で睨み、わざと落ち着いた源太は「おお、そういうお前のつもりであったか。こちらは例の気が短いので今しがたまで待っていたが、いつになってお前がくるかわからないとして出かけてきただけ馬鹿だったか、ハハハ。しかし十兵衛、お前は今日の上人様のあのお言葉をどう聞いたか。二人でよくよく相談して来よとおっしゃった揚句に長者の二人の子のお話、それでわざわざ相談に来たが、お前も大抵考えはもう決めているだろう。俺も随分虫持ちだが、悟ってみればあのたとえの通り、争い合うのはお互いにつまらないこと。まんざら敵同士でもないのに身勝手ば
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十兵衛は不束に一礼して重げに口を開き、明日の朝参上ろうとおもうておりました、といえばじろりとその顔下眼に睨み、わざと泰然たる源太、おお、そういう其方のつもりであったか、こっちは例の気短ゆえ今しがたまで待っていたが、いつになって汝の来るか知れたことではないとして出かけて来ただけ馬鹿であったか、ハハハ、しかし十兵衛、汝は今日の上人様のあのお言葉をなんと聞いたか、両人でよくよく相談して来よと云われた揚句に長者の二人の児のお話し、それでわざわざ相談に来たが汝も大抵分別はもう定めて居るであろう、我も随分虫持ちだが悟って見ればあの譬諭の通り、尖りあうのは互いにつまらぬこと、まんざら敵同士でもないに身勝手ば
かりは俺も言わない。つまりは和解した結論のところが欲しいから、俺の欲は十分折って砕いて思案を凝らしてきたが、なおお前の考えも腹蔵のないところを聞きたく、その上にまたどうともしようと。俺も男ならば汚い策略は腹には持たない、本当にこう思ってきたわ」と言葉をしばし止めて十兵衛の顔を見るに、うつむいたままただ「はい、はい」と答えるのみで、乱れた髪の中に五六本の白髪がまたたく灯火の光を受けてちらりちらりと見えるばかり。
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かりは我も云わぬ、つまりは和熟した決定のところが欲しいゆえに、我欲は充分折って摧いて思案を凝らして来たものの、なお汝の了見も腹蔵のないところを聞きたく、その上にまたどうともしようと、我も男児なりゃ汚い謀計を腹には持たぬ、真実にこうおもうて来たわ、と言葉をしばしとどめて十兵衛が顔を見るに、俯伏いたままただはい、はいと答うるのみにて、乱鬢の中に五六本の白髪が瞬く燈火の光を受けてちらりちらりと見ゆるばかり。
お浪はもう寝ていた猪之助が枕の方につい座って、息さえしないようにこれもまた静まり返っている寂しさだった。
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お浪ははや寝し猪の助が枕の方につい坐って、呼吸さえせぬようこれもまた静まりかえり居る淋しさ。
かえって遠くで売り歩く鍋焼きうどんの呼び声が、かすかに外から家の中に染み込んでくるほどのしんとした静けさだった。
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かえって遠くに売りあるく鍋焼饂飩の呼び声の、幽かに外方より家の中に浸みこみ来たるほどなりけり。
源太はいよいよ気を静め、語気を穏やかにして話し出すには、「まあ遠慮もなく体裁もつくらずに俺の方から打ち明けよう。なんだ十兵衛、こうしてはくれないか。せっかくお前も望みをかけ、天晴れ名誉の仕事をして持った腕の光を現し、欲得ではない職人の本望を見事に遂げて、末代に十兵衛という男の意匠ぶり細工ぶりを見て知れと残すつもりだろうが、察しもつこう。俺とてもそれは同じことで、さらにあるべき普請ではなし、取りはぐっては一生に又出逢うことはおぼつかないのだから、源太は源太で俺が意匠ぶり細工ぶりをぜひ遺したいのは、理屈を自分のためにつけて言えば俺はまあ感応寺の出入り、お前は何の縁もないことになる。俺は先口、お前は後。俺は頼まれて
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源太はいよいよ気を静め、語気なだらかに説き出すは、まあ遠慮もなく外見もつくらず我の方から打ち明けようが、なんと十兵衛こうしてはくれぬか、せっかく汝も望みをかけ天晴れ名誉の仕事をして持ったる腕の光をあらわし、欲徳ではない職人の本望を見事に遂げて、末代に十兵衛という男が意匠ぶり細工ぶりこれ視て知れと残そうつもりであろうが、察しもつこう我とてもそれは同じこと、さらにあるべき普請ではなし、取り外っては一生にまた出逢うことはおぼつかないなれば、源太は源太で我が意匠ぶり細工ぶりを是非遺したいは、理屈を自分のためにつけて云えば我はまあ感応寺の出入り、汝はなんの縁もないなり、我は先口、汝は後なり、我は頼まれて
設計まで済ませたのにお前は頼まれてはいない。他の口から言えばまた俺は受け負っても相応で、お前の身柄では不相応と誰もが難を言うだろう。だとて俺が今理屈を味方にするわけでもない。世間を味方にするわけでもない。お前の腕があるのに不幸せでいるということも知っている。お前が普段から不運を口には出さないが、腹の底ではどのくらい泣いているということも知っている。俺をお前の身にしては我慢のできないほど悲しい一生だということも知っている。それゆえにこそ去年一昨年、何にもならないことではあるが、まあできるだけの世話はしたつもり。しかし恩に着せると思ってくれるな。上人様だって、お前のきれいな腹の中をお見通しになったればこそ、お前の不運を気の毒と思われたればこそ今日
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設計までしたに汝は頼まれはせず、他の口から云うたらばまた我は受け負うても相応、汝が身柄では不相応と誰しも難をするであろう、だとて我が今理屈を味方にするでもない、世間を味方にするでもない、汝が手腕のありながら不幸せで居るというも知って居る、汝が平素薄命を口へこそ出さね、腹の底ではどのくらい泣いて居るというも知って居る、我を汝の身にしては堪忍のできぬほど悲しい一生というも知って居る、それゆえにこそ去年一昨年なんにもならぬことではあるが、まあできるだけの世話はしたつもり、しかし恩に被せるとおもうてくれるな、上人様だとて汝の清潔な腹の中をお洞察になったればこそ、汝の薄命を気の毒とおもわれたればこそ今日
のようなお諭し。俺もお前が欲かなんぞで向こうに廻る奴ならば、俺の仕事に邪魔を入れる生意気な死に節野郎と一釿(ひとちょうな)で脳天を打ち欠かずにはおかないが、つくづくお前の身を察せればいっそ仕事もくれたいような気のするほど。といって俺も欲は捨てきれない、仕事は本当にどうあってもしたいわ。そこで十兵衛、聞いてももらいにくく言っても退けにくい相談だが、まあこうじゃ。堪忍して承知してくれ。五重塔は二人で建てよう。俺を主にしてお前が不足であろうが副になって力を貸してはくれないか。不足であろうが、まあ嫌でも源太が頼む、聞いてはくれないか。頼む頼む、頼むのじゃ。黙っているのは聞いてくれないのか。お浪さんも俺の言うことがわかったなら
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のようなお諭し、我も汝が欲かなんぞで対岸にまわる奴ならば、我の仕事に邪魔を入れる猪口才な死節野郎と一釿に脳天打っ欠かずにはおかぬが、つくづく汝の身を察すればいっそ仕事もくれたいような気のするほど、というて我も欲は捨て断れぬ、仕事は真実どうあってもしたいわ、そこで十兵衛、聞いてももらいにくく云うても退けにくい相談じゃが、まあこうじゃ、堪忍して承知してくれ、五重塔は二人で建ちょう、我を主にして汝不足でもあろうが副になって力を仮してはくれまいか、不足ではあろうが、まあ厭でもあろうが源太が頼む、聴いてはくれまいか、頼む頼む、頼むのじゃ、黙って居るのは聴いてくれぬか、お浪さんも我の云うことのわかったなら
どうぞ口を添えて聞いてもらっては下さらないか」とあっさりと涙になっていった女房にまで頼めば、「お、お、親方様、ええ、ありがとうございます、どこにこのような御親切の相談をかけてくださる方がまたあろうか。なぜお礼を言われないか」と左の袖は露時雨に涙で重くしながら、夫の膝を右の手で揺り動かしつかきくどけど、先ほどから無言の仏となっていた十兵衛は何とも言わず、再度三度かきくどいても黙ってなお言わなかったが、やがて垂れていた頭を持ち上げ、「どうも十兵衛、それは嫌でございます」と無愛想に放つ一言に、胸をつかれて驚く女房だった。
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どうぞ口を副えて聴いてもらっては下さらぬか、と脆くも涙になりいる女房にまで頼めば、お、お、親方様、ええありがとうござりまする、どこにこのような御親切の相談かけて下さる方のまたあろうか、なぜお礼をば云われぬか、と左の袖は露時雨、涙に重くなしながら、夫の膝を右の手で揺り動かしつ掻き口説けど、先刻より無言の仏となりし十兵衛何ともなお言わず、再度三度かきくどけど黙黙としてなお言わざりしが、やがて垂れたる首を抬げ、どうも十兵衛それは厭でござりまする、と無愛想に放つ一言、吐胸をついて驚く女房。
「なんと」と一声激しく鋭く、首を二、三センチほど反らし、目に角を立てて、のっそりをまともから見下ろす源太だった。
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なんと、と一声烈しく鋭く、頸首反らす一二寸、眼に角たててのっそりをまっ向よりして瞰下す源太。
その十四
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其十四
人情の花も失くさず義理の幹もしっかり立てて、普通の人にはできないほどの親切な相談を、一方ならぬ誠があればこそ源太がかけてくれたのに、どのように切って投げ出したような性質がさせる返答だとしても、十兵衛が「嫌でございます」とはあまりにひどい挨拶で、他の人の情けがまるでわからない土人形でもこうは言わないだろうに、さりとては恨めしいほど義理知らずな、口惜しいほど無分別な。どうすればそのように無茶な夫の考えかと、お浪はあきれもし驚きもし、我が身の急に絞木にかけて絞られるような心地がして、思わずに夫にすり寄り、「それはまあ何ということ。親方様があれほどにあなたとこちらのためを計って、見る影もないこちら連れ、言えば一足で蹴落としてお
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人情の花も失くさず義理の幹もしっかり立てて、普通のものにはできざるべき親切の相談を、一方ならぬ実意のあればこそ源太のかけてくれしに、いかに伐って抛げ出したような性質がさする返答なればとて、十兵衛厭でござりまするとはあまりなる挨拶、他の情愛のまるでわからぬ土人形でもこうは云うまじきを、さりとては恨めしいほど没義道な、口惜しいほど無分別な、どうすればそのように無茶なる夫の了見と、お浪は呆れもし驚きもしわが身の急に絞木にかけて絞めらるるごとき心地のして、思わず知らず夫にすり寄り、それはまあなんということ、親方様があれほどにあなたこなたのためを計って、見るかげもないこの方連れ、云わば一足に蹴落しておし
しまいにもなさることもなさらないでできるこちら連れに、大抵ではないお情けをかけてくださり、御自分一人でなさりたい仕事を分けてあげようと半口乗せてくださろうと、身に染みるほどありがたい御親切の御相談。しかもお呼びつけにでもなってのことか、座布団さえ上げることのできないこのようなところへわざわざおいでになってのお話。それを無にしてもったいない、十兵衛が嫌でございますとはとんでもない我がまま勝手。親方様の御親切の分からないはずはなかろうに、胴欲なも無遠慮なも大抵は程度があったもの。これ、この私が今着ているのも去年の冬の取りつきに袷姿の寒げなのを気の毒がられてお吉様の、縫い直して着なさいと下さったのとはお前の目には映らないか。一方ならぬ御恩を受
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まいなさるることもなさらばできるこの方連れに、大抵ではないお情をかけて下され、御自分一人でなさりたい仕事をも分けてやろう半口乗せてくりょうと、身に浸みるほどありがたい御親切の御相談、しかもお招喚にでもなってでのことか、坐蒲団さえあげることのならぬこのようなところへわざわざおいでになってのお話し、それを無にしてもったいない、十兵衛厭でござりまするとは冥利の尽きた我儘勝手、親方様の御親切の分らぬはずはなかろうに胴欲なも無遠慮なも大方程度のあったもの、これこの妾の今着て居るのも去年の冬の取りつきに袷姿の寒げなを気の毒がられてお吉様の、縫直して着よと下されたのとは汝の眼には暎らぬか、一方ならぬ御恩を受
けていながら親方様の向こうへ廻るさえあるのに、それを「生意気な」とも「恩知らず」ともおっしゃらず、どこまでも弱い者をかばってくださるお情け深い御分別にも頼り縋らないで、一概に嫌じゃとは、たとえば本心から嫌にせよ、記憶のある人間の口から出せた言葉でございますか。親方様の手前、お吉様のお気持ちをよくとっくりと考えてみてください。私はもはやこれから先、どの顔を下げてあつかましくお吉様の御眼にかかることができますか。親方様はお胸が広くて、ああ十兵衛夫婦はわけのわからない愚か者だから是も非もないと、そのまま何ともお思いにならずただ打ち捨ててくださるかもしれないが、世間はあなたを何と言うでしょう。恩知らずめ、義理知らずめ、人情のわからない畜生め。あれは犬だ鴉
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けていながら親方様の対岸へ廻るさえあるに、それを小癪なとも恩知らずなともおっしゃらず、どこまでも弱い者を愛護うて下さるお仁慈深い御分別にも頼り縋らいで一概に厭じゃとは、たとえば真底から厭にせよ記臆のある人間の口から出せた言葉でござりまするか、親方様の手前お吉様の所思をもよくとっくりと考えて見て下され、妾はもはやこれから先どの顔さげてあつかましくお吉様のお眼にかかることのなるものぞ、親方様はお胸の広うて、ああ十兵衛夫婦はわけの分らぬ愚か者なりゃ是も非もないと、そのまま何とも思しめされずただ打ち捨てて下さるか知らねど、世間は汝を何と云おう、恩知らずめ義理知らずめ、人情解せぬ畜生め、あれ奴は犬じゃ烏
だと万人の爪に弾かれる者となるのは必定。犬や鴉と身をなして仕事をしたとて何の手柄。欲をかくな、あくせくするなと常々私に諭した自分の言葉に対しても恥ずかしくはお思いにならないか。どうぞ素直に親方様の御意見についてください。天に聳える生雲塔(しょううんとう)は誰々二人で作ったと、親方様ともろともに肩を並べて世に称えられれば、あなたの苦労の甲斐も立ち、親方様のありがたいお志も知れる道理。私もどのように嬉しいか喜ばしいか。もしそうなれば不足というのは薬にも欲しくないはずなのに、あなたは天魔にたぶらかされてそれをまだまだ不足だと思われるのか。ああ情けない、私が言わずとも知れているあなた自身の身のほどを、身の分際を忘れているのか」と泣き声になりかきく
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じゃと万人の指甲に弾かれものとなるは必定、犬や烏と身をなして仕事をしたとて何の功名、欲をかわくな齷齪するなと常々妾に諭された自分の言葉に対しても恥かしゅうはおもわれぬか、どうぞ柔順に親方様の御異見について下さりませ、天に聳ゆる生雲塔は誰々二人で作ったと、親方様ともろともに肩を並べて世に称わるれば、汝の苦労の甲斐も立ち親方様のありがたいお芳志も知るる道理、妾もどのように嬉しかろか喜ばしかろか、もしそうなれば不足というは薬にしたくもないはずなるに、汝は天魔に魅られてそれをまだまだ不足じゃとおもわるるのか、ああ情ない、妾が云わずと知れている汝自身の身のほどを、身の分際を忘れてか、と泣き声になり掻き口
どく女房の頭は低く垂れて、髷に刺されていた縫い針の針穴にくわえた一本の糸がゆらゆらと震えているのにも千々に砕ける心の様子が知られてますますいたいたしいのに、目を閉じていた十兵衛はその時例のがらがら声を出し、「うるさいわ、お浪、黙っていろ。俺の話の邪魔になる。親方様、聞いてください」。
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説く女房の頭は低く垂れて、髷にさされし縫針の孔が啣えし一条の糸ゆらゆらと振うにも、千々に砕くる心の態の知られていとどいじらしきに、眼を瞑ぎいし十兵衛は、その時例の濁声出し、喧しいわお浪、黙っていよ、我の話しの邪魔になる、親方様聞いて下され。
その十五
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其十五
思いの中に激しているのか、じたじたと震え出す膝の頭をしっかりと寄せ合わせて、その上に両手を突っ張り、身を固くして十兵衛は、「情けない親方様、二人でしようとは情けない。十兵衛に半分仕事を譲ってくださろうとはお慈悲のようで情けない。嫌でございます、嫌でございます。塔を建てたいのはやまやまでもう十兵衛は諦めています。お上人様のお諭しを聞いてからの帰り道でさっぱりと思い諦めました。身のほどにもない考えを持ったのが間違い。ああ、私が馬鹿でございました。のっそりはどこまでものっそりで馬鹿にさえなっていればそれでよいわけ。溝板でもたたいて一生を終わりましょう。親方様、堪忍してください。私が悪い。塔を建てようとはもう申しません。見ず知
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思いの中に激すればや、じたじたと慄い出す膝の頭をしっかと寄せ合わせて、その上に両手突っ張り、身を固くして十兵衛は、情ない親方様、二人でしょうとは情ない、十兵衛に半分仕事を譲って下さりょうとはお慈悲のようで情ない、厭でござります、厭でござります、塔の建てたいは山々でももう十兵衛は断念めておりまする、お上人様のお諭しを聞いてからの帰り道すっぱり思いあきらめました、身のほどにもない考えを持ったが間違い、ああ私が馬鹿でござりました、のっそりはどこまでものっそりで馬鹿にさえなって居ればそれでよいわけ、溝板でもたたいて一生を終りましょう、親方様堪忍して下され我が悪い、塔を建ちょうとはもう申しませぬ、見ず知
らずの他の人ではなし、御恩になった親方様の、一人で立派に建てられるのをよそながら見て喜びましょう」と元気なげに言い出すのを、気が早い源太はゆっくりとは聞いておらず、ずいと身を進めて、「馬鹿を言え、十兵衛、あまり道理がわからなすぎる。上人様のお諭しはお前一人に聞けとおっしゃったのではない、俺の耳にも入れられたのは、お前の腹でも聞いたなら俺の胸でも受け取った。お前一人に重石を背負ってそう沈んでしまっては源太が男になれるかやい。つまらない思案に身を引いて馬鹿にさえなっていればよいとは、判断が本物過ぎてもっともとは言われまいぞ。おお、そうならば俺がすると得たりとばかりに引き受けては、上人様にも恥ずかしく、第一源太がせっかく磨いた侠気もそこで
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らずの他の人ではなし御恩になった親方様の、一人で立派に建てらるるをよそながら視て喜びましょう、と元気なげに云い出づるを走り気の源太ゆるりとは聴いていず、ずいと身を進めて、馬鹿を云え十兵衛、あまり道理が分らな過ぎる、上人様のお諭しは汝一人に聴けというてなされたではない我が耳にも入れられたは、汝の腹でも聞いたらば我の胸でも受け取った、汝一人に重石を背負ってそう沈まれてしもうては源太が男になれるかやい、つまらぬ思案に身を退いて馬鹿にさえなって居ればよいとは、分別が摯実過ぎて至当とは云われまいぞ、おおそうならば我がすると得たりかしこで引き受けては、上人様にも恥かしく第一源太がせっかく磨いた侠気もそこで
廃ってしまうし、お前はもとより取らぬなら取らぬで損、知恵のないにもほどのあるもの。それでは二人が何がよかろう。さあそれゆえに美しく二人で仕事をしようというのに、少しは気まずいところがあってもそれはお互い、お前が不足なほどにこちらにも面白くないのはわかりきったことだから、双方が我慢し合うとして我慢のできないわけはないはず。何もわざわざ骨を折ってお前が馬鹿になってしまい、いく日もの心配を煙と消やし、天晴れな腕前を寝かせ殺しにするにも当たらない。のう十兵衛、俺の言うのが腑に落ちたら思案をがらりと変えてくれ。源太は無理は言わないつもりだ。これ、なぜ黙っている。不足か、不承知か。承知してはくれないか。ええ、俺の了見をまだ呑み込んではくれな
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廃ってしまうし、汝はもとより虻蜂取らず、知恵のないにもほどのあるもの、そしては二人が何よかろう、さあそれゆえに美しく二人で仕事をしょうというに、少しは気まずいところがあってもそれはお互い、汝が不足なほどにこっちにも面白くないのあるは知れきったことなれば、双方忍耐しあうとして忍耐のできぬわけはないはず、何もわざわざ骨を折って汝が馬鹿になってしまい、幾日の心配を煙と消やし天晴れな手腕を寝せ殺しにするにも当らない、のう十兵衛、我の云うのが腑に落ちたら思案をがらりとし変えてくれ、源太は無理は云わぬつもりだ、これさなぜ黙って居る、不足か不承知か、承知してはくれないか、ええ我の了見をまだ呑み込んではくれな
いか。十兵衛、あんまり情けないではないか。何とか言ってくれ、不承知か不承知か、ええ情けない、黙っていられてはわからない。俺の言うのが不道理か、それとも不足で腹を立てているのか」と義には強くて情には弱く、意地も立てれば親切も飽くまで通す江戸っ子腹の源太が柔和に問いかくれば、聞いているお浪は嬉しさが骨身に染みて、「親方様、ああありがとうございます」と口には出さないが、舌よりも誠を語る涙を溢れさせる目に、返事をしない夫の方を気遣って、見れば男は露一厘身動きもせず無言にて思案の頭重く垂れ、ぽろりぽろりと膝の上に散らす涙の玉の落ちて声あり。
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いか、十兵衛、あんまり情ないではないか、何とか云うてくれ、不承知か不承知か、ええ情ない、黙って居られてはわからない、我の云うのが不道理か、それとも不足で腹立ててか、と義には強くて情には弱く意地も立つれば親切も飽くまで徹す江戸ッ子腹の、源太は柔和く問いかくれば、聞き居るお浪は嬉しさの骨身に浸みて、親方様ああありがとうござりますると口には出さねど、舌よりも真実を語る涙をば溢らす眼に、返辞せぬ夫の方を気遣いて、見れば男は露一厘身動きなさず無言にて思案の頭重く低れ、ぽろりぽろりと膝の上に散らす涙珠の零ちて声あり。
源太も今は無言となって、しばらく独り考えたが、「十兵衛、お前はまだわからないか、それとも不足と思うのか。なるほどせっかく望んだことを二人でするのは口惜しかろう、しかも源太を主にして副になるのは口惜しかろう、ええ負けてやれ、こうしてやろう、源太は副になってもよい、お前を主に立てるほどに。さあさあ、清くなっとくして二人でしようと合点しろ」と自分の望みは無理に折り、思い切って言い放った。
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源太も今は無言となりしばらくひとり考えしが、十兵衛汝はまだわからぬか、それとも不足とおもうのか、なるほどせっかく望んだことを二人でするは口惜しかろ、しかも源太を心にして副になるのは口惜しかろ、ええ負けてやれこうしてやろう、源太は副になってもよい汝を心に立てるほどに、さあさあ清く承知して二人でしょうと合点せい、と己が望みは無理に折り、思いきってぞ云い放つ。
「とんでもない、親方様、たとえ十兵衛が気が狂えばとてどうしてそうはできますものぞ、もったいない」とあわてて言うに、「そうなら俺の意見につくか」とただ一言に返されて、「それは」とつまるのをまた追いかけ、「お前を主に立てようか、それとも不足か」と激しく突かれて度を失う傍で、女房が気もはずみ、「親方様の御意見になぜまあ早くつかれないのですか」と責めるように恨みわび、言葉そぞろに勧めれば十兵衛はついに絶体絶命。下げていた頭をゆっくりと上げて大きな丸い目をむき出して、「一つの仕事を二人でするのは、たとえ十兵衛が主になっても副になっても、嫌ならどうしてもできません。親方一人でお建てなさってください、私は馬鹿で終わります」と言い終わらせずに源太は怒って「これ
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とッとんでもない親方様、たとえ十兵衛気が狂えばとてどうしてそうはできますものぞ、もったいない、とあわてて云うに、そうなら我の異見につくか、とただ一言に返されて、それは、と窮るをまた追っかけ、汝を心に立てようか乃至それでも不足か、と烈しく突かれて度を失う傍にて女房が気もわくせき、親方様の御異見になぜまあ早く付かれぬ、と責むるがごとく恨みわび、言葉そぞろに勧むれば十兵衛ついに絶体絶命、下げたる頭を徐かに上げ円の眼を剥き出して、一ツの仕事を二人でするは、よしや十兵衛心になっても副になっても、厭なりゃどうしてもできませぬ、親方一人でお建てなされ、私は馬鹿で終りまする、と皆まで云わせず源太は怒って、これ
ほど事を分けて言う俺の親切を無にしてもか」。
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ほど事を分けて云う我の親切を無にしてもか。
「はい、ありがとうはございますが、嘘は申せず、嫌ならできません」。
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はい、ありがとうはござりまするが、虚言は申せず、厭なりゃできませぬ。
「お前よく言った、源太の言葉にどうしてもつかないか」。
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汝よく云った、源太の言葉にどうでもつかぬか。
「是非ないことでございます」。
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是非ないことでござります。
「やあ覚えていろ、このっそりめ、人の情けのわからない奴、そのようなこと言えた義理か。よしよし、お前に口は利かない。一生溝でもいじって暮らせ。五重塔は気の毒ながらお前に指もさせまい、源太一人で立派に建てる。ならば手柄に批点でも打て」。
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やあ覚えていよこののっそりめ、他の情の分らぬ奴、そのようのこと云えた義理か、よしよし汝に口は利かぬ、一生溝でもいじって暮せ、五重塔は気の毒ながら汝に指もささせまい、源太一人で立派に建てる、ならば手柄に批点でも打て。
その十六
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其十六
「えい、ありがとうございます、めっぽう酔いました、もう飲めません」と空返事はうるさいほどしながら、猪口を持つ手を後へは引かないのがおかしい上戸(じょうご)の常で、清吉はもうご馳走の酒に十分酔ったけれど遠慮に三分の真面目さをとどめて殊勝らしく坐り込み、「親方のいない時にこんなに酔っては済みません、姉御と差し向かいでは夕暮を踊るようになってもなりませんからな、アハハ、むやみに嬉しくなってきました、もう行きましょう、羽目を外すと親方のお灸だ。だがしかし姉御、うちの親方には灸を据えられても私は嬉しいと思っています。何も姉御の前だからとて軽薄を言うわけではありません。本当にうちの親方は茶袋よりもありがたいと思っています。いつぞやの凌雲院(りょううんいん)の仕事の時も鉄や
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えい、ありがとうござります、滅法界に酔いました、もう飲やせぬ、と空辞誼はうるさいほどしながら、猪口もつ手を後へは退かぬがおかしき上戸の常態、清吉はや馳走酒に十分酔ったれど遠慮に三分の真面目をとどめて殊勝らしく坐り込み、親方の不在にこう爛酔では済みませぬ、姉御と対酌では夕暮を躍るようになってもなりませんからな、アハハむやみに嬉しくなって来ました、もう行きましょう、はめを外すと親方のお眼玉だ、だがしかし姉御、内の親方には眼玉を貰っても私は嬉しいとおもっています、なにも姉御の前だからとて軽薄を云うではありませぬが、真実に内の親方は茶袋よりもありがたいとおもっています、いつぞやの凌雲院の仕事の時も鉄や
慶を向こうにしてつまらないことから喧嘩を始め、鉄が肩先へ大怪我をさせてその後で鉄の親から泣き込まれ、ああ悪かった気の毒なことをしたと後悔してもこちらも貧乏で、どうしてあげるにもあげようもなく、困り果てて逃げ出しとまで思ったところを、黙って親方から治療費も出してくれてやった上、かけら半分、叱りごとらしいことを私に言われず、ただ物やさしく、『清よ、お前は喧嘩は時のはずみで仕方はないが、気の毒と思ったなら謝っておけ。鉄の親の気持ちもよかろうし、お前の寝覚めもよいというものだ』と心づけてくださったその時は、ああどうしてこんなに情け深かろうとありがたくてありがたくて私は泣きました。鉄に謝るわけはないが、親方の一言に我慢して私も謝りに行きました
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慶を対うにしてつまらぬことから喧嘩を初め、鉄が肩先へ大怪我をさしたその後で鉄が親から泣き込まれ、ああ悪かった気の毒なことをしたと後悔してもこっちも貧的、どうしてやるにもやりようなく、困りきって逃亡とまで思ったところを、黙って親方から療治手当もしてやって下された上、かけら半分叱言らしいことを私に云われず、ただ物和しく、清や汝喧嘩は時のはずみで仕方はないが気の毒とおもったら謝罪っておけ、鉄が親の気持もよかろし汝の寝覚めもよいというものだと心づけて下すったその時は、ああどうしてこんなに仁慈深かろとありがたくてありがたくて私は泣きました、鉄に謝罪るわけはないが親方の一言に堪忍して私も謝罪りに行きました
が、それから不思議なもので、いつとなく鉄とは仲良しになり、今ではどちらにでもひょっとしたことがあれば骨を拾ってやろう、もらおうかというくらいの付き合いになったのも皆親方のおかげ。それに引き換え、茶袋などはやたらに小言を言うばかりで、やれ喧嘩をするな、遊びをするなとくだらないことをうるさく耳の傍でくどきます。ハハハ、いやはや話になったものではありません。え、茶袋とは母親のことです。なにひどくはありません。茶袋でたくさんです、しかも渋をひいた番茶の方です。あっハハハ、ありがとうございます。もう行きましょう、え、また一本燗をつけたから飲んで行けとおっしゃるんですか。ああありがたい、茶袋だとこちらで一本というところを逆にもう
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が、それから異なものでいつとなく鉄とは仲好しになり、今ではどっちにでもひょっとしたことのあれば骨を拾ってやろうかもらおうかというぐらいの交際になったも皆親方のお蔭、それに引き変え茶袋なんぞはむやみに叱言を云うばかりで、やれ喧嘩をするな遊興をするなとくだらぬことを小うるさく耳の傍で口説きます、ハハハいやはや話になったものではありませぬ、え、茶袋とは母親のことです、なに酷くはありませぬ茶袋でたくさんです、しかも渋をひいた番茶の方です、あッハハハ、ありがとうござります、もう行きましょう、え、また一本燗けたから飲んで行けとおっしゃるのですか、ああありがたい、茶袋だと此方で一本というところを反対にもう廃
やめろと言いますよ。ああよい心持ちになりました、歌いたくなりましたな。歌えるかとは情けない。松づくしなどはあいつに褒められたほどで」と罪のないことを言えばお吉も笑いを含んで、そろそろと冗談でからかっているところへ帰ってきた源太、「おお、ちょうどよい清吉がいたか、お吉、飲もうぞ支度しろ、清吉今夜は酔い潰れろ、どら声の松づくしでも聞いてやろう」。
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せと云いますわ、ああ好い心持になりました、歌いたくなりましたな、歌えるかとは情ない、松づくしなぞはあいつに賞められたほどで、と罪のないことを云えばお吉も笑いを含んで、そろそろ惚気は恐ろしい、などと調戯い居るところへ帰って来たりし源太、おおちょうどよい清吉いたか、お吉飲もうぞ、支度させい、清吉今夜は酔い潰れろ、胴魔声の松づくしでも聞いてやろ。
「や、親方、立ち聞きしていましたね」。
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や、親方立聞きして居られたな。
その十七
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其十七
清吉は酔って歯止めがなくなり、砕けた源太の話しぶり、さばけたお吉の接待ぶりに、いつしか遠慮も打ち忘れ、勧められて断らず受けてはさっと飲み干し、盃の数を重ねるままに、普段から可愛らしい紅顔をいっそうみずみずと、熟れた丹波のほおずきほど紅くして、罪もない高笑いやら相手もなしの空張り、仲間の誰の噂、彼の噂、自分の物まねがどこそこで喝采を得た自慢、奪われた奪られるのの言い争いの末、どこかの店の獅子顔の火鉢を盗み出そうとして友達の仙の野郎が大失敗した話、五十間で地廻りを殴ったことなど、縁に引かれて乗り合わせそれからそれへとしゃべり散らすうち、ふとのっそりの噂に火が飛べば、とろりとなった目を急に見張って、ぐにゃりとしていた肩を聳やかし、冷えた
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清吉酔うてはしまりなくなり、砕けた源太が談話ぶり捌けたお吉が接待ぶりにいつしか遠慮も打ち忘れ、擬されて辞まず受けてはつと干し酒盞の数重ぬるままに、平常から可愛らしき紅ら顔を一層みずみずと、実の熟った丹波王母珠ほど紅うして、罪もなき高笑いやら相手もなしの空示威、朋輩の誰の噂彼の噂、自己が仮声のどこそこで喝采を獲たる自慢、奪られぬ奪られるの云い争いの末何楼の獅顔火鉢を盗り出さんとして朋友の仙の野郎が大失策をした話、五十間で地廻りを擲ったことなど、縁に引かれ図に乗ってそれからそれへと饒舌り散らすうち、ふとのっそりの噂に火が飛べば、とろりとなりし眼を急に見張って、ぐにゃりとしていし肩を聳だて、冷とうな
飲みかけの酒を変な感じで唇を曲げながら吸い干し、「一体あんな馬鹿野郎を親方が可愛がるというのが、私には頭からわかりません。仕事といえば馬鹿丁寧で進みは一向つかず、柱一本、敷居一つで嘘を言えば鉋を三度も研ぐような鈍い奴。何を一つ頼んでも間に合った例がなく、赤松の炉縁一つに三日の手間を取るというのは、大方ああいう手合いだろうと仙が笑ったのも無理はありません。それを親方がえこひいきしたので、一時は正直なところ申し訳ないですが私も金(こん)も仙も六(ろく)も、あんまり親方の腹が大きすぎてそれほどでもないものを買い込みすぎているのではないかと思いました。念入りなだけで気に入るなら俺たちもこれから羽目板にも仕上げ鉋で、のろりのろりと十分磨いて碁盤肌
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った飲みかけの酒を異しく唇まげながら吸い干し、一体あんな馬鹿野郎を親方の可愛がるというが私には頭からわかりませぬ、仕事といえば馬鹿丁寧で捗びは一向つきはせず、柱一本鴫居一ツで嘘をいえば鉋を三度も礪ぐような緩慢な奴、何を一ツ頼んでも間に合った例がなく、赤松の炉縁一ツに三日の手間を取るというのは、多方ああいう手合だろうと仙が笑ったも無理はありませぬ、それを親方が贔屓にしたので一時は正直のところ、済みませんが私も金も仙も六も、あんまり親方の腹が大きすぎてそれほどでもないものを買い込み過ぎて居るではないか、念入りばかりで気に入るなら我たちもこれから羽目板にも仕上げ鉋、のろりのろりとしたたか清めて碁盤肌
にでも削ろうかと僻んだことを言ったこともありました。第一あいつは付き合い知らずで女郎買いを一度も一緒にせず、軍鶏鍋をつついたこともない頑固者。いつか大師へみんなで行く時も、まあ親方のそばについているものを一人だけ仲間外れにするでもないと私が親切に誘ってやったのに、『俺は貧乏で行かれない』と言ったきりの挨拶は、なんと愛想も義理も知らなすぎるではありませんか。お金がなければ女房の一枚着を売り込んでも付き合いは付き合いで立てるのが友だちというもの。それもわからない白痴の癖に段々と親方の恩を受けて、私や金と同じことに今ではどうか一人立ちになり、しかも失礼ながら青っ洟を垂らして弁当箱の持ち運び、木っ端を担いでひょろひょろ帰るガキのころから親方の手について
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にでも削ろうかと僻みを云ったこともありました、第一あいつは交際知らずで女郎買い一度一所にせず、好闘鶏鍋つつき合ったこともない唐偏朴、いつか大師へ一同が行く時も、まあ親方の身辺について居るものを一人ばかり仲間はずれにするでもないと私が親切に誘ってやったに、我は貧乏で行かれないと云ったきりの挨拶は、なんと愛想も義理も知らな過ぎるではありませんか、銭がなければ女房の一枚着を曲げ込んでも交際は交際で立てるが朋友ずく、それもわからない白痴の癖に段々親方の恩を被て、私や金と同じことに今ではどうか一人立ち、しかも憚りながら青っ涕垂らして弁当箱の持運び、木片を担いでひょろひょろ帰る餓鬼のころから親方の手につい
いた私や仙とは違って、あいつは渡り者。次第を言えば私らより一倍深く親方をありがたい、かたじけないと思っていなければならないはずなのに、親方、姉御、私は悲しくなってきました。私はもしものことがあれば親方や姉御のためと言えば黒煙のあおりを食っても飛び込むくらいの気持ちは持っているのに、畜生っ、ああ人情ない野郎め、のっそりめ、あいつは火の中へは恩を背負っても入りきるまい、ろくな根性はもっていまい。ああ人情ない畜生めだ」と酔いが思いがけず言い出せた不平の中に潜り込んで、めそめそめそめそ泣き出せば、お吉は夫の顔を見て、「例の癖が出てきたか」と困った様子はしながらも、自分の胸にものっそりの憎さがあれば、いくらかは清の言葉をもっともと聞く傾きも
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ていた私や仙とは違って奴は渡り者、次第を云えば私らより一倍深く親方をありがたい忝ないと思っていなけりゃならぬはず、親方、姉御、私は悲しくなって来ました、私はもしものことがあれば親方や姉御のためと云や黒煙の煽りを食っても飛び込むぐらいの了見は持って居るに、畜生ッ、ああ人情ない野郎め、のっそりめ、あいつは火の中へは恩を背負っても入りきるまい、ろくな根性はもっていまい、ああ人情ない畜生めだ、と酔いが図らず云い出せし不平の中に潜り込んで、めそめそめそめそ泣き出せば、お吉は夫の顔を見て、例の癖が出て来たかと困った風情はしながらも自己の胸にものっそりの憎さがあれば、幾らかは清が言葉を道理と聞く傾きもあるな
あったのだろう。
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るべし。
源太は腹に見通しがないほど愚かではないので、猪口を持ってつけながら高笑いし、「何を言い出した清吉、寝ぼけるな、俺の前だわ。三の切(泣き真似の技)を出してもはじまらないぞ。その手で女でも口説きなさい、随分くろりとくるだろう。お前がほろりとした小蝶さまのお部屋ではないぞ、あっハハハ」と冗談を言えばなお真面目に、ずずだまほどの涙を払うその手をぺたりと刺身皿の中につっこみ、しゃくり上げて泣き出し、「ああ情ない、親方、私を酔っ払いあしらいは情ない。酔っていません。小蝶なんぞは食べません。そういえばあいつの顔がどこかのっそりに似ているようで口惜しくて情けない。のっそりは憎い奴、親方の向こうを張って大それた、五重の塔を生意気にも建てようなんとは憎い奴憎い奴、
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源太は腹に戸締りのなきほど愚かならざれば、猪口を擬しつけ高笑いし、何を云い出した清吉、寝ぼけるな我の前だわ、三の切を出しても初まらぬぞ、その手で女でも口説きやれ、随分ころりと来るであろう、汝が惚けた小蝶さまのお部屋ではない、アッハハハと戯言を云えばなお真面目に、木槵珠ほどの涙を払うその手をぺたりと刺身皿の中につっこみ、しゃくり上げ歔欷して泣き出し、ああ情ない親方、私を酔漢あしらいは情ない、酔ってはいませぬ、小蝶なんぞは飲べませぬ、そういえばあいつの面がどこかのっそりに似て居るようで口惜しくて情ない、のっそりは憎い奴、親方の対うを張って大それた、五重の塔を生意気にも建てようなんとは憎い奴憎い奴、
親方が優しすぎるので増長した謀反人め。謀反人も明智光秀のようなのはもっともだと講釈で言いましたが、あいつのようなのは大悪無道。親方はいつのっそりの頭を鉄扇で打ちましたか、いつ家臣にのっそりの領地を与えると言いましたか。私は今にもしもあいつが親方の言葉に甘えて名を並べて塔を建てれば、打ち捨てておけません、叩き殺して犬にくれてやります、こういうように叩き殺して」と空になった徳利の横面をいきなり叩き飛ばせば、かけらは散って皿小鉢が跳び出して、ちゃんからり。
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親方が和し過ぎるので増長した謀反人め、謀反人も明智のようなは道理だと伯龍が講釈しましたがあいつのようなは大悪無道、親方はいつのっそりの頭を鉄扇で打ちました、いつ蘭丸にのっそりの領地を与ると云いました、私は今にもしもあいつが親方の言葉に甘えて名を列べて塔を建てれば打捨ってはおけませぬ、擲き殺して狗にくれますこういうように擲き殺して、と明徳利の横面いきなり打き飛ばせば、砕片は散って皿小鉢跳り出すやちんからり。
「馬鹿野郎め」と親方に大喝されてそのままにぐずりと座っておとなしくしているかと思えば、散らかっていた戻し海苔の上に額を押しつけ、もういびきをかいていた。
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馬鹿野郎め、と親方に大喝されてそのままにぐずりと坐りおとなしく居るかと思えば、散らかりし還原海苔の上に額おしつけはや鼾声なり。
源太はこれに打ち笑い、「愛嬌のある阿呆めに掻巻をかけてやれ」と言いながら手酌にぐいっと引っかけて酒気を吐くことしばらく。「怒って帰っては来たものの、ああでは高が清吉と同じ。さて、考えがまだ要るわ」。
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源太はこれに打ち笑い、愛嬌のある阿呆めに掻巻かけてやれ、と云いつつ手酌にぐいと引っかけて酒気を吹くことやや久しく、怒って帰って来はしたもののああでは高が清吉同然、さて分別がまだ要るわ。
その十八
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其十八
源太が怒って帰っていった後、腕を組んでぼんやりしている夫の顔をのぞき込んで、吐息をつくつくお浪は嘆き、「親方様を怒らせた仕事はつまり手に入らず、夜の目も合わさず雛形まで作り上げた幾日もの骨折りも苦労も無駄にした挙句の果てに、他の人の気持ちを悪くして、恩知らず人情なしと人の口端にかかるのはあまりといえば情けない。女の差し出たことを言うと一口に言われるかもしれないが、正直律儀にもほどというもの。親方様があれほどに言ってくださる意見についていっしょにしたとて恥辱にはなるまいに、意地を張って何のつまらない意地立て。それを誰が感心だと褒めますか。親方様の御料簡につけば第一御恩のある親方のお気持ちもよいわけ、またお前の名も上り苦労骨折りの甲斐も立つわ
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源太が怒って帰りし後、腕拱きて茫然たる夫の顔をさし覗きて、吐息つくづくお浪は歎じ、親方様は怒らする仕事はつまり手に入らず、夜の眼も合わさず雛形まで製造えた幾日の骨折りも苦労も無益にした揚句の果てに他の気持を悪うして、恩知らず人情なしと人の口端にかかるのはあまりといえば情ない、女の差し出たことをいうとただ一口に云わるるか知らねど、正直律義もほどのあるもの、親方様があれほどに云うて下さる異見について一緒にしたとて恥辱にはなるまいに、偏僻張ってなんのつまらぬ意気地立て、それを誰が感心なと褒めましょう、親方様の御料簡につけば第一御恩ある親方のお心持もよいわけ、またお前の名も上り苦労骨折りの甲斐も立つわ
け。三方四方みなよいのに、なぜその気にはなられないのか。少しもお前の考えが私の腹には呑み込めない。よくよく考え直して親方様の御意見に素直に従ってはくださらないか。お前の考えさえ変えれば私がすぐにも親方様のところへ行き、どうにかこうにか謝りを言って一生懸命精一杯、打たれても叩かれても動くまいほど覚悟を決め、謝って謝って謝り通したら、お情け深い親方様が、まさかにいつまで怒ってばかりもいられまい。一時の考え違いは堪忍してくださることもあろう。考えを改めて意地を張らずに、親方様の言われた通りにしてみる気にはなられないか」と夫思いの一筋に口説くのも女としての道理ではあるが、十兵衛はなお目も動かさず、「ああ、もう言ってくれるな、ああ、五重塔とも言
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け、三方四方みな好いになぜその気にはなられぬか、少しもお前の料簡が妾の腹には合点ぬ、よくまあ思案し直して親方様の御異見につい従うては下されぬか、お前が分別さえ更えれば妾がすぐにも親方様のところへ行き、どうにかこうにか謝罪云うて一生懸命精一杯、打たれても擲かれても動くまいほど覚悟をきめ、謝罪って謝罪って謝罪り貫いたらお情深い親方様が、まさかにいつまで怒ってばかりも居られまい、一時の料簡違いは堪忍して下さることもあろう、分別しかえて意地張らずに、親方様の云われた通りして見る気にはなられぬか、と夫思いの一筋に口説くも女の道理なれど、十兵衛はなお眼も動かさず、ああもう云うてくれるな、ああ、五重塔とも云
ってくれるな。よしないことを思い立って、なるほど恩知らずとも言われよう、人情なしとも言われよう。それも十兵衛の考えが足りなかったためのこと。今さらなんとも是非がない。しかしお前の言うように思案しなおすのはどうしても嫌。十兵衛が仕事に手下は使おうが助言は頼まない。人の仕事の手下になって使われようが、助言はすまい。桝組も椽配りも俺がする日には俺の勝手、どこからどこまで一寸たりとも人の指図は決して受けない。善いも悪いも一人で背負って立つ。他の仕事に使われれば、ただ正直な手間取りとなって渡されただけのことをするばかり。生意気な差し出口は夢にもすまない。自分が主でもない癖に自分の色を際立てて変わった風を誇り顔の寄生木は
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うてくれるな、よしないことを思いたってなるほど恩知らずとも云わりょう人情なしとも云わりょう、それも十兵衛の分別が足らいででかしたこと、今さらなんとも是非がない、しかし汝の云うように思案しかえるはどうしても厭、十兵衛が仕事に手下は使おうが助言は頼むまい、人の仕事の手下になって使われはしょうが助言はすまい、桝組も椽配りも我がする日には我の勝手、どこからどこまで一寸たりとも人の指揮は決して受けぬ、善いも悪いも一人で背負って立つ、他の仕事に使われればただ正直の手間取りとなって渡されただけのことするばかり、生意気な差し出口は夢にもすまい、自分が主でもない癖に自己が葉色を際立てて異った風を誇り顔の寄生木は
十兵衛の虫が好かない。人の仕事に寄生木となるも嫌なら、我が仕事に寄生木を入れるのも虫が嫌えば是非がない。優しい源太親方が義理人情を噛み砕いてわざわざ勧めてくださるのは俺にもわかってありがたいが、なまじいに俺の心を生かして寄生木扱いは情けない。十兵衛は馬鹿でのっそりでもよい。寄生木になって栄えるのは嫌いだ。矮小な下草になって枯れようが、大樹を頼れば肥料にもなろうが、ただ寄生木になって高くとまる奴らを日ごろいくらも見ては卑しい奴めと心中で蔑んできたのに、今俺が自然と親方の情に甘えてそれになるのはどうあっても小恥ずかしくてなれきれないわ。いっそのことに親方の指図の通りこれを削れあれを挽き割れと使われるなら嬉し
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十兵衛の虫が好かぬ、人の仕事に寄生木となるも厭ならわが仕事に寄生木を容るるも虫が嫌えば是非がない、和しい源太親方が義理人情を噛み砕いてわざわざ慫慂て下さるは我にもわかってありがたいが、なまじい我の心を生かして寄生木あしらいは情ない、十兵衛は馬鹿でものっそりでもよい、寄生木になって栄えるは嫌いじゃ、矮小な下草になって枯れもしょう大樹を頼まば肥料にもなろうが、ただ寄生木になって高く止まる奴らを日ごろいくらも見ては卑しい奴めと心中で蔑視げていたに、今我が自然親方の情に甘えてそれになるのはどうあっても小恥かしゅうてなりきれぬわ、いっそのことに親方の指揮のとおりこれを削れあれを挽き割れと使わるるなら嬉し
いけれど、なまじ情がかえって悲しい。お前もきっとわからない奴と恨みもしようが堪忍してくれ。ええ是非がない、わからないところが十兵衛だ、ここがのっそりだ、馬鹿だ、白痴漢だ。何と言われても仕方はないわ。ああっ、火も小さくなって寒くなった。もうもう寝てでもしまおうよ」と聞けば一々道理のある述懐だった。
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けれど、なまじ情がかえって悲しい、汝も定めてわからぬ奴と恨みもしょうが堪忍してくれ、ええ是非がない、わからぬところが十兵衛だ、ここがのっそりだ、馬鹿だ、白痴漢だ、何と云われても仕方はないわ、ああッ火も小さくなって寒うなった、もうもう寝てでもしまおうよ、と聴けば一々道理の述懐。
お浪も返す言葉なく無言となれば、なお寒い一室を照らす行燈も灯花(とうか)に暗くなっていった。
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お浪もかえす言葉なく無言となれば、なお寒き一室を照らせる行燈も灯花に暗うなりにけり。
その十九
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其十九
その夜は源太は床に入ってもなかなか眠れず、一番鶏二番鶏を耳たしかに聞いて、朝も普段よりは早く起き、うがい洗顔に見ない夢を洗って熱茶一杯に酒の残り香を払う折しも、むくむくと起き上がった清吉が寝ぼけ眼をこすりこすり、不思議そうな顔でまごつくに、お吉ともども吹き出して笑い、「清吉、昨夜はどうしたか」とからかえば急にかしこまって無茶苦茶に頭を下げ、「つい御馳走になりすぎていつか知らず寝てしまいました。姉御、昨夜私は何か悪いことでもしませんか」と心配そうに尋ねるのもおかしく、「まあ何でもいいわ、飯でも食って仕事に行きなさい」と優しく言われてますます恐れ、うっとりとして腕を組みしきりに考え込む様子が、正直なだけに可愛らしかった。
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その夜は源太床に入りてもなかなか眠らず、一番鶏二番鶏を耳たしかに聞いて朝も平日よりははよう起き、含嗽手水に見ぬ夢を洗って熱茶一杯に酒の残り香を払う折しも、むくむくと起き上ったる清吉寝惚眼をこすりこすり怪訝顔してまごつくに、お吉ともども噴飯して笑い、清吉昨夜はどうしたか、と嬲れば急にかしこまって無茶苦茶に頭を下げ、つい御馳走になり過ぎていつか知らず寝てしまいました、姉御、昨夜私は何か悪いことでもしはしませぬか、と心配そうに尋ぬるもおかしく、まあ何でも好いわ、飯でも食って仕事に行きやれ、と和しく云われてますます畏れ、恍然として腕を組みしきりに考え込む風情、正直なるが可愛らし。
清吉を出かけさせた後、源太はなおも考えに独り沈んで、日ごろのさっぱりとした調子にも似もやらず、ろくろくお吉に口さえきかずに思案に思案を凝らしたが、「ああわかった」と独りごとするかと思えば「ふびんだな」とため息つき、「ええ投げようか」と言うかと思えば「どうしてやろう」と腹立つ様子を傍でお吉が見る辛さ。問い慰めようと口を出せば「黙っていろ」とやり込められ、仕方なしに胸の中でむなしく心を痛めるばかりだった。
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清吉を出しやりたる後、源太はなおも考えにひとり沈みて日ごろの快活とした調子に似もやらず、ろくろくお吉に口さえきかで思案に思案を凝らせしが、ああわかったと独り言するかと思えば、愍然なと溜息つき、ええ抛げようかと云うかとおもえば、どうしてくりょうと腹立つ様子を傍にてお吉の見る辛さ、問い慰めんと口を出せば黙っていよとやりこめられ、詮方なさに胸の中にて空しく心をいたむるばかり。
源太はそれらにかまいもせず夕暮方まで考え考えて、ようやく思い定めたか、つと身を起こして衣服を改め、感応寺に行き上人にお目にかかって昨夜の始終を隠すことなく物語りした末、「一旦は私もあまりわからない十兵衛の答えに腹を立てたものの、帰ってよくよく考えると、たとえば私一人して立派に塔は建てるとしても、それではせっかくお諭しを受けた甲斐なく、源太がまた我欲にばかり強いようで男らしくもない話。といって十兵衛は十兵衛の気持ちをそう簡単には捨てないだろう様子。あれも全く自分を押さえて譲れば、源太も自分を押さえてあれに仕事をさせてください」と譲らなければならない義理と人情で、いろいろ愚かな考えを使ってようやく案じ出したことも十兵衛が乗らなければ仕方な
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源太はそれらに関いもせず夕暮方まで考え考え、ようやく思い定めやしけんつと身を起して衣服をあらため、感応寺に行き上人に見えて昨夜の始終をば隠すことなく物語りし末、一旦は私もあまりわからぬ十兵衛の答えに腹を立てしものの帰ってよくよく考うれば、たとえば私一人して立派に塔は建つるにせよ、それではせっかくお諭しを受けた甲斐なく源太がまた我欲にばかり強いようで男児らしゅうもない話し、というて十兵衛は十兵衛の思わくを滅多に捨てはすまじき様子、あれも全く自己を押えて譲れば源太も自己を押えてあれに仕事をさせ下されと譲らねばならぬ義理人情、いろいろ愚かな考えを使ってようやく案じ出したことにも十兵衛が乗らねば仕方な
く、それを怒っても恨んでも是非のないわけ。もうこの上には変わった考えも私には出ません。ただ願うはお上人様、たとえば十兵衛一人にお命じになられましても私は必ず何とも思いませんほどに、十兵衛になり私になり二人ともどもになり、どうともお命じになってください。御口直々のことなれば十兵衛も私も互いに争う心は捨てていますほどに、少しも支障はございません。我ら二人の相談には余って願いにまいりました」と誠を顔に現しながら願えば、上人はほくほくと笑われ、「そうじゃろそうじゃろ、さすがにお前も見上げた男じゃ。よいよい、その心がけ一つだけでもうこの生雲塔を見事に建てたより立派にお前はなっておる。十兵衛も先ほどに来て同じことを言って
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く、それを怒っても恨んでも是非のないわけ、はやこの上には変った分別も私には出ませぬ、ただ願うはお上人様、たとえば十兵衛一人に仰せつけられますればとて私かならず何とも思いますまいほどに、十兵衛になり私になり二人ともどもになりどうとも仰せつけられて下さりませ、御口ずからのことなれば十兵衛も私も互いに争う心は捨てておりまするほどに露さら故障はござりませぬ、我ら二人の相談には余って願いにまいりました、と実意を面に現わしつつ願えば上人ほくほく笑われ、そうじゃろそうじゃろ、さすがに汝も見上げた男じゃ、よいよい、その心がけ一つでもう生雲塔見事に建てたより立派に汝はなっておる、十兵衛も先刻に来て同じことを云う
帰ったわ。あれも可愛い男ではないか。のう源太、可愛がってやれ、可愛がってやれ」と心ありげにおっしゃる言葉を源太は早くも合点して、「ええ、可愛がってあげますとも」と大変すがすがしく答えれば、上人は満面の皺で喜ばれ、「よいわよいわ、ああ気持ちのよい男だな」と本当に心から底から褒められて、もったいなさはありながら源太は思わず頭を上げ、「おかげで男になれましたか」と一言に無限の感慨を込めて喜ぶ男泣きだった。
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て帰ったわ、あれも可愛い男ではないか、のう源太、可愛がってやれ可愛がってやれ、と心ありげに云わるる言葉を源太早くも合点して、ええ可愛がってやりますとも、といと清しげに答うれば、上人満面皺にして悦びたまいつ、よいわよいわ、ああ気味のよい男児じゃな、と真から底からほめられて、もったいなさはありながら源太おもわず頭をあげ、お蔭で男児になれましたか、と一語に無限の感慨を含めて喜ぶ男泣き。
もうこの時に十兵衛の仕事に助力しようという心が、世に美しくも湧き上がったのだろう。
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はやこの時に十兵衛が仕事に助力せん心の、世に美しくも湧きたるなるべし。
その二十
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其二十
十兵衛が感応寺にいたって朗円上人にお目にかかり、涙ながらに辞退の旨を言って帰ったその日の味気なさ、煙草を吸うだけの気力も体を動かすに力なく、ぼんやりとしてつくづく我が身の不運、浮世を渡りにくいことなどを思い廻らせば思い廻らすほど嬉しくなく、時刻になって食う飯の味が今さら変わるわけではないけれど、箸を持つ手さえふらふらがちで、舌がうまく受けとらないで、普段は六碗七碗を快く食べていたのがわずかに一碗二碗で終え、お茶ばかりかえって多く飲むのも、心に不満のある人の免れがたい習いだった。
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十兵衛感応寺にいたりて朗円上人に見え、涙ながらに辞退の旨云うて帰りしその日の味気なさ、煙草のむだけの気も動かすに力なく、茫然としてつくづくわが身の薄命、浮世の渡りぐるしきことなど思い廻らせば思い廻らすほど嬉しからず、時刻になりて食う飯の味が今さら異れるではなけれど、箸持つ手さえ躊躇いがちにて舌が美味うは受けとらぬに、平常は六碗七碗を快う喫いしもわずかに一碗二碗で終え、茶ばかりかえって多く飲むも、心に不悦のある人の免れがたき慣例なり。
主人が浮かなければ女房も、何の罪もないやんちゃ盛りの猪之まで、自然と浮き立たず、寂しい貧家がいっそう寂しく、希望もなければ楽しみも一点もなく日を暮らし、暖かみのない夢にもの寂びた夜を明かしていたが、お浪が夜明けの鐘に目覚めて、猪之と一緒に寝ている床からそっと出るのも、「朝風の寒いのに火のないうちから起こすまい、もう少し寝かせておこう」との優しい親の心であるのに、何もかも知らないでたわいなく眠っていた普段とは違い、どうしたことかたちまち飛び起き、襦袢一枚で夜具の上を跳ね廻り跳ね廻り、「嫌じゃい嫌じゃい、父様を打っちゃ嫌じゃい」と蕨のような手を目にあてて何かわからず泣き出せば、「ええ、これ、猪之はどうしたのか」とびっくりしながら抱き止めるに、抱か
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主人が浮かねば女房も、何の罪なきやんちゃざかりの猪之まで自然と浮き立たず、淋しき貧家のいとど淋しく、希望もなければ快楽も一点あらで日を暮らし、暖か味のない夢に物寂びた夜を明かしけるが、お浪暁天の鐘に眼覚めて猪之と一所に寝たる床よりそっと出づるも、朝風の寒いに火のないうちから起すまじ、も少し睡させておこうとの慈しき親の心なるに、何もかも知らいでたわいなく寝ていし平生とは違い、どうせしことやらたちまち飛び起き、襦袢一つで夜具の上跳ね廻り跳ね廻り、厭じゃい厭じゃい、父様を打っちゃ厭じゃい、と蕨のような手を眼にあてて何かは知らず泣き出せば、ええこれ猪之はどうしたものぞ、とびっくりしながら抱き止むるに抱
れながらもまだ泣き止まなかった。
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かれながらもなお泣き止まず。
「誰も父様を打ちはしません、夢でも見たか。ほら、そこに父様はまだ寝ておられる」と顔を向け知らせれば、不思議そうにのぞき込んで、ようやく安心はしてもまだ疑いの晴れない様子だった。
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誰も父様を打ちはしませぬ、夢でも見たか、それそこに父様はまだ寝て居らるる、と顔を押し向け知らすれば不思議そうに覗き込んで、ようやく安心しはしてもまだ疑惑の晴れぬ様子。
「猪之や、何もありはしないわ、夢を見たのだよ。さあ寒いのに風邪をひいてはいけません、床に入って寝ていなさい」と引き倒すようにして横にならせ、掻巻をかけて隙間なく上から押しつけてやる母の顔を見ながら眼をぱっちり、「ああ怖かった、今よその怖い人が」。
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猪之やなんにもありはしないわ、夢を見たのじゃ、さあ寒いに風邪をひいてはなりませぬ、床にはいって寝て居るがよい、と引き倒すようにして横にならせ、掻巻かけて隙間なきよう上から押しつけやる母の顔を見ながら眼をぱっちり、ああ怖かった、今よその怖い人が。
「おお、どうかしましたか」。
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おゝおゝ、どうかしましたか。
「大きな、大きな玄翁(鉄槌)で、黙って座っている父様の頭を打って幾つも打って、頭が半分壊れたので坊は大変びっくりした」。
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大きな、大きな鉄槌で、黙って坐って居る父様の、頭を打って幾つも打って、頭が半分砕れたので坊は大変びっくりした。
縁起でもない、と眉をひそめるちょうどその時、外を通る納豆売りのふるえ声がして、くしゃみでもしたのか「ちぇっ、草鞋が切れた」とつぶやきながら通り過ぎた。女房はますます気分が悪くなり、台所に出て竈の下を焚こうとしても薪がうまく燃えず、引き窓もうまく開かず、何となくいやな日だと思いながらも、それは自分の心からくることだとわかっているので、なるべく笑顔を作り、夫や子どもに明るく接しようとした。しかし無理に作った笑いの声の裏には、どこかしら悲しい響きが残ってしまうのだった。
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ええ鶴亀鶴亀、厭なこと、延喜でもないことを云う、と眉を皺むる折も折、戸外を通る納豆売りの戦え声に覚えある奴が、ちェッ忌々しい草鞋が切れた、と打ち独語きて行き過ぐるに女房ますます気色を悪しくし、台所に出て釜の下を焚きつくれば思うごとく燃えざる薪も腹立たしく、引窓の滑りよく明かぬも今さらのように焦れったく、ああ何となく厭な日と思うも心からぞとは知りながら、なお気になることのみ気にすればにや多けれど、また云い出さば笑われんと自分で呵って平日よりは笑顔をつくり言葉にも活気をもたせ、いきいきとして夫をあしらい子をあしらえど、根がわざとせし偽飾なればかえって笑いの尻声が憂愁の響きを遺して去る光景の悲しげな
そんな折に、「十兵衛殿のお宅ですか」と大人びた口ぶりで入ってきた小坊主が、偉そうにちょこんと上がり込み、「御用があるのですぐにお越しください」とだけ言って立った。
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るところへ、十兵衛殿お宅か、と押柄に大人びた口ききながらはいり来る小坊主、高慢にちょこんと上り込み、御用あるにつきすぐと来たられべしと前後なしの棒口上。
お浪も十兵衛も何の用かわからないまま、呼ばれたからには行かないわけにいかず、感応寺の門をくぐると、なんとそこには円道、為右衛門、そして朗円上人がおそろいで座っておられた。円道が厳かな声で告げた。「このたびの生雲塔の工事は川越源太に任せるはずであったが、方丈(住職)の思し召しによって特別に十兵衛、そなたに任せることになった。辞退は決して無用、ありがたくお受け申せ」。そして上人が穏やかに「十兵衛よ、思う存分仕上げてみよ、うまく完成したら嬉しいぞ」とおっしゃった。
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お浪も不審、十兵衛も分らぬことに思えども辞みもならねば、はや感応寺の門くぐるさえ無益しくは考えつつも、何御用ぞと行って問えば、天地顛倒こりゃどうじゃ、夢か現か真実か、円道右に為右衛門左に朗円上人中央に坐したもうて、円道言葉おごそかに、このたび建立なるところの生雲塔の一切工事川越源太に任せられべきはずのところ、方丈思しめし寄らるることあり格別の御詮議例外の御慈悲をもって、十兵衛その方にしかとお任せ相成る、辞退の儀は決して無用なり、早々ありがたく御受け申せ、と云い渡さるるそれさえあるに、上人皺枯れたる御声にて、これ十兵衛よ、思う存分し遂げて見い、よう仕上らば嬉しいぞよ、と荷担うに余る冥加のお言葉。
のっそり十兵衛はその場に五体を地に伏せ、「十兵衛めが命をさ、さ、ささげます」と言いかけたが、声が喉に詰まって言葉が続かず、静まりかえった広間に、ただ細い息の音だけがかすかに聞こえた。
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のっそりハッと俯伏せしまま五体を濤と動がして、十兵衛めが生命はさ、さ、さし出しまする、と云いしぎり咽塞がりて言語絶え、岑閑とせし広座敷に何をか語る呼吸の響き幽かにしてまた人の耳に徹しぬ。
その二十一
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其二十一
夏の終わり、不忍(しのばず)の池のほとりにある料理屋「蓬莱屋(ほうらいや)」の二階に、ご機嫌のいい男が一人、人を待っていた。蓮の花の香りも消え、赤蜻蛉(あかとんぼ)が飛ぶ秋の景色の中、紺青色に暮れていく空に星が輝き始め、雁の鳴き声も聞こえる夕暮れの池を眺めながら、男はゆったり酒を飲んでいた。
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紅蓮白蓮の香ゆかしく衣袂に裾に薫り来て、浮葉に露の玉動ぎ立葉に風のそよ吹ける面白の夏の眺望は、赤蜻蛉菱藻を嬲り初霜向うが岡の樹梢を染めてより全然となくなったれど、赭色になりて荷の茎ばかり情のう立てる間に、世を忍びげの白鷺がそろりと歩む姿もおかしく、紺青色に暮れて行く天にようやく輝り出す星を背中に擦って飛ぶ雁の、鳴き渡る音も趣味ある不忍の池の景色を下物のほかの下物にして、客に酒をば亀の子ほど飲まする蓬莱屋の裏二階に、気持のよさそうな顔して欣然と人を待つ男一人。
落ち着いた身なりで銀の煙管(きせる)を持ち、職人らしい気概はあるが少しも下品でなく、いかにも多くの者から「親方」と慕われる棟梁(とうりょう)の風格があった。なじみの女中お伝が「お待ち遠でございましょう」と膳を置きながら言えば、「待ち遠で待ち遠でたまりきれないよ、お化粧に時間がかかるのは仕方ないか」と答えた。
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唐桟揃いの淡泊づくりに住吉張りの銀煙管おとなしきは、職人らしき侠気の風の言語挙動に見えながら毫末も下卑ぬ上品質、いずれ親方親方と多くのものに立てらるる棟梁株とは、かねてから知り居る馴染のお伝という女が、さぞお待ち遠でござりましょう、と膳を置きつつ云う世辞を、待つ退屈さに捕えて、待ち遠で待ち遠で堪りきれぬ、ほんとに人の気も知らないで何をして居るであろう、と云えば、それでもお化粧に手間の取れまするが無理はないはず、と云いさしてホホと笑う慣れきった返しの太刀筋。
「アハハハ、それも道理だ。来たらよく見てくれ、まあこのあたりで並ぶものはなかろうというものだ」。
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アハハハそれも道理じゃ、今に来たらばよく見てくれ、まあ恐らくここらに類はなかろう、というものだ。
「おや恐ろしい、何をご馳走してくださるのですか。その親方というのはお師匠様ですか」。
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おや恐ろしい、何を散財って下さります、そして親方、というものは御師匠さまですか。
「いいや」。
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いいや。
「娘さんですか」。
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娘さんですか。
「いいや」。
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いいや。
「後家様ですか」。
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後家様。
「いいや」。
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いいや。
「お婆さんですか」。
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お婆さんですか。
「馬鹿を言え、かわいそうに」。
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馬鹿を云え可愛そうに。
「では赤ちゃんですか」。
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では赤ん坊。
「こいつめ、人をからかうな、ハハハハハ」。
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こいつめ人をからかうな、ハハハハハ。
「ホホホホホ」と笑っているところへ、お伝が「お連れ様がおいでになりました」と告げて障子を開けた。お伝は後ろを向いてにやりと笑い、源太の顔を見た。それは「お楽しみですよ」という意味のからかいだったが、源太は本当におかしくて笑った。しかし入ってきた客は、お伝が期待させた美しい女ではなく、ぼさぼさの頭に無精ひげ、汚れた顔と垢じみた破れ着物の無骨な男だった。お伝はあっけにとられてすぐには挨拶が出なかった。
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ホホホホホとくだらなく笑うところへ襖の外から、お伝さんと名を呼んでお連れ様と知らすれば、立ち上って唐紙明けにかかりながらちょっと後ろ向いて人の顔へ異に眼をくれ無言で笑うは、お嬉しかろと調戯って焦らして底悦喜さする冗談なれど、源太はかえって心からおかしく思うとも知らずにお伝はすいと明くれば、のろりと入り来る客は色ある新造どころか香も艶もなき無骨男、ぼうぼう頭髪のごりごり腮髯、面は汚れて衣服は垢づき破れたる見るから厭気のぞっとたつほどな様子に、さすがあきれて挨拶さえどぎまぎせしまま急には出ず。
源太は笑みを含みながら、「さあ、十兵衛、こちらへ来てくれ、遠慮せず大胡座(おおあぐら)で楽にしていてくれ」と、おずおずしている十兵衛を席に座らせた。やがて膳も整い、盃を一気に飲み干してから源太は改まって言った。「十兵衛、先ほど富松を使いに出して呼んだのはほかでもない、仲直りしたくてだ。あの夜の俺の言い過ぎを忘れてほしい。あの夜はあまりにもお前がわからない奴だと一途に思って腹も立ったし、恥ずかしいことに癇癪も起こしてお前の頭を打ち砕いてやりたいくらいにまで思ったが」。
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源太は笑みを含みながら、さあ十兵衛ここへ来てくれ、関うことはない大胡坐で楽にいてくれ、とおずおずし居るを無理に坐に居え、やがて膳部も具備りし後、さてあらためて飲み干したる酒盃とって源太は擬し、沈黙で居る十兵衛に対い、十兵衛、先刻に富松をわざわざ遣ってこんなところに来てもらったは、何でもない、実は仲直りしてもらいたくてだ、どうか汝とわっさり飲んで互いの胸を和熟させ、過日の夜の我が云うたあの云い過ぎも忘れてもらいたいとおもうからのこと、聞いてくれこういうわけだ、過日の夜は実は我もあまり汝をわからぬ奴と一途に思って腹も立った、恥かしいが肝癪も起し業も沸し汝の頭を打砕いてやりたいほどにまでも思うたが、
「しかし幸いに俺の頭が悪玉ばかりに乗っ取られず、清吉が酔っ払って言い散らした無茶苦茶を聞いているうちに、了見の小さい奴はつまらないことを恥ずかしくもなく言うものだとおかしくなった途端、あの夜お前の家で俺が言ったことも清吉の言葉と似たり寄ったりと気がついて、ええ間違った、と反省したわ。お前が何もかも捨てて辞退しているのに、逆に意地を張れば大間違い、と思いながらもお前の分からなさに腹が立ち、どこから考えてもここを立てればあそこに無理が出ると」、
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しかし幸福に源太の頭が悪玉にばかりは乗っ取られず、清吉めが家へ来て酔った揚句に云いちらした無茶苦茶を、ああ了見の小い奴はつまらぬことを理屈らしく恥かしくもなく云うものだと、聞いているさえおかしくて堪らなさにふとそう思ったその途端、その夜汝の家で陳べ立って来た我の云い草に気がついて見れば清吉が言葉と似たり寄ったり、ええ間違った一時の腹立ちに捲き込まれたか残念、源太男が廃る、意地が立たぬ、上人の蔑視も恐ろしい、十兵衛が何もかも捨てて辞退するものを斜に取って逆意地たてれば大間違い、とは思ってもあまり汝のわからな過ぎるが腹立たしく、四方八方どこからどこまで考えて、ここを推せばそこに襞襀が出る、あすこを
「俺の知恵と分別をありたけ尽くして考えたことをむげに否定されたのが腹立たしくて、かなり我慢もしたが、決心して上人様にお目にかかって事情を申し上げたら、よいよいとたった一言でもやもやが全部消えて、清々しい風が大空を吹いているような気持ちになったわ。昨日はまた上人様から特別のお呼びで、行ってみたら俺を褒めてくださった上に、いよいよ十兵衛に工事一切を申しつけたから陰になって助けてやれ、それが皆お前の徳になるのじゃ、十兵衛には職人も足りないだろう、彼がいよいよ取りかかる日には何人も雇うその中にお前の手下も交じろう」。
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立てればここに無理があると、まあ我の知恵分別ありたけ尽して我のためばかり籌るではなく云うたことを、むげに云い消されたが忌々しくて忌々しくて随分堪忍もしかねたが、さていよいよ了見を定めて上人様のお眼にかかり所存を申し上げて見れば、よいよいと仰せられたただの一言に雲霧はもうなくなって、清しい風が大空を吹いて居るような心持になったわ、昨日はまた上人様からわざわざのお招きで、行って見たれば我を御賞美のお言葉数々のその上、いよいよ十兵衛に普請一切申しつけたが蔭になって助けてやれ、皆汝の善根福種になるのじゃ、十兵衛が手には職人もあるまい、彼がいよいよ取りかかる日には何人も傭うその中に汝が手下の者も交じろう
「必ずそねんだり恨んだりしないよう、それらにはお前からよく言い含めてやるがよいとの細かいお諭し、何から何まで見通しでお慈悲深い上人様のありがたさにつくづく我を折って帰ってきたが、十兵衛、あの夜の言い過ぎは堪忍してくれ。こうした俺の心意気がわかってくれたら、今まで通りきれいに仲よく付き合ってもらおう。材木の仕入れ、鳶人足への取引など、まだ顔が売れていないお前にはやりにくいこともあろうが、それには俺の顔も貸そうし手も貸そう、丸丁・山六・遠州屋、いい問屋は」。
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、必ず猜忌邪曲など起さぬようにそれらには汝からよく云い含めてやるがよいとの細かいお諭し、何から何まで見透しでお慈悲深い上人様のありがたさにつくづく我折って帰って来たが、十兵衛、過日の云い過ごしは堪忍してくれ、こうした我の心意気がわかってくれたら従来通り浄く睦まじく交際ってもらおう、一切がこう定まって見れば何と思った彼と思ったは皆夢の中の物詮議、後に遺して面倒こそあれ益ないこと、この不忍の池水にさらりと流して我も忘りょう、十兵衛汝も忘れてくれ、木材の引合い、鳶人足への渡りなんど、まだ顔を売り込んでいぬ汝にはちょっとしにくかろうが、それらには我の顔も貸そうし手も貸そう、丸丁、山六、遠州屋、いい問屋
「皆馴染みでないと向こうがこちらを安く見るから、何でも歯がゆいことのないよう俺を自由に使え。め組の頭(かしら)の鋭次というのは短気なのはお前も知っているだろうが、骨は黒鉄、根性は火の玉だと普段から言うだけあって、じっくり頼めばぐっと引き受けてくれる頼もしい男。塔は何より土台が大事、地盤の固めをあれにさせれば、火の玉鋭次の根性だけでも不動の台座の岩より堅く基礎(いしずえ)をしっかり据えてくれるのは間違いない。あれにもやがて紹介しよう。もうこうなった以上は源太の望みはただ一つ、天晴れ(あっぱれ)十兵衛お前がよくやりさえすればそれでよい。ただただ塔さえよくできればそれに越した嬉しいことはな」。
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は皆馴染でのうては先方がこっちを呑んでならねば、万事歯痒いことのないよう我を自由に出しに使え、め組の頭の鋭次というは短気なは汝も知って居るであろうが、骨は黒鉄、性根玉は憚りながら火の玉だと平常云うだけ、さてじっくり頼めばぐっと引き受け一寸退かぬ頼もしい男、塔は何より地行が大事、空風火水の四ツを受ける地盤の固めをあれにさせれば、火の玉鋭次が根性だけでも不動が台座の岩より堅く基礎しかと据えさすると諸肌ぬいでしてくるるは必定、あれにもやがて紹介しょう、もうこうなった暁には源太が望みはただ一ツ、天晴れ十兵衛汝がよくしでかしさえすりゃそれでよいのじゃ、ただただ塔さえよくできればそれに越した嬉しいことはな
「い。もし百年千年後の世に残るものに失敗があっては悲しかろうではないか。情けないではないか。源太十兵衛の時代にはこんなくだらない建物で泣いたり笑ったりしたそうな、と言われる日には、なあ十兵衛、二人の骨も魂も粉々にされて消し飛ばされるぞ。下手な細工で世に出ないのは恥も少ないが、残したものを弟子たちに笑われる日には、親に意見される息子よりも何倍も恥ずかしかろう。初めは俺もここまで深く思い寄らなかったが、お前が俺の向こうに回ったその意気張りから、十兵衛に塔を建てさせて見よ、源太に劣りはすまいとなるか、源太が建てて見せよう、何で十兵衛に劣ろうぞと」。
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い、かりそめにも百年千年末世に残って云わば我たちの弟子筋の奴らが眼にも入るものに、へまがあっては悲しかろうではないか、情ないではなかろうか、源太十兵衛時代にはこんなくだらぬ建物に泣いたり笑ったりしたそうなと云われる日には、なあ十兵衛、二人が舎利も魂魄も粉灰にされて消し飛ばさるるわ、拙な細工で世に出ぬは恥もかえって少ないが、遺したものを弟子めらに笑わる日には馬鹿親父が息子に異見さるると同じく、親に異見を食う子より何段増して恥かしかろ、生き磔刑より死んだ後塩漬の上磔刑になるような目にあってはならぬ、初めは我もこれほどに深くも思い寄らなんだが、汝が我の対面にたったその意気張りから、十兵衛に塔建てさせ
「腹の底では先の先まで見通して、我意はなんにもなくなった。ただよくできてくれさえすればお前も名誉、俺も喜び、今日はこれだけ言いたかっただけ。ああ十兵衛、その大きな目を潤ませて聞いてくれたか、嬉しいやい」と磨き上げられた純粋な江戸っ子気質の源太が言い終えると、じっと聞いていた十兵衛は何も言わずに畳に額をつけ、「親方、堪忍してください、口がきけません。十兵衛には口がきけません、こ、この通り、ありがとうございます」と愚かしくも誠実に土下座して泣いた。
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見よ源太に劣りはすまいというか、源太が建てて見せくりょう何十兵衛に劣ろうぞと、腹の底には木を鑚って出した火で観る先の先、我意はなんにもなくなったただよくできてくれさえすれば汝も名誉我も悦び、今日はこれだけ云いたいばかり、ああ十兵衛その大きな眼を湿ませて聴いてくれたか嬉しいやい、と磨いて礪いで礪ぎ出した純粋江戸ッ子粘り気なし、一でなければ六と出る、忿怒の裏の温和さもあくまで強き源太が言葉に、身動ぎさえせで聞きいし十兵衛、何も云わず畳に食いつき、親方、堪忍して下され口がきけませぬ、十兵衛には口がきけませぬ、こ、こ、この通り、ああありがとうござりまする、と愚かしくもまた真実にただ平伏して泣きいたり。
その二十二
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其二十二
言葉はなくても誠実が見える十兵衛の様子に源太は喜び、春風が湖の水を渡って霞が日に蒸すような穏やかな表情で、やさしく続けた。「こう打ち解けた上は互いにまずいこともなく、上人様の思し召しにもかない、我たちの面目も皆立つというもの。ああなんにせよいい気持ちだ。十兵衛、お前も許してくれ、俺も今日こそ十分酔おう」と言いつつ立って違い棚に置いてあった風呂敷の包みを取り下ろし、中の書類を取り出して十兵衛の前に置いた。材木の詳細な調べから人足その他の費用計算まで幾晩もかかって調べ上げた見積書と、あそこをどうしてここをこう」。
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言葉はなくても真情は見ゆる十兵衛が挙動に源太は悦び、春風湖を渡って霞日に蒸すともいうべき温和の景色を面にあらわし、なおもやさしき語気円暢に、こう打ち解けてしもうた上は互いにまずいこともなく、上人様の思召しにもかない我たちの一分も皆立つというもの、ああなんにせよ好い心持、十兵衛汝も過してくれ、我も充分今日こそ酔おう、と云いつつ立って違い棚に載せて置いたる風呂敷包みとりおろし、結び目といて二束にせし書類いだし、十兵衛が前に置き、我にあっては要なき此品の、一ツは面倒な材木の委細しい当りを調べたのやら、人足軽子そのほかさまざまの入目を幾晩かかかってようやく調べあげた積り書、また一ツはあすこをどうしてこ
「というふうに工夫を凝らした下絵図、腰屋根の設計もあり、平地割りもあり、初重の仕形もあり、出し組のみのもあり、彫物の図もあり、もっとも複雑な真柱から各部材の寸法・算法・墨縄の引き方・矩尺(かねじゃく)の取り方まで余さず記したものもあり、中には先祖の遺した秘蔵の絵図や、京都・奈良の堂塔を写し取ったものまであった。これらはみんなお前に預ける。見たら何かの足しになろう」と、自分の心血を込めたものを惜しげもなく譲り渡す胸の広さの」。
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こをこうしてと工夫に工夫した下絵図、腰屋根の地割りだけなもあり、平地割りだけなのもあり、初重の仕形だけのもあり、二手先または三手先、出し組ばかりなるもあり、雲形波形唐草生類彫物のみを書きしもあり、何よりかより面倒なる真柱から内法長押腰長押切目長押に半長押、縁板縁かつら亀腹柱高欄垂木桝肘木、貫やら角木の割合算法、墨縄の引きよう規尺の取りよう余さず洩らさず記せしもあり、中には我のせしならで家に秘めたる先祖の遺品、外へは出せぬ絵図もあり、京都やら奈良の堂塔を写しとりたるものもあり、これらはみんな汝に預くる、見たらば何かの足しにもなろ、と自己が精神を籠めたるものを惜しげもなしに譲りあたうる、胸の広さの
頼もしさはわかるが、のっそりにはまた独自の気持ちがあり、他人の財布で自分の口を潤すようなことは好まなかった。「親方、誠にありがとうございますが、お気持ちはいただいたも同然、これはそちらにお納めを」と膠(にべ)もない返事をすれば、源太は大いに喜ばなかった。
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頼もしきを解せぬというにはあらざれど、のっそりもまた一気性、他の巾着でわが口濡らすようなことは好まず、親方まことにありがとうはござりまするが、御親切は頂戴いたも同然、これはそちらにお納めを、と心はさほどになけれども言葉に膠のなさ過ぎる返辞をすれば、源太大きに悦ばず。
「それはお前が要らないというのか」と内心の怒りを抑えて問うのに、のっそりは気づかず「別に拝借いたしましても」とうっかり答えた途端、鋭い気性の源太はたまらず、「親切に親切を尽くして俺の知恵と工夫を込めた絵図まであげようというのに、むげに返すのは失礼だ。いくらお前の腕がよくとも他人の親切を無にするのか。そもそも最初にお前が俺の向こうに回った時も腹が立ったが、じっと我慢して争わなかった。普通の人ならば俺の庇護(ひご)を受けた身で一つの仕事に手を入れるかと叩きのめしても飽きない奴と怒って怒ってどうにでもすべきところを、かわいいと思えばこそ一言半句の嫌みも言わず、ただただ成り行きに任せておいたのを忘れたか。上人様のお諭しを」
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此品をば汝は要らぬと云うのか、と慍りを底に匿して問うに、のっそりそうとは気もつかねば、別段拝借いたしても、と一句うっかり答うる途端、鋭き気性の源太は堪らず、親切の上親切を尽してわが知恵思案を凝らせし絵図までやらんというものを、むげに返すか慮外なり、何ほど自己が手腕のよくて他の好情を無にするか、そもそも最初に汝めがわが対岸へ廻わりし時にも腹は立ちしが、じっと堪えて争わず、普通大体のものならばわが庇蔭被たる身をもって一つ仕事に手を入るるか、打ち擲いても飽かぬ奴と、怒って怒ってどうにもすべきを、可愛きものにおもえばこそ一言半句の厭味も云わず、ただただ自然の成行きに任せおきしを忘れしか、上人様のお諭し
「受けた後も知恵を絞りに絞ってわざわざ出かけ、お前のために相談をかけてやったのも、当然できないことでも我慢すべきところをよくよくお前をいとしく思えばこそ踏み堪えたとも知らないのか。お前の運の良さだけで、お前の腕の良さだけで、お前の心の正直さだけで、上人様から今度の仕事を命じられたと思っているのか。これをやって俺が恩着せがましく思うとでも思うか。それとももう慢心が芽生えてお前の知らないことなどないと人の絵図を容易く思うのか。取らないというなら強いるまいが、あまりにも人情がない奴だ。ありがとうございますと喜んで受けて、中の設計を一か所二か所使った上に、あの箇所はおかげでうまくいきましたと後で挨拶す」。
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を受けての後も分別に分別渇らしてわざわざ出かけ、汝のために相談をかけてやりしも勝手の意地張り、大体ならぬものとても堪忍なるべきところならぬを、よくよく汝をいとしがればぞ踏み耐えたるとも知らざるか、汝が運のよきのみにて汝が手腕のよきのみにて汝が心の正直のみにて、上人様より今度の工事命けられしと思い居るか、此品をばやってこの源太が恩がましくでも思うと思うか、乃至はもはや慢気の萌して頭からなんのつまらぬものと人の絵図をも易く思うか、取らぬとあるに強いはせじ、あまりといえば人情なき奴、ああありがとうござりますると喜び受けてこの中の仕様を一所二所は用いし上に、あの箇所はお蔭でうもう行きましたと後で挨拶す
「るくらいのことがあっても当然なのに、開けて見もせずのぞきもせず、知れきっているとでも言いたいばかりに愛想もなく要らぬとは、十兵衛よくも断れたな。この源太の描いた図の中にお前の知っているものしかあるものか。お前らの工夫の輪の外に源太が飛び出ていないとでも思うか。見るに足らないとそちで思えばお前の腕前も知れてある。大方どんな塔ができるか建てる前から目に映って批判もあろう、もう我慢の緒も切れた。卑劣(きたな)い仕返しはしないが源太の激しい意趣返しは、する時しないでおくべきか。酸くなるほど今まで口をきいたがもうきかない。一旦思い捨てる上は未練もない。三年でも十年でも仕返しするに十分なことのあるまで、物陰から目を光」。
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るほどのことはあっても当然なるに、開けて見もせず覗きもせず、知れきったると云わぬばかりに愛想も菅もなく要らぬとは、汝十兵衛よくも撥ねたの、この源太がした図の中に汝の知ったもののみあろうや、汝らが工風の輪の外に源太が跳り出ずにあろうか、見るに足らぬとそちで思わば汝が手筋も知れてある、大方高の知れた塔建たぬ前から眼に暎って気の毒ながら批難もある、もう堪忍の緒も断れたり、卑劣い返報はすまいなれど源太が烈しい意趣返報は、する時なさでおくべきか、酸くなるほどに今までは口もきいたがもうきかぬ、一旦思い捨つる上は口きくほどの未練ももたぬ、三年なりとも十年なりとも返報するに充分なことのあるまで、物蔭から眼を光
「らせて睨みつめ無言でじっと待っていてくれよう」と気性の違いから二度三度とすれ違い、とうとう物静かに声を低めて「十兵衛殿」と殿の字を急につけ丁寧に、「要らないという図はしまいましょ。あなた一人で建てる塔は定めて立派にできるだろうが、地震か風の時に壊れることはあるまいな」と軽く言いながら深く嘲る言葉に十兵衛も気持ちよくなく、「のっそりでも恥辱(はじ)は知っています」と底力ある一言を返せば、「なかなか見事な一言だ、忘れないように覚えておこう」と釘をさしながら恐ろしく睨んで後は物も言わず、やがてたちまち立ち上がって、「ああとんでもないことを忘れた、十兵衛殿、ゆっくりしていてくれ、俺は帰らないといけないことを思い出し」。
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らして睨みつめ無言でじっと待っててくりょうと、気性が違えば思わくも一二度ついに三度めで無残至極に齟齬い、いと物静かに言葉を低めて、十兵衛殿、と殿の字を急につけ出し叮嚀に、要らぬという図はしまいましょ、汝一人で建つる塔定めて立派にできようが、地震か風のあろう時壊るることはあるまいな、と軽くは云えど深く嘲ける語に十兵衛も快よからず、のっそりでも恥辱は知っております、と底力味ある楔を打てば、なかなか見事な一言じゃ、忘れぬように記臆えていようと、釘をさしつつ恐ろしく睥みて後は物云わず、やがてたちまち立ち上って、ああとんでもないことを忘れた、十兵衛殿ゆるりと遊んでいてくれ、我は帰らねばならぬこと思い出し
「た」と風のようにその場を去り、あれという間に代金を置いてふいと出て行った。すぐその足で同じ町の別の店に飛び込むや、「厭だ厭だ、厭だ厭だ、つまらないくだらない馬鹿馬鹿しい、ぐずぐずせず酒を持て来い、ろうそくいじってそれが食えるか、肴(さかな)で酒が飲めるか、小兼、春吉、お房、蝶子、四の五の言わせず連れて来い、足の達者な若い衆を頼も、うちに行って清・仙・鉄・政、誰でも彼でもすぐに遊びに寄こすよう」と言いながらぐいぐい飲み、入ってきた女たちに、「今晩なんかでは手ぬるいぞ」と焦りをぶつけ、「飲め、酒は車懸かり、猪口(ちょく)は巴(ともえ)と回せ回せ、お房見栄を張るな、春婆大人ぶるな、ええお蝶め、それでも血が巡っているのか、頭上に」。
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た、と風のごとくにその座を去り、あれという間に推量勘定、幾金か遺してふいと出つ、すぐその足で同じ町のある家が閾またぐや否、厭だ厭だ、厭だ厭だ、つまらぬくだらぬ馬鹿馬鹿しい、ぐずぐずせずと酒もて来い、蝋燭いじってそれが食えるか、鈍痴め肴で酒が飲めるか、小兼春吉お房蝶子四の五の云わせず掴んで来い、臑の達者な若い衆頼も、我家へ行て清、仙、鉄、政、誰でも彼でもすぐに遊びによこすよう、という片手間にぐいぐい仰飲る間もなく入り来る女どもに、今晩なぞとは手ぬるいぞ、とまっ向から焦躁を吹っかけて、飲め、酒は車懸り、猪口は巴と廻せ廻せ、お房外見をするな、春婆大人ぶるな、ええお蝶めそれでも血が循環って居るのか頭上
「鼬花火(いたちはなび)載せて火をつけるぞ、さあ歌え、じゃんじゃんとやれ、小兼め気持ちのいい声を出す、あぐり踊るか、かぐりもっと跳ねろ、やあ清吉来たか鉄も来たか、なんでもいい滅茶苦茶に騒げ、俺に嬉しいことがあるのだ、無礼講にやれやれ」と大将無法の元気なので、遅れて来た仙も政も巻き込まれて浮き立ち、天井が抜けようが根太が抜けようがお手のものと、飛ぶやら舞うやら唸るやら、踊りに鬨(とき)の声を湧かし、かっぽれで転んで、手品の太鼓を杯洗(はいせん)で鉄がたたけば、清吉はお房の傍に寝転んで銀のかんざしで歌の稽古をする馬鹿騒ぎの中で、一了見ありそうな政が木遣(きやり)をつぶしたような声で」。
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に鼬花火載せて火をつくるぞ、さあ歌え、じゃんじゃんとやれ、小兼め気持のいい声を出す、あぐり踊るか、かぐりもっと跳ねろ、やあ清吉来たか鉄も来たか、なんでもいい滅茶滅茶に騒げ、我に嬉しいことがあるのだ、無礼講にやれやれ、と大将無法の元気なれば、後れて来たる仙も政も煙に巻かれて浮かれたち、天井抜きょうが根太抜きょうが抜けたら此方のお手のものと、飛ぶやら舞うやら唸るやら、潮来出島もしおらしからず、甚句に鬨の声を湧かし、かっぽれに滑って転倒び、手品の太鼓を杯洗で鉄がたたけば、清吉はお房が傍に寝転んで銀釵にお前そのよに酢ばかり飲んでを稽古する馬鹿騒ぎの中で、一了簡あり顔の政が木遣を丸めたような声しながら、
「北に峨々たる青山を」などと妙なことを歌い出す勝手三昧、やたらに騒ぐ末には品のないことにもなって、「さあもうここは切り上げて」と源太が一言言えば、それから先はどこへやらと皆散っていった。
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北に峨々たる青山をと異なことを吐き出す勝手三昧、やっちゃもっちゃの末は拳も下卑て、乳房の脹れた奴が臍の下に紙幕張るほどになれば、さあもうここは切り上げてと源太が一言、それから先はどこへやら。
その二十三
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其二十三
鷹が空を飛ぶ時によそ見はしないように、鶴なら鶴一点張りに雲をも突き抜け風にも向かって目指す獲物の喉元(のどもと)を掴むまでは満足しないものだ。
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蒼鸇の飛ぶ時よそ視はなさず、鶴なら鶴の一点張りに雲をも穿ち風にも逆って目ざす獲物の、咽喉仏把攫までは合点せざるものなり。
十兵衛はいよいよ五重塔の工事をすることに決まってから、寝ても起きてもそれ一筋で、朝ご飯を食べる時も心の中では塔のことを考え、夜の夢でも魂は九輪の頂を巡るほどだったから、まして仕事にかかっては妻のことも子のことも忘れ果て、昨日の自分も明日の自分も念頭になく、ただ一つの釿(ちょうな)を振り上げて木を切る時は満身の力をそれに込め、一枚の図を引く時は一心の誠をそれに注ぎ、五尺の体こそ俗世にあるものの、心は紛れる縁に奪われず必死に励んでいれば、あの夜源太に面白くなく思われたことは気にかからないでもないが、日ごろからののっそりますます長じて、
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十兵衛いよいよ五重塔の工事するに定まってより寝ても起きてもそれ三昧、朝の飯喫うにも心の中では塔を噬み、夜の夢結ぶにも魂魄は九輪の頂を繞るほどなれば、まして仕事にかかっては妻あることも忘れ果て児のあることも忘れ果て、昨日の我を念頭に浮べもせず明日の我を想いもなさず、ただ一釿ふりあげて木を伐るときは満身の力をそれに籠め、一枚の図をひく時には一心の誠をそれに注ぎ、五尺の身体こそ犬鳴き鶏歌い権兵衛が家に吉慶あれば木工右衛門がところに悲哀ある俗世に在りもすれ、精神は紛たる因縁に奪られで必死とばかり勤め励めば、前の夜源太に面白からず思われしことの気にかからぬにはあらざれど、日ごろののっそりますます長じて、
いつのまにか風が吹いたくらいのことと自然に軽く受け取り、やがてはとんと打ち忘れ、ただひたすら仕事にのみかかったのは、愚かなだけに情けに鈍くて、一本道よりほかを走れない老牛の鈍さに似ていた。
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はやいずくにか風吹きたりしぐらいに自然軽う取り做し、やがてはとんと打ち忘れ、ただただ仕事にのみかかりしは愚かなるだけ情に鈍くて、一条道より外へは駈けぬ老牛の痴に似たりけり。
金箔・銀箔・瑠璃(るり)・真珠・水晶などの五宝、丁子(ちょうじ)・沈香(じんこう)などの五香、五薬・五穀まで備えて地の神々を祭る地鎮の式も済み、土台の石を生気の方から右回りに次第に据えて五星を祭り、釿初(ちょうなはじめ)の大礼には大工の道を開いた神々まで七神を祭り、清鉋(きよがんな)の礼も首尾よく済み、四方を守る四天王にかたどる四方の柱を千年万年揺るぐなと祈り定める柱立式が行われ、北斗七星を祭って永久の安護を願い、順に柱の仮楔を三つずつ打って手下に打ち固めさせる十兵衛は、幾多の苦心もここまで進められ」。
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金箔銀箔瑠璃真珠水精以上合わせて五宝、丁子沈香白膠薫陸白檀以上合わせて五香、そのほか五薬五穀まで備えて大土祖神埴山彦神埴山媛神あらゆる鎮護の神々を祭る地鎮の式もすみ、地曳き土取り故障なく、さて竜伏はその月の生気の方より右旋りに次第据え行き五星を祭り、釿初めの大礼には鍛冶の道をば創められし天の目一箇の命、番匠の道闢かれし手置帆負の命彦狭知の命より思兼の命天児屋根の命太玉の命、木の神という句々廼馳の神まで七神祭りて、その次の清鉋の礼も首尾よく済み、東方提頭頼吒持国天王、西方尾嚕叉広目天王、南方毘留勒叉増長天、北方毘沙門多聞天王、四天にかたどる四方の柱千年万年動ぐなと祈り定むる柱立式、天星色星多願の
「ば垢まみれの顔にも光が出るほど喜びに気が勇み立ち、動かない太い柱と式で唱える古歌さえも何となくつくづく嬉しく、身を立てる世のためしぞとその下の句を吟じながらにこにこして二度繰り返し、壇に向かって礼拝し、拍手(かしわで)の音清く響かせ一切成就の祓(はらい)を終えるここの光景とは引き替えに、源太の家の物寂しさよ。
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玉女三神、貪狼巨門等北斗の七星を祭りて願う永久安護、順に柱の仮轄を三ッずつ打って脇司に打ち緊めさする十兵衛は、幾干の苦心もここまで運べば垢穢顔にも光の出るほど喜悦に気の勇み立ち、動きなき下津盤根の太柱と式にて唱うる古歌さえも、何とはなしにつくづく嬉しく、身を立つる世のためしぞとその下の句を吟ずるにも莞爾しつつ二たびし、壇に向うて礼拝恭み、拍手の音清く響かし一切成就の祓を終るここの光景には引きかえて、源太が家の物淋しさ。
主人は男として心強く思いを外に現さないが、お吉はいくらさばけているとはいえさすが女の胸は小さく、出入りする人から感応寺の塔の地鎮式が今日済んだ、柱立式が昨日済んだと聞くたびに癪(しゃく)に障り、嫉妬の炎が突き上がって、「お前、十兵衛、恩知らずめ、夫の心の広いのをよいことにして得意になり、うまうま名を上げ身を立てるのか。よし名が上がり身が立てば、さしずめお礼に来るべきはずなのに、知らぬ顔して鼻高々とその日その日を送りくさるのか。優しすぎる夫も夫なら面憎いのっそりめもまたのっそりめ」と、折にふれては縦横に癇癪の虫を跳ね回らせ、自分の後れ毛を上げても「えい、じれったい」と罪のない髪をかきむしり、一文もらいに乞食が来ても甲高い声で」。
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主人は男の心強く思いを外には現わさねど、お吉は何ほどさばけたりとてさすが女の胸小さく、出入るものに感応寺の塔の地曳きの今日済みたり柱立式昨日済みしと聞くたびごとに忌々しく、嫉妬の火炎衝き上がりて、汝十兵衛恩知らずめ、良人の心の広いのをよいことにしてつけ上り、うまうま名を揚げ身を立つるか、よし名の揚り身の立たばさしずめ礼にも来べきはずを、知らぬ顔して鼻高々とその日その日を送りくさるか、あまりに性質のよ過ぎたる良人も良人なら面憎きのっそりめもまたのっそりめと、折にふれては八重縦横に癇癪の虫跳ね廻らし、自己が小鬢の後れ毛上げても、ええ焦れったいと罪のなき髪を掻きむしり、一文貰いに乞食が来ても甲張り声
「きつく断ったりしていたが、ある日源太が留守のところへ、顔なじみの医者・道益(どうえき)というおしゃべりな坊主が遊びに来て、あれこれ話した末に、「ある人に連れられてこのあいだ蓬莱屋に参りましたが、お伝という女から聞きました一部始終、いやどうも棟梁は違ったもの、えらいもの、男はそうありたいと感服いたしました」とお世辞半分何の気なしに話し出した言葉を手がかりに、その夜の詳しい様子を聞けば、知らないだけでも口惜しいのに知っては重々憎き十兵衛、お吉はいよいよ腹を立てた。
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に酷く謝絶りなどしけるが、ある日源太が不在のところへ心易き医者道益という饒舌坊主遊びに来たりて、四方八方の話の末、ある人に連れられてこのあいだ蓬莱屋へまいりましたが、お伝という女からききました一分始終、いやどうも此方の棟梁は違ったもの、えらいもの、男児はそうありたいと感服いたしました、とお世辞半分何の気なしに云い出でし詞を、手繰ってその夜の仔細をきけば、知らずにいてさえ口惜しきに知っては重々憎き十兵衛、お吉いよいよ腹を立ちぬ。
その二十四
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其二十四
「清吉、あなたは情けない、意地も察しもない男、なぜ私に打ち明けて先日の夜の様子を今まで話してくれなかった。気の毒と変に遠慮したのか、あまりにもけちな根性。よしや詳しく聞いたとてまさか私が取り乱すようなことはしないのに、女と軽しめて何事も知らせず隠し立てしておく夫の了簡はともかく、あなたたちまで私を耳が聞こえない目も見えない扱いにして澄ましているとはひどい仕打ち。また親方の腹の中が見え見えなのに平気の平左で酒に浮かれ、女郎買いの供するばかりが男の能でもあるまいに、のんきにこうして遊びに来るとは、清吉あなたもお気楽なの。いつもは留守でも飲ませるところだが今日は私は関わらない、海苔」
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清吉汝は腑甲斐ない、意地も察しもない男、なぜ私には打ち明けてこないだの夜の始末をば今まで話してくれなかった、私に聞かして気の毒と異に遠慮をしたものか、あまりといえば狭隘な根性、よしや仔細を聴いたとてまさか私が狼狽えまわり動転するようなことはせぬに、女と軽しめて何事も知らせずにおき隠し立てしておく良人の了簡はともかくも、汝たちまで私を聾に盲目にして済まして居るとはあまりな仕打ち、また親方の腹の中がみすみす知れていながらに平気の平左で酒に浮かれ、女郎買いの供するばかりが男の能でもあるまいに、長閑気でこうして遊びに来るとは、清吉汝もおめでたいの、平生は不在でも飲ませるところだが今日は私は関えない、海苔
「一枚焼いてやるのも嫌ならくだらない世間話の相手するのも虫が嫌う、飲みたければ勝手に台所に行って蛇口をひねりな、話がしたければ猫でも相手にするがよい」と何も知らない清吉、道益が帰った後でたまたま来合わせてさんざんお吉の不機嫌を浴びせかけられ、わけもわからず驚きあきれてへどもどしながらだんだんと様子を聞けば、自分も知らずにいたことだが、聞けばなるほどどうあっても我慢のならないのっそりの憎さ、命と頼む親方に重々恩を着た身でありながら無遠慮すぎた十兵衛の処置、あくまで親切まっすぐの親方の顔を踏みつけたその憎さ、どうしてくれよう。
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一枚焼いてやるも厭ならくだらぬ世間咄しの相手するも虫が嫌う、飲みたくば勝手に台所へ行って呑み口ひねりや、談話がしたくば猫でも相手にするがよい、と何も知らぬ清吉、道益が帰りし跡へ偶然行き合わせてさんざんにお吉が不機嫌を浴びせかけられ、わけもわからず驚きあきれて、へどもどなしつつだんだんと様子を問えば、自己も知らずに今の今までいしことなれど、聞けばなるほどどうあっても堪忍のならぬのっそりの憎さ、生命と頼むわが親方に重々恩を被た身をもって無遠慮過ぎた十兵衛めが処置振り、あくまで親切真実の親方の顔踏みつけたる憎さも憎しどうしてくりょう。
「ムム、親方と十兵衛とは相撲にならない身分の違い、のっそり相手に争っては夜光の玉を小石にぶつけるようなものだから、腹は十分立てられても分別強くこらえてこらえて、誰にも鬱憤(うっぷん)を漏らさず知らせずいるのだろう、ええ親方は情けない、ほかの奴はともかく清吉だけには知らせてもよさそうなものを。親方とのっそりなら向こうが損、俺とのっそりなら損はない、よし、十兵衛め、ただ置いておくか」とはやり立った鼻先思案。
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ムム親方と十兵衛とは相撲にならぬ身分の差い、のっそり相手に争っては夜光の璧を小礫に擲つけるようなものなれば、腹は十分立たれても分別強く堪えて堪えて、誰にも彼にも欝憤を洩らさず知らさず居らるるなるべし、ええ親方は情ない、ほかの奴はともかく清吉だけには知らしてもよさそうなものを、親方と十兵衛では此方が損、我とのっそりなら損はない、よし、十兵衛め、ただ置こうやと逸りきったる鼻先思案。
「姉御、知らない間は是非がない、堪忍してください、様子を知ってはもう叱られてはいません。この清吉が女郎買いの供するばかりを能の野郎か野郎でないか見ていてください、さようなら」と後声(しりごえ)激しく言い捨てて格子戸をがらりと明け放し、草履もはかず後も見ず風より速く駆け去れば、お吉は今さら気遣わしくて追いかけて二声三声呼び止めようとしたが、四声目にはもう影さえも見えなくなっていた。
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姉御、知らぬ中は是非がない、堪忍して下され、様子知っては憚りながらもう叱られてはおりますまい、この清吉が女郎買いの供するばかりを能の野郎か野郎でないか見ていて下され、さようならば、と後声烈しく云い捨てて格子戸がらり明けっ放し、草履もはかず後も見ず風より疾く駆け去れば、お吉今さら気遣わしくつづいて追っかけ呼びとむる二声三声、四声めにははや影さえも見えずなったり。
その二十五
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其二十五
木を削る斧の音、板を削る鉋(かんな)の音、穴を掘るやら釘を打つやら、丁々かちかちと音が忙しく響き、木片(こっぱ)は飛んで疾風に木の葉がひるがえるように、鋸屑(おがくず)が舞って晴天に雪が降るよう、感応寺境内の工事現場は賑やかで、紺の腹掛けをして股引をいなせに履いた職人たちが、ある者は器用に働き、ある者は日当たりのよい場所に蹲踞(しゃがみ)んでのんびりと鑿(のみ)を研ぎ、道具を捜しにまごつく子どもの職人、しきりに木を挽く日雇い取り、人それぞれ骨を折り汗をかく中に、総棟梁ののっそり十兵衛が皆の仕事を監督しながら、墨壺・墨さし・矩尺(かねじゃく)を持って胸三寸に描いた設計を実物にする指図・命令を行っていた。
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材を釿る斧の音、板削る鉋の音、孔を鑿るやら釘打つやら丁々かちかち響き忙しく、木片は飛んで疾風に木の葉の翻えるがごとく、鋸屑舞って晴天に雪の降る感応寺境内普請場の景況賑やかに、紺の腹掛け頸筋に喰い込むようなをかけて小胯の切り上がった股引いなせに、つっかけ草履の勇み姿、さも怜悧げに働くもあり、汚れ手拭肩にして日当りのよき場所に蹲踞み、悠々然と鑿を硎ぐ衣服の垢穢き爺もあり、道具捜しにまごつく小童、しきりに木を挽く日傭取り、人さまざまの骨折り気遣い、汗かき息張るその中に、総棟梁ののっそり十兵衛、皆の仕事を監督りかたがた、墨壺墨さし矩尺もって胸三寸にある切組を実物にする指図命令。
「こう切れ、ああ掘れ、ここをどうしてどうやって、そこにこれだけ勾配をもたせよ」と口で指示し墨縄でも示し、面倒なところは板切れに矩尺の使い方を書いて示し、鵜の目鷹の目油断なく必死になってみずから励んでいたところへ、猪(いのしし)よりもなお速く埃を蹴立てて飛んで来た清吉。
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こう截れああ穿れ、ここをどうしてどうやってそこにこれだけ勾配もたせよ、孕みが何寸凹みが何分と口でも知らせ墨縄でも云わせ、面倒なるは板片に矩尺の仕様を書いても示し、鵜の目鷹の目油断なく必死となりてみずから励み、今しも一人の若佼に彫物の画を描きやらんと余念もなしにいしところへ、野猪よりもなお疾く塵土を蹴立てて飛び来し清吉。
怒りの表情を火玉のようにして逆吊った目を一層見開き、「畜生、のっそり、くたばれ」と大声で叫ぶので十兵衛はびっくりして振り向いた途端、まともから岩も裂けよと打ち下すのは鋭く研ぎ澄ませた釿(ちょうな)を縦に柄にすげた大工にとっての刀のようなもので、何としても避ける間が足りず左の耳を削ぎ落とされ肩先を少し切り割かれた。し損じたとまた踏み込んで打つのを逃げつつ、投げつけてくる釘箱・才槌(さいづち)・墨壺・矩尺(かねじゃく)、武器のないまま防ぐ術がなく、身を翻して退く拍子に道具箱に足を突っ込んで五寸釘をぐさと踏み貫き、思わず転ぶを得たりとばかりに清吉が振りかぶった釿の刃先に夕日の光がきらりと宿って空に電光のように閃いた。その時その瞬間、後ろの方に乳虎一声「馬鹿」
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忿怒の面火玉のごとくし逆釣ったる目を一段視開き、畜生、のっそり、くたばれ、と大喝すれば十兵衛驚き、振り向く途端にまっ向より岩も裂けよと打ち下すは、ぎらぎらするまで硎ぎ澄ませし釿を縦にその柄にすげたる大工に取っての刀なれば、何かは堪らん避くる間足らず左の耳を殺ぎ落され肩先少し切り割かれしが、し損じたりとまた踏ん込んで打つを逃げつつ、抛げつくる釘箱才槌墨壺矩尺、利器のなさに防ぐ術なく、身を翻えして退く機に足を突っ込む道具箱、ぐざと踏み貫く五寸釘、思わず転ぶを得たりやと笠にかかって清吉が振り冠ったる釿の刃先に夕日の光の閃りと宿って空に知られぬ電光の、疾しや遅しやその時この時、背面の方に乳虎一声、馬鹿
「め」と叫ぶ男があって二間丸太でもろに両足を薙ぎ倒せば、倒れてもますます怒る清吉がたちまちむっくりと起きようとする襟元を掴んで、「やい、俺だわ、血迷うなこの馬鹿め」と何の苦もなく釿をもぎ取り捨てながら上からぬっと出す顔は、八方睨みの大きな目、一文字の口の怒り鼻、渦巻き縮れの両鬢(りょうびん)は不動明王を欺くばかりの相貌(そうぎょう)だった。
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め、と叫ぶ男あって二間丸太に論もなく両臑脆く薙ぎ倒せば、倒れてますます怒る清吉、たちまち勃然と起きんとする襟元把って、やい我だわ、血迷うなこの馬鹿め、と何の苦もなく釿もぎ取り捨てながら上からぬっと出す顔は、八方睨みの大眼、一文字口怒り鼻、渦巻縮れの両鬢は不動を欺くばかりの相形。
「やあ、火の玉の親分か、わけがある、打っちゃっておいてくれ」と力の限り払い除けようとじたばたするのを、巻き貝のような拳骨(げんこつ)で押さえつけ、「ええ、じたばたすれば殴り殺すぞ、馬鹿め」。
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やあ火の玉の親分か、わけがある、打捨っておいてくれ、と力を限り払い除けんと踠き焦燥るを、栄螺のごとき拳固で鎮圧め、ええ、じたばたすれば拳り殺すぞ、馬鹿め。
「親分、情けない、ここをここを放してくれ」。
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親分、情ない、ここをここを放してくれ。
「馬鹿め」。
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馬鹿め。
「ええわからない、親分、あいつを生かしてはおけないんだ」。
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ええ分らねえ、親分、あいつを活かしてはおかれねえのだ。
「馬鹿め、べそをかくのか、おとなしくしなければまだ打つぞ」。
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馬鹿野郎め、べそをかくのか、おとなしくしなければまだ打つぞ。
「親分、ひどい」。
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親分酷い。
「馬鹿め、やかましいわ、殴り殺すぞ」。
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馬鹿め、やかましいわ、拳り殺すぞ。
「あんまりわからない、親分」。
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あんまり分らねえ、親分。
「馬鹿め、それ打つぞ」。
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馬鹿め、それ打つぞ。
「親分」。
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親分。
「馬鹿め」。
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馬鹿め。
「放して」。
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放して。
「馬鹿め」。
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馬鹿め。
「親分」。
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親分。
「馬鹿め」。
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馬鹿め。
「放して」。
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放して。
「馬鹿め」。
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馬鹿め。
「親」。
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親。
「馬鹿め」。
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馬鹿め。
「放」。
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放。
「馬鹿め」。
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馬鹿め。
「お」。
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お。
「馬鹿め馬鹿め馬鹿め馬鹿め、ざまを見ろ、おとなしくなったろう、野郎、俺の家へ来い、やいどうした、野郎、やあこいつは気絶したな、つまらなく弱い奴だな、やあい、どいつか来い、肝心の時は逃げ出して今ごろ十兵衛の周りに蟻のように群がって何の役に立つ、馬鹿ども、こっちには死にかけがいるのだ、鈍い奴め、水でも汲んできて打っかけてやれ、落ちた耳を拾っている奴があるものか、白痴め、汲んできたか、構うことない、一時に手桶の水を全部顔に打ちつけろ、こんな野郎はしぶとく生きているものだ、それ占めた、清吉ッ、しっかりしろ、意地のない奴め、どれどれこいつは俺が背負っていってやろう、十兵衛の肩の傷は浅かろうな、むむ、よしよし、馬鹿ど」。
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馬鹿め馬鹿め馬鹿め馬鹿め、醜態を見ろ、おとなしくなったろう、野郎我の家へ来い、やいどうした、野郎、やあこいつは死んだな、つまらなく弱い奴だな、やあい、どいつか来い、肝心の時は逃げ出して今ごろ十兵衛が周囲に蟻のように群って何の役に立つ、馬鹿ども、こっちには亡者ができかかって居るのだ、鈍遅め、水でも汲んで来て打っ注けてやれい、落ちた耳を拾って居る奴があるものか、白痴め、汲んで来たか、関うことはない、一時に手桶の水みんな面へ打つけろ、こんな野郎は脆く生きるものだ、それ占めた、清吉ッ、しっかりしろ、意地のねえ、どれどれこいつは我が背負って行ってやろう、十兵衛が肩の疵は浅かろうな、むむ、よしよし、馬鹿ど
「もさようなら」。
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もさようなら。
その二十六
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其二十六
「源太はいるか」と入って来た鋭次を、お吉が立ち上がって「おお、親分様、まあこちらへ」と迎えれば、ずっと通って火鉢の前に大胡座(おおあぐら)をかき、桜湯を半分ばかり飲み干してお吉の顔を見た。「顔色が悪いがどうかしたか。源太はどこかへ行ったのか。聞いたであろうが清吉が要らないことをしでかしてな、それでちょっと話があって来たが、ははもう十兵衛のところへ行ったと、ハハハ、敏捷(すばや)い敏捷い、さすがに源太だわ、俺の思案より先に体がとっくに動いているとは頼もしい。なあに、お吉、心配することはない。十兵衛と御上人様に源太が謝って、自分の示しが足らなかったので手下の者がとんだ心得違いをしました、と」。
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源太居るかとはいり来たる鋭次を、お吉立ち上って、おお親分さま、まあまあ此方へと誘えば、ずっと通って火鉢の前に無遠慮の大胡坐かき、汲んで出さるる桜湯を半分ばかり飲み干してお吉の顔を視、面色が悪いがどうかしたか、源太はどこぞへ行ったのか、定めしもう聴いたであろうが清吉めがつまらぬことをしでかしての、それゆえちょっと話があって来たが、むむそうか、もう十兵衛がところへ行ったと、ハハハ、敏捷い敏捷い、さすがに源太だわ、我の思案より先に身体がとっくに動いて居るなぞは頼もしい、なあにお吉心配することはない、十兵衛と御上人様に源太が謝罪をしてな、自分の示しが足らなかったで手下の奴がとんだ心得違いをしました。
「幾重にも勘弁してくれと三つ四つ頭を下げれば済んでしまうことだわ。それでも相手がぐずぐず言えば、まともに源太が喧嘩を買って始末をつければよいさ。薄々聞いた噂では十兵衛も耳たぶの一つや半分切り取られても恨まれないはず、随分清吉の行き過ぎも少しおかしないい洒落かもしれない。ハハハ、しかし、かわいそうに俺の拳骨を大分食らってうんうん苦しんでいるばかりか、十兵衛を殺した後どう始末がつくかと俺に言われてようやく悟ったらしく、ああ悪かった、やり過ぎた間違ったことをした、親方に頭を下げさせるようなことをしたかああ済まないと、自分の体の痛いよりも後悔にぼろぼろ涙をこぼしている気の毒さは、なんと可愛い」。
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幾重にも勘弁して下されと三ツ四ツ頭を下げれば済んでしまうことだわ、案じ過しはいらぬもの、それでも先方がぐずぐずいえば正面に源太が喧嘩を買って破裂の始末をつければよいさ、薄々聴いた噂では十兵衛も耳朶の一ツや半分斫り奪られても恨まれぬはず、随分清吉の軽躁行為もちょいとおかしないい洒落か知れぬ、ハハハ、しかし憫然に我の拳固を大分食ってうんうん苦しがって居るばかりか、十兵衛を殺した後はどう始末が着くと我に云われてようやく悟ったかして、ああ悪かった、逸り過ぎた間違ったことをした、親方に頭を下げさするようなことをしたかああ済まないと、自分の身体の痛いのより後悔にぼろぼろ涙をこぼしている愍然さは、なんと可愛
「奴ではないか、なあお吉、源太はひどく清吉を叱って叱って、十兵衛のところへ謝りに行けとまで言うかどうか知らないが、それは表向きの義理なら仕方ないが、ここはあなたの稼ぎどころ、あいつをどうか、なあそれ、よいか、そこは源太を抱き寝するほどのお吉様にわからないことはない寸法か、アハハハハ、源太がいなければ話も要らない、どれ帰ろうか、ご馳走は預けておこう、用があったらいつでもおいで」とぽつぽつ語って帰った後、思えば申し訳ないことばかりだった。
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い奴ではないか、のうお吉、源太は酷く清吉を叱って叱って十兵衛がとこへ謝罪に行けとまで云うか知らぬが、それは表向きの義理なりゃ是非はないが、ここは汝の儲け役、あいつをどうか、なあそれ、よしか、そこは源太を抱き寝するほどのお吉様にわからぬことはない寸法か、アハハハハ、源太がいないで話も要らぬ、どれ帰ろうかい御馳走は預けておこう、用があったらいつでもおいで、とぼつぼつ語って帰りし後、思えば済まぬことばかり。
女の浅い心から分別もなく清吉に毒づいたが、出過ぎた若者が間違いをして気の毒や清吉は自分の世を狭め、大切の夫をも憎くてならないのっそりに謝らせるような成り行きになったのは、時の弾みの出来事ながら結局は自分の口から出た過ちで、どうすべきかと火鉢の縁に肘をついて、我を忘れてぐったり滑るまで考えに考え凝らしたが、思い定めて「おおそうじゃ」と立ち上がり、箪笥の大きな引き出しを開けて麝香(じゃこう)の香りとともに取り出すたしなみの、帯はそもそもここへ嫁いできた嬉しくも恥ずかしくも恐ろしかった時に締めた、ええそれよ。
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女の浅き心から分別もなく清吉に毒づきしが、逸りきったる若き男の間違いし出して可憫や清吉は自己の世を狭め、わが身は大切の所天をまで憎うてならぬのっそりに謝罪らするようなり行きしは、時の拍子の出来事ながらつまりはわが口より出し過失、兎せん角せん何とすべきと、火鉢の縁に凭する肘のついがっくりと滑るまで、我を忘れて思案に思案凝らせしが、思い定めて、おおそうじゃと、立って箪笥の大抽匣、明けて麝香の気とともに投げ出し取り出すたしなみの、帯はそもそも此家へ来し嬉し恥かし恐ろしのその時締めし、ええそれよ。
ねだって買ってもらった博多帯(はかたおび)に繻子(しゅす)に未練もなし、三枚重ねに忍ばれる昔は罪のない夢だった。今は苦労の縞の着物、ひらりと飛ばす飛八丈(とびはちじょう)、このごろ好みの毛万筋(けまんすじ)。千筋百筋と気は乱れても夫を思うはただ一筋、ただ一筋の唐七糸帯(からしゅっちん)は、お屋敷奉公した叔母が形見として大切に秘めていたものでも何も惜しくはない手放そう、と何やかやありったけ出して女中に包ませ、夫の帰らないうちにと櫛・笄(こうがい)も手早く小箱にまとめて、それを無残にも他所(よそ)の蔵に預け、いくらかの金を懐に浅黄の頭巾・小提灯(こぢょうちん)で、闇夜も恐れず鋭次の家へと向かった。
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ねだって買ってもろうたる博多に繻子に未練もなし、三枚重ねに忍ばるる往時は罪のない夢なり、今は苦労の山繭縞、ひらりと飛ばす飛八丈このごろ好みし毛万筋、千筋百筋気は乱るとも夫おもうはただ一筋、ただ一筋の唐七糸帯は、お屋敷奉公せし叔母が紀念と大切に秘蔵たれど何か厭わん手放すを、と何やらかやらありたけ出して婢に包ませ、夫の帰らぬそのうちと櫛笄も手ばしこく小箱に纏めて、さてそれを無残や余所の蔵に籠らせ、幾らかの金懐中に浅黄の頭巾小提灯、闇夜も恐れず鋭次が家に。
その二十七
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其二十七
不忍(しのばず)の池のほとりで行き違ってからがらりと変わった源太の腹の底、初めはかわいく思っていたが今はこしゃくに障ってならないその十兵衛に、頭を下げ両手をついて謝らなければならない腹立たしさ。
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池の端の行き違いより翻然と変りし源太が腹の底、初めは可愛う思いしも今は小癪に障ってならぬその十兵衛に、頭を下げ両手をついて謝罪らねばならぬ忌々しさ。
かといって打ち捨てておけば清吉の乱暴も自分が命令してさせたのではないかと疑われて、何も知らない身で気持ちよくない濡れ衣を着せられることの口惜しく、ただでさえ面白くないこのごろに余計な魔が差してくだらない心労を、馬鹿馬鹿しい清吉のふるまいのためにしなければならない苦々しさにますます心が穏やかでないが、処置するやり方で済むべき話なのだから、これも皆自然に湧いたこと、なんとも仕方ないと諦めて嫌々ながら十兵衛の家を訪ね、不慮の難を見舞い慰め、かつは清吉をよく戒めなかったことを詫び、のっそり夫婦の様子を見ると十兵衛は例の無言三昧、お浪は女の物やさしく、「幸い傷も肩のは浅く大したことではございませんのでどうぞお案じ下されますな、わざわ」。
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さりとて打ち捨ておかば清吉の乱暴も我が命令けてさせしかのよう疑がわれて、何も知らぬ身に心地快からぬ濡衣被せられんことの口惜しく、たださえおもしろからぬこのごろよけいな魔がさして下らぬ心労いを、馬鹿馬鹿しき清吉めが挙動のためにせねばならぬ苦々しさにますます心平穏ならねど、処弁く道の処弁かで済むべきわけもなければ、これも皆自然に湧きしこと、なんとも是非なしと諦めて厭々ながら十兵衛が家音問れ、不慮の難をば訪い慰め、かつは清吉を戒むること足らざりしを謝び、のっそり夫婦が様子を視るに十兵衛は例の無言三昧、お浪は女の物やさしく、幸い傷も肩のは浅く大したことではござりませねばどうぞお案じ下されますな、わざわ
「ざお見舞い下されては誠に恐れ入ります」と如才なく口はきけど言葉遣いが改まって、自然とどこかに角(かど)があるのは問わずと知れた胸の内で、もしや源太が清吉に内々含めてさせたのではないかと疑っているに違いなかった。
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ざお見舞い下されては実に恐れ入りまする、と如才なく口はきけど言葉遣いのあらたまりて、自然とどこかに稜角あるは問わずと知れし胸の中、もしや源太が清吉に内々含めてさせしかと疑い居るに極まったり。
「ええ腹の立つ、十兵衛もきっと俺をそう見ているだろう。よい時の来よ、この源太の仕返しの仕様を見せてくれよう。清吉ごときけちな野郎のしたことに何が似るものか、釿(ちょうな)で片耳を削ぎ取るようなくだらないことを俺がしようか。俺の腹立ちは木片(こっぱ)の火のぱっと燃えてすぐ消えるようなこらえも意地もないことでは済まさない。今日の変事は今日の変事、俺の癇癪は俺の癇癪、まるで別で関係ない。源太のやり方は知る時に知れ、悟らせる時に悟らせよう」と裏にはいよいよ不満を抱えながらもそれを露ほども外に出さず、義理の挨拶を見事に済ませてすぐその足を感応寺に向け、上人のお目通りを願い、一応自分の身内の者の不埒(ふらち)をお詫びし、家に帰って、さあこれよりは鋭次に会い」。
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ええ業腹な、十兵衛も大方我をそう視て居るべし、とく時機の来よこの源太が返報仕様を見せてくれん、清吉ごとき卑劣な野郎のしたことに何似るべきか、釿で片耳殺ぎ取るごときくだらぬことを我がしょうや、わが腹立ちは木片の火のぱっと燃え立ちすぐ消ゆる、堪えも意地もなきようなることでは済まさじ承知せじ、今日の変事は今日の変事、わが癇癪はわが癇癪、まるで別なり関係なし、源太がしようは知るとき知れ悟らする時悟らせくれんと、裏にいよいよ不平は懐けど露塵ほども外には出さず、義理の挨拶見事に済ましてすぐその足を感応寺に向け、上人のお目通り願い、一応自己が隷属の者の不埒をお謝罪し、わが家に帰りて、いざこれよりは鋭次に会い
「清吉を止めてくれた礼を述べつつ、その時の様子を聞き、また一方では清吉をさんざん罵り叱って今後うちに出入り無用と言いつけようと立ち出かけ、お吉がいないのを不審に思ってどこへと問えば、「どちらへかちょっと行ってきます、とおでかけになりました」と何食わぬ顔で女中が答え、口止めされているとは知らないので、「おおそうか、よしよし、俺は火の玉の兄貴のところへ遊びに行ったとお吉が帰ったら言っておけ」と草履をつっかけて出合い頭に、胡麻竹(ごまだけ)の杖をとぼとぼとついて焦げた跡のある提灯を片手に、老いの歩みの見るも気の毒なへの字なりしてこちらへ来る婆さん。
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、その時清を押えくれたる礼をも演べつその時の景状をも聞きつ、また一ツにはさんざん清を罵り叱って以後わが家に出入り無用と云いつけくれんと立ち出でかけ、お吉のいぬを不審してどこへと問えば、どちらへかちょと行て来るとてお出でになりました、と何食わぬ顔で婢の答え、口禁めされてなりとは知らねば、おおそうか、よしよし、我は火の玉の兄きがところへ遊びに行たとお吉帰らば云うておけ、と草履つっかけ出合いがしら、胡麻竹の杖とぼとぼと焼痕のある提灯片手、老いの歩みの見る目笑止にへの字なりして此方へ来る婆。
「おお、清の母親(おふくろ)ではないか」。
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おお清の母親ではないか。
「あ、親方様でしたか」。
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あ、親方様でしたか、
その二十八
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其二十八
「ああ、よいところでお目にかかりました、どちらへかお出かけですか」と忙しげに老婆が問うのに、源太は軽く会釈して「まあよい、遠慮せずここへ入りなさい。わざわざ夜道を歩いてきたのは何か急の用か、聞いてあげよう」と立ち戻れば、「ハイハイ、ありがとうございます。お出かけのところを申し訳ありません、御免ください、ハイハイ」と言いながら後につき格子戸をくぐり、「寒かったろうに、よく出て来たね、あいにくお吉もいなくて構えもできないが、縮こまっていないで火にでも当たるがよい」と親切に言ってくれる源太の言葉にいよいよ身を堅くして縮こまり、「お構い下さいましては恐れ入ります、ハイハイ、懐炉を入れておりますれ」。
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ああ好いところでお眼にかかりましたがどちらへかお出かけでござりまするか、と忙しげに老婆が問うに源太軽く会釈して、まあよいわ、遠慮せずと此方へはいりゃれ、わざわざ夜道を拾うて来たは何ぞ急の用か、聴いてあげよう、と立ち戻れば、ハイハイ、ありがとうござります、お出かけのところを済みません、御免下さいまし、ハイハイ、と云いながら後に随いて格子戸くぐり、寒かったろうによう出て来たの、あいにくお吉もいないで関うこともできぬが、縮こまっていずとずっと前へ進て火にでもあたるがよい、と親切に云うてくるる源太が言葉にいよいよ身を堅くして縮こまり、お構い下さいましては恐れ入りまする、ハイハイ、懐炉を入れておりますれ
「ばこれで結構でございます」と意気地なく落ちかかる鼻水を袖で拭きながら遠く入口近くにうずくまり、何か言い出したそうな素振りだった。源太は早くも大方察して、老人の心の中をさぞかしと気の毒で堪まらず、余計なことをしてしまった清吉を罵り懲らして当分出入り禁止の旨を言いに鋭次のところへ行こうとしていた矢先だったが、見ればわが子を除いては阿弥陀様よりほかに親しい者もないであろうか弱い婆さんのあわれな姿に、自分が清吉を突き放せばこの婆は腰弱弓の弦を断ち切られた心地がして、生きる甲斐なき命ながらえるに張りもなく的もなくなり、どれほどか悲しみ歎いて余生を愚痴の涙で暮らし、晴れ晴れ」。
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ばこれで恰好でござりまする、と意久地なく落ちかかる水涕を洲の立った半天の袖で拭きながらはるか下って入口近きところに蹲まり、何やら云い出したそうな素振り、源太早くも大方察して老婆の心の中さぞかしと気の毒さ堪らず、よけいなことし出して我に肝煎らせし清吉のお先走りを罵り懲らして、当分出入りならぬ由云いに鋭次がところへ行かんとせし矢先であれど、視ればわが子を除いては阿弥陀様よりほかに親しい者もなかるべきか弱き婆のあわれにて、我清吉を突き放さば身は腰弱弓の弦に断れられし心地して、在るに甲斐なき生命ながらえんに張りもなく的もなくなり、どれほどか悲しみ歎いて多くもあらぬ余生を愚痴の涙の時雨に暮らし、晴れ晴れ
「とした気持ちのする日もなく終わることだろうと、思いやれば思いやるだけ哀れさが増し、煙草をくるくる巻きながらじっとしているうちに、老婆は少し前ににじり出て、「夜分にまいりまして誠に申し訳ありませんが、少しお願い申したいことがございまして、ハイハイ、もう御存知でもございましょうが清吉めがとんだことをいたしましたそうで。ハイハイ、鉄五郎様から大概は聞きましたが、普段から気の早い奴で、すぐに打つの切るのと騒ぎましてそのたびにひやひやさせます。おかげさまで一人前にはなっておりましてもまだ子どものような一本気で、悪いことや曲がったことは決していたしませんが、夢中になると分別のなくなる困った奴で、ハイハイ、悪気は夢にもない奴でございます。ハイ」。
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とした気持のする日もなくて終ることならんと、思いやれば思いやるだけ憫然さの増し、煙草捻ってつい居るに、婆は少しくにじり出で、夜分まいりましてまことに済みませんが、あの少しお願い申したいわけのござりまして、ハイハイ、もう御存知でもござりましょうがあの清吉めがとんだことをいたしましたそうで、ハイハイ、鉄五郎様から大概は聞きましたが、平常からして気の逸い奴で、じきに打つの斫るのと騒ぎましてそのたびにひやひやさせまする、お蔭さまで一人前にはなっておりましてもまだ児童のような真一酷、悪いことや曲ったことは決してしませぬが取り上せては分別のなくなる困った奴で、ハイハイ、悪気は夢さらない奴でござります、ハイ
「ハイ、それは御存知で、ハイ、ありがとうございます。どういう筋で喧嘩をいたしましたか知りませんが大変な釿(ちょうな)などを振り回しましたそうで、そうきいた時は私が釿で斬られたような心持がいたしました。め組の親分とやらが幸い抱き留めてくださいましたとか、まあせめてもでございます。相手が死にでもしましたら清吉めは人を傷つけた罪人、わたくしは清吉を亡くして生きている道はございません。ハイ、ありがとうございます。清吉めが小さい時はひどい病気持ちで苦労をさせられましたが、ようやく中山の鬼子母神様の御利益(ごりやく)で育ちました。病気が治ったら七歳までにお庭の土を踏ませましょうと申しておきながら、ついなにかにかまけて」。
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ハイそれは御存知で、ハイありがとうござります、どういう筋で喧嘩をいたしましたか知りませぬが大それた手斧なんぞを振り舞わしましたそうで、そうききました時は私が手斧で斫られたような心持がいたしました、め組の親分とやらが幸い抱き留めて下されましたとか、まあせめてもでござります、相手が死にでもしましたら彼めは下手人、わたくしは彼を亡くして生きて居る瀬はござりませぬ、ハイありがとうござります、彼めが幼少ときはひどい虫持で苦労をさせられましたも大抵ではござりませぬ、ようやく中山の鬼子母神様の御利益で満足には育ちましたが、癒りましたら七歳までにお庭の土を踏ませましょうと申しておきながら、ついなにかにかまけて
「お礼参りもいたさせなかったそのお罰か、丈夫にはなりましたがあの通りの無鉄砲で、毎々お世話をかけます。今日も今日とて鉄五郎様が掻い摘んで話されました時の私のびっくり、刃物を用意までしてと聞いた時には、えいまたかと思わず胸も裂けそうになりました。め組の親分様とかが預かってくださったとあれば安心のようなものの、清吉は怪我はしませんかと聞けば鉄様の曖昧な返事、別条はない案じるなと言われるだけにかえって案ぜられ、その親分の家を尋ねれば、そこへお前が行ったがよいか行かないがよいか俺にはわからない、ともかくも親方様のところへうかがって見ろと言い放って帰ってしまわれ、なおなお胸がしくしく痛んで居ても立っ」。
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お礼参りもいたさせなかったその御罰か、丈夫にはなりましたがあの通りの無鉄砲、毎々お世話をかけまする、今日も今日とて鉄五郎様がこれこれと掻い摘んで話されました時の私のびっくり、刃物を準備までしてと聞いた時には、ええまたかと思わずどっきり胸も裂けそうになりました、め組の親分様とかが預かって下されたとあれば安心のようなものの、清めは怪我はいたしませぬかと聞けば鉄様の曖昧な返辞、別条はない案じるなと云わるるだけになお案ぜられ、その親分の家を尋ぬれば、そこへ汝が行ったがよいか行かぬがよいか我には分らぬ、ともかくも親方様のところへ伺って見ろと云いっ放しで帰ってしまわれ、なおなお胸がしくしく痛んでいても起っ
「ても居られませんので、留守を隣の傘張りに頼んでようやく参りました。どうかめ組の親分とやらの家を教えてください、ハイハイ、すぐにまいりますつもりで。どんな様子でおりますか。もしかえって大怪我などしていないでしょうか。大丈夫なら早く会って安心したいですし、喧嘩の模様も聞きたいです。曲がったことはよもやいたすまいと思っておりますが、若い者のこと、もし筋の違う恨みでのことなら、相手の十兵衛様にまずこの婆が一生懸命で謝り、婆はたとえどうされても惜しくはない老いぼれ、先のある清吉めが人様に恨まれないようにしなければなりません」とおろおろ涙になってのお話で」。
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ても居られませねば、留守を隣家の傘張りに頼んでようやく参りました、どうかめ組の親分とやらの家を教えて下さいまし、ハイハイすぐにまいりまするつもりで、どんな態しておりまするか、もしやかえって大怪我などして居るのではござりますまいか、よいものならば早う逢って安堵しとうござりまするし喧嘩の模様も聞きとうござりまする、大丈夫曲ったことはよもやいたすまいと思うておりまするが若い者のこと、ひょっと筋の違った意趣ででもしたわけなら、相手の十兵衛様にまずこの婆が一生懸命で謝罪り、婆はたといどうされても惜しくない老耄、生先の長い彼めが人様に恨まれるようなことのないようにせねばなりませぬ、とおろおろ涙になっての話
「した」。
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し。
始終を知らないで一筋にわが子を思う老いの繰言、この返答には源太も困った。
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始終を知らで一筋にわが子をおもう老いの繰言、この返答には源太こまりぬ。
その二十九
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其二十九
「八五郎、そこにいるか、誰か来たようだ、開けてやれ」と言われて、「なんだ不思議な、女らしいぞ」と口の中でつぶやきながら、「誰だ、女嫌いの親分のところへ今ごろ来るのは、さあ入りな」とがらりと戸を引いたところ、「八ッさんお世話」と軽い挨拶をして、提灯を消して頭巾を脱ぎかけているのは、盆にも正月にも心付けをしてくれたお吉だと気がついて八五郎はめんくらい、素肌に一枚どてら姿で「親分、なんの、あの、なんの、姉御だ」と忙しく奥へ声をかけた。
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八五郎そこに居るか、誰か来たようだ明けてやれ、と云われて、なんだ不思議な、女らしいぞと口の中で独語ながら、誰だ女嫌いの親分のところへ今ごろ来るのは、さあはいりな、とがらりと戸を引き退くれば、八ッさんお世話、と軽い挨拶、提灯吹き滅して頭巾を脱ぎにかかるは、この盆にもこの正月にも心付けしてくれたお吉と気がついて八五郎めんくらい、素肌に一枚どてらの袵広がって鼠色になりしふんどしの見ゆるを急に押し隠しなどしつ、親分、なんの、あの、なんの姉御だ、と忙しく奥へ声をかくるに、なんの尽しで分る江戸ッ児。
「おおそうか、お吉が来たのか、よく来た、まあそこらの埃のなさそうなところへ坐ってくれ、油虫が這って行くから用心しな、男ばかりの家は汚いのがいい所だから仕方がない、俺もお前のようなよい女房でも持ったらきれいにしようよ、アハハハ」と笑えばお吉も笑いながら「そうしたらまた汚い汚いと厳しくお叱りになるかもしれない」と互いに二つ三つ冗談を話した後、お吉は少し改まり「清吉は寝ていますか、どういう様子か見てあげたいし、心にかかって参りました」と言えば鋭次もうなずき、「清は今しがたすやすや寝ついて起きそうにもない容態だが、傷というて別にあるでもなし、頭の骨を打ち割ったわけでもなければ、整骨医師の先刻言うには、ひどく逆上したと」。
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おおそうか、お吉来たの、よく来た、まあそこらの塵埃のなさそうなところへ坐ってくれ、油虫が這って行くから用心しな、野郎ばかりの家は不潔のが粧飾だから仕方がない、我も汝のような好い嚊でも持ったら清潔にしようよ、アハハハと笑えばお吉も笑いながら、そうしたらまた不潔不潔と厳しくお叱めなさるか知れぬ、と互いに二ツ三ツ冗話しして後、お吉少しく改まり、清吉は眠ておりまするか、どういう様子か見てもやりたし、心にかかれば参りました、と云えば鋭次も打ち頷き、清は今がたすやすや睡ついて起きそうにもない容態じゃが、疵というて別にあるでもなし頭の顱骨を打ち破ったわけでもなければ、整骨医師の先刻云うには、ひどく逆上したと
「ころを滅茶苦茶に殴られたため一時は気絶までもしたれど、大したことはない由で、見たければちょっとのぞいて見よ」と先に立って導く後に続いて行くお吉、三畳ばかりの部屋の中にぐっすり眠っている清吉を見ると、顔も頭も腫れ上がって、これほど殴ったとは鋭次の酷さが恨めしいくらい哀れな様子だったが、済んだことを今さら言ってもしかたない。座に戻って鋭次に向かい、「うちでは必ず清吉が余計な手出しに腹を立ち、お上人様やら十兵衛への義理もかねて厳しく叱るか出入りを禁めるか何とかするでしょうが、元はといえば清吉が自分の恨みでしたのではなく、つまりはこちらのことのため、筋の違う腹立ちをついむらむらとしただけなのでして、私はどうも夫のすることを傍で見ているわけには行かず、とくに少し分けがあって私がどうかしてやらないと私の胸が済まない事情もあり、それやこれやをいろいろと案じた末に浮かんだのが、一年か半年ほど清吉にここを出てもらうこと。人の噂も遠のいて夫の機嫌も直ったら取り成しようはいくらもあり、まずそれまでは上方(かみがた)あたりに遊んでいるようにしてやりたく、旅費の金も用意して来ましたので少しですがお預けします、どうぞよろしく言い含めて清吉めに与えてください。うちの人はあの通り表裏のない人で、腹の底はどうあれ必ず辛く清吉に一旦当たるに違いなく、未練げなしに叱りましょうが、その時何と清吉が言っても取り上げないのは知れたこと、傍から私が口を出しても義理は義」。
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ころを滅茶滅茶に撲たれたため一時は気絶までもしたれ、保証大したことはない由、見たくばちょっと覗いて見よ、と先に立って導く後につき行くお吉、三畳ばかりの部屋の中に一切夢で眠り居る清吉を見るに、顔も頭も膨れ上りて、このように撲ってなしたる鋭次の酷さが恨めしきまで可憫なる態なれど、済んだことの是非もなく、座に戻って鋭次に対い、我夫では必ず清吉がよけいな手出しに腹を立ち、お上人様やら十兵衛への義理をかねて酷く叱るか出入りを禁むるか何とかするでござりましょうが、元はといえば清吉が自分の意恨でしたではなし、つまりは此方のことのため、筋の違った腹立ちをついむらむらとしたのみなれば、妾はどうも我夫のするばかり
「理なら仕方ないし、かといって欲でやった過ちでもないのに男一人の寄り付く島もないようにして知らぬ顔ではどうしても私が居られません。清吉の一人の母のことは清吉さえいなければ夫にも話して助けさせるのに厭は言わせませんし、また厭というような分からないことも言いもしないでしょうから心配はないですが、私が今夜来たことや陰で清吉をいたわることは、夫へは当分内緒にしてください」。
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を見て居るわけには行かず、ことさら少しわけあって妾がどうとかしてやらねばこの胸の済まぬ仕誼もあり、それやこれやをいろいろと案じた末に浮んだは一年か半年ほど清吉に此地退かすること、人の噂も遠のいて我夫の機嫌も治ったら取り成しようは幾らもあり、まずそれまでは上方あたりに遊んで居るようしてやりたく、路用の金も調えて来ましたれば少しなれどもお預け申しまする、どうぞよろしく云い含めて清吉めに与って下さりませ、我夫はあの通り表裏のない人、腹の底にはどう思っても必ず辛く清吉に一旦あたるに違いなく、未練げなしに叱りましょうが、その時何と清吉がたとい云うても取り上げぬは知れたこと、傍から妾が口を出しても義理は義
「わかった、えらい、もう用はなかろう、お帰りお帰り、源太が大抵来るかもしれない、出くわしてはまずかろう」と愛想はないけれど真実のある言葉に、お吉は嬉しく頼みおいて帰れば、その後へ入れ違いで来る源太が清吉に言い渡したのは出入りを禁める、師弟の縁を切るとのことだった。
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理なりゃしようはなし、さりとて欲でしでかした咎でもないに男一人の寄りつく島もないようにして知らぬ顔ではどうしても妾が居られませぬ、彼が一人の母のことは彼さえいねば我夫にも話して扶助るに厭は云わせまじく、また厭というような分らぬことを云いもしますまいなれば掛念はなけれど、妾が今夜来たことやら蔭で清をばいたわることは、我夫へは当分秘密にして。
鋭次は笑って黙り、清吉は泣いて詫びたが、その夜源太が帰った後、清吉は鋭次にまた泣かせられて、「犬になっても俺は姉御夫婦の門辺を去らない」と唸った。
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わかった、えらい、もう用はなかろう、お帰りお帰り、源太が大抵来るかも知れぬ、撞見しては拙かろう、と愛想はなけれど真実はある言葉に、お吉嬉しく頼みおきて帰れば、その後へ引きちがえて来る源太、はたして清吉に、出入りを禁むる師弟の縁断るとの言い渡し。
四五日過ぎて清吉は八五郎に送られ、箱根の温泉(いでゆ)を目指して江戸を出たが、それよりたどる東海道の果てに着くのは京か大阪か、夢はいつでも江戸(東都)にあることだろう。
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鋭次は笑って黙り、清吉は泣いて詫びしが、その夜源太の帰りしあと、清吉鋭次にまた泣かせられて、狗になっても我ゃ姉御夫婦の門辺は去らぬと唸りける。
その三十
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四五日過ぎて清吉は八五郎に送られ、箱根の温泉を志して江戸を出でしが、それよりたどる東海道いたるは京か大阪の、夢はいつでも東都なるべし。
十兵衛が傷を負って帰った翌朝、いつものように早く起き出せばお浪が驚いて急に止め、「まあ滅相な、ゆっくり休んでいてください。今日は特に朝風が冷たいのに破傷風にでもなったらどうなさる。どうか寝ていてください、お湯ももうじき沸きますのでうがいも洗顔もそこで私がさせてあげましょう」と壊れた竈(へっつい)にかけた羽欠け釜の下を焚きつけながら気を揉んで言うけれど、一向平気の十兵衛は笑って「病人あしらいにされるほどのことはない、手拭だけを絞ってもらえれば顔も一人で洗ったほうが気持ちがいい」と、箍(たが)の緩んだ小盥(こだらい)にみずから水を汲み取って、別段悩んでいる様子もなく普段通りにふるまえば、お浪はあきれながら案じるに、のっそりは少しも気にせず」。
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其三十
「朝飯が終わると立ち上がり、いきなり着物を脱ぎ捨てて股引・腹掛けを着けにかかるのを「とんでもない、どこへ行かれる、いくら仕事が大事だとて昨日の今日では傷口が合いもすまいし痛みも去るまい、じっとしていて体を使わないで、細かいことはないけれど治るまでは万事慎み第一と言われたお医者様の言葉さえあるのに、無理押しして感応寺に行かれる気か。強すぎる、たとえ行ったとて働きはなるまい、行かなくても誰が咎めよう。行かないで済まないと思われるなら私がちょっと一走り、お上人様のお目にかかって三日四日の養生を直々に願ってきましょ。お慈悲深いお上人様が承知なさらない気遣いはない、必ず大切にせい軽はずみするなとおっしゃるのはわかりきったこと、さあその着物を着て家に引」。
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十兵衛傷を負うて帰ったる翌朝、平生のごとく夙く起き出づればお浪驚いて急にとどめ、まあ滅相な、ゆるりと臥んでおいでなされおいでなされ、今日は取りわけ朝風の冷たいに破傷風にでもなったら何となさる、どうか臥んでいて下され、お湯ももうじき沸きましょうほどに含嗽手水もそこで妾がさせてあげましょう、と破れ土竈にかけたる羽虧け釜の下焚きつけながら気を揉んで云えど、一向平気の十兵衛笑って、病人あしらいにされるまでのことはない、手拭だけを絞ってもらえば顔も一人で洗うたが好い気持じゃ、と箍の緩みし小盥にみずから水を汲み取りて、別段悩める容態もなく平日のごとく振舞えば、お浪は呆れかつ案ずるに、のっそり少しも頓着せず
「き籠り、せめて傷口がすっかりくっつくまで落ち着いていてください」とひたすら止めなだめ慰め、脱いだものを取ってまた着せようとすれば「余計な世話を焼かずとよし、腹掛けを着せい、これは要らぬ」と利く右手で払い退けた。
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朝食終うて立ち上り、いきなり衣物を脱ぎ捨てて股引腹掛け着けにかかるを、とんでもないことどこへ行かるる、何ほど仕事の大事じゃとて昨日の今日は疵口の合いもすまいし痛みも去るまじ、じっとしていよ身体を使うな、仔細はなけれど治癒るまでは万般要慎第一と云われたお医者様の言葉さえあるに、無理圧しして感応寺に行かるる心か、強過ぎる、たとい行ったとて働きはなるまじ、行かいでも誰が咎みょう、行かで済まぬと思わるるなら妾がちょと一走り、お上人様のお目にかかって三日四日の養生を直々に願うて来ましょ、お慈悲深いお上人様の御承知なされぬ気遣いない、かならず大切にせい軽挙すなとおっしゃるは知れたこと、さあ此衣を着て家に引
「まあそう言わずに家にいて」とまた着せようとすれば払い退ける。男は意地、女は情で言葉争いが果てしなければ、さすがにのっそりも少し怒って「わけのわからない女の考えで邪魔立てするのか、癪に障る奴め、よしよし頼まぬ一人で着る。高が知れたミミズ腫れに一日なりとも仕事を休んで職人どもの上に立てるか。お前はちっとも知るまいが、この十兵衛はおろかで馬鹿と常々言われる身ゆえに職人どもが軽く見て、目の前ではわが指図に従い働くようだが、陰では勝手に怠けるやら悪口言うやら散々茶にしていて、表面こそ取り繕え、誰一人真実に仕事をよくしようという意気込みを持ってしてくれる者はない。ええ情けない、どうかして見せかけでなしに骨を折ってもらいたい、仕事に」。
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っ籠み、せめて疵口のすっかり密着くまで沈静いていて下され、とひたすらとどめ宥め慰め、脱ぎしをとってまた被すれば、よけいな世話を焼かずとよし、腹掛け着せい、これは要らぬ、と利く右の手にて撥ね退くる。
「活気をもらいたいと諭せば頭は下げながら横向いて鼻で笑われ、叱れば口で謝られて顔色に怒られ、つくづく我を折って下手に出ればすぐと増長される口惜しさ悲しさ辛さ、毎日毎日棟梁棟梁と大勢に立てられるのは立派でよいけれど腹の中では泣きたいようなことばかり、いっそ穴掘りで引っ使われたほうが楽だと思うくらい、その中でどうにかこうにかここまで進めてきたのに今日休んでは大事のつまずき。胸が痛いから早帰りします、頭痛がするので遅くなりましたと皆に怠けられるのは間違いない。その時自分が休んでいれば何も一言も言いようがなく、仕事が雨垂れ拍子になってできるものもし損なう道理、万が一にも失敗してはお上人様・源太親方に十兵衛の顔が向け」。
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まあそう云わずと家にいて、とまた打ち被する、撥ね退くる、男は意気地女は情、言葉あらそい果てしなければさすがにのっそり少し怒って、わけの分らぬ女の分で邪魔立てするか忌々しい奴、よしよし頼まぬ一人で着る、高の知れたる蚯蚓膨れに一日なりとも仕事を休んで職人どもの上に立てるか、汝はちっとも知るまいがの、この十兵衛はおろかしくて馬鹿と常々云わるる身ゆえに職人どもが軽う見て、眼の前ではわが指揮に従い働くようなれど、蔭では勝手に怠惰るやら譏るやらさんざんに茶にしていて、表面こそ粧え誰一人真実仕事をよくしょうという意気組持ってしてくるるものはないわ、ええ情ない、どうかして虚飾でなしに骨を折ってもらいたい、仕事
「られようか。生きても塔ができなければ、この十兵衛は死んだ同然。死んでも仕事を成し遂げれば、お前の夫は生きているというものだ。二寸三寸の釿(ちょうな)傷に寝ていられるかいられないか。破傷風が恐ろしいか、仕事のできないのが恐ろしいか。たとえ片腕を取られたとて一切成就の暁(あかつき)までは駕籠(かご)に乗っても行かずにはいない。ましてやこれしきのミミズ腫れに」と言いつつお浪の手中から奪い取った腹掛けに左手を通そうとして顔をしかめるのを見るに女房も争えず、争い負けて傷をいたわり、ついに半天・股引まで着せて出した心の中は、何とも口には言いがたかった。
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に膏を乗せてもらいたいと、諭せば頭は下げながら横向いて鼻で笑われ、叱れば口に謝罪られて顔色に怒られ、つくづく我折って下手に出ればすぐと増長さるる口惜しさ悲しさ辛さ、毎日毎日棟梁棟梁と大勢に立てられるは立派でよけれど腹の中では泣きたいようなことばかり、いっそ穴鑿りで引っ使われたほうが苦しゅうないと思うくらい、その中でどうかこうか此日まで運ばして来たに今日休んでは大事の躓き、胸が痛いから早帰りします、頭痛がするで遅くなりましたと皆に怠惰られるは必定、その時自分が休んで居れば何と一言云いようなく、仕事が雨垂れ拍子になってできべきものも仕損う道理、万が一にも仕損じてはお上人様源太親方に十兵衛の顔が向け
十兵衛はよもや来はしまいと思い合っていた職人ども、ちらりほらりと辰の刻(朝八時)ごろより来て見てびっくりした途端、「精出してくれるのは嬉しいぞ」との一言を十兵衛から受けて皆冷や汗をかいたが、これより一同励み勤め昨日と変わる身のこなし。一を聞いては三まで働き、二と言われれば四まで動けば、のっそりは片腕の用を欠いてかえって多くの腕を得て日々工事が捗(はかど)り、肩の傷が治るころには大抵塔も出来上がっていた。
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らりょうか、これ、生きても塔ができねばな、この十兵衛は死んだ同然、死んでも業をし遂げれば汝が夫は生きて居るわい、二寸三寸の手斧傷に臥て居られるか居られぬか、破傷風が怖ろしいか仕事のできぬが怖ろしいか、よしや片腕奪られたとて一切成就の暁までは駕籠に乗っても行かではいぬ、ましてやこれしきの蚯蚓膨れに、と云いつつお浪が手中より奪いとったる腹掛けに、左の手を通さんとして顰むる顔、見るに女房の争えず、争いまけて傷をいたわり、ついに半天股引まで着せて出しける心の中、何とも口には云いがたかるべし。
その三十一
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十兵衛よもや来はせじと思い合うたる職人ども、ちらりほらりと辰の刻ころより来て見てびっくりする途端、精出してくるる嬉しいぞ、との一言を十兵衛から受けて皆冷汗をかきけるが、これより一同励み勤め昨日に変る身のこなし、一をきいては三まで働き、二と云われしには四まで動けば、のっそり片腕の用を欠いてかえって多くの腕を得つ日々工事捗取り、肩疵治るころには大抵塔もできあがりぬ。
時は一月の末ごろ、のっそり十兵衛が辛苦して経営した甲斐あって、感応寺生雲塔はいよいよ見事に出来上がり、だんだんと足場を取り除けば次第次第に現れる一階また一階また一階、五重に高々とそびえるさまは、金剛力士が悪の軍勢を睥睨(へいげい)して十六丈の姿を現し大地を踏み鳴らして岩の上に突っ立ったごとく、天晴れ立派に建ったかな、ああ快よき細工ぶりかな、めったにないことだ、また見ることはあるまいと為右衛門から門番まで、最初のっそりを軽く見ていたことは忘れて讃嘆すれば、円道はじめ一山(いっさん)の僧たちも飛び上がって喜び、「これでこそ感応寺の五重塔なれ、ああ嬉しや、我らが頼む師は当世に肩を並べる人もなく、超えた智識の中にも並ぶ者なし、とりわけ絶類抜」。
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其三十一
「群で、例えれば獅子王・孔雀王、我らが頼むこの寺の塔も絶類抜群にて、奈良や京都はいざ知らず上野・浅草・芝山内、江戸でこの塔に勝るものなし。とくに埋もれて光も放たず終わるはずだった男を拾い上げ、心の宝珠の輝きを世に出された師の美徳、困苦にたゆまず知己(ちき)に報いてついにやり遂げた十兵衛の頼もしさ、面白くも美わしき不思議な縁ではないか。天のなせしか人のなせしか、はたまた諸天善神の陰で操られたのか、落成の式があれば我は詩を作ろう、文を書こう、歌をよみ詩を作り褒め讃えようと各々互いに語り合ったのは欲だけでない人情の、やさしくも殊勝なるに引き替えて、測りがたいのは天の心で、円道・為右衛門二人の計らいとして盛大な落成式執行の日もほぼ定まり、その日は身分の上下・男女の見物を許し貧者に金を施し、十兵衛その他をねぎらい賞する一方では、また音楽を奏して珍しい塔供養があるはずで準備が始まっていた最中、夜半の鐘の音が曇って普段とは違うように耳に聞えたのがそもそもの始まりで、だんだんと怪しい風が吹き出して、眠っている子どもも知らず夜具を踏み脱ぐほど生暖かくなるにつれ、雨戸のがたつく響きが激しくなってきた。
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時は一月の末つ方、のっそり十兵衛が辛苦経営むなしからで、感応寺生雲塔いよいよものの見事に出来上り、だんだん足場を取り除けば次第次第に露わるる一階一階また一階、五重巍然と聳えしさま、金剛力士が魔軍を睥睨んで十六丈の姿を現じ坤軸動がす足ぶみして巌上に突っ立ちたるごとく、天晴れ立派に建ったるかな、あら快よき細工振りかな、希有じゃ未曽有じゃまたあるまじと為右衛門より門番までも、初手のっそりを軽しめたることは忘れて讃歎すれば、円道はじめ一山の僧徒も躍りあがって歓喜び、これでこそ感応寺の五重塔なれ、あら嬉しや、我らが頼む師は当世に肩を比すべき人もなく、八宗九宗の碩徳たち虎豹鶴鷺と勝ぐれたまえる中にも絶類抜
闇の中でもみくちゃにされる松柏(しょうはく)の梢に天魔の叫びがものすごく聞こえ、「人の心の平和を奪え、浮世の栄華に誇る者どもの肝(きも)を破れや、眠りを乱せや、愚か者の胸に血の波を打たせよ、偽り者の顔の赤い色を奪え、斧持てる者は斧を振るえ、矛持てる者は矛を振るえ、お前たちの鋭い剣は飢えている、剣に食を与えよ、人の膏血(あぶら)はよき食だ、お前たち剣にあくまで食わせよ、あくまで人の膏脂(あぶら)を餌にせよ」と号令厳しく発するや否や、猛風一陣どっと起こって、斧を持つ夜叉・矛を持てる夜叉・飢えた剣を持てる夜叉が皆一斉に暴れ出した。
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群にて、譬えば獅子王孔雀王、我らが頼むこの寺の塔も絶類抜群にて、奈良や京都はいざ知らず上野浅草芝山内、江戸にて此塔に勝るものなし、ことさら塵土に埋もれて光も放たず終るべかりし男を拾いあげられて、心の宝珠の輝きを世に発出されし師の美徳、困苦に撓まず知己に酬いてついにし遂げし十兵衛が頼もしさ、おもしろくまた美わしき奇因縁なり妙因縁なり、天のなせしか人のなせしかはたまた諸天善神の蔭にて操りたまいしか、屋を造るに巧妙なりし達膩伽尊者の噂はあれど世尊在世の御時にもかく快きことありしをいまだきかねば漢土にもきかず、いで落成の式あらば我偈を作らん文を作らん、我歌をよみ詩を作して頌せん讃せん詠ぜん記せんと、お
夜半の夢を覚まされた江戸四里四方の老若男女が「悪風が来た」と驚き騒ぎ、雨戸の横桟(よこざん)をしっかりと挿し、頑張り棒を強く張れと家々ごとに慌てているのを、哀れとも見ない飛天夜叉王が怒号の声で「お前たち人を憚(はばか)るな、お前たち人間に憚られよ、人間は我らを軽んじた、長く我らを賤しんだ、我らに捧げるべき定めの生け贄(にえ)を忘れた、這う代わりに立って行く犬、驕りの塒(ねぐら)を作る鳥、尻尾のない猿、物言う蛇、誠実がない狐の子、汚れを知らない豚の女め、彼らに長く侮られていつまで忍び得よう、我らをいつまで侮らせて彼らをいつまで誇らせておくべきや、忍ぶべきだけ忍んだ、誇らすべきだけ誇らせた、六十四年はすでに過ぎた、我らを縛した機運の鉄の鎖も、我ら」。
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のおの互いに語り合いしは欲のみならぬ人間の情の、やさしくもまた殊勝なるに引き替えて、測りがたきは天の心、円道為右衛門二人が計らいとしていと盛んなる落成式執行の日もほぼ定まり、その日は貴賤男女の見物をゆるし貧者に剰れる金を施し、十兵衛その他を犒らい賞する一方には、また伎楽を奏して世に珍しき塔供養あるべきはずに支度とりどりなりし最中、夜半の鐘の音の曇って平日には似つかず耳にきたなく聞えしがそもそも、漸々あやしき風吹き出して、眠れる児童も我知らず夜具踏み脱ぐほど時候生暖かくなるにつれ、雨戸のがたつく響き烈しくなりまさり、闇に揉まるる松柏の梢に天魔の号びものすごくも、人の心の平和を奪え平和を奪え、浮世
「らを囚えた慈忍の岩窟も神力でちぎり捨て崩れさせた、汝ら暴れよ今こそ暴れよ、何十年の恨みの毒を彼らに返せ一時に返せ、彼らの驕りの臭さを宇宙の果てに掴んで捨てよ、彼らの頭を地につかしめよ、無慈悲の斧の刃味のよさを彼らの胸に試みよ、残酷の矛、怒りの剣で彼らを屑にしてくれよ、彼らの喉に氷を与えて苦寒に震えさせよ、彼らの胆に針を与えて秘密の痛みに堪えさせよ、彼らの目の前で彼らが作った多くの子孫を殺して、おもちゃへの思いを嘆きの灰の河に埋めよ、彼らは蚕(かいこ)の家を奪った、汝ら彼らの家を奪え、彼らは蚕の知恵を笑った、汝ら彼らの知恵を讃せよ、彼らの巧みとおもう知恵を讃せよ、大きいとおもう意を讃せよ、美しいとみずからおもう情を讃せよ、協えりとなす理を讃せよ、強しとなせる力を讃せよ、すべては我らの矛の餌、剣の餌、斧の餌なれば、讃して後に武器に餌い、よき餌を作った彼らを笑え、嬲(なぶ)られるだけ彼らを嬲れ、急に屠(ほふ)るな嬲り殺せ、生かしながらに一枚一枚皮を剥ぎ取れ、肉を剥ぎ取れ、彼らの心臓を鞠(まり)として蹴よ、荊棘(からたち)で背を鞭打てよ、嘆息の息・涙の水・動悸(どうき)の血の音・悲鳴の声、それらをすべて人間より取れ、残忍の他に快楽なし、酷烈でなければ汝ら速く死ね、暴れよ進めよ、無法に住して放逸無残に無理無体に暴れ立て暴れ立て進め進め、神とも戦え仏をも叩け、道理を壊して壊り捨てれば天下は我らのものぞ」と
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の栄華に誇れる奴らの胆を破れや睡りを攪せや、愚物の胸に血の濤打たせよ、偽物の面の紅き色奪れ、斧持てる者斧を揮え、矛もてるもの矛を揮え、汝らが鋭き剣は餓えたり汝ら剣に食をあたえよ、人の膏血はよき食なり汝ら剣にあくまで喰わせよ、あくまで人の膏膩を餌えと、号令きびしく発するや否、猛風一陣どっと起って、斧をもつ夜叉矛もてる夜叉餓えたる剣もてる夜叉、皆一斉に暴れ出しぬ。
その三十二
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其三十二
叱咤するたびに土石を飛ばして丑(うし)の刻(午前二時)から寅(とら)の刻、卯(う)となり辰(たつ)となっても少しも止まず励ましたてれば、数万の眷属(けんぞく・従者)が勇みをなし、水を渡るのは波を蹴返し、陸を走るのは砂を蹴返し、天地を埃で黄ばませて日の光さえほとんど覆い、斧を振って松を豪快に斬るものあり、矛を舞わして板屋根にたちまち穴を穿つ(うがつ)ものあり、ゆさゆさゆさと怪力でいかにも堅固な家を動かし橋を揺さぶるものもあった。
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長夜の夢を覚まされて江戸四里四方の老若男女、悪風来たりと驚き騒ぎ、雨戸の横柄子しっかと揷せ、辛張り棒を強く張れと家々ごとに狼狽ゆるを、可愍とも見ぬ飛天夜叉王、怒号の声音たけだけしく、汝ら人を憚るな、汝ら人間に憚られよ、人間は我らを軽んじたり、久しく我らを賤しみたり、我らに捧ぐべきはずの定めの牲を忘れたり、這う代りとして立って行く狗、驕奢の塒巣作れる禽、尻尾なき猿、物言う蛇、露誠実なき狐の子、汚穢を知らざる豕の女、彼らに長く侮られてついにいつまで忍び得ん、我らを長く侮らせて彼らをいつまで誇らすべき、忍ぶべきだけ忍びたり誇らすべきだけ誇らしたり、六十四年はすでに過ぎたり、我らを縛せし機運の鉄鎖、我
「手ぬるし手ぬるし、酷さが足らぬ、我に続け」と憤怒(ふんぬ)の牙を噛み鳴らしつつ夜叉王が躍り上って焦れば、虚空に充ち満ちた眷属がおたけびを鋭く叫んでやたら無法に暴威を振るうほどに、神前・寺内に立てる木も富家の庭で育てられた木も、声振り絞って泣き悲しみ、見る見る大地の毛は恐怖に一々逆立ちとなって柳は倒れ竹は割れた。折しも黒雲が空に流れて樫の実よりも大きな雨がばらりばらりと降り出せば、得たりとますます暴れる夜叉が垣を引き捨て塀(へい)を蹴倒し、門をも壊し屋根をもめくり、軒端の瓦を踏み砕き、ただ一揉みに屑屋を飛ばし二揉み揉んでは二階をねじ取り、三たび揉んでは某寺(なにがしでら)をものの見事に潰し崩し、どうどうどっと鬨(とき)の声を上げるそのたびごとに心を冷やし」。
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らを囚えし慈忍の岩窟はわが神力にてちぎり棄てたり崩潰さしたり、汝ら暴れよ今こそ暴れよ、何十年の恨みの毒気を彼らに返せ一時に返せ、彼らが驕慢の気の臭さを鉄囲山外に攫んで捨てよ、彼らの頭を地につかしめよ、無慈悲の斧の刃味のよさを彼らが胸に試みよ、惨酷の矛、瞋恚の剣の刃糞と彼らをなしくれよ、彼らが喉に氷を与えて苦寒に怖れ顫かしめよ、彼らが胆に針を与えて秘密の痛みに堪えざらしめよ、彼らが眼前に彼らが生したる多数の奢侈の子孫を殺して、玩物の念を嗟歎の灰の河に埋めよ、彼らは蚕児の家を奪いぬ汝ら彼らの家を奪えや、彼らは蚕児の知恵を笑いぬ汝ら彼らの知恵を讃せよ、すべて彼らの巧みとおもえる知恵を讃せよ、大とおも
「胸を騒がす人々の、あれを心配しこれを案じる様子を見ては喜び、居場所さえなくされて悲しむ者を見ては喜び、いよいよ図に乗って乱暴のあらん限りを尽くせば、江戸八百八町百万の人が皆生きた心地もせず顔色さえなかった。
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える意を讃せよ、美わしとみずからおもえる情を讃せよ、協えりとなす理を讃せよ、剛しとなせる力を讃せよ、すべては我らの矛の餌なれば、剣の餌なれば斧の餌なれば、讃して後に利器に餌い、よき餌をつくりし彼らを笑え、嬲らるるだけ彼らを嬲れ、急に屠るな嬲り殺せ、活かしながらに一枚一枚皮を剥ぎ取れ、肉を剥ぎとれ、彼らが心臓を鞠として蹴よ、枳棘をもて背を鞭てよ、歎息の呼吸涙の水、動悸の血の音悲鳴の声、それらをすべて人間より取れ、残忍のほか快楽なし、酷烈ならずば汝ら疾く死ね、暴れよ進めよ、無法に住して放逸無慚無理無体に暴れ立て暴れ立て進め進め、神とも戦え仏をも擲け、道理を壊って壊りすてなば天下は我らがものなるぞと
その中でも特に驚いたのは円道・為右衛門で、せっかくわずかに出来上がったばかりの五重塔は揉まれ揉まれて九輪は揺れ、頂上の宝珠は空に読めない字を書き、岩をも転ばすべき風が突っかかってくるたびに、楯をも貫くべき雨がぶつかってくるたびにたわむ姿、木の軋(きし)む音、また揺れもどる姿、また軋む音、今にも傾(かたむ)き倒れそうな様子に「あれあれ危ない、仕方はないか、傾倒されては大事だ。止める術もないのか。雨さえ加わってきた上に周りに木もなければ、未曽有の風に土台が狭くて丈のみ高いこの塔がもちこたえることができるかどうかおぼつかない。本堂さえもここまで動けば塔はどれほどか。風を止める呪文はきかないか。こんなに恐ろしい大暴風雨に見舞いに来るはずの源太は見えないか、まだ新しい出入りだとて重」。
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、叱咜するたび土石を飛ばして丑の刻より寅の刻、卯となり辰となるまでもちっとも止まず励ましたつれば、数万の眷属勇みをなし、水を渡るは波を蹴かえし、陸を走るは沙を蹴かえし、天地を塵埃に黄ばまして日の光をもほとほと掩い、斧を揮って数寄者が手入れ怠りなき松を冷笑いつつほっきと斫るあり、矛を舞わして板屋根にたちまち穴を穿つもあり、ゆさゆさゆさと怪力もてさも堅固なる家を動かし橋を揺がすものもあり。
「々来ては失礼と思う十兵衛は見えないか怠け者め、他の人でさえこれほど心配しているのに自分がした塔を気にかけないのか、あれあれ危しまたたわんだわ、誰か十兵衛を呼びに行け」と言えど、天に瓦が飛び板が飛び、地上に砂利の舞う中を行こうというものはなく、ようやく賞美の金に飽かして掃除人の七蔵じじいを出した。
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手ぬるし手ぬるし酷さが足らぬ、我に続けと憤怒の牙噛み鳴らしつつ夜叉王の躍り上って焦躁てば、虚空に充ち満ちたる眷属、おたけび鋭くおめき叫んで遮に無に暴威を揮うほどに、神前寺内に立てる樹も富家の庭に養われし樹も、声振り絞って泣き悲しみ、見る見る大地の髪の毛は恐怖に一々竪立なし、柳は倒れ竹は割るる折しも、黒雲空に流れて樫の実よりも大きなる雨ばらりばらりと降り出せば、得たりとますます暴るる夜叉、垣を引き捨て塀を蹴倒し、門をも破し屋根をもめくり軒端の瓦を踏み砕き、ただ一揉みに屑屋を飛ばし二揉み揉んでは二階を捻じ取り、三たび揉んでは某寺をものの見事に潰し崩し、どうどうどっと鬨をあぐるそのたびごとに心を冷や
その三十三
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し胸を騒がす人々の、あれに気づかいこれに案ずる笑止の様を見ては喜び、居所さえもなくされて悲しむものを見ては喜び、いよいよ図に乗り狼藉のあらん限りを逞しゅうすれば、八百八町百万の人みな生ける心地せず顔色さらにあらばこそ。
老いた頭巾に首を包んでその上に雨を防ごうと竹の皮笠を引き被り、鳶子合羽(とんびがっぱ)に胴締めして手ごろな杖を持ち、怖ごわながら烈風強雨の中を駆け抜けた七蔵じじい、ようやく十兵衛の家にたどり着くと、これはまたひどい有様で、屋根の半分はもうとっくに風に奪われて見るからも気の毒な親子三人の有様で、隅の方に固まり合って天井から落ちてくる雫(しずく)の飛沫(しぶき)を古い筵(ござ)でわずかに避けていた。「さてものっそりは気の利かない男」とあきれ果てつつ「これ棟梁殿、この暴風雨にそうしていては済まない、瓦が飛ぶ、樹が折れる。外はまるで戦争のような騒ぎの中に、あなたの建てられたあの塔はどうなるかと思われますぞ。丈は高し周りに物はなし土台は狭し、どの方角から吹く風もまとも」。
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中にもわけて驚きしは円道為右衛門、せっかくわずかに出来上りし五重塔は揉まれ揉まれて九輪は動ぎ、頂上の宝珠は空に得読めぬ字を書き、岩をも転ばすべき風の突っかけ来たり、楯をも貫くべき雨のぶつかり来るたび撓む姿、木の軋る音、復る姿、また撓む姿、軋る音、今にも傾覆らんず様子に、あれあれ危し仕様はなきか、傾覆られては大事なり、止むる術もなきことか、雨さえ加わり来たりし上周囲に樹木もあらざれば、未曽有の風に基礎狭くて丈のみ高きこの塔の堪えんことのおぼつかなし、本堂さえもこれほどに動けば塔はいかばかりぞ、風を止むる呪文はきかぬか、かく恐ろしき大暴風雨に見舞いに来べき源太は見えぬか、まだ新しき出入りなりとて重
「に受けて揺れるわ揺れるわ、旗竿(はたざお)ほどにたわんでは木の軋む音のものすごさ、今にも倒れるか壊れるかと、円道様も為右衛門様も肝を冷やしたり縮めたりして気が気でなく心配しておられるのに、普段ならば迎えなど受けずともこの天変を知らぬ顔では済まないあなたが出ても来ないとはあんまりな大それた話、あなたのお蔭で危険な使いを言いつかって、腹立たしいこのこぶを見てくれ、笠は吹き攫(さら)われるわずぶ濡れにはなるわ、おまけに木片(きぎれ)が飛んできて額にぶつかってきたぞ、いい面の皮とは俺のこと、さあさあ一緒に来てくれ来てくれ、為右衛門様・円道様が連れてこいとのご命令だ、ええびっくりした、雨戸が飛んでいってしまったのか、これだから塔が持ちこたえるものか、話しする間に」。
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々来ではかなわざる十兵衛見えぬか寛怠なり、他さえかほど気づかうに己がせし塔気にかけぬか、あれあれ危しまた撓んだわ、誰か十兵衛招びに行け、といえども天に瓦飛び板飛び、地上に砂利の舞う中を行かんというものなく、ようやく賞美の金に飽かして掃除人の七蔵爺を出しやりぬ。
「もう倒れたか折れたか知れぬ、ぐずぐずせず身支度せい、はやくはやく」と急き立てれば、傍から女房も心配げに「出て行かれるなら途中が危ない、腐ってもあの火事頭巾、あれを出しましょ被っておいでなさい。何が飛んでくるか知れたものでなし、見た目よりも身が大切、いくらぼろでも仕方ない、刺し子の半纏(はんてん)も上に被っておいでなさい」と戸棚をがたがた開けにかかるのを、十兵衛は不機嫌な目でじっと見ながら、「ああ、構ってくれなくてもよい、出ては行かぬわ。風が吹いたとて騒ぐには及ばぬ。七蔵殿ご苦労でございましたが塔は大丈夫倒れません。なんのこれほどの暴風雨で倒れたり折れたりするようなもろいものではございませぬれば、十兵衛が出かけてまいるにも及びま」。
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其三十三
「せぬ。円道様にも為右衛門様にもそう言って下され。大丈夫、大丈夫でございます」と落ち着いて身動きもせず答えれば、七蔵は少し膨れ面(つら)して「まあともかくも一緒に来てくれ、来て見るがよい、あの塔のゆさゆさきちきちと動くさまを。ここにいて目に見なければこそ威張っていられるが、御開帳の幟(のぼり)のように頭を振っているさまを見たなら、いくら十兵衛殿が大様(おうよう)な気性でも、お気の毒ながら魂がふわりふわりとなるだろう。陰で強いのが役にはたたぬ。さあさあ一緒に来たり来たり、それまた吹くわ、ああ恐ろしい、なかなか止みそうにもない風の景色、円道様も為右衛門様も定めし肝を煎っておられるじゃろ、さっさと頭巾なり半纏なり被るとも着るとも」。
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耄碌頭巾に首をつつみてその上に雨を凌がん準備の竹の皮笠引き被り、鳶子合羽に胴締めして手ごろの杖持ち、恐怖ながら烈風強雨の中を駈け抜けたる七蔵爺、ようやく十兵衛が家にいたれば、これはまた酷いこと、屋根半分はもうとうに風に奪られて見るさえ気の毒な親子三人の有様、隅の方にかたまり合うて天井より落ち来る点滴の飛沫を古筵でわずかに避け居る始末に、さてものっそりは気に働らきのない男と呆れ果てつつ、これ棟梁殿、この暴風雨にそうして居られては済むまい、瓦が飛ぶ樹が折れる、戸外はまるで戦争のような騒ぎの中に、汝の建てられたあの塔はどうあろうと思わるる、丈は高し周囲に物はなし基礎は狭し、どの方角から吹く風をも正面
「してでかけなさい」とやり返した。
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に受けて揺れるわ揺れるわ、旗竿ほどに撓んではきちきちと材の軋る音の物凄さ、今にも倒れるか壊れるかと、円道様も為右衛門様も胆を冷やしたり縮ましたりして気が気ではなく心配して居らるるに、一体ならば迎いなど受けずともこの天変を知らず顔では済まぬ汝が出ても来ぬとはあんまりな大勇、汝のお蔭で険難な使いをいいつかり、忌々しいこの瘤を見てくれ、笠は吹き攫われるずぶ濡れにはなる、おまけに木片が飛んで来て額にぶつかりくさったぞ、いい面の皮とは我がこと、さあさあ一所に来てくれ来てくれ、為右衛門様円道様が連れて来いとの御命令だわ、ええびっくりした、雨戸が飛んで行てしもうたのか、これだもの塔が堪るものか、話しする間に
「大丈夫でございます、御安心なさってお帰り」と突っ張ねた。
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ももう倒れたか折れたか知れぬ、ぐずぐずせずと身支度せい、はやくはやくと急り立つれば、傍から女房も心配げに、出て行かるるなら途中が危険い、腐ってもあの火事頭巾、あれを出しましょ冠っておいでなされ、何が飛んで来るか知れたものではなし、外見よりは身が大切、いくら襤褸でも仕方ない刺子絆纏も上に被ておいでなされ、と戸棚がたがた明けにかかるを、十兵衛不興げの眼でじっと見ながら、ああ構うてくれずともよい、出ては行かぬわ、風が吹いたとて騒ぐには及ばぬ、七蔵殿御苦労でござりましたが塔は大丈夫倒れませぬ、なんのこれほどの暴風雨で倒れたり折れたりするような脆いものではござりませねば、十兵衛が出かけてまいるにも及びま
「その安心がそう手易(たやす)くはできないわ」とうるさく言った。
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せぬ、円道様にも為右衛門様にもそう云うて下され、大丈夫、大丈夫でござります、と泰然はらって身動きもせず答うれば、七蔵少し膨れ面して、まあともかくも我と一緒に来てくれ、来て見るがよい、あの塔のゆさゆさきちきちと動くさまを、ここにいて目に見ねばこそ威張って居らるれ、御開帳の幟のように頭を振って居るさまを見られたらなんぼ十兵衛殿寛濶な気性でも、お気の毒ながら魂魄がふわりふわりとならるるであろう、蔭で強いのが役にはたたぬ、さあさあ一所に来たり来たり、それまた吹くわ、ああ恐ろしい、なかなか止みそうにもない風の景色、円道様も為右衛門様も定めし肝を煎っておらるるじゃろ、さっさと頭巾なり絆纏なり冠るとも被ると
「大丈夫でございます」と同じことを言った。
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もして出かけさっしゃれ、とやり返す。
末には七蔵が焦れこんで「なんでもかでも来いと言ったら来い、俺の言葉と思ったら違うぞ、円道様・為右衛門様のご命令じゃ」と語気があらくなれば十兵衛も少しむっとして、「私は円道様・為右衛門様から五重塔建ていとは命じられておりません。お上人様は定めし風が吹いたからとて十兵衛呼べとはおっしゃりますまい、そのような情けないことを言って下さりますまい。もしもお上人様までが塔が危ないぞ十兵衛呼べとおっしゃるようになれば、十兵衛一期(いちご)の大事、死ぬか生きるかの瀬戸に乗りかかる時、天命を覚悟して駆けつけましょうなれど、お上人様が一言半句十兵衛の細工をお疑いにならない以上は何の心配もなし。余の人たちが何を言われようと、紙を材木にして仕事もせ」。
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大丈夫でござりまする、御安心なさってお帰り、と突っぱねる。
「ず魔術も手抜きもしていない十兵衛、晴れの日と同じく雨の降る日も風の夜も楽々としております。暴風雨が恐いものでもなければ地震が恐くもございません、と円道様に言って下され」と愛想なく言い切ったので、七蔵は仕方なく風雨の中を駆け抜けて感応寺に帰り着いて円道・為右衛門にこの旨を伝えると、「さてもその場に臨んでの知恵のない奴め、なぜその時に上人様が十兵衛来いとの仰せじゃとは言わぬ。あれあれあの揺れる様を見よ。お前まで十兵衛にかぶれてだらしなさすぎる了簡じゃ、是非はない、もう一度行って上人様のお言葉じゃと欺き、文句言わせず連れてこい」と円道に激しく叱られ、腹立たしくつぶやきながら七蔵はふたたび寺門を出た。
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その安心がそう手易くはできぬわい、とうるさく云う。
その三十四
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大丈夫でござりまする、と同じことをいう。
「さあ十兵衛、今度は是非に来い、四の五の言わせぬ、上人様のお召しじゃぞ」と七蔵じじいがいきり立って門口から怒鳴れば、十兵衛はそれを聞くや身を起して「なにあの、上人様のお召しなさるとか、七蔵殿それは本当でございますか。ああ情けない、どれほど風が強くとも頼みきっていたお上人様までが、この十兵衛が命をかけて建てたものをもろくも壊れるかのように思し召されたか、口惜しい。世界で俺を慈悲の眼で見てくださる唯一の神とも仏ともおもっていたお上人様にも、真底からは俺の腕をたしかとは思われなかったか。つくづく頼もしくない世間だ。もう十兵衛の生き甲斐なし。たまたま当世に並びない尊い智識(ちしき)に知られたのをこれ一生の面目とおもって空(あだ)に喜んでいたのも、真にはかないしばしの夢」。
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末には七蔵焦れこんで、なんでもかでも来いというたら来い、我の言葉とおもうたら違うぞ円道様為右衛門様の御命令じゃ、と語気あらくなれば十兵衛も少し勃然として、我は円道様為右衛門様から五重塔建ていとは命令かりませぬ、お上人様は定めし風が吹いたからとて十兵衛よべとはおっしゃりますまい、そのような情ないことを云うては下さりますまい、もしもお上人様までが塔危いぞ十兵衛呼べと云わるるようにならば、十兵衛一期の大事、死ぬか生きるかの瀬門に乗っかかる時、天命を覚悟して駈けつけましょうなれど、お上人様が一言半句十兵衛の細工をお疑いなさらぬ以上は何心配のこともなし、余の人たちが何を云わりょうと、紙を材にして仕事もせ
「嵐の風のそよと吹けば丹誠凝らしたあの塔も倒れやしないかと疑われるとは、ええ腹の立つ、泣きたいような。それほど俺は腑のない奴か。恥をも知らぬ奴と見えるか。自分がした仕事が恥辱を受けてものめのめ顔を拭って生きているような男と見られるのか。たとえばあの塔が倒れた時、生きていようか生きたいと思うか。ええ口惜しい、腹の立つ、お浪、それほど俺が卑しいだろうか。ああ命ももういらない、わが身にも愛想が尽きた。この世界から見放された十兵衛は生きているだけ恥辱をかく苦しみを受ける。ええいっそのこと、塔も倒れよ、暴風雨もこの上激しくなれ。少しなりともあの塔に損じのできてくれればよいが。空吹く」。
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ず魔術も手抜きもしていぬ十兵衛、天気のよい日と同じことに雨の降る日も風の夜も楽々としておりまする、暴風雨が怖いものでもなければ地震が怖うもござりませぬと円道様にいうて下され、と愛想なく云い切るにぞ、七蔵仕方なく風雨の中を駈け抜けて感応寺に帰りつき円道為右衛門にこのよし云えば、さてもその場に臨んでの知恵のない奴め、なぜその時に上人様が十兵衛来いとの仰せじゃとは云わぬ、あれあれあの揺るる態を見よ、汝までがのっそりに同化れて寛怠過ぎた了見じゃ、是非はない、も一度行って上人様のお言葉じゃと欺誑り、文句いわせず連れて来い、と円道に烈しく叱られ、忌々しさに独語きつつ七蔵ふたたび寺門を出でぬ。
「風も地を打つ雨も人間ほど俺には情けなくはないから、塔が破壊されても倒されても喜びこそすれ恨みはしない。板一枚吹きめくられても釘一本抜けるとも、味気ない世に未練はもたないからものの見事に死んでやって、十兵衛という馬鹿者は自分の仕事のてぬかりから恥辱を受けても命惜しさに生きながらえているような卑劣な奴ではなかったか、かかる心を持っていたかと責めては後に弔われよう。一度はどうせ捨てる命の、捨て処よし捨て時よし。仏寺を汚すは恐れあるが自分が建てたものが壊れたならばその場を一歩も立ち去り得ない。諸仏菩薩もお許しあれ。生雲塔の頂上から直ちに飛んで身を捨てよう。投げる五尺の体は潰れて醜かろうが汚いものは入っていない、あわれ男の」。
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其三十四
「純粋な、清浄の血を流すなれば哀れとも照覧あれ」と思ったのやら思わなかったのやら十兵衛自身も半分知らないまま、夢路をいつのまにかたどり、七蔵ともどこかで別れて、ここはどこか、おお、それが、その塔なのだった。
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さあ十兵衛、今度は是非に来よ四の五のは云わせぬ、上人様のお召しじゃぞ、と七蔵爺いきりきって門口から我鳴れば、十兵衛聞くより身を起して、なにあの、上人様のお召しなさるとか、七蔵殿それは真実でござりまするか、ああなさけない、何ほど風の強ければとて頼みきったる上人様までが、この十兵衛の一心かけて建てたものを脆くも破壊るるかのように思し召されたか口惜しい、世界に我を慈悲の眼で見て下さるるただ一つの神とも仏ともおもうていた上人様にも、真底からはわが手腕たしかと思われざりしか、つくづく頼もしげなき世間、もう十兵衛の生き甲斐なし、たまたま当時に双びなき尊き智識に知られしを、これ一生の面目とおもうて空に悦びし
よじ登り切った第五層の戸を押し開けて今しもぬっと十兵衛が半身を現せば、礫(こいし)を投ぐるような激しい雨が目も開けさせず顔を打ち、残った一つの耳までもちぎらんばかりに猛風が息さえさせずに吹きかけてくるのに、思わず一足退いたが屈せず奮って立ち出て、欄干を握ってきっと睨めば空は五月の闇より黒く、ただごうごうたる風の音のみ宇宙に充ちて物騒がしく、さしも堅固な塔なれど虚空に高くそびえているので、どうどうどっと風の来るたびに揺らめき動いて、荒波の上に揉まれる底なし小舟があわや傾覆(くつがえ)らんような風情(ふぜい)で、さすが覚悟を極めていたものの今さらに思われて、一期の大事・死生の岐路(ちまた)と八万四千の身の毛をよだたせ、牙を噛みしめ目を見張り「いざその時は」と手にしてきた六分鑿(ろくぶのみ)の
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も真にはかなきしばしの夢、嵐の風のそよと吹けば丹誠凝らせしあの塔も倒れやせんと疑わるるとは、ええ腹の立つ、泣きたいような、それほど我は腑のない奴か、恥をも知らぬ奴と見ゆるか、自己がしたる仕事が恥辱を受けてものめのめ面押し拭うて自己は生きて居るような男と我は見らるるか、たとえばあの塔倒れた時生きていようか生きたかろうか、ええ口惜しい、腹の立つ、お浪、それほど我が鄙しかろうか、あゝあゝ生命ももういらぬ、わが身体にも愛想の尽きた、この世の中から見放された十兵衛は生きて居るだけ恥辱をかく苦悩を受ける、ええいっそのこと塔も倒れよ暴風雨もこの上烈しくなれ、少しなりともあの塔に損じのできてくれよかし、空吹く
「柄を忘れるほど引っ握んで、天命を静かに待つとも知るや知らずや、風雨もいとわず塔の周りを何度となく徘徊(はいかい)する、怪しの男が一人いた。
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風も地打つ雨も人間ほど我には情なからねば、塔破壊されても倒されても悦びこそせめ恨みはせじ、板一枚の吹きめくられ釘一本の抜かるるとも、味気なき世に未練はもたねばものの見事に死んで退けて、十兵衛という愚魯漢は自己が業の粗漏より恥辱を受けても、生命惜しさに生存えて居るような鄙劣な奴ではなかりしか、かかる心をもっていしかと責めては後にて弔われん、一度はどうせ捨つる身の捨て処よし捨て時よし、仏寺を汚すは恐れあれどわが建てしもの壊れしならばその場を一歩立ち去り得べきや、諸仏菩薩もお許しあれ、生雲塔の頂上より直ちに飛んで身を捨てん、投ぐる五尺の皮嚢は潰れて醜かるべきも、きたなきものを盛ってはおらず、あわれ男児
その三十五
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の醇粋、清浄の血を流さんなれば愍然ともこそ照覧あれと、おもいしことやら思わざりしや十兵衛自身も半分知らで、夢路をいつの間にかたどりし、七蔵にさえどこでか分れて、ここは、おお、それ、その塔なり。
「去る日の暴風雨は我ら生まれてから第一の騒ぎだった」と、普段は何事に遭っても二十年前三十年前にあった例を引き出して古いことを大げさに、新しいことをわけもなく言い消す気質の老人さえ、真底我を折って噂し合えば、まして天変地異を面白ずくで話の種にするような軽い若い人は分別もなく、後腹の痛まないのを幸いに、どこの火の見が壊れたかどこかの二階が吹き飛ばされたりと他人の憂いや災難をわが茶受けにし、「ざまを見よ、欲から芝居の金主(かねぬし)をして何某(なにがし)めが痛い目にあったのだろう。さても笑止(しょうし)、あの小屋の潰れ方よ、また日ごろから小面憎かった横町の生花の宗匠が二階、お神楽だけのことはあったのも気味よし。それよりは江戸で一二と言われる大寺の脆」。
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上りつめたる第五層の戸を押し明けて今しもぬっと十兵衛半身あらわせば、礫を投ぐるがごとき暴雨の眼も明けさせず面を打ち、一ツ残りし耳までもちぎらんばかりに猛風の呼吸さえさせず吹きかくるに、思わず一足退きしが屈せず奮って立ち出でつ、欄を握んできっと睥めば天は五月の闇より黒く、ただ囂々たる風の音のみ宇宙に充ちて物騒がしく、さしも堅固の塔なれど虚空に高く聳えたれば、どうどうどっと風の来るたびゆらめき動きて、荒浪の上に揉まるる棚なし小舟のあわや傾覆らん風情、さすが覚悟を極めたりしもまた今さらにおもわれて、一期の大事死生の岐路と八万四千の身の毛よだたせ牙咬みしめて眼を睜り、いざその時はと手にして来し六分鑿の
「く倒れたのも仔細こそあれ、実は信徒(だんと)から多額の寄付金を集めながら役僧の私腹、受負師の手品でそこにはそこの訳があったのだろうな」などさまざまの沙汰(さた)に及んだが、いずれも感応寺生雲塔は釘一本緩まず板一枚剥がれなかったには舌を巻いて讃嘆し、「いや、あれを作った十兵衛というのはなんとえらいものではないか。あの塔が倒れたら生きていない覚悟だったそうな。すでのことに鑿(のみ)をくわえて十六間まさかしまに飛ぶところ、欄干(てすり)をこう踏み、風雨を睨んであれほどの大揉みの中にじっと構えていたというのが、その一念でも壊れまい、風の神も大方血眼(ちまなこ)で睨まれては遠慮が出たであろうか、甚五郎(じんごろう)このかたの名人だ、真の棟」。
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柄忘るるばかり引っ握んでぞ、天命を静かに待つとも知るや知らずや、風雨いとわず塔の周囲を幾たびとなく徘徊する、怪しの男一人ありけり。
「梁だ、浅草のも芝のもそれぞれ損じのあったのに一寸一分歪みもせず退きもせぬとはよく造ったことの」。
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其三十五
「いやそれについて話のある、その十兵衛という男の親分がまたひどくえらいもので、もしもちょっとでも壊れでもしたら同業(なかま)の恥辱、知り合いの面汚しになるから、お前はそれでも生きていられようかと、とても再び鉄槌(かなづち)も釿(ちょうな)も握ることができないほど叱りつけて、武士で言えば詰め腹(つめはら)同様の目に遭わそうと、ぐるぐると大雨を浴びながら塔の周りを巡っていたそうな」。
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去る日の暴風雨は我ら生まれてから以来第一の騒ぎなりしと、常は何事に逢うても二十年前三十年前にありし例をひき出して古きを大げさに、新しきをわけもなく云い消す気質の老人さえ、真底我折って噂し合えば、まして天変地異をおもしろずくで談話の種子にするようの剽軽な若い人は分別もなく、後腹の疾まぬを幸い、どこの火の見が壊れたりかしこの二階が吹き飛ばされたりと、他の憂い災難をわが茶受けとし、醜態を見よ馬鹿欲から芝居の金主して何某め痛い目に逢うたるなるべし、さても笑止あの小屋の潰れ方はよ、また日ごろより小面憎かりし横町の生花の宗匠が二階、お神楽だけのことはありしも気味よし、それよりは江戸で一二といわるる大寺の脆
「いやいや、それは間違い、親分ではなく商売敵(かたき)だそうな」とわかり顔に語り伝えた。
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く倒れたも仔細こそあれ、実は檀徒から多分の寄附金集めながら役僧の私曲、受負師の手品、そこにはそこのありし由、察するに本堂のあの太い柱も桶でがなあったろうなんどとさまざまの沙汰に及びけるが、いずれも感応寺生雲塔の釘一本ゆるまず板一枚剥がれざりしには舌を巻きて讃歎し、いや彼塔を作った十兵衛というはなんとえらいものではござらぬか、あの塔倒れたら生きてはいぬ覚悟であったそうな、すでのことに鑿啣んで十六間真逆しまに飛ぶところ、欄干をこう踏み、風雨を睨んであれほどの大揉めの中にじっと構えていたというが、その一念でも破壊るまい、風の神も大方血眼で睨まれては遠慮が出たであろうか、甚五郎このかたの名人じゃ真の棟
暴風雨のために準備が狂ってしまった落成式もいよいよ済んだ日、上人がわざわざ源太をお召しになって十兵衛ともどもに塔に上られた。
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梁じゃ、浅草のも芝のもそれぞれ損じのあったに一寸一分歪みもせず退りもせぬとはよう造ったことの。
上人は心あって小僧に持たせておいたお筆に墨をたっぷり含ませ、「我、この塔に銘じて得させん、十兵衛も見よ、源太も見よ」とおっしゃりながら、「江都(こうと)の住人十兵衛これを造り、川越源太郎これを成す、年月日」と筆太に記し終えられた。
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いやそれについて話しのある、その十兵衛という男の親分がまた滅法えらいもので、もしもちとなり破壊れでもしたら同職の恥辱知合いの面汚し、汝はそれでも生きて居らりょうかと、とても再び鉄槌も手斧も握ることのできぬほど引っ叱って、武士で云わば詰腹同様の目に逢わしょうと、ぐるぐるぐる大雨を浴びながら塔の周囲を巡っていたそうな。
満面に笑みをたたえて振り返られれば、二人ともに言葉もなくただ平伏(ひれふ)してお参りした。
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いやいや、それは間違い、親分ではない商売上敵じゃそうな、と我れ知り顔に語り伝えぬ。
それより宝塔(ほうとう)は永久(とこしなえ)に天にそびえて、西から見れば空に月を吐き、東から望めば夕べに赤い日を呑んで、百有余年の今になるまで、話は生きて残っている。
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暴風雨のために準備狂いし落成式もいよいよ済みし日、上人わざわざ源太を召びたまいて十兵衛とともに塔に上られ、心あって雛僧に持たせられしお筆に墨汁したたか含ませ、我この塔に銘じて得させん、十兵衛も見よ源太も見よと宣いつつ、江都の住人十兵衛これを造り川越源太郎これを成す、年月日とぞ筆太に記しおわられ、満面に笑みを湛えて振り顧りたまえば、両人ともに言葉なくただ平伏して拝謝みけるが、それより宝塔長えに天に聳えて、西より瞻れば飛檐ある時素月を吐き、東より望めば勾欄夕べに紅日を呑んで、百有余年の今になるまで、譚は活きて遺りける。