大つごもり 現代語訳
樋口一葉(ひぐちいちよう)・1949年
AI生成この訳はAI(claude-opus-4-8)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23)
上
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上
井戸は車で綱を巻き上げる形式で、綱の長さは十二尋もある。台所は北向きで、師走の空から吹き抜ける空っ風がひゅうひゅうと鳴り、ああ寒くてたまらない。かまどの前で火をいじっていると、一分がまるで一時間のように長く感じられる。薪ひとつのことでも大げさに騒がれて叱り飛ばされる下女の身のつらさよ。最初、奉公の口を世話してくれた紹介所のおばあさんはこう言っていた。「お子さんは男女合わせて六人、でもいつも家にいらっしゃるのはご長男と末っ子のお二人だけ。奥さまは少し気むずかしいところもあるけれど、顔色や機嫌を読んでうまくやれば大したことはないし、なんだかんだで人におだてられると乗せられるたちだから、あなたの立ち回り方ひとつで半襟でも半掛けでも前垂れの紐でも困ることはないよ。あの家は町内一の身代持ちで、そのぶん一に負けず二にも負けないほどのけちだけれど、幸いなことに旦那さまが甘いお人だから、少しばかりの内緒の稼ぎもないことはないだろう。いやになったら私のところへ葉書一枚、こまかい
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井戸は車にて綱の長さ十二尋、勝手は北向きにて師走の空のから風ひゆうひゆうと吹ぬきの寒さ、おお堪えがたと竈の前に火なぶりの一分は一時にのびて、割木ほどの事も大台にして叱りとばさるる婢女の身つらや、はじめ受宿の老媼さまが言葉には御子様がたは男女六人、なれども常住家内にお出あそばすは御総領と末お二人、少し御新造は機嫌かいなれど、目色顔色を呑みこんでしまへば大した事もなく、結句おだてに乗る質なれば、御前の出様一つで半襟半がけ前垂の紐にも事は欠くまじ、御身代は町内第一にて、その代り吝き事も二とは下らねど、よき事には大旦那が甘い方ゆゑ、少しのほまちは無き事も有るまじ、厭やに成つたら私の所まで端書一枚、こま
文面はいらないよ。よそに勤め口を探せというのなら、私は骨惜しみせず動くから。何にせよ奉公の秘訣は裏と表を使い分けることだよ」と聞かされて、なんとまあ恐ろしいことを言う人だと思った。でも何もかも自分の心がけひとつで、この人の世話にならずに済ませられるはず。勤めを大事にして骨さえ折れば、気に入られないわけがないと心を決めて、こんな鬼のような主人にも仕えているのだ。顔見せの奉公が済んで三日後のこと。七つになるお嬢さまが午後から踊りのおさらいがあるという。その支度に朝湯でぴかぴかに磨き上げてと言われて、霜も凍る明け方、まだあたたかい寝床の中から奥さまが煙草盆の灰吹きをたたいて「これこれ」と呼ぶ。その声が目覚まし時計よりも胸に響いて、三度と呼ばれもしないうちに、帯より先に襷をかけてきびきびと立ち働く。井戸端に出ると月の光がまだ流し場に残っていて、肌を刺すような風の寒さに眠気もいっぺんに吹き飛んだ。風呂は据え風呂で、大きくは
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かき事は入らず、他所の口を探せとならば足は惜しまじ、何れ奉公の秘伝は裏表と言ふて聞かされて、さても恐ろしき事を言ふ人と思へど、何も我が心一つで又この人のお世話には成るまじ、勤め大事に骨さへ折らば御気に入らぬ事も無き筈と定めて、かかる鬼の主をも持つぞかし、目見えの済みて三日の後、七歳になる嬢さま踊りのさらひに午後よりとある、その支度は朝湯にみがき上げてと霜氷る暁、あたたかき寝床の中より御新造灰吹きをたたきて、これこれと、此詞が目覚しの時計より胸にひびきて、三言とは呼ばれもせず帯より先に襷がけの甲斐々々しく、井戸端に出れば月かげ流しに残りて、肌を刺すやうな風の寒さに夢を忘れぬ、風呂は据風呂にて大き
ないけれど、二つの手桶にあふれるほど汲んで十三杯は入れなければならない。汗だくになって運んでいるうち、擦り減った歯の水はけ下駄、それも前の鼻緒がゆるゆるで、指に力を入れて浮かせていないと脱げてしまうようなもの。その下駄で重い物を持っていたので足もとがおぼつかなく、流し場の氷に滑って、あっと言う間もなく横倒しに転んでしまった。井戸のふちに向こう脛をしたたか打ちつけて、かわいそうに雪も恥じるような白い肌に、生々しい紫のあざができてしまった。手桶もそこに放り出して、一つは無事だったがもう一つは底が抜けてしまった。この桶がいくらするのか知らないけれど、家が傾くとでもいうように、奥さまは額に恐ろしいほど青筋を立てて、朝食の給仕から睨みつけられ、その日一日ひとことも口をきいてもらえなかった。一日おいてからは、箸の上げ下ろしにまでけちをつけられ、「この家の品物は
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からねど、二つの手桶に溢るるほど汲みて、十三は入れねば成らず、大汗に成りて運びけるうち、輪宝のすがりし曲み歯の水ばき下駄、前鼻緒のゆるゆるに成りて、指を浮かさねば他愛の無きやう成し、その下駄にて重き物を持ちたれば足もと覚束なくて流し元の氷にすべり、あれと言ふ間もなく横にころべば井戸がはにて向ふ臑したたかに打ちて、可愛や雪はづかしき膚に紫の生々しくなりぬ、手桶をも其処に投出して一つは満足成しが一つは底ぬけに成りけり、此桶の価なにほどか知らねど、身代これが為につぶれるかの様に御新造の額際に青筋おそろしく、朝飯のお給仕より睨まれて、その日一日物も仰せられず、一日おいてよりは箸の上げ下しに、この家の品
ただでは手に入らないんだよ、主人の物だからと粗末にしたら罰が当たるよ」と朝晩の小言。来る人ごとにこのことを言いふらされて、若い心には恥ずかしく、それからは何事にも念を入れて、とうとう粗相ひとつしないようになった。世間には下女を使う家も多いけれど、山村の家ほど下女が入れ替わる家はない。月に二人は当たり前、三日か四日で帰った者もいれば、一晩いただけで逃げ出した者もいるだろう。開闢以来の下女を数えてみたら、折る指の数だけあのおかみさんの口うるささが思い出される。それを思えばお峯はよく辛抱するものだ。あんな娘に酷く当たったら天罰がたちどころに下って、これからは東京が広いといっても山村の下女になろうという者はいなくなるだろう。感心なものだ、見事な心がけだと褒める者もいれば、何よりまず器量が申し分ないと、男はすぐにそう言うのだった。
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は無代では出来ぬ、主の物とて粗末に思ふたら罸が当るぞえと明け暮れの談義、来る人毎に告げられて若き心には恥かしく、その後は物ごとに念を入れて、遂ひに麁想をせぬやうに成りぬ、世間に下女つかふ人も多けれど、山村ほど下女の替る家は有るまじ、月に二人は平常の事、三日四日に帰りしもあれば一夜居て逃出しもあらん、開闢以来を尋ねたらば折る指にあの内儀さまが袖口おもはるる、思へばお峯は辛棒もの、あれに酷く当たらば天罸たちどころに、この後は東京広しといへども、山村の下女に成る物はあるまじ、感心なもの、美事の心がけと賞めるもあれば、第一容貌が申分なしだと、男は直きにこれを言ひけり。
秋からただ一人の伯父が病気になって、商売の八百屋の店もいつのまにか閉め、同じ町でも裏長屋住まいになったと聞いてはいたが、気むずかしい主人に仕える身で、給金を前借りしてしまえばこの身を売ったも同然。見舞いに行くこともできず、心ならずも過ごしていた。使いに出たほんのわずかの間でも、時計を目当てに、あと何歩あと何町とその見当をつける苦しさ。走って抜け出してしまおうかとも思うけれど、悪事千里ということわざもある。せっかくの辛抱を無駄にして暇を出されでもしたら、いよいよ病人の伯父に心配をかけるし、貧しい暮らしに一日でも厄介になるのは気の毒だ。そのうちにはと手紙ばかり送って、我が身はここで心ならずも日を送っていた。
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秋より只一人の伯父が煩ひて、商売の八百や店もいつとなく閉ぢて、同じ町ながら裏屋住居に成しよしは聞けど、むづかしき主を持つ身の給金を先きに貰へばこの身は売りたるも同じ事、見舞にと言ふ事も成らねば心ならねど、お使ひ先の一寸の間とても時計を目当にして幾足幾町とそのしらべの苦るしさ、馳せ抜けても、とは思へど悪事千里といへば折角の辛棒を水泡にして、お暇ともならば弥々病人の伯父に心配をかけ、痩世帯に一日の厄介も気の毒なり、その内にはと手紙ばかりを遣りて、身は此処に心ならずも日を送りける。
師走の月は世間一般みんなが忙しない中を、わざわざ選んで着飾って、一昨日役者が出そろったと聞くどこそこの芝居、狂言もちょうど面白い新作が出たそうで、これを見逃してはと娘たちが騒ぐので、見物は十五日、珍しく家じゅうそろってと決まった。このお供を嬉しがるのはふだんのこと。でも父母を亡くしたあと、ただ一人の大切な人が病の床にあるのに見舞いにも行かず、物見遊山に出かけられる身ではない。奥さまの機嫌をそこねたらそれまでと覚悟して、遊びの代わりに暇をお願いしたところ、さすがに日頃の勤めぶりもあってか、一日過ぎた次の日、早く行って早く帰れと、実に気ままな言いつけ。ありがとうございますと言ったのも覚えていないほどで、やがて車の上で、小石川はまだかまだかとじれったがった。
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師走の月は世間一躰物せわしき中を、こと更に選らみて綾羅をかざり、一昨日出そろひしと聞く某の芝居、狂言も折から面白き新物の、これを見のがしてはと娘共の騒ぐに、見物は十五日、珍らしく家内中との触れに成けり、このお供を嬉しがるは平常のこと、父母なき後は唯一人の大切な人が、病ひの床に見舞ふ事もせで、物見遊山に歩くべき身ならず、御機嫌に違ひたらばそれまでとして遊びの代りのお暇を願ひしにさすがは日頃の勤めぶりもあり、一日すぎての次の日、早く行きて早く帰れと、さりとは気ままの仰せに有難うぞんじますと言ひしは覚えで、頓ては車の上に小石川はまだかまだかと鈍かしがりぬ。
初音町というと風流に聞こえるけれど、世をうぐいすならぬ「憂く」暮らす貧乏町だ。そこに正直安兵衛という男がいて、神さまがこの頭に宿りなさるだろうと思うほど、大薬缶のような禿げ頭の額ぎわがぴかぴか光っている。それを目印に、田町から菊坂あたりにかけて、茄子や大根のご用を務めていた。わずかな元手をやりくりして商うので、その時々の値の安くてかさのある物ばかり。棹のない舟に乗り合わせたようなありきたりの胡瓜や、藁づとに包んだ松茸の初物などは仕入れられず、八百安の品はいつも帳面につけたように決まりきったものだと笑われもしたが、ひいきというのはありがたいもので、曲がりなりにも親子三人の口をなんとか養い、三之助という八つになる子を月五厘の学校に通わせるほどの務めもしていた。ところが世の秋がつらい九月の末、急に風が身にしみるという朝、神田で仕入れた荷を我が家までかつぎ入れると、そのまま発熱し、続いて骨の病でも出たのか、
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初音町といへば床しけれど、世をうぐひすの貧乏町ぞかし、正直安兵衛とて神はこの頭に宿り給ふべき大薬罐の額ぎはぴかぴかとして、これを目印に田町より菊坂あたりへかけて、茄子大根の御用をもつとめける、薄元手を折かへすなれば、折から直の安うて嵩のある物より外は棹なき舟に乗合の胡瓜、苞に松茸の初物などは持たで、八百安が物は何時も帳面につけた様なと笑はるれど、愛顧は有がたきもの、曲りなりにも親子三人の口をぬらして、三之助とて八歳になるを五厘学校に通はするほどの義務もしけれど、世の秋つらし九月の末、俄かに風が身にしむといふ朝、神田に買出しの荷を我が家までかつぎ入れるとそのまま、発熱につづいて骨病みの出しやら、
三月越しの今日まで、商いはもちろんできず、だんだんと蓄えを食いつぶして、ついには天秤棒まで売る始末になったので、表通りの店での暮らしは立ちゆかなくなった。月五十銭の裏長屋に移るのを人目に恥じているような身ではない。また時節が巡ってくればと引っ越しをしたが、痛ましいことに車に乗せるのは病人ばかり。片手にも足りないほどの荷をくくって、同じ町の隅へとひっそり移り住んだのだった。
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三月ごしの今日まで商ひは更なる事、段々に喰べへらして天秤まで売る仕義になれば、表店の活計たちがたく、月五十銭の裏屋に人目の恥を厭ふべき身ならず、又時節が有らばとて引越しも無惨や車に乗するは病人ばかり、片手に足らぬ荷をからげて、同じ町の隅へと潜みぬ。
お峯は車から降りて、あそこかここかと尋ね歩くうち、凧や紙風船などを軒につるして子供を集めている駄菓子屋の店先を、もしや三之助が混じっていないかとのぞいてみた。けれど姿も見えないのでがっかりして、思わず往来を見ると、自分のいる側ではなく向かいの側を、痩せぎすの子供が薬瓶を持って行く後ろ姿がある。三之助よりは背も高く、あまりに痩せた子だと思ったが、様子が似ているのでつかつかと駆け寄って顔をのぞくと、「やあ姉さん」。あれ、三ちゃんだったのか。よいところでと連れられて行くと、酒屋と芋屋の奥深く、溝板ががたがた鳴る薄暗い裏に入る。三之助は先へ駆けて「父さん、母さん、姉さんを連れて帰ったよ」と戸口から呼び立てた。
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お峯は車より下りて开処此処と尋ぬるうち、凧紙風船などを軒につるして、子供を集めたる駄菓子やの門に、もし三之助の交じりてかと覗けど、影も見えぬに落胆して思はず徃来を見れば、我が居るよりは向ひのがはを痩ぎすの子供が薬瓶もちて行く後姿、三之助よりは丈も高く余り痩せたる子と思へど、様子の似たるにつかつかと駆け寄りて顔をのぞけば、やあ姉さん、あれ三ちやんで有つたか、さても好い処でと伴なはれて行くに、酒やと芋やの奥深く、溝板がたがたと薄くらき裏に入れば、三之助は先へ駆けて、父さん、母さん、姉さんを連れて帰つたと門口より呼び立てぬ。
なに、お峯が来たかと安兵衛が起き上がると、女房は内職の仕立物に余念のなかった手を止めて、「まあまあこれは珍しい」と、手を取らんばかりに喜んだ。見れば六畳一間に、一間の戸棚がただ一つ。箪笥や長持など、もともとあるはずのない家だが、以前見た長火鉢の影もなく、今戸焼の四角い火鉢を同じ形の箱に入れたのが、そもそもこの家の道具らしい物といえるくらい。聞けば米櫃もないという。なんとも悲しい成り行きだ。師走の空の下で芝居見物をする人もいるのにと、お峯はまず涙ぐんで、「まあまあ風が寒いのに寝ていてください」と、堅焼き煎餅のように薄い蒲団を伯父の肩にかけた。「さぞたくさんご苦労なさったでしょう。伯母さまもどことなく痩せて見えます。心配のあまり倒れたりしないでくださいね。それでも日ごとによくなっているので
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何お峯が来たかと安兵衛が起上れば、女房は内職の仕立物に余念なかりし手をやめて、まあまあこれは珍らしいと手を取らぬばかりに喜ばれ、見れば六畳一間に一間の戸棚只一つ、箪笥長持はもとより有るべき家ならねど、見し長火鉢のかげも無く、今戸焼の四角なるを同じ形の箱に入れて、これがそもそもこの家の道具らしき物、聞けば米櫃も無きよし、さりとは悲しき成ゆき、師走の空に芝居みる人も有るをとお峯はまづ涙ぐまれて、まづまづ風の寒きに寝てお出なされませ、と堅焼に似し薄蒲団を伯父の肩に着せて、さぞさぞ沢山の御苦労なさりましたろ、伯母様も何処やら痩せが見えまする、心配のあまり煩ふて下さりますな、それでも日増しに快い方で御座
すか。手紙で様子は聞いていても、会わなければ気にかかって、今日のお暇を待ちに待って、やっとのことです。家のことなんかどうでもいいんです。伯父さまがすっかり良くなれば、また表通りに店を出すのもわけないことなのだから、一日でも早く良くなってください。伯父さまに何か持ってこようと思ったけれど、道は遠いし気は急くしで、車屋の足がいつもより遅いように思われて、お好物の飴屋の店も見過ごしてしまいました。このお金は少しですが私のお小遣いの残りです。麹町のご親類からお客があったとき、そのご隠居さまが寸白の発作で苦しまれたのを、夜通しお腰をもんであげたら、前垂れでも買えと言ってくださったものです。あれもこれも、勤め先は堅苦しいけれど、よそから来たお客さまがひいきにしてくださるので、伯父さまも喜んでください、勤めにくくはありませんから。この巾着も半襟もみんな
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んすか、手紙で様子は聞けど見ねば気にかかりて、今日のお暇を待ちに待つて漸との事、何家などはどうでも宜ござります、伯父様御全快にならば表店に出るも訳なき事なれば、一日も早く快く成つて下され、伯父様に何ぞと存じたれど、道は遠し心は急く、車夫の足が何時より遅いやうに思はれて、御好物の飴屋が軒も見はぐりました、此金は少々なれど私が小遣の残り、麹町の御親類よりお客の有し時、その御隠居さま寸白のお起りなされてお苦しみの有しに、夜を徹してお腰をもみたれば、前垂でも買へとて下された、それや、これや、お家は堅けれど他処よりのお方が贔負になされて、伯父さま喜んで下され、勤めにくくも御座んせぬ、この巾着も半襟もみな
いただき物です。襟は地味だから伯母さまがお使いください。巾着は少し形を変えれば三之助のお弁当袋にちょうどいいでしょう。それでも学校へは行っているの。清書があったら姉にも見せてね、と、あれからこれへと話が尽きなかった。
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頂き物、襟は質素なれば伯母さま懸けて下され、巾着は少し形を換へて三之助がお弁当の袋に丁度宜いやら、それでも学校へは行ますか、お清書が有らば姉にも見せてとそれからそれへ言ふ事長し。
お峯が七つの年に、父親が得意先の蔵の普請で足場に上り、中塗りの鏝を持ちながら下にいる下男に何か言いつけようと振り向いた途端、暦に黒星の仏滅とでもいう日だったのか、長年慣れた足場を踏みはずして落ちてしまった。落ちた場所も悪く、下は敷石を模様替えするために掘り起こして積み上げた石の切り角で、そこに頭をしたたか打ちつけて手当てのしようもなかった。四十二の前厄とはあわれなことだと、人々はあとで恐ろしがった。母は安兵衛の兄弟だったのでこの家に引き取られたが、その母も二年後、はやり風邪が急に重くなって亡くなってしまった。それからは安兵衛夫婦を親として、十八の今日まで受けた恩は言うまでもない。姉さんと呼ばれれば、三之助が弟のようにかわいくて、ここへここへと呼んで背をなで顔をのぞきこみ、「さぞ父さんが病気で寂しくつらいだろう。お正月も
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七歳のとしに父親得意場の蔵普請に、足場を昇りて中ぬりの泥鏝を持ちながら、下なる奴に物いひつけんと振向く途端、暦に黒ぼしの仏滅とでも言ふ日で有しか、年来馴れたる足場をあやまりて、落たるも落たるも下は敷石に模様がへの処ありて、掘おこして積みたてたる切角に頭脳したたか打ちつけたれば甲斐なし、哀れ四十二の前厄と人々後に恐ろしがりぬ、母は安兵衛が同胞なれば此処に引取られて、これも二年の後はやり風俄かに重く成りて亡せたれば、後は安兵衛夫婦を親として、十八の今日まで恩はいふに及ばず、姉さんと呼ばるれば三之助は弟のやうに可愛く、此処へ此処へと呼んで背を撫で顔を覗いて、さぞ父さんが病気で淋しく愁らかろ、お正月も
すぐに来るから、姉が何か買ってあげますよ。母さんに無理を言って困らせてはいけませんよ」と教えると、「困らせるどころか、お峯、聞いておくれ。歳は八つだけれど体も大きいし力もある。私が寝込んでからは稼ぎ手がなくて出費ばかりかさむのを、四苦八苦する様子を見かねたのだろう、表の塩物屋の子と一緒に、蜆を仕入れては足の続くかぎり担いで売り歩き、あの子が八銭売れば十銭の商いを必ずしてくる。一つには天道さまがあの子の親孝行を見通しておられるのか、そうこうして薬代は三之助が稼いでくれるのだ。お峯、褒めてやっておくれ」と、父は蒲団をかぶって涙で声をしぼった。
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直きに来れば姉が何ぞ買つて上げますぞえ、母さんに無理をいふて困らせては成りませぬと教ゆれば、困らせる処か、お峯聞いてくれ、歳は八つなれど身躰も大きし力もある、我が寐てからは稼ぎ人なしの費用は重なる、四苦八苦見かねたやら、表の塩物やが野郎と一処に、蜆を買ひ出しては足の及ぶだけ担ぎ廻り、野郎が八銭うれば十銭の商ひは必らずある、一つは天道さまが奴の孝行を見徹してか、となりかくなり薬代は三が働き、お峯ほめて遣つてくれとて、父は蒲団をかぶりて涙に声をしぼりぬ。
学校は好きで好きで、とうとう世話を焼かせたことがない。朝飯を食べると駆け出して、三時の下校時に道草の悪さをしたこともない。自慢ではないが先生にも褒められる子を、貧乏だからこそ蜆を担がせて、この寒空に小さな足に草鞋をはかせる親心を、どうか察してくださいと、伯母も涙ぐんだ。
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学校は好きにも好きにも遂ひに世話をやかしたる事なく、朝めし喰べると馳け出して三時の退校に道草のいたづらした事なく、自慢では無けれど先生さまにも褒め物の子を、貧乏なればこそ蜆を担がせて、この寒空に小さな足に草鞋をはかせる親心、察して下されとて伯母も涙なり。
お峯は三之助を抱きしめて、「なんとまあ、世間に類のない親孝行。体が大きいといっても八つは八つ。天秤棒を肩にして痛くはないの。足に草鞋ずれはできていないの。堪忍してね。今日からは私も家に帰って、伯父さまの介抱も暮らしの助けもします。知らないこととはいえ、今朝までも釣瓶の縄の氷をつらがっていたのは申し訳ない。学校ざかりの歳に蜆を担がせて、姉が長い着物なんか着ていられましょうか。伯父さま、どうか暇を取らせてください。私はもう奉公はやめます」と、取り乱して泣いた。
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お峯は三之助を抱きしめて、さてもさても世間に無類の孝行、大がらとても八歳は八歳、天秤肩にして痛みはせぬか、足に草鞋くひは出来ぬかや、堪忍して下され、今日よりは私も家に帰りて伯父様の介抱活計の助けもしまする、知らぬ事とて今朝までも釣瓶の縄の氷を愁らがつたは勿躰ない、学校ざかりの年に蜆を担がせて姉が長い着物きてゐらりようか、伯父さま暇を取つて下され、私は最早奉公はよしまするとて取乱して泣きぬ。
三之助はおとなしく、ほろりほろりとこぼれる涙を見せまいとうつむいた。その肩のあたりは、針目もあらわに着物が破れていて、この肩で蜆を担ぐのかと思うと見るのもつらい。安兵衛は、お峯が暇を取ろうと言うのはもってのほかだと言った。「その気持ちは嬉しいが、帰ってきたところで女の働きなど知れている。それどころかご主人には給金の前借りもあるのだから、そら帰れと言って帰れるものではない。初めての奉公が肝心だ。辛抱ができずに戻ってきたと思われても困るから、主人を大事に勤めておくれ。私の病気も長くは続くまい。少し良くなれば気の張りも出て、続けて商いもできる道理。ああ、あと半月、今年が過ぎれば新年には良いことも巡ってくるだろう。何事も辛抱、辛抱だ。三之助も辛抱しておくれ、お峯も辛抱しておくれ」と、涙をおさめた。
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三之助はをとなしく、ほろりほろりと涙のこぼれるを、見せじとうつ向きたる肩のあたり、針目あらはに衣破れて、此肩に担ぐか見る目も愁らし、安兵衛はお峯が暇を取らんと言ふにそれは以ての外、志しは嬉しけれど帰りてからが女の働き、それのみか御主人へは給金の前借もあり、それッ、と言ふて帰られる物では無し、初奉公が肝腎、辛棒がならで戻つたと思はれても成らねば、お主大事に勤めてくれ、我が病気も長くは有るまじ、少しよくば気の張弓、引つづいて商ひもなる道理、ああ今半月の今歳が過れば新年は好き事も来たるべし、何事も辛棒々々、三之助も辛棒してくれ、お峯も辛棒してくれとて涙を納めぬ。
珍しい客にごちそうはできないけれど、好物の今川焼や里芋の煮ころがしなど、たくさん食べろよと言う言葉が嬉しい。苦労はかけまいと思っても、目に見えて大晦日が迫っている家の難儀がある。胸につかえる病は癪ではないが、そもそも安兵衛が床についたとき、田町の高利貸しから三月しばりの約束で十円借りた。一円五十銭は先取りの利息だとかで、実際に手に入ったのは八円半。九月の末に借りたのだから今月がどうしても約束の期限だが、この暮らしの中でどうにかなるものだろうか。額を寄せ合って相談する妻は、人の仕立物で指先から血を出しても、一日十銭の稼ぎにもならない。三之助に聞かせたところで甲斐もない。お峯の主人は白金の台町に貸長屋を百軒も持っていて、その上がりだけで常にきらびやかに着飾っている。私が一度お峯に用があって門まで行ったが、千両でも建てられそうにない立派な土
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珍らしき客に馳走は出来ねど好物の今川焼、里芋の煮ころがしなど、沢山たべろよと言ふ言葉が嬉し、苦労はかけまじと思へど見す見す大晦日に迫りたる家の難義、胸に痞への病は癪にあらねどそもそも床に就きたる時、田町の高利かしより三月しばりとて十円かりし、一円五拾銭は天利とて手に入りしは八円半、九月の末よりなればこの月はどうでも約束の期限なれど、この中にて何となるべきぞ、額を合せて談合の妻は人仕事に指先より血を出して日に拾銭の稼ぎも成らず、三之助に聞かするとも甲斐なし、お峯が主は白金の台町に貸長屋の百軒も持ちて、あがり物ばかりに常綺羅美々しく、我れ一度お峯への用事ありて門まで行きしが、千両にては出来まじき土
蔵の普請ぶりで、羨ましいほどの富貴と見えた。その主人に一年の馴染み、気に入りの奉公人がちょっとした頼みを聞いてくれないとは言うまい。この月末に借金の書き換えを泣きついて、踊りの一両二分をここに払えば、また三月の延期にはなる。こんなことを言うと欲張りのようだが、道端の餅を買ってでも三が日の雑煮に箸を持たせなければ、これから出世していく三之助に親のある甲斐もない。大晦日までに金二両、言いにくいけれどこの工面を頼みたいと切り出すと、お峯はしばらく思案して、「よろしゅうございます、確かに引き受けました。むずかしければお給金の前借りにしてでもお願いしましょう。うわべと内実は違って、どこの家でも金銭の話はつけにくいものだけれど、多くではなくそれだけでここの始末がつくのなら、わけを聞いて嫌とはおっしゃるまい。
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蔵の普請、羨やましき富貴と見たりし、その主人に一年の馴染、気に入りの奉公人が少々の無心を聞かぬとは申されまじ、この月末に書かへを泣きつきて、をどりの一両二分を此処に払へば又三月の延期にはなる、かくいはば欲に似たれど、大道餅買ふてなり三ヶ日の雑煮に箸を持せずば出世前の三之助に親のある甲斐もなし、晦日までに金二両、言ひにくく共この才覚たのみたきよしを言ひ出しけるに、お峯しばらく思案して、よろしう御座んす慥かに受合ひました、むづかしくはお給金の前借にしてなり願ひましよ、見る目と家内とは違ひて何処にも金銭の埒は明きにくけれど、多くでは無しそれだけで此処の始末がつくなれば、理由を聞いて厭やは仰せらるまじ
それにつけても首尾をしくじってはならないから、今日は私は帰ります。次の宿下がりは春先、その頃にはみんなで集まって笑いたいものです」と、このお金の工面を引き受けた。
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、それにつけても首尾そこなうては成らねば、今日は私は帰ります、又の宿下りは春永、その頃には皆々うち寄つて笑ひたきもの、とて此金を受合ける。
「金はどうやってよこす。三之助を取りに行かせようか」と言うと、「ほんとうにそれがいいです。ふだんでさえ忙しいのに、大晦日となっては私の身に暇はないでしょう。道が遠くてかわいそうだけれど、三ちゃんに頼みます。昼前のうちに必ず必ず用意しておきますから」と、首尾よく引き受けて、お峯は帰っていった。
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金は何として越す、三之助を貰ひにやろかとあれば、ほんにそれで御座んす、常日さへあるに大晦日といふては私の身に隙はあるまじ、道の遠きに可憐さうなれど三ちやんを頼みます、昼前のうちに必らず必らず支度はして置まするとて、首尾よく受合ひてお峯は帰りぬ。
下
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下
石之助といって山村家の長男坊、母が違うせいで父親の愛情も薄く、これを養子に出して家督は妹娘のうちの誰かにという相談が、十年も昔から耳に入っていて面白くない。今の世に勘当ができないのはおかしなものだと、思うままに遊び回って母を泣かせ、父親のことなど忘れて、十五の春から放蕩を始めた。男ぶりは苦みばしって、利発そうな眼差し、色は黒いけれど良い風采だと、近所の娘たちの噂も聞こえてきた。しかしただ乱暴一途で、品川へも足は向くけれど騒ぐのはその場かぎり。夜中に車を飛ばして車町のごろつきのところをたたき起こし、それ酒を持ってこい肴を持ってこいと、紙入れの底をはたいて無理を通すのが道楽だった。とてもこんな者に相続させるのは石油蔵に火を入れるようなもの、身代が煙となって消え、残された我らはどうすればいいのか、あとの兄弟もふびんだと母
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石之助とて山村の総領息子、母の違ふに父親の愛も薄く、これを養子に出して家督は妹娘の中にとの相談、十年の昔しより耳に挟みて面白からず、今の世に勘当のならぬこそをかしけれ、思ひのままに遊びて母が泣きをと父親の事は忘れて、十五の春より不了簡をはじめぬ、男振にがみありて利発らしき眼ざし、色は黒けれど好き様子とて四隣の娘どもが風説も聞えけれど、唯乱暴一途に品川へも足は向くれど騒ぎはその座ぎり、夜中に車を飛ばして車町の破落戸がもとをたたき起し、それ酒かへ肴と、紙入れの底をはたきて無理を徹すが道楽なりけり、到底これに相続は石油蔵へ火を入れるやうな物、身代烟りと成りて消え残る我等何とせん、あとの兄弟も不憫と母
親は父にたえず告げ口をする。とはいえこの放蕩息子を養子にもらおうという人はこの世にいるまい。とにかく有り金の何割かを分けて、若隠居として別戸籍にしようと内々の相談は決まったのだが、本人はうわの空で聞き流して手に乗らない。分配金は一万、隠居の扶持は月々よこし、遊興に口出しはしない、父上がいなくなれば親代わりの自分を兄上と立てて、かまどの神の松一本にいたるまで自分の言うとおりに従う心があるなら、いかにもいかにも別戸の主人になって、この家のために働かないのは勝手にする、それでよければおっしゃるとおりにしましょうと、どこまでも嫌がらせを言って困らせるのだった。
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親、父に讒言の絶間なく、さりとて此放蕩子を養子にと申受る人この世にはあるまじ、とかくは有金の何ほどを分けて、若隠居の別戸籍にと内々の相談は極まりたれど、本人うわの空に聞流して手に乗らず、分配金は一万、隠居扶持月々おこして、遊興に関を据へず、父上なくならば親代りの我れ、兄上と捧げて竈の神の松一本も我が託宣を聞く心ならば、いかにもいかにも別戸の御主人に成りて、この家の為には働かぬが勝手、それ宜しくば仰せの通りに成りましよと、どうでも嫌やがらせを言ひて困らせける。
去年に比べて長屋も増えた、所得は倍になったと世間の口から我が家の様子を知って、おかしいおかしい、そんなに財産を増やして誰の物にするつもりだ、火事は灯明皿からも出るものだぞ、長男という名の火の玉が転がっているとは知らないのか、そのうち根こそぎ巻き上げて、おまえたちに良い正月をさせてやるぞと、伊皿子あたりの貧乏人を喜ばせて、大晦日を当てにして大酒を飲む場所まで決めていた。
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去歳にくらべて長屋もふゑたり、所得は倍にと世間の口より我が家の様子を知りて、をかしやをかしや、そのやうに延ばして誰が物にする気ぞ、火事は燈明皿よりも出る物ぞかし、総領と名のる火の玉がころがるとは知らぬか、やがて巻きあげて貴様たちに好き正月をさせるぞと、伊皿子あたりの貧乏人を喜ばして、大晦日を当てに大呑みの場処もさだめぬ。
それ、兄さまのお帰りだと言えば、妹たちは怖がって腫れ物にさわるように誰も逆らわず、何でも言うなりに通るので、いっそう我がままをつのらせる。炬燵に両足を突っ込んで、酔いざめの水を持ってこい水をと、その乱暴ぶりは極まった。憎らしいと思っても、さすがに義理はつらいものなのか、母親は陰では毒舌を隠して、風邪を引かないようにと小さな掛け布団やら何やら枕まであてがってやる。そして明日の支度のごまめをむしりながら、人手にかけては品物が粗末になるものだと、これ見よがしの倹約ぶりを枕もとで見せつけるのだった。
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それ兄様のお帰りと言へば、妹ども怕がりて腫れ物のやうに障るものなく、何事も言ふなりの通るに一段と我がままをつのらして、炬燵に両足、酔ざめの水を水をと狼藉はこれに止めをさしぬ、憎くしと思へどさすがに義理は愁らき物かや、母親かげの毒舌をかくして風引かぬやうに小抱巻何くれと枕まで宛がひて、明日の支度のむしり田作、人手にかけては粗末になる物と聞えよがしの経済を枕もとに見しらせぬ。
正午も近づくと、お峯は伯父への約束が気がかりで、奥さまの機嫌をうかがうにも暇がない。わずかな手すきに頭の手拭いを丸めて、「先ほどからお願いしていた件、こんなお忙しいときに心ないようですが、今日の昼過ぎまでにと先方へ約束したきついお金だそうで、お助けいただければ伯父の幸せ、私の喜び、いつまでもご恩に着ます」と手をすり合わせて頼んだ。最初に言い出したときは、あやふやながらも結局は良いと言ってくれた言葉を頼みに、また機嫌が悪くなるとむずかしいので、うるさく言ってはかえってどうかと今日まで我慢してきたが、約束は今日という大晦日の昼前。忘れているのか、何ともおっしゃらない心もとなさに、自分には身に迫った大事だと、言いにくいのを我慢してこう申し上げた。すると奥さまは驚
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正午も近づけばお峯は伯父への約束こころもと無く、御新造が御機嫌を見はからふに暇も無ければ、僅かの手すきに頭りの手拭ひを丸めて、このほどより願ひましたる事、折からお忙がしき時心なきやうなれど、今日の昼る過ぎにと先方へ約束のきびしき金とやら、お助けの願はれますれば伯父の仕合せ私の喜び、いついつまでも御恩に着まするとて手をすりて頼みける、最初いひ出し時にやふやながら結局は宜しと有し言葉を頼みに、又の機嫌むつかしければ五月蠅いひては却りて如何と今日までも我慢しけれど、約束は今日と言ふ大晦日のひる前、忘れてか何とも仰せの無き心もとなさ、我れには身に迫りし大事と言ひにくきを我慢してかくと申ける、御新造は驚
いたようなあきれ顔をして、「それはまあ何のことやら。なるほどおまえの伯父さんの病気、続いて借金の話も聞いたけれど、今の今、私の家から立て替えようとは言わなかったはずだよ。それはおまえが何かの聞き違いだ。私は少しも覚えのないことだよ」と、これがこの人の十八番なのだから、なんとも情けない。
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きたるやうの惘れ顔して、それはまあ何の事やら、なるほどお前が伯父さんの病気、つづいて借金の話しも聞ましたが、今が今私しの宅から立換へようとは言はなかつた筈、それはお前が何ぞの聞違へ、私は毛頭も覚えの無き事と、これがこの人の十八番とはてもさても情なし。
花や紅葉を美しく仕立てた娘たちの春着の小袖、襟をそろえ褄を重ねて、眺めたり眺めさせたりして喜ぼうというのに、邪魔者の兄が見ているのがわずらわしい。早く出て行け、さっさと去ねと思う気持ちは口には出さないが、生まれつきの癇癪がおさえきれない。もし物のわかった坊さまが目にしたら、炎に包まれて身は黒煙、心は狂乱、というありさまだろう。言うにこと欠いて「金は毒薬みたいなものだ。今引き受けたのは自分に覚えがあるが、何もそれを断る筋合いはない。大方おまえの聞き違いだろう」と言い切って、煙草の輪を吹きながら、私は知らないと澄ましていた。
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花紅葉うるはしく仕立し娘たちが春着の小袖、襟をそろへて褄を重ねて、眺めつ眺めさせて喜ばんものを、邪魔ものの兄が見る目うるさし、早く出てゆけ疾く去ねと思ふ思ひは口にこそ出さね、もち前の疳癪したに堪えがたく、智識の坊さまが目に御覧じたらば、炎につつまれて身は黒烟りに心は狂乱の折ふし、言ふ事もいふ事、金は敵薬ぞかし、現在うけ合ひしは我れに覚えあれど何のそれを厭ふ事かは、大方お前が聞ちがへと立きりて、烟草輪にふき私は知らぬと済しけり。
ええ、大金でもあるまいし。金なら二円、しかも自分の口ではっきり承知しておきながら、十日もたたないうちにぼけてしまうはずもあるまい。ほらあの掛け硯の引き出しにも、これは手つかずの分と一束ある。十でも二十でも、全部とは言わない、たった二枚で伯父が喜び伯母が笑顔、三之助に雑煮の箸も取らせられると言われたのを思うと、どうしても欲しいのはあの金だ。恨めしいのは奥さまだと、お峯はくやしさに物も言えない。ふだんおとなしい身は、理屈でやり込める術もなくて、すごすごと台所に立つと、正午の号砲がたかく鳴った。こういうときは、それがことさら胸に響くものだ。
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ゑゑ大金でもある事か、金なら二円、しかも口づから承知して置きながら十日とたたぬに耄ろくはなさるまじ、あれあの懸け硯の引出しにも、これは手つかずの分と一ト束、十か二十か悉皆とは言はず唯二枚にて伯父が喜び伯母が笑顔、三之助に雑煮のはしも取らさるると言はれしを思ふにも、どうでも欲しきはあの金ぞ、恨めしきは御新造とお峯は口惜しさに物も言はれず、常々をとなしき身は理屈づめにやり込る術もなくて、すごすごと勝手に立てば正午の号砲の音たかく、かかる折ふし殊更胸にひびくものなり。
「お母さまにすぐお越しくださいますよう。今朝からのお苦しみで、産まれるのは午後、初産なので旦那さまが取り乱してお騒ぎになり、お年寄りのいない家なので混雑してお話にならず、今の今お越しをと」。生きるか死ぬかの分かれ目という初産に、西応寺の娘のところから迎えの車が来た。これは大晦日なので遠慮できないことだ。家の中には金もあるし、放蕩者の息子が寝てもいる。心は二つ、けれど身は一つに分けられないので、恩愛の重さに引かれて車には乗ったものの、こんなときに気楽な夫の料簡が憎らしい。今日あたり沖釣りにでも行かなければいいのにと、太公望気取りで頼りにならない人をつくづく恨みながら、奥さまは出かけていった。
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お母さまに直様お出下さるやう、今朝よりのお苦るしみに、潮時は午後、初産なれば旦那とり止めなくお騒ぎなされて、お老人なき家なれば混雑お話しにならず、今が今お出でをとて、生死の分目といふ初産に、西応寺の娘がもとより迎ひの車、これは大晦日とて遠慮のならぬ物なり、家のうちには金もあり、放蕩どのが寐てはいる、心は二つ、分けられぬ身なれば恩愛の重きに引かれて、車には乗りけれど、かかる時気楽の良人が心根にくく、今日あたり沖釣りでも無き物をと、太公望がはり合ひなき人をつくづくと恨みて御新造いでられぬ。
入れ違いに三之助が、ここと聞いた白金台町を間違いなく尋ね当てたが、自分のみすぼらしさに姉の肩身を思いやって、勝手口からこわごわのぞくと、誰か来たかとかまどの前に泣き伏していたお峯が涙を隠して顔を上げ、この子だとわかった。おお、よく来た、とも言えないありさまをどうしよう。「姉さま、入っても叱られはしませんか。約束の物はもらって行けますか。旦那さまや奥さまによくお礼を申してこいと父さんが言いました」と、事情を知らないので嬉しそうな顔。まあまあ待っておくれ、少し用もあるからと、駆けて行って家の内と外を見回すと、お嬢さまたちは庭に出て追い羽根に夢中、小僧はまだ使いから帰らず、お針の人は二階にいて、しかも耳が遠いので心配ない。若旦那はと見ると、お居間の炬燵で今まさに夢の
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行ちがへに三之助、此処と聞きたる白金台町、相違なく尋ねあてて、我が身のみすぼらしきに姉の肩身を思ひやりて、勝手口より怕々のぞけば、誰れぞ来しかと竈の前に泣き伏したるお峯が、涙をかくして見出せばこの子、おお宜く来たとも言はれぬ仕義を何とせん、姉さま這入つても叱かられはしませぬか、約束の物は貰つて行かれますか、旦那や御新造に宜くお礼を申て来いと父さんが言ひましたと、子細を知らねば喜び顔つらや、まづまづ待つて下され、少し用もあればと馳せ行きて内外を見廻せば、嬢さまがたは庭に出て追羽子に余念なく、小僧どのはまだお使ひより帰らず、お針は二階にてしかも聾なれば子細なし、若旦那はと見ればお居間の炬燵に今ぞ夢
真っ最中。拝みます、神さま仏さま、私は悪人になります。なりたくはないけれど、ならなければ済まないのです。罰をお当てになるなら私一人に。使っても伯父や伯母は知らないことですからお許しください。もったいないけれど、このお金を盗ませてください、と、かねて見ておいた硯の引き出しから、一束のうちのたった二枚。つかんだあとは夢とも現ともわからず、三之助に渡して帰したその一部始終を、見た人はいないと思っているのは愚かなことだった。
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の真最中、拝みまする神さま仏さま、私は悪人になりまする、成りたうは無けれど成らねば成りませぬ、罸をお当てなさらば私一人、遣ふても伯父や伯母は知らぬ事なればお免しなさりませ、勿躰なけれどこの金ぬすませて下されと、かねて見置きし硯の引出しより、束のうちを唯二枚、つかみし後は夢とも現とも知らず、三之助に渡して帰したる始終を、見し人なしと思へるは愚かや。
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その日も暮れ近く、旦那が釣りからえびす顔で帰ってくると、続いて奥さまも帰り、安産の喜びに送りの車屋にまで愛想よく、「今夜のことを済ませたらまた見舞います。明日は早くに妹たちの誰でもいい、一人は必ず手伝わせますと伝えてください。さてさてご苦労さま」と蝋燭代などを渡した。「やれ忙しい、誰か暇な体を片身だけでも借りたいものだ。お峯、小松菜はゆでておいたか。数の子は洗ったか。大旦那はお帰りになったか。若旦那は」と、これは小声で、まだと聞いて額に皺を寄せた。
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その日も暮れ近く旦那つりより恵比須がほして帰らるれば、御新造も続いて、安産の喜びに送りの車夫にまで愛想よく、今宵を仕舞へば又見舞ひまする、明日は早くに妹共の誰れなりとも、一人は必らず手伝はすると言ふて下され、さてさて御苦労と蝋燭代などを遣りて、やれ忙がしや誰れぞ暇な身躰を片身かりたき物、お峯小松菜はゆでて置いたか、数の子は洗つたか、大旦那はお帰りに成つたか、若旦那はと、これは小声に、まだと聞いて額に皺を寄せぬ。
石之助はその夜おとなしく、「新年は明日からの三が日とはいえ、我が家で祝うべきところですが、ご存じのとおり締まりのない身。堅苦しい袴をつけての挨拶も面倒だし、意見も実は聞き飽きました。親類の顔に美しいのもいないので見たいとも思わず、裏長屋の友達のところに今夜約束もあるので、ひとまずお暇します。いずれ春になったら、頂戴すべきものはあれこれお願いします。折からおめでたい矢先、お歳暮には何ほどくださいますか」と。朝から寝込んで父の帰りを待っていたのは、このお金のためだった。子は三界の首かせというけれど、まことに放蕩者を子に持つ親ほど不幸なものはない。切れない縁の血筋というので、ありったけの悪さを尽くして、家が破産する暁にはこの淵に落ち込むのがこの男。知らないと言っても世間が許さないので、家の名を汚し、我が顔が恥ずかしくても、惜しい蔵倉を
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石之助その夜はをとなしく、新年は明日よりの三ヶ日なりとも、我が家にて祝ふべき筈ながら御存じの締りなし、堅くるしき袴づれに挨拶も面倒、意見も実は聞あきたり、親類の顔に美くしきも無ければ見たしと思ふ念もなく、裏屋の友達がもとに今宵約束も御座れば、一先お暇として何れ春永に頂戴の数々は願ひまする、折からお目出度矢先、お歳暮には何ほど下さりますかと、朝より寝込みて父の帰りを待ちしは此金なり、子は三界の首械といへど、まこと放蕩を子に持つ親ばかり不幸なるは無し、切られぬ縁の血筋といへば有るほどの悪戯を尽して瓦解の暁に落こむはこの淵、知らぬと言ひても世間のゆるさねば、家の名をしく我が顔はづかしきに惜しき倉庫を
開けることにもなるのだ。それを見込んで石之助、「今夜が期限の借金があるのです。人の保証に立って判を押したのもあって、花見の宴席に狂った風が一陣吹くように、ごろつき仲間に渡すべき物を渡さなければこの始末がつきにくい。私はどうでもいいが、お父上のお名前に申し訳が立たない」などと、つまりはこの金が欲しいのだと聞こえた。
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も開くぞかし、それを見込みて石之助、今宵を期限の借金が御座る、人の受けに立ちて判を為たるもあれば、花見のむしろに狂風一陣、破落戸仲間に遣る物を遣らねばこの納まりむづかしく、我れは詮方なけれどお名前に申わけなしなどと、つまりは此金の欲しと聞えぬ。
母は大方こういうことだろうと今朝からの懸念が的中し、いくらねだるのか、生ぬるい旦那の処置がじれったいと思うけれど、自分も口では勝てない石之助の弁の立ちようで、お峯を泣かせた今朝とは打って変わって、父の顔色はどうかとばかり、折々見やる横目が恐ろしい。父は静かに金庫の間へ立って行き、やがて五十円の束を一つ持ってきて、「これはおまえにやるのではない。まだ嫁がぬ妹たちがふびんだし、姉の夫の顔にもかかわる。この山村家は代々堅気一方、正直律義を真っ向にして、悪い噂を立てられたこともないはずなのに、天魔の生まれ変わりか、おまえという悪者が出てきて、ないなりのはずみで人の懐でもねらうようになったら、恥は我が一代にとどまらない。重いといっても身代は二の次、親兄弟に恥を見せるな。おまえに言っても
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母は大方かかる事と今朝よりの懸念うたがひなく、幾金とねだるか、ぬるき旦那どのの処置はがゆしと思へど、我れも口にては勝がたき石之助の弁に、お峯を泣かせし今朝とは変りて父が顔色いかにとばかり、折々見やる尻目おそろし、父は静かに金庫の間へ立ちしが頓て五十円束一つ持ち来て、これは貴様に遣るではなし、まだ縁づかぬ妹どもが不憫、姉が良人の顔にもかかる、この山村は代々堅気一方に正直律義を真向にして、悪い風説を立てられた事も無き筈を、天魔の生れがはりか貴様といふ悪者の出来て、無き余りの無分別に人の懐でも覗うやうにならば、恥は我が一代にとどまらず、重しといふとも身代は二の次、親兄弟に恥を見するな、貴様にいふとも
甲斐はないが、ふつうなら山村の若旦那として、いらぬ世間の悪評も受けず、私の代わりに年始の礼回りで少しは苦労を助けてくれるはずのところを、六十近い親に泣きを見せるとは罰当たりではないか。子供のときにはほんの少しは物のわかった奴だったのに、なぜこれがわからない。さあ行け、帰れ、どこへでも帰れ。この家に恥を見せるな」と、父は奥深くへ入っていき、金は石之助の懐に入った。
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甲斐は無けれど尋常ならば山村の若旦那とて、入らぬ世間に悪評もうけず、我が代りの年礼に少しの労をも助くる筈を、六十に近き親に泣きを見するは罰あたりで無きか、子供の時には本の少しものぞいた奴、何故これが分りをらぬ、さあ行け、帰れ、何処へでも帰れ、この家に恥は見するなとて父は奥深く這入りて、金は石之助が懐中に入りぬ。
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「お母さまご機嫌よう、良い新年をお迎えください。それでは参ります」と、暇乞いをわざとうやうやしく、「お峯、下駄をそろえろ。玄関からお帰りではないぞ、お出かけだぞ」とずうずうしく大手を振って。行く先はどこなのか。父の涙は一夜の騒ぎの中で夢と消えてしまうのだろうか。持ってはいけないのは放蕩息子、そして持ってはいけないのは放蕩息子を作り上げる継母なのだった。
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お母様御機嫌よう好い新年をお迎ひなされませ、左様ならば参りますと、暇乞わざとうやうやしく、お峯下駄を直せ、お玄関からお帰りでは無いお出かけだぞと図分々々しく大手を振りて、行先は何処、父が涕は一夜の騒ぎに夢とやならん、持つまじきは放蕩息子、持つまじきは放蕩を仕立る継母ぞかし。
塩をまきこそしないが、あとを一応掃き出して、若旦那退散の喜び。金は惜しいけれど見るのも憎らしいので、家にいないのは何より。どうすればあんなに図太くなれるのか、あの子を生んだ母さんの顔が見たいものだと、奥さまはいつものように毒舌を磨いた。
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塩花こそふらね跡は一まづ掃き出して、若旦那退散のよろこび、金は惜しけれど見る目も憎ければ家に居らぬは上々なり、どうすればあのやうに図太くなられるか、あの子を生んだ母さんの顔が見たい、と御新造例に依つて毒舌をみがきぬ。
お峯にはこの出来事など、どうして耳に入ろう。犯した罪の恐ろしさに、あれは自分がやったのか、それとも人がやったのか、さっきのしわざは、と今さら夢をたどる思いだった。考えてみればこのことが露見せずに済むだろうか。万のうちの一枚でも数えればすぐわかるのに、頼まれた額に相応の枚数が手近なところからなくなったとあれば、私にしても疑いはどこに向くだろう。調べられたらどうしよう、何と言おう。言い抜けようとするのは罪深い。白状すれば伯父の身にもかかる。自分の罪は覚悟の上だけれど、律義な伯父さままで濡れ衣を着せられて、身の潔白を証せないのが貧乏の常。こんなこともするものだと人に言われはしないか。悲しい、どうしたらいいだろう。伯父さまに傷がつかないように、我が身が急死する方法はないものかと、目は奥さまの立ち居に従いながら、心は掛け硯のもとをさま
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お峯はこの出来事も何として耳に入るべき、犯したる罪の恐ろしさに、我れか、人か、先刻の仕業はと今更夢路を辿りて、おもへばこの事あらはれずして済むべきや、万が中なる一枚とても数ふれば目の前なるを、願ひの高に相応の員数手近の処になく成しとあらば、我れにしても疑ひは何処に向くべき、調べられなば何とせん、何といはん、言ひ抜けんは罪深し、白状せば伯父が上にもかかる、我が罪は覚悟の上なれど物がたき伯父様にまで濡れ衣を着せて、干されぬは貧乏のならひ、かかる事もする物と人の言ひはせぬか、悲しや何としたらよかろ、伯父様に疵のつかぬやう、我身が頓死する法は無きかと目は御新造が起居にしたがひて、心はかけ硯のもとにさま
よっていた。
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よひぬ。
大勘定といって、この夜はあるかぎりの金をまとめて封印することがある。奥さまがそれそれと思い出して、「掛け硯に先ほど、屋根屋の太郎への貸付の返済、あの金が二十入りました。お筆、お峯、掛け硯をここへ」と奥の間から呼ばれて、もうこの時が我が命の終わりだと思った。大旦那の御前で初めからのことを申し上げ、奥さまが薄情にもそのまま言ってのけたことも話し、逃げる術も隠す法もない、正直こそ我が身の守り、逃げも隠れもせず、欲かどうかは知らないが盗みましたと白状しよう。伯父さまとは同じ心ではないということだけをどこまでも述べて、聞いてもらえなければ甲斐がない、その場で舌を噛み切って死んだなら、命に代えて嘘とはお思いになるまい。それほど度胸は据わったけれど、奥の間へ行く心地は屠所に引かれる羊のようだった。
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大勘定とてこの夜あるほどの金をまとめて封印の事あり、御新造それそれと思ひ出して、懸け硯に先程、屋根やの太郎に貸付のもどり彼金が二十御座りました、お筆お峯、かけ硯を此処へと奥の間より呼ばれて、最早この時わが命は無き物、大旦那が御目通りにて始めよりの事を申、御新造が無情そのままに言ふてのけ、術もなし法もなし正直は我身の守り、逃げもせず隠られもせず、欲かしらねど盗みましたと白状はしましよ、伯父様同腹で無きだけを何処までも陳べて、聞かれずば甲斐なしその場で舌かみ切つて死んだなら、命にかへて嘘とは思しめすまじ、それほど度胸すわれど奥の間へ行く心は屠処の羊なり。
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お峯が引き出したのはたった二枚、残りは十八あるはずなのに、どういうわけか束のまま見当たらない。底をひっくり返して振ってみても甲斐がない。あやしいことに、散らばった紙切れに、いつ書いたのか受取が一通。
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お峯が引出したるは唯二枚、残りは十八あるべき筈を、いかにしけん束のまま見えずとて底をかへして振へども甲斐なし、怪しきは落散し紙切れにいつ認めしか受取一通。
(引き出しの分もお借りいたしました 石之助)
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(引出しの分も拝借致し候 石之助)
さては放蕩息子かと人々は顔を見合わせて、お峯への詮議はなかった。親孝行の余徳を自分でも知らぬまま、石之助の罪ということになったのか。いやいや、知っていてついでにかぶった罪かもしれない。それなら石之助はお峯の守り本尊というべきだろう。その後どうなったか、知りたいものだ。
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さては放蕩かと人々顔を見合せてお峯が詮議は無かりき、孝の余徳は我れ知らず石之助の罪に成りしか、いやいや知りて序に冠りし罪かも知れず、さらば石之助はお峯が守り本尊なるべし、後の事しりたや。