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にごりえ

樋口一葉ひぐちいちよう)・1949

原文出典: 青空文庫

AI生成この訳はAI(claude-opus-4-8)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23

原文:
原文: おい木村さんしんさん寄つておいでよ、お寄りといつたら寄つてもいではないか、又素通りで二葉ふたばやへ行く気だらう、おしかけてつて引ずつて来るからさう思ひな、ほんとにおぶうなら帰りにきつとよつておくれよ、うそきだから何を言ふか知れやしないと店先に立つて馴染なじみらしきつツかけ下駄の男をとらへて小言こごとをいふやうな物の言ひぶり、腹も立たずか言訳しながら後刻のちに後刻にと行過ゆきすぎるあとを、一寸ちよつと舌打しながら見送つてのちにも無いもんだ来る気もない癖に、本当に女房もちに成つては仕方がないねと店に向つてしきいをまたぎながら一人言ひとりごとをいへば、たかちやん大分だいぶ御述懐ごじつかいだね、何もそんなに案じるにも及ぶまい焼棒杭やけぼつくいなにとやら、又よりの戻る事もあるよ、心配しない
ねえ木村さん、信さん、ちょっと寄っていきなよ。寄れって言ってるんだから寄ってくれたっていいじゃない。またそのまま素通りして二葉やへ行く気でしょう。押しかけていって引きずってでも連れてくるから、そのつもりでいなさいよ。本当にお風呂なら、帰りにきっと寄ってちょうだいね。嘘つきだから何を言うかわかったもんじゃない――と、店先に立って、馴染みらしい突っかけ下駄の男をつかまえて小言でも言うような話しぶり。相手は腹も立てず、言い訳しながら「あとで、あとで」と行き過ぎてしまう。その後ろ姿を、ちょっと舌打ちしながら見送って、「後にも先にもないもんだ、来る気なんかないくせに。本当に女房もちになったら仕方がないねえ」と店の方へ向かって敷居をまたぎながら独り言を言うと、「高ちゃん、ずいぶんぼやいてるね。何もそんなに気をもむこともないだろう。焼け木杭に何とやらで、また元のさやに戻ることもあるさ。心配しないで――
原文: まじなひでもして待つがいさと慰めるやうな朋輩ほうばい口振くちぶりりきちやんと違つてわたしには技倆うでが無いからね、一人でも逃しては残念さ、私しのやうな運の悪るい者には呪も何も聞きはしない、今夜も又木戸番か、何たら事だ面白くもないと肝癪かんしやくまぎれに店前みせさきへ腰をかけて駒下駄こまげたのうしろでとんとんと土間をるは二十の上を七つか十か引眉毛ひきまゆげに作り生際はへぎは白粉おしろいべつたりとつけてくちびるは人喰ふ犬のごとく、かくてはべにやらしき物なり、お力と呼ばれたるは中肉の背恰好せいかつかうすらりつとして洗ひ髪の大嶋田おほしまだに新わらのさわやかさ、ゑりもとばかりの白粉もえなく見ゆる天然の色白をこれみよがしにのあたりまで胸くつろげて、烟草たばこすぱすぱ長烟管ながぎせる立膝たてひざ無沙法ぶさはうさもとがめる人のなき
――おまじないでもして待ってるのが一番さ」と慰めるような仲間の口ぶり。「力ちゃんと違って、私には腕がないからね。一人でも逃がしたら残念さ。私みたいに運の悪い者には、おまじないも何も効きゃしない。今夜もまた木戸番か。なんてこった、面白くもない」と癇癪まぎれに店先へ腰をかけ、駒下駄の後ろでとんとんと土間を蹴っているのは、二十の上を七つか十かというところ。細く引いた眉に、作りこんだ生え際、白粉をべったり塗って、唇は人を喰う犬のよう。これでは紅もいやらしく見える。お力と呼ばれたのは、中肉ですらりとした背格好、洗い髪の大きな島田に新藁のようなさわやかさで、襟もとだけの白粉も映えないほどの生まれつきの色白。それを見せびらかすように胸を乳のあたりまでくつろげて、煙草をすぱすぱと長煙管でふかし、立て膝をした無作法さも咎める人がいない――
原文: こそよけれ、思ひ切つたる大形おほがた裕衣ゆかたひつかけ帯は黒繻子くろじゆすと何やらのまがひ物、ひらぐけが背の処に見えて言はずと知れしこのあたりの姉さま風なり、おたかといへるは洋銀のかんざしで天神がへしのまげの下をきながら思ひ出したやうに力ちやん先刻さつきの手紙お出しかといふ、はあと気のない返事をして、どうで来るのでは無いけれど、あれもお愛想さと笑つてゐるに、大底たいていにおしよ巻紙二尋ふたひろも書いて二枚切手の大封おほふうじがお愛想で出来る物かな、そしてあの人は赤坂以来からの馴染ではないか、少しやそつとの紛雑いざがあろうとも縁切れになつてたまる物か、お前の出かた一つでどうでもなるに、ちつとは精を出して取止めるやうに心がけたらかろ、あんまり冥利めうりがよくあるまい
――のをいいことに。思い切った大柄の浴衣をひっかけ、帯は黒繻子と何かのまがい物、緋色の平ぐけが背中のところに見えて、言わずと知れたこのあたりの姉さん風だ。お高というのは、洋銀のかんざしで天神返しの髷の下を掻きながら、思い出したように「力ちゃん、さっきの手紙は出したの」と言う。「はあ」と気のない返事をして、「どうせ来やしないけど、あれもお愛想さ」と笑っているので、「いい加減におしよ。巻紙を二尋も書いて、二枚切手の大封筒がお愛想でできるものかい。それにあの人は赤坂の頃からの馴染みじゃないか。ちょっとやそっとのもめ事があったって、縁が切れてたまるものか。お前の出方一つでどうにでもなるのに、少しは精を出して繋ぎとめるように心がけたらいいだろう。あんまりありがたみがなさすぎるよ」
原文: と言へば御親切に有がたう、御異見は承り置ましてわたしはどうもあんな奴は虫が好かないから、無き縁とあきらめて下さいと人事のやうにいへば、あきれたものだのと笑つてお前などはその我ままが通るから豪勢さ、この身になつては仕方がないと団扇うちはを取つて足元をあふぎながら、昔しは花よの言ひなし可笑をかしく、表を通る男を見かけて寄つてお出でと夕ぐれの店先にぎはひぬ。
と言うと、「ご親切にありがとう。ご意見は承っておきますけど、私はどうもあんな奴は虫が好かないから、縁がなかったとあきらめてください」と他人事のように言うので、「あきれたものだね」と笑って、「お前なんかはそのわがままが通るんだから大したもんさ。この身になっては仕方がない」とうちわを取って足元をあおぎながら、昔の栄華を語る口ぶりもおかしく、表を通る男を見かけては「寄っていってよ」と、夕暮れの店先はにぎわうのだった。
原文: 店は二けん間口の二階作り、軒には御神燈さげてじほ景気よく、空壜あきびんか何か知らず、銘酒あまた棚の上にならべて帳場めきたる処もみゆ、勝手元には七輪をあほぐ音折々に騒がしく、女主あるじが手づから寄せなべ茶椀ちやわんむし位はなるも道理ことわり、表にかかげし看板を見れば子細らしく御料理おんりようりとぞしたためける、さりとて仕出し頼みにゆきたらば何とかいふらん、にはか今日こんにち品切れもをかしかるべく、女ならぬお客様は手前店へお出かけを願ひまするとも言ふにかたからん、世は御方便や商売がらを心得て口取り焼肴やきざかなとあつらへに来る田舎ものもあらざりき、お力といふはこのの一枚看板、年は随一若けれども客を呼ぶに妙ありて、さのみは愛想の嬉しがらせを言ふやうにもなく我まま至
店は間口二間の二階建て。軒には御神灯を下げ、盛り塩も景気よく、空き瓶か何か知らないが銘酒をずらりと棚の上に並べて、帳場らしきところも見える。台所では七輪をあおぐ音が折々騒がしく、女主人が手ずから寄せ鍋や茶碗蒸しくらいは作るのももっともだ。表に掲げた看板を見れば、いかにも仰々しく「御料理」と書いてある。とはいえ、仕出しを頼みに行ったら何と言うだろう。急に「今日は品切れです」と答えるのもおかしいし、「女ではないお客様は当店へお出かけください」と言うのも難しかろう。世間の人はうまいこと商売柄を心得て、口取りや焼き魚を注文しに来るような田舎者もいなかった。お力というのはこの店の看板娘で、年は一番若いけれど客を呼ぶのがうまく、それほど愛想よくお世辞を言うでもなく、わがまま――
原文: 極の身の振舞、少し容貌きりようの自慢かと思へば小面こづらが憎くいと蔭口かげぐちいふ朋輩もありけれど、交際つきあつては存のほかやさしい処があつて女ながらも離れともない心持がする、ああ心とて仕方のないものおもざしが何処どことなくへて見へるはあの子の本性が現はれるのであらう、たれしも新開しんかい這入はいるほどの者で菊の井のお力を知らぬはあるまじ、菊の井のお力か、お力の菊の井か、さても近来まれの拾ひもの、あののお蔭で新開の光りが添はつた、かかぬしは神棚へささげて置いてもいとて軒並びのうらやみぐさになりぬ。
――放題の振る舞い。少し器量の自慢かと思えば、こしゃくで憎らしいと陰口を言う仲間もいたが、付き合ってみると思いのほか優しいところがあって、女ながらも離れがたい気持ちになる。ああ心とはどうにもならないもので、面差しがどことなく冴えて見えるのは、あの子の本性が現れているのだろう。誰でも新開に足を踏み入れるほどの者で、菊の井のお力を知らない者はいまい。菊の井のお力か、お力の菊の井か。まったく近ごろ稀な掘り出し物で、あの娘のおかげで新開に光が添った。抱え主は神棚に供えておいてもいいくらいだと、近所じゅうの羨みの種になった。
原文: お高は往来ゆききの人のなきを見て、力ちやんお前の事だから何があつたからとて気にしてもゐまいけれど、私は身につまされてげんさんの事が思はれる、それは今の身分に落ぶれては根つから宜いお客ではないけれども思ひ合ふたからには仕方がない、年がちがをが子があろがさ、ねへさうではないか、お内儀かみさんがあるといつて別れられる物かね、かまふ事はない呼出しており、私しのなぞといつたら野郎が根から心替りがして顔を見てさへ逃げ出すのだから仕方がない、どうであきらめ物で別口へかかるのだがお前のはそれとは違ふ、了簡りようけん一つでは今のお内儀かみさんに三下みくだはんをも遣られるのだけれど、お前は気位が高いから源さんと一処ひとつにならうとは思ふまい、それだものなほ
お高は通りに人がいないのを見て、「力ちゃん、お前のことだから何かあったからって気にしてもいないだろうけど、私は身につまされて源さんのことが思われるよ。そりゃ今の身分に落ちぶれては、まるでいい客じゃないけれど、惚れ合ったからには仕方がない。年が違おうが、子がいようがさ、ねえそうじゃないか。おかみさんがいるからって別れられるもんかね。かまうことはない、呼び出しておやりよ。私のなんかときたら、男が根っから心変わりして、顔を見るだけで逃げ出すんだから仕方がない。どうせ諦め物で別口にかかるんだけど、お前のはそれとは違う。腹一つ決めれば今のおかみさんに三下り半を渡してやることもできるのに、お前は気位が高いから源さんと一緒になろうとは思うまい。だからこそ、なおさら――
原文: 事呼ぶ分に子細があるものか、手紙をお書き今に三河やの御用聞きが来るだろうからあの子僧に使ひやさんをせるがい、なんの人お嬢様ではあるまいし御遠慮ばかりまをしてなる物かな、お前は思ひ切りが宜すぎるからいけないともかく手紙をやつて御覧、源さんも可愛さうだわなと言ひながらお力を見れば烟管掃除に余念のなきか俯向うつむきたるまま物いはず。
――呼ぶくらい、何のさしさわりもないじゃないか。手紙をお書きよ。今に三河やの御用聞きが来るだろうから、あの小僧に使いをさせるのがいい。何を、お嬢様じゃあるまいし、ご遠慮ばかり申していてどうするの。お前は思い切りがよすぎるからいけない。ともかく手紙をやってごらんよ。源さんも可哀想だわねえ」と言いながらお力を見れば、煙管の掃除に余念がないのか、うつむいたまま何も言わない。
原文: やがて雁首がんくびを奇麗にいて一服すつてポンとはたき、又すいつけてお高に渡しながら気をつけておくれ店先で言はれると人聞きが悪いではないか、菊の井のお力は土方の手伝ひを情夫まぶに持つなどと考違かんちがへをされてもならない、それは昔しの夢がたりさ、何の今は忘れてしまつてげんとも七とも思ひ出されぬ、もうその話しはめ止めといひながら立あがる時表を通る兵児帯へこおびの一むれ、これ石川さん村岡さんお力の店をお忘れなされたかと呼べば、いや相変らず豪傑の声がかり、素通りもなるまいとてずつと這入るに、たちまち廊下にばたばたといふ足おと、ねへさんお銚子と声をかければ、お肴は何をと答ふ、三味さみ景気よく聞えて乱舞の足音これよりぞ聞えそめぬ。
やがて煙管の雁首をきれいに拭いて一服吸うと、ポンとはたき、また吸いつけてお高に渡しながら、「気をつけておくれ。店先で言われると人聞きが悪いじゃないか。菊の井のお力は土方の手伝いを情夫に持っているなんて勘違いされてもたまらない。あれは昔の夢物語さ。今はもうすっかり忘れてしまって、源とも七とも思い出せやしない。もうその話はやめ、やめ」と言いながら立ち上がったとき、表を通る兵児帯の一団がいた。「これ、石川さん、村岡さん、お力の店をお忘れですか」と呼べば、「いや、相変わらず豪傑の声がかりだ。素通りもなるまい」とずっと中へ入ってくる。たちまち廊下でばたばたと足音がして、「姉さん、お銚子」と声をかければ、「お肴は何を」と答える。三味線の音も景気よく聞こえ、乱舞の足音もこのときから聞こえ始めた。
原文:
原文: さる雨の日のつれづれに表を通る山高帽子の三十男、あれなりとらずんばこの降りに客の足とまるまじとお力かけ出してたもとにすがり、どうでも遣りませぬと駄々をこねれば、容貌きりようよき身の一徳、例になき子細らしきお客を呼入れて二階の六畳に三味線さみせんなしのしめやかなる物語、年を問はれて名を問はれてその次は親もとの調べ、士族かといへばそれは言はれませぬといふ、平民かと問へばどうござんしようかと答ふ、そんなら華族と笑ひながら聞くに、まあさうおもふてゐて下され、お華族の姫様ひいさまが手づからのお酌、かたじけなく御受けなされとて波々とつぐに、さりとは無左法ぶさはうな置つぎといふが有る物か、それは小笠原か、何流ぞといふに、お力流とて菊の井一家
ある雨の日の退屈しのぎに、表を通る山高帽子の三十男を見つけて、あれを捕まえないでこの降りに客の足がとまるものかと、お力は駆け出して袂にすがりつき、「どうしても行かせません」と駄々をこねた。器量がいいのも一つの得だ。いつになく訳ありらしい客を呼び入れて、二階の六畳に三味線なしのしめやかな話。年を聞かれ、名を聞かれ、その次は生まれの詮索。「士族か」と言えば「それは言えません」と言い、「平民か」と問えば「どうでしょうか」と答える。「それなら華族か」と笑いながら聞くと、「まあそう思っていてください。お華族のお姫様が手ずからお酌、ありがたくお受けなさい」と、なみなみと注ぐので、「それはずいぶん無作法な置き注ぎというものがあるものか。それは小笠原流か、何流だ」と言うと、「お力流といって菊の井一家――
原文: の左法、畳に酒のまする流気りうぎもあれば、大平おほひらふたであほらする流気もあり、いやなお人にはお酌をせぬといふが大詰めのきまりでござんすとておくしたるさまもなきに、客はいよいよ面白がりて履歴をはなして聞かせよ定めてすさましい物語があるに相違なし、ただの娘あがりとは思はれぬどうだとあるに、御覧なさりませびんの間に角も生へませず、そのやうに甲羅は経ませぬとてころころと笑ふを、さうぬけてはいけぬ、真実の処を話して聞かせよ、素性が言へずは目的でもいへとて責める、むづかしうござんすね、いふたら貴君あなたびつくりなさりましよ天下を望む大伴おほとも黒主くろぬしとはわたしが事とていよいよ笑ふに、これはどうもならぬそのやうに茶利ちやりばかり言はで少し真実しんの処
――の作法。畳に酒を飲ませる流儀もあれば、大平椀の蓋であおらせる流儀もあり、いやなお人にはお酌をしないというのが最後の決まりでございます」と、臆した様子もない。客はいよいよ面白がって、「これまでのことを話して聞かせろ。きっとすさまじい物語があるに違いない。ただの娘上がりとは思えない。どうだ」と言うと、「ご覧なさいませ、まだ鬢の間に角も生えていません。そんなに年季は積んでいませんよ」ところころ笑うのを、「そうはぐらかしてはいけない。本当のところを話して聞かせろ。素性が言えないなら、目当ての男でも言え」と責める。「難しゅうございますね。言ったらあなた、びっくりなさいますよ。天下を望んだ大伴の黒主というのは私のことです」といよいよ笑うので、「これはどうにもならない。そんなにふざけてばかりいないで、少し本当のところを――
原文: を聞かしてくれ、いかに朝夕てうせきを嘘の中に送るからとてちつとは誠も交るはづ良人おつとはあつたか、それとも親ゆゑかとしんに成つて聞かれるにお力かなしく成りて、私だとて人間でござんすほどに少しは心にしみる事もありまする、親は早くになくなつて今は真実ほんの手と足ばかり、こんな者なれど女房に持たうといふて下さるも無いではなけれどだ良人をば持ませぬ、どうで下品に育ちました身なればこんな事して終るのでござんしよと投出したやうなことばに無量の感があふれてあだなる姿の浮気らしきに似ず一ふしさむろう様子のみゆるに、何も下品に育つたからとて良人の持てぬ事はあるまい、ことにお前のやうな別品べつぴんさむではあり、一そくとびにたま輿こしにも乗れさうなもの、そ
――聞かせてくれ。いくら朝から晩まで嘘の中に暮らしているからといって、少しは本音も混じるはずだ。夫はいたのか、それとも親のせいか」と真剣になって聞かれると、お力は悲しくなって、「私だって人間ですから、少しは心にしみることもあります。親は早くに亡くなって、今は本当に手と足ばかり。こんな者ですが女房に持とうと言ってくださる方もいないではないけれど、まだ夫は持っていません。どうせ下品に育った身ですから、こんなことをして終わるのでしょう」と投げ出すように言う言葉に、はかりしれない思いがあふれて、なまめかしい姿の浮わついた感じに似合わず、どこか寂しげな様子が見えるので、「何も下品に育ったからといって、夫が持てないことはあるまい。ことにお前のような別嬪だ、一足飛びに玉の輿にも乗れそうなもの。それ――
原文: れともそのやうな奥様あつかひ虫が好かでやはり伝法肌でんぽうはだの三尺帯が気に入るかなと問へば、どうで其処そこらがおちでござりましよ、此方こちらで思ふやうなは先様がいやなり、来いといつて下さるお人の気に入るもなし、浮気のやうに思召おぼしめしましようがその日送りでござんすといふ、いやさうは言はさぬ相手のない事はあるまい、今店先でれやらがよろしく言ふたとほかの女が言伝ことづてたでは無いか、いづれ面白い事があらう何とだといふに、ああ貴君あなたもいたり穿索せんさくなさります、馴染はざら一面、手紙のやりとりは反古ほごの取かへツこ、書けとおつしやれば起証でも誓紙でもお好み次第さし上ませう、女夫めをとやくそくなどと言つても此方こちで破るよりは先方様さきさまの性根なし、主人もちなら主人がこわ
――とも、そんな奥様扱いは虫が好かなくて、やっぱり伝法肌の三尺帯が気に入るのか」と問えば、「どうせそんなところが落ちでしょう。こちらが思うような人は先方が嫌で、来いと言ってくださる人は気に入らない。浮気のようにお思いでしょうが、その日暮らしでございます」と言う。「いや、そうは言わせない。相手がいないことはあるまい。今も店先で誰かがよろしく言っていたと、ほかの女が言伝てたじゃないか。どうせ面白いことがあるんだろう、何だ」と言うと、「ああ、あなたも大した詮索なさいますね。馴染みはざらに一面、手紙のやりとりは反故の取り替えっこ。書けとおっしゃれば起請でも誓紙でもお好み次第さし上げましょう。夫婦約束などと言っても、こちらから破るよりは先方が意気地なし。主人もちなら主人が怖く――
原文: 親もちなら親の言ひなり、振向ひて見てくれねば此方こちらも追ひかけて袖を捉らへるに及ばず、それならせとてそれぎりに成りまする、相手はいくらもあれども一生を頼む人が無いのでござんすとて寄る辺なげなる風情ふぜい、もうこんな話しは廃しにして陽気にお遊びなさりまし、私は何も沈んだ事は大嫌ひ、さわいでさわいで騒ぎぬかうと思ひますとて手をたたいて朋輩を呼べば力ちやん大分おしめやかだねと三十女の厚化粧が来るに、おいこのの可愛い人は何といふ名だと突然だしぬけに問はれて、はあ私はまだお名前を承りませんでしたといふ、嘘をいふと盆が来るに焔魔様ゑんまさまへお参りが出来まいぞと笑へば、それだとつて貴君今日お目にかかつたばかりでは御坐りませんか、今
――て、親もちなら親の言いなり。振り向いて見てくれなければ、こちらも追いかけて袖を捕まえるまでもない。それならやめておこうと、それきりになります。相手はいくらでもいるけれど、一生を頼む人がいないのでございます」と、寄る辺なさそうな様子。「もうこんな話はやめにして、陽気にお遊びなさいませ。私は沈んだことが大嫌い。騒いで騒いで騒ぎぬこうと思います」と手を叩いて仲間を呼ぶと、「力ちゃん、ずいぶんしめやかだね」と三十女の厚化粧がやって来る。「おい、この娘の可愛い人は何という名だ」といきなり問われて、「はあ、私はまだお名前を伺っていませんでした」と言う。「嘘をつくとお盆が来たとき閻魔様へお参りができないぞ」と笑えば、「それだって、あなた、今日お目にかかったばかりじゃございませんか。今――
原文: 改めて伺ひに出やうとしてゐましたといふ、それは何の事だ、貴君のお名をさと揚げられて、馬鹿々々お力が怒るぞと大景気、無駄ばなしの取りやりに調子づいて旦那のお商売を当て見ませうかとお高がいふ、何分なにぶん願ひますと手のひらを差出せば、いゑそれには及びませぬ人相で見まするとて如何いかにもおちつきたる顔つき、よせよせじつと眺められて棚おろしでも始まつてはたまらぬ、かう見えても僕は官員だといふ、嘘を仰しやれ日曜のほかに遊んであるく官員様があります物か、力ちやんまあ何でいらつしやらうといふ、化物ではいらつしやらないよと鼻の先で言つて分つた人に御褒賞ごほうびだと懐中ふところから紙入れをいだせば、お力笑ひながら高ちやん失礼をいつてはならない
――あらためて伺おうとしていました」と言う。「それは何のことだ」「あなたのお名をさ」と持ち上げられて、「馬鹿馬鹿、お力が怒るぞ」と大騒ぎ。無駄話のやり取りに調子づいて、「旦那のご商売を当ててみましょうか」とお高が言う。「ぜひ願います」と手のひらを差し出すと、「いえ、それには及びません。人相で見ます」といかにも落ち着いた顔つき。「よせよせ、じっと眺められて棚おろしでも始まってはたまらん。こう見えても僕は官員だ」と言う。「嘘おっしゃい。日曜のほかに遊び歩く官員様がありますものか。力ちゃん、まあ何でいらっしゃるだろう」と言う。「化け物ではいらっしゃらないよ」と鼻の先で言って、「わかった人にご褒美だ」と懐から紙入れを出すと、お力は笑いながら、「高ちゃん、失礼を言ってはいけない――
原文: このお方は御大身ごたいしんの御華族様おしのびあるきの御遊興さ、何の商売などがおありなさらう、そんなのでは無いと言ひながら蒲団ふとんの上に乗せて置きし紙入れを取あげて、お相方あいかたの高尾にこれをばお預けなされまし、みなの者に祝義でもつかはしませうとて答へも聞かずずんずんと引出ひきいだすを、客は柱に寄かかつて眺めながら小言もいはず、諸事おまかせ申すと寛大の人なり。
――このお方はご大身のご華族様、お忍び歩きのご遊興さ。何の商売なんかおありでしょう。そんなのではない」と言いながら、蒲団の上に乗せておいた紙入れを取り上げて、「お相方の高尾に、これをお預けなさいませ。みんなに祝儀でもあげましょう」と、返事も聞かずどんどん取り仕切る。客は柱に寄りかかって眺めながら小言も言わず、「何もかもお任せする」と鷹揚な人だ。
原文: お高はあきれて力ちやん大底におしよといへども、何いのさ、これはお前にこれは姉さんに、大きいので帳場の払ひを取つて残りは一同みんなにやつても宜いと仰しやる、お礼をまをして頂いてお出でと蒔散まきちらせば、これをこのの十八番に馴れたる事とてさのみは遠慮もいふてはゐず、旦那よろしいのでございますかと駄目を押して、有がたうございますときさらつて行くうしろ姿、十九にしてはけてるねと旦那どの笑ひ出すに、人の悪るい事を仰しやるとてお力はつて障子を明け、手摺てすりに寄つて頭痛をたたくに、お前はどうする金は欲しくないかと問はれて、私は別にほしい物がござんした、此品これさへ頂けば何よりと帯の間から客の名刺をとり出して頂くまねをす
お高はあきれて「力ちゃん、いい加減におしよ」と言うけれど、「何、いいのさ。これはお前に、これは姉さんに。大きいので帳場の払いを取って、残りはみんなにやってもいいとおっしゃる。お礼を申していただいておいで」とばらまくと、この娘は十八番の慣れたことだからそれほど遠慮もせず、「旦那、よろしいのでございますか」と念を押して、「ありがとうございます」とかき集めていく後ろ姿。「十九にしては老けてるね」と旦那が笑い出すと、「人の悪いことをおっしゃる」とお力は立って障子を開け、手摺りに寄りかかって頭痛の頭を叩く。「お前はどうする、金は欲しくないか」と問われて、「私は別に欲しい物がございました。これさえいただければ何よりで」と帯の間から客の名刺を取り出して、いただくまねをす――
原文: れば、何時いつの間に引出した、お取かへには写真をくれとねだる、この次の土曜日に来て下されば御一処にうつしませうとて帰りかかる客をさのみは止めもせず、うしろに廻りて羽織をきせながら、今日は失礼を致しました、またのおいでを待ますといふ、おい程の宜い事をいふまいぞ、空誓文そらせいもんは御免だと笑ひながらさつさつと立つて階段はしごを下りるに、お力帽子を手にしてうしろから追ひすがり、嘘か誠か九十九の辛棒をなさりませ、菊の井のお力は鋳型いがたに入つた女でござんせぬ、又なりのかはる事もありまするといふ、旦那お帰りと聞て朋輩の女、帳場の女主あるじもかけ出して唯今は有がたうと同音の御礼、頼んで置いた車がしとて此処ここからして乗り出せば、家中うちぢう表へ送り出し
――ると、「いつの間に抜き取った。お取り替えには写真をくれ」とねだる。「この次の土曜日に来てくだされば、ご一緒に写しましょう」と、帰りかけた客をそれほど引き止めもせず、後ろに回って羽織を着せながら、「今日は失礼いたしました。またのお越しをお待ちします」と言う。「おい、調子のいいことを言うまいぞ。空誓文はご免だ」と笑いながらさっさと立って梯子段を下りると、お力は帽子を手にして後ろから追いすがり、「嘘か本当か、九十九夜の辛抱をなさいませ。菊の井のお力は鋳型にはまった女ではございません。またなりの変わることもございます」と言う。「旦那、お帰り」と聞いて仲間の女も、帳場の女主人も駆け出して、「ただいまはありがとう」と口をそろえてお礼。頼んでおいた車が来たというので、ここから乗り出すと、店じゅうが表へ送り出――
原文: てお出を待まするの愛想、御祝義の余光ひかりとしられて、あとには力ちやん大明神様これにも有がたうの御礼山々。
――して、お越しをお待ちしますという愛想。ご祝儀の余禄と知れて、後には「力ちゃん大明神様」、これにもありがとうのお礼が山々だった。
原文:
原文: 客は結城朝之助ゆふきとものすけとて、自ら道楽ものとは名のれども実体じつていなる処折々に見えて身は無職業妻子なし、遊ぶに屈強なる年頃なればにやこれを初めに一週には二三度の通ひ、お力も何処どことなくなつかしく思ふかして三日見えねばふみをやるほどの様子を、朋輩ほうばい女子おんなども岡焼ながらからかひては、力ちやんお楽しみであらうね、男振おとこぶりはよし気前はよし、今にあの方は出世をなさるに相違ない、その時はお前の事を奥様とでもいふのであらうに今つから少し気をつけて足を出したり湯呑ゆのみであほるだけはめにおし人がらが悪いやねと言ふもあり、源さんが聞たらどうだらう気違ひになるかも知れないとて冷評ひやかすもあり、ああ馬車にのつて来る時都合が悪るいから道普請からしてもらいた
客は結城朝之助といって、自分では道楽者と名乗るけれど、まじめなところが折々に見えて、無職で妻子もない。遊ぶには格好の年頃だからか、これを皮切りに一週間に二、三度は通う道。お力もどことなく懐かしく思うのか、三日見えなければ手紙をやるほどの様子を、仲間の女たちが焼きもちを焼きながらからかっては、「力ちゃん、お楽しみだろうね。男ぶりはいいし気前もいい、今にあの方は出世なさるに違いない。そのときはお前のことを奥様とでも言うんだろうから、今のうちに少し気をつけて、足を出したり湯呑みであおったりするのはやめにおしよ、品が悪いよ」と言う者もあり、「源さんが聞いたらどうだろう、気違いになるかもしれない」と冷やかす者もあり、「ああ、馬車に乗って来るとき都合が悪いから、道普請からしてもらいた――
原文: いね、こんな溝板どぶいたのがたつく様な店先へそれこそ人がらがわろくて横づけにもされないではないか、お前方ももう少しお行義を直してお給仕に出られるやう心がけておくれとずばずばといふに、ヱヱ憎くらしいそのものいひを少し直さずは奥様らしく聞へまい、結城さんが来たら思ふさまいふて、小言をいはせて見せようとて朝之助の顔を見るよりこんな事を申てゐまする、どうしても私共の手にのらぬやんちやなれば貴君あなたからしかつて下され、第一湯呑みで呑むは毒でござりましよと告口つげぐちするに、結城は真面目になりてお力酒だけは少しひかへろとの厳命、ああ貴君のやうにもないお力が無理にも商売してゐられるはこのちからと思し召さぬか、私に酒気さかけが離れたら坐敷は三昧堂さんまいどう
――いね。こんな溝板のがたつくような店先へは、それこそ品が悪くて横づけにもされないじゃないか。あんた方ももう少し行儀を直して、お給仕に出られるよう心がけておくれ」とずばずば言うので、「ええ、憎らしい。そのものの言い方を少し直さないと奥様らしく聞こえないよ。結城さんが来たら思いっきり言いつけて、小言を言わせてやろう」と、朝之助の顔を見るなりこんなことを申し立てる。「どうしても私どもの手に乗らないやんちゃですから、あなたから叱ってください。第一、湯呑みで飲むのは毒でございましょう」と告げ口すると、結城は真面目になって「お力、酒だけは少し控えろ」との厳命。「ああ、あなたのようにもいかないお力が、無理にも商売していられるのはこの力(酒の力)とお思いになりませんか。私から酒気が離れたら、座敷はお墓――
原文: のやうに成りませう、ちつと察して下されといふに成程々々とて結城は二ごんといはざりき。
――のようになりましょう。少し察してください」と言うので、「なるほど、なるほど」と結城はそれ以上は言わなかった。
原文: 或る夜の月にした坐敷へは何処やらの工場の一れ、どんぶりたたいて甚九じんくかつぽれの大騒ぎに大方の女子おなごは寄集まつて、例の二階の小坐敷には結城とお力の二人ぎりなり、朝之助は寝ころんで愉快らしく話しを仕かけるを、お力はうるささうに生返事をして何やらん考へてゐる様子、どうかしたか、又頭痛でもはじまつたかと聞かれて、何頭痛も何もしませぬけれどしきりに持病が起つたのですといふ、お前の持病は肝癪かんしやくか、いいゑ、血の道か、いいゑ、それでは何だと聞かれて、どうも言ふ事は出来ませぬ、でもほかの人ではなし僕ではないかどんな事でも言ふて宜さそうなもの、まあ何の病気だといふに、病気ではござんせぬ、唯こんな風になつてこんな事を思ふのですといふ
ある月夜のこと、下座敷にはどこやらの工場の一団が来て、丼を叩いて甚句だかっぽれだかの大騒ぎ。たいていの女はそこに寄り集まって、いつもの二階の小座敷には結城とお力の二人きり。朝之助は寝転んで愉快そうに話を仕掛けるのを、お力はうるさそうに生返事をして、何やら考えている様子。「どうかしたか、また頭痛でも始まったか」と聞かれて、「何、頭痛も何もしませんけど、しきりに持病が起こったのです」と言う。「お前の持病は癇癪か」「いいえ」「血の道か」「いいえ」「それでは何だ」と聞かれて、「どうも言うことはできません」「でも、ほかの人ではなし、僕じゃないか、どんなことでも言っていいだろう。まあ、何の病気だ」と言うと、「病気ではございません。ただこんな風になって、こんなことを思うのです」と言う――
原文: 、困つた人だな種々いろいろ秘密があると見える、おとつさんはと聞けば言はれませぬといふ、おつかさんはと問へばそれも同じく、これまでの履歴はといふに貴君には言はれぬといふ、まあうそでもいさよしんば作り言にしろ、かういふ身の不幸ふしあはせだとか大底のひとはいはねばならぬ、しかも一度や二度あふのではなしその位の事を発表しても子細はなからう、よし口に出して言はなからうともお前に思ふ事がある位めくら按摩あんまに探ぐらせても知れた事、聞かずとも知れてゐるが、それをば聞くのだ、どつち道同じ事だから持病といふのを先きに聞きたいといふ、およしなさいまし、お聞きになつてもつまらぬ事でござんすとてお力は更に取あはず。
――「困った人だな、いろいろ秘密があると見える。お父さんは」と聞けば「言えません」と言う。「お母さんは」と問えばそれも同じく。「これまでの身の上は」と言うと「あなたには言えません」と言う。「まあ嘘でもいいさ、たとえ作り話にしろ、こういう身の不幸だとか、たいていの女は言わなければならない。しかも一度や二度会うのではなし、その程度のことを打ち明けても差し支えはあるまい。よし口に出して言わなくても、お前に思うことがあるくらいは、めくら按摩に探らせたってわかること、聞かなくてもわかっているが、それを聞くのだ。どっちみち同じことだから、持病というのを先に聞きたい」と言う。「およしなさいませ、お聞きになってもつまらないことでございます」とお力はまるで取り合わない。
原文: 折から下坐敷より杯盤を運びきし女の何やらお力に耳打してともかくも下までおいでよといふ、いや行きたくないからよしておくれ、今夜はお客が大変に酔ひましたからお目にかかつたとてお話しも出来ませぬと断つておくれ、ああ困つた人だねとまゆを寄せるに、お前それでもいのかへ、はあ宜いのさとてひざの上でばちもてあそべば、女は不思議さうに立つてゆくを客は聞すまして笑ひながら御遠慮には及ばない、つて来たら宜からう、何もそんなに体裁には及ばぬではないか、可愛い人を素戻すもどしもひどからう、追ひかけて逢ふが宜い、何なら此処へでも呼び給へ、片隅へ寄つて話しの邪魔はすまいからといふに、串談じようだんはぬきにして結城さん貴君に隠くしたとて仕方がない
ちょうどそのとき、下座敷から杯や皿を運んできた女が、何やらお力に耳打ちして、「ともかく下までお出でよ」と言う。「いや、行きたくないからやめておくれ。今夜はお客がひどく酔ったから、お目にかかってもお話もできませんと断っておくれ。ああ困った人だね」と眉を寄せると、「お前それでもいいのかい」「はあ、いいのさ」と膝の上で撥をもてあそぶ。女は不思議そうに立っていくのを、客は聞き澄まして笑いながら、「ご遠慮には及ばない。会ってきたらいいだろう。何もそんなに体裁を繕うこともないじゃないか。可愛い人を素通しもひどかろう。追いかけて会うがいい。何なら、ここへでも呼びなさい。片隅に寄って話の邪魔はしないから」と言うと、「冗談はぬきにして、結城さん、あなたに隠したって仕方がない――
原文: からまをしますが町内で少しははばもあつた蒲団やの源七といふ人、久しい馴染なじみでござんしたけれど今は見るかげもなく貧乏して八百屋の裏の小さなうちにまいまいつぶろの様になつていまする、女房にようぼもあり子供もあり、私がやうな者に逢ひに来るとしではなけれど、縁があるかいまだに折ふし何のかのといつて、今も下坐敷へ来たのでござんせう、何も今さら突出すといふ訳ではないけれど逢つては色々面倒な事もあり、寄らずさわらず帰した方が好いのでござんす、恨まれるは覚悟の前、鬼だとも蛇だとも思ふがようござりますとて、撥を畳に少し延びあがりて表を見おろせば、何と姿が見えるかとなぶる、ああもう帰つたと見えますとて茫然ぼんとしてゐるに、持病といふのはそれか
――から申しますが、町内で少しは幅もきいた蒲団やの源七という人、久しい馴染みでございましたけれど、今は見る影もなく貧乏して、八百屋の裏の小さな家に、かたつむりのようになっています。女房もあり子供もあり、私のような者に会いに来る年ではないけれど、縁があるのか、今でも折々何のかのと言って、今も下座敷へ来たのでございましょう。何も今さら突き放すというわけではないけれど、会うといろいろ面倒なこともあり、寄らず障らず帰したほうがいいのでございます。恨まれるのは覚悟の前、鬼だとも蛇だとも思うがようございます」と、撥を畳に置いて少し伸びあがり、表を見下ろすと、「どうだ、姿が見えるか」とからかう。「ああ、もう帰ったと見えます」とぼんやりしているので、「持病というのはそれか」――
原文: と切込まれて、まあそんな処でござんせう、お医者様でも草津の湯でもと薄淋うすさびしく笑つてゐるに、御本尊を拝みたいな俳優やくしやで行つたら誰れの処だといへば、見たら吃驚びつくりでござりませう色の黒い背の高い不動さまの名代といふ、では心意気かと問はれて、こんな店で身上しんしやうはたくほどの人、人のいばかり取得とては皆無でござんす、面白くも可笑をかしくも何ともない人といふに、それにお前はどうして逆上のぼせた、これは聞き処と客は起かへる、大方逆上性のぼせせうなのでござんせう、貴君の事をもこの頃は夢に見ないはござんせぬ、奥様のお出来なされた処を見たり、ぴつたりと御出のとまつた処を見たり、まだまだ一層もつとかなしい夢を見て枕紙まくらがみがびつしよりに成つた事もござんす
――と切り込まれて、「まあ、そんなところでございましょう。お医者様でも草津の湯でも(治らない恋の病)」と薄寂しく笑っている。「ご本尊を拝みたいな。役者で言ったら誰に似ている」と言うと、「見たらびっくりでございましょう。色の黒い背の高い、お不動さまの名代というところです」「では、心意気に惚れたのか」と問われて、「こんな店で身代を潰すほどの人、人がいいだけが取り柄で、それも皆無でございます。面白くもおかしくも何ともない人」と言うので、「それなのにお前はどうしてのぼせた。これは聞きどころだ」と客は起き直る。「たぶんのぼせ性なのでございましょう。あなたのことも、この頃は夢に見ない夜はございません。奥様ができたところを見たり、ぴったりお越しがとまったところを見たり、まだまだもっと悲しい夢を見て、枕紙がびっしょりになったこともございます――
原文: 、高ちやんなぞは夜るるからとても枕を取るよりはやくいびきの声たかく、い心持らしいがどんなに浦山うらやましうござんせう、私はどんな疲れた時でも床へ這入はいると目がへてそれはそれは色々の事を思ひます、貴君は私に思ふ事があるだらうと察してゐて下さるから嬉しいけれど、よもや私が何をおもふかそれこそはお分りに成りますまい、考へたとて仕方がないゆゑ人前ばかりの大陽気、菊の井のお力はゆきぬけの締りなしだ、苦労といふ事はしるまいと言ふお客様もござります、ほんに因果とでもいふものか私が身位かなしい者はあるまいと思ひますとて潜然さめざめとするに、珍らしい事陰気のはなしを聞かせられる、慰めたいにも本末もとすゑをしらぬからはうがつかぬ、夢に見てくれ
――高ちゃんなんかは、夜寝るとなると枕を取るより早くいびきの声も高く、いい気持ちらしいけど、どんなに羨ましゅうございましょう。私はどんなに疲れたときでも、床に入ると目が冴えて、それはそれはいろいろのことを思います。あなたは私に思うことがあるだろうと察していてくださるから嬉しいけれど、まさか私が何を思っているか、それこそおわかりにはなりますまい。考えたって仕方がないから、人前ばかりの大陽気。菊の井のお力は行きぬけの締まりなしだ、苦労なんて知るまいと言うお客様もございます。ほんに、因果とでもいうものか、私ほど不幸せな者はいないと思います」としくしく泣くので、「珍しいことだ、陰気な話を聞かせられる。慰めたくても、いきさつを知らないから見当がつかない。夢に見てくれ――
原文: るほどじつがあらば奥様にしてくれろ位いひそうな物だに根つからお声がかりも無いはどういふ物だ、古風に出るがそでふり合ふもさ、こんな商売をいやだと思ふなら遠慮なく打明けばなしをるが宜い、僕は又お前のやうな気ではいつそ気楽だとかいふ考へで浮いて渡る事かと思つたに、それでは何か理屈があつてむを得ずといふ次第か、苦しからずは承りたい物だといふに、貴君には聞いて頂かうとこの間から思ひました、だけれども今夜はいけませぬ、何故々々なぜなぜ、何故でもいけませぬ、私が我まま故、まをすまいと思ふ時はどうしても嫌やでござんすとて、ついと立つてえんがはへいづるに、雲なき空の月かげ涼しく、見おろす町にからころ駒下駄こまげたの音さしてゆきかふ人のかげ分明あきらか
――るほど本気なら、奥様にしてくれろくらい言いそうなものなのに、根っから声もかからないのはどういうわけだ。古風に出れば、袖振り合うも他生の縁というだろう。こんな商売を嫌だと思うなら、遠慮なく打ち明け話をするがいい。僕はまた、お前のような気性ではいっそ気楽だとかいう考えで、浮いて渡っているのかと思ったのに。それでは何か理由があって、やむを得ずというわけか。差し支えなければ聞きたいものだ」と言うと、「あなたには聞いていただこうと、この間から思いました。だけれど今夜はいけません」「なぜ、なぜ」「なぜでもいけません。私はわがままだから、言うまいと思うときはどうしても嫌なのでございます」と、つと立って縁側へ出ると、雲一つない空の月影が涼しく、見下ろす町にからころと駒下駄の音をさせて、行き交う人の影がはっきりと――
原文: なり、結城さんと呼ぶに、何だとてそばへゆけば、まあ此処へお座りなさいと手を取りて、あの水菓子屋で桃を買ふ子がござんしよ、可愛らしき四つばかりの、彼子あれ先刻さつきの人のでござんす、あの小さな子心こごころにもよくよく憎くいと思ふと見えて私の事をば鬼々といひまする、まあそんな悪者に見えまするかとて、空を見あげてホツと息をつくさま、こらへかねたる様子は五いんの調子にあらはれぬ。
――見える。「結城さん」と呼ぶので、「何だ」とそばへ行くと、「まあ、ここへお座りなさい」と手を取って、「あの水菓子屋で桃を買う子がいるでしょう。可愛らしい四つばかりの。あの子がさっきの人の子でございます。あの小さな子供心にも、よくよく憎いと思うと見えて、私のことを『鬼、鬼』と言います。まあ、そんな悪者に見えますか」と、空を見上げてホッとため息をつく様子。こらえきれない気持ちは、その声の調子に表れていた。
原文:
原文: 同じ新開の町はづれに八百屋と髪結床かみゆひどこ庇合ひあはひのやうな細露路、雨が降る日は傘もさされぬ窮屈さに、足もととては処々ところどころ溝板どぶいたの落し穴あやふげなるを中にして、両側に立てたる棟割むねわり長屋、突当りの芥溜ごみためわきに尺二けんあががまち朽ちて、雨戸はいつも不用心のたてつけ、さすがに一方口いつぱうぐちにはあらで山の手の仕合しやわせは三尺ばかりの椽の先に草ぼうぼうの空地面、それがはじを少し囲つて青紫蘇あをぢそ、ゑぞ菊、隠元豆のつるなどを竹のあら垣にからませたるがお力が処縁の源七が家なり、女房はおはつといひて二十八か九にもなるべし、貧にやつれたれば七つも年の多く見えて、お歯黒はぐろはまだらに生へ次第の眉毛まゆげみるかげもなく、洗ひざらしの鳴海なるみ裕衣ゆかたを前と後を切りかへて膝のあたりは
同じ新開の町はずれに、八百屋と髪結い床が庇を寄せ合ったような細い露地があり、雨の降る日は傘もさせない窮屈さ。足元はところどころ溝板が落とし穴のように危なげで、それをはさんで両側に立っている棟割り長屋。突き当たりのごみ溜めの脇に、九尺二間の上がり框も朽ちて、雨戸はいつも不用心な建てつけ。それでも一方口ではなく、山の手にあるのが幸いで、三尺ばかりの縁の先に草ぼうぼうの空き地がある。その端を少し囲って、青紫蘇、蝦夷菊、いんげん豆の蔓などを竹の粗い垣に絡ませているのが、お力の親しい源七の家だ。女房はお初といって、二十八か九にもなるだろう。貧しさにやつれて七つも年上に見え、お歯黒はまだらに、生えるにまかせた眉毛も見る影もなく、洗いざらしの鳴海の浴衣を前と後ろを切り替えて、膝のあたりは――
原文: 目立ぬやうに小針のつぎ当、狭帯せまおびきりりと締めて蝉表せみおもての内職、盆前よりかけて暑さの時分をこれが時よと大汗になりての勉強せはしなく、そろへたるとうを天井から釣下げて、しばしの手数も省かんとて数のあがるを楽しみに脇目わきめもふらぬ様あはれなり。
――目立たないように細かい針でつぎ当てをし、狭い帯をきりりと締めて、蝉表の内職に精を出す。お盆前からかけて、暑い時分を今が稼ぎ時とばかりに大汗になって、せわしく働いている。揃えた籘を天井から吊り下げて、少しの手間でも省こうと、仕上がる数の増えるのを楽しみに、脇目もふらぬ様子があわれだ。
原文: もう日が暮れたに太吉たきちは何故かへつて来ぬ、源さんも又何処どこを歩いてゐるかしらんとて仕事を片づけて一服吸つけ、苦労らしく目をぱちつかせて、更に土瓶どびんの下を穿ほぢくり、蚊いぶし火鉢に火を取分けて三尺の椽に持出もちいだし、拾ひ集めの杉の葉をかぶせてふうふうと吹立ふきたつれば、ふすふすとけぶりたちのぼりて軒場のきばにのがれる蚊の声すさまじし、太吉はがたがたと溝板の音をさせてかかさん今戻つた、おとつさんも連れて来たよと門口かどぐちから呼立よびたつるに、大層おそいではないかお寺の山へでもゆきはしないかとどの位案じたらう、早くお這入はいりといふに太吉を先に立てて源七は元気なくぬつと上る、おやお前さんお帰りか、今日はどんなに暑かつたでせう、定めて帰りが早からうと思うて行水を沸
「もう日が暮れたのに太吉はどうして帰ってこないんだろう。源さんもまた、どこを歩いているのやら」と仕事を片づけて一服吸いつけ、心配そうに目をぱちくりさせて、なおも土瓶の下をほじくり、蚊いぶしの火鉢に火を取り分けて三尺の縁に持ち出し、拾い集めた杉の葉をかぶせてふうふうと吹き立てると、ふすふすと煙が立ちのぼって、軒端に逃げる蚊の声がすさまじい。太吉がガタガタと溝板の音をさせて、「母さん、今戻ったよ。お父さんも連れてきたよ」と門口から呼び立てるので、「ずいぶん遅いじゃないか。お寺の山へでも行きはしないかと、どれほど心配したことか。早くお入り」と言うと、太吉を先に立てて源七が元気なくのっそりと上がる。「おや、お前さん、お帰りかい。今日はどんなに暑かったでしょう。きっと帰りが早いだろうと思って、行水を沸か――
原文: かして置ました、ざつと汗を流したらどうでござんす、太吉もおぶうに這入なといへば、あいと言つて帯を解く、お待お待、今加減を見てやるとて流しもとにたらいを据へてかまの湯を汲出くみいだし、かき廻して手拭てぬぐひを入れて、さあお前さんこの子をもいれて遣つて下され、何をぐたりとておいでなさる、暑さにでも障りはしませぬか、さうでなければ一杯あびて、さつぱりに成つて御膳あがれ、太吉が待つてゐますからといふに、おおさうだと思ひ出したやうに帯を解いて流しへ下りれば、そぞろに昔しの我身が思はれて九尺二間の台処で行水つかふとは夢にも思はぬもの、ましてや土方の手伝ひして車の跡押あとおしにと親はうみつけても下さるまじ、ああつまらぬ夢を見たばかりにと、ぢ
――して置きました。ざっと汗を流したらどうでございます。太吉もお風呂に入りな」と言うと、「あい」と言って帯を解く。「お待ち、お待ち。今、加減を見てやる」と、流しもとに盥を据えて釜の湯を汲み出し、かき混ぜて手拭いを入れて、「さあ、お前さん、この子も入れてやってください。何をぐったりしていらっしゃる。暑さにでも当たったんじゃありませんか。そうでなければ一杯浴びて、さっぱりして御膳を召し上がれ。太吉が待っていますから」と言うと、「おお、そうだ」と思い出したように帯を解いて流しへ下りる。すると、しみじみと昔の我が身が思われて、九尺二間の台所で行水を使うとは夢にも思わなかったこと。ましてや、土方の手伝いや車の後押しになれと、親も産みつけてはくれなかったろう。「ああ、つまらない夢を見たばかりに」と、じ――
原文: つと身にしみて湯もつかはねば、とつちやん脊中せなか洗つておくれと太吉は無心に催促する、お前さん蚊が喰ひますから早々さつさつとお上りなされと妻も気をつくるに、おいおいと返事しながら太吉にも遣はせ我れも浴びて、上にあがれば洗ひざらせしさばさばの裕衣を出して、お着かへなさいましと言ふ、帯まきつけて風のく処へゆけば、妻は能代のしろの膳のはげかかりて足はよろめく古物に、お前の好きな冷奴ひややつこにしましたとて小丼こどんぶりに豆腐を浮かせて青紫蘇のたかく持出せば、太吉は何時いつしか台より飯櫃めしびつ取おろして、よつちよいよつちよい
――っと身にしみて、湯にも入らずにいると、「父ちゃん、背中を洗っておくれ」と太吉が無邪気に催促する。「お前さん、蚊が食いますから、早々とお上がりなさい」と妻も気をつけるので、「おいおい」と返事しながら太吉にも浴びせ、自分も浴びて、上に上がると、洗いざらしのさばさばの浴衣を出して、「お着替えなさいまし」と言う。帯を巻きつけて風の通るところへ行くと、妻は能代の膳の塗りがはげかかって足もよろめく古物に、「お前の好きな冷奴にしました」と、小丼に豆腐を浮かべて青紫蘇の香りも高く持ち出す。太吉はいつしか台所から飯びつを取りおろして、「よっちょい、よっちょい」
原文: は底本では「よつちよいよつよい
(「よっちょいよっちょい」は底本では「よっちょいよっちょい」)
原文: ]とかつぎ出す、坊主はれがそばに来いとてつむりでつつはしを取るに、心は何を思ふとなけれど舌に覚えの無くてのどの穴はれたるごとく、もうめにするとて茶椀ちやわんを置けば、そんな事があります物か、力業ちからわざをする人が三膳の御飯のたべられぬと言ふ事はなし、気合ひでも悪うござんすか、それともひどく疲れてかと問ふ、いや何処も何とも無いやうなれどただたべる気にならぬといふに、妻は悲しさうな目をしてお前さん又例のが起りましたらう、それは菊の井の鉢肴はちざかなうまくもありましたらうけれど、今の身分で思ひ出した処が何となりまする、先は売物買物お金さへ出来たら昔しのやうに可愛がつてもくれませう、表を通つて見ても知れる、白粉おしろいつけて衣類きものきて迷ふて来
と担ぎ出す。「坊主は俺のそばに来い」と、頭を撫でながら箸を取るが、心は何を思うともなく、舌に味の覚えもなくて、喉の穴がふさがったようで、「もうやめにする」と茶碗を置くと、「そんなことがありますものか。力仕事をする人が三膳の御飯が食べられないなんてことはない。具合でも悪いんですか、それともひどく疲れて」と問う。「いや、どこも何ともないようだが、ただ食べる気にならない」と言うと、妻は悲しそうな目をして、「お前さん、また例のが起こったんでしょう。そりゃ菊の井の鉢肴はうまくもあったでしょうけど、今の身分で思い出したところで何になります。向こうは売り物買い物、お金さえできれば昔のように可愛がってもくれましょう。表を通ってみてもわかる。白粉をつけていい着物を着て、迷って来――
原文: る人をれかれなしに丸めるがあの人達が商売、ああれが貧乏に成つたからかまいつけてくれぬなと思へば何の事なくすみましよう、恨みにでも思ふだけがお前さんが未練でござんす、裏町の酒屋の若い者知つておいでなさらう、二葉やのおかくしんから落込んで、かけ先を残らず使ひ込み、それを埋めやうとて雷神虎らいじんとら盆筵ぼんござはしについたが身の詰り、次第に悪るい事がみてしまひには土蔵やぶりまでしたさうな、当時いま男は監獄入りしてもつそうめしたべていやうけれど、相手のお角は平気なもの、おもしろ可笑をかしく世を渡るにとがめる人なく美事みごと繁昌してゐまする、あれを思ふに商売人の一徳、だまされたは此方こちらの罪、考へたとて始まる
――る人を、誰彼なしにたらし込むのがあの人たちの商売。ああ、俺が貧乏になったからかまいつけてくれないんだ、と思えば何のことなく済むでしょう。恨みにでも思うだけ、お前さんが未練でございます。裏町の酒屋の若い者を知っていらっしゃるでしょう。二葉やのお角に心から惚れ込んで、集金を残らず使い込み、それを埋めようとして雷神虎の賭場に手を出したのが身の詰まり。次第に悪いことが染みついて、しまいには蔵破りまでしたそうな。今その男は監獄入りして臭い飯(監獄の飯)を食べているでしょうけれど、相手のお角は平気なもの。面白おかしく世を渡って咎める人もなく、見事に繁盛しています。あれを思うと商売人の得なところ、だまされたのはこっちの罪。考えたって始まる――
原文: 事ではござんせぬ、それよりは気を取直して稼業かげふに精を出して少しの元手もこしらへるやうに心がけて下され、お前に弱られては私もこの子もどうする事もならで、それこそ路頭に迷はねば成りませぬ、男らしく思ひ切る時あきらめてお金さへ出来ようならお力はおろか小紫こむらさきでも揚巻あげまきでも別荘こしらへて囲うたら宜うござりましよう、もうそんな考へ事はめにして機嫌よく御膳あがつて下され、坊主までが陰気らしう沈んでしまいましたといふに、みれば茶椀と箸を其処そこに置いて父と母との顔をば見くらべて何とは知らず気になる様子、こんな可愛い者さへあるに、あのやうなたぬきの忘れられぬは何の因果かと胸の中かき廻されるやうなるに、我れながら未練ものめとしか
――ことではございません。それよりは気を取り直して稼業に精を出して、少しの元手も拵えるよう心がけてください。お前に弱られては、私もこの子もどうすることもできず、それこそ路頭に迷わなければなりません。男らしく思い切るときはあきらめて、お金さえできようなら、お力はおろか小紫でも揚巻(名だたる花魁)でも、別荘を拵えて囲ったらよろしゅうございましょう。もうそんな考え事はやめにして、機嫌よく御膳を召し上がってください。坊主までが陰気に沈んでしまいました」と言うので、見れば太吉は茶碗と箸をそこに置いて、父と母の顔を見比べて、何とは知らず気になる様子。「こんな可愛い者さえいるのに、あんな狸(お力)が忘れられないのは何の因果か」と胸の中をかき回されるようで、我ながら未練者めと叱り――
原文: つけて、いやれだとてその様に何時いつまでも馬鹿ではいぬ、お力などと名ばかりもいつてくれるな、いはれると以前もと不出来ふでかしを考へ出していよいよ顔があげられぬ、何のこの身になつて今更何をおもふ物か、めしがくへぬとてもそれは身体からだの加減であらう、何も格別案じてくれるには及ばぬ故小僧も十分にやつてくれとて、ころりと横になつて胸のあたりをはたはたと打あふぐ、蚊遣かやりけむりにむせばぬまでも思ひにもえて身の暑げなり。
――つけて、「いや、俺だってそういつまでも馬鹿ではいない。お力なんて名ばかりも言ってくれるな。言われると、以前のしくじりを思い出していよいよ顔が上げられぬ。何の、この身になって今さら何を思うものか。飯が食えないといっても、それは体の加減だろう。何も格別案じてくれるには及ばんから、小僧に十分に食わせてやってくれ」と、ころりと横になって胸のあたりをはたはたと打ちあおぐ。蚊遣りの煙にむせるまでもなく、思いに燃えて体が暑そうだ。
原文:
原文: 白鬼しろおにとは名をつけし、無間むげん地獄のそこはかとなく景色づくり、何処にからくりのあるとも見えねど、逆さ落しの血の池、借金の針の山に追ひのぼすも手の物ときくに、寄つてお出でよと甘へる声も蛇くふ雉子きぎすと恐ろしくなりぬ、さりとも胎内十月とつきの同じ事して、母の乳房にすがりし頃は手打々々てうちてうちあわわの可愛げに、紙幣さつと菓子との二つ取りにはおこしをおくれと手を出したる物なれば、今の稼業に誠はなくとも百人の中の一人に真からの涙をこぼして、聞いておくれ染物やのたつさんが事を、昨日きのふも川田やが店でおちやつぴいのお六めと悪戯ふざけまわして、見たくもない往来へまで担ぎ出して打ちつ打たれつ、あんな浮いた了簡りようけんで末が遂げられやうか、まあ幾歳いくつだとおも
誰が白鬼(遊女)と名をつけたのか。果てしない無間地獄を、それとなく景色に仕立てて、どこにからくりがあるとも見えないのに、逆さ落としの血の池、借金の針の山へと追い上げるのも手のうちだと聞けば、「寄っていってよ」と甘える声も、蛇を食う雉のように恐ろしくなる。それでも、母の胎内に十月宿ったのは皆同じこと、母の乳房にすがった頃は、手を打ってあわわと笑う可愛らしさで、お札とお菓子の二つを取れと言われれば、おこしをおくれと手を出したものだ。だから、今の稼業に誠はなくとも、百人に一人には本当の涙をこぼして、「聞いておくれ、染物やの辰さんのことを。昨日も川田やの店で、おちゃっぴいのお六めとふざけ回して、見たくもない往来にまで担ぎ出して、打ったり打たれたり。あんな浮ついた了見で、末が遂げられようか。まあ、いくつだと思――
原文: ふ三十は一昨年おととしい加減にうちでも拵へる仕覚しがくをしておくれとふ度に異見をするが、その時限りおいおいとそら返事して根つから気にも止めてはくれぬ、とつさんは年をとつて、ははさんと言ふは目の悪るい人だから心配をさせないやうに早く締つてくれればいが、わたしはこれでもあの人の半纒はんてんをば洗濯して、股引ももひきのほころびでも縫つて見たいと思つてゐるに、あんな浮いた心では何時引取つてくれるだらう、考へるとつくづく奉公がやになつてお客を呼ぶに張合もない、ああくさくさするとて常は人をもだます口で人のらきを恨みの言葉、頭痛を押へて思案に暮れるもあり、ああ今日は盆の十六日だ、お焔魔様ゑんまさまへのお参りに連れ立つて通る子供達の奇麗な着物きて小遣こづか
――う。三十は一昨年さ。いい加減に世帯でも持つ心づもりをしておくれと会うたびに意見をするが、そのときばかり『おいおい』と空返事をして、根っから気にも留めてくれない。父さんは年を取って、母さんという人は目の悪い人だから、心配をさせないように早く身を固めてくれればいいのに。私はこれでもあの人の半纏を洗濯して、股引のほころびでも縫ってみたいと思っているのに、あんな浮ついた心では、いつ私を引き取ってくれるだろう。考えると、つくづく奉公が嫌になって、お客を呼ぶのも張り合いがない。ああ、くさくさする」と、いつもは人をだます口で、人のつらさを恨みの言葉にして、頭痛をおさえて思案に暮れる者もいる。「ああ、今日はお盆の十六日だ。閻魔様へのお参りに連れ立って通る子供たちが、きれいな着物を着て小遣――
原文: ひもらつて嬉しさうな顔してゆくは、定めて定めて二人そろつて甲斐性かひせうのある親をば持つてゐるのであろ、私が息子の与太郎よたらうは今日の休みに御主人から暇が出て何処へつてどんな事して遊ばうとも定めし人がうらやましかろ、ととさんはのみぬけ、いまだに宿とても定まるまじく、母はこんな身になつて恥かしい紅白粉、よし居処が分つたとてあの子は逢ひに来てもくれまじ、去年向島むかふじまの花見の時女房づくりして丸髷まるまげに結つて朋輩ほうばいと共に遊びあるきしに土手の茶屋であの子に逢つて、これこれと声をかけしにさへ私の若くなりしにあきれて、おつかさんでござりますかと驚きし様子、ましてやこの大島田に折ふしは時好じこう花簪はなかんざしさしひらめかしてお客をらへて串談じようだんいふ処を聞かば子心に
――いをもらって嬉しそうな顔をして行くのは、きっと二人揃って甲斐性のある親を持っているのだろう。私の息子の与太郎は、今日の休みに主人から暇が出て、どこへ行ってどんなことをして遊んでいようとも、さぞ人が羨ましかろう。父さんは飲んだくれ、いまだに宿さえ定まっていないだろうし、母はこんな身になって恥ずかしい紅白粉。よし居場所がわかったとて、あの子は会いに来てもくれまい。去年、向島の花見のとき、女房づくりして丸髷に結い、仲間と一緒に遊び歩いていたら、土手の茶屋であの子に会って、これこれと声をかけただけでも、私が若くなったのに呆れて、『お母さんでございますか』と驚いた様子。ましてやこの大島田に、折々は流行りの花かんざしを挿してきらめかせ、お客を捕まえて冗談を言うところを聞いたら、子供心に――
原文: は悲しくも思ふべし、去年あひたる時今は駒形こまかた蝋燭ろうそくやに奉公してゐまする、私はどんならき事ありとも必らず辛抱しとげて一人前の男になり、ととさんをもお前をも今に楽をばおせ申ます、どうぞそれまで何なりと堅気かたぎの事をして一人で世渡りをしてゐて下され、人の女房にだけはならずにゐて下されと異見を言はれしが、悲しきは女子をなごの身の寸燐まつちの箱はりして一人口ひとりぐちすぐしがたく、さりとて人の台処を這ふも柔弱の身体からだなれば勤めがたくて、同じき中にも身の楽なれば、こんな事して日を送る、夢さら浮いた心では無けれど言甲斐いひがひのないお袋とあの子は定めしつまはじきするであらう、常は何とも思はぬ島田が今日ばかりは恥かしいと夕ぐれの鏡の前になみだぐむもあ
――は悲しくも思うだろう。去年会ったとき、『今は駒形の蝋燭やに奉公しています。私はどんなつらいことがあっても必ず辛抱しとげて、一人前の男になり、父さんもお前も今に楽をさせてあげます。どうぞそれまで何なりと堅気の仕事をして、一人で世渡りをしていてください。人の女房にだけはならずにいてください』と意見を言われたが、悲しいのは女の身、マッチの箱貼りをして一人口を過ごすのも難しく、かといって人の台所を這うのも、柔弱な体だから勤めがたく、同じつらい暮らしの中でも身が楽なので、こんなことをして日を送っている。夢にも浮ついた心ではないけれど、甲斐性のないお袋だと、あの子はさぞ後ろ指をさすだろう。いつもは何とも思わない島田が、今日ばかりは恥ずかしい」と、夕暮れの鏡の前で涙ぐむ者もあ――
原文: るべし、菊の井のお力とても悪魔の生れ替りにはあるまじ、さる子細あればこそ此処ここの流れに落こんでうそのありたけ串談にその日を送つて、なさけ吉野紙よしのがみの薄物に、ほたるの光ぴつかりとするばかり、人の涕は百年も我まんして、我ゆゑ死ぬる人のありとも御愁傷さまとわきを向くつらさ他処目よそめも養ひつらめ、さりとも折ふしは悲しき事恐ろしき事胸にたたまつて、泣くにも人目を恥れば二階座敷の床の間に身をなげふして忍びの憂き涕、これをば友朋輩にもらさじと包むに根生こんぜうのしつかりした、気のつよい子といふ者はあれど、障れば絶ゆるくもの糸のはかない処を知る人はなかりき、七月十六日のは何処の店にも客人きやくじん入込いりこみて都々一どどいつ端歌はうたの景気よく、菊の井のした座敷には
――るだろう。菊の井のお力とても、悪魔の生まれ変わりではあるまい。しかるべき事情があればこそ、この流れに落ち込んで、嘘のありったけを冗談にしてその日を送り、情けは吉野紙の薄物のように、蛍の光がぴかっとするばかり。人の涙は百年も我慢して、自分のせいで死ぬ人があっても、ご愁傷さまと横を向くつらさ。人目もそれで養い続けたのだろう。それでも折々は、悲しいこと恐ろしいことが胸にたたまって、泣くにも人目が恥ずかしいので、二階座敷の床の間に身を投げ伏して、忍び音でつらい涙を流す。これを友や仲間にも漏らすまいと包み隠すので、生まれつきしっかりした気の強い子だという者はいるけれど、触れれば切れる蜘蛛の糸のようなはかないところを知る人はいなかった。七月十六日の夜は、どこの店にも客が入り込んで、都々逸や端唄も景気よく、菊の井の下座敷には――
原文: 店者たなもの五六人寄集まりて調子の外れし紀伊きいくに、自まんも恐ろしき胴間声どうまごゑかすみころも衣紋坂ゑもんざかと気取るもあり、力ちやんはどうした心意気を聞かせないか、やつたやつたと責められるに、お名はささねどこの坐の中にと普通ついツとほりの嬉しがらせを言つて、やんややんやと喜ばれる中から、我恋は細谷川ほそだにがはの丸木橋わたるにやこわし渡らねばとうたひかけしが、何をか思ひ出したやうにああ私は一寸ちよツと無礼しつれいをします、御免なさいよとて三味線さみせんを置いて立つに、何処へゆく何処へゆく、逃げてはならないと坐中の騒ぐにてーちやん高さん少し頼むよ、き帰るからとてずつと廊下へ急ぎ足にいでしが、何をも見かへらず店口から下駄を履いて筋向ふの横町のやみへ姿をかくしぬ。
――店の者が五、六人寄り集まって、調子の外れた紀伊の国、自慢するのも恐ろしいような胴間声で、霞の衣、衣紋坂と気取る者もいる。「力ちゃんはどうした、心意気を聞かせないか。やった、やった」と責められると、「お名は挿しませんが、この座の中に(意中の人がいる)」と、いつもの嬉しがらせを言って、やんやと喜ばれる。そのなかから、「我が恋は細谷川の丸木橋、渡るには怖し、渡らねば――」と歌いかけたが、何を思い出したのか、「ああ、私はちょっと失礼をします。ごめんなさいよ」と三味線を置いて立つ。「どこへ行く、どこへ行く、逃げてはならない」と座中が騒ぐので、「照ちゃん、高さん、少し頼むよ。すぐ帰るから」とずっと廊下へ急ぎ足で出たが、何も振り返らず、店口から下駄を履いて、筋向かいの横町の闇へ姿を隠した。
原文: お力は一散に家を出て、行かれる物ならこのままに唐天竺からてんぢくの果までも行つてしまいたい、ああ嫌だ嫌だ嫌だ、どうしたなら人の声も聞えない物の音もしない、静かな、静かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのないところかれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情ない悲しい心細い中に、何時いつまで私は止められてゐるのかしら、これが一生か、一生がこれか、ああ嫌だ嫌だと道端の立木へ夢中に寄かかつて暫時しばらくそこに立どまれば、渡るにや怕し渡らねばと自分の謳ひし声をそのまま何処ともなく響いて来るに、仕方がないやつぱり私も丸木橋をば渡らずはなるまい、ととさんも踏かへして落ておしまいなされ、祖父おぢいさんも同じ事であつたといふ、どうで
お力は一散に家を出て、行けるものならこのまま唐天竺の果てまでも行ってしまいたい。ああ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。どうしたら人の声も聞こえない、物の音もしない、静かな、静かな、自分の心も何もぼうっとして物思いのないところへ行けるのだろう。つまらない、くだらない、面白くない、情けない、悲しい、心細い。こんな中に、いつまで私は縛りつけられているのかしら。これが一生か、一生がこれか。ああ、嫌だ、嫌だ、と道端の立ち木に夢中で寄りかかって、しばらくそこに立ち止まると、「渡るには怖し、渡らねば」と、自分が歌った声がそのままどこからともなく響いてくる。「仕方がない、やっぱり私も丸木橋を渡らなければならないんだ。父さんも踏みかえして落ちておしまいなさった、祖父さんも同じことだったという。どうせ――
原文: 幾代もの恨みを背負せおうて出た私なればるだけの事はしなければ死んでも死なれぬのであらう、情ないとてもれも哀れと思ふてくれる人はあるまじく、悲しいと言へば商売がらを嫌ふかと一ト口に言はれてしまう、ゑゑどうなりとも勝手になれ、勝手になれ、私には以上考へたとて私の身の行き方は分らぬなれば、分らぬなりに菊の井のお力を通してゆかう、人情しらず義理しらずかそんな事も思ふまい、思ふたとてどうなる物ぞ、こんな身でこんな業体げうていで、こんな宿世すくせで、どうしたからとて人並みでは無いに相違なければ、人並の事を考へて苦労するだけ間違ひであろ、ああ陰気らしい何だとてこんな処に立つてゐるのか、何しにこんなとこへ出て来たのか、馬鹿らし
――幾代もの恨みを背負って生まれた私だから、するだけのことはしなければ、死んでも死にきれないのだろう。情けないといっても、誰も哀れと思ってくれる人はいまいし、悲しいと言えば商売柄が嫌なのかと一言で片づけられてしまう。ええ、どうなりとも勝手になれ、勝手になれ。私にはこれ以上考えたって、私の身の行く道はわからないのだから、わからないなりに菊の井のお力を通していこう。人情知らず、義理知らずか。そんなことも思うまい。思ったところでどうなるものか。こんな身で、こんな稼業で、こんな宿命で、どうしたところで人並みではないに違いないのだから、人並みのことを考えて苦労するだけ間違っているのだろう。ああ、陰気くさい。何だってこんなところに立っているのか。何をしにこんなところへ出て来たのか。馬鹿らし――
原文: い気違じみた、我身ながら分らぬ、もうもうかへりませうとて横町の闇をば出はなれて夜店の並ぶにぎやかなる小路こうぢを気まぎらしにとぶらぶら歩るけば、行かよふ人の顔小さく小さく擦れ違ふ人の顔さへもはるかとほくに見るやう思はれて、我が踏む土のみ一丈も上にあがりゐるごとく、がやがやといふ声は聞ゆれど井の底に物を落したる如き響きに聞なされて、人の声は、人の声、我が考へは考へと別々に成りて、更に何事にも気のまぎれる物なく、人立ひとだちおびただしき夫婦めをとあらそひの軒先のきさきなどを過ぐるとも、ただ我れのみは広野ひろのの原の冬枯れを行くやうに、心に止まる物もなく、気にかかる景色にも覚えぬは、我れながらひど逆上のぼせて人心のないのにと覚束おぼつかなく、気が狂ひはせぬ
――い、気違いじみた、我ながらわからない。もう、もう帰りましょう」と横町の闇を出て、夜店の並ぶにぎやかな小路を気晴らしにとぶらぶら歩くと、行き交う人の顔が小さく小さく、擦れ違う人の顔さえも遥か遠くに見えるように思われ、自分の踏む土だけが一丈も高く上がっているようで、がやがやという声は聞こえるけれど、井戸の底に物を落としたような響きに聞こえて、人の声は人の声、自分の考えは考えと別々になって、何事にも気の紛れることがない。人が大勢たかった夫婦喧嘩の軒先などを過ぎても、ただ自分だけは広い野原の冬枯れを行くように、心に留まる物もなく、気にかかる景色にも覚えがないのは、我ながらひどくのぼせて人心地がないのだと心もとなく、「気が狂いはしないか――
原文: かと立どまる途端、お力何処へ行くとて肩を打つ人あり。
――」と立ち止まったとたん、「お力、どこへ行く」と肩を叩く人がいた。
原文:
原文: 十六日は必らず待まする来て下されと言ひしをも何も忘れて、今まで思ひ出しもせざりし結城の朝之助に不図ふと出合であひて、あれと驚きし顔つきの例に似合ぬ狼狽あわてかたがをかしきとて、からからと男の笑ふに少し恥かしく、考へ事をして歩いてゐたれば不意のやうにあはててしまいました、よく今夜は来て下さりましたと言へば、あれほど約束をして待てくれぬは不心中ふしんぢうとせめられるに、何なりとおつしやれ、言訳はのちにしまするとて手を取りて引けば弥次馬がうるさいと気をつける、どうなり勝手に言はせませう、此方こちらは此方と人中ひとなかを分けて伴ひぬ。
「十六日は必ずお待ちします、来てください」と言ったことも何もかも忘れて、今まで思い出しもしなかった結城の朝之助にふと出くわして、「あれ」と驚いた顔つきが、いつもに似合わぬ狼狽ぶりでおかしいと、からからと男が笑うので少し恥ずかしく、「考え事をして歩いていたので、不意のように慌ててしまいました。よく今夜は来てくださいました」と言えば、「あれほど約束をして待っていてくれないのは不実だ」と責められる。「何なりとおっしゃれ、言い訳は後にします」と手を取って引くと、「弥次馬がうるさい」と気をつける。「どうなり勝手に言わせましょう。こっちはこっち」と人ごみを分けて連れ立って行った。
原文: 下座敷はいまだに客の騒ぎはげしく、お力の中座をしたるに不興ぶきようしてやかましかりし折から、店口にておやおかへりかの声を聞くより、客を置ざりに中坐するといふ法があるか、皈つたらば此処へ来い、顔を見ねば承知せぬぞと威張たてるを聞流しに二階の座敷へ結城を連れあげて、今夜も頭痛がするので御酒ごしゆの相手は出来ませぬ、大勢の中に居れば御酒のに酔ふて夢中になるも知れませぬから、少し休んでそののちは知らず、今は御免なさりませと断りを言ふてやるに、それで宜いのか、怒りはしないか、やかましくなれば面倒であらうと結城が心づけるを、何のおたなものの白瓜しろうりがどんな事を仕出しいだしませう、怒るなら怒れでござんすとて小女こをんなに言ひつけてお銚子の支度、来
下座敷ではまだ客の騒ぎが激しく、お力が中座したのを不興がってやかましく言っていたところへ、店口で「おや、お帰りかい」と声を聞くなり、「客を置き去りにして中座するという法があるか。帰ったらここへ来い。顔を見なければ承知せんぞ」と威張り立てるのを聞き流して、二階の座敷へ結城を連れて上がり、「今夜も頭痛がするので、お酒のお相手はできません。大勢の中にいるとお酒の香りに酔って夢中になるかもしれませんから、少し休んで、その後は知らず、今はご免なさいませ」と断りを言ってやると、「それでいいのか、怒りはしないか。やかましくなれば面倒だろう」と結城が気を配るのを、「何、店者の白瓜(青二才)がどんなことをしでかしましょう。怒るなら怒れでございます」と小女に言いつけてお銚子の支度。持って――
原文: るをば待かねて結城さん今夜は私に少し面白くない事があつて気が変つてゐまするほどにその気で附合てゐて下され、御酒を思ひ切つてみまするから止めて下さるな、酔ふたらば介抱して下されといふに、君が酔つたをいまだに見た事がない、気が晴れるほど呑むはいが、又頭痛がはじまりはせぬか、何がそんなに逆鱗げきりんにふれた事がある、僕らに言つては悪るい事かと問はれるに、いゑ貴君あなたには聞て頂きたいのでござんす、酔ふとまをしますから驚いてはいけませぬと嫣然につこりとして、大湯呑を取よせて二三杯は息をもつかざりき。
――来るのを待ちかねて、「結城さん、今夜は私に少し面白くないことがあって気が変わっていますから、そのつもりで付き合っていてください。お酒を思い切って飲みますから、止めてくださるな。酔ったら介抱してください」と言うので、「君が酔ったのをいまだに見たことがない。気が晴れるほど飲むのはいいが、また頭痛が始まりはしないか。何がそんなに逆鱗に触れることがある。僕らに言っては悪いことか」と問われると、「いえ、あなたには聞いていただきたいのでございます。酔うと申しますから驚いてはいけません」とにっこりして、大湯呑を取り寄せて、二、三杯は息もつかなかった。
原文: 常にはさのみに心も留まらざりし結城の風采やうす今宵こよひは何となく尋常なみならず思はれて、肩巾かたはばのありて背のいかにも高き処より、落ついて物をいふ重やかなる口振り、目つきのすごくて人を射るやうなるも威厳の備はれるかと嬉しく、濃き髪の毛を短かく刈あげて頸足ゑりあしのくつきりとせしなど今更のやうに眺られ、何をうつとりしてゐると問はれて、貴君のお顔を見てゐますのさと言へば、此奴こやつめがとにらみつけられて、おおこわいお方と笑つてゐるに、串談じやうだんはのけ、今夜は様子が唯でない聞たら怒るか知らぬが何か事件があつたかととふ、何しに降つていた事もなければ、人との紛雑いざなどはよし有つたにしろそれは常の事、気にもかからねば何しに物を思ひませう、私の時より
いつもはそれほど心にも留まらなかった結城の様子が、今宵は何となく普通でなく思われて、肩幅があって背がいかにも高いところや、落ち着いて物を言う重々しい口ぶり、目つきがすごくて人を射るようなのも、威厳が備わっているのかと嬉しく、濃い髪の毛を短く刈り上げて、うなじがくっきりしているのなど、今さらのように眺められる。「何をうっとりしている」と問われて、「あなたのお顔を見ているのさ」と言えば、「こやつめ」と睨みつけられて、「おお、怖いお方」と笑っていると、「冗談はよせ。今夜は様子がただでない。聞いたら怒るか知らんが、何か事件があったか」と問う。「何しに降って湧いたこともなければ、人とのもめ事などは、よしあったにしろそれはいつものこと、気にもかからないのに何しに思い悩みましょう。私の場合――
原文: 気まぐれを起すは人のするのでは無くて皆心がらの浅ましい訳がござんす、私はこんないやしい身の上、貴君は立派なお方様、思ふ事は反対うらはらにお聞きになつてもんで下さるか下さらぬか其処そこほどは知らねど、よし笑ひ物になつても私は貴君に笑ふて頂きたく、今夜は残らず言ひまする、まあ何から申さう胸がもめて口がかれぬとて又もや大湯呑に呑む事さかんなり。
――気まぐれを起こすのは人がさせるのではなくて、皆、自分の心が浅ましいわけがあるのでございます。私はこんな卑しい身の上、あなたは立派なお方。思うことが正反対だとお聞きになっても、汲んでくださるかくださらないか、そこまではわからないけれど、よし笑い物になっても、私はあなたに笑っていただきたく、今夜は残らず言います。まあ、何から言おう、胸がもめて口がきけない」と、またもや大湯呑で飲むことさかんだ。
原文: 何より先に私が身の自堕落を承知してゐて下され、もとより箱入りの生娘きむすめならねば少しは察してもゐて下さろうが、口奇麗な事はいひますともこのあたりの人に泥の中のはすとやら、悪業わるさに染まらぬ女子おなごがあらば、繁昌どころか見に来る人もあるまじ、貴君は別物、私が処へ来る人とても大底たいていはそれとおぼしめせ、これでも折ふしは世間さま並の事を思ふて恥かしい事つらい事情ない事とも思はれるもいつそ九尺二間でもまつた良人おつとといふに添うて身を固めようと考へる事もござんすけれど、それが私は出来ませぬ、それかと言つて来るほどのお人に無愛想もなりがたく、可愛いの、いとしいの、見初みそめましたのと出鱈目でたらめのお世辞をも言はねばならず、数の中にはにうけてこ
「何より先に、私の身の自堕落を承知していてください。もとより箱入りの生娘ではないから少しは察してもいてくださろうが、口できれいなことは言いますとも。このあたりの人に、泥の中の蓮とやら、悪業に染まらぬ女がいるなら、繁盛どころか見に来る人もいますまい。あなたは別物、私のところへ来る人とても、たいていはそれ(悪業に染まった者)とお思いなさい。これでも折々は世間並みのことを思って、恥ずかしいこと、つらいこと、情けないこととも思われるので、いっそ九尺二間でも、決まった夫という人に添うて身を固めようと考えることもございますけれど、それが私はできません。かといって、来るほどのお人に無愛想もしがたく、可愛いの、いとしいの、見初めましたのと、でたらめのお世辞も言わねばならず、その中には真に受けて、こ――
原文: んな厄種やくざ女房にようぼにと言ふて下さる方もある、持たれたら嬉しいか、添うたら本望か、それが私は分りませぬ、そもそもの最初はじめから私は貴君が好きで好きで、一日お目にかからねば恋しいほどなれど、奥様にと言ふて下されたらどうでござんしよか、持たれるは嫌なり他処よそながらは慕はしし、一ト口に言はれたら浮気者でござんせう、ああこんな浮気者にはれがしたと思召おぼしめす、三代伝はつての出来そこね、親父おやぢが一生もかなしい事でござんしたとてほろりとするに、その親父さむはと問ひかけられて、親父は職人、祖父ぢぢいは四角な字をば読んだ人でござんす、つまりは私のやうな気違ひで、世に益のない反古紙ほごがみをこしらへしに、版をばおかみから止められたとやら、ゆるされ
――んな厄介者を女房にと言ってくださる方もある。持たれたら嬉しいか、添うたら本望か、それが私はわかりません。そもそも最初から、私はあなたが好きで好きで、一日お目にかからねば恋しいほどなのに、奥様にと言ってくだされたらどうでしょうか。持たれるのは嫌、遠くから慕うのはいい。一言で言われたら浮気者でしょう。ああ、こんな浮気者に誰がしたとお思いです。三代伝わっての出来そこない、親父も一生かなしいことでございました」とほろりとするので、「その親父さんは」と問いかけられて、「親父は職人、祖父は四角い字(漢字)を読んだ人でございます。つまりは私のような気違いで、世に役に立たない反故紙をこしらえたところ、版をお上から止められたとかで、許され――
原文: ぬとかにて断食して死んださうに御座んす、十六の年から思ふ事があつて、生れも賤しい身であつたれど一念に修業して六十にあまるまで仕出来しでかしたる事なく、おはりは人の物笑ひに今では名を知る人もなしとて父が常住なげいたを子供の頃より聞知つておりました、私の父といふは三つのとしえんから落て片足あやしき風になりたれば人中に立まじるも嫌やとて居職いしよくかざり金物かなものをこしらへましたれど、気位たかくて人愛じんあいのなければ贔負ひいきにしてくれる人もなく、ああ私が覚えて七つの年の冬でござんした、寒中親子三人ながら古裕衣ふるゆかたで、父は寒いも知らぬか柱に寄つて細工物に工夫をこらすに、母は欠けた一つぺツついなべかけて私にさる物を買ひに行けといふ、味噌こし下げて
――ないとかで断食して死んだそうでございます。十六の年から思うことがあって、生まれも卑しい身であったけれど、一念に修業して六十を過ぎるまで、成し遂げたことは何もなく、しまいには人の物笑い、今では名を知る人もいない、と父がいつも嘆いていたのを、子供の頃から聞き知っておりました。私の父というのは、三つの年に縁側から落ちて片足が不自由になったので、人中に立ち交じるのも嫌だと、家で飾りの金物をこしらえていましたけれど、気位が高くて人当たりのよさがなかったので、ひいきにしてくれる人もなく。ああ、私が覚えている七つの年の冬でございました。寒中、親子三人が古浴衣一枚で、父は寒いのも知らぬのか柱に寄りかかって細工物に工夫をこらし、母は欠けた一つ竈に破れ鍋をかけて、私にある物を買いに行けと言う。味噌漉しを下げて――
原文: はしたのおあしを手に握つて米屋のかどまでは嬉しく駆けつけたれど、帰りには寒さの身にしみて手も足もかじかみたれば五六軒隔てし溝板どぶいたの上の氷にすべり、足溜あしだまりなくける機会はづみに手の物を取落して、一枚はづれし溝板のひまよりざらざらとこぼれ入れば、下は行水ゆくみづきたなき溝泥どぶどろなり、幾度いくたびのぞいては見たれどこれをば何として拾はれませう、その時私は七つであつたれどうちうちの様子、父母ちちははの心をも知れてあるにお米は途中で落しましたとからの味噌こしさげて家には帰られず、たつてしばらく泣いていたれどどうしたと問ふてくれる人もなく、聞いたからとて買てやらうと言ふ人は猶更なほさらなし、あの時近処に川なり池なりあらうなら私はさだめし身を投げてしまひましたろ、話しは
――はした金を手に握って、米屋の門までは嬉しく駆けつけたけれど、帰りには寒さが身にしみて手も足もかじかんだので、五、六軒隔てた溝板の上の氷にすべって、足がかりもなく転んだはずみに、手の物を取り落として、一枚外れた溝板の隙間からざらざらとこぼれ入ってしまった。下は流れる汚い溝泥。何度も覗いてはみたけれど、これをどうやって拾えるだろう。そのとき私は七つだったけれど、家の中の様子、父母の心もわかっていたので、『お米は途中で落としました』と、空の味噌漉しを下げて家には帰れず、立ってしばらく泣いていたけれど、どうしたと問うてくれる人もなく、聞いたからといって買ってやろうと言う人はなおさらいない。あのとき近くに川なり池なりあったなら、私はきっと身を投げてしまいましたろう。話は――
原文: 誠の百分一、私はその頃から気が狂つたのでござんす、かへりの遅きを母の親案じて尋ねに来てくれたをば時機しほに家へは戻つたれど、母も物いはず父親てておやも無言に、れ一人私をばしかる物もなく、うちの内しんとして折々溜息ためいきの声のもれるに私は身を切られるより情なく、今日は一日断食にせうと父の一言いひ出すまでは忍んで息をつくやうで御座んした。
――本当の百分の一です。私はその頃から気が狂ったのでございます。帰りの遅いのを母が親心に案じて、探しに来てくれたのをきっかけに家へは戻ったけれど、母も物を言わず、父親も無言で、誰一人私を叱る者もなく、家の中はしんとして、折々ため息の声が漏れるので、私は身を切られるよりつらく、『今日は一日断食にしよう』と父が一言言い出すまでは、忍んで息をつくようでございました。」
原文: いひさしてお力はあふいづる涙の止め難ければくれなひの手巾はんけちかほに押当てその端を喰ひしめつつ物いはぬ事小半時こはんとき、坐には物の音もなく酒の香したひて寄りくる蚊のうなり声のみ高く聞えぬ。
言いさして、お力はあふれ出る涙を止めがたく、紅のハンカチを顔に押し当て、その端を噛みしめたまま物を言わないこと小半時。座には物の音もなく、酒の香を慕って寄ってくる蚊のうなり声だけが高く聞こえた。
原文: 顔をあげし時はほうに涙のあとはみゆれども淋しげの笑みをさへ寄せて、私はその様な貧乏人の娘、気違ひは親ゆづりで折ふし起るのでござります、今夜もこんな分らぬ事いひ出してさぞ貴君御迷惑で御座んしてしよ、もう話しはやめまする、御機嫌に障つたらばゆるして下され、誰れか呼んで陽気にしませうかと問へば、いや遠慮は無沙汰、その父親てておやは早くにくなつてか、はあかかさんが肺結核といふをわづらつてなくなりましてから一週忌の来ぬほどに跡を追ひました、今居りましてもだ五十、親なれば褒めるでは無けれど細工は誠に名人と言ふてもい人で御座んした、なれども名人だとて上手だとて私等が家のやうに生れついたは何にもなる事は出来ないので御座んせ
顔を上げたときは、頬に涙の跡は見えるけれど、寂しげな笑みさえ浮かべて、「私はそんな貧乏人の娘、気違いは親譲りで折々起こるのでございます。今夜もこんなわけのわからないことを言い出して、さぞあなたもご迷惑でございましたでしょう。もう話はやめます。ご機嫌に障ったなら許してください。誰か呼んで陽気にしましょうか」と問えば、「いや、遠慮は無沙汰(かえって水くさい)。その父親は早くに亡くなったのか」「はあ、母さんが肺結核というのを患って亡くなってから、一周忌が来ないうちに後を追いました。今生きていてもまだ五十、親だから褒めるのではないけれど、細工は本当に名人と言ってもいい人でございました。けれども、名人だとて上手だとて、私どもの家のように生まれついた者は、何にもなることはできないのでございましょ――
原文: う、我身の上にも知られまするとて物思はしき風情ふぜい、お前は出世を望むなと突然だしぬけに朝之助に言はれて、ゑツと驚きし様子に見えしが、私等が身にて望んだ処が味噌こしがおち、何のたま輿こしまでは思ひがけませぬといふ、うそをいふは人にる始めから何も見知つてゐるに隠すは野暮の沙汰ではないか、思ひ切つてやれやれとあるに、あれそのやうなけしかけことばはよして下され、どうでこんな身でござんするにと打しほれて又もの言はず。
――う。我が身の上にも思い知らされます」と物思わしげな様子。「お前は出世を望むな」といきなり朝之助に言われて、「えっ」と驚いた様子に見えたが、「私どもの身で望んだところで、味噌漉しが落ちるのが関の山、何の玉の輿までは思いもよりません」と言う。「嘘をつくのも人によりけりだ。始めから何もかも見抜いているのに、隠すのは野暮というものではないか。思い切ってやれやれ」と言うので、「あれ、そんなけしかける言葉はよしてください。どうせこんな身でございますのに」としおれて、また物を言わない。
原文: 今宵もいたくけぬ、下坐敷の人はいつか帰りて表の雨戸をたてると言ふに、朝之助おどろきて帰り支度するを、お力はどうでも泊らするといふ、いつしか下駄をもかくさせたれば、足を取られて幽霊ならぬ身の戸のすき間よりいづる事もなるまじとて今宵は此処ここに泊る事となりぬ、雨戸をとざす音一しきりにぎはしく、のちには透きもる燈火ともしびのかげも消えて、唯軒下を行かよふ夜行の巡査の靴音のみ高かりき。
今宵もひどく更けた。下座敷の人はいつしか帰って、表の雨戸を立てるというので、朝之助は驚いて帰り支度をするのを、お力はどうあっても泊まらせるという。いつしか下駄を隠させたので、「足を取られては、幽霊でもない身が戸の隙間から出ることもできますまい」と、今宵はここに泊まることになった。雨戸を鎖す音がひとしきりにぎやかで、後には透きもれる灯火の影も消えて、ただ軒下を行き交う夜回りの巡査の靴音だけが高かった。
原文:
原文: 思ひ出したとて今更にどうなる物ぞ、忘れてしまへあきらめてしまへと思案はめながら、去年の盆にはそろひの浴衣ゆかたをこしらへて二人一処に蔵前くらまへ参詣さんけいしたる事なんど思ふともなく胸へうかびて、盆に入りては仕事にいづはりもなく、お前さんそれではならぬぞへといさめ立てる女房のことばも耳うるさく、エエ何も言ふな黙つてゐろとて横になるを、黙つてゐてはこの日がすぐされませぬ、身体からだが悪るくば薬も呑むがよし、御医者にかかるも仕方がなけれど、お前の病ひはそれではなしに気さへ持直せば何処どこに悪い処があろう、少しは正気になつて勉強をして下されといふ、いつでも同じ事は耳にたこが出来て気の薬にはならぬ、酒でも買て来てくれ気まぎれに呑んで見やうと言ふ
思い出したところで、今さらどうなるものか。忘れてしまえ、あきらめてしまえ、と思案は決めながらも、去年の盆には揃いの浴衣を拵えて、二人一緒に蔵前へ参詣したことなど、思うともなく胸に浮かんで、盆に入っては仕事に出る張り合いもない。「お前さん、それではいけませんよ」と諫め立てる女房の言葉も耳障りで、「ええ、何も言うな、黙っていろ」と横になるのを、「黙っていてはこの日が過ごせません。体が悪いなら薬も飲むがよし、お医者にかかるのも仕方がないけれど、お前の病はそれではなくて、気さえ持ち直せばどこに悪いところがありましょう。少しは正気になって働いてください」と言う。「いつでも同じことは耳にたこができて、気の薬にはならん。酒でも買ってきてくれ。気晴らしに飲んでみよう」と言う――
原文: 、お前さんそのお酒が買へるほどなら嫌やとお言ひなさるを無理に仕事に出て下されとは頼みませぬ、私が内職とて朝からにかけて十五銭が関の山、親子三人口おも湯も満足には呑まれぬ中で酒を買へとはく能くお前無茶助むちやすけになりなさんした、お盆だといふに昨日きのふらも小僧には白玉一つこしらへても喰べさせず、お精霊しようれうさまのおたなかざりもこしらへくれねば御燈明おとうめう一つで御先祖様へおびをまをしてゐるもが仕業だとお思ひなさる、お前が阿房あほうを尽してお力づらめに釣られたから起つた事、いふては悪るけれどお前は親不孝子不孝、少しはあの子の行末をも思ふて真人間になつて下され、御酒ごしゆのんで気を晴らすは一とき、真から改心して下さらねば心元なく思はれますとて
――「お前さん、そのお酒が買えるほどなら、嫌だとおっしゃるのを無理に仕事に出てくださいとは頼みません。私の内職とて、朝から夜にかけて十五銭が関の山、親子三人が口も湯も満足に飲めない中で、酒を買えとは、よくよくお前は無茶助になりなさった。お盆だというのに昨日あたりも小僧には白玉一つ拵えて食べさせず、お精霊さまのお店飾りも拵えてやれず、御灯明一つでご先祖様へお詫びを申しているのも、誰の仕業だとお思いなさる。お前が阿呆を尽くして、お力づらめに釣られたから起こったこと。言っては悪いけれど、お前は親不孝、子不孝。少しはあの子の行く末をも思って、真人間になってください。お酒を飲んで気を晴らすのは一時、心から改心してくださらねば心もとなく思われます」と――
原文: 女房打なげくに、返事はなくて吐息折々に太く身動きもせず仰向あほのきふしたる心根のつらさ、その身になつてもお力が事の忘れられぬか、十年つれそふて子供までもうけし我れに心かぎりの辛苦くろうをさせて、子には襤褸ぼろを下げさせ家とては二畳一間のこんな犬小屋、世間一体から馬鹿にされて別物にされて、よしや春秋はるあき彼岸ひがんが来ればとて、隣近処に牡丹ぼたもち団子と配り歩く中を、源七が家へはらぬが能い、返礼が気の毒なとて、心切しんせつかは知らねど十軒長屋の一軒はけ物、男は外出そとでがちなればいささか心に懸るまじけれど女心には遣る瀬のなきほど切なく悲しく、おのづと肩身せばまりて朝夕てうせき挨拶あいさつも人の目色を見るやうなる情なき思ひもするを、それをば思はで我が情婦こひ
――女房が嘆くけれど、返事はなくて、吐息を折々に太くつくばかりで身動きもせず、仰向けに伏したその心根のつらさ。この身になってもお力のことが忘れられないのか。十年連れ添って子供までもうけた自分に、心の限りの辛苦をさせて、子にはぼろを下げさせ、家といっては二畳一間のこんな犬小屋。世間一体から馬鹿にされ、別物にされて、たとえ春秋の彼岸が来ても、隣近所にぼた餅や団子を配り歩く中で、「源七の家へはやらないほうがいい、返礼が気の毒だから」と、親切かどうかは知らないが、十軒長屋の一軒はのけ者。男は外出がちだからいささか心にかかるまいけれど、女心には遣る瀬ないほど切なく悲しく、おのずと肩身がせまくなって、朝夕の挨拶も人の顔色をうかがうような情けない思いもするのに、それを思わないで、我が恋しい人の――
原文: 上ばかりを思ひつづけ、無情つれなき人の心の底がそれほどまでに恋しいか、昼も夢に見て独言ひとりごとにいふ情なさ、女房の事も子の事も忘れはててお力一人に命をも遣る心か、浅ましい口惜くちをしいらい人と思ふに中々言葉はいでずして恨みの露を目の中にふくみぬ。
――身の上ばかりを思い続け、つれない人の心の底が、それほどまでに恋しいか。昼も夢に見て独り言に言う情けなさ。女房のことも子のことも忘れ果てて、お力一人に命をもやる心か。浅ましい、口惜しい、つらい人と思うのに、なかなか言葉は出てこず、恨みの露を目の中に含んだ。
原文: 物いはねば狭きいゑうちも何となくうら淋しく、くれゆく空のたどたどしきに裏屋はまして薄暗く、燈火あかりをつけて蚊遣かやりふすべて、お初は心細く戸の外をながむれば、いそいそと帰り来る太吉郎の姿、何やらん大袋を両手に抱へてかかさん母さんこれをもらつて来たと莞爾につことして駆け込むに、見れば新開の日の出やがかすていら、おやこんないお菓子を誰れに貰つて来た、よくお礼を言つたかと問へば、ああ能くお辞儀をして貰つて来た、これは菊の井の鬼姉さんがくれたのと言ふ、母は顔色をかへて図太い奴めがこれほどのふちに投げ込んでだいぢめ方が足りぬと思ふか、現在の子を使ひにととさんの心を動かしによこしおる、何といふて遣したと言へば、表通りの賑やかな
物を言わなければ、狭い家の中も何となくうら寂しく、暮れゆく空がおぼつかないなか、裏屋はまして薄暗い。灯りをつけて蚊遣りをくすべて、お初が心細く戸の外を眺めると、いそいそと帰ってくる太吉郎の姿。何やら大袋を両手に抱えて、「母さん、母さん、これをもらってきた」とにっこりして駆け込むので、見れば新開の日の出やのカステラ。「おや、こんないいお菓子を誰にもらってきた。よくお礼を言ったか」と問えば、「ああ、よくお辞儀をしてもらってきた。これは菊の井の鬼姉さんがくれたの」と言う。母は顔色を変えて、「図太い奴め、これほどの淵に投げ込んで、まだいじめ方が足りぬと思うか。現在の子を使いに、父さんの心を動かしによこしおる。何と言ってよこした」と言うと、「表通りの賑やかな――
原文: 処に遊んでゐたらば何処のか伯父さんと一処に来て、菓子を買つてやるから一処にお出といつて、おいらは入らぬと言つたけれど抱いてつて買つてくれた、喰べては悪るいかへとさすがに母の心をはかりかね、顔をのぞいて猶予ゆうよするに、ああ年がゆかぬとて何たら訳の分らぬ子ぞ、あの姉さんは鬼ではないか、父さんを怠惰者なまけものにした鬼ではないか、お前の衣類べべのなくなつたも、お前の家のなくなつたも皆あの鬼めがした仕事、くらひついても飽き足らぬ悪魔にお菓子を貰つた喰べてもいかと聞くだけが情ない、汚いむさいこんな菓子、家へ置くのも腹がたつ、すててしまいな、捨ておしまい、お前は惜しくて捨てられないか、馬鹿野郎めとののしりながら袋をつかんで裏の空地へ
――ところで遊んでいたら、どこのか伯父さんと一緒に来て、菓子を買ってやるから一緒にお出でと言って、おいらは要らないと言ったけど、抱いていって買ってくれた。食べては悪いのかい」と、さすがに母の心をはかりかねて、顔を覗いてためらう。「ああ、年がいかぬとて、何とわけのわからない子だろう。あの姉さんは鬼ではないか。父さんを怠け者にした鬼ではないか。お前の着物がなくなったのも、お前の家がなくなったのも、皆あの鬼めがした仕業。食らいついても飽き足らぬ悪魔に菓子をもらった、食べてもいいかと聞くだけが情けない。汚い、むさい、こんな菓子、家に置くのも腹が立つ。捨ててしまいな、捨てておしまい。お前は惜しくて捨てられないか、馬鹿野郎め」とののしりながら、袋をつかんで裏の空き地へ――
原文: 投出なげいだせば、紙は破れてまろび出る菓子の、竹のあら垣打こえてどぶの中にも落込むめり、源七はむくりと起きてお初と一声大きくいふに何か御用かよ、尻目しりめにかけて振むかふともせぬ横顔をにらんで、能い加減に人を馬鹿にしろ、黙つてゐれば能い事にして悪口雑言は何の事だ、知人しつたひとなら菓子位子供にくれるに不思議もなく、貰ふたとて何が悪るい、馬鹿野郎呼はりは太吉をかこつけにれへの当こすり、子に向つて父親てておや讒訴ざんそをいふ女房気質かたぎれが教へた、お力が鬼なら手前は魔王、商売人のだましは知れてゐれど、妻たる身の不貞腐ふてくされをいふて済むと思ふか、土方をせうが車を引かうが亭主は亭主の権がある、気に入らぬ奴を家には置かぬ、何処へなりとも出てゆけ、
――投げ出すと、紙は破れて転がり出る菓子が、竹の粗垣を打ち越えて溝の中にも落ち込んだようだ。源七はむくりと起きて「お初」と一声大きく言うので、「何かご用かい」。尻目にかけて振り向こうともしない横顔を睨んで、「いい加減に人を馬鹿にしろ。黙っていればいいことにして、悪口雑言は何のことだ。知り合いなら菓子くらい子供にくれるのに不思議もなく、もらったとて何が悪い。馬鹿野郎呼ばわりは、太吉にかこつけて俺への当てこすり。子に向かって父親の悪口を言う女房気質を、誰が教えた。お力が鬼なら手前は魔王だ。商売人のだましは知れているが、妻たる身の不貞腐れを言って済むと思うか。土方をしようが車を引こうが、亭主は亭主の権がある。気に入らぬ奴を家には置かぬ。どこへなりとも出ていけ、
原文: 出てゆけ、面白くもない女郎めらうめと叱りつけられて、それはお前無理だ、邪推が過る、何しにお前に当つけよう、この子が余り分らぬと、お力の仕方が憎くらしさに思ひあまつて言つた事を、とツこに取つて出てゆけとまではむごう御座んす、家の為をおもへばこそ気に入らぬ事を言ひもする、家を出るほどならこんな貧乏世帯の苦労をば忍んではゐませぬと泣くに貧乏世帯に飽きがきたなら勝手に何処なり行つて貰はう、手前が居ぬからとて乞食にもなるまじく太吉が手足の延ばされぬ事はなし、明けても暮れてもれがたなおろしかお力へのねたみ、つくづく聞き飽きてもうやに成つた、貴様が出ずばどちら道同じ事をしくもない九尺二間、れが小僧を連れて出やう、さ
出ていけ、面白くもない女郎め」と叱りつけられて、「それはお前、無理だ、邪推が過ぎる。何しにお前に当てつけよう。この子があまりわからないと、お力のやり方が憎らしくて、思いあまって言ったことを、そう受け取って『出ていけ』とまでは惨うございます。家のためを思えばこそ、気に入らないことを言いもする。家を出るほどなら、こんな貧乏世帯の苦労を忍んではいません」と泣くと、「貧乏世帯に飽きが来たなら勝手にどこなり行ってもらおう。手前がいないからとて乞食にもなるまいし、太吉が手足を伸ばせないこともない。明けても暮れても俺の棚おろしか、お力への妬み。つくづく聞き飽きて、もう嫌になった。貴様が出ないなら、どっちみち同じことだ。したくもない九尺二間、俺が小僧を連れて出よう。そ――
原文: うならば十分に我鳴り立る都合もよからう、さあ貴様がくか、れが出ようかとはげしく言はれて、お前はそんなら真実ほんとうに私を離縁する心かへ、知れた事よといつもの源七にはあらざりき。
――うすれば十分に怒鳴り立てる都合もよかろう。さあ、貴様が行くか、俺が出ようか」と激しく言われて、「お前はそれなら、本当に私を離縁する気かい」「知れたことよ」と、いつもの源七ではなかった。
原文: お初は口惜くやしく悲しく情なく、口も利かれぬほど込上こみあぐなみだを呑込んで、これは私が悪う御座んした、堪忍かんにんをして下され、お力が親切で志してくれたものを捨てしまつたは重々悪う御座いました、成程お力を鬼といふたから私は魔王で御座んせう、モウいひませぬ、モウいひませぬ、決してお力の事につきてこのとやかく言ひませず、かげうはさしますまいゆゑ離縁だけは堪忍して下され、改めて言ふまでは無けれど私には親もなし兄弟もなし、差配の伯父さんを仲人なかうどなり里なりに立てて来た者なれば、離縁されての行き処とてはありませぬ、どうぞ堪忍して置いて下され、私は憎くかろうとこの子に免じて置いて下され、謝りますとて手を突いて泣けども、イヤどうしても
お初は口惜しく、悲しく、情けなく、口もきけないほど込み上げる涙を呑み込んで、「これは私が悪うございました。堪忍してください。お力が親切で志してくれたものを捨ててしまったのは、重々悪うございました。なるほどお力を鬼と言ったから、私は魔王でございましょう。もう言いません、もう言いません。決してお力のことについて、この後とやかく言いませんし、陰の噂もしませんから、離縁だけは堪忍してください。あらためて言うまでもないけれど、私には親もなし兄弟もなし、差配の伯父さんを仲人なり里なりに立てて来た者ですから、離縁されての行き場所とてはありません。どうぞ堪忍して置いてください。私は憎かろうと、この子に免じて置いてください。謝ります」と手をついて泣くけれど、「いや、どうしても――
原文: 置かれぬとてその後は物言はず壁に向ひてお初が言葉は耳にらぬ体、これほど邪慳じやけんの人ではなかりしをと女房あきれて、女に魂を奪はるればこれほどまでも浅ましくなる物か、女房が歎きは更なり、ひには可愛かわゆき子をも餓へ死させるかも知れぬ人、今詫びたからとて甲斐かひはなしと覚悟して、太吉、太吉と傍へ呼んで、お前はととさんの傍とかかさんと何処どちらが好い、言ふて見ろと言はれて、おいらはおとつさんは嫌い、何にも買つてくれない物と真正直まつしようぢきをいふに、そんなら母さんの行く処へ何処へも一処に行く気かへ、ああ行くともとて何とも思はぬ様子に、お前さんお聞きか、太吉は私につくといひまする、男の子なればお前も欲しからうけれどこの子はお前の手には置か
――置かれぬ」と、その後は物も言わず壁に向かって、お初の言葉は耳に入らない様子。「これほど無慈悲な人ではなかったのに」と女房はあきれて、「女に魂を奪われると、これほどまでも浅ましくなるものか。女房の嘆きはもちろん、ついには可愛い子をも餓え死にさせるかもしれない人、今詫びたところで甲斐はない」と覚悟して、「太吉、太吉」とそばへ呼んで、「お前は父さんのそばと母さんと、どっちがいい。言ってみろ」と言われて、「おいらはお父さんは嫌い、何にも買ってくれないもの」と正直に言うので、「そんなら母さんの行くところへ、どこへも一緒に行く気かい」「ああ、行くとも」と何とも思わない様子。「お前さん、お聞きか。太吉は私につくと言います。男の子だからお前も欲しかろうけれど、この子はお前の手には置か――
原文: れぬ、何処までも私が貰つて連れて行きます、よう御座んすか貰ひまするといふに、勝手にしろ、子も何も入らぬ、連れて行きたくば何処へでも連れて行け、うちも道具も何も入らぬ、どうなりともしろとて寐転ねころびしまま振向んともせぬに、何の家も道具も無い癖に勝手にしろもないもの、これから身一つになつて仕たいままの道楽なり何なりお尽しなされ、もういくらこの子を欲しいと言つても返す事では御座んせぬぞ、返しはしませぬぞと念を押して、押入れ探ぐつて何やらの小風呂敷取出とりいだし、これはこの子の寐間着ねまきあはせ、はらがけと三尺だけ貰つて行まする、御酒の上といふでもなければ、めての思案もありますまいけれど、よく考へて見て下され、たとへどの
――れぬ。どこまでも私がもらって連れて行きます。ようございますか、もらいます」と言うと、「勝手にしろ。子も何も要らぬ。連れて行きたければどこへでも連れて行け。家も道具も何も要らぬ。どうなりともしろ」と寝転んだまま振り向こうともしないので、「何、家も道具もないくせに『勝手にしろ』もないもの。これから身一つになって、したいままの道楽なり何なりお尽くしなさい。もういくらこの子を欲しいと言っても、返すことではございませんぞ。返しはしませんぞ」と念を押して、押入れを探って何やらの小風呂敷を取り出し、「これはこの子の寝間着の袷、腹掛けと三尺だけもらって行きます。お酒の上というでもなければ、醒めてからの思案もありますまいけれど、よく考えてみてください。たとえどの――
原文: やうな貧苦の中でも二人そろつて育てる子は長者の暮しといひまする、別れれば片親、何につけても不憫ふびんなはこの子とお思ひなさらぬか、ああはらはたが腐た人は子の可愛さも分りはすまい、もうお別れ申ますと風呂敷さげて表へいづれば、早くゆけゆけとて呼かへしてはくれざりし。
――ような貧苦の中でも、二人揃って育てる子は長者の暮らしといいます。別れれば片親、何につけても不憫なのはこの子とお思いになりませんか。ああ、腸が腐った人は、子の可愛さもわかりはすまい。もうお別れ申します」と風呂敷を下げて表へ出れば、「早く行け、行け」と、呼び返してはくれなかった。
原文:
原文: 魂祭たままつり過ぎて幾日いくじつ、まだ盆提燈ぼんぢようちんのかげ薄淋しき頃、新開の町を出し棺二つあり、一つはかごにて一つはさしかつぎにて、駕は菊の井の隠居処よりしのびやかに出ぬ、大路に見る人のひそめくを聞けば、あの子もとんだ運のわるいつまらぬ奴に見込れて可愛さうな事をしたといへば、イヤあれは得心づくだと言ひまする、あの日の夕暮、お寺の山で二人立ばなしをしてゐたといふ確かな証人もござります、女も逆上のぼせてゐた男の事なれば義理にせまつて遣つたので御座ろといふもあり、何のあの阿魔あまが義理はりを知らうぞ湯屋の帰りに男にふたれば、さすがに振はなして逃る事もならず、一処に歩いて話しはしてもゐたらうなれど、切られたは後袈裟うしろげさ頬先ほうさきのかすりきず頸筋くびすぢ
魂祭りが過ぎて幾日、まだ盆提灯の影も薄寂しい頃、新開の町を出た棺が二つあった。一つは駕籠で、一つはさし担ぎで。駕籠は菊の井の隠居所からひそやかに出た。大通りで見物する人がひそひそ言うのを聞けば、「あの子もとんだ運の悪い、つまらない奴に見込まれて、可哀想なことをした」と言えば、「いや、あれは合意ずくだと言います。あの日の夕暮れ、お寺の山で二人立ち話をしていたという確かな証人もございます」「女ものぼせていた男のことだから、義理にせまって(一緒に死んで)やったのでございましょう」と言う者もあり、「何の、あの女郎が義理立てを知るものか。湯屋の帰りに男に会ったので、さすがに振りはなして逃げることもできず、一緒に歩いて話はしていたのだろうけれど、切られたのは背中の袈裟がけ、頬先のかすり傷、首筋――
原文: 突疵つききずなど色々あれども、たしかに逃げる処を遣られたに相違ない、引かへて男は美事な切腹、蒲団ふとんやの時代からさのみの男と思はなんだがあれこそは死花しにばな、ゑらさうに見えたといふ、何にしろ菊の井は大損であらう、かの子には結搆けつこうな旦那がついたはづ、取にがしては残念であらうと人のうれひを串談じようだんに思ふものもあり、諸説みだれて取止めたる事なけれど、うらみは長し人魂か何かしらず筋を引く光り物のお寺の山といふ小高き処より、折ふし飛べるを見し者ありと伝へぬ。
――の突き傷などいろいろあるが、確かに逃げるところをやられたに相違ない。引きかえて男は見事な切腹。蒲団やの時代からそれほどの男とは思わなかったが、あれこそは死に花、えらそうに見えたという。何にしろ菊の井は大損だろう。あの子には結構な旦那がついたはず、取り逃がしては残念だろう」と、人の悲しみを冗談に思う者もあり、諸説乱れてはっきりしたことはないけれど、恨みは長く、人魂か何か知らないが、筋を引いて光る物が、お寺の山という小高いところから折々飛ぶのを見た者があると伝えられた。