にごりえ 小学生向け
樋口一葉(ひぐちいちよう)・1949年
AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23)
一
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一
「おい、木村さん、信さん、寄っていきなよ。寄れって言ったら寄ってもいいじゃないか。また素通りして二葉やへ行くつもりだろう。追いかけて引っ張ってくるから、そのつもりでいなよ。ほんとに、お風呂の帰りには必ず寄っておくれよ。うそつきだから、何を言うかわかりゃしない」と、店先に立って、なじみらしいつっかけ下駄をはいた男をつかまえて、小言を言うような口ぶりだった。男は腹も立てず、言い訳しながら「後でね、後でね」と通り過ぎていく。その後ろ姿を、ちょっと舌打ちしながら見送って、「後にも先にもないもんだ。来る気もないくせに。ほんとに女房持ちになっては仕方がないね」と、店に向かって敷居をまたぎながら独り言を言うと、「高ちゃん、だいぶ嘆いてるね。そんなに心配しなくてもいいじゃないか。焼け棒杭に何とやら、また元に戻ることもあるよ。心配しないで
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おい木村さん信さん寄つてお出よ、お寄りといつたら寄つても宜いではないか、又素通りで二葉やへ行く気だらう、押かけて行つて引ずつて来るからさう思ひな、ほんとにお湯なら帰りにきつとよつておくれよ、嘘つ吐きだから何を言ふか知れやしないと店先に立つて馴染らしき突かけ下駄の男をとらへて小言をいふやうな物の言ひぶり、腹も立たずか言訳しながら後刻に後刻にと行過るあとを、一寸舌打しながら見送つて後にも無いもんだ来る気もない癖に、本当に女房もちに成つては仕方がないねと店に向つて閾をまたぎながら一人言をいへば、高ちやん大分御述懐だね、何もそんなに案じるにも及ぶまい焼棒杭と何とやら、又よりの戻る事もあるよ、心配しない
まじないでもして待てばいいさ」となぐさめるような仲間の口ぶりだった。「力ちゃんと違って、私には腕がないからね。一人でも逃したら残念よ。私みたいに運の悪い者には、まじないも何も効きゃしない。今夜もまた木戸番か。何てことだ、面白くもない」と、かんしゃくまぎれに店先に腰をかけて、駒下駄のうしろでとんとんと土間を蹴っているのは、二十歳を七つか十ほど超えた、まゆ毛を細く整えた、はえぎわを作り込んで、白粉をべったりつけて、唇は人を噛む犬のようで、これでは紅(べに)もいやらしく見えるばかりだ。お力と呼ばれているのは、中ほどの体つきですらりとして、洗い髪の大島田の結い方が新わらのようにさわやかで、首もとばかりの白粉も、それほど目立たぬ天然の色白を見せびらかすように、胸のあたりまでえりをゆるめて、タバコをすぱすぱと長ぎせるで、あぐらをかく無作法も、とがめる人がいない
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で呪でもして待つが宜いさと慰めるやうな朋輩の口振、力ちやんと違つて私しには技倆が無いからね、一人でも逃しては残念さ、私しのやうな運の悪るい者には呪も何も聞きはしない、今夜も又木戸番か、何たら事だ面白くもないと肝癪まぎれに店前へ腰をかけて駒下駄のうしろでとんとんと土間を蹴るは二十の上を七つか十か引眉毛に作り生際、白粉べつたりとつけて唇は人喰ふ犬の如く、かくては紅も厭やらしき物なり、お力と呼ばれたるは中肉の背恰好すらりつとして洗ひ髪の大嶋田に新わらのさわやかさ、頸もとばかりの白粉も栄えなく見ゆる天然の色白をこれみよがしに乳のあたりまで胸くつろげて、烟草すぱすぱ長烟管に立膝の無沙法さも咎める人のなき
のがいいくらいだ。思い切った大柄模様のゆかたに、引っかけ帯は黒い繻子(じゅす)と何かのまがいもの、緋色の平ぐけが背中に見えて、言わずと知れたこのあたりの姉さん風だ。お高といえば洋銀のかんざしで天神返しのまげの下をかきながら、思い出したように「力ちゃん、さっきの手紙を出した?」と言う。「はあ」と気のない返事をして、「どうせ来るわけじゃないけど、あれもお愛想さ」と笑っていると、「だいたいにしなよ。巻き紙を二ひろも書いて、二枚切手の大封筒がお愛想でできるものかな。それに、あの人は赤坂から来るなじみじゃないか。少しやそっとのいさかいがあったにしても、縁が切れてたまるものか。あなたの出方一つでどうにでもなるのに、少し頑張って引き止めるよう心がければよかろうに。あんまりいい気になってはいられまいよ」
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こそよけれ、思ひ切つたる大形の裕衣に引かけ帯は黒繻子と何やらのまがひ物、緋の平ぐけが背の処に見えて言はずと知れしこのあたりの姉さま風なり、お高といへるは洋銀の簪で天神がへしの髷の下を掻きながら思ひ出したやうに力ちやん先刻の手紙お出しかといふ、はあと気のない返事をして、どうで来るのでは無いけれど、あれもお愛想さと笑つてゐるに、大底におしよ巻紙二尋も書いて二枚切手の大封じがお愛想で出来る物かな、そしてあの人は赤坂以来の馴染ではないか、少しやそつとの紛雑があろうとも縁切れになつてたまる物か、お前の出かた一つでどうでもなるに、ちつとは精を出して取止めるやうに心がけたら宜かろ、あんまり冥利がよくあるまい
と言うと、「ご親切にありがとう。ご意見は承っておきますが、私はどうもあんな人は好きになれないから、縁がなかったとあきらめてください」と、他人事のように言う。「あきれたものだ」と笑って、「あなたなどはその我がままが通るから立派ね。この身になっては仕方がないと」と団扇を取って足元をあおぎながら、昔は花よと言われたことが今や笑えて、表を通る男を見つけて「寄っておいでよ」と夕暮れの店先がにぎわっていった。
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と言へば御親切に有がたう、御異見は承り置まして私はどうもあんな奴は虫が好かないから、無き縁とあきらめて下さいと人事のやうにいへば、あきれたものだのと笑つてお前などはその我ままが通るから豪勢さ、この身になつては仕方がないと団扇を取つて足元をあふぎながら、昔しは花よの言ひなし可笑しく、表を通る男を見かけて寄つてお出でと夕ぐれの店先にぎはひぬ。
店は二けん間口の二階建てで、軒には神燈をさげて盛り塩が景気よく置いてある。空き瓶か何か知らないが、銘酒をたくさん棚の上に並べて、帳場らしいところも見えた。台所では七輪をあおぐ音が時々にぎやかに聞こえ、女主人が自ら寄せ鍋や茶わん蒸しくらいは作るのも当然だった。表にかかげた看板を見れば、もっともらしく「お料理」とかかれている。しかし仕出しを頼みに行ったとしたら、何と言われるだろうか。今日は急に品切れというのもおかしいし、「女性ではないお客様は手前の店においでください」とも言いにくかろう。世の中は都合よく商売がらを心得て、口取りや焼き肴をあつらえに来る田舎者もいなかった。お力というのはこの店の一枚看板で、年は一番若かったけれど、お客を呼ぶ才能があって、さほど愛想のよいことばかり言うわけでもなく、我がまま気ままな振る舞いで、少し
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店は二間間口の二階作り、軒には御神燈さげて盛り塩景気よく、空壜か何か知らず、銘酒あまた棚の上にならべて帳場めきたる処もみゆ、勝手元には七輪を煽ぐ音折々に騒がしく、女主が手づから寄せ鍋茶椀むし位はなるも道理、表にかかげし看板を見れば子細らしく御料理とぞしたためける、さりとて仕出し頼みに行たらば何とかいふらん、俄に今日品切れもをかしかるべく、女ならぬお客様は手前店へお出かけを願ひまするとも言ふにかたからん、世は御方便や商売がらを心得て口取り焼肴とあつらへに来る田舎ものもあらざりき、お力といふはこの家の一枚看板、年は随一若けれども客を呼ぶに妙ありて、さのみは愛想の嬉しがらせを言ふやうにもなく我まま至
容姿に自信があるのかと、陰でうらやんだり悪口を言う仲間もいたけれど、付き合ってみると思いのほかやさしいところがあって、女ながらも離れられない気持ちにさせられる。ああ、心というのは不思議なもので、顔つきがどことなく冴えて見えるのは、あの子の本当の心が表れているのだろう。誰でも新開(しんかい)の町に入るほどの人で、菊の井のお力を知らないものはあるまい。菊の井のお力か、お力の菊の井か。近ごろまれに見る拾いものだ。あの娘のおかげで新開の町に光が添えられた。お抱えの主人は神棚に飾っておいてもいいとさえ言い、軒並みのうらやましい的になっていた。
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極の身の振舞、少し容貌の自慢かと思へば小面が憎くいと蔭口いふ朋輩もありけれど、交際ては存の外やさしい処があつて女ながらも離れともない心持がする、ああ心とて仕方のないもの面ざしが何処となく冴へて見へるはあの子の本性が現はれるのであらう、誰しも新開へ這入るほどの者で菊の井のお力を知らぬはあるまじ、菊の井のお力か、お力の菊の井か、さても近来まれの拾ひもの、あの娘のお蔭で新開の光りが添はつた、抱へ主は神棚へささげて置いても宜いとて軒並びの羨やみ種になりぬ。
お高は往来を行き来する人がいないのを見て、「力ちゃん、あなたのことだから何があったとて気にしてもいないだろうけど、私は身につまされて源さんのことが思われる。今の身分に落ちぶれては、全くいいお客ではないけれど、思い合ったからには仕方がない。年が違おうが子がいようが、ねえそうじゃないか。奥さんがいるといって別れられるものかね。かまわないから呼び出してあげな。私なんてといったら、野郎が根っから気が変わって、顔を見るだけで逃げ出すのだから仕方がない。どうでもあきらめて別の人を当たるのだが、あなたのはそれとは違う。気の持ちようで、今の奥さんに三行半(みくだりはん)を送らせることもできるのだけれど、あなたは気位が高いから、源さんと一緒になろうとは思うまい。それだものなお
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お高は往来の人のなきを見て、力ちやんお前の事だから何があつたからとて気にしてもゐまいけれど、私は身につまされて源さんの事が思はれる、それは今の身分に落ぶれては根つから宜いお客ではないけれども思ひ合ふたからには仕方がない、年が違をが子があろがさ、ねへさうではないか、お内儀さんがあるといつて別れられる物かね、搆ふ事はない呼出してお遣り、私しのなぞといつたら野郎が根から心替りがして顔を見てさへ逃げ出すのだから仕方がない、どうで諦め物で別口へかかるのだがお前のはそれとは違ふ、了簡一つでは今のお内儀さんに三下り半をも遣られるのだけれど、お前は気位が高いから源さんと一処にならうとは思ふまい、それだもの猶の
さら呼ぶのに支障があるものか。手紙を書きなよ。今に三河やの御用聞きが来るだろうから、あの小僧に使いをさせればいい。何も、あなたはお嬢様ではあるまいし、遠慮ばかりしていられるものかな。あなたは思い切りが良すぎるからいけない。とにかく手紙をやってごらん。源さんもかわいそうだわ」と言いながらお力を見ると、きせるを掃除するのに余念がないのか、うつむいたまま何も言わなかった。
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事呼ぶ分に子細があるものか、手紙をお書き今に三河やの御用聞きが来るだろうからあの子僧に使ひやさんを為せるが宜い、何の人お嬢様ではあるまいし御遠慮ばかり申てなる物かな、お前は思ひ切りが宜すぎるからいけないともかく手紙をやつて御覧、源さんも可愛さうだわなと言ひながらお力を見れば烟管掃除に余念のなきか俯向たるまま物いはず。
やがて、きせるの頭(がんくび)をきれいに拭いて一服吸ってポンと灰を落とし、また吸いつけてお高に渡しながら、「気をつけておくれ。店先で言われると人聞きが悪いではないか。菊の井のお力は土方の手伝いを恋人に持つなどと勘違いされてもたまらない。それは昔の夢語りよ。何の、今は忘れてしまって、源とも七とも思い出されない。もうその話はやめにして」と言いながら立ち上がると、表を通る兵児帯(へこおび)の一群れがいた。「これ、石川さん、村岡さん、お力の店をお忘れですか」と呼ぶと、「いや、相変わらず豪傑の声がけだ。素通りもできないな」とずっと入ってきた。たちまち廊下をばたばたと足音がして、「姉さんお銚子を」と声をかけると、「お肴は何を?」と答える。三味線の音が景気よく聞こえて、にぎやかな足音がここから聞こえ始めた。
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やがて雁首を奇麗に拭いて一服すつてポンとはたき、又すいつけてお高に渡しながら気をつけておくれ店先で言はれると人聞きが悪いではないか、菊の井のお力は土方の手伝ひを情夫に持つなどと考違へをされてもならない、それは昔しの夢がたりさ、何の今は忘れてしまつて源とも七とも思ひ出されぬ、もうその話しは止め止めといひながら立あがる時表を通る兵児帯の一むれ、これ石川さん村岡さんお力の店をお忘れなされたかと呼べば、いや相変らず豪傑の声がかり、素通りもなるまいとてずつと這入るに、忽ち廊下にばたばたといふ足おと、姉さんお銚子と声をかければ、お肴は何をと答ふ、三味の音景気よく聞えて乱舞の足音これよりぞ聞え初ぬ。
二
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二
ある雨の日の退屈な時間に、表を通る山高帽子の三十男がいた。あれを捕まえなければ、この雨の日にお客の足が止まってしまうと、お力が駆け出して袖にすがり、「どうしても行かせません」と駄々をこねると、美しい顔立ちのおかげで、いつもとは違うもっともらしいお客を呼び入れて、二階の六畳間で三味線なしの静かな話になった。年を聞かれ、名を聞かれ、次は親元の探り、「士族ですか?」と聞かれると「それは言えません」と言う。「平民ですか?」と聞くと「どうでしょうかな」と答える。「では華族?」と笑いながら聞くと、「まあそう思っていてください。お華族のお姫様が手ずからのお酌、かたじかなく受けてください」とたっぷりと注ぐと、「それにしてもいい加減な注ぎ方だ。それは小笠原流か、何流だ?」と言うと、「お力流と言って、菊の井一家
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さる雨の日のつれづれに表を通る山高帽子の三十男、あれなりと捉らずんばこの降りに客の足とまるまじとお力かけ出して袂にすがり、どうでも遣りませぬと駄々をこねれば、容貌よき身の一徳、例になき子細らしきお客を呼入れて二階の六畳に三味線なしのしめやかなる物語、年を問はれて名を問はれてその次は親もとの調べ、士族かといへばそれは言はれませぬといふ、平民かと問へばどうござんしようかと答ふ、そんなら華族と笑ひながら聞くに、まあさうおもふてゐて下され、お華族の姫様が手づからのお酌、かたじけなく御受けなされとて波々とつぐに、さりとは無左法な置つぎといふが有る物か、それは小笠原か、何流ぞといふに、お力流とて菊の井一家
の流儀です。畳に酒をこぼさせる流儀もあれば、大平(おおひら)のふたであおらせる流儀もあり、嫌な人にはお酌をしないというのが最後の決まりでございます」と言って、おじけた様子もないので、お客はますます面白がって「履歴を話して聞かせろ。きっとすごい物語があるに違いない。ただの娘上がりとは思えない。どうだ」と言うと、「ご覧なさい、まだびんの間に角も生えていません。そんなに甲羅は経ていません」とぷっと笑うのに、「そんなにとぼけてはいけない。本当のことを話して聞かせろ。素性が言えないなら目的だけでも言え」と責める。「難しいですわ。言ったらあなた、びっくりなさいますよ。天下を望む大伴黒主(おおとものくろぬし)というのが私のことで」とますます笑うので、「これはどうにもならない。そんなに冗談ばかり言わないで、もう少し本当のことを
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の左法、畳に酒のまする流気もあれば、大平の蓋であほらする流気もあり、いやなお人にはお酌をせぬといふが大詰めの極りでござんすとて臆したるさまもなきに、客はいよいよ面白がりて履歴をはなして聞かせよ定めて凄ましい物語があるに相違なし、唯の娘あがりとは思はれぬどうだとあるに、御覧なさりませ未だ鬢の間に角も生へませず、そのやうに甲羅は経ませぬとてころころと笑ふを、さうぬけてはいけぬ、真実の処を話して聞かせよ、素性が言へずは目的でもいへとて責める、むづかしうござんすね、いふたら貴君びつくりなさりましよ天下を望む大伴の黒主とは私が事とていよいよ笑ふに、これはどうもならぬそのやうに茶利ばかり言はで少し真実の処
聞かせてくれ。いくら朝から晩まで嘘の中で過ごすといっても、少しは誠も交じるはずだ。旦那はいたのか、それとも親のためか」と真剣に聞かれると、お力は悲しくなって、「私だって人間でございますから、少しは心にしみることもございます。親は早くになくなって、今は本当に手と足ばかり。こんな者でも女房に持とうと言ってくださる人がないわけではないけれど、まだ旦那は持っていません。どうせ下品に育った身ですから、こんなことをして終わるのでございましょう」と投げやりな言葉に、あふれる感情が見えて、軽薄そうな姿に似ず、しんみりした様子が見えたので、「何も下品に育ったからといって、旦那が持てないことはあるまい。特にあなたのような器量よしではあるし、一足飛びにいい縁組みもできそうなもの。そ
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を聞かしてくれ、いかに朝夕を嘘の中に送るからとてちつとは誠も交る筈、良人はあつたか、それとも親故かと真に成つて聞かれるにお力かなしく成りて、私だとて人間でござんすほどに少しは心にしみる事もありまする、親は早くになくなつて今は真実の手と足ばかり、こんな者なれど女房に持たうといふて下さるも無いではなけれど未だ良人をば持ませぬ、どうで下品に育ちました身なればこんな事して終るのでござんしよと投出したやうな詞に無量の感があふれてあだなる姿の浮気らしきに似ず一節さむろう様子のみゆるに、何も下品に育つたからとて良人の持てぬ事はあるまい、殊にお前のやうな別品さむではあり、一足とびに玉の輿にも乗れさうなもの、そ
れとも、そんな奥様扱いが気に入らなくて、やはり勝気な人の三尺帯が気に入るのかな」と聞くと、「どうせそこらあたりが落ちどころでございましょう。こちらで思うような人は、向こうが嫌だと言い、来いと言ってくださる人の気に入るわけでもなし。浮気に見えるでしょうが、その日その日を送っているのでございます」と言う。「いや、そうは言わせない。相手がいないことはあるまい。今、店先でだれかがよろしくと言っていたと、他の女が伝えてきたではないか。きっと面白いことがあるに違いない、どうだ」と言うと、「ああ、あなたも随分と詮索なさいます。なじみはざら一面、手紙のやりとりは反故(ほご)のとりかえっこ、書けとおっしゃれば誓いの文書でもお好み次第差し上げましょう。夫婦の約束などと言っても、こちらが破るよりは、先方の根性なし。主人持ちなら主人が怖く
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れともそのやうな奥様あつかひ虫が好かでやはり伝法肌の三尺帯が気に入るかなと問へば、どうで其処らが落でござりましよ、此方で思ふやうなは先様が嫌なり、来いといつて下さるお人の気に入るもなし、浮気のやうに思召ましようがその日送りでござんすといふ、いやさうは言はさぬ相手のない事はあるまい、今店先で誰れやらがよろしく言ふたと他の女が言伝たでは無いか、いづれ面白い事があらう何とだといふに、ああ貴君もいたり穿索なさります、馴染はざら一面、手紙のやりとりは反古の取かへツこ、書けと仰しやれば起証でも誓紙でもお好み次第さし上ませう、女夫やくそくなどと言つても此方で破るよりは先方様の性根なし、主人もちなら主人が怕く
親持ちなら親の言いなりで、振り向いて見てくれなければ、こちらも追いかけて袖をつかまえるには及ばず、それならやめとて、それっきりになってしまいます。相手はいくらもあれども、一生を頼む人がないのでございます」と、寄る辺がなさそうな様子で、「もうこんな話はやめにして、陽気に遊びなさいまし。私は何も沈んだことは大嫌い。騒いで騒いで騒ぎぬこうと思います」と手をたたいて仲間を呼ぶと、「力ちゃん、だいぶしんみりしているね」と三十女の厚化粧が来た。「おい、この子のかわいい人は何という名だ」と突然に問われて、「はあ、私はまだお名前を伺っていませんでした」と言うと、「嘘をつくとお盆に閻魔様(えんまさま)へお参りできないぞ」と笑うと、「それだって、あなた、今日お目にかかったばかりではございませんか。今
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親もちなら親の言ひなり、振向ひて見てくれねば此方も追ひかけて袖を捉らへるに及ばず、それなら廃せとてそれぎりに成りまする、相手はいくらもあれども一生を頼む人が無いのでござんすとて寄る辺なげなる風情、もうこんな話しは廃しにして陽気にお遊びなさりまし、私は何も沈んだ事は大嫌ひ、さわいでさわいで騒ぎぬかうと思ひますとて手を扣いて朋輩を呼べば力ちやん大分おしめやかだねと三十女の厚化粧が来るに、おいこの娘の可愛い人は何といふ名だと突然に問はれて、はあ私はまだお名前を承りませんでしたといふ、嘘をいふと盆が来るに焔魔様へお参りが出来まいぞと笑へば、それだとつて貴君今日お目にかかつたばかりでは御坐りませんか、今
改めて伺いに出ようとしていましたよ」と言う。「それは何のことだ。あなたのお名をさっとあげられて、馬鹿々々、お力が怒るぞ」と大騒ぎになって、ふざけ話のやりとりに調子づいて、「旦那のお商売を当ててみましょうか」とお高が言う。「どうかよろしく」と手のひらを差し出すと、「いえ、それには及びません。顔つきで見ます」と、いかにも落ち着いた顔つきで。「やめてくれ。じっと眺められて棚ざらしでも始まってはたまらない。こう見えても僕は役人だ」と言うと、「嘘をおっしゃれ。日曜以外に遊んで歩く役人様がありますものか。力ちゃん、まあ何でいらっしゃるのかしら」と言う。「化け物ではないよ」と鼻の先で言って、「当てた人にごほうびだ」と懐中から財布を出すと、お力は笑いながら「高ちゃん、失礼を言ってはなりません。
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改めて伺ひに出やうとしてゐましたといふ、それは何の事だ、貴君のお名をさと揚げられて、馬鹿々々お力が怒るぞと大景気、無駄ばなしの取りやりに調子づいて旦那のお商売を当て見ませうかとお高がいふ、何分願ひますと手のひらを差出せば、いゑそれには及びませぬ人相で見まするとて如何にも落つきたる顔つき、よせよせじつと眺められて棚おろしでも始まつてはたまらぬ、かう見えても僕は官員だといふ、嘘を仰しやれ日曜のほかに遊んであるく官員様があります物か、力ちやんまあ何でいらつしやらうといふ、化物ではいらつしやらないよと鼻の先で言つて分つた人に御褒賞だと懐中から紙入れを出せば、お力笑ひながら高ちやん失礼をいつてはならない
このお方は立派な御華族様のお忍びでお遊びに来られたのです。何の商売などがありましょう」と言いながら、布団の上に置いてあった財布を取り上げて、「お相手の高尾にこれをお預けなさい。皆の者にご祝儀でもお与えになってください」と返事も聞かずどんどん引き出すのを、お客は柱に寄りかかって眺めながら小言も言わず、「諸事お任せ申す」と、物の広いお方だった。
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このお方は御大身の御華族様おしのびあるきの御遊興さ、何の商売などがおありなさらう、そんなのでは無いと言ひながら蒲団の上に乗せて置きし紙入れを取あげて、お相方の高尾にこれをばお預けなされまし、みなの者に祝義でも遣はしませうとて答へも聞かずずんずんと引出すを、客は柱に寄かかつて眺めながら小言もいはず、諸事おまかせ申すと寛大の人なり。
お高はあきれて「力ちゃん、だいたいにしなよ」と言うけれど、「何、いいのよ。これはあなたに、これは姉さんに。大きいので帳場の払いを取って、残りはみんなにやってもいいとおっしゃる。お礼を言って頂いておいで」と撒き散らすと、これをこの子のお得意ごとに慣れたこととて、さほど遠慮も言わないでいて、「旦那、よろしいのでございますか?」と念を押して、「ありがとうございます」とかき集めて行く後ろ姿、「十九にしては老けているね」と旦那が笑い出すと、「人の悪いことをおっしゃる」と、お力は立って障子を開け、手すりに寄って頭痛を手で押さえた。「あなたはどうする? お金は欲しくないか」と聞かれて、「私は別に欲しいものがございました。これさえ頂ければ何よりです」と帯の間からお客の名刺を取り出して頂くまねをす
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お高はあきれて力ちやん大底におしよといへども、何宜いのさ、これはお前にこれは姉さんに、大きいので帳場の払ひを取つて残りは一同にやつても宜いと仰しやる、お礼を申て頂いてお出でと蒔散らせば、これをこの娘の十八番に馴れたる事とてさのみは遠慮もいふてはゐず、旦那よろしいのでございますかと駄目を押して、有がたうございますと掻きさらつて行くうしろ姿、十九にしては更けてるねと旦那どの笑ひ出すに、人の悪るい事を仰しやるとてお力は起つて障子を明け、手摺りに寄つて頭痛をたたくに、お前はどうする金は欲しくないかと問はれて、私は別にほしい物がござんした、此品さへ頂けば何よりと帯の間から客の名刺をとり出して頂くまねをす
ると、「いつの間に引き出した。とりかえに写真をくれ」とねだる。「今度の土曜日に来てくだされば一緒に撮りましょう」と言って、帰りかけるお客をさほど引き止めもせず、後ろに回って羽織を着せながら、「今日は失礼いたしました。またのお越しをお待ちします」と言うと、「おい、そんなにきれいなことを言うまいぞ。空誓文は御免だ」と笑いながらさっさと立って階段を下りると、お力は帽子を手にして後ろから追いすがり、「嘘か誠か、九十九夜の辛抱をなさいませ。菊の井のお力は型にはまった女でございません。また姿の変わることもございます」と言った。「旦那お帰り」と聞いて仲間の女や帳場の女主人もかけ出して「ただいまはありがとう」と同声でお礼を言い、頼んでおいた車が来たとてここから乗り出すと、家の中全員が表へ送り出して
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れば、何時の間に引出した、お取かへには写真をくれとねだる、この次の土曜日に来て下されば御一処にうつしませうとて帰りかかる客をさのみは止めもせず、うしろに廻りて羽織をきせながら、今日は失礼を致しました、またのお出を待ますといふ、おい程の宜い事をいふまいぞ、空誓文は御免だと笑ひながらさつさつと立つて階段を下りるに、お力帽子を手にして後から追ひすがり、嘘か誠か九十九夜の辛棒をなさりませ、菊の井のお力は鋳型に入つた女でござんせぬ、又形のかはる事もありまするといふ、旦那お帰りと聞て朋輩の女、帳場の女主もかけ出して唯今は有がたうと同音の御礼、頼んで置いた車が来しとて此処からして乗り出せば、家中表へ送り出し
「またのお越しをお待ちします」と愛想よく言った。ご祝儀の余光と知れて、後では「力ちゃん大明神様、これにもありがとう」のお礼ばかりだった。
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てお出を待まするの愛想、御祝義の余光としられて、後には力ちやん大明神様これにも有がたうの御礼山々。
三
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三
お客は結城朝之助(ゆうきとものすけ)といって、自ら道楽者とは名乗るけれど、まじめなところが時々見えて、身は仕事なし、妻子なしで、遊ぶのに都合のよい年頃だからこそ、これを初めに一週間に二、三度の通い道となった。お力もどことなく懐かしく思うらしく、三日見えないと手紙を送るほどの様子を、仲間の女たちはうらやましがりながらからかって、「力ちゃん、楽しいことでしょうね。男ぶりはよし、気前はよし。今にあの方は出世なさるに違いない。その時はあなたのことを奥様とでも言うのだろうに。今から少し気をつけて、足を出したり湯のみで飲んだりするのはやめにしな。がらが悪いよ」と言う者もあり、「源さんが聞いたらどうだろう。気違いになるかもしれない」と冷やかす者もあり、「ああ、馬車に乗ってくる時都合が悪いから、道を直してもらいたいわ。こんな溝板のがたがたするような店先ではそれこそ、がらが悪くて横付けにもされないじゃないか。あなた方ももう少し行儀を直して、お給仕に出られるよう心がけておくれ」とずばずばと言うと、
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客は結城朝之助とて、自ら道楽ものとは名のれども実体なる処折々に見えて身は無職業妻子なし、遊ぶに屈強なる年頃なればにやこれを初めに一週には二三度の通ひ路、お力も何処となく懐かしく思ふかして三日見えねば文をやるほどの様子を、朋輩の女子ども岡焼ながら弄かひては、力ちやんお楽しみであらうね、男振はよし気前はよし、今にあの方は出世をなさるに相違ない、その時はお前の事を奥様とでもいふのであらうに今つから少し気をつけて足を出したり湯呑であほるだけは廃めにおし人がらが悪いやねと言ふもあり、源さんが聞たらどうだらう気違ひになるかも知れないとて冷評もあり、ああ馬車にのつて来る時都合が悪るいから道普請からして貰いた
「ええ、憎らしい。その物言いを少し直さないと奥様らしく聞こえない。結城さんが来たら思う存分言って、小言を言わせて見せよう」と、朝之助の顔を見るやいなやこんなことを申していますと、「どうしても私たちの手に乗らないわんぱくだから、あなたから叱ってください。第一、湯のみで飲むのは体に毒でしょう」と告げ口するので、結城は真面目になって「お力、酒だけは少しひかえろ」と厳しく命じた。「ああ、あなたのようでもないお力が、無理にも商売してられるのはこの気力と思ってくださらないか。私から酒気が離れたら、座敷はお寺の本堂(三昧堂)のよう
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いね、こんな溝板のがたつく様な店先へそれこそ人がらが悪くて横づけにもされないではないか、お前方ももう少しお行義を直してお給仕に出られるやう心がけておくれとずばずばといふに、ヱヱ憎くらしいそのものいひを少し直さずは奥様らしく聞へまい、結城さんが来たら思ふさまいふて、小言をいはせて見せようとて朝之助の顔を見るよりこんな事を申てゐまする、どうしても私共の手にのらぬやんちやなれば貴君から叱つて下され、第一湯呑みで呑むは毒でござりましよと告口するに、結城は真面目になりてお力酒だけは少しひかへろとの厳命、ああ貴君のやうにもないお力が無理にも商売してゐられるはこの力と思し召さぬか、私に酒気が離れたら坐敷は三昧堂
になりましょう。少し察してください」と言うと、「なるほど、なるほど」と結城はそれ以上は言わなかった。
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のやうに成りませう、ちつと察して下されといふに成程々々とて結城は二言といはざりき。
ある夜の月の下、下の座敷にはどこかの工場の一群れが、どんぶりをたたいて甚句やかっぽれで大騒ぎしている中に、大方の女たちは寄り集まって、いつもの二階の小座敷には結城とお力の二人きりだった。朝之助は寝転んで楽しそうに話しかけているのに、お力はうるさそうに生返事をして何やら考えている様子。「どうかしたか、また頭痛でも始まったか」と聞かれて、「何、頭痛も何もしませんけれど、しきりに持病が起きたのです」と言う。「あなたの持病はかんしゃくか」「いいえ」「血の道か」「いいえ」「それでは何だ」と聞かれて、「どうも言うことができません。でも、他の人ではなし、あなたではないですか。どんなことでも言えそうなもの。まあ何の病気だ」と言うと、「病気ではございません。ただこんな風になって、こんなことを思うのです」と言い
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或る夜の月に下坐敷へは何処やらの工場の一連れ、丼たたいて甚九かつぽれの大騒ぎに大方の女子は寄集まつて、例の二階の小坐敷には結城とお力の二人ぎりなり、朝之助は寝ころんで愉快らしく話しを仕かけるを、お力はうるささうに生返事をして何やらん考へてゐる様子、どうかしたか、又頭痛でもはじまつたかと聞かれて、何頭痛も何もしませぬけれど頻に持病が起つたのですといふ、お前の持病は肝癪か、いいゑ、血の道か、いいゑ、それでは何だと聞かれて、どうも言ふ事は出来ませぬ、でも他の人ではなし僕ではないかどんな事でも言ふて宜さそうなもの、まあ何の病気だといふに、病気ではござんせぬ、唯こんな風になつてこんな事を思ふのですといふ
「困った人だな。いろいろ秘密があると見える。お父さんはどこだ」と聞くと「言われません」と言う。「お母さんは」と問えばそれも同じく。「これまでの来歴は」と言うと「あなたには言えない」と言う。「まあ、嘘でもいいさ。たとえ作り話にしろ、こういう身の不幸だとか大方の人は言わなければならない。しかも一度や二度会うのではなし、その位のことを話しても支障はないだろう。よし口に出して言わなくとも、あなたに思うことがある位、目が見えない人に探らせても知れたこと。聞かずともわかっているが、それを聞くのだ。どっちにしろ同じことだから、持病というのをまず聞きたい」と言うと、「おやめなさいませ。お聞きになってもつまらないことでございます」と、お力はまったく取り合わなかった。
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、困つた人だな種々秘密があると見える、お父さんはと聞けば言はれませぬといふ、お母さんはと問へばそれも同じく、これまでの履歴はといふに貴君には言はれぬといふ、まあ嘘でも宜いさよしんば作り言にしろ、かういふ身の不幸だとか大底の女はいはねばならぬ、しかも一度や二度あふのではなしその位の事を発表しても子細はなからう、よし口に出して言はなからうともお前に思ふ事がある位めくら按摩に探ぐらせても知れた事、聞かずとも知れてゐるが、それをば聞くのだ、どつち道同じ事だから持病といふのを先きに聞きたいといふ、およしなさいまし、お聞きになつてもつまらぬ事でござんすとてお力は更に取あはず。
ちょうどその時、下の座敷からお膳や杯を運んできた女が何やらお力に耳打ちして、「とにかく下までおいでよ」と言う。「いや、行きたくないからやめておくれ。今夜はお客がたいへん酔っているから、お目にかかっても話もできませんとことわっておくれ」「ああ、困った人だね」と眉を寄せると、「あなた、それでもいいの?」「はあ、いいのよ」と言ってひざの上でばちを弄んでいると、女は不思議そうに立って行くのをお客は聞こえないふりをして笑いながら、「遠慮はいらない。会ってきたらいいじゃないか。何もそんなに体裁を気にしなくてもよいではないか。かわいい人を素っ返しもひどかろう。追いかけて会うのがいい。何なら、ここへでも呼びな。隅に寄って話の邪魔はしないから」と言うと、「冗談はぬきにして、結城さん、あなたに隠しても仕方がない
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折から下坐敷より杯盤を運びきし女の何やらお力に耳打してともかくも下までお出よといふ、いや行きたくないからよしておくれ、今夜はお客が大変に酔ひましたからお目にかかつたとてお話しも出来ませぬと断つておくれ、ああ困つた人だねと眉を寄せるに、お前それでも宜いのかへ、はあ宜いのさとて膝の上で撥を弄べば、女は不思議さうに立つてゆくを客は聞すまして笑ひながら御遠慮には及ばない、逢つて来たら宜からう、何もそんなに体裁には及ばぬではないか、可愛い人を素戻しもひどからう、追ひかけて逢ふが宜い、何なら此処へでも呼び給へ、片隅へ寄つて話しの邪魔はすまいからといふに、串談はぬきにして結城さん貴君に隠くしたとて仕方がない
から申しますが、町内で少しは顔が立った布団屋の源七という人、長いなじみでございましたけれど、今は見る影もなく貧乏して、八百屋の裏の小さな家にかたつむりのようになっています。女房もあり子供もあり、私みたいな者に逢いに来る年ではないけれど、縁があるのか、今だに折々何だかんだと言って、今も下の座敷へ来たのでございましょう。今さら追い出すというわけではないけれど、逢えばいろいろ面倒なこともあり、近づかず、さわらず、帰した方がいいのです。恨まれるのは覚悟の上。鬼だとも蛇だとも思えばいいのです」と言って、ばちを畳について少し体を伸ばして表を見おろすと、「何と、姿が見えるか?」とからかう。「ああ、もう帰ったと見えます」と言ってぼんやりしていると、「持病というのはそれか
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から申ますが町内で少しは巾もあつた蒲団やの源七といふ人、久しい馴染でござんしたけれど今は見るかげもなく貧乏して八百屋の裏の小さな家にまいまいつぶろの様になつていまする、女房もあり子供もあり、私がやうな者に逢ひに来る歳ではなけれど、縁があるか未だに折ふし何のかのといつて、今も下坐敷へ来たのでござんせう、何も今さら突出すといふ訳ではないけれど逢つては色々面倒な事もあり、寄らず障らず帰した方が好いのでござんす、恨まれるは覚悟の前、鬼だとも蛇だとも思ふがようござりますとて、撥を畳に少し延びあがりて表を見おろせば、何と姿が見えるかと嬲る、ああもう帰つたと見えますとて茫然としてゐるに、持病といふのはそれか
と」ずばりと聞かれて、「まあそんなところでございましょう。お医者様でも草津の湯でも」と寂しそうに笑っていると、「本物を拝みたいな。役者で行ったら誰のところだ」と言うと、「見たらびっくりでございましょう。色が黒くて背が高い、不動さまの代わりというような人です」と言う。「では心意気か」と聞かれて、「こんな店で身上(財産)を使い果たすほどの人、人がいいことだけが取り柄とはまったく何でもありません。面白くも可笑しくも何ともない人です」と言うと、「それなのにあなたはどうして夢中になった。これは聞きどころだ」とお客は起き直る。「大方のぼせ性なのでございましょう。あなたのことも最近は夢に見ない夜はございません。奥様ができたところを見たり、ぴったりと来るのが止まったところを見たり、さらに一層悲しい夢を見て、枕がびっしょりになったこともございます
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と切込まれて、まあそんな処でござんせう、お医者様でも草津の湯でもと薄淋しく笑つてゐるに、御本尊を拝みたいな俳優で行つたら誰れの処だといへば、見たら吃驚でござりませう色の黒い背の高い不動さまの名代といふ、では心意気かと問はれて、こんな店で身上はたくほどの人、人の好いばかり取得とては皆無でござんす、面白くも可笑しくも何ともない人といふに、それにお前はどうして逆上せた、これは聞き処と客は起かへる、大方逆上性なのでござんせう、貴君の事をもこの頃は夢に見ない夜はござんせぬ、奥様のお出来なされた処を見たり、ぴつたりと御出のとまつた処を見たり、まだまだ一層かなしい夢を見て枕紙がびつしよりに成つた事もござんす
高ちゃんなんかは夜寝るとなると、枕を取るよりも早くいびきの声が高く、いい気持ちそうですが、どんなにうらやましいでしょう。私はどんなに疲れた時でも床に入ると目が冴えて、それはそれはいろいろなことを思います。あなたは私に思うことがあるだろうと察してくださるから嬉しいけれど、まさか私が何を思うか、それはおわかりにはなりますまい。考えても仕方がないから、人前では大陽気を振る舞って、菊の井のお力は気楽でしまりなし、苦労ということは知らないだろうとおっしゃるお客様もいます。ほんとに、因果とでもいうものか、私ほど悲しい者はあるまいと思います」としくしく泣くと、「珍しい。陰気な話を聞かせられる。慰めたいにも始まりと終わりを知らないから、手の出しようがない。夢に見てくれ
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、高ちやんなぞは夜る寐るからとても枕を取るよりはやく鼾の声たかく、宜い心持らしいがどんなに浦山しうござんせう、私はどんな疲れた時でも床へ這入ると目が冴へてそれはそれは色々の事を思ひます、貴君は私に思ふ事があるだらうと察してゐて下さるから嬉しいけれど、よもや私が何をおもふかそれこそはお分りに成りますまい、考へたとて仕方がない故人前ばかりの大陽気、菊の井のお力は行ぬけの締りなしだ、苦労といふ事はしるまいと言ふお客様もござります、ほんに因果とでもいふものか私が身位かなしい者はあるまいと思ひますとて潜然とするに、珍らしい事陰気のはなしを聞かせられる、慰めたいにも本末をしらぬから方がつかぬ、夢に見てくれ
るほど本気なら、奥様にしてくれとでも言いそうなものなのに、まったく声がけもないのはどういうことだ。古風に言えば袖振り合うも縁というが、こんな商売が嫌だと思うなら遠慮なく打ち明け話をするのがいい。僕はまたあなたのような気持ちでは、いっそ気楽だとかいう考えで浮いて渡ることかと思っていたのに、それでは何か理由があってやむを得ないということか。差し支えなければ聞かせてほしい」と言うと、「あなたには聞いてもらおうと、この間から思っていました。だけれども今夜はいけません」「どうして?」「どうしてでもいけません。私の我がままゆえ。申すまいと思う時はどうしても嫌なのです」と言ってさっと立って縁側に出ると、雲のない空の月影が涼しく、見おろす町にからころと駒下駄の音がして、行き来する人の影がはっきりと
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るほど実があらば奥様にしてくれろ位いひそうな物だに根つからお声がかりも無いはどういふ物だ、古風に出るが袖ふり合ふもさ、こんな商売を嫌だと思ふなら遠慮なく打明けばなしを為るが宜い、僕は又お前のやうな気では寧気楽だとかいふ考へで浮いて渡る事かと思つたに、それでは何か理屈があつて止むを得ずといふ次第か、苦しからずは承りたい物だといふに、貴君には聞いて頂かうとこの間から思ひました、だけれども今夜はいけませぬ、何故々々、何故でもいけませぬ、私が我まま故、申まいと思ふ時はどうしても嫌やでござんすとて、ついと立つて椽がはへ出るに、雲なき空の月かげ涼しく、見おろす町にからころと駒下駄の音さして行かふ人のかげ分明
見えた。「結城さん」と呼ぶと、「何だ?」と言って傍に来ると、「まあ、ここにお座りください」と手を取って、「あの水菓子屋で桃を買っている子がいるでしょう。かわいらしい四つばかりの子が。あの子が、さっきの人の子なのです。あの小さな子の心にも、よほど憎いと思うと見えて、私のことを鬼々と言います。まあ、そんな悪者に見えますか」と言って、空を見上げてほっと息をつく様子、こらえきれない様子がその声の調子にあらわれていた。
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なり、結城さんと呼ぶに、何だとて傍へゆけば、まあ此処へお座りなさいと手を取りて、あの水菓子屋で桃を買ふ子がござんしよ、可愛らしき四つばかりの、彼子が先刻の人のでござんす、あの小さな子心にもよくよく憎くいと思ふと見えて私の事をば鬼々といひまする、まあそんな悪者に見えまするかとて、空を見あげてホツと息をつくさま、堪へかねたる様子は五音の調子にあらはれぬ。
四
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四
同じ新開の町はずれに、八百屋と髪結い床が隣り合うような細い路地があった。雨が降る日には傘もさせないほど窮屈なところで、足もとにはあちこちに溝板の落とし穴がありそうで危なっかしいのを中にして、両側に立てた棟割り長屋の、突き当たりのごみためわきに九尺二間の上がりかまちが朽ちて、雨戸はいつも用心の悪いたてつけで、さすがに一方しか出入り口がないわけではなく、山の手らしいのは三尺ほどの縁の先に草ぼうぼうの空き地があることで、その端を少し囲んで青じそ、えぞ菊、いんげん豆のつるなどを竹のあら垣に絡ませたのが、お力と縁のある源七の家だった。女房はお初といって、二十八か九になるだろう。貧しさにやつれて七つも年上に見えて、お歯黒はまだらに、眉毛はぼさぼさで見る影もなく、洗いざらしの鳴海のゆかたを前と後ろを切りかえて、ひざのあたりは
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同じ新開の町はづれに八百屋と髪結床が庇合のやうな細露路、雨が降る日は傘もさされぬ窮屈さに、足もととては処々に溝板の落し穴あやふげなるを中にして、両側に立てたる棟割長屋、突当りの芥溜わきに九尺二間の上り框朽ちて、雨戸はいつも不用心のたてつけ、さすがに一方口にはあらで山の手の仕合は三尺ばかりの椽の先に草ぼうぼうの空地面、それが端を少し囲つて青紫蘇、ゑぞ菊、隠元豆の蔓などを竹のあら垣に搦ませたるがお力が処縁の源七が家なり、女房はお初といひて二十八か九にもなるべし、貧にやつれたれば七つも年の多く見えて、お歯黒はまだらに生へ次第の眉毛みるかげもなく、洗ひざらしの鳴海の裕衣を前と後を切りかへて膝のあたりは
目立たないように小針でつぎを当て、細い帯をきりりと締めて、すだれ表(縁側の縁のむしろ)の内職を、お盆前から暑さの盛りをこれが稼ぎ時とばかり、大汗をかいて一生懸命に、そろえた材料を天井から吊り下げて、少しでも手間を省こうとして数が上がるのを楽しみに、わき目もふらない様子がいたましかった。
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目立ぬやうに小針のつぎ当、狭帯きりりと締めて蝉表の内職、盆前よりかけて暑さの時分をこれが時よと大汗になりての勉強せはしなく、揃へたる籘を天井から釣下げて、しばしの手数も省かんとて数のあがるを楽しみに脇目もふらぬ様あはれなり。
「もう日が暮れたのに太吉はなぜ帰ってこないの。源さんもまたどこを歩いているのかしら」と仕事を片づけて一服吸いつけ、苦労しているように目をぱちぱちさせて、さらに土瓶の下を直し、蚊いぶし火鉢に火を取り分けて三尺の縁に持ち出し、拾い集めた杉の葉をかぶせてふうふうと吹き立てると、ふすふすと煙が立ち上って、軒場に逃げる蚊の声がうるさく聞こえた。太吉はがたがたと溝板の音をさせて「母さん今戻った。お父さんも連れて来たよ」と門口から呼び立てると、「ずいぶん遅いじゃないか。お寺の山へでも行ったのじゃないかと、どれほど心配したことか。早くお入り」と言うと、太吉を先に立てて源七は元気なくぬっと上がった。「おや、お前さん、お帰りか。今日はどんなに暑かったでしょう。定めて帰りが早かろうと思って、行水を沸
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もう日が暮れたに太吉は何故かへつて来ぬ、源さんも又何処を歩いてゐるかしらんとて仕事を片づけて一服吸つけ、苦労らしく目をぱちつかせて、更に土瓶の下を穿くり、蚊いぶし火鉢に火を取分けて三尺の椽に持出し、拾ひ集めの杉の葉を冠せてふうふうと吹立れば、ふすふすと烟たちのぼりて軒場にのがれる蚊の声悽まじし、太吉はがたがたと溝板の音をさせて母さん今戻つた、お父さんも連れて来たよと門口から呼立るに、大層おそいではないかお寺の山へでも行はしないかとどの位案じたらう、早くお這入といふに太吉を先に立てて源七は元気なくぬつと上る、おやお前さんお帰りか、今日はどんなに暑かつたでせう、定めて帰りが早からうと思うて行水を沸
かしておきました。さっと汗を流したらどうですか。太吉もお風呂に入りな」と言うと、「はい」と言って帯を解く。「お待ち、お待ち。今加減を見てやる」と言って流し元にたらいを据えて、かまの湯をくみ出し、かき回して手ぬぐいを入れて、「さあ、お前さん、この子も入れてやってください。何をぐったりとしているの。暑さにでも当たりはしませんか。そうでなければ一杯浴びて、さっぱりになって御膳を上がれ。太吉が待っていますから」と言うと、「ああ、そうだ」と思い出したように帯を解いて流しに下りると、おのずと昔の自分が思い出されて、九尺二間の台所で行水を使うとは夢にも思わなかった。ましてや土方の手伝いをして、車の後押しをするとは、親は生んでもくれなかっただろう。「ああ、つまらない夢を見たばかりに」と、じ
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かして置ました、ざつと汗を流したらどうでござんす、太吉もお湯に這入なといへば、あいと言つて帯を解く、お待お待、今加減を見てやるとて流しもとに盥を据へて釜の湯を汲出し、かき廻して手拭を入れて、さあお前さんこの子をもいれて遣つて下され、何をぐたりと為てお出なさる、暑さにでも障りはしませぬか、さうでなければ一杯あびて、さつぱりに成つて御膳あがれ、太吉が待つてゐますからといふに、おおさうだと思ひ出したやうに帯を解いて流しへ下りれば、そぞろに昔しの我身が思はれて九尺二間の台処で行水つかふとは夢にも思はぬもの、ましてや土方の手伝ひして車の跡押にと親は生つけても下さるまじ、ああつまらぬ夢を見たばかりにと、ぢ
っと身にしみて湯も使わずにいると、「父ちゃん、背中を洗っておくれ」と太吉は無心にせかす。「お前さん、蚊が刺しますから早くお上がりなさい」と妻も気をつかうと、「はいはい」と返事しながら太吉にも洗わせ、自分も浴びて、上に上がると、洗いざらしのさっぱりしたゆかたを出して「お着替えなさい」と言う。帯を巻いて風の通るところへ行くと、妻は能代(のしろ)のお膳のはげかかった、足がよろめく古物に、「あなたの好きな冷奴にしました」と言って小どんぶりに豆腐を浮かせて青じその香り高く持ち出すと、太吉はいつの間にか台から飯びつを取り下ろして、「よっちょいよっちょい」
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つと身にしみて湯もつかはねば、父ちやん脊中洗つておくれと太吉は無心に催促する、お前さん蚊が喰ひますから早々とお上りなされと妻も気をつくるに、おいおいと返事しながら太吉にも遣はせ我れも浴びて、上にあがれば洗ひ晒せしさばさばの裕衣を出して、お着かへなさいましと言ふ、帯まきつけて風の透く処へゆけば、妻は能代の膳のはげかかりて足はよろめく古物に、お前の好きな冷奴にしましたとて小丼に豆腐を浮かせて青紫蘇の香たかく持出せば、太吉は何時しか台より飯櫃取おろして、よつちよいよつちよい」
は底本では「よっちょいよっちょい」
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は底本では「よつちよいよつちよい」
と担ぎ出す。「坊主は俺のそばに来い」と頭をなでながら箸を取ると、心は何を思うということもなかったが、舌に味が感じられず、のどの奥が腫れたようで、「もうやめにする」と茶わんを置くと、「そんなことがありますものか。力仕事をする人が、三杯のご飯が食べられないことはあるまい。気分が悪いですか。それともひどく疲れているのか」と聞く。「いや、どこも何ともないようだが、ただ食べる気がしない」と言うと、妻は悲しそうな目をして「お前さん、またいつものが起きましたんでしょう。菊の井の料理はおいしくもあったでしょうけれど、今の身分で思い出したところで何になります。先方は売り物買い物で、お金さえできれば昔のようにかわいがってもくれましょう。表を通ってみてもわかる。白粉をつけてきれいな着物を着て、迷って来
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]と担ぎ出す、坊主は我れが傍に来いとて頭を撫でつつ箸を取るに、心は何を思ふとなけれど舌に覚えの無くて咽の穴はれたる如く、もう止めにするとて茶椀を置けば、そんな事があります物か、力業をする人が三膳の御飯のたべられぬと言ふ事はなし、気合ひでも悪うござんすか、それとも酷く疲れてかと問ふ、いや何処も何とも無いやうなれど唯たべる気にならぬといふに、妻は悲しさうな目をしてお前さん又例のが起りましたらう、それは菊の井の鉢肴は甘くもありましたらうけれど、今の身分で思ひ出した処が何となりまする、先は売物買物お金さへ出来たら昔しのやうに可愛がつてもくれませう、表を通つて見ても知れる、白粉つけて美い衣類きて迷ふて来
る人を誰彼なしにめろめろにするのがあの人たちの商売。ああ、俺が貧乏になったからかまってくれないのかと思えば、いくらでも気が楽になりましょう。恨みに思うだけがお前さんの未練でございます。裏町の酒屋の若い者を知っているでしょう。二葉やのお角に心底ほれこんで、掛け売りを残らず使い込み、それを埋めようとして、博打の場についたが身の詰まり、次第に悪いことが染みてしまいには土蔵破りまでしたそうです。今、その男は牢屋に入って粗末な飯を食べているけれど、相手のお角は平気なもの、面白おかしく世を渡るのをとがめる人もなく、美事に繁盛しています。あれを思えば商売人の一つの徳。だまされたのはこちらの罪。考えても始まらない
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る人を誰れかれなしに丸めるがあの人達が商売、ああ我れが貧乏に成つたから搆いつけてくれぬなと思へば何の事なく済ましよう、恨みにでも思ふだけがお前さんが未練でござんす、裏町の酒屋の若い者知つてお出なさらう、二葉やのお角に心から落込んで、かけ先を残らず使ひ込み、それを埋めやうとて雷神虎が盆筵の端についたが身の詰り、次第に悪るい事が染みて終ひには土蔵やぶりまでしたさうな、当時男は監獄入りしてもつそう飯たべていやうけれど、相手のお角は平気なもの、おもしろ可笑しく世を渡るに咎める人なく美事繁昌してゐまする、あれを思ふに商売人の一徳、だまされたは此方の罪、考へたとて始まる
ことではございません。それよりは気を取り直して稼業に精を出して、少しの元手も作るよう心がけてください。お前さんに弱られては、私もこの子もどうすることもできず、それこそ路頭に迷わなければなりません。男らしく思い切る時にあきらめて、お金さえできようなら、お力はおろか小紫でも揚巻でも、別荘を作って囲えばよろしいでしょう。もうそんな考えごとはやめにして、機嫌よくご飯を上がってください。子供まで陰気に沈んでしまいましたよ」と言うと、見れば茶わんと箸をそこに置いて、父と母の顔を見比べて何とも知れず気になる様子だった。「こんなかわいい子さえあるのに、あんなたぬきのような女が忘れられないとは、何の因果か」と胸の中がかき回されるようで、我ながら未練者だと叱り
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事ではござんせぬ、それよりは気を取直して稼業に精を出して少しの元手も拵へるやうに心がけて下され、お前に弱られては私もこの子もどうする事もならで、それこそ路頭に迷はねば成りませぬ、男らしく思ひ切る時あきらめてお金さへ出来ようならお力はおろか小紫でも揚巻でも別荘こしらへて囲うたら宜うござりましよう、もうそんな考へ事は止めにして機嫌よく御膳あがつて下され、坊主までが陰気らしう沈んでしまいましたといふに、みれば茶椀と箸を其処に置いて父と母との顔をば見くらべて何とは知らず気になる様子、こんな可愛い者さへあるに、あのやうな狸の忘れられぬは何の因果かと胸の中かき廻されるやうなるに、我れながら未練ものめと叱り
つけて、「いや、俺だってそんなにいつまでも馬鹿ではないぞ。お力などと名前も言ってくれるな。言われると、以前の失敗を思い出して、ますます顔が上げられない。何で今の身になって今さら何を思うものか。飯が食えないとてもそれは体の加減だろう。何も特別心配してくれるには及ばぬから、小僧も十分にやってくれ」と言って、ごろりと横になって胸のあたりをはたはたと手で扇ぐ。蚊やりの煙にむせなくても、思いにのぼせて体が暑げだった。
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つけて、いや我れだとてその様に何時までも馬鹿ではいぬ、お力などと名ばかりもいつてくれるな、いはれると以前の不出来しを考へ出していよいよ顔があげられぬ、何のこの身になつて今更何をおもふ物か、食がくへぬとてもそれは身体の加減であらう、何も格別案じてくれるには及ばぬ故小僧も十分にやつてくれとて、ころりと横になつて胸のあたりをはたはたと打あふぐ、蚊遣の烟にむせばぬまでも思ひにもえて身の暑げなり。
五
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五
誰が白鬼と名をつけたのか知らないが、まるで地獄のようなざわざわとした雰囲気を作り出し、どこにからくりがあるとも見えないのに、逆さ落としの血の池、借金の針の山に追い上げるのも得意と聞くと、「寄っておいでよ」と甘える声も蛇を食う雉のように恐ろしくなる。それでも同じ母親の十か月のお腹にいて、母親の乳房にすがった頃は、手打ちをして「あわわ」のかわいいしぐさで、お金(さつ)とお菓子の二つ取りには「おこしをくれ」と手を出した者だから、今の商売に誠はなくとも、百人の中の一人には真からの涙をこぼして、「聞いておくれ、染物屋の辰さんのことを。昨日も川田やの店でおしゃべり好きのお六めとふざけ回して、見たくもない往来にまで担ぎ出して打ったり打たれたりしている。あんな軽薄な心で将来が遂げられようか。まあ何歳だと思う。三十は
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誰れ白鬼とは名をつけし、無間地獄のそこはかとなく景色づくり、何処にからくりのあるとも見えねど、逆さ落しの血の池、借金の針の山に追ひのぼすも手の物ときくに、寄つてお出でよと甘へる声も蛇くふ雉子と恐ろしくなりぬ、さりとも胎内十月の同じ事して、母の乳房にすがりし頃は手打々々あわわの可愛げに、紙幣と菓子との二つ取りにはおこしをおくれと手を出したる物なれば、今の稼業に誠はなくとも百人の中の一人に真からの涙をこぼして、聞いておくれ染物やの辰さんが事を、昨日も川田やが店でおちやつぴいのお六めと悪戯まわして、見たくもない往来へまで担ぎ出して打ちつ打たれつ、あんな浮いた了簡で末が遂げられやうか、まあ幾歳だとおも
おととし。いい加減に家でも構えるつもりをしておくれと、会うたびに意見をするが、その時限りおいおいと空返事して、まったく気にも留めてくれない。お父さんは年を取って、お母さんというのは目が悪い人だから、心配させないように早くしっかりしてくれればいいが。私はこれでもあの人の半てんを洗濯して、もも引きのほころびでも縫ってみたいと思っているのに、あんな軽薄な心ではいつ引き取ってくれるだろう。考えると、しみじみ奉公が嫌になって、お客を呼ぶ張り合いもない。ああ、くさくさする」と、普段は人をもだます口で人の辛さを恨みの言葉に言い、頭痛を押さえて思案に暮れる者もあり、「ああ、今日はお盆の十六日だ。お閻魔様へのお参りに連れ立って通る子供たちが、きれいな着物を着て小遣
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ふ三十は一昨年、宜い加減に家でも拵へる仕覚をしておくれと逢ふ度に異見をするが、その時限りおいおいと空返事して根つから気にも止めてはくれぬ、父さんは年をとつて、母さんと言ふは目の悪るい人だから心配をさせないやうに早く締つてくれれば宜いが、私はこれでもあの人の半纒をば洗濯して、股引のほころびでも縫つて見たいと思つてゐるに、あんな浮いた心では何時引取つてくれるだらう、考へるとつくづく奉公が嫌やになつてお客を呼ぶに張合もない、ああくさくさするとて常は人をも欺す口で人の愁らきを恨みの言葉、頭痛を押へて思案に暮れるもあり、ああ今日は盆の十六日だ、お焔魔様へのお参りに連れ立つて通る子供達の奇麗な着物きて小遣
いをもらって嬉しそうな顔をしてゆくのは、きっときっと二人そろってしっかりした親を持っているのだろう。私の息子の与太郎は今日の休みに御主人から暇が出て、どこへ行ってどんなことをして遊ぼうかと、きっと他人がうらやましかろう。お父さんは飲んだくれで、今だに住まいさえも定まらず、母はこんな身になって恥ずかしい紅白粉。よし居場所がわかったとて、あの子は逢いに来てもくれないだろう。去年向島の花見の時、女房ぶりして丸まげに結って仲間と共に遊び歩いていたところ、土手の茶屋であの子に会って、これこれと声をかけたのに、私が若く見えているのに呆れて、『お母さんでございますか』と驚いた様子で、まして、この大島田に、時々は流行りの花かんざしをさしひらめかしてお客を捕まえて冗談を言うところを聞かば、子の心に
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ひもらつて嬉しさうな顔してゆくは、定めて定めて二人揃つて甲斐性のある親をば持つてゐるのであろ、私が息子の与太郎は今日の休みに御主人から暇が出て何処へ行つてどんな事して遊ばうとも定めし人が羨しかろ、父さんは呑ぬけ、いまだに宿とても定まるまじく、母はこんな身になつて恥かしい紅白粉、よし居処が分つたとてあの子は逢ひに来てもくれまじ、去年向島の花見の時女房づくりして丸髷に結つて朋輩と共に遊びあるきしに土手の茶屋であの子に逢つて、これこれと声をかけしにさへ私の若く成しに呆れて、お母さんでござりますかと驚きし様子、ましてやこの大島田に折ふしは時好の花簪さしひらめかしてお客を捉らへて串談いふ処を聞かば子心に
は悲しくも思うだろう。去年会った時、『今は駒形のろうそく屋に奉公しています。私はどんな辛いことがあっても必ず辛抱し遂げて一人前の男になり、父さんをもお前をも今に楽をさせます。どうかそれまで何なりと堅気のことをして一人で世渡りをしていてください。人の女房だけにはならないでいてください』と意見を言われたが、悲しいのは女の身の、マッチの箱張りをして一人で暮らし続けるのは難しく、さりとて人の台所に這いつくばるのも弱い体では務めがたく、同じ辛い中でも体が楽なれば、こんなことをして日を送る。まったく軽薄な心ではないけれど、言う甲斐のない母親だとあの子はきっと爪はじきするだろう。普段は何とも思わない島田が今日だけは恥ずかしいと、夕暮れの鏡の前に涙ぐむ者もあ
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は悲しくも思ふべし、去年あひたる時今は駒形の蝋燭やに奉公してゐまする、私はどんな愁らき事ありとも必らず辛抱しとげて一人前の男になり、父さんをもお前をも今に楽をばお為せ申ます、どうぞそれまで何なりと堅気の事をして一人で世渡りをしてゐて下され、人の女房にだけはならずにゐて下されと異見を言はれしが、悲しきは女子の身の寸燐の箱はりして一人口過しがたく、さりとて人の台処を這ふも柔弱の身体なれば勤めがたくて、同じ憂き中にも身の楽なれば、こんな事して日を送る、夢さら浮いた心では無けれど言甲斐のないお袋とあの子は定めし爪はじきするであらう、常は何とも思はぬ島田が今日ばかりは恥かしいと夕ぐれの鏡の前に涕ぐむもあ
るだろう。菊の井のお力とても、悪魔の生まれ変わりではあるまい。ある事情があればこそ、ここの流れに落ちて、嘘のありったけ冗談にその日を送って、情けは薄くて、蛍の光のぴっかりとするばかり、人の涙は百年でも我慢して、我がゆえに死ぬる人があっても御愁傷様と横を向く辛さが、他人目にも想像できるくらいだろう。それでも折々は悲しいこと、恐ろしいことが胸にたまって、泣くにも人目を恥じれば、二階座敷の床の間に身を投げ出して、しのび声の悲しい涙。これを仲間にも漏らしまいと包む根性のしっかりした、気の強い子というのはあるけれど、触れば切れる蜘蛛の糸のはかなさを知る人はなかった。七月十六日の夜は、どの店にもお客が大勢入り込んで、都々逸や端唄の景気よく、菊の井の下座敷には
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るべし、菊の井のお力とても悪魔の生れ替りにはあるまじ、さる子細あればこそ此処の流れに落こんで嘘のありたけ串談にその日を送つて、情は吉野紙の薄物に、蛍の光ぴつかりとするばかり、人の涕は百年も我まんして、我ゆゑ死ぬる人のありとも御愁傷さまと脇を向くつらさ他処目も養ひつらめ、さりとも折ふしは悲しき事恐ろしき事胸にたたまつて、泣くにも人目を恥れば二階座敷の床の間に身を投ふして忍び音の憂き涕、これをば友朋輩にも洩らさじと包むに根生のしつかりした、気のつよい子といふ者はあれど、障れば絶ゆる蛛の糸のはかない処を知る人はなかりき、七月十六日の夜は何処の店にも客人入込みて都々一端歌の景気よく、菊の井の下座敷には
店の者が五、六人集まって、調子の外れた「紀伊の国」やら、自慢も恐ろしい低い声で「霞の衣、衣紋坂」と気どる者もあり、「力ちゃんは、どうした? 心意気を聞かせないか」「やれやれ」と責められると、「お名前はあげませんが、この座の中に」と決まった嬉しがらせの言葉を言って、やんやと喜ばれる中から、「我が恋は、細谷川の丸木橋、渡るにや怖し、渡らねば」と歌いかけたが、何かを思い出したように「ああ、私はちょっと失礼します。ごめんなさい」と三味線を置いて立つと、「どこへ行く? どこへ行く? 逃げてはならない」と座中が騒ぐのに、「照ちゃん、高さん、少し頼むよ。すぐ帰るから」と言って、廊下を急ぎ足で出ると、何も振り返らず店口から下駄を履いて、向かいの横丁の暗がりへ姿を消してしまった。
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お店者五六人寄集まりて調子の外れし紀伊の国、自まんも恐ろしき胴間声に霞の衣衣紋坂と気取るもあり、力ちやんはどうした心意気を聞かせないか、やつたやつたと責められるに、お名はささねどこの坐の中にと普通の嬉しがらせを言つて、やんややんやと喜ばれる中から、我恋は細谷川の丸木橋わたるにや怕し渡らねばと謳ひかけしが、何をか思ひ出したやうにああ私は一寸無礼をします、御免なさいよとて三味線を置いて立つに、何処へゆく何処へゆく、逃げてはならないと坐中の騒ぐに照ちやん高さん少し頼むよ、直き帰るからとてずつと廊下へ急ぎ足に出しが、何をも見かへらず店口から下駄を履いて筋向ふの横町の闇へ姿をかくしぬ。
お力は一目散に家を出て、「行けるものなら、このまま地の果てまで行ってしまいたい。ああ嫌だ嫌だ嫌だ。どうしたら人の声も聞こえない、物の音もしない、静かな、静かな、自分の心も何もぼうっとして物思いのない場所へ行けるのだろう。つまらない、くだらない、面白くない。情けない、悲しい、心細い。その中に、いつまで私は縛られているのかしら。これが一生か、一生がこれか。ああ嫌だ嫌だ」と道端の立ち木に夢中で寄りかかって、しばらくそこに立ち止まると、「渡るにや怖し、渡らねば」と自分が歌っていた声が、そのままどこからともなく響いてくる。「仕方がない、やっぱり私も丸木橋は渡らなければなるまい。父さんも踏みはずして落ちてしまいなさった。祖父さんも同じことだったという。どうで
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お力は一散に家を出て、行かれる物ならこのままに唐天竺の果までも行つてしまいたい、ああ嫌だ嫌だ嫌だ、どうしたなら人の声も聞えない物の音もしない、静かな、静かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない処へ行かれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情ない悲しい心細い中に、何時まで私は止められてゐるのかしら、これが一生か、一生がこれか、ああ嫌だ嫌だと道端の立木へ夢中に寄かかつて暫時そこに立どまれば、渡るにや怕し渡らねばと自分の謳ひし声をそのまま何処ともなく響いて来るに、仕方がないやつぱり私も丸木橋をば渡らずはなるまい、父さんも踏かへして落ておしまいなされ、祖父さんも同じ事であつたといふ、どうで
何代もの恨みを背負って出た私だから、するだけのことはしなければ死んでも死にきれないのだろう。情けないといっても、誰も哀れと思ってくれる人はあるまじく、悲しいと言えば商売がらを嫌うかと一口に言われてしまう。ええ、どうなりとも勝手になれ。勝手になれ。私には、それ以上考えたところで、この身の行く先はわからない。わからないなりに菊の井のお力を通してゆこう。人情知らず義理知らずか、そんなことも考えまい。考えたところでどうなるものか。こんな身で、こんな暮らしぶりで、こんな運命で、どうしたからといって人並みではないに違いないのだから、人並みのことを考えて苦労するだけが間違いだろう。ああ、陰気らしい。何だとてこんなところに立っているのか。何しにこんな場所に出てきたのか。馬鹿らし
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幾代もの恨みを背負て出た私なれば為るだけの事はしなければ死んでも死なれぬのであらう、情ないとても誰れも哀れと思ふてくれる人はあるまじく、悲しいと言へば商売がらを嫌ふかと一ト口に言はれてしまう、ゑゑどうなりとも勝手になれ、勝手になれ、私には以上考へたとて私の身の行き方は分らぬなれば、分らぬなりに菊の井のお力を通してゆかう、人情しらず義理しらずかそんな事も思ふまい、思ふたとてどうなる物ぞ、こんな身でこんな業体で、こんな宿世で、どうしたからとて人並みでは無いに相違なければ、人並の事を考へて苦労するだけ間違ひであろ、ああ陰気らしい何だとてこんな処に立つてゐるのか、何しにこんな処へ出て来たのか、馬鹿らし
い。気違いじみた。我がことながらわからない。もうもう帰りましょう」と横丁の暗がりを抜け出て、夜店の並ぶにぎやかな小路を気晴らしにとぶらぶら歩くと、行き来する人の顔が小さく小さく、すれ違う人の顔さえもはるかに遠くに見えるように思われて、自分の踏む土だけが一丈も上に上がっているようで、がやがやという声は聞こえるけれど、井の底に物を落としたような響きに聞こえて、人の声は人の声、我が考えは考えと別々になって、まったく何事にも気が紛れるものがなく、人だかりのおびただしい夫婦げんかの軒先などを通るとも、ただ自分だけは広い野原の冬枯れを行くように、心に止まるものもなく、気にかかる景色にも気づかないのは、自分ながら、ひどくのぼせて人の心がないのだと、おぼつかなく、気が狂いはしない
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い気違じみた、我身ながら分らぬ、もうもう皈りませうとて横町の闇をば出はなれて夜店の並ぶにぎやかなる小路を気まぎらしにとぶらぶら歩るけば、行かよふ人の顔小さく小さく擦れ違ふ人の顔さへも遥とほくに見るやう思はれて、我が踏む土のみ一丈も上にあがりゐる如く、がやがやといふ声は聞ゆれど井の底に物を落したる如き響きに聞なされて、人の声は、人の声、我が考へは考へと別々に成りて、更に何事にも気のまぎれる物なく、人立おびただしき夫婦あらそひの軒先などを過ぐるとも、唯我れのみは広野の原の冬枯れを行くやうに、心に止まる物もなく、気にかかる景色にも覚えぬは、我れながら酷く逆上て人心のないのにと覚束なく、気が狂ひはせぬ
かと立ち止まった途端、「お力、どこへ行く」と肩を打つ人がいた。
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かと立どまる途端、お力何処へ行くとて肩を打つ人あり。
六
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六
「十六日には必ずお待ちします、来てください」と言ったことも何もかも忘れて、今まで思い出しもしなかった結城の朝之助に、ふと出会って、「あれ」と驚いた顔つきの、普段に似合わない慌てぶりがおかしいとて、からからと男が笑うと、少し恥ずかしく、「考えごとをして歩いていたので、急なようにあわててしまいました。よく今夜は来てくださいました」と言うと、「あれほど約束して待っていてくれないとは不誠実だ」と責められると、「何なりとおっしゃれ。言い訳は後にします」と手を取って引くと、「野次馬がうるさい」と気をつける。「どうなりとも勝手に言わせましょう。こちらはこちら」と人の中を分けて連れてゆった。
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十六日は必らず待まする来て下されと言ひしをも何も忘れて、今まで思ひ出しもせざりし結城の朝之助に不図出合て、あれと驚きし顔つきの例に似合ぬ狼狽かたがをかしきとて、からからと男の笑ふに少し恥かしく、考へ事をして歩いてゐたれば不意のやうに惶ててしまいました、よく今夜は来て下さりましたと言へば、あれほど約束をして待てくれぬは不心中とせめられるに、何なりと仰しやれ、言訳は後にしまするとて手を取りて引けば弥次馬がうるさいと気をつける、どうなり勝手に言はせませう、此方は此方と人中を分けて伴ひぬ。
下座敷はまだお客の騒ぎが激しく、お力が中座したのが不満でやかましかった折から、店口で「おや、お帰りか」の声を聞くより、「お客を置き去りにして中座するという法があるか。帰ったらここに来い。顔を見なければ承知しないぞ」と威張り立てるのを聞き流して、二階の座敷へ結城を連れ上がって、「今夜も頭痛がするので、お酒のお相手はできません。大勢の中にいれば、お酒の香に酔って夢中になるかもしれませんから、少し休んでその後はどうなるかわかりませんが、今はご免なさい」と断りを言ってやると、「それでいいのか。怒りはしないか。やかましくなれば面倒だろう」と結城が気をつかうと、「何の、うちの者が白瓜みたいな奴がどんなことをしましょう。怒るなら怒れでございます」と小女に言いつけてお銚子の用意をして、来
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下座敷はいまだに客の騒ぎはげしく、お力の中座をしたるに不興して喧しかりし折から、店口にておやお皈りかの声を聞くより、客を置ざりに中坐するといふ法があるか、皈つたらば此処へ来い、顔を見ねば承知せぬぞと威張たてるを聞流しに二階の座敷へ結城を連れあげて、今夜も頭痛がするので御酒の相手は出来ませぬ、大勢の中に居れば御酒の香に酔ふて夢中になるも知れませぬから、少し休んでその後は知らず、今は御免なさりませと断りを言ふてやるに、それで宜いのか、怒りはしないか、やかましくなれば面倒であらうと結城が心づけるを、何のお店ものの白瓜がどんな事を仕出しませう、怒るなら怒れでござんすとて小女に言ひつけてお銚子の支度、来
るのを待ちかねて、「結城さん、今夜は私に少し面白くないことがあって気が変わっていますから、そのつもりで付き合っていてください。お酒を思い切って飲みますから止めないでください。酔ったら介抱してください」と言うと、「あなたが酔ったのはまだ見たことがない。気が晴れるほど飲むのはいいが、また頭痛が始まりはしないか。何がそんなに気に障ったことがある? 僕に言っては悪いことか」と問われると、「いいえ、あなたには聞いていただきたいのです。酔うと申しますから、驚いてはいけません」とにっこりとして、大湯のみを取り寄せて二、三杯は息もつかずに飲んでいた。
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るをば待かねて結城さん今夜は私に少し面白くない事があつて気が変つてゐまするほどにその気で附合てゐて下され、御酒を思ひ切つて呑みまするから止めて下さるな、酔ふたらば介抱して下されといふに、君が酔つたを未だに見た事がない、気が晴れるほど呑むは宜いが、又頭痛がはじまりはせぬか、何がそんなに逆鱗にふれた事がある、僕らに言つては悪るい事かと問はれるに、いゑ貴君には聞て頂きたいのでござんす、酔ふと申ますから驚いてはいけませぬと嫣然として、大湯呑を取よせて二三杯は息をもつかざりき。
普段はさほど気にも留まらなかった結城の様子が、今夜はなんとなく普通でないと感じられて、肩幅があって背がいかにも高いところから、落ち着いて物を言う重々しい口ぶり、目つきがするどくて人を射るようなのも威厳が備わっているかと嬉しく、濃い髪を短く刈り上げて、首のつけ根がくっきりとしているなども今さらのように眺めていると、「何をぼうっとしている?」と問われて、「あなたのお顔を見ていますの」と言うと、「この野郎め」とにらみつけられて、「おお、怖いお方」と笑っていると、「冗談はのけ、今夜は様子が普通でない。聞いたら怒るかもしれないが、何か事件があったか?」と問う。「何で急に湧いて出たことでもないし、人とのいさかいなどはあったにしてもそれは普通のこと。気にもかからないのに何で物を思いましょう。私の場合
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常にはさのみに心も留まらざりし結城の風采の今宵は何となく尋常ならず思はれて、肩巾のありて背のいかにも高き処より、落ついて物をいふ重やかなる口振り、目つきの凄くて人を射るやうなるも威厳の備はれるかと嬉しく、濃き髪の毛を短かく刈あげて頸足のくつきりとせしなど今更のやうに眺られ、何をうつとりしてゐると問はれて、貴君のお顔を見てゐますのさと言へば、此奴めがと睨みつけられて、おお怕いお方と笑つてゐるに、串談はのけ、今夜は様子が唯でない聞たら怒るか知らぬが何か事件があつたかととふ、何しに降つて湧いた事もなければ、人との紛雑などはよし有つたにしろそれは常の事、気にもかからねば何しに物を思ひませう、私の時より
気まぐれを起こすのは人がするのではなく、皆心がらの情けない訳がございます。私はこんな卑しい身の上で、あなたは立派なお方様。思うことは逆においでになっても、くみとってくださるかくださらないか、そこまでは知らないけれど、よし笑い者になっても、私はあなたに笑っていただきたく、今夜は残らず言います。まあ何から申しましょう。胸がもめて口がきかれません」と言って、また大湯のみで飲むことさかんだった。
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気まぐれを起すは人のするのでは無くて皆心がらの浅ましい訳がござんす、私はこんな賤しい身の上、貴君は立派なお方様、思ふ事は反対にお聞きになつても汲んで下さるか下さらぬか其処ほどは知らねど、よし笑ひ物になつても私は貴君に笑ふて頂きたく、今夜は残らず言ひまする、まあ何から申さう胸がもめて口が利かれぬとて又もや大湯呑に呑む事さかんなり。
「何よりも先に、私の身の不行儀をご承知でいてください。もとより箱入りの純粋な娘ではないから、少しは察してもいてくださるでしょうが、口きれいなことを言っても、このあたりの人に、泥の中の蓮とやら、悪いことに染まらない女があれば、繁盛どころか見に来る人もあるまい。あなたは別物で、私のところに来る人とて大方はそれとお思いください。それでも折々は世間様並のことを思って、恥ずかしいことやつらいこと、情けないことだと思われるのも、いっそ九尺二間でも決まった旦那という人に添って身を固めようと考えることもございますけれど、それが私にはできません。それかといって来るほどのお人に無愛想にもなりがたく、かわいいの、いとしいの、一目ぼれしましたのと、でたらめのお世辞も言わなければならず、大勢の中には真に受けて、こ
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何より先に私が身の自堕落を承知してゐて下され、もとより箱入りの生娘ならねば少しは察してもゐて下さろうが、口奇麗な事はいひますともこのあたりの人に泥の中の蓮とやら、悪業に染まらぬ女子があらば、繁昌どころか見に来る人もあるまじ、貴君は別物、私が処へ来る人とても大底はそれと思しめせ、これでも折ふしは世間さま並の事を思ふて恥かしい事つらい事情ない事とも思はれるも寧九尺二間でも極まつた良人といふに添うて身を固めようと考へる事もござんすけれど、それが私は出来ませぬ、それかと言つて来るほどのお人に無愛想もなりがたく、可愛いの、いとしいの、見初ましたのと出鱈目のお世辞をも言はねばならず、数の中には真にうけてこ
んな役に立たない者を女房にと言ってくださる方もある。もらわれたら嬉しいか、添えたら本望か、それが私にはわかりません。そもそもの始めから私はあなたが好きで好きで、一日お目にかからないと恋しいほどなれど、奥様にと言ってくださったらどうでございましょうか。もらわれるのは嫌で、遠くから慕うのはうれしい。一口に言われたら浮気者でございましょう。ああ、こんな浮気者にしたのは誰だと思われます? 三代伝わっての出来損ない。親父が一生も悲しいことでございましたよ」とほろっとすると、「その親父さんは?」と問いかけられて、「親父は職人で、祖父は四角な字を読んだ人でございます。つまりは私みたいな変わり者で、世に役に立たない反故紙(廃紙)を作ったのに、版を御上から止められたとやら、許されぬとかで、ゆるされ
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んな厄種を女房にと言ふて下さる方もある、持たれたら嬉しいか、添うたら本望か、それが私は分りませぬ、そもそもの最初から私は貴君が好きで好きで、一日お目にかからねば恋しいほどなれど、奥様にと言ふて下されたらどうでござんしよか、持たれるは嫌なり他処ながらは慕はしし、一ト口に言はれたら浮気者でござんせう、ああこんな浮気者には誰れがしたと思召、三代伝はつての出来そこね、親父が一生もかなしい事でござんしたとてほろりとするに、その親父さむはと問ひかけられて、親父は職人、祖父は四角な字をば読んだ人でござんす、つまりは私のやうな気違ひで、世に益のない反古紙をこしらへしに、版をばお上から止められたとやら、ゆるされ
ぬとかにて断食して死んだそうでございます。十六の年から志があって、生まれも卑しい身であったけれど、一念で修業して六十を超えるまで成し遂げたことなく、終わりは人の笑い者に、今では名を知る人もいないと、父が始終嘆いたのを子供の頃から聞き知っていました。私の父というのは、三歳の時に縁から落ちて、片足が不自由な体になったため、人の中に出るのが嫌だといって、居職(家仕事)で飾りの金具を作りましたけれど、気位が高くて人付き合いがないから、ひいきにしてくれる人もなく、ああ私が覚えている七歳の冬でございました。寒中、親子三人ながら古ゆかたで、父は寒いとも知らないのか柱に寄って細工物に工夫をこらすに、母は欠けた一つかまどに、破れた鍋をかけて私にある物を買いに行けと言う。みそこしを下げて
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ぬとかにて断食して死んださうに御座んす、十六の年から思ふ事があつて、生れも賤しい身であつたれど一念に修業して六十にあまるまで仕出来したる事なく、終は人の物笑ひに今では名を知る人もなしとて父が常住歎いたを子供の頃より聞知つておりました、私の父といふは三つの歳に椽から落て片足あやしき風になりたれば人中に立まじるも嫌やとて居職に飾の金物をこしらへましたれど、気位たかくて人愛のなければ贔負にしてくれる人もなく、ああ私が覚えて七つの年の冬でござんした、寒中親子三人ながら古裕衣で、父は寒いも知らぬか柱に寄つて細工物に工夫をこらすに、母は欠けた一つ竈に破れ鍋かけて私にさる物を買ひに行けといふ、味噌こし下げて
少しのお銭を手に握って、米屋の門まではうれしく駆けつけたけれど、帰りには寒さが身にしみて、手も足もかじかんでしまいました。五、六軒先の溝板の上の氷にすべって、足が定まらずこけた弾みに、手の物を取り落として、一枚はずれた溝板の隙間よりざらざらとこぼれ入ると、下は汚れた溝の泥でした。何度も覗いては見たけれど、これをどうして拾えましょう。その時私は七歳でしたけれど、家の中の様子も、父母の心もわかっていますから、お米は途中で落としましたと、空のみそこしを下げて家には帰れず、立ってしばらく泣いていたけれど、どうしたと聞いてくれる人もなく、聞いたからといって買ってやろうという人はなおさらいない。あの時近くに川なり池なりあったなら、私はきっと身を投げてしまっていたでしょう。話しは
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端たのお銭を手に握つて米屋の門までは嬉しく駆けつけたれど、帰りには寒さの身にしみて手も足も亀かみたれば五六軒隔てし溝板の上の氷にすべり、足溜りなく転ける機会に手の物を取落して、一枚はづれし溝板のひまよりざらざらと翻れ入れば、下は行水きたなき溝泥なり、幾度も覗いては見たれどこれをば何として拾はれませう、その時私は七つであつたれど家の内の様子、父母の心をも知れてあるにお米は途中で落しましたと空の味噌こしさげて家には帰られず、立てしばらく泣いていたれどどうしたと問ふてくれる人もなく、聞いたからとて買てやらうと言ふ人は猶更なし、あの時近処に川なり池なりあらうなら私は定し身を投げてしまひましたろ、話しは
真実の百分の一。私はその頃から気が狂ったのでございます。帰りの遅いのを母親が心配して尋ねに来てくれたのを機会に家には戻ったけれど、母も物言わず、父も無言に、誰一人私を叱る者もなく、家の中がしんとして折々ため息の声がもれるのに、私は身を切られるより情けなく、今日は一日断食にしようと父の一言が出るまでは、息を殺すようでございました。
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誠の百分一、私はその頃から気が狂つたのでござんす、皈りの遅きを母の親案じて尋ねに来てくれたをば時機に家へは戻つたれど、母も物いはず父親も無言に、誰れ一人私をば叱る物もなく、家の内森として折々溜息の声のもれるに私は身を切られるより情なく、今日は一日断食にせうと父の一言いひ出すまでは忍んで息をつくやうで御座んした。
言いさしてお力はあふれ出る涙の止めがたく、紅のハンカチを顔に押し当てて、その端を噛みしめながら物言わないこと小半時(約三十分)、座には物の音もなく、酒の香を頼りに寄ってくる蚊の唸り声ばかりが高く聞こえていた。
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いひさしてお力は溢れ出る涙の止め難ければ紅ひの手巾かほに押当てその端を喰ひしめつつ物いはぬ事小半時、坐には物の音もなく酒の香したひて寄りくる蚊のうなり声のみ高く聞えぬ。
顔を上げた時は頬に涙の跡は見えるけれど、寂しげな笑みさえ見せて、「私はそのような貧乏人の娘。気の変わるのは親ゆずりで折々起きるのでございます。今夜もこんなわからないことを言い出して、さぞあなたには迷惑でございましょう。もう話はやめます。お気に障ったならお許しください。誰か呼んで陽気にしましょうか」と問うと、「いや遠慮は無用。その父親は早くに亡くなったか」「はあ、お母さんが肺結核というのを患って亡くなりましてから一年もたたないうちに後を追いました。今いても、まだ五十歳。親だから褒めるわけではないけれど、細工は本当に名人と言っても良い人でございました。なれど、名人だとて上手だとて、私たちの家のように生まれついては何にもなることはできないのでございましょう。
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顔をあげし時は頬に涙の痕はみゆれども淋しげの笑みをさへ寄せて、私はその様な貧乏人の娘、気違ひは親ゆづりで折ふし起るのでござります、今夜もこんな分らぬ事いひ出してさぞ貴君御迷惑で御座んしてしよ、もう話しはやめまする、御機嫌に障つたらばゆるして下され、誰れか呼んで陽気にしませうかと問へば、いや遠慮は無沙汰、その父親は早くに死くなつてか、はあ母さんが肺結核といふを煩つて死なりましてから一週忌の来ぬほどに跡を追ひました、今居りましても未だ五十、親なれば褒めるでは無けれど細工は誠に名人と言ふても宜い人で御座んした、なれども名人だとて上手だとて私等が家のやうに生れついたは何にもなる事は出来ないので御座んせ
我が身の上にもわかることです」と物思わしげな様子で。「あなたは出世を望むな?」と突然に朝之助に言われて、「えっ」と驚いた様子に見えたが、「私たちの身で望んだところで、みそこしが落ちる始末で、まさかいい縁組みまでは思いもかけません」と言う。「嘘をつくのは人によるが、始めから何も見知っているのに隠すのは無粋ではないか。思い切ってやれやれ」と言われると、「あれ、そのようなけしかけ言葉はよしてください。どうせこんな身でございますから」と打ちしおれてまた物言わなかった。
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う、我身の上にも知られまするとて物思はしき風情、お前は出世を望むなと突然に朝之助に言はれて、ゑツと驚きし様子に見えしが、私等が身にて望んだ処が味噌こしが落、何の玉の輿までは思ひがけませぬといふ、嘘をいふは人に依る始めから何も見知つてゐるに隠すは野暮の沙汰ではないか、思ひ切つてやれやれとあるに、あれそのやうなけしかけ詞はよして下され、どうでこんな身でござんするにと打しほれて又もの言はず。
今夜もかなり更けた。下座敷の人はいつか帰って、表の雨戸を立てるというので、朝之助は驚いて帰り支度するのに、お力はどうしても泊まらせるという。いつしか下駄も隠させてしまったから、足を取られて幽霊でもない身が戸の隙間から出ることもできないとて、今夜はここに泊まることになった。雨戸を閉める音がしばらくにぎやかで、後には透けてもれる灯りのかげも消えて、ただ軒下を行き来する夜回りの巡査の靴音ばかりが高く聞こえていた。
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今宵もいたく更けぬ、下坐敷の人はいつか帰りて表の雨戸をたてると言ふに、朝之助おどろきて帰り支度するを、お力はどうでも泊らするといふ、いつしか下駄をも蔵させたれば、足を取られて幽霊ならぬ身の戸のすき間より出る事もなるまじとて今宵は此処に泊る事となりぬ、雨戸を鎖す音一しきり賑はしく、後には透きもる燈火のかげも消えて、唯軒下を行かよふ夜行の巡査の靴音のみ高かりき。
七
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七
「思い出したとて今さらどうなるものか、忘れてしまえ、あきらめてしまえ」と考えは決めながら、去年のお盆には、おそろいのゆかたを作って二人一緒に蔵前へ参詣したことなどが、思わず胸に浮かんで、お盆に入ってからは仕事に出る張り合いもなく、「お前さん、それではならないよ」と諌める女房の言葉も耳うるさく、「ええ、何も言うな、黙っていろ」と横になると、「黙っていてはこの日が過ごせません。体が悪くば薬も飲むがよし、お医者にかかるのも仕方がないけれど、お前の病いはそうではなく、気さえ持ち直せばどこに悪いところがあるでしょう。少しは正気になって頑張ってください」と言う。「いつでも同じことは耳にたこができて、気の薬にはならない。酒でも買ってきてくれ、気晴らしに飲んでみよう」と言う
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思ひ出したとて今更にどうなる物ぞ、忘れてしまへ諦めてしまへと思案は極めながら、去年の盆には揃ひの浴衣をこしらへて二人一処に蔵前へ参詣したる事なんど思ふともなく胸へうかびて、盆に入りては仕事に出る張もなく、お前さんそれではならぬぞへと諫め立てる女房の詞も耳うるさく、エエ何も言ふな黙つてゐろとて横になるを、黙つてゐてはこの日が過されませぬ、身体が悪るくば薬も呑むがよし、御医者にかかるも仕方がなけれど、お前の病ひはそれではなしに気さへ持直せば何処に悪い処があろう、少しは正気になつて勉強をして下されといふ、いつでも同じ事は耳にたこが出来て気の薬にはならぬ、酒でも買て来てくれ気まぎれに呑んで見やうと言ふ
と、「お前さん、その酒が買えるほどなら嫌だとおっしゃるのを無理に仕事に出てくださいとは頼みません。私の内職といって、朝から夜にかけて十五銭が精一杯。親子三人、おもゆも満足には飲めない中で、酒を買えとはよくよくお前さんも無茶になられました。お盆だというのに、昨日らも小僧には白玉一つ作っても食べさせられず、お精霊様のお店かざりも作ってくれないから、お灯明一つで御先祖様にお詫びを申しているのも誰の仕業だとお思いになります? お前が馬鹿をつくしてお力のようなのに引っかかったから起きたこと。言ってはわるいけれど、お前は親不孝、子不孝。少しはあの子の将来も思って真人間になってください。お酒を飲んで気を晴らすのは一時、心から改心してくださらないと心もとなく思われます」と
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、お前さんそのお酒が買へるほどなら嫌やとお言ひなさるを無理に仕事に出て下されとは頼みませぬ、私が内職とて朝から夜にかけて十五銭が関の山、親子三人口おも湯も満足には呑まれぬ中で酒を買へとは能く能くお前無茶助になりなさんした、お盆だといふに昨日らも小僧には白玉一つこしらへても喰べさせず、お精霊さまのお店かざりも拵へくれねば御燈明一つで御先祖様へお詫びを申てゐるも誰が仕業だとお思ひなさる、お前が阿房を尽してお力づらめに釣られたから起つた事、いふては悪るけれどお前は親不孝子不孝、少しはあの子の行末をも思ふて真人間になつて下され、御酒を呑で気を晴らすは一時、真から改心して下さらねば心元なく思はれますとて
女房が泣き崩れると、返事はなくてため息が時々深く、身動きもせずに上向きに寝た心根の辛さ。その身になってもお力のことが忘れられないのか。十年連れ添って子供まで授かった自分に、心を尽くして苦労をさせて、子には粗末な服を着せ、家といっては九尺二間のこんな犬小屋。世間一体からばかにされて別扱いにされて、よしや春や秋の彼岸が来れば、隣近所に牡丹もち、団子と配り歩く中を、「源七の家へはやらない方がいい、返礼が気の毒だ」とて、親切かどうかわからないが、十軒長屋の一軒は除け物にされて。男は外出がちだから少し心に引っかかることはないかもしれないが、女の心には遣る瀬のないほど切なく悲しく、おのずと肩身が狭くなって、朝夕のあいさつも人の顔色を見るような、情けない思いもするのに、それを思わずに、自分の恋人の
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女房打なげくに、返事はなくて吐息折々に太く身動きもせず仰向ふしたる心根の愁さ、その身になつてもお力が事の忘れられぬか、十年つれそふて子供まで儲けし我れに心かぎりの辛苦をさせて、子には襤褸を下げさせ家とては二畳一間のこんな犬小屋、世間一体から馬鹿にされて別物にされて、よしや春秋の彼岸が来ればとて、隣近処に牡丹もち団子と配り歩く中を、源七が家へは遣らぬが能い、返礼が気の毒なとて、心切かは知らねど十軒長屋の一軒は除け物、男は外出がちなればいささか心に懸るまじけれど女心には遣る瀬のなきほど切なく悲しく、おのづと肩身せばまりて朝夕の挨拶も人の目色を見るやうなる情なき思ひもするを、それをば思はで我が情婦の
ことばかりを思い続けて、冷たい人の心の底がそれほどまでに恋しいのか。昼も夢に見て独り言に言う情けなさ。女房のことも子のことも忘れ果てて、お力一人に命をも遣るつもりか。浅ましい、口惜しい、辛い人と思うのに、なかなか言葉は出てこず、恨みの涙を目の中にたたえていた。
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上ばかりを思ひつづけ、無情き人の心の底がそれほどまでに恋しいか、昼も夢に見て独言にいふ情なさ、女房の事も子の事も忘れはててお力一人に命をも遣る心か、浅ましい口惜しい愁らい人と思ふに中々言葉は出ずして恨みの露を目の中にふくみぬ。
物言わなければ、狭い家の中も何となく寂しく、暮れてゆく空のたどたどしさに、裏屋はまして薄暗く。灯りをつけて蚊やりをくべて、お初は心細く戸の外を眺めると、いそいそと帰ってくる太吉の姿が見えた。何やら大きな袋を両手に抱えて「母さん、母さん、これをもらってきた」とにっこりして駆け込むと、見れば新開の日の出屋のカステラだった。「おや、こんないいお菓子を、誰にもらってきた? よくお礼を言ったか」と問うと、「ああ、よくお辞儀をしてもらってきた。これは菊の井の鬼姉さんがくれた」と言うと、母は顔色を変えて「図太い奴めが、これほどの深みに投げ込んで、まだいじめ方が足りないと思うか。現在の子を使いに、父さんの心を動かしに寄こした。何と言って寄こしたのか」と言うと、「表通りのにぎやかな
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物いはねば狭き家の内も何となくうら淋しく、くれゆく空のたどたどしきに裏屋はまして薄暗く、燈火をつけて蚊遣りふすべて、お初は心細く戸の外をながむれば、いそいそと帰り来る太吉郎の姿、何やらん大袋を両手に抱へて母さん母さんこれを貰つて来たと莞爾として駆け込むに、見れば新開の日の出やがかすていら、おやこんな好いお菓子を誰れに貰つて来た、よくお礼を言つたかと問へば、ああ能くお辞儀をして貰つて来た、これは菊の井の鬼姉さんがくれたのと言ふ、母は顔色をかへて図太い奴めがこれほどの淵に投げ込んで未だいぢめ方が足りぬと思ふか、現在の子を使ひに父さんの心を動かしに遣しおる、何といふて遣したと言へば、表通りの賑やかな
場所で遊んでいたら、どこかの伯父さんと一緒に来て、菓子を買ってやるから一緒においでと言って、俺はいらないと言ったけれど抱いて行って買ってくれた。食べてはいけないの?」と、さすがに母の心をはかりかねて、顔をのぞいてためらうと、「ああ、年が行かないとて、何たるわけのわからない子よ。あの姉さんは鬼ではないか? 父さんを怠け者にした鬼ではないか? あなたの着物がなくなったのも、あなたの家がなくなったのも、みんなあの鬼がしたこと。食いついても飽き足りない悪魔にお菓子をもらった、食べてもいいかと聞くだけが情けない。汚い、むさい、こんな菓子、家に置くのも腹が立つ。捨ててしまいな。捨ておしまい。あなたは惜しくて捨てられないか? 馬鹿野郎め」と罵りながら袋をつかんで裏の空き地へ
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処に遊んでゐたらば何処のか伯父さんと一処に来て、菓子を買つてやるから一処にお出といつて、我らは入らぬと言つたけれど抱いて行つて買つてくれた、喰べては悪るいかへとさすがに母の心を斗りかね、顔をのぞいて猶予するに、ああ年がゆかぬとて何たら訳の分らぬ子ぞ、あの姉さんは鬼ではないか、父さんを怠惰者にした鬼ではないか、お前の衣類のなくなつたも、お前の家のなくなつたも皆あの鬼めがした仕事、喰ひついても飽き足らぬ悪魔にお菓子を貰つた喰べても能いかと聞くだけが情ない、汚い穢いこんな菓子、家へ置くのも腹がたつ、捨てしまいな、捨ておしまい、お前は惜しくて捨てられないか、馬鹿野郎めと罵りながら袋をつかんで裏の空地へ
投げ出すと、紙は破れてころがり出る菓子が、竹のあら垣を打ち越えて溝の中にも落ち込んでしまった。源七はむくりと起きて「お初」と一声大きく言うと、「何か御用かよ」とにらんで振り向きもしない横顔を見て、「いい加減に人を馬鹿にするな。黙っていれば気がすむと思って、悪口雑言は何のことだ。知り合いならお菓子くらい子供にくれるのに不思議もなく、もらったとて何が悪い。馬鹿野郎呼ばわりは太吉をかこつけに俺への当てこすりだ。子に向かって父親の悪口を言う女房気質を誰が教えた。お力が鬼なら手前は魔王。商売人のだましは知れているが、妻たる身の不貞腐れを言って済むと思うか。土方をしようが車を引こうが、亭主は亭主の権がある。気に入らない奴を家には置かぬ。どこへなりとも出て行け、
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投出せば、紙は破れて転び出る菓子の、竹のあら垣打こえて溝の中にも落込むめり、源七はむくりと起きてお初と一声大きくいふに何か御用かよ、尻目にかけて振むかふともせぬ横顔を睨んで、能い加減に人を馬鹿にしろ、黙つてゐれば能い事にして悪口雑言は何の事だ、知人なら菓子位子供にくれるに不思議もなく、貰ふたとて何が悪るい、馬鹿野郎呼はりは太吉をかこつけに我れへの当こすり、子に向つて父親の讒訴をいふ女房気質を誰れが教へた、お力が鬼なら手前は魔王、商売人のだましは知れてゐれど、妻たる身の不貞腐れをいふて済むと思ふか、土方をせうが車を引かうが亭主は亭主の権がある、気に入らぬ奴を家には置かぬ、何処へなりとも出てゆけ、
出て行け、面白くもない女めが」と叱りつけられて、「それはお前、無理だ。邪推が過ぎる。何でお前に当てつけよう。この子がとてもわからないと、お力の仕方が憎らしいから思い余って言ったことを、そこに取って出て行けとまでは、むごうございます。家のためを思えばこそ、気に入らないことを言いもする。家を出るほどならこんな貧乏所帯の苦労を忍んではいません」と泣くと、「貧乏所帯に飽きたなら勝手にどこなりと行ってもらおう。手前がいないからといって乞食にもなるまい。太吉が手足を伸ばせないことはないし。明けても暮れても俺の棚ざらしかお力へのねたみ。しみじみ聞き飽きてもう嫌になった。貴様が出なければどのみち同じことをしたくもない九尺二間、俺が小僧を連れて出よう。そ
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出てゆけ、面白くもない女郎めと叱りつけられて、それはお前無理だ、邪推が過る、何しにお前に当つけよう、この子が余り分らぬと、お力の仕方が憎くらしさに思ひあまつて言つた事を、とツこに取つて出てゆけとまでは惨う御座んす、家の為をおもへばこそ気に入らぬ事を言ひもする、家を出るほどならこんな貧乏世帯の苦労をば忍んではゐませぬと泣くに貧乏世帯に飽きがきたなら勝手に何処なり行つて貰はう、手前が居ぬからとて乞食にもなるまじく太吉が手足の延ばされぬ事はなし、明けても暮れても我れが店おろしかお力への妬み、つくづく聞き飽きてもう厭やに成つた、貴様が出ずば何ら道同じ事をしくもない九尺二間、我れが小僧を連れて出やう、さ
うなればどうにでも好きに怒鳴り立てればよかろう。さあ、貴様が行くか、俺が出ようか」と激しく言われて、「お前はそれなら本当に私を離縁する気か」「知れたことよ」といつもの源七にはなかった言葉だった。
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うならば十分に我鳴り立る都合もよからう、さあ貴様が行くか、我れが出ようかと烈しく言はれて、お前はそんなら真実に私を離縁する心かへ、知れた事よと例の源七にはあらざりき。
お初は口惜しく、悲しく、情けなく、口も利けないほどこみ上げる涙を飲み込んで、「これは私が悪うございました。堪忍してください。お力が親切で志してくれたものを捨ててしまったのは重々悪うございました。なるほどお力を鬼と言ったから私は魔王でございましょう。もう言いません。もう言いません。決してお力のことについてこの後あれこれ言わず、陰の噂もしませんから、離縁だけは堪忍してください。改めて言うまでもなく、私には親もなし、兄弟もなし。差配の伯父さんを仲人か里方に立てて来た者だから、離縁されての行き場所とてはありません。どうか堪忍して置いてください。私が憎かろうと、この子に免じて置いてください。謝ります」と手をついて泣くけれど、「いや、どうしても
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お初は口惜しく悲しく情なく、口も利かれぬほど込上る涕を呑込んで、これは私が悪う御座んした、堪忍をして下され、お力が親切で志してくれたものを捨てしまつたは重々悪う御座いました、成程お力を鬼といふたから私は魔王で御座んせう、モウいひませぬ、モウいひませぬ、決してお力の事につきてこの後とやかく言ひませず、蔭の噂しますまい故離縁だけは堪忍して下され、改めて言ふまでは無けれど私には親もなし兄弟もなし、差配の伯父さんを仲人なり里なりに立てて来た者なれば、離縁されての行き処とてはありませぬ、どうぞ堪忍して置いて下され、私は憎くかろうとこの子に免じて置いて下され、謝りますとて手を突いて泣けども、イヤどうしても
置けない」とその後は物言わず壁に向かって、お初の言葉は耳に入らない体だった。「これほど意地悪な人ではなかったのに」と女房はあきれて、「女に魂を奪われるとこれほどまでも情けなくなるものか」と覚悟して。「太吉、太吉」と傍に呼んで、「あなたは父さんの傍と母さんとどちらが好き? 言ってみろ」と言われて、「俺はお父さんは嫌い。何も買ってくれないもの」と正直に言うと、「そうなら母さんの行くところへ、どこへでも一緒に行く気かね?」「ああ、行くとも」と何とも思わない様子に、「お前さん、お聞きか。太吉は私につくと言います。男の子だからあなたも欲しかろうけれど、この子はあなたの手には置か
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置かれぬとてその後は物言はず壁に向ひてお初が言葉は耳に入らぬ体、これほど邪慳の人ではなかりしをと女房あきれて、女に魂を奪はるればこれほどまでも浅ましくなる物か、女房が歎きは更なり、遂ひには可愛き子をも餓へ死させるかも知れぬ人、今詫びたからとて甲斐はなしと覚悟して、太吉、太吉と傍へ呼んで、お前は父さんの傍と母さんと何処が好い、言ふて見ろと言はれて、我らはお父さんは嫌い、何にも買つてくれない物と真正直をいふに、そんなら母さんの行く処へ何処へも一処に行く気かへ、ああ行くともとて何とも思はぬ様子に、お前さんお聞きか、太吉は私につくといひまする、男の子なればお前も欲しからうけれどこの子はお前の手には置か
れない。どこまでも私がもらって連れて行きます。よろしいですか、もらいますよ」と言うと、「勝手にしろ。子も何もいらない。連れて行きたければどこへでも連れて行け。家も道具も何もいらない。どうなりともしろ」と寝転んだまま振り向きもしないので、「何の、家も道具もない癖に、勝手にしろもないもの。これから身一つになって、したいままの道楽でも何でもお尽しなさい。もういくらこの子を欲しいと言っても返すことではございませんよ。返しはしませんよ」と念を押して、押し入れを探って何やらの小風呂敷を取り出し、「これはこの子の寝間着の袷(あわせ)、腹がけと三尺だけもらって行きます。お酒の上というわけでもないので、醒めての考えもありますでしょうけれど、よく考えてみてください。たとえどの
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れぬ、何処までも私が貰つて連れて行きます、よう御座んすか貰ひまするといふに、勝手にしろ、子も何も入らぬ、連れて行きたくば何処へでも連れて行け、家も道具も何も入らぬ、どうなりともしろとて寐転びしまま振向んともせぬに、何の家も道具も無い癖に勝手にしろもないもの、これから身一つになつて仕たいままの道楽なり何なりお尽しなされ、もういくらこの子を欲しいと言つても返す事では御座んせぬぞ、返しはしませぬぞと念を押して、押入れ探ぐつて何やらの小風呂敷取出し、これはこの子の寐間着の袷、はらがけと三尺だけ貰つて行まする、御酒の上といふでもなければ、醒めての思案もありますまいけれど、よく考へて見て下され、たとへどの
ような貧しい暮らしの中でも、二人そろって育てる子は長者の暮らしというものです。別れれば片親、何につけてもかわいそうなのはこの子だとお思いになりませんか。ああ、心の腐った人は子のかわいさもわかりはしない。もうお別れします」と風呂敷を下げて表へ出ると、「早く行け、行け」と呼び返してはくれなかった。
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やうな貧苦の中でも二人双つて育てる子は長者の暮しといひまする、別れれば片親、何につけても不憫なはこの子とお思ひなさらぬか、ああ腸が腐た人は子の可愛さも分りはすまい、もうお別れ申ますと風呂敷さげて表へ出れば、早くゆけゆけとて呼かへしてはくれざりし。
八
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八
お盆が過ぎて何日も経ち、まだ盆提灯の影が薄寂しい頃、新開の町から棺が二つ出た。一つは駕籠で、一つは担(かつ)ぎで。駕籠は菊の井の隠れ家からひっそりと出た。大通りで見ている人がひそめくのを聞くと、「あの子もとんだ運の悪い、つまらない奴に見込まれてかわいそうなことをした」と言うと、「いや、あれは本人も納得ずくだと言います。あの日の夕暮れ、お寺の山で二人が立ち話をしていたという確かな証人もおります。女もいかれていた男のことだから、義理に迫られてやったのでございましょう」と言う者もあり、「何の、あの女が義理を知るものか。お風呂の帰りに男に会ったのだから、さすがに振り払って逃げることもできず、一緒に歩いて話はしてもいたでしょうが、斬られたのは後ろから袈裟がけ、頬先のかすり傷、首筋
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魂祭り過ぎて幾日、まだ盆提燈のかげ薄淋しき頃、新開の町を出し棺二つあり、一つは駕にて一つはさし担ぎにて、駕は菊の井の隠居処よりしのびやかに出ぬ、大路に見る人のひそめくを聞けば、あの子もとんだ運のわるいつまらぬ奴に見込れて可愛さうな事をしたといへば、イヤあれは得心づくだと言ひまする、あの日の夕暮、お寺の山で二人立ばなしをしてゐたといふ確かな証人もござります、女も逆上てゐた男の事なれば義理にせまつて遣つたので御座ろといふもあり、何のあの阿魔が義理はりを知らうぞ湯屋の帰りに男に逢ふたれば、さすがに振はなして逃る事もならず、一処に歩いて話しはしてもゐたらうなれど、切られたは後袈裟、頬先のかすり疵、頸筋
の突き傷など色々あるが、確かに逃げるところをやられたに違いない。一方、男は見事な切腹。布団屋の時代からさほどの男とは思わなかったが、あれこそ最後の花、えらそうに見えたという。何にしろ菊の井は大損だろう。あの子には良いご贔屓(ひいき)がついていたはず。逃してしまっては残念だろう」と人の悲しみを冗談に思う者もあり、諸々の噂が乱れて落ち着いた話はなかったけれど、恨みは長く、人魂か何かは知らないが、筋を引く光り物が、お寺の山という小高いところより、時折飛ぶのを見た者があると伝えられた。
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の突疵など色々あれども、たしかに逃げる処を遣られたに相違ない、引かへて男は美事な切腹、蒲団やの時代からさのみの男と思はなんだがあれこそは死花、ゑらさうに見えたといふ、何にしろ菊の井は大損であらう、かの子には結搆な旦那がついた筈、取にがしては残念であらうと人の愁ひを串談に思ふものもあり、諸説みだれて取止めたる事なけれど、恨は長し人魂か何かしらず筋を引く光り物のお寺の山といふ小高き処より、折ふし飛べるを見し者ありと伝へぬ。