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それから 小学生向け

夏目漱石なつめそうせき)・1948

AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-08-01

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だれかが、あわてて門の前を走って行く足音がしたとき、代助(だいすけ)の頭の中には、大きなまな板下駄(げた)が空からぶら下がっていた。

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誰かあわただしく門前をけて行く足音がした時、代助だいすけの頭の中には、大きな俎下駄まないたげたくうから、ぶら下っていた。

けれども、そのまな板下駄は、足音が遠ざかるにつれて、すうっと頭からぬけ出して消えてしまった。

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けれども、その俎下駄は、足音の遠退とおのくに従って、すうと頭から抜け出して消えてしまった。

そうして目がさめた。

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そうして眼が覚めた。

まくらもとを見ると、八重(やえ)のつばきが一輪、たたみの上に落ちている。

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枕元まくらもとを見ると、八重の椿つばきが一輪畳の上に落ちている。

代助は昨夜、ふとんの中で、たしかにこの花の落ちる音を聞いた。

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代助は昨夕ゆうべ床の中でたしかにこの花の落ちる音を聞いた。

彼の耳には、それがゴムまりを天井(てんじょう)うらから投げつけたくらいに大きくひびいた。

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彼の耳には、それが護謨毬ゴムまりを天井裏から投げ付けた程に響いた。

夜がふけてまわりが静かなせいかとも思ったが、ねんのため、右の手を心臓の上にのせて、あばら骨のはしにちゃんと当たる血の音をたしかめながら、ねむりについた。

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夜がけて、四隣あたりが静かな所為せいかとも思ったが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、あばらのはずれに正しくあたる血の音を確かめながらねむりに就いた。

ぼんやりとしばらく、赤ちゃんの頭ほどもある大きな花の色を見つめていた彼は、急に思い出したように、ねたまま胸の上に手を当てて、また心臓のどきどきを調べ始めた。

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ぼんやりして、少時しばらく、赤ん坊の頭程もある大きな花の色を見詰めていた彼は、急に思い出した様に、ながら胸の上に手を当てて、又心臓の鼓動を検し始めた。

ねながら胸のみゃくを聞いてみるのは、彼の近ごろのくせになっている。

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寐ながら胸の脈を聴いてみるのは彼の近来の癖になっている。

どきどきは、あいかわらず落ち着いて、たしかに打っていた。

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動悸どうきは相変らず落ち付いてたしかに打っていた。

彼は胸に手を当てたまま、このどきどきの下を、あたたかい赤い血がゆっくり流れていくようすを想像してみた。

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彼は胸に手を当てたまま、この鼓動のもとに、温かいくれないの血潮の緩く流れる様を想像してみた。

これが命であると考えた。

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これが命であると考えた。

自分は今、流れる命を手のひらでおさえているのだと考えた。

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自分は今流れる命をてのひらで抑えているんだと考えた。

それから、この手のひらに返って来る、時計のはりに似たひびきは、自分を死にさそう警鐘(けいしょう。あぶないことを知らせるかね)のようなものだと考えた。

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それから、この掌にこたえる、時計の針に似た響は、自分を死にいざなう警鐘の様なものであると考えた。

このかねを聞かずに生きていられたなら――血を入れるふくろが、時間を入れるふくろの役目もかねていなかったなら、どんなに自分は気が楽だろう。

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この警鐘を聞くことなしに生きていられたなら、――血を盛る袋が、時を盛る袋の用を兼ねなかったなら、如何いかに自分は気楽だろう。

どんなに自分は、思いきり生きることを味わえるだろう。

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如何に自分は絶対に生を味わい得るだろう。

けれども――代助は思わずぞっとした。

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けれども――代助は覚えずぞっとした。

彼は、血に打たれる心配のない静かな心臓を想像するのにたえられないほど、生きていたい男である。

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彼は血潮によって打たるる掛念けねんのない、静かな心臓を想像するに堪えぬ程に、生きたがる男である。

彼は時々ねながら、左のむねの下に手を置いて、もしここを金づちで一つ打たれたならと思うことがある。

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彼は時々寐ながら、左の乳の下に手を置いて、もし、此所ここ鉄槌かなづちで一つどやされたならと思う事がある。

彼は元気に生きていながら、この生きているというたしかなことを、ほとんどきせきのような幸運としか思えなくなることさえある。

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彼は健全に生きていながら、この生きているという大丈夫な事実を、ほとんど奇蹟きせきごと僥倖ぎょうこうとのみ自覚し出す事さえある。

彼は心臓から手をはなして、まくらもとの新聞を取り上げた。

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彼は心臓から手を放して、枕元の新聞を取り上げた。

ふとんの中から両手を出して大きく左右に開くと、左がわに男が女を切っている絵があった。

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夜具の中から両手を出して、大きく左右に開くと、左側に男が女をっている絵があった。

彼はすぐほかのページへ目をうつした。

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彼はすぐ外のページへ眼を移した。

そこには学校さわぎが大きな字で出ている。

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其所そこには学校騒動が大きな活字で出ている。

代助はしばらくそれを読んでいたが、やがて、だるそうな手から、はたりと新聞をふとんの上に落とした。

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代助は、しばらく、それを読んでいたが、やがて、惓怠だるそうな手から、はたりと新聞を夜具の上に落した。

それからたばこを一本すいながら、十五センチほどふとんをずらして、たたみの上のつばきを取って、ひっくり返して鼻の先へ持って来た。

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それから烟草たばこを一本吹かしながら、五寸ばかり布団をり出して、畳の上の椿を取って、引っ繰り返して、鼻の先へ持って来た。

口と口ひげと鼻の大部分が、すっかりかくれた。

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口と口髭くちひげと鼻の大部分が全く隠れた。

けむりは、つばきの花びらとしべにからまってただようほど、こく出た。

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けむりは椿のはなびらずいからまって漂う程濃く出た。

それを白いシーツの上に置くと、立ち上がってふろ場へ行った。

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それを白い敷布の上に置くと、立ち上がって風呂場へ行った。

そこでていねいに歯をみがいた。

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其所で叮嚀ていねいに歯を磨いた。

彼は歯ならびのいいのを、いつもうれしく思っている。

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彼は歯並はならびいのを常にうれしく思っている。

上半身をぬいで、きれいに胸と背中をこすった。

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肌を脱いで綺麗きれいに胸とを摩擦した。

彼のはだには、こまかい一種のつやがある。

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彼の皮膚にはこまやかな一種の光沢つやがある。

かみあぶらをぬりこんだあとをよくふき取ったように、かたをゆすったりうでを上げたりするたびに、その部分のしぼうがうすく光って見える。

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香油を塗り込んだあとを、よくき取った様に、肩をうごかしたり、腕を上げたりする度に、局所の脂肪が薄くみなぎって見える。

彼はそれにも満足である。

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かれはそれにも満足である。

次に黒いかみを分けた。

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次に黒い髪を分けた。

あぶらをつけなくても、おもしろいほど思いどおりになる。

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油をけないでも面白い程自由になる。

ひげもかみと同じようにほそく、そしてわかわかしく、口の上を上品におおっている。

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髭も髪同様に細くかつ初々ういういしく、口の上を品よくおおうている。

代助はそのふっくらしたほおを両手で二、三度なでながら、かがみの前に自分の顔をうつしていた。

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代助はそのふっくらした頬を、両手で両三度でながら、鏡の前にわが顔を映していた。

まるで女がおしろいをつけるときの手つきと同じであった。

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まるで女が御白粉おしろいを付ける時の手付と一般であった。

じっさい彼は、ひつようがあればおしろいさえつけかねないほど、自分の体をじまんにしている人である。

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実際彼は必要があれば、御白粉さえ付けかねぬ程に、肉体に誇を置く人である。

彼が一番きらうのは羅漢(らかん。やせて骨ばったほとけの弟子の像)のような体つきと顔つきで、かがみに向かうたびに、あんな顔に生まれなくてまあよかったと思うくらいである。

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彼のもっとも嫌うのは羅漢らかんの様な骨骼こっかく相好そうごうで、鏡に向うたんびに、あんな顔に生れなくって、まあかったと思う位である。

そのかわり、人からおしゃれだと言われても、何のくるしみも感じない。

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その代り人から御洒落おしゃれと云われても、何の苦痛も感じ得ない。

それほど彼は、古い時代の日本をこえている。

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それ程彼は旧時代の日本を乗り超えている。

約三十分の後、彼は食卓(しょくたく)についた。

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約三十分の後彼は食卓に就いた。

熱い紅茶をすすりながらトーストにバターをつけていると、門野(かどの)という書生(しょせい。家に置いてもらって働く学生)が、ざしきから新聞をたたんで持って来た。

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熱い紅茶をすすりながら焼麺麭やきパン牛酪バタを付けていると、門野かどのと云う書生が座敷から新聞を畳んで持って来た。

四つ折りにしたのをざぶとんのそばへ置きながら、

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四つ折りにしたのを座布団のわきへ置きながら、

「先生、たいへんなことが始まりましたな」

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「先生、大変な事が始まりましたな」

と、大げさな声で話しかけた。

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と仰山な声で話しかけた。

この書生は代助をつかまえては、先生先生とていねいな言葉を使う。

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この書生は代助をつらまえては、先生々々と敬語を使う。

代助も初めのうち一、二度は苦笑いして「やめてくれ」と言ったが、えへへへ、だって先生と、すぐ先生にしてしまうので、しかたなくそのままにしておいたのがいつか習慣になって、今ではこの男だけは、平気で先生としてとおしている。

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代助も、はじめ一二度は苦笑して抗議を申し込んだが、えへへへ、だって先生と、すぐ先生にしてしまうので、やむを得ずそのままにして置いたのが、いつか習慣になって、今では、この男に限って、平気に先生として通している。

じっさい、書生が代助のような主人を呼ぶには、先生のほかにちょうどいい呼び名がないということを、書生を置いてみて代助も初めてわかったのである。

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実際書生が代助の様な主人を呼ぶには、先生以外に別段適当な名称がないと云うことを、書生を置いてみて、代助も始めて悟ったのである。

「学校さわぎのことじゃないか」

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「学校騒動の事じゃないか」

と、代助は落ち着いた顔をしてパンを食っていた。

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と代助は落付いた顔をして麺麭を食っていた。

「だって痛快(つうかい。胸がすっとする)じゃありませんか」

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「だって痛快じゃありませんか」

「校長を追い出すことがですか」

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「校長排斥がですか」

「ええ、とうてい辞職(じしょく)ものでしょう」

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「ええ、到底辞職もんでしょう」

と、うれしがっている。

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と嬉しがっている。

「校長が辞職でもすれば、君は何かもうかることでもあるんですか」

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「校長が辞職でもすれば、君は何かもうかる事でもあるんですか」

「冗談を言っちゃいけません。そう損か得かだけで、胸がすっとするわけじゃありません」

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「冗談云っちゃ不可いけません。そう損得ずくで、痛快がられやしません」

代助はやはりパンを食っていた。

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代助はやっぱり麺麭を食っていた。

「君、あれは本当に校長が悪いから追い出すのか、ほかに損か得かの問題があって追い出すのか、知ってますか」

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「君、あれは本当に校長がにくらしくって排斥するのか、ほかに損得問題があって排斥するのか知ってますか」

と言いながら、鉄びんの湯を紅茶茶わんの中へ注いだ。

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と云いながら鉄瓶の湯を紅茶茶碗ぢゃわんの中へした。

「知りませんな。何ですか、先生はご存じなんですか」

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「知りませんな。何ですか、先生は御存じなんですか」

「ぼくも知らないさ。知らないけれど、今の人間が、得にならないと思ってあんなさわぎをやるものかね。あれは口実(こうじつ)だよ、君」

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「僕も知らないさ。知らないけれども、今の人間が、得にならないと思って、あんな騒動をやるもんかね。ありゃ方便だよ、君」

「へえ、そんなものですかな」

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「へえ、そんなもんですかな」

と、門野はすこし真面目な顔をした。

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と門野はやや真面目まじめな顔をした。

代助はそれきり黙ってしまった。

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代助はそれぎり黙ってしまった。

門野は、これ以上は話が通じない男である。

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門野はこれより以上通じない男である。

これ以上は、いくら話しても、へえそんなものですかな、で押しとおしてすましている。

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これより以上は、いくら行っても、へえそんなもんですかなで押し通して澄ましている。

こちらの言うことがこたえているのかいないのか、まるでわからない。

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此方こちらの云うことが応えるのだか、応えないのだかまるで要領を得ない。

代助は、そこがぼんやりしていて刺激(しげき)が要らなくていいと思って、書生に使っているのである。

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代助は、其所が漠然として、刺激が要らなくっていと思って書生に使っているのである。

そのかわり、学校へも行かず、勉強もせず、一日ごろごろしている。

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その代り、学校へもかず、勉強もせず、一日ごろごろしている。

君、すこし外国語でも勉強したらどうだ、などと言うことがある。

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君、ちっと、外国語でも研究しちゃどうだなどと云う事がある。

すると門野はいつでも、そうでしょうか、とか、そんなものでしょうか、とか答えるだけである。

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すると門野は何時いつでも、そうでしょうか、とか、そんなもんでしょうか、とか答えるだけである。

決してやりましょうということは口にしない。

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決してましょうという事は口にしない。

またこうなまけ者では、そうはっきりした答えができないのである。

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又こう、怠惰なまけものでは、そう判然はっきりした答が出来ないのである。

代助のほうでも、門野を教育しに生まれて来たわけでもないから、いいかげんにして放っておく。

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代助の方でも、門野を教育しに生れて来た訳でもないから、好加減いいかげんにして放って置く。

さいわい頭とちがって体のほうはよく動くので、代助はそこを大いに役に立つと思っている。

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幸い頭と違って、身体からだの方は善く動くので、代助はそこを大いに重宝がっている。

代助ばかりではない、前からいるおばあさんも、門野のおかげでこのごろはたいへん助かるようになった。

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代助ばかりではない、従来からいるばあさんも門野の御蔭おかげでこの頃は大変助かる様になった。

そのため、おばあさんと門野とは、とても仲がいい。

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その原因で婆さんと門野とはすこぶる仲が好い。

主人の留守(るす)などには、よく二人で話をする。

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主人の留守などには、よく二人で話をする。

「先生はいったい何をする気なんだろうね、おばさん」

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「先生は一体何をる気なんだろうね。小母さん」

「あのくらいになっていらっしゃれば、何でもできますよ。心配することはない」

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「あの位になっていらっしゃれば、何でも出来ますよ。心配するがものはない」

「心配はしないがね。何かしたらよさそうなものだと思うんだが」

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「心配はせんがね。何か為たら好さそうなもんだと思うんだが」

「まあ奥さんでももらってから、ゆっくりお勤め先でも探そうというおつもりなんでしょうよ」

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「まあ奥様でも御貰おもらいになってから、っくり、御役でも御探しなさる御積りなんでしょうよ」

「いいつもりだなあ。ぼくも、あんなふうに一日本を読んだり、音楽を聞きに行ったりして暮らしていたいな」

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「いい積りだなあ。僕も、あんな風に一日いちんち本を読んだり、音楽を聞きに行ったりして暮していたいな」

「お前さんが?」

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「御前さんが?」

「本は読まなくてもいいがね。ああいうふうに遊んでいたいね」

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「本は読まんでもいがね。ああ云う具合に遊んでいたいね」

「それはみんな、前の世からの約束だからしかたがない」

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「それはみんな、前世からの約束だから仕方がない」

「そんなものかな」

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「そんなものかな」

まあ、こういう調子である。

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まずこう云う調子である。

門野が代助のところへ移って来る二週間前には、この若い独身の主人と、この居候(いそうろう。よその家に置いてもらっている人)との間に、次のような会話があった。

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門野が代助の所へ引き移る二週間前には、この若い独身の主人と、この食客いそうろうとの間にしもの様な会話があった。

「君はどこの学校へ行ってるんですか」

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「君は何方どっかの学校へ行ってるんですか」

「もとは行きましたがな。今はやめてしまいました」

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「もとは行きましたがな。今はめちまいました」

「もと、どこへ行ったんです」

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「もと、何処どこへ行ったんです」

「どこって、あちこち行きました。しかしどうもあきっぽいものだから」

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「何処って方々行きました。しかしどうもきっぽいもんだから」

「すぐ嫌になるんですか」

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「じきいやになるんですか」

「まあ、そうですな」

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「まあ、そうですな」

「で、たいして勉強する考えもないんですか」

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「で、大して勉強する考えもないんですか」

「ええ、ちょっとありませんな。それに近ごろ家のぐあいがあまりよくないものですから」

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「ええ、一寸ちょっと有りませんな。それに近頃うちの都合が、あんまり好くないもんですから」

「うちのおばあさんは、あなたのお母さんを知ってるんだってね」

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うちの婆さんは、あなたの御母おっかさんを知ってるんだってね」

「ええ、もと、すぐ近所にいたものですから」

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「ええ、もと、じき近所に居たもんですから」

「お母さんはやっぱり……」

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「御母さんはやっぱり……」

「やっぱりつまらない内職(ないしょく。家でする仕事)をしているんですが、どうも近ごろは不景気で、あまりよくないようです」

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「やっぱりつまらない内職をしているんですが、どうも近頃は不景気で、あんまり好くない様です」

「よくないようですって、君、いっしょにいるんじゃないですか」

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「好くない様ですって、君、一所に居るんじゃないですか」

「いっしょにいることはいますが、つい面倒だから聞いたこともありません。何でもよくぐちを言っているようです」

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「一所に居ることは居ますが、つい面倒だから聞いた事もありません。何でもくこぼしてる様です」

「お兄さんは」

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「兄さんは」

「兄は郵便局のほうへ出ています」

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「兄は郵便局の方へ出ています」

「家族はそれだけですか」

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うちはそれだけですか」

「まだ弟がいます。これは銀行の――まあ用務員に少し毛の生えたくらいのところなんでしょう」

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「まだおとうとがいます。これは銀行の――まあ小使に少し毛の生えた位な所なんでしょう」

「すると遊んでいるのは、君ばかりじゃないか」

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「するとあそんでるのは、君ばかりじゃないか」

「まあ、そんなものですな」

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「まあ、そんなもんですな」

「それで、家にいるときは何をしているんです」

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「それで、家にいるときは、何をしているんです」

「まあ、たいてい寝ていますな。でなければ散歩でもしますかな」

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「まあ、大抵寐ていますな。でなければ散歩でも為ますかな」

「ほかの人がみんな働いているのに、君ばかり寝ているのはつらくないですか」

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「外のものが、みんな稼いでるのに、君ばかり寐ているのは苦痛じゃないですか」

「いえ、そうでもありませんな」

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「いえ、そうでもありませんな」

「家庭がよほど仲がいいんですか」

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「家庭が余っ程円満なんですか」

「特にけんかもしませんがな。妙なもので」

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「別段喧嘩けんかもしませんがな。妙なもんで」

「だって、お母さんやお兄さんから言ったら、一日も早く君に一人立ちしてもらいたいでしょうがね」

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「だって、御母さんや兄さんから云ったら、一日も早く君に独立して貰いたいでしょうがね」

「そうかも知れませんな」

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「そうかも知れませんな」

「君はよほど気楽な性格と見える。それが本当のところなんですか」

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「君は余っ程気楽な性分と見える。それが本当の所なんですか」

「ええ、特にうそをつく気もありませんな」

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「ええ、別にうそ料簡りょうけんもありませんな」

「じゃ、まったくののんき者なんだね」

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「じゃ全くの呑気屋のんきやなんだね」

「ええ、まあのんき者って言うものでしょうか」

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「ええ、まあ呑気屋って云うもんでしょうか」

「お兄さんは何歳になるんです」

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「兄さんは何歳いくつになるんです」

「ええと、数えで二十六になりますか」

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「こうっと、取って六になりますか」

「すると、もう奥さんでももらわなくちゃならないでしょう。お兄さんに奥さんができても、やっぱり今のようにしているつもりですか」

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「すると、もう細君でも貰わなくちゃならないでしょう。兄さんの細君が出来ても、やっぱり今の様にしている積りですか」

「そのときになってみなくちゃ、自分でも見当がつきませんが、なにしろ、どうにかなるだろうと思ってます」

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「その時にってみなくっちゃ、自分でも見当が付きませんが、何しろ、どうか為るだろうと思ってます」

「そのほかに親類はないんですか」

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「その外に親類はないんですか」

「おばが一人ありますがな。ここは今、横浜で運送業をやってます」

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「叔母が一人ありますがな。こいつは今、浜で運漕うんそう業をやってます」

「おばさんが?」

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「叔母さんが?」

「おばがやっているわけでもないんでしょうが、まあおじですな」

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「叔母がってる訳でもないんでしょうが、まあ叔父ですな」

「そこへでも頼んで使ってもらったらどうです。運送業なら、だいぶ人が要るでしょう」

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「其所へでも頼んで使って貰っちゃ、どうです。運漕業なら大分人が要るでしょう」

「もともとなまけ者ですからな。たぶん断わるだろうと思ってるんです」

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「根が怠惰なまけもんですからな。大方断わるだろうと思ってるんです」

「そう自分で決めつけては困る。実は君のお母さんが、うちのおばあさんに頼んで、君をぼくの家に置いてくれないかという相談があるんですよ」

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「そう自任していちゃ困る。実は君の御母さんが、家の婆さんに頼んで、君を僕のうちへ置いてくれまいかという相談があるんですよ」

「ええ、何だかそんなことを言ってました」

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「ええ、何だかそんな事を云ってました」

「君自身はいったいどういう気なんです」

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「君自身は、一体どう云う気なんです」

「ええ、なるべくなまけないようにして……」

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「ええ、なるべく怠けない様にして……」

「うちへ来るほうがいいんですか」

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「家へ来る方が好いんですか」

「まあ、そうですな」

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「まあ、そうですな」

「しかし寝て散歩するだけじゃ困る」

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「然し寐て散歩するだけじゃ困る」

「それは大丈夫です。体のほうはじょうぶですから。ふろの水でも何でもくみます」

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「そりゃ大丈夫です。身体の方は達者ですから。風呂でも何でもみます」

「ふろは水道があるからくまなくてもいい」

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「風呂は水道があるから汲まないでもい」

「じゃ、そうじでもしましょう」

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「じゃ、掃除でもしましょう」

門野はこういう約束で、代助の書生になったのである。

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門野はこう云う条件で代助の書生になったのである。

代助はやがて食事を終えて、たばこをすい出した。

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代助はやがて食事を済まして、烟草を吹かし出した。

今まで茶だんすのかげにぽつんとひざをかかえて柱によりかかっていた門野は、もういいころだと思って、また主人に質問をした。

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今まで茶箪笥ちゃだんすの陰に、ぽつねんとひざを抱えて柱にり懸っていた門野は、もう好い時分だと思って、又主人に質問を掛けた。

「先生、今朝は心臓のぐあいはどうですか」

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「先生、今朝は心臓の具合はどうですか」

この間から代助のくせを知っているので、いくらかからかった調子である。

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この間から代助の癖を知っているので、幾分か茶化した調子である。

「今日はまだ大丈夫だ」

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「今日はまだ大丈夫だ」

「何だか明日にもあぶなくなりそうですな。どうも先生みたいに体を気にしちゃ――しまいには本当の病気になるかも知れませんよ」

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「何だか明日にもあやしくなりそうですな。どうも先生みた様に身体を気にしちゃ、――仕舞には本当の病気に取っ付かれるかも知れませんよ」

「もう病気ですよ」

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「もう病気ですよ」

門野はただへええと言ったきり、代助のつやのいい顔色や、肉のふっくらしたかたのあたりを、はおりの上からながめている。

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門野は只へええと云ったぎり、代助の光沢つやい顔色や肉の豊かな肩のあたりを羽織の上から眺めている。

代助はこんな場合になると、いつでもこの青年を気のどくに思う。

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代助はこんな場合になると何時いつでもこの青年を気の毒に思う。

代助から見ると、この青年の頭は牛の脳みそでいっぱいつまっているとしか考えられないのである。

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代助から見ると、この青年の頭は、牛の脳味噌で一杯詰っているとしか考えられないのである。

話をすると、ふつうの人が通る大通りを五十メートルくらいしかついて来ない。

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話をすると、平民の通る大通りを半町位しか付いて来ない。

たまに横町へでも曲がると、すぐまいごになってしまう。

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たまに横町へでも曲ると、すぐ迷児まいごになってしまう。

理屈をどこまでもほり下げていく穴のようなところへは、はじめから足もふみこめない。

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論理の地盤をたてに切り下げた坑道などへは、てんから足も踏み込めない。

彼の神経に至っては、なおさら大ざっぱである。

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彼の神経系に至っては猶更なおさら粗末である。

まるで太いなわで組み立てられたかのような感じがする。

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あたかも荒縄で組み立てられたるかの感が起る。

代助はこの青年の暮らしぶりを見て、彼はいったい何のためにわざわざ息をして生きているのかと、あやしむことさえある。

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代助はこの青年の生活状態を観察して、彼は必竟ひっきょう何の為に呼吸を敢てして存在するかを怪しむ事さえある。

それでいて彼は平気でぶらぶらしている。

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それでいて彼は平気にのらくらしている。

しかもこのぶらぶらを、それとなく自分の生き方と同じ型のものだと思って、なかなか得意に振る舞いたがる。

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しかもこののらくらをもって、暗に自分の態度と同一型に属するものと心得て、中々得意に振舞たがる。

その上、じょうぶなだけの体をたてにして、かえって主人の神経の弱いところへせまって来る。

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その上頑強一点張りの肉体を笠に着て、かえって主人の神経的な局所へ肉薄して来る。

自分の神経は、自分だけが持っている細やかな考える力と、するどく感じる力に対して払う税金である。

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自分の神経は、自分に特有なる細緻さいちな思索力と、鋭敏な感応性に対して払う租税である。

高い教育を受けた向こう岸に返って来るひびきの苦しみである。

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高尚な教育の彼岸に起る反響の苦痛である。

生まれつき人よりすぐれてしまった報いに受ける、書かれていない罰である。

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天爵てんしゃく的に貴族となったむくいに受ける不文の刑罰である。

これらの犠牲(ぎせい)をがまんしたからこそ、自分は今の自分になれた。

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これ等の犠牲に甘んずればこそ、自分は今の自分に為れた。

いや、あるときにはこれらの犠牲そのものに、人生の意味をまともに見つける場合さえある。

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いな、ある時はこれ等の犠牲そのものに、人生の意義をまともに認める場合さえある。

門野には、そんなことはまるでわからない。

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門野にはそんな事はまるで分らない。

「門野さん、郵便は来ていなかったかね」

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「門野さん、郵便は来ていなかったかね」

「郵便ですか。ええと。来ていました。はがきと封書(ふうしょ。封をした手紙)が。机の上に置きました。持って来ますか」

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「郵便ですか。こうっと。来ていました。端書と封書が。机の上に置きました。持って来ますか」

「いや、ぼくが向こうへ行ってもいい」

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「いや、僕が彼方あっちへ行ってもい」

はっきりしない返事なので、門野はもう立ってしまった。

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歯切れのわるい返事なので、門野はもう立ってしまった。

そうして、はがきと手紙を持って来た。

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そうして端書と郵便を持って来た。

はがきは、今日二時東京着、すぐに表に書いた宿にとまる、とりあえずお知らせ、明日午前会いたし、とうすい墨(すみ)の走り書きのごく短いもので、表には裏神保町(うらじんぼうちょう)の宿屋の名と、平岡常次郎(ひらおかつねじろう)という差出人の名前が、裏と同じらんぼうさで書いてある。

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端書は、今日二時東京着、ただちに表面へ投宿、取敢えず御報、明日午前会いたし、と薄墨の走り書の簡単極るもので、表に裏神保町じんぼうちょうの宿屋の名と平岡常次郎ひらおかつねじろうという差出人の姓名が、表と同じ乱暴さ加減で書いてある。

「もう来たのか、昨日着いたんだな」

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「もう来たのか、昨日着いたんだな」

と、ひとり言のように言いながら、封書のほうを取り上げると、これは父の字である。

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と独り言の様に云いながら、封書の方を取り上げると、これは親爺おやじ手蹟である。

二、三日前に帰って来た。

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二三日前帰って来た。

急ぐ用でもないが、いろいろ話があるから、この手紙が着いたら来てくれ、と書いて、あとには京都の花がまだ早かっただの、急行列車がいっぱいでせまかっただのという、どうでもいい文が数行ならべてある。

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急ぐ用事でもないが、色々話しがあるから、この手紙が着いたら来てくれろと書いて、あとには京都の花がまだ早かったの、急行列車が一杯で窮屈だったなどという閑文字かんもじが数行つらねてある。

代助は封書を巻きながら、みょうな顔をして両方を見くらべていた。

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代助は封書を巻きながら、妙な顔をして、両方見較みくらべていた。

「君、電話をかけてくれませんか。うちへ」

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「君、電話を掛けてくれませんか。うちへ」

「はあ、お宅へ。何と言ってかけます」

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「はあ、御宅へ。何て掛けます」

「今日は約束があって、待ち合わせる人があるから行けないって。明日か明後日きっとうかがいますからって」

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「今日は約束があって、待ち合せる人があるから上がれないって。明日あした明後日あさってきっと伺いますからって」

「はあ。どなたに」

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「はあ。何方どなたに」

「父が旅行から帰って来て、話があるからちょっと来いって言うんだが――何、父を呼び出さなくてもいいから、だれにでもそう言ってくれたまえ」

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「親爺が旅行から帰って来て、話があるから一寸来いって云うんだが、――何親爺を呼び出さないでも可いから、誰にでもそう云ってくれ給え」

「はあ」

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「はあ」

門野は気楽に出て行った。

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門野は無雑作に出て行った。

代助は茶の間からざしきを通って書斎へ帰った。

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代助は茶の間から、座敷を通って書斎へ帰った。

見ると、きれいにそうじができている。

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見ると、奇麗に掃除が出来ている。

落ちたつばきも、どこかへはき出されてしまった。

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落椿おちつばき何所どこかへ掃き出されてしまった。

代助は花びんの右手にある重ねた本だなの前へ行って、上にのせた重い写真帳(しゃしんちょう)を取り上げ、立ったまま金の留め金を外して、一枚二枚とめくり始めたが、半分まで来てぴたりと手を止めた。

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代助は花瓶かへいの右手にある組み重ねの書棚の前へ行って、上に載せた重い写真ちょうを取り上げて、立ちながら、金の留金を外して、一枚二枚と繰り始めたが、中頃まで来てぴたりと手を留めた。

そこには二十歳くらいの女の、上半身の写真がある。

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其所そこには二十歳はたち位の女の半身がある。

代助は目をふせて、じっと女の顔を見つめていた。

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代助は眼をせてじっと女の顔を見詰めていた。

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着物でも着がえて、こちらから平岡の宿をたずねようかと思っているところへ、ちょうどよく向こうからやって来た。

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着物でも着換えて、此方こっちから平岡の宿を訪ね様かと思っている所へ、折よく先方むこうからって来た。

人力車をがらがらと門の前まで乗りつけて、ここだここだと車のぼうを下ろさせた声は、たしかに三年前に別れたときそっくりである。

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車をがらがらと門前まで乗り付けて、此所ここだ此所だと梶棒かじぼうおろさした声はたしかに三年ぜん分れた時そっくりである。

げんかんで、取りつぎのおばあさんをつかまえて、宿へさいふを忘れて来たからちょっと二十銭貸してくれと言ったところなどは、どうしても学校時代の平岡を思い出さずにはいられない。

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玄関で、取次の婆さんをつらまえて、宿へ蟇口がまぐちを忘れて来たから、一寸ちょっと二十銭貸してくれと云った所などは、どうしても学校時代の平岡を思い出さずにはいられない。

代助はげんかんまで走って行って、手を取らんばかりに旧友をざしきへ上げた。

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代助は玄関までけ出して行って、手を執らぬばかりに旧友を座敷へ上げた。

「どうした。まあゆっくりするがいい」

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「どうした。まあゆっくりするが好い」

「おや、いすだね」

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「おや、椅子いすだね」

と言いながら、平岡は安楽いすへどさりと体を投げかけた。

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と云いながら平岡は安楽椅子へ、どさりと身体を投げ掛けた。

五十キロ以上もあろうという自分の体を、まるで安いものみたいにあつかうやり方に見えた。

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十五貫目以上もあろうと云うわが肉に、三文の価値ねうちを置いていない様な扱かい方に見えた。

それからいすの背にぼうず頭をもたせて、ちょっと部屋の中を見回しながら、

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それから椅子のに坊主頭をたして、一寸部屋のうちを見廻しながら、

「なかなかいい家だね。思ったよりいい」

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「中々、うちだね。思ったより好い」

とほめた。

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と賞めた。

代助は黙って、巻きたばこ入れのふたを開けた。

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代助は黙って巻莨入まきたばこいれふたを開けた。

「それから、その後どうだい」

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「それから、以後どうだい」

「どうのこうのって――まあ、いろいろ話すがね」

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「どうの、こうのって、――まあ色々話すがね」

「もとはよく手紙が来たからようすがわかったが、近ごろは少しもよこさないものだから」

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「もとは、よく手紙が来たから、様子が分ったが、近頃じゃちっともよこさないもんだから」

「いや、どこもかしこもごぶさたで」

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「いや何所どこ彼所かしこも御無沙汰で」

と平岡はとつぜんめがねを外して、せびろのむねからしわだらけのハンカチを出して、目をぱちぱちさせながらふき始めた。

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と平岡は突然眼鏡を外して、脊広せびろの胸からしわだらけの手帛ハンケチを出して、眼をぱちぱちさせながらき始めた。

学校時代からの近眼(きんがん)である。

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学校時代からの近眼である。

代助はじっとそのようすをながめていた。

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代助は凝とその様子を眺めていた。

「ぼくより君はどうだい」

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「僕より君はどうだい」

と言いながら、細いつるを耳の後ろへかけに、両手で持って行った。

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と云いながら、細いつるを耳のうしろからみつけに、両手で持って行った。

「ぼくは相変わらずだよ」

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「僕は相変らずだよ」

「相変わらずが一番いいな。あんまり変わるものだから」

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「相変らずが一番好いな。あんまり相変るものだから」

そこで平岡はまゆに八の字をよせて、庭のようすをながめ出したが、急に言い方を変えて、

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そこで平岡は八の字を寄せて、庭の模様を眺め出したが、不意に語調をえて、

「やあ、桜がある。今ようやくさきかけたところだね。よほど気候がちがう」

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「やあ、桜がある。今ようやく咲き掛けた所だね。余程気候が違う」

と言った。

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と云った。

話のぐあいが、何だか昔のようにしみじみしない。

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話の具合が何だかもとの様にしんみりしない。

代助も少し気のぬけたふうに、

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代助も少し気の抜けた風に、

「向こうはだいぶあたたかいだろう」

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「向うは大分あったかいだろう」

と、ついでのようなあいさつをした。

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ついで同然の挨拶あいさつをした。

すると、今度はむしろ大げさなくらい熱をこめて、

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すると、今度はむしろ法外に熱した具合で、

「うん、だいぶあたたかい」

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「うん、大分暖かい」

と、力のこもった返事があった。

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と力の這入はいった返事があった。

まるで自分がここにいることを急に感じて、はっとしたような調子である。

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あたかも自己の存在を急に意識して、はっと思った調子である。

代助はまた平岡の顔をながめた。

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代助は又平岡の顔を眺めた。

平岡は巻きたばこに火をつけた。

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平岡は巻莨に火をけた。

そのとき、おばあさんがようやく急須(きゅうす)に茶を入れて持って出た。

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その時婆さんがようや急須きゅうすに茶をれて持って出た。

今しがた鉄びんに水を足してしまったので、わくのに時間がかかってつい遅くなってすみません、と言い訳をしながら、テーブルの上へぼんをのせた。

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今しがた鉄瓶に水をしてしまったので、煮立にたてるのに暇が入って、つい遅くなって済みませんと言訳をしながら、洋卓テーブルの上へ盆を載せた。

二人はおばあさんがしゃべっている間、したん(黒っぽい高級な木)のぼんを見て黙っていた。

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二人は婆さんの喋舌しゃべってる間、紫檀したんの盆を見て黙っていた。

おばあさんは相手にされないので、一人であいそ笑いをしてざしきを出た。

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婆さんは相手にされないので、独りで愛想あいそ笑いをして座敷を出た。

「ありゃ何だい」

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「ありゃ何だい」

「おばあさんさ。やとったんだ。ごはんを食べなくちゃならないから」

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「婆さんさ。雇ったんだ。飯を食わなくっちゃならないから」

「言い方がていねいだね」

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「御世辞がいね」

代助は赤いくちびるの両はしを、少し弓なりに下のほうへ曲げて、ばかにするように笑った。

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代助は赤い唇の両端を、少し弓なりに下の方へげてさげすむ様に笑った。

「今までこんなところへ働きに来たことがないんだからしかたがない」

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「今までこんな所へ奉公した事がないんだから仕方がない」

「君の家からだれか連れて来ればいいのに。大勢いるだろう」

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「君のうちから誰か連れて来ればいいのに。大勢いるだろう」

「みんな若いのばかりでね」

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「みんな若いのばかりでね」

と代助は真面目に答えた。

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と代助は真面目まじめに答えた。

平岡はこのとき初めて声を出して笑った。

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平岡はこの時始めて声を出して笑った。

「若ければなおけっこうじゃないか」

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「若けりゃ猶結構じゃないか」

「とにかく家の連中はよくないよ」

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「とにかく家の奴は好くないよ」

「あのおばあさんのほかにだれかいるのかい」

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「あの婆さんの外に誰かいるのかい」

「書生が一人いる」

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「書生が一人いる」

門野はいつの間にか帰って、台所のほうでおばあさんと話をしていた。

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門野は何時の間にか帰って、台所の方で婆さんと話をしていた。

「それきりかい」

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「それぎりかい」

「それきりだ。なぜ」

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「それぎりだ。何故なぜ

「奥さんはまだもらわないのかい」

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「細君はまだもらわないのかい」

代助は少し赤い顔をしたが、すぐふつうの、ごくあたりまえの調子になった。

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代助は心持赤い顔をしたが、すぐ尋常一般の極めて平凡な調子になった。

「妻をもらったら、君のところへ知らせくらいするはずじゃないか。それよりか君の」

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さいを貰ったら、君の所へ通知位するはずじゃないか。それよりか君の」

と言いかけて、ぴたりとやめた。

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と云いかけて、ぴたりとめた。

代助と平岡とは中学時代からの知り合いで、とくに学校を卒業したあと、一年間というものはほとんど兄弟のように親しく行き来した。

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代助と平岡とは中学時代からの知り合で、ことに学校を卒業してのち、一年間というものは、ほとんど兄弟の様に親しく往来した。

そのころは、たがいに何もかも打ち明けて、たがいに力になり合うようなことを言うのが、たがいに一番の楽しみであった。

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その時分は互にすべてを打ち明けて、互に力に為り合う様なことを云うのが、互に娯楽のもっともなるものであった。

この楽しみが実際の行いに変わったことも少なくないので、彼らは、たがいのために口にしたすべての言葉には、楽しみどころか、いつも一種の犠牲がふくまれていると信じきっていた。

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この娯楽が変じて実行となった事も少なくないので、彼等は双互のめに口にした凡ての言葉には、娯楽どころか、常に一種の犠牲を含んでいると確信していた。

そうして、その犠牲をすぐに払えば、楽しみがたちまち苦しみに変わるものだという、よくあることにさえ気がつかずにいた。

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そうしてその犠牲を即座に払えば、娯楽の性質が、忽然こつぜん苦痛に変ずるものであると云う陳腐な事実にさえ気が付かずにいた。

一年の後、平岡は結婚した。

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一年の後平岡は結婚した。

同時に、自分のつとめている銀行の、京都・大阪あたりのある支店へ移ることになった。

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同時に、自分の勤めている銀行の、京坂けいはん地方のある支店詰になった。

代助は出発のとき、新しい夫婦を新橋の駅に送って、楽しそうに、すぐ帰って来たまえと平岡の手をにぎった。

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代助は、出立しゅったつの当時、新夫婦を新橋の停車場ステーションに送って、愉快そうに、じき帰って来給きたまえと平岡の手を握った。

平岡は、しかたがない、当分がまんするさと、投げ出すように言ったが、そのめがねのうらには、うらやましいくらい得意そうな色が動いた。

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平岡は、仕方がない、当分辛抱するさと打遣うっちゃる様に云ったが、その眼鏡の裏には得意の色がうらやましい位動いた。

それを見たとき、代助は急にこの友達がにくらしく思えた。

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それを見た時、代助は急にこの友達を憎らしく思った。

家へ帰って、一日部屋に入ったきり考えこんでいた。

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うちへ帰って、一日部屋へ這入ったなり考え込んでいた。

兄の妻をつれて音楽会へ行くはずのところを断わって、たいそう兄の妻に心配をかけたくらいである。

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あによめを連れて音楽会へ行く筈の所を断わって、大いに嫂に気をました位である。

平岡からは、絶えず便りがあった。

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平岡からは断えず音便たよりがあった。

無事に着いたというはがき、向こうで所帯(しょたい)を持ったという知らせ、それがすむと、支店での仕事のようす、自分のこれからの希望、いろいろあった。

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安着の端書、向うで世帯しょたいを持った報知、それが済むと、支店勤務の模様、自己将来の希望、色々あった。

手紙が来るたびに、代助はいつもていねいな返事を出した。

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手紙の来るたびに、代助は何時も丁寧な返事を出した。

不思議なことに、代助が返事を書くときは、いつでも一種の不安におそわれる。

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不思議な事に、代助が返事を書くときは、何時でも一種の不安に襲われる。

たまにはがまんするのが嫌になって、とちゅうで返事をやめてしまうことがある。

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たまには我慢するのがいやになって、途中で返事を已めてしまう事がある。

ただ平岡のほうから、自分の昔の行いに対していくらか感謝の気持ちを書いて来る場合だけは、すらすらと筆が動いて、わりとなめらかな返事が書けた。

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ただ平岡の方から、自分の過去の行為に対して、幾分か感謝の意を表して来る場合に限って、安々と筆が動いて、比較的なだらかな返事が書けた。

そのうちだんだん手紙のやり取りが減って、月に二度が一度になり、一度がまた二か月、三か月おきになってくると、今度は手紙を書かないほうがかえって不安になって、何の意味もないのに、ただこの気持ちを追いはらうためだけに封筒(ふうとう)ののりをぬらすことがあった。

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そのうち段々手紙の遣り取りが疎遠そえんになって、月に二遍が、一遍になり、一遍が又二月、三月にまたがる様に間を置いて来ると、今度は手紙を書かない方が、却って不安になって、何の意味もないのに、只この感じを駆逐する為に封筒ののりを湿す事があった。

それが半年ばかり続くうちに、代助の頭も胸も、だんだん中身が変わって来るように感じられて来た。

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それが半年ばかり続くうちに、代助の頭も胸も段々組織が変って来る様に感ぜられて来た。

この変化とともに、平岡へは手紙を書いても書かなくても、まるで苦しく感じないようになってしまった。

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この変化に伴って、平岡へは手紙を書いても書かなくっても、まるで苦痛を覚えない様になってしまった。

じっさい代助が自分の家を持ってからの一年あまりというものは、この春の年賀状のやり取りのときに、ついでに今の住所を知らせただけである。

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現に代助が一戸を構えて以来、約一年余と云うものは、この春年賀状の交換のとき、ついでを以て、今の住所を知らしただけである。

それでも、あることがあって、平岡のことをまるで忘れるわけにはいかなかった。

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それでも、ある事情があって、平岡の事はまるで忘れる訳にはかなかった。

時々思い出す。

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時々思い出す。

そうして、今ごろはどうして暮らしているだろうと、いろいろに想像してみることがある。

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そうして今頃はどうして暮しているだろうと、色々に想像してみる事がある。

しかし、ただ思い出すだけで、わざわざ問い合わせたりするほど気にかける勇気も必要もなく、今日まで過ごして来たところへ、二週間前に突然、平岡からの手紙が届いたのである。

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しかしただ思い出すだけで、別段問い合せたり聞き合せたりする程に、気を揉む勇気も必要もなく、今日まで過して来た所へ、二週間前に突然平岡からの書信が届いたのである。

その手紙には、近いうちにこの土地を引きはらって、そちらへ行くつもりである。

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その手紙には近々当地を引き上げて、御地へまかり越す積りである。

ただし本店からの命令で、出世という意味の異動だと思ってくれては困る。

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ただし本店からの命令で、栄転の意味を含んだ他動的の進退と思ってくれては困る。

少し考えがあって、急に仕事を変える気になったから、東京へ行ったらどうかよろしく頼む、とあった。

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少し考があって、急に職業替をする気になったから、着京の上は何分よろしく頼むとあった。

この「どうかよろしく頼む」の頼むが、本当の意味の頼むか、それともただのあいさつの頼むかはわからないけれども、平岡の身の上に急な変化があったのはたしかである。

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この何分宜しく頼むの頼むは本当の意味の頼むか、又は単に辞令上の頼むか不明だけれども、平岡の一身上に急劇な変化のあったのは争うべからざる事実である。

代助はそのときはっと思った。

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代助はその時はっと思った。

それで、会うとすぐこの変化のいきさつを聞こうと待ちかまえていたのだが、あいにく話がそれて、なかなかそこへ戻って来ない。

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それで、うやいなやこの変動の一部始終を聞こうと待設けていたのだが、不幸にして話がれて容易に其所そこへ戻って来ない。

ころを見てこちらから持ちかけると、まあゆっくり話すとか何とか言って、なかなか話が進まない。

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折を見て此方こっちから持ち掛けると、まあ緩っくり話すとか何とか云って、中々らちを開けない。

代助はしかたなしに、しまいに、

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代助は仕方なしに、仕舞に、

「久しぶりだから、そこいらでごはんでも食おう」

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「久し振りだから、其所そこいらで飯でも食おう」

と言い出した。

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と云い出した。

平岡はそれでもまだ、いずれゆっくり、をくり返したがるのを、無理に引っぱって、近所の西洋料理屋へ上がった。

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平岡は、それでも、まだ、いずれ緩くりを繰返したがるのを、無理に引張って、近所の西洋料理へ上った。

二人はそこでだいぶ飲んだ。

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両人ふたりは其所で大分飲んだ。

飲むことと食うことは昔のとおりだねと言ったのが始まりで、かたかった舌がだんだんやわらかくなって来た。

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飲む事と食う事は昔の通りだねと言ったのが始りで、こわい舌が段々ゆるんで来た。

代助はおもしろそうに、二、三日前に自分が見に行ったニコライ堂の復活祭(ふっかつさい。キリスト教のお祭り)の話をした。

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代助は面白そうに、二三日にさんち前自分のに行った、ニコライの復活祭の話をした。

祭りは夜の十二時を合図に、世の中がねしずまるころを見はからって始まる。

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御祭がの十二時を相図あいずに、世の中の寐鎮ねしずまる頃を見計って始る。

おまいりの人が長いろうかを回って本堂へ帰って来ると、いつの間にか何千本ものろうそくが一度についている。

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参詣人さんけいにんが長い廊下を廻って本堂へ帰って来ると、何時の間にか幾千本の蝋燭そうそくが一度に点いている。

法衣(ほうえ)を着た僧が行列して向こうを通るとき、黒いかげが、もようのないかべへ非常に大きくうつる。――

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法衣ころもを着た坊主が行列して向うを通るときに、黒い影が、無地の壁へ非常に大きく映る。――

平岡はほおづえをついて、めがねの奥の二重まぶたを赤くしながら聞いていた。

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平岡は頬杖ほおづえを突いて、眼鏡の奥の二重瞼ふたえまぶちを赤くしながら聞いていた。

代助はそれから夜の二時ごろ、広い御成街道(おなりかいどう)を通って、真夜中の線路が暗い中をまっすぐにわたっている上を、たった一人で上野の森まで来て、そうして電灯に照らされた花の中に入った。

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代助はそれから夜の二時頃広い御成おなり街道を通って、深夜の鉄軌レールが、暗い中を真直に渡っている上を、たった一人上野の森まで来て、そうして電燈に照らされた花の中に這入った。

「人のいない夜桜(よざくら)はいいもんだよ」

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人気ひとけのない夜桜はいもんだよ」

と言った。

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と云った。

平岡は黙ってさかずきをほしたが、ちょっと気のどくそうに口元を動かして、

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平岡は黙ってさかずきを干したが、一寸気の毒そうに口元を動かして、

「いいだろう、ぼくはまだ見たことがないが。――しかし、そんなことができる間はまだ気楽なんだよ。世の中へ出ると、なかなかそれどころじゃない」

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「好いだろう、僕はまだ見た事がないが。――然し、そんな真似が出来る間はまだ気楽なんだよ。世の中へ出ると、中々それどころじゃない」

と、それとなく相手の経験のなさを上から見たようなことを言った。

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と暗に相手の無経験を上から見た様な事を云った。

代助には、その言い方よりも、その返事の中身のほうがおかしく感じられた。

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代助にはその調子よりもその返事の内容が不合理に感ぜられた。

彼は世の中をわたる経験よりも、復活祭の夜の経験のほうが、人生において意味のあるものだと考えている。

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彼は生活上世渡りの経験よりも、復活祭当夜の経験の方が、人生において有意義なものと考えている。

そこでこんな答えをした。

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其所でこんな答をした。

「ぼくは、いわゆる世わたりの経験ほどおろかなものはないと思っている。苦しみがあるだけじゃないか」

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「僕は所謂いわゆる処世上の経験程なものはないと思っている。苦痛があるだけじゃないか」

平岡は酔った目を少し大きくした。

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平岡は酔った眼を心持大きくした。

「だいぶ考えが変わって来たようだね。――けれども、その苦しみがあとから薬になるんだって、もとは君の持論(じろん)じゃなかったか」

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「大分考えが違って来た様だね。――けれどもその苦痛が後から薬になるんだって、もとは君の持説じゃなかったか」

「それは考えのあさい青年が、世間のことわざに負けて、いいかげんなことを言っていたころの持論だ。もう、とっくに取り消してしまった」

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「そりゃ不見識な青年が、流俗のことわざに降参して、好加減いいかげんな事を云っていた時分の持説だ。もう、とっくに撤回しちまった」

「だって、君だってもうそろそろ世の中へ出なくちゃなるまい。そのときそれじゃ困るよ」

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「だって、君だって、もう大抵世の中へ出なくっちゃなるまい。その時それじゃ困るよ」

「世の中へは昔から出ているさ。とくに君と別れてから、たいへん世の中が広くなったような気がする。ただ君の出ている世の中とは種類がちがうだけだ」

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「世の中へは昔から出ているさ。ことに君と分れてから、大変世の中が広くなった様な気がする。ただ君の出ている世の中とは種類が違うだけだ」

「そんなことを言っていばったって、今に負けるだけだよ」

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「そんな事を云って威張ったって、今に降参するだけだよ」

「もちろん食うのに困るようになれば、いつでも負けるさ。しかし今困っていない者が、何が苦しくて、つまらない経験をなめるものか。インド人がコートを着て、冬が来たときの用心をするのと同じことだもの」

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「無論食うに困る様になれば、何時いつでも降参するさ。然し今日こんにちに不自由のないものが、何を苦しんで劣等な経験をめるものか。印度インド人が外套がいとうを着て、冬の来た時の用心をすると同じ事だもの」

平岡のまゆの間に、ちょっと不愉快そうな色がひらめいた。

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平岡のまゆの間に、一寸不快の色がひらめいた。

赤い目をすえて、ぷかぷかたばこをすっている。

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赤い眼を据えてぷかぷか烟草たばこを吹かしている。

代助は、少し言いすぎたと思って、少し言い方をやわらげた。――

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代助は、ちと云い過ぎたと思って、少し調子を穏やかにした。――

「ぼくの知っている人に、まるで音楽のわからない人がいる。学校の先生をして、一校では食べていけないものだから、三校も四校もかけ持ちをやっているが、それは気のどくなもので、じゅんびをするのと、教室へ出て機械のように口を動かしているよりほかに、まったくひまがない。たまの日曜などは体を休めるとか言って一日ぐうぐう寝ている。だから、どこに音楽会があろうと、どんな名人が外国から来ようと、聞きに行くきっかけがない。つまり音楽という一種の美しい世界には、まるで足をふみこまないで死んでしまわなくちゃならない。ぼくから言わせると、これほどあわれな『経験のなさ』はないと思う。パンにつながる経験は切実(せつじつ)かも知れないが、けっきょくつまらないよ。パンをはなれ水をはなれたぜいたくな経験をしなくちゃ、人間として生きたかいがない。君はぼくをまだ坊っちゃんだと考えているらしいが、ぼくの住んでいるぜいたくな世界では、君よりずっと年上のつもりだ」

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「僕の知ったものに、まるで音楽のわからないものがある。学校の教師をして、一軒じゃ飯が食えないもんだから、三軒も四軒も懸け持をやっているが、そりゃ気の毒なもんで、下読をするのと、教場へ出て器械的に口を動かしているより外に全く暇がない。たまの日曜などは骨休めとか号して一日ぐうぐう寐ている。だから何所どこに音楽会があろうと、どんな名人が外国からようと聞きにく機会がない。つまり楽という一種の美くしい世界にはまるで足を踏み込まないで死んでしまわなくっちゃならない。僕から云わせると、これ程あわれな無経験はないと思う。麺麭パンに関係した経験は、切実かも知れないが、要するに劣等だよ。麺麭を離れ水を離れた贅沢ぜいたくな経験をしなくっちゃ人間の甲斐かいはない。君は僕をまだ坊っちゃんだと考えてるらしいが、僕の住んでいる贅沢な世界では、君よりずっと年長者の積りだ」

平岡は巻きたばこの灰を皿の上にはたきながら、しずんだ暗い調子で、

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平岡は巻莨まきたばこの灰を、皿の上にはたきながら、沈んだ暗い調子で、

「うん、いつまでもそういう世界に住んでいられればけっこうさ」

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「うん、何時までもそう云う世界に住んでいられれば結構さ」

と言った。

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と云った。

その重い言葉のはしに、金持ちに対する一種ののろいが引きずられているように聞こえた。

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その重い言葉の足が、富に対する一種の呪詛じゅそを引きっている様に聴えた。

二人は酔って、外へ出た。

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両人ふたりは酔って、戸外おもてへ出た。

酒の勢いで変な議論をしたものだから、かんじんの身の上の話はまだ少しも進んでいない。

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酒の勢で変な議論をしたものだから、肝心の一身上の話はまだ少しも発展せずにいる。

「少し歩かないか」

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「少し歩かないか」

と代助がさそった。

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と代助が誘った。

平岡も口で言うほど忙しくはないと見えて、生返事をしながら、いっしょに歩いて来た。

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平岡も口程忙がしくはないと見えて、生返事をしながら、一所に歩を運んで来た。

通りを曲がって横町へ出て、なるべく話をするのによい静かな場所を選んで行くうちに、いつか話の糸口がついて、思っていたあたりへ話が落ちた。

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通を曲って横町へ出て、なるべく、話の為好しいしずかな場所を選んで行くうちに、何時か緒口いとくちが付いて、思うあたりへ談柄だんぺいが落ちた。

平岡の言うところによると、行った当時、彼は仕事を覚えるため、その土地の景気を調べるため、だいぶ忙しく働いてみた。

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平岡の云う所によると、赴任の当時彼は事務見習のため、地方の経済状況取調とりしらべのため、大分忙がしく働らいてみた。

できることなら、学んだ理屈を実地に生かすことを研究しようと思ったくらいであったが、地位がそれほど高くないので、しかたなく、自分の計画は計画として、いつか試すために頭の中に入れておいた。

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出来得るならば、学理的に実地の応用を研究しようと思った位であったが、地位がそれ程高くないので、やむを得ず、自分の計画は計画として未来の試験用に頭の中に入れて置いた。

もっとも初めのうちは、いろいろ支店長に案を出したこともあるが、支店長は冷たくて、いつも相手にしなかった。

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尤も始めのうちは色々支店長に建策した事もあるが、支店長は冷然として、何時も取り合わなかった。

むずかしい理屈などを持ち出すと、たいそう機嫌が悪い。

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むずかしい理窟りくつなどを持ち出すと甚だ御機嫌が悪い。

青二才(あおにさい。まだ若くて未熟な者)に何がわかるものか、というようなふうをする。

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青二才に何が分るものかと云う様な風をする。

そのくせ、自分はじっさい何もわかっていないらしい。

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その癖自分は実際何も分っていないらしい。

平岡から見ると、その相手にしないところが、相手にする値打ちがないからではなくて、むしろ相手にするのがこわいからのように思われた。

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平岡から見ると、その相手にしない所が、相手にするに足らないからではなくって、寧ろ相手にするのが怖いからの様に思われた。

そこに平岡の腹立ちはあった。

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其所に平岡のしゃくはあった。

ぶつかりかけたことも、一度や二度ではない。

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衝突しかけた事も一度や二度ではない。

けれども、時がたつにつれて、いらだちがいつとなくうすらいで来て、だんだん自分の頭がまわりの空気になじむようになった。

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けれども、時日を経過するに従って、肝癪が何時となく薄らいできて、次第に自分の頭が、周囲の空気と融和する様になった。

また、なるべくなじむように努めた。

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又なるべくは、融和する様につとめた。

それにつれて、支店長の自分に対する態度もだんだん変わって来た。

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それにつれて、支店長の自分に対する態度も段々変って来た。

時々は向こうから相談をして来ることさえある。

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時々は向うから相談をかける事さえある。

すると、学校を出たての平岡ではないから、相手にわからないこと、そして都合の悪いことは、なるべく言わないようにしておく。

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すると学校を出たての平岡でないから、先方むこうに解らない、かつ都合のわるいことはなるべく云わない様にして置く。

「むやみにお世辞(せじ)を言ったり、ごまをすったりするのとはちがうが」

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無暗むやみに御世辞を使ったり、胡麻ごまを摺るのとは違うが」

と、平岡はわざわざことわった。

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と平岡はわざわざ断った。

代助は真面目な顔をして、「それはもちろんそうだろう」

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代助は真面目な顔をして、「そりゃ無論そうだろう」

と答えた。

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と答えた。

支店長は平岡のこれからのことについて、いろいろ心配してくれた。

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支店長は平岡の未来の事に就て、色々心配してくれた。

近いうちに本店に帰る番に当たっているから、そのときはいっしょに来たまえ、などと冗談半分に約束までした。

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近いうちに本店に帰る番にあたっているから、その時は一所に来給えなどと冗談半分に約束までした。

そのころは仕事にも慣れるし、信用も厚くなるし、つきあいも増えるし、勉強をするひまが自然となくなって、また勉強がかえって仕事のじゃまになるように感じられて来た。

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その頃は事務にも慣れるし、信用も厚くなるし、交際も殖えるし、勉強をする暇が自然となくなって、又勉強がかえって実務のさまたげをする様に感ぜられて来た。

支店長が自分に何もかも打ち明けるように、自分は自分の部下の関(せき)という男を信じて、いろいろと相談相手にしていた。

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支店長が、自分に万事を打ち明けるごとく、自分は自分の部下の関という男を信任して、色々と相談相手にしておった。

ところが、この男がある芸者と関係を持って、いつの間にか帳簿(ちょうぼ)の金に穴を空けた。

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ところがこの男がある芸妓げいしゃ関係かかりあって、何時の間にか会計に穴を明けた。

それが知れたので、本人はもちろんくびにしなければならないが、あることから、放っておくと支店長にまで少し面倒が及んで来そうだったので、そこで自分が責任を取って辞職を申し出た。

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それが曝露ばくろしたので、本人は無論解雇しなければならないが、ある事情からして、放って置くと、支店長にまで多少のわずらいが及んで来そうだったから、其所で自分がせめを引いて辞職を申し出た。

平岡の語るところはざっとこうであるが、代助には、彼が支店長に言いふくめられて、やめるように追いこまれたようにも聞こえた。

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平岡の語る所は、ざっとこうであるが、代助には彼が支店長から因果を含められて、所決を促がされた様にも聞えた。

それは平岡の話の終わりに「会社員なんてものは、上になればなるほどうまいことができるものでね。じつは関なんて、あれっぽっちの金を使いこんですぐくびになるのは、気のどくなくらいなものさ」

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それは平岡の話しの末に「会社員なんてものは、上になればなる程うまい事が出来るものでね。実は関なんて、あれっばかりの金を使い込んで、すぐ免職になるのは気の毒な位なものさ」

という一言があったのから、そう思ったのである。

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という句があったのから推したのである。

「じゃ支店長は、一番うまいことをしているわけだね」

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「じゃ支店長は一番旨い事をしている訳だね」

と代助が聞いた。

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と代助が聞いた。

「あるいはそんなものかも知れない」

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「或はそんなものかも知れない」

と、平岡は言葉をにごしてしまった。

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と平岡は言葉を濁してしまった。

「それで、その男の使いこんだ金はどうした」

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「それでその男の使い込んだ金はどうした」

「千円に足りない金だったから、ぼくが出しておいた」

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「千に足らない金だったから、僕が出して置いた」

「よくあったね。君もだいぶうまいことをしたと見える」

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「よく有ったね。君も大分旨い事をしたと見える」

平岡はにがい顔をして、じろりと代助を見た。

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平岡は苦い顔をして、じろりと代助を見た。

「うまいことをしたとしても、みんな使ってしまっている。暮らしにさえ足りないくらいだ。その金は借りたんだよ」

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「旨い事をしたと仮定しても、みんな使ってしまっている。生活くらしにさえ足りない位だ。その金は借りたんだよ」

「そうか」

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「そうか」

と、代助は落ち着きはらって受けた。

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と代助は落ち付き払って受けた。

代助はどんなときでも、いつもの調子を失わない男である。

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代助はどんな時でも平生の調子を失わない男である。

そうして、その調子には、低くはっきりしているうちに、一種のやわらかさが出ている。

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そうしてその調子には低く明らかなうちに一種の丸味が出ている。

「支店長から借りてうめておいた」

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「支店長から借りて埋めて置いた」

「なぜ支店長が直接その関とか何とか言う男に貸してやらないのかな」

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「何故支店長がじかにその関とか何とか云う男に貸してらないのかな」

平岡は何とも答えなかった。

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平岡は何とも答えなかった。

代助もおして聞かなかった。

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代助も押しては聞かなかった。

二人は無言のまま、しばらくの間ならんで歩いて行った。

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二人は無言のまましばらくの間並んで歩いて行った。

代助は、平岡が語ったほかに、まだ何かあるにちがいないと思った。

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代助は平岡が語ったより外に、まだ何かあるに違ないと鑑定した。

けれども彼は、もう一歩進んであくまでその真相を調べるほどの権利を持っていないことを、自分でわかっている。

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けれども彼はもう一歩進んであくまでその真相を研究する程の権利をっていないことを自覚している。

また、そんな好奇心をわかせるには、じっさいあまりに都会ずれし過ぎていた。

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又そんな好奇心を引き起すには、実際あまり都会化し過ぎていた。

二十世紀の日本に生きる彼は、三十になるかどうかというのに、すでに何ごとにも驚かないというところまで来てしまった。

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二十世紀の日本に生息する彼は、三十になるか、ならないのに既に nilニル admirariアドミラリ の域に達してしまった。

彼の考えは、人間の暗い面に出会って驚くほどの田舎者ではなかった。

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彼の思想は、人間の暗黒面に出逢って喫驚びっくりする程の山出やまだしではなかった。

彼の神経は、こんなにありふれた秘密をかぎつけて喜ぶほど、退屈してはいなかった。

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彼の神経は斯様かように陳腐な秘密をいでうれしがる様に退屈を感じてはいなかった。

いや、これより何倍も気持ちのいい刺激でさえ、受け入れるのを喜ばないくらいに、ある意味では疲れきっていた。

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否、これより幾倍か快よい刺激でさえ、感受するを甘んぜざる位、一面から云えば、困憊こんぱいしていた。

代助は、平岡のそれとはほとんど縁のない自分だけの世界の中で、もうこれほどに進化――進化のうら側を見ると、いつでもそれは退化なのは、昔も今も悲しいことだが――していたのである。

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代助は平岡のそれとはほとんんど縁故のない自家特有の世界の中で、もうこれ程に進化――進化の裏面を見ると、何時でも退化であるのは、古今を通じて悲しむべき現象だが――していたのである。

それを平岡はまったく知らない。

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それを平岡は全く知らない。

代助を、あいかわらず昔のままの三年前のうぶな男と見ているらしい。

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代助をもって、依然として旧態を改めざる三年ぜん初心うぶと見ているらしい。

こういうお坊っちゃんに、何もかも自分の弱いところを打ち明けては、むだに馬のふんを投げてお嬢さまを驚かせるのと同じことになりやすい。

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こう云う御坊っちゃんに、洗いざらい自分の弱点を打ち明けては、いたずらに馬糞まぐそを投げて、御嬢さまを驚ろかせると同結果に陥いりやすい。

余計なことをしてあいそをつかされるよりは、黙っているほうが安全だ。――

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余計な事をして愛想を尽かされるよりは黙っている方が安全だ。――

代助には、平岡の腹の中がこう読めた。

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代助には平岡の腹がこう取れた。

それで、平岡が自分に返事もせずに黙って歩いて行くのが、何となくばからしく見えた。

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それで平岡が自分に返事もせずに無言で歩いてくのが、何となく馬鹿らしく見えた。

平岡が代助を子ども扱いするのと同じくらい、いや、それ以上に、代助は平岡を子ども扱いし始めたのである。

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平岡が代助を子供視する程度に於て、あるいはそれ以上の程度に於て、代助は平岡を子供視し始めたのである。

けれども、二人が三十メートルほど歩いて、また話をやり出したときは、どちらにもそんなあとはまるでなかった。

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けれども両人ふたりが十五六間過ぎて、又話を遣り出した時は、どちらにも、そんな痕迹こんせきは更になかった。

最初に口を開いたのは代助であった。

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最初に口を切ったのは代助であった。

「それで、これから先どうするつもりかね」

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「それで、これから先どうする積りかね」

「さあ」

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「さあ」

「やはり今までの経験もあるんだから、同じ仕事がいいかも知れないね」

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「やっぱり今までの経験もあるんだから、同じ職業がいかも知れないね」

「さあ。ようす次第だが。じつはゆっくり君に相談してみようと思っていたんだが。どうだろう、君のお兄さんの会社のほうに口はないだろうか」

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「さあ。事情次第だが。実はゆっくり君に相談してみようと思っていたんだが。どうだろう、君の兄さんの会社の方に口はあるまいか」

「うん、頼んでみよう、二、三日のうちに家へ行く用があるから。しかしどうかな」

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「うん、頼んでみよう、二三日うちうちへ行く用があるから。然しどうかな」

「もし会社のほうが駄目なら、どこか新聞社へでも入ろうかと思う」

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「もし、実業の方が駄目なら、どっか新聞へでも這入はいろうかと思う」

「それもいいだろう」

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「それもいだろう」

二人はまた電車の通る通りへ出た。

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両人は又電車の通る通へ出た。

平岡は向こうから来た電車の屋根を見ていたが、突然これに乗って帰ると言い出した。

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平岡は向うから来た電車の軒を見ていたが、突然これに乗って帰ると云い出した。

代助はそうかと答えたまま、止めもしない、といって、すぐ別れもしなかった。

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代助はそうかと答えたまま、留めもしない、と云ってすぐ分れもしなかった。

赤い棒の立っている停留所まで歩いて来た。

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赤い棒の立っている停留所まで歩いて来た。

そこで、

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そこで、

「三千代(みちよ)さんはどうした」

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三千代みちよさんはどうした」

と聞いた。

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と聞いた。

「ありがとう、まあ相変わらずだ。君によろしく言っていた。じつは今日連れて来ようと思ったんだけれども、何だか汽車にゆられて頭が痛いというから、宿屋へ置いて来た」

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難有ありがとう、まあ相変らずだ。君に宜しく云っていた。実は今日連れてようと思ったんだけれども、何だか汽車に揺れたんで頭が悪いというから宿屋へ置いて来た」

電車が二人の前で止まった。

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電車が二人の前で留まった。

平岡は二、三歩早足で行きかけたが、代助に言われてやめた。

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平岡は二三歩早足にきかけたが、代助から注意されてめた。

彼の乗るべき電車は、まだ来ていなかったのである。

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彼の乗るべき車はまだ着かなかったのである。

「子どもは惜しいことをしたね」

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「子供は惜しい事をしたね」

「うん。かわいそうなことをした。あのときはまたごていねいにありがとう。どうせ死ぬくらいなら、生まれないほうがよかった」

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「うん。可哀想かわいそうな事をした。その節は又御叮嚀ていねいに難有う。どうせ死ぬ位なら生れない方が好かった」

「その後はどうだい。まだ次はできないか」

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「その後はどうだい。まだ後は出来ないか」

「うん、いまだに何にも、もう駄目だろう。体があまりよくないものだからね」

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「うん、だにも何にも、もう駄目だろう。身体からだがあんまり好くないものだからね」

「こんなにあちこち動くときは、子どものないほうがかえって都合がよくていいかも知れない」

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「こんなに動く時は子供のない方が却って便利で可いかも知れない」

「それもそうさ。いっそ君のように一人なら、なおのこと気楽でいいかも知れない」

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「それもそうさ。一層いっそ君の様に一人身なら、なおの事、気楽で可いかも知れない」

「一人になるさ」

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「一人身になるさ」

「冗談を言ってら――それよりか、妻がしきりに、君はもう奥さんを持っただろうか、まだだろうかって気にしていたぜ」

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「冗談云ってら――それよりか、さいしきりに、君はもう奥さんを持ったろうか、未だだろうかって気にしていたぜ」

そこへ電車が来た。

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ところへ電車が来た。

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代助の父は長井得(ながいとく)といって、明治維新(いしん)のとき戦争に出た経験があるくらいの老人であるが、今でもとても元気に生きている。

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代助の父は長井得ながいとくといって、御維新ごいっしんのとき、戦争に出た経験のある位な老人であるが、今でも至極達者に生きている。

役人をやめてから会社の世界に入って、あれこれしているうちに自然と金がたまって、この十四、五年らいだいぶの金持ちになった。

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役人を已めてから、実業界に這入はいって、何かかにかしているうちに、自然と金がたまって、この十四五年来は大分だいぶんの財産家になった。

誠吾(せいご)という兄がある。

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誠吾と云う兄がある。

学校を卒業してすぐ、父の関係している会社へ入ったので、今ではそこで大事な地位を持つようになった。

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学校を卒業してすぐ、父の関係している会社へ出たので、今では其所そこで重要な地位を占める様になった。

梅子(うめこ)という妻に、二人の子どもができた。

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梅子うめこという夫人に、二人の子供が出来た。

上は誠太郎(せいたろう)といって十五になる。

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兄は誠太郎せいたろうと云って十五になる。

妹は縫(ぬい)といって三つちがいである。

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いもとぬいといって三つ違である。

誠吾のほかに姉がまだ一人あるが、これはある外交官にとついで、今は夫といっしょに西洋にいる。

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誠吾の外に姉がまだ一人あるが、これはある外交官に嫁いで、今は夫と共に西洋にいる。

誠吾とこの姉の間にもう一人、それからこの姉と代助の間にもまだ一人きょうだいがあったけれども、それは二人とも早く死んでしまった。

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誠吾とこの姉の間にもう一人、それからこの姉と代助の間にも、まだ一人兄弟があったけれども、それは二人とも早く死んでしまった。

母も死んでしまった。

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母も死んでしまった。

代助の一家は、これだけの人数からできている。

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代助の一家いっけはこれだけの人数にんずから出来上っている。

そのうちで外へ出ている者は、西洋に行った姉と、近ごろ自分の家を持った代助ばかりだから、本家には大人も子どもも合わせて五人残るわけになる。

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そのうちで外へ出ているものは、西洋に行った姉と、近頃一戸を構えた代助ばかりだから、本家には大小合せて五人残る訳になる。

代助は月に一度は必ず本家へ金をもらいに行く。

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代助は月に一度は必ず本家へ金をもらいにく。

代助は親の金とも兄の金ともつかないものを使って生きている。

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代助は親の金とも、兄の金ともつかぬものを使って生きている。

月に一度のほかにも、たいくつになれば出かけて行く。

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月に一度の外にも、退屈になれば出掛けて行く。

そうして子どもをからかったり、書生と五目ならべをしたり、兄の妻と芝居の話をしたりして帰って来る。

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そうして子供に調戯からかったり、書生と五目並べをしたり、あによめと芝居の評をしたりして帰って来る。

代助はこの兄の妻が好きである。

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代助はこの嫂を好いている。

この兄の妻は、江戸のころの古い調子と、明治の今の調子とを、遠慮なくつぎ合わせたような一種の人物である。

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この嫂は、天保調てんぽうちょうと明治の現代調を、容赦なく継ぎ合せた様な一種の人物である。

わざわざフランスにいる義理の妹に注文して、むずかしい名のついた、とても高い織物を取りよせて、それを四、五人で切って、帯に仕立てて着てみたりなどする。

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わざわざ仏蘭西フランスにいる義妹いもうとに注文して、むずかしい名のつく、すこぶる高価な織物を取寄せて、それを四五人で裁って、帯に仕立てて着てみたり何かする。

あとで、それは日本から輸出したものだということがわかって大笑いになった。

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後で、それは日本から輸出したものだと云う事が分って大笑いになった。

三越(みつこし)の売り場へ行って、それを調べて来たのは代助である。

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三越陳列所へ行って、それを調べて来たものは代助である。

それから西洋の音楽が好きで、よく代助にさそわれて聞きに行く。

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それから西洋の音楽が好きで、よく代助に誘い出されてききに行く。

そうかと思うと、うらないにとても興味を持っている。

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そうかと思うと易断うらないに非常な興味をっている。

石龍子(せきりゅうし)と尾島某(おじまなにがし)という有名なうらない師を、たいそう信じている。

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石龍子せきりゅうしと尾島なにがしを大いに崇拝する。

代助も二、三度おともをして、人力車でうらない師のところまでくっついて行ったことがある。

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代助も二三度御相伴に、くるまで易者のもとまで食付くっついて行った事がある。

誠太郎という子は、近ごろ野球に夢中になっている。

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誠太郎と云う子は近頃ベースボールに熱中している。

代助が行って、時々ボールを投げてやることがある。

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代助が行って時々球を投げてやる事がある。

彼はみょうな望みを持った子どもである。

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彼は妙な希望を持った子供である。

毎年夏の初めに、多くの焼きいも屋が急にかき氷屋に変わるとき、一番先に駆けつけて、汗も出ないのにアイスクリームを食べるのは誠太郎である。

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毎年まいとし夏の初めに、多くの焼芋屋が俄然がぜんとして氷水屋に変化するとき、第一番にけつけて、汗も出ないのに、氷菓アイスクリームを食うものは誠太郎である。

アイスクリームがないときには、かき氷でがまんする。

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氷菓がないときには、氷水で我慢する。

そうして得意になって帰って来る。

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そうして得意になって帰って来る。

近ごろでは、もし相撲(すもう)の建物ができたら、一番先に入ってみたいと言っている。

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近頃では、もし相撲の常設館が出来たら、一番先へ這入ってみたいと云っている。

おじさん、だれかお相撲さんを知りませんか、と代助に聞いたことがある。

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叔父さん誰か相撲を知りませんかと代助に聞いた事がある。

縫という娘は、何か言うと、いいことよ、知らないわと答える。

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縫という娘は、何か云うと、好くってよ、知らないわと答える。

そうして、一日に何度もリボンを取りかえる。

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そうして日に何遍となくリボンを掛けえる。

近ごろはバイオリンの習い事に行く。

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近頃はヴァイオリンの稽古けいこく。

帰って来ると、のこぎりの歯をとぐような音を出しておさらいをする。

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帰って来ると、のこぎりの目立ての様な声を出して御浚おさらいをする。

ただし、人が見ていると決してやらない。

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ただし人が見ていると決して遣らない。

部屋をしめきってきいきい言わせるのだから、親はかなり上手だと思っている。

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へやを締め切って、きいきい云わせるのだから、親は可なり上手だと思っている。

代助だけが時々そっと戸を開けるので、いいことよ、知らないわとしかられる。

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代助だけが時々そっと戸を明けるので、好くってよ、知らないわとしかられる。

兄はたいてい留守がちである。

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兄は大抵不在がちである。

とくに忙しいときになると、家で食べるのは朝ごはんくらいなもので、あとはどうして暮らしているのか、二人の子どもにはまったくわからない。

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ことに忙がしい時になると、うちで食うのは朝食あさめし位なもので、あとは、どうして暮しているのか、二人の子供には全く分らない。

同じくらい、代助にもわからない。

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同程度に於て代助にも分らない。

これはわからないほうがいいので、必要がない限りは、兄の毎日の外での生活について決して調べないのである。

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これは分らない方が好ましいので、必要のない限りは、兄の日々にちにちの戸外生活に就て決して研究しないのである。

代助は二人の子どもにたいへん人気がある。

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代助は二人の子供に大変人望がある。

兄の妻にもかなりある。

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嫂にも可なりある。

兄には、あるのだかないのだかわからない。

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兄には、あるんだか、ないんだか分らない。

たまに兄と弟が顔を合わせると、ただ世間話をする。

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たまに兄とおととが顔を合せると、ただ浮世話をする。

どちらもふつうの顔で、たいそう平気でやっている。

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双方とも普通の顔で、大いに平気で遣っている。

ありふれたことに慣れきったようすである。

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陳腐に慣れ抜いた様子である。

代助が一番こたえるのは父である。

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代助のもっともこたえるのは親爺おやじである。

いい年をして若いめかけ(正式でない妻)を持っているが、それは構わない。

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い年をして、若いめかけを持っているが、それは構わない。

代助から言うと、むしろさんせいなくらいなもので、彼は、めかけを置くよゆうのない者にかぎって、めかけを持つことを悪く言うのだと考えている。

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代助から云うとむしろ賛成な位なもので、彼は妾を置く余裕のないものに限って、蓄妾ちくしょうの攻撃をするんだと考えている。

父はまた、だいぶのやかまし屋である。

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親爺は又大分のやかまし屋である。

子どものうちは、心の底までしみて困りきったことがある。

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子供のうちは心魂に徹して困却した事がある。

しかし大人になった今では、それにもとくにおそれ入る必要を感じない。

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しかし成人の今日では、それにも別段辟易へきえきする必要を認めない。

ただこたえるのは、自分の若いころと代助の今とをいっしょにして、両方とも大したちがいはないと信じていることである。

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ただ応えるのは、自分の青年時代と、代助の現今とを混同して、両方共大した変りはないと信じている事である。

だから、自分が昔、世の中でやって来た心がけどおりに代助もやらなくてはうそだ、という理屈になる。

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それだから、自分の昔し世に処した時の心掛けでもって、代助も遣らなくっては、うそだという論理になる。

もっとも代助のほうでは、何がうそですかと聞き返したことがない。

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尤も代助の方では、何が嘘ですかと聞き返した事がない。

だから決してけんかにはならない。

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だから決して喧嘩けんかにはならない。

代助は子どものころ、とても短気で、十八、九のころには父ととっくみ合いをしたことが一、二度あるくらいだが、大きくなって学校を卒業してしばらくすると、この短気がぱたりとやんでしまった。

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代助は子供の頃非常な肝癪持かんしゃくもちで、十八九の時分親爺と組打をした事が一二へんある位だが、成長して学校を卒業して、しばらくすると、この肝癪がぱたりと已んでしまった。

それから後は、ついぞおこったことがない。

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それから以後ついぞ怒った試しがない。

父はこれを、自分の教え育てた成果だと信じて、こっそりじまんしている。

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親爺はこれを自分の薫育くんいくの効果と信じてひそかに誇っている。

じっさいを言うと、父のいわゆる教育は、この父と子の間にあった温かい情を、だんだん冷やしただけである。

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実際を云うと親爺の所謂いわゆる薫育は、この父子の間に纏綿てんめんする暖かい情味を次第に冷却せしめただけである。

少なくとも代助はそう思っている。

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少なくとも代助はそう思っている。

ところが父の腹の中では、それがまったく反対に受け取られてしまった。

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ところが親爺の腹のなかでは、それが全く反対あべこべに解釈されてしまった。

何をしようと血のつながった親子である。

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何をしようと血肉の親子である。

子が親に対して持つ生まれつきの情が、子のあつかい方によって変わるはずがない。

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子が親に対する天賦てんぷ情合じょうあいが、子を取扱う方法の如何いかんって変るはずがない。

教育のため少しの無理はしても、その結果は決して親子の情に影響するものではない。

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教育のめ、少しの無理はしようとも、その結果は決して骨肉の恩愛に影響を及ぼすものではない。

儒教(じゅきょう。中国から来た昔の教え)の影響を受けた父は、固くこう信じていた。

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儒教の感化を受けた親爺は、固くこう信じていた。

自分が代助をこの世に生んだという簡単な事実が、あらゆる不快や苦しみに対して、いつまでも愛情の保証になると考えた父は、その信念でぐんぐん押して行った。

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自分が代助に存在を与えたという単純な事実が、あらゆる不快苦痛に対して、永久愛情の保証になると考えた親爺は、その信念をもって、ぐんぐん押して行った。

そうして、自分に冷たい一人の息子を作り上げた。

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そうして自分に冷淡な一個の息子を作り上げた。

もっとも代助が卒業するころからは、そのあつかい方もだいぶ変わって来て、ある点から言えば、驚くほどやさしくなったところもある。

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尤も代助の卒業前後からはその待遇法も大分変って来て、ある点から云えば、驚ろく程寛大になった所もある。

しかしそれは、代助が生まれるとすぐに、この父が代助に向けて作った計画の一部分を実行しただけなので、代助の心の移り変わりを見ぬいたうまいやり方ではなかったのである。

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しかしそれは代助が生れ落ちるやいなや、この親爺が代助に向って作ったプログラムの一部分の遂行に過ぎないので、代助の心意の変移を見抜いた適宜の処置ではなかったのである。

自分の教育が代助にあたえた悪い結果については、今になってもまったく気がつかずにいる。

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自分の教育が代助に及ぼした悪結果に至っては、今に至って全く気が付かずにいる。

父は戦争に出たのを、とてもじまんにする。

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親爺は戦争に出たのをすこぶる自慢にする。

ともすると、お前などはまだ戦争をしたことがないから度胸(どきょう)がすわらなくていかん、と決めつけてけなしてしまう。

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ややもすると、御前などはまだ戦争をした事がないから、度胸が据らなくって不可いかんと一概にけなしてしまう。

まるで度胸が人間として一番すぐれた力であるかのような言い方である。

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あたかも度胸が人間至上な能力であるかの如き言草である。

代助はこれを聞かされるたびに、嫌な気持ちがする。

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代助はこれを聞かせられるたんびにいやな心持がする。

きもったまは、命のやり取りのはげしい、父の若いころのような乱暴な時代にあってこそ、生きのびるのに必要な力かも知れないが、文明の進んだ今から言えば、古い弓や剣の術と大してちがわない道具だと、代助は思っている。

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胆力は命の遣り取りのはげしい、親爺の若い頃の様な野蛮時代にあってこそ、生存に必要な資格かも知れないが、文明の今日から云えば、古風な弓術撃剣のたぐいと大差はない道具と、代助は心得ている。

いや、きもったまとは両立できなくて、しかもきもったま以上にありがたがっていい力が、たくさんあるように思われる。

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否、胆力とは両立し得ないで、しかも胆力以上に難有ありがたがって然るべき能力が沢山ある様に考えられる。

お父さんからまた度胸の講釈(こうしゃく)を聞いた。

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御父さんから又胆力の講釈を聞いた。

お父さんのように言うと、世の中で石地蔵(いしじぞう)が一番えらいことになってしまうようだね、と言って、兄の妻と笑ったことがある。

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御父さんの様に云うと、世の中で石地蔵が一番偉いことになってしまう様だねと云って、嫂と笑った事がある。

こう言う代助は、もちろん臆病(おくびょう)である。

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こう云う代助は無論臆病おくびょうである。

また、臆病で恥ずかしいという気は、心から起こらない。

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又臆病でずかしいという気はしんから起らない。

ある場合には、臆病なのをじまんしたくなるくらいである。

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ある場合には臆病をもって自任したくなる位である。

子どものとき、父にそそのかされて、夜中にわざわざ青山の墓地まで出かけたことがある。

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子供の時、親爺の使嗾しそうで、夜中にわざわざ青山の墓地まで出掛けた事がある。

気味の悪いのをがまんして一時間もいたら、たまらなくなって、真っ青な顔をして家へ帰って来た。

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気味のわるいのを我慢して一時間も居たら、たまらなくなって、蒼青まっさおな顔をしてうちへ帰って来た。

そのときは自分でもくやしく思った。

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その折は自分でも残念に思った。

次の朝、父に笑われたときは、父がにくらしかった。

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あくる朝親爺に笑われたときは、親爺が憎らしかった。

父の言うところによると、彼と同じ時代の少年は、きもったまをきたえるため、真夜中に身じたくをして、たった一人、お城の北四キロにある剣が峯(けんがみね)の頂上まで登って、そこのお堂で夜を明かし、日の出をおがんで帰って来る習慣だったそうだ。

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親爺の云う所によると、彼と同時代の少年は、胆力修養の為め、夜半に結束して、たった一人、御城の北一里にあるつるぎみね天頂てっぺんまで登って、其所の辻堂つじどう夜明よあかしをして、日の出を拝んで帰ってくる習慣であったそうだ。

今の若い者とは心がけからしてちがう、と父は言った。

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今の若いものとは心得方からして違うと親爺が批評した。

こんなことを真面目に口にした、また今でも口にしかねない父は気のどくなものだと、代助は考える。

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こんな事を真面目まじめに口にした、又今でも口にしかねまじき親爺は気の毒なものだと、代助は考える。

彼は地震が嫌である。

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彼は地震がきらいである。

ほんの一瞬のゆれでも、胸が波打つ。

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瞬間の動揺でも胸に波が打つ。

あるときは書斎でじっと座っていて、何かのはずみに、ああ地震が遠くからよせて来るな、と感じることがある。

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あるときは書斎でじっと坐っていて、何かの拍子に、ああ地震が遠くから寄せて来るなと感ずる事がある。

すると、しりの下にしいているざぶとんも、たたみも、さらにゆかの板までも、はっきりふるえるように思われる。

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すると、しりの下に敷いている坐蒲団ざぶとんも、畳も、乃至ないし床板も明らかに震える様に思われる。

彼は、これが自分の本当の姿だと信じている。

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彼はこれが自分の本来だと信じている。

父のような人は、神経が育っていない野蛮(やばん)な人か、そうでなければ自分にうそをついているおろか者としか、代助には思えないのである。

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親爺の如きは、神経未熟の野人か、然らずんば己れを偽わる愚者としか代助には受け取れないのである。

代助は今、この父と向かい合って座っている。

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代助は今この親爺と対坐している。

ひさしの長い小さな部屋なので、座ったまま庭を見ると、ひさしの先で庭が区切られたような感じがある。

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ひさしの長い小さな部屋なので、居ながら庭を見ると、廂の先で庭が仕切られた様な感がある。

少なくとも空は広く見えない。

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少なくとも空は広く見えない。

そのかわり静かで、落ち着いて、腰のすわり具合がいい。

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その代り静かで、落ち付いて、尻の据り具合が好い。

父はきざみたばこをすうので、取っ手のある長いたばこ盆を前へ引きつけて、時々灰を落とす筒をぽんぽんと叩く。

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親爺は刻み烟草たばこを吹かすので、手のある長い烟草盆を前へ引き付けて、時々灰吹をぽんぽんとたたく。

それが静かな庭にひびいて、いい音がする。

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それが静かな庭へ響いてい音がする。

代助のほうは、金の吸い口を四、五本、手あぶり(小さな火ばち)の中へならべた。

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代助の方は金の吸口を四五本手焙てあぶりの中へ並べた。

もう鼻からけむりを出すのが嫌になったので、うで組みをして父の顔をながめている。

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もう鼻からけむを出すのが厭になったので、腕組をして親爺の顔を眺めている。

その顔には年の割に肉が多い。

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その顔には年の割に肉が多い。

それでいて、ほおはこけている。

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それでいて頬はけている。

こいまゆの下に、目の皮がたるんで見える。

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濃いまゆの下に眼の皮がたるんで見える。

ひげは真っ白と言うよりは、むしろ黄色である。

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ひげは真白と云わんよりは、寧ろ黄色である。

そうして、話をするときに相手のひざがしらと顔とを半分ずつ見くらべるくせがある。

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そうして、話をするときに相手の膝頭ひざがしらと顔とを半々に見較みくらべる癖がある。

そのときの目の動かし方で白目がちょっとちらついて、相手にみょうな気持ちをさせる。

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その時の眼の動かし方で、白眼が一寸ちょっとちらついて、相手に妙な心持をさせる。

老人は今、こんなことを言っている。――

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老人は今こんな事を云っている。――

「そう人間は自分のことだけを考えるべきではない。世の中もある。国もある。少しは人のために何かしなくては気持ちの悪いものだ。お前だって、そうぶらぶらしていて気持ちのいいはずはなかろう。それは、学のない者なら別だが、一番いい教育を受けた者が、遊んでいておもしろいはずがない。学んだものは、実際に使ってみて初めておもしろさが出るものだからな」

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「そう人間は自分だけを考えるべきではない。世の中もある。国家もある。少しは人の為に何かしなくっては心持のわるいものだ。御前だって、そう、ぶらぶらしていて心持の好い筈はなかろう。そりゃ、下等社会の無教育のものなら格別だが、最高の教育を受けたものが、決して遊んでいて面白い理由がない。学んだものは、実地に応用して始めて趣味が出るものだからな」

「そうです」

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「そうです」

と代助は答えている。

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と代助は答えている。

父から説教されるたびに、代助は答えに困るから、いいかげんなことを言う習慣になっている。

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親爺から説法されるたんびに、代助は返答に窮するから好加減な事を云う習慣になっている。

代助に言わせると、父の考えは、何もかも中途はんぱに、あることを一人で勝手に決めつけてから始めるのだから、少しも根本のところに意味がない。

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代助に云わせると、親爺の考えは、万事中途半端に、或物を独り勝手に断定してから出立しゅったつするんだから、ごうも根本的の意義を有していない。

そればかりでなく、今は人のためと言っているかと思うと、いつの間にか自分のためになっている。

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しかのみならず、今利他本位でやってるかと思うと、何時いつの間にか利己本位に変っている。

言葉だけはすらすらと、もったいらしく出るが、けっきょく底の知れない空論(からろん)である。

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言葉だけは滾々こんこんとして、勿体もったいらしく出るが、要するに端倪たんげいすべからざる空談である。

それを土台からくずしにかかるのは大変な仕事だし、また結局できない相談だから、初めからなるべくさわらないようにしている。

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それを基礎から打ち崩して懸かるのは大変な難事業だし、又必竟ひっきょう出来ない相談だから、始めよりなるべく触らない様にしている。

ところが父のほうでは、代助をもちろん自分の太陽系に属するものと思っているので、自分はあくまでも代助の進む道を決める権利があると信じて押して来る。

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ところが親爺の方では代助を以て無論自己の太陽系に属すべきものと心得ているので、自己は飽までも代助の軌道を支配する権利があると信じて押して来る。

そこで代助もしかたなく、父という年老いた太陽のまわりを、行儀よく回っているように見せている。

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そこで代助もやむを得ず親爺という老太陽の周囲を、行儀よく回転する様に見せている。

「それは会社の仕事が嫌なら嫌でいい。何も金をもうけるだけが日本のためになるとも限るまいから。金は取らなくても構わない。金のためにとやかく言うとなると、お前も気持ちが悪かろう。金は今までどおり、俺が助けてやる。俺ももういつ死ぬかわからないし、死ねば金を持って行くわけにもいかないし。月々お前の暮らしくらいはどうにでもしてやる。だからふるい立って何かするがいい。国民のつとめとしてするがいい。もう三十だろう」

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「それは実業が厭なら厭で好い。何も金をもうけるだけが日本の為になるとも限るまいから。金は取らんでも構わない。金の為にとやかく云うとなると、御前も心持がわるかろう。金は今まで通りおれが補助してる。おれも、もう何時死ぬか分らないし、死にゃ金を持って行く訳にも行かないし。月々御前の生計くらし位どうでもしてやる。だから奮発して何かるが好い。国民の義務としてするが好い。もう三十だろう」

「そうです」

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「そうです」

「三十になって、何もしないでぶらぶらしているのは、いかにも格好が悪いな」

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「三十になって遊民として、のらくらしているのは、如何いかにも不体裁だな」

代助は、決してぶらぶらしているとは思わない。

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代助は決してのらくらしているとは思わない。

ただ、仕事によごされない中身の多い時間を持つ、上等な人間だと自分を考えているだけである。

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ただ職業の為に汚されない内容の多い時間を有する、上等人種と自分を考えているだけである。

父がこんなことを言うたびに、じつは気のどくになる。

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親爺がこんな事を云うたびに、実は気の毒になる。

父の子どもっぽい頭には、こうして意味深く月日を使っている結果が、自分の考えや心の動きの上に固まって出て来ているのが、まったく見えないのである。

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親爺の幼稚な頭脳には、かく有意義に月日を利用しつつある結果が、自己の思想情操の上に、結晶して吹き出しているのが、全く映らないのである。

しかたがないから、真面目な顔をして、

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仕方がないから、真面目な顔をして、

「ええ、困ります」

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「ええ、困ります」

と答えた。

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と答えた。

老人は頭から代助を子ども扱いしている上に、その返事がいつでも子どもっぽい、簡単な、暮らしを知らない言葉なものだから、ばかにするうちにも、どうも坊っちゃんは大人になってもしようがない、困ったものだ、という気になる。

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老人は頭から代助を小僧視している上に、その返事が何時でも幼気おさなげを失わない、簡単な、世帯しょたい離れをした文句だものだから、馬鹿にするうちにも、どうも坊ちゃんは成人しても仕様がない、困ったものだと云う気になる。

そうかと思うと、代助の言い方がいかにも平気で、冷静で、はにかまず、もじもじせず、この上なくふつうなので、こいつは手のつけようがないという気にもなる。

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そうかと思うと、代助の口調が如何にも平気で、冷静で、はにかまず、もじ付かず、尋常極まっているので、此奴こいつは手の付け様がないという気にもなる。

「体はじょうぶだね」

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身体からだは丈夫だね」

「二、三年このかた、かぜをひいたこともありません」

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「二三年このかた風邪を引いた事もありません」

「頭も悪いほうじゃないだろう。学校の成績もかなりだったんじゃないか」

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「頭も悪い方じゃないだろう。学校の成蹟せいせきも可なりだったんじゃないか」

「まあそうです」

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「まあそうです」

「それで遊んでいるのはもったいない。あの何とか言ったね、ほら、お前のところへよく話しに来た男があるだろう。俺も一、二度会ったことがある」

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「それで遊んでいるのは勿体ない。あの何とか云ったね、そら御前の所へ善く話しに来た男があるだろう。おれも一二度ったことがある」

「平岡ですか」

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「平岡ですか」

「そう、平岡。あの人などは、あまり出来のいいほうじゃなかったそうだが、卒業するとすぐどこかへ行ったじゃないか」

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「そう平岡。あの人なぞは、あまり出来のい方じゃなかったそうだが、卒業すると、すぐ何処どこかへ行ったじゃないか」

「そのかわり失敗して、もう帰って来ました」

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「その代り失敗しくじって、もう帰って来ました」

老人は苦笑いをこらえられなかった。

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老人は苦笑を禁じ得なかった。

「どうして」

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「どうして」

と聞いた。

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と聞いた。

「つまり、食べるために働くからでしょう」

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「つまり食う為に働らくからでしょう」

老人には、この意味がよくわからなかった。

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老人にはこの意味が善くわからなかった。

「何かおもしろくないことでもやったのかな」

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「何か面白くない事でも遣ったのかな」

と聞き返した。

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と聞き返した。

「その場その場で当たり前のことをやるんでしょうけれども、その当たり前がやはり失敗になるんでしょう」

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「その場合々々で当然の事を遣るんでしょうけれども、その当然がやっぱり失敗しくじりになるんでしょう」

「はああ」

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「はああ」

と気の乗らない返事をしたが、やがて調子を変えて話し出した。

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と気の乗らない返事をしたが、やがて調子をえて、説き出した。

「若い人がよく失敗と言うが、まったく誠実(せいじつ)と熱心が足りないからだ。俺も長年の経験で、この年になるまでやって来たが、どうしてもこの二つがないと成功しないね」

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「若い人がよく失敗しくじるというが、全く誠実と熱心が足りないからだ。己も多年の経験で、この年になるまで遣って来たが、どうしてもこの二つがないと成功しないね」

「誠実と熱心があるために、かえって失敗することもあるでしょう」

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「誠実と熱心があるために、かえって遣り損うこともあるでしょう」

「いや、まずないな」

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「いや、まずないな」

父の頭の上に、「誠(まこと)は天の道なり」という額(がく)が立派に掛けてある。

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親爺の頭の上に、誠者天之道也まことはてんのみちなりと云う額が麗々と掛けてある。

先代の元の殿さまに書いてもらったとか言って、父は一番大事にしている。

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先代の旧藩主に書いてもらったとか云って、親爺は尤も珍重している。

代助はこの額がとても嫌である。

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代助はこの額が甚だきらいである。

第一、字が嫌だ。

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第一字がいやだ。

その上、言葉が気に入らない。

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その上文句が気に喰わない。

「誠は天の道なり」のあとへ、「人の道にあらず」と付け加えたいような気持ちがする。

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誠は天の道なりの後へ、人の道にあらずと附け加えたい様な心持がする。

その昔、藩(はん)のお金の状態が苦しくなって、どうにもならなくなったとき、その立て直しを任された長井は、殿さまに縁のある商人を二、三人呼び集めて、刀を外してその前に頭を下げ、彼らにしばらくの間の金の用立てを頼んだことがある。

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その昔し藩の財政が疲弊して、始末が付かなくなった時、整理の任に当った長井は、藩侯に縁故のある町人を二三人呼び集めて、刀を脱いでその前に頭を下げて、彼等に一時の融通を頼んだ事がある。

もともと返せるか返せないかわからなかったのだから、わからないと正直に打ち明けて、そのおかげでそのときは成功した。

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もとより返せるか、返せないか、分らなかったんだから、分らないと真直に自白して、それがためにその時成功した。

その縁で、この額を殿さまに書いてもらったのである。

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その因縁でこの額を藩主に書いて貰ったんである。

それ以来、長井はいつでもこれを自分の部屋に掛けて、朝晩ながめている。

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爾来じらい長井は何時でも、これを自分の居間に掛けて朝夕ちょうせき眺めている。

代助はこの額の由来を、何度聞かされたか知れない。

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代助はこの額の由来を何遍聞かされたか知れない。

今から十五、六年前に、元の殿さまの家で毎月の出費が増えて来て、せっかく立て直した家計がまたくずれ出したときにも、長井は前の年の手腕によって、二度目の立て直しを任された。

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今から十五六年ぜんに、旧藩主の家で、月々の支出がかさんできて、折角持ち直した経済が又崩れ出した時にも、長井は前年の手腕によって、再度の整理を委託された。

そのとき、長井は自分でふろのまきをたいてみて、実際に使った量と帳面の上の量とのちがいから調べにかかったが、一日じゅう夜通しこのことだけに力をそそいだ結果、約一か月のうちに立派なやり方を作ることができた。

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その時長井は自分で風呂のまきいてみて、実際の消費高と帳面づらの消費高との差違から調べにかかったが、終日終夜この事だけに精魂を打ち込んだ結果は、約一カ月内に立派な方法を立て得るに至った。

それから後、殿さまの家ではわりあい豊かな暮らしをしている。

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それより以後藩主の家では比較的豊かな生計くらしをしている。

こういう昔の話を持っていて、この昔の話のほかには一歩も出て考えることをしない長井は、何によらず誠実と熱心へ持って行きたがる。

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こう云う過去の歴史を持っていて、この過去の歴史以外には、一歩も踏み出して考える事を敢てしない長井は、何によらず、誠実と熱心へ持ってきたがる。

「お前はどういうものか、誠実と熱心が足りないようだ。それではいかん。だから何にもできないんだ」

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「御前は、どう云うものか、誠実と熱心が欠けている様だ。それじゃ不可いかん。だから何にも出来ないんだ」

「誠実も熱心もあるんですが、ただ人との間で使えないんです」

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「誠実も熱心もあるんですが、ただ人事上に応用出来ないんです」

「どういうわけで」

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「どう云う訳で」

代助はまた答えに困った。

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代助は又返答に窮した。

代助の考えによると、誠実だろうが熱心だろうが、自分ができ合いのものを胸にためているのではなくて、石と鉄がぶつかって火花が出るように、相手次第でこすれ具合がうまく行けば、その二人の間に起こるものである。

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代助の考えによると、誠実だろうが、熱心だろうが、自分が出来合の奴を胸に蓄わえているんじゃなくって、石と鉄と触れて火花の出る様に、相手次第で摩擦の具合がうまく行けば、当事者二人ににんの間に起るべき現象である。

自分が持っている性質と言うよりは、むしろ心と心のやり取りである。

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自分の有する性質と云うよりはむしろ精神の交換作用である。

だから、相手が悪くては起こりようがない。

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だから相手が悪くっては起り様がない。

「お父さんは論語(ろんご)だの王陽明(おうようめい)だのという、金のかたまりを飲みこんでいらっしゃるから、そういうことをおっしゃるんでしょう」

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「御父さんは論語だの、王陽明だのという、金の延金のべがねんでいらっしゃるから、そういう事をおっしゃるんでしょう」

「金のかたまりとは」

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「金の延金とは」

代助はしばらく黙っていたが、ようやく、

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代助はしばらく黙っていたが、ようやく、

「かたまりのまま出て来るんです」

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「延金のまま出て来るんです」

と言った。

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と云った。

長井は、本好きのがんこな、世間を知らない若造の言いたがる、わけのわからない言葉として、興味はあるにもかかわらず、あえて相手にしなかった。

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長井は、書物癖のある、偏屈な、世慣れない若輩のいいたがる不得要領の警句として、好奇心のあるにもかかわらず、取り合う事を敢てしなかった。

それから約四十分ほどして、老人は着物を着がえて、はかまをはいて、人力車に乗ってどこかへ出て行った。

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それから約四十分程して、老人は着物を着換えて、はかま穿いて、くるまに乗って、何処かへ出て行った。

代助もげんかんまで送って出たが、また引き返して客間の戸を開けて中へ入った。

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代助も玄関まで送って出たが、又引き返して客間の戸を開けて中へ這入はいった。

これは近ごろになって建てたした西洋風の造りで、中のかざりつけなどの大部分は、代助のデザインをもとに専門家へ注文してできあがったものである。

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これは近頃になって建て増した西洋作りで、内部の装飾その他の大部分は、代助の意匠に本づいて、専門家へ注文して出来上ったものである。

とくに欄間(らんま。かもいの上のかざり部分)のまわりにはった模様の絵は、自分の知り合いのある画家に頼んで、いろいろ相談したあげくにできたものだから、とくに興味が深い。

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ことに欄間の周囲に張った模様画は、自分の知り合いのさる画家に頼んで、色々相談の揚句に成ったものだから、特更ことさら興味が深い。

代助は立ったまま、絵巻物を広げたような横長の色をながめていたが、どういうものか、この前来て見たときよりもひどく見おとりする。

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代助は立ちながら、画巻物を展開した様な、横長の色彩を眺めていたが、どう云うものか、この前来て見た時よりは、痛く見劣りがする。

これでは頼りないと思いながら、なお細かいところに目をつけて調べていると、突然、兄の妻が入って来た。

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これでは頼もしくないと思いながら、なお局部々々に眼を付けて吟味していると、突然あによめが這入って来た。

「おや、ここにいらっしゃるの」

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「おや、此所ここにいらっしゃるの」

と言ったが、「ちょっとそこらに私のくしが落ちていなくって」

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と云ったが、「一寸ちょいと其所そこいらにわたくしくしが落ちていなくって」

と聞いた。

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と聞いた。

くしは長いすの足のところにあった。

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櫛は長椅子ソーファの足の所にあった。

昨日縫子に貸してやったら、どこかへなくしてしまったので、探しに来たのだそうである。

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昨日縫子に貸して遣ったら、何所どこかへなくなしてしまったんで、探しに来たんだそうである。

両手で頭をおさえるようにして、くしをたばねたかみの根元へ押しつけて、上目づかいで代助を見ながら、

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両手で頭を抑える様にして、櫛を束髪の根方へ押し付けて、上眼で代助を見ながら、

「相変わらずぼんやりしてるじゃありませんか」

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「相変らず茫乎ぼんやりしてるじゃありませんか」

とからかった。

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調戯からかった。

「お父さんからお説教を聞かされちまった」

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「御父さんから御談義を聞かされちまった」

「また? よくしかられるのね。帰って来てすぐ、ずいぶん気が利かないわね。しかし貴方もあまりよくないわ。少しもお父さんの言うとおりになさらないんだもの」

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「また? しかられるのね。御帰り匇々そうそう、随分気がかないわね。しか貴方あなたもあんまり、かないわ。ちっとも御父さんの云う通りになさらないんだもの」

「お父さんの前で言い返したりしませんよ。何でも控えめに、おとなしくしているんです」

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「御父さんの前で議論なんかしやしませんよ。万事控え目に大人しくしているんです」

「だからなお困るのよ。何か言うと、へいへいって、そうして少しも言うことを聞かないんだもの」

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「だから猶始末が悪いのよ。何か云うと、へいへいって、そうして、些とも云う事を聞かないんだもの」

代助は苦笑いして黙ってしまった。

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代助は苦笑して黙ってしまった。

梅子は代助のほうを向いて、いすへ腰を下ろした。

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梅子うめこは代助の方へ向いて、椅子いすへ腰を卸した。

背のすらりとした、色の浅黒い、まゆのこい、くちびるのうすい女である。

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せいのすらりとした、色の浅黒い、眉の濃い、唇の薄い女である。

「まあ、お掛けなさい。少し話し相手になってあげるから」

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「まあ、御掛けなさい。少し話し相手になって上げるから」

代助はやはり立ったまま、兄の妻の姿を見守っていた。

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代助はやっぱり立ったまま、嫂の姿を見守っていた。

「今日はみょうな半襟(はんえり)を掛けてますね」

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「今日は妙な半襟を掛けてますね」

「これ?」

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「これ?」

梅子はあごを引いて、まゆに八の字をよせて、自分のじゅばんの襟を見ようとした。

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梅子はあごを縮めて、八の字を寄せて、自分の襦袢じゅばんの襟を見ようとした。

「この間買ったの」

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此間こないだ買ったの」

「いい色だ」

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い色だ」

「まあ、そんなことはどうでもいいから、そこへお掛けなさいよ」

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「まあ、そんな事は、どうでもいから、其所そこへ御掛けなさいよ」

代助は兄の妻の真正面へ腰を下ろした。

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代助は嫂の真正面へ腰を卸した。

「へえ、掛けました」

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「へえ掛けました」

「いったい今日は何をしかられたんです」

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「一体今日は何を叱られたんです」

「何をしかられたんだか、あまりよくわからない。しかしお父さんの『国と社会のために尽くす』には驚いた。何でも十八の年から今日まで、ずっと尽くしてるんだってね」

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「何を叱られたんだか、あんまり要領を得ない。然し御父さんの国家社会のために尽すには驚ろいた。何でも十八の年から今日までのべつに尽してるんだってね」

「それだから、あのくらいにおなりになったんじゃありませんか」

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「それだから、あの位に御成りになったんじゃありませんか」

「国と社会のために尽くして、お金がお父さんくらいもうかるなら、ぼくも尽くしてもいい」

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「国家社会の為に尽して、金が御父さん位もうかるなら、僕も尽しても好い」

「だから遊んでないで、お尽くしなさいな。貴方は寝ていてお金を取ろうとするからずるいのよ」

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「だから遊んでないで、御尽しなさいな。貴方はていて御金を取ろうとするから狡猾こうかつよ」

「お金を取ろうとしたことは、まだありません」

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「御金を取ろうとした事は、まだ有りません」

「取ろうとしなくても、使うから同じじゃありませんか」

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「取ろうとしなくっても、使うから同じじゃありませんか」

「兄さんが何とか言ってましたか」

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「兄さんが何とか云ってましたか」

「兄さんはあきれてるから、何とも言いやしません」

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「兄さんはあきれてるから、何とも云やしません」

「ずいぶん手きびしいな。しかしお父さんより兄さんのほうが偉いですね」

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「随分猛烈だな。然し御父さんより兄さんの方が偉いですね」

「どうして。――あら憎らしい、またあんなお世辞を言って。貴方はそれが悪いのよ。真面目な顔をして人をからかうから」

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「どうして。――あらにくらしい、又あんな御世辞を使って。貴方はそれが悪いのよ。真面目な顔をしてひとを茶化すから」

「そんなものでしょうか」

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「そんなもんでしょうか」

「そんなものでしょうかって、よその話じゃあるまいし。少しは考えて御覧なさいな」

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「そんなもんでしょうかって、ひとの事じゃあるまいし。少しゃ考えて御覧なさいな」

「どうもここへ来ると、まるで門野と同じようになっちまうから困る」

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「どうも此所へ来ると、まるで門野と同じ様になっちまうから困る」

「門野って何です」

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「門野って何です」

「なに、うちにいる書生ですがね。人に何か言われると、きっとそんなものでしょうか、とか、そうでしょうか、とか答えるんです」

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「なにうちにいる書生ですがね。人に何か云われると、きっとそんなもんでしょうか、とか、そうでしょうか、とか答えるんです」

「あの人が? よほどみょうなのね」

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「あの人が? 余っ程妙なのね」

代助はちょっと話をやめて、梅子のかた越しに、カーテンの間からきれいな空をすかすように見ていた。

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代助は一寸ちょっと話をめて、梅子の肩越に、窓掛の間から、奇麗な空を透かす様に見ていた。

遠くに大きな木が一本ある。

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遠くに大きな樹が一本ある。

うす茶色の芽を全体にふいて、やわらかいこずえの先が空に届くところは、こぬか雨でぼかされたようにかすんでいる。

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薄茶色の芽を全体に吹いて、柔らかいこずえはじが天につづく所は、糠雨ぬかあめぼかされたかのごとくにかすんでいる。

「いい季節になりましたね。どこかお花見にでも行きましょうか」

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い気候になりましたね。何所か御花見にでもきましょうか」

「行きましょう。行くからおっしゃい」

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「行きましょう。行くからおっしゃい」

「何を」

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「何を」

「お父さまから言われたことを」

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「御父さまから云われた事を」

「言われたことはいろいろあるんですが、順番にくり返すのは困りますよ。頭が悪いんだから」

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「云われた事は色々あるんですが、秩序立てて繰り返すのは困るですよ。頭が悪いんだから」

「まだとぼけていらっしゃる。ちゃんと知ってますよ」

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「まだ空っとぼけていらっしゃる。ちゃんと知ってますよ」

「じゃ、うかがいましょうか」

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「じゃ、伺いましょうか」

梅子は少しつんとした。

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梅子は少しつんとした。

「貴方は近ごろ、よほど口が達者におなりね」

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「貴方は近頃余っ程減らず口が達者におなりね」

「何、姉さんが困るほどじゃない。――ときに今日はたいへん静かですね。どうしました、子どもたちは」

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「何、姉さんが辟易へきえきする程じゃない。――時に今日は大変静かですね。どうしました、子供達は」

「子どもは学校です」

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「子供は学校です」

十六、七の手伝いの女の子が、戸を開けて顔を出した。

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十六七の小間使が戸を開けて顔を出した。

あの、旦那様が、奥様にちょっと電話口まで、と伝えたきり、黙って梅子の返事を待っている。

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あの、旦那様が、奥様に一寸電話口までと取り次いだなり、黙って梅子の返事を待っている。

梅子はすぐ立った。

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梅子はすぐ立った。

代助も立った。

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代助も立った。

続いて客間を出ようとすると、梅子は振り向いた。

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つづいて客間を出ようとすると、梅子は振り向いた。

「あなたは、そこにいらっしゃい。少し話があるから」

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「あなたは、其所に居らっしゃい。少し話しがあるから」

代助には、兄の妻のこういう命令口調が、いつでもおもしろく感じられる。

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代助には嫂のこう云う命令的の言葉が何時いつでも面白く感ぜられる。

ごゆっくり、と見送ったまま、また腰を掛けて、また例の絵をながめ出した。

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御緩ごゆっくりと見送ったまま、又腰を掛けて、再び例の画を眺め出した。

しばらくすると、その色がかべの上にぬってあるのではなくて、自分の目玉の中から飛び出して、かべの上へ行ってべたべたくっつくように見えて来た。

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しばらくすると、その色が壁の上に塗り付けてあるのでなくって、自分の眼球めだまの中から飛び出して、壁の上へ行って、べたべた喰っ付く様に見えて来た。

しまいには、目玉から色を出す具合ひとつで、向こうにある人物や木が、こちらの思いどおりに変えられるようになった。

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仕舞には眼球から色を出す具合一つで、向うにある人物樹木が、此方こちらの思い通りに変化出来る様になった。

代助はこうして、下手なところをすっかりぬり変えて、とうとう自分が想像できるかぎりの一番美しい色にかこまれて、うっとりと座っていた。

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代助はかくして、下手な個所々々をことごとく塗りえて、とうとう自分の想像し得る限りのもっとも美くしい色彩に包囲されて、恍惚こうこつと坐っていた。

そこへ梅子が帰って来たので、たちまち当たり前の自分に戻ってしまった。

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所へ梅子が帰って来たので、たちまち当り前の自分に戻ってしまった。

梅子の用事というのを改めて聞いてみると、また例の縁談(えんだん。結婚の話)のことであった。

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梅子の用事と云うのを改まって聞いてみると、又例の縁談の事であった。

代助は学校を卒業する前から、梅子のおかげで、写真や実物で、いろいろな妻の候補者に会った。

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代助は学校を卒業する前から、梅子の御蔭おかげで写真実物色々な細君の候補者に接した。

けれども、どれも不合格ばかりであった。

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けれども、ずれも不合格者ばかりであった。

初めのうちは格好のいい言い訳で断わっていたが、二年ほど前からは急にずうずうしくなって、きっと相手にけちをつける。

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始めのうちは体裁の好い逃口上で断わっていたが、二年程前からは、急に図迂ずう々々しくなって、きっと相手にけちを付ける。

口とあごの角度が悪いとか、目の長さが顔の幅に合っていないとか、耳の位置がまちがっているとか、必ずみょうな文句を持って来る。

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口とあごの角度が悪いとか、眼の長さが顔の幅に比例しないとか、耳の位置が間違ってるとか、必ず妙な非難を持って来る。

それがどれもふつうの言い方でないので、しまいには梅子も少し考え出した。

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それが悉く尋常な言草でないので、仕舞には梅子も少々考え出した。

これはけっきょく、世話をやきすぎるから、つけ上がって人を困らせるのだろう。

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これは必竟ひっきょう世話を焼き過ぎるから、付け上って、人を困らせるのだろう。

当分放っておいて、向こうから頼んで来させるのが一番いい。

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当分打遣うっちゃって置いて、向うから頼み出させるにくはない。

と決心して、それからは縁談のことをまったく口にしなくなった。

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と決心して、それからは縁談の事をついぞ口にしなくなった。

ところが本人はまるで困ったようすもなく、あいかわらず海のものとも山のものともわからない態度で、今日まで暮らして来た。

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ところが本人は一向困った様子もなく、依然として海のものとも、山のものとも見当が付かない態度で今日まで暮して来た。

そこへ父が、とても縁の深いある候補者を見つけて、旅行先から帰った。

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其所へ親爺おやじが甚だ因縁の深いある候補者を見付けて、旅行先から帰った。

梅子は代助の来る二、三日前に、その話を父から聞かされたので、今日の話は必ずそれだろうと思ったのである。

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梅子は代助の来る二三日前に、その話を親爺から聞かされたので、今日の会談は必ずそれだろうとすいしたのである。

しかし代助は実際、老人から結婚の話については、この日何も聞かなかったのである。

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然し代助は実際老人から結婚問題に付いては、この日何にも聞かなかったのである。

老人は、あるいはそれを持ち出す気で呼んだのかも知れないが、代助の態度を見て、もう少し待つほうがいいという考えになった結果、わざと話題をさけたとも取れる。

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老人は或はそれを披露する気で、呼んだのかも知れないが、代助の態度を見て、もう少し控えて置く方が得策だという料簡りょうけんを起した結果、故意わざと話題を避けたとも取れる。

この候補者に対して、代助は一種特別な関係を持っていた。

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この候補者に対して代助は一種特殊な関係をっていた。

候補者のみょうじは知っている。

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候補者の姓は知っている。

けれども名前は知らない。

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けれども名は知らない。

年齢、顔だち、教育、性格に至ってはまったく知らない。

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年齢、容貌ようぼう、教育、性質に至っては全く知らない。

なぜその女が候補者になったのかという事情になると、またよく知っている。

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何故なぜその女が候補者に立ったと云う因縁になると又く知っている。

代助の父には、一人の兄があった。

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代助の父には一人の兄があった。

直記(なおき)といって、父とはたった一つちがいの年上だが、父よりは小がらな上に顔つきや目鼻立ちがとても似ていたものだから、知らない人にはよく双子とまちがえられた。

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直記なおきと云って、父とはたった一つ違いの年上だが、父よりは小柄なうえに、顔付眼鼻立が非常に似ていたものだから、知らない人には往々双子と間違えられた。

そのころは父もまだ得(とく)とは言わなかった。

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その折は父もとくとは云わなかった。

誠之進(せいのしん)という子どものころの名で通っていた。

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誠之進せいのしんという幼名で通っていた。

直記と誠之進とは、見た目がよく似ていたように、性格も本当の兄弟であった。

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直記と誠之進とは外貌がいぼうのよく似ていた如く、気質きだても本当の兄弟であった。

どちらかに用事があるときは別として、都合さえつけば、同じところにくっつき合って、同じことをして暮らしていた。

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両方に差支さしつかえのあるときは特別、都合さえ付けば、同じ所に食っ付き合って、同じ事をして暮していた。

けいこも同じ時刻に行き帰りをする。

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稽古けいこも同時同刻にき返りをする。

本を読むにも一つの明かりを分け合ったくらい親しかった。

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読書にも一つ燈火ともしびを分った位親しかった。

ちょうど直記が十八の秋であった。

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丁度直記の十八の秋であった。

あるとき二人は、城下町のはずれの等覚寺(とうがくじ)という寺へ、親の使いに行った。

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ある時二人は城下はずれ等覚寺とうかくじという寺へ親の使に行った。

これは殿さまの家のお寺で、そこにいる楚水(そすい)という坊さんが二人の親と親しかったので、用の手紙をこの楚水さんに渡しに行ったのである。

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これは藩主の菩提寺ぼだいじで、そこにいる楚水そすいという坊さんが、二人の親とは昵近じっこんなので、用の手紙を、この楚水さんに渡しに行ったのである。

用は囲碁(いご)のさそいか何かで、返事もいらないほど簡単なものであったが、楚水さんに引き止められて、いろいろ話しているうちに遅くなって、日がくれる一時間ほど前にようやく寺を出た。

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用は囲碁の招待しょうたいか何かで返事にも及ばない程簡略なものであったが、楚水さんに留められて、色々話しているうちに遅くなって、日の暮れる一時間程前に漸く寺を出た。

その日は何か祭りのある日で、町の中はだいぶ混んでいた。

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その日は何か祭のある折で、市中は大分雑沓ざっとうしていた。

二人は人ごみの中を急いで帰るはずみに、ある横町を曲がろうとする角で、川向こうの組の某(なにがし)という者にぶつかった。

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二人は群集のなかを急いで帰る拍子に、ある横町を曲ろうとする角で、川向いの方限ほうぎりのなにがしというものに突き当った。

この某と二人とは、前から仲が悪かった。

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この某と二人とは、かねてから仲が悪かった。

そのとき、某はだいぶ酒に酔っていたと見えて、二言三言言い争ううちに刀をぬいて、いきなり切りつけた。

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その時某は大分酒気を帯びていたと見えて、二言三言いい争ううちに刀を抜いて、いきなりり付けた。

切りつけられたほうは兄であった。

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斬り付けられた方は兄であった。

しかたなく、これも腰の刀をぬいて立ち向かったが、相手は普段からとても評判の悪い乱暴者だけあって、酔っているのに強かった。

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やむを得ずこれも腰の物を抜いて立向ったが、相手は平生から極めて評判のわるい乱暴ものだけあって、酩酊めいていしているにもかかわらず、強かった。

黙っていれば兄のほうが負ける。

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黙っていれば兄の方が負ける。

そこで弟も刀をぬいた。

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そこでおとうとも刀を抜いた。

そうして二人で、めちゃくちゃに相手を切り殺してしまった。

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そうして二人で滅茶苦茶に相手を斬り殺してしまった。

そのころのならわしとして、さむらいがさむらいを殺せば、殺したほうが切腹(せっぷく)をしなければならない。

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その頃の習慣として、侍が侍を殺せば、殺した方が切腹をしなければならない。

兄弟はその覚悟で家へ帰って来た。

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兄弟はその覚悟で家へ帰って来た。

父も二人をならべておいて、順番に自分で介錯(かいしゃく。切腹の手助け)をする気であった。

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父も二人を並べて置いて順々に自分で介錯かいしゃくをする気であった。

ところが母が、あいにく祭りで知り合いの家へ呼ばれて留守である。

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ところが母が生憎あいにく祭で知己ちかづきうちへ呼ばれて留守である。

父は二人に切腹をさせる前に、もう一度母に会わせてやりたいという気持ちから、すぐ母をむかえにやった。

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父は二人に切腹をさせる前、もう一遍母にわしてやりたいと云う人情から、すぐ母をむかいにやった。

そうして母が来る間、二人に言い聞かせたり、切腹する部屋のしたくをさせたりして、なるべくぐずぐずしていた。

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そうして母の来る間、二人に訓戒を加えたり、或は切腹する座敷の用意をさせたりなるべく愚図々々していた。

母が客に行っていたところは、その遠い親せきにあたる高木(たかぎ)という有力者の家だったので、たいへん都合がよかった。

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母の客に行っていた所は、その遠縁にあたる高木という勢力家であったので、大変都合が好かった。

というのは、そのころは世の中が変わり始めた時期で、さむらいのおきても昔のようにはきびしく守られなかった。

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と云うのは、その頃は世の中の動き掛けた当時で、侍のおきても昔の様には厳重に行われなかった。

とくに、殺された相手は評判の悪い乱暴な青年であった。

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殊更ことさら殺された相手は評判の悪い無頼の青年であった。

それで高木は母といっしょに長井の家へ来て、お上(かみ)から何か命令が来るまでは、当分そのままにして手をつけずにおくようにと、父に言い聞かせた。

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ので高木は母とともに長井の家へ来て、何分の沙汰が公向おもてむきからあるまでは、当分そのままにして、手を着けずに置くようにと、父をさとした。

高木はそれから走り回り始めた。

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高木はそれから奔走を始めた。

そうして、まず家老(かろう。藩の一番の重役)を説得した。

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そうして第一に家老を説き付けた。

それから家老を通して殿さまを説得した。

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それから家老を通して藩主を説き付けた。

殺された某の親はまた、思いのほか話のわかる人で、普段から息子の行いの悪いのを苦にしていたばかりでなく、切りつけたときも、こちらから乱暴をしかけたのと同じだということがはっきりしたので、兄弟を軽い処分にするための動きについては、とくに文句を言わなかった。

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殺された某の親は又、存外訳のわかった人で、平生からせがれの行跡の良くないのを苦に病んでいたのみならず、斬り付けた当時も、此方こっちから狼藉ろうぜきをしかけたと同然であるという事が明瞭めいりょうになったので、兄弟を寛大に処分する運動に就ては別段の苦情を持ち出さなかった。

兄弟はしばらく一部屋の中に閉じこもって反省の気持ちを表したあと、二人とも人知れず家を出た。

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兄弟はしばらく一間ひとまの内に閉じこもって、謹慎の意を表して後、二人とも人知れずいえを捨てた。

三年の後、兄は京都で浪士(ろうし)に殺された。

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三年の後兄は京都で浪士に殺された。

四年目に世の中が明治となった。

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四年目に天下が明治となった。

また五、六年してから、誠之進は両親を国もとから東京へ呼びよせた。

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又五六年してから、誠之進は両親を国元から東京へ呼び寄せた。

そうして妻をむかえて、得という一文字の名になった。

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そうして妻を迎えて、得という一字名になった。

そのときは、自分の命を助けてくれた高木はもう死んで、養子(ようし)の代になっていた。

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その時は自分の命を助けてくれた高木はもう死んで、養子の代になっていた。

東京へ出て役人になる道でも探したらと思って、いろいろすすめてみたが応じなかった。

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東京へ出て仕官の方法でも講じたらと思って色々勧めてみたが応じなかった。

この養子に子どもが二人あって、男のほうは京都へ出て同志社(どうししゃ)へ入った。

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この養子に子供が二人あって、男の方は京都へ出て同志社へ這入はいった。

そこを卒業してから、長くアメリカにいたそうだが、今では神戸で会社の仕事をして、かなりの金持ちになっている。

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其所を卒業してから、長らく亜米利加アメリカったそうだが、今では神戸で実業に従事して、相当の資産家になっている。

女のほうは、その県で一番多く税を納めている人のところへ嫁に行った。

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女の方は県下の多額納税者の所へ嫁に行った。

代助の妻の候補者というのは、この多くの税を納めている人の娘である。

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代助の細君の候補者というのはこの多額納税者の娘である。

「たいへんこみ入ってるのね。私、驚いちまった」

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「大変込み入ってるのね。わたし驚いちまった」

と兄の妻が代助に言った。

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と嫂が代助に云った。

「お父さんから何度も聞いてるじゃありませんか」

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「御父さんから何返も聞いてるじゃありませんか」

「だって、いつもはお嫁の話が出ないから、いいかげんに聞いてるのよ」

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「だって、何時いつもは御嫁の話が出ないから、好い加減に聞いてるのよ」

「佐川(さがわ)にそんな娘があったのかな。ぼくも少しも知らなかった」

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「佐川にそんな娘があったのかな。僕もっとも知らなかった」

「おもらいなさいよ」

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御貰おもらいなさいよ」

「さんせいなんですか」

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「賛成なんですか」

「さんせいですとも。深い縁があるじゃありませんか」

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「賛成ですとも。因縁つきじゃありませんか」

「ご先祖の作った縁よりも、自分で作った縁でもらうほうが、まだもらいやすいようだな」

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「先祖のこしらえた因縁よりも、まだ自分の拵えた因縁で貰う方が貰いい様だな」

「おや、そんなものがあるの」

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「おや、そんなものがあるの」

代助は苦笑いして答えなかった。

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代助は苦笑して答えなかった。

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代助は今読み終わったばかりのうすい洋書を机の上に開けたまま、両ひじをついてぼんやり考えた。

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代助は今読み切ったばかりの薄い洋書を机の上に開けたまま、両肱りょうひじを突いて茫乎ぼんやり考えた。

代助の頭は、最後の場面でいっぱいになっている。――

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代助の頭は最後の幕で一杯になっている。――

遠くの向こうに寒そうな木が立っている後ろに、二つの小さなランタンが音もなくゆれて見えた。

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遠くの向うに寒そうな樹が立っている後に、二つの小さな角燈が音もなくゆらめいて見えた。

絞首台(こうしゅだい。首をつるして殺す台)はそこにある。

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絞首台は其所そこにある。

死刑になる者は、暗いところに立った。

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刑人けいじんは暗い所に立った。

木のくつを片足なくした、寒いと一人が言うと、何を?

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木履くつを片足失くなした、寒いと一人が云うと、何を?

と一人が聞き返した。

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 と一人が聞き直した。

木のくつをなくして寒い、と前の者が同じことをくり返した。

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木履を失くなして寒いと前のものが同じ事を繰り返した。

Mはどこにいる、とだれかが聞いた。

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Mは何処どこにいると誰か聞いた。

ここにいる、とだれかが答えた。

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此所ここにいると誰か答えた。

木の間に大きな、白いような、平たいものが見える。

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樹の間に大きな、白い様な、平たいものが見える。

しめった風が、そこから吹いて来る。

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湿っぽい風が其所から吹いて来る。

海だとGが言った。

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海だとGが云った。

しばらくすると、死刑を言いわたす紙と、その紙を持った白い手――手ぶくろをはめていない――を、ランタンが照らした。

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しばらくすると、宣告文を書いた紙と、宣告文を持った、白い手――手套てぶくろ穿めない――を角燈が照らした。

読み上げなくてもよかろうという声がした。

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読上げんでもかろうという声がした。

その声はふるえていた。

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その声はふるえていた。

やがてランタンが消えた。……

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やがて角燈が消えた。……

もうただ一人になった、とKが言った。

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もうたった一人になったとKが云った。

そうして、ため息をついた。

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そうして溜息ためいきいた。

Sも死んでしまった。

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Sも死んでしまった。

Wも死んでしまった。

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Wも死んでしまった。

Mも死んでしまった。

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Mも死んでしまった。

ただ一人になってしまった。……

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たった一人になってしまった。……

海から日がのぼった。

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海から日が上った。

彼らは死体を一つの車に積みこんだ。

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彼等は死骸しがいを一つの車に積み込んだ。

そうして引き出した。

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そうして引き出した。

長くのびた首、飛び出した目、くちびるの上にさいた恐ろしい花のような血のあわにぬれた舌を積みこんで、もとの道へ引き返した。……

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長くなったくび、飛び出した眼、唇の上に咲いた、おそろしい花の様な血の泡にれた舌を積み込んで元の路へ引き返した。……

代助はアンドレーエフの「七刑人(しちけいじん)」

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代助はアンドレーフの「七刑人」

の最後の場面を、ここまで頭の中でくり返してみて、ぞっと肩をちぢめた。

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の最後の模様を、此所まで頭の中で繰り返してみて、ぞっと肩をすくめた。

こういうときに彼が一番強く感じるのは、もし自分がこんな場面に立たされたらどうしたらいいだろうという心配である。

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こう云う時に、彼が尤も痛切に感ずるのは、万一自分がこんな場に臨んだら、どうしたらかろうという心配である。

考えると、とても死ねそうもない。

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考えると到底死ねそうもない。

といって、無理にでも殺されるのだから、いかにもむごい。

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と云って、無理にも殺されるんだから、如何いかにも残酷である。

彼は生きたい気持ちと死のおしつけとの間に自分を想像して、ふんぎりがつかず両方を行ったり来たりする苦しみを心にえがきながらじっと座っていると、背中いっぱいの皮が毛あなごとにむずむずして、ほとんどたまらなくなる。

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彼は生の慾望よくぼうと死の圧迫の間に、わが身を想像して、未練に両方にったり来たりする苦悶くもんを心に描き出しながらじっと坐っていると、脊中せなか一面の皮が毛穴ごとにむずむずしてほとんど堪らなくなる。

彼の父は十七のとき、同じ藩の一人を切り殺して、そのために切腹する覚悟をしたと、自分でいつも人に話している。

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彼の父は十七のとき、家中かちゅうの一人を斬り殺して、それがめ切腹をする覚悟をしたと自分で常に人に語っている。

父の考えでは、おじの介錯(かいしゃく)を自分がして、自分の介錯を祖父に頼むはずだったそうだが、よくそんなことができるものである。

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父の考では伯父の介錯を自分がして、自分の介錯を祖父じじに頼むはずであったそうだが、くそんな真似まねが出来るものである。

父が昔の話をするたびに、代助は父を偉いと思うより、不愉快な人間だと思う。

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父が過去を語る度に、代助は父をえらいと思うより、不愉快な人間だと思う。

そうでなければ、うそつきだと思う。

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そうでなければ嘘吐うそつきだと思う。

うそつきのほうが、まだよほど父らしい気がする。

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嘘吐の方がまだ余っ程父らしい気がする。

父ばかりではない。

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父ばかりではない。

祖父についても、こんな話がある。

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祖父じじに就ても、こんな話がある。

祖父が若いころ、剣術の同じ道場の何とかいう男が、あまりにうでが立ったところからほかの者にねたまれて、ある夜、あぜ道を城下へ帰るとちゅうで、だれかに切り殺された。

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祖父が若い時分、撃剣の同門の何とかいう男が、あまり技芸に達していた所から、ひと嫉妬ねたみを受けて、ある夜縄手道なわてみちを城下へ帰る途中で、誰かに斬り殺された。

そのとき、一番に駆けつけたのは祖父であった。

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その時第一にけ付けたものは祖父であった。

左の手にちょうちんをかざし、右の手にぬいた刀を持って、そのぬいた刀で死体をたたきながら、軍平(ぐんぺい)しっかりしろ、きずは浅いぞと言ったそうである。

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左の手に提灯ちょうちんかざして、右の手に抜身ぬきみを持って、その抜身で死骸をたたきながら、軍平しっかりしろ、きずは浅いぞと云ったそうである。

おじが京都で殺されたときは、ずきんをかぶった連中にどやどやと宿へふみこまれて、おじは二階のひさしから飛び下りるとたん、庭石につまずいてたおれるところを上から容赦(ようしゃ)なくやられたために、顔がなますのようになったそうである。

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伯父が京都で殺された時は、頭巾を着た人間にどやどやと、旅宿やどやへ踏み込まれて、伯父は二階のひさしから飛び下りる途端、庭石に爪付つまずいて倒れる所を上から、容赦なくられた為に、顔がなますの様になったそうである。

殺される十日ほど前、夜中に合羽(かっぱ)を着て、かさで雪をよけながら、足駄(あしだ。高い下駄)をはいて四条から三条へ帰ったことがある。

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殺される十日程前、夜中やちゅう合羽かっぱを着て、傘に雪をけながら、足駄がけで、四条から三条へ帰った事がある。

そのとき、宿の二百メートルほど手前で、突然後ろから「長井直記どの」と呼びかけられた。

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その時旅宿やどの二丁程手前で、突然うしろから長井直記どのと呼び懸けられた。

おじは振り向きもせず、やはりかさを差したまま宿の戸口まで来て、格子(こうし)を開けて中へ入った。

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伯父は振り向きもせず、やはり傘を差したまま、旅宿やどの戸口まで来て、格子こうしを開けて中へ這入はいった。

そうして格子をぴしゃりと閉めて、中から、長井直記は自分だ。

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そうして格子をぴしゃりと締めて、うちから、長井直記は拙者だ。

何のご用か。

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なに御用か。

と聞いたそうである。

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と聞いたそうである。

代助はこんな話を聞くたびに、勇ましいという気持ちよりも、まずこわいほうが先に立つ。

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代助はこんな話を聞く度に、勇ましいと云う気持よりも、まず怖い方が先に立つ。

度胸をほめる前に、生ぐさいにおいが鼻をぬけるようにこたえる。

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度胸を買ってやる前に、なまぐさいにおいが鼻柱を抜ける様にこたえる。

もし死ぬことができるとすれば、それは気持ちが一番高ぶった一瞬にあるだろうというのが、代助が前から思っていたことであった。

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もし死が可能であるならば、それは発作の絶高頂に達した一瞬にあるだろうとは、代助のかねて期待する所であった。

ところが、彼は決して急に気持ちの高ぶる男でない。

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ところが、彼は決して発作性の男でない。

手もふるえる、足もふるえる。

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手もふるえる、足も顫える。

声のふるえることや、心臓の飛び上がることはいつもある。

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声の顫える事や、心臓の飛び上がる事は始終ある。

けれども、かっとなることは近ごろほとんどない。

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けれども、激する事は近来殆んどない。

かっとなるという心の状態は、死に近づける自然の階段で、かっとなるたびに死にやすくなるのは目に見えているから、ときには好奇心で、せめてその近くまで行ってみたいと思うこともあるが、まったく駄目である。

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激すると云う心的状態は、死に近づき得る自然の階段で、激するたびに死にやすくなるのは眼に見えているから、時には好奇心で、せめて、その近所まで押し寄せてみたいと思う事もあるが、全く駄目である。

代助はこのごろの自分を細かく調べるたびに、五、六年前の自分とまるでちがっているのに驚かずにはいられなかった。

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代助はこの頃の自己を解剖するたびに、五六年ぜんの自己と、まるで違っているのに驚ろかずにはいられなかった。

代助は机の上の本をふせると立ち上がった。

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代助は机の上の書物を伏せると立ち上がった。

縁側のガラス戸を細く開けたところから、あたたかい気持ちのいい風が吹きこんで来た。

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縁側の硝子戸ガラスどを細目に開けた間から暖かい陽気な風が吹き込んで来た。

そうして、はち植えのアマランスの赤い花びらを、ふらふらとゆらした。

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そうして鉢植のアマランスの赤いはなびらをふらふらとうごかした。

日は大きな花の上に落ちている。

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日は大きな花の上に落ちている。

代助はかがんで、花の中をのぞきこんだ。

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代助はこごんで、花の中をのぞき込んだ。

やがて、ひょろ長いおしべの先から花粉を取って、めしべの先へ持って来て、ていねいにぬりつけた。

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やがて、ひょろ長い雄蕊ゆうずいの頂きから、花粉を取って、雌蕊しずいの先へ持って来て、丹念に塗り付けた。

「ありでもつきましたか」

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ありでも付きましたか」

と門野がげんかんのほうから出て来た。

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と門野が玄関の方から出て来た。

はかまをはいている。

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はかま穿いている。

代助はかがんだまま顔を上げた。

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代助は曲んだまま顔を上げた。

「もう行って来たの」

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「もう行って来たの」

「ええ、行って来ました。何だそうです。明日お引っ越しになるそうです。今日これからうかがおうと思ってたところだとおっしゃいました」

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「ええ、行って来ました。何だそうです。明日あした御引移りになるそうです。今日これから上がろうと思ってた所だとおっしゃいました」

「だれが? 平岡が?」

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「誰が? 平岡が?」

「ええ。――どうも何ですな。だいぶお忙しいようですな。先生とはよほどちがってますね。――ありなら種油(たねあぶら)をお注ぎなさい。そうして苦しがって穴から出て来るところを一つずつ殺すんです。何なら殺しましょうか」

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「ええ。――どうも何ですな。大分御忙がしい様ですな。先生た余っ程違ってますね。――蟻なら種油を御注おつぎなさい。そうして苦しがって、穴から出て来る所を一々殺すんです。何なら殺しましょうか」

「ありじゃない。こうして天気のいいときに、花粉を取ってめしべへぬりつけておくと、そのうち実がなるんです。ひまだから、植木屋から聞いたとおりにやってるところだ」

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「蟻じゃない。こうして、天気のい時に、花粉を取って、雌蕊へ塗り付けて置くと、今に実がるんです。暇だから植木屋から聞いた通り、遣ってる所だ」

「なるほど。どうも便利な世の中になりましたね。――しかし盆栽(ぼんさい)はいいもんだ。きれいで、楽しみになって」

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「なある程。どうも重宝な世の中になりましたね。――しかし盆栽は好いもんだ。奇麗で、楽しみになって」

代助は面倒くさいから、返事をせずに黙っていた。

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代助は面倒臭めんどくさいから返事をせずに黙っていた。

やがて、

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やがて、

「いたずらもいいかげんにやめるかな」

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悪戯いたずら好加減いいかげんすかな」

と言いながら立ち上がって、縁側に置いてある、とうの安楽いすに腰を掛けた。

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と云いながら立ち上がって、縁側へ据付の、の安楽椅子いすに腰を掛けた。

それきり、ぽかんと何か考えこんでいる。

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それぎりぽかんと何か考え込んでいる。

門野はつまらなくなったから、自分のげんかんわきの三畳(じょう)へ引き取った。

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門野はつまらなくなったから、自分の玄関わきの三畳敷へ引き取った。

障子を開けて入ろうとすると、また縁側へ呼び返された。

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障子を開けて這入ろうとすると、又縁側へ呼び返された。

「平岡が今日来ると言ったって」

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「平岡が今日来ると云ったって」

「ええ、来るようなお話でした」

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「ええ、来る様な御話しでした」

「じゃ待っていよう」

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「じゃ待っていよう」

代助は出かけるのをやめた。

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代助は外出を見合せた。

じつは平岡のことが、この間からだいぶ気にかかっている。

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実は平岡の事がこの間から大分気に掛っている。

平岡はこの前、代助をたずねた当時、すでに落ち着いていられない身の上であった。

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平岡はこのぜん、代助を訪問した当時、既に落ち付いていられない身分であった。

彼自身が代助に話したところによると、勤め口の心当たりが二、三か所あるから、さしあたりそちらへ働きかけてみるつもりなのだそうだが、その二、三か所が今どうなっているか、代助はほとんど知らない。

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彼自身の代助に語った所によると、地位の心当りが二三カ所あるから、差し当りその方面へ運動してみる積りなんだそうだが、その二三カ所が今どうなっているか、代助は殆んど知らない。

代助のほうから神保町の宿をたずねたことが二度あるが、一度は留守であった。

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代助の方から神保町の宿を訪ねた事が二返あるが、一度は留守であった。

一度はいるにはいた。

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一度はったには居った。

が、洋服を着たまま部屋の敷居(しきい)の上に立って、何か忙しい調子で妻を責めていた。――

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が、洋服を着たまま、部屋の敷居の上に立って、何かせわしい調子で、細君をめ付けていた。――

案内も待たずにろうかを通って平岡の部屋の横へ出た代助には、とつぜんではあるが、たしかにそう見えた。

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案内なしに廊下を伝って、平岡の部屋の横へ出た代助には、突然ながら、たしかにそう取れた。

そのとき、平岡はちょっと振り向いて、やあ君かと言った。

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その時平岡は一寸ちょっと振り向いて、やあ君かと云った。

その顔にもようすにも、少しもうれしそうなところは見えなかった。

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その顔にも容子ようすにも、少しも快よさそうな所は見えなかった。

部屋の中から顔を出した妻は代助を見て、青白いほおをぽっと赤くした。

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部屋のなかから顔を出した細君は代助を見て、蒼白あおじろい頬をぽっと赤くした。

代助は何となく、座りにくくなった。

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代助は何となく席に就きにくくなった。

まあ入れ、と言い訳のように言うのを聞き流して、いや、とくに用じゃない。

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まあ這入れと申し訳に云うのを聞き流して、いや別段用じゃない。

どうしているかと思ってちょっと来てみただけだ。

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どうしているかと思って一寸来てみただけだ。

出かけるならいっしょに出よう、と、こちらからさそうようにして表へ出てしまった。

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出掛けるなら一所に出ようと、此方こっちから誘う様にして表へ出てしまった。

そのとき平岡は、早く家を探して落ち着きたいが、あまり忙しくてどうすることもできない、たまに宿の者が教えてくれるかと思うと、まだ人が出ていなかったり、今かべをぬっているさいちゅうだったりする。

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その時平岡は、早く家を探して落ち付きたいが、あんまり忙しいんで、どうする事も出来ない、たまに宿のものが教えてくれるかと思うと、まだ人が立ち退かなかったり、あるいは今壁を塗ってる最中だったりする。

などと、電車に乗って別れるまで、何もかもぐちばかりであった。

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などと、電車へ乗って分れるまで諸事苦情ずくめであった。

代助も気のどくになって、それなら家は、うちの書生に探させよう。

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代助も気の毒になって、そんならいえは、うちの書生に探させよう。

何、不景気だから、だいぶ空いているのがあるはずだ。

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なに不景気だから、大分空いてるのがある筈だ。

と引き受けて帰った。

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と請合って帰った。

それから約束どおり、門野を探しに出した。

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それから約束通り門野を探しに出した。

出すとすぐ、門野はちょうどいいのを見つけて来た。

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出すやいなや、門野はすぐ恰好かっこうなのを見付けて来た。

門野に案内させて平岡夫婦に見せると、たいていよかろうということで別れたそうだが、家主に対して責任もあるし、またそこが気に入らなければほかを探す考えもあるからというので、借りるか借りないかはっきりしたところを、門野にもう一度たしかめさせたのである。

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門野に案内をさせて平岡夫婦に見せると、大抵かろうと云う事で分れたそうだが、家主いえぬしの方へ責任もあるし、又其所が気に入らなければ外を探す考もあるからと云うので、借りるか借りないか判然はっきりした所を、門野に、もう一遍確かめさしたのである。

「君、家主のほうへは借りるって、ちゃんと言って来たんだろうね」

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「君、家主の方へは借りるって、断わって来たんだろうね」

「ええ、帰りに寄って、明日引っ越すからって言って来ました」

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「ええ、帰りに寄って、明日引越すからって、云って来ました」

代助はいすに腰を掛けたまま、新しく二度目の暮らしを東京で始める夫婦のこれからを考えた。

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代助は椅子に腰を掛けたまま、新らしく二度の世帯しょたいを東京に持つ、夫婦の未来を考えた。

平岡は三年前に新橋で別れたときとは、もうだいぶ変わっている。

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平岡は三年ぜん新橋で分れた時とは、もう大分変っている。

彼のこれまでは、世の中をわたるはしごを一、二段で踏み外したのと同じことである。

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彼の経歴は処世の階子段はしごだんを一二段で踏み外したと同じ事である。

まだ高いところへ上っていなかっただけが幸いと言えば言えるが、世間の目に見えるほど体に傷を受けていないだけで、じつは心のほうにはすでに狂いができている。

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まだ高い所へのぼっていなかっただけが、さいわいと云えば云う様なものの、世間の眼に映ずる程、身体からだに打撲を受けていないのみで、その実精神状態には既に狂いが出来ている。

初めて会ったとき、代助はすぐそう思った。

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始めてった時、代助はすぐそう思った。

けれども、三年間に起こった自分のほうの変化も考えに入れて、もしかするとこちらの心が向こうにひびいて見えるのではないか、と考え直した。

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けれども、三年間に起った自分の方の変化を打算してみて、或は此方こっちの心が向うに反響を起したのではなかろうかと訂正した。

が、その後、平岡の宿へたずねて行って、ざしきへも入らずにいっしょに外へ出たときのようすや、言葉や動作を目の前に思いうかべてみると、どうしてもまた最初の見方に戻らなければならなくなった。

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が、その後平岡の旅宿りょしゅくへ尋ねて行って、座敷へも這入らないで一所に外へ出た時の、容子から言語動作を眼の前に浮べてみると、どうしても又最初の判断に戻らなければならなくなった。

平岡はそのとき、顔の真ん中に神経を集めていた。

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平岡はその時顔の中心に一種の神経を寄せていた。

風が吹いても、砂が飛んでも強く感じそうなまゆとまゆの間を、かまわずぴくぴくさせていた。

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風が吹いても、砂が飛んでも、強い刺激を受けそうなまゆと眉の継目を、はばからず、ぴくつかせていた。

そうして、口にすることが、中身にかかわらず、いかにもせわしなく、また切なそうに、代助の耳にひびいた。

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そうして、口にする事が、内容の如何いかんかかわらず、如何いかにもせわしなく、かつ切なそうに、代助の耳に響いた。

代助には、平岡のすべてが、まるで肺の弱い人が重苦しいくず湯の中を苦しい息で泳いでいるように見えた。

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代助には、平岡のすべてが、あたかも肺の強くない人の、重苦しい葛湯くずゆの中を片息で泳いでいる様に取れた。

「あんなにあせって」

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「あんなに、あせって」

と、電車に乗って飛んで行く平岡の姿を見送った代助は、口の中でつぶやいた。

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と、電車へ乗って飛んで行く平岡の姿を見送った代助は、口のうちでつぶやいた。

そうして、宿に残されている妻のことを考えた。

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そうして旅宿に残されている細君の事を考えた。

代助はこの妻に向かって、これまで一度も奥さんと言ったことがない。

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代助はこの細君をつらまえて、かつて奥さんと云った事がない。

いつでも三千代さん三千代さんと、結婚する前のとおりに名前で呼んでいる。

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何時でも三千代さん三千代さんと、結婚しない前の通りに、本名を呼んでいる。

代助は平岡と別れてから、また引き返して宿へ行って、三千代さんに会って話をしようかと思った。

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代助は平岡に分れてから又引き返して、旅宿へ行って、三千代さんに逢って話しをしようかと思った。

けれども、何だか行けなかった。

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けれども、何だかけなかった。

足を止めて考えても、今の自分には、行くのが悪いという理由は少しも見つからなかった。

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足を停めて思案しても、今の自分には、行くのが悪いと云う意味はちっとも見出みいだせなかった。

けれども、気がとがめて行けなかった。

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けれども、気がとがめてかれなかった。

勇気を出せば行けると思った。

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勇気を出せば行かれると思った。

ただ代助には、これだけの勇気を出すのが苦しかった。

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ただ代助にはこれだけの勇気を出すのが苦痛であった。

それで家へ帰った。

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それで家へ帰った。

そのかわり帰っても、落ち着かないような、物足りないような、みょうな気持ちがした。

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その代り帰っても、落ち付かない様な、物足らない様な、妙な心持がした。

それで、また外へ出て酒を飲んだ。

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ので、又外へ出て酒を飲んだ。

代助は酒をいくらでも飲む男である。

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代助は酒をいくらでも飲む男である。

とくにその晩は、たっぷり飲んだ。

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ことにその晩はしたたかに飲んだ。

「あのときはどうかしていたんだ」

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「あの時は、どうかしていたんだ」

と、代助はいすによりながら、わりと冷静な自分で、自分のすがたを批判した。

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と代助は椅子にりながら、比較的冷やかな自己で、自己の影を批判した。

「何かご用ですか」

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「何か御用ですか」

と門野がまた出て来た。

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と門野が又出て来た。

はかまをぬいで、足袋(たび)をぬいで、だんごのような素足を出している。

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袴を脱いで、足袋を脱いで、団子の様な素足を出している。

代助は黙って門野の顔を見た。

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代助は黙って門野の顔を見た。

門野も代助の顔を見て、ちょっとの間つっ立っていた。

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門野も代助の顔を見て、一寸の間突立っていた。

「おや、お呼びになったんじゃないのですか。おや、おや」

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「おや、御呼になったんじゃないのですか。おや、おや」

と言って引っこんで行った。

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と云って引込んで行った。

代助はとくにおかしいとも思わなかった。

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代助は別段可笑おかしいとも思わなかった。

「おばさん、お呼びになったんじゃないとさ。どうも変だと思った。だから手も何も鳴らないって言うのに」

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「小母さん、御呼びになったんじゃないとさ。どうも変だと思った。だから手も何も鳴らないって云うのに」

という言葉が、茶の間のほうで聞こえた。

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という言葉が茶の間の方で聞えた。

それから、門野とおばあさんの笑う声がした。

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それから門野とばあさんの笑う声がした。

そのとき、待っていたお客が来た。

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その時、待ち設けている御客が来た。

取りつぎに出た門野は、意外な顔をして入って来た。

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取次に出た門野は意外な顔をして這入って来た。

そうして、その顔を代助のそばまで持って来て、先生、奥さんですと、ささやくように言った。

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そうして、その顔を代助のそばまで持って来て、先生、奥さんですとささやく様に云った。

代助は黙っていすを立って、ざしきへ入った。

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代助は黙って椅子を離れて座敷へ這入った。

平岡の妻は、色が白いわりにかみが黒く、細い顔にまゆがはっきり見える女である。

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平岡の細君は、色の白い割に髪の黒い、細面ほそおもえて眉毛まみえ判然はっきり映る女である。

ちょっと見ると、どことなくさびしい感じがするところが、古い浮世絵(うきよえ)に似ている。

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一寸見ると何所どことなく淋しい感じの起る所が、古版の浮世絵に似ている。

東京へ帰ってからは、顔色やはだのつやがとくによくないようだ。

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帰京後は色光沢つやがことにくないようだ。

初めて宿で会ったとき、代助は少し驚いたくらいである。

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始めて旅宿で逢った時、代助は少し驚いた位である。

汽車で長くゆられたつかれがまだ取れないのかと思って聞いてみたら、そうじゃない、いつもこうなんだと言われたときは、気のどくになった。

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汽車で長く揺られた疲れが、まだ回復しないのかと思って、聞いてみたら、そうじゃない、始終こうなんだと云われた時は、気の毒になった。

三千代は東京を出て一年目に子を産んだ。

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三千代は東京を出て一年目に産をした。

生まれた子どもはすぐ死んだが、それから心臓を悪くしたと見えて、何かと具合が悪い。

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生れた子供はじき死んだが、それから心臓を痛めたと見えて、とかく具合がわるい。

初めのうちはただぶらぶらしていたが、どうしてもよくならないので、しまいに医者に見てもらったら、よくはわからないが、もしかすると何とかいうむずかしい名前の心臓の病気かも知れないと言った。

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始めのうちは、ただ、ぶらぶらしていたが、どうしても、はかばかしくなおらないので、仕舞に医者に見てもらったら、くは分らないが、ことにると何とかいうむずかしい名の心臓病かも知れないと云った。

もしそうだとすれば、心臓から動脈(どうみゃく)へ出る血が少しずつ逆もどりするむずかしい病気だから、すっかり治すのはむずかしいと言われたので、平岡も驚いて、できるだけ体を大事にしたせいか、一年ばかりするうちに、いいぐあいに元気がめっきりよくなった。

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もしそうだとすれば、心臓から動脈へ出る血が、少しずつ、後戻りをする難症だから、根治は覚束おぼつかないと宣告されたので、平岡も驚ろいて、出来るだけ養生に手を尽した所為せいか、一年ばかりするうちに、案排あんばいに、元気がめっきりよくなった。

顔色もつやも、ほとんど元のようにさえて見える日が多いので、本人も喜んでいると、帰る一か月ばかり前から、また顔色が悪くなり出した。

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色光沢もほとんど元の様に冴々さえざえして見える日が多いので、当人も喜こんでいると、帰る一カ月ばかり前から、又血色が悪くなり出した。

しかし医者の話によると、今度のは心臓のためではない。

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然し医者の話によると、今度のは心臓のためではない。

心臓はそれほどじょうぶにもならないが、決して前より悪くなってはいない。

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心臓は、それ程丈夫にもならないが、決して前よりは悪くなっていない。

弁(べん)の働きにこしょうがあるとは、今は決して認められないという見立てであった。――

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弁の作用に故障があるものとは、今は決して認められないという診断であった。――

これは三千代が直接、代助に話したことである。

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これは三千代がじかに代助に話した所である。

代助はそのとき三千代の顔を見て、やはり何か心配ごとのためではないかしらと思った。

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代助はその時三千代の顔を見て、やっぱり何か心配の為じゃないかしらと思った。

三千代は、美しい線をきれいに重ねた、はっきりした二重(ふたえ)まぶたを持っている。

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三千代は美くしい線を奇麗に重ねた鮮かな二重瞼ふたえまぶたを持っている。

目の形は細長いほうであるが、じっと物を見つめるときに、それが何かのぐあいでとても大きく見える。

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眼の恰好は細長い方であるが、ひとみを据えてじっと物を見るときに、それが何かの具合で大変大きく見える。

代助はこれを、黒目の働きだと思っていた。

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代助はこれを黒眼の働らきと判断していた。

三千代が平岡の妻になる前、代助はよく、三千代のこういう目つきを見た。

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三千代が細君にならない前、代助はよく、三千代のこう云う眼遣めづかいを見た。

そうして、今でもよく覚えている。

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そうして今でも善く覚えている。

三千代の顔を頭の中に思いうかべようとすると、顔の形がまだできあがらないうちに、この黒い、しめったようにぼやけた目がぽっと出て来る。

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三千代の顔を頭の中に浮べようとすると、顔の輪廓りんかくが、まだ出来上らないうちに、この黒い、湿うるんだ様にぼかされた眼が、ぽっと出て来る。

ろうかを通ってざしきへ案内された三千代は、今、代助の前に腰を掛けた。

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廊下伝いに座敷へ案内された三千代は今代助の前に腰を掛けた。

そうして、きれいな手をひざの上に重ねた。

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そうして奇麗な手をひざの上にかさねた。

下にした手にも指輪をはめている。

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下にした手にも指輪を穿めている。

上にした手にも指輪をはめている。

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上にした手にも指輪を穿めている。

上のは細い金のわくに、わりと大きな真珠(しんじゅ)をのせた今風のもので、三年前に結婚のお祝いとして代助からおくられたものである。

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上のは細い金の枠に比較的大きな真珠を盛った当世風のもので、三年ぜん結婚の御祝として代助から贈られたものである。

三千代は顔を上げた。

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三千代は顔を上げた。

代助はとつぜん、あの目に出会って、思わずまばたきを一つした。

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代助は、突然例の眼を認めて、思わずまたたきを一つした。

汽車で着いた次の日、平岡といっしょに来るはずだったけれども、つい具合が悪くて来そこなってしまって、それからは一人でなくては来る機会がないので、つい来られずにいたが、今日はちょうど、と言いかけて言葉を切って、それから急に思い出したように、この間来てくれたときは平岡が出かけるところだったので、たいへん失礼して済まなかった、というようなおわびをして、

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汽車で着いた明日あくるひ平岡と一所に来るはずであったけれども、つい気分が悪いので、来損きそくなってしまって、それからは一人でなくっては来る機会がないので、つい出ずにいたが、今日は丁度、と云いかけて、句を切って、それから急に思い出した様に、この間来てくれた時は、平岡が出掛際でかけぎわだったものだから、大変失礼して済まなかったという様なわびをして、

「待っていらっしゃればよかったのに」

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「待っていらっしゃればかったのに」

と、女らしく愛想(あいそ)を付け加えた。

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と女らしく愛想あいそをつけ加えた。

けれども、その調子はしずんでいた。

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けれどもその調子は沈んでいた。

もっともこれは、この女のもともとの話し方で、代助はかえって昔を思い出した。

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もっともこれはこの女の持調子もちぢょうしで、代助はかえってその昔をおもい出した。

「だって、たいへん忙しそうだったから」

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「だって、大変忙しそうだったから」

「ええ、忙しいことは忙しいんですけれども――いいじゃありませんか。いらしっても。あんまりよそよそしいですわ」

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「ええ、忙しい事は忙しいんですけれども――いじゃありませんか。居らしったって。あんまり他人行儀ですわ」

代助は、あのとき夫婦の間に何があったか聞いてみようと思ったけれども、まずやめにした。

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代助は、あの時、夫婦の間に何があったか聞いてみようと思ったけれども、まずめにした。

いつもならからかい半分に、あなたは何かしかられて顔を赤くしていましたね、どんな悪いことをしたんですか、くらい言いかねない間がらなのだが、代助には三千代の明るいようすが、あとからその場をつくろうように痛々しく聞こえたので、冗談を言い続ける元気もちょっと出なかった。

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いつもなら調戯からかい半分に、あなたは何かしかられて、顔を赤くしていましたね、どんな悪い事をしたんですか位言いかねない間柄なのであるが、代助には三千代の愛嬌あいきょうが、後からその場を取り繕う様に、いたましく聞えたので、冗談を云い募る元気も一寸出なかった。

代助はたばこに火をつけて、吸い口をくわえたまま、いすの背に頭をもたせて、くつろいだように、

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代助は烟草たばこへ火をけて、吸口をくわえたまま、椅子のに頭を持たせて、くつろいだ様に、

「久しぶりだから、何かごちそうしましょうか」

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「久し振りだから、何か御馳走しましょうか」

と聞いた。

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と聞いた。

そうして心の中で、自分のこういう態度が、いくらかこの女のなぐさめになるように感じた。

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そうして心のうちで、自分のこう云う態度が、幾分かこの女の慰藉いしゃになる様に感じた。

三千代は、

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三千代は、

「今日はけっこうです。そうゆっくりしていられないの」

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「今日は沢山。そうゆっくりしちゃいられないの」

と言って、昔の金歯をちょっと見せた。

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と云って、昔の金歯を一寸見せた。

「まあ、いいでしょう」

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「まあ、いでしょう」

代助は両手を頭の後ろへ持って行って、指と指を組み合わせて三千代を見た。

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代助は両手を頭の後へ持って行って、指と指を組み合せて三千代を見た。

三千代はかがんで、帯の間から小さな時計を出した。

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三千代はこごんで帯の間から小さな時計を出した。

代助が真珠の指輪をこの女におくり物にするとき、平岡はこの時計を妻に買ってやったのである。

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代助が真珠の指輪をこの女に贈ものにする時、平岡はこの時計を妻に買ってったのである。

代助は、一つの店で別々の品物を買ったあと、平岡と連れ立ってその店を出ながら、たがいに顔を見合わせて笑ったことを覚えている。

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代助は、一つ店で別々の品物を買った後、平岡と連れ立って其所そこの敷居をまたぎながら互に顔を見合せて笑った事を記憶している。

「おや、もう三時過ぎね。まだ二時くらいかと思ってたら。――少し寄り道をしていたものだから」

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「おや、もう三時過ぎね。まだ二時位かと思ってたら。――少し寄り道をしていたものだから」

と、ひとり言のように説明を足した。

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と独り言の様に説明を加えた。

「そんなに急ぐんですか」

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「そんなに急ぐんですか」

「ええ、なるべく早く帰りたいの」

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「ええ、なりたけ早く帰りたいの」

代助は頭から手を放して、たばこの灰をはたき落とした。

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代助は頭から手を放して、烟草の灰をはたき落した。

「三年のうちにだいぶ所帯(しょたい)じみちまった。しかたがない」

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「三年のうちに大分世帯染しょたいじみちまった。仕方がない」

代助は笑ってこう言った。

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代助は笑ってこう云った。

けれども、その調子にはどこかにがいところがあった。

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けれどもその調子には何処どこかに苦い所があった。

「あら、だって、明日引っ越すんじゃありませんか」

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「あら、だって、明日引越すんじゃありませんか」

三千代の声は、このとき急に生き生きと聞こえた。

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三千代の声は、この時急に生々と聞えた。

代助は引っ越しのことをまるで忘れていたが、相手の楽しそうな調子につられて、こちらからも気軽に聞き返した。

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代助は引越の事をまるで忘れていたが、相手の快よさそうな調子に釣り込まれて、此方こっちからも他愛なく追窮した。

「じゃ、引っ越してからゆっくり来ればいいのに」

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「じゃ引越してから緩くり来れば可いのに」

「でも」

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「でも」

と言った三千代は、少し答えに困った色をひたいのところに出して、ちょっと下を見たが、やがてほおを上げた。

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と云った三千代は少し挨拶あいさつに困った色を、額の所へあらわして、一寸下を見たが、やがて頬を上げた。

それがうすく赤くそまっていた。

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それが薄赤く染まっていた。

「じつは私、少しお願いがあって来たの」

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「実はわたくし少し御願があって上がったの」

かんのするどい代助は、三千代の言葉を聞くとすぐ、その用事が何であるかを察した。

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かんの鋭どい代助は、三千代の言葉を聞くや否や、すぐその用事の何であるかを悟った。

じつは平岡が東京へ着いたときから、いつかこの話になるだろうと思って、心のどこかで覚悟していたのである。

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実は平岡が東京へ着いた時から、いつかこの問題に出逢う事だろうと思って、半意識はんいしきの下で覚悟していたのである。

「何ですか、遠慮なくおっしゃい」

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「何ですか、遠慮なくおっしゃい」

「少しお金の都合ができなくって?」

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「少し御金の工面が出来なくって?」

三千代の言葉はまるで子どものように素直であるけれども、両方のほおはやはり赤くなっている。

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三千代の言葉はまるで子供の様に無邪気であるけれども、両方の頬はやっぱり赤くなっている。

代助は、この女にこんな恥ずかしい思いをさせる平岡の今のようすを、とても気のどくに思った。

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代助は、この女にこんな気耻きはずかしい思いをさせる、平岡の今の境遇を、甚だ気の毒に思った。

だんだん聞いてみると、明日引っ越しをする費用や、新しく暮らしを始めるための金が必要なのではなかった。

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段々聞いてみると、明日引越をする費用や、新しく世帯を持つ為めの金が入用なのではなかった。

支店を引きはらうとき、向こうに残して来た借金が三口(くち)とかあるうちで、その一つをどうしても片付けなくてはならないのだそうである。

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支店の方を引き上げる時、向うへ置き去りにして来た借金が三口とかあるうちで、その一口を是非片付けなくてはならないのだそうである。

東京へ着いたら一週間のうちにどうにかするという固い約束をして来た上に、少しわけがあって、ほかのように放っておけないものだから、平岡も着いた次の日から心配してあちこち走り回っているけれども、まだできそうなようすが見えないので、しかたなく三千代に言いつけて、代助のところへ頼みによこしたということがわかった。

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東京へ着いたら一週間うちに、どうでもすると云う堅い約束をして来た上に、少し訳があって、ほかの様に放って置けない性質たちのものだから、平岡も着いた明日あくるひから心配して、所々しょしょ奔走しているけれども、まだ出来そうな様子が見えないので、已を得ず三千代に云い付けて代助の所に頼みによこしたと云う事が分った。

「支店長から借りたというやつですか」

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「支店長から借りたと云う奴ですか」

「いいえ。そちらはいつまでのばしておいても構わないんですが、こちらをどうかしないと困るのよ。東京で勤め口を探すほうにひびいて来るんだから」

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「いいえ。その方は何時いつまで延ばして置いても構わないんですが、此方の方をどうかしないと困るのよ。東京で運動する方に響いて来るんだから」

代助は、なるほどそんなことがあるのかと思った。

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代助はなるほどそんな事があるのかと思った。

金額を聞くと、五百円と少しである。

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金高かねだかを聞くと五百円と少しばかりである。

代助は、なんだそのくらい、と心の中で考えたが、じっさい自分は一円もない。

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代助はなんだその位と腹の中で考えたが、実際自分は一文もない。

代助は、自分が金に困らないようでいて、じつはとても困っている男だと気がついた。

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代助は、自分が金に不自由しない様でいて、その実大いに不自由している男だと気が付いた。

「何でまた、そんなに借金をしたんですか」

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「何でまた、そんなに借金をしたんですか」

「だから私、考えると嫌になるのよ。私も病気をしたので、悪いには悪いけれども」

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「だから私考えるといやになるのよ。私も病気をしたので、悪いには悪いけれども」

「病気のときの費用なんですか」

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「病気の時の費用なんですか」

「ちがうのよ。薬代なんてしれたものですわ」

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「じゃないのよ。薬代なんか知れたもんですわ」

三千代は、それ以上を話さなかった。

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三千代はそれ以上を語らなかった。

代助も、それ以上を聞く勇気がなかった。

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代助もそれ以上を聞く勇気がなかった。

ただ青白い三千代の顔をながめて、その中に、はっきりしない先ゆきの不安を感じた。

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ただ蒼白あおじろい三千代の顔を眺めて、そのうちに、漠然たる未来の不安を感じた。

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次の日、朝早く門野は荷車を三台やとって、新橋の駅まで平岡の荷物を受け取りに行った。

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翌日朝早く門野は荷車を三台雇って、新橋の停車場まで平岡の荷物を受取りに行った。

じつはとっくに着いていたのだけれども、家がまだ決まらないので、今日までそのままにしてあったのである。

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実はうから着いていたのだけれども、うちがまだきまらないので、今日までそのままにしてあったのである。

行き帰りの時間と、向こうで荷物を積みこむ時間を計算してみると、どうしても半日仕事である。

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往復の時間と、向うで荷物を積み込む時間を勘定してみると、どうしても半日仕事である。

早く行かなければ間に合わないよ、と代助はふとんを出るとすぐ注意した。

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早くかなけりゃ、間に合わないよと代助は寐床ねどこを出るとすぐ注意した。

門野はいつもの調子で、なに、わけはありませんと答えた。

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門野は例の調子で、なに訳はありませんと答えた。

この男は時間のことなどあまり考えないほうだから、こう簡単な返事ができたのだが、代助から説明を聞いて初めて、なるほどという顔をした。

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この男は、時間の考などは、あまりない方だから、こう簡便な返事が出来たんだが、代助から説明を聞いて始めてなるほどと云う顔をした。

それから、荷物を平岡の家へ届けた上に、すっかり片付くまで手伝いをするんだと言われたときは、ええ承知しました、なに大丈夫ですと気軽に引き受けて出て行った。

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それから荷物を平岡のうちへ届けた上に、万事奇麗に片付くまで手伝をするんだと云われた時は、ええ承知しました、なに大丈夫ですと気軽に引き受けて出て行った。

それから十一時過ぎまで、代助は本を読んでいた。

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それから十一時過まで代助は読書していた。

が、ふとダヌンチオという人が、自分の家の部屋を青と赤に分けてかざっているという話を思い出した。

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が不図ダヌンチオと云う人が、自分のいえの部屋を、青色と赤色に分って装飾していると云う話を思い出した。

ダヌンチオの考えは、生活の二つの大きな気分の表れは、この二色にほかならないという点にあるらしい。

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ダヌンチオの主意は、生活の二大情調の発現は、この二色ふたいろに外ならんと云う点に存するらしい。

だから、気持ちを高ぶらせる必要のある部屋、つまり音楽室とか書斎とかいうものは、なるべく赤くぬり立てる。

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だから何でも興奮を要する部屋、すなわち音楽室とか書斎とか云うものは、なるべく赤く塗り立てる。

また寝室とか休む部屋とか、すべて心を落ち着ける必要のあるところは、青に近い色でかざる。

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又寝室とか、休息室とか、すべて精神の安静を要する所は青に近い色で飾り付をする。

というのが、心理学者の説を使った、詩人の好奇心の満足と見える。

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と云うのが、心理学者の説を応用した、詩人の好奇心の満足と見える。

代助は、なぜダヌンチオのような刺激を受けやすい人に、気持ちを高ぶらせる色ともいえるほど強い赤が必要なのだろうと、不思議に感じた。

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代助は何故なぜダヌンチオの様な刺激を受けやすい人に、奮興色ふんこうしょくとも見傚みなし得べき程強烈な赤の必要があるだろうと不思議に感じた。

代助自身は、いなりの赤い鳥居を見てもあまりいい気持ちはしない。

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代助自身は稲荷いなりの鳥居を見ても余り好い心持はしない。

できることなら、自分の頭だけでもいいから、緑の中にただよわせて安らかにねむりたいくらいである。

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出来得るならば、自分の頭だけでもいから、緑のなかに漂わして安らかに眠りたい位である。

いつかの展覧会に、青木という人が、海の底に立っている背の高い女を描いた。

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いつかの展覧会に青木と云う人が海の底に立っているの高い女を画いた。

代助はたくさんの作品のうちで、あれだけがいい気持ちにできていると思った。

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代助は多くの出品のうちで、あれだけが好い気持に出来ていると思った。

つまり、自分もああいう、しずんで落ち着いた気分の中にいたかったからである。

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つまり、自分もああ云う沈んだ落ち付いた情調に居りたかったからである。

代助は縁側へ出て、庭から先へ広がる一面の青いものを見た。

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代助は縁側へ出て、庭から先にはびこる一面の青いものを見た。

花はいつの間にか散って、今は新芽や若葉の季節の始めである。

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花はいつしか散って、今は新芽若葉の初期である。

はなやかな緑が、ぱっと顔に吹きつけたような気持ちがした。

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はなやかな緑がぱっと顔に吹き付けた様な心持ちがした。

目をさます刺激の底に、どこかしずんだ調子があるのをうれしく思いながら、鳥打ちぼうをかぶって、めいせんの普段着のまま門を出た。

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眼をさます刺激の底に何所か沈んだ調子のあるのをうれしく思いながら、鳥打帽をかむって、銘仙の不断着のまま門を出た。

平岡の新しい家へ来てみると、門が開いてがらんとしているだけで、荷物の着いたようすもなければ、平岡夫婦の来ている気配も見えない。

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平岡の新宅へ来て見ると、門が開いて、がらんとしているだけで、荷物の着いた様子もなければ、平岡夫婦の来ている気色も見えない。

ただ、車引きらしい男が一人、縁側に腰を掛けてたばこをすっていた。

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ただ車夫ていの男が一人縁側に腰を懸けて烟草をんでいた。

聞いてみると、さっき一度お出でになりましたが、このぶんじゃどうせ昼過ぎだろうって、またお帰りになりました、という答えである。

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聞いてみると、先刻さっき一返御出おいでになりましたが、この案排あんばいじゃ、どうせ午過ひるすぎだろうって又御帰りになりましたという答である。

「だんなと奥さんといっしょに来たかい」

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「旦那と奥さんと一所に来たかい」

「ええ、ごいっしょです」

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「ええ御一所です」

「そうして、いっしょに帰ったかい」

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「そうして一所に帰ったかい」

「ええ、ごいっしょにお帰りになりました」

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「ええ御一所に御帰りになりました」

「荷物もそのうち着くだろう。ご苦労さま」

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「荷物もそのうち着くだろう。御苦労さま」

と言って、また通りへ出た。

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と云って、又通りへ出た。

神田へ来たが、平岡の宿へ寄る気はしなかった。

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神田へ来たが、平岡の旅宿へ寄る気はしなかった。

けれども、二人のことが何だか気にかかる。

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けれども二人の事が何だか気に掛る。

とくに妻のことが気にかかる。

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ことに細君の事が気に掛る。

それで、ちょっと顔を出した。

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ので一寸ちょっと顔を出した。

夫婦はおぜんをならべてごはんを食べていた。

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夫婦は膳を並べて飯を食っていた。

手伝いの女が、ぼんを持って、しきいにしりを向けている。

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下女が盆を持って、敷居にしりを向けている。

その後ろから声をかけた。

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その後から、声を懸けた。

平岡は驚いたように代助を見た。

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平岡は驚ろいた様に代助を見た。

その目が血走っている。

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その眼が血ばしっている。

二、三日よくねむらないせいだと言う。

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二三日く眠らない所為せいだと云う。

三千代は大げさな言い方だと言って笑った。

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三千代は仰山ぎょうさんなものの云い方だと云って笑った。

代助は気のどくにも思ったが、また安心もした。

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代助は気の毒にも思ったが、又安心もした。

引き止めるのを外へ出て、ごはんを食べて、かみを切って、九段の上へちょっと寄って、また帰りに新しい家へ行ってみた。

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留めるのを外へ出て、飯を食って、髪を刈って、九段の上へ一寸寄って、又帰りに新宅へ行ってみた。

三千代は手ぬぐいを姉さんかぶりにして、友禅(ゆうぜん)の長じゅばんをさらりと出して、たすきがけで荷物の世話をやいていた。

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三千代は手拭をねえさん被りにして、友禅の長襦袢ながじゅばんをさらりと出して、たすきがけで荷物の世話を焼いていた。

宿で世話をしてくれたという手伝いの女も来ている。

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旅宿で世話をしてくれたと云う下女も来ている。

平岡は縁側でこうり(旅の荷物入れ)のひもを解いていたが、代助を見て笑いながら、少し手伝わないかと言った。

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平岡は縁側で行李こりひもを解いていたが、代助を見て、笑いながら、少し手伝わないかと云った。

門野ははかまをぬいで、すそをからげて、重ねだんすを車引きといっしょにざしきへかかえこみながら、先生どうです、この格好は、笑っちゃいけませんよと言った。

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門野ははかまを脱いで、尻を端折はしょって、重ね箪笥だんすを車夫と一所に座敷へ抱え込みながら、先生どうです、この服装なりは、笑っちゃ不可いけませんよと云った。

次の日、代助が朝ごはんのぜんに向かって、いつものように紅茶を飲んでいると、門野が洗いたての顔を光らせて茶の間へ入って来た。

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翌日、代助が朝食あさめしの膳に向って、例のごとく紅茶を呑んでいると、門野が、洗い立ての顔を光らして茶の間へ這入はいって来た。

「昨夜は何時にお帰りでした。つい疲れちまって、うたた寝をしていたものだから、少しも気がつきませんでした。――ねているところを御覧になったんですか、先生もずいぶん人が悪いな。いったい何時ごろなんです、お帰りになったのは。それまでどこへ行っていらしった」

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昨夕ゆうべ何時いつ御帰りでした。つい疲れちまって、仮寐うたたねをしていたものだから、ちっとも気が付きませんでした。――寐ている所を御覧になったんですか、先生も随分人が悪いな。全体何時頃なんです、御帰りになったのは。それまで何所へ行っていらしった」

と、いつもの調子で苦もなくしゃべり立てた。

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平生いつもの調子で苦もなく饒舌しゃべり立てた。

代助は真面目な顔で、

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代助は真面目まじめで、

「君、すっかり片付くまでいてくれたんでしょうね」

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「君、すっかり片付かたづくまで居てくれたんでしょうね」

と聞いた。

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と聞いた。

「ええ、すっかり片付けちまいました。そのかわり、どうも骨が折れましたぜ。何しろ、ぼくらの引っ越しとちがって、大きな物がいろいろあるんだから。奥さんがざしきの真ん中へ立って、ぼんやり、こうまわりを見回していたようすったら――ずいぶんおかしなものでした」

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「ええ、すっかり片付けちまいました。その代り、どうも骨が折れましたぜ。何しろ、我々の引越と違って、大きな物が色々あるんだから。奥さんが座敷の真中へ立って、茫然ぼんやり、こう周囲まわりを見回していた様子ったら、――随分可笑おかしなもんでした」

「少し体の具合が悪いんだからね」

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「少し身体からだの具合が悪いんだからね」

「どうもそうらしいですね。顔色が何だかよくないと思った。平岡さんとは大ちがいだ。あの人の体つきはいいですね。昨夜いっしょにふろに入って驚いた」

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「どうもそうらしいですね。色が何だかくないと思った。平岡さんとは大違いだ。あの人の体格は好いですね。昨夕一所に湯に入って驚ろいた」

代助はやがて書斎へ帰って、手紙を二、三本書いた。

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代助はやがて書斎へ帰って、手紙を二三本書いた。

一本は朝鮮の役所にいる友人あてで、先ごろ送ってくれた高麗焼(こうらいやき)のお礼の手紙である。

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一本は朝鮮の統監府にる友人あてで、先達せんだって送ってくれた高麗焼こうらいやきの礼状である。

一本はフランスにいる姉の夫あてで、タナグラ(古代ギリシャの人形)の安いのを見つけてくれという頼みである。

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一本は仏蘭西フランスに居る姉婿あねむこ宛で、タナグラの安いのを見付けてくれという依頼である。

昼過ぎ、散歩に出るときに門野の部屋をのぞいたら、またひっくり返ってぐうぐうねていた。

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昼過散歩の出掛けに、門野のへやのぞいたら又引繰り返って、ぐうぐう寐ていた。

代助は門野の無邪気な鼻の穴を見て、うらやましくなった。

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代助は門野の無邪気な鼻の穴を見てうらやましくなった。

じつを言うと、自分は昨夜ねつけなくて、たいへん困ったのである。

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実を云うと、自分は昨夕寐つかれないで大変難義したのである。

いつものように、まくらのそばへ置いたかいちゅう時計が、とても大きな音を出す。

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例にって、まくらの傍へ置いたたもと時計が、大変大きな音を出す。

それが気になったので、手をのばして時計をまくらの下へ押しこんだ。

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それが気になったので、手を延ばして、時計を枕の下へ押し込んだ。

けれども、音はやはり頭の中へひびいて来る。

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けれども音は依然として頭の中へ響いて来る。

その音を聞きながら、つい、うとうとする間に、ほかのすべての意識はまったく暗い穴の中へ落ちて行った。

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その音を聞きながら、つい、うとうとする間に、凡ての外の意識は、全く暗窖あんこううちに降下した。

が、ただ一つ、夜をぬうミシンのはりだけが、こきざみに頭の中を絶えず通っていたことは自分でわかっていた。

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が、ただ独り夜を縫うミシンの針だけが刻み足に頭の中を断えず通っていた事を自覚していた。

ところが、その音がいつかりんりんという虫の音に変わって、きれいなげんかんのそばの植えこみの奥で鳴いているようになった。――

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ところがその音が何時かりんりんという虫の音に変って、奇麗な玄関のわき植込うえごみの奥で鳴いている様になった。――

代助は昨夜の夢をここまでたどって来て、ねむりと目覚めとをつなぐ一種の糸を見つけたような気持ちがした。

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代助は昨夕の夢を此所ここまで辿たどって来て、睡眠と覚醒との間をつなぐ一種の糸を発見した様な心持がした。

代助は、何ごとによらず一度気にかかり出すと、どこまでも気にかかる男であった。

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代助は、何事によらず一度気にかかり出すと、何処までも気にかかる男であった。

しかも自分で、そのばかばかしさの程度をはっきり見積もれるだけの頭の力があるので、自分の気にしすぎるところがなお目についてならないことがあった。

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しかも自分でその馬鹿気さ加減の程度を明らかに見積るだけの脳力があるので、自分の気にかかり方がなお眼に付いてならない事があった。

三、四年前、いつも自分がどうやってねむりに入るのかという問題を解こうとしたことがあった。

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三四年ぜん、平生の自分が如何いかにして夢にるかと云う問題を解決しようと試みた事があった。

夜、ふとんへ入って、いいぐあいにうとうとしかけると、ああここだ、こうしてねむるんだなと思ってはっとする。

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夜、蒲団へ這入って、好い案排にうとうとし掛けると、ああ此所だ、こうして眠るんだなと思ってはっとする。

すると、そのとたんに目がさえてしまう。

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すると、その瞬間に眼がえてしまう。

しばらくして、またねむりかけると、また、そらここだと思う。

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しばらくして、又眠りかけると、又、そら此所だと思う。

代助はほとんど毎晩のようにこの好奇心に苦しめられて、同じことを二度も三度もくり返した。

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代助はほとんど毎晩の様にこの好奇心に苦しめられて、同じ事を二遍も三遍も繰り返した。

しまいには自分でもへこたれた。

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仕舞には自分ながら辟易へきえきした。

どうにかしてこの苦しみからのがれようと思った。

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どうかして、この苦痛を逃れようと思った。

そればかりでなく、つくづく自分はおろか者であると考えた。

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のみならず、つくづく自分は愚物であると考えた。

自分のはっきりしない意識を、自分のはっきりした意識でとらえて、同時に振り返ろうとするのは、ジェームズという学者が言ったとおり、暗やみを調べるためにろうそくをつけたり、こまの回り方を調べるためにこまを押さえたりするようなもので、一生ねむれないことになる。

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自分の不明瞭ふめいりょうな意識を、自分の明瞭な意識に訴えて、同時に回顧しようとするのは、ジェームスの云った通り、暗闇を検査する為に蝋燭ろうそくともしたり、独楽こまの運動を吟味する為に独楽を抑える様なもので、生涯寐られっこない訳になる。

とわかっているが、夜になるとまたはっと思う。

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わかっているが晩になると又はっと思う。

この困りごとは約一年ばかりで、いつの間にかようやく遠のいた。

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この困難は約一年ばかりで何時の間にかようや遠退とおのいた。

代助は昨夜の夢とこの困りごとをくらべてみて、みょうに感じた。

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代助は昨夕の夢とこの困難とを比較してみて、妙に感じた。

正気の自分の一部分を切りはなして、そのままの形で、知らない間に夢の中へゆずりわたすほうが味わいがあると思ったからである。

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正気の自己の一部分を切り放して、そのままの姿として、知らぬ間に夢の中へ譲り渡す方が趣があると思ったからである。

同時に、この働きは気がくるうときの状態と似ていないかと考えついた。

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同時に、この作用は気狂きちがいになる時の状態と似ていはせぬかと考え付いた。

代助は今まで、自分はかっとならないから気がくるうことはないと信じていたのである。

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代助は今まで、自分は激昂げきこうしないから気狂にはなれないと信じていたのである。

それから二、三日は、代助も門野も平岡の知らせを聞かずに過ごした。

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それから二三日にさんちは、代助も門野も平岡の消息を聞かずに過ごした。

四日目の昼過ぎに、代助は麻布(あざぶ)のある家へ園遊会(えんゆうかい。庭でひらくパーティー)に呼ばれて行った。

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四日目の午過に代助は麻布あざぶのあるいえへ園遊会に呼ばれて行った。

客は男女合わせてだいぶ来たが、主賓(しゅひん。中心の客)というのは、イギリスの国会議員とか実業家とかいう、やたらに背の高い男と、それから鼻めがねをかけたその妻とであった。

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御客は男女なんにょを合せて、大分来たが、正賓と云うのは、英国の国会議員とか実業家とかいう、無暗むやみに脊の高い男と、それから鼻眼鏡をかけたその細君とであった。

これはなかなかの美人で、日本などへ来るにはもったいないくらいの器量だが、どこで買ったものか、岐阜(ぎふ)でできた絵の日がさを得意そうに差していた。

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これは中々の美人で、日本などへ来るには勿体もったいない位な容色きりょうだが、何処で買ったものか、岐阜ぎふ出来の絵日傘を得意に差していた。

もっともその日はたいへんいい天気で、広いしばふの上にフロックコートで立っていると、もう夏が来たという感じが肩から背中へかけてはっきり起こったくらい、空が真っ青にすき通っていた。

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もっともその日は大変な好い天気で、広い芝生の上にフロックで立っていると、もう夏が来たという感じが、肩から脊中へ掛けて著るしく起った位、空が真蒼まっさおに透き通っていた。

イギリスの紳士は顔をしかめて空を見て、じつに美しいと言った。

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英国の紳士は顔をしかめて空を見て、実に美くしいと云った。

すると妻がすぐ、ラヴリー、と答えた。

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すると細君がすぐ、ラッヴレイと答えた。

とても高い声で、一番力を入れたあいさつの仕方だったので、代助はイギリスのお世辞はまた格別のものだと思った。

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非常にかんの高い声でもっとも力を入れた挨拶あいさつの仕様であったので、代助は英国の御世辞は、また格別のものだと思った。

代助も二言三言、この妻から話しかけられた。

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代助も二言三言この細君から話しかけられた。

が、三分と経たないうちにやりきれなくなって、すぐ引き下がった。

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が三分とたないうちに、り切れなくなって、すぐ退却した。

あとは、和服を着てわざと島田(しまだ。日本髪)に結ったお嬢さんと、長くニューヨークで商売をしていたという某(なにがし)が引き受けた。

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あとは、日本服を着て、わざと島田にった令嬢と、長らく紐育ニューヨークで商業に従事していたと云う某が引き受けた。

この某は英語をしゃべる天才だと自分で思っている男で、必ず英語の会に出席して、日本人と英語で会話をして、それから英語でスピーチをするのを何よりの楽しみにしている。

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この某は英語を喋舌しゃべる天才をもって自から任ずる男で、欠かさず英語会へ出席して、日本人と英語の会話を遣って、それから英語で卓上演説をするのを、何よりの楽みにしている。

何か言っては、あとでさもおかしそうにげらげら笑うくせがある。

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何か云っては、あとでさも可笑しそうに、げらげら笑う癖がある。

イギリス人が、ときどき不思議そうな顔をしている。

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英国人が時によると怪訝けげんな顔をしている。

代助は、あれだけはやめたらよかろうと思った。

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代助はあれだけはめたらかろうと思った。

お嬢さんもなかなかうまい。

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令嬢も中々うまい。

これはアメリカの婦人を家庭教師にやとって、英語を使うことを学んだ、ある金持ちの娘である。

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これは米国婦人を家庭教師に雇って、英語を使う事を研究した、ある物持ちの娘である。

代助は、顔より言葉のほうが達者だと考えながら、つくづく感心して聞いていた。

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代助は、顔より言葉の方が達者だと考えながら、つくづく感心して聞いていた。

代助がここへ呼ばれたのは、自分がここの主人やこのイギリス人夫婦と関係があるからではない。

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代助が此所へ呼ばれたのは、個人的に此所の主人や、この英国人夫婦に関係があるからではない。

まったく自分の父と兄の、つきあいの上での力の余波(よは)で、招待状が回って来たのである。

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全く自分の父と兄との社交的勢力の余波で、招待状が廻って来たのである。

だから、あちこちにまんべんなく行って、いいかげんに頭を下げて、ぶらぶらしていた。

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だから、万遍なく方々へ行って、好い加減に頭を下げて、ぶらぶらしていた。

その中に兄もいた。

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そのうちに兄も居た。

「やあ、来たな」

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「やあ、来たな」

と言ったまま、ぼうしに手もかけない。

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と云ったまま、帽子に手も掛けない。

「どうも、いい天気ですね」

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「どうも、好い天気ですね」

「ああ。けっこうだ」

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「ああ。結構だ」

代助も背の低いほうではないが、兄はもっと高くできている。

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代助も脊の低い方ではないが、兄は一層高く出来ている。

その上、この五、六年らいだんだん太ってきたので、なかなか立派に見える。

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その上この五六年来次第に肥満して来たので、中々立派に見える。

「どうです、あちらへ行って、少し外国人と話でもしては」

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「どうです、彼方あっちへ行って、ちと外国人と話でもしちゃ」

「いや、まっぴらだ」

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「いや、真平まっぴらだ」

と言って、兄は苦笑いをした。

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と云って兄は苦笑いをした。

そうして、大きな腹にぶら下がっている金のくさりを指の先でいじった。

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そうして大きな腹にぶら下がっている金鎖を指の先でいじくった。

「どうも外国人は調子がいいですね。少しよすぎるくらいだ。ああほめられると、天気のほうでもぜひよくならなくちゃならなくなる」

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「どうも外国人は調子がいですね。少しすぎる位だ。ああ賞められると、天気の方でも是非好くならなくっちゃならなくなる」

「そんなに天気をほめていたのかい。へえ。少し暑すぎるじゃないか」

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「そんなに天気を賞めていたのかい。へえ。少し暑過ぎるじゃないか」

「私にも暑すぎる」

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「私にも暑過ぎる」

誠吾と代助は、示し合わせたように白いハンカチを出してひたいをふいた。

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誠吾と代助は申し合せた様に、白い手巾ハンケチを出して額をいた。

二人とも重いシルクハットをかぶっている。

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両人ふたり共重い絹帽シルクハットかぶっている。

兄弟はしばふのはしの木かげまで来て止まった。

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兄弟は芝生の外れの木蔭こかげまで来て留った。

近くにはだれもいない。

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近所には誰もいない。

向こうのほうで、よきょう(出し物)か何か始まっている。

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向うの方で余興か何か始まっている。

それを誠吾は、家にいるときと同じような顔をして遠くからながめた。

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それを、誠吾は、うちにいると同じ様な顔をして、遠くから眺めた。

「兄のようになると、家にいても客に来ても同じ気持ちなんだろう。こう世の中に慣れきってしまっては、楽しみがなくてつまらないものだろう」

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「兄の様になると、うちにいても、客に来ても同じ心持ちなんだろう。こう世の中に慣れ切ってしまっても、楽しみがなくって、つまらないものだろう」

と思いながら、代助は誠吾のようすを見ていた。

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と思いながら代助は誠吾の様子を見ていた。

「今日はお父さんはどうしました」

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「今日は御父さんはどうしました」

「お父さんは詩の会だ」

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「御父さんは詩の会だ」

誠吾はあいかわらずふつうの顔で答えたが、代助のほうは少しおかしかった。

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誠吾は相変らず普通の顔で答えたが、代助の方は多少可笑しかった。

「姉さんは」

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「姉さんは」

「客のもてなし係だ」

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「御客の接待掛りだ」

また兄の妻があとで不平を言うことだろうと考えると、代助はまたおかしくなった。

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またあによめが後で不平を云う事だろうと考えると、代助は又可笑しくなった。

代助は、誠吾がいつも忙しがっているようすを知っている。

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代助は、誠吾の始終忙しがっている様子を知っている。

また、その忙しさの半分以上がこういう集まりからできているという事実も知っている。

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又その忙しさの過半は、こう云う会合から出来上がっているという事実も心得ている。

そうして、とくに嫌な顔もせず、ひと言の不平も言わず、不規則に酒を飲んだり、物を食べたり、女を相手にしたりしていながら、いつ見ても疲れたようすもなく、はしゃぐこともなく、いつも平然として、年々太ってくるうでまえに感心している。

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そうして、別にいやな顔もせず、一口の不平もこぼさず、不規則に酒を飲んだり、物を食ったり、女を相手にしたり、していながら、何時いつ見ても疲れたたいもなく、さわぐ気色もなく、物外に平然として、年々肥満してくる技倆ぎりょうに敬服している。

誠吾が待合(まちあい)へ入ったり、料理屋へ上がったり、夕食に出たり、昼食に呼ばれたり、クラブに行ったり、新橋で人を見送ったり、横浜で人をむかえたり、大磯(おおいそ)へごきげんうかがいに行ったり、朝から晩まで大勢の集まるところへ顔を出して、得意そうにも見えなければがっかりしたようにも見えないのは、こういう生活に慣れきって、くらげが海にただよいながら塩水をからいと感じないようなものだろうと、代助は考えている。

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誠吾が待合へ這入ったり、料理茶屋へ上ったり、晩餐ばんさんに出たり、午餐に呼ばれたり、倶楽部クラブに行ったり、新橋に人を送ったり、横浜に人を迎えたり、大磯おおいそへ御機嫌伺いに行ったり、朝から晩まで多勢の集まる所へ顔を出して、得意にも見えなければ、失意にも思われない様子は、こう云う生活に慣れ抜いて、海月くらげが海に漂いながら、塩水を辛く感じ得ない様なものだろうと代助は考えている。

そこが代助にはありがたい。

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其所そこが代助には難有ありがたい。

というのは、誠吾は父とちがって、これまで小むずかしいお説教などを代助に向かってしたことがない。

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と云うのは、誠吾は父とちがって、かつて小むずかしい説法などを代助に向って遣った事がない。

主義だとか、主張だとか、人生観だとかいう堅苦しいものは、まるでこれっぽっちも口にしないのだから、あるのだかないのだか、ほとんどわからない。

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主義だとか、主張だとか、人生観だとか云う窮屈なものは、てんで、これっぱかりも口にしないんだから、あるんだか、いんだか、殆んど要領を得ない。

そのかわり、この堅苦しい主義だとか、主張だとか、人生観だとかいうものを、わざわざこわしにかかったこともない。

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その代り、この窮屈な主義だとか、主張だとか、人生観だとかいうものを積極的に打ち壊して懸ったためしもない。

じつに平凡でいい。

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実に平凡で好い。

だが、おもしろくはない。

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だが面白くはない。

話し相手としては、兄よりも兄の妻のほうが、代助にとってはるかに興味がある。

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話し相手としては、兄よりも嫂の方が、代助に取ってはるかに興味がある。

兄に会うと、きっと「どうだい」と言う。

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兄にうときっとどうだいと云う。

イタリアに地震があったじゃないかと言う。

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以太利イタリーに地震があったじゃないかと云う。

トルコの皇帝(こうてい)が位を追われたじゃないかと言う。

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土耳其トルコの天子が廃されたじゃないかと云う。

そのほか、向島(むこうじま)の花はもう駄目になった、横浜にある外国の船の底に大蛇(だいじゃ)が飼ってあった、だれそれが鉄道でひかれた、じゃないかと言う。

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その外、向う島の花はもう駄目になった、横浜にある外国船の船底に大蛇が飼ってあった、誰が鉄道でかれた、じゃないかと云う。

みんな新聞に出たことばかりである。

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みんな新聞に出た事ばかりである。

そのかわり、当たりさわりのない話の種はいくらでも持っている。

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その代り、当らずさわらずの材料はいくらでも持っている。

いつまで経っても、種が尽きるようすが見えない。

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いつまで経っても種が尽きる様子が見えない。

そうかと思うと。

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そうかと思うと。

ときどき、トルストイという人はもう死んだのかね、などとみょうなことを聞くことがある。

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時にトルストイと云う人は、もう死んだのかねなどと妙な事を聞く事がある。

今、日本の小説家ではだれが一番えらいのかねと聞くこともある。

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今日本の小説家では誰が一番偉いのかねと聞く事もある。

つまり文学にはまるで関心がなく、しかも驚くほど何も知らないのだが、うやまうでもばかにするでもなく平気で聞くのだから、代助も返事がしやすい。

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要するに文芸にはまるで無頓着むとんじゃくでかつ驚ろくべき無識であるが、尊敬と軽蔑けいべつ以上に立って平気で聞くんだから、代助も返事がし易い。

こういう兄と向かい合って話をしていると、刺激が少ないかわりに、いやみがなくて気楽でいい。

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こう云う兄と差し向いで話をしていると、刺激の乏しい代りには、灰汁あくがなくって、気楽で好い。

ただ朝から晩まで出歩いているから、めったにつかまえることができない。

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ただ朝から晩まで出歩いているから滅多につらまえる事が出来ない。

兄の妻でも、誠太郎でも、縫子でも、兄が一日じゅう家にいて、三度の食事を家族といっしょに欠かさず食べると、かえってめずらしがるくらいである。

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嫂でも、誠太郎でも、縫子でも、兄が終日うちに居て、三度の食事を家族と共に欠かさず食うと、かえって珍らしがる位である。

だから木かげに立って兄とならんだとき、代助はちょうどいい機会だと思った。

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だから木蔭に立って、兄と肩をならべた時、代助は丁度好い機会だと思った。

「兄さん、あなたに少し話があるんだが。いつかひまはありませんか」

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「兄さん、貴方あなたに少し話があるんだが。何時か暇はありませんか」

「ひま」

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「暇」

とくり返した誠吾は、何も説明せずに笑って見せた。

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と繰り返した誠吾は、何にも説明せずに笑って見せた。

「明日の朝はどうです」

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明日あしたの朝はどうです」

「明日の朝は横浜まで行って来なくちゃならない」

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「明日の朝は浜まで行って来なくっちゃならない」

「昼からは」

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ひるからは」

「昼からは、会社にいることはいるが、少し相談があるから、来てもゆっくり話していられない」

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「午からは、会社の方に居る事はいるが、少し相談があるから、来てもゆっくり話しちゃいられない」

「じゃ、晩ならよかろう」

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「じゃ晩ならかろう」

「晩は帝国ホテルだ。あの西洋人の夫婦を明日の晩、帝国ホテルへ呼ぶことになってるから駄目だ」

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「晩は帝国ホテルだ。あの西洋人夫婦を明日の晩帝国ホテルへ呼ぶ事になってるから駄目だ」

代助は口をとがらせて、兄をじっと見た。

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代助は口をとんがらかして、兄をじっと見た。

そうして二人で笑い出した。

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そうして二人で笑い出した。

「そんなに急ぐなら、今日はどうだ。今日ならいい。久しぶりでいっしょにごはんでも食おうか」

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「そんなに急ぐなら、今日じゃ、どうだ。今日なら可い。久し振りで一所に飯でも食おうか」

代助はさんせいした。

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代助は賛成した。

ところが、クラブへでも行くかと思ったら、誠吾はうなぎがよかろうと言い出した。

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ところが倶楽部へでもくかと思いの外、誠吾はうなぎが可かろうと云い出した。

「シルクハットでうなぎ屋へ行くのは初めてだな」

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絹帽シルクハットで鰻屋へ行くのは始めてだな」

と代助はためらった。

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と代助は逡巡しゅんじゅんした。

「何、構うものか」

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「何構うものか」

二人は園遊会を出て、車に乗って、金杉橋(かなすぎばし)のたもとにあるうなぎ屋へ上がった。

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二人は園遊会を辞して、車に乗って、金杉橋の袂にある鰻屋へ上った。

そこは川が流れて、やなぎがあって、昔ふうの家であった。

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其所は河が流れて、柳があって、古風な家であった。

黒くなった床柱(とこばしら)のそばのたなに、シルクハットをひっくり返して二つならべて置いてみて、代助はみょうだなと言った。

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黒くなった床柱のわきの違い棚に、絹帽シルクハットを引繰返しに、二つ並べて置いて見て、代助は妙だなと云った。

しかし、開け放した二階の部屋にたった二人であぐらをかいているのは、園遊会よりかえって楽であった。

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しかし明け放した二階の間に、たった二人で胡坐あぐらをかいているのは、園遊会より却て楽であった。

二人はいい気持ちに酒を飲んだ。

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二人は好い心持に酒を飲んだ。

兄は、飲んで、食べて、世間話をすれば、そのほかに用はないという態度であった。

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兄は飲んで、食って、世間話をすればその外に用はないと云う態度であった。

代助も、うっかりすると肝心の用事を忘れそうな勢いであった。

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代助も、うっかりすると、肝心の事件を忘れそうな勢であった。

が、手伝いの女が三本目のとっくりを置いて行ったときに、初めて用件に取りかかった。

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が下女が三本目の銚子ちょうしを置いて行った時に、始めて用談に取り掛った。

代助の用件というのは、言うまでもなく、この間三千代から頼まれたお金の相談である。

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代助の用談と云うのは、言うまでもなく、この間三千代から頼まれた金策の件である。

じつを言うと、代助は今日までまだ誠吾に金の無心をしたことがない。

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実を云うと、代助は今日までまだ誠吾に無心を云った事がない。

もっとも学校を出たとき、少し芸者遊びをしすぎて、そのしりぬぐいを兄にさせた覚えはある。

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尤も学校を出た時少々芸者買をし過ぎて、その尻を兄になすり付けたおぼえはある。

そのとき、兄はしかるかと思ったら、そうか、困り者だな、父には内緒にしておけと言って、兄の妻を通してきれいに借金を払ってくれた。

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その時兄はしかるかと思いの外、そうか、困り者だな、親爺おやじには内々で置けと云って嫂を通して、奇麗に借金を払ってくれた。

そうして、代助にはひと言も小言(こごと)を言わなかった。

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そうして代助には一口の小言も云わなかった。

代助はそのときから、兄に頭が上がらなくなった。

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代助はその時から、あにきに恐縮してしまった。

その後、こづかいに困ることはよくあるが、困るたびに兄の妻に泣きついて済ませていた。

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その後小遣に困る事はよくあるが、困るたんびに嫂を痛めて事を済ましていた。

だから、こういうことで兄と話をするのは、まあ初めてのようなものである。

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従ってこう云う事件に関して兄との交渉は、まあ初対面の様なものである。

代助から見ると、誠吾は取っ手のないやかんと同じことで、どこから手を出していいかわからない。

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代助から見ると、誠吾はつるのない薬缶やかんと同じことで、何処どこから手を出して好いか分らない。

しかし、そこが代助にはおもしろかった。

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然しそこが代助には興味があった。

代助は世間話のふりをして、平岡夫婦のこれまでをそろそろ話し始めた。

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代助は世間話のていにして、平岡夫婦の経歴をそろそろ話し始めた。

誠吾は面倒そうな顔もせず、へえへえと拍子を取るように、飲みながら聞いている。

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誠吾は面倒な顔色もせず、へえへえと拍子を取る様に、飲みながら、聞いている。

だんだん進んで、三千代が金を借りに来たところになっても、やはりへえへえと相づちを打つだけである。

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段々進んで三千代が金を借りに来た一段になっても、やっぱりへえへえと合槌あいづちを打つだけである。

代助はしかたなしに、

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代助は、仕方なしに、

「で、私も気のどくだから、どうにか考えてみようって引き受けたんですがね」

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「で、私も気の毒だから、どうにか心配してみようって受合ったんですがね」

と言った。

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と云った。

「へえ。そうかい」

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「へえ。そうかい」

「どうでしょう」

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「どうでしょう」

「お前、金ができるのかい」

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御前おまい金が出来るのかい」

「私は一円もできやしません。借りるんです」

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わたしゃ一文も出来やしません。借りるんです」

「だれから」

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「誰から」

代助は初めからここへ落とすつもりだったから、はっきりした調子で、

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代助は始めから此所へ落す積りだったんだから、判然はっきりした調子で、

「あなたから借りておこうと思うんです」

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「貴方から借りて置こうと思うんです」

と言って、改めて誠吾の顔を見た。

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と云って、改めて誠吾の顔を見た。

兄はやはりふつうの顔をしていた。

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兄はやっぱり普通の顔をしていた。

そうして、平気で、

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そうして、平気に、

「そりゃ、およしよ」

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「そりゃ、御廃およしよ」

と答えた。

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と答えた。

誠吾の理由を聞いてみると、義理や人情に関係がないばかりでなく、返す返さないという損得にも関係がなかった。

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誠吾の理由を聞いてみると、義理や人情に関係がないばかりではない、返す返さないと云う損得にも関係がなかった。

ただ、そんな場合には放っておけば自然とどうにかなるものだという、単純な決めつけであった。

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ただ、そんな場合には放って置けばおのずからどうかなるもんだと云う単純な断定であった。

誠吾はこの考えを証明するために、いろいろな例をあげた。

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誠吾はこの断定を証明するめに、色々な例を挙げた。

誠吾の家の敷地の中に、藤野(ふじの)という男が長屋を借りて住んでいる。

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誠吾の門内に藤野と云う男が長屋を借りて住んでいる。

その藤野が近ごろ、遠い親せきの息子を頼まれて家に置いた。

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その藤野が近頃遠縁のものの息子を頼まれてうちへ置いた。

ところが、その子が徴兵検査(ちょうへいけんさ)で急に国へ帰らなければならなくなったが、前もって国から送ってある学費も旅費も藤野が使いこんでいるというので、しばらくの間の金の用立てを頼みに来たことがある。

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ところがその子が徴兵検査で急に国へ帰らなければならなくなったが、前以て国から送ってある学資も旅費も藤野が使い込んでいると云うので、一時の繰り合せを頼みに来た事がある。

もちろん誠吾が直接会ったのではないが、妻に言いつけて断らせた。

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無論誠吾がじかに逢ったのではないが、さいに云い付けて断らした。

それでも、その子は期日までに国へ帰って、問題なく検査を済ませている。

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それでもその子は期日までに国へ帰って差支なく検査を済ましている。

それから、この藤野の親せきの何とかいう男は、自分の持っている貸家の敷金(しききん)をつい使ってしまって、借りている人が明日引っ越すという間ぎわになってもまだ用意ができないとかいって、やはり藤野を通して泣きついて来たことがある。

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それからこの藤野の親類の何とか云う男は、自分の持っている貸家の敷金を、つい使ってしまって、借家人が明日あす引越すという間際まぎわになっても、まだ調達が出来ないとか云って、やっぱり藤野から泣き付いて来た事がある。

しかし、これも断らせた。

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然しこれも断らした。

それでも、とくに困ったことにはならず、敷金は返せている。――

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それでも別に不都合はなく敷金は返せている。――

まだそのほかにもあったが、まあこんな種類の例ばかりであった。

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まだその外にもあったが、まあこんな種類の例ばかりであった。

「そりゃ、姉さんが陰でこっそり出しているにちがいない。ハハハハ。兄さんもよほどのんきだなあ」

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「そりゃ、姉さんが蔭へ廻って恵んでいるに違ない。ハハハハ。兄さんも余っ程呑気のんきだなあ」

と代助は大きな声を出して笑った。

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と代助は大きな声を出して笑った。

「何、そんなことがあるものか」

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「何、そんな事があるものか」

誠吾はやはり当たり前の顔をしていた。

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誠吾はやはり当り前の顔をしていた。

そうして、前にあるさかずきを取って口へ持って行った。

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そうして前にある猪口ちょくを取って口へ持って行った。

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その日、誠吾はなかなか金を貸してやろうと言わなかった。

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その日誠吾は中々金を貸してろうと云わなかった。

代助も、三千代が気のどくだとかかわいそうだとかいう泣き言は、なるべくさけるようにした。

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代助も三千代が気の毒だとか、可哀想かわいそうだとか云う泣言は、なるべく避ける様にした。

自分が三千代に対してはそういう気持ちもあるが、何も知らない兄をそこまで連れて行くのはふつうのやり方では駄目だと思うし、といって、むやみに感傷的なことを言えば兄にばかにされる、それどころか、前から自分をあざ笑っているような気がするので、やはりいつもの代助のとおり、のらくらしたようすで、あちらへ行ったりこちらへ来たりしながら飲んでいた。

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自分が三千代に対してこそ、そう云う心持もあるが、なんにも知らない兄を、其所そこまで連れて行くのには一通りでは駄目だと思うし、と云って、無暗むやみにセンチメンタルな文句を口にすれば、兄には馬鹿にされる、ばかりではない、かねて自分を愚弄ぐろうする様な気がするので、やっぱり平生の代助の通り、のらくらした所を、彼方あっちへ行ったり此方こっちへ来たりして、飲んでいた。

飲みながらも、父の言う「熱意が足りない」とはここのことだなと考えた。

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飲みながらも、親爺おやじ所謂いわゆる熱誠が足りないとは、此所ここの事だなと考えた。

けれども、代助は泣いて人を動かそうとするほど、ていどの低い人間ではないと思っている。

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けれども、代助は泣いて人を動かそうとする程、低級趣味のものではないと自信している。

だいたい、何が気取って見えるといって、思わせぶりのなみだや、なやみや、真面目さや、熱意ほど気取って見えるものはないと思っている。

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およそ何が気障きざだって、思わせ振りの、涙や、煩悶はんもんや、真面目まじめや、熱誠ほど気障なものはないと自覚している。

兄には、そのあたりの事情がよくわかっている。

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兄にはその辺の消息がよくわかっている。

だから、この手でしくじりでもしようものなら、一生自分の値打ちを落とすことになる。

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だからこの手で遣り損ないでもしようものなら、生涯自分の価値を落す事になる。

と気がついていた。

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と気が付いていた。

代助は飲むにつれて、だんだん金の話から遠ざかって来た。

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代助は飲むに従って、段々金を遠ざかって来た。

ただ二人きりで向かい合っているために、うまく飲めたと感じられるような話をした。

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ただ互が差し向いであるが為めに、うまく飲めたと云う自覚を、互に持ち得る様な話をした。

が、茶づけを食べる段になって、思い出したように、金は借りなくてもいいから、平岡をどこかで使ってやってくれないかと頼んだ。

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が茶漬を食う段になって、思い出した様に、金は借りなくっても好いから、平岡を何処か使って遣ってくれないかと頼んだ。

「いや、そういう人間はごめんだ。それに、この不景気じゃしようがない」

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「いや、そう云う人間は御免こうむる。のみならずこの不景気じゃ仕様がない」

と言って、誠吾はさくさくとごはんをかきこんでいた。

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と云って誠吾はさくさく飯をき込んでいた。

次の日目が覚めたとき、代助はふとんの中でまず第一にこう考えた。

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明日あくるひ眼が覚めた時、代助は床の中でまず第一番にこう考えた。

「兄を動かすのは、同じ仲間の実業家でなくちゃ駄目だ。ただ兄弟だというだけではどうすることもできない」

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「兄を動かすのは、同じ仲間の実業家でなくっちゃ駄目だ。単に兄弟のよしみだけではどうする事も出来ない」

こう考えたものの、とくに兄を冷たいと思う気は起こらなかった。

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こう考えた様なものの、別に兄を不人情と思う気は起らなかった。

むしろそのほうが当然だとわかった。

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むしろその方が当然であると悟った。

この兄が自分の遊びの借金を、文句も言わずに払ってくれたことがあるのだからおかしい。

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この兄が自分の放蕩費ほうとうひを苦情も云わずに弁償してくれた事があるんだから可笑おかしい。

それなら、自分が今ここで平岡のためにはんこを押して、いっしょに借金を背負いでもしたら、どうするだろう。

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そんなら自分が今ここで平岡の為に判を押して、連借でもしたら、どうするだろう。

やはりあのときのようにきれいに片付けてくれるだろうか。

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やっぱりあの時の様に奇麗に片付けてくれるだろうか。

兄はそこまで考えて断わったのだろうか。

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兄は其所まで考えていて、断わったんだろうか。

それとも、自分がそんな無理なことはしないものと初めから安心して、貸さないのかしら。

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或は自分がそんな無理な事はしないものと初から安心して貸さないのかしらん。

代助自身の今の考え方から言うと、とても人のためにはんこなど押しそうにない。

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代助自身の今の傾向から云うと、到底人の為に判なぞを押しそうにもない。

自分でもそう思っている。

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自分もそう思っている。

けれども、兄がそこを見ぬいて金を貸さないのだとすると、思いきってはんこを押してみて、兄がどんな態度に変わるか、試してみたくもある。――

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けれども、兄が其所を見抜いて金を貸さないとすると、一寸ちょっと意外な連帯をして、兄がどんな態度に変るか、試験してみたくもある。――

そこまで来て、代助は自分でも、あまり性格がよくないなと心の中で苦笑いした。

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其所まで来て、代助は自分ながら、あんまり性質たちくないなと心のうちで苦笑した。

けれども、ただ一つ確かなことがある。

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けれども、ただ一つたしかな事がある。

平岡はそのうち、借金の証書を持って自分のはんこを取りに来るにちがいない。

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平岡は早晩借用証書を携えて、自分の判を取りにくるに違ない。

こう考えながら、代助はふとんを出た。

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こう考えながら、代助は床を出た。

門野は茶の間であぐらをかいて新聞を読んでいたが、かみをぬらしてふろ場から帰って来る代助を見るとすぐ、急に座り方を直して、新聞をたたんでざぶとんのそばへ押しやりながら、

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門野は茶の間で、胡坐をかいて新聞を読んでいたが、髪をらして湯殿から帰って来る代助を見るやいなや、急に坐三昧いざんまいを直して、新聞を畳んで坐蒲団ざぶとんそばへ押し遣りながら、

「どうも『煤烟(ばいえん)』はたいへんなことになりましたな」

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「どうも『煤烟ばいえん』は大変な事になりましたな」

と大きな声で言った。

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と大きな声で云った。

「君、読んでるんですか」

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「君読んでるんですか」

「ええ、毎朝読んでます」

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「ええ、毎朝読んでます」

「おもしろいですか」

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「面白いですか」

「おもしろいようですな。どうも」

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「面白い様ですな。どうも」

「どんなところが」

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「どんな所が」

「どんなところがって、そう改まって聞かれちゃ困りますが。何じゃありませんか、全体に、こう、今の世の中の不安が出ているようじゃありませんか」

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「どんな所がって、そう改たまって聞かれちゃ困りますが。何じゃありませんか、一体に、こう、現代的の不安が出ている様じゃありませんか」

「そうして、なまなましいにおいがしやしないか」

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「そうして、肉のにおいがしやしないか」

「しますな。大いに」

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「しますな。大いに」

代助は黙ってしまった。

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代助は黙ってしまった。

紅茶茶わんを持ったまま書斎へ引き取って、いすに腰を掛けて、ぼんやり庭をながめていると、こぶだらけのざくろのかれ枝と、灰色のみきの根元に、暗い緑と暗い赤をまぜ合わせたような若い芽が一面にふき出している。

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紅茶茶碗ぢゃわんを持ったまま、書斎へ引き取って、椅子いすへ腰を懸けて、茫然ぼんやり庭を眺めていると、こぶだらけの柘榴ざくろの枯枝と、灰色の幹の根方に、暗緑と暗紅を混ぜ合わした様な若い芽が、一面に吹き出している。

代助の目にはそれがぱっと映っただけで、すぐ関心がうすれてしまった。

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代助の眼にはそれがぱっと映じただけで、すぐ刺激を失ってしまった。

代助の頭には、今、はっきりした形のものは何も残っていなかった。

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代助の頭には今具体的な何物をも留めていなかった。

まるで外の天気のように、それが静かにじっと動いていた。

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あたかも戸外の天気の様に、それが静かにじっと働らいていた。

が、その底には、ちりのような、正体のわからないものが数えきれないほど押し合っていた。

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が、その底には微塵みじんごとき本体の分らぬものが無数に押し合っていた。

チーズの中でいくら虫が動いても、チーズが元の場所にある間は気がつかないのと同じことで、代助もこの小さなふるえにはほとんど気づいていなかった。

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乾酪チーズの中で、いくら虫が動いても、乾酪が元の位置にある間は、気が付かないと同じ事で、代助もこの微震にはほとんど自覚を有していなかった。

ただ、それが体に返って来るたびに、いすの上で少しずつ体の位置を変えなければならなかった。

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ただ、それが生理的に反射して来る度に、椅子の上で、少しずつ身体からだの位置を変えなければならなかった。

代助は、近ごろはやり言葉のように人が使う、現代的とか不安とかいう言葉を、あまり口にしたことがない。

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代助は近頃流行語の様に人が使う、現代的とか不安とか云う言葉を、あまり口にした事がない。

それは、自分が現代的なのは言うまでもないと考えたのと、もう一つは、現代的だからといって必ずしも不安になる必要はないと、自分だけで信じていたからである。

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それは、自分が現代的であるのは、云わずと知れていると考えたのと、もう一つは、現代的であるがために、必ずしも、不安になる必要がないと、自分だけで信じていたからである。

代助はロシア文学に出て来る不安を、天気の悪さと政治のおしつけのせいだと考えていた。

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代助は露西亜ロシア文学に出て来る不安を、天候の具合と、政治の圧迫で解釈していた。

フランス文学に出て来る不安を、夫のある女のうわきが多いためだと見ていた。

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仏蘭西フランス文学に出てくる不安を、有夫姦ゆうふかんの多いためと見ていた。

ダヌンチオが代表するイタリア文学の不安を、きりのない堕落(だらく)から出る、自分をこわしていく感じだと考えていた。

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ダヌンチオによって代表される以太利イタリー文学の不安を、無制限の堕落から出る自己欠損の感と判断していた。

だから、日本の文学者が好んで不安という面からばかり社会をえがくのを、外国からの輸入品のように見ていた。

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だから日本の文学者が、好んで不安と云う側からのみ社会を描き出すのを、舶来の唐物とうぶつの様に見傚みなした。

理屈で物をうたがうほうの不安は、学校時代にあるにはあったが、あるところまで進んでぴたりと止まり、それから逆もどりしてしまった。

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理智的に物を疑う方の不安は、学校時代に、有ったにはあったが、ある所まで進行して、ぴたりと留って、それから逆戻りをしてしまった。

ちょうど空へ向かって石を投げたようなものである。

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丁度天へ向って石をげた様なものである。

代助は今では、なまじ石など投げなければよかったと思っている。

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代助は今では、なまじい石などを抛げなければかったと思っている。

禅(ぜん)の坊さんが言う「大疑現前(だいぎげんぜん)」などという境地は、代助のまだふみこんだことのない知らない世界であった。

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禅坊さんの所謂大疑現前たいぎげんぜんなどと云う境界は、代助のまだ踏み込んだ事のない未知国であった。

代助は、そうまっすぐに、せっかちに何もかもうたがうには、あまりに頭がよく生まれすぎた男であった。

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代助は、そう真率性急に万事を疑うには、あまりに利口に生れ過ぎた男であった。

代助は門野がほめた「煤烟」

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代助は門野の賞めた「煤烟」

を読んでいる。

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を読んでいる。

今日は紅茶茶わんのそばに新聞を置いたまま、開けて見る気にならない。

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今日は紅茶茶碗の傍に新聞を置いたなり、開けて見る気にならない。

ダヌンチオの主人公はみんな金に困らない男だから、ぜいたくのはてにああいういたずらをしても無理はないと思えるが、「煤烟」

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ダヌンチオの主人公は、みんな金に不自由のない男だから、贅沢ぜいたくの結果ああ云う悪戯いたずらをしても無理とは思えないが、「煤烟」

の主人公に至っては、そんなよゆうのないほど貧しい人である。

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の主人公に至っては、そんな余地のない程に貧しい人である。

それをあそこまで押して行くには、まったく愛情の力でなくてはできるはずのものでない。

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それを彼所あすこまで押して行くには、全く情愛の力でなくっちゃ出来るはずのものでない。

ところが、要吉(ようきち)という人物にも、朋子(ともこ)という女にも、本当の愛でしかたなく社会の外へ押し流されて行くようすが見えない。

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ところが、要吉という人物にも、朋子ともこという女にも、誠の愛で、むなく社会の外に押し流されて行く様子が見えない。

彼らを動かしている内側の力は何だろうと考えると、代助はふしぎでならない。

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彼等を動かす内面の力は何であろうと考えると、代助は不審である。

ああいう身の上にいて、ああいうことを思いきってやれる主人公は、おそらく不安ではあるまい。

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ああいう境遇に居て、ああ云う事を断行し得る主人公は、恐らく不安じゃあるまい。

これをやるのにためらう自分のほうにこそ、むしろ不安があってしかるべきはずだ。

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これを断行するに躊躇ちゅうちょする自分の方にこそ寧ろ不安の分子があって然るべき筈だ。

代助は一人で考えるたびに、自分は特別な人間だと思う。

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代助は独りで考えるたびに、自分は特殊人オリジナルだと思う。

けれども、要吉が特別な人間だという点では、自分よりはるかに上だと認めた。

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けれども要吉の特殊人オリジナルたるに至っては、自分よりはるかに上手うわてであると承認した。

それでこの間までは好奇心にかられて「煤烟」

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それでこの間までは好奇心に駆られて「煤烟」

を読んでいたが、このごろになって、あまりに自分と要吉の間にへだたりがあるように思われ出したので、目を通さないことがよくある。

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を読んでいたが、昨今になって、あまりに、自分と要吉の間に懸隔がある様に思われ出したので、眼を通さない事がよくある。

代助はいすの上で、ときどき体を動かした。

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代助は椅子の上で、時々身を動かした。

そうして、自分ではあくまで落ち着いていると思っていた。

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そうして、自分では飽くまで落ち付いていると思っていた。

やがて紅茶を飲んでしまって、いつものとおり本を読み始めた。

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やがて、紅茶をんでしまって、いつもの通り読書に取りかかった。

約二時間ばかりは問題なく進んだが、あるページの半ばまで来て急に手を止めて、ほおづえをついた。

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約二時間ばかりは故障なく進行したが、あるページの中頃まで来て急にめて頬杖ほおづえを突いた。

そうして、そばにあった新聞を取って、「煤烟」

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そうして、傍にあった新聞を取って、「煤烟」

を読んだ。

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を読んだ。

気持ちが合わないのは同じことである。

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呼吸の合わない事は同じ事である。

それからほかの記事を読んだ。

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それから外の雑報を読んだ。

大隈伯(おおくまはく。政治家の大隈重信)が、高等商業学校のもめごとについて、大さわぎしている生徒の味方をしている。

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大隈おおくま伯が高等商業の紛擾ふんじょうに関して、大いに騒動しつつある生徒側の味方をしている。

それがなかなか強い言葉で出ている。

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それが中々強い言葉で出ている。

代助はこういう記事を読むと、これは大隈伯が早稲田(わせだ)へ生徒を呼びよせるための手だなと考える。

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代助はこう云う記事を読むと、これは大隈伯が早稲田わせだへ生徒を呼び寄せる為の方便だと解釈する。

代助は新聞を放り出した。

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代助は新聞を放り出した。

昼過ぎになってから、代助は自分が落ち着いていないということに、ようやく気がつき出した。

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午過になってから、代助は自分が落ち付いていないと云う事を、ようやく自覚し出した。

腹の中に小さなしわが数えきれないほどできて、そのしわが絶えずおたがいの位置と形を変えて、一面にゆれているような気持ちがする。

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腹のなかに小さなしわが無数に出来て、その皺が絶えず、相互の位地と、形状かたちとを変えて、一面にうごいている様な気持がする。

代助はときどき、こういう気分に支配されることがある。

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代助は時々こう云う情調の支配を受ける事がある。

そうして、この種の経験を今日まで、ただの体の上のことだとだけ考えていた。

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そうして、この種の経験を、今日まで、単なる生理上の現象としてのみ取り扱っておった。

代助は昨日、兄といっしょにうなぎを食べたのを少し後悔した。

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代助は昨日兄と一所にうなぎを食ったのを少し後悔した。

散歩がてらに平岡のところへ行ってみようかと思い出したが、散歩が目的か平岡が目的か、自分でもはっきりしなかった。

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散歩がてらに、平岡の所へ行ってみようかと思い出したが、散歩が目的か、平岡が目的か、自分には判然たる区別がなかった。

おばあさんに着物を出させて着がえようとしているところへ、おいの誠太郎が来た。

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ばあさんに着物を出さして、着換えようとしている所へ、おいの誠太郎が来た。

ぼうしを手に持ったまま、形のいい丸い頭を代助の前へ出して、腰を掛けた。

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帽子を手に持ったまま、恰好かっこうの好い円い頭を、代助の前へ出して、腰を掛けた。

「もう学校は終わったのかい。早すぎるじゃないか」

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「もう学校は引けたのかい。早過ぎるじゃないか」

「ちっとも早くない」

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「ちっとも早かない」

と言って、笑いながら代助の顔を見ている。

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と云って、笑いながら、代助の顔を見ている。

代助は手を叩いておばあさんを呼んで、

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代助は手をたたいて婆さんを呼んで、

「誠太郎、ココアを飲むかい」

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「誠太郎、チョコレートを飲むかい」

と聞いた。

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と聞いた。

「飲む」

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「飲む」

代助はココアを二杯たのんでおいて、誠太郎をからかい出した。

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代助はチョコレートを二杯命じて置いて誠太郎に調戯からかいだした。

「誠太郎、お前は野球ばかりやるものだから、このごろ手がとても大きくなったよ。頭より手のほうが大きいよ」

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「誠太郎、御前はベースボールばかり遣るもんだから、この頃手が大変大きくなったよ。頭より手の方が大きいよ」

誠太郎はにこにこして、右の手で丸い頭をぐるぐるなでた。

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誠太郎はにこにこして、右の手で、円い頭をぐるぐるでた。

じっさい大きな手を持っている。

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実際大きな手を持っている。

「おじさんは昨日、お父さんからおごってもらったんですってね」

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「叔父さんは、昨日御父さんからおごってもらったんですってね」

「ああ、ごちそうになったよ。おかげで今日はおなかの具合が悪くていけない」

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「ああ、御馳走ごちそうになったよ。御蔭おかげで今日は腹具合が悪くって不可いけない」

「また気のせいだ」

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「又神経だ」

「気のせいじゃない、本当だよ。まったく兄さんのせいだ」

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「神経じゃない本当だよ。全たく兄さんの所為せいだ」

「だって、お父さんはそう言ってましたよ」

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「だって御父さんはそう云ってましたよ」

「何て」

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「何て」

「明日、学校の帰りに代助のところへ回って、何かごちそうしてもらえって」

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「明日学校の帰りに代助の所へ廻って何か御馳走して貰えって」

「へええ、昨日のお礼にかい」

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「へええ、昨日の御礼にかい」

「ええ、今日は俺がおごったから、明日は向こうの番だって」

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「ええ、今日は己が奢ったから、明日は向うの番だって」

「それで、わざわざやって来たのかい」

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「それで、わざわざ遣って来たのかい」

「ええ」

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「ええ」

「兄の子だけあって、なかなか抜け目がないな。だから今ココアを飲ませてやるからいいじゃないか」

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あにきの子だけあって、中々抜けないな。だから今チョコレートを飲まして遣るから好いじゃないか」

「ココアなんぞ」

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「チョコレートなんぞ」

「飲まないかい」

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「飲まないかい」

「飲むことは飲むけれども」

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「飲む事は飲むけれども」

誠太郎の注文をよく聞いてみると、相撲が始まったら回向院(えこういん)へ連れて行って、正面の一番いい席で見せろというのであった。

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誠太郎の注文を能く聞いてみると、相撲が始まったら、回向院えこういんへ連れて行って、正面の最上等の所で見物させろというのであった。

代助は気持ちよく引き受けた。

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代助は快よく引き受けた。

すると誠太郎はうれしそうな顔をして、突然、

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すると誠太郎はうれしそうな顔をして、突然、

「おじさんはぶらぶらしているけれども、じっさいはえらいんですってね」

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「叔父さんはのらくらしているけれども実際偉いんですってね」

と言った。

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と云った。

代助もこれにはちょっとあきれた。

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代助もこれには一寸あきれた。

しかたなしに、

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仕方なしに、

「えらいのはわかりきってるじゃないか」

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「偉いのは知れ切ってるじゃないか」

と答えた。

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と答えた。

「だって、ぼくは昨夜初めてお父さんから聞いたんですもの」

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「だって、僕は昨夕ゆうべ始めて御父さんから聞いたんですもの」

という言い訳があった。

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と云う弁解があった。

誠太郎の言うところによると、昨夜兄が家へ帰ってから、父と兄の妻と三人で代助の話をしたらしい。

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誠太郎の云う所によると、昨夕兄が宅へ帰ってから、父とあによめと三人して、代助の合評をしたらしい。

子どもの言うことだからよくわからないが、わりに頭がいいので、切れぎれにそのときの言葉をよく覚えている。

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子供のいう事だから、能く分らないが、比較的頭がいので、能く断片的にその時の言葉を覚えている。

父は代助を、どうも見こみがなさそうだと言ったのだそうだ。

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父は代助を、どうも見込がなさそうだと評したのだそうだ。

兄はこれに対して、ああやっていても、あれでなかなかわかったところがある。

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兄はこれに対して、ああ遣っていても、あれで中々解った所がある。

当分放っておくがいい。

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当分放って置くがい。

放っておいても大丈夫だ、まちがいはない。

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放って置いても大丈夫だ、間違はない。

そのうちに何かやるだろう、とかばったのだそうだ。

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いずれその内に何か遣るだろうと弁護したのだそうだ。

すると兄の妻がそれにさんせいして、一週間ばかり前にうらない師に見てもらったら、この人はきっと人の上に立つにちがいないと言ったから大丈夫だ、と主張したのだそうだ。

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すると嫂がそれに賛成して、一週間ばかり前占者うらないしゃに見てもらったら、この人はきっと人のかみに立つに違ないと判断したから大丈夫だと主張したのだそうだ。

代助は、うん、それから、と言って、ずっとおもしろそうに聞いていたが、うらない師のところへ来たら本当におかしくなった。

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代助はうん、それから、と云って、始終面白そうに聞いていたが、占者の所へ来たら、本当に可笑おかしくなった。

やがて着物を着がえて、誠太郎を送りながら表へ出て、自分は平岡の家をたずねた。

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やがて着物を着換えて、誠太郎を送りながら表へ出て、自分は平岡の家を訪ねた。

平岡の家は、この十数年らいの物価の値上がりにつれて、中くらいの暮らしの人たちがだんだん切りつめられて行くようすを、住まいの上によく表した、とてもそまつで見苦しい造りであった。

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平岡の家は、この十数年来の物価騰貴とうきれて、中流社会が次第々々に切り詰められて行く有様を、住宅の上に善く代表した、もっとも粗悪な見苦しき構えであった。

とくに代助にはそう見えた。

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とくに代助にはそう見えた。

門とげんかんの間が二メートルくらいしかない。

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門と玄関の間が一間位しかない。

勝手口もそのとおりである。

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勝手口もその通りである。

そうして、うらにも横にも同じようなせまい家が建てられていた。

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そうして裏にも、横にも同じ様な窮屈な家が建てられていた。

東京の町の貧しいふくらみにつけこんで、わずかな元手しかない者が、そのなけなしの元手を二割から三割の高い利息に回そうとたくらんで、けちくさく作り上げた、生き残り争いの記念であった。

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東京市の貧弱なる膨脹に付け込んで、最低度の資本家が、なけなしの元手を二割及至ないし三割の高利に廻そうと目論もくろんで、あたじけなくこしらえ上げた、生存競争の記念かたみであった。

今の東京、とくに町はずれの東京には、いたるところにこの種の家が散らばっている、それどころか、つゆに入ったノミのように、日ごとにとんでもない勢いで増えつつある。

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今日の東京市、ことに場末の東京市には、至る所にこの種の家が散点している、のみならず、梅雨つゆに入ったのみの如く、日毎ひごとに、格外の増加律をもって殖えつつある。

代助はかつて、これを「負けながらの発展」と名づけた。

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代助はかつて、これを敗亡の発展と名づけた。

そうして、これを今の日本を代表する一番よい象徴(しょうちょう)だとした。

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そうして、これを目下の日本を代表する最好の象徴シンボルとした。

それらのあるものは、石油かんの底をつぎ合わせた四角なうろこでおおわれている。

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彼等のあるものは、石油缶の底を継ぎ合わせた四角なうろこおおわれている。

それらの一つを借りて、夜中に柱の割れる音で目をさまさない者は一人もない。

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彼等の一つを借りて、夜中に柱の割れる音で眼をまさないものは一人もない。

それらの戸には必ずふし穴がある。

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彼等の戸には必ず節穴がある。

それらのふすまは必ずゆがみが出ると決まっている。

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彼等のふすまは必ず狂いが出ると極っている。

元手を頭の中につぎこんで、月々その頭から利息を取って暮らそうという人間は、みんなこういうところを借りて立てこもっている。

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資本を頭の中へ注ぎ込んで、月々その頭から利息を取って生活しようと云う人間は、みんなこういう所を借りて立てこもっている。

平岡もその一人であった。

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平岡もその一人いちにんであった。

代助は垣根の前を通るとき、まずその屋根に目がついた。

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代助は垣根の前を通るとき、ずその屋根に眼が付いた。

そうして、どす黒いかわらの色が、みょうに彼の心を刺激した。

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そうして、どす黒いかわらの色が妙に彼の心を刺激した。

代助には、この光のない土の板が、いくらでも水を吸いこむように思われた。

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代助にはこの光のない土の板が、いくらでも水を吸い込む様に思われた。

げんかんの前に、この間の引っ越しのときに解いたこも包みのわらくずが、まだこぼれていた。

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玄関前に、この間引越のときにほどいた菰包こもづつみ藁屑わらくずがまだこぼれていた。

ざしきへ通ると、平岡は机の前に座って、長い手紙を書きかけているところであった。

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座敷へ通ると、平岡は机の前へ坐って、長い手紙を書き掛けている所であった。

三千代は次の部屋で、たんすの取っ手をかたかた鳴らしていた。

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三千代は次の部屋で箪笥たんすの環をかたかた鳴らしていた。

そばに大きなこうりが開けてあって、中からきれいな長じゅばんのそでが半分出かかっていた。

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そばに大きな行李こりが開けてあって、中から奇麗な長襦袢ながじゅばんそでが半分出かかっていた。

平岡が、失礼だがちょっと待ってくれと言った間に、代助はこうりと長じゅばんと、ときどきこうりの中へ落ちる細い手とを見ていた。

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平岡が、失敬だがちょっと待ってくれと云った間に、代助は行李と長襦袢と、時々行李の中へ落ちるほそい手とを見ていた。

ふすまは開けたままで、閉めるようすもなかった。

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襖は明けたままて切る様子もなかった。

が、三千代の顔はかげになって見えなかった。

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が三千代の顔は陰になって見えなかった。

やがて平岡は、筆を机の上へ投げつけるようにして、座り直した。

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やがて、平岡は筆を机の上へげ付ける様にして、座を直した。

何だかこみ入ったことを一生けんめい書いていたと見えて、耳を赤くしていた。

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何だか込み入った事を懸命に書いていたと見えて、耳を赤くしていた。

目も赤くしていた。

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眼も赤くしていた。

「どうだい。この間はいろいろありがとう。あれからちょっとお礼に行こうと思って、まだ行かない」

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「どうだい。この間は色々難有ありがとう。その後一寸ちょっと礼に行こうと思って、まだ行かない」

平岡の言葉は、言い訳と言うより、むしろけんかを売るような調子に聞こえた。

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平岡の言葉は言訳と云わんよりむしろ挑戦の調子を帯びている様に聞こえた。

シャツもももひきもつけずに、すぐあぐらをかいた。

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襯衣シャツ股引ももひきも着けずにすぐ胡坐あぐらをかいた。

えりをきちんと合わせないので、胸毛が少し出ている。

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襟を正しく合せないので、胸毛が少し出ている。

「まだ落ち着かないだろう」

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「まだ落ち付かないだろう」

と代助が聞いた。

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と代助が聞いた。

「落ち着くどころか、このぶんじゃ一生落ち着きそうもない」

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「落ち付くどころか、この分じゃ生涯落ち付きそうもない」

と、忙しそうにたばこをすい出した。

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と、いそがしそうに烟草たばこを吹かし出した。

代助は、平岡がなぜこんな態度で自分に応対するか、よくわかっていた。

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代助は平岡が何故なぜこんな態度で自分に応接するか能く心得ていた。

決して自分に当たっているのではない、つまり世間に当たっているのだ、いや自分自身に当たっているのだと思って、かえって気のどくになった。

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決して自分にあたるのじゃない、つまり世間に中るんである、いな己れに中っているんだと思って、かえって気の毒になった。

けれども、代助のような神経には、この調子がとても不愉快にひびいた。

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けれども代助の様な神経には、この調子が甚だ不愉快に響いた。

ただ腹が立たないだけである。

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ただ腹が立たないだけである。

「家の具合はどうだい。部屋の並びはよさそうじゃないか」

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うちの都合は、どうだい。間取の具合はさそうじゃないか」

「うん、まあ、悪くてもしかたがない。気に入った家に入ろうと思えば、株でもやるよりほかにしようがなかろう。このごろ東京にできる立派な家は、みんな株屋が作るんだって言うじゃないか」

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「うん、まあ、悪くっても仕方がない。気に入った家へ這入はいろうと思えば、株でもるより外に仕様がなかろう。この頃東京に出来る立派な家はみんな株屋が拵えるんだって云うじゃないか」

「そうかも知れない。そのかわり、ああいう立派な家が一けん建つと、そのかげでどのくらいたくさんの家がつぶれているか知れやしない」

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「そうかも知れない。その代り、ああ云う立派な家が一軒立つと、その蔭に、どの位沢山な家がつぶれているか知れやしない」

「だからなお住みやすいだろう」

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「だからなお住み好いだろう」

平岡はこう言って大いに笑った。

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平岡はこう云って大いに笑った。

そこへ三千代が出て来た。

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其所そこへ三千代が出て来た。

先だっては、と軽く代助にあいさつをして、手に持った赤いフランネルのくるくると巻いたものを、座ると同時に前へ置いて代助に見せた。

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先達せんだってはと、軽く代助に挨拶あいさつをして、手に持った赤いフランネルのくるくると巻いたのを、坐ると共に、前へ置いて、代助に見せた。

「何ですか、それは」

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「何ですか、それは」

「赤ちゃんの着物なの。作ったまま、つい、まだほどかずにあったのを、今こうりの底を見たらあったから、出して来たんです」

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「赤んの着物なの。拵えたまま、つい、まだ、ほどかずにあったのを、今行李の底を見たら有ったから、出して来たんです」

と言いながら、つけひもを解いて、つつそでを左右に開いた。

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と云いながら、附紐つけひもを解いて筒袖を左右に開いた。

「ほら」

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「こら」

「まだそんなものをしまっといたのか。早くほどいてぞうきんにでもしてしまえ」

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「まだ、そんなものを仕舞っといたのか。早く壊して雑巾にでもしてしまえ」

三千代は子どもの着物をひざの上に載せたまま、返事もせずしばらくうつむいてながめていたが、

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三千代は小供の着物をひざの上に乗せたまま、返事もせずしばらく俯向うつむいて眺めていたが、

「あなたのと同じに作ったのよ」

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貴方あなたのと同じに拵えたのよ」

と言って夫のほうを見た。

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と云って夫の方を見た。

「これか」

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「これか」

平岡はかすりのあわせの下にネル(やわらかい毛の布)を重ねて、はだに直接着ていた。

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平岡はかすりあわせの下へ、ネルを重ねて、素肌に着ていた。

「これはもういかん。暑くて駄目だ」

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「これはもう不可いかん。暑くて駄目だ」

代助は初めて、昔の平岡を目の前に見た。

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代助は始めて、昔の平岡を当面まのあたりに見た。

「あわせの下にネルを重ねてはもう暑い。じゅばんにするといい」

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「袷の下にネルを重ねちゃもう暑い。襦袢にすると可い」

「うん、面倒だから着ているが」

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「うん、面倒だから着ているが」

「せんたくをするからお脱ぎなさいと言っても、なかなか脱がないのよ」

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「洗濯をするから御脱ぎなさいと云っても、中々脱がないのよ」

「いや、もう脱ぐ。俺も少し嫌になった」

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「いや、もう脱ぐ、己も少々いやになった」

話は、死んだ子どものことからとうとう離れてしまった。

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話は死んだ小供の事をとうとう離れてしまった。

そうして、来たときよりはいくらか、その場の空気にあたたかみができた。

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そうして、来た時よりは幾分か空気に暖味あたたかみが出来た。

平岡は久しぶりに一杯飲もうと言い出した。

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平岡は久し振りに一杯飲もうと云い出した。

三千代もしたくをするからゆっくりして行ってくれと、頼むように引き止めて、次の部屋へ立った。

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三千代も支度をするから、ゆっくりして行ってくれと頼む様に留めて、次の間へ立った。

代助はその後ろ姿を見て、どうにかして金を作ってやりたいと思った。

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代助はその後姿を見て、どうかして金を拵えてやりたいと思った。

「君、どこか勤め口の見当はついたか」

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「君何所どこか奉公口の見当は付いたか」

と聞いた。

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と聞いた。

「うん、まあ、あるようなないようなものだ。なければ当分遊ぶだけのことだ。ゆっくり探しているうちにはどうにかなるだろう」

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「うん、まあ、ある様な無い様なもんだ。無ければ当分遊ぶだけの事だ。緩くり探しているうちにはどうかなるだろう」

言うことは落ち着いているが、代助が聞くと、かえってあせって探しているようにしか思えない。

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云う事は落ち付いているが、代助が聞くと却ってあせって探している様にしか取れない。

代助は、昨日兄と自分の間で交わした話の結果を平岡に知らせようと思っていたのだが、この一言を聞いて、しばらくやめておくことにした。

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代助は、昨日きのう兄と自分の間に起った問答の結果を、平岡に知らせようと思っていたのだが、この一言いちごんを聞いて、しばらく見合せる事にした。

何だか、強がっている相手のめんつを、わざとこちらから傷つけるような気がしたからである。

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何だか、構えている向うの体面を、わざと此方こっちから毀損きそんする様な気がしたからである。

その上、金のことについては、平岡からはまだひと言も相談を受けたことがない。

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その上金の事に付いては平岡からはまだ一言いちげんの相談も受けた事もない。

だから、わざわざ表向きに話す必要もないのである。

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だから表向おもてむき挨拶をする必要もないのである。

ただ、こうして黙っていれば、平岡からは心の中で冷たい奴だと悪く思われるに決まっている。

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ただ、こうして黙っていれば、平岡からは、内心で、冷淡な奴だと悪く思われるに極っている。

けれども、今の代助はそういう悪口に対してほとんど何も感じない。

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けれども今の代助はそう云う非難に対して、ほとんど無感覚である。

またじっさい、自分はそう熱い人間じゃないと考えている。

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又実際自分はそう熱烈な人間じゃないと考えている。

三、四年前の自分になって今の自分を見れば、自分はだめになっているかも知れない。

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三四年ぜんの自分になって、今の自分を批判してみれば、自分は、堕落しているかも知れない。

けれども、今の自分から三、四年前の自分を振り返ってみると、たしかに自分の正しさを大げさに見せて、得意になって使い回していた。

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けれども今の自分から三四年前の自分を回顧してみると、たしかに、自己の道念を誇張して、得意に使い回していた。

めっきを本物の金として通そうとする苦しいやりくりより、しんちゅう(黄色い安い金属)はしんちゅうのままで通して、しんちゅう並みにばかにされるのをがまんするほうが楽である。

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鍍金めっききんに通用させようとする切ない工面より、真鍮しんちゅうを真鍮で通して、真鍮相当の侮蔑ぶべつを我慢する方が楽である。

と、今は考えている。

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と今は考えている。

代助がしんちゅうでいいと思うようになったのは、突然大きな波に巻きこまれて、驚いたあまり心を入れかえた、というような小説じみた出来事があったからではない。

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代助が真鍮を以て甘んずる様になったのは、不意に大きな狂瀾きょうらんき込まれて、驚ろきの余り、心機一転の結果を来たしたという様な、小説じみた歴史をっているためではない。

まったく彼自身の考える力と観察する力によって、だんだんめっきを自分ではがして来ただけである。

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全く彼れ自身に特有な思索と観察の力によって、次第々々に鍍金を自分でがして来たに過ぎない。

代助は、このめっきの大半を父がぬりつけたものと信じている。

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代助はこの鍍金の大半をもって、親爺おやじ捺摺なすり付けたものと信じている。

そのころは父が本物の金に見えた。

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その時分は親爺が金に見えた。

多くの先輩が本物の金に見えた。

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多くの先輩が金に見えた。

それなりの教育を受けた者は、みな本物の金に見えた。

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相当の教育を受けたものは、みな金に見えた。

だから、自分のめっきがつらかった。

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だから自分の鍍金がつらかった。

早く本物になりたいとあせってみた。

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早く金になりたいと焦ってみた。

ところが、ほかの人の地金(じがね。めっきの下の中身)に自分の目が直接ぶつかるようになってからは、それが急にばかな苦労のように思われ出した。

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ところが、ほかのものの地金じがねへ、自分の眼光がじかにつかる様になって以後は、それが急に馬鹿な尽力の様に思われ出した。

代助は同時にこう考えた。

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代助は同時にこう考えた。

自分が三、四年の間にこれほど変わったのだから、同じ三、四年の間に平岡も、彼自身の経験の中でだいぶ変わっているだろう。

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自分が三四年の間に、これまで変化したんだから、同じ三四年の間に、平岡も、かれ自身の経験の範囲内で大分変化しているだろう。

昔の自分なら、なるべく平岡によく思われたい気持ちから、こんな場合には兄とけんかをしても、父と言い争っても平岡のために動いたろう、またそのしたことを平岡のところへ来て大げさに話したろうが、それを期待するのはやはり昔の平岡で、今の彼はそれほど友達を大事に見ていないだろう。

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昔しの自分なら、なるべく平岡によく思われたい心から、こんな場合には兄と喧嘩けんかをしても、父と口論をしても、平岡の為に計ったろう、又その計った通りを平岡の所へ来て事々しく吹聴ふいちょうしたろうが、それを予期するのは、やっぱり昔の平岡で、今の彼はさ程に友達を重くは見ていまい。

それで肝心の話はひと言ふた言でやめて、あとはいろいろな雑談で時を過ごすうちに酒が出た。

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それで肝心の話は一二言いちにげんめて、あとは色々な雑談に時を過ごすうちに酒が出た。

三千代がとっくりのしりを持ってお酌(しゃく)をした。

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三千代が徳利のしりを持って御酌をした。

平岡は酔うにつれて、だんだん口数が多くなって来た。

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平岡は酔うに従って、段々口が多くなって来た。

この男はいくら酔っても、なかなかふだんと変わらないことがある。

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この男はいくら酔っても、中々平生を離れない事がある。

かと思うと、たいへん元気づいて、話し方に一種の楽しさがまじって来る。

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かと思うと、大変に元気づいて、調子に一種の悦楽を帯びて来る。

そうなると、ふつうの酒飲み以上によくしゃべる上に、ときには比較的真面目な話題を持ち出して、相手と議論をやり取りして楽しそうに見える。

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そうなると、普通の酒家以上に、く弁ずる上に、時としては比較的真面目まじめな問題を持ち出して、相手と議論を上下しょうかして楽し気に見える。

代助は昔、ビールのびんをたがいの間にならべて、よく平岡と議論を戦わせたことを覚えている。

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代助はその昔し、麦酒ビールびんを互の間にならべて、よく平岡と戦った事を覚えている。

代助にとって不思議なのは、平岡がこういう状態になったときが、一番平岡と議論しやすいと感じることであった。

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代助に取って不思議とも思われるのは、平岡がこう云う状態に陥った時が、一番平岡と議論がしやすいと云う自覚であった。

また酒を飲んで本音を言おうか、と平岡のほうからよく言ったものだ。

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又酒をんで本音を吐こうか、と平岡の方からよく云ったものだ。

今の二人の立場は、そのころとはだいぶ離れて来た。

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今日こんにちの二人の境界はその時分とは、大分離れて来た。

そうして、その離れたまま近づく道が見つけにくいことを、二人とも心の中でわかっている。

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そうして、その離れて、近づくみち見出みいだにくい事実を、双方共に腹の中で心得ている。

東京へ着いた次の日、三年ぶりで再会した二人は、そのときすでに、二人ともいつの間にかたがいのそばを離れていたことに気づいた。

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東京へ着いた翌日あくるひ、三年振りで邂逅かいこうした二人は、その時既に、二人ともに何時いつか互の傍を立退いていたことを発見した。

ところが今日はみょうである。

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ところが今日は妙である。

酒を飲めば飲むほど、平岡が昔の調子を出して来た。

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酒に親しめば親しむ程、平岡が昔の調子を出して来た。

うまいぐあいに酒が回って、目の前の金のことや、毎日の暮らしや、それにともなう苦しみや、不満や、心の底のざわめきを、まったくまひさせてしまったように見える。

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うまい局所へ酒が回って、刻下の経済や、目前の生活や、又それに伴う苦痛やら、不平やら、心の底の騒がしさやらを全然痳痺まひしてしまった様に見える。

平岡の話は、一気に高いところへ飛び上がった。

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平岡の談話は一躍して高い平面に飛び上がった。

「ぼくは失敗したさ。けれども失敗しても働いている。またこれからも働くつもりだ。君はぼくが失敗したのを見て笑っている。――笑わないと言ったって、けっきょく笑ってるのと同じことになるんだから構わない。いいか、君は笑っている。笑っているが、その君は何もしないじゃないか。君は世の中をありのままで受け取る男だ。言いかえると、自分の意志を伸ばすことのできない男だろう。意志がないと言うのはうそだ。人間だもの。その証拠に、いつも物足りないにちがいない。ぼくは自分の意志を今の社会に働きかけて、その社会が自分の意志のおかげで少しでも自分の思いどおりになったという証拠をつかまなくちゃ、生きていられないね。そこにぼくという人間の値打ちがあると思うんだ。君はただ考えている。考えてるだけだから、頭の中の世界と頭の外の世界を別々に建てて生きている。この大きな食いちがいをがまんしているところが、すでに目に見えない大失敗じゃないか。なぜかと言って見たまえ。ぼくのはその食いちがいを外へ出しただけで、君のは中に押しこんでおくだけの話だから、外に出した分だけ、ぼくのほうが本当の失敗は少ないかも知れない。でもぼくは君に笑われている。そうしてぼくは君を笑うことができない。いや笑いたいんだが、世間から見ると笑っちゃいけないんだろう」

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「僕は失敗したさ。けれども失敗しても働らいている。又これからも働らく積りだ。君は僕の失敗したのを見て笑っている。――笑わないたって、要するに笑ってると同じ事に帰着するんだから構わない。いいか、君は笑っている。笑っているが、その君は何もないじゃないか。君は世の中を、ありのままで受け取る男だ。言葉を換えて云うと、意志を発展させる事の出来ない男だろう。意志がないと云うのはうそだ。人間だもの。その証拠には、始終物足りないに違ない。僕は僕の意志を現実社会に働き掛けて、その現実社会が、僕の意志の為に、幾分でも、僕の思い通りになったと云う確証を握らなくっちゃ、生きていられないね。そこに僕と云うものの存在の価値を認めるんだ。君はただ考えている。考えてるだけだから、頭の中の世界と、頭の外の世界を別々に建立こんりゅうして生きている。この大不調和を忍んでいる所が、既に無形の大失敗じゃないか。何故と云って見給みたまえ。僕のはその不調和を外へ出したまでで、君のは内に押し込んで置くだけの話だから、外面に押し掛けただけ、僕の方が本当の失敗の度は少ないかも知れない。でも僕は君に笑われている。そうして僕は君を笑う事が出来ない。いや笑いたいんだが、世間から見ると、笑っちゃ不可いけないんだろう」

「何、笑っても構わない。君がぼくを笑う前に、ぼくはすでに自分を笑っているんだから」

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「何笑っても構わない。君が僕を笑う前に、僕は既に自分を笑っているんだから」

「そりゃうそだ。ねえ三千代」

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「そりゃ、嘘だ。ねえ三千代」

三千代は先ほどから黙って座っていたが、夫から突然話をふられたとき、にこりと笑って代助を見た。

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三千代は先刻さっきから黙って坐っていたが、夫から不意に相談を受けた時、にこりと笑って、代助を見た。

「本当でしょう、三千代さん」

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「本当でしょう、三千代さん」

と言いながら、代助はさかずきを出して酒を受けた。

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と云いながら、代助はさかずきを出して、酒を受けた。

「そりゃうそだ。俺の妻がいくらかばったってうそだ。もっとも君は人を笑っても自分を笑っても、両方とも頭の中でやる人だから、うそか本当かそのへんははっきりわからないが……」

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「そりゃ嘘だ。おれの細君が、いくら弁護したって、嘘だ。もっとも君は人を笑っても、自分を笑っても、両方共頭の中で遣る人だから、嘘か本当かその辺はしかと分らないが……」

「冗談を言っちゃいけない」

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「冗談云っちゃ不可ない」

「冗談じゃない。まったく本気であります。そりゃ昔の君はそうじゃなかった。昔の君はそうじゃなかったが、今の君はだいぶちがってるよ。ねえ三千代。長井はだれが見たって大得意じゃないか」

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「冗談じゃない。全く本気の沙汰であります。そりゃ昔の君はそうじゃ無かった。昔の君はそうじゃ無かったが、今の君は大分違ってるよ。ねえ三千代。長井は誰が見たって、大得意じゃないか」

「何だか先ほどからそばで聞いていると、あなたのほうがよほどご得意のようよ」

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「何だか先刻さっきから、そばで伺がってると、貴方の方が余っ程御得意の様よ」

平岡は大きな声を出してハハハと笑った。

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平岡は大きな声を出してハハハと笑った。

三千代はかんとっくりを持って、次の部屋へ立った。

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三千代は燗徳利かんどくりを持って次の間へ立った。

平岡はぜんの上のさかなを二口三口、はしでつついて、下を向いたままむしゃむしゃ食べていたが、やがて、どんよりした目を上げて言った。――

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平岡は膳の上のさかなを二口三口、はしで突っついて、下を向いたまま、むしゃむしゃ云わしていたが、やがて、どろんとした眼を上げて、云った。――

「今日は久しぶりにいい気持ちに酔った。なあ君。――君はあまりいい気持ちにならないね。どうもけしからん。ぼくが昔の平岡常次郎になってるのに、君が昔の長井代助にならないのはけしからん。ぜひなりたまえ。そうして、大いにやってくれたまえ。ぼくもこれからやる。だから君もやってくれたまえ」

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「今日は久し振りにい心持に酔った。なあ君。――君はあんまり好い心持にならないね。どうも怪しからん。僕が昔の平岡常次郎になってるのに、君が昔の長井代助にならないのは怪しからん。是非なり給え。そうして、大いに遣ってくれ給え。僕もこれから遣る。から君も遣ってくれ給え」

代助はこの言葉の中に、今の自分を昔に返そうとする、まっすぐで、また素直な一種の努力を感じた。

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代助はこの言葉のうちに、今の自己を昔に返そうとする真率な又無邪気な一種の努力を認めた。

そうして、それに心を動かされた。

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そうして、それに動かされた。

けれども一方では、おととい食べたパンを今返せとせがまれるような気がした。

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けれども一方では、一昨日おととい、食った麺麭パンを今返せと強請ねだられる様な気がした。

「君は酒を飲むと、言葉だけ酔っぱらっても、頭はたいてい確かな男だから、ぼくも言うがね」

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「君は酒を呑むと、言葉だけ酔払っても、頭は大抵確かな男だから、僕も云うがね」

「それだ。それでこそ長井君だ」

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「それだ。それでこそ長井君だ」

代助は急に言うのが嫌になった。

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代助は急に云うのが厭になった。

「君、頭は確かかい」

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「君、頭はたしかかい」

と聞いた。

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と聞いた。

「確かだとも。君さえ確かなら、こっちはいつでも確かだ」

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「確だとも。君さえ確なら此方こっちは何時でも確だ」

と言って、ちゃんと代助の顔を見た。

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と云って、ちゃんと代助の顔を見た。

じっさい、自分の言うとおりの男である。

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実際自分の云う通りの男である。

そこで代助が言った。――

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そこで代助が云った。――

「君はさっきから、働かない働かないと言ってだいぶぼくを責めたが、ぼくは黙っていた。責められるとおり、ぼくは働かないつもりだから黙っていた」

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「君はさっきから、働らかない働らかないと云って、大分僕を攻撃したが、僕は黙っていた。攻撃される通り僕は働らかない積りだから黙っていた」

「なぜ働かない」

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「何故働かない」

「なぜ働かないって、それはぼくが悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。もっと大げさに言うと、日本と西洋の関係が駄目だから働かないのだ。第一、日本ほど借金をかかえて貧乏ぶるいをしている国はありゃしない。この借金が君、いつになったら返せると思うか。外国からの借金くらいは返せるだろう。けれども、そればかりが借金じゃありゃしない。日本は西洋から借金でもしなければ、とても立ちゆかない国だ。それでいて、一等国のつもりでいる。そうして、無理にも一等国の仲間入りをしようとする。だから、あらゆる方面で奥ゆきをけずって、一等国だけの間口(まぐち)を広げてしまった。なまじ広げられるから、なおみじめだ。牛と張り合うカエルと同じことで、もう君、腹が裂けるよ。そのえいきょうはみんな我々一人ひとりの上に返って来ているから見たまえ。こう西洋におされている国民は頭によゆうがないから、ろくな仕事はできない。何もかも切りつめた教育で、そうして目が回るほどこき使われるから、そろって神経衰弱(しんけいすいじゃく)になっちまう。話をして見たまえ、たいていはばかだから。自分のことと、今日の、今この時のことよりほかに何も考えてやしない。考えられないほど疲れているんだからしかたがない。心の疲れと体の弱りとは、不幸なことにいっしょに来る。そればかりでなく、道徳の乱れもいっしょに来ている。日本じゅうどこを見わたしたって、輝いている面は数センチ四方もないじゃないか。何もかも真っ暗だ。その中でぼく一人が何を言ったって、何をしたって、しようがないさ。ぼくはもともとなまけ者だ。いや、君といっしょに行き来していたころからなまけ者だ。あのときは無理に元気そうにしていたから、君には見こみがあるように見えたんだろう。それは今だって、日本の社会が心の上でも道徳の上でも体の上でも、だいたい健康なら、ぼくは今でも見こみがあるのさ。そうなればやることはいくらでもあるからね。そうして、ぼくのなまけぐせに打ち勝つだけの刺激も、いくらでも出て来るだろうと思う。しかしこれじゃ駄目だ。

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「何故働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。もっと、大袈裟おおげさに云うと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。第一、日本程借金をこしらえて、貧乏震いをしている国はありゃしない。この借金が君、何時になったら返せると思うか。そりゃ外債位は返せるだろう。けれども、そればかりが借金じゃありゃしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ちかない国だ。それでいて、一等国を以て任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入をしようとする。だから、あらゆる方面に向って、奥行を削って、一等国だけの間口を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争をするかえると同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。その影響はみんな我々個人の上に反射しているから見給え。こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、ろくな仕事は出来ない。ことごとく切り詰めた教育で、そうして目の廻る程こき使われるから、そろって神経衰弱になっちまう。話をして見給え大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日の、只今の事より外に、何も考えてやしない。考えられない程疲労しているんだから仕方がない。精神の困憊こんぱいと、身体しんたいの衰弱とは不幸にして伴なっている。のみならず、道徳の敗退も一所に来ている。日本国中何所を見渡したって、輝いてる断面は一寸四方も無いじゃないか。悉く暗黒だ。その間に立って僕一人が、何と云ったって、何を為たって、仕様がないさ。僕は元来怠けものだ。いや、君と一所に往来している時分から怠けものだ。あの時は強いて景気をつけていたから、君には有為多望の様に見えたんだろう。そりゃ今だって、日本の社会が精神的、徳義的、身体的に、大体の上において健全なら、僕は依然として有為多望なのさ。そうなれば遣る事はいくらでもあるからね。そうして僕の怠惰性に打ち勝つだけの刺激もまたいくらでも出来て来るだろうと思う。しかしこれじゃ駄目だ。

今のようなら、ぼくはむしろ自分だけの世界にいる。

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今の様なら僕はむしろ自分だけになっている。

そうして、君の言うありのままの世界をありのままに受け取って、その中でぼくに一番合うものとふれ合って満足する。

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そうして、君の所謂いわゆる有のままの世界を、有のままで受取って、そのうち僕に尤も適したものに接触を保って満足する。

進んでほかの人をこちらの考えどおりにするなんて、とてもできる話じゃありゃしないもの――」

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進んで外の人を、此方こっちの考え通りにするなんて、到底出来た話じゃありゃしないもの――」

代助はちょっと息をついだ。

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代助は一寸ちょっと息を継いだ。

そうして、ちょっと窮屈そうにひかえている三千代のほうを見て、お世辞を言った。

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そうして、一寸窮屈そうに控えている三千代の方を見て、御世辞を遣った。

「三千代さん。どうです、私の考えは。ずいぶんのんきでいいでしょう。さんせいしませんか」

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「三千代さん。どうです、私の考は。随分呑気のんきいでしょう。賛成しませんか」

「何だか世の中が嫌いなような、のんきなような、みょうなのね。私、よくわからないわ。けれども、少しごまかしていらっしゃるようよ」

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「何だか厭世えんせいの様な呑気の様な妙なのね。わたしよく分らないわ。けれども、少し胡麻化ごまかしていらっしゃる様よ」

「へええ。どこのところを」

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「へええ。何処どこん所を」

「どこのところって、ねえあなた」

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「何処ん所って、ねえ貴方」

と三千代は夫を見た。

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と三千代は夫を見た。

平岡はもものつけ根にひじをのせて、ひじの上にあごを載せて黙っていたが、何も言わずにさかずきを代助の前に出した。

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平岡はももの上へひじを乗せて、肱の上へあごを載せて黙っていたが、何にも云わずに盃を代助の前に出した。

代助も黙って受けた。

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代助も黙って受けた。

三千代はまた酒をついだ。

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三千代は又酌をした。

代助はさかずきにくちびるをつけながら、これから先はもう言う必要がないと感じた。

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代助は盃へ唇を付けながら、これから先はもう云う必要がないと感じた。

もともと平岡を自分と同じ考えにさせるための議論でもないし、また平岡から意見を言われに来た訪問でもない。

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元来が平岡を自分の様に考え直させる為の弁論でもなし、又平岡から意見されに来た訪問でもない。

二人はいつまで経っても、別々の人間として離れていなければならない運命なのだと初めからわかっているから、議論はいいかげんに切り上げて、三千代も入れるような、ふつうの世間話に持って行こうとした。

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二人はいつまで立っても、二人として離れていなければならない運命をっているんだと、始めから心付ているから、議論はい加減に引き上げて、三千代の仲間入りの出来る様な、普通の社交上の題目に談話を持って来ようと試みた。

けれども、平岡は酔うとしつこくなる男であった。

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けれども、平岡は酔うとしつこくなる男であった。

胸毛の奥まで赤くなった胸を突き出して、こう言った。

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胸毛の奥まで赤くなった胸を突き出して、こう云った。

「そいつはおもしろい。大いにおもしろい。ぼくみたいに現実の一部分とぶつかって苦しんでいる者は、そんなことを考えるよゆうがない。日本が貧しくたって、弱虫だって、働いているうちは忘れているからね。世の中がだめになったって、そのだめさに気がつかないで、その中で動いているんだからね。君のようなひまな人から見れば、日本の貧しさやぼくらのだめさが気になるかも知れないが、それはこの社会で用のない見物人だけが言えることだ。つまり自分の顔を鏡で見るよゆうがあるから、そうなるんだ。忙しいときは、自分の顔のことなんかだれだって忘れているじゃないか」

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「そいつは面白い。大いに面白い。僕みた様に局部に当って、現実と悪闘しているものは、そんな事を考える余地がない。日本が貧弱だって、弱虫だって、働らいてるうちは、忘れているからね。世の中が堕落したって、世の中の堕落に気が付かないで、そのうちに活動するんだからね。君の様な暇人ひまじんから見れば日本の貧乏や、僕等の堕落が気になるかも知れないが、それはこの社会に用のない傍観者にして始めて口にすべき事だ。つまり自分の顔を鏡で見る余裕があるから、そうなるんだ。忙がしい時は、自分の顔の事なんか、誰だって忘れているじゃないか」

平岡はしゃべっているうちに、自然とこのたとえにぶつかって、強い味方を得たような気持ちがしたので、そこで得意になって話を区切った。

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平岡は饒舌しゃべってるうち、自然とこの比喩ひゆつかって、大いなる味方を得た様な心持がしたので、其所そこで得意に一段落をつけた。

代助はしかたなしにうす笑いをした。

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代助は仕方なしに薄笑いをした。

すると平岡は、すぐあとを付け足した。

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すると平岡はすぐ後を附加えた。

「君は金に困らないからいけない。暮らしに困らないから、働く気にならないんだ。つまり坊っちゃんだから、上品なことばっかり言っていて――」

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「君は金に不自由しないから不可いけない。生活に困らないから、働らく気にならないんだ。要するに坊ちゃんだから、品の好い様なことばっかり云っていて、――」

代助は少し平岡が憎らしくなったので、突然とちゅうで相手をさえぎった。

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代助は少々平岡が小憎らしくなったので、突然中途で相手をさえぎった。

「働くのもいいが、働くなら、生きるため以上の働きでなくちゃ名誉にならない。ほんとうに尊い働きは、みんなパンから離れている」

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「働らくのもいが、働らくなら、生活以上のはたらきでなくっちゃ名誉にならない。あらゆる神聖な労力は、みんな麺麭パンを離れている」

平岡は不思議に不愉快な目をして、代助の顔をうかがった。

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平岡は不思議に不愉快な眼をして、代助の顔をうかがった。

そうして、

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そうして、

「なぜ」

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何故なぜ

と聞いた。

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と聞いた。

「なぜって、生きるための働きは、働きそのもののための働きじゃないもの」

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「何故って、生活の為めの労力は、労力の為めの労力でないもの」

「そんな理屈っぽい言い方はわからないな。もう少し実際の人間に通じる言葉で言ってくれ」

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「そんな論理学の命題みた様なものは分らないな。もう少し実際的の人間に通じる様な言葉で云ってくれ」

「つまり、食べるための仕事は、まじめにはやりにくいという意味さ」

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「つまり食う為めの職業は、誠実にゃ出来にくいと云う意味さ」

「ぼくの考えとはまるで反対だね。食べるためだから、必死に働く気になるんだろう」

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「僕の考えとはまるで反対だね。食う為めだから、猛烈に働らく気になるんだろう」

「必死には働けるかも知れないが、まじめには働きにくいよ。食べるための働きと言うと、つまり食べるのと働くのと、どちらが目的だと思う」

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「猛烈には働らけるかも知れないが誠実には働らき悪いよ。食う為の働らきと云うと、つまり食うのと、働らくのと何方どっちが目的だと思う」

「もちろん食べるほうさ」

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「無論食う方さ」

「それ見たまえ。食べるほうが目的で働くほうが手段なら、食べやすいように働き方を合わせて行くのが当然だろう。そうすれば、何を働いたって、どう働いたって構わない、ただパンが手に入ればいいということになってしまうじゃないか。働きの中身も方向も、順序までも、みんなよそから決められる以上は、その働きはだめになった働きだ」

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「それ見給え。食う方が目的で働らく方が方便なら、食いやすい様に、働らき方を合せて行くのが当然だろう。そうすりゃ、何を働らいたって、又どう働らいたって、構わない、只麺麭が得られればいと云う事に帰着してしまうじゃないか。労力の内容も方向も乃至ないし順序も悉くから制肘せいちゅうされる以上は、その労力は堕落の労力だ」

「まだ理屈っぽいね、どうも。それで別に困らないじゃないか」

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「まだ理論的だね、どうも。それで一向差支さしつかえないじゃないか」

「では、とびきり上等な例で説明してやろう。古い話だが、ある本でこんなことを読んだ覚えがある。織田信長(おだのぶなが)がある有名な料理人をやとったところ、初めてその料理人の作ったものを食べてみるととてもまずかったので、たいへん小言を言ったそうだ。料理人のほうでは最高の料理を食べさせてしかられたものだから、その次からは二流か三流の料理を主人に出して、いつもほめられたそうだ。この料理人を見たまえ。生きるために働くことは抜け目のない男だろうが、自分のうでである料理そのもののために働く点から言えば、とてもふまじめじゃないか、だめになった料理人じゃないか」

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「ではごく上品な例で説明してやろう。古臭い話だが、ある本でこんな事を読んだ覚えがある。織田信長が、ある有名な料理人を抱えたところが、始めて、その料理人の拵えたものを食ってみるとすこぶ不味まずかったんで、大変小言を云ったそうだ。料理人の方では最上の料理を食わして、しかられたものだから、その次からは二流もしくは三流の料理を主人にあてがって、始終褒められたそうだ。この料理人を見給え。生活の為に働らく事は抜目のない男だろうが、自分の技芸たる料理その物のために働らく点から云えば、頗る不誠実じゃないか、堕落料理人じゃないか」

「だって、そうしなければくびになるんだからしかたがあるまい」

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「だってそうしなければ解雇されるんだから仕方があるまい」

「だからさ。着る物と食べ物に困らない人が、言ってみれば好きでやる働きでなくちゃ、まじめな仕事はできるものじゃないんだよ」

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「だからさ。衣食に不自由のない人が、云わば、物数奇ものずきにやる働らきでなくっちゃ、真面目な仕事は出来るものじゃないんだよ」

「そうすると、君のような身分の者でなくちゃ、尊い働きはできないわけだ。じゃ、ますますやる義務がある。なあ三千代」

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「そうすると、君の様な身分のものでなくっちゃ、神聖の労力は出来ない訳だ。じゃますます遣る義務がある。なあ三千代」

「本当ですわ」

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「本当ですわ」

「何だか話が元へ戻っちまった。これだから議論はいけないよ」

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「何だか話が、元へ戻っちまった。これだから議論は不可ないよ」

と言って、代助は頭をかいた。

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と云って、代助は頭をいた。

議論はそれで、とうとうおしまいになった。

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議論はそれで、とうとう御仕舞になった。

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代助はふろへ入った。

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代助は風呂へ這入はいった。

「先生、どうです、おかんは。もう少し火を強くしましょうか」

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「先生、どうです、御燗は。もう少しさせましょうか」

と門野が突然入り口から顔を出した。

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と門野が突然入り口から顔を出した。

門野はこういうことにはよく気のつく男である。

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門野はこう云う事にはく気の付く男である。

代助はじっと湯につかったまま、

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代助は、じっと湯につかったまま、

「けっこう」

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「結構」

と答えた。

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と答えた。

すると、門野が、

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すると、門野が、

「ですか」

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「ですか」

と言い捨てて、茶の間のほうへ引き返した。

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と云い棄てて、茶の間の方へ引き返した。

代助は門野の返事の仕方がひどくおもしろくて、一人でにやにやと笑った。

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代助は門野の返事のし具合に、いたく興味をって、独りにやにやと笑った。

代助には、人が感じないことを感じる神経がある。

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代助には人の感じ得ない事を感じる神経がある。

そのため、ときどき苦しい思いもする。

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それがため時々苦しい思もする。

あるとき、友達の父親が死んで葬式のおともをしたが、ふとその友達がしょうぞくを着て青竹をついて、ひつぎのあとについて行く姿を見て、おかしくなって困ったことがある。

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ある時、友達の御親爺おやじさんが死んで、葬式の供に立ったが、不図その友達が装束を着て、青竹を突いて、ひつぎのあとへ付いて行く姿を見て可笑おかしくなって困った事がある。

またあるときは、自分の父からお説教を聞いているさいちゅうに、何の気もなく父の顔を見たら、急にふき出したくなって弱りきったことがある。

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又ある時は、自分の父から御談義を聞いている最中に、何の気もなく父の顔を見たら、急に吹き出したくなって弱り抜いた事がある。

自分の家にふろを作らないころは、つい近所のせんとうに行ったが、そこに一人、体つきのたくましい三助(さんすけ。背中を流す係)がいた。

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自宅に風呂を買わない時分には、つい近所の銭湯に行ったが、其所そこに一人の骨骼こっかくたくましい三助がいた。

これが行くたびに奥から飛び出して来て、お流ししましょうと言っては背中をこする。

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これが行くたんびに、奥から飛び出して来て、流しましょうと云っては脊中せなかこする。

代助はそいつに体をごしごしやられるたびに、どうしてもエジプト人にやられているような気がした。

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代助は其奴そいつに体をごしごしられる度に、どうしても、埃及人エジプトじんに遣られている様な気がした。

いくら思い直しても、日本人とは思えなかった。

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いくら思い返しても日本人とは思えなかった。

まだ不思議なことがある。

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まだ不思議な事がある。

この間、ある本を読んだら、ウェーバーという体のしくみを研究する学者は、自分の心臓の打ち方を、速くしたりおそくしたり、自由に変えたと書いてあったので、ふだんから心臓の音を試すくせのある代助は、ためしにやってみたくなって、一日に二、三回くらいこわごわ試しているうちに、どうやらウェーバーと同じようになりそうなので、急に驚いてやめにした。

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この間、ある書物を読んだら、ウエバーと云う生理学者は自分の心臓の鼓動を、増したり、減したり、随意に変化さしたと書いてあったので、平生から鼓動を試験する癖のある代助は、ためしに遣ってみたくなって、一日に二三回位怖々こわごわながら試しているうちに、どうやら、ウエバーと同じ様になりそうなので、急に驚ろいてめにした。

湯の中に静かにつかっていた代助は、何の気なしに右の手を左の胸の上へ持って行ったが、どんどんという命の音を二、三度聞くとすぐ、たちまちウェーバーを思い出して、すぐ洗い場へ下りた。

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湯のなかに、静かに浸っていた代助は、何の気なしに右の手を左の胸の上へ持って行ったが、どんどんと云う命の音を二三度聞くやいなや、たちまちウエバーを思い出して、すぐ流しへ下りた。

そうして、そこにあぐらをかいたまま、ぼんやりと自分の足を見つめていた。

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そうして、其所に胡坐あぐらをかいたまま、茫然ぼうぜんと、自分の足を見詰めていた。

すると、その足が変になり始めた。

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するとその足が変になり始めた。

どうも自分の体から生えているのでなくて、自分とはまったく関係のないものが、そこに行儀悪く横たわっているように思われて来た。

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どうも自分の胴から生えているんでなくて、自分とは全く無関係のものが、其所に無作法によこたわっている様に思われて来た。

そうなると、今までは気がつかなかったが、じつに見ていられないほどみにくいものである。

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そうなると、今までは気が付かなかったが、実に見るに堪えない程醜くいものである。

毛がふぞろいに伸びて、青いすじがところどころにはって、いかにも不思議な生き物である。

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毛が不揃むらに延びて、青い筋が所々にはびこって、如何いかにも不思議な動物である。

代助はまた湯に入って、平岡の言ったとおり、まったくひまがありすぎるので、こんなことまで考えるのかと思った。

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代助は又湯に這入って、平岡の云った通り、全く暇があり過ぎるので、こんな事まで考えるのかと思った。

湯から出てかがみに自分の姿を映したとき、また平岡の言葉を思い出した。

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湯から出て、鏡に自分の姿を写した時、又平岡の言葉を思い出した。

はばの厚い西洋かみそりであごとほおをそる段になって、そのするどい刃がかがみのうらできらめく色が、一種むずむずするような気持ちを起こさせた。

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幅の厚い西洋髪剃かみそりで、顎と頬を剃る段になって、その鋭どい刃が、鏡の裏でひらめく色が、一種むずがゆい様な気持を起さした。

これが強くなると、高い塔(とう)の上からはるか下を見下ろすのと同じになるのだと思いながら、ようやくそり終わった。

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これがはげしくなると、高い塔の上から、はるかの下を見下すのと同じになるのだと意識しながら、ようやく剃り終った。

茶の間を通りぬけようとしたとき、

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茶の間を抜けようとする拍子に、

「どうも先生はうまいよ」

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「どうも先生はうまいよ」

と門野がおばあさんに話していた。

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と門野がばあさんに話していた。

「何がうまいんだ」

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「何が旨いんだ」

と代助は立ちながら、門野を見た。

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と代助は立ちながら、門野を見た。

門野は、

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門野は、

「やあ、もうお上がりですか。早いですな」

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「やあ、もう御上りですか。早いですな」

と答えた。

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と答えた。

このあいさつでは、もう一度、何がうまいんだと聞けなくなったので、そのまま書斎へ帰って、いすに腰を掛けて休んでいた。

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この挨拶あいさつでは、もう一遍、何が旨いんだと聞かれもしなくなったので、そのまま書斎へ帰って、椅子いすに腰を掛けて休息していた。

休みながら、こう頭がみょうな方向にするどく働き出しては体に毒だから、少し旅行でもしようかと思ってみた。

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休息しながら、こう頭が妙な方面に鋭どく働き出しちゃ、身体の毒だから、と旅行でもしようかと思ってみた。

一つには、近ごろ持ち上がった結婚の話をさけるのに都合がいいとも考えた。

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一つは近来持ち上った結婚問題を避けるに都合が好いとも考えた。

すると、また平岡のことがみょうに気にかかって、旅に出る計画をすぐ打ち消してしまった。

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すると又平岡の事が妙に気に掛って、転地する計画をすぐ打ち消してしまった。

それをよく考えつめてみると、平岡のことが気にかかるのではない、やはり三千代のことが気にかかるのである。

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それを能くせんじ詰めてみると、平岡の事が気に掛るのではない、やっぱり三千代の事が気にかかるのである。

代助はそこまで考えても、とくに悪いこととは感じなかった。

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代助は其所まで押して来ても、別段不徳義とは感じなかった。

むしろ楽しい気持ちがした。

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寧ろ愉快な心持がした。

代助が三千代と知り合ったのは、今から四、五年前のことで、代助がまだ学生のころであった。

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代助が三千代と知り合になったのは、今から四五年前の事で、代助がまだ学生の頃であった。

代助は長井家の関係から、当時のつきあいの世界の表に出て来る若い女の顔も名も、たくさん知っていた。

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代助は長井家の関係から、当時交際社会の表面にあらわれて出た、若い女の顔も名も、沢山に知っていた。

けれども、三千代はそういう方面の女ではなかった。

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けれども三千代はその方面の婦人ではなかった。

見た目から言うと、もっと地味で、気持ちから言うと、もう少ししずんでいた。

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色合から云うと、もっと地味で、気持から云うと、もう少し沈んでいた。

そのころ、代助の学友に菅沼(すがぬま)というのがあって、代助とも平岡とも親しくつきあっていた。

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その頃、代助の学友に菅沼すがぬまと云うのがあって、代助とも平岡とも、親しく附合っていた。

三千代はその妹である。

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三千代はそのいもとである。

この菅沼は東京に近い県の者で、学生になった二年目の春、勉強のためと言って国から妹を連れて来ると同時に、今までの下宿を引きはらって、二人で家を持った。

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この菅沼は東京近県のもので、学生になった二年目の春、修業の為と号して、国から妹を連れて来ると同時に、今までの下宿を引き払って、二人して家を持った。

そのとき、妹は国の高等女学校を卒業したばかりで、年はたしか十八とかいう話だったが、はでな半襟をかけて、かたあげをしていた。

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その時妹は国の高等女学校を卒業したばかりで、年はたしか十八とか云う話であったが、派手な半襟を掛けて、肩上をしていた。

そうして、まもなくある女学校へ通い始めた。

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そうして程なくある女学校へ通い始めた。

菅沼の家は谷中(やなか)の清水町(しみずちょう)で、庭のないかわりに、縁側へ出ると上野の森の古い杉(すぎ)が高く見えた。

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菅沼の家は谷中やなかの清水町で、庭のない代りに、縁側へ出ると、上野の森の古い杉が高く見えた。

それがまた、さびた鉄のような、とても不思議な色をしていた。

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それがまた、さびた鉄の様に、頗るあやしい色をしていた。

その一本はほとんど枯れかかって、上のほうには丸はだかの枝ばかり残ったところに、夕方になるとカラスがたくさん集まって鳴いていた。

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その一本はほとんど枯れ掛かって、上の方には丸裸の骨ばかり残った所に、夕方になるとからすが沢山集まって鳴いていた。

となりには若い画家が住んでいた。

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隣には若い画家えかきが住んでいた。

車もあまり通らない細い横町で、とても静かな住まいであった。

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車もあまり通らない細い横町で、至極閑静な住居すまいであった。

代助はそこへよく遊びに行った。

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代助は其所へ能く遊びに行った。

初めて三千代に会ったとき、三千代はただおじぎをしただけで引っこんでしまった。

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始めて三千代にった時、三千代はただ御辞儀をしただけで引込んでしまった。

代助は上野の森のことを話して帰って来た。

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代助は上野の森を評して帰って来た。

二度行っても、三度行っても、三千代はただお茶を持って出るだけであった。

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へん行っても、三返行っても、三千代はただ御茶を持って出るだけであった。

そのくせ、せまい家だから、となりの部屋にいるよりほかはなかった。

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その癖狭いうちだから、隣のへやにいるより外はなかった。

代助は菅沼と話しながら、となりの部屋に三千代がいて自分の話を聞いているという感じを、消すことができなかった。

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代助は菅沼と話しながら、隣の室に三千代がいて、自分の話を聴いているという自覚を去る訳にかなかった。

三千代と口をきき始めたのは、どんなきっかけだったか、今では代助の記憶に残っていない。

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三千代と口をき出したのは、どんな機会はずみであったか、今では代助の記憶に残っていない。

残っていないほど、ささやかなふつうの出来事から始まったのだろう。

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残っていない程、瑣末さまつな尋常の出来事から起ったのだろう。

詩や小説にあきていた代助には、それがかえっておもしろかった。

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詩や小説にいた代助には、それがかえって面白かった。

けれども、いったん口をきき始めてからは、やはり詩や小説と同じように、二人はすぐ打ちとけてしまった。

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けれども一旦口を利き出してからは、やっぱり詩や小説と同じ様に、二人はすぐ心安くなってしまった。

平岡も代助のように、よく菅沼の家へ遊びに来た。

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平岡も、代助の様に、よく菅沼の家へ遊びに来た。

あるときは二人連れ立って来たこともある。

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あるときは二人連れ立って、来た事もある。

そうして、代助と前後して三千代と親しくなった。

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そうして、代助と前後して、三千代と懇意になった。

三千代は兄とこの二人にくっついて、ときどき池のはたなどを散歩したことがある。

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三千代は兄とこの二人に食付くっついて、時々いけはたなどを散歩した事がある。

四人はこの関係で、約二年足らず過ごした。

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四人よったりはこの関係で約二年足らず過ごした。

すると菅沼が卒業する年の春、菅沼の母という人が田舎から遊びに出て来て、しばらく清水町に泊まっていた。

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すると菅沼の卒業する年の春、菅沼の母と云うのが、田舎から遊びに出て来て、しばらく清水町に泊っていた。

この母は年に一、二度は東京へ出て、子どもの家に五、六日とまるのが決まりになっていたのだが、そのときは帰る前の日から熱が出て、まったく動けなくなった。

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この母は年に一二度ずつは上京して、子供の家に五六日ごろくんち寐起ねおきする例になっていたんだが、その時は帰る前日から熱が出だして、全く動けなくなった。

それが一週間の後、腸チフスとわかったので、すぐ大学病院へ入れた。

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それが一週間の後窒扶斯チフスと判明したので、すぐ大学病院へ入れた。

三千代は看病のため、付き添いとしていっしょに病院へ移った。

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三千代は看護の為附添として一所に病院に移った。

病人のようすは一時少しよくなったが、とちゅうでぶり返して、とうとう死んでしまった。

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病人の経過は、一時やや佳良であったが、中途からぶり返して、とうとう死んでしまった。

それだけではない。

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そればかりではない。

腸チフスが見まいに来た兄にうつって、これもまもなく亡くなった。

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窒扶斯が、見舞に来た兄に伝染して、これも程なくくなった。

国には、ただ父親が一人残った。

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国にはただ父親が一人残った。

それが母の死んだときも菅沼の死んだときも出て来て後始末をしたので、生きているうちから関係の深かった代助とも平岡とも知り合いになった。

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それが母の死んだ時も、菅沼の死んだ時も出て来て、始末をしたので、生前に関係の深かった代助とも平岡とも知り合になった。

三千代を連れて国へ帰るときは、娘といっしょに二人の下宿を別々にたずねて、あいさつかたがたお礼を述べた。

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三千代を連れて国へ帰る時は、娘とともに二人の下宿を別々に訪ねて、暇乞いとまごいかたがた礼を述べた。

その年の秋、平岡は三千代と結婚した。

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その年の秋、平岡は三千代と結婚した。

そうして、その間に立ったのは代助であった。

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そうしてその間に立ったものは代助であった。

もっとも表向きは故郷の先輩に頼んで、なこうどとして式に出てもらったのだが、実際に動いて三千代のほうをまとめたのは代助であった。

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もっとも表向きは郷里の先輩を頼んで、媒酌人として式に連なってもらったのだが、身体を動かして、三千代の方をまとめたものは代助であった。

結婚してまもなく、二人は東京を去った。

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結婚して間もなく二人は東京を去った。

国にいた父は思わぬ事情でしかたなく、これもまた北海道へ行ってしまった。

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国に居た父は思わざるある事情の為に余儀なくされて、これもまた北海道へ行ってしまった。

三千代はどちらかと言えば、今は心細い身の上にいる。

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三千代は何方どっちかと云えば、今心細い境遇に居る。

どうにかして、この東京で落ち着いていられるようにしてやりたい気がする。

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どうかして、この東京に落付いていられる様にして遣りたい気がする。

代助はもう一度兄の妻に相談して、この間の金を作るやりくりをしてみようかと思った。

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代助はもう一返あによめに相談して、この間の金を調達する工面をしてみようかと思った。

また三千代に会って、もう少し細かい事情を詳しく聞いてみようかと思った。

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又三千代に逢って、もう少し立ち入った事情をくわしく聞いてみようかと思った。

けれども、平岡の家へ行ったところで、三千代はむやみに何もかもしゃべる女ではないし、たとえどうしてそんな金が要るようになったかを詳しく聞けたとしても、夫婦の心の中などは簡単に探れるものではない。――

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けれども、平岡へ行ったところで、三千代が無暗むやみに洗いざら饒舌しゃべり散らす女ではなし、よしんばどうして、そんな金が要る様になったかの事情を、詳しく聞き得たにしたところで、夫婦の腹の中なんぞは容易に探られる訳のものではない。――

代助の心の底をよく見つめると、彼が本当に知りたいのはむしろここなのだと、自分で認めなければならなくなる。

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代助の心の底をく見詰めていると、彼の本当に知りたい点は、却って此所ここに在ると、自から承認しなければならなくなる。

だから正直に言えば、なぜ金が必要なのかを調べる必要は、もうとっくに過ぎていたのである。

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だから正直を云うと、何故なにゆえに金が入用であるかと研究する必要は、もう既に通り越していたのである。

じつは表向きの事情は聞いても聞かなくても、三千代に金を貸して安心させたいほうであった。

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実は外面の事情は聞いても聞かなくっても、三千代に金を貸して満足させたい方であった。

けれども、三千代に気に入られる目的で、その手段として金を作る気はまるでなかった。

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けれども三千代の歓心を買う目的を以て、その手段として金をこしらえる気はまるでなかった。

代助は三千代に対して、それほど計算高い考えを起こすよゆうを持っていなかったのである。

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代助は三千代に対して、それ程政略的な料簡を起す余裕を有っていなかったのである。

その上、平岡の留守をねらって行って、今日までの事情を、とくにお金の点についてだけでも十分に聞き出すのはむずかしい。

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その上平岡の留守へてて、今日までの事情を、特に経済の点に関してだけでも、充分聞き出すのは困難である。

平岡が家にいる以上は、詳しい話ができないのはわかりきっている。

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平岡がうちにいる以上は、詳しい話の出来ないのは知れ切っている。

できても、それを何もかも真に受けるわけにはいかない。

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出来ても、それを一から十まで真に受ける訳には行かない。

平岡は世間に対するいろいろな思いから、代助に見えをはっている。

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平岡は世間的な色々の動機から、代助に見栄を張っている。

見えの要らないところでも、ある考えから黙っている。

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見栄のいらない所でも一種の考から沈黙を守っている。

代助は、ともかくもまず兄の妻に相談してみようと決心した。

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代助は、ともかくもまず嫂に相談してみようと決心した。

そうして、自分でもとてもあやしいとは思った。

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そうして、自分ながら甚だ覚束おぼつかないとは思った。

今まで兄の妻に少しずつ金をせびったことは何度もあるが、こう急に大きな話を持ちこむのは初めてである。

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今まで嫂にちびちび、無心を吹き掛けた事は何度もあるが、こう短兵急に痛め付けるのは始めてである。

しかし梅子は自分で自由にできる財産をいくらか持っているから、あるいはできないとも限らない。

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しかし梅子は自分の自由になる資産をいくらか持っているから、或は出来ないとも限らない。

それで駄目なら、高い利息でも借りるのだが、代助はまだそこまでは気が進んでいなかった。

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それで駄目なら、又高利でも借りるのだが、代助はまだ其所までには気が進んでいなかった。

ただ、そのうち平岡から表立って「いっしょに借金を背負ってくれ」と言われて、それを断りきれないくらいなら、いっそこちらから進んで直接に三千代を喜ばせてやるほうがはるかに気持ちがいいという思いだけは、ほとんど理屈をこえて頭の中にひそんでいた。

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ただ早晩平岡から表向きに、連帯責任を強いられて、それを断わり切れない位なら、一層いっそ此方こっちから進んで、直接に三千代を喜ばしてやる方が遥かに愉快だという取捨の念だけは殆んど理窟りくつを離れて、頭の中に潜んでいた。

生あたたかい風の吹く日であった。

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生暖かい風の吹く日であった。

くもった空がいつまでもだらだらと広がって、なかなか暮れそうにない四時過ぎから家を出て、兄の家まで電車で行った。

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曇った天気が何時いつまでも無精に空に引掛って、中々暮れそうにない四時過から家を出て、兄のたくまで電車で行った。

青山御所(あおやまごしょ)の少し手前まで来ると、電車の左側を、父と兄が車を二人引きで急がせて通った。

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青山御所の少し手前まで来ると、電車の左側を父と兄が綱曳つなびきで急がして通った。

あいさつをするひまもないうちにすれちがったから、向こうはもちろん気がつかずに過ぎ去った。

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挨拶をする暇もないうちに擦れ違ったから、向うは元より気が付かずに過ぎ去った。

代助は次の停留所で降りた。

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代助は次の停留所で下りた。

兄の家の門を入ると、客間でピアノの音がした。

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兄の家の門を這入はいると、客間でピヤノの音がした。

代助はちょっとじゃりの上に立ち止まったが、すぐ左へ折れて勝手口のほうへ回った。

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代助は一寸ちょっと砂利の上に立ち留ったが、すぐ左へ切れて勝手口の方へ廻った。

そこには格子の外に、ヘクターというイギリス生まれの大きな犬が、大きな口を革ひもでしばられてねそべっていた。

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其所には格子こうしの外に、ヘクターと云う英国産の大きな犬が、大きな口を革紐かわひもで縛られてていた。

代助の足音を聞くとすぐ、ヘクターは毛の長い耳をふって、まだらの顔を急に上げた。

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代助の足音を聞くや否や、ヘクターは毛の長い耳をふるって、まだらな顔を急に上げた。

そうして、しっぽをふった。

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そうして尾をうごかした。

入り口の書生部屋をのぞきこんで、しきいの上に立ちながら二言三言あいそを言ったあと、すぐ洋間のほうへ来て戸を開けると、兄の妻がピアノの前に腰を掛けて両手を動かしていた。

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入口の書生部屋をのぞき込んで、敷居の上に立ちながら、二言三言愛嬌あいきょうを云った後、すぐ西洋間の方へ来て、戸を開けると、嫂がピヤノの前に腰を掛けて両手を動かしていた。

そのそばに縫子がそでの長い着物を着て、例のかみを肩までたらして立っていた。

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そのそばに縫子がそでの長い着物を着て、例の髪を肩まで掛けて立っていた。

代助は縫子のかみを見るたびに、ブランコに乗った縫子の姿を思い出す。

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代助は縫子の髪を見るたんびに、ブランコに乗った縫子の姿を思い出す。

黒いかみと、うすい赤色のリボンと、それから黄色いちりめんの帯とが、いっしょに風にふかれて空に流れるようすを、はっきりと頭の中に刻みこんでいる。

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黒い髪と、淡紅色ときいろのリボンと、それから黄色い縮緬ちりめんの帯が、一時に風に吹かれてくうに流れる様を、鮮かに頭の中に刻み込んでいる。

母と娘は同時に振り向いた。

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母子おやこは同時に振り向いた。

「おや」

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「おや」

縫子のほうは、黙って駆けて来た。

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縫子の方は、黙ってけて来た。

そうして、代助の手をぐいぐい引っぱった。

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そうして、代助の手をぐいぐい引張った。

代助はピアノのそばまで来た。

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代助はピヤノの傍まで来た。

「どんな名人がひいているのかと思った」

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「如何なる名人が鳴らしているのかと思った」

梅子は何も言わずに、まゆの間にしわを寄せて、笑いながら手を振り振り、代助の言葉をさえぎった。

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梅子は何にも云わずに、額に八の字を寄せて、笑いながら手を振り振り、代助の言葉をさえぎった。

そうして、向こうからこう言った。

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そうして、向うからこう云った。

「代さん、ここのところをちょっとやって見せてください」

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「代さん、此所ん所を一寸遣って見せて下さい」

代助は黙って兄の妻と入れかわった。

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代助は黙って嫂と入れ替った。

楽譜(がくふ)を見ながら、両方の指をしばらくきれいに動かしたあと、

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譜を見ながら、両方の指をしばらく奇麗に働かした後、

「こうだろう」

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「こうだろう」

と言って、すぐ席を立った。

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と云って、すぐ席を離れた。

それから三十分ほどの間、母と娘で代わる代わるピアノの前にすわっては同じところを練習していたが、やがて梅子が、

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それから三十分程の間、母子してかわがわる楽器の前に坐っては、一つ所を復習していたが、やがて梅子が、

「もうやめましょう。あちらへ行って、ご飯でも食べましょう。おじさんもいらっしゃい」

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「もうしましょう。彼方あっちへ行って、御飯でもたべましょう。叔父さんもいらっしゃい」

と言いながら立った。

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と云いながら立った。

部屋の中はもう薄暗くなっていた。

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部屋のなかはもう薄暗くなっていた。

代助はさっきから、ピアノの音を聞いて、兄の妻やめいの白い手の動くようすを見て、そうしてときどきは例のらんまの絵をながめて、三千代のことも金を借りることもほとんど忘れていた。

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代助は先刻さっきから、ピヤノの音を聞いて、嫂やめいの白い手の動く様子を見て、そうして時々は例の欄間の画を眺めて、三千代の事も、金を借りる事も殆んど忘れていた。

部屋を出るとき、振り返ったら、こい青の波がくだけて白く飛び返るところだけが、暗い中にはっきり見えた。

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部屋を出る時、振り返ったら、紺青こんじょうの波がくだけて、白く吹き返す所だけが、暗い中に判然はっきり見えた。

代助はこの大波の上に、黄金色の雲の山を一面にかかせた。

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代助はこの大濤おおなみの上に黄金色こがねいろの雲の峰を一面にかした。

そうして、その雲の山をよく見ると、まっぱだかの女の巨人がかみを乱し、体をおどらせて、一かたまりになってあばれ狂っているように、うまくかたちを取らせた。

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そうして、その雲の峰をよく見ると、真裸まはだか女性にょしょうの巨人が、髪を乱し、身を躍らして、一団となって、れ狂っている様に、旨く輪廓りんかくを取らした。

代助はワルキューレ(北欧の物語に出てくる戦いの女神たち)を雲に見立てたつもりで、この絵を注文したのである。

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代助はヴァルキイルを雲に見立てた積りでこの図を注文したのである。

彼はこの雲の山だか、それとも大きな女たちだか、ほとんど見分けのつかない大きなかたまりを頭にえがいて、こっそり喜んでいた。

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彼はこの雲の峰だか、又巨大な女性だか、殆んど見分けの付かない、な塊を脳中に髣髴ほうふつして、ひそかにうれしがっていた。

が、さてできあがってかべの中へはめこんでみると、思っていたよりはまずかった。

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がさて出来上って、壁の中へめ込んでみると、想像したよりは不味まずかった。

梅子といっしょに部屋を出たときは、このワルキューレはほとんど見えなかった。

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梅子と共に部屋を出た時は、このヴァルキイルは殆んど見えなかった。

こい青の波はもちろん見えなかった。

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紺青の波はもとより見えなかった。

ただ白いあわの大きなかたまりがうすじろく見えた。

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ただ白い泡の大きな塊が薄白く見えた。

居間にはもう電灯がついていた。

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居間にはもう電燈がいていた。

代助はそこで、梅子といっしょに晩ご飯をすませた。

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代助は其所で、梅子と共に晩食を済ました。

子ども二人も同じ食卓についた。

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子供二人も卓を共にした。

誠太郎に兄の部屋からマニラ葉巻(はまき)を一本取って来させて、それをすいながら世間話をした。

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誠太郎に兄の部屋からマニラを一本取って来さして、それを吹かしながら、雑談をした。

やがて、子どもは明日の予習をする時間だというので、母から注意を受けて自分の部屋へ引きあげたので、あとは二人きりになった。

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やがて、子供は明日あしたの下読をする時間だと云うので、母から注意を受けて、自分の部屋へ引き取ったので、後は差しむかいになった。

代助はいきなり例の話を持ち出すのも変だと思って、関係のないところからそろそろ話を進め始めた。

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代助は突然例の話を持ち出すのも、変なものだと思って、関係のない所からそろそろ進行を始めた。

まず父と兄が二人引きの車で急いでどこへ行ったのかとか、この間は兄さんにごちそうになったとか、あなたはなぜ麻布の園遊会(えんゆうかい。庭でひらくパーティー)へ来なかったのかとか、お父さんの漢詩(かんし)はたいていほら話だとか、いろいろ聞いたり答えたりしているうちに、一つ新しいことがわかった。

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ず父と兄が綱曳つなっぴきで車を急がして何所どこへ行ったのだとか、この間は兄さんに御馳走ごちそうになったとか、あなたは何故なぜ麻布の園遊会へ来なかったのだとか、御父さんの漢詩は大抵法螺ほらだとか、色々聞いたり答えたりしているうちに、一つ新しい事実を発見した。

それはほかでもない。

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それは外でもない。

父と兄が、近ごろ目に見えていそがしそうに走り回り始めて、この四、五日はろくに寝るひまもないくらいだという話である。

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父と兄が、近来目に立つ様に、忙しそうに奔走し始めて、この四五日しごんち碌々ろくろくるひまもない位だと云う報知である。

いったい何が始まったんですと、代助は平気な顔で聞いてみた。

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全体何が始ったんですと、代助は平気な顔で聞いてみた。

すると兄の妻もふつうの調子で、そうですね、何か始まったんでしょう。

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すると、嫂も普通の調子で、そうですね、何か始ったんでしょう。

お父さんも兄さんも私には何もおっしゃらないから知らないけれども、と答えて、代さんはそれよりこの間のお嫁さんを、と言いかけているところへ書生(しょせい。家に置いてもらって働く学生)が入って来た。

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御父さんも、兄さんもわたしには何にもおっしゃらないから、知らないけれどもと答えて、代さんは、それよりかこの間の御嫁さんをと云い掛けている所へ、書生が這入って来た。

今夜もおそくなる、もし誰と誰が来たら何とか屋へ来るように言ってくれ、という電話を伝えたまま、書生はまた出て行った。

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今夜も遅くなる、もし、誰と誰が来たら何とか屋へ来る様に云ってくれと云う電話を伝えたまま、書生は再び出て行った。

代助はまた結婚の話に戻ると面倒だから、ときに姉さん、少しお願いがあって来たんだが、とすぐ切り出してしまった。

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代助は又結婚問題に話が戻ると面倒だから、時に姉さん、ちっと御願があって来たんだが、とすぐ切り出してしまった。

梅子は代助の言うことをすなおに聞いていた。

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梅子は代助の云う事を素直に聞いていた。

代助はすべてを話すのに十分ほどかかった。

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代助はすべてを話すに約十分ばかり費やした。

最後に、

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最後に、

「だから思い切って貸してください」

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「だから思い切って貸して下さい」

と言った。

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と云った。

すると梅子はまじめな顔をして、

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すると梅子は真面目まじめな顔をして、

「そうね。けれども、いったいいつ返す気なの」

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「そうね。けれども全体何時いつ返す気なの」

と、思いもよらないことを聞き返した。

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と思いも寄らぬ事を問い返した。

代助はあごの先を指でつまんだまま、じっと兄の妻のようすをうかがった。

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代助はあごの先を指でつまんだまま、じっと嫂の気色をうかがった。

梅子はますますまじめな顔をして、またこう言った。

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梅子はますます真面目な顔をして、又こう云った。

「いやみじゃないのよ。おこっちゃいけませんよ」

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「皮肉じゃないのよ。怒っちゃ不可いけませんよ」

代助はもちろんおこってはいなかった。

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代助は無論怒ってはいなかった。

ただ、義理の姉からこういう質問を受けるとは思っていなかっただけである。

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ただ姉弟きょうだいからこういう質問を受けようと予期していなかっただけである。

今さら返す気だの、もらうつもりだのと言えば言うほどみっともなくなるばかりだから、だまって言われるままになっていただけである。

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今更返す気だの、貰う積りだのと布衍ふえんすればする程馬鹿になるばかりだから、甘んじて打撃を受けていただけである。

梅子は、やっと手におえない弟をつかまえて押さえつけたような気がしたので、あとがとても言いやすかった。――

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梅子は漸やく手に余るおとうとを取って抑えた様な気がしたので、後が大変云いやすかった。――

「代さん、あなたはふだんから私を馬鹿にしていらっしゃる。――いいえ、いやみを言うんじゃない、本当のことなんですもの、しかたがない。そうでしょう」

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「代さん、あなたは不断から私を馬鹿にして御出おいでなさる。――いいえ、厭味いやみを云うんじゃない、本当の事なんですもの、仕方がない。そうでしょう」

「困りますね、そう本気で問いつめられちゃ」

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「困りますね、そう真剣に詰問きつもんされちゃ」

「いいですよ。ごまかさなくても。ちゃんとわかってるんだから。だから正直にそうだと言ってしまいなさい。そうでないと、あとが話せないから」

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ござんすよ。胡魔化ごまかさないでも。ちゃんと分ってるんだから。だから正直にそうだと云って御しまいなさい。そうでないと、後が話せないから」

代助は黙ってにやにや笑っていた。

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代助は黙ってにやにや笑っていた。

「でしょう。ほら御覧なさい。けれども、それが当たり前よ。ちっともかまいません。いくら私がいばったって、あなたにかなうはずがないのはもちろんですもの。私とあなたとは今までどおりの関係でおたがいに満足なんだから、文句はありません。それはそれでいいとして、あなたはお父さんも馬鹿にしていらっしゃるのね」

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「でしょう。そら御覧なさい。けれども、それが当り前よ。ちっとも構やしません。いくらわたしが威張ったって、貴方あなたかないっこないのは無論ですもの。私と貴方とは今まで通りの関係で、御互いに満足なんだから、文句はありゃしません。そりゃそれで好いとして、貴方は御父さんも馬鹿にしていらっしゃるのね」

代助は兄の妻の言い方がまっすぐなところが気に入った。

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代助は嫂の態度の真率な所が気に入った。

それで、

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それで、

「ええ、少しは馬鹿にしています」

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「ええ、少しは馬鹿にしています」

と答えた。

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と答えた。

すると梅子は、いかにも楽しそうにハハハハと笑った。

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すると梅子はさも愉快そうにハハハハと笑った。

そうして言った。

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そうして云った。

「兄さんも馬鹿にしていらっしゃる」

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「兄さんも馬鹿にしていらっしゃる」

「兄さんですか。兄さんはとても尊敬している」

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「兄さんですか。兄さんは大いに尊敬している」

「うそをおっしゃい。ついでだから、みんな言ってしまいなさい」

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うそを仰しゃい。ついでだから、みんなけて御しまいなさい」

「それは、あるところでは馬鹿にしないこともない」

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「そりゃ、或点では馬鹿にしない事もない」

「ほら御覧なさい。あなたは家族みんなを馬鹿にしていらっしゃる」

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「それ御覧なさい。あなたは一家族中ことごとく馬鹿にしていらっしゃる」

「どうも恐れ入りました」

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「どうも恐れ入りました」

「そんな言いわけはどうでもいいんですよ。あなたから見れば、みんな馬鹿にされるだけのことはあるんだから」

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「そんな言訳はどうでも好いんですよ。貴方から見れば、みんな馬鹿にされる資格があるんだから」

「もう、やめようじゃありませんか。今日はなかなか厳しいですね」

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「もう、そうじゃありませんか。今日は中々きびしいですね」

「本当なのよ。それでかまわないんですよ。けんかも何も起こらないんだから。けれどもね、そんなにえらいあなたが、なぜ私なんかからお金を借りる必要があるの。おかしいじゃありませんか。いえ、ことばじりをとらえていると思うと腹が立つでしょう。そんなんじゃありません。それほどえらいあなたでも、お金がないと私みたいな者に頭を下げなけりゃならなくなる」

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「本当なのよ。それで差支ないんですよ。喧嘩けんかも何も起らないんだから。けれどもね、そんなに偉い貴方が、何故私なんぞから、御金を借りる必要があるの。可笑おかしいじゃありませんか。いえ、揚足を取ると思うと、腹が立つでしょう。そんなんじゃありません。それ程偉い貴方でも、御金がないと、私みた様なものに頭を下げなけりゃならなくなる」

「だからさっきから頭を下げているんです」

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「だからさっきから頭を下げているんです」

「まだ本気で聞いていらっしゃらないのね」

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「まだ本気で聞いていらっしゃらないのね」

「これが私の本気なところなんです」

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「これが私の本気な所なんです」

「じゃ、それもあなたのえらいところかも知れない。しかし誰もお金を貸してくれる人がいなくて、今のお友達を助けてあげることができなかったら、どうなさる。いくらえらくても駄目じゃありませんか。何もできないのは車屋(くるまや。人力車を引く人)と同じですもの」

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「じゃ、それも貴方の偉い所かも知れない。然し誰も御金を貸し手がなくって、今の御友達を救って上げる事が出来なかったら、どうなさる。いくら偉くっても駄目じゃありませんか。無能力な事は車屋とおんなしですもの」

代助は今まで、兄の妻がこれほど的を射たことを自分に向かって言えるとは思わなかった。

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代助は今まで嫂がこれ程適切な異見を自分に向って加え得ようとは思わなかった。

じつは金のやりくりを思い立ってから、自分でもこの弱いところをこっそり感じていたのである。

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実は金の工面を思い立ってから、自分でもこの弱点を冥々めいめいうちに感じていたのである。

「まったく車屋ですね。だから姉さんに頼むんです」

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「全く車屋ですね。だから姉さんに頼むんです」

「しかたがないのね、あなたは。あんまりえらすぎて。一人でお金をおかせぎなさいな。本当の車屋なら貸してあげないこともないけれども、あなたにはいやよ。だって、あんまりじゃありませんか。毎月兄さんやお父さんのやっかいになった上に、人の分まで自分で引き受けて貸してやろうって言うんだから。誰も出したくはないじゃありませんか」

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「仕方がないのね、貴方は。あんまり、偉過ぎて。一人で御金を御取んなさいな。本当の車屋なら貸して上げない事もないけれども、貴方には厭よ。だってあんまりじゃありませんか。月々兄さんや御父さんの厄介になった上に、人の分まで自分に引受けて、貸してやろうって云うんだから。誰も出したくはないじゃありませんか」

梅子の言うことはまったくもっともである。

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梅子の云う所は実にもっともである。

しかし代助は、このもっともを通りこして気がつかずにいた。

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然し代助はこの尤を通り越して、気が付かずにいた。

振り返ってみると、後ろのほうに姉と兄と父がかたまっていた。

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振り返ってみると、後の方に姉と兄と父がかたまっていた。

自分もあと戻りをして、世間なみにならなければならないと感じた。

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自分も後戻りをして、世間並にならなければならないと感じた。

家を出るとき、兄の妻から金の無心を断られるだろうとは思っていた。

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家を出る時、嫂から無心を断わられるだろうとは気遣った。

けれども、そのために大いに働いて自分で金をかせがねばならぬという決心は、まったく起こらなかった。

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けれどもそれがめに、大いに働らいて、自から金を取らねばならぬという決心は決して起し得なかった。

代助はこの出来事を、それほど重くは見ていなかったのである。

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代助はこの事件をそれ程重くは見ていなかったのである。

梅子はこの機会を使って、いろいろな方面から代助をふるい立たせようとした。

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梅子は、この機会を利用して、色々の方面から代助を刺激しようとつとめた。

ところが、代助には梅子の考えていることがよくわかっていた。

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ところが代助には梅子の腹がよくわかっていた。

わかればわかるほど、その気にならなかった。

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解れば解る程激する気にならなかった。

そのうち話は金をはなれて、また結婚に戻って来た。

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そのうち話題は金を離れて、再び結婚に戻って来た。

代助はこの間の相手について、父から二度ほど悩まされている。

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代助は最近の候補者に就て、この間から親爺おやじに二度程悩まされている。

父の言い分はいつ聞いても昔ふうにひどく義理がたいものであったが、そのかわり今度はそれほど押しつけがましくもなかった。

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親爺の論理は何時聞いても昔し風に甚だ義理堅いものであったが、その代り今度はさ程権柄けんぺいずくでもなかった。

自分の命の恩人にあたる人の血を引く者と縁組みをするのはよいことであるから、もらってくれと言うのである。

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自分の命の親に当る人の血統を受けたものと縁組をするのは結構な事であるから、もらってくれと云うんである。

そうすれば、いくらか恩が返せると言うのである。

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そうすれば幾分か恩が返せると云うんである。

つまり代助から見ると、何がよいのか、何が恩返しになるのか、まるですじの通らない言い分であった。

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要するに代助から見ると、何が結構なのか、何が恩返しに当るのか、まるで筋の立たない主張であった。

もっとも相手の娘そのものについては、代助もとくに文句は持っていなかった。

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尤も候補者自身に就ては、代助も格別の苦情は持っていなかった。

だから、父の言うことが正しいかどうかは置いておくとして、もらえばもらってもかまわなかった。

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だから父の云う事の当否は論弁の限にあらずとして、貰えば貰っても構わなかった。

代助はこの二、三年、すべての物に重きを置かないくせがついたように、結婚にもあまり重きを置く必要を感じていなかった。

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代助はこの二三年来、凡ての物に対して重きを置かない習慣になったごとく、結婚に対しても、あまり重きを置く必要を認めていなかった。

佐川の娘というのはただ写真で知っているだけであるが、それだけでも十分なような気がした。――

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佐川の娘というのは只写真で知っているばかりであるが、それだけでも沢山な様な気がした。――

もっとも写真はだいぶ美しかった。――

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尤も写真は大分美くしかった。――

だから、もらうとなれば、そう面倒な条件を出す考えも何もなかった。

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従って、貰うとなれば、そう面倒な条件を持ち出す考も何もなかった。

ただ、もらいましょうというはっきりした返事が出なかっただけである。

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ただ、貰いましょうと云う確答が出なかっただけである。

そのあいまいな態度を父に言わせると、まるで話にならないにぶい男の返事ということになる。

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その不明晰ふめいせきな態度を、父に評させると、まるで要領を得ていない鈍物同様の挨拶振あいさつぶりになる。

結婚を人生の一大事と考えて、ほかのすべてをそれの下に置く考えの兄の妻から言わせると、わけがわからないということになる。

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結婚を生死の間によこたわる一大要件と見傚みなして、あるゆる他の出来事を、これに従属させる考えの嫂から云わせると、不可思議になる。

「だって、あなただって、一生ひとりでいる気でもないんでしょう。そうわがままを言わないで、いいかげんなところで決めてしまったらどうです」

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「だって、貴方だって、生涯一人でいる気でもないんでしょう。そう我儘わがままを云わないで、好い加減な所で極めてしまったらどうです」

と梅子は少しじれったそうに言った。

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と梅子は少しれったそうに云った。

一生ひとりでいるか、それともめかけ(正式でない妻)を置いて暮らすか、それとも芸者と関係を持つか、代助自身にもはっきりした計画はまるでなかった。

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生涯一人でいるか、或はめかけを置いて暮すか、或は芸者と関係をつけるか、代助自身にも明瞭めいりょうな計画はまるでなかった。

ただ、今の彼は結婚というものに対して、ほかの独身の男のようには興味を持てなかったことは確かである。

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只、今の彼は結婚というものに対して、他の独身者の様に、あまり興味を持てなかった事はたしかである。

これは、彼の性格が一つのことに集中できないのと、彼の頭がふつう以上にするどくて、しかもそのするどさが今の日本の世の中のせいで、まぼろしを打ちくだくほうへ今日まで多く使われたのと、それから最後には、わりに金に不自由がないので、ある種類の女をだいぶ多く知っているのとの三つに行き着くのである。

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これは、彼の性情が、一図に物に向って集注し得ないのと、彼の頭が普通以上に鋭どくって、しかもその鋭さが、日本現代の社会状況のために、幻像イリュージョン打破の方面に向って、今日まで多く費やされたのと、それから最後には、比較的金銭に不自由がないので、ある種類の女を大分多く知っているのとの三カ条に、帰着するのである。

が、代助はそこまで細かく分けて考える必要は感じていなかった。

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が代助は其所そこまで解剖して考える必要は認めていなかった。

ただ結婚に興味がないという、自分にははっきりした事実だけをつかんで、それに合わせて先のことを自然にのばして行く気でいた。

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ただ結婚に興味がないと云う、自己に明かな事実を握って、それに応じて未来を自然に延ばして行く気でいた。

だから、結婚を必要なことだと初めから決めつけて、いつかこれをまとめようとあがく努力を、不自然であり、すじが通らず、しかもあまりに俗っぽいものだと考えた。

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だから、結婚を必要事件と、初手から断定して、何時かこれを成立させようとあせる努力を、不自然であり、不合理であり、かつあまりに俗臭を帯びたものと解釈した。

代助はもちろん、こんな理屈を兄の妻に向かって説明する気はなかった。

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代助はもとよりこんな哲理フィロソフィーを嫂に向って講釈する気はなかった。

が、だんだん追いつめられると、苦しまぎれに、

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が、段々押し詰られると、苦し紛れに、

「だが姉さん、僕はどうしても嫁をもらわなければならないのかね」

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「だが、姉さん、僕はどうしても嫁を貰わなければならないのかね」

と聞くことがある。

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と聞く事がある。

代助はもちろんまじめに聞くつもりだけれども、兄の妻のほうはあきれてしまう。

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代助は無論真面目に聞く積りだけれども、嫂の方ではあきれてしまう。

そうして、自分をからかっているのだと取る。

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そうして、自分を茶にするのだと取る。

梅子はその晩、代助に向かっていつもの流れをくり返したあとで、こんなことを言った。

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梅子はその晩代助に向って、平生いつもの手続を繰り返した後で、こんな事を云った。

「へんね、そんなにいやがるのは。――いやなんじゃないと口ではおっしゃるけれども、もらわなければいやなのと同じじゃありませんか。それじゃ誰か好きな人がいるんでしょう。その方の名をおっしゃい」

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「妙なのね、そんなに厭がるのは。――厭なんじゃないって、口では仰しゃるけれども、貰わなければ、厭なのとおんなしじゃありませんか。それじゃ誰か好きなのがあるんでしょう。その方の名をおっしゃい」

代助は今まで、嫁の相手としては、ただの一人も好きな女を頭の中に思いうかべた覚えがなかった。

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代助は今まで嫁の候補者としては、ただの一人いちにんも好いた女を頭の中に指名していた覚がなかった。

が、今こう言われたとき、どういうわけか、ふいに三千代という名が心にうかんだ。

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が、今こう云われた時、どう云う訳か、不意に三千代という名が心に浮かんだ。

続いて、だからさっき言った金を貸してください、という文句が自然と頭の中にできあがった。――

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つづいて、だから先刻さっき云った金を貸して下さい、という文句がおのずから頭の中で出来上った。――

けれども、代助はただ苦笑いをして兄の妻の前にすわっていた。

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けれども代助はただ苦笑して嫂の前に坐っていた。

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代助が兄の妻に断られて帰った夜は、だいぶおそくなっていた。

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代助があによめに失敗して帰った夜は、大分けていた。

彼はやっと青山の通りで最後の電車をつかまえたくらいである。

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彼は辛うじて青山の通りで、最後の電車をつらまえた位である。

それなのに、彼が話している間には、父も兄も帰って来なかった。

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それにもかかわらず彼の話している間には、父も兄も帰って来なかった。

もっともその間に、梅子は電話に二度呼ばれた。

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尤もその間に梅子は電話口へ二返呼ばれた。

しかし、兄の妻のようすにとくに変わったところもないので、代助はこちらから進んで何も聞かなかった。

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しかし、嫂の様子に別段変った所もないので、代助は此方こっちから進んで何にも聞かなかった。

その夜は雨の降りそうな空が、地面と同じような色に見えた。

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その夜は雨催あめもよいの空が、地面と同じ様な色に見えた。

停留所の赤い柱のそばにたった一人立って電車を待っていると、遠い向こうから小さい火の玉が現れて、それがまっすぐに暗い中を上下にゆれながら代助のほうに近づいて来るのが、とてもさびしく感じられた。

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停留所の赤い柱のそばに、たった一人立って電車を待ち合わしていると、遠い向うから小さい火の玉があらわれて、それが一直線に暗い中を上下うえしたに揺れつつ代助の方にちかづいて来るのが非常に淋しく感ぜられた。

乗りこんでみると、誰もいなかった。

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乗り込んで見ると、誰も居なかった。

黒い着物を着た車掌(しゃしょう)と運転手の間にはさまれて、一つの音につつまれて動いて行くと、動いている車の外はまっ暗である。

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黒い着物を着た車掌と運転手の間に挟まれて、一種の音にうずまって動いて行くと、動いている車の外は真暗である。

代助は一人明るい中に腰を掛けて、どこまでも電車に乗って、とうとう降りるときが来ないまま引っぱり回されるような気がした。

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代助は一人明るい中に腰を掛けて、どこまでも電車に乗って、ついに下りる機会が来ないまで引っ張り廻される様な気がした。

神楽坂(かぐらざか)にさしかかると、ひっそりとした道が左右の二階建ての家にはさまれて、細長く前をふさいでいた。

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神楽坂かぐらざかへかかると、ひっりとしたみちが左右の二階家に挟まれて、細長く前をふさいでいた。

とちゅうまで上って来たら、それが急に鳴り出した。

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中途までのぼって来たら、それが急に鳴り出した。

代助は風が家の屋根に当たるのだと思って、立ち止まって暗いのき先を見上げながら、屋根から空をぐるりと見回すうちに、たちまち恐ろしさにおそわれた。

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代助は風がの棟に当る事と思って、立ち留まって暗い軒を見上げながら、屋根から空をぐるりと見廻すうちに、たちまち一種の恐怖に襲われた。

戸としょうじとガラスのぶつかり合う音が見る見る激しくなって、ああ地震だと気がついたときは、代助の足は立ったまま半分すくんでいた。

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戸と障子と硝子ガラスの打ち合う音が、見る見るはげしくなって、ああ地震だと気が付いた時は、代助の足は立ちながら半ばすくんでいた。

そのとき、代助は左右の二階建ての家が坂をうめるように、両方からたおれて来るように感じた。

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その時代助は左右の二階家が坂を埋むべく、双方から倒れて来る様に感じた。

すると、突然右側のくぐり戸をがらりと開けて、子どもをだいた一人の男が、地震だ地震だ、大きな地震だと言って出て来た。

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すると、突然右側のくぐり戸をがらりと開けて、小供を抱いた一人の男が、地震だ地震だ、大きな地震だと云って出て来た。

代助はその男の声を聞いて、やっと安心した。

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代助はその男の声を聞いてようやく安心した。

家へ着いたら、おばあさんも門野も大いに地震のうわさをした。

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家へ着いたら、ばあさんも門野も大いに地震のうわさをした。

けれども代助は、二人とも自分ほどには感じなかっただろうと考えた。

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けれども、代助は、二人とも自分程には感じなかったろうと考えた。

ねてから、また三千代の頼みをどうしようかと考えてみた。

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てから、又三千代の依頼をどう所置しようかと思案してみた。

しかし、よい考えは出てこなかった。

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然し分別を凝らすまでには至らなかった。

父と兄の近ごろのいそがしさは何だろうと考えてみた。

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父と兄の近来の多忙は何事だろうとすいしてみた。

結婚はぐずぐずにしておこうと心を決めた。

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結婚は愚図々々にして置こうと了簡りょうけんを極めた。

そうしてねむりについた。

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そうして眠にった。

その次の日の新聞に、初めて日糖事件(にっとうじけん)というものがのった。

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その明日あくるひの新聞に始めて日糖事件なるものがあらわれた。

砂糖を作る会社の重役が、会社の金を使って国会議員の何人かを買収したという知らせである。

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砂糖を製造する会社の重役が、会社の金を使用して代議士の何名かを買収したと云う報知である。

門野はいつものように、重役や議員がつかまるのを痛快だ痛快だと言っていたが、代助にはそれほど痛快にも思えなかった。

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門野は例の如く重役や代議士の拘引されるのを痛快だ痛快だと評していたが、代助にはそれ程痛快にも思えなかった。

が、二、三日するうちに取り調べを受ける者の数がだいぶ多くなって来て、世間ではこれを大きな疑獄(ぎごく。役人や政治家がからんだ大きな悪事の事件)のように騒ぎ立てるようになった。

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が、二三日にさんちするうちに取り調べを受けるものの数が大分多くなって来て、世間ではこれを大疑獄の様にはやし立てる様になった。

ある新聞では、これをイギリスに対する取りしまりだと言った。

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ある新聞ではこれを英国に対する検挙と称した。

その説明には、イギリスの大使が日糖の株を買って損をして文句を言い出したので、日本政府もイギリスへの言いわけに手をつけたのだ、とあった。

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その説明には、英国大使が日糖株を買い込んで、損をして、苦情を鳴らし出したので、日本政府も英国へ対する申訳に手を下したのだとあった。

日糖事件の起こる少し前、東洋汽船(とうようきせん)という会社は、一割二分の配当(はいとう。もうけを株主に配る金)をしたあとの半年で八十万円の赤字を報告したことがあった。

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日糖事件の起る少し前、東洋汽船という会社は、一割二分の配当をした後の半期に、八十万円の欠損を報告した事があった。

それを代助は覚えていた。

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それを代助は記憶していた。

そのときの新聞がこの報告について、信じるに足りないと言ったことも覚えていた。

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その時の新聞がこの報告を評して信を置くに足らんと云った事も記憶していた。

代助は自分の父と兄の関係している会社については、何も知らなかった。

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代助は自分の父と兄の関係している会社に就ては何事も知らなかった。

けれども、いつどんなことが起こらないとも限らないとは、いつも考えていた。

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けれども、いつどんな事が起るまいものでもないとは常から考えていた。

そうして、父も兄もどこから見ても正しい人だとは信じていなかった。

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そうして、父も兄もあらゆる点において神聖であるとは信じていなかった。

もしきびしく調べられたなら、両方ともつかまるだけの理由ができはしないかとまで思っていた。

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もしやかましい吟味をされたなら、両方共拘引にあたいする資格が出来はしまいかとまで疑っていた。

それほどでなくても、父と兄の財産が彼らの頭とうでだけで、誰が見てももっともだと思えるように作り上げられたとは思わなかった。

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それ程でなくっても、父と兄の財産が、彼等の脳力と手腕だけで、誰が見ても尤と認める様に、作り上げられたとはうけがわなかった。

明治の初めのころ、横浜へ移り住むのをすすめるため、政府が移った者に土地を与えたことがある。

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明治の初年に横浜へ移住奨励のため、政府が移住者に土地を与えた事がある。

そのときただでもらった土地のおかげで、今はたいへんな金持ちになった者がいる。

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その時ただ貰った地面の御蔭おかげで、今は非常な金満家になったものがある。

けれども、これはむしろ天がくれたぐうぜんである。

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けれどもこれはむしろ天の与えた偶然である。

父と兄のようなのは、この自分にだけ都合のいいぐうぜんを、人の手で、しかもたくらんで温室を作るようにこしらえ上げたのだろうと、代助は見ていた。

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父と兄の如きは、この自己にのみ幸福なる偶然を、人為的にかつ政略的に、暖室むろを造って、こしらえ上げたんだろうと代助は鑑定していた。

代助はこういう考えだから、新聞の記事にとくに驚きもしなかった。

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代助はこう云う考で、新聞記事に対しては別に驚ろきもしなかった。

父と兄の会社についても、心配をするほど正直ではなかった。

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父と兄の会社に就ても心配をする程正直ではなかった。

ただ三千代のことだけが少し気にかかった。

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ただ三千代の事だけが多少気に掛った。

けれども、手ぶらで行くのはおもしろくないので、そのうちのことと心の中で決めて、毎日読書にふけって四、五日過ごした。

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けれども、徒手てぶらで行くのが面白くないんで、そのうちの事と腹の中で料簡をさだめて、日々にちにち読書にふけって四五日しごんち過した。

不思議なことに、そのあと、例の金のことについては、平岡からも三千代からも何とも言って来なかった。

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不思議な事にその後例の金の件に就いては、平岡からも三千代からも何とも云って来なかった。

代助は心の中で、もしかしたら三千代がまた一人で返事を聞きに来ることもあるだろうと、じつは待ちのぞんでいたのだが、そのかいはなかった。

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代助は心のうちに、あるいは三千代が又一人で返事を聞きに来る事もあるだろうと、実は心待に待っていたのだが、その甲斐かいはなかった。

しまいにあきあきし始めた。

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仕舞にアンニュイを感じ出した。

どこか遊びに行くところはないかと催し物の案内をさがして、芝居でも見ようという気を起こした。

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何処どこか遊びに行く所はあるまいかと、娯楽案内を捜して、芝居でも見ようと云う気を起した。

神楽坂から外濠線(そとぼりせん)に乗って、御茶ノ水(おちゃのみず)まで来るうちに気が変わって、森川町にいる寺尾(てらお)という同じ学校の友達をたずねることにした。

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神楽坂から外濠そとぼり線へ乗って、御茶の水まで来るうちに気が変って、森川町にいる寺尾という同窓の友達を尋ねる事にした。

この男は学校を出ると、教師はいやだから文学を仕事にすると言い出して、ほかの者が止めるのにかまわず、あぶない商売をやり始めた。

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この男は学校を出ると、教師はいやだから文学を職業とすると云い出して、ほかのものの留めるにも拘らず、危険な商売をやり始めた。

やり始めてから三年になるが、いまだに名も上がらず、ひいひい言いながら原稿を書いて暮らしている。

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やり始めてから三年になるが、いまだに名声も上らず、窮々云って原稿生活を持続している。

自分の関係している雑誌に、何でもいいから書けとせまるので、代助は一度おもしろいものを書いて送ったことがある。

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自分の関係のある雑誌に、何でも好いから書けとせまるので、代助は一度面白いものを寄草した事がある。

それは一か月の間、雑誌屋の店先にならべられただけで、そのまま人の世界からどこかへ、運命の手で持って行かれてしまった。

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それは一カ月の間雑誌屋の店頭にさらされたぎり、永久人間世界から何処かへ、運命の為めに持って行かれてしまった。

それきり代助は、筆を取るのはごめんだと思った。

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それぎり代助は筆を執る事を御免こうむった。

寺尾は会うたびに、もっと書け書けとすすめる。

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寺尾はうたんびに、もっと書け書けと勧める。

そうして、おれを見ろと言うのが口ぐせであった。

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そうして、おれを見ろと云うのが口癖であった。

けれども、ほかの人に聞くと、寺尾ももう行きづまるだろうというもっぱらのうわさであった。

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けれども外の人に聞くと、寺尾ももう陥落するだろうと云う評判であった。

とてもロシアの小説が好きで、とくに人が名前を知らない作家が好きで、なけなしの金をやりくりしては新しい本を買うのが楽しみであった。

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大変露西亜ロシアものがすきで、ことに人が名前を知らない作家が好で、なけなしの銭を工面しては新刊物を買うのが道楽であった。

あまりいきおいがよかったとき、代助が、文学者もロシアをこわがっているうちはまだ駄目だ。

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あまり気燄きえんが高かった時、代助が、文学者も恐露病にかかってるうちはまだ駄目だ。

一度日露戦争をくぐった者でないと話にならない、とからかい返したことがある。

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一旦日露戦争を経過したものでないと話せないと冷評ひやかし返した事がある。

すると寺尾はまじめな顔をして、戦争はいつでもするが、日露戦争のあとの日本のようにへとへとになってはつまらないじゃないか。

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すると寺尾は真面目まじめな顔をして、戦争は何時いつでもするが、日露戦争後の日本の様に往生しちゃつまらんじゃないか。

やはりロシアをこわがっているほうが、ひきょうでも安全だ、と答えて、やはりロシア文学をほめていた。

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やっぱり恐露病に罹ってる方が、卑怯ひきょうでも安全だ、と答えてやっぱり露西亜文学を鼓吹していた。

玄関から座敷へ通ってみると、寺尾は真ん中に紙をはった軽い机を置いて、頭がいたいと言ってはちまきをして、うでまくりで「帝国文学」の原稿を書いていた。

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玄関から座敷へ通って見ると、寺尾は真中へ一閑張いっかんばりの机を据えて、頭痛がすると云って鉢巻をして、腕まくりで、帝国文学の原稿を書いていた。

じゃまならまた来ると言うと、帰らなくてもいい、もう今朝から五かける五で二円五十銭だけかせいだから、という返事であった。

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邪魔ならまた来ると云うと、帰らんでもいい、もう今朝から五五、二円五十銭だけ稼いだからと云う挨拶であった。

やがてはちまきを外して、話を始めた。

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やがて鉢巻を外して、話を始めた。

始めるやいなや、今の日本の作家と評論家を、目の玉が飛び出るほど痛快にののしり始めた。

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始めるが早いか、今の日本の作家と評家を眼の玉の飛び出る程痛快に罵倒ばとうし始めた。

代助はそれをおもしろく聞いていた。

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代助はそれを面白く聞いていた。

しかし心の中では、寺尾のことを誰もほめないので、その仕返しとして自分のほうでは人をけなすのだろうと思った。

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然し腹の中では、寺尾の事を誰も賞めないので、その対抗運動として、自分の方ではひとけなすんだろうと思った。

少しそういう意見を世に出したらいいじゃないかとすすめると、そうは行かないよと笑っている。

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ちと、そう云う意見を発表したら好いじゃないかと勧めると、そうは行かないよと笑っている。

なぜと聞き返しても答えない。

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何故なぜと聞き返しても答えない。

しばらくして、それは君のように気楽に暮らせる身分なら、いくらでも言ってみせるが――何しろ食っていかなきゃならんからね。

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しばらくして、そりゃ君の様に気楽に暮せる身分なら随分云ってみせるが――何しろ食うんだからね。

どうせまじめな商売じゃないさ。

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どうせ真面目な商売じゃないさ。

と言った。

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と云った。

代助は、それでけっこうだ、しっかりやりたまえとはげました。

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代助は、それで結構だ、しっかりりたまえと奨励した。

すると寺尾は、いや、少しもけっこうじゃない。

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すると寺尾は、いやちっとも結構じゃない。

どうにかしてまじめになりたいと思っている。

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どうかして、真面目になりたいと思っている。

どうだ、君、少し金を貸して僕をまじめにする気はないかと聞いた。

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どうだ、君ちっと金を貸して僕を真面目にする了見はないかと聞いた。

いや、君が今のようなことをして、それでまじめだと思うようになったら、そのとき貸してやろう、とからかって、代助は外へ出た。

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いや、君が今の様な事をして、それで真面目だと思う様になったら、その時貸してやろうと調戯からかって、代助は表へ出た。

本郷の通りまで来たが、あきあきした気持ちは前のままである。

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本郷の通りまで来たが倦怠アンニュイの感は依然としてもとの通りである。

どこをどう歩いても物足りない。

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何処をどう歩いても物足りない。

かといって、人の家をたずねる気はもう出ない。

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と云って、人のうちを訪ねる気はもう出ない。

自分を調べてみると、体ぜんたいが大きな胃の病気のような感じがした。

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自分を検査してみると、身体からだ全体が、大きな胃病の様な心持がした。

四丁目からまた電車に乗って、今度は伝通院前(でんづういんまえ)まで来た。

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四丁目から又電車へ乗って、今度は伝通院前でんずういんまえまで来た。

車の中でゆられるたびに、百七十センチいくらかある大きな胃ぶくろの中で、くさったものが波をうつ感じがあった。

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車中で揺られるたびに、五尺何寸かある大きな胃嚢いぶくろの中で、腐ったものが、波を打つ感じがあった。

三時過ぎに、ぼんやり家へ帰った。

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三時過ぎにぼんやりうちへ帰った。

玄関で門野が、

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玄関で門野が、

「さっきお宅から使いの方が来ました。手紙は書斎の机の上に置いておきました。受け取りはちょっと私が書いてわたしておきました」

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先刻さっき御宅から御使でした。手紙は書斎の机の上に載せて置きました。受取は一寸ちょっとわたくしが書いて渡して置きました」

と言った。

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と云った。

手紙は昔ふうの手紙入れの箱の中にあった。

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手紙は古風な状箱の中にあった。

その赤ぬりの表には宛名も何も書かないで、しんちゅうの輪に通したこよりの結び目に黒いすみをつけてあった。

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その赤塗の表には名宛なあても何も書かないで、真鍮しんちゅうの環に通した観世撚かんじんよりの封じ目に黒い墨を着けてあった。

代助は机の上を一目見て、この手紙の主は兄の妻だとすぐわかった。

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代助は机の上を一目見て、この手紙の主は嫂だとすぐ悟った。

兄の妻にはこういう古い好みがあって、それがときどき思わぬところに出てくる。

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嫂にはこう云う旧式な趣味があって、それが時々思わぬ方角へ出てくる。

代助ははさみの先でこよりの結び目をつつきながら、面倒な手間だと思った。

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代助ははさみの先で観世撚の結目を突っつきながら、面倒な手数てかずだと思った。

けれども、中にあった手紙は箱とは反対に、話しことばのままの簡単なものであった。

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けれども中にあった手紙は、状箱とは正反対に簡単な、言文一致で用を済していた。

この間わざわざ来てくれたときは、頼まれたとおりにしてあげられなくて気の毒だった。

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この間わざわざ来てくれた時は、御依頼おたのみ通り取り計いかねて、御気の毒をした。

あとから考えてみると、そのときいろいろえんりょのない失礼なことを言ったのが気にかかる。

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後から考えてみると、その時色々無遠慮な失礼を云った事が気にかかる。

どうか悪く取らないでほしい。

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どうか悪く取って下さるな。

そのかわりお金をあげる。

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その代り御金を上げる。

もっとも、全部というわけには行かない。

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もっともみんなと云う訳には行かない。

二百円だけ用意してあげる。

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二百円だけ都合して上げる。

だからそれをすぐお友達のところへ届けてあげなさい。

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からそれをすぐ御友達の所へ届けて御上げなさい。

これは兄さんにはないしょだから、そのつもりでいなくてはいけない。

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これは兄さんには内所だからその積りでいなくっては不可いけない。

お嫁さんのことも宿題にするという約束だから、よく考えて返事をなさい。

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奥さんの事も宿題にするという約束だから、よく考えて返事をなさい。

手紙の中に巻きこんで、二百円の小切手(こぎって。銀行でお金に換えられる紙)が入っていた。

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手紙の中に巻き込めて、二百円の小切手が這入はいっていた。

代助はしばらくそれをながめているうちに、梅子にすまないような気がして来た。

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代助は、しばらく、それを眺めているうちに、梅子に済まない様な気がして来た。

この間の晩、帰りぎわに向こうから、じゃお金は要らないのと聞いた。

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この間の晩、帰りがけに、向うから、じゃ御金は要らないのと聞いた。

貸してくれと正面から頼んだときは、あんなにひどくはねつけておきながら、いざあきらめて帰る段になると、かえって断ったほうから気にかけて念をおして来た。

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貸してくれと切り込んで頼んだ時は、ああ手痛てきびしく跳ね付けて置きながら、いざ断念して帰る段になると、かえって断わった方から、掛念けねんがって駄目を押して出た。

代助はそこに女の美しさと弱さとを見た。

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代助はそこに女性にょしょうの美くしさと弱さとを見た。

そうして、その弱さにつけこむ勇気をなくした。

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そうしてその弱さに付け入る勇気を失った。

この美しい弱いところをもてあそぶのにたえられなかったからである。

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この美しい弱点をもてあそぶに堪えなかったからである。

ええ要りません、どうにかなるでしょうと言って別れた。

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ええ要りません、どうかなるでしょうと云って分れた。

それを梅子は冷たい返事だと思ったにちがいない。

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それを梅子は冷かな挨拶と思ったに違ない。

その冷たい言葉が、梅子のいつもの思い切りのよさの裏のどこかに引っかかっていて、とうとうこの手紙になったのだろうと、代助は考えた。

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その冷かな言葉が、梅子の平生の思い切った動作の裏に、何処にか引っ掛っていて、とうとうこの手紙になったのだろうと代助は判断した。

代助はすぐ返事を書いた。

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代助はすぐ返事を書いた。

そうして、できるだけあたたかい言葉を使って感謝の気持ちを表した。

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そうして出来るだけ暖かい言葉を使って感謝の意を表した。

代助がこういう気持ちになることは、兄に対してもない。

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代助がこう云う気分になる事は兄に対してもない。

父に対してもない。

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父に対してもない。

世間ぜんたいに対しては、もちろんない。

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世間一般に対してはもとよりない。

近ごろは梅子に対しても、あまり起こらなかったのである。

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近来は梅子に対してもあまり起らなかったのである。

代助はすぐ三千代のところへ出かけようかと考えた。

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代助はすぐ三千代の所へ出掛けようかと考えた。

じつを言うと、二百円は代助にとってはんぱな額であった。

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実を云うと、二百円は代助に取って中途半端なたかであった。

これだけくれるなら、いっそ思い切って、こちらの頼んだとおりにして満足させてくれればいいのに、という気も出た。

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これだけくれるなら、一層いっそ思い切って、此方こっち強請ねだった通りにして、満足を買えばいいにと云う気も出た。

が、それは代助の頭が梅子をはなれて三千代のほうへ向いたときのことであった。

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が、それは代助の頭が梅子を離れて三千代の方へ向いた時の事であった。

その上、女はどんなに思い切りのいい女でも気持ちの上でははんぱなものであると信じている代助には、それがとくに不満にも思えなかった。

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その上、女は如何いかに思い切った女でも、感情上中途半端なものであると信じている代助には、それが別段不平にも思えなかった。

いや、女のこういう態度のほうが、かえって男のきっぱりしたやり方よりも、思いやりのやわらかさを見せている点で気持ちがいいものだと考えていた。

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いな女のこう云う態度の方が、却って男性の断然たる処置よりも、同情の弾力性を示している点において、快よいものと考えていた。

だから、もし二百円を自分にくれたのが梅子ではなく父であったとすれば、代助はそれをお金の上でのはんぱだと取って、かえっていやな気持ちになったかも知れないのである。

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だから、もし二百円を自分に贈ったものが、梅子でなくって、父であったとすれば、代助は、それを経済的中途半端と解釈して、却って不愉快な感に打たれたかも知れないのである。

代助は晩ご飯も食べずに、すぐまた外へ出た。

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代助は晩食ばんめしも食わずに、すぐ又表へ出た。

五軒町(ごけんちょう)から江戸川(えどがわ)のふちを伝って川を向こうへこえたときは、さっき散歩から帰ったときのような心のつかれを感じていなかった。

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五軒町から江戸川のへりを伝って、河を向うへ越した時は、先刻さっき散歩からの帰りの様に精神の困憊こんぱいを感じていなかった。

坂を上って伝通院の横へ出ると、細く高いえんとつが、寺と寺の間からきたないけむりを雲の多い空にはき出していた。

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坂を上って伝通院の横へ出ると、細く高い烟突えんとつが、寺と寺の間から、汚ないけむを、雲の多い空に吐いていた。

代助はそれを見て、まずしい工業が生きのびるために無理にはく息を、見苦しいものだと思った。

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代助はそれを見て、貧弱な工業が、生存せいそんために無理に呼吸いきを見苦しいものと思った。

そうして、その近くに住む平岡とこのえんとつとを、それとなく重ねて思わずにはいられなかった。

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そうしてその近くに住む平岡と、この烟突とを暗々のうちに連想せずにはいられなかった。

こういう場合には、かわいそうだと思う気持ちより美しいかみにくいかの気持ちが先に立つのが代助のいつもであった。

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こう云う場合には、同情の念より美醜の念が先に立つのが、代助の常であった。

代助はこのしゅんかんに、三千代のことをほとんど忘れてしまうくらい、空に散るあわれな石炭のけむりに心を動かされた。

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代助はこの瞬間に、三千代の事をほとんど忘れてしまった位、空に散るあわれな石炭のけむりに刺激された。

平岡の玄関のくつをぬぐところには、女のはくかさねぞうりがぬぎ捨ててあった。

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平岡の玄関の沓脱くつぬぎには女の穿く重ね草履が脱ぎ棄ててあった。

こうし戸を開けると、奥のほうから三千代がすそを鳴らして出て来た。

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格子こうしを開けると、奥の方から三千代がすそを鳴らして出て来た。

そのとき、上がり口の二畳(にじょう)はほとんど暗かった。

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その時上り口の二畳は殆んど暗かった。

三千代はその暗い中にすわってあいさつをした。

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三千代はその暗い中に坐って挨拶あいさつをした。

初めは誰が来たのかよくわからなかったらしかったが、代助の声を聞くとすぐ、どちらかと思ったら……と、むしろ低い声で言った。

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始めは誰が来たのか、よく分らなかったらしかったが、代助の声を聞くや否や、何方どなたかと思ったら……と寧ろ低い声で云った。

代助は、はっきり見えない三千代の姿を、いつもより美しくながめた。

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代助は判然はっきり見えない三千代の姿を、常よりは美しく眺めた。

平岡は留守であった。

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平岡は不在であった。

それを聞いたとき、代助は話しやすいような、また話しにくいような、へんな気がした。

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それを聞いた時、代助は話していやすい様な、又話していにくい様な変な気がした。

けれども、三千代のほうはいつものとおり落ち着いていた。

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けれども三千代の方は常の通り落ち付いていた。

ランプもつけないで、暗い部屋を閉め切ったまま二人ですわっていた。

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洋燈ランプけないで、暗いへやて切ったまま二人で坐っていた。

三千代は下女(げじょ。家で働く女の人)も留守だと言った。

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三千代は下女も留守だと云った。

自分もさっきそこまで用事に出て、今帰って夕ご飯をすませたばかりだと言った。

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自分も先刻さっき其所そこまで用達ようたしに出て、今帰って夕食ゆうめしを済ましたばかりだと云った。

やがて平岡の話が出た。

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やがて平岡の話が出た。

思ったとおり、平岡は相変わらず走り回っている。

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予期した通り、平岡は相変らず奔走している。

が、この一週間ほどはあまり外へ出なくなった。

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が、この一週間程は、あんまり外へ出なくなった。

つかれたと言って、よく家でねている。

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疲れたと云って、よくうちている。

でなければ酒を飲む。

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でなければ酒を飲む。

人がたずねて来ればもっと飲む。

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人が尋ねて来ればなお飲む。

そうして、よくおこる。

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そうして善く怒る。

さかんに人をののしる。

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さかんに人を罵倒する。

のだそうである。

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のだそうである。

「昔とちがって気があらくなって困るわ」

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「昔と違って気が荒くなって困るわ」

と言って、三千代はそれとなく同情を求めるようすであった。

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と云って、三千代は暗に同情を求める様子であった。

代助は黙っていた。

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代助は黙っていた。

下女が帰って来て、勝手口でがたがた音をさせた。

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下女が帰って来て、勝手口でがたがた音をさせた。

しばらくすると、竹の台のついたランプを持って出た。

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しばらくすると、胡摩竹ごまだけの台の着いた洋燈ランプを持って出た。

ふすまを閉めるとき、代助の顔をぬすむように見て行った。

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ふすまを締める時、代助の顔をぬすむ様に見て行った。

代助はふところから例の小切手を出した。

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代助はふところから例の小切手を出した。

二つに折れたのをそのまま三千代の前に置いて、奥さん、と呼びかけた。

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二つに折れたのをそのまま三千代の前に置いて、奥さん、と呼び掛けた。

代助が三千代を奥さんと呼んだのは初めてであった。

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代助が三千代を奥さんと呼んだのは始めてであった。

「この間頼まれたお金ですがね」

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先達せんだって御頼の金ですがね」

三千代は何も答えなかった。

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三千代は何にも答えなかった。

ただ目を上げて代助を見た。

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ただ眼を挙げて代助を見た。

「じつはすぐにもと思ったんだけれども、こちらの都合がつかなかったものだから、つい遅くなったんだが、どうですか、もうかたはつきましたか」

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「実は、すぐにもと思ったんだけれども、此方こっちの都合が付かなかったものだから、つい遅くなったんだが、どうですか、もう始末は付きましたか」

と聞いた。

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と聞いた。

そのとき、三千代は急に心細そうな低い声になった。

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その時三千代は急に心細そうな低い声になった。

そうして、うらむように、

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そうしてえんずる様に、

「まだですわ。だって、片づくわけがないじゃありませんか」

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まだですわ。だって、片付く訳が無いじゃありませんか」

と言ったまま、目を見開いてじっと代助を見ていた。

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と云ったまま、眼をみはってじっと代助を見ていた。

代助は折れた小切手を取り上げて、二つに開いた。

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代助は折れた小切手を取り上げて二つに開いた。

「これだけじゃ駄目ですか」

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「これだけじゃ駄目ですか」

三千代は手をのばして小切手を受け取った。

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三千代は手を伸ばして小切手を受取った。

「ありがとう。平岡が喜びますわ」

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難有ありがとう。平岡が喜びますわ」

と、静かに小切手をたたみの上に置いた。

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と静かに小切手を畳の上に置いた。

代助は金を借りて来たいきさつをごくざっと説明して、自分はこういう気楽な身分のように見えるけれども、何か必要があって自分以外のことに手を出そうとすると、まるで何もできなくなるのだから、そこは悪く思わないでほしいと、言いわけをつけ加えた。

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代助は金を借りて来た由来を、ごくざっと説明して、自分はこういう呑気のんきな身分の様に見えるけれども、何か必要があって、自分以外の事に、手を出そうとすると、まるで無能力になるんだから、そこは悪く思ってくれない様にと言訳を付け加えた。

「それは私もわかっていますわ。けれども、困ってどうすることもできないものだから、つい無理をお願いして」

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「それは、わたくしも承知していますわ。けれども、困って、どうする事も出来ないものだから、つい無理を御願して」

と、三千代は気の毒そうにあやまった。

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と三千代は気の毒そうにわびを述べた。

代助はそこで念をおした。

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代助はそこで念を押した。

「それだけでどうにかかたがつきますか。もしどうしてもつかなければ、もう一度やりくりしてみるんだが」

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「それだけで、どうか始末が付きますか。もしどうしても付かなければ、もう一遍工面してみるんだが」

「もう一度やりくりするって」

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「もう一遍工面するって」

「はんこを押して、高い利息のつくお金を借りるんです」

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「判を押して高い利のつく御金を借りるんです」

「あら、そんなことを」

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「あら、そんな事を」

と、三千代はすぐ打ち消すように言った。

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と三千代はすぐ打ち消す様に云った。

「それこそ大変よ。あなた」

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「それこそ大変よ。貴方あなた

代助は、平岡が今苦しめられているのも、その始まりはたちの悪い金を借り始めたのが次々にたたっているのだ、ということを聞いた。

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代助は平岡の今苦しめられているのも、その起りは、性質たちの悪い金を借り始めたのが転々してたたっているんだと云う事を聞いた。

平岡はあの土地で、初めのうちはとてもよく働く男として通っていたのだが、三千代が子どもを産んだあとで心臓が悪くなってぶらぶらし出すと、遊び始めたのである。

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平岡は、あの地で、最初のうちは、非常な勤勉家として通っていたのだが、三千代が産後心臓が悪くなって、ぶらぶらし出すと、遊び始めたのである。

それも初めのうちはそれほどひどくもなかったので、三千代はただつきあい上しかたがないのだろうとあきらめていたが、しまいにはそれがだんだんひどくなって、きりがなくなるばかりなので、三千代も心配をする。

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それも初めのうちは、それ程はげしくもなかったので、三千代はただ交際つきあいやむを得ないんだろうとあきらめていたが、仕舞にはそれが段々高じて、程度ほうずが無くなるばかりなので三千代も心配をする。

すれば体が悪くなる。

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すれば身体が悪くなる。

なれば遊びがもっとひどくなる。

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なれば放蕩ほうとうが猶募る。

やさしくないのではない。

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不親切なんじゃない。

私が悪いんです、と三千代はわざわざことわった。

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私が悪いんですと三千代はわざわざ断わった。

けれども、またさびしい顔をして、せめて子どもでも生きていてくれたらどんなによかっただろうと、つくづく考えたこともありました、と打ち明けた。

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けれども又淋しい顔をして、せめて小供でも生きていてくれたらさぞかったろうと、つくづく考えた事もありましたと自白した。

代助はお金の問題のうらにかくれている夫婦の関係を、だいたい見当がついたような気がしたので、あまり多くこちらから聞くのはひかえた。

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代助は経済問題の裏面に潜んでいる、夫婦の関係をあらまし推察し得た様な気がしたので、あまり多く此方こっちから問うのを控えた。

帰りぎわに、

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帰りがけに、

「そんなに弱っちゃいけない。昔のように元気におなりなさい。そうして、少し遊びにいらっしゃい」

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「そんなに弱っちゃ不可いけない。昔の様に元気に御成んなさい。そうしてちっと遊びに御出おいでなさい」

とはげました。

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と勇気をつけた。

「本当ね」

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本当ほんとね」

と三千代は笑った。

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と三千代は笑った。

二人はおたがいの昔を、おたがいの顔の上に見つけた。

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彼等は互の昔を互の顔の上に認めた。

平岡はとうとう帰って来なかった。

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平岡はとうとう帰って来なかった。

二日おいて、突然平岡が来た。

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中二日置いて、突然平岡が来た。

その日はかわいた風が晴れた空をふいて、青いものが目にうつる、いつもより暑い天気であった。

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その日は乾いた風が朗らかなそらを吹いて、あおいものが眼に映る、常よりは暑い天気であった。

朝の新聞にしょうぶの花の案内が出ていた。

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朝の新聞に菖蒲しょうぶの案内が出ていた。

代助の買った大きな鉢植えの君子蘭(くんしらん)は、とうとう縁側で散ってしまった。

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代助の買った大きな鉢植の君子蘭くんしらんはとうとう縁側で散ってしまった。

そのかわり、短い刀ほども幅のある緑の葉が、くきを押し分けて長くのびて来た。

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その代り脇差わきざし程も幅のある緑の葉が、茎を押し分けて長く延びて来た。

古い葉は黒ずんだまま、日に光っている。

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古い葉は黒ずんだまま、日に光っている。

その一枚が何かのはずみで半分から折れて、くきから十五センチばかりのところで急にするどく下がったのが、代助には見苦しく見えた。

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その一枚が何かの拍子に半分はんぶから折れて、茎を去る五寸ばかりの所で、急に鋭く下ったのが、代助には見苦しく見えた。

代助ははさみを持って縁側に出た。

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代助ははさみを持って縁に出た。

そうして、その葉を折れたところの手前から切って捨てた。

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そうしてその葉を折れ込んだ手前から、って棄てた。

そのとき、厚い切り口が急ににじみ出すように見えて、しばらくながめているうちに、ぽたりと縁側に音がした。

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時に厚い切り口が、急に煮染にじむ様に見えて、しばらく眺めているうちに、ぽたりと縁に音がした。

切り口に集まったのは、緑色のこい重いしるであった。

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切口に集ったのは緑色の濃い重い汁であった。

代助はそのにおいをかごうと思って、みだれる葉の中に鼻をつっこんだ。

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代助はそのにおいごうと思って、乱れる葉の中に鼻を突っ込んだ。

縁側のしずくはそのままにしておいた。

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縁側のしたたりはそのままにして置いた。

立ち上がって、たもとからハンカチを出してはさみの刃をふいているところへ、門野が平岡さんがおいでですと知らせて来たのである。

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立ち上がって、たもとから手帛ハンケチを出して、鋏の刃をいている所へ、門野が平岡さんが御出ですとしらせて来たのである。

代助はそのとき、平岡のことも三千代のことも、まるで頭の中に考えていなかった。

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代助はその時平岡の事も三千代の事も、まるで頭の中に考えていなかった。

ただ不思議な緑色のしるに心をうばわれて、わりに世間と関係のない気分の中で動いていた。

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只不思議な緑色の液体に支配されて、比較的世間に関係のない情調のもとに動いていた。

それが平岡の名を聞くとすぐ、消えてしまった。

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それが平岡の名を聞くや否や、すぐ消えてしまった。

そうして、なんだか会いたくないような気持ちがした。

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そうして、何だか逢いたくない様な気持がした。

「こちらへお通ししましょうか」

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此方こっちへ御通し申しましょうか」

と門野からせかされたとき、代助はうんと言って座敷へ入った。

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と門野から催促された時、代助はうんと云って、座敷へ這入はいった。

あとから席に案内された平岡を見ると、もう夏の洋服を着ていた。

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あとから席に導かれた平岡を見ると、もう夏の洋服を着ていた。

えりも白いシャツも新しい上に、はやりの編みネクタイをしめて、仕事のない身とは誰にも思えないくらい、しゃれた身なりにしていた。

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襟も白襯衣シャツも新らしい上に、流行の編襟飾あみえりかざりを掛けて、浪人とは誰にも受け取れない位、ハイカラに取り繕ろっていた。

話してみると、平岡のようすは前と同じで、何も進んでいなかった。

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話してみると、平岡の事情は、依然として発展していなかった。

もう近ごろは動き回ってもしばらく駄目だから、毎日こうして遊んで歩く。

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もう近頃は運動しても当分駄目だから、毎日こうして遊んで歩く。

それでなければ家でねているんだと言って、大きな声を出して笑ってみせた。

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それでなければ、うちているんだと云って、大きな声を出して笑ってみせた。

代助も、それがよかろうと答えたきり、あとはあたりさわりのない世間話で時間をつぶしていた。

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代助もそれがかろうと答えたなり、後は当らずさわらずの世間話に時間をつぶしていた。

けれども、自然に出る世間話というよりも、むしろある問題をさけるための世間話だから、両方ともはりつめた気持ちを腹の底に感じていた。

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けれども自然に出る世間話というよりも、むしろある問題を回避する為の世間話だから、両方共に緊張を腹の底に感じていた。

平岡は三千代のことも金のことも口に出さなかった。

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平岡は三千代の事も、金の事も口へ出さなかった。

だから、三日前に代助が留守の家をたずねたことについても何も言わなかった。

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従って三日前代助が彼の留守宅を訪問した事に就ても何も語らなかった。

代助も初めのうちはわざとそこにふれないですましていたが、いつまでたっても平岡のほうがよそよそしくかまえているので、かえって不安になった。

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代助も始めのうちは、わざと、その点に触れないで澄していたが、何時いつまでっても、平岡の方で余所よそ々々しく構えているので、却って不安になった。

「じつは二、三日前に君のところへ行ったが、君は留守だったね」

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「実は二三日にさんち前君の所へ行ったが、君は留守だったね」

と言い出した。

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と云い出した。

「うん。そうだったそうだね。そのせつはまたありがとう。おかげさまで。――なに、君の手をわずらわさなくてもどうにかなったんだが、あいつがあまり心配しすぎて、つい君に迷惑をかけてすまない」

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「うん。そうだったそうだね。その節は又難有ありがとう。御蔭おかげさまで。――なに、君をわずらわさないでもどうかなったんだが、彼奴あいつがあまり心配し過ぎて、つい君に迷惑を掛けて済まない」

と、冷たいお礼を言った。

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と冷淡な礼を云った。

それから、

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それから、

「僕もじつはお礼に来たようなものだが、本当のお礼にはそのうち本人が来るだろうから」

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「僕も実は御礼に来た様なものだが、本当の御礼には、いずれ当人が出るだろうから」

と、まるで三千代と自分を別のものにした言い方であった。

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とまるで三千代と自分を別物にした言分であった。

代助はただ、

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代助はただ、

「そんな面倒なことをする必要があるものか」

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「そんな面倒な事をする必要があるものか」

と答えた。

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と答えた。

話はこれで切れた。

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話はこれで切れた。

が、また両方に関わりがあって、しかも両方があまり興味を持たない方面へすべって行った。

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が又両方に共通で、しかも、両方のあまり興味を持たない方面にり滑って行った。

すると、平岡が突然、

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すると、平岡が突然、

「僕はことによると、もう会社の仕事はやめるかも知れない。実際、内側を知れば知るほどいやになる。その上こちらへ来て少し動いてみて、つくづく勇気がなくなった」

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「僕はことによると、もう実業はめるかも知れない。実際内幕を知れば知る程いやになる。その上此方こっちへ来て、少し運動をしてみて、つくづく勇気がなくなった」

と、心の底からのような打ち明け話をした。

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と心底かららしい告白をした。

代助は一言、

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代助は、一口、

「それはそうだろう」

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「それは、そうだろう」

と答えた。

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と答えた。

平岡は、この返事があまり冷たいので驚いたようすであった。

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平岡はあまりこの返事の冷淡なのに驚ろいた様子であった。

が、またあとをつけ足した。

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が、又あとを付けた。

「この間もちょっと話したんだが、新聞社へでも入ろうかと思ってる」

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「先達ても一寸話したんだが、新聞へでも這入ろうかと思ってる」

「あてがあるのかい」

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「口があるのかい」

と代助が聞き返した。

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と代助が聞き返した。

「今、一つある。たぶんできそうだ」

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「今、一つある。多分出来そうだ」

来たときは動き回っても駄目だから遊んでいると言うし、今は新聞社にあてがあるから行こうと言うし、少しつじつまが合わないが、問いつめるのも面倒だと思って、代助は、

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来た時は、運動しても駄目だから遊んでいると云うし、今は新聞に口があるから出ようと云うし、少し要領を欠いでいるが、追窮するのも面倒だと思って、代助は、

「それもおもしろかろう」

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「それも面白かろう」

と賛成のようすを見せておいた。

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と賛成の意を表して置いた。

平岡の帰りを玄関まで見送ったとき、代助はしばらくしょうじに体を寄せて、しきいの上に立っていた。

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平岡の帰りを玄関まで見送った時、代助はしばらく、障子に身を寄せて、敷居の上に立っていた。

門野もつきあいで平岡の後ろ姿をながめていた。

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門野も御附合に平岡の後姿を眺めていた。

が、すぐ口を出した。

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が、すぐ口を出した。

「平岡さんは思ったよりしゃれてますな。あの服では、少し家のほうが粗末すぎるようです」

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「平岡さんは思ったよりハイカラですな。あの服装なりじゃ、少しうちの方が御粗末過ぎる様です」

「そうでもないさ。近ごろはみんな、あんなものだろう」

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「そうでもないさ。近頃はみんな、あんなものだろう」

と代助は立ちながら答えた。

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と代助は立ちながら答えた。

「まったく、服だけじゃわからない世の中になりましたからね。どこの紳士かと思うと、へんてこな家に住んでますからね」

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「全たく、服装なりだけじゃ分らない世の中になりましたからね。何処どこの紳士かと思うと、どうも変ちきりんなうち這入はいってますからね」

と門野は、すぐ言葉を続けた。

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と門野はすぐあとを付けた。

代助は返事もせずに書斎へ引き返した。

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代助は返事もずに書斎へ引き返した。

縁側にたれた君子蘭の緑のしずくが、どろどろになってかわきかけていた。

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縁側に垂れた君子蘭の緑のしたたりがどろどろになって、干上り掛っていた。

代助はわざと書斎と座敷の仕切りを閉め切って、一人で部屋の中に入った。

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代助はわざと、書斎と座敷の仕切を立て切って、一人へやのうちへ這入った。

お客に会ったあとしばらくは、一人ですわりこむのが代助のくせであった。

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来客に接した後しばらくは、独坐にふけるが代助の癖であった。

とくに今日のように調子がくるうときは、なおさらその必要を感じた。

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ことに今日の様に調子の狂う時は、格別その必要を感じた。

平岡はとうとう自分とはなれてしまった。

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平岡はとうとう自分と離れてしまった。

会うたびに、遠くにいて話しているような気がする。

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うたんびに、遠くにいて応対する様な気がする。

じつを言うと、平岡ばかりではない。

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実を云うと、平岡ばかりではない。

誰に会ってもそんな気がする。

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誰に逢ってもそんな気がする。

今の世の中は、ひとりぼっちの人間が集まっただけのものにすぎなかった。

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現代の社会は孤立した人間の集合体に過ぎなかった。

大地は自然につながっているけれども、その上に家を建てたら、たちまち切れ切れになってしまった。

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大地は自然に続いているけれども、その上にいえを建てたら、たちまれになってしまった。

家の中にいる人間も、また切れ切れになってしまった。

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家の中にいる人間もまた切れ切れになってしまった。

文明は自分たちをひとりぼっちにするものだと、代助は考えた。

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文明は我等をして孤立せしむるものだと、代助は解釈した。

代助と仲がよかったころの平岡は、人に泣いてもらうことを喜ぶ人であった。

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代助と接近していた時分の平岡は、人に泣いてもらう事を喜こぶ人であった。

今でもそうかも知れない。

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今でもそうかも知れない。

が、少しもそんな顔をしないから、わからない。

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が、ちっともそんな顔をしないから、わからない。

いや、わざと人の同情をはねのけるようにふるまっている。

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いなつとめて、人の同情をしりぞける様に振舞っている。

ひとりぼっちでも世の中は渡ってみせるというやせがまんか、それともこれが今の世の中の本当の姿だというあきらめか、どちらかである。

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孤立しても世は渡ってみせるという我慢か、又はこれが現代社会に本来の面目めんもくだと云う悟りか、何方どっちかに帰着する。

平岡と仲がよかったころの代助は、人のために泣くことの好きな男であった。

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平岡に接近していた時分の代助は、人のために泣く事の好きな男であった。

それがだんだん泣けなくなった。

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それが次第々々に泣けなくなった。

泣かないほうが今ふうだから、と言うのではなかった。

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泣かない方が現代的だからと云うのではなかった。

じつは逆で、泣かないから今ふうなのだと言いたかった。

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事実は寧ろこれを逆にして、泣かないから現代的だと言いたかった。

西洋の文明におされて、その重荷の下でうめき、はげしい生き残り競争の場に立つ人で、本当に人のために泣ける者に、代助はまだ一度も出会わなかった。

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泰西の文明の圧迫を受けて、その重荷の下にうなる、劇烈な生存競争場裏に立つ人で、真によく人の為に泣き得るものに、代助はいまかつて出逢わなかった。

代助は今の平岡に対して、へだたりを感じるよりも、むしろいやだという気持ちを感じた。

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代助は今の平岡に対して、隔離の感よりも寧ろ嫌悪けんおの念を催うした。

そうして、向こうにも自分と同じ気持ちが芽ばえていると思った。

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そうして向うにも自己同様の念がきざしていると判じた。

昔の代助も、ときどき自分の胸の中にこういう影を見つけて驚いたことがあった。

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昔しの代助も、時々わが胸のうちに、こう云う影を認めて驚ろいた事があった。

そのときはとても悲しかった。

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その時は非常に悲しかった。

今はその悲しみも、ほとんどうすくはがれてしまった。

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今はその悲しみも殆んど薄くがれてしまった。

だから、自分で黒い影をじっと見つめてみる。

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だから自分で黒い影をじっと見詰めてみる。

そうして、これが本当だと思う。

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そうして、これがまことだと思う。

しかたがないと思う。

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已を得ないと思う。

ただそれだけになった。

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ただそれだけになった。

こういう意味のひとりぼっちの底にしずんで苦しみもだえるには、代助の頭はあまりにはっきりしすぎていた。

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こう云う意味の孤独の底に陥って煩悶はんもんするには、代助の頭はあまりに判然はっきりし過ぎていた。

彼はこの立場を、今の世の人が通らなければならない運命だと考えたからである。

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彼はこの境遇を以て、現代人の踏むべき必然の運命と考えたからである。

だから、自分と平岡のへだたりは、今の自分の目から見て、ごくふつうの道すじをある点まで進んだ結果にすぎないと考えた。

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従って、自分と平岡の隔離は、今の自分のまなこに訴えてみて、尋常一般の経路を、ある点まで進行した結果に過ぎないと見傚みなした。

けれども同時に、二人の間にある特別な事情のため、このへだたりが世間なみよりも早く来てしまったということを、感じないではいられなかった。

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けれども、同時に、両人ふたりの間に横たわる一種の特別な事情の為、この隔離が世間並よりも早く到着したと云う事を自覚せずにはいられなかった。

それは三千代の結婚であった。

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それは三千代の結婚であった。

三千代を平岡にとりもったのは、もともと自分であった。

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三千代を平岡に周旋したものは元来が自分であった。

それをそのとき後悔するような弱い頭ではなかった。

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それを当時にくゆる様な薄弱な頭脳ではなかった。

今になって振り返ってみても、自分のしたことは過去をてらすあざやかなほまれであった。

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今日に至って振り返ってみても、自分の所作は、過去を照らす鮮かな名誉であった。

けれども、三年たつうちに、自然は自然らしい結果を彼ら二人の前につきつけた。

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けれども三年経過するうちに自然は自然に特有な結果を、彼等二人ににんの前に突き付けた。

彼らは自分の満足とかがやきを捨てて、その前に頭を下げなければならなかった。

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彼等は自己の満足と光輝を棄てて、その前に頭を下げなければならなかった。

そうして平岡は、ちらりちらりと、なぜ三千代をもらったのかと思うようになった。

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そうして平岡は、ちらりちらりと何故なぜ三千代を貰ったかと思うようになった。

代助はどこかで、なぜ三千代をとりもったのかという声を聞いた。

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代助は何処かしらで、何故三千代を周旋したかと云う声を聞いた。

代助は書斎に閉じこもって、一日中考えこんでいた。

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代助は書斎に閉じこもって一日考えに沈んでいた。

晩ご飯のとき、門野が、

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晩食の時、門野が、

「先生、今日は一日ご勉強ですな。どうです、少し散歩なさいませんか。今夜は毘沙門(びしゃもん)さまのお祭りですぜ。演芸館で中国人の留学生が芝居をやってます。どんなことをやるつもりですか、行って御覧なすったらどうです。中国人てえやつは物おじしないから何でもやる気だから、気楽なものだ。……」

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「先生今日は一日御勉強ですな。どうです、と御散歩になりませんか。今夜は寅毘沙とらびしゃですぜ。演芸館で支那人ちゃんの留学生が芝居をってます。どんな事を演る積りですか、行って御覧なすったらどうです。支那人てえ奴は、臆面おくめんがないから、何でもる気だから呑気のんきなものだ。……」

と一人でしゃべった。

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と一人で喋舌しゃべった。

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代助はまた父から呼ばれた。

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代助は又父から呼ばれた。

代助には、その用事がだいたいわかっていた。

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代助にはその用事が大抵分っていた。

代助はふだんからなるべく父をさけて会わないようにしていた。

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代助は不断からなるべく父を避けて会わない様にしていた。

このごろになっては、なおさら奥へ寄りつかなかった。

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この頃になっては猶更なおさら奥へ寄り付かなかった。

会うと、ていねいな言葉を使って話しているのに、腹の中では父を馬鹿にしているような気がしてならなかったからである。

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逢うと、叮寧ていねいな言葉を使って応対しているにもかかわらず、腹の中では、父を侮辱ぶじょくしている様な気がしてならなかったからである。

代助は、人と人がおたがいを腹の中で馬鹿にしなければつきあえない今の世の中を、二十世紀のだらくと呼んでいた。

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代助は人類の一人いちにんとして、互を腹の中で侮辱する事なしには、互に接触を敢てし得ぬ、現代の社会を、二十世紀の堕落と呼んでいた。

そうして、これを、近ごろ急にふくらんだ「もっと豊かに暮らしたい」という思いの強い力が、正しさを求める思いをくずしたものだと考えていた。

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そうして、これを、近来急に膨張した生活よくの高圧力が道義慾の崩壊を促がしたものと解釈していた。

また、これを新しい思いと古い思いのぶつかり合いだと見ていた。

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又これをこれ等新旧両慾の衝突と見傚していた。

最後に、この暮らしを豊かにしたいという思いの目ざましい広がりを、ヨーロッパから押し寄せた津波だと考えていた。

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最後に、この生活慾の目醒めざましい発展を、欧洲おうしゅうから押し寄せた海嘯つなみと心得ていた。

この二つのものは、どこかでつりあいを取らなければならない。

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この二つの因数ファクターは、何処どこかで平衡を得なければならない。

けれども、まずしい日本がヨーロッパのいちばん強い国と金の力でならぶ日が来るまでは、このつりあいは日本では取れないものと代助は信じていた。

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けれども、貧弱な日本が、欧洲の最強国と、財力において肩をならべる日の来るまでは、この平衡は日本に於て得られないものと代助は信じていた。

そうして、そういう日はとても日本には来ないものとあきらめていた。

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そうして、かかる日は、到底日本の上を照らさないものとあきらめていた。

だから、この行きづまった日本の紳士の多くは、毎日法律にふれない程度で、あるいは頭の中だけで、悪いことをしなければならない。

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だからこの窮地に陥った日本紳士の多数は、日毎ひごとに法律に触れない程度に於て、もしくはただ頭の中に於て、罪悪を犯さなければならない。

そうして、相手が今どんな悪いことをしているかをおたがいに黙って知りながら、笑って話さなければならない。

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そうして、相手が今如何いかなる罪悪を犯しつつあるかを、互に黙知しつつ、談笑しなければならない。

代助は人間の一人として、こういう馬鹿にし方をするのも、されるのも、たえられなかった。

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代助は人類の一人として、かかる侮辱を加うるにも、又加えらるるにも堪えなかった。

代助の父の場合は、ふつうにくらべると少し変わったところがあるだけに、こみいっていた。

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代助の父の場合は、一般に比べると、やや特殊的傾向を帯びるだけに複雑であった。

父は明治になる前の武士だけが受けた、正しさを第一とする教育を受けた。

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彼は維新前の武士に固有な道義本位の教育を受けた。

この教育は、気持ちや意志やおこないの基準を自分の外の遠いところに置いて、実際に起こることで確かめられる身近な本当のことを見ようとしない、無理なものであった。

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この教育は情意行為の標準を、自己以外の遠い所に据えて、事実の発展によって証明せらるべき手近なまことを、眼中に置かない無理なものであった。

それなのに、父はくせにとらわれて、いまだにこの教育にこだわっている。

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にも拘わらず、父は習慣にとらえられて、未だにこの教育に執着している。

そうして、一方では、豊かになりたい思いにおかされやすい会社の仕事についた。

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そうして、一方には、劇烈な生活慾に冒されやすい実業に従事した。

父は実際には、毎年この思いにむしばまれながら今日まで来た。

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父は実際に於て年々この生活慾の為に腐蝕ふしょくされつつ今日に至った。

だから、昔の自分と今の自分の間には、大きなちがいがあるはずである。

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だから昔の自分と、今の自分の間には、大きな相違のあるべきはずである。

それを父は認めていなかった。

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それを父は自認していなかった。

昔の自分が昔のままの心がまえで、今の仕事をここまでやりとげたとばかり言いはる。

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昔の自分が、昔通りの心得で、今の事業をこれまでに成し遂げたとばかり公言する。

けれども、武士の世でしか通じない教えの幅をせばめないで、今の世の豊かになりたい思いを次々に満たして行けるはずがないと代助は考えた。

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けれども封建時代にのみ通用すべき教育の範囲を狭める事なしに、現代の生活慾を時々刻々にたして行ける訳がないと代助は考えた。

もし両方をそのまま持ち続けようとすれば、それをやる人は、つじつまの合わなさのために大きな苦しみを受けなければならない。

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もし双方をそのままに存在させようとすれば、これを敢てする個人は、矛盾の為に大苦痛を受けなければならない。

もし心の中でこの苦しみを受けながら、ただ苦しいということだけがはっきりしていて、何のための苦しみだか見分けがつかないならば、それは頭のにぶいおとった人である。

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もし内心にこの苦痛を受けながら、ただ苦痛の自覚だけ明らかで、何の為の苦痛だか分別が付かないならば、それは頭脳の鈍い劣等な人種である。

代助は父に会うたびに、父は自分をかくすにせものの立派な人か、それとも考えの足りないおろか者か、どちらかでなくてはならないような気がした。

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代助は父に対する毎に、父は自己を隠蔽いんぺいする偽君子ぎくんしか、もしくは分別の足らない愚物か、何方どっちかでなくてはならない様な気がした。

そうして、そういう気がするのがいやでならなかった。

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そうして、そう云う気がするのが厭でならなかった。

かといって、父は代助の力でどうすることもできない男であった。

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と云って、父は代助の手際てぎわで、どうする事も出来ない男であった。

代助にははっきり、それがわかっていた。

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代助には明らかに、それが分っていた。

だから代助は、今まで一度も父をつじつまの合わないところまで追いつめたことがなかった。

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だから代助は未だかつて父を矛盾の極端まで追い詰めた事がなかった。

代助は、すべての道徳の出発点は世の中で実際に起きていることのほかにないと信じていた。

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代助はすべての道徳の出立点しゅったつてんは社会的事実より外にないと信じていた。

初めから頭の中にかたい道徳を置いて、その道徳から逆に世の中の出来事を作り出そうとするほど、順序をまちがえた話はないと信じていた。

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始めから頭の中に硬張こわばった道徳を据え付けて、その道徳から逆に社会的事実を発展させようとする程、本末を誤った話はないと信じていた。

だから、日本の学校でやる説教のような道徳の教育は意味のないものだと考えた。

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従って日本の学校でやる、講釈の倫理教育は、無意義のものだと考えた。

彼らは学校で昔ふうの道徳を教えている。

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彼等は学校で昔し風の道徳を教授している。

それでなければ、ふつうのヨーロッパ人にぴったりの道徳を教えこんでいる。

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それでなければ一般欧洲人に適切な道徳をみ込ましている。

このはげしく豊かさを求める思いにおそわれた不幸な国民から見れば、遠くてかみ合わない空論にすぎない。

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この劇烈なる生活慾に襲われた不幸な国民から見れば、迂遠うえんの空談に過ぎない。

この遠くてかみ合わない教育を受けた者は、いつか世の中を目の前に見るとき、昔の説教を思い出して笑ってしまう。

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この迂遠な教育を受けたものは、他日社会を眼前に見る時、昔の講釈を思い出して笑ってしまう。

でなければ、馬鹿にされたような気がする。

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でなければ馬鹿にされた様な気がする。

代助にいたっては、学校だけでなく、じっさい自分の父から、いちばん厳しくていちばん通じない正しさの教育を受けた。

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代助に至っては、学校のみならず、現に自分の父から、もっとも厳格で、尤も通用しない徳義上の教育を受けた。

そのため、一時はとても大きなつじつまの合わなさの苦しみを頭の中に起こした。

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それがため、一時非常な矛盾の苦痛を、頭の中に起した。

代助はそれをうらめしく思っているくらいであった。

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代助はそれを恨めしく思っている位であった。

代助はこの前、梅子にお礼を言いに行ったとき、梅子からちょっと奥へ行ってあいさつをしていらっしゃいと言われた。

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代助はこの前梅子に礼を云いに行った時、梅子から一寸ちょっと奥へ行って、挨拶あいさつをしていらっしゃいと注意された。

代助は笑いながら、お父さんはいるんですかととぼけた。

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代助は笑いながら御父さんはいるんですかと空とぼけた。

いらっしゃるわ、というはっきりした答えをもらったときでも、今日は少し急ぐからやめようと帰って来た。

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いらっしゃるわと云う確答を得た時でも、今日はちと急ぐからそうと帰って来た。

今日はわざわざそのために来たのだから、いやでも父に会わなければならない。

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今日はわざわざその為に来たのだから、いやでも応でも父に逢わなければならない。

いつものように内玄関のほうから回って座敷へ来ると、めずらしく兄の誠吾があぐらをかいて酒を飲んでいた。

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相変らず、ない玄関の方から廻って座敷へ来ると、珍らしく兄の誠吾が胡坐あぐらをかいて、酒を呑んでいた。

梅子もそばにすわっていた。

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梅子もそばに坐っていた。

兄は代助を見て、

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兄は代助を見て、

「どうだ、一杯やらないか」

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「どうだ、一ぱい遣らないか」

と、前にあったぶどう酒のびんを持って振って見せた。

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と、前にあった葡萄酒ぶどうしゅびんを持って振って見せた。

中にはまだかなり入っていた。

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中にはまだ余程這入っていた。

梅子は手をたたいてグラスを持って来させた。

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梅子は手をたたいて洋盞コップを取り寄せた。

「当てて御覧なさい。どのくらい古いんだか」

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「当てて御覧なさい。どの位古いんだか」

と一杯ついだ。

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と一杯注いだ。

「代助にわかるものか」

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「代助に分るものか」

と言って、誠吾は弟のくちびるのあたりをながめていた。

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と云って、誠吾は弟の唇のあたりを眺めていた。

代助は一口飲んで、グラスを下に置いた。

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代助は一口飲んでさかずきを下へ下した。

つまみの代わりに、うすいウエハースが菓子皿にあった。

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さかなの代りに薄いウエーファーが菓子皿にあった。

「うまいですね」

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うまいですね」

と言った。

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と云った。

「だから、何年ものか当てて御覧なさいよ」

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「だから時代を当てて御覧なさいよ」

「年ものなんですか。りっぱなものを買いこんだもんだね。帰りに一本もらって行こう」

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「時代があるんですか。偉いものを買い込んだもんだね。帰りに一本貰って行こう」

「おあいにくさま、もうこれきりなの。もらい物よ」

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御生憎おあいにく様、もうこれぎりなの。到来物よ」

と言って、梅子は縁側へ出て、ひざの上に落ちたウエハースの粉をはらった。

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と云って梅子は縁側へ出て、ひざの上に落ちたウエーファーのはたいた。

「兄さん、今日はどうしたんです。たいへん気楽そうですね」

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「兄さん、今日はどうしたんです。大変気楽そうですね」

と代助が聞いた。

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と代助が聞いた。

「今日は休みだ。この間じゅうはどうもいそがしすぎてまいったから」

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「今日は休養だ。この間中はどうも忙し過ぎて降参したから」

と、誠吾は火の消えた葉巻を口にくわえた。

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と誠吾は火の消えた葉巻を口にくわえた。

代助は自分のそばにあったマッチをすってやった。

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代助は自分の傍にあった燐寸マッチを擦って遣った。

「代さん、あなたこそ気楽じゃありませんか」

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「代さん貴方あなたこそ気楽じゃありませんか」

と言いながら、梅子が縁側から帰って来た。

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と云いながら梅子が縁側から帰って来た。

「姉さん、歌舞伎座(かぶきざ)へ行きましたか。まだなら、行って御覧なさい。おもしろいから」

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「姉さん歌舞伎座へ行きましたか。まだなら、行って御覧なさい。面白いから」

「あなたもう行ったの、驚いた。あなたもよほどなまけ者ね」

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「貴方もう行ったの、驚ろいた。貴方も余っ程怠けものね」

「なまけ者はよくない。勉強の向きがちがうんだから」

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「怠けものはくない。勉強の方向が違うんだから」

「ずうずうしいことばかり言って。人の気も知らないで」

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「押の強い事ばかり云って。人の気も知らないで」

と梅子は誠吾のほうを見た。

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と梅子は誠吾の方を見た。

誠吾は赤いまぶたをして、ぽかんと葉巻のけむりをふいていた。

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誠吾は赤いまぶたをして、ぽかんと葉巻のけむを吹いていた。

「ねえ、あなた」

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「ねえ、貴方」

と梅子がせかした。

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と梅子が催促した。

誠吾はうるさそうに葉巻を指の間に移して、

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誠吾はうるさそうに葉巻を指のまたへ移して、

「今のうちにたくさん勉強しておいてもらって、そのうちこっちが貧乏したら助けてもらうほうがいいじゃないか」

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「今のうち沢山たんと勉強して貰って置いて、今に此方こっちが貧乏したら、救って貰う方が好いじゃないか」

と言った。

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と云った。

梅子は、

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梅子は、

「代さん、あなた役者になれて」

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「代さん、あなた役者になれて」

と聞いた。代助は何も言わずに、グラスを姉の前に出した。

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と聞いた、代助は何にも云わずに、洋盞コップを姉の前に出した。

梅子も黙ってぶどう酒のびんを取り上げた。

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梅子も黙って葡萄酒の壜を取り上げた。

「兄さん、この間じゅうは何だかたいへんいそがしかったんだってね」

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「兄さん、この間中は何だか大変忙しかったんだってね」

と代助は前の話に戻って聞いた。

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と代助は前へ戻って聞いた。

「いや、もうまいったよ」

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「いや、もう大弱りだ」

と言いながら、誠吾はねころんでしまった。

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と云いながら、誠吾は寐転ねころんでしまった。

「何か日糖事件に関係でもあったんですか」

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「何か日糖事件に関係でもあったんですか」

と代助が聞いた。

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と代助が聞いた。

「日糖事件に関係はないが、いそがしかった」

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「日糖事件に関係はないが、忙しかった」

兄の答えは、いつもこれ以上はっきりしたことがない。

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兄の答は何時いつでもこの程度以上に明瞭めいりょうになった事がない。

じつははっきり話したくないのだろうけれども、代助の耳には、それがもともとの無とんちゃくで、話すのが面倒なためだと聞こえる。

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実は明瞭に話したくないんだろうけれども、代助の耳には、それが本来の無頓着むとんじゃくで、話すのが臆怯おっくうなためと聞える。

だから代助は、いつも楽な気持ちでその返事を受け取っていた。

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だから代助はいつでも楽にその返事の中に這入はいっていた。

「日糖もつまらないことになったが、ああなる前にどうか手はないんでしょうかね」

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「日糖もつまらない事になったが、ああなる前にどうか方法はないんでしょうかね」

「そうさなあ。実際、世の中のことは何がどうなるんだかわからないからな。――梅、今日は直木に言いつけて、ヘクターを少し運動させなくちゃいけないよ。ああたくさん食ってねてばかりいちゃ毒だ」

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「そうさなあ。実際世の中の事は、何がどうなるんだか分らないからな。――梅、今日は直木に云い付けて、ヘクターを少し運動させなくっちゃ不可いけないよ。ああ大食おおぐいをして寐てばかりいちゃ毒だ」

と、誠吾はねむそうなまぶたを指でしきりにこすった。

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と誠吾は眠そうな瞼を指でしきりにこすった。

代助は、

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代助は、

「いよいよ奥へ行って、お父さんにしかられて来るかな」

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いよいよ奥へ行って御父さんに叱られて来るかな」

と言いながら、またグラスを兄の妻の前へ出した。

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と云いながら又洋盞をあによめの前へ出した。

梅子は笑って酒をついだ。

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梅子は笑って酒を注いだ。

「嫁のことか」

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「嫁の事か」

と誠吾が聞いた。

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と誠吾が聞いた。

「まあ、そうだろうと思うんです」

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「まあ、そうだろうと思うんです」

「もらっておくがいい。そう年寄りに心配させたってしかたがないじゃないか」

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「貰って置くがいい。そう老人としよりに心配さしたって仕様があるものか」

と言ったが、今度はもっとはっきりした調子で、

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と云ったが、今度はもっと判然はっきりした語勢で、

「気をつけないといけないよ。少し天気があやしいから」

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「気を付けないと不可いかんよ。少し低気圧が来ているから」

と注意した。

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と注意した。

代助は立ちかけながら、

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代助は立ち掛けながら、

「まさか、この間じゅうの走り回りから来たあやしい天気じゃありますまいね」

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「まさかこの間中の奔走からきた低気圧じゃありますまいね」

と念をおした。

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と念を押した。

兄はねころんだまま、

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兄は寐転んだまま、

「何とも言えないよ。こう見えて、おれたちも日糖の重役と同じように、いつつかまるかわからない身なんだから」

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「何とも云えないよ。こう見えて、我々も日糖の重役と同じ様に、何時拘引されるか分らない身体からだなんだから」

と言った。

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と云った。

「馬鹿なことをおっしゃるなよ」

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「馬鹿な事をおっしゃるなよ」

と梅子がたしなめた。

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と梅子がたしなめた。

「やっぱり僕ののらくらが持って来たあやしい天気なんだろう」

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「やっぱり僕ののらくらが持ち来たした低気圧なんだろう」

と代助は笑いながら立った。

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と代助は笑いながら立った。

ろうかを通って中庭をこえて奥へ来てみると、父は中国ふうの机の前にすわって、中国の本を見ていた。

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廊下伝いに中庭を越して、奥へ来て見ると、父は唐机とうづくえの前へ坐って、唐本を見ていた。

父は詩が好きで、ひまがあるとときどき中国の人の詩集を読んでいる。

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父は詩が好きで、ひまがあると折々支那人の詩集を読んでいる。

しかしときによると、それがいちばんきげんの悪くなるきっかけになることがあった。

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しかし時によると、それが尤も機嫌のわるい索引になる事があった。

そういうときは、どんなに気持ちのゆったりした兄でも、なるべく近寄らないことにしていた。

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そう云うときは、いかに神経のふっくら出来上った兄でも、なるべく近寄らない事にしていた。

どうしても顔を合わせなければならないときには、誠太郎か縫子か、どちらかを引っぱって父の前へ出るやり方を取っていた。

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是非顔を合せなければならない場合には、誠太郎か、縫子か、何方どっち引張ひっぱって父の前へ出る手段を取っていた。

代助も縁側まで来てそれに気がついたが、そこまでの必要もあるまいと思って、座敷を一つ通りこして父の居間に入った。

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代助も縁側まで来て、そこに気が付いたが、それ程の必要もあるまいと思って、座敷を一つ通り越して、父の居間に這入った。

父はまずめがねを外した。

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父はまず眼鏡を外した。

それを読みかけの本の上に置くと、代助のほうに向き直った。

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それを読み掛けた書物の上に置くと、代助の方に向き直った。

そうして、ただ一言、

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そうして、ただ一言、

「来たか」

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「来たか」

と言った。

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と云った。

その言い方は、ふだんよりかえって落ち着いているくらいであった。

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その語調は平常よりもかえっておだやかな位であった。

代助はひざの上に手を置きながら、兄がまじめな顔をして自分をかついだのじゃなかろうかと考えた。

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代助はひざの上に手を置きながら、兄が真面目まじめな顔をして、自分をかついだんじゃなかろうかと考えた。

代助はそこでまたにがいお茶を飲まされて、しばらく世間話をして過ごした。

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代助はそこで又苦い茶を飲ませられて、しばらく雑談に時を移した。

今年はしゃくやくの花が早いとか、茶つみ歌を聞いているとねむくなる季節だとか、どこそこに大きなふじがあって、その花の長さが百二十センチ近くあるとか、話はどうでもいい方向にだいぶ長くのびて行った。

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今年は芍薬しゃくやくの出が早いとか、茶摘歌を聞いていると眠くなる時候だとか、何所どことかに、大きな藤があって、その花の長さが四尺足らずあるとか、話は好加減いいかげんな方角へ大分長く延びて行った。

代助はまた、そのほうが都合がいいので、いつまでものばすように、あとからあとへと話をつないで行った。

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代助は又その方が勝手なので、いつまでも延ばす様にと、後から後を付けて行った。

父もしまいには持てあまして、とうとう、ときに今日おまえを呼んだのは、と言い出した。

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父も仕舞には持て余して、とうとう、時に今日御前を呼んだのはと云い出した。

代助はそれから後は、一言も口をきかなくなった。

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代助はそれから後は、一言も口をかなくなった。

ただおとなしく父の言うことを聞いていた。

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只謹んで親爺の云うことを聴いていた。

父も代助からこういう態度に出られると、長い間自分一人で講義でもするように話して行かなくてはならなかった。

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父も代助からこう云う態度に出られると、長い間自分一人で、講義でもする様に、述べてかなくてはならなかった。

しかし、その半分以上は前と同じ話のくり返しであった。

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然しその半分以上は、過去を繰返すだけであった。

が、代助はそれを、初めて聞くのと同じくらいの注意を向けて聞いていた。

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が代助はそれを、始めて聞くと同程度の注意を払って聞いていた。

父の長い話の中に、代助は二、三の新しい点も見つけた。

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父の長談義のうちに、代助は二三の新しい点も認めた。

その一つは、おまえはいったいこれから先どうする気なんだ、というまじめな質問であった。

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その一つは、御前は一体これからさきどうする料簡りょうけんなんだと云う真面目な質問であった。

代助は今まで、父からの注文ばかり受けていた。

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代助は今まで父からの注文ばかり受けていた。

だから、その注文をあいまいにかわすことに慣れていた。

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だから、その注文を曖昧あいまいに外す事に慣れていた。

けれども、こういう大きな質問になると、そう口から出まかせに答えられない。

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けれども、こう云う大質問になると、そう口から出任せに答えられない。

いいかげんなことを言えば、すぐ父をおこらせてしまうからである。

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無暗むやみな事を云えば、すぐ父を怒らしてしまうからである。

かといって正直に打ち明けると、二、三年間父の頭を教育した上でなければ通じない理屈になる。

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と云って正直を自白すると、二三年間父の頭を教育した上でなくっては、通じない理窟りくつになる。

代助はこの大きな質問に対して、自分のこれからをはっきり言い切るだけの考えも何も持っていなかった。

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代助はこの大質問に応じて、自分の未来を明瞭に道破いいやぶるだけの考も何もっていなかった。

彼はそれが自分にとって当たり前のところだと思っていた。

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彼はそれが自分に取って尤もな所だと思っていた。

けれども、父にそのとおりを話してなるほどと納得させるまでには、たいへんな時間がかかる。

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けれども父に、その通りを話して、なるほどと納得させるまでには、大変な時間がかかる。

あるいは一生通じないかも知れない。

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或は生涯通じっこないかも知れない。

父の気に入るようにするには、何でも国のためとか世のためとか、いさましいことを、しかも結婚とは両立しないようなことを言っておけばすむのであるが、代助はどんなに自分を馬鹿にする気になっても、これだけは馬鹿げていて、口に出す勇気がなかった。

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父の気に入る様にするのは、何でも、国家の為とか、天下の為とか、景気の好い事を、しかも結婚と両立しない様な事を、述べて置けば済むのであるが、代助は如何に、自己を侮辱する気になっても、こればかりは馬鹿気ていて、口へ出す勇気がなかった。

そこでしかたがないから、じつはいろいろ計画もあるが、そのうち順序を立てて来てご相談をするつもりであると答えた。

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そこでやむを得ないから、実は色々計画もあるが、いずれ秩序立てて来て、御相談をする積りであると答えた。

答えたあとで、じつにこっけいだと思ったがしかたがなかった。

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答えた後で、実に滑稽こっけいだと思ったが仕方がなかった。

代助は次に、一人でやっていけるだけの財産がほしくはないかと聞かれた。

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代助は次に、独立の出来るだけの財産が欲しくはないかと聞かれた。

代助はもちろんほしいと答えた。

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代助は無論欲しいと答えた。

すると父が、では佐川の娘をもらったらよかろうという条件をつけた。

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すると、父が、では佐川の娘をもらったら好かろうと云う条件を付けた。

その財産は佐川の娘が持って来るのか、それとも父がくれるのか、とてもあいまいであった。

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その財産は佐川の娘が持って来るのか、又は父がくれるのか甚だ曖昧であった。

代助は少しそこを聞いてみたが、とうとうはっきりしなかった。

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代助は少しその点に向って進んでみたが、ついに要領を得なかった。

けれども、それをつきとめる必要がないと考えてやめた。

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けれども、それを突き留める必要がないと考えて已めた。

次に、いっそ外国へ行く気はないかと言われた。

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次に、一層いっそ洋行する気はないかと云われた。

代助はいいでしょうと言って賛成した。

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代助は好いでしょうと云って賛成した。

けれども、これにもやはり結婚が先の問題として出て来た。

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けれども、これにも、やっぱり結婚が先決問題として出て来た。

「そんなに佐川の娘をもらう必要があるんですか」

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「そんなに佐川の娘を貰う必要があるんですか」

と代助がしまいに聞いた。

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と代助が仕舞に聞いた。

すると、父の顔が赤くなった。

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すると父の顔が赤くなった。

代助は父をおこらせる気は少しもなかったのである。

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代助は父を怒らせる気は少しもなかったのである。

彼の近ごろの考えでは、人とけんかをするのは人間のだらくの一つになっていた。

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彼の近頃の主義として、人と喧嘩けんかをするのは、人間の堕落の一範疇はんちゅうになっていた。

けんかの一部として、人をおこらせるのは、おこらせること自体よりも、おこった人の顔色がどんなにいやなものとして自分の目にうつるかという点で、大事な自分の命を傷つける一げきにほかならないと考えていた。

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喧嘩の一部分として、人を怒らせるのは、怒らせる事自身よりは、怒った人の顔色が、如何に不愉快にわが眼に映ずるかと云う点に於て、大切なわが生命をきずつける打撃に外ならぬと心得ていた。

彼は悪いおこないについても、彼なりの考えを持っていた。

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彼は罪悪に就ても彼れ自身に特有な考を有っていた。

けれども、そのために、自然のままにふるまいさえすればばつをのがれられるとは信じていなかった。

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けれども、それがために、自然のままに振舞いさえすれば、罰を免かれ得るとは信じていなかった。

人を切った者の受けるばつは、切られた人の体から出る血であると強く信じていた。

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人をったものの受くる罰は、斬られた人の肉から出る血潮であると固く信じていた。

ふき出す血の色を見て、きれいな心を乱されない者はいないだろうと感じるからである。

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ほとばしる血の色を見て、清い心の迷乱を引き起さないものはあるまいと感ずるからである。

代助はそれほど神経のするどい男であった。

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代助はそれ程神経の鋭どい男であった。

だから、顔の色を赤くした父を見たとき、みょうに気分が悪くなった。

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だから顔の色を赤くした父を見た時、妙に不快になった。

けれども、このつぐないを二重にするために父の言うとおりにしようという気は、少しも起こらなかった。

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けれどもこの罪を二重に償うために、父の云う通りにしようと云う気はちっとも起らなかった。

彼は一方で、自分の頭のよさをとても大事にしている男だったからである。

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彼は、一方に於て、自己の脳力に、非常な尊敬を払う男であったからである。

そのとき、父はかなり熱のこもった調子で、まず自分が年を取っていること、子どものこれからが心配になること、子どもに嫁を持たせるのは親のつとめであるということ、嫁にふさわしいかどうかなどについては本人よりも親のほうがずっと細かく気を配っているということ、他人の親切はそのときこそよけいなお世話に見えるが、あとになるともう一度うるさく口出ししてもらいたいときが来るものだということを、とてもていねいに話した。

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その時父はすこぶる熱した語気で、ず自分の年を取っている事、子供の未来が心配になる事、子供に嫁を持たせるのは親の義務であると云う事、嫁の資格その他に就ては、本人よりも親の方がはるかに周到な注意を払っていると云う事、ひとの親切は、その当時にこそ余計な御世話に見えるが、後になると、もう一遍うるさく干渉して貰いたい時機が来るものであるという事を、非常に叮嚀ていねいに説いた。

代助はきちんとした態度で聞いていた。

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代助は慎重な態度で、聴いていた。

けれども、父の言葉が切れたときも、やはり承知だとは言わなかった。

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けれども、父の言葉が切れた時も、依然として許諾の意をひょうさなかった。

すると父は、わざとおさえた調子で、

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すると父はわざと抑えた調子で、

「じゃ、佐川はやめるさ。そうして、誰でもおまえの好きなのをもらったらいいだろう。誰かもらいたいのがあるのか」

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「じゃ、佐川はめるさ。そうして誰でも御前の好きなのを貰ったら好いだろう。誰か貰いたいのがあるのか」

と言った。

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と云った。

これは兄の妻の質問と同じであるが、代助は梅子に対するように、ただ苦笑いだけしてはいられなかった。

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これは嫂の質問と同様であるが、代助は梅子に対する様に、ただ苦笑ばかりしてはいられなかった。

「べつにそんなもらいたい人もありません」

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「別にそんな貰いたいのもありません」

とはっきり返事をした。

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と明らかな返事をした。

すると父は、急にかんしゃくを起こしたような声で、

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すると父は急にかんの発した様な声で、

「じゃ、少しはこちらのことを考えてくれたらよかろう。何もそう自分のことばかり思っていなくても」

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「じゃ、少しは此方こっちの事を考えてくれたら好かろう。何もそう自分の事ばかり思っていないでも」

と急な調子で言った。

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と急調子に云った。

代助は、突然父が代助のことをはなれて、自分自身の損得に飛びうつったので驚かされた。

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代助は、突然父が代助を離れて、彼自身の利害に飛び移ったのに驚ろかされた。

けれども、その驚きは、すじの通らない急な変わりようにだけ向けられていた。

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けれどもその驚ろきは、論理なき急劇の変化の上に注がれただけであった。

「あなたにそれほど都合のいいことがあるなら、もう一度考えてみましょう」

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貴方あなたにそれ程御都合がい事があるなら、もう一遍考えてみましょう」

と答えた。

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と答えた。

父はますますきげんを悪くした。

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父はますます機嫌をわるくした。

代助は人と話しているとき、どうしてもすじ道からはなれられない場合がある。

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代助は人と応対している時、どうしても論理を離れる事の出来ない場合がある。

そのため、よく人から、相手を言い負かすのが目的のように取られる。

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それが為め、よく人から、相手をり込めるのを目的とする様に受取られる。

本当を言うと、彼ほど人を言い負かすのがきらいな男はいないのである。

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実際を云うと、彼程人を遣り込める事の嫌いな男はないのである。

「何もおれの都合ばかりで嫁をもらえと言ってやしない」

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「何もおれの都合ばかりで、嫁を貰えと云ってやしない」

と父は前の言葉を言い直した。

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と父は前の言葉を訂正した。

「そんなに理屈を言うなら、参考のために言って聞かせるが、おまえはもう三十だろう、三十になってふつうの者が結婚をしなければ、世間では何と思うかだいたいわかるだろう。それは今は昔とちがうから、独身も本人の勝手だけれども、独身のために親や兄弟が迷惑したり、しまいには自分の名誉に関わるようなことが起こったりしたらどうする気だ」

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「そんなに理窟を云うなら、参考の為、云って聞かせるが、御前はもう三十だろう、三十になって、普通のものが結婚をしなければ、世間では何と思うか大抵分るだろう。そりゃ今は昔と違うから、独身も本人の随意だけれども、独身の為に親や兄弟が迷惑したり、果は自分の名誉に関係する様な事が出来しゅったいしたりしたらどうする気だ」

代助はただぼんやりして、父の顔を見ていた。

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代助はただ茫然ぼうぜんとして父の顔を見ていた。

父はどこをねらって自分を刺したつもりなのか、代助にはほとんどわからなかったからである。

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父はどの点に向って、自分を刺した積りだか、代助にはほとんど分らなかったからである。

しばらくして、

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しばらくして、

「それは私のことだから少しは遊びもしますが……」

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「そりゃわたくしのことだから少しは道楽もしますが……」

と言いかけた。

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と云いかけた。

父はすぐそれをさえぎった。

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父はすぐそれをさえぎった。

「そんなことじゃない」

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「そんな事じゃない」

二人はそれきり、しばらく口をきかずにいた。

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二人はそれぎりしばらく口を利かずにいた。

父はこのだまりこみを、代助にあたえた一げきのききめだと信じた。

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父はこの沈黙をもって代助に向って与えた打撃の結果と信じた。

やがて言い方をやわらげて、

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やがて、言葉を和らげて、

「まあ、よく考えて御覧」

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「まあ、よく考えて御覧」

と言った。

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と云った。

代助ははあと答えて、父の部屋を出た。

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代助ははあと答えて、父のへやを退ぞいた。

座敷へ来て兄をさがしたが、いなかった。

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座敷へ来て兄を探したが見えなかった。

兄の妻はと聞いたら、客間だと下女が教えたので、行って戸を開けてみると、縫子のピアノの先生が来ていた。

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嫂はと尋ねたら、客間だと下女が教えたので、行って戸を明けて見ると、縫子のピヤノの先生が来ていた。

代助は先生にちょっとあいさつをして、梅子を戸口まで呼び出した。

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代助は先生に一寸挨拶をして、梅子を戸口まで呼び出した。

「あなたは僕のことを何かお父さんに言いつけやしないか」

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「あなたは僕の事を何か御父さんに讒訴ざんそしやしないか」

梅子はハハハハと笑った。

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梅子はハハハハと笑った。

そうして、

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そうして、

「まあお入りなさいよ。ちょうどいいところだから」

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「まあ御這入んなさいよ。丁度好い所だから」

と言って、代助をピアノのそばまで引っぱって行った。

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と云って、代助を楽器の傍まで引張って行った。

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ありが座敷に上がってくる季節になった。

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ありの座敷へ上がる時候になった。

代助は大きな鉢に水を張って、その中にまっ白なすずらんをくきごとつけた。

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代助は大きな鉢へ水を張って、その中に真白な鈴蘭すずらんを茎ごと漬けた。

むらがる細かい花が、こい模様のふちをかくした。

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むらがる細かい花が、濃い模様のふちを隠した。

鉢を動かすと、花がこぼれる。

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鉢を動かすと、花がこぼれる。

代助はそれを大きな辞書の上にのせた。

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代助はそれを大きな字引の上に載せた。

そうして、そのそばにまくらを置いてあおむけにたおれた。

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そうして、その傍にまくらを置いて仰向けに倒れた。

黒い頭がちょうど鉢のかげになって、花から出るかおりがいいぐあいに鼻に通った。

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黒い頭が丁度鉢の陰になって、花から出るにおいが、好い具合に鼻にかよった。

代助はそのかおりをかぎながら、うたた寝をした。

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代助はそのにおいぎながら仮寐うたたねをした。

代助はときどき、ふつうの外の世界からとんでもなく強い刺激を受ける。

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代助は時々尋常な外界から法外に痛烈な刺激を受ける。

それがひどくなると、晴れた空からの日の光の照り返しにさえたえられなくなることがあった。

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それがはげしくなると、晴天から来る日光の反射にさえ堪え難くなることがあった。

そういうときには、なるべく世間とのつながりをうすくして、朝でも昼でもかまわずねるくふうをした。

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そう云う時には、なるべく世間との交渉を稀薄きはくにして、朝でもひるでも構わず寐る工夫をした。

そのやり方には、ごくうすい、あまさの軽い花のかおりをよく使った。

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その手段には、極めて淡い、甘味の軽い、花のをよく用いた。

まぶたを閉じて、ひとみに落ちる光をさえぎって、静かに鼻の穴だけで息をしているうちに、まくらもとの花がだんだん、はしゃいだ気持ちを夢のほうへふき送って行く。

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まぶたを閉じて、ひとみに落ちる光線を謝絶して、静かに鼻の穴だけで呼吸しているうちに、枕元の花が、次第に夢の方へ、さわぐ意識を吹いて行く。

これがうまく行くと、代助の神経が生まれ変わったように落ち着いて、世間とのやりとりが前よりわりに楽にできる。

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これが成功すると、代助の神経が生れ代った様に落ち付いて、世間との連絡が、前よりは比較的楽に取れる。

代助は父に呼ばれてから二、三日の間、庭のすみにさいたばらの花の赤いのを見るたびに、それが点々と目を刺してならなかった。

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代助は父に呼ばれてから二三日の間、庭の隅に咲いた薔薇ばらの花の赤いのを見るたびに、それが点々として眼を刺してならなかった。

そのときは、いつでも手を洗う石の鉢のそばにあるぎぼうしの葉に目を移した。

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その時は、いつでも、手水鉢てみずばちの傍にある、擬宝珠ぎぼしゅの葉に眼を移した。

その葉には、好き勝手な白いすじが、三本か四本、長く乱れていた。

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その葉には、放肆ほうしな白いしまが、三筋か四筋、長く乱れていた。

代助が見るたびに、ぎぼうしの葉はのびて行くように思われた。

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代助が見るたびに、擬宝珠の葉は延びて行く様に思われた。

そうして、それといっしょに白いすじも、自由に、しばられずにのびるような気がした。

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そうして、それと共に白い縞も、自由に拘束なく、延びる様な気がした。

ざくろの花は、ばらよりもはでで、しかも重苦しく見えた。

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柘榴ざくろの花は、薔薇よりも派手にかつ重苦しく見えた。

緑の間にちらりちらりと光って見えるくらい、強い色を出していた。

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緑の間にちらりちらりと光って見える位、強い色を出していた。

だから、これも代助の今の気分には合わなかった。

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従ってこれも代助の今の気分には相応うつらなかった。

彼の今の気分は、ときどき起こることだが、ぜんたいに暗い調子をおびていた。

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彼の今の気分は、彼に時々起るごとく、総体の上に一種の暗調を帯びていた。

だから、あまりに明るすぎるものに出会うと、そのちぐはぐさにたえられなかった。

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だから余りに明る過ぎるものに接すると、その矛盾に堪えがたかった。

ぎぼうしの葉も長く見つめていると、すぐいやになるくらいであった。

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擬宝珠の葉も長く見詰めていると、すぐいやになる位であった。

その上、彼は今の日本にしかない一種の不安におそわれ出した。

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その上彼は、現代の日本に特有なる一種の不安に襲われ出した。

その不安は、人と人との間に信じ合う心がないことから起こる、遅れたところのある出来事であった。

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その不安は人と人との間に信仰がない源因から起る野蛮程度の現象であった。

彼はこの心の動きのために、ひどくゆれる思いを感じた。

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彼はこの心的現象のために甚しき動揺を感じた。

彼は神を信じることを喜ばない人であった。

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彼は神に信仰を置く事を喜ばぬ人であった。

また、頭で考える人として、神を信じることのできない性格であった。

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又頭脳の人として、神に信仰を置く事の出来ぬ性質たちであった。

けれども、おたがいに信じ合える者は神にたよる必要がないと信じていた。

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けれども、相互に信仰を有するものは、神に依頼するの必要がないと信じていた。

おたがいが疑い合うときの苦しみからのがれるために、神は初めているだけの理由を持つのだと考えていた。

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相互が疑い合うときの苦しみを解脱げだつする為めに、神は始めて存在の権利を有するものと解釈していた。

だから、神のいる国では人がうそをつくものだと決めていた。

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だから、神のある国では、人が嘘をくものと極めた。

しかし今の日本は、神にも人にも信じる心のない国だということを見つけた。

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然し今の日本は、神にも人にも信仰のない国柄であるという事を発見した。

そうして、彼はこれをすべて日本のお金の事情のせいだと考えた。

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そうして、彼はこれをいつに日本の経済事情に帰着せしめた。

四、五日前、彼はすりと組んで悪いことをした刑事の話を新聞で読んだ。

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四五日前しごんちぜん、彼は掏摸すりと結託して悪事を働らいた刑事巡査の話を新聞で読んだ。

それが一人や二人ではなかった。

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それが一人や二人ではなかった。

ほかの新聞に書いてあるところによれば、もしきびしく、次から次へと調べを広げたら、東京は一時ほとんど警察がないような有様になるかも知れないそうである。

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他の新聞の記す所によれば、もし厳重に、それからそれへと、手を延ばしたら、東京は一時殆んど無警察の有様に陥るかも知れないそうである。

代助はその記事を読んだとき、ただ苦笑いをしただけであった。

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代助はその記事を読んだとき、ただ苦笑しただけであった。

そうして、暮らしの大きな苦しさと戦わなければならない安い給料の刑事が悪いことをするのは、実際もっともだと思った。

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そうして、生活の大難に対抗せねばならぬ薄給の刑事が、悪い事をするのは、実際もっともだと思った。

代助が父に会って結婚の相談を受けたときも、少しこれと同じ気がした。

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代助が父にって、結婚の相談を受けた時も、少しこれと同様の気がした。

が、これはただ父を信じていないところから起こる、代助にとって不幸な思いつきにすぎなかった。

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が、これはただ父に信仰がない所から起る、代助に取って不幸な暗示に過ぎなかった。

そうして代助は、自分の心の中にこういういやな思いつきがうかんだことを、正しくないとは感じられなかった。

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そうして代助は自分の心のうちに、かかるいまわしい暗示を受けたのを、不徳義とは感じ得なかった。

それが本当のこととして目の前に出てきても、やはり父をもっともだと認めるつもりだったからである。

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それが事実となって眼前にあらわれても、やはり父を尤もだとうけがう積りだったからである。

代助は平岡に対しても、同じような感じを持っていた。

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代助は平岡に対しても同様の感じを抱いていた。

しかし平岡については、それが当たり前のことであると許していた。

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然し平岡に取っては、それが当然の事であると許していた。

ただ平岡を好きになる気になれないだけであった。

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ただ平岡を好く気になれないだけであった。

代助は兄を好いていた。

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代助は兄を愛していた。

けれども、その兄に対しても、やはり信じる心は持てなかった。

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けれどもその兄に対してもやはり信仰はち得なかった。

兄の妻はまごころのある女であった。

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嫂は実意のある女であった。

しかし兄の妻は、じかに暮らしの苦しさとぶつからないだけ、それだけ兄より近づきやすいのだと考えていた。

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然し嫂は、直接生活の難関に当らないだけ、それだけ兄よりも近付きやすいのだと考えていた。

代助はふだんから、これくらいに世の中を投げ出して見ていた。

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代助は平生から、この位に世の中を打遣うちやっていた。

だから、とても神経がするどいのに、不安な気持ちにおそわれることは少なかった。

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だから、非常な神経質であるにもかかわらず、不安の念に襲われる事は少なかった。

そうして、自分でもそれをわかっていた。

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そうして、自分でもそれを自覚していた。

それが、どういうわけか急にゆらぎ出した。

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それが、どう云う具合か急にうごき出した。

代助は、これを体の変化から来るのだろうと思った。

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代助はこれを生理上の変化から起るのだろうと察した。

そこで、ある人が北海道から取って来たと言ってくれたすずらんの束をほどいて、それを全部水の中につけて、その下にねたのである。

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そこである人が北海道から採って来たと云ってくれた鈴蘭の束を解いて、それをことごとく水の中に浸して、その下にたのである。

一時間の後、代助は大きな黒い目を開いた。

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一時間の後、代助は大きな黒い眼を開いた。

その目はしばらくの間、一つのところに止まってまったく動かなかった。

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その眼は、しばらくの間一つ所に留まって全く動かなかった。

手も足もねていたときの形を少しもくずさずに、まるで死んだ人のようであった。

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手も足も寐ていた時の姿勢を少しも崩さずに、まるで死人のそれの様であった。

そのとき、一ぴきの黒いありがネル(やわらかい毛織物)のえりを伝わって、代助ののどに落ちた。

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その時一匹の黒い蟻が、ネルの襟を伝わって、代助の咽喉のどに落ちた。

代助はすぐ右の手を動かしてのどをおさえた。

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代助はすぐ右の手を動かして咽喉を抑えた。

そうしてひたいにしわを寄せて、指の間にはさんだ小さな生き物を鼻の上まで持って来てながめた。

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そうして、額にしわを寄せて、指のまたに挟んだ小さな動物を、鼻の上まで持って来て眺めた。

そのとき、ありはもう死んでいた。

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その時蟻はもう死んでいた。

代助は人さし指の先についた黒いものを、親指のつめで向こうへはじいた。

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代助は人指ひとさし指の先に着いた黒いものを、親指のつめで向うへはじいた。

そうして起き上がった。

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そうして起き上がった。

ひざのまわりにまだ三、四ひきはっていたのを、うすいぞうげのペーパーナイフで打ち殺した。

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ひざ周囲まわりに、まだ三四匹っていたのを、薄い象牙ぞうげ紙小刀ペーパーナイフで打ち殺した。

それから手をたたいて人を呼んだ。

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それから手をたたいて人を呼んだ。

「お目ざめですか」

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御目醒おめざめですか」

と言って、門野が出て来た。

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と云って、門野が出て来た。

「お茶でもいれて来ましょうか」

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「御茶でも入れて来ましょうか」

と聞いた。

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と聞いた。

代助は、はだけた胸をかき合わせながら、

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代助は、はだかった胸をき合せながら、

「君、僕がねていたうちに、誰か来やしなかったかね」

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「君、僕の寐ていたうちに、誰か来やしなかったかね」

と、静かな調子でたずねた。

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と、静かな調子で尋ねた。

「ええ、おいでました。平岡の奥さんが。よくご存じですな」

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「ええ、御出おいででした。平岡の奥さんが。よく御存じですな」

と門野は平気で答えた。

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と門野は平気に答えた。

「なぜ起こさなかったんだ」

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何故なぜ起さなかったんだ」

「あまりよくおやすみでしたからな」

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あんまり御休おやすみでしたからな」

「だって、お客ならしかたがないじゃないか」

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「だって御客なら仕方がないじゃないか」

代助の言い方は少し強くなった。

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代助の語勢は少し強くなった。

「ですがな。平岡の奥さんのほうで、起こさないほうがいいっておっしゃったもんですからな」

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「ですがな。平岡の奥さんの方で、起さない方がいって、おっしゃったもんですからな」

「それで、奥さんは帰ってしまったのか」

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「それで、奥さんは帰ってしまったのか」

「なに、帰ってしまったというわけでもないんです。ちょっと神楽坂に買い物があるから、それをすませてまた来るからって言われるもんですからな」

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「なに帰ってしまったと云う訳でもないんです。一寸ちょっと神楽坂に買物があるから、それを済まして又来るからって、云われるもんですからな」

「じゃ、また来るんだね」

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「じゃ又来るんだね」

「そうです。じつはお目ざめになるまで待っていようかって、この座敷まで上がって来られたんですが、先生の顔を見て、あまりよくねているもんだから、こいつは簡単には起きそうもないと思ったんでしょう」

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「そうです。実は御目覚になるまで待っていようかって、この座敷まで上って来られたんですが、先生の顔を見て、あんまり善く寐ているもんだから、こいつは、容易に起きそうもないと思ったんでしょう」

「また出て行ったのかい」

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「また出て行ったのかい」

「ええ、まあそうです」

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「ええ、まあそうです」

代助は笑いながら、両手でねおきの顔をなでた。

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代助は笑いながら、両手で寐起の顔をでた。

そうしてふろ場へ顔を洗いに行った。

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そうして風呂場へ顔を洗いに行った。

頭をぬらして縁側まで帰って来て庭をながめていると、前より気分がだいぶ晴れ晴れした。

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頭をらして、縁側まで帰って来て、庭を眺めていると、前よりは気分が大分晴々せいせいした。

くもった空をつばめが二羽飛んでいるようすが、とても楽しそうに見えた。

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曇った空をつばめが二羽飛んでいる様が大いに愉快に見えた。

代助はこの前平岡がたずねて来てから、心の中であとから三千代が来るのを待っていた。

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代助はこの前平岡の訪問を受けてから、心待に後から三千代の来るのを待っていた。

けれども、平岡の言葉はとうとう本当にはならなかった。

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けれども、平岡の言葉は遂に事実として現れて来なかった。

特別な事情があって三千代がわざと来ないのか、それとも平岡が初めからおせじを言ったのか、わからないが、そのため代助は心のどこかにからっぽな感じを持っていた。

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特別の事情があって、三千代がわざと来ないのか、又は平岡が始めから御世辞を使ったのか、疑問であるが、それがため、代助は心の何処どこかに空虚を感じていた。

しかし彼は、このからっぽな感じを一つの経験としてふだんの暮らしの中に見つけただけで、そのもとをどうする、こうすると言う気はあまりなかった。

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しかし彼はこの空虚な感じを、一つの経験として日常生活中に見出みいだしたまでで、その原因をどうするの、こうするのと云う気はあまりなかった。

この経験そのものの奥をのぞきこむと、それ以上に暗い影がちらついているように思ったからである。

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この経験自身の奥をのぞき込むと、それ以上に暗い影がちらついている様に思ったからである。

それで彼は、自分から平岡をたずねるのをさけていた。

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それで彼は進んで平岡を訪問するのを避けていた。

散歩のとき、彼の足は多く江戸川のほうへ向いた。

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散歩のとき彼の足は多く江戸川の方角に向いた。

桜の散るころには、夕暮れの風にふかれて、四つの橋をこちらから向こうへわたり、向こうからまたこちらへわたり返して、長い土手をぬうように歩いた。

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桜の散る時分には、夕暮の風に吹かれて、四つの橋を此方こちらから向うへ渡り、向うから又此方へ渡り返して、長いどてを縫う様に歩いた。

が、その桜はとっくに散ってしまって、今は青葉のかげの季節になった。

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がその桜はとくに散てしまって、今は緑蔭りょくいんの時節になった。

代助はときどき橋の真ん中に立って、手すりにほおづえをついて、しげる葉の中をまっすぐに通っている水の光をながめつくしてみる。

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代助は時々橋の真中に立って、欄干に頬杖ほおづえを突いて、茂る葉の中を、真直に通っている、水の光を眺め尽して見る。

それから、その光の細くなった先のほうに高くそびえる目白台(めじろだい)の森を見上げてみる。

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それからその光の細くなった先の方に、高くそびえる目白台の森を見上てみる。

けれども、橋を向こうへわたって小石川の坂を上るのはやめにして帰るようになった。

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けれども橋を向うへ渡って、小石川の坂を上る事はやめにして帰る様になった。

あるとき彼は大曲(おおまがり)のところで、電車を降りる平岡のすがたを五十メートルほど手前から見つけた。

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ある時彼は大曲おおまがりの所で、電車をおりる平岡の影を半町程手前から認めた。

彼はたしかにそうにちがいないと思った。

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彼はたしかにそうに違ないと思った。

そうして、すぐ揚場(あげば)のほうへ引き返した。

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そうして、すぐ揚場あげばの方へ引き返した。

彼は平岡がどうしているかを気にかけていた。

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彼は平岡の安否を気にかけていた。

まだ働かずに食べる落ち着かない暮らしにいるにちがいないとは思うけれども、あるいはどこかで、生きていく道を切り開くきっかけができたかも知れないとも想像してみた。

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まだ坐食いぐいの不安な境遇にるに違ないとは思うけれども、或はどの方面かへ、生活の行路を切り開く手掛りが出来たかも知れないとも想像してみた。

けれども、それを確かめるために平岡のあとを追う気にはなれなかった。

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けれども、それを確める為に、平岡の後を追う気にはなれなかった。

彼は平岡に会うときの、わけのわからないいやな感じを前もって思うようになった。

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彼は平岡に面するときの、原因不明な一種の不快を予想する様になった。

かといって、ただ三千代のためだけに平岡の身の上を心配するほど、平岡をにくんでもいなかった。

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と云って、ただ三千代の為にのみ、平岡の位地を心配する程、平岡をにくんでもいなかった。

平岡のためにも、やはり平岡がうまく行くように祈る心はあったのである。

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平岡の為にも、やはり平岡の成功を祈る心はあったのである。

こんなふうに、代助はからっぽな自分の心の一部をかかえて今日まで来た。

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こんな風に、代助は空虚なるわが心の一角を抱いて今日に至った。

さっき門野を呼んでまくらを持って来させて昼ねをむさぼったときは、あまりに生き生きした世界の刺激にたえられなくなった頭を、できるなら青い色のついた深い水の中にしずめたいくらいに思った。

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いま先方さきがた門野を呼んでくくり枕を取り寄せて、午寐ひるねむさぼった時は、あまりに溌溂はつらつたる宇宙の刺激に堪えなくなった頭を、出来るならば、あおい色の付いた、深い水の中に沈めたい位に思った。

それほど彼は生きていることをするどく感じすぎた。

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それ程彼は命を鋭く感じ過ぎた。

だから、熱い頭をまくらにつけたときは、平岡も三千代も彼にとってほとんどいないのと同じであった。

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従って熱い頭を枕へ着けた時は、平岡も三千代も、彼に取って殆んど存在していなかった。

彼は運よく、すずしい気持ちでねた。

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彼は幸にして涼しい心持に寐た。

けれども、そのおだやかなねむりの中で、誰かがすうと来て、またすうと出て行ったような気持ちがした。

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けれどもその穏やかなねむりのうちに、誰かすうと来て、又すうと出て行った様な心持がした。

目をさまして起き上がってもその感じがまだ残っていて、頭からぬぐい去ることができなかった。

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眼を醒まして起き上がってもその感じがまだ残っていて、頭からぬぐい去る事が出来なかった。

それで門野を呼んで、ねている間に誰か来はしなかったかと聞いたのである。

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それで門野を呼んで、寐ている間に誰か来はしないかと聞いたのである。

代助は両手をひたいに当てて、高い空をおもしろそうに切って回るつばめの動きを縁側からながめていたが、やがてそれが目にうるさくなったので、部屋の中に入った。

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代助は両手を額に当てて、高い空を面白そうに切って廻る燕の運動を縁側から眺めていたが、やがて、それがま苦しくなったので、室の中に這入はいった。

けれども、三千代がまたたずねて来るという目の前の期待がもう気分の落ち着きをこわしているので、考えごとも読書もほとんど手につかなかった。

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けれども、三千代が又訪ねて来ると云う目前の予期が、既に気分の平調を冒しているので、思索も読書も殆んど手に着かなかった。

代助はしまいに本だなの中から大きな画集を出して来て、ひざの上に広げてめくり始めた。

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代助は仕舞に本棚の中から、大きな画帖がちょうを出して来て、膝の上に広げて、繰り始めた。

けれども、それもただ指の先で順々に開けて行くだけであった。

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けれども、それも、只指の先で順々に開けて行くだけであった。

一つの絵を半分も味わってはいられなかった。

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一つ画を半分とは味わっていられなかった。

やがてブラングィンのところへ来た。

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やがてブランギンの所へ来た。

代助はふだんからこのかざり絵の画家をとても好んでいた。

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代助は平生からこの装飾画家に多大の趣味を有っていた。

彼の目はいつものように光をおびて、一度はその上に落ちた。

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彼の眼は常の如く輝を帯びて、一度ひとたびはその上に落ちた。

それはどこかの港の絵であった。

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それは何処かの港の図であった。

後ろに船とほばしらとほを大きくえがいて、その残ったところに、目立ってはなやかな空の雲と青黒い水の色をあらわした前に、はだかの働く男が四、五人いた。

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背景に船とほばしらと帆を大きくいて、その余った所に、際立きわだって花やかな空の雲と、蒼黒あおぐろい水の色をあらわした前に、裸体の労働者が四五人いた。

代助はこれらの男たちの、山のようにもり上がった筋肉のはり具合や、彼らの肩から背中にかけて肉のかたまりと肉のかたまりがぶつかって、その間にうずのような谷を作っているようすを見て、そこにしばらく肉の力の気持ちよさを感じたが、やがて画集を開けたまま目をはなして耳をすませた。

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代助はこれ等の男性の、山の如くに怒らした筋肉の張り具合や、彼等の肩からへかけて、肉塊と肉塊が落ち合って、その間に渦の様な谷を作っている模様を見て、其所そこにしばらく肉の力の快感を認めたが、やがて、画帖を開けたまま、眼を放して耳を立てた。

すると台所のほうでおばあさんの声がした。

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すると勝手の方でばあさんの声がした。

それから牛乳配達が空きびんを鳴らして急ぎ足に出て行った。

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それから牛乳配達が空罎あきびんを鳴らして急ぎ足に出て行った。

家の中が静かなので、するどい代助の耳にはよくひびいた。

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うちのうちが静かなので、鋭どい代助の聴神経には善くこたえた。

代助はぼんやりかべを見つめていた。

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代助はぼんやり壁を見詰めていた。

門野をもう一度呼んで、三千代がまた来る時間を言い残して行ったかどうか聞こうと思ったが、あまりに馬鹿らしいのでやめた。

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門野をもう一返呼んで、三千代が又くる時間を、云い置いて行ったかどうか尋ねようと思ったが、あまりだからはばかった。

それだけではない、人の奥さんがたずねて来るのを、それほど待ちかまえる意味がないと考えた。

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そればかりではない、人の細君が訪ねて来るのを、それ程待ち受ける趣意がないと考えた。

また、それほど待ちかまえるくらいなら、こちらからいつでも行って話をするべきだと考えた。

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又それ程待ち受ける位なら、此方こちらから何時いつでも行って話をすべきであると考えた。

このくいちがう二つを並べて見たとき、代助は急に自分のすじの通らなさをはずかしく思わずにはいられなかった。

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この矛盾の両面を双対に見た時、代助は急に自己の没論理にじざるを得なかった。

彼のこしは半分いすからはなれた。

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彼の腰は半ば椅子いすを離れた。

けれども彼は、このすじの通らなさの底にあるいろいろなものを、自分でよくわかっていた。

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けれども彼はこの没論理の根底によこたわる色々の因数ファクターを自分で善く承知していた。

そうして、今の自分にとっては、このすじの通らない状態こそがただ一つの本当のことだからしかたないと思った。

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そうして、今の自分に取っては、この没論理の状態が、唯一ゆいいつの事実であるから仕方ないと思った。

その上、この本当のこととぶつかるすじ道は、自分と関係のない言い分をつなぎ合わせてできあがった、自分の中身を軽く見るかたちだけのものにすぎないと思った。

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かつ、この事実と衝突する論理は、自己に無関係な命題をつなぎ合わして出来上った、自己の本体を蔑視べっしする、形式に過ぎないと思った。

そう思って、またいすに腰を下ろした。

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そう思って又椅子へ腰を卸した。

それから三千代が来るまで、代助はどんなふうに時を過ごしたか、ほとんど覚えていなかった。

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それから三千代の来るまで、代助はどんな風に時を過したか、ほとんど知らなかった。

表で女の声がしたとき、彼は胸が一つどきんとするのを感じた。

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表に女の声がした時、彼は胸に一鼓動を感じた。

彼はすじ道ではいちばん強いかわりに、心の動きではいちばん弱い男であった。

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彼は論理において尤も強い代りに、心臓の作用に於て尤も弱い男であった。

彼が近ごろおこれなくなったのは、まったく頭のおかげで、腹を立てるほど自分を馬鹿にすることを理性が許さなくなったからである。

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彼が近来怒れなくなったのは、全く頭の御蔭おかげで、腹を立てる程自分を馬鹿にすることを、理智が許さなくなったからである。

が、そのほかの点では、ふつう以上に気持ちに振り回されるようになっていた。

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がその他の点に於ては、尋常以上に情緒の支配を受けるべく余儀なくされていた。

取りつぎに出た門野が足音を立てて書斎の入り口に現れたとき、血色のいい代助のほおはかすかにつやを失っていた。

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取次に出た門野が足音を立てて、書斎の入口にあらわれた時、血色のいい代助の頬はかすかに光沢つやを失っていた。

門野は、

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門野は、

「こちらにしますか」

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此方こっちにしますか」

と、とても短く代助の考えを確かめた。

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と甚だ簡単に代助の意向を確めた。

座敷へ案内するか書斎で会うかと聞くのが面倒だから、こう縮めてしまったのである。

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座敷へ案内するか、書斎で逢うかと聞くのが面倒だから、こう詰めてしまったのである。

代助はうんと言って、入り口で返事を待っていた門野を追いはらうように、自分で立って行って縁側へ首を出した。

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代助はうんと云って、入口に返事を待っていた門野を追い払う様に、自分で立って行って、縁側へ首を出した。

三千代は縁側と玄関のつなぎ目のところに、こちらを向いてためらっていた。

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三千代は縁側と玄関の継目の所に、此方こちらを向いてためらっていた。

三千代の顔は、この前会ったときよりむしろ青白かった。

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三千代の顔はこの前逢った時よりはむし蒼白あおしろかった。

代助に目とあごで手まねきされて書斎の入り口へ近寄ったとき、代助は三千代が息を切らしていることに気がついた。

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代助に眼とあごで招かれて書斎の入口へ近寄った時、代助は三千代の息をはずましていることに気が付いた。

「どうかしましたか」

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「どうかしましたか」

と聞いた。

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と聞いた。

三千代は何も答えずに部屋の中に入って来た。

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三千代は何にも答えずにへやの中に這入て来た。

うすい毛織のひとえの下にじゅばんを重ねて、手に大きな白いゆりの花を三本ばかり持っていた。

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セルの単衣ひとえの下に襦袢じゅばんを重ねて、手に大きな白い百合ゆりの花を三本ばかり提げていた。

そのゆりをいきなりテーブルの上に投げるように置いて、その横にあるいすに腰を下ろした。

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その百合をいきなり洋卓テーブルの上に投げる様に置いて、その横にある椅子へ腰を卸した。

そうして、結ったばかりのかみをかまわずいすの背に押しつけて、

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そうして、結ったばかりの銀杏返いちょうがえしを、構わず、椅子の脊に押し付けて、

「ああ苦しかった」

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「ああ苦しかった」

と言いながら、代助のほうを見て笑った。

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と云いながら、代助の方を見て笑った。

代助は手をたたいて水を持って来させようとした。

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代助は手を叩いて水を取り寄せようとした。

三千代は黙ってテーブルの上を指した。

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三千代は黙って洋卓の上を指した。

そこには代助が食後に口をすすぐガラスのコップがあった。

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其所には代助の食後のうがいをする硝子ガラス洋盃コップがあった。

中に水が二口ばかり残っていた。

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中に水が二口ばかり残っていた。

「きれいなんでしょう」

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「奇麗なんでしょう」

と三千代が聞いた。

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と三千代が聞いた。

「こいつはさっき僕が飲んだんだから」

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此奴こいつ先刻さっき僕が飲んだんだから」

と言って、コップを取り上げたが、ためらった。

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と云って、洋盃を取り上げたが、躊躇ちゅうちょした。

代助のすわっているところから水を捨てようとすると、しょうじの外にガラス戸が一枚じゃまをしている。

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代助の坐っている所から、水を棄てようとすると、障子の外に硝子戸が一枚邪魔をしている。

門野は毎朝、縁側のガラス戸を一、二枚ずつ開けないで、そのままにしておくくせがあった。

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門野は毎朝縁側の硝子戸を一二枚ずつ開けないで、元の通りに放って置く癖があった。

代助は席を立って縁側へ出て、水を庭へ捨てながら門野を呼んだ。

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代助は席を立って、縁へ出て、水を庭へ空けながら、門野を呼んだ。

今までいた門野はどこへ行ったか、なかなか返事をしなかった。

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今いた門野は何処へ行ったか、容易に返事をしなかった。

代助は少しまごついて、また三千代のところへ帰って来て、

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代助は少しまごついて、又三千代の所へ帰って来て、

「今すぐ持って来てあげる」

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「今すぐ持って来て上げる」

と言いながら、せっかく空にしたコップをそのままテーブルの上に置いたまま、台所のほうへ出て行った。

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と云いながら、折角空けた洋盃をそのまま洋卓テーブルの上に置いたなり、勝手の方へ出て行った。

茶の間を通ると、門野は不器用な手つきで、すずの茶つぼから玉露(ぎょくろ。上等な緑茶)をつまみ出していた。

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茶の間を通ると、門野は無細工な手をしてすずの茶壺から玉露をつまみ出していた。

代助のすがたを見て、

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代助の姿を見て、

「先生、今すぐです」

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「先生、今じきです」

と言いわけをした。

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と言訳をした。

「茶はあとでもいい。水が要るんだ」

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「茶は後でも好い。水が要るんだ」

と言って、代助は自分で台所へ出た。

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と云って、代助は自分で台所へ出た。

「はあ、そうですか。お飲みになるんですか」

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「はあ、そうですか。上がるんですか」

と茶つぼを放り出して、門野もついて来た。

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と茶壺を放り出して門野も付いて来た。

二人でコップをさがしたが、すぐには見つからなかった。

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二人で洋盃コップを探したが一寸見付からなかった。

おばあさんはと聞くと、今お客さんのお菓子を買いに行ったという答えであった。

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婆さんはと聞くと、今御客さんの菓子を買いに行ったという答であった。

「お菓子がなければ、早く買っておけばいいのに」

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「菓子がなければ、早く買って置けば可いのに」

と代助は、水道のせんをひねって湯のみに水をあふれさせながら言った。

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と代助は水道の栓をねじって湯呑ゆのみに水をあふらせながら云った。

「つい、おばさんにお客さんの来ることを言っておかなかったものですからな」

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「つい、小母さんに、御客さんの来る事を云って置かなかったものですからな」

と門野は気の毒そうに頭をかいた。

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と門野は気の毒そうに頭を掻いた。

「じゃ、君がお菓子を買いに行けばいいのに」

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「じゃ、君が菓子を買に行けばいのに」

と代助は台所を出ながら、門野に当たった。

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と代助は勝手を出ながら、門野に当った。

門野はそれでも、まだ返事をした。

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門野はそれでも、まだ、返事をした。

「なに、お菓子のほかにもまだいろいろ買い物があるって言うもんですからな。足は悪いし天気はよくないし、やめればいいんですのに」

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「なに菓子の外にも、まだ色々買物があるって云うもんですからな。足は悪し天気は好くないし、せば好いんですのに」

代助は振り向きもせず、書斎へ戻った。

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代助は振り向きもせず、書斎へ戻った。

しきいをまたいで中へ入るとすぐ三千代の顔を見ると、三千代はさっき代助が置いて行ったコップをひざの上に両手で持っていた。

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敷居をまたいで、中へ這入るやいなや三千代の顔を見ると、三千代は先刻代助の置いて行った洋盃を膝の上に両手で持っていた。

そのコップの中には、代助が庭へ捨てたのと同じくらい水が入っていた。

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その洋盃の中には、代助が庭へ空けたと同じ位に水が這入っていた。

代助は湯のみを持ったまま、ぼんやりして三千代の前に立った。

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代助は湯呑を持ったまま、茫然ぼうぜんとして、三千代の前に立った。

「どうしたんです」

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「どうしたんです」

と聞いた。

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と聞いた。

三千代はいつものとおり落ち着いた調子で、

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三千代はいつもの通り落ち付いた調子で、

「ありがとう。もうたくさん。今あれを飲んだの。あんまりきれいだったから」

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難有ありがとう。もう沢山。今あれを飲んだの。あんまり奇麗だったから」

と答えて、すずらんのつけてある鉢を振り返った。

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と答えて、鈴蘭の漬けてある鉢を顧みた。

代助はこの大きな鉢の中に、水を八分目ほど入れておいた。

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代助はこの大鉢の中に水を八分目程張って置いた。

つまようじほどの細いくきのうす青い色が水の中にそろっている間から、焼き物の模様がうっすらとうかんで見えた。

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妻楊枝つまようじ位な細い茎の薄青い色が、水の中にそろっている間から、陶器やきものの模様がほのかに浮いて見えた。

「なぜあんなものを飲んだんですか」

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何故なぜあんなものを飲んだんですか」

と代助はあきれて聞いた。

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と代助はあきれて聞いた。

「だって、毒じゃないでしょう」

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「だって毒じゃないでしょう」

と三千代は手に持ったコップを代助の前へ出して、すかして見せた。

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と三千代は手に持った洋盃を代助の前へ出して、透かして見せた。

「毒でないと言ったって、もし二日も三日もたった水だったらどうするんです」

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「毒でないったって、もし二日も三日もった水だったらどうするんです」

「いえ、さっき来たとき、あのそばまで顔を持って行ってかいでみたの。そのとき、たった今その鉢へ水を入れて、おけから移したばかりだって、あの方が言ったんですもの。大丈夫だわ。いいかおりね」

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「いえ、先刻さっき来た時、あの傍まで顔を持って行っていでみたの。その時、たった今その鉢へ水を入れて、おけから移したばかりだって、あの方が云ったんですもの。大丈夫だわ。好いにおいね」

代助は黙っていすに腰を下ろした。

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代助は黙って椅子へ腰を卸した。

本当に美しさのために鉢の水を飲んだのか、それとも体がそれを求めて飲んだのか、聞きただす勇気も出なかった。

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果して詩の為に鉢の水を呑んだのか、又は生理上の作用に促がされて飲んだのか、追窮する勇気も出なかった。

たとえ前のほうだとしても、美しさを見せびらかして小説のまねなどをした受け売りのしぐさとは思えなかったからである。

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よし前者とした所で、詩をてらって、小説の真似なぞをした受売の所作とは認められなかったからである。

そこで、ただ、

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そこで、ただ、

「気分はもうよくなりましたか」

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「気分はもう好くなりましたか」

と聞いた。

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と聞いた。

三千代のほおに、ようやく色が出て来た。

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三千代の頬にようやく色が出て来た。

たもとからハンカチを取り出して、口のあたりをふきながら話を始めた。――

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たもとから手帛ハンケチを取り出して、口のあたりきながら話を始めた。――

たいていは伝通院前から電車に乗って本郷まで買い物に出るのだが、人に聞いてみると、本郷のほうは神楽坂にくらべてどうしても一割か二割物が高いというので、この間から一、二度こちらのほうへ出て来てみた。

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大抵は伝通院前から電車へ乗って本郷まで買物に出るんだが、人に聞いてみると、本郷の方は神楽坂に比べて、どうしても一割か二割物が高いと云うので、この間から一二度此方こっちの方へ出て来てみた。

この前も寄るはずであったが、つい遅くなったので急いで帰った。

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この前も寄るはずであったが、つい遅くなったので急いで帰った。

今日はそのつもりで早く家を出た。

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今日はその積りで早くうちを出た。

が、おやすみ中だったので、また通りまで行って買い物をすませて、帰りに寄ることにした。

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が、御息おやすみ中だったので、又通りまで行って買物を済まして帰り掛けに寄る事にした。

ところが天気があやしくなって、藁店(わらだな)の坂を上りかけるとぽつぽつ降り出した。

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ところが天気模様が悪くなって、藁店わらだなを上がり掛けるとぽつぽつ降り出した。

かさを持って来なかったので、ぬれまいと思ってつい急ぎすぎたものだから、すぐ体にこたえて、息が苦しくなって困った。――

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傘を持って来なかったので、濡れまいと思って、つい急ぎ過ぎたものだから、すぐ身体からださわって、息が苦しくなって困った。――

「けれども、慣れっこになっているんだから驚きゃしません」

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「けれども、慣れっこになってるんだから、驚ろきゃしません」

と言って、代助を見てさびしい笑い方をした。

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と云って、代助を見てさみしい笑い方をした。

「心臓のほうは、まだすっかりよくないんですか」

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「心臓の方は、まだすっかり善くないんですか」

と代助は気の毒そうな顔でたずねた。

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と代助は気の毒そうな顔で尋ねた。

「すっかりよくなるなんて、一生駄目ですわ」

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「すっかり善くなるなんて、生涯駄目ですわ」

言っている中身ほどには、三千代の声はしずんでいなかった。

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意味の絶望な程、三千代の言葉は沈んでいなかった。

細い指を返して、はめている指輪を見た。

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ほそい指をそらして穿めている指環を見た。

それから、ハンカチを丸めてまたたもとへ入れた。

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それから、手帛ハンケチを丸めて、又袂へ入れた。

代助は目をふせた女のひたいの、かみにつながるところをながめていた。

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代助は眼をせた女の額の、髪に連なる所を眺めていた。

すると三千代は、急に思い出したように、この間の小切手のお礼を言い出した。

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すると、三千代は急に思い出した様に、この間の小切手の礼を述べ出した。

そのとき、なんだか少しほおを赤くしたように思われた。

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その時何だか少し頬を赤くした様に思われた。

見る目のするどい代助には、それがよくわかった。

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視感の鋭敏な代助にはそれが善く分った。

彼はそれを、金の貸し借りをはずかしがって赤くなったのだとだけ思った。

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彼はそれを、貸借に関した羞耻しゅうちの血潮とのみ解釈した。

そこで、話をすぐよそへそらした。

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そこで話をすぐ他所よそそらした。

さっき三千代が持って入って来たゆりの花が、そのままテーブルの上にのっている。

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先刻さっき三千代が提げて這入て来た百合の花が、依然として洋卓テーブルの上に載っている。

あまったるい強いかおりが、二人の間に立ちのぼっていた。

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甘たるい強いが二人の間に立ちつつあった。

代助は、この重苦しいにおいを鼻の先に置いておくのがたえられなかった。

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代助はこの重苦しい刺激を鼻の先に置くに堪えなかった。

けれども、勝手に取りのけるほど、三千代に対して思い切ったことができなかった。

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けれども無断で、取りける程、三千代に対して思い切った振舞が出来なかった。

「この花はどうしたんです。買って来たんですか」

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「この花はどうしたんです。買て来たんですか」

と聞いた。

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と聞いた。

三千代は黙ってうなずいた。

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三千代は黙って首肯うなずいた。

そうして、

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そうして、

「いいかおりでしょう」

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「好いにおいでしょう」

と言って、自分の鼻を花びらのそばまで持って来て、ふんとかいで見せた。

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と云って、自分の鼻を、はなびらそばまで持って来て、ふんといで見せた。

代助は思わず足をまっすぐにふんばって、体を後ろのほうへそらした。

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代助は思わず足を真直に踏ん張って、身を後の方へらした。

「そうそばでかいじゃいけない」

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「そう傍で嗅いじゃ不可いけない」

「あら、なぜ」

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「あら何故」

「なぜって理由もないんだが、いけない」

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「何故って理由もないんだが、不可ない」

代助は少しまゆをひそめた。

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代助は少しまゆをひそめた。

三千代は顔をもとの位置に戻した。

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三千代は顔をもとの位地に戻した。

「あなた、この花、おきらいなの?」

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「貴方、この花、御嫌おきらいなの?」

代助はいすの足をななめに立てて、体を後ろへのばしたまま、答えずにほほえんで見せた。

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代助は椅子の足をななめに立てて、身体からだを後へ伸したまま、答えをせずに、微笑して見せた。

「じゃ、買って来なくてもよかったのに。つまらないわ、回り道をして。おまけに雨に降られて、息を切らして」

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「じゃ、買って来なくっても好かったのに。つまらないわ、回りみちをして。御負おまけに雨に降られそくなって、息を切らして」

雨は本当に降って来た。

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雨は本当に降って来た。

雨のしずくがとい(雨水を流す管)に集まって、流れる音がざあと聞こえた。

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雨滴あまだれといに集まって、流れる音がざあと聞えた。

代助はいすから立ち上がった。

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代助は椅子から立ち上がった。

目の前にあるゆりの束を取り上げて、根元をしばったぬれたわらをむしり取った。

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眼の前にある百合の束を取り上げて、根元をくくった濡藁ぬれわらむしり切った。

「僕にくれたのか。それなら早くいけよう」

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「僕にくれたのか。そんなら早くけよう」

と言いながら、すぐさっきの大きな鉢の中に投げこんだ。

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と云いながら、すぐ先刻さっきの大鉢の中に投げ込んだ。

くきが長すぎるので、根が水をはねて飛び出しそうになる。

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茎が長すぎるので、根が水を跳ねて、飛び出しそうになる。

代助はしたたるくきをまた鉢からぬいた。

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代助はしたたる茎を又鉢から抜いた。

そうしてテーブルの引き出しから西洋ばさみを出して、ぷつりぷつりと半分ほどの長さに切りつめた。

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そうして洋卓テーブルの引出から西洋はさみを出して、ぷつりぷつりと半分程の長さにり詰めた。

そうして、大きな花をすずらんのむらがる上にうかせた。

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そうして、大きな花を、鈴蘭のむらがる上に浮かした。

「さあ、これでいい」

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「さあこれで好い」

と代助ははさみをテーブルの上に置いた。

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と代助は鋏を洋卓の上に置いた。

三千代はこの不思議に乱暴にいけられたゆりをしばらく見ていたが、突然、

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三千代はこの不思議に無作法に活けられた百合を、しばらく見ていたが、突然、

「あなた、いつからこの花がおきらいになったの」

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「あなた、何時いつからこの花が御嫌になったの」

とへんな質問をした。

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と妙な質問をかけた。

昔、三千代の兄がまだ生きていたころ、ある日何かのはずみに長いゆりを買って、代助が谷中の家をたずねたことがあった。

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昔し三千代の兄がまだ生きていた時分、ある日何かのはずみに、長い百合を買って、代助が谷中やなかの家を訪ねた事があった。

そのとき、彼は三千代にこわれそうな花びんのそうじをさせて、自分で大事そうに買って来た花をいけて、三千代にも三千代の兄にも、床の間のほうへ向き直ってながめさせたことがあった。

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その時彼は三千代にあやしげな花瓶はないけの掃除をさして、自分で、大事そうに買って来た花を活けて、三千代にも、三千代の兄にも、床へ向直って眺めさした事があった。

三千代はそれを覚えていたのである。

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三千代はそれを覚えていたのである。

「あなただって、鼻をつけてかいでいらっしゃったじゃありませんか」

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「貴方だって、鼻を着けて嗅いでいらしったじゃありませんか」

と言った。

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と云った。

代助は、そんなことがあったようにも思って、しかたなしに苦笑いをした。

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代助はそんな事があった様にも思って、仕方なしに苦笑した。

そのうち、雨はますます激しくなった。

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そのうち雨はますます深くなった。

家をつつんで、遠い音が聞こえた。

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家を包んで遠い音が聴えた。

門野が出て来て、少し寒いようですな、ガラス戸を閉めましょうかと聞いた。

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門野が出て来て、少し寒い様ですな、硝子戸を閉めましょうかと聞いた。

ガラス戸を引く間、二人は顔をならべて庭のほうを見ていた。

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硝子戸を引く間、二人は顔を揃えて庭の方を見ていた。

青い木の葉が全部ぬれて、静かなしめり気がガラスごしに代助の頭へふきこんで来た。

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青い木の葉がことごとく濡れて、静かな湿り気が、硝子越に代助の頭に吹き込んで来た。

世の中のういているものは残らず地面の上に落ち着いたように見えた。

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世の中の浮いているものは残らず大地の上に落ち付いた様に見えた。

代助は久しぶりで自分に返った気持ちがした。

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代助は久し振りで吾に返った心持がした。

「いい雨ですね」

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い雨ですね」

と言った。

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と云った。

「少しもよくないわ、私、ぞうりをはいて来たんですもの」

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ちっともかないわ、わたし、草履を穿いて来たんですもの」

三千代は、むしろうらめしそうにといからもれる雨だれをながめた。

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三千代は寧ろ恨めしそうに樋から雨点あまだれを眺めた。

「帰りには車を呼んであげるからいいでしょう。ゆっくりなさい」

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「帰りには車を云い付けて上げるからいでしょう。ゆっくりなさい」

三千代は、あまりゆっくりできそうなようすも見えなかった。

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三千代はあまり緩り出来そうな様子も見えなかった。

まっすぐ代助のほうを見て、

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まともに、代助の方を見て、

「あなたも相変わらず気楽なことをおっしゃるのね」

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貴方あなたも相変らず呑気のんきな事をおっしゃるのね」

とたしなめた。

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たしなめた。

けれども、その目もとには笑いの影がうかんでいた。

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けれどもその眼元には笑の影がうかんでいた。

今まで三千代のかげにかくれてぼんやりしていた平岡の顔が、このときはっきり代助の心の目にうつった。

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今まで三千代の陰に隠れてぼんやりしていた平岡の顔が、この時明らかに代助の心のひとみに映った。

代助は急に、うす暗がりから何かにおそわれたような気がした。

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代助は急に薄暗がりから物に襲われた様な気がした。

三千代はやはり、はなれない黒い影を引きずって歩いている女であった。

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三千代はやはり、離れ難い黒い影を引きって歩いている女であった。

「平岡君はどうしました」

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「平岡君はどうしました」

と、わざと何気なく聞いた。

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とわざと何気なく聞いた。

すると、三千代の口もとが少しかたく見えた。

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すると三千代の口元が心持締って見えた。

「相変わらずですわ」

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「相変らずですわ」

「まだ何も見つからないんですか」

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「まだ何にも見付めっからないんですか」

「そのほうはまあ安心なの。来月から新聞社のほうがたいてい決まりそうなんです」

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「その方はまあ安心なの。来月から新聞の方が大抵出来るらしいんです」

「それはよかった。少しも知らなかった。それならしばらくそれでいいじゃありませんか」

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「そりゃ好かった。些とも知らなかった。そんなら当分それで好いじゃありませんか」

「ええ、まあありがたいわ」

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「ええ、まあ難有ありがたいわ」

と三千代は低い声でまじめに言った。

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と三千代は低い声で真面目まじめに云った。

代助はそのとき、三千代をとてもかわいく感じた。

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代助は、その時三千代を大変可愛かあいく感じた。

続いて、

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引続いて、

「あちらのほうは、さしあたり責められるようなこともないんですか」

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彼方あっちの方は差当り責められる様な事もないんですか」

と聞いた。

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と聞いた。

「あちらのほうって――」

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「彼方の方って――」

と少しためらっていた三千代は、急に顔を赤くした。

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と少し逡巡ためらっていた三千代は、急に顔をあからめた。

「私、じつは今日それであやまりに来たのよ」

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「私、実は今日それで御詫おわびに上ったのよ」

と言いながら、一度下を向いた顔をまた上げた。

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と云いながら、一度俯向うつむいた顔を又上げた。

代助は、少しでもいやな顔を見せて、これ以上女のやさしい心をゆさぶるのにたえられなかった。

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代助は少しでも気不味きまずい様子を見せて、この上にも、女の優しい血潮を動かすに堪えなかった。

同時に、わざと相手の気持ちに合わせるような言葉をかけて、相手をよけいに気の毒がらせることもさけた。

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同時に、わざと向うの意を迎える様な言葉を掛けて、相手を殊更ことさらに気の毒がらせる結果を避けた。

それで静かに三千代の言うことを聞いた。

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それで静かに三千代の云う所を聴いた。

この間の二百円は、代助から受け取るとすぐ借金の返済に回すはずであったが、新しく家を持ったためいろいろお金がかかったので、つい生活のほうをあのお金でいくらかまかなったのが始まりであった。

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先達せんだっての二百円は、代助から受取るとすぐ借銭の方へ回す筈であったが、新らしく家を持ったため、色々入費が掛ったので、ついその方の用を、あのうちで幾分か弁じたのが始りであった。

あとはと思っていると、今度は毎日の暮らしに追われ出した。

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あとはと思っていると、今度は毎日の活計くらしに追われ出した。

自分でもいい気持ちはしなかったけれども、しかたなしに、困っては使い、困っては使いして、とうとうだいたい使ってしまった。

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自分ながら好い心持はしなかったけれども、仕方なしに困るとは使い、困るとは使いして、とうとうあらましくしてしまった。

もっとも、そうでもしなければ、夫婦は今日までこうして暮らしては行けなかったのである。

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もっともそうでもしなければ、夫婦は今日こんにちまでこうして暮らしては行けなかったのである。

今から考えてみると、いっそのこと、なければないなりにどうにかやりくりもついたかも知れないが、なまじ手もとにあったものだから、苦しまぎれにその場をしのいでしまったので、肝心の証文を入れた借金のほうは、いまだにそのままにしてある。

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今から考えてみると、一層いっその事無ければ無いなりに、どうかこうか工面も付いたかも知れないが、なまじい、手元に有ったものだから、苦し紛れに、急場の間に合わしてしまったので、肝心の証書を入れた借銭の方は、いまだにそのままにしてある。

これはむしろ平岡が悪いのではない。

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これは寧ろ平岡の悪いのではない。

まったく自分のあやまちである。

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全く自分のあやまちである。

「私、本当にすまないことをしたと思って後悔しているのよ。けれども、お借りするときは決してあなたをだましてうそをつくつもりじゃなかったんだから、かんべんしてちょうだい」

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「私、本当に済まない事をしたと思って、後悔しているのよ。けれども拝借するときは、決して貴方をだましてうそく積りじゃなかったんだから、堪忍かんにんして頂戴ちょうだい

と三千代は、とても苦しそうに言いわけをした。

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と三千代は甚だ苦しそうに言訳をした。

「どうせあなたにあげたんだから、どう使ったって、誰も何とも言うわけはないでしょう。役にさえ立てば、それでいいじゃありませんか」

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「どうせ貴方に上げたんだから、どう使ったって、誰も何とも云う訳はないでしょう。役にさえ立てばそれで好いじゃありませんか」

と代助はなぐさめた。

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と代助は慰めた。

そうして、あなたという言葉をわざと重く、しかもゆっくりひびかせた。

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そうして貴方という字をことさらに重くかつ緩く響かせた。

三千代はただ、

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三千代はただ、

「私、それでようやく安心したわ」

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「私、それで漸く安心したわ」

と言っただけであった。

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と云っただけであった。

雨が降り続くので、帰るときには約束どおり車をたのんだ。

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雨がしきりなので、帰るときには約束通り車を雇った。

寒いので、うすい毛織の着物の上に男のはおりを着せようとしたら、三千代は笑って着なかった。

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寒いので、セルの上へ男の羽織を着せようとしたら、三千代は笑って着なかった。

十一

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十一

いつの間にか、人がうすものの夏はおりを着て歩くようになった。

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何時の間にか、人がの羽織を着て歩く様になった。

二、三日、家で調べ物をして庭先より外をながめなかった代助は、冬のぼうしをかぶって外へ出てみて、急に暑さを感じた。

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二三日、うちで調物をして庭先よりほかに眺めなかった代助は、冬帽をかぶって表へ出てみて、急に暑さを感じた。

自分も毛織の着物をぬがなければならないと思って、五、六百メートル歩くうちに、あわせ(うらのついた着物)を着た人に二人出会った。

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自分もセルを脱がなければならないと思って、五六町歩くうちに、あわせを着た人に二人出逢であった。

そうかと思うと、新しい氷屋で書生がコップを手にして、冷たそうなものを飲んでいた。

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そうかと思うと新らしい氷屋で書生が洋盃コップを手にして、冷たそうなものを飲んでいた。

代助はそのとき、誠太郎を思い出した。

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代助はその時誠太郎を思い出した。

近ごろ代助は、前よりも誠太郎が好きになった。

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近頃代助は前よりも誠太郎が好きになった。

ほかの人間と話していると、人間の皮と話しているようでもどかしくてならなかった。

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外の人間と話していると、人間の皮と話す様で歯痒はがゆくってならなかった。

けれども、振り返って自分を見ると、自分は人間の中でいちばん相手をもどかしがらせるようにできていた。

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けれども、顧みて自分を見ると、自分は人間中で、尤も相手を歯痒がらせる様にこしらえられていた。

これも長い年月、生き残り競争の中にさらされたばつかと思うと、あまりありがたい気持ちはしなかった。

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これも長年生存競争の因果にさらされたばちかと思うと、余り難有ありがたい心持はしなかった。

このごろ誠太郎はしきりに玉乗りのけいこをしたがっているが、それはまったく、この間浅草の奥山へいっしょに連れて行った結果である。

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この頃誠太郎はしきりに玉乗りの稽古けいこをしたがっているが、それは、全くこの間浅草の奥山へ一所に連れて行った結果である。

あの思いこんだら一直線なところは、よく兄の妻の気性を受けついでいる。

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あの一図な所はよく、あによめの気性を受け継いでいる。

しかし兄の子だけあって、一直線なうちに、どこかせかせかしないおっとりしたところがある。

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然し兄の子だけあって、一図なうちに、何処どこせまらない鷹揚おうような気象がある。

誠太郎の相手をしていると、向こうの心がえんりょなくこちらへ流れこんで来るから楽しい。

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誠太郎の相手をしていると、向うの魂が遠慮なく此方こっちへ流れ込んで来るから愉快である。

実際代助は、昼も夜も身がまえをといたことのない心にかこまれるのが苦しかった。

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実際代助は、昼夜の区別なく、武装を解いた事のない精神に、包囲されるのが苦痛であった。

誠太郎はこの春から中学校へ行き出した。

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誠太郎はこの春から中学校へ行き出した。

すると、急に背がのびて来るように思われた。

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すると急に脊丈せたけが延びて来る様に思われた。

もう一、二年すると声が変わる。

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もう一二年すると声が変る。

それから先どんな道すじをたどって大きくなるかわからないが、どうしても人間として生きていくためには、人間からきらわれるという運命にたどり着くにちがいない。

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それから先どんな径路を取って、生長するか分らないが、到底人間として、生存する為には、人間から嫌われると云う運命に到着するに違ない。

そのとき、彼はおとなしく人の目につかない身なりをして、こじきのように何かを求めながら、人の集まる町をうろついて歩くだろう。

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その時、彼は穏やかに人の目に着かない服装なりをして、乞食こじきごとく、何物をか求めつつ、人の市をうろついて歩くだろう。

代助はお堀ばたへ出た。

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代助は堀端へ出た。

この間まで向こうの土手にむらがっていたつつじが、まるく紅白の模様を青い中にえがいていたのが、まるであとかたもなくなって、一面に草がおいしげっている高い坂の上に、大きな松が何十本もならんで、どこまでも続いている。

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この間まで向うの土手にむら躑躅つつじが、団々と紅白の模様を青い中にいんしていたのが、まるで跡形もなくなって、のべつに草が生い茂っている高い傾斜の上に、大きな松が何十本となく並んで、何処までもつづいている。

空はきれいに晴れた。

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空は奇麗に晴れた。

代助は電車に乗って兄の家へ行って、兄の妻をからかって誠太郎と遊ぼうと思ったが、急にいやになって、この松を見ながら、つかれるところまでお堀ばたを歩いて行く気になった。

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代助は電車に乗って、うちへ行って、嫂に調戯からかって、誠太郎と遊ぼうと思ったが、急にいやになって、この松を見ながら、草臥くたびれる所まで堀端を伝って行く気になった。

新見付(しんみつけ)へ来ると、向こうから来たりこちらから行ったりする電車が気になり出したので、お堀を横切って、招魂社(しょうこんしゃ)の横から番町(ばんちょう)へ出た。

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新見付へ来ると、向うから来たり、此方から行ったりする電車が苦になり出したので、堀を横切って、招魂社の横から番町へ出た。

そこをぐるぐる回って歩いているうちに、こう目当てもなく歩いていることが、ふいに馬鹿らしく思われた。

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そこをぐるぐる回って歩いているうちに、かく目的なしに歩いている事が、不意に馬鹿らしく思われた。

目当てがあって歩く者はいやしい人間だと、彼はふだんから信じていたのであるけれども、このときばかりは、そのいやしい人間のほうがえらいような気がした。

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目的があって歩くものは賤民せんみんだと、彼は平生から信じていたのであるけれども、この場合に限って、その賤民の方が偉い様な気がした。

まったく、またあきあきした気持ちにおそわれたとわかって、帰り出した。

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全たく、又アンニュイに襲われたと悟って、帰りだした。

神楽坂にさしかかると、ある店で大きな蓄音機(ちくおんき。むかしのレコードをかける機械)を鳴らしていた。

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神楽坂へかかると、ある商店で大きな蓄音器を吹かしていた。

その音がひどく金属のようなするどさをもっていて、代助の頭にとてもこたえた。

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その音が甚しく金属性の刺激を帯びていて、大いに代助の頭にこたえた。

家の門を入ると、今度は門野が主人の留守をいいことに、大きな声でびわ歌をうたっていた。

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家の門を這入はいると、今度は門野が、主人の留守を幸いと、大きな声で琵琶歌びわうたをうたっていた。

それでも代助の足音を聞いて、ぴたりとやめた。

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それでも代助の足音を聞いて、ぴたりとめた。

「いや、お帰りなさい」

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「いや、御早うがしたな」

と言って玄関へ出て来た。

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と云って玄関へ出て来た。

代助は何も答えずに、ぼうしをそこへ掛けたまま、縁側から書斎へ入った。

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代助は何にも答えずに、帽子を其所そこへ掛けたまま、縁側から書斎へ這入った。

そうして、わざわざしょうじを閉め切った。

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そうして、わざわざ障子を締め切った。

続いて湯のみにお茶をついで持って来た門野が、

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つづいて湯呑ゆのみに茶をいで持って来た門野が、

「閉めときますか。暑かありませんか」

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「締めときますか。暑かありませんか」

と聞いた。

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と聞いた。

代助はたもとからハンカチを出してひたいをふいていたが、やはり、

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代助はたもとから手帛ハンケチを出して額をいていたが、やっぱり、

「閉めておいてくれ」

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「締めて置いてくれ」

と言いつけた。

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と命令した。

門野はへんな顔をして、しょうじを閉めて出て行った。

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門野は妙な顔をして障子を締めて出て行った。

代助は暗くした部屋の中で、十分ばかりぽかんとしていた。

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代助は暗くしたへやのなかに、十分ばかりぽかんとしていた。

彼は人がうらやむほどつやのいいはだと、働く人には見つけにくいようなやわらかい筋肉を持った男であった。

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彼は人のうらやむ程光沢つやの好い皮膚と、労働者に見出みいだしがたい様に柔かな筋肉をった男であった。

彼は生まれてから、まだ大きな病気というものをしたことがないくらい、体の丈夫さにめぐまれていた。

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彼は生れて以来、まだ大病と名のつくものを経験しなかった位、健康において幸福をけていた。

彼はこれでこそ生きるかいがあると信じていたのだから、彼の丈夫さは彼にとって、ほかの人の倍以上の値打ちを持っていた。

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彼はこれでこそ、生甲斐いきがいがあると信じていたのだから、彼の健康は、彼に取って、他人の倍以上に価値を有っていた。

彼の頭は、彼の体と同じくたしかであった。

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彼の頭は、彼の肉体と同じく確であった。

ただ、いつもすじ道に苦しめられていたのは本当である。

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ただ始終論理に苦しめられていたのは事実である。

それからときどき、頭の真ん中が弓の的のように、二重や三重に重なるように感じることがあった。

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それから時々、頭の中心が、大弓の的の様に、二重もしくは三重にかさなる様に感ずる事があった。

とくに今日は、朝からそんな気持ちがした。

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ことに、今日は朝からそんな心持がした。

代助が黙りこんで、自分は何のためにこの世に生まれて来たのかを考えるのは、こういうときであった。

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代助が黙然もくねんとして、自己は何の為にこの世の中に生れて来たかを考えるのはこう云う時であった。

彼は今まで何度もこの大きな問題をつかまえて、目の前に置いてみた。

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彼は今まで何遍もこの大問題をとらえて、彼の眼前に据え付けて見た。

そのきっかけは、ただ物の考え方への好奇心から来たこともあるし、また世の中の出来事があまりにいろいろな色で彼の頭をそめようとするから来ることもあるし、また最後には、今日のようにあきあきした気持ちの結果として来ることもあるが、そのたびに彼は同じ答えにたどり着いた。

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その動機は、単に哲学上の好奇心から来た事もあるし、又世間の現象が、余りに複雑な色彩をもって、彼の頭を染め付けようとあせるから来る事もあるし、又最後には今日こんにちの如くアンニュイの結果として来る事もあるが、その都度彼は同じ結論に到着した。

しかし、その答えはこの問題を解いたのではなく、むしろ問題そのものを打ち消したのと変わらなかった。

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然しその結論は、この問題の解決ではなくって、むしろその否定と異ならなかった。

彼の考えによると、人間はある目的を持って生まれたものではなかった。

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彼の考によると、人間はある目的を以て、生れたものではなかった。

これと反対に、生まれた人間に初めてある目的ができて来るのであった。

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これと反対に、生れた人間に、始めてある目的が出来て来るのであった。

最初から外から目的をこしらえて、それを人間にくっつけるのは、その人間の自由な動きを、生まれるときにもう取り上げたのと同じことになる。

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最初から客観的にある目的を拵らえて、それを人間に附着するのは、その人間の自由な活動を、既に生れる時に奪ったと同じ事になる。

だから、人間の目的は、生まれた本人が自分で作ったものでなければならない。

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だから人間の目的は、生れた本人が、本人自身に作ったものでなければならない。

けれども、いくら本人でも、これを勝手に作ることはできない。

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けれども、如何いかな本人でも、これを随意に作る事は出来ない。

自分がいることの目的は、自分がいままで生きてきたことがすでに世の中に向かって示しているのと同じだからである。

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自己存在の目的は、自己存在の経験が、既にこれを天下に向って発表したと同様だからである。

この根っこの考えから出発した代助は、自分そのものの動きを自分そのものの目的としていた。

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この根本義から出立しゅったつした代助は、自己本来の活動を、自己本来の目的としていた。

歩きたいから歩く。

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歩きたいから歩く。

すると歩くのが目的になる。

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すると歩くのが目的になる。

考えたいから考える。

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考えたいから考える。

すると考えるのが目的になる。

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すると考えるのが目的になる。

それ以外の目的で歩いたり考えたりするのが、歩くことと考えることのだらくになるように、自分の動きの外に別の目的を立てて動くのは、動くことのだらくになる。

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それ以外の目的を以て、歩いたり、考えたりするのは、歩行と思考の堕落になる如く、自己の活動以外に一種の目的を立てて、活動するのは活動の堕落になる。

だから、自分ぜんたいの動きを、何かのための手段の道具に使う者は、自分でいることの目的をこわしたのと同じである。

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従って自己全体の活動を挙げて、これを方便の具に使用するものは、自ら自己存在の目的を破壊したも同然である。

だから代助は今日まで、自分の頭に望みや欲が起こるたびに、その望みや欲をやりとげることを自分の目的として生きていた。

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だから、代助は今日まで、自分の脳裏に願望がんもう嗜欲しよくが起るたびごとに、これ等の願望嗜欲を遂行するのを自己の目的として存在していた。

二つの合わない望みや欲が胸の中で争う場合も同じことであった。

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二個の相れざる願望嗜欲が胸に闘う場合も同じ事であった。

ただ、ぶつかり合いから出る一つの目的のすり減りだと考えていた。

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ただ矛盾から出る一目的の消耗しょうこうと解釈していた。

つまるところ、彼はふつうに言う「目的のない行い」を目的として動いていたのである。

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これをせんじ詰めると、彼は普通に所謂いわゆる無目的な行為を目的として活動していたのである。

そうして、人をだまさない点で、それをいちばん正しいものだと考えていた。

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そうして、他を偽らざる点に於てそれを尤も道徳的なものと心得ていた。

この考え方をできるだけつらぬく彼は、そのとちゅうで、思わず、自分がとっくに捨てたはずの問題におそわれて、自分は今何のためにこんなことをしているのかと考え出すことがある。

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この主義を出来るだけ遂行する彼は、その遂行の途中で、われ知らず、自分のとうに棄却した問題に襲われて、自分は今何の為に、こんな事をしているかと考え出す事がある。

彼が番町を散歩しながら、なぜ散歩しているのかと疑ったのは、まさにこれである。

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彼が番町を散歩しながら、何故なぜ散歩しつつあるかと疑ったのはまさにこれである。

そのとき、彼は自分でも、自分の力が満ちていないことに気がつく。

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その時彼は自分ながら、自分の活力に充実していない事に気がつく。

力の足りない行いは、一気にやりとげる勇気とおもしろさに乏しいから、自分でその行いの意味をとちゅうで疑うようになる。

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えたる行動は、一気に遂行する勇気と、興味に乏しいから、自らその行動の意義を中途で疑う様になる。

彼はこれをあきあきした気分と名づけていた。

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彼はこれをアンニュイとなづけていた。

この気分になると、彼はすじ道が乱れるものと信じていた。

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アンニュイにかかると、彼は論理の迷乱を引き起すものと信じていた。

何かをしている最中に、何のためにという、上と下をひっくり返したような疑いを起こさせるのは、この気分にほかならなかったからである。

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彼の行為の中途に於て、何の為と云う、冠履顛倒かんりてんとうの疑を起させるのは、アンニュイに外ならなかったからである。

彼は閉め切った部屋の中で、一、二度頭をおさえてふり動かしてみた。

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彼は立て切った室の中で、一二度頭を抑えて振り動かしてみた。

彼は、昔から今日までものを考える人が何度もくり返した意味のない疑いを、また頭に置くのがたえられなかった。

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彼は昔から今日までの思索家の、しばしば繰り返した無意義な疑義を、又脳裏に拈定ねんていするに堪えなかった。

その姿がちらりと目の前に出て来たとき、またかという具合に、すぐ切り捨ててしまった。

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その姿のちらりと眼前に起った時、またかと云う具合に、すぐ切り棄ててしまった。

同時に彼は、自分の生きる力が足りないことを強く感じた。

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同時に彼は自己の生活力の不足をはげしく感じた。

だから、することそのものを目的として気持ちよくやりとげるおもしろさも持てなかった。

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従って行為その物を目的として、円満に遂行する興味も有たなかった。

彼はただ一人、あれ野の中に立った。

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彼はただ一人荒野のうちに立った。

ぼんやりしていた。

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茫然ぼうぜんとしていた。

彼は上等な暮らしの満足を求める男であった。

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彼は高尚な生活欲の満足をこいねがう男であった。

また、ある意味では正しくありたいという思いの満足も求める男であった。

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又ある意味に於て道義欲の満足を買おうとする男であった。

そうして、あるところまで来ると、この二つが火花を散らして切り結ぶ関所があると思っていた。

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そうして、ある点へ来ると、この二つのものが火花を散らして切り結ぶ関門があると予想していた。

それで、暮らしへの欲を低いところに止めてがまんしていた。

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それで生活欲を低い程度に留めて我慢していた。

彼の部屋はふつうの日本間であった。

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彼の室は普通の日本間であった。

これといったかざりもなかった。

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これと云う程の大した装飾もなかった。

彼に言わせると、額さえしゃれたものは掛けてなかった。

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彼に云わせると、額さえ気のいたものは掛けてなかった。

色として目を引くほど美しいのは、本だなにならべてある洋書に集まっているというくらいであった。

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色彩として眼をく程に美しいのは、本棚に並べてある洋書に集められたと云う位であった。

彼は今、この本の中にぼんやりとすわった。

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彼は今この書物の中に、茫然として坐った。

しばらくして、これほどねむりこんだ自分の心を強くゆさぶるには、もう少しまわりの物をどうかしなければならないと思いながら、部屋の中をぐるぐる見回した。

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ややあって、これほど寐入ねいった自分の意識を強烈にするには、もう少し周囲の物をどうかしなければならぬと、思いながら、室の中をぐるぐる見廻した。

それから、またぽかんとしてかべをながめた。

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それから、又ぽかんとして壁を眺めた。

が、最後に、自分をこの力のない暮らしから救える方法はただ一つあると考えた。

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が、最後に、自分をこの薄弱な生活から救い得る方法は、ただ一つあると考えた。

そうして口の中で言った。

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そうして口の内で云った。

「やはり、三千代さんに会わなくちゃいかん」

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「やっぱり、三千代さんに逢わなくちゃ不可いかん」

彼は足の向かない方向へ散歩に出たのを後悔した。

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彼は足の進まない方角へ散歩に出たのを悔いた。

もう一度出直して平岡のところまで行こうかと思っているところへ、森川町から寺尾が来た。

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もう一遍出直して、平岡のもとまで行こうかと思っている所へ、森川町から寺尾が来た。

新しい麦わらぼうしをかぶって、地味なうすいはおりを着て、暑い暑いと言って赤い顔をふいた。

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新らしい麦藁帽むぎわらぼうを被って、閑静な薄い羽織を着て、暑い暑いと云って赤い顔を拭いた。

「何だって、今ごろ来たんだ」

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「何だって、今時分来たんだ」

と代助はあいそもなく言った。

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と代助は愛想もなく云い放った。

彼は寺尾とはふだんでも、この調子の言葉でつきあっていたのである。

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彼は寺尾とは平生でも、この位な言葉で交際していたのである。

「今ごろがちょうど人をたずねるのにいい時刻だろう。君、また昼ねをしたな。どうも仕事のない人間はだらしなくていかん。君はいったい何のために生まれて来たんだったかね」

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「今時分が丁度訪問に好い刻限だろう。君、又昼寐をしたな。どうも職業のない人間は、惰弱で不可ん。君は一体何の為に生れて来たのだったかね」

と言って、寺尾は麦わらぼうしでしきりに胸のあたりへ風を送った。

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と云って、寺尾は麦藁帽で、しきりに胸のあたりへ風を送った。

季節はまだそれほど暑くないのだから、このしぐさはずいぶん愛きょうがあった。

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時候はまだそれ程暑くないのだから、この所作はすこぶ愛嬌あいきょうを添えた。

「何のために生まれて来ようと、よけいなお世話だ。それより君こそ何しに来たんだ。また『ここ十日ばかりの間』じゃないか、金の相談ならもうごめんだよ」

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「何の為に生れてようと、余計な御世話だ。それより君こそ何しに来たんだ。又『此所ここ十日ばかりの間』じゃないか、金の相談ならもう御免だよ」

と代助はえんりょなく先に断った。

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と代助は遠慮なく先へ断った。

「君もずいぶん礼儀を知らない男だね」

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「君も随分礼義を知らない男だね」

と寺尾はしかたなく答えた。

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と寺尾はやむを得ず答えた。

けれども、とくに気を悪くしたようすも見えなかった。

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けれども別段感情を害した様子も見えなかった。

じつを言うと、これくらいの言葉は寺尾にとって、少しも失礼とは思えなかったのである。

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実を云うと、この位な言葉は寺尾に取って、少しも無礼とは思えなかったのである。

代助は黙って寺尾の顔を見ていた。

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代助は黙って、寺尾の顔を見ていた。

それは、何もないかべを見ているのと同じで、代助に何の気持ちの動きも起こさせなかった。

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それは、むなしい壁を見ているより以上の何等の感動をも、代助に与えなかった。

寺尾はふところからきたない仮とじの本を出した。

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寺尾はふところから汚ない仮綴かりとじの書物を出した。

「これを訳さなけりゃならないんだ」

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「これを訳さなけりゃならないんだ」

と言った。

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と云った。

代助はやはり黙っていた。

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代助は依然として黙っていた。

「食うに困らないと思って、そう面倒くさそうな顔をしなくてもよかろう。もう少しはっきりしてくれ。こっちは生きるか死ぬかの戦だ」

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「食うに困らないと思って、そう無精な顔をしなくっても好かろう。もう少し判然としてくれ。此方は生死の戦だ」

と言って、寺尾は小さな本をとんとんといすの角で二度たたいた。

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と云って、寺尾は小形の本を、とんとんと椅子いすの角で二返たたいた。

「いつまでに」

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何時いつまでに」

寺尾は本のページをさらさらとめくって見せたが、きっぱりした調子で、

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寺尾は、書物のページをさらさらと繰って見せたが、断然たる調子で、

「二週間」

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「二週間」

と答えたあとで、「どうしてもそれまでに片づけなけりゃ食えないんだからしかたがない」

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と答えた後で、「どうでもこうでも、それまでに片付なけりゃ、食えないんだから仕方がない」

と説明した。

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と説明した。

「すごいいきおいだね」

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「偉い勢だね」

と代助はからかった。

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と代助は冷かした。

「だから、本郷からわざわざやって来たんだ。なに、金は借りなくてもいい。――貸せばなおいいが――それより少しわからないところがあるから、相談しようと思って」

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「だから、本郷からわざわざって来たんだ。なに、金は借りなくても好い。――貸せばなお好いが――それより少し分らない所があるから、相談しようと思って」

「面倒だな。僕は今日は頭が悪くって、そんなことはやっていられないよ。いいかげんに訳しておけばかまわないじゃないか。どうせ原稿料はページでくれるんだろう」

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「面倒だな。僕は今日は頭が悪くって、そんな事は遣っていられないよ。い加減に訳して置けば構わないじゃないか。どうせ原稿料は頁でくれるんだろう」

「いくら僕だって、そう投げやりな訳はできないだろうじゃないか。訳のまちがいでも見つけられるとあとから面倒だあね」

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「なんぼ、僕だって、そう無責任な翻訳は出来ないだろうじゃないか。誤訳でも指摘されると後から面倒だあね」

「しかたがないな」

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「仕様がないな」

と言って、代助はやはりずうずうしい態度をくずさなかった。

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と云って、代助はやっぱり横着な態度を維持していた。

すると寺尾は、

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すると、寺尾は、

「おい」

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「おい」

と言った。

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と云った。

「じょうだんじゃない、君のようにのらくら遊んでる人は、たまにはそれくらいのことでもしなくちゃ、たいくつでしかたがないだろう。なに、僕だって、本のよく読める人のところへ行く気なら、わざわざ君のところまで来やしない。けれども、そんな人は君とちがって、みんないそがしいんだからな」

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「冗談じゃない、君の様に、のらくら遊んでる人は、たまにはその位な事でも、しなくっちゃ退屈で仕方がないだろう。なに、僕だって、本の善く読める人の所へ行く気なら、わざわざ君の所まで来やしない。けれども、そんな人は君と違って、みんな忙しいんだからな」

と、少しも引き下がるようすを見せなかった。

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と少しも辟易へきえきした様子を見せなかった。

代助は、けんかをするか相談に乗るか、どちらかだと心を決めた。

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代助は喧嘩けんかをするか、相談に応ずるか何方どっちかだと覚悟を極めた。

彼の性格として、こういう相手を見下すことはできるが、どなりつける気は出せなかった。

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彼の性質として、こう云う相手を軽蔑けいべつする事は出来るが、怒り付ける気は出せなかった。

「じゃ、なるべく少しにしようじゃないか」

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「じゃなるべく少しにしようじゃないか」

と断っておいて、しるしのつけてあるところだけを見た。

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と断って置いて、符号マークの附けてある所だけを見た。

代助は、その本のあらすじさえ聞く気にならなかった。

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代助はその書物の梗概こうがいさえ聞く勇気がなかった。

相談を受けたところにも、はっきりしないところはたくさんあった。

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相談を受けた部分にも曖昧あいまいな所は沢山あった。

寺尾はやがて、

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寺尾は、やがて、

「やあ、ありがとう」

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「やあ、難有ありがとう」

と言って本をふせた。

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と云って本を伏せた。

「わからないところはどうする」

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「分らない所はどうする」

と代助が聞いた。

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と代助が聞いた。

「なに、どうかする。――誰に聞いたって、そうよくわかりゃしまい。第一、時間がないからしかたがない」

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「なにどうかする。――誰に聞いたって、そう善く分りゃしまい。第一時間がないから已を得ない」

と、寺尾は、訳のまちがいよりも暮らしのお金のほうが大事だというように、はなから決めていた。

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と、寺尾は、誤訳よりも生活費の方が大事件である如くに天から極めていた。

相談がすむと、寺尾はいつものように文学の話を持ち出した。

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相談が済むと、寺尾は例によって、文学談を持ち出した。

不思議なことに、そうなると、自分の訳のときとはちがって、いつものようにとても熱心になった。

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不思議な事に、そうなると、自己の翻訳とは違って、いつもの通り非常に熱心になった。

代助は、今の文学者が世に出す作品の中にも、寺尾の訳と同じようなものがたくさんあるだろうと考えて、寺尾のちぐはぐさをおかしく思った。

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代助は現今の文学者のおおやけにする創作のうちにも、寺尾の翻訳と同じ意味のものが沢山あるだろうと考えて、寺尾の矛盾を可笑おかしく思った。

けれども面倒だから、口には出さなかった。

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けれども面倒だから、口へは出さなかった。

寺尾のおかげで、代助はその日とうとう平岡の家へ行きそこねてしまった。

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寺尾の御蔭おかげで代助はその日とうとう平岡へ行きはぐれてしまった。

晩ご飯のとき、丸善(まるぜん。洋書を売る店)から小包が届いた。

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晩食ばんめしの時、丸善から小包が届いた。

はしを置いて開けてみると、だいぶ前に外国へ注文した二、三さつの新しい本であった。

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はしいて開けて見ると、余程前に外国へ注文した二三の新刊書であった。

代助はそれをわきの下にかかえて、書斎へ帰った。

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代助はそれをわきの下に抱え込んで、書斎へ帰った。

一さつずつ順々に取り上げて、暗い中で二、三ページ、めくるように目を通したが、どこも彼の心を引くようなところはなかった。

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一冊ずつ順々に取り上げて、暗いながら二三頁、はぐる様に眼を通したが何処どこも彼の注意をく様な所はなかった。

最後の一さつにいたっては、その名前さえもう忘れていた。

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最後の一冊に至っては、その名前さえ既に忘れていた。

そのうち読むことにしようという気で、いっしょにまとめたまま立って、本だなの上に重ねて置いた。

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いずれそのうち読む事にしようと云う考で、一所にまとめたまま、立って、本棚の上に重ねて置いた。

縁側から外を見ると、きれいな空が高い色を失いかけて、となりのあおぎりがひときわこく見える上に、うすい月が出ていた。

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縁側から外をうかがうと、奇麗な空が、高い色を失いかけて、隣の梧桐ごとう一際ひときわ濃く見える上に、薄い月が出ていた。

そこへ門野が大きなランプを持って入って来た。

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そこへ門野が大きな洋燈ランプを持って這入はいって来た。

それには絹の織物のように、たてにみぞの入った青いかさが掛けてあった。

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それには絹縮きぬちぢみの様に、たてみぞった青い笠が掛けてあった。

門野はそれをテーブルの上に置いて、また縁側へ出たが、出がけに、

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門野はそれを洋卓テーブルの上に置いて、又縁側へ出たが、出掛でがけに、

「もう、そろそろほたるが出るころですな」

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「もう、そろそろ蛍が出る時分ですな」

と言った。

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と云った。

代助はおかしな顔をして、

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代助は可笑おかしな顔をして、

「まだ出やしまい」

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「まだ出やしまい」

と答えた。

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と答えた。

すると門野はいつものように、

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すると門野は例の如く、

「そうでしょうか」

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「そうでしょうか」

という返事をしたが、すぐまじめな調子で、「ほたるってえものは、昔はだいぶはやったもんだが、近ごろはあまり文学の人が騒がないようになりましたな。どういうもんでしょう。ほたるだのからすだのって、このごろじゃまるで見たことがないくらいなもんだ」

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と云う返事をしたが、すぐ真面目な調子で、「蛍てえものは、昔は大分流行はやったもんだが、近来は余り文士方が騒がない様になりましたな。どう云うもんでしょう。蛍だのからすだのって、この頃じゃついぞ見た事がない位なもんだ」

と言った。

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と云った。

「そうさ。どういうわけだろう」

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「そうさ。どう云う訳だろう」

と代助もとぼけて、まじめに答えた。

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と代助も空っとぼけて、真面目な挨拶あいさつをした。

すると門野は、

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すると門野は、

「やはり、電灯におされて、だんだん引き下がるんでしょう」

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「やっぱり、電気燈に圧倒されて、段々退却するんでしょう」

と言い終わって、自分でえへへへとしゃれの落ちをつけて、書生部屋へ帰って行った。

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と云い終って、自から、えへへへと、洒落しゃれの結末をつけて、書生部屋へ帰って行った。

代助も続いて玄関まで出た。

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代助もつづいて玄関まで出た。

門野は振り返った。

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門野は振返た。

「またお出かけですか。いいですよ。ランプは私が気をつけますから。――おばさんがさっきからお腹が痛いってねたんですが、何、大したことはないでしょう。ごゆっくり」

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「また御出掛ですか。よござんす。洋燈はわたくしが気を付けますから。――小母さんが先刻さっきから腹が痛いって寐たんですが、何大した事はないでしょう。御緩ごゆっくり」

代助は門を出た。

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代助は門を出た。

江戸川まで来ると、川の水がもう暗くなっていた。

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江戸川まで来ると、河の水がもう暗くなっていた。

彼はもちろん平岡をたずねる気であった。

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彼はもとより平岡を訪ねる気であった。

だから、いつものように川ぞいを歩かないで、すぐ橋をわたって金剛寺坂(こんごうじざか)を上った。

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から何時もの様に川辺かわべりを伝わないで、すぐ橋を渡って、金剛寺坂を上った。

じつを言うと、代助はそれから三千代にも平岡にも二、三度会っていた。

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実を云うと、代助はそれから三千代にも平岡にも二三遍っていた。

一度は平岡からわりに長い手紙を受け取ったときであった。

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一遍は平岡から比較的長い手紙を受取った時であった。

それには、まず東京へ来てからお世話になってありがたいというお礼が書いてあった。

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それには、第一に着京以来御世話になって難有ありがたいと云う礼が述べてあった。

それから、――そのあといろいろ友人や先輩に力をかしてもらったが、近ごろある知り合いの世話で、ある新聞の経済部の主任記者にならないかとさそわれた。

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それから、――その後色々朋友ほうゆうや先輩の尽力をかたじけのうしたが、近頃ある知人の周旋で、某新聞の経済部の主任記者にならぬかとの勧誘を受けた。

自分もやってみたいような気がする。

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自分も遣ってみたい様な気がする。

しかし東京へ来たとき、君にお願いをしたこともあるから、黙って決めるのはよくないと思って、一応ご相談をする、という中身があとに書いてあった。

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しかし着京の当時君に御依頼をした事もあるから、無断ではよろしくあるまいと思って、一応御相談をすると云う意味が後に書いてあった。

代助は、あのとき平岡から兄の会社へ口をきいてくれと頼まれたのを、そのままにして断りもせず、今日まで放っておいた。

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代助は、その当時平岡から、兄の会社に周旋してくれと依頼されたのを、そのままにして、断わりもせず今日まで放って置いた。

それで、その返事をせかされたのだと受け取った。

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ので、その返事を促されたのだと受取った。

手紙一本で断るのも、あまり冷たすぎるという考えもあったので、次の日出向いて行って、いろいろ兄のほうの事情を話して、しばらくこちらはあきらめてくれるように頼んだ。

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一通の手紙で謝絶するのも、あまり冷淡過ぎると云う考もあったので、翌日出向いて行って、色々兄の方の事情を話して当分、此方は断念してくれる様に頼んだ。

平岡はそのとき、僕もたぶんそうだろうと思っていたと言って、へんな目をして三千代のほうを見た。

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平岡はその時、僕も大方そうだろうと思っていたと云って、妙な眼をして三千代の方を見た。

もう一度は、いよいよ新聞社のほうが決まったから、一晩ゆっくり君と飲みたい。

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いま一遍は、いよいよ新聞の方が極まったから、一晩緩り君と飲みたい。

何日に来てくれ、という平岡のはがきが着いたとき、あいにく都合が悪くなったからと言って、散歩のついでに断りに寄ったのである。

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何日いくかに来てくれという平岡の端書が着いた時、折あし差支さしつかえが出来たからと云って散歩のついでに断わりに寄ったのである。

そのとき、平岡は座敷の真ん中にひっくり返ってねていた。

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その時平岡は座敷の真中に引繰り返って寐ていた。

昨日の夕方どこかの会へ出て飲みすぎた結果だと言って、赤い目をしきりにこすった。

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昨夕ゆうべどこかの会へ出て、飲み過ごした結果だと云って、赤い眼をしきりにこすった。

代助を見て突然、人間はどうしても君のように独身でなけりゃ仕事はできない。

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代助を見て、突然、人間はどうしても君の様に独身でなけりゃ仕事は出来ない。

僕も一人なら満州へでもアメリカへでも行くんだが、と大いに妻を持つ不便をなげいた。

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僕も一人なら満洲まんしゅうへでも亜米利加アメリカへでも行くんだがと大いに妻帯の不便を鳴らした。

三千代はとなりの部屋で、こっそりぬい物をしていた。

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三千代は次の間で、こっそり仕事をしていた。

三度目には、平岡が会社へ出た留守をたずねた。

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三遍目には、平岡の社へ出た留守を訪ねた。

そのときは用事も何もなかった。

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その時は用事も何もなかった。

三十分ほど縁側に腰を掛けて話した。

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約三十分ばかり縁へ腰を掛けて話した。

それから後は、なるべく小石川のほうへ足を向けないことにして今夜になったのである。

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それから以後はなるべく小石川の方面へ立ち回らない事にして今夜に至ったのである。

代助は竹早町(たけはやちょう)へ上って、それを向こうへつきぬけて、二、三百メートル行くと、平岡という表札のあかりのすぐ前へ来た。

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代助は竹早たけはや町へ上って、それを向うへ突き抜けて、二三町行くと、平岡と云う軒燈のすぐ前へ来た。

こうし戸の外から声をかけると、ランプを持って下女が出た。

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格子こうしの外から声を掛けると、洋燈ランプを持って下女が出た。

が、平岡は夫婦とも留守であった。

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が平岡は夫婦とも留守であった。

代助は行き先も聞かずにすぐ引き返して、電車に乗って本郷まで来て、本郷からまた神田へ乗りかえて、そこで降りて、あるビヤホールへ入ってビールをぐいぐい飲んだ。

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代助は出先も尋ねずに、すぐ引返して、電車へ乗って、本郷まで来て、本郷から又神田へ乗り換えて、そこで降りて、あるビヤー、ホールへ這入って、麦酒ビールをぐいぐい飲んだ。

次の朝目がさめると、やはり頭の真ん中から大きさのちがう二つの丸が、頭を二重に区切っているような気持ちがした。

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翌日眼が覚めると、依然として脳の中心から、半径の違った円が、頭を二重に仕切っている様な心持がした。

こういうとき代助は、頭の内側と外側がちがう材料の細工でできあがっているとしか感じられないくせになっていた。

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こう云う時に代助は、頭の内側と外側が、質の異なった切り組み細工で出来上っているとしか感じ得られない癖になっていた。

それで、よく自分で自分の頭をふってみて、二つのものをまぜようとしたものである。

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それでく自分で自分の頭を振ってみて、二つのものを混ぜようとつとめたものである。

彼は今、まくらの上にかみをつけたまま、右の手をにぎって耳の上を二、三度たたいた。

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彼は今まくらの上へ髪を着けたなり、右の手を固めて、耳の上を二三度たたいた。

代助は、こういう頭の変な感じを酒のせいだと思ったことはなかった。

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代助はかかる脳髄の異状を以て、かつて酒のとがに帰した事はなかった。

彼は子どものときから酒に強い男であった。

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彼は小供の時から酒に量を得た男であった。

いくら飲んでも、それほどふだんと変わらなかった。

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いくら飲んでも、さ程平常を離れなかった。

それだけでなく、一度ぐっすりねむれば、あとは体に何のぐあいの悪いところも見つからなかった。

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のみならず、一度熟睡さえすれば、あとは身体からだに何の故障も認める事が出来なかった。

前に何かのはずみで兄と飲みくらべをやって、三合入りのとっくりを十三本空けたことがある。

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かつて何かのはずみに、兄とり飲みをやって、三合入の徳利とくりを十三本倒した事がある。

その次の日、代助は平気な顔をして学校へ出た。

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その翌日あくるひ代助は平気な顔をして学校へ出た。

兄は二日も頭が痛いと言ってしかめっつらをしていた。

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兄は二日も頭が痛いと云って苦り切っていた。

そうして、これを年のちがいだと言った。

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そうして、これを年齢としの違だと云った。

昨日の夕方飲んだビールはこれにくらべればたいしたことはないと、代助は頭をたたきながら考えた。

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昨夕ゆうべ飲んだ麦酒ビールはこれに比べるとおろかなものだと、代助は頭を敲きながら考えた。

幸い、代助はいくら頭が二重になっても、頭の働きがくるったことはなかった。

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幸に、代助はいくら頭が二重になっても、脳の活動にくるいを受けた事がなかった。

ときには、ただ頭を使うのが面倒になった。

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時としては、ただ頭を使うのが臆劫おっくうになった。

けれども、がんばりさえすれば十分こみいった仕事にもたえられるという自信があった。

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けれども努力さえすれば、充分複雑な仕事に堪えるという自信があった。

だから、こんなおかしさを感じても、頭のしくみが変わって心に悪いえいきょうが出るとまでは、心配する必要がなかった。

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だから、こんな異状を感じても、脳の組織の変化から、精神に悪い影響を与えるものとしては、悲観する余地がなかった。

初めてこんな感じがあったときは驚いた。

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始めて、こんな感覚があった時は驚ろいた。

二度目は、むしろ目新しい経験として喜んだ。

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二遍目はむしろ新奇な経験として喜んだ。

このごろは、この経験が多くの場合、心の元気が落ちるのといっしょに来るようになった。

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この頃は、この経験が、多くの場合に、精神気力の低落に伴う様になった。

中身のともなわないことをして暮らしているときのしるしになった。

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内容の充実しない行為を敢てして、生活する時の徴候になった。

代助にはそこがいやだった。

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代助にはそこが不愉快だった。

ふとんの上に起き上がって、彼はまた頭をふった。

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床の上に起き上がって、彼は又頭を振った。

朝ご飯のとき、門野は今朝の新聞に出ていたへびとわしの戦いのことを話しかけたが、代助は乗ってこなかった。

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朝食あさめしの時、門野は今朝の新聞に出ていた蛇とわしの戦の事を話し掛けたが、代助は応じなかった。

門野はまた始まったなと思って、茶の間を出た。

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門野は又始まったなと思って、茶の間を出た。

台所のほうで、

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勝手の方で、

「おばさん、そう働いちゃ悪いだろう。先生のおぜんは僕が洗っておくから、あちらへ行って休んでおいで」

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「小母さん、そう働らいちゃ悪いだろう。先生の膳は僕が洗って置くから、彼方あっちへ行って休んで御出おいで

とおばあさんをいたわっていた。

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と婆さんをいたわっていた。

代助は初めておばあさんの病気のことを思い出した。

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代助は始めて婆さんの病気の事を思い出した。

何かやさしい言葉でもかけるところであったが、面倒だと思ってやめにした。

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何か優しい言葉でも掛ける所であったが、面倒だと思って已めにした。

ナイフを置くとすぐ、代助は紅茶茶わんを持って書斎へ入った。

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食刀ナイフを置くやいなや、代助はすぐ紅茶茶碗ぢゃわんを持って書斎へ這入はいった。

時計を見ると、もう九時過ぎであった。

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時計を見るともう九時過であった。

しばらく庭をながめながらお茶をゆっくりすすっていると、門野が来て、

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しばらく、庭を眺めながら、茶をすすり延ばしていると、門野が来て、

「お宅からお迎えが来ました」

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「御宅から御迎おむかいが参りました」

と言った。

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と云った。

代助は家から迎えを受ける覚えがなかった。

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代助はうちから迎を受けるおぼえがなかった。

聞き返してみても、門野は車引きがとか何とかはっきりしないことを言うので、代助は頭をふりふり玄関へ出てみた。

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聞き返してみても、門野は車夫がとか何とか要領を得ない事を云うので、代助は頭を振り振り玄関へ出てみた。

すると、そこに兄の車を引く勝(かつ)というのがいた。

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すると、そこに兄の車を引くかつと云うのがいた。

ちゃんとゴム輪の車を玄関へ横づけにして、ていねいにおじぎをした。

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ちゃんと、護謨輪ゴムわの車を玄関へ横付にして、叮嚀ていねいに御辞義をした。

「勝、お迎えって何だい」

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「勝、御迎って何だい」

と聞くと、勝はおそれ入ったようすで、

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と聞くと、勝は恐縮の態度で、

「奥様が車を持って迎えに行って来いっておっしゃいました」

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「奥様が車を持って、迎に行って来いって、御仰おっしゃいました」

「何か急な用でもできたのかい」

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「何か急用でも出来たのかい」

勝はもちろん何も知らなかった。

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勝は固より何事も知らなかった。

「おいでになればわかるからって――」

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「御出になれば分るからって――」

と短く答えて、言葉の終わりを言わなかった。

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と簡潔に答えて、言葉のしりを結ばなかった。

代助は奥へ入った。

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代助は奥へ這入った。

おばあさんを呼んで着物を出させようと思ったが、お腹の痛い人を使うのがいやなので、自分でたんすの引き出しをかき回して、急いで身じたくをして、勝の車に乗って出た。

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婆さんを呼んで着物を出させようと思ったが、腹の痛むものを使うのがいやなので、自分で箪笥たんす抽出ひきだしき回して、急いで身支度をして、勝の車に乗って出た。

その日は風が強くふいた。

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その日は風が強く吹いた。

勝は苦しそうに、前のほうへかがんで走った。

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勝は苦しそうに、前の方にこごんでけた。

乗っていた代助は、二重の頭がぐるぐる回るほど風にふかれた。

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乗っていた代助は、二重の頭がぐるぐる回転するほど、風に吹かれた。

けれども、音もひびきもない車輪が美しく動いて、ぼんやりした自分を半分ねむったまま宙に運んで行くようすが気持ちよかった。

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けれども、音も響もない車輪が美くしく動いて、意識に乏しい自分を、半睡の状態で宙に運んで行く有様が愉快であった。

青山の家へ着くころには、起きたころとはちがって、気分がだいぶ晴れ晴れして来た。

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青山のうちへ着く時分には、起きた頃とは違って、気色が余程晴々せいせいして来た。

何かあったのかと思って、上がりぎわに書生部屋をのぞいてみたら、直木と誠太郎がたった二人で、白砂糖を振りかけたいちごを食べていた。

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何か事が起ったのかと思って、上り掛けに、書生部屋をのぞいてみたら、直木と誠太郎がたった二人で、白砂糖を振り掛けたいちごを食っていた。

「やあ、ごちそうだな」

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「やあ、御馳走ごちそうだな」

と言うと、直木はすぐすわり直してあいさつをした。

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と云うと、直木は、すぐ居ずまいを直して、挨拶をした。

誠太郎はくちびるのふちをぬらしたまま、突然、

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誠太郎は唇のふちらしたまま、突然、

「おじさん、奥さんはいつもらうんですか」

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「叔父さん、奥さんは何時もらうんですか」

と聞いた。

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と聞いた。

直木はにやにやしている。

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直木はにやにやしている。

代助はちょっと答えに困った。

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代助は一寸ちょっと返答に窮した。

しかたなく、

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やむを得ず、

「今日はなぜ学校へ行かないんだ。そうして朝っぱらからいちごなんぞを食って」

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「今日は何故なぜ学校へ行かないんだ。そうして朝っ腹から苺なんぞを食って」

と、からかうように、しかるように言った。

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調戯からかう様に、しかる様に云った。

「だって今日は日曜じゃありませんか」

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「だって今日は日曜じゃありませんか」

と誠太郎はまじめになった。

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と誠太郎は真面目まじめになった。

「おや、日曜か」

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「おや、日曜か」

と代助は驚いた。

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と代助は驚ろいた。

直木は代助の顔を見て、とうとう笑い出した。

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直木は代助の顔を見てとうとう笑い出した。

代助も笑って、座敷へ来た。

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代助も笑って、座敷へ来た。

そこには誰もいなかった。

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そこには誰も居なかった。

かえたばかりのたたみの上に、丸いしたん(かたい高級な木)のくりぬきぼんが一つ出ていて、中に置いた湯のみには、京都の浅井黙語(あさいもくご)の絵の模様が焼きつけてあった。

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替え立ての畳の上に、丸い紫檀したん刳抜盆くりぬきぼんが一つ出ていて、中に置いた湯呑ゆのみには、京都の浅井黙語あさいもくごの模様画が染め付けてあった。

がらんとした広い座敷へ朝の緑が庭からさしこんで、すべてが静かに見えた。

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からんとした広い座敷へ朝の緑が庭からし込んで、すべてが静かに見えた。

外の風は急に落ちたように思われた。

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戸外そとの風は急に落ちた様に思われた。

座敷を通りぬけて兄の部屋のほうへ来たら、人の気配がした。

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座敷を通り抜けて、兄の部屋の方へ来たら、人の影がした。

「あら、だって、それじゃあんまりだわ」

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「あら、だって、それじゃあんまりだわ」

という兄の妻の声が聞こえた。

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と云うあによめの声が聞えた。

代助は中へ入った。

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代助は中へ這入った。

中には兄と兄の妻と縫子がいた。

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中には兄と嫂と縫子がいた。

兄は角帯(かくおび)に金のくさりを巻きつけて、近ごろはやるへんなうすもののはおりを着て、こちらを向いて立っていた。

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兄は角帯に金鎖を巻き付けて、近頃流行はやる妙なの羽織を着て、此方こちらを向いて立っていた。

代助のすがたを見て、

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代助の姿を見て、

「そら来た。ね。だから、いっしょに連れて行ってもらいよ」

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「そら来た。ね。だから一所に連れて行って御貰おもらいよ」

と梅子に話しかけた。

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と梅子に話しかけた。

代助には何のことだか、もちろんわからなかった。

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代助には何の意味だか固より分らなかった。

すると、梅子が代助のほうに向き直った。

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すると、梅子が代助の方に向き直った。

「代さん、今日あなた、もちろんひまでしょう」

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「代さん、今日貴方あなた、無論暇でしょう」

と言った。

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と云った。

「ええ、まあひまです」

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「ええ、まあ暇です」

と代助は答えた。

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と代助は答えた。

「じゃ、いっしょに歌舞伎座へ行ってちょうだい」

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「じゃ、一所に歌舞伎座へ行って頂戴ちょうだい

代助は兄の妻のこの言葉を聞いて、頭の中ですぐにこっけいだと感じた。

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代助は嫂のこの言葉を聞いて、頭の中に、たちまち一種の滑稽こっけいを感じた。

けれども今日は、いつものように兄の妻をからかう元気がなかった。

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けれども今日は平常いつもの様に、嫂に調戯からかう勇気がなかった。

面倒だから、平気な顔をして、

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面倒だから、平気な顔をして、

「ええいいですよ、行きましょう」

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「ええ宜しい、行きましょう」

ときげんよく答えた。

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と機嫌よく答えた。

すると梅子は、

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すると梅子は、

「だって、あなたはもう一度観たって言うんじゃありませんか」

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「だって、貴方は、最早もう、一遍観たって云うんじゃありませんか」

と聞き返した。

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と聞き返した。

「一度だろうが二度だろうが、少しもかまわない。行きましょう」

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「一遍だろうが、二遍だろうが、ちっとも構わない。行きましょう」

と代助は梅子を見てほほえんだ。

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と代助は梅子を見て微笑した。

「あなたもよほど遊び好きね」

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「貴方も余っ程道楽ものね」

と梅子が言った。

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と梅子が評した。

代助はますますこっけいに思った。

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代助はますます滑稽を感じた。

兄は用があると言って、すぐ出て行った。

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兄は用があると云って、すぐ出て行った。

四時ごろ用がすんだら芝居のほうへ回る約束なのだそうである。

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四時頃用が済んだら芝居の方へ回る約束なんだそうである。

それまで自分と縫子だけで見ていたらよさそうなものだが、梅子はそれがいやだと言った。

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それまで自分と縫子だけで見ていたら好さそうなものだが、梅子はそれが厭だと云った。

それなら直木を連れて行けと兄から言われたとき、直木はこんがすりを着てはかまをはいて、かたくるしくすわっていていけないと答えた。

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そんなら直木を連れて行けと兄から注意された時、直木は紺絣こんがすりを着て、はかま穿いて、むずかしく坐っていて不可いけないと答えた。

それでしかたがないから代助を迎えにやったのだ、と、これは兄の出がけの説明であった。

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それで仕方がないから代助を迎いにったのだ、と、これは兄が出掛の説明であった。

代助は少しすじが通らないと思ったが、ただ、そうですかと答えた。

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代助は少々理窟りくつに合わないと思ったが、ただ、そうですかと答えた。

そうして、兄の妻はまくあいに話し相手がほしいのと、それからいざというときにいろいろ用を言いつけたいものだから、わざわざ自分を呼び寄せたにちがいないと考えた。

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そうして、嫂は幕の合間に話し相手がほしいのと、それからいざと云う時に、色々用を云い付けたいものだから、わざわざ自分を呼び寄せたに違ないと解釈した。

梅子と縫子は、長い時間をお化粧に使った。

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梅子と縫子は長い時間を御化粧に費やした。

代助はのんびりお化粧の見張り役になって、二人のそばについていた。

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代助はこんよく御化粧の監督者になって、両人ふたりそばに附いていた。

そうしてときどきは、おもしろ半分のからかいも言った。

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そうして時々は、面白半分の冷かしも云った。

縫子からは、おじさんずいぶんだわ、を二、三度くり返された。

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縫子からは叔父さん随分だわを二三度繰り返された。

父は今朝早くから出て、家にいなかった。

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父は今朝早くから出て、家にいなかった。

どこへ行ったのだか、兄の妻は知らないと言った。

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何処へ行ったのだか、嫂は知らないと云った。

代助はとくに知りたい気もなかった。

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代助は別に知りたい気もなかった。

ただ、父がいないのがありがたかった。

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ただ父のいないのが難有ありがたかった。

この間会ってから、代助は父とはたった二度ほどしか顔を合わせなかった。

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この間の会見以後、代助は父とはたった二度程しか顔を合せなかった。

それも、ほんの十分か十五分にすぎなかった。

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それも、ほんの十分か十五分に過ぎなかった。

話がこみいりそうになると、急にていねいにおじぎをして立つのをいつものやり方にしていた。

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話が込み入りそうになると、急に叮嚀な御辞義をして立つのを例にしていた。

父は座敷のほうへ出て来て、どうも代助は近ごろ少しも落ち着いてすわらなくなった。

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父は座敷の方へ出て来て、どうも代助は近頃少しも尻が落ち付かなくなった。

おれの顔さえ見れば帰るしたくをすると言っておこった。

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おれの顔さえ見れば逃げ仕度をすると云って怒った。

と、兄の妻は鏡の前で夏帯の後ろをなでながら代助に話した。

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と嫂は鏡の前で夏帯の尻をでながら代助に話した。

「ひどく信用をなくしたもんだな」

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「ひどく、信用を落したもんだな」

代助はこう言って、兄の妻と縫子のかさを持って一足先に玄関へ出た。

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代助はこう云って、嫂と縫子の蝙蝠傘こうもりがさを提げて一足先へ玄関へ出た。

車はそこに三台ならんでいた。

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車はそこに三挺ちょうならんでいた。

代助は風をきらって、鳥打ちぼうしをかぶっていた。

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代助は風を恐れて鳥打帽をかぶっていた。

風はようやくやんで、強い日が雲の切れ間から頭の上を照らした。

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風はようやんで、強い日が雲の隙間すきまから頭の上を照らした。

先へ行く梅子と縫子はかさを広げた。

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先へ行く梅子と縫子は傘を広げた。

代助はときどき、手の甲をひたいの前にかざした。

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代助は時々手の甲を額の前にかざした。

芝居の中では、兄の妻も縫子もとても熱心なお客であった。

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芝居の中では、嫂も縫子も非常に熱心な観客けんぶつであった。

代助は二度目のせいといい、この三、四日の頭の具合といい、そう一心に舞台ばかりに気を取られているわけにもいかなかった。

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代助は二返目の所為せいといい、この三四日来の脳の状態からと云い、そう一図に舞台ばかりに気を取られている訳にも行かなかった。

たえず心に重苦しい暑さを感じるので、たびたびうちわを手にして、風をえりから頭へ送っていた。

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絶えず精神に重苦しいあつさを感ずるので、しばしば団扇うちわを手にして、風を襟から頭へ送っていた。

まくあいに、縫子が代助のほうを向いてときどきへんなことを聞いた。

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幕の合間に縫子が代助の方を向いて時々妙な事を聞いた。

なぜあの人はたらいで酒を飲むんだとか、なぜお坊さんが急に大将になれるんだとか、たいてい説明のできない質問ばかりであった。

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何故あの人はたらいで酒を飲むんだとか、何故坊さんが急に大将になれるんだとか、大抵説明の出来ない質問のみであった。

梅子はそれを聞くたびに笑っていた。

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梅子はそれを聞くたんびに笑っていた。

代助はふと、二、三日前に新聞で見たある文学者の芝居の批評を思い出した。

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代助は不図二三日にさんち前新聞で見た、ある文学者の劇評を思い出した。

それには、日本の芝居の台本はあまりに思いがけない筋が多いので、楽に見物ができないと書いてあった。

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それには、日本の脚本が、あまりに突飛な筋に富んでいるので、楽に見物が出来ないと書いてあった。

代助はそのとき、役者の立場から考えて、何もそんな人に見てもらう必要はあるまいと思った。

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代助はその時、役者の立場から考えて、何もそんな人に見て貰う必要はあるまいと思った。

作者に言うべき文句を役者のほうへ持ってくるのは、近松(ちかまつ)の作品を知るために越路(こしじ)の語りが聞きたいというおろか者と同じことだと言って、門野に話した。

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作者に云うべき小言を、役者の方へ持ってくるのは、近松の作を知るために、越路こしじ浄瑠璃じょうるりが聴きたいと云う愚物と同じ事だと云って門野に話した。

門野はやはり、そんなものでしょうかな、と言っていた。

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門野は依然として、そんなもんでしょうかなと云っていた。

子どものころから日本の昔からの芝居を見慣れた代助は、もちろん梅子と同じように、すなおに芸を楽しむ人であった。

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小供のうちから日本在来の芝居を見慣れた代助は、無論梅子と同じ様に、単純なる芸術の鑑賞家であった。

そうして、舞台での芸術の意味を、役者のうでまえについてだけ使うべきものだとせまく考えていた。

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そうして舞台にける芸術の意味を、役者の手腕に就てのみ用いべきものと狭義に解釈していた。

だから、梅子とはとても話が合った。

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だから梅子とは大いに話が合った。

ときどき顔を見合わせて、くろうとのような批評をし合って、おたがいに感心していた。

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時々顔を見合して、黒人くろうとの様な批評を加えて、互に感心していた。

けれども、だいたいにおいて舞台にはもうあきが来ていた。

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けれども、大体に於て、舞台にはもうあきが来ていた。

まくのとちゅうでも、双眼鏡であちらを見たり、こちらを見たりしていた。

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幕の途中でも、双眼鏡で、彼方あっちを見たり、此方こっちを見たりしていた。

双眼鏡の向こうには、芸者がたくさんいた。

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双眼鏡の向う所には芸者が沢山いた。

その中には、向こうでも眼鏡の先をこちらへ向けている者もいた。

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そのあるものは、先方むこうでも眼鏡の先を此方へ向けていた。

代助の右どなりには、自分と同じくらいの年の男が、丸まげに結った美しい奥さんを連れて来ていた。

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代助の右隣には自分と同年輩の男が丸髷まるまげった美くしい細君を連れて来ていた。

代助はその奥さんの横顔を見て、自分の知り合いのある芸者によく似ていると思った。

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代助はその細君の横顔を見て、自分の近付のある芸者によく似ていると思った。

左どなりには、男連れが四人ばかりいた。

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左隣には男連が四人よったりばかりいた。

そうして、それが全員博士であった。

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そうして、それが、ことごと博士はかせであった。

代助はその顔を一人ずつ覚えていた。

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代助はその顔を一々覚えていた。

そのまたとなりに、広いところをたった二人で使っている者があった。

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その又隣に、広い所をたった二人で専領しているものがあった。

その一人は兄と同じくらいの年かっこうで、きちんとした洋服を着ていた。

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その一人は、兄と同じ位な年恰好かっこうで、正しい洋服を着ていた。

そうして金ぶちの眼鏡を掛けて、物を見るときにはあごを前へ出して、少し上を向くくせがあった。

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そうして金縁の眼鏡を掛けて、物を見るときには、あごを前へ出して、心持仰向く癖があった。

代助はこの男を見たとき、どこか見覚えのあるような気がした。

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代助はこの男を見たとき、何所どこか見覚のある様な気がした。

が、けっきょく思い出そうとしてもみなかった。

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が、ついに思い出そうとつとめてもみなかった。

その連れは若い女であった。

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その伴侶つれは若い女であった。

代助は、まだ二十にはならないだろうと思った。

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代助はまだ二十はたちになるまいと判定した。

はおりを着ないで、ふつうより大きくかみを前に張り出して、たいていはあごをえりもとにぴたりとつけてすわっていた。

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羽織を着ないで、普通よりは大きくひさしを出して、多くは顎を襟元へぴたりと着けて坐っていた。

代助は苦しいので、何度も席を立って後ろのろうかへ出て、せまい空を見上げた。

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代助は苦しいので、何返も席を立って、後の廊下へ出て、狭い空を仰いだ。

兄が来たら、兄の妻と縫子をわたして早く帰りたいくらいに思った。

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兄が来たら、嫂と縫子を引き渡して早く帰りたい位に思った。

一度は縫子を連れて、そこらをぐるぐる歩き回った。

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一遍は縫子を連れて、其所等そこいらをぐるぐる運動して歩いた。

しまいには少し酒でも取り寄せて飲もうかと思った。

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仕舞にはと酒でも取り寄せて飲もうかと思った。

兄は日暮れとほとんど同時に来た。

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兄は日暮ひくれとすれすれに来た。

たいへん遅かったじゃありませんかと言ったとき、帯の間から金時計を出して見せた。

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大変遅かったじゃありませんかと云った時、帯の間から、金時計を出して見せた。

実際、六時を少し回ったばかりであった。

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実際六時少し回ったばかりであった。

兄はいつものように平気な顔をして、あちこち見回していた。

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兄は例のごとく、平気な顔をして、方々見回していた。

が、ご飯を食べるとき、立ってろうかへ出たきり、なかなか帰って来なかった。

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が、飯を食う時、立って廊下へ出たぎり、中々帰って来なかった。

しばらくして、代助がふと振り返ったら、一つおいてとなりの金ぶち眼鏡を掛けた男のところへ入って、話をしていた。

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しばらくして、代助が不図ふと振り返ったら、一軒置いて隣りの金縁の眼鏡を掛けた男の所へ這入って、話をしていた。

若い女にもときどき話しかけるようであった。

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若い女にも時々話しかける様であった。

しかし女のほうでは、笑い顔をちょっと見せるだけで、すぐ舞台のほうへまじめに向き直った。

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しかし女の方では笑い顔を一寸見せるだけで、すぐ舞台の方へ真面目に向き直った。

代助は兄の妻にその人の名を聞こうと思ったが、兄は人の集まるところへさえ出れば、どこへでもこんなふうに平気で入りこむほど顔が広い、また世の中を自分の家のように思っている男であるから、気にもかけずに黙っていた。

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代助は嫂にその人の名を聞こうと思ったが、兄は人の集る所へさえ出れば、何所へでもかくの如く平気に這入り込む程、世間の広い、又世間を自分のいえの様に心得ている男であるから、気にも掛けずに黙っていた。

すると幕の切れ目に、兄が入り口まで帰って来て、代助ちょっと来いと言いながら、代助をその金ぶちの男の席へ連れて行って、おろかな弟ですと紹介した。

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すると幕の切れ目に、兄が入口まで帰って来て、代助一寸来いと云いながら、代助をその金縁の男の席へ連れて行って、愚弟だと紹介した。

それから代助には、これが神戸の高木さんだと言って引き合わせた。

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それから代助には、これが神戸の高木さんだと云って引合した。

金ぶちの紳士は若い女を振り返って、私のめいですと言った。

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金縁の紳士は、若い女を顧みて、私のめいですと云った。

女はしとやかにおじぎをした。

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女はしとやかに御辞義をした。

そのとき、兄が佐川さんのお嬢さんだと言いそえた。

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その時兄が、佐川さんの令嬢だと口を添えた。

代助は女の名を聞いたとき、うまくはめられたと腹の中で思った。

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代助は女の名を聞いたとき、うまく掛けられたと腹の中で思った。

が、何も知らない者のようなふりをして、いいかげんに話していた。

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が何事も知らぬものの如くよそおって、好加減に話していた。

すると兄の妻が、ちょっと自分のほうを振り向いた。

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すると嫂が一寸自分の方を振り向いた。

五、六分して、代助は兄といっしょに自分の席に帰った。

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五六分して、代助は兄と共に自分の席に返った。

佐川の娘を紹介されるまでは、兄が来しだい逃げる気であったが、今ではそうもいかなくなった。

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佐川の娘を紹介されるまでは、兄の見え次第逃げる気であったが、今ではそう不可いかなくなった。

あまり調子よく見えては、かえって悪い結果になりそうな気がしたので、苦しいのをがまんしてすわっていた。

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余り現金に見えては、かえって好くない結果を引き起しそうな気がしたので、苦しいのを我慢して坐っていた。

兄も芝居にはまったく興味がなさそうだったけれども、いつものようにおっとりかまえて、黒い頭がけむるほど葉巻をふかした。

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兄も芝居に就ては全たく興味がなさそうだったけれども、例の如く鷹揚おうように構えて、黒い頭をいぶす程、葉巻をくゆらした。

ときどき言うのは、縫子、あの幕はきれいだろう、くらいのところであった。

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時々評をすると、縫子あの幕は綺麗きれいだろう位の所であった。

梅子はいつもの知りたがりに似ず、高木についても佐川の娘についても、何も聞かず、一言の批評も言わなかった。

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梅子は平生の好奇心にも似ず、高木に就ても、佐川の娘に就ても、何等の質問を掛けず、一言いちごんの批評も加えなかった。

代助には、そのすました顔がかえってこっけいに思われた。

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代助にはその澄した様子が却って滑稽に思われた。

彼は今日まで、兄の妻のたくらみにはまったことがときどきあった。

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彼は今日まで嫂の策略にかかった事が時々あった。

けれども、ただの一度も腹を立てたことはなかった。

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けれども、只の一返も腹を立てた事はなかった。

今度の仕組んだ芝居も、ふだんならたいくつしのぎの遊びくらいに受け取って、笑ってしまったかも知れない。

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今度の狂言も、平生ならば、退屈紛らしの遊戯程度に解釈して、笑ってしまったかも知れない。

それだけではない。

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そればかりではない。

もし自分が結婚する気なら、かえってこの仕組みを使って、自分でわざとめでたい喜劇を作り上げて、一生自分をあざ笑って満足することもできた。

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もし自分が結婚する気なら、却って、この狂言を利用して、自ら人巧的に、御目出度おめでたい喜劇を作り上げて、生涯自分をあざけって満足する事も出来た。

しかし、この姉までが今の自分を、父や兄といっしょになってだんだん追いつめて行くのかと思うと、さすがにこのしぐさをただのこっけいとして見ているわけにはいかなかった。

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然しこの姉までが、今の自分を、父や兄と共謀して、漸々ぜんぜん窮地にいざなって行くかと思うと、さすがにこの所作をただの滑稽として、観察する訳には行かなかった。

代助は、この先兄の妻がこのことをどう進める気だろうと考えて、少し弱った。

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代助はこの先、嫂がこの事件をどう発展させる気だろうと考えて、少々弱った。

家の者の中で、兄の妻がいちばんこんな計画に興味を持っていたからである。

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うちのものの中で、嫂が一番こんな計画に興味をもっていたからである。

もし兄の妻がこの方面から代助にせまればせまるほど、代助はだんだん家族と遠くならなければならないという心配が、代助の頭のどこかにひそんでいた。

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もし嫂がこの方面に向って代助に肉薄すればする程、代助は漸々家族のものと疎遠そえんにならなければならぬと云う恐れが、代助の頭の何処どこかに潜んでいた。

芝居が終わったのは十一時近くであった。

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芝居の仕舞になったのは十一時近くであった。

外へ出てみると、風はまったくやんだが、月も星も見えない静かな晩を、電灯が少しばかり照らしていた。

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外へ出て見ると、風は全くんだが、月も星も見えない静かな晩を、電燈が少しばかり照らしていた。

時間が遅いので、茶屋では話をするひまもなかった。

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時間が遅いので茶屋では話をする暇もなかった。

三人の迎えは来ていたが、代助はつい車を頼んでおくのを忘れた。

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三人のむかいは来ていたが、代助はつい車をあつらえて置くのを忘れた。

面倒だと思って、兄の妻のすすめをことわって、茶屋の前から電車に乗った。

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面倒だと思って、嫂のすすめしりぞけて、茶屋の前から電車に乗った。

数寄屋橋(すきやばし)で乗りかえようと思って、暗い道の中で待っていると、子どもをおぶったおかみさんがだるそうに向こうから近づいて来た。

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数寄屋橋すきやばしで乗りえ様と思って、黒いみちの中に、待ち合わしていると、小供をおぶった神さんが、退儀そうに向うから近寄って来た。

電車は向こう側を二、三度通った。

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電車は向う側を二三度通った。

代助と線路の間には、土か石を積んだものが高い土手のようにはさまっていた。

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代助と軌道レールの間には、土か石の積んだものが、高い土手の様に挟まっていた。

代助は初めて、まちがったところに立っていることに気づいた。

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代助は始めて間違った所に立っている事を悟った。

「おかみさん、電車に乗るなら、ここじゃいけない。向こう側だ」

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「御神さん、電車へ乗るなら、此所ここじゃ不可いけない。向側だ」

と教えながら歩き出した。

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と教えながら歩き出した。

おかみさんはお礼を言ってついて来た。

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神さんは礼を云っていて来た。

代助は手さぐりでもするように、暗いところをいいかげんに歩いた。

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代助は手探てさぐりでもする様に、暗い所を好加減に歩いた。

三十メートルほど左のほうへ、お堀ばたを目印に出たら、ようやく停留所の柱が見つかった。

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十四五間左の方へ濠際ほりぎわ目標めあてに出たら、漸く停留所の柱が見付った。

おかみさんはそこで、神田橋のほうへ向かう電車に乗った。

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神さんは其所そこで、神田橋の方へ向いて乗った。

代助はたった一人、反対の赤坂行きに乗った。

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代助はたった一人反対の赤坂行へ這入った。

車の中では、ねむくてねられないような気がした。

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車の中では、眠くてられない様な気がした。

ゆられながらも、今夜ねむれるかどうかが気になった。

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揺られながらも今夜の睡眠が苦になった。

彼はとてもつかれて、昼間のすべてにだるさを感じるのに、わけのわからない何かの高ぶりのために、静かな夜を思うようにできないことがよくあった。

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彼は大いに疲労して、白昼の凡てに、惰気を催おすにもかかわらず、知られざる何物かの興奮の為に、静かな夜をほしいままにする事が出来ない事がよくあった。

彼の頭の中には、今日の日中に代わる代わるあとを残した色が、前後の時も形のちがいも忘れて、一度にちらついていた。

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彼の脳裏には、今日の日中に、かわがわあとを残した色彩が、時の前後と形の差別を忘れて、一度に散らついていた。

そうして、それが何の色であるか、何の動きであるか、はっきりとはわからなかった。

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そうして、それが何の色彩であるか、何の運動であるかたしかにわからなかった。

彼は目を閉じて、家へ帰ったらまたウイスキーの力を借りようと決めた。

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彼は眼をねむって、家へ帰ったら、又ウイスキーの力を借りようと覚悟した。

彼はこのとりとめのないはなやかな色の照り返しとして、三千代のことを思い出さずにはいられなかった。

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彼はこの取り留めのない花やかな色調の反照として、三千代の事を思い出さざるを得なかった。

そうして、そこに自分が落ち着ける場所を見つけたような気がした。

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そうして其所にわが安住の地を見出みいだした様な気がした。

けれども、その落ち着ける場所ははっきりと彼の目に見えては来なかった。

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けれどもその安住の地は、明らかには、彼の眼に映じて出なかった。

ただ、彼の心ぜんたいの調子でそれを感じただけであった。

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ただ、かれの心の調子全体で、それを認めただけであった。

だから彼は、三千代の顔や、ようすや、言葉や、夫婦の間がらや、病気や、身の上を一まとめにしたものを、自分の気分にぴったり合うものとして見つけたにすぎなかった。

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従って彼は三千代の顔や、容子ようすや、言葉や、夫婦の関係や、病気や、身分を一纏ひとまとめにしたものを、わが情調にしっくり合う対象として、発見したに過ぎなかった。

次の日、代助は但馬(たじま)にいる友人から長い手紙を受け取った。

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翌日代助は但馬たじまにいる友人から長い手紙を受取った。

この友人は学校を卒業するとすぐ国へ帰ったきり、今日まで一度も東京へ出たことのない男であった。

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この友人は学校を卒業すると、すぐ国へ帰ったぎり、今日までついぞ東京へ出た事のない男であった。

本人はもちろん山の中で暮らす気はなかったのだが、親の言いつけでしかたなく、ふるさとにとじこめられてしまったのである。

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当人は無論山の中で暮す気はなかったんだが、親の命令でやむを得ず、故郷に封じ込められてしまったのである。

それでも一年ばかりの間は、もう一度父を説きふせて東京へ出る出ると言って、うるさいほど手紙をよこしたが、このごろはようやくあきらめたと見えて、大した不満も言わなくなった。

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それでも一年ばかりの間は、もう一返親父を説き付けて、東京へ出る出ると云って、うるさい程手紙を寄こしたが、この頃は漸く断念したと見えて、大した不平がましいうったえもしない様になった。

家はその土地の古い家がらで、先祖から受けついだ山林を毎年切り出すのが主な仕事になっているとのことであった。

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家は所の旧家で、先祖から持ち伝えた山林を年々り出すのが、おもな用事になっているよしであった。

今度の手紙には、彼の毎日の暮らしのようすが細かく書いてあった。

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今度の手紙には、彼の日常生活の模様がくわしく書いてあった。

それから、一か月前に町長に選ばれて、年に三百円もらう身分になったことを、おもしろ半分、わざとまじめな口ぶりで自慢して来た。

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それから、一カ月前町長に挙げられて、年俸を三百円頂戴する身分になった事を、面白半分、殊更ことさらに真面目な句調で吹聴ふいちょうして来た。

卒業してすぐ中学の教師になっても、この三倍はもらえると、自分とほかの友人とをくらべて書いてあった。

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卒業してすぐ中学の教師になっても、この三倍はもらえると、自分と他の友人との比較がしてあった。

この友人は国へ帰ってから一年ほどして、京都のいなかのある金持ちの家から嫁をもらった。

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この友人は国へ帰ってから、約一年ばかりして、京都在のある財産家から嫁を貰った。

それはもちろん親の言いつけであった。

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それは無論親の云い付であった。

すると、しばらくしてすぐ子どもが生まれた。

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すると、少時しばらくして、すぐ子供が生れた。

妻のことはもらったとき以外には何も言って来ないが、子どもの育つのには興味があると見えて、ときどき代助がおかしくなるような知らせをした。

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女房の事は貰った時より外に何も云って来ないが、子供の生長おいたちには興味があると見えて、時々代助が可笑おかしくなる様な報知をした。

代助はそれを読むたびに、この子どもに満足している友人の暮らしを想像した。

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代助はそれを読むたびに、この子供に対して、満足しつつある友人の生活を想像した。

そうして、この子どものために、彼の妻についての気持ちがもらったころにくらべてどのくらい変わったかを考えてみた。

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そうして、この子供の為に、彼の細君に対する感想が、貰った当時に比べて、どの位変化したかを疑った。

友人はときどき、あゆの干したのやかきの干したのを送ってくれた。

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友人は時々あゆの乾したのや、柿の乾したのを送ってくれた。

代助はそのお返しに、たいていは新しい西洋の文学の本をやった。

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代助はその返礼に大概は新らしい西洋の文学書を遣った。

すると、その返事には、それをおもしろく読んだ証拠になるような感想がかならずあった。

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するとその返事には、それを面白く読んだ証拠になる様な批評がきっとあった。

けれども、それは長くは続かなかった。

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けれども、それが長くは続かなかった。

しまいには、受け取ったというお礼の手紙さえよこさなかった。

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仕舞には受取ったと云う礼状さえ寄こさなかった。

こちらからわざわざ問い合わせると、本はありがたく受け取った。

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此方こっちからわざわざ問い合せると、書物は難有ありがたく頂戴した。

読んでからお礼を言おうと思って、つい遅くなった。

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読んでから礼を云おうと思って、つい遅くなった。

じつはまだ読まない。

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実はまだ読まない。

白状すると、読むひまがないというより、読む気がしないのである。

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白状すると、読むひまがないと云うより、読む気がしないのである。

もっとはっきり言えば、読んでもわからなくなったのである。

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もう一層露骨に云えば、読んでも解らなくなったのである。

という返事が来た。

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という返事が来た。

代助はそれから本を送るのをやめて、そのかわりに新しいおもちゃを買って送ることにした。

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代助はそれから書物をめて、その代りに新らしい玩具おもちゃを買って送る事にした。

代助は友人の手紙をふうとうに入れて、自分と同じ考え方を持っていたこの古い友が、あのころとはまるで反対の考えとおこないに動かされて、暮らしの音色を出しているという事実をしみじみ感じた。

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代助は友人の手紙を封筒に入れて、自分と同じ傾向をっていたこの旧友が、当時とはまるで反対の思想と行動とに支配されて、生活の音色を出していると云う事実を、切に感じた。

そうして、命のげんのふるえから出る二人のひびきをこまかくくらべた。

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そうして、命のいとの震動から出る二人の響をつまびらかに比較した。

彼は理屈で考える人として、友人の結婚を正しいと認めた。

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彼は理論家セオリストとして、友人の結婚をうけがった。

山の中に住んで、木や谷を相手にしている者は、親の決めたとおりの妻をむかえて、安全な結果を得るのが自然のきまりだと考えたからである。

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山の中に住んで、樹や谷を相手にしているものは、親の取り極めた通りの妻を迎えて、安全な結果を得るのが自然の通則と心得たからである。

彼は同じ理屈で、どんな意味の結婚も都会の人には不幸をもたらすものと決めつけた。

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彼は同じ論法で、あらゆる意味の結婚が、都会人士には、不幸を持ちきたすものと断定した。

そのわけを言えば、都会は人間の展覧会にすぎないからであった。

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その原因を云えば、都会は人間の展覧会に過ぎないからであった。

彼はこの前置きからこの答えにたどり着くために、こういう道すじをたどった。

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彼はこの前提からこの結論に達するためにこう云う径路を辿たどった。

彼は体と心の両方に美しさの種類があると考える男であった。

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彼は肉体と精神に於て美の類別を認める男であった。

そうして、あらゆる美しさに出会う機会を持てるのが、都会の人の特権であると考えた。

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そうして、あらゆる美の種類に接触する機会を得るのが、都会人士の権能であると考えた。

あらゆる美しさに出会って、そのたびに甲から乙へ気を移し、乙から丙へ心を動かさない者は、感じる力の乏しい、味わうことのできない者だと決めつけた。

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あらゆる美の種類に接触して、そのたびごとに、甲から乙に気を移し、乙から丙に心を動かさぬものは、感受性に乏しい無鑑賞家であると断定した。

彼はこれを自分の経験に照らして、まちがいのない本当のことだと信じた。

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彼はこれを自家の経験に徴して争うべからざる真理と信じた。

その本当のことから出発して、都会ふうの暮らしをするすべての男女は、たがいに引かれ合う力において、そのときどきの縁と場合により、思いがけない変わり方をしているという答えにたどり着いた。

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その真理から出立しゅったつして、都会的生活を送るすべての男女なんにょは、両性間の引力アットラクションおいて、悉く随縁臨機に、測りがたき変化を受けつつあるとの結論に到着した。

それを広げると、結婚した二人は両方とも、世間でいう不義の思いにおかされて、過去から生まれた不幸をいつもなめなければならないことになった。

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それを引き延ばすと、既婚の一対いっついは、双方ともに、流俗に所謂いわゆる不義インフィデリチの念に冒されて、過去から生じた不幸を、始終めなければならない事になった。

代助は、感じる力がいちばん育っていて、しかも出会いがいちばん自由な都会の人の代表として、芸者を選んだ。

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代助は、感受性のもっとも発達した、又接触点の尤も自由な、都会人士の代表者として、芸妓げいしゃを選んだ。

彼女たちのある者は、一生に恋人を何人取りかえるかわからないではないか。

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彼等のあるものは、生涯に情夫を何人取り替えるか分らないではないか。

ふつうの都会の人は、それより少ない程度で、みんな芸者ではないか。

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普通の都会人は、より少なき程度に於て、みんな芸妓ではないか。

代助は、変わらない愛を今の世で口にする者を、いちばんのにせ者だと考えた。

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代助はかわらざる愛を、今の世に口にするものを偽善家の第一位に置いた。

ここまで考えたとき、代助の頭の中に、突然三千代のすがたがうかんだ。

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此所まで考えた時、代助の頭の中に、突然三千代の姿が浮んだ。

そのとき、代助はこのすじ道の中に、あるものを数え入れるのを忘れたのではなかろうかと疑った。

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その時代助はこの論理中に、或因数ファクターは数え込むのを忘れたのではなかろうかと疑った。

けれども、それはどうしても見つけることができなかった。

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けれども、その因数ファクターはどうしても発見する事が出来なかった。

すると、自分が三千代に持つ気持ちも、このすじ道によって、ただ今このときだけのものにすぎなくなった。

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すると、自分が三千代に対する情合も、この論理によって、ただ現在的のものに過ぎなくなった。

彼の頭は、たしかにそれを認めた。

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彼の頭はまさにこれを承認した。

しかし彼の心は、たしかにそうだと感じる勇気がなかった。

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然し彼のハートは、慥かにそうだと感ずる勇気がなかった。

十二

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十二

代助は兄の妻がせまってくるのをおそれた。

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代助はあによめの肉薄を恐れた。

また三千代に引かれる力もおそれた。

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又三千代の引力を恐れた。

すずみに出かける季節にはまだ間があった。

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避暑にはまだあいだがあった。

あらゆる遊びに興味を失った。

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凡ての娯楽には興味を失った。

本を読んでも、自分のすがたを黒い文字の上に見つけることができなくなった。

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読書をしても、自己の影を黒い文字もんじの上に認める事が出来なくなった。

落ち着いて考えれば、考えははすの糸を引くように出るが、出たものをまとめて見ると、人がこわがるものばかりであった。

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落付いて考えれば、考えは蓮の糸を引く如くに出るが、出たものを纏めて見ると、人の恐ろしがるものばかりであった。

しまいには、こう考えなければならない自分がこわくなった。

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仕舞には、斯様かように考えなければならない自分が怖くなった。

代助は、青白く見える自分の頭をミルクセーキのようにかき回すために、しばらく旅行しようと決心した。

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代助は蒼白あおしろく見える自分の脳髄を、ミルクセークの如く廻転させるために、しばらく旅行しようと決心した。

初めは父の別荘に行くつもりであった。

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始めは父の別荘に行く積りであった。

しかし、これは東京からおそわれるという点では、牛込にいるのと大して変わりはないと思った。

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然し、これは東京から襲われる点に於て、牛込うしごめると大した変りはないと思った。

代助は旅行案内を買って来て、自分の行くべき先を調べてみた。

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代助は旅行案内を買って来て、自分の行くべき先を調べてみた。

が、自分の行くべき先は世界じゅうどこにもないような気がした。

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が、自分の行くべき先は天下中何処どこにも無い様な気がした。

しかし、無理にもどこかへ行こうとした。

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しかし、無理にも何処かへ行こうとした。

それには、したくをととのえるのがいちばんだと決めた。

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それには、支度を調えるにくはないと極めた。

代助は電車に乗って、銀座まで来た。

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代助は電車に乗って、銀座まで来た。

気持ちよく風が通りをわたる午後であった。

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朗かに風の往来を渡る午後であった。

新橋の勧工場(かんこうば。今のデパートのような店)を一回りして、広い通りをぶらぶらと京橋のほうへ下った。

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新橋の勧工場かんこうば一回ひとまわりして、広い通りをぶらぶらと京橋の方へ下った。

そのとき、代助の目には向こう側の家が、芝居の書き割りのように平たく見えた。

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その時代助の眼には、向う側の家が、芝居の書割の様に平たく見えた。

青い空は、屋根の上にすぐぬりつけられていた。

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青い空は、屋根の上にすぐ塗り付けられていた。

代助は二、三の輸入品の店をひやかして、必要な品をととのえた。

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代助は二三の唐物屋とうぶつやを冷かして、入用いりようの品を調えた。

その中に、わりに高い香水があった。

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その中に、比較的高い香水があった。

資生堂でねり歯みがきを買おうとしたら、若い店員が、ほしくないと言うのに自分の店で作ったものを出してしきりにすすめた。

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資生堂でねり歯磨を買おうとしたら、若いものが、欲しくないと云うのに自製のものを出して、しきりに勧めた。

代助は顔をしかめて店を出た。

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代助は顔をしかめて店を出た。

紙包みをわきの下にかかえたまま銀座のはずれまでやって来て、そこから大根河岸(だいこんがし)を回って、鍛冶橋(かじばし)から丸の内へ向かった。

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紙包をわきの下に抱えたまま、銀座の外れまで遣って来て、其所そこから大根河岸がしを回って、鍛冶橋かじばしを丸の内へ志した。

あてもなく西のほうへ歩きながら、これも手軽な旅行と言えるかも知れないと考えたあげく、つかれて車をと思ったが、どこにも見当たらなかったので、また電車に乗って帰った。

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当もなく西の方へ歩きながら、これも簡便な旅行と云えるかも知れないと考えた揚句、草臥くたびれて車をと思ったが、何処にも見当らなかったので又電車へ乗って帰った。

家の門を入ると、玄関に誠太郎のらしいはき物がていねいにならべてあった。

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家の門を這入はいると、玄関に誠太郎のらしいくつ叮嚀ていねいならべてあった。

門野に聞いたら、へえそうです、さっきからお待ちですという答えであった。

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門野に聞いたら、へえそうです、先方さっきから待って御出ですという答であった。

代助はすぐ書斎へ来てみた。

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代助はすぐ書斎へ来て見た。

誠太郎は代助のすわる大きないすに腰を掛けて、テーブルの前でアラスカ探検記を読んでいた。

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誠太郎は、代助の坐る大きな椅子いすに腰を掛けて、洋卓テーブルの前で、アラスカ探険記を読んでいた。

テーブルの上には、そばまんじゅうとお茶のぼんがいっしょにのっていた。

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洋卓の上には、蕎麦饅頭そばまんじゅうと茶盆が一所に乗っていた。

「誠太郎、何だい、人のいない留守に来て、ごちそうだね」

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「誠太郎、何だい、人のいない留守に来て、御馳走だね」

と言うと、誠太郎は笑いながら、まずアラスカ探検記をポケットへ押しこんで、席を立った。

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と云うと、誠太郎は、笑いながら、ずアラスカ探険記をポッケットへ押し込んで、席を立った。

「そこにいるなら、いてもかまわないよ」

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「其所にいるなら、いても構わないよ」

と言っても、聞かなかった。

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と云っても、聞かなかった。

代助は誠太郎をつかまえて、いつものようにからかい出した。

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代助は誠太郎をつらまえて、いつもの様に調戯からかい出した。

誠太郎は、この間代助が歌舞伎座でしたあくびの数を知っていた。

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誠太郎はこの間代助が歌舞伎座でした欠伸あくびの数を知っていた。

そうして、

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そうして、

「おじさんはいつ奥さんをもらうの」

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「叔父さんは何時いつ奥さんを貰うの」

と、またこの間と同じような質問をした。

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と、又先達せんだってと同じ様な質問を掛けた。

この日、誠太郎は父の使いに来たのであった。

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この日誠太郎は、父の使に来たのであった。

その言づては、明日の十一時までにちょっと来てくれというのであった。

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その口上は、明日あしたの十一時までに一寸ちょっと来てくれと云うのであった。

代助は、そうしょっちゅう父や兄に呼びつけられるのが面倒であった。

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代助はそうそう父や兄に呼び付けられるのが面倒であった。

誠太郎に向かって、半分おこったように、

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誠太郎に向って、半分怒った様に、

「何だい、ひどいじゃないか。用も言わないで、やたらに人を呼びつけるなんて」

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「何だい、ひどいじゃないか。用も云わないで、無暗むやみに人を呼びつけるなんて」

と言った。

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と云った。

誠太郎はやはりにやにやしていた。

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誠太郎はやっぱりにやにやしていた。

代助はそれきり、話をよそへそらしてしまった。

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代助はそれぎり話を外へそらしてしまった。

新聞に出ているすもうの勝ち負けが、二人の話のおもな中身であった。

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新聞に出ている相撲の勝負が、二人の題目の重なるものであった。

晩ご飯を食べて行けと言うのを、学校の予習があると言ってことわって、誠太郎は帰った。

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晩食ばんめしを食って行けと云うのを学校の下調があると云って辞退して誠太郎は帰った。

帰る前に、

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帰る前に、

「それじゃおじさん、明日は来ないんですか」

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「それじゃ、叔父さん、明日は来ないんですか」

と聞いた。

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と聞いた。

代助はしかたなく、

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代助は已を得ず、

「うむ。どうだかわからない。おじさんは旅行するかも知れないからって、帰ってそう言ってくれ」

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「うむ。どうだか分らない。叔父さんは旅行するかも知れないからって、帰ってそう云ってくれ」

と言った。

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と云った。

「いつ」

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「何時」

と誠太郎が聞き返したとき、代助は今日か明日のうちと答えた。

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と誠太郎が聞き返したとき、代助は今日明日のうちと答えた。

誠太郎はそれで納得して玄関まで出て行ったが、くつをはくところへ下りながら振り返って、突然、

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誠太郎はそれで納得して、玄関まで出て行ったが、沓脱くつぬぎへ下りながら振り返って、突然、

「どこへいらっしゃるの」

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「何処へいらっしゃるの」

と代助を見上げた。

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と代助を見上げた。

代助は、

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代助は、

「どこって、まだわかるもんか。ぐるぐる回るんだ」

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「何処って、まだ分るもんか。ぐるぐる回るんだ」

と言ったので、誠太郎はまたにやにやしながらこうし戸を出た。

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と云ったので、誠太郎は又にやにやしながら、格子こうしを出た。

代助はその夜すぐ出発しようと思って、大きな革のかばんの中を門野にそうじさせて、持って行く物を少しつめこんだ。

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代助はその夜すぐ立とうと思って、グラッドストーンの中を門野に掃除さして、携帯品を少し詰め込んだ。

門野はかなりの好奇心で代助の革かばんをながめていたが、

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門野は少なからざる好奇心をもって、代助の革鞄かばんを眺めていたが、

「少し手伝いましょうか」

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「少し手伝いましょうか」

とつっ立ったまま聞いた。

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と突立ったまま聞いた。

代助は、

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代助は、

「なに、たいしたことはない」

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「なに、訳はない」

とことわりながら、いったんつめこんだ香水のびんを取り出して、封をはがしてせんをぬいて、鼻に当ててかいでみた。

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と断わりながら、一旦詰め込んだ香水のびんを取り出して、封被ふうひいで、栓を抜いて、鼻に当てていでみた。

門野は少しあきれたようすで、自分の部屋へ引きあげた。

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門野は少し愛想をつかした様な具合で、自分の部屋へ引取った。

二、三分するとまた出て来て、

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二三分すると又出て来て、

「先生、車をたのんどきますかな」

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「先生、車をそう云っときますかな」

と聞いた。

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と注意した。

代助は大きな革かばんを前に置いて、顔を上げた。

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代助はグラッドストーンを前へ置いて、顔を上げた。

「そう、少し待ってくれたまえ」

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「そう、少し待ってくれたまえ」

庭を見ると、生けがきのかなめの木のてっぺんに、まだうす明るい日ざしが残っていた。

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庭を見ると、生垣の要目かなめいただきに、まだ薄明るい日足がうろついていた。

代助は外をのぞきながら、これから三十分のうちに行き先を決めようと考えた。

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代助は外をのぞきながら、これから三十分のうちに行く先を極めようと考えた。

何でも都合のよさそうな時間に出る汽車に乗って、その汽車が連れて行くところで降りて、そこで明日まで過ごして、過ごしているうちにまた新しい運命が自分をさらいに来るのを待つつもりであった。

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何でも都合のよさそうな時間に出る汽車に乗って、その汽車の持って行く所へ降りて、其所で明日まで暮らして、暮らしているうちに、又新らしい運命が、自分をさらいに来るのを待つ積りであった。

旅のお金はもちろん十分でなかった。

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旅費は無論充分でなかった。

代助の身なりに合うくらいの宿に泊まり続けるとすれば、一週間ももたないくらいであった。

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代助の旅装に適した程の宿泊とまりを続けるとすれば、一週間もたない位であった。

けれども、そういう点になると、代助は気にしなかった。

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けれども、そう云う点になると、代助は無頓着むとんじゃくであった。

いよいよとなれば、家からお金を取り寄せる気でいた。

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いよいよとなれば、家から金を取り寄せる気でいた。

それから、もともとまわりの空気を変えるのが目的の移動だから、ぜいたくのほうには重きを置かない決心であった。

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それから、本来が四辺の風気を換えるのを目的とする移動だから、贅沢ぜいたくの方面へは重きを置かない決心であった。

気が向けば、荷物持ちをやとって一日歩いてもいいと思っていた。

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興に乗れば、荷持にもちを雇って、一日歩いてもいと覚悟した。

彼はまた旅行案内を開いて、細かい数字をていねいに調べ出したが、少しも決まりに近づかないうちに、また三千代のほうへ頭がすべって行った。

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彼は又旅行案内を開いて、細かい数字を丹念に調べ出したが、少しも決定のはこびに近寄らないうちに、又三千代の方に頭が滑って行った。

出発する前にもう一度ようすを見て、それから東京を出ようという気が起こった。

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立つ前にもう一遍様子を見て、それから東京を出ようと云う気が起った。

革かばんは今夜のうちにかたづけて、明日の朝早く持って行けるようにしておけばかまわないことになった。

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グラッドストーンは今夜中に始末を付けて、明日の朝早く提げて行かれる様にして置けば構わない事になった。

代助は急ぎ足で玄関まで出た。

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代助は急ぎ足で玄関まで出た。

その音を聞きつけて、門野も飛び出した。

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その音を聞き付けて、門野も飛び出した。

代助はふだん着のまま、かけくぎからぼうしを取っていた。

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代助は不断着のまま、掛釘かけくぎから帽子を取っていた。

「またお出かけですか。何かお買い物じゃありませんか。私でよければ買って来ましょう」

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「又御出掛ですか。何か御買物じゃありませんか。わたしければ買って来ましょう」

と門野が驚いたように言った。

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と門野が驚ろいた様に云った。

「今夜はやめだ」

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「今夜はめだ」

と言い放したまま、代助は外へ出た。

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と云い放したまま、代助は外へ出た。

外はもう暗かった。

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外はもう暗かった。

美しい空に、星がぽつぽつ数を増して行くように見えた。

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美くしい空に星がぽつぽつ影を増してく様に見えた。

気持ちのいい風がたもとをふいた。

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心持の好い風がたもとを吹いた。

けれども、長い足を大きく動かした代助は、二、三百メートルも歩かないうちにひたいのあたりに汗をかいた。

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けれども長い足を大きく動かした代助は、二三町も歩かないうちに額際ひたいぎわに汗を覚えた。

彼は頭から鳥打ちぼうしをぬいだ。

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彼は頭から鳥打をった。

黒いかみを夜つゆに当てて、ときどきぼうしをわざと振って歩いた。

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黒い髪を夜露に打たして、時々帽子をわざと振って歩いた。

平岡の家の近くへ来ると、暗い人かげがこうもりのように静かにあちこちに動いた。

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平岡の家の近所へ来ると、暗い人影が蝙蝠かわほりごとく静かに其所、此所ここに動いた。

そまつな板べいのすき間から、ランプの明かりが通りへもれていた。

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粗末な板塀の隙間すきまから、洋燈ランプの灯が往来へ映った。

三千代はその光の下で新聞を読んでいた。

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三千代はその光の下で新聞を読んでいた。

今ごろ新聞を読むのかと聞いたら、二度目だと答えた。

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今頃新聞を読むのかと聞いたら、二返目だと答えた。

「そんなにひまなんですか」

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「そんなにひまなんですか」

と代助はざぶとんをしきいの上に移して、縁側へ半分体を出しながらしょうじによりかかった。

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と代助は座蒲団を敷居の上に移して、縁側へ半分身体からだを出しながら、障子へりかかった。

平岡はいなかった。

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平岡は居なかった。

三千代は今おふろから帰ったところだと言って、うちわさえひざのそばに置いていた。

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三千代は今湯から帰った所だと云って、団扇うちわさえひざの傍に置いていた。

いつものほおに少しあたたかい色を出して、もう帰るでしょうからゆっくりしていらっしゃいと、茶の間へお茶をいれに立った。

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平生いつもの頬に、心持暖い色を出して、もう帰るでしょうからゆっくりしていらっしゃいと、茶の間へ茶を入れに立った。

かみは西洋ふうに結っていた。

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髪は西洋風にっていた。

平岡は、三千代の言ったとおりにはなかなか帰らなかった。

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平岡は三千代の云った通りには中々帰らなかった。

いつもこんなに遅いのかと聞いたら、笑いながら、まあそんなところでしょうと答えた。

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何時でもこんなに遅いのかと尋ねたら、笑いながら、まあそんな所でしょうと答えた。

代助はその笑いの中にさびしさを感じて、目をすえて三千代の顔をじっと見た。

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代助はその笑の中に一種のさみしさを認めて、眼を正して、三千代の顔をじっと見た。

三千代は急にうちわを取って、そでの下をあおいだ。

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三千代は急に団扇を取ってそでの下をあおいだ。

代助は平岡のお金のことが気にかかった。

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代助は平岡の経済の事が気に掛った。

まっすぐに、このごろは暮らしのお金には困っていないだろうと聞いてみた。

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正面から、この頃は生活費には不自由はあるまいと尋ねてみた。

三千代はそうですねと言って、また前のような笑い方をした。

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三千代はそうですねと云って、又前の様な笑い方をした。

代助がすぐ返事をしなかったものだから、

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代助がすぐ返事をしなかったものだから、

「あなたには、そう見えて」

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貴方あなたには、そう見えて」

と、今度は向こうから聞き返した。

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と今度は向うから聞き直した。

そうして、手に持ったうちわを放り出して、おふろから出たばかりのきれいな細い指を代助の前に広げて見せた。

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そうして、手に持った団扇を放り出して、湯から出たての奇麗なほそい指を、代助の前に広げて見せた。

その指には、代助のおくった指輪も、ほかの指輪もはめていなかった。

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その指には代助の贈った指環ゆびわも、ほかの指環も穿めていなかった。

自分のおくった品をいつも心にえがいていた代助には、三千代の言いたいことがよくわかった。

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自分の記念を何時でも胸に描いていた代助には、三千代の意味がよく分った。

三千代は手を引っこめると同時に、ぽっと赤い顔をした。

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三千代は手を引き込めると同時に、ぽっと赤い顔をした。

「しかたがないんだから、かんべんしてちょうだい」

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「仕方がないんだから、堪忍かんにんして頂戴ちょうだい

と言った。

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と云った。

代助はあわれな気持ちがした。

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代助はあわれな心持がした。

代助はその夜、九時ごろ平岡の家を出た。

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代助はその夜九時頃平岡の家を辞した。

出る前、自分のさいふの中にあるものを出して、三千代にわたした。

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辞する前、自分の紙入の中に有るものを出して、三千代に渡した。

そのときは、腹の中でいくらか考えをめぐらせた。

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その時は、腹の中で多少の工夫を費やした。

彼はまず何気なくさいふを胸のところで開けて、中にあるお札を数えもせずにつかんで、これをあげるからお使いなさいと気軽に三千代の前へ出した。

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彼は先ず何気なく懐中物を胸の所で開けて、中にある紙幣を、勘定もせずにつかんで、これを上げるから御使なさいと無雑作に三千代の前へ出した。

三千代は、下女に聞こえないような低い声で、

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三千代は、下女をはばかる様な低い声で、

「そんなことを」

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「そんな事を」

と、かえって両手をぴたりと体につけてしまった。

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と、かえって両手をぴたりと身体へ付けてしまった。

代助はしかし、自分の手を引っこめなかった。

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代助はしかし自分の手を引き込めなかった。

「指輪を受け取るなら、これを受け取っても同じことでしょう。紙の指輪だと思っておもらいなさい」

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「指環を受取るなら、これを受取っても、同じ事でしょう。紙の指環だと思って御貰いなさい」

代助は笑いながら、こう言った。

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代助は笑いながら、こう云った。

三千代は、でも、あんまりだからと、まだためらった。

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三千代はでも、あんまりだからとまだ躊躇ちゅうちょした。

代助は、平岡に知れるとしかられるのかと聞いた。

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代助は、平岡に知れるとしかられるのかと聞いた。

三千代はしかられるかほめられるかはっきりわからなかったので、やはりぐずぐずしていた。

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三千代は叱られるか、められるか、明らかに分らなかったので、やはり愚図々々していた。

代助は、しかられるなら平岡に黙っていたらよかろうと言った。

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代助は、叱られるなら、平岡に黙っていたらかろうと注意した。

三千代はまだ手を出さなかった。

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三千代はまだ手を出さなかった。

代助はもちろん、出したものを引っこめるわけにいかなかった。

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代助は無論出したものを引き込める訳に行かなかった。

しかたなく、少し前かがみになって、手のひらを三千代の胸のそばまで持って行った。

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やむを得ず、少し及び腰になって、てのひらを三千代の胸のそばまで持って行った。

同時に自分の顔も三十センチばかりのところまで近づけて、

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同時に自分の顔も一尺ばかりの距離に近寄せて、

「大丈夫だから、お取りなさい」

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「大丈夫だから、御取んなさい」

としっかりした低い調子で言った。

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しっかりした低い調子で云った。

三千代はあごをえりの中にうめるように後ろへ引いて、何も言わずに右の手を前へ出した。

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三千代はあごを襟の中へうずめる様に後へ引いて、無言のまま右の手を前へ出した。

お札はその上に落ちた。

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紙幣はその上に落ちた。

そのとき、三千代は長いまつげを二、三度またたかせた。

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その時三千代は長い睫毛まつげを二三度打ち合わした。

そうして、手のひらに落ちたものを帯の間にはさんだ。

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そうして、掌に落ちたものを帯の間に挟んだ。

「また来る。平岡君によろしく」

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「又来る。平岡君によろしく」

と言って、代助は外へ出た。

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と云って、代助は表へ出た。

町を横切って小道へ下りると、あたりは暗くなった。

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町を横断して小路こうじへ下ると、あたりは暗くなった。

代助は美しい夢を見たように、暗い夜を切って歩いた。

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代助は美くしい夢を見た様に、暗いを切って歩いた。

彼は三十分とたたないうちに、自分の家の門の前に来た。

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彼は三十分と立たないうちに、吾家わがいえの門前に来た。

けれども、門をくぐる気がしなかった。

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けれども門をくぐる気がしなかった。

彼は高い星を頭の上にいただいて、静かな屋敷町をぐるぐる歩き回った。

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彼は高い星をいただいて、静かな屋敷町をぐるぐる徘徊はいかいした。

自分では、夜中まで歩き続けてもつかれることはないだろうと思った。

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自分では、夜半まで歩きつづけても疲れる事はなかろうと思った。

そうこうするうち、また自分の家の前へ出た。

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とかくするうち、又自分の家の前へ出た。

中は静かであった。

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中は静かであった。

門野とおばあさんは、茶の間で世間話をしていたらしい。

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門野と婆さんは茶の間で世間話をしていたらしい。

「たいへん遅かったですな。明日は何時の汽車でお立ちですか」

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「大変遅うがしたな。明日あしたは何時の汽車で御立ちですか」

と玄関へ上がるとすぐ聞いてきた。

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と玄関へ上るやいなや問を掛けた。

代助はほほえみながら、

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代助は、微笑しながら、

「明日もやめだ」

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「明日も御已おやめだ」

と答えて、自分の部屋へ入った。

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と答えて、自分のへや這入はいった。

そこにはふとんがもうしいてあった。

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そこには床がもう敷いてあった。

代助はさっきせんをぬいた香水を取って、まくらの上に一てき落とした。

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代助は先刻栓を抜いた香水を取って、括枕くくりまくらの上に一滴垂らした。

それではなんだか物足りなかった。

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それでは何だか物足りなかった。

びんを持ったまま立って、部屋の四すみへ行って、そこに一、二てきずつ振りかけた。

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壜を持ったまま、立って室の四隅へ行って、そこに一二滴ずつ振りかけた。

こうして楽しんだあと、白いゆかたに着がえて、新しいかいまき(そでのついた寝具)の下に安らかな手足をのばした。

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斯様かように打ち興じた後、白地の浴衣ゆかたに着換えて、新らしい小掻巻こかいまきの下にやすらかな手足を横たえた。

そうして、ばらのかおりのするねむりについた。

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そうして、薔薇ばらのするねむりに就いた。

目がさめたときは、高くのぼった日が縁側に黄金色のゆれる光をさしこんでいた。

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眼が覚めた時は、高い日が縁に黄金色の震動を射込んでいた。

まくらもとには新聞が二枚そろえてあった。

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枕元には新聞が二枚そろえてあった。

代助は、門野がいつ雨戸を開けて、いつ新聞を持って来たか、まるで知らなかった。

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代助は、門野が何時、雨戸を引いて、何時新聞を持って来たか、まるで知らなかった。

代助は大きくのびを一つして起き上がった。

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代助は長いのびを一つして起き上った。

ふろ場で体をふいていると、門野が少しあわてたようすでやって来て、

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風呂場で身体をいていると、門野が少し狼狽うろたえた容子でって来て、

「青山からお兄さんがお見えになりました」

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「青山から御兄おあにいさんが御見えになりました」

と言った。

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と云った。

代助は今すぐ行くと答えて、きれいに体をふき取った。

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代助は今すぐ行くむねを答えて、奇麗に身体を拭き取った。

座敷はまだそうじができているかいないかであったが、自分で飛び出す必要もないと思ったから、急ぎもせずにいつものとおりかみを分けてひげをそり、ゆっくりと茶の間へ帰った。

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座敷はまだ掃除が出来ているか、いないかであったが、自分で飛び出す必要もないと思ったから、急ぎもせずに、いつもの通り、髪を分けてそりあてて、悠々と茶の間へ帰った。

そこではさすがに、ゆっくりおぜんにつく気も出なかった。

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そこではさすがにゆっくりと膳につく気も出なかった。

立ったまま紅茶を一杯すすって、タオルでちょっと口ひげをふいて、それをそこへ放り出すと、すぐ客間へ出て、

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立ちながら紅茶を一杯すすって、タオルで一寸ちょっと口髭くちひげこすって、それを、其所へ放り出すと、すぐ客間へ出て、

「やあ兄さん」

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「やあ兄さん」

とあいさつをした。

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挨拶あいさつをした。

兄はいつものように、色のこい葉巻の火の消えたのを指の間にはさんで、平気な顔で代助の新聞を読んでいた。

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兄は例の如く、色の濃い葉巻の、火の消えたのを、指のまたに挟んで、平然として代助の新聞を読んでいた。

代助の顔を見るとすぐ、

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代助の顔を見るや否や、

「この部屋はたいへんいいにおいがするようだが、おまえの頭かい」

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「この室は大変好いにおいがする様だが、御前の頭かい」

と聞いた。

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と聞いた。

「僕の頭が見える前からでしょう」

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「僕の頭の見える前からでしょう」

と答えて、昨夜の香水のことを話した。

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と答えて、昨夜の香水の事を話した。

兄は落ち着いて、

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兄は、落ち付いて、

「ははあ、だいぶしゃれたことをやるな」

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「ははあ、大分洒落しゃれた事をやるな」

と言った。

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と云った。

兄はめったに代助のところへ来たことのない男であった。

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兄は滅多に代助の所へ来た事のない男であった。

たまに来れば、かならず来なくてはならない用事を持っていた。

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たまに来れば必ず来なくってならない用事を持っていた。

そうして、用がすむとさっさと帰って行った。

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そうして、用を済ますとさっさと帰って行った。

今日も何かあったにちがいないと代助は考えた。

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今日も何事か起ったに違ないと代助は考えた。

そうして、それは昨日誠太郎をいいかげんにごまかして帰したことのはね返りだろうと思った。

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そうして、それは昨日誠太郎を好加減に胡魔化ごまかして返した反響だろうと想像した。

五、六分世間話をしているうちに、兄はとうとうこう言い出した。

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五六分雑談をしているうちに、兄はとうとうこう云い出した。

「昨日の夕方誠太郎が帰って来て、おじさんは明日から旅行するっていう話だから、出て来た」

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昨夕ゆうべ誠太郎が帰って来て、叔父さんは明日から旅行するって云う話だから、出て来た」

「ええ、じつは今朝六時ごろから出ようと思ってね」

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「ええ、実は今朝六時頃から出ようと思ってね」

と代助はうそのようなことを、とても落ち着いて答えた。

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と代助はうその様な事を、至極冷静に答えた。

兄もまじめな顔をして、

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兄も真面目まじめな顔をして、

「六時に出られるくらいの早起きの男なら、今ごろわざわざ青山からやって来やしない」

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「六時に立てる位な早起の男なら、今時分わざわざ青山から遣って来やしない」

と言った。

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と云った。

あらためて用事を聞いてみると、やはり思ったとおり、また同じ話でせまって来ただけであった。

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改めて用事を聞いてみると、やはり予想の通り肉薄の遂行に過ぎなかった。

つまり、今日高木と佐川の娘を呼んで昼ご飯をごちそうするはずだから、代助も出ろという父の言いつけであった。

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すなわち今日高木と佐川の娘を呼んで午餐ごさんを振舞うはずだから、代助にも列席しろと云う父の命令であった。

兄の話によると、昨日の夕方誠太郎の返事を聞いて、父はとてもきげんを悪くした。

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兄の語る所によると、昨夕誠太郎の返事を聞いて、父は大いに機嫌を悪くした。

梅子は気をもんで、代助が出発する前に会って旅行をのばさせると言い出した。

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梅子は気をんで、代助の立たない前に逢って、旅行を延ばさせると云い出した。

兄はそれを止めたそうである。

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兄はそれを留めたそうである。

「なに、あいつが今夜のうちに出発するものか、今ごろは革かばんの前にすわって考えこんでいるくらいのものだ。明日になってみろ、放っておいてもやって来るからって、おれが姉さんを安心させたのだよ」

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「なに彼奴あいつが今夜中に立つものか、今頃は革鞄かばんの前へ坐って考え込んでいる位のものだ。明日になってみろ、放って置いても遣って来るからって、おれが姉さんを安心させたのだよ」

と誠吾は落ち着き払っていた。

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と誠吾は落付払っていた。

代助は少ししゃくにさわったので、

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代助は少し忌々いまいましくなったので、

「じゃ、放っておいて御覧になればいいのに」

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「じゃ、放って置いて御覧なされば好いのに」

と言った。

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と云った。

「ところが女というものは気の短いもので、お父さんに悪いからって、今朝起きるとすぐおれをせかすんだからね」

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「ところが女と云うものは、気の短かいもので、御父さんに悪いからって、今朝起きるや否や、己をせびるんだからね」

と誠吾は、おかしそうな顔もしなかった。

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と誠吾は可笑おかしい様な顔もしなかった。

むしろ迷惑そうに代助をながめていた。

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むしろ迷惑そうに代助を眺めていた。

代助は、行くとも行かないともはっきりした返事をしなかった。

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代助は行くとも、行かないとも決答を与えなかった。

けれども兄に対しては、誠太郎のときのようにはぐらかして帰す勇気も出なかった。

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けれども兄に対しては、誠太郎同様に、要領を握らせないで返してしまう勇気も出なかった。

その上、昼ご飯を断って旅行するにしても、もう自分のさいふをあてにするわけにはいかなかった。

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その上午餐を断って、旅行するにしても、もう自分の懐中を当にする訳には行かなかった。

やはり、兄とか兄の妻とか、それとも父とか、どちらにしても反対する側の誰かに痛い思いをさせなければ、身動きが取れない立場にいた。

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やはり、兄とかあによめとか、もしくは父とか、いずれ反対派の誰かを痛めなければ、身動が取れない位地にいた。

そこで、つかずはなれずに、高木と佐川の娘のうわさをした。

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そこで、かず離れずに、高木と佐川の娘の評判をした。

高木には十年ほど前に一度会ったきりであったが、へんなもので、どこかに見覚えがあって、この間歌舞伎座で目についたときは、はてなと思った。

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高木には十年程前に一遍ったぎりであったが、妙なもので、何処どこかに見覚があって、この間歌舞伎座で眼に着いた時は、はてなと思った。

それとは反対に、佐川の娘のほうは、ついこの間写真を手にしたばかりなのに、本人に会ってもまるで思い出さなかった。

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これに反して、佐川の娘の方は、つい先達て、写真を手にしたばかりであるのに、実物に接しても、まるで聯想れんそうが浮ばなかった。

写真は不思議なもので、まず人を知っていて、そこから写真の誰それを言い当てるのはたやすいが、その逆に、写真から人を言い当てるほうはなかなかむずかしい。

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写真は奇体なもので、ず人間を知っていて、その方から、写真の誰彼を極めるのは容易であるが、その逆の、写真から人間を定める方は中々むずかしい。

これを難しい言い方にすると、死から生を作り出すのはできないが、生から死へ移るのは自然の順序であるという本当のことに行き着く。

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これを哲学にすると、死から生を出すのは不可能だが、生から死に移るのは自然の順序であると云う真理に帰着する。

「私はそう考えた」

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「私はそう考えた」

と代助が言った。

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と代助が云った。

兄はなるほどと答えたが、とくに感心したようすもなかった。

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兄はなるほどと答えたが別段感心した様子もなかった。

葉巻が短くなって口ひげに火がつきそうなのを、やたらにくわえ直して、

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葉巻の短かくなって、口髭に火が付きそうなのを無暗にくわえて、

「それで、どうしても今日旅行する必要もないんだろう」

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「それで、必ずしも今日旅行する必要もないんだろう」

と聞いた。

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と聞いた。

代助はないと答えるほかなかった。

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代助はないと答えざるを得なかった。

「じゃ、今日昼ご飯を食いに来てもいいんだろう」

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「じゃ、今日めしを食いに来てもいんだろう」

代助はまた、いいと答えないわけにいかなかった。

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代助は又好いと答えない訳に行かなかった。

「じゃ、おれはこれからちょっとよそへ回るから、まちがいのないように来てくれ」

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「じゃ、己はこれから、一寸他所わきへ廻るから、間違のない様に来てくれ」

と、相変わらずいそがしそうに見えた。

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と相変らず多忙に見えた。

代助はもうはらをくくったから、どうでもかまわないという気で、相手に都合のいい返事をした。

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代助はもう度胸を据えたから、どうでも構わないという気で、先方に都合の好い返事を与えた。

すると兄が突然、

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すると兄が突然、

「いったいどうなんだ。あの女をもらう気はないのか。いいじゃないか、もらったって。そうえり好みをするほど妻に重きを置くと、なんだか元禄(げんろく)時代の色男のようでおかしいな。あの時代の人間はみんな、男も女もひどく窮屈な恋をしたようだが、そうでもなかったのかい。――まあ、どうでもいいから、なるべく年寄りをおこらせないようにやってくれ」

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「一体どうなんだ。あの女をもらう気はないのか。好いじゃないか貰ったって。そうり好みをする程女房に重きを置くと、何だか元禄時代の色男の様で可笑しいな。すべてあの時代の人間は男女なんにょに限らず非常に窮屈な恋をした様だが、そうでもなかったのかい。――まあ、どうでも好いから、なるべく年寄を怒らせない様にってくれ」

と言って帰った。

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と云って帰った。

代助は座敷へ戻って、しばらく兄のうまい言葉をかみしめていた。

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代助は座敷へ戻って、しばらく、兄の警句を咀嚼そしゃくしていた。

自分も結婚については、実際兄と同じ考えだとしか思えない。

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自分も結婚に対しては、実際兄と同意見であるとしか考えられない。

だから、結婚をすすめるほうでも、おこらないで放っておくべきものだと、兄とは反対に、自分に都合のいい答えを出した。

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だから、結婚を勧める方でも、怒らないで放って置くべきものだと、兄とは反対に、自分に都合の好い結論を得た。

兄の言うところによると、佐川の娘は、今度久しぶりにおじに連れられて、見物かたがた東京へ来たので、おじの商売の用がすみしだい、また連れられて国へ帰るのだそうである。

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兄の云う所によると、佐川の娘は、今度久し振に叔父に連れられて、見物かたがた上京したので、叔父の商用が済み次第又連れられて国へ帰るのだそうである。

父がその機会を使って、たがいの関係をずっと先まで結びつけようとたくらんだのか、それともこの間の旅先でこの機会を自分から作って帰って来たのか、どちらにしても代助はあまり調べる気にならなかった。

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父がその機会を利用して、相互の関係に、永遠の利害を結び付けようと企てたのか、又は先達ての旅行先で、この機会をも自発的にこしらえて帰って来たのか、どっちにしても代助はあまり研究の余地を認めなかった。

自分はただ、この人たちと同じ食卓でおいしそうに昼ご飯を食べて見せれば、つきあいのつとめはそれで終わると考えた。

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自分はただこれ等の人と同じ食卓で、うまそうに午餐を味わって見せれば、社交上の義務は其所に終るものと考えた。

もしそれ以上に何か話が進んだ場合には、そのときになって初めて手を打つよりほかに道はないと思った。

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もしそれより以上に、何等かの発展が必要になった場合には、その時に至って、始めて処置を付けるより外に道はないと思案した。

代助はおばあさんを呼んで、着物を出させた。

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代助はばあさんを呼んで着物を出さした。

面倒だと思ったが、きちんとするために家のもんの入った夏はおりを着た。

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面倒だと思ったが、敬意を表するために、紋付の夏羽織を着た。

はかまはうすいのがなかったから、家に行って父か兄のをはくことに決めた。

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はかま一重ひとえのがなかったから、家に行って、父か兄かのを穿く事に極めた。

代助は神経がするどいわりに、子どものときからの慣れで、人前へ出るのをあまり苦にしなかった。

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代助は神経質な割に、子供の時からの習慣で、人中へ出るのを余り苦にしなかった。

宴会とか、招待とか、送別会とかがあると、たいていは都合をつけて出席した。

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宴会とか、招待とか、送別とかいう機会があると、大抵は都合して出席した。

だから、ある方面で名の知れた人の顔はだいぶ覚えていた。

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だから、ある方面に知名な人の顔は大分覚えていた。

その中には、伯爵(はくしゃく)とか子爵(ししゃく)とかいう身分の高い人も交じっていた。

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その中には伯爵はくしゃくとか子爵とかいう貴公子も交っていた。

彼はこんな人の仲間に入って、その仲間なりのつきあいに損も得も感じなかった。

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彼はこんな人の仲間入をして、その仲間なりの交際つきあいに、損も得も感じなかった。

言葉やふるまいは、どこへ出ても同じであった。

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言語動作は何処へ出ても同じであった。

外から見ると、そこがたいへんよく兄の誠吾に似ていた。

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外部から見ると、其所が大変く兄の誠吾に似ていた。

だから、よく知らない人は、この兄弟の性格をまったく同じ型だと信じていた。

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だから、よく知らない人は、この兄弟の性質を、全く同一型に属するものと信じていた。

代助が青山に着いたときは十一時五分前であったが、お客はまだ来ていなかった。

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代助が青山に着いた時は、十一時五分前であったが、御客はまだ来ていなかった。

兄もまだ帰らなかった。

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兄もまだ帰らなかった。

兄の妻だけがちゃんとしたくをして、座敷にすわっていた。

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嫂だけがちゃんと支度をして、座敷に坐っていた。

代助の顔を見て、

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代助の顔を見て、

「あなたもずいぶんひどいわね。人を出しぬいて旅行するなんて」

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「あなたも、随分乱暴ね。人を出し抜いて旅行するなんて」

と、いきなり言い返した。

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と、いきなり遣り込めた。

梅子はときによると、すじ道の通らない女であった。

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梅子は場合によると、論理ロジックち得ない女であった。

このときも、自分が代助を出しぬいたことにはまるで気がついていない言い方であった。

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この場合にも、自分が代助を出し抜いた事にはまるで気が付いていない挨拶の仕方であった。

それが代助には愛きょうに見えた。

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それが代助には愛嬌あいきょうに見えた。

それで、すぐそこにすわりこんで、梅子の着物のあれこれを言い始めた。

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で、すぐそこへ坐り込んで梅子の服装の品評を始めた。

父は奥にいると聞いたが、わざと行かなかった。

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父は奥にいると聞いたが、わざと行かなかった。

むりに行けと言われたとき、

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強いられたとき、

「そのうちお客さんが来たら、僕が奥へ知らせに行く。そのときあいさつをすればよかろう」

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「今に御客さんが来たら、僕が奥へ知らせにく。その時挨拶をすれば好かろう」

と言って、やはりいつものようにむだ口をたたいていた。

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と云って、やっぱり平常へいぜいの様な無駄口をたたいていた。

けれども、佐川の娘については一言も言い出さなかった。

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けれども佐川の娘に関しては、一言いちごんも口を切らなかった。

梅子は何とかして、話をそこへ持って行こうとした。

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梅子は何とかして、話を其所へ持って行こうとした。

代助には、それがはっきり見えた。

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代助には、それが明らかに見えた。

だから、なおさらとぼけてしかえしをした。

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だから、なお空とぼけてかたきを取った。

そのうち、待ちかまえたお客が来たので、代助は約束どおりすぐ父のところへ知らせに行った。

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そのうち待ち設けた御客が来たので、代助は約束通りすぐ父の所へ知らせに行った。

父は思ったとおり、

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父は、案のじょう、

「そうか」

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「そうか」

とすぐ立ち上がっただけであった。

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とすぐ立ち上がっただけであった。

代助に小言を言うひまも何もなかった。

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代助に小言を云う暇も何も無かった。

代助は座敷へ引き返して来て、はかまをはいて、それから応接間へ出た。

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代助は座敷へ引き返して来て、袴を穿いて、それから応接間へ出た。

お客と家の者とは、そこで全員顔を合わせた。

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客と主人とはそこでことごとく顔を合わせた。

父と高木がまず話を始めた。

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父と高木とが第一に話を始めた。

梅子はおもに佐川のお嬢さんの相手になった。

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梅子は重に佐川の令嬢の相手になった。

そこへ兄が今朝と同じ身なりで、のっそりと入って来た。

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そこへ兄が今朝の通りの服装なりで、のっそりと這入って来た。

「いや、どうも遅くなりまして」

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「いや、どうも遅くなりまして」

とお客のほうにあいさつをしたが、席についたとき、代助を振り返って、

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と客の方に挨拶をしたが、席に就いたとき、代助を振り返って、

「だいぶ早かったね」

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「大分早かったね」

と小さな声をかけた。

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と小さな声を掛けた。

食堂には、応接間のとなりの部屋を使った。

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食堂には応接室の次の間を使った。

代助は戸の開いた間から、白いテーブルクロスの角のくっきりした色を見て、昼ご飯は洋食だと気づいた。

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代助は戸の開いた間から、白い卓布の角の際立きわだった色を認めて、午餐は洋食だと心づいた。

梅子はちょっと席を立って、となりの入り口をのぞきに行った。

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梅子は一寸席を立って、次の入口をのぞきに行った。

それは父に、食卓のしたくができたことを知らせるためであった。

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それは父に、食卓の準備が出来上った旨を知らせるためであった。

「ではどうぞ」

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「ではどうぞ」

と父は立ち上がった。

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と父は立ち上がった。

高木も会しゃくして立ち上がった。

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高木も会釈えしゃくして立ち上がった。

佐川のお嬢さんも、おじに続いて立ち上がった。

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佐川の令嬢も叔父に継いで立ち上がった。

代助はそのとき、女のこしから下がわりに細く長いことに気づいた。

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代助はその時、女の腰から下の、比較的に細く長い事を発見した。

食卓では、父と高木が真ん中に向かい合った。

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食卓では、父と高木が、真中に向き合った。

高木の右に梅子がすわって、父の左にお嬢さんがすわった。

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高木の右に梅子が坐って、父の左に令嬢が席を占めた。

女同士が向かい合ったように、誠吾と代助も向かい合った。

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女同志が向き合ったごとく、誠吾と代助も向き合った。

代助は調味料の台をはさんで、少しななめにずれた位置からお嬢さんの顔をながめることになった。

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代助は五味台クルエット・スタンドを中に、少しななめに反れた位地から令嬢の顔を眺める事になった。

代助は、そのほおの肉と色が後ろの窓からさす光にとても影響されて、鼻のさかいに暗すぎる影を作ったように思った。

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代助はその頬の肉と色が、著じるしく後の窓からす光線の影響を受けて、鼻の境に暗過ぎる影を作った様に思った。

そのかわり、耳に近いほうははっきりとうす紅色であった。

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その代り耳に接した方は、明らかに薄紅うすくれないであった。

とくに小さい耳が、日の光を通しているかのようにこまやかに見えた。

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ことに小さい耳が、日の光をとおしているかの如くデリケートに見えた。

はだとは反対に、お嬢さんは黒みがかった茶色の大きな目を持っていた。

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皮膚とは反対に、令嬢は黒い鳶色とびいろの大きな眼を有していた。

この二つの取り合わせからはなやかさが生まれるお嬢さんの顔の形は、むしろ丸いほうであった。

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この二つの対照から華やかな特長を生ずる令嬢の顔の形は、寧ろ丸い方であった。

食卓は、人数が人数だけに、それほど大きくはなかった。

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食卓は、人数にんずが人数だけに、さ程大きくはなかった。

部屋の広さにくらべると、むしろ小さすぎるくらいであったが、まっ白なテーブルクロスを集めた花でかざって、その中にナイフとスプーンの色がさえて光った。

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部屋の広さに比例して、寧ろさ過ぎる位であったが、純白な卓布を、取り集めた花でつづって、その中に肉刀ナイフ肉匙フォークの色がえて輝いた。

食卓での話は、おもにふつうの世間話であった。

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卓上の談話は重に平凡な世間話であった。

初めのうちは、それさえあまり話がはずまないように見えた。

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始のうちは、それさえ余り興味が乗らない様に見えた。

父はこういうとき、よく自分の好きな書画(しょが。書や絵)や古い道具の話を持ち出すのがいつものやり方であった。

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父はこう云う場合には、よく自分の好きな書画骨董こっとうの話を持ち出すのを常としていた。

そうして気が向けば、いくらでも蔵から出して来てお客の前にならべたものである。

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そうして気が向けば、いくらでも、蔵から出して来て、客の前にならべたものである。

父のおかげで、代助は少しはこの世界の好ききらいがわかるようになっていた。

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父の御蔭おかげで、代助は多少この道に好悪こうおを有てる様になっていた。

兄も同じわけで、絵かきの名前くらいは知っていた。

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兄も同様の原因から、画家の名前位は心得ていた。

ただし、こちらはかけじくの前に立って、はあ仇英(きゅうえい)だね、はあ応挙(おうきょ)だねと言うだけであった。

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ただし、この方は掛物の前に立って、はあ仇英きゅうえいだね、はあ応挙おうきょだねと云うだけであった。

おもしろそうな顔もしないから、おもしろがっているようにも見えなかった。

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面白い顔もしないから、面白い様にも見えなかった。

それから、本物かにせ物かを見分けるために虫めがねなどを振り回さないところは、誠吾も代助も同じであった。

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それから真偽の鑑定の為に、虫眼鏡などを振り舞わさない所は、誠吾も代助も同じ事であった。

父のように、こんな波は昔の人はえがかないものだから決まりに合っていない、などという批評は、二人とも、今まで一度もどんな絵に対しても言ったことはなかった。

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父の様に、こんな波は昔の人は描かないものだから、法にかなっていないなどという批評は、双方共に、いまかつ如何いかなるに対しても加えた事はなかった。

父はかわいた会話に色をつけるため、やがて好きな方面の話にふれてみた。

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父は乾いた会話に色彩を添えるため、やがて好きな方面の問題に触れてみた。

ところが一言二言で、高木はそういうことにまるで関心のない男だということがわかった。

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ところが一二言いちにげんで、高木はそう云う事にまるで無頓着むとんじゃくな男であるという事が分った。

父は場慣れした人だから、すぐ引き下がった。

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父は老巧の人だから、すぐ退却した。

けれども、両方に無難な話に戻ると、両方とも話のおもしろみを感じなかった。

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けれども双方に安全な領分に帰ると、双方共に談話の意味を感じなかった。

父はしかたなく、高木にどんな楽しみがあるかを聞いた。

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父はやむを得ず、高木にどんな娯楽があるかを確めた。

高木は、とくに楽しみはないと答えた。

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高木は特別に娯楽を持たないよしを答えた。

父はもう打つ手なしという感じで、高木を誠吾と代助にまかせて、しばらく話の外に出た。

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父は万事休すという体裁で、高木を誠吾と代助に託して、しばらく談話の圏外に出た。

誠吾は苦もなく、神戸の宿屋やら楠公神社(なんこうじんじゃ)やら、手あたりしだいに話をひろげて行った。

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誠吾は、何の苦もなく、神戸の宿屋から、楠公なんこう神社やら、手当り次第に話題を開拓して行った。

そうして、その中に自然とお嬢さんの出番を作った。

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そうして、その中に自然令嬢の演ずべき役割を拵えた。

お嬢さんはただ短く、必要な言葉だけをはさんではひっこんだ。

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令嬢はただ簡単に、必要な言葉だけを点じては逃げた。

代助と高木とは、初め同志社(どうししゃ)を話題にした。

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代助と高木とは、始め同志社を問題にした。

それからアメリカの大学のようすに移った。

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それから亜米利加アメリカの大学の状況に移った。

最後にエマソンやホーソーンの名が出た。

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最後にエマーソンやホーソーンの名が出た。

代助は、高木にこういう知識があるということはわかったけれども、ただわかっただけで、それ以上深入りもしなかった。

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代助は、高木にこう云う種類の知識があるという事を確めたけれども、ただ確めただけで、それより以上に深入もしなかった。

だから文学の話は、ただ二、三の人の名と本の名で終わって、少しも広がらなかった。

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従って文学談は単に二三の人名と書名に終って、少しも発展しなかった。

梅子はもちろん初めから、たえず口を動かしていた。

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梅子はもとより初から断えず口を動かしていた。

そのがんばりのおもな目的は、もちろん自分の前にいるお嬢さんのえんりょとだんまりをくずすことにあった。

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その努力のおもなるものは、無論自分の前にいる令嬢の遠慮と沈黙を打ち崩すにあった。

お嬢さんは礼儀から言っても、梅子のとぎれない質問に答えないわけにいかなかった。

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令嬢は礼義上から云っても、梅子の間断なき質問に応じない訳に行かなかった。

けれども、自分から進んで梅子の心を動かそうとしたようすは、ほとんどなかった。

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けれども積極的に自分から梅子の心を動かそうとつとめた形迹けいせきほとんどなかった。

ただ物を言うときに、少し首を横にかたむけるくせがあった。

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ただ物を云うときに、少し首を横に曲げる癖があった。

それさえ、代助にはこびを売っているとは思えなかった。

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それすら代助にはこびを売るとは解釈出来なかった。

お嬢さんは京都で教育を受けた。

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令嬢は京都で教育を受けた。

音楽は、初めはこと(日本の弦楽器)を習ったが、あとではピアノに変えた。

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音楽は、始めは琴を習ったが、後にはピヤノにえた。

バイオリンも少しけいこしたが、こちらは手の使い方がむずかしいので、まあやらないのと同じである。

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ヴァイオリンも少し稽古けいこしたが、この方は手の使い方がむずかしいので、まあ遣らないと同じである。

芝居はめったに行ったことがなかった。

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芝居は滅多に行った事がなかった。

「この間の歌舞伎座はいかがでした」

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「先達ての歌舞伎座は如何いかがでした」

と梅子が聞いたとき、お嬢さんは何とも答えなかった。

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と梅子が聞いた時、令嬢は何とも答えなかった。

代助には、それが芝居がわからないというより、芝居を見下しているように取れた。

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代助にはそれが劇を解しないと云うより、劇を軽蔑けいべつしている様に取れた。

それなのに梅子は続けて、同じ話について、あの役者はどうだの、この役者は何だのと言い出した。

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それだのに、梅子はつづけて、同じ問題に就いて、甲の役者はどうだの、乙の役者はなんだのと評し出した。

代助は、また兄の妻がすじ道をふみ外したと思った。

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代助は又嫂が論理を踏み外したと思った。

しかたがないから、横から、

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仕方がないから、横合から、

「芝居はおきらいでも、小説はお読みになるでしょう」

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「芝居は御嫌いでも、小説は御読みになるでしょう」

と聞いて、芝居の話をやめさせた。

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と聞いて芝居の話をめさした。

お嬢さんはそのとき初めて、ちょっと代助のほうを見た。

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令嬢はその時始めて、一寸代助の方を見た。

けれども、答えは思いのほかはっきりしていた。

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けれども答は案外に判然はっきりしていた。

「いえ、小説も」

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「いえ小説も」

お嬢さんの答えを待ちかまえていたお客も家の者も、みんな声を出して笑った。

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令嬢の答を待ち受けていた、主客はみんな声を出して笑った。

高木はお嬢さんのために、説明をしてやった。

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高木は令嬢の為に説明の労を取った。

その言うところによると、お嬢さんを教えたミス何とかいう女の人のえいきょうで、お嬢さんはある点ではほとんど清教徒(せいきょうと。まじめで厳しいキリスト教の一派)のように育てられたのだそうであった。

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その云う所によると、令嬢の教育を受けたミス何とか云う婦人の影響で、令嬢はある点では殆んど清教徒ピュリタンの様に仕込まれているのだそうであった。

だからよほど時代遅れだと、高木は説明のあとから批評までつけ加えた。

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だから余程時代おくれだと、高木は説明のあとから批評さえ付け加えた。

そのときは、もちろん誰も笑わなかった。

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その時は無論誰も笑わなかった。

キリスト教にあまり好意を持っていない父は、

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耶蘇ヤソ教に対して、あまり好意をっていない父は、

「それはけっこうだ」

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「それは結構だ」

とほめた。

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と賞めた。

梅子は、そういう教育の値打ちをまったく理解することができなかった。

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梅子は、そう云う教育の価値を全く解する事が出来なかった。

それなのに、

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にもかかわらず、

「本当にね」

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「本当にね」

と、好みにも合わない、はっきりしない言葉を使った。

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と趣味にかなわない不得要領の言葉を使った。

誠吾は、梅子の言葉があまり重く相手に受け取られないように、すぐ話を変えた。

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誠吾は梅子の言葉が、あまり重い印象を先方に与えない様に、すぐ問題を易えた。

「じゃ、英語はお上手でしょう」

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「じゃ英語は御上手でしょう」

お嬢さんはいいえと言って、少し顔を赤くした。

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令嬢はいいえと云って、心持顔を赤くした。

食事がすんでから、お客も家の者もまた応接間に戻って話を始めたが、ろうそくをつぎ足したように、新しいほうへは急に火が移りそうにも見えなかった。

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食事が済んでから、主客は又応接間に戻って、話を始めたが、蝋燭ろうそくを継ぎ足した様に、新らしい方へは急に火が移りそうにも見えなかった。

梅子は立ってピアノのふたを開けて、

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梅子は立って、ピヤノのふたを開けて、

「何か一つ、いかがですか」

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「何か一つ如何ですか」

と言いながらお嬢さんを振り返った。

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と云いながら令嬢を顧みた。

お嬢さんはもちろん席を動かなかった。

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令嬢は固より席を動かなかった。

「じゃ、代さん、初めに何かおやり」

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「じゃ、代さん、皮切かわきりに何か御遣おやり」

と、今度は代助に言った。

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と今度は代助に云った。

代助は、人に聞かせるほど上手でないことをわかっていた。

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代助は人に聞かせる程の上手でないのを自覚していた。

けれども、そんな言いわけをすると、やりとりが理屈っぽくしつこくなるばかりだから、

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けれども、そんな弁解をすると、問答が理窟りくつ臭く、しつこくなるばかりだから、

「まあ、ふたを開けておおきなさい。そのうちやるから」

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「まあ、蓋を開けて御置なさい。今に遣るから」

と答えたまま、何ということもなく、関係のないことを話し続けていた。

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と答えたなり、何かなしに、無関係の事を話しつづけていた。

一時間ほどして、お客は帰った。

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一時間程して客は帰った。

四人はならんで玄関まで出た。

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四人よったりは肩をそろえて玄関まで出た。

奥へ入るとき、

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奥へ這入はいる時、

「代助はまだ帰るんじゃなかろうな」

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「代助はまだ帰るんじゃなかろうな」

と父が言った。

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と父が云った。

代助はみんなから一足遅れて、かもいの上に両手がとどくようなのびを一つした。

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代助はみんなから一足後れて、鴨居かもいの上に両手が届く様な伸を一つした。

それから、人のいない応接間と食堂を少しうろうろして座敷へ来てみると、兄と兄の妻が向かい合って何か話をしていた。

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それから、人のいない応接間と食堂を少しうろうろして座敷へ来て見ると、兄と嫂が向き合って何か話をしていた。

「おい、すぐ帰っちゃいけない。お父さんが何か用があるそうだ。奥へおいで」

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「おい、すぐ帰っちゃ不可いけない。御父さんが何か用があるそうだ。奥へ御出おいで

と兄はわざとらしいまじめな調子で言った。

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と兄はわざとらしい真面目な調子で云った。

梅子はうす笑いをしている。

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梅子は薄笑いをしている。

代助は黙って頭をかいた。

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代助は黙って頭をいた。

代助は一人で父の部屋へ行く勇気がなかった。

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代助は一人で父のへやへ行く勇気がなかった。

何とかかんとか言って、兄夫婦を引っぱって行こうとした。

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何とかかとか云って、兄夫婦を引張って行こうとした。

それがうまく行かないので、とうとうそこにすわりこんでしまった。

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それが旨く成功しないので、とうとう其所そこへ坐り込んでしまった。

そこへお手伝いの女の人が来て、

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所へ小間使が来て、

「あの、若だんな様にちょっと、奥までいらっしゃるように」

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「あの、若旦那様に一寸ちょっと、奥までいらっしゃる様に」

とせかした。

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と催促した。

「うん、今行く」

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「うん、今行く」

と返事をして、それから兄夫婦にこういう理屈を言った。――

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と返事をして、それから、兄夫婦にこういう理窟を述べた。――

自分一人で父に会うと、父がああいう性格の上に、自分がこんな大ぼらふきだから、ことによると年寄りをひどくおこらせてしまうかも知れない。

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自分一人で父に逢うと、父がああ云う気象の所へ持って来て、自分がこんな図法螺ずぼらだから、殊によると大いに老人としよりを怒らしてしまうかも知れない。

そうすると、兄夫婦だってあとから面倒な仲裁をしたり何かしなければならない。

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そうすると、兄夫婦だって、後から面倒くさい調停をしたり何かしなければならない。

そのほうがかえって迷惑になるわけだから、めんどうがらずに、今ちょっといっしょに行ってくれたらよかろう。

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その方がかえって迷惑になる訳だから、骨惜ほねおしみをせずに今一寸一所に行ってくれたらかろう。

兄は言い争いのきらいな男なので、何だくだらないと言わんばかりの顔をしたが、

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兄は議論がきらいな男なので、何んだ下らないと云わぬばかりの顔をしたが、

「じゃ、さあ行こう」

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「じゃ、さあ行こう」

と立ち上がった。

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と立ち上がった。

梅子も笑いながら、すぐに立った。

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梅子も笑いながらすぐに立った。

三人でろうかをわたって父の部屋に行って、何もなかったかのように席についた。

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三人して廊下を渡って父の室に行って、何事も起らなかったかの如く着坐した。

そこでは、梅子が気をきかせて、代助の今までのことに父の小言が飛ばないようにうまく話を運んだ。

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そこでは、梅子が如才なく、代助の過去に父の小言が飛ばない様な手加減をした。

そうして話の流れを、なるべく今帰ったお客の品定めのほうへ持って行った。

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そうして談話の潮流を、なるべく今帰った来客の品評の方へ持って行った。

梅子は、佐川のお嬢さんをたいへんおとなしそうないい子だとほめた。

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梅子は佐川の令嬢を大変大人しそうない子だと賞めた。

これには父も兄も代助も賛成した。

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これには父も兄も代助も同意を表した。

けれども兄は、もしアメリカの先生の教育を受けたというのが本当なら、もう少しは西洋ふうにはきはきしそうなものだという疑いを出した。

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けれども、兄は、もし亜米利加アメリカのミスの教育を受けたというのが本当なら、もう少しは西洋流にはきはきしそうなものだと云う疑を立てた。

代助はその疑いにも賛成した。

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代助はその疑にも賛成した。

父と兄の妻は黙っていた。

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父と嫂は黙っていた。

そこで代助は、あのおとなしさははずかしがりのおとなしさだから、先生の教育とは別に、日本の男女のつきあいのしかたから来たものだろうと説明した。

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そこで代助は、あの大人しさは、羞耻はにかむ性質の大人おとなしさだから、ミスの教育とは独立に、日本の男女なんにょの社交的関係から来たものだろうと説明した。

父は、それもそうだと言った。

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父はそれもそうだと云った。

梅子は、お嬢さんが教育を受けた土地が京都だから、ああなのではないかと言った。

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梅子は令嬢の教育地が京都だから、ああなんじゃないかと推察した。

兄は、東京だって、お前みたいなのばかりはいないと言った。

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兄は東京だって、御前みた様なのばかりはいないと云った。

このとき、父はきびしい顔をして灰おとしをたたいた。

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この時父は厳正な顔をして灰吹を叩いた。

次に、顔だって人なみよりいいじゃありませんかと梅子が言った。

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次に、容色きりょうだって十人並よりいじゃありませんかと梅子が云った。

これには父も兄も文句はなかった。

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これには父も兄も異議はなかった。

代助も賛成だと打ち明けた。

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代助も賛成のむねを告白した。

四人はそれから、高木の品定めに移った。

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四人よったりはそれから高木の品評に移った。

おだやかないい人ということで、そのほうはすぐ片づいてしまった。

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温健の好人物と云う事で、その方はすぐ片付いてしまった。

あいにく、誰もお嬢さんの父母を知らなかった。

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不幸にして誰も令嬢の父母を知らなかった。

けれども、まじめで地味な人だということだけは、父が三人の前で請け合った。

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けれども、物堅い地味な人だと云うだけは、父が三人の前で保証した。

父はそれを、同じ県のたくさん税を納める議員の誰それから聞いたのだそうである。

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父はそれを同県下の多額納税議員の某から確めたのだそうである。

最後に、佐川の家の財産についても話が出た。

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最後に、佐川家の財産に就ても話が出た。

そのとき父は、ああいうのはふつうの会社をやる人より土台がしっかりしていて安全だと言った。

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その時父は、ああ云うのは、普通の実業家より基礎がしっかりしていて安全だと云った。

お嬢さんの人となりがだいたい決まったとき、父は代助に向かって、

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令嬢の資格がほぼ定まった時、父は代助に向って、

「大した文句もないだろう」

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「大した異存もないだろう」

と聞いた。

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と尋ねた。

その言い方といい、中身といい、どうするかね、くらいのものではなかった。

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その語調と云い、意味と云い、どうするかね位の程度ではなかった。

代助は、

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代助は、

「そうですな」

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「そうですな」

と、やはりはっきりしない答えをした。

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とやっぱりえ切らない答をした。

父はじっと代助を見ていたが、だんだんしわの多いひたいをくもらせた。

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父はじっと代助を見ていたが、段々しわの多い額を曇らした。

兄はしかたなしに、

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兄は仕方なしに、

「まあ、もう少しよく考えてみるがいい」

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「まあ、もう少し善く考えてみるがい」

と言って、代助のためにゆとりを作ってくれた。

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と云って、代助の為に余裕を付けてくれた。

十三

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十三

四日ほどしてから、代助はまた父の言いつけで、高木の出発を新橋まで見送った。

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四日程してから、代助は又父の命令で、高木の出立しゅったつを新橋まで見送った。

その日はねむいところを無理に早く起こされて、ねたりない頭を風にふかせたせいか、駅に着くころ、かみの毛の中に風邪をひいたような気がした。

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その日は眠い所を無理に早く起されて、足らない頭を風に吹かした所為せいか、停車場ステーションに着く頃、髪の毛の中に風邪を引いた様な気がした。

待合室に入るとすぐ、梅子から顔色がよくないと言われた。

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待合所に這入るやいなや、梅子から顔色がくないと云う注意を受けた。

代助は何も答えずに、ぼうしをぬいでときどきぬれた頭をおさえた。

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代助は何にも答えずに、帽子を脱いで、時々れた頭を抑えた。

しまいには、朝きれいに分けたかみがもじゃもじゃになった。

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仕舞には朝奇麗に分けた髪がもじゃもじゃになった。

ホームで、高木は突然代助に向かって、

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プラットフォームで高木は突然代助に向って、

「どうです、この汽車で神戸まで遊びに行きませんか」

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「どうですこの汽車で、神戸まで遊びに行きませんか」

とさそった。

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と勧めた。

代助はただ、ありがとうと答えただけであった。

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代助はただ難有ありがとうと答えただけであった。

いよいよ汽車の出るまぎわに、梅子はわざと窓ぎわに近寄って、とくにお嬢さんの名を呼んで、

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いよいよ汽車の出る間際まぎわに、梅子はわざと、窓際に近寄って、とくに令嬢の名を呼んで、

「近いうちにまたぜひいらっしゃい」

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「近い内に又是非いらっしゃい」

と言った。

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と云った。

お嬢さんは窓の中でていねいに会しゃくしたが、窓の外へはとくに言葉も聞こえなかった。

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令嬢は窓のなかで、叮嚀ていねい会釈えしゃくしたが、窓の外へは別段の言葉も聞えなかった。

汽車を見送って、また改札を出た四人は、それきりばらばらになった。

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汽車を見送って、又改札場を出た四人よったりは、それぎり離れ離れになった。

梅子は代助をさそって青山へ連れて行こうとしたが、代助は頭をおさえて断った。

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梅子は代助を誘って青山へ連れて行こうとしたが、代助は頭を抑えて応じなかった。

車に乗ってすぐ牛込へ帰って、そのまま書斎へ入って、あおむけにたおれた。

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車に乗ってすぐ牛込へ帰って、それなり書斎へ這入って、仰向に倒れた。

門野はちょっとそのようすをのぞきに来たが、代助のふだんを知っているので、言葉もかけず、いすに掛けてあるはおりだけをかかえて出て行った。

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門野は一寸その様子をのぞきに来たが、代助の平生を知っているので、言葉も掛けず、椅子いすに引っ掛けてある羽織だけを抱えて出て行った。

代助はねながら、自分のこの先はどうなるものだろうと考えた。

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代助は寐ながら、自分の近き未来をどうなるものだろうと考えた。

こうして放っておけば、どうしても嫁をもらわなければならなくなる。

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こうして打遣うちやって置けば、是非共嫁をもらわなければならなくなる。

嫁はもう今までにだいぶ断っている。

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嫁はもう今までに大分断っている。

この上断れば、あきれてあきらめられるか、本当におこられるか、どちらかになるらしい。

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この上断れば、愛想を尽かされるか、本当に怒り出されるか、何方どっちかになるらしい。

もしあきれられて、結婚のすすめをこれきりあきらめてもらえれば、それにこしたことはないが、おこられるのはとても困る。

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もし愛想を尽かされて、結婚勧誘をこれ限り断念して貰えれば、それに越した事はないが、怒られるのは甚だ迷惑である。

かといって、気の進まないものをもらいましょうと言うのは、今の時代の人間として馬鹿げている。

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と云って、進まぬものを貰いましょうと云うのは今代人きんだいじんとして馬鹿気ている。

代助はこのどちらにも決められない間をさまよった。

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代助はこのジレンマの間に彽徊ていかいした。

彼は父とちがって、初めからある計画を作って、自然をその計画どおりに押しつける昔ふうの人ではなかった。

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彼は父と違って、当初からある計画をこしらえて、自然をその計画通りに強いる古風な人ではなかった。

彼は自然を、人間の作ったどんな計画よりも大きなものと信じていたからである。

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彼は自然をもって人間の拵えたすべての計画よりも偉大なものと信じていたからである。

だから、父が自分の自然にさからって父の計画どおりを押しつけるならば、それは、追い出された妻が離縁状をたてに夫婦の関係を証明しようとするのと同じだと考えた。

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だから父が、自分の自然に逆らって、父の計画通りを強いるならば、それは、去られた妻が、離縁状をたてに夫婦の関係を証拠立てようとすると一般であると考えた。

けれども、そんな理屈を父に向かって言う気はまるでなかった。

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けれども、そんな理窟を、父に向って述べる気は、まるでなかった。

父を理屈で攻めることは、いちばんむずかしいことであった。

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父を理攻りぜめにする事は困難中の困難であった。

そのむずかしいことをやったところで、代助には何の得もなかった。

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その困難を冒したところで、代助に取っては何等の利益もなかった。

その結果は父のきげんを悪くするだけで、理由を言わずに結婚を断るのと変わりはなかった。

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その結果は父の不興を招くだけで、理由を云わずに結婚を拒絶するのとえらむ所はなかった。

彼は父と兄と兄の妻の三人の中で、父の人がらをいちばん疑っていた。

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彼は父と兄とあによめの三人の中で、父の人格にもっとも疑を置いた。

今度の結婚にしても、結婚そのものが父のたった一つの目的ではないだろうとまで思っていた。

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今度の結婚にしても、結婚その物が必ずしも父の唯一ゆいいつの目的ではあるまいとまで推察した。

けれども、父の本当のねらいがどこにあるかは、もちろんはっきり知る機会をもらえなかった。

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けれども父の本意が何処どこにあるかは、もとより明かに知る機会を与えられていなかった。

彼は子として、父の心をこんなふうに推し量ることを悪いとは考えなかった。

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彼は子として、父の心意を斯様かよう揣摩しまする事を、不徳義とは考えなかった。

だから、自分だけが多くの親子の中でいちばん不幸な者だというような考えは、少しも起こさなかった。

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従って自分だけが、多くの親子のうちで、尤も不幸なものであると云う様な考は少しも起さなかった。

ただこのために、今日までよりもっと父と自分の間がはなれて来そうなのがいやだった。

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ただこれがため、今日までの程度より以上に、父と自分の間が隔って来そうなのを不快に感じた。

彼はいちばんはなれた場合として、親子の縁が切れることを想像してみた。

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彼は隔離の極端として、父子絶縁の状態を想像してみた。

そうして、そこに一つの苦しみを見つけた。

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そうして其所そこに一種の苦痛を認めた。

けれども、その苦しみはたえられないほどのものではなかった。

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けれども、その苦痛は堪え得られない程度のものではなかった。

むしろ、それによって入って来るお金がとぎれるほうがおそろしかった。

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寧ろそれから生ずる財源の杜絶とぜつの方が恐ろしかった。

もしじゃがいもがダイヤモンドより大事になったら、人間はもう駄目であると、代助はふだんから考えていた。

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もし馬鈴薯ポテトー金剛石ダイヤモンドより大切になったら、人間はもう駄目であると、代助は平生から考えていた。

これから先、父のいかりにふれて万一お金の関係が切れるとすれば、彼はいやでもダイヤモンドを放り出して、じゃがいもにかじりつかなければならない。

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向後こうご父の怒に触れて、万一金銭上の関係が絶えるとすれば、彼はいやでも金剛石ダイヤモンドを放り出して、馬鈴薯ポテトーかじり付かなければならない。

そうして、そのうめ合わせには自然な愛が残るだけである。

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そうしてそのつぐないには自然の愛が残るだけである。

その愛の相手は、他人の妻であった。

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その愛の対象は他人の細君であった。

彼はねながら、いつまでも考えた。

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彼は寐ながら、何時いつまでも考えた。

けれども、彼の頭はいつまでもどこにもたどり着くことができなかった。

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けれども、彼の頭は何時までも何処へも到着する事が出来なかった。

彼は自分の寿命を決める力を持たないように、自分のこの先も決められなかった。

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彼は自分の寿命を極める権利を持たぬごとく、自分の未来をも極め得なかった。

同時に、自分の寿命におおよその見当がつくように、自分のこの先にも少しは影を感じた。

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同時に、自分の寿命に、大抵の見当を付け得る如く、自分の未来にも多少の影を認めた。

そうして、むだにその影をつかまえようとした。

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そうして、いたずらにその影を捕捉しようと企てた。

そのとき、代助の頭の働きは、夕やみを驚かすこうもりのようなまぼろしをちらりちらりと生み出すにすぎなかった。

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その時代助の脳の活動は、夕闇を驚ろかす蝙蝠かわほりの様な幻像をちらりちらりと産み出すに過ぎなかった。

その羽ばたきの光を追いかけてねているうちに、頭がふとんからうき上がって、ふわふわするように思われて来た。

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その羽搏はばたきの光を追い掛けて寐ているうちに、頭がゆかから浮き上がって、ふわふわする様に思われて来た。

そうして、いつの間にか浅いねむりに落ちた。

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そうして、何時の間にか軽い眠に陥った。

すると突然、誰かが耳のそばで火事を知らせるかねを打った。

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すると突然誰か耳のはたで半鐘を打った。

代助は火事という思いさえまだうかばないうちに目をさました。

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代助は火事と云う意識さえまだ起らない先に眼をました。

けれども、はね起きもせずにねていた。

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けれども跳ね起きもせずに寐ていた。

彼の夢にこんな音が出るのは、ほとんどふつうであった。

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彼の夢にこんな音の出るのはほとんど普通であった。

あるときは、それが目をさましたあとまでひびいていた。

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ある時はそれが正気に返った後までも響いていた。

五、六日前、彼は自分の家が大きくゆれる感じとともに目をさました。

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五六日前彼は、彼の家の大いに揺れる自覚と共に眠を破った。

そのとき、彼ははっきり、自分の下で動くたたみのようすを、肩とこしと背中の一部に感じた。

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その時彼は明らかに、彼の下に動く畳のさまを、肩と腰との一部に感じた。

彼はまた、夢の中で感じた心臓のどきどきを、さめたあとまで持ちこすことがたびたびあった。

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彼は又夢に得た心臓の鼓動を、覚めた後まで持ち伝える事がしばしばあった。

そんなときには聖人のように、胸に手を当てて、目を開けたままじっと天じょうを見つめていた。

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そんな場合には聖徒セイントの如く、胸に手を当てて、眼を開けたまま、じっと天井を見詰めていた。

代助はこのときも、かねの音がじいんと耳の底で鳴り終わるまで横になって待っていた。

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代助はこの時も半鐘の音が、じいんと耳の底で鳴り尽してしまうまで横になって待っていた。

それから起きた。

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それから起きた。

茶の間へ来てみると、自分のおぜんの上にすだれが掛けて、火ばちのそばに置いてあった。

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茶の間へ来て見ると、自分の膳の上に簀垂すだれが掛けて、火鉢のそばに据えてあった。

柱時計はもう十二時を回っていた。

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柱時計はもう十二時廻っていた。

おばあさんはご飯をすませたあとと見えて、下女部屋でおひつの上にひじをついて居ねむりをしていた。

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婆さんは、飯を済ました後と見えて、下女部屋で御櫃おはちの上にひじを突いて居眠りをしていた。

門野はどこへ行ったか、かげも見えなかった。

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門野は何処へ行ったか影さえ見えなかった。

代助はふろ場へ行って頭をぬらしたあと、一人で茶の間のおぜんについた。

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代助は風呂場へ行って、頭を濡らしたあと、独り茶の間の膳に就いた。

そこでさびしい食事をすませて、また書斎に戻ったが、久しぶりに今日は少し本を読もうというつもりであった。

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そこで、さみしい食事を済して、再び書斎に戻ったが、久し振りに今日は少し書見をしようと云う心組であった。

前から読みかけている洋書を、しおりのはさんであるところで開けてみると、前後のつながりをまるで忘れていた。

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かねて読み掛けてある洋書を、しおりの挟んである所で開けて見ると、前後の関係をまるで忘れていた。

代助の記憶にとって、こういうことはむしろめずらしかった。

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代助の記憶に取ってこう云う現象は寧ろ珍らしかった。

彼は学校にいたころから、かなりの読書家であった。

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彼は学校生活の時代から一種の読書家であった。

卒業のあとも、食べる心配なしに、本を買って読める身分をほこりにしていた。

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卒業の後も、衣食のわずらいなしに、購読の利益を適意に収め得る身分を誇りにしていた。

一ページも目を通さずに一日を送ることがあると、慣れのせいで、なんとなくすさんだ気持ちになった。

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ページも眼を通さないで、日を送ることがあると、習慣上何となく荒廃の感を催おした。

だから、たいていのことがあっても、なるべく都合をつけて活字に親しんだ。

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だから大抵な事故があっても、なるべく都合して、活字に親しんだ。

あるときは、読書そのものがただ一つの自分の仕事のような気がした。

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ある時は読書そのものが、唯一なる自己の本領の様な気がした。

代助は今、ぼんやりたばこをふかしながら、読みかけたページを二、三枚前にめくってみた。

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代助は今茫然ぼうぜんとして、烟草たばこくゆらしながら、読み掛けた頁を二三枚あとへ繰ってみた。

そこにどんな話があって、それがどう続くのか、頭に入れるためにちょっと骨を折った。

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そこにどんな議論があって、それがどう続くのか、頭を拵えるために一寸骨を折った。

その苦労は、小舟からさん橋へ移るほど楽ではなかった。

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その努力ははしけから桟橋さんばしへ移る程楽ではなかった。

食いちがった切り口の一方にしがみついているものが、急にもう一方へ移らされたようであった。

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食い違った断面の甲に迷付まごついているものが、急に乙に移るべく余儀なくされた様であった。

代助はそれでもがまんして、二時間ほど目をページの上に向けていた。

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代助はそれでも辛抱して、約二時間程眼を頁の上にさらしていた。

が、しまいにとうとうたえきれなくなった。

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が仕舞にとうとう堪え切れなくなった。

彼の読んでいるものは、活字のあつまりとしてある意味をもって彼の頭にうつるにはちがいないが、彼の肉や血に回る気配はまるで見えなかった。

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彼の読んでいるものは、活字の集合あつまりとして、ある意味を以て、彼の頭に映ずるには違ないが、彼の肉や血に廻る気色けしきは一向見えなかった。

彼は氷まくらごしに氷にかじりついたときのように物足りなく思った。

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彼は氷嚢ひょうのうを隔てて、氷に食い付いた時の様に物足らなく思った。

彼は本をふせた。

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彼は書物を伏せた。

そうして、こんなときに本を読むのは無理だと考えた。

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そうして、こんな時に書物を読むのは無理だと考えた。

同時に、もう休むこともできなくなったと考えた。

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同時にもう安息する事も出来なくなったと考えた。

彼の苦しみは、いつものあきあきした気分ではなかった。

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彼の苦痛は何時ものアンニュイではなかった。

何をするのもだるいというのとはちがって、何かしなくてはいられない頭の状態であった。

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何もるのがものういと云うのとは違って、何かなくてはいられない頭の状態であった。

彼は立ち上がって茶の間へ来て、たたんであるはおりをまた引っ掛けた。

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彼は立ち上がって、茶の間へ来て、畳んである羽織を又引掛た。

そうして、玄関にぬぎ捨てた下駄をはいて、駆け出すように門を出た。

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そうして玄関に脱ぎ棄てた下駄を穿いてけ出す様に門を出た。

時刻は四時ごろであった。

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時は四時頃であった。

神楽坂を下りて、あてもなく、目についた最初の電車に乗った。

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神楽坂を下りて、当もなく、眼に付いた第一の電車に乗った。

車掌に行き先を聞かれたとき、口から出まかせの返事をした。

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車掌に行先を問われたとき、口から出任せの返事をした。

さいふを開けたら、三千代にやった旅行のお金の残りが、三つ折りの奥のほうにまだ入っていた。

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紙入を開けたら、三千代に遣った旅行費の余りが、三折の深底の方にまだ這入っていた。

代助は切符を買ったあとで、お札の数を調べてみた。

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代助は乗車券を買った後で、さつの数を調べてみた。

彼はその晩を、赤坂のある待合(まちあい)で過ごした。

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彼はその晩を赤坂のある待合で暮らした。

そこでおもしろい話を聞いた。

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其所で面白い話を聞いた。

ある若くて美しい女がある男と関係して、その子をみごもったところ、いよいよ子を産む段になってなみだをこぼして悲しがった。

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ある若くて美くしい女が、さる男と関係して、その種を宿した所が、いよいよ子を生む段になって、涙をこぼして悲しがった。

あとからそのわけを聞いたら、こんな年で子どもを産まされるのは情けないからだと答えた。

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後からその訳を聞いたら、こんな年で子供を生ませられるのは情ないからだと答えた。

この女は、愛だけに生きられる時期があまりに短すぎて、親子の関係が容しゃなく若い頭の上におそいかかって来たことに、はかなさを感じたのであった。

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この女は愛をもっぱらにする時機が余り短か過ぎて、親子の関係が容赦もなく、若い頭の上を襲って来たのに、一種の無定むじょうを感じたのであった。

それはもちろん、かたぎの女ではなかった。

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それは無論堅気かたぎの女ではなかった。

代助は、体の美しさと心の愛にだけ自分をささげて、そのほかを見ない女の心のありようとして、この話をとてもおもしろいと思った。

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代助は肉の美と、霊の愛にのみ己れをささげて、その他を顧みぬ女の心理状態として、この話を甚だ興味あるものと思った。

次の日になって、代助はとうとうまた三千代に会いに行った。

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翌日になって、代助はとうとう又三千代に逢いに行った。

そのとき彼は腹の中で、この間置いて来たお金のことを三千代が平岡に話しただろうか、話さなかっただろうか、もし話したとすればどんな結果を夫婦の間に生んだだろうか、それが気がかりだからという口実を作った。

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その時彼は腹の中で、先達せんだって置いて来た金の事を、三千代が平岡に話したろうか、話さなかったろうか、もし話したとすればどんな結果を夫婦の上に生じたろうか、それが気掛りだからと云う口実を拵らえた。

彼はこの気がかりが自分を追い立てて、じっと落ち着いていられないようにあちこち引っぱり回したあげく、とうとう三千代のほうへふき寄せるのだと考えた。

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彼はこの気掛が、自分を駆って、じっと落ち付かれない様に、東西を引張ひっぱり回した揚句、ついに三千代の方に吹き付けるのだと解釈した。

代助は家を出る前に、昨夜着た下着もひとえもすべて取りかえて、気持ちを新しくした。

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代助は家を出る前に、昨夕ゆうべ着た肌着も単衣ひとえことごとく改めて気をあらたにした。

外は温度計の目もりが日ごとに上がるころであった。

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外は寒暖計の度盛の日をうてあがる頃であった。

歩いていると、じめじめした梅雨(つゆ)がかえって待ち遠しいほど強く日が照った。

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歩いていると、湿っぽい梅雨つゆかえって待ち遠しい程さかんに日が照った。

代助は昨夜のはね返りで、この明るい空気の中に落ちる自分の黒い影が気になった。

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代助は昨夕の反動で、この陽気な空気の中に落ちる自分の黒い影が苦になった。

広いつばの夏ぼうしをかぶりながら、早く雨の季節になればいいという気持ちがあった。

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広いつばの夏帽をかぶりながら、早く雨季にればいと云う心持があった。

その雨の季節は、もう二、三日先まで来ていた。

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その雨季はもう二三日の眼前にせまっていた。

彼の頭は、それを知らせるかのようにどんよりと重かった。

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彼の頭はそれを予報するかの様に、どんよりと重かった。

平岡の家の前へ来たときは、くもった頭を厚くおおうかみの根もとが息苦しかった。

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平岡の家の前へ来た時は、曇った頭を厚くおおう髪の根元が息切いきれていた。

代助は家に入る前に、まずぼうしをぬいだ。

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代助は家にる前にず帽子を脱いだ。

こうし戸にはかぎがかかっていた。

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格子こうしには締りがしてあった。

物音をたよりに裏へ回ると、三千代は下女と洗った布をのばす仕事をしていた。

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物音を目的めあてに裏へ回ると、三千代は下女と張物をしていた。

物置の横へ立てかけた板のとちゅうから細い首を前へ出して、かがみながら、くちゃくちゃになったものをていねいに引きのばしていた手を止めて、代助を見た。

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物置の横へ立て掛けた張板の中途から、細い首を前へ出して、こごみながら、苦茶苦茶になったものを丹念に引き伸ばしつつあった手を留めて、代助を見た。

しばらくは何とも言わなかった。

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一寸ちょっとは何とも云わなかった。

代助も、しばらくはただ立っていた。

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代助も、しばらくはただ立っていた。

ようやく、

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ようやくにして、

「また来ました」

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「又来ました」

と言ったとき、三千代はぬれた手を振って、駆けこむように台所から上がった。

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と云った時、三千代は濡れた手を振って、馳け込む様に勝手から上がった。

同時に、表へ回れと目で合図をした。

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同時に表へ回れと眼で合図をした。

三千代は自分でくつをぬぐところへ下りて、こうし戸のかぎを外しながら、

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三千代は自分で沓脱くつぬぎへ下りて、格子のしまりを外しながら、

「ぶっそうだから」

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「無用心だから」

と言った。

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と云った。

今まで日の通るすんだ空気の下で手を動かしていたせいで、ほおのところがほてって見えた。

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今まで日のとおる澄んだ空気の下で、手を動かしていた所為せいで、頬の所がほてって見えた。

それがひたいのあたりへ来て、いつものように青白く変わっているところに、汗が少しにじみ出した。

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それが額際へ来て何時もの様に蒼白あおしろく変っている辺に、汗が少し煮染にじみ出した。

代助はこうし戸の外から、三千代のとてもうすいはだをながめて、戸の開くのを静かに待った。

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代助は格子の外から、三千代の極めて薄手な皮膚を眺めて、戸の開くのを静かに待った。

三千代は、

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三千代は、

「お待たせしました」

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「御待遠さま」

と言って、代助を通すように一歩横へ下がった。

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と云って、代助をいざなう様に、一足横へ退いた。

代助は三千代とすれちがうようにして中へ入った。

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代助は三千代とすれすれになって内へ這入はいった。

座敷へ来てみると、平岡の机の前にむらさきのざぶとんがちゃんと置いてあった。

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座敷へ来て見ると、平岡の机の前に、紫の座蒲団がちゃんと据えてあった。

代助はそれを見たとき、ちょっといやな気持ちがした。

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代助はそれを見た時一寸厭な心持がした。

土のならされていない庭の色が黄色く光るところに、長い草が見苦しく生えていた。

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土のれない庭の色が黄色に光る所に、長い草が見苦しく生えた。

代助はまた、いそがしいところをじゃまして悪いというありふれた言いわけをしながら、このおもしろみのない庭をながめた。

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代助は又忙がしい所を、邪魔に来て済まないという様な尋常な云訳を述べながら、この無趣味な庭を眺めた。

そのとき、三千代をこんな家に置いておくのは実際気の毒だという気が起こった。

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その時三千代をこんな家へ入れて置くのは実際気の毒だという気が起った。

三千代は水仕事でつま先の少しふやけた手をひざの上に重ねて、あまりたいくつだから洗った布をのばしていたところだと言った。

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三千代は水いじりで爪先つまさきの少しふやけた手をひざの上に重ねて、あまり退屈だから張物をしていた所だと云った。

三千代のたいくつという意味は、夫がいつも外へ出ていて、変わりばえのしない留守番の時間をすることもなく苦しむということであった。

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三千代の退屈という意味は、夫が始終外へ出ていて、単調な留守居の時間を無聊ぶりょうに苦しむと云う事であった。

代助はわざと、

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代助はわざと、

「けっこうな身分ですね」

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「結構な身分ですね」

とからかった。

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と冷かした。

三千代は、自分のすさんだ胸の中を代助にうったえるようすもなかった。

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三千代は自分の荒涼な胸のうちを代助に訴える様子もなかった。

黙って、となりの部屋へ立って行った。

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黙って、次の間へ立って行った。

小だんすの引き手を鳴らして、赤いビロードを張った小さい箱を持って出て来た。

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用箪笥ようだんすの環を響かして、赤い天鵞絨ビロードで張ったさい箱を持って出て来た。

代助の前にすわって、それを開けた。

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代助の前へ坐って、それを開けた。

中には昔、代助があげた指輪がちゃんと入っていた。

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中には昔し代助の遣った指環ゆびわがちゃんと這入っていた。

三千代はただ、

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三千代は、ただ

「いいでしょう、ね」

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いでしょう、ね」

と代助にあやまるように言って、すぐまた立ってとなりの部屋へ行った。

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と代助に謝罪する様に云って、すぐ又立って次の間へ行った。

そうして、人目をはばかるように、思い出の指輪をそそくさと小だんすにしまって、もとの席に戻った。

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そうして、世の中をはばかる様に、記念の指環をそこそこに用箪笥に仕舞って元の座に戻った。

代助は指輪については何も言わなかった。

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代助は指環に就ては何事も語らなかった。

庭のほうを見て、

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庭の方を見て、

「そんなにひまなら、庭の草でも取ったらどうです」

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「そんなにひまなら、庭の草でも取ったら、どうです」

と言った。

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と云った。

すると今度は、三千代のほうが黙ってしまった。

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すると今度は三千代の方が黙ってしまった。

それがしばらく続いたあとで、代助はまたあらためて聞いた。

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それが、少時しばらく続いた後で代助は又改ためて聞いた。

「この間のことを平岡君に話したんですか」

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「この間の事を平岡君に話したんですか」

三千代は低い声で、

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三千代は低い声で、

「いいえ」

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「いいえ」

と答えた。

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と答えた。

「じゃ、まだ知らないんですか」

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「じゃ、だ知らないんですか」

と聞き返した。

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と聞き返した。

そのときの三千代の説明では、話そうと思ったけれども、このごろ平岡は一度も落ち着いて家にいたことがないので、つい話しそびれてまだ知らせずにいるということであった。

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その時三千代の説明には、話そうと思ったけれども、この頃平岡はついぞ落ち付いてうちにいた事がないので、つい話しそびれて未だ知らせずにいると云う事であった。

代助はもちろん、三千代の説明をうそとは思わなかった。

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代助は固より三千代の説明をうそとは思わなかった。

けれども、五分のひまさえあれば夫に話せることを、今日までそのままにしてあるのは、三千代の腹の中になんだか話しにくい引っかかりがあるからだと思わずにはいられなかった。

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けれども、五分の閑さえあれば夫に話される事を、今日までそれなりに為てあるのは、三千代の腹の中に、何だか話しにくい或わだかまりがあるからだと思わずにはいられなかった。

自分は三千代を、平岡に対してそれだけ後ろめたい人にしてしまったと代助は考えた。

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自分は三千代を、平岡に対して、それだけ罪のある人にしてしまったと代助は考えた。

けれども、それはそれほど代助の心を痛めなかった。

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けれどもそれはさ程に代助の良心をすには至らなかった。

法律のばつはともかく、自然のばつとして、平岡もこの結果にはっきり責任を分けなければならないと思ったからである。

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法律の制裁はいざ知らず、自然の制裁として、平岡もこの結果に対して明かにせめを分たなければならないと思ったからである。

代助は三千代に、平岡の近ごろのようすを聞いてみた。

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代助は三千代に平岡の近来の模様を尋ねてみた。

三千代はいつものように、多くを語りたがらなかった。

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三千代は例によって多くを語る事を好まなかった。

しかし、平岡の妻に対する接し方が結婚したころとちがっているのははっきりしていた。

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しかし平岡の妻に対する仕打が結婚当時と変っているのは明かであった。

代助は、夫婦が東京へ帰ったときすでにそれを見ぬいた。

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代助は夫婦が東京へ帰った当時既にそれを見抜いた。

それから後、あらためて二人の心の中を聞いたことはないが、それが日ごとに悪いほうへ速さを増して進んでいるのは、ほとんどうたがえない事実と見えた。

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それから以後改まって両人ふたりの腹の中を聞いた事はないが、それが日毎ひごとに好くない方に、速度を加えて進行しつつあるのは殆んど争うべからざる事実と見えた。

夫婦の間に代助という第三者が入ったためにこのへだたりが起こったとすれば、代助はこの方面に向かって、もっと気をつけて動いたかも知れなかった。

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夫婦の間に、代助と云う第三者が点ぜられたがために、この疎隔そかくが起ったとすれば、代助はこの方面に向って、もっと注意深く働らいたかも知れなかった。

けれども代助は、自分の考えに照らして、そうは思えなかった。

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けれども代助は自己の悟性に訴えて、そうは信ずる事が出来なかった。

彼はこの結果の一部を、三千代の病気のせいだと考えた。

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彼はこの結果の一部分を三千代の病気に帰した。

そうして、体のことが夫の心にはね返ったのだと決めた。

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そうして、肉体上の関係が、夫の精神に反響を与えたものと断定した。

またその一部を、子どもの死のせいだと考えた。

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又その一部分を子供の死亡に帰した。

それから、ほかの一部を平岡の遊びのせいだと考えた。

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それから、他の一部分を平岡の遊蕩ゆうとうに帰した。

またほかの一部を、会社員としての平岡の失敗のせいだと考えた。

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又他の一部分を会社員としての平岡の失敗に帰した。

最後に、残りの一部を、平岡のだらしなさから生まれたお金の事情のせいだと考えた。

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最後に、残りの一部分を、平岡の放埒ほうらつから生じた経済事状に帰した。

すべてをまとめた上で、平岡はもらうべきでない人をもらい、三千代は嫁ぐべきでない人に嫁いだのだと結論した。

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すべてを概括した上で、平岡はもらうべからざる人を貰い、三千代は嫁ぐからざる人に嫁いだのだと解決した。

代助は心の中で、自分が平岡に頼まれて三千代を彼のためにとりもったことをひどく後悔した。

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代助は心のうちで痛く自分が平岡の依頼に応じて、三千代を彼の為に周旋した事を後悔した。

けれども、自分が三千代の心を動かしたから平岡が妻からはなれたとは、どうしても思えなかった。

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けれども自分が三千代の心を動かすが為に、平岡がさいから離れたとは、どうしても思い得なかった。

同時に、代助の三千代への思いが、この夫婦の今の関係をなくてはならない条件として強まっていることも、また一方では打ち消せなかった。

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同時に代助の三千代に対する愛情は、この夫婦の現在の関係を、必須条件として募りつつある事もまた一方ではいなみ切れなかった。

三千代が平岡に嫁ぐ前、代助と三千代の仲がどこまで進んでいたかはひとまず置くとしても、彼は今の三千代を決して知らんぷりできなかった。

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三千代が平岡に嫁ぐ前、代助と三千代の間柄は、どの位の程度まで進んでいたかは、しばらくくとしても、彼は現在の三千代には決して無頓着むとんじゃくでいる訳には行かなかった。

彼は病気にかかった三千代を、ただの昔の三千代より気の毒に思った。

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彼は病気に冒された三千代をただの昔の三千代よりは気の毒に思った。

彼は子どもをなくした三千代を、ただの昔の三千代より気の毒に思った。

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彼は小供をくなした三千代をただの昔の三千代よりは気の毒に思った。

彼は夫の愛を失いつつある三千代を、ただの昔の三千代より気の毒に思った。

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彼は夫の愛を失いつつある三千代をただの昔の三千代よりは気の毒に思った。

彼は暮らしの苦しさに苦しむ三千代を、ただの昔の三千代より気の毒に思った。

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彼は生活難に苦しみつつある三千代をただの昔の三千代よりは気の毒に思った。

ただし、代助はこの夫婦の間を正面から永久に引きはなそうとするほど大胆ではなかった。

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ただし、代助はこの夫婦の間を、正面から永久に引き放そうと試みる程大胆ではなかった。

彼の愛は、そこまでのぼせてはいなかった。

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彼の愛はそう逆上してはいなかった。

三千代が目の前で苦しんでいるのはお金の問題であった。

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三千代ののあたり、苦しんでいるのは経済問題であった。

平岡が自分の力で出せるだけの暮らしのお金を家に回していないことは、三千代の口ぶりで確かであった。

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平岡が自力で給し得るだけの生活費を勝手の方へ回さない事は、三千代の口吻こうふんたしかであった。

代助は、この点だけでもまずどうかしなければなるまいと考えた。

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代助はこの点だけでもまずどうかしなければなるまいと考えた。

それで、

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それで、

「一つ私が平岡君に会って、よく話してみよう」

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「一つ私が平岡君にって、く話してみよう」

と言った。

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と云った。

三千代はさびしい顔をして代助を見た。

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三千代は淋しい顔をして代助を見た。

うまく行けばいいが、しくじればますます三千代が困るばかりだとは代助もわかっていたので、むりにそうしようとも言えなかった。

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うまく行けば結構だが、そくなえばますます三千代の迷惑になるばかりだとは代助も承知していたので、強いてそうしようとも主張しかねた。

三千代はまた立って、となりの部屋から一通の手紙を持って来た。

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三千代は又立って次の間から一封の書状を持って来た。

手紙は、うす青いふうとうに入っていた。

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書状は薄青い状袋へ這入はいっていた。

北海道にいる父から三千代へあてたものであった。

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北海道にいる父から三千代へあてたものであった。

三千代はふうとうの中から長い手紙を出して、代助に見せた。

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三千代は状袋の中から長い手紙を出して、代助に見せた。

手紙には、向こうのぐあいがよくないことや、物の値段が高くて暮らしにくいことや、親類も知り合いもなくて心細いことや、東京のほうへ出たいが都合はつかないかということや――どれもあわれなことばかり書いてあった。

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手紙には向うの思わしくない事や、物価の高くて活計くらしにくい事や、親類も縁者もなくて心細い事や、東京の方へ出たいが都合はつくまいかと云う事や、――凡てあわれな事ばかり書いてあった。

代助はていねいに手紙を巻き戻して、三千代にわたした。

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代助は叮嚀ていねいに手紙を巻き返して、三千代に渡した。

そのとき、三千代は目になみだをためていた。

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その時三千代は眼の中に涙をめていた。

三千代の父は、昔はいくらか財産と言えるだけの田畑の持ち主であった。

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三千代の父はかつて多少の財産ととなえらるべき田畠たはたの所有者であった。

日露戦争のころ、人にすすめられて株に手を出してすっかりしくじってから、思い切って先祖の土地を売りはらって北海道へわたったのである。

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日露戦争の当時、人のすすめに応じて、株に手を出して全く遣りそくなってから、いさぎよく祖先の地を売り払って、北海道へ渡ったのである。

その後のことは、代助も今この手紙を見せられるまでまったく知らなかった。

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その後の消息は、代助も今この手紙を見せられるまで一向知らなかった。

親類はいてもいないのと同じだとは、三千代の兄が生きていたころによく代助に言った言葉であった。

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親類はあれども無きが如しだとは三千代の兄が生きている時分よく代助に語った言葉であった。

やはり三千代は、父と平岡だけをたよりに生きていた。

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果して三千代は、父と平岡ばかりを便たよりに生きていた。

「あなたはうらやましいのね」

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貴方あなたうらやましいのね」

とまばたきしながら言った。

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またたきながら云った。

代助は、それを打ち消す勇気に乏しかった。

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代助はそれを否定する勇気に乏しかった。

しばらくしてからまた、

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しばらくしてから又、

「どうして、まだ奥さんをおもらいにならないの」

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「何だって、まだ奥さんを御貰いなさらないの」

と聞いた。

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と聞いた。

代助は、この問いにも答えることができなかった。

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代助はこの問にも答える事が出来なかった。

しばらく黙って三千代の顔を見ているうちに、女のほおから血の色がだんだん引いて行って、ふつうより目につくほど青白くなった。

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しばらく黙然もくねんとして三千代の顔を見ているうちに、女の頬から血の色が次第に退ぞいて行って、普通よりは眼に付く程蒼白くなった。

そのとき、代助は三千代と向かい合ってこれ以上長くすわっていることのあぶなさに、初めて気がついた。

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その時代助は三千代と差向で、より長く坐っている事の危険に、始めて気が付いた。

自然な気持ちから流れ出るおたがいの言葉が、知らないうちに二人を追い立てて、守るべき線をこえさせるのは、あと二、三分のうちであった。

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自然の情合から流れる相互の言葉が、無意識のうちに彼等を駆って、準縄じゅんじょうらつを踏み超えさせるのは、今二三分のうちにあった。

代助はもちろん、それより先へ進んでも、なお知らん顔で引き返せる話し方を知っていた。

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代助はもとよりそれより先へ進んでも、なお素知そしらぬ顔で引返し得る、会話の方を心得ていた。

彼は西洋の小説を読むたびに、その中に出て来る男女のむつまじい言葉があまりにあからさまで、あまりに好き勝手で、しかもあまりにまっすぐでこいのを、ふだんから不思議に思っていた。

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彼は西洋の小説を読むたびに、そのうちに出て来る男女なんにょの情話が、あまりに露骨で、あまりに放肆ほうしで、かつあまりに直線的に濃厚なのを平生から怪んでいた。

もとの言葉で読めばともかく、日本語には訳せない味のものだと考えていた。

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原語で読めばとにかく、日本には訳し得ぬ趣味のものと考えていた。

だから彼は、自分と三千代の関係を進めるために、外国から来た言い回しを使う気は少しもなかった。

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従って彼は自分と三千代との関係を発展させる為に、舶来の台詞せりふを用いる意志はごうもなかった。

少なくとも二人の間では、ふつうの言葉で十分に用が足りたのである。

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少なくとも二人の間では、尋常の言葉で充分用が足りたのである。

が、そこに、こちらの立場から知らないうちにあちらの立場へすべりこむあぶなさがひそんでいた。

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が、其所そこに、甲の位地から、知らぬ間に乙の位置に滑り込む危険が潜んでいた。

代助はやっと、あと一歩というきわどいところで踏みとどまった。

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代助は辛うじて、今一歩と云うきわどい所で、踏み留まった。

帰るとき、三千代は玄関まで送って来て、

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帰る時、三千代は玄関まで送って来て、

「さびしくていけないから、また来てちょうだい」

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さむしくって不可いけないから、又来て頂戴ちょうだい

と言った。

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と云った。

下女は、まだ裏で布をのばす仕事をしていた。

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下女はまだ裏で張物をしていた。

外へ出た代助は、ふらふらと百メートルほど歩いた。

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表へ出た代助は、ふらふらと一丁程歩いた。

いいところで切り上げたという思いがあるはずなのに、彼の心にはそういう満足が少しもなかった。

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い所で切り上げたという意識があるべきはずであるのに、彼の心にはそう云う満足がちっとも無かった。

かといって、もっと三千代と向かい合っていて、気持ちのままに話しつくして帰ればよかったという後悔もなかった。

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と云って、もっと三千代と対坐していて、自然の命ずるがままに、話し尽して帰ればかったという後悔もなかった。

彼は、あそこで切り上げても、五分十分あとで切り上げても、けっきょくは同じだったと思い出した。

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彼は、彼所あすこで切り上げても、五分十分の後切り上げても、必竟ひっきょうは同じ事であったと思い出した。

自分と三千代の今の関係は、この前会ったときすでに進んでいたのだと思い出した。

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自分と三千代との現在の関係は、この前逢った時、既に発展していたのだと思い出した。

いや、その前に会ったときすでに、と思い出した。

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否、その前逢った時既に、と思い出した。

代助は二人の過去を順々にさかのぼってみて、どの場面にも、二人の間に燃える愛の炎を見つけないことはなかった。

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代助は二人の過去を順次にさかのぼってみて、いずれの断面にも、二人の間に燃る愛の炎を見出みいださない事はなかった。

けっきょくは、三千代が平岡に嫁ぐ前、すでに自分に嫁いでいたのも同じことだと考えつめたとき、彼はたえられない重いものを胸の中に投げこまれた。

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必竟は、三千代が平岡に嫁ぐ前、既に自分に嫁いでいたのも同じ事だと考え詰めた時、彼は堪えがたき重いものを、胸の中に投げ込まれた。

彼はその重さのために、足がふらついた。

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彼はその重量の為に、足がふらついた。

家に帰ったとき、門野が、

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家に帰った時、門野が、

「たいへん顔の色が悪いようですね、どうかなさいましたか」

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「大変顔の色が悪い様ですね、どうかなさいましたか」

と聞いた。

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と聞いた。

代助はふろ場へ行って、青いひたいからきれいに汗をふき取った。

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代助は風呂場へ行って、蒼い額から奇麗に汗をき取った。

そうして、長くのびすぎたかみを冷たい水につけた。

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そうして、長く延び過ぎた髪を冷水に浸した。

それから二日ほど、代助はまったく外出しなかった。

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それから二日程代助は全く外出しなかった。

三日目の午後、電車に乗って平岡を新聞社にたずねた。

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三日目の午後、電車に乗って、平岡を新聞社に尋ねた。

彼は平岡に会って、三千代のために十分に話をする決心であった。

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彼は平岡に逢って、三千代のために充分話をする決心であった。

使いの少年に名刺をわたして、ほこりだらけの受付で待っている間、彼は何度もたもとからハンカチを出して鼻をおおった。

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給仕に名刺を渡して、ほこりだらけの受付に待っている間、彼はしばしばたもとから手帛ハンケチを出して、鼻をおおうた。

やがて、二階の応接間へ案内された。

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やがて、二階の応接間へ案内された。

そこは風通しの悪い、蒸し暑い、うす暗いせまい部屋であった。

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其所は風通しの悪い、蒸し暑い、陰気な狭い部屋であった。

代助はここでたばこを一本ふかした。

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代助は此所ここ烟草たばこを一本吹かした。

編集室と書いた戸口がいつも開いて、人が出たり入ったりした。

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編輯室へんしゅうしつと書いた戸口が始終開いて、人が出たり這入たりした。

代助が会いに来た平岡も、その戸口から現れた。

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代助の逢いに来た平岡もその戸口から現われた。

この間見た夏服を着て、相変わらずきれいなえりとそで口をつけていた。

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先達て見た夏服を着て、相変らず奇麗なカラとカフスを掛けていた。

いそがしそうに、

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忙しそうに、

「やあ、しばらく」

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「やあ、しばらく」

と言って代助の前に立った。

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と云って代助の前に立った。

代助も相手にうながされたように立ち上がった。

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代助も相手にそそのかされた様に立ち上がった。

二人は立ったままちょっと話をした。

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二人は立ちながら一寸話をした。

ちょうど編集のいそがしいときで、ゆっくりすることもできなかった。

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丁度編輯のいそがしい時でゆっくりどうする事も出来なかった。

代助はあらためて平岡の都合を聞いた。

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代助は改めて平岡の都合を聞いた。

平岡はポケットから時計を出して見て、

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平岡はポッケットから時計を出して見て、

「悪いが、もう一時間ほどして来てくれないか」

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「失敬だが、もう一時間程して来てくれないか」

と言った。

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と云った。

代助はぼうしを取って、また暗いほこりだらけの階段を下りた。

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代助は帽子を取って、又暗い埃だらけの階段を下りた。

外へ出ると、それでもすずしい風がふいた。

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表へ出ると、それでも涼しい風が吹いた。

代助はあてもなく、そこらをぶらついた。

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代助はあてもなく、其所いらを逍遥ぶらついた。

そうして、いよいよ平岡と会ったら、どんなふうに話を切り出そうかと考えた。

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そうして、いよいよ平岡と逢ったら、どんな風に話を切り出そうかと工夫した。

代助のねらいは、三千代に今すぐの安らぎを少しでもあたえたいためにほかならなかった。

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代助の意は、三千代に刻下の安慰を、少しでも与えたい為にほかならなかった。

けれども、そのためにかえって平岡の気を悪くすることがあるかも知れないと思った。

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けれども、それが為に、かえって平岡の感情を害する事があるかも知れないと思った。

代助はその悪い結果のいちばん先として、平岡と自分の仲が切れることさえ考えた。

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代助はその悪結果の極端として、平岡と自分の間に起り得る破裂をさえ予想した。

しかし、そのときどうやって三千代を救おうかというはっきりした案はなかった。

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然し、その時はどんな具合にして、三千代を救おうかと云う成案はなかった。

代助は三千代と向かい合って、自分たち二人の間をあれ以上どうかする勇気を持たなかったと同時に、三千代のために何かしなくてはいられなくなったのである。

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代助は三千代と相対ずくで、自分等二人の間をあれ以上にどうかする勇気をたなかったと同時に、三千代のために、何かしなくてはいられなくなったのである。

だから、今日の話し合いは頭で考えた安全なやり方というより、むしろ気持ちのつむじ風に巻きこまれた思い切った動きであった。

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だから、今日の会見は、理知の作用から出た安全の策と云うよりも、むしじょう旋風つむじき込まれた冒険の働きであった。

そこにいつもの代助とちがう点が出ていた。

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其所に平生の代助と異なる点があらわれていた。

けれども、代助自身はそれに気がついていなかった。

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けれども、代助自身はそれに気が付いていなかった。

一時間の後、彼はまた編集室の入り口に立った。

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一時間の後彼は又編輯室の入口に立った。

そうして、平岡といっしょに新聞社の門を出た。

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そうして、平岡と一所に新聞社の門を出た。

裏通りを三、四百メートル来たところで、平岡が先に立ってある家に入った。

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裏通りを三四丁来た所で、平岡が先へ立って或家に這入った。

座敷ののきにつりしのぶ(つるして楽しむ草のかざり)が掛かって、せまい庭が水で一面にぬれていた。

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座敷の軒に釣荵つりしのぶが懸って、狭い庭が水で一面にれていた。

平岡は上着をぬいで、すぐあぐらをかいた。

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平岡は上衣うわぎを脱いで、すぐ胡坐あぐらをかいた。

代助はそれほど暑いとも思わなかった。

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代助はさ程暑いとも思わなかった。

うちわは手にしただけですんだ。

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団扇うちわは手にしただけで済んだ。

話は、新聞社の中のようすから始まった。

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会話は新聞社内の有様から始まった。

平岡は、いそがしいようでかえって楽な商売でいいと言った。

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平岡は忙しい様で却って楽な商売で好いと云った。

その言い方には、とくにやせがまんのようすも見えなかった。

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その語気には別に負惜みの様子も見えなかった。

代助は、それは責任がないからだろうとからかった。

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代助は、それは無責任だからだろうと調戯からかった。

平岡はまじめになって言い返した。

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平岡は真面目まじめになって、弁解をした。

そうして、今の新聞の仕事ほど競争が激しくて、すばやい頭がいるものはないという理由を説明した。

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そうして、今日の新聞事業程競争のはげしくて、機敏な頭を要するものはないと云う理由わけを説明した。

「なるほど、ただ文章がうまいだけじゃしかたがあるまいよ」

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「なるほどただ筆が達者なだけじゃ仕様があるまいよ」

と代助は、とくに感心したようすを見せなかった。

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と代助は別に感服した様子を見せなかった。

すると、平岡はこう言った。

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すると、平岡はこう云った。

「僕は経済の係りだが、それだけでもなかなかおもしろい事実が集まっている。少し、君の家の会社の内側でも書いてお見せしようか」

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「僕は経済方面の係りだが、単にそれだけでも中々面白い事実が挙がっている。ちと、君の家の会社の内幕でも書いて御覧に入れようか」

代助はふだんの見方から、こんなことを言われて驚くほどぼんやりしてはいなかった。

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代助は自分の平生の観察から、こんな事を云われて、驚ろく程ぼんやりしてはいなかった。

「書くのもおもしろいだろう。そのかわり公平に願いたいな」

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「書くのも面白いだろう。その代り公平に願いたいな」

と言った。

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と云った。

「もちろんうそは書かないつもりだ」

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「無論嘘は書かない積りだ」

「いえ、僕の兄の会社ばかりでなく、どこも同じように筆でばっしてもらいたいという意味だ」

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「いえ、僕の兄の会社ばかりでなく、一列一体に筆誅ひっちゅうして貰いたいと云う意味だ」

平岡はこのとき、悪意のある笑い方をした。

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平岡はこの時邪気のある笑い方をした。

そうして、

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そうして、

「日糖事件だけじゃ物足りないからね」

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「日糖事件だけじゃ物足りないからね」

と、何か言いたそうにほのめかした。

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と奥歯に物の挟まった様に云った。

代助は黙って酒を飲んだ。

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代助は黙って酒を飲んだ。

話はこの調子で、だんだんはずまなくなるように見えた。

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話はこの調子で段々はずみを失う様に見えた。

すると平岡は、会社の世界の内側の話につながるとでも思ったのか、何かのはずみにふと、日清戦争のころ、大倉組(おおくらぐみ)に起こった話を代助に聞かせた。

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すると平岡は、実業界の内状に関聯かんれんするとでも思ったものか、何かの拍子に、ふと、日清戦争の当時、大倉組に起った逸話を代助に吹聴ふいちょうした。

そのとき、大倉組は広島で、軍隊の食料として何百頭かの牛を陸軍に納めるはずになっていた。

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その時、大倉組は広島で、軍隊用の食料品として、何百頭かの牛を陸軍に納める筈になっていた。

それを毎日何頭かずつ納めておいては、夜になるとそっと行ってぬすみ出して来た。

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それを毎日何頭かずつ、納めて置いては、夜になると、そっと行ってぬすみ出して来た。

そうして、知らん顔をして次の日同じ牛をまた納めた。

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そうして、知らぬ顔をして、翌日あくるふ同じ牛を又納めた。

役人は毎日毎日、同じ牛を何度も買っていた。

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役人は毎日々々同じ牛を何遍も買っていた。

が、しまいに気がついて、一度受け取った牛には焼き印を押した。

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が仕舞に気が付いて、一遍受取った牛には焼印を押した。

ところが、それを知らずにまたぬすみ出した。

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ところがそれを知らずに、又偸み出した。

それだけでなく、それを平気で次の日連れて行ったので、とうとうばれてしまったのだそうである。

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のみならず、それを平気に翌日あくるひ連れて行ったので、とうとう露見してしまったのだそうである。

代助はこの話を聞いたとき、実際の世の中にふれている点で、今の世のこっけいの見本だと思った。

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代助はこの話を聞いた時、その実社会に触れている点において、現代的滑稽こっけいの標本だと思った。

平岡はそれから、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)という社会主義の人を政府がどんなにこわがっているかということを話した。

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平岡はそれから、幸徳秋水と云う社会主義の人を、政府がどんなに恐れているかと云う事を話した。

幸徳秋水の家の前と後ろに、おまわりさんが二、三人ずつ昼も夜も見張りをしている。

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幸徳秋水の家の前と後に巡査が二三人ずつ昼夜張番をしている。

一時はテントを張って、その中からのぞいていた。

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一時は天幕テントを張って、その中からねらっていた。

秋水が外出すると、おまわりさんがあとをつける。

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秋水が外出すると、巡査が後を付ける。

万一見失いでもしようものなら、大さわぎになる。

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万一見失いでもしようものなら非常な事件になる。

今本郷に現れた、今神田へ来たと、次から次へ電話がかかって、東京じゅう大さわぎである。

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今本郷に現われた、今神田へ来たと、それからそれへと電話が掛って東京市中大騒ぎである。

新宿の警察では、秋水一人のために毎月百円使っている。

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新宿警察署では秋水一人の為に月々百円使っている。

同じ仲間のあめ屋が道ばたであめ細工を作っていると、白い服のおまわりさんがあめの前へ鼻を出して、じゃまでしかたがない。

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同じ仲間の飴屋あめやが、大道で飴細工をこしらえていると、白服の巡査が、飴の前へ鼻を出して、邪魔になって仕方がない。

これも代助の耳には、まじめには聞こえなかった。

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これも代助の耳には、真面目な響を与えなかった。

「やはり今の世のこっけいの見本じゃないか」

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「やっぱり現代的滑稽の標本じゃないか」

と平岡はさっきの言い方をくり返しながら、代助にいどんだ。

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と平岡は先刻さっきの批評を繰り返しながら、代助を挑んだ。

代助はそうさと笑ったが、この方面にはあまり興味がないだけでなく、今日はいつものようにふつうの世間話をする気でないので、社会主義のことはそのままにしておいた。

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代助はそうさと笑ったが、この方面にはあまり興味がないのみならず、今日は平生いつもの様に普通の世間話をする気でないので、社会主義の事はそれなりにして置いた。

さっき平岡が呼ぼうと言った芸者を無理にやめさせたのも、そのためであった。

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先刻平岡の呼ぼうと云う芸者を無理にめさしたのもこれがためであった。

「じつは君に話したいことがあるんだが」

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「実は君に話したい事があるんだが」

と代助はとうとう言い出した。

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と代助はついに云い出した。

すると平岡は急にようすを変えて、落ち着かない目を代助に向けたが、突然、

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すると、平岡は急に様子を変えて、落ち付かない眼を代助の上に注いだが、卒然として、

「それは、僕もずっと前からどうかするつもりなんだけれども、今のところはしかたがない。もう少し待ってくれたまえ。そのかわり、君の兄さんやお父さんのことも、こうして書かずにいるんだから」

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「そりゃ、僕もうから、どうかする積りなんだけれども、今の所じゃ仕方がない。もう少し待ってくれたまえ。その代り君の兄さんや御父おとっさんの事も、こうして書かずにいるんだから」

と、代助には思いがけない返事をした。

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と代助には意表な返事をした。

代助は馬鹿馬鹿しいというより、むしろにくらしさを感じた。

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代助は馬鹿々々しいと云うより、寧ろ一種の憎悪ぞうおを感じた。

「君もだいぶ変わったね」

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「君も大分変ったね」

と冷たく言った。

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ひややかに云った。

「君が変わったように変わっちまった。こうすれっからしになっちゃしかたがない。だから、もう少し待ってくれたまえ」

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「君の変ったごとく変っちまった。こうれちゃ仕方がない。だから、もう少し待ってくれたまえ」

と答えて、平岡はわざとらしい笑い方をした。

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と答えて、平岡はわざとらしい笑い方をした。

代助は平岡が何と言おうと、自分の言うことだけは言おうと決めた。

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代助は平岡の言語の如何いかんかかわらず、自分の云う事だけは云おうと極めた。

なまじ、借金の取り立てに来たんじゃないなどと言いわけすると、また平岡がその裏をかくのがしゃくだから、向こうのかんちがいはかんちがいのままにしておいて、こちらはこちらで話を進める態度に出た。

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なまじい、借金の催促に来たんじゃないなどと弁明すると、又平岡がその裏を行くのがしゃくだから、向うの疳違かんちがいは、疳違で構わないとして置いて、此方こっちは此方の歩を進める態度に出た。

けれどもまず困ったのは、平岡の家のお金の事情を三千代の話で知ったと切り出しては、三千代に迷惑がかかるかも知れない。

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けれども第一に困ったのは、平岡の勝手元の都合を、三千代の訴えによって知ったと切り出しては、三千代に迷惑が掛るかも知れない。

かといって、話がそこにふれなければ、忠告も助言もまったく役に立たない。

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と云って、問題が其所に触れなければ、忠告も助言も全く無益である。

代助はしかたなく遠回りをした。

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代助は仕方なしに迂回うかいした。

「君は近ごろ、こういうところへだいぶよく来ると見えて、家の人とはみんな顔なじみだね」

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「君は近来こう云う所へ大分頻繁に出はいりをすると見えて、家のものとは、みんな御馴染だね」

「君のように金回りがよくないから、そうぜいたくもできないが、つきあいだからしかたがないよ」

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「君の様に金回りが好くないから、そう豪遊も出来ないが、交際つきあいだから仕方がないよ」

と言って、平岡は器用な手つきでさかずきを口へつけた。

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と云って、平岡は器用な手付をして猪口ちょくを口へ着けた。

「よけいなことだが、それで家のほうのお金は、やりくりがつくのかい」

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「余計な事だが、それで家の方の経済は、収支償なうのかい」

と代助は思い切って踏みこんだ。

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と代助は思い切って猛進した。

「うん。まあ、いいかげんにやってるさ」

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「うん。まあ、い加減にやってるさ」

こう言った平岡は急に声を落として、まるで気のない返事をした。

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こう云った平岡は、急に調子を落して、極めて気のない返事をした。

代助はそれきり踏みこめなくなった。

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代助はそれぎり食い込めなくなった。

しかたなく、

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やむを得ず、

「ふだんは今ごろもう家へ帰っているんだろう。この間僕がたずねたときはだいぶ遅かったようだが」

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「不断は今頃もう家へ帰っているんだろう。この間僕が訪ねた時は大分遅かった様だが」

と聞いた。

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と聞いた。

すると平岡は、やはり話をさけるような言い方で、

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すると、平岡はやはり問題を回避する様な語気で、

「まあ帰ったり帰らなかったりだ。仕事がこういう不規則なものだから、しかたがないさ」

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「まあ帰ったり、帰らなかったりだ。職業がこういう不規則な性質だから、仕方がないさ」

と、半分自分をかばうように、あいまいに言った。

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と、半ば自分を弁護するためらしく、曖昧あいまいに云った。

「三千代さんはさびしいだろう」

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「三千代さんはさむしいだろう」

「なに、大丈夫だ。あいつもだいぶ変わったからね」

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「なに大丈夫だ。彼奴あいつも大分変ったからね」

と言って、平岡は代助を見た。

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と云って、平岡は代助を見た。

代助はそのひとみの中に、あぶないものを感じた。

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代助はそのひとみの内にあやしい恐れを感じた。

ことによると、この夫婦の仲はもとに戻せないなと思った。

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ことによると、この夫婦の関係は元に戻せないなと思った。

もしこの夫婦が自然のおので真っ二つに割かれるとすると、自分の運命は取り返しのつかない先を目の前にひかえている。

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もしこの夫婦が自然のおのききりに割かれるとすると、自分の運命は取り帰しの付かない未来を眼の前に控えている。

夫婦がはなれればはなれるほど、自分と三千代はそれだけ近づかなければならないからである。

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夫婦が離れれば離れる程、自分と三千代はそれだけ接近しなければならないからである。

代助はその場の勢いで言った。――

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代助は即座の衝動の如くに云った。――

「そんなことがあるはずがない。いくら変わったって、それはただ年を取っただけの変化だ。なるべく帰って、三千代さんをなぐさめてやれ」

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「そんな事が、あろう筈がない。いくら、変ったって、そりゃただ年を取っただけの変化だ。なるべく帰って三千代さんに安慰を与えてれ」

「君はそう思うか」

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「君はそう思うか」

と言うなり、平岡はぐいと飲んだ。

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と云いさま平岡はぐいと飲んだ。

代助はただ、

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代助は、ただ、

「思うかって、誰だってそう思わざるをえないじゃないか」

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「思うかって、誰だってそう思わざるを得んじゃないか」

と、半分口から出まかせに答えた。

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と半ば口から出任せに答えた。

「君は三千代を三年前の三千代と思ってるか。だいぶ変わったよ。ああ、だいぶ変わったよ」

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「君は三千代を三年前の三千代と思ってるか。大分変ったよ。ああ、大分変ったよ」

と平岡は、またぐいと飲んだ。

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と平岡は又ぐいと飲んだ。

代助は思わず胸のどきどきを感じた。

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代助は覚えず胸の動悸どうきを感じた。

「同じだ、僕の見るところではまったく同じだ。少しも変わっていやしない」

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おんなじだ、僕の見る所では全く同じだ。少しも変っていやしない」

「だって、僕は家へ帰ってもおもしろくないからしかたがないじゃないか」

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「だって、僕は家へ帰っても面白くないから仕方がないじゃないか」

「そんなはずはない」

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「そんな筈はない」

平岡は目を丸くして、また代助を見た。

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平岡は眼を丸くして又代助を見た。

代助は少し息がつまった。

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代助は少し呼吸がせまった。

けれども、悪いことをした者がかみなりに打たれたような気はまったくなかった。

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けれども、罪あるものが雷火に打たれた様な気は全たくなかった。

彼はいつもに似ず、すじの通らないことをただ勢いで言った。

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彼は平生にも似ず論理に合わない事をただ衝動的に云った。

しかしそれは、目の前にいる平岡のためだと固く信じてうたがわなかった。

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しかしそれは眼の前にいる平岡のためだと固く信じて疑わなかった。

彼は平岡夫婦を三年前の夫婦に戻して、それをたよりに、自分を三千代から永くふり切ろうとする最後のこころみを、半ば知らずにやっただけであった。

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彼は平岡夫婦を三年前の夫婦にして、それを便たよりに、自分を三千代から永く振り放そうとする最後の試みを、半ば無意識的に遣っただけであった。

自分と三千代の関係を平岡からかくすためのごまかしだとは、少しも考えていなかった。

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自分と三千代の関係を、平岡から隠す為の、糊塗策ことさくとはごうも考えていなかった。

代助は平岡に対して、それほど不誠実なことをするには、自分は上等すぎると、ゆったり自分を高く見ていた。

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代助は平岡に対して、さ程に不信な言動をあえてするには、余りに高尚であると、優に自己を評価していた。

しばらくしてから、代助はまたいつもの調子に戻った。

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しばらくしてから、代助は又平生の調子に帰った。

「だって、君がそう外へばかり出ていれば、自然と金も要る。だから家のやりくりもうまく行かなくなる。だんだん家の中がおもしろくなくなるだけじゃないか」

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「だって、君がそう外へばかり出ていれば、自然金も要る。従って家の経済もうまかなくなる。段々家庭が面白くなくなるだけじゃないか」

平岡は、白いシャツのそでをうでのとちゅうまでまくり上げて、

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平岡は、白襯衣シャツそでを腕の中途までまくり上げて、

「家庭か。家庭もあまりありがたいものじゃない。家庭を重く見るのは、君のような独身者だけのようだね」

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「家庭か。家庭もあまりくださったものじゃない。家庭を重く見るのは、君の様な独身者どくしんものに限る様だね」

と言った。

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と云った。

この言葉を聞いたとき、代助は平岡がにくらしくなった。

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この言葉を聞いたとき、代助は平岡がにくくなった。

はっきり自分の腹の中を言うなら、そんなに家庭がいやなら好きにしろ、そのかわり奥さんをうばってしまうぞと、はっきり知らせたかった。

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あからさまに自分の腹の中を云うと、そんなに家庭がきらいなら、嫌でよし、その代り細君をっちまうぞと判然はっきり知らせたかった。

けれども、二人のやりとりはそこまで行くには、まだなかなか遠かった。

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けれども二人の問答は、其所まで行くには、まだ中々間があった。

代助はもう一度、ほかの面から平岡の中身にふれてみた。

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代助はもう一遍外の方面から平岡の内部に触れて見た。

「君が東京へ来たばかりのころ、僕は君から説教されたね。何かやれって」

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「君が東京へ来たてに、僕は君から説法されたね。何か遣れって」

「うん。そうして君の後ろ向きな考えを聞かされて驚いた」

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「うん。そうして君の消極な哲学を聞かされて驚ろいた」

代助は、実際平岡が驚いただろうと思った。

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代助は実際平岡が驚ろいたろうと思った。

あのときの平岡は、熱病にかかった人間のように何かしたくてたまらなかった。

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その時の平岡は、熱病にかかった人間の如く行為アクションに渇いていた。

彼は動いた結果として、お金をほしがっていたのか、それとも名誉、それとも力をほしがっていたのか。

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彼は行為アクションの結果として、富をこいねがっていたか、もしくは名誉、もしくは権勢を冀っていたか。

それでなければ、動くことそのものを求めていたのか。

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それでなければ、活動としての行為アクションその物を求めていたか。

それは代助にもわからなかった。

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それは代助にも分らなかった。

「僕のように心の中で負けて残った人間は、しかたなくああいう後ろ向きの意見も言うが。――もともと意見があって、人がそれに従うのじゃない。人がいて、その人に合った意見が出て来るのだから、僕の考えは僕にしか通じない。決して君の身の上を、あの考えでどうこうしようというわけじゃない。僕はあのときの君のいきおいに感心している。君はあのとき自分で言ったように、まったく動く人だ。ぜひとも動いてもらいたい」

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「僕の様に精神的に敗残した人間は、已を得ず、ああ云う消極な意見も出すが。――元来意見があって、人がそれにのっとるのじゃない。人があって、その人に適した様な意見が出て来るのだから、僕の説は僕に通用するだけだ。決して君の身の上を、あの説で、どうしようのこうしようのと云う訳じゃない。僕はあの時の君の意気に敬服している。君はあの時自分で云った如く、全く活動の人だ。是非とも活動してもらいたい」

「もちろん大いにやるつもりだ」

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「無論大いに遣る積りだ」

平岡の答えは、ただこの一言だけであった。

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平岡の答はただこの一句ぎりであった。

代助は腹の中で首をかしげた。

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代助は腹の中で首を傾けた。

「新聞でやるつもりかね」

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「新聞で遣る積りかね」

平岡はちょっとためらった。

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平岡は一寸ちょっと躊躇ちゅうちょした。

が、やがてはっきり言い切った。――

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が、やがて、判然はっきり云い放った。――

「新聞にいるうちは、新聞でやるつもりだ」

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「新聞にいるうちは、新聞で遣る積りだ」

「よくわかる答えだ。僕だって君の一生のことを聞いているんじゃないから、返事はそれで十分だ。しかし新聞で君におもしろい仕事ができるかね」

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「大いに要領を得ている。僕だって君の一生涯の事を聞いているんじゃないから、返事はそれで沢山だ。然し新聞で君に面白い活動が出来るかね」

「できるつもりだ」

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「出来る積りだ」

と平岡は短く答えた。

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と平岡は簡明な挨拶あいさつをした。

話はここまで来ても、ただふわっとしたまま進んだだけであった。

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話は此所まで来ても、ただ抽象的に進んだだけであった。

代助は言葉の上ではわかったが、平岡の本当のところを見きわめることは少しもできなかった。

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代助は言葉の上でこそ、要領を得たが、平岡の本体を見届ける事はちっとも出来なかった。

代助はなんだか、責任のある役人か弁護士を相手にしているような気がした。

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代助は何となく責任のある政府委員か弁護士を相手にしている様な気がした。

代助はこのとき、思い切って考えのあるお世じを言った。

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代助はこの時思い切った政略的な御世辞を云った。

それには軍神と呼ばれた広瀬中佐(ひろせちゅうさ)の例が出て来た。

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それには軍神広瀬中佐の例が出て来た。

広瀬中佐は日露戦争のときに港をふさぐ部隊に加わってたおれたため、当時の人からあがめられて、とうとう軍神とまで呼ばれた。

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広瀬中佐は日露戦争のときに、閉塞へいそく隊に加わってたおれたため、当時の人から偶像アイドル視されて、とうとう軍神とまであがめられた。

けれども、四、五年後の今になってみると、もう軍神広瀬中佐の名を口にする者もほとんどいなくなってしまった。

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けれども、四五年後の今日に至って見ると、もう軍神広瀬中佐の名を口にするものもほとんどなくなってしまった。

英雄のはやりすたりは、これほど急なものである。

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英雄ヒーロー流行はやりすたりはこれ程急劇なものである。

というのは、多くの場合、英雄とはその時代にとても必要な人ということで、名前だけはえらそうだけれども、もとはとてもげんじつ的なものである。

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と云うのは、多くの場合に於て、英雄ヒーローとはその時代に極めて大切な人という事で、名前だけは偉そうだけれども、本来は甚だ実際的なものである。

だから、その大事なときを過ぎると、世間はその資格をだんだん取り上げにかかる。

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だからその大切な時機を通り越すと、世間はその資格を段々奪いにかかる。

ロシアと戦争のさなかこそ港をふさぐ部隊は大事だろうが、平和が戻ったあとには、百人の広瀬中佐もまったくのふつうの人にすぎない。

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露西亜ロシアと戦争の最中こそ、閉塞隊は大事だろうが、平和克復の暁には、百の広瀬中佐も全くの凡人に過ぎない。

世間はとなりの人に対してげんきんなように、英雄に対してもげんきんである。

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世間は隣人に対して現金である如く、英雄ヒーローに対しても現金である。

だから、こういうあがめられる人にも、いつも入れかわりと生き残り競争が起こっている。

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だから、こう云う偶像アイドルにもまた常に新陳代謝や生存競争が行われている。

そういうわけで、代助は英雄などにかつがれたい気持ちはまるでない。

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そう云う訳で、代助は英雄ヒーローなぞにかつがれたい了見は更にない。

が、もしここに野心があっていきおいのあるいい男がいるとすれば、一時の剣の力よりも、いつまでも残る筆の力で英雄になったほうが長持ちする。

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が、もしここに野心があり覇気のある快男子があるとすれば、一時的の剣の力よりも、永久的の筆の力で、英雄ヒーローになった方が長持がする。

新聞は、その方面の代表的な仕事である。

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新聞はその方面の代表的事業である。

代助はここまで言ってみたが、もともとお世じの上に、言うことがあまり学生っぽいので、自分の心の中では少しこっけいに思えるくらい、気が乗らなかった。

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代助は此所ここまで述べてみたが、元来が御世辞の上に、云う事があまり書生らしいので、自分の内心には多少滑稽に取れる位、気が乗らなかった。

平岡はその返事に、

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平岡はその返事に、

「いや、ありがとう」

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「いや難有ありがとう」

と言っただけであった。

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と云っただけであった。

とくに腹を立てたようすも見えなかったが、少しも心を動かしていないのは、この返事でもはっきりしていた。

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別段腹を立てた様子も見えなかったが、些とも感激していないのは、この返事でも明かであった。

代助は少し平岡を見下しすぎたのをはずかしく思った。

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代助は少々平岡を低く見過ぎたのにじ入った。

じつはこの側から彼の心を動かして、うまく調子の出たところをとちゅうで向きを変えさせて、もとの家庭へすべりこませるのが代助の計画であった。

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実はこの側から、彼の心を動かして、旨く油の乗った所を、中途から転がして、元の家庭へ滑り込ませるのが、代助の計画であった。

代助はこの遠回りで、しかもいちばんむずかしいやり方の出発点から、それほど遠くないところでくじけてしまった。

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代助はこの迂遠うえんで、又もっとも困難の方法の出立点しゅったつてんから、程遠からぬ所で、蹉跌さてつしてしまった。

その夜、代助は平岡ととうとうはっきりしないまま別れた。

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その夜代助は平岡と遂に愚図々々で分れた。

会った結果から言うと、何のために平岡を新聞社にたずねたのだか、自分にもわからなかった。

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会見の結果から云うと、何の為に平岡を新聞社に訪ねたのだか、自分にも分らなかった。

平岡のほうから見れば、なおさらそうであった。

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平岡の方から見れば、猶更なおさらそうであった。

代助はけっきょく何をしに新聞社まで出かけて来たのか、帰るまでとうとう問いつめられずにすんでしまった。

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代助は必竟ひっきょう何しに新聞社まで出掛て来たのか、帰るまでついに問い詰めずに済んでしまった。

代助は次の日になって、一人で書斎で昨夜のことを何度も頭の中でくり返した。

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代助は翌日になって独り書斎で、昨夕ゆうべの有様を何遍となく頭の中で繰り返した。

二時間もいっしょに話しているうちに、自分が平岡に対してわりにまじめだったのは、三千代をかばったときだけであった。

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二時間も一所に話しているうちに、自分が平岡に対して、比較的真面目であったのは、三千代を弁護した時だけであった。

けれども、そのまじめさはただ気持ちのまじめさで、口にした言葉はやはりいいかげんな出まかせにすぎなかった。

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けれどもその真面目は、単に動機の真面目で、口にした言葉はやはり好加減な出任せに過ぎなかった。

きびしく言えば、うそばかりと言ってもよかった。

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厳酷に云えば、うそばかりと云ってもかった。

自分でまじめだと信じていた気持ちでさえ、けっきょくは自分のこの先を救う手段である。

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自分で真面目だと信じていた動機でさえ、必竟は自分の未来を救う手段である。

平岡から見れば、もちろんまごころのあるものとは言えなかった。

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平岡から見れば、もとより真摯しんしなものとは云えなかった。

まして、そのほかの話は、初めから平岡を今の立場から自分の望むところへ落としこもうとたくらんでかかった、そろばんずくのものであった。

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まして、その他の談話に至ると、始めから、平岡を現在の立場から、自分の望む所へ落し込もうと、たくらんで掛った、打算的のものであった。

だから、平岡をどうすることもできなかった。

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従って平岡をどうする事も出来なかった。

もし思い切って、三千代を持ち出して、自分の考えどおりをえんりょなく正面から言い立てたら、もっと強いことが言えた。

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もし思い切って、三千代を引合に出して、自分の考え通りを、遠慮なく正面から述べ立てたら、もっと強い事が云えた。

もっと平岡をゆさぶることができた。

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もっと平岡を動揺ゆすぶる事が出来た。

もっと彼の心の奥に入りこむことができた。

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もっと彼の肺腑はいふる事が出来た。

にちがいない。

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に違ない。

そのかわり、しくじれば三千代に迷惑がかかって来る。

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その代り遣り損えば、三千代に迷惑がかかって来る。

平岡とけんかになる。

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平岡と喧嘩けんかになる。

かも知れない。

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かも知れない。

代助は知らないうちに、安全だが何の役にも立たないやり方で平岡に接していたことをふがいなく思った。

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代助は知らず知らずの間に、安全にして無能力な方針を取って、平岡に接していた事を腑甲斐ふがいなく思った。

もしこういう態度で平岡に当たりながら、一方では三千代のこれからをまったく平岡にまかせておけないほどの不安があるならば、それはすじの通らないことを平気でやっていたと言わなければならない。

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もしこう云う態度で平岡に当りながら、一方では、三千代の運命を、全然平岡にゆだねて置けない程の不安があるならば、それは論理の許さぬ矛盾を、厚顔に犯していたと云わなければならない。

代助は、昔の人が頭がはっきりしていなかったおかげで、じつは自分のためにやっているのに、自分では固く人のためと信じて、泣いたり、感じたり、たかぶったりして、その結果とうとう相手を自分の思うとおりに動かせたのをうらやましく思った。

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代助は昔の人が、頭脳の不明瞭ふめいりょうな所から、実は利己本位の立場に居りながら、自らは固く人の為と信じて、泣いたり、感じたり、激したり、して、その結果遂に相手を、自分の思う通りに動かし得たのをうらやましく思った。

自分の頭がそのくらいぼんやりしていたら、昨夜の話し合いにももう少し気持ちがこもって、都合のいい結果を出せたかも知れない。

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自分の頭が、その位のぼんやりさ加減であったら、昨夕ゆうべの会談にも、もう少し感激して、都合のいい効果を収める事が出来たかも知れない。

彼は人から、とくに自分の父から、熱の足りない男だと言われていた。

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彼は人から、ことに自分の父から、熱誠の足りない男だと云われていた。

彼の見方によると、本当のところはこうであった。――

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彼の解剖によると、事実はこうであった。――

人間は、熱をこめて向かうにふさわしいほど上等な、まごころのある、けがれのない気持ちやおこないを、いつも持つものではない。

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人間は熱誠をもって当って然るべき程に、高尚な、真摯な、純粋な、動機や行為を常住に有するものではない。

それよりも、ずっと下等なものである。

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それよりも、ずっと下等なものである。

その下等な気持ちやおこないを熱をこめてあつかうのは、分別のない子どもっぽい頭の持ち主か、そうでなければ、熱をこめるふりをして自分を高く見せるいかさま師にすぎない。

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その下等な動機や行為を、熱誠に取り扱うのは、無分別な幼稚な頭脳の所有者か、然らざれば、熱誠をてらって、己れを高くする山師に過ぎない。

だから彼の冷たさは、人間としての進歩とは言えないだろうが、よりよく人間を見きわめた結果にほかならなかった。

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だから彼の冷淡は、人間としての進歩とは云えまいが、よりよく人間を解剖した結果には外ならなかった。

彼はふだん、自分の気持ちやおこないをよく調べてみて、それがあまりにずるく、まじめでなく、たいていはうそをふくんでいるのを知っているから、とうとう熱のこもった力でそれをやりとげる気になれなかったのである。

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彼は普通自分の動機や行為を、よく吟味してみて、そのあまりに、狡黠ずるくって、不真面目で、大抵は虚偽を含んでいるのを知っているから、遂に熱誠な勢力を以てそれを遂行する気になれなかったのである。

と、彼はきっぱり信じていた。

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と、彼は断然信じていた。

ここで彼は、一つのどちらも選べない立場にたどり着いた。

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此所で彼はいつのジレンマに達した。

彼は自分と三千代との関係を、まっすぐ自然の言うとおりに進めるか、それともまったく反対に、何も知らなかった昔に戻るか。

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彼は自分と三千代との関係を、直線的に自然の命ずる通り発展させるか、又は全然その反対にでて、何も知らぬ昔に返るか。

どちらかにしなければ、生きる意味を失ったのと同じだと考えた。

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何方どっちかにしなければ生活の意義を失ったものと等しいと考えた。

そのほかのすべての中とはんぱなやり方は、うそに始まってうそに終わるよりほかに道はない。

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その他のあらゆる中途半端の方法は、いつわりに始って、偽に終るより外に道はない。

どれも世間から見れば安全で、どれも自分にとっては何の力にもならない。

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ことごとく社会的に安全であって、悉く自己に対して無能無力である。

と考えた。

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と考えた。

彼は三千代と自分の関係を、天の心によって――彼はそれを天の心としか考えられなかった――

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彼は三千代と自分の関係を、天意によって、――彼はそれを天意としか考え得られなかった。――

育てて行くことの世間的なあぶなさをわかっていた。

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醗酵はっこうさせる事の社会的危険を承知していた。

天の心には合うが人の決まりにそむく恋は、その恋をした人の死によって初めて世の中に認められるのがふつうであった。

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天意にはかなうが、人のおきてそむく恋は、その恋の主の死によって、始めて社会から認められるのが常であった。

彼は万一の悲しい結末を二人の間に思いえがいて、思わずぞっとした。

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彼は万一の悲劇を二人の間に描いて、覚えず慄然りつぜんとした。

彼はまた反対に、三千代との永遠のわかれを想像してみた。

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彼は又反対に、三千代と永遠の隔離を想像してみた。

そのときは天の心に従うかわりに、自分の意志に命をかける人にならなければならなかった。

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その時は天意に従う代りに、自己の意志に殉ずる人にならなければ済まなかった。

彼はその手段として、父や兄の妻からすすめられていた結婚を思いついた。

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彼はその手段として、父やあによめから勧められていた結婚に思い至った。

そうして、この結婚を承知することが、すべての関係を新しくするものと考えた。

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そうして、この結婚をうけがう事が、すべての関係をあらたにするものと考えた。

十四

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十四

自然の子になろうか、それとも意志の人になろうかと代助は迷った。

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自然のになろうか、又意志の人になろうかと代助は迷った。

彼はその考え方として、しなやかさのないかたい方針のもとに、暑さ寒さにさえすぐ反応する自分を、機械のようにしばりつけるおろかさをきらった。

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彼は彼の主義として、弾力性のない硬張こわばった方針の下に、寒暑にさえすぐ反応を呈する自己を、器械の様に束縛するの愚をんだ。

同時に彼は、自分の暮らしが大きな決断をせまられる分かれ目に来ていることを強く感じた。

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同時に彼は、彼の生活が、一大断案を受くべき危機に達している事を切に自覚した。

彼は結婚のことについて、まあよく考えてみろと言われて帰ったきり、いまだにそれを本気に考えるひまを作らなかった。

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彼は結婚問題に就て、まあく考えてみろと云われて帰ったぎり、いまだに、それを本気に考えるひまを作らなかった。

帰ったとき、まあ今日もあぶないところをのがれてありがたかったと思っただけで、放り出してしまった。

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帰った時、まあ今日も虎口ここうを逃れて難有ありがたかったと感謝したぎり、放り出してしまった。

父からはまだ何とも言って来ないが、この二、三日はまた青山へ呼び出されそうな気がしてならなかった。

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父からはまだ何とも催促されないが、この二三日は又青山へ呼び出されそうな気がしてならなかった。

代助はもちろん、呼び出されるまで何も考えずにいる気であった。

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代助は固より呼び出されるまで何も考えずに居る気であった。

呼び出されたら、父の顔色を見た上で、また何とかその場で返事を作るつもりであった。

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呼び出されたら、父の顔色と相談の上、又何とか即席に返事をこしらえる心組であった。

代助はべつに、父を馬鹿にするつもりではなかった。

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代助はあながち父を馬鹿にする了見ではなかった。

すべての返事は、こんなふうに相手と自分をはかり合わせて、その場で出て来るのが本当だと思っていた。

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あらゆる返事は、こう云う具合に、相手と自分を商量して、臨機にいて来るのが本当だと思っていた。

もし三千代に対する自分の態度が、最後の一歩前まで追いつめられたような気持ちでなかったなら、代助は父に対して、もちろんそういうやり方を取っただろう。

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もし、三千代に対する自分の態度が、最後の一歩前まで押し詰められた様な気持がなかったなら、代助は父に対して無論そう云う所置を取ったろう。

けれども代助は今、相手の顔色がどうであろうと、手に持ったさいころを投げなければならなかった。

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けれども、代助は今相手の顔色如何いかんかかわらず、手に持ったさいを投げなければならなかった。

出た目が平岡に都合が悪かろうと、父の気に入るまいと、さいころを投げる以上は、天の決まりどおりになるよりほかにしかたはなかった。

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上になった目が、平岡に都合が悪かろうと、父の気に入らなかろうと、賽を投げる以上は、天の法則通りになるより外に仕方はなかった。

さいころを手に持つ以上は、またさいころが投げられるために作られている以上は、さいころの目を決めるものは自分のほかにあるはずはなかった。

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賽を手に持つ以上は、又賽が投げられく作られたる以上は、賽の目を極めるものは自分以外にあろうはずはなかった。

代助は、最後に決めるのは自分だと腹の中で決めた。

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代助は、最後の権威は自己にあるものと、腹のうちで定めた。

父も兄も兄の妻も平岡も、決断の場には出て来なかった。

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父も兄も嫂も平岡も、決断の地平線上には出て来なかった。

彼はただ、彼の運命に対してだけひきょうであった。

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彼はただ彼の運命に対してのみ卑怯ひきょうであった。

この四、五日は、手のひらにのせたさいころをながめて暮らした。

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この四五日はてのひらに載せた賽を眺め暮らした。

今日もまだにぎっていた。

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今日もまだ握っていた。

早く運命が外から来て、その手を軽くたたいてくれればいいと思った。

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早く運命が戸外そとから来て、その手を軽くはたいてくれればいと思った。

が、一方では、まだにぎっていられるという思いがとてもうれしかった。

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が、一方では、まだ握っていられると云う意識が大層うれしかった。

門野はときどき書斎へ来た。

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門野は時々書斎へ来た。

来るたびに、代助はテーブルの前にじっとしていた。

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来る度に代助は洋卓デスクの前にじっとしていた。

「少し散歩にでもおいでになったらいかがです。そうご勉強じゃ体に悪いでしょう」

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ちっと散歩にでも御出おいでになったら如何いかがです。そう御勉強じゃ身体からだに悪いでしょう」

と言ったことが一、二度あった。

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と云った事が一二度あった。

なるほど顔色がよくなかった。

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なるほど顔色が好くなかった。

夏らしくなったので、門野がおふろを毎日わかしてくれた。

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夏向になったので、門野が湯を毎日沸かしてくれた。

代助はふろ場に行くたびに、長い間鏡を見た。

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代助は風呂場に行くたびに、長い間鏡を見た。

ひげのこい男なので、少しのびると自分にはとても見苦しく見えた。

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ひげの濃い男なので、少し延びると、自分には大層見苦しく見えた。

さわってざらざらすると、なおいやだった。

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触って、ざらざらすると猶不愉快だった。

ご飯はやはり、ふつうに食べた。

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飯は依然として、普通のごとく食った。

けれども、運動の足りなさと、ねむりの乱れと、それから頭の心配とで、体から出す働きに変化が起こった。

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けれども運動の不足と、睡眠の不規則と、それから、脳の屈託とで、排泄はいせつ機能に変化を起した。

しかし代助は、それを何とも思わなかった。

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しかし代助はそれを何とも思わなかった。

体の具合はほとんど気にするひまがないくらい、一つのことをぐるぐる回って考えた。

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生理状態は殆んど苦にするいとまのない位、一つ事をぐるぐる回って考えた。

それがくせになると、終わりなくぐるぐる回っているほうが、その外へ飛び出す努力よりもかえって楽になった。

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それが習慣になると、終局なく、ぐるぐる回っている方が、らつの外へ飛び出す努力よりもかえって楽になった。

代助は最後まで決められない自分に、いやけがさした。

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代助は最後の不決断の自己嫌悪けんおに陥った。

しかたがないから、三千代と自分の関係を進める手段として佐川の縁談を断ろうかとまで考えて、思わず驚いた。

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やむを得ないから、三千代と自分の関係を発展させる手段として、佐川の縁談を断ろうかとまで考えて、覚えず驚ろいた。

しかし、三千代と自分の関係を切る手段として結婚を承知してみようかという気は、ぐるぐる回っているうちに一度も出て来なかった。

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然し三千代と自分の関係を絶つ手段として、結婚を許諾してみようかという気は、ぐるぐる回転しているうちに一度も出て来なかった。

縁談を断るほうは、それだけなら何度も決心がついた。

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縁談を断る方は単独にも何遍となく決定が出来た。

ただ断ったあと、そのはね返りとして、自分をまっすぐ三千代に向けずにはいられないいきおいが来るにちがいないと考えると、そこでまたこわくなった。

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ただ断った後、その反動として、自分をまともに三千代の上に浴せかけねばまぬ必然の勢力が来るに違ないと考えると、其所そこに至って、又恐ろしくなった。

代助は父からのさいそくを待ちのぞんでいた。

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代助は父からの催促を心待に待っていた。

しかし父からは何の知らせもなかった。

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しかし父からは何の便たよりもなかった。

三千代にもう一度会おうかと思った。

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三千代にもう一遍おうかと思った。

けれども、それだけの勇気も出なかった。

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けれども、それ程の勇気も出なかった。

いちばん最後に、結婚は決まりの上では自分と三千代を切りはなすが、心の中では、二人に何のえいきょうもあたえそうもないという考えが、だんだん代助の頭で強くなって来た。

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一番仕舞に、結婚は道徳の形式において、自分と三千代を遮断しゃだんするが、道徳の内容に於て、何等の影響を二人の上に及ぼしそうもないと云う考が、段々代助の脳裏に勢力を得て来た。

すでに平岡に嫁いだ三千代に対してこんな関係が起こりうるならば、この上自分に結婚した者という立場をあたえたところで、同じ関係が続かないわけには行かない。

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既に平岡に嫁いだ三千代に対して、こんな関係が起り得るならば、この上自分に既婚者の資格を与えたからと云って、同様の関係が続かない訳には行かない。

それを続かないと見るのはただ表向きの話で、心をしばることのできないかたちだけのものは、いくら重ねても苦しみを増すばかりである。

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それを続かないと見るのはただ表向の沙汰で、心を束縛する事の出来ない形式は、いくら重ねても苦痛を増すばかりである。

というのが代助の理屈であった。

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と云うのが代助の論法であった。

代助は縁談を断るよりほかに道はなくなった。

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代助は縁談を断るより外に道はなくなった。

こう決心した次の日、代助は久しぶりにかみを切ってひげをそった。

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こう決心した翌日、代助は久し振りに髪を刈って髯をった。

梅雨に入って二、三日ものすごく降ったあとなので、地面にも木の枝にも、ほこりらしいものはすべてしっとりとしずまっていた。

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梅雨つゆって二三日すさまじく降った揚句なので、地面にも、木の枝にも、ほこりらしいものはことごとくしっとりと静まっていた。

日の色は、前よりうすかった。

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日の色は以前より薄かった。

雲の切れ間から落ちて来る光は、下のしめり気のために、半分照り返す力を失ったようにやわらかく見えた。

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雲の切れ間から、落ちて来る光線は、下界の湿しめのために、半ば反射力を失った様に柔らかに見えた。

代助は床屋の鏡に自分のすがたをうつしながら、いつものようにふっくらしたほおをなでて、今日からいよいよ前向きな暮らしに入るのだと思った。

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代助は床屋の鏡で、わが姿を映しながら、例の如くふっくらした頬をでて、今日からいよいよ積極的生活に入るのだと思った。

青山へ来てみると、玄関に車が二台ほどあった。

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青山へ来て見ると、玄関に車が二台程あった。

待っている車引きは足のせ台によりかかってねむったまま、代助が通り過ぎるのを知らなかった。

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供待ともまちの車夫は蹴込けこみり懸って眠ったまま、代助の通り過ぎるのを知らなかった。

座敷には梅子が新聞をひざの上にのせて、こみ入った庭の緑をぼんやりながめていた。

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座敷には梅子が新聞をひざの上へ乗せて、込み入った庭の緑をぼんやり眺めていた。

これもぽかんとねむそうであった。

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これもぽかんと眠むそうであった。

代助はいきなり梅子の前にすわった。

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代助はいきなり梅子の前へ坐った。

「お父さんはいますか」

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「御父さんは居ますか」

兄の妻は返事をする前に、まず代助のようすを審査するような目で見た。

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あによめは返事をする前に、一応代助の様子を、試験官の眼で見た。

「代さん、少しやせたようじゃありませんか」

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「代さん、少しせた様じゃありませんか」

と言った。

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と云った。

代助はまたほおをなでて、

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代助は又頬を撫でて、

「そんなこともないだろう」

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「そんな事も無いだろう」

と打ち消した。

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と打ち消した。

「だって、色つやが悪いのよ」

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「だって、色沢いろつやが悪いのよ」

と梅子は目を近づけて、代助の顔をのぞきこんだ。

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と梅子は眼を寄せて代助の顔をのぞき込んだ。

「庭のせいだ。青葉がうつるんだ」

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「庭の所為せいだ。青葉が映るんだ」

と庭の植えこみのほうを見たが、「だからあなただって、やはり青いですよ」

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と庭の植込うえごみの方を見たが、「だから貴方あなただって、やっぱりあおいですよ」

と続けた。

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と続けた。

「私、この二、三日ぐあいがよくないんですもの」

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わたし、この二三日具合が好くないんですもの」

「どうりでぽかんとしていると思った。どうかしたんですか。風邪ですか」

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「道理でぽかんとしていると思った。どうかしたんですか。風邪ですか」

「何だか知らないけれど、あくびばかり出て」

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「何だか知らないけれど生欠なまあくびばかり出て」

梅子はこう答えて、すぐ新聞をひざから下ろすと、手を鳴らしてお手伝いの女の人を呼んだ。

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梅子はこう答えて、すぐ新聞を膝から卸すと、手を鳴らして、小間使を呼んだ。

代助はもう一度父がいるかいないかを確かめた。

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代助は再び父の在、不在を確めた。

梅子は、その問いをもう忘れていた。

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梅子はその問をもう忘れていた。

聞いてみると、玄関にあった車は父のお客が乗って来たものであった。

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聞いてみると、玄関にあった車は、父の客の乗って来たものであった。

代助は長くかからなければ、お客が帰るまで待とうと思った。

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代助は長く懸からなければ、客の帰るまで待とうと思った。

兄の妻はぼんやりするから、ふろ場へ行って水で顔をふいて来ると言って立った。

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嫂は判然はっきりしないから、風呂場へ行って、水で顔をいて来ると云って立った。

下女がいいかおりのするくずのちまきを、深い皿に入れて持って来た。

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下女が好いにおいのするくずちまきを、深い皿に入れて持って来た。

代助はちまきの先をぶら下げて、しきりににおいをかいでみた。

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代助は粽の尾をぶら下げて、しきりにいでみた。

梅子がすずしい目つきになってふろ場から帰ったとき、代助はちまきの一つを振り子のように振りながら、今度は、

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梅子が涼しい眼付になって風呂場から帰った時、代助は粽の一つを振子の様に振りながら、今度は、

「兄さんはどうしました」

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「兄さんはどうしました」

と聞いた。

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と聞いた。

梅子はすぐにこのありふれた質問に答える気がないかのように、しばらく縁側のはしに立って庭をながめていたが、

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梅子はすぐこの陳腐な質問に答える義務がないかの如く、しばらく縁鼻えんばなに立って、庭を眺めていたが、

「二、三日の雨で、こけの色がすっかり出たこと」

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二三日にさんちの雨で、こけの色がすっかり出た事」

と、いつもらしくないことを言って、もとの席に戻った。

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と平生に似合わぬ観察をして、もとの席に返った。

そうして、

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そうして、

「兄さんがどうしましたって」

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「兄さんがどうしましたって」

と聞き直した。

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と聞き直した。

代助が前の質問をくり返したとき、兄の妻はまるで気にしていない調子で、

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代助が先の質問を繰り返した時、嫂はもっと無頓着むとんじゃくな調子で、

「どうしましたって、いつものとおりですわ」

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「どうしましたって、例の如くですわ」

と答えた。

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と答えた。

「相変わらず、留守がちですか」

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「相変らず、留守勝ですか」

「ええ、ええ、朝も晩もめったに家にいたことはありません」

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「ええ、ええ、朝も晩も滅多にうちに居た事はありません」

「姉さんはそれでさびしくはないですか」

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「姉さんはそれでさむしくはないですか」

「今さらあらたまって、そんなことを聞いたってしかたがないじゃありませんか」

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「今更改まって、そんな事を聞いたって仕方がないじゃありませんか」

と梅子は笑い出した。

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と梅子は笑い出した。

からかっているのだと思ったのか、あまり子どもじみていると思ったのか、ほとんど相手にする気配はなかった。

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調戯からかうんだと思ったのか、あんまり小供みていると思ったのかほとんど取り合う気色はなかった。

代助もいつもの自分を振り返ってみて、まじめにこんな質問をした今の自分を、むしろ不思議に思った。

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代助も平生の自分を振り返ってみて、真面目まじめにこんな質問を掛けた今の自分を、むしろ奇体に思った。

今日まで兄と兄の妻の関係を長い間見ていながら、一度もそこには気がつかなかった。

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今日まで兄と嫂の関係を長い間目撃していながら、ついぞ其所には気が付かなかった。

兄の妻もまた、代助が気がつくほど物足りないそぶりは見せたことがなかった。

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嫂もまた代助の気が付く程物足りない素振は見せた事がなかった。

「世間の夫婦はそれでやって行けるものかな」

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「世間の夫婦はそれで済んで行くものかな」

とひとりごとのように言ったが、とくに梅子の返事を待つ気でもなかったので、代助は向こうの顔も見ず、ただたたみの上に置いてある新聞に目を落とした。

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独言ひとりごとの様に云ったが、別に梅子の返事を予期する気でもなかったので、代助は向うの顔も見ず、ただ畳の上に置いてある新聞に眼を落した。

すると梅子はたちまち、

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すると梅子はたちまち、

「何ですって」

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「何ですって」

と切りこむように言った。

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と切り込む様に云った。

代助の目が、その調子に驚いて、ふと相手のほうに向いたとき、

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代助の眼が、その調子に驚ろいて、ふと自分の方に視線を移した時、

「だから、あなたが奥さんをおもらいになったら、いつも家にばかりいて、たっぷりかわいがっておあげなさいな」

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「だから、貴方あなたが奥さんを御貰おもらいなすったら、始終宅にばかりいて、たんと可愛かあいがって御上げなさいな」

と言った。

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と云った。

代助は初めて、相手が梅子であって、自分がいつもの代助でなかったことに気づいた。

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代助は始めて相手が梅子であって、自分が平生の代助でなかった事を自覚した。

それで、なるべくいつもの調子を出そうとした。

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それでなるべく不断の調子を出そうとつとめた。

けれども、代助の心は、結婚を断ることと、その断りのあとに起こるはずの三千代と自分の関係にばかり向いていた。

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けれども、代助の精神は、結婚謝絶と、その謝絶に次いで起るべき、三千代と自分の関係にばかり注がれていた。

だから、いくらいつもの自分に戻って梅子の相手をするつもりでも、梅子の思っていない変わった調子が、ときどき話の中に思わず出て来た。

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従って、いくら平生の自分に帰って、梅子の相手になる積りでも、梅子の予期していない、変った音色が、時々会話の中に、思わず知らず出て来た。

「代さん、あなた今日はどうかしているのね」

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「代さん、貴方今日はどうかしているのね」

としまいに梅子が言った。

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と仕舞に梅子が云った。

代助はもちろん、兄の妻の言葉を横へそらして受けるやり方をいくらでも知っていた。

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代助はもとより嫂の言葉を側面へらして受ける法をいくらでも心得ていた。

それなのに、それをやるのが軽々しいようで、また面倒のようで、今日はいやになった。

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然るに、それをるのが、軽薄の様で、又面倒な様で、今日はいやになった。

かえってまじめに、どこがへんか教えてくれと頼んだ。

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却って真面目に、何処どこが変か教えてくれと頼んだ。

梅子は代助の問いが馬鹿げているので、へんな顔をした。

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梅子は代助の問が馬鹿気ているので妙な顔をした。

が、代助がますます頼むので、では言ってあげましょうと前置きをして、代助のどうかしている例を挙げ出した。

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が、代助がますます頼むので、では云って上げましょうと前置をして、代助のどうかしている例を挙げ出した。

梅子はもちろん、わざとまじめなふりをしているものと代助を見ていた。

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梅子は勿論もちろんわざと真面目をよそおっているものと代助を解釈した。

その中に、

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その中に、

「だって、兄さんが留守がちで、さぞおさびしいでしょうなんて、あんまり思いやりがよすぎることをおっしゃるからさ」

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「だって、兄さんが留守勝で、さぞ御淋おさむしいでしょうなんて、あんまり思遣おもいやりが好過よすぎる事をおっしゃるからさ」

という言葉があった。

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と云う言葉があった。

代助はそこへ自分の話をはさんだ。

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代助は其所へ自分を挟んだ。

「いや、僕の知っている女にそういう人が一人いて、じつはとても気の毒だから、つい他の女の人の気持ちも聞いてみたくなってうかがったんで、決してからかったつもりじゃないんです」

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「いや、僕の知った女に、そう云うのが一人あって、実は甚だ気の毒だから、ついほかの女の心持も聞いてみたくなって、伺ったんで、決してひやかした積りじゃないんです」

「本当に? それはちょっと、何ていう方なの」

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「本当に? そりゃ一寸ちょいと何てえ方なの」

「名前は言いにくいんです」

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「名前は云いにくいんです」

「じゃ、あなたがそのご主人に忠告をして、奥さんをもっとかわいがるようにしておあげになればいいのに」

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「じゃ、貴方がその旦那に忠告をして、奥さんをもっと可愛がるようにして御上になればいのに」

代助はほほえんだ。

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代助は微笑した。

「姉さんも、そう思いますか」

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「姉さんも、そう思いますか」

「当たり前ですわ」

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「当り前ですわ」

「もしその夫が僕の忠告を聞かなかったら、どうします」

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「もしその夫が僕の忠告を聞かなかったら、どうします」

「それは、どうもしかたがないわ」

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「そりゃ、どうも仕様がないわ」

「放っておくんですか」

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「放って置くんですか」

「放っておかなけりゃ、どうなさるの」

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「放って置かなけりゃ、どうなさるの」

「じゃ、その奥さんは夫に対して妻のつとめを守る義務があるでしょうか」

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「じゃ、その細君は夫に対して細君の道を守る義務があるでしょうか」

「たいへん理屈っぽいのね。それはご主人の冷たさの度合いにもよるでしょう」

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「大変理責めなのね。そりゃ旦那の不親切の度合にもるでしょう」

「もし、その奥さんに好きな人がいたらどうです」

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「もし、その細君に好きな人があったらどうです」

「知らないわ。馬鹿らしい。好きな人がいるくらいなら、初めからそちらへ行ったらいいじゃありませんか」

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「知らないわ。馬鹿らしい。好きな人がある位なら、始めっから其方そっちへ行ったら好いじゃありませんか」

代助は黙って考えた。

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代助は黙って考えた。

しばらくしてから、姉さんと言った。

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しばらくしてから、ねえさんと云った。

梅子はその重い調子に驚かされて、あらためて代助の顔を見た。

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梅子はその深い調子に驚ろかされて、改ためて代助の顔を見た。

代助は同じ調子でさらに言った。

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代助は同じ調子でなお云った。

「僕は今度の縁談を断ろうと思う」

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「僕は今度の縁談を断ろうと思う」

代助の巻きたばこを持った手が、少しふるえた。

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代助の巻烟草まきたばこを持った手が少しふるえた。

梅子はむしろ表情をなくした顔つきで、断りの言葉を聞いた。

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梅子は寧ろ表情を失った顔付をして、謝絶の言葉を聞いた。

代助は相手のようすにかまわず話を進めた。

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代助は相手の様子に頓着なく進行した。

「僕は今まで結婚のことについて、あなたに何度も迷惑をかけた上に、今度もまた心配してもらっている。僕ももう三十だから、あなたの言うとおり、たいていのところですすめられるままになっていいのですが、少し考えがあるから、この縁談もまあやめにしたいと思っています。お父さんにも兄さんにもすまないが、しかたがない。何も相手が気に入らないというわけではないが、断るんです。この間お父さんによく考えてみろと言われて、だいぶ考えてみたが、やはり断るほうがいいようだから断ります。じつは今日はその用でお父さんに会いに来たんですが、今お客のようだから、ついでと言っては失礼だが、あなたにもお話をしておきます」

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「僕は今まで結婚問題に就いて、貴方に何返となく迷惑を掛けた上に、今度もまた心配して貰っている。僕ももう三十だから、貴方の云う通り、大抵な所で、御勧め次第になって好いのですが、少し考があるから、この縁談もまあ已めにしたい希望です。御父さんにも、兄さんにも済まないが、仕方がない。何も当人が気に入らないと云う訳ではないが、断るんです。この間御父さんによく考えてみろと云われて、大分考えてみたが、やっぱり断る方が好い様だから断ります。実は今日はその用で御父さんに逢いに来たんですが、今御客の様だから、ついでと云っては失礼だが、貴方にも御話をして置きます」

梅子は代助のようすがまじめなので、いつものようにむだ口もはさまずに聞いていたが、聞き終わったとき、初めて自分の考えを言った。

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梅子は代助の様子が真面目なので、何時いつもの如く無駄口も入れずに聞いていたが、聞き終った時、始めて自分の意見を述べた。

それはとても短く、しかもとてもげんじつ的な一言であった。

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それが極めて簡単なかつ極めて実際的な短かい句であった。

「でも、お父さんはきっとお困りですよ」

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「でも、御父さんはきっと御困りですよ」

「お父さんには僕が直接話すからかまいません」

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「御父さんには僕がじかに話すから構いません」

「でも、話がもうここまで進んでいるんだから」

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「でも、話がもう此所ここまで進んでいるんだから」

「話がどこまで進んでいようと、僕はまだもらいますと言ったことはありません」

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「話が何所どこまで進んでいようと、僕はまだ貰いますと云った事はありません」

「けれども、はっきりもらわないともおっしゃらなかったでしょう」

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「けれども判然はっきり貰わないとも仰しゃらなかったでしょう」

「それを今言いに来たところです」

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「それを今云いに来た所です」

代助と梅子は向かい合ったまま、しばらく黙った。

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代助と梅子は向い合ったなり、しばらく黙った。

代助のほうでは、もう言うべきことを言いつくしたような気がした。

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代助の方では、もう云うき事を云い尽くした様な気がした。

少なくとも、これ以上に梅子へ自分を説明しようという考えはまるでなかった。

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少なくとも、これより進んで、梅子に自分を説明しようという考えはまるで無かった。

梅子は言いたいこと、聞きたいことをたくさん持っていた。

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梅子は語るべき事、聞くべき事を沢山持っていた。

ただ、それがとっさに、前のやりとりにうまくつながる形で口に出て来なかったのである。

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ただそれが咄嗟とっさの間に、前の問答につながり好く、口へ出て来なかったのである。

「あなたの知らない間に縁談がどれほど進んだのか、私にもよくわからないけれど、誰にしたって、あなたがそうきっぱりお断りになろうとは思いもしないんですもの」

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「貴方の知らないに、縁談がどれ程進んだのか、私にもく分らないけれど、誰にしたって、貴方が、そうきっぱり御断りなさろうとは思い掛けないんですもの」

と梅子はようやく言った。

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と梅子はようやくにして云った。

「なぜです」

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何故なぜです」

と代助は冷たく落ち着いて聞いた。

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と代助は冷かに落ち付いて聞いた。

梅子はまゆを動かした。

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梅子はまゆを動かした。

「なぜですって聞いたって、理屈じゃありませんよ」

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「何故ですって聞いたって、理窟りくつじゃありませんよ」

「理屈でなくてもかまわないから話して下さい」

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「理窟でなくっても構わないから話して下さい」

「あなたのように、そう何度断ったって、けっきょく同じことじゃありませんか」

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「貴方の様にそう何遍断ったって、つまり同じ事じゃありませんか」

と梅子は説明した。

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と梅子は説明した。

けれども、その意味がすぐ代助の頭には入らなかった。

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けれども、その意味がすぐ代助の頭には響かなかった。

わからないという目を上げて、梅子を見た。

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不可解の眼を挙げて梅子を見た。

梅子は初めて、自分の言いたいことをくわしく話し始めた。

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梅子は始めて自分の本意を布衍ふえんしに掛かった。

「つまり、あなただっていつか一度は奥さんをもらうつもりなんでしょう。いやだって、しかたがないじゃありませんか。そういつまでもわがままを言ったら、お父さんにすまないだけですわ。だからね。どうせ誰を持って行っても気に入らないあなたなんだから、つまり誰を持たせたって同じだろうというわけなんです。あなたにはどんな人を見せても駄目なんですよ。世の中に一人も気に入るような人は生きていませんよ。だから、奥さんというものは初めから気に入らないものとあきらめてもらうよりほかにしかたがないじゃありませんか。だから、私たちがいちばんいいと思う人を黙ってもらえば、それでどこもかしこも丸くおさまるから、――だから、お父さんが、ことによると今度はあなたに一から十まで相談しないで何かなさるかも知れませんよ。お父さんから見れば、それが当たり前ですもの。そうでもしなくちゃ、生きているうちにあなたの奥さんの顔を見ることはできないじゃありませんか」

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「つまり、貴方だって、何時か一度は、御奥おくさんを貰う積りなんでしょう。いやだって、仕方がないじゃありませんか。そう何時までも我儘わがままを云った日には、御父さんに済まないだけですわ。だからね。どうせ誰を持って行っても気に入らない貴方なんだから、つまり誰を持たしたっておんなじだろうって云う訳なんです。貴方にはどんな人を見せても駄目なんですよ。世の中に一人も気に入る様なものは生きてやしませんよ。だから、奥さんと云うものは、始めから気に入らないものと、あきらめて貰うより外に仕方がないじゃありませんか。だから私達が一番好いと思うのを、黙って貰えば、それで何所も彼所かしこも丸く治まっちまうから、――だから、御父さんが、ことによると、今度こんどは、貴方に一から十まで相談して、何かさらないかも知れませんよ。御父さんから見ればそれが当り前ですもの。そうでも、なくっちゃ、生きてる内に、貴方の奥さんの顔を見る事は出来ないじゃありませんか」

代助は落ち着いて、兄の妻の言うことを聞いていた。

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代助は落ち付いてあによめの云う事を聴いていた。

梅子の言葉が切れても、なかなか口を開かなかった。

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梅子の言葉が切れても、容易に口を動かさなかった。

もし言い返せば、話がだんだんこみいるばかりで、こちらの思うことは決して梅子の耳に入らないと考えた。

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反駁はんばくをする日には、話が段々込み入るばかりで、此方こちらの思う所は決して、梅子の耳へ通らないと考えた。

けれども、向こうの言い分を認める気はまるでなかった。

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けれども向うの云い分をうけがう気はまるでなかった。

実際問題として、両方が困るようになるばかりと信じたからである。

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実際問題として、双方が困る様になるばかりと信じたからである。

それで、兄の妻に向かって、

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それで、嫂に向って、

「あなたのおっしゃることにも一理あるが、私にも私の考えがあるから、また放っておいて下さい」

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「貴方の仰しゃる所も、一理あるが、私にも私の考があるから、また打遣うちやって置いて下さい」

と言った。

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と云った。

その調子には、梅子の口出しを面倒がる気配が自然と出ていた。

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その調子には梅子の干渉を面倒がる気色が自然と見えた。

すると梅子は黙っていなかった。

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すると梅子は黙っていなかった。

「それは代さんだって子どもじゃないから、一人前の考えがおありなのはもちろんですわ。私なんかのよけいな口出しはご迷惑でしょうから、もう何も申しますまい。しかしお父さんの身になって御覧なさい。毎月の暮らしのお金はあなたが要るというだけ今でも出していらっしゃるんだから、つまりあなたは学生のころよりもよけいにお父さんのやっかいになっているわけでしょう。そうしておいて、世話になることはもちろん世話になるが、年を取って一人前になったから、言うことは前のようには聞けないっていばったって通りませんよ」

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「そりゃ代さんだって、小供じゃないから、一人前の考の御有な事は勿論ですわ。私なんぞの要らない差出口は御迷惑でしょうから、もう何にも申しますまい。しかし御父さんの身になって御覧なさい。月々の生活費は貴方の要ると云うだけ今でも出していらっしゃるんだから、つまり貴方は書生時代よりも余計御父さんの厄介になってる訳でしょう。そうして置いて、世話になる事は、元より世話になるが、年を取って一人前になったから、云う事は元の通りには聞かれないって威張ったって通用しないじゃありませんか」

梅子は少し熱くなったと見えて、さらに言い続けようとしたのを、代助がさえぎった。

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梅子は少し激したと見えて猶も云い募ろうとしたのを、代助がさえぎった。

「だって、妻を持てば、この上もっとお父さんのやっかいにならなくちゃならないでしょう」

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「だって、女房を持てばこの上猶御父さんの厄介にらなくっちゃ為らないでしょう」

「いいじゃありませんか、お父さんがそのほうがいいとおっしゃるんだから」

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いじゃありませんか、御父さんが、その方がいと仰しゃるんだから」

「じゃ、お父さんは、いくら僕の気に入らない妻でも、ぜひ持たせる決心なんですね」

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「じゃ、御父さんは、いくら僕の気に入らない女房でも、是非持たせる決心なんですね」

「だって、あなたに好きな人がいればですけれども、そんな人は日本じゅうさがして歩いたっていないんじゃありませんか」

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「だって、貴方に好いたのがあればですけれども、そんなのは日本中探して歩いたって無いんじゃありませんか」

「どうして、それがわかります」

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「どうして、それが分ります」

梅子は力のこもった目をすえて、代助を見た。

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梅子は張の強い眼を据えて、代助を見た。

そうして、

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そうして、

「あなたはまるで弁護士のようなことをおっしゃるのね」

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「貴方はまるで代言人の様な事を仰しゃるのね」

と言った。

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と云った。

代助は青白くなったひたいを、兄の妻のそばへ寄せた。

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代助は蒼白あおじろくなった額を嫂のそばへ寄せた。

「姉さん、私は好きな女がいるんです」

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「姉さん、私は好いた女があるんです」

と低い声で言い切った。

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と低い声で云い切った。

代助は今まで、じょうだんでこんなことを梅子に言ったことがよくあった。

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代助は今まで冗談にこんな事を梅子に向って云った事が能くあった。

梅子も初めはそれを本気に受けた。

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梅子も始めはそれを本気に受けた。

そっと手を回して本当かどうか探ってみたなどというおかしな話もあった。

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そっと手を廻して真相を探ってみたなどという滑稽こっけいもあった。

うそだとわかってからは、代助のいう好きな女は、梅子にはまるできき目がなくなった。

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事実が分って以後は、代助の所謂いわゆる好いた女は、梅子に対して一向利目ききめがなくなった。

代助がそれを言い出しても、まるで相手にしなかった。

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代助がそれを云い出しても、まるで取り合わなかった。

でなければ、笑ってごまかしていた。

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でなければ、茶化していた。

代助のほうでも、それで平気であった。

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代助の方でもそれで平気であった。

しかし、このときだけは彼にとってまったく特別であった。

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然しこの場合だけは彼に取って、全く特別であった。

顔つきといい、目つきといい、低い声の底にこもる力といい、ここまで追いつめられて来た流れといい、どこから見ても、梅子をはっとさせずにはいられなかった。

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顔付と云い、眼付と云い、声の低い底にこもる力と云い、此所まで押しせまって来た前後の関係と云い、すべての点から云って、梅子をはっと思わせない訳に行かなかった。

兄の妻はこの短い一言を、きらりと光る短刀のように感じた。

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嫂はこの短い句を、ひらめく懐剣のごとくに感じた。

代助は帯の間から時計を出して見た。

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代助は帯の間から時計を出して見た。

父のところへ来ているお客は、なかなか帰りそうにもなかった。

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父の所へ来ている客は中々帰りそうにもなかった。

空はまたくもって来た。

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空は又曇って来た。

代助はいったん帰って、またあらためて父と話をつけに出直すほうが都合がいいと考えた。

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代助は一旦引き上げて又改ためて、父と話を付けに出直す方が便宜だと考えた。

「僕はまた来ます。出直して来てお父さんにお目にかかるほうがいいでしょう」

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「僕は又来ます。出直して来て御父さんに御目に掛る方が好いでしょう」

と立ちかけた。

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と立ちにかかった。

梅子はその間に気を取り直した。

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梅子はその間に回復した。

梅子はどこまでも人の世話をやくまごころがあるだけに、物事をとちゅうで投げ出せない女であった。

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梅子は飽くまで人の世話を焼く実意のあるだけに、物を中途で投げる事の出来ない女であった。

おさえるように代助を引き止めて、女の名を聞いた。

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抑える様に代助を引き留めて、女の名を聞いた。

代助はもちろん答えなかった。

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代助は固より答えなかった。

梅子はぜひにとせまった。

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梅子は是非にと逼った。

代助はそれでも答えなかった。

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代助はそれでも応じなかった。

すると梅子は、なぜその女をもらわないのかと聞き出した。

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すると梅子は何故その女を貰わないのかと聞き出した。

代助はただ、もらえないからもらわないのだと答えた。

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代助は単純に貰えないから、貰わないのだと答えた。

梅子はしまいになみだを流した。

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梅子は仕舞に涙を流した。

人が骨を折ったのを出しぬいたと言ってうらんだ。

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ひとの尽力を出し抜いたと云って恨んだ。

なぜ初めから打ち明けて話さないかと言って責めた。

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何故始から打ち明けて話さないかと云って責めた。

かと思うと、気の毒だと言って同情してくれた。

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かと思うと、気の毒だと云って同情してくれた。

けれども代助は、三千代についてはとうとう何も言わなかった。

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けれども代助は三千代に就ては、ついに何事も語らなかった。

梅子はとうとう折れた。

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梅子はとうとうを折った。

代助がいよいよ帰るというまぎわになって、

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代助のいよいよ帰ると云う間際まぎわになって、

「じゃ、あなたから直接お父さんにお話しになるんですね。それまでは私は黙っていたほうがいいでしょう」

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「じゃ、貴方からじかに御父さんに御話なさるんですね。それまでは私は黙っていた方が好いでしょう」

と聞いた。

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と聞いた。

代助は黙っていてもらうほうがいいか、話してもらうほうがいいか、自分にもわからなかった。

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代助は黙っていて貰う方が好いか、話して貰う方が好いか、自分にも分らなかった。

「そうですね」

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「そうですね」

とためらったが、「どうせ断りに来るんだから」

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躊躇ちゅうちょしたが、「どうせ、断りに来るんだから」

と言って兄の妻の顔を見た。

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と云って嫂の顔を見た。

「じゃ、もし話すほうが都合がよさそうだったら話しましょう。もしまた悪いようだったら、何も言わずにおくから、あなたが初めからお話しなさい。それがいいでしょう」

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「じゃ、若し話す方が都合が好さそうだったら話しましょう。もし又悪るい様だったら、何にも云わずに置くから、貴方が始から御話なさい。それがいでしょう」

と梅子は親切に言ってくれた。

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と梅子は親切に云ってくれた。

代助は、

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代助は、

「どうかよろしく」

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「何分よろしく」

と頼んで外へ出た。

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と頼んで外へ出た。

角へ来て、四谷から歩くつもりで、わざと塩町行きの電車に乗った。

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角へ来て、四谷から歩く積りで、わざと、塩町しおちょう行の電車に乗った。

練兵場(れんぺいじょう。兵の訓練をする広場)の横を通るとき、重い雲が西で切れて、梅雨にはめずらしい夕日がまっ赤になって、広い原っぱ一面を照らしていた。

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練兵場れんぺいばの横を通るとき、重い雲が西で切れて、梅雨には珍らしい夕陽せきようが、真赤になって広い原一面を照らしていた。

それが向こうを行く車の輪に当たって、輪が回るたびにはがねのように光った。

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それが向うを行く車の輪にあたって、輪が回る度に鋼鉄はがねの如く光った。

車は遠い原っぱの中に小さく見えた。

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車は遠い原の中に小さく見えた。

原っぱは、車が小さく見えるほど広かった。

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原は車の小さく見える程、広かった。

日は血のようにどぎつく照った。

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日は血の様に毒々しく照った。

代助はこのながめをななめに見ながら、風を切って電車に運ばれた。

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代助はこの光景を斜めに見ながら、風を切って電車に持って行かれた。

重い頭の中がふらふらした。

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重い頭の中がふらふらした。

終点まで来たときは、心が体をむしばんだのか、心のほうが体にむしばまれたのか、いやな気持ちがして早く電車を降りたかった。

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終点まで来た時は、精神が身体からだを冒したのか、精神の方が身体に冒されたのか、厭な心持がして早く電車を降りたかった。

代助は雨の用心に持ったかさを、つえのように引きずって歩いた。

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代助は雨の用心に持った蝙蝠傘こうもりがさを、つえの如く引きって歩いた。

歩きながら、自分は今日、自分から進んで自分の運命の半分をこわしたのと同じだと、心の中でつぶやいた。

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歩きながら、自分は今日、自ら進んで、自分の運命の半分を破壊したのも同じ事だと、心のうちにつぶやいた。

今までは父や兄の妻を相手に、いいかげんな間を取って、やわらかく自分を通して来た。

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今までは父や嫂を相手に、好い加減な間隔を取って、柔らかに自我を通して来た。

今度はいよいよ本当の自分を出さなければ、それを通しきれなくなった。

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今度はいよいよ本性をあらわさなければ、それを通し切れなくなった。

同時に、この方面で、これまでどおりの満足を求められる望みは少なくなった。

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同時に、この方面に向って、在来の満足を求め得る希望は少なくなった。

けれども、まだあと戻りをするよちはあった。

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けれども、まだ逆戻りをする余地はあった。

ただ、それにはまた父をごまかす必要が出て来るにちがいなかった。

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ただ、それには又父を胡魔化ごまかす必要が出て来るに違なかった。

代助は腹の中で、今までの自分を笑った。

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代助は腹の中で今までのわれを冷笑した。

彼はどうしても、今日の打ち明け話で自分の運命の半分をこわしたことにしたかった。

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彼はどうしても、今日の告白をもって、自己の運命の半分を破壊したものと認めたかった。

そうして、それから受ける一げきのはね返りとして、思い切って三千代の上におおいかぶさるように激しく動きたかった。

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そうして、それから受ける打撃の反動として、思い切って三千代の上に、かぶさる様にはげしく働き掛けたかった。

彼は次に父に会うときは、もう一歩も後へ引けないように自分のほうを固めておきたかった。

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彼はこの次父にうときは、もう一歩も後へ引けない様に、自分の方をこしらえて置きたかった。

それで、三千代と会う前にまた父から呼び出されることをとてもおそれた。

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それで三千代と会見する前に、又父から呼び出される事を深く恐れた。

彼は今日、兄の妻に自分の考えを父に話すか話さないかの自由をあたえたのを後悔した。

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彼は今日嫂に、自分の意思を父に話す話さないの自由を与えたのを悔いた。

今夜にも話されれば、明日の朝呼ばれるかも知れない。

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今夜にも話されれば、明日あしたの朝呼ばれるかも知れない。

すると、今夜のうちに三千代に会って自分の気持ちを話しておく必要ができる。

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すると今夜中に三千代に逢って己れを語って置く必要が出来る。

しかし夜だから都合がよくないと思った。

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然し夜だから都合がよくないと思った。

津守(つもり)で降りたとき、日は暮れかかった。

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津守つのかみを下りた時、日は暮れ掛かった。

士官学校の前をまっすぐお堀ばたへ出て、二、三百メートル来ると砂土原町(さどはらちょう)へ曲がるところを、代助はわざと電車の道ぞいに歩いた。

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士官学校の前を真直に濠端ほりばたへ出て、二三町来ると砂土原町さどはらちょうへ曲がるべき所を、代助はわざと電車みちに付いて歩いた。

彼はいつものように家へ帰って、一晩をのんびり書斎の中で過ごすのにたえられなかったのである。

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彼は例の如くにうちへ帰って、一夜を安閑と、書斎の中で暮すに堪えなかったのである。

お堀をへだてて高い土手の松が目の届くかぎり黒くならんでいる下のほうを、電車がしきりに通った。

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ほりを隔てて高い土手の松が、眼のつづく限り黒く並んでいる底の方を、電車がしきりに通った。

代助は、軽い箱が線路の上を苦もなくすべって行っては、またすべって帰る手ぎわの早さに、軽やかな気持ちを感じた。

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代助は軽い箱が、軌道レールの上を、苦もなく滑って行っては、又滑って帰る迅速な手際てぎわに、軽快の感じを得た。

そのかわり、自分と同じ道を容しゃなく行き来する外濠線の電車を、いつもよりうるさくにくんだ。

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その代り自分と同じみちを容赦なく往来ゆききする外濠線の車を、常よりは騒々しくにくんだ。

牛込見附(うしごめみつけ)まで来たとき、遠くの小石川の森にいくつかの明かりを見つけた。

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牛込見附うしごめみつけまで来た時、遠くの小石川の森に数点の灯影ひかげを認めた。

代助は夕ご飯を食べる気もなく、三千代のいる方角へ向かって歩いて行った。

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代助は夕飯ゆうめしを食う考もなく、三千代のいる方角へ向いて歩いて行った。

二十分ほど後、彼は安藤坂(あんどうざか)を上って、伝通院の焼けあとの前へ出た。

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約二十分の後、彼は安藤坂を上って、伝通院でんずういんの焼跡の前へ出た。

大きな木が左右からかぶさっている間を左へぬけて、平岡の家のそばまで来ると、板べいからいつものように明かりがもれていた。

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大きな木が、左右からかぶさっている間を左りへ抜けて、平岡の家の傍まで来ると、板塀いたべいから例の如く灯がしていた。

代助はへいのそばに身を寄せて、じっとようすをうかがった。

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代助は塀のもとに身を寄せて、じっと様子をうかがった。

しばらくは何の音もなく、家の中はまったく静かであった。

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しばらくは、何の音もなく、家のうちは全く静であった。

代助は門をくぐって、こうし戸の外から、ごめんくださいと声をかけてみようかと思った。

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代助は門をくぐって、格子こうしの外から、頼むと声を掛けてみようかと思った。

すると、縁側の近くで、ぴしゃりとすねをたたく音がした。

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すると、縁側に近く、ぴしゃりとすねたたく音がした。

それから、人が立って奥へ入って行く気配であった。

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それから、人が立って、奥へ這入はいって行く気色であった。

やがて話し声が聞こえた。

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やがて話声が聞えた。

何のことかよく聞き取れなかったが、声はたしかに平岡と三千代であった。

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何の事か善く聴き取れなかったが、声はたしかに、平岡と三千代であった。

話し声はしばらくでやんでしまった。

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話声はしばらくでんでしまった。

すると、また足音が縁側まで近づいて、どさりとすわる音が手に取るように聞こえた。

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すると又足音が縁側まで近付いて、どさりとしりを卸す音が手に取る様に聞えた。

代助はそのままへいのそばをはなれた。

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代助はそれなり塀の傍を退いた。

そうして、来た道とは反対の方角に歩き出した。

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そうして元来た道とは反対の方角に歩き出した。

しばらくは、どこをどう歩いているか夢中であった。

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しばらくは、何処どこをどう歩いているか夢中であった。

その間、代助の頭には今見た場面ばかりが焼きつくようにおどっていた。

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その間代助の頭には今見た光景ばかりがり付く様におどっていた。

それが少しおさまると、今度は自分のしたことに対して、言いようのないはずかしさを感じた。

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それが、少し衰えると、今度は自己の行為に対して、云うべからざる汚辱の意味を感じた。

彼はなぜこんな下品なまねをして、まるで驚かされたかのように引き下がったのかと自分を不思議に思った。

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彼はなんゆえに、かる下劣な真似をして、あたかも驚ろかされたかの如くに退却したのかを怪しんだ。

彼は暗い小道に立って、世界が今夜につつまれていることをひそかに喜んだ。

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彼は暗い小路に立って、世界がいま夜に支配されつつある事をひそかに喜んだ。

しかも梅雨の重い空気にとじこめられて、歩けば歩くほど息がつまるような気持ちがした。

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しかも五月雨さみだれの重い空気にとざされて、歩けば歩く程、窒息する様な心持がした。

神楽坂の上へ出たとき、急に目がぎらぎらした。

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神楽坂上へ出た時、急に眼がぎらぎらした。

体をつつむたくさんの人とたくさんの光が、頭をえんりょなく焼いた。

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身を包む無数の人と、無数の光が頭を遠慮なく焼いた。

代助は逃げるように藁店の坂を上った。

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代助は逃げる様に藁店わらだなあがった。

家へ帰ると、門野がいつものようにぼんやりした顔をして、

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家へ帰ると、門野が例の如く慢然たる顔をして、

「だいぶ遅かったですな。ご飯はもうおすみになりましたか」

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「大分遅うがしたな。御飯はもう御済みになりましたか」

と聞いた。

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と聞いた。

代助はご飯がほしくなかったので、要らないと答えて、門野を追い返すように書斎から出した。

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代助は飯が欲しくなかったので、要らないよしを答えて、門野を追い帰す様に、書斎から退ぞけた。

が、二、三分たたないうちに、また手を鳴らして呼んだ。

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が、二三分立たない内に、又手を鳴らして呼び出した。

「家から使いは来やしなかったかね」

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うちから使は来やしなかったかね」

「いいえ」

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「いいえ」

代助は、

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代助は、

「じゃ、いい」

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「じゃ、宜しい」

と言っただけであった。

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と云ったぎりであった。

門野は物足りなさそうに入り口に立っていたが、

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門野は物足りなそうに入口に立っていたが、

「先生は、何ですか、お宅へいらっしゃったんじゃなかったんですか」

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「先生は、何ですか、御宅へ御出おいでになったんじゃ無かったんですか」

「なぜ」

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「何故」

と代助はむずかしい顔をした。

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と代助はむずかしい顔をした。

「だって、お出かけになるとき、そんなお話でしたから」

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「だって、御出掛になるとき、そんな御話でしたから」

代助は門野の相手をするのが面倒になった。

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代助は門野を相手にするのが面倒になった。

「家へは行ったさ。――家から使いが来なければ、それでいいじゃないか」

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「宅へは行ったさ。――宅から使が来なければそれで、好いじゃないか」

門野はよくわからないまま、

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門野は不得要領に、

「はあ、そうですか」

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「はあそうですか」

と言い残して出て行った。

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と云い放して出て行った。

代助は、父がどんな相手に対してよりも自分に対してせっかちであることを知っているので、ことによると帰ったあとすぐ使いでもよこしはしないかとおそれて、聞いてみたのであった。

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代助は、父があらゆる世界に対してよりも、自分に対して、性急であるという事を知っているので、ことによると、帰った後からすぐ使でも寄こしはしまいかと恐れて聞きただしたのであった。

門野が書生部屋へ引きあげたあとで、明日はぜひとも三千代に会わなければならないと決心した。

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門野が書生部屋へ引き取ったあとで、明日は是非とも三千代に逢わなければならないと決心した。

その夜、代助はねながら、どうやって三千代に会おうかという問題を考えた。

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その夜代助はながら、どう云う手段で三千代に逢おうかと云う問題を考えた。

手紙を車引きに持たせて家へ呼びにやれば、来ることは来るだろうが、もう今日兄の妻と話をした以上は、明日にも兄か兄の妻から、向こうにおしかけられないとも限らない。

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手紙を車夫に持たせてうちへ呼びに遣れば、来る事は来るだろうが、既に今日嫂との会談が済んだ以上は、明日にも、兄か嫂のために、向うから襲われないとも限らない。

また、平岡の家へ行って会うことは、代助にとって一種の苦しみがあった。

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又平岡のうちへ行って逢う事は代助に取って一種の苦痛があった。

代助はしかたなく、自分にも三千代にも関係のないところで会うよりほかに道はないと思った。

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代助はやむを得ず、自分にも三千代にも関係のない所で逢うより外に道はないと思った。

夜中から強く雨が降り出した。

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夜半から強く雨が降り出した。

つってあるかやがかえって寒く見えるくらいの音が、どうどうと家をつつんだ。

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釣ってある蚊帳かやが、かえって寒く見える位な音がどうどうと家を包んだ。

代助はその音の中で、夜が明けるのを待った。

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代助はその音のうちの明けるのを待った。

雨は次の日まで上がらなかった。

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雨は翌日まで晴れなかった。

代助はしめっぽい縁側に立って、暗い空をながめて、昨夜の計画をまた変えた。

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代助は湿っぽい縁側に立って、暗い空模様を眺めて、昨夕ゆうべの計画を又変えた。

彼は三千代をふつうの待合などへ呼んで話をするのがいやであった。

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彼は三千代を普通の待合などへ呼んで、話をするのが不愉快であった。

しかたなければ青い空の下でと思っていたが、この天気ではそれもむずかしかった。

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已むなくんば、あおい空の下と思っていたが、この天気ではそれも覚束おぼつかなかった。

かといって、平岡の家へ出向く気は初めからなかった。

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と云って、平岡の家へ出向く気は始めから無かった。

彼はどうしても、三千代を自分の家へ連れて来るよりほかに道はないと決めた。

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彼はどうしても、三千代を自分の宅へ連れて来るより外に道はないと極めた。

門野が少しじゃまになるが、話し方によっては書生部屋に聞こえないようにもできると考えた。

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門野が少し邪魔になるが、話のし具合では書生部屋にれない様にも出来ると考えた。

昼の少し前までは、ぼんやり雨をながめていた。

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ひる少し前までは、ぼんやり雨を眺めていた。

昼ご飯をすませるとすぐ、ゴムの雨がっぱを引っ掛けて外へ出た。

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午飯ひるめしを済ますやいなや、護謨ゴム合羽かっぱを引き掛けて表へ出た。

降る中を神楽坂の下まで来て、青山の家へ電話をかけた。

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降る中を神楽坂下まで来て青山の宅へ電話を掛けた。

明日こちらから行くつもりだからと、先手を打っておいた。

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明日此方こっちからく積りであるからと、機先を制して置いた。

電話には兄の妻が出た。

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電話口へは嫂が現れた。

この間のことはまだ父に話さないでいるから、もう一度よく考え直してみないかと言われた。

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先達せんだっての事は、まだ父に話さないでいるから、もう一遍よく考え直して御覧なさらないかと云われた。

代助はお礼を言って電話を切った。

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代助は感謝の辞と共に号鈴ベルを鳴らして談話を切った。

次に平岡の新聞社の番号を呼んで、彼が会社に出ているかどうかを確かめた。

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次に平岡の新聞社の番号を呼んで、彼の出社の有無を確めた。

平岡は会社に出ているという返事だった。

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平岡は社に出ていると云う返事を得た。

代助は雨の中を、また坂を上った。

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代助は雨をいて又坂を上った。

花屋へ入って、大きな白いゆりの花をたくさん買って、それを持って家へ帰った。

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花屋へ這入って、大きな白百合しろゆりの花を沢山買って、それを提げて、宅へ帰った。

花はぬれたまま、二つの花びんに分けてさした。

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花はれたまま、二つの花瓶かへいに分けてした。

まだあまっているのを、この間の鉢に水を張っておいて、くきを短く切って、すぱすぱ放りこんだ。

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まだ余っているのを、この間の鉢に水を張って置いて、茎を短かく切って、すぱすぱ放り込んだ。

それから机に向かって、三千代へ手紙を書いた。

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それから、机に向って、三千代へ手紙を書いた。

文はとても短いものであった。

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文句は極めて短かいものであった。

ただ、大急ぎでお目にかかってお話ししたいことがあるから来てくれ、というだけであった。

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ただ至急御目に掛って、御話ししたい事があるから来てくれろと云うだけであった。

代助は手をたたいて、門野を呼んだ。

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代助は手を打って、門野を呼んだ。

門野は鼻を鳴らして現れた。

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門野は鼻を鳴らして現れた。

手紙を受け取りながら、

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手紙を受取りながら、

「たいへんいいかおりですな」

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「大変好いにおいですな」

と言った。

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と云った。

代助は、

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代助は、

「車を持って行って、乗せて来るんだよ」

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「車を持って行って、乗せて来るんだよ」

と念をおした。

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と念を押した。

門野は雨の中を、いつも使う車屋まで出て行った。

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門野は雨の中を乗りつけの帳場まで出て行った。

代助はゆりの花をながめながら、部屋をおおう強いかおりの中に、すっかり自分をあずけた。

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代助は、百合の花を眺めながら、部屋をおおう強いの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。

彼はこのにおいの刺激の中に、三千代の過去をはっきりと見た。

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彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。

その過去には、はなせない自分の昔のかげが、けむりのようにまとわりついていた。

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その過去には離すべからざる、わが昔の影がけむりの如くまつわっていた。

彼はしばらくして、

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彼はしばらくして、

「今日初めて自然な昔に帰るんだ」

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「今日始めて自然の昔に帰るんだ」

と胸の中で言った。

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と胸の中で云った。

こう言えたとき、彼は何年ぶりかの安らぎを全身に感じた。

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こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。

なぜもっと早く帰ることができなかったのかと思った。

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何故なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。

初めからなぜ自然にさからったのかと思った。

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始から何故自然に抵抗したのかと思った。

彼は雨の中に、ゆりの中に、また現れた昔の中に、まじり気のないおだやかな命を見つけた。

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彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出みいだした。

その命のうらにもおもてにも、損得はなかった、利害はなかった、自分をおさえつける道徳はなかった。

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その生命の裏にも表にも、慾得よくとくはなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。

雲のような自由と、水のような自然とがあった。

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雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。

そうして、すべてが幸せであった。

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そうしてすべてがブリスであった。

だから、すべてが美しかった。

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だから凡てが美しかった。

やがて、夢からさめた。

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やがて、夢から覚めた。

このひとときの幸せから生まれる永久の苦しみが、そのとき突然代助の頭をおそって来た。

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この一刻のブリスから生ずる永久の苦痛がその時卒然として、代助の頭を冒して来た。

彼のくちびるは色を失った。

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彼の唇は色を失った。

彼は黙って、自分で自分の手をながめた。

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彼は黙然もくねんとして、我と吾手わがてを眺めた。

つめの下に流れている血が、ぶるぶるふるえるように思われた。

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つめの甲の底に流れている血潮が、ぶるぶるふるえる様に思われた。

彼は立って、ゆりの花のそばへ行った。

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彼は立って百合の花の傍へ行った。

くちびるが花びらにつくほど近く寄って、強いかおりを目がくらむまでかいだ。

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唇がはなびらに着く程近く寄って、強い香を眼のうまでいだ。

彼は花から花へくちびるを移して、あまいかおりにむせて、気を失って部屋の中にたおれたかった。

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彼は花から花へ唇を移して、甘い香にせて、失心してへやの中に倒れたかった。

彼はやがてうでを組んで、書斎と座敷の間を行ったり来たりした。

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彼はやがて、腕を組んで、書斎と座敷の間をったり来たりした。

彼の胸はずっと、どきどきしていた。

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彼の胸は始終鼓動を感じていた。

彼はときどき、いすの角やテーブルの前へ来て止まった。

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彼は時々椅子いすの角や、洋卓デスクの前へ来て留まった。

それからまた歩き出した。

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それから又歩き出した。

彼の心のゆれは、彼が長く一つのところにいることを許さなかった。

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彼の心の動揺は、彼をして長く一所に留まる事を許さなかった。

同時に彼は、何かを考えるために、へんなところに立ち止まらずにはいられなかった。

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同時に彼は何物をか考えるために、無暗むやみな所に立ち留まらざるを得なかった。

そのうちに、時はだんだんたった。

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そのうちに時は段々移った。

代助はたえず置き時計のはりを見た。

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代助は断えず置時計の針を見た。

またのぞくように、のきから外の雨を見た。

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のぞく様に、軒から外の雨を見た。

雨はやはり、空からまっすぐに降っていた。

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雨は依然として、空から真直に降っていた。

空は前より少し暗くなった。

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空は前よりもやや暗くなった。

重なる雲が一つところでうずを巻いて、だんだん地面の上へ押し寄せるのではないかと思われた。

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重なる雲が一つ所で渦をいて、次第に地面の上へ押し寄せるかと怪しまれた。

そのとき、雨に光る車を門から中へ引きこんだ。

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その時雨に光る車を門から中へ引き込んだ。

輪の音が雨をこえて代助の耳にひびいたとき、彼は青白いほおにほほえみをうかべながら、右の手を胸に当てた。

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輪の音が、雨を圧して代助の耳に響いた時、彼は蒼白あおしろい頬に微笑を洩しながら、右の手を胸に当てた。

三千代は玄関から門野に連れられて、ろうかを通って入って来た。

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三千代は玄関から、門野に連れられて、廊下伝いに這入って来た。

めいせん(ふだん着の絹)のこんがすりにからくさ模様のひとえ帯をしめて、この前とはまるでちがう身なりをしているので、一目見た代助には新しい感じがした。

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銘仙の紺絣こんがすりに、唐草からくさ模様の一重帯を締めて、この前とはまるで違った服装なりをしているので、一目見た代助には、新らしい感じがした。

顔色はいつものとおりよくなかったが、座敷の入り口で代助と顔を合わせたとき、目もまゆも口も、ぴたりと動きを止めたようにかたくなった。

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色は不断の通り好くなかったが、座敷の入口で、代助と顔を合せた時、眼もまゆも口もぴたりと活動を中止した様に固くなった。

しきいに立っている間は、足も動かなくなったとしか見えなかった。

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敷居に立っている間は、足も動けなくなったとしか受取れなかった。

三千代はもちろん、手紙を見たときから何かを予想して来た。

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三千代はもとより手紙を見た時から、何事をか予期して来た。

その予想の中には、おそれと、喜びと、心配とがあった。

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その予期のうちには恐れと、よろこびと、心配とがあった。

車から降りて座敷へ案内されるまで、三千代の顔はその予想の色でいっぱいだった。

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車から降りて、座敷へ案内されるまで、三千代の顔はその予期の色をもってみなぎっていた。

三千代の表情は、そこでぱたりと止まった。

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三千代の表情はそこで、はたと留まった。

代助のようすは、三千代にそれだけの衝撃をあたえるほど強いものであった。

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代助の様子は三千代にそれだけの打衝ショックを与える程に強烈であった。

代助はいすの一つを指さした。

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代助は椅子の一つを指さした。

三千代は言われたとおりに腰を掛けた。

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三千代は命ぜられた通りに腰を掛けた。

代助はその向こうにすわった。

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代助はその向うに席を占めた。

二人は初めて向かい合った。

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二人は始めて相対した。

しかし、しばらくは二人とも口を開かなかった。

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然しやや少時しばらくは二人とも、口を開かなかった。

「何かご用なの」

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「何か御用なの」

と三千代はようやく聞いた。

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と三千代はようやくにして問うた。

代助はただ、

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代助は、ただ、

「ええ」

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「ええ」

と言った。

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と云った。

二人はそれきりで、またしばらく雨の音を聞いた。

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二人はそれぎりで、又しばらく雨の音を聴いた。

「何か急なご用なの」

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「何か急な御用なの」

と三千代がまた聞いた。

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と三千代が又尋ねた。

代助はまた、

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代助は又、

「ええ」

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「ええ」

と言った。

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と云った。

どちらも、いつものように軽くは話せなかった。

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双方共何時いつもの様に軽くは話し得なかった。

代助は酒の力を借りて自分を語らなければならないような自分をはずかしく思った。

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代助は酒の力を借りて、己れを語らなければならない様な自分をじた。

彼は打ち明けるときは、かならずいつもの自分でなければならないと、前から心に決めていた。

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彼は打ち明けるときは、必ず平生の自分でなければならないものと兼て覚悟をしていた。

けれども、あらためて三千代に向かってみると、初めて一てきのお酒がほしくなった。

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けれども、改たまって、三千代に対してみると、始めて、一滴の酒精が恋しくなった。

こっそりとなりの部屋へ立って、例のウイスキーをコップであおろうかと思ったが、とうとうその気にはなれなかった。

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ひそかに次の間へ立って、いつものウィスキーを洋盃コップで傾けようかと思ったが、ついにその決心に堪えなかった。

彼は明るい空の下で、ふつうの態度で相手にはっきり言えることでなければ、自分のまごころではないと信じたからである。

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彼は青天白日のもとに、尋常の態度で、相手に公言し得る事でなければ自己の誠でないと信じたからである。

よいという壁を作って、そのかげにかくれて自分を大胆にするのは、ひきょうで、むごくて、相手をはずかしめるような気がしてならなかったからである。

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よいと云う牆壁しょうへきを築いて、その掩護えんごに乗じて、自己を大胆にするのは、卑怯ひきょうで、残酷で、相手に汚辱を与える様な気がしてならなかったからである。

彼は世の中の決まりに対しては、道徳を守る態度を取ることができなくなった。

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彼は社会の習慣に対しては、徳義的な態度を取る事が出来なくなった。

そのかわり、三千代に対しては、少しも後ろ暗い気持ちを持たないつもりであった。

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その代り三千代に対しては一点も不徳義な動機を蓄えぬ積りであった。

いや、彼を卑しさに落とすすきがまるでないほどに、代助は三千代を愛した。

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いな、彼をして卑吝ひりんに陥らしむる余地がまるでない程に、代助は三千代を愛した。

けれども、彼は三千代から何の用かと聞かれたとき、すぐに気持ちを打ち明けることができなかった。

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けれども、彼は三千代から何の用かを聞かれた時に、すぐ己れを傾ける事が出来なかった。

二度聞かれたときも、まだためらった。

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二度聞かれた時になお躊躇ちゅうちょした。

三度目には、しかたなく、

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三度目には、已を得ず、

「まあ、ゆっくり話しましょう」

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「まあ、ゆっくり話しましょう」

と言って、巻きたばこに火をつけた。

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と云って、巻烟草まきたばこに火をけた。

三千代の顔は、返事をのばされるたびに悪くなった。

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三千代の顔は返事を延ばされる度に悪くなった。

雨はやはり、長く、こまかく、物に音を立てて降った。

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雨は依然として、長く、密に、物に音を立てて降った。

二人は雨のために、雨が立てる音のために、世間から切りはなされた。

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二人は雨の為に、雨の持ちきたす音の為に、世間から切り離された。

同じ家に住む門野からもおばあさんからも切りはなされた。

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同じ家に住む門野からもばあさんからも切り離された。

二人はぽつんと二人きりで、白いゆりのかおりの中にとじこめられた。

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二人は孤立のまま、白百合のの中に封じ込められた。

「さっき外へ出て、あの花を買って来ました」

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先刻さっき表へ出て、あの花を買って来ました」

と代助は自分のまわりを見回した。

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と代助は自分の周囲を顧みた。

三千代の目は代助について、部屋の中を一回りした。

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三千代の眼は代助にいて室の中を一回ひとまわりした。

そのあと、三千代は鼻から強く息を吸いこんだ。

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その後で三千代は鼻から強く息を吸い込んだ。

「兄さんとあなたが清水町にいたころのことを思い出そうと思って、なるべくたくさん買って来ました」

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「兄さんと貴方あなたと清水町にいた時分の事を思い出そうと思って、なるべく沢山買って来ました」

と代助が言った。

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と代助が云った。

「いいかおりですこと」

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においですこと」

と三千代は、そり返るように開いた大きな花びらをながめていたが、それから目をはなして代助に向けたとき、ぽっとほおをうす赤くした。

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と三千代は翻がえる様にほころびた大きな花弁はなびらを眺めていたが、それから眼を放して代助に移した時、ぽうと頬を薄赤くした。

「あのころのことを考えると」

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「あの時分の事を考えると」

と半分言ってやめた。

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と半分云ってめた。

「覚えていますか」

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「覚えていますか」

「覚えていますわ」

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「覚えていますわ」

「あなたははでな半えりを掛けて、いちょうがえしにかみを結っていましたね」

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「貴方は派手な半襟を掛けて、銀杏返いちょうがえしに結っていましたね」

「だって、東京へ来たばかりだったんですもの。すぐやめてしまったわ」

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「だって、東京へ来立きたてだったんですもの。じき已めてしまったわ」

「この間、ゆりの花を持って来て下さったときも、いちょうがえしじゃなかったですか」

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「この間百合の花を持って来て下さった時も、銀杏返しじゃなかったですか」

「あら、気がついて。あれは、あのときだけなのよ」

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「あら、気が付いて。あれは、あの時ぎりなのよ」

「あのときは、あんなかみに結いたくなったんですか」

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「あの時はあんなまげに結いたくなったんですか」

「ええ、気まぐれにちょっと結ってみたかったの」

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「ええ、気迷きまぐれに一寸ちょいと結ってみたかったの」

「僕はあのかみを見て、昔を思い出した」

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「僕はあの髷を見て、昔を思い出した」

「そう」

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「そう」

と三千代ははずかしそうにうなずいた。

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と三千代はずかしそうにうけがった。

三千代が清水町にいたころ、代助と気安く口をきくようになってからのことだが、初めて国から出て来たころのかみの形を代助からほめられたことがあった。

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三千代が清水町にいた頃、代助と心安く口を聞く様になってからの事だが、始めて国から出て来た当時の髪の風を代助からめられた事があった。

そのとき、三千代は笑っていたが、それを聞いたあとでも決していちょうがえしには結わなかった。

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その時三千代は笑っていたが、それを聞いた後でも、決して銀杏返しには結わなかった。

二人は今も、このことをよく覚えていた。

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二人は今もこの事をよく記憶していた。

けれども、どちらも口に出しては何も言わなかった。

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けれども双方共口へ出しては何も語らなかった。

三千代の兄というのはむしろさっぱりした性格で、へだてのないつきあい方から、友達にとても好かれていた。

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三千代の兄と云うのはむし豁達かったつな気性で、懸隔てのない交際振つきあいぶりから、友達にはひどく愛されていた。

とくに代助は、その親友であった。

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ことに代助はその親友であった。

この兄は自分がさっぱりしているだけに、妹のおとなしいのをかわいがっていた。

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この兄は自分が豁達であるだけに、妹の大人しいのを可愛かあいがっていた。

国から連れて来ていっしょに家を持ったのも、妹を教育しなければならないという義務からではなくて、まったく妹のこれからを思う気持ちと、今自分のそばに置いておきたい思いとからであった。

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国から連れて来て、一所に家を持ったのも、妹を教育しなければならないと云う義務の念からではなくて、全く妹の未来に対する情合と、現在自分の傍に引き着けて置きたい欲望とからであった。

彼は三千代を呼ぶ前に、すでに代助に向かってそのことを打ち明けたことがあった。

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彼は三千代を呼ぶ前、既に代助に向ってそのむねを打ち明けた事があった。

そのとき、代助はふつうの若者のように、大きな好奇心でこの計画を受け止めた。

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その時代助は普通の青年の様に、多大の好奇心をもってこの計画を迎えた。

三千代が来てから後、兄と代助はますます親しくなった。

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三千代が来てから後、兄と代助とはますます親しくなった。

どちらが友情を一歩進めたかは、代助自身にもわからなかった。

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何方どっちが友情の歩を進めたかは、代助自身にも分らなかった。

兄が死んだあとで当時を振り返ってみるたびに、代助はこの親しさのうらにある意味を見つけずにはいられなかった。

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兄が死んだ後で、当時を振り返ってみるごとに、代助はこの親密のうちに一種の意味を認めない訳に行かなかった。

兄は死ぬときまで、それをはっきり言わなかった。

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兄は死ぬ時までそれを明言しなかった。

代助も何も言わなかった。

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代助もあえて何事をも語らなかった。

こうしておたがいの思いは、おたがいの間の秘密としてほうむられてしまった。

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かくして、相互の思わくは、相互の間の秘密としてほうむられてしまった。

兄が生きているうちにこのことをこっそり三千代にもらしたことがあるかどうか、そこは代助も知らなかった。

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兄は存生ぞんしょう中にこの意味をひそかに三千代に洩らした事があるかどうか、其所そこは代助も知らなかった。

代助はただ、三千代のふるまいと言葉や話からある特別な感じを受け取っただけであった。

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代助はただ三千代の挙止動作と言語談話からある特別な感じを得ただけであった。

代助はそのころから、美しさのわかる人として三千代の兄とつきあっていた。

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代助はその頃から趣味の人として、三千代の兄に臨んでいた。

三千代の兄は、そのほうではふつう以上の感じる力を持っていなかった。

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三千代の兄はその方面において、普通以上の感受性を持っていなかった。

深い話になると、正直にわからないと打ち明けて、よけいな議論をさけた。

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深い話になると、正直に分らないと自白して、余計な議論を避けた。

どこからか arbiter elegantiarum(アルビテル・エレガンティアルム。「みやびの目きき」という意味の古いラテン語)という言葉を見つけて来て、それを代助のあだ名のように使いまくったのは、そのころのことであった。

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何処からか arbiterアービター elegantiarumエレガンシアルム と云う字を見付出して来て、それを代助の異名の様に濫用らんようしたのは、その頃の事であった。

三千代はとなりの部屋で、黙って兄と代助の話を聞いていた。

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三千代は隣りの部屋で黙って兄と代助の話を聞いていた。

しまいにはとうとう arbiter elegantiarum という言葉を覚えた。

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仕舞にはとうとう arbiterアービター elegantiarumエレガンシアルム と云う字を覚えた。

あるとき、その意味を兄に聞いて驚かれたことがあった。

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ある時その意味を兄に尋ねて、驚ろかれた事があった。

兄は美しさについての妹の教育を、すべて代助にまかせたように見えた。

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兄は趣味に関する妹の教育を、凡て代助に委任したごとくに見えた。

代助によって開かれるはずの妹の頭に、ふれ合う機会をできるだけあたえるようにした。

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代助を待って啓発されべき妹の頭脳に、接触の機会を出来るだけ与える様につとめた。

代助も断らなかった。

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代助も辞退はしなかった。

あとから振り返ると、自分から進んでその役を引き受けたと思われるあとも見えた。

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後から顧みると、自ら進んでその任に当ったと思われる痕迹こんせきもあった。

三千代はもちろん、喜んで彼の教えを受けた。

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三千代は固より喜んで彼の指導を受けた。

三人はこうしてうずまきのように回りながら、月から月へと進んで行った。

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三人はかくして、ともえの如くに回転しつつ、月から月へと進んで行った。

気づいてか気づかずか、うずの輪は回るにつれてだんだんせまくなって来た。

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有意識か無意識か、巴の輪はめぐるに従って次第に狭まって来た。

とうとう三つのうずが一つところに寄って丸い円になろうとする少し前のところで、突然その一つが欠けたため、残る二つはつり合いを失った。

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遂に三巴みつどもえが一所に寄って、丸い円になろうとする少し前の所で、忽然こつぜんその一つが欠けたため、残る二つは平衡を失った。

代助と三千代は、五年前の昔を心おきなく語り始めた。

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代助と三千代は五年の昔を心置なく語り始めた。

語るにつれて、今の自分が遠のいて、だんだんあのころの学生時代に戻って来た。

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語るに従って、現在の自己が遠退いて、段々と当時の学生時代に返って来た。

二人のへだたりは、また元のように近くなった。

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二人の距離は又元の様に近くなった。

「あのとき、兄さんが亡くならないでまだ元気でいたら、今ごろ私はどうしているでしょう」

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「あの時兄さんがくならないで、だ達者でいたら、今頃わたしはどうしているでしょう」

と三千代は、そのころをなつかしむように言った。

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と三千代は、その時を恋しがる様に云った。

「兄さんが元気でいたら、別の人になっているわけですか」

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「兄さんが達者でいたら、別の人になっている訳ですか」

「別の人にはなりませんわ。あなたは?」

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「別な人にはなりませんわ。貴方は?」

「僕も同じことです」

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「僕も同じ事です」

三千代はそのとき、少したしなめるような調子で、

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三千代はその時、少したしなめる様な調子で、

「あらうそ」

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「あらうそ

と言った。

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と云った。

代助は深い目を三千代にすえて、

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代助は深い眼を三千代の上に据えて、

「僕は、あのときも今も、少しも変わっていないのです」

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「僕は、あの時も今も、少しも違っていやしないのです」

と答えたまま、なおしばらくは目を相手からはなさなかった。

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と答えたまま、猶しばらくは眼を相手から離さなかった。

三千代はたちまち目をそらした。

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三千代はたちまち視線をらした。

そうして、半分ひとりごとのように、

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そうして、半ば独り言の様に、

「だって、あのときからもう変わっていらしたんですもの」

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「だって、あの時から、もう違っていらしったんですもの」

と言った。

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と云った。

三千代の言葉は、ふつうの話としてはあまりに声が低すぎた。

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三千代の言葉は普通の談話としては余りに声が低過ぎた。

代助は消えて行く影をふみつけるように、すぐそのはしをとらえた。

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代助は消えて行く影を踏まえる如くに、すぐその尾をとらえた。

「変わっていません。あなたにはただそう見えるだけです。そう見えたってしかたがないが、それは思いちがいだ」

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「違やしません。貴方にはただそう見えるだけです。そう見えたって仕方がないが、それは僻目ひがめだ」

代助のほうは、いつもより熱心にはっきりした声で、自分をかばうように言った。

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代助の方は通例よりも熱心に判然はっきりした声で自己を弁護する如くに云った。

三千代の声は、ますます低かった。

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三千代の声はますます低かった。

「思いちがいでも何でもよくってよ」

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「僻目でも何でもくってよ」

代助は黙って三千代のようすをうかがった。

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代助は黙って三千代の様子をうかがった。

三千代は初めから、目をふせていた。

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三千代は始めから、眼を伏せていた。

代助には、その長いまつげのふるえるようすがよく見えた。

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代助にはその長い睫毛まつげふるえるさまが能く見えた。

「僕が生きて行くには、あなたが必要だ。どうしても必要だ。僕はそれだけのことをあなたに話したいために、わざわざあなたを呼んだのです」

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「僕の存在には貴方が必要だ。どうしても必要だ。僕はそれだけの事を貴方に話したい為にわざわざ貴方を呼んだのです」

代助の言葉には、ふつうの恋人が使うようなあまいかざりはなかった。

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代助の言葉には、普通の愛人の用いる様な甘い文彩あやを含んでいなかった。

彼の調子は、その言葉と同じで短くかざり気がなかった。

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彼の調子はその言葉と共に簡単で素朴であった。

むしろおごそかなほどであった。

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寧ろ厳粛の域にせまっていた。

ただ、それだけのことを言うために、大急ぎだと言ってわざわざ三千代を呼んだところが、おもちゃのような詩のようであった。

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ただ、それだけの事を語る為に、急用として、わざわざ三千代を呼んだ所が、玩具おもちゃの詩歌に類していた。

けれども三千代は、もちろんこういう意味の、世間ばなれした大急ぎをわかる女であった。

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けれども、三千代は固より、こう云う意味での俗を離れた急用を理解し得る女であった。

その上、世間の小説に出て来る若いころの言葉のかざりには、あまり興味を持っていなかった。

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その上世間の小説に出て来る青春時代の修辞には、多くの興味を持っていなかった。

代助の言葉が三千代の感覚にはなやかなものを何もあたえなかったのは、事実であった。

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代助の言葉が、三千代の官能に華やかな何物をも与えなかったのは、事実であった。

三千代がそれをほしがっていなかったのも事実であった。

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三千代がそれに渇いていなかったのも事実であった。

代助の言葉は感覚を通りこして、すぐ三千代の心にとどいた。

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代助の言葉は官能を通り越して、すぐ三千代の心に達した。

三千代はふるえるまつげの間から、なみだをほおの上に流した。

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三千代は顫える睫毛の間から、涙を頬の上に流した。

「僕はそれをあなたに承知してもらいたいのです。承知して下さい」

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「僕はそれを貴方に承知してもらいたいのです。承知して下さい」

三千代はまだ泣いた。

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三千代は猶泣いた。

代助に返事をするどころではなかった。

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代助に返事をするどころではなかった。

たもとからハンカチを出して顔に当てた。

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たもとから手帛ハンケチを出して顔へ当てた。

こいまゆの一部と、ひたいと生えぎわだけが代助の目に残った。

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濃い眉の一部分と、額と生際はえぎわだけが代助の眼に残った。

代助はいすを三千代のほうへずらして寄せた。

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代助は椅子を三千代の方へり寄せた。

「承知して下さるでしょう」

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「承知して下さるでしょう」

と耳のそばで言った。

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と耳のはたで云った。

三千代は、まだ顔をおおっていた。

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三千代は、まだ顔をおおっていた。

しゃくり上げながら、

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しゃくり上げながら、

「あんまりだわ」

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あんまりだわ」

という声がハンカチの中で聞こえた。

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と云う声が手帛の中で聞えた。

それが代助の耳を、電気のようにつらぬいた。

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それが代助の聴覚を電流の如くに冒した。

代助は自分の打ち明けが遅すぎたということを強く感じた。

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代助は自分の告白が遅過ぎたと云う事を切に自覚した。

打ち明けるならば、三千代が平岡へ嫁ぐ前に打ち明けなければならないはずであった。

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打ち明けるならば三千代が平岡へ嫁ぐ前に打ち明けなければならないはずであった。

彼はなみだとなみだの間にぽつぽつと出る三千代のこの一言を聞くのにたえられなかった。

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彼は涙と涙の間をぼつぼつつづる三千代のこの一語を聞くに堪えなかった。

「僕は三、四年前に、あなたにそう打ち明けなければならなかったのです」

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「僕は三四年前に、貴方にそう打ち明けなければならなかったのです」

と言って、がっかりして口を閉じた。

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と云って、憮然ぶぜんとして口を閉じた。

三千代は急にハンカチから顔をはなした。

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三千代は急に手帛から顔を離した。

まぶたの赤くなった目を突然代助に見開いて、

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まぶたの赤くなった眼を突然代助の上にみはって、

「打ち明けて下さらなくてもいいから、なぜ」

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「打ち明けて下さらなくってもいから、何故」

と言いかけて、ちょっとためらったが、思い切って、「なぜ捨ててしまったんです」

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と云い掛けて、一寸ちょっと蹰躇ちゅうちょしたが、思い切って、「何故棄ててしまったんです」

と言うとすぐ、またハンカチを顔に当ててまた泣いた。

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と云うや否や、又手帛ハンケチを顔に当てて又泣いた。

「僕が悪い。かんべんして下さい」

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「僕が悪い。勘忍かんにんして下さい」

代助は三千代の手首を取って、ハンカチを顔からはなそうとした。

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代助は三千代の手頸てくびを執って、手帛を顔から離そうとした。

三千代はさからおうともしなかった。

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三千代は逆おうともしなかった。

ハンカチはひざの上に落ちた。

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手帛はひざの上に落ちた。

三千代はそのひざの上を見たまま、かすかな声で、

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三千代はその膝の上を見たまま、かすかな声で、

「むごいわ」

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「残酷だわ」

と言った。

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と云った。

小さい口もとの肉が、ふるえるように動いた。

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小さい口元の肉が顫う様に動いた。

「むごいと言われてもしかたがありません。そのかわり、僕はそれだけのばつを受けています」

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「残酷と云われても仕方がありません。その代り僕はそれだけの罰を受けています」

三千代は不思議そうな目をして顔を上げたが、

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三千代は不思議な眼をして顔を上げたが、

「どうして」

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「どうして」

と聞いた。

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と聞いた。

「あなたが結婚して三年以上になるが、僕はまだ独身でいます」

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「貴方が結婚して三年以上になるが、僕はまだ独身でいます」

「だって、それはあなたの勝手じゃありませんか」

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「だって、それは貴方の御勝手じゃありませんか」

「勝手じゃありません。もらおうと思ってももらえないのです。それから後、家の者から何度結婚をすすめられたかわかりません。けれども、みんな断ってしまいました。今度もまた一人断りました。その結果、僕と父との間がどうなるかわかりません。しかしどうなってもかまわない、断るんです。あなたが僕にしかえしをしている間は、断らなければならないんです」

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「勝手じゃありません。貰おうと思っても、貰えないのです。それから以後、うちのものから何遍結婚を勧められたか分りません。けれども、みんな断ってしまいました。今度もまた一人断りました。その結果僕と僕の父との間がどうなるか分りません。しかしどうなっても構わない、断るんです。貴方が僕に復讎ふくしゅうしている間は断らなければならないんです」

「しかえし」

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「復讎」

と三千代は言った。

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と三千代は云った。

この言葉をおそれる者のように目を動かした。

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この二字を恐るるものの如くに眼を働かした。

「私はこれでも、嫁に行ってから今日まで、一日も早くあなたがご結婚なさればいいと思わないで暮らしたことはありません」

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わたくしはこれでも、嫁に行ってから、今日まで一日も早く、貴方が御結婚なさればいと思わないで暮らした事はありません」

と、少しあらたまった言い方であった。

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やや改たまった物の言い振であった。

しかし代助は、それに耳を貸さなかった。

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然し代助はそれに耳を貸さなかった。

「いや、僕はあなたにどこまでもしかえししてもらいたいのです。それが望みなのです。今日こうやってあなたを呼んで、わざわざ自分の胸を打ち明けるのも、じつはあなたからしかえしされている一部としか思いません。僕はこれで、世間から見れば罪をおかしたのと同じです。しかし僕はそう生まれて来た人間なのだから、罪をおかすほうが僕には自然なのです。世間から罪を着せられても、あなたの前で打ち明けることができれば、それで十分なんです。これほどうれしいことはないと思っているんです」

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「いや僕は貴方に何処どこまでも復讎して貰いたいのです。それが本望なのです。今日こうやって、貴方を呼んで、わざわざ自分の胸を打ち明けるのも、実は貴方から復讎されている一部分としか思やしません。僕はこれで社会的に罪を犯したも同じ事です。然し僕はそう生れて来た人間なのだから、罪を犯す方が、僕には自然なのです。世間に罪を得ても、貴方の前に懺悔ざんげする事が出来れば、それで沢山なんです。これ程うれしい事はないと思っているんです」

三千代はなみだの中で初めて笑った。

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三千代は涙の中で始て笑った。

けれども、一言も口には出さなかった。

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けれども一言も口へは出さなかった。

代助はさらに自分を語るすきを得た。――

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代助はなお己れを語るひまを得た。――

「僕は今さらこんなことをあなたに言うのはむごいとわかっています。それがあなたにむごく聞こえれば聞こえるほど、僕はあなたに対してうまく行ったのと同じになるんだからしかたがない。その上、僕はこんなむごいことを打ち明けなければ、もう生きていることができなくなった。つまりわがままです。だからあやまるんです」

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「僕は今更こんな事を貴方に云うのは、残酷だと承知しています。それが貴方に残酷に聞こえれば聞こえる程僕は貴方に対して成功したも同様になるんだから仕方がない。その上僕はこんな残酷な事を打ち明けなければ、もう生きている事が出来なくなった。つまり我儘わがままです。だからあやまるんです」

「むごくはございません。だから、あやまるのはもうやめてちょうだい」

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「残酷では御座いません。だから詫まるのはもうして頂戴ちょうだい

三千代の調子は、このとき急にはっきりした。

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三千代の調子は、この時急に判然はっきりした。

しずんではいたが、前にくらべるととても落ち着いた。

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沈んではいたが、前に比べると非常に落ち着いた。

しかし、しばらくしてからまた、

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然ししばらくしてから、又

「ただ、もう少し早く言って下さると」

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「ただ、もう少し早く云って下さると」

と言いかけてなみだぐんだ。

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と云い掛けて涙ぐんだ。

代助はそのとき、こう聞いた。――

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代助はその時こう聞いた。――

「じゃ、僕が一生黙っていたほうが、あなたには幸せだったんですか」

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「じゃ僕が生涯黙っていた方が、貴方には幸福だったんですか」

「そうじゃないのよ」

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「そうじゃないのよ」

と三千代は力をこめて打ち消した。

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と三千代は力をめて打ち消した。

「私だって、あなたがそう言って下さらなければ、生きていられなくなったかも知れませんわ」

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「私だって、貴方がそう云って下さらなければ、生きていられなくなったかも知れませんわ」

今度は代助のほうがほほえんだ。

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今度は代助の方が微笑した。

「それじゃかまわないでしょう」

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「それじゃ構わないでしょう」

「かまわないよりありがたいわ。ただ――」

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「構わないより難有ありがたいわ。ただ――」

「ただ平岡にすまないと言うんでしょう」

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「ただ平岡に済まないと云うんでしょう」

三千代は不安そうにうなずいた。

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三千代は不安らしく首肯うなずいた。

代助はこう聞いた。――

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代助はこう聞いた。――

「三千代さん、正直に言って御覧。あなたは平岡を愛しているんですか」

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「三千代さん、正直に云って御覧。貴方は平岡を愛しているんですか」

三千代は答えなかった。

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三千代は答えなかった。

見るうちに、顔の色が青くなった。

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見るうちに、顔の色があおくなった。

目も口もかたくなった。

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眼も口も固くなった。

すべてが苦しみの表情であった。

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すべてが苦痛の表情であった。

代助はまた聞いた。

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代助は又聞いた。

「では、平岡はあなたを愛しているんですか」

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「では、平岡は貴方を愛しているんですか」

三千代はやはり下を向いていた。

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三千代はやはりつ向いていた。

代助が思い切った答えを自分の質問に自分でつけようとして、すでにその言葉が口まで出かかったとき、三千代はふいに顔を上げた。

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代助は思い切った判断を、自分の質問の上に与えようとして、既にその言葉が口まで出掛った時、三千代は不意に顔を上げた。

その顔には、今見た不安も苦しみもほとんど消えていた。

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その顔には今見た不安も苦痛もほとんど消えていた。

なみださえ、たいていはかわいた。

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涙さえ大抵は乾いた。

ほおの色はもちろん青かったが、くちびるはしっかりして、動く気配はなかった。

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頬の色はもとより蒼かったが、唇はしかとして、動く気色はなかった。

その間から、低く重い言葉が、つながらないように一字ずつ出た。

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その間から、低く重い言葉が、つながらない様に、一字ずつ出た。

「しかたがない。覚ごを決めましょう」

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「仕様がない。覚悟を極めましょう」

代助は背中から水をあびたようにふるえた。

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代助は背中から水をかぶった様に顫えた。

世間から追い出されるはずの二人の心は、ただ二人向かい合って、おたがいを穴があくほど見つめていた。

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社会からい放たるべき二人の魂は、ただ二人むかい合って、互を穴の明く程眺めていた。

そうして、すべてにさからっておたがいを一つところに引き寄せた力を、おたがいにおそれおののいた。

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そうして、凡てにさからって、互を一所に持ち来たした力を互とおそおののいた。

しばらくすると、三千代は急に何かにおそわれたように、手を顔に当てて泣き出した。

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しばらくすると、三千代は急に物に襲われた様に、手を顔に当てて泣き出した。

代助は三千代の泣くようすを見るにたえられなかった。

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代助は三千代の泣くさまを見るに忍びなかった。

ひじをついて、ひたいを五本の指のうらにかくした。

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ひじを突いて額を五指の裏に隠した。

二人はこの姿をくずさずに、恋のちょうこくのようにじっとしていた。

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二人はこの態度を崩さずに、恋愛の彫刻の如く、じっとしていた。

二人はこうしてじっとしている間に、五十年をその場に縮めたほどの心のはりつめを感じた。

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二人はこう凝としているうちに、五十年をのあたりに縮めた程の精神の緊張を感じた。

そうして、そのはりつめとともに、二人がならんでここにいるという思いを失わなかった。

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そうしてその緊張と共に、二人が相並んで存在しておると云う自覚を失わなかった。

彼らは愛のばつと愛のおくり物とを同時に受けて、同時に両方をしみじみと味わった。

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彼等は愛の刑と愛のたまものとを同時にけて、同時に双方を切実に味わった。

しばらくして、三千代はハンカチを取ってなみだをきれいにふいたが、静かに、

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しばらくして、三千代は手帛ハンケチを取って、涙を奇麗にいたが、静かに、

「私、もう帰ってよ」

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「私もう帰ってよ」

と言った。

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と云った。

代助は、

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代助は、

「お帰りなさい」

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「御帰りなさい」

と答えた。

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と答えた。

雨は小降りになったが、代助はもちろん三千代を一人で帰す気はなかった。

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雨は小降になったが、代助は固より三千代を独り返す気はなかった。

わざと車をたのまずに、自分で送って出た。

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わざと車を雇わずに、自分で送って出た。

平岡の家までついて行くところを、江戸川の橋の上で別れた。

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平岡の家まで附いてく所を、江戸川の橋の上で別れた。

代助は橋の上に立って、三千代が横町を曲がるまで見送っていた。

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代助は橋の上に立って、三千代が横町を曲るまで見送っていた。

それからゆっくり引き返しながら、腹の中で、

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それからゆっくり歩をめぐらしながら、腹の中で、

「これですべて終わる」

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「万事終る」

と言い切った。

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と宣告した。

雨は夕方やんで、夜になったら雲がしきりに飛んだ。

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雨は夕方んで、ったら、雲がしきりに飛んだ。

その中に、洗ったような月が出た。

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その中洗った様な月が出た。

代助は光をあびる庭のぬれた葉を長い間縁側からながめていたが、しまいに下駄をはいて下へ下りた。

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代助は光を浴びる庭の濡葉ぬれはを長い間縁側から眺めていたが、仕舞に下駄を穿いて下へ降りた。

もともと広い庭でない上に、木の数が思ったより多いので、代助が歩ける広さはたいしてなかった。

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固より広い庭でない上に立木の数が存外多いので、代助の歩くせきはたんと無かった。

代助はその真ん中に立って、大きな空を見上げた。

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代助はその真中に立って、大きな空を仰いだ。

やがて座敷から、昼間買ったゆりの花を取って来て、自分のまわりにまき散らした。

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やがて、座敷から、昼間買った百合の花を取って来て、自分の周囲まわりき散らした。

白い花びらが点々として、月の光にさえた。

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白い花弁が点々として月の光にえた。

あるものは、木の下のくらがりにぼんやり光った。

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あるものは、木下闇こしたやみほのめいた。

代助は何をするともなく、その間にかがんでいた。

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代助は何をするともなくその間にかがんでいた。

ねるときになって初めて、また座敷へ上がった。

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る時になって始めて再び座敷へ上がった。

部屋の中は、花のかおりがまだまったく消えていなかった。

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室の中は花のにおいがまだ全く抜けていなかった。

十五

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十五

三千代に会って言うべきことを言ってしまった代助は、会う前にくらべると、ずっと心が落ち着きやすくなった。

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三千代にって、云うべき事を云ってしまった代助は、逢わない前に比べると、余程心の平和に接近しやすくなった。

しかしこれは、彼の思ったとおりに行っただけで、とくに思いがけない結果というほどのものではなかった。

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然しこれは彼の予期する通りに行ったまでで、別に意外の結果と云う程のものではなかった。

会った次の日、彼は長く手に持っていたさいころを思い切って投げた人の決心で起きた。

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会見の翌日彼は永らく手に持っていたさいを思い切って投げた人の決心をもって起きた。

彼は自分と三千代の運命に対して、昨日から一つの責任を負わなければならない身になったと感じた。

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彼は自分と三千代の運命に対して、昨日から一種の責任を帯びねば済まぬ身になったと自覚した。

しかも、それは自分から進んで求めた責任にちがいなかった。

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しかもそれは自ら進んで求めた責任に違いなかった。

だから、それを自分の背中に負って、苦しいとは思えなかった。

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従って、それを自分のに負うて、苦しいとは思えなかった。

その重みにおされるため、かえって自然と足が前に出るような気がした。

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その重みに押されるがため、かえって自然と足が前に出る様な気がした。

彼は自分で切り開いたこの運命のかけらを頭にのせて、父と決戦するじゅんびをととのえた。

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彼は自ら切り開いたこの運命の断片を頭に乗せて、父と決戦すべき準備を整えた。

父の後ろには兄がいた、兄の妻がいた。

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父の後には兄がいた、あによめがいた。

これらと戦ったあとには、平岡がいた。

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これ等と戦った後には平岡がいた。

これらを切りぬけても、大きな世の中があった。

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これ等を切り抜けても大きな社会があった。

一人ひとりの自由も事情も少しもくんでくれない、機械のような世の中があった。

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個人の自由と情実をごう斟酌しんしゃくしてくれない器械の様な社会があった。

代助には、この世の中が今まっ暗に見えた。

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代助にはこの社会が今全然暗黒に見えた。

代助はすべてと戦う覚ごをした。

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代助は凡てと戦う覚悟をした。

彼は自分で自分の勇気ときもの太さに驚いた。

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彼は自分で自分の勇気と胆力に驚ろいた。

彼は今日まで、熱くなるのをきらう、あぶないことに近寄れない、かけごとを好まない、用心深い、おだやかな紳士だと自分を思っていた。

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彼は今日まで、熱烈をいとう、危きに近寄り得ぬ、勝負事を好まぬ、用心深い、太平の好紳士こうしんしと自分を見傚みなしていた。

正しさの上で大きな意味のひきょうはまだしたことがないけれども、おくびょうだという思いは、どうしても彼の心から取り去ることができなかった。

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徳義上重大な意味の卑怯ひきょうはまだ犯した事がないけれども、臆病おくびょうと云う自覚はどうしても彼の心から取り去る事が出来なかった。

彼は、よくあるある外国の雑誌を取っていた。

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彼は通俗なある外国雑誌の購読者であった。

その中のある号で、Mountain Accidents(山の事故)という題の一編に出会って、心を強くゆさぶられたことがあった。

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その中のある号で、Mountainマウンテン Accidentsアクシデンツ と題する一篇に遭って、かつて心をおどろかした。

それには、高い山を登る冒険者のけがや失敗がたくさんならべてあった。

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それには高山をじ上る冒険者の、怪我あやまちが沢山に並べてあった。

登山のとちゅう、雪くずれにおされて行方知れずになった者の骨が四十年後に氷河の先に引っかかって出た話や、四人の冒険者ががけの中ほどにあるまっすぐ立った大きな平らな岩をこえるとき、肩から肩の上へさるのように重なり合って、いちばん上の一人の手が岩のはしにかかるとすぐ岩がくずれて、こしのなわが切れて、上の三人が折り重なってまっさかさまに四番目の男のそばをはるか下に落ちて行った話などが、いくつものっていた間に、れんがのかべほど急な山のはらにこうもりのように吸いついた人間を二、三か所えがいたさし絵があった。

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登山の途中雪崩ゆきなだれにされて、がた知れずになったものの骨が、四十年後に氷河の先へ引懸って出た話や、四人の冒険者が懸崖けんがいの半腹にある、真直に立った大きな平岩を越すとき、肩から肩の上へ猿の様に重なり合って、最上の一人の手が岩の鼻へ掛かるやいなや、岩が崩れて、腰の縄が切れて、上の三人が折り重なって、真逆様まっさかさまに四番目の男のそばはるかの下に落ちて行った話などが、幾何いくつとなく載せてあった間に、煉瓦の壁程急な山腹に蝙蝠こうもりの様に吸い付いた人間を二三カ所点綴てんてつした挿画さしえがあった。

そのとき、代助はそのがけの横にある白い空きの向こうに、広い空やはるかな谷を想像して、こわさから来るめまいを頭の中でもう一度感じずにはいられなかった。

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その時代助はその絶壁の横にある白い空間のあなたに、広い空や、遥かの谷を想像して、怖ろしさから来る眩暈めまいを、頭の中に再現せずにはいられなかった。

代助は今、道徳の世界で、この山を登る人たちと同じ立場に立っているということを知った。

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代助は今道徳界に於て、これ等の登攀者とうはんしゃと同一な地位に立っていると云う事を知った。

けれども、実際にその場に立ってみると、しりごみする気は少しもなかった。

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けれども自らその場に臨んでみると、ひるむ気は少しもなかった。

しりごみしてためらうほうが、彼にとっては何倍も苦しかった。

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怯んで猶予ゆうよする方が彼に取っては幾倍の苦痛であった。

彼は一日も早く父に会って話をしたかった。

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彼は一日いちじつも早く父に逢って話をしたかった。

万一の行きちがいをおそれて、三千代が来た次の日、また電話をかけて都合を聞いた。

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万一の差支さしつかえを恐れて、三千代が来た翌日、又電話を掛けて都合を聞き合せた。

父は留守だという返事であった。

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父は留守だと云う返事を得た。

次の日また聞いたら、今度は都合が悪いと言って断られた。

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次の日又問い合せたら、今度は差支があると云って断られた。

その次には、こちらから知らせるまでは来なくていいという返事であった。

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その次には此方こちらから知らせるまでは来るに及ばんという挨拶あいさつであった。

代助は言われたとおりひかえていた。

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代助は命令通り控えていた。

その間、兄の妻からも兄からも知らせはまったくなかった。

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その間嫂からも兄からも便たよりは一向なかった。

代助は初めは、家の者が自分にできるだけ長く考え直す時間をあたえるためのはかりごとではないかと思って、平気でかまえていた。

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代助は始めは家のものが、自分に出来るだけ長い、反省再考の時間を与える為の策略ではあるまいかと推察して、平気に構えていた。

三度の食事もおいしく食べた。

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三度の食事もうまく食った。

夜もわりに安らかな夢を見た。

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夜も比較的安らかな夢を見た。

雨の晴れ間には、門野を連れて散歩を一、二度した。

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雨の晴間には門野を連れて散歩を一二度した。

しかし、家からは使いも手紙も来なかった。

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然しうちからは使も手紙も来なかった。

代助はがけのとちゅうで休む時間が長すぎるので、落ち着かなくなった。

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代助は絶壁の途中で休息する時間の長過ぎるのに安からずなった。

しまいに思い切って、自分のほうから青山へ出かけて行った。

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仕舞に思い切って、自分の方から青山へ出掛けて行った。

兄はいつものように留守であった。

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兄は例のごとく留守であった。

兄の妻は代助を見て、気の毒そうな顔をした。

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嫂は代助を見て気の毒そうな顔をした。

が、例のことについては何も言わなかった。

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が、例の事件に就ては何にも語らなかった。

代助の用件を聞いて、では私がちょっと奥へ行ってお父さんのご都合をうかがって来ましょうと言って立った。

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代助の来意を聞いて、ではわたし一寸ちょっと奥へ行って御父さんの御都合を伺って来ましょうと云って立った。

梅子の態度は、父のいかりから代助をかばうようにも見えた。

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梅子の態度は、父の怒りから代助をかばう様にも見えた。

また、彼を遠ざけるようにも取れた。

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又彼を疎外そがいする様にも取れた。

代助はどちらだろうかと思いながら待っていた。

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代助は両方のいずれだろうかとわずらって待っていた。

待ちながらも、どうせ覚ごの上だと何度も口の中でくり返した。

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待ちながらも、どうせ覚悟の前だと何遍も口のうちで繰り返した。

奥から梅子が出て来るまでには、だいぶ時間がかかった。

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奥から梅子が出て来るまでには、大分ひまが掛った。

代助を見て、また気の毒そうに、今日はご都合が悪いそうですよと言った。

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代助を見て、又気の毒そうに、今日は御都合が悪いそうですよと云った。

代助はしかたなく、いつ来たらよかろうかと聞いた。

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代助は仕方なしに、何時いつ来たらかろうかと尋ねた。

もちろんいつものような元気はなく、しょんぼりした聞き方であった。

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固より例の様な元気はなく悄然しょうぜんとした問い振りであった。

梅子は代助のようすに同情した調子で、二、三日のうちにきっと自分が責任をもって都合のいい日時を知らせるから、今日は帰れと言った。

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梅子は代助の様子に同情の念を起した調子で、二三日中にきっと自分が責任を以て都合の好い時日を知らせるから今日は帰れと云った。

代助が内玄関を出るとき、梅子はわざと送って来て、

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代助が内玄関を出る時、梅子はわざと送って来て、

「今度こそよく考えていらっしゃいよ」

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今度こんだこそく考えていらっしゃいよ」

と言った。

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と注意した。

代助は返事もせずに門を出た。

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代助は返事もせずに門を出た。

帰るとちゅうも、いやな気持ちでたまらなかった。

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帰る途中も不愉快で堪らなかった。

この間三千代に会ってから知った心の落ち着きを、父や兄の妻の態度でいくらかこわされたという思いが、道々つのった。

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この間三千代に逢って以後、味わう事を知った心の平和を、父や嫂の態度で幾分か破壊されたと云う心持が路々みちみち募った。

自分は自分の思うとおりを父に告げる、父は父の考えをえんりょなく自分に言う、それでぶつかる、ぶつかった結果はどうあろうともいさぎよく自分で受ける。

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自分は自分の思う通りを父に告げる、父は父の考えを遠慮なく自分にらす、それで衝突する、衝突の結果はどうあろうともいさぎよく自分で受ける。

これが代助の思っていたことであった。

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これが代助の予期であった。

父のやり方は、彼の思っていたのとちがって、おもしろくないものであった。

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父の仕打は彼の予期以外に面白くないものであった。

そのやり方は、父の人がらをうつす分だけ代助をいやな気持ちにさせた。

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その仕打は父の人格を反射するだけそれだけ多く代助を不愉快にした。

代助は道々、何を苦しんで父と会うのをあれほど急いだのかと思った。

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代助はみちすがら、何を苦んで、父との会見をさまでに急いだものかと思い出した。

もともと父の求めに対する自分の返事にすぎないのだから、急ぐのはむしろ、それを待ちかまえる父のほうのはずであった。

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元来が父の要求に対する自分の返事に過ぎないのだから、便宜はむしろ、これを待ち受ける父の方にあるべきはずであった。

その父がわざとらしく自分をさけるようにして会うのをのばすならば、それは自分の問題が片づく時間が遅くなるという結果になるほかに、何も起こりようがない。

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その父がわざとらしく自分を避ける様にして、面会を延ばすならば、それは自己の問題を解決する時間が遅くなると云う不結果を生ずる外に何も起り様がない。

代助は自分のこれからに関わる大事なところは、もうすでに片づけてしまったつもりでいた。

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代助は自分の未来に関する主要な部分は、もう既に片付けてしまった積りでいた。

彼は父から日時を決めて呼び出されるまでは、家のほうのことはそのままにしておくことに決めた。

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彼は父から時日を指定して呼び出されるまでは、うちの方の所置をそのままにして放って置く事に極めた。

彼は家に帰った。

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彼は家に帰った。

父に対しては、ただうす暗いいやな影が頭に残っていた。

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父に対しては只薄暗い不愉快の影が頭に残っていた。

けれども、この影はもうすぐかならずその暗さを増してくるはずのものであった。

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けれどもこの影は近き未来において必ずその暗さを増してくるべき性質のものであった。

そのほかには、目の前に運命の二つの流れが見えた。

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その他には眼前に運命の二つの潮流を認めた。

一つは、三千代と自分がこれから流れて行く方向を示していた。

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一つは三千代と自分がこれから流れて行くべき方向を示していた。

一つは、平岡と自分をどうしても一つに巻きこむはずのおそろしいものであった。

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一つは平岡と自分を是非とも一所にき込むべきすさまじいものであった。

代助はこの間三千代に会ったきりで、片方はほうってある。

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代助はこの間三千代に逢ったなりで、片片かたかたの方は捨ててある。

たとえこれから三千代の顔を見るにしても――また長い間見ずにいる気はなかったが――二人がこれから取るべき方針について言えば、しばらくは一歩も今の状態から踏み出す気はなかった。

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よしこれから三千代の顔を見るにしたところで、――また長い間見ずにいる気はなかったが、――二人の向後こうご取るべき方針に就て云えば、当分は一歩も現在状態より踏み出す了見は持たなかった。

この点について、代助は自分でもはっきりした計画を作っていなかった。

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この点に関して、代助は我ながら明瞭めいりょうな計画をこしらえていなかった。

平岡と自分とを運んで行くはずのこれからについても、彼はただ、いつ、何があっても用意はできているというだけであった。

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平岡と自分とを運び去るべき将来に就ても、彼はただ何時、何事にでも用意ありと云うだけであった。

もちろん彼は、機会を見て進んで動くつもりはあった。

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無論彼は機を見て、積極的に働らき掛ける心組はあった。

けれども、具体的な案は一つも用意しなかった。

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けれども具体的な案は一つも準備しなかった。

どんな場合でも、彼が決してしくじるまいとちかったのは、すべてを平岡に打ち明けるということであった。

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あらゆる場合に於て、彼の決して仕損じまいと誓ったのは、凡てを平岡に打ち明けると云う事であった。

だから、平岡と自分とで作られるはずの運命の流れは、黒くおそろしいものであった。

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従って平岡と自分とで構成すべき運命の流は黒く恐ろしいものであった。

一つの心配は、このおそろしいあらしの中からどうやって三千代を救えるかという問題であった。

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一つの心配はこの恐ろしい暴風あらしの中から、如何いかにして三千代を救い得べきかの問題であった。

最後に、彼のまわりを人間のいるかぎりつつむ世の中に対しては、彼は何の考えもまとめなかった。

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最後に彼の周囲を人間のあらん限り包む社会に対しては、彼は何の考もまとめなかった。

実際、世の中はばつをあたえる力を持っていた。

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事実として、社会は制裁の権を有していた。

けれども、何をしたいと思い、何をするかを決める力は、まったく自分の生まれつきからわき出るよりほかに道はないと信じた。

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けれども動機行為の権は全く自己の天分からいて出るより外に道はないと信じた。

彼はこの点で、世の中と自分との間にはまったくやりとりのないものと考えて進む気であった。

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かれはこの点に於て、社会と自分との間には全く交渉のないものと認めて進行する気であった。

代助は彼の小さな世界の真ん中に立って、彼の世界をこのように見て、ひととおりそのつながりと大きさを頭の中で調べた上、

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代助は彼の小さな世界の中心に立って、彼の世界を斯様かように観て、一順その関係比例を頭の中で調べた上、

「よかろう」

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「善かろう」

と言って、また家を出た。

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と云って、又家を出た。

そうして、百メートルか二百メートル歩いて、いつも使う車屋まで来て、きれいで早そうなのを選んで飛び乗った。

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そうして一二丁歩いて、乗り付けの帳場まで来て、奇麗で早そうな奴をえらんで飛び乗った。

どこへ行くあてもないのを、いいかげんな町の名を言って二時間ほどぐるぐる乗り回して帰った。

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何処どこへ行く当もないのを好加減いいかげんな町を名指して二時間程ぐるぐる乗り廻して帰った。

次の日も書斎の中で前の日と同じように、自分の世界の真ん中に立って、左右前後をひととおり残らず見わたしたあと、

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翌日も書斎の中で前日同様、自分の世界の中心に立って、左右前後を一応くまなく見渡した後、

「よろしい」

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よろしい」

と言って外へ出て、用もないところを今度は足の向くままにぶらぶら歩いて帰った。

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と云って外へ出て、用もない所を今度は足に任せてぶらぶら歩いて帰った。

三日目も同じことをくり返した。

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三日目にも同じ事を繰り返した。

が、今度は外へ出るとすぐ、江戸川をわたって三千代のところへ来た。

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が、今度は表へ出るや否や、すぐ江戸川を渡って、三千代の所へ来た。

三千代は二人の間に何もなかったかのように、

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三千代は二人の間に何事も起らなかったかの様に、

「なぜあれからいらっしゃらなかったの」

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何故なぜそれからいらっしゃらなかったの」

と聞いた。

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と聞いた。

代助は、むしろその落ち着きはらった態度に驚かされた。

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代助は寧ろその落ち付き払った態度に驚ろかされた。

三千代はわざと平岡の机の前に置いてあったざぶとんを代助の前へ押しやって、

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三千代はわざと平岡の机の前に据えてあった蒲団を代助の前へ押しって、

「何でそんなに、そわそわしていらっしゃるの」

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「何でそんなに、そわそわしていらっしゃるの」

と、無理にその上にすわらせた。

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と無理にその上にすわらした。

一時間ほど話しているうちに、代助の頭はだんだんおだやかになった。

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一時間ばかり話しているうちに、代助の頭は次第に穏やかになった。

車に乗ってあてもなく乗り回すより、三十分でもいいから早くここへ遊びに来ればよかったと思い出した。

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車へ乗って、当もなく乗り回すより、三十分でも好いから、早く此所ここへ遊びに来ればかったと思い出した。

帰るとき代助は、

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帰るとき代助は、

「また来ます。大丈夫だから安心していらっしゃい」

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「又来ます。大丈夫だから安心していらっしゃい」

と三千代をなぐさめるように言った。

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と三千代を慰める様に云った。

三千代はただほほえんだだけであった。

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三千代はただ微笑しただけであった。

その夕方、初めて父からの知らせが来た。

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その夕方始めて父からの報知しらせに接した。

そのとき、代助はおばあさんに給仕してもらってご飯を食べていた。

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その時代助はばあさんの給仕で飯を食っていた。

茶わんをおぜんの上に置いて、門野から手紙を受け取って読むと、明日の朝何時までにおいでのこと、という文があった。

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茶碗を膳の上へ置いて、門野から手紙を受取って読むと、明朝何時までに御出おいでの事という文句があった。

代助は、

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代助は、

「お役所みたいだね」

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「御役所風だね」

と言いながら、わざとはがきを門野に見せた。

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と云いながら、わざと端書を門野に見せた。

門野は、

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門野は、

「青山のお宅からですか」

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「青山の御宅からですか」

とていねいにながめていたが、とくに言うことがないものだから、表をひっくり返して、

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叮嚀ていねいに眺めていたが、別に云う事がないものだから、表を引っ繰り返して、

「どうも何ですな。昔の人はやはり字がうまいようですな」

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「どうも何ですな。昔の人はやっぱり手蹟が好い様ですな」

と、お世じを言い残して出て行った。

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と御世辞を置き去りにして出て行った。

おばあさんはさっきから、こよみの話をしきりにしていた。

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婆さんは先刻さっきから暦の話をしきりにていた。

みずのえだの、かのとだの、八朔(はっさく)だの友引(ともびき)だの、つめを切る日だの家を建てる日だのと、とてもややこしいものであった。

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みずのえだのかのとだの、八朔はっさくだの友引だの、つめを切る日だの普請ふしんをする日だのとすこぶうるさいものであった。

代助はもちろん上の空で聞いていた。

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代助は固よりうわの空で聞いていた。

おばあさんはまた、門野の仕事のことを頼んだ。

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婆さんは又門野の職の事を頼んだ。

十五円でもいいから、どこかへ出してやってくれないかと言った。

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拾五円でも宜いから何方どっかへ出して遣ってくれないかと云った。

代助は自分でも、どんな返事をしたかわからないくらい気にも留めなかった。

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代助は自分ながら、どんな返事をしたか分らない位気にも留めなかった。

ただ心の中では、門野どころか、この自分があぶないくらいだと思った。

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ただ心のうちでは、門野どころか、このおれあやしい位だと思った。

食事を終えるとすぐ、本郷から寺尾が来た。

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食事を終るや否や、本郷から寺尾が来た。

代助は門野の顔を見て、しばらく考えていた。

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代助は門野の顔を見てしばらく考えていた。

門野は気軽に、

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門野は無雑作に、

「断りますか」

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「断りますか」

と聞いた。

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と聞いた。

代助はこの間からめずらしく、ある会を一、二回休んだ。

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代助はこの間から珍らしくある会を一二回欠席した。

お客も会わなくてすむと思う分は、二度ほど断った。

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来客も逢わないで済むと思う分は両度程謝絶した。

代助は思い切って寺尾に会った。

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代助は思い切って寺尾に逢った。

寺尾はいつものように、目の色を変えて何かさがしていた。

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寺尾は何時もの様に、血眼ちまなこになって、何か探していた。

代助はそのようすを見て、いつものように皮肉で押し通す気にもなれなかった。

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代助はその様子を見て、例の如く皮肉で持ち切る気にもなれなかった。

訳だろうが焼き直しだろうが、生きているうちはどこまでもやる覚ごだから、寺尾のほうがまだ自分より世の中の子らしく見えた。

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翻訳だろうが焼き直しだろうが、生きているうちは何処までも遣る覚悟だから、寺尾の方がまだ自分より社会のらしく見えた。

自分がもし落ちぶれて彼と同じ立場に置かれたら、はたしてどのくらいの仕事にたえられるだろうと思うと、代助は自分が気の毒になった。

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自分がもし失脚して、彼と同様の地位に置かれたら、果してどの位の仕事に堪えるだろうと思うと、代助は自分に対して気の毒になった。

そうして、自分がもうすぐ彼よりもひどく落ちぶれるのは、まだ起きていないのにほとんど確かな事実のようにあきらめていたから、彼は見下す目で寺尾をむかえるわけには行かなかった。

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そうして、自分が遠からず、彼よりもひどく失脚するのは、ほとんど未発の事実の如く確だとあきらめていたから、彼は侮蔑ぶべつの眼をもって寺尾を迎える訳には行かなかった。

寺尾は、この間の訳をやっとのことで月末までに片づけたら、本屋のほうで都合が悪いから秋まで出版を見合わせると言い出したので、すぐ働きをお金に換えることができず、困った結果やって来たのであった。

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寺尾は、この間の翻訳をようやくの事で月末までに片付けたら、本屋の方で、都合が悪いから秋まで出版を見合わせると云い出したので、すぐ労力を金に換算する事が出来ずに、困った結果遣って来たのであった。

では本屋と約束なしに手をつけたのかと聞くと、まったくそうでもないらしい。

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では書肆しょしと契約なしに手を着けたのかと聞くと、全くそうでもないらしい。

かといって、本屋のほうがまるで約束をやぶったようにも言わない。

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と云って、本屋の方がまるで約束を無視した様にも云わない。

つまりあいまいであった。

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要するに曖昧あいまいであった。

ただ困っていることだけは本当らしかった。

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ただ困っている事だけは事実らしかった。

けれども、こういう行きちがいに慣れきった寺尾は、とくに正しさの問題として誰かに不満を持っているようにも見えなかった。

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けれどもこう云う手違に慣れ抜いた寺尾は、別に徳義問題として誰にも不満を抱いている様にも見えなかった。

失礼だとかけしからんと言うのはただ口先ばかりで、腹の中の心配は、まったくご飯と肉に向いているらしかった。

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失敬だとか怪しからんと云うのは、ただ口の先ばかりで、腹の中の屈托くったくは、全然飯と肉に集注しているらしかった。

代助は気の毒になって、さしあたりのお金をいくらか助けてやった。

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代助は気の毒になって、当座の経済に幾分の補助を与えた。

寺尾はお礼を言って帰った。

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寺尾は感謝の意を表して帰った。

帰る前に、じつは本屋からも少し前借りはしたんだが、それはとっくに使ってしまったんだと打ち明けた。

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帰る前に、実は本屋からも少しは前借はしたんだが、それはとくの昔に使ってしまったんだと自白した。

寺尾が帰ったあとで、代助はああいうのも一つの人がらだと思った。

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寺尾の帰ったあとで、代助はああ云うのも一種の人格だと思った。

ただ、こう楽に暮らしていたら、決してなれるものじゃない。

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ただこう楽に活計くらしていたって決してれる訳のものじゃない。

今のいわゆる文学の世界がああいう人がらを必要として自然に生み出したほど、今の文学の世界は悲しい状態でうめいているのではなかろうかと考えて、ぼんやりした。

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今の所謂いわゆる文壇が、ああ云う人格を必要と認めて、自然に産み出した程、今の文壇は悲しむべき状況の下に呻吟しんぎんしているんではなかろうかと考えて茫乎ぼんやりした。

代助はその晩、自分のこれからをひどく気にかけた。

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代助はその晩自分の前途をひどく気に掛けた。

もし父からお金の助けを断たれたとき、彼ははたして第二の寺尾になれる決心があるだろうかと疑った。

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もし父から物質的に供給の道をとざされた時、彼は果して第二の寺尾になり得る決心があるだろうかを疑った。

もし筆を取って、寺尾のまねさえできなかったなら、彼は当然うえ死にするしかない。

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もし筆を執って寺尾の真似さえ出来なかったなら、彼は当然餓死すべきである。

もし筆を取らなかったら、彼は何をする力があるだろう。

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もし筆を執らなかったら、彼は何をする能力があるだろう。

彼は目を開けて、ときどきかやの外に置いてあるランプをながめた。

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彼は眼を開けて時々蚊張かやの外に置いてある洋燈ランプを眺めた。

夜中にマッチをすってたばこをふかした。

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夜中に燐寸マッチを擦って烟草たばこを吹かした。

寝返りを何度も打った。

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寐返ねがえりを何遍も打った。

もちろんねぐるしいほど暑い晩ではなかった。

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もとより寐苦しい程暑い晩ではなかった。

雨がまたざあざあと降った。

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雨が又ざあざあと降った。

代助はこの雨の音でねつくかと思うと、また雨の音でふいに目をさました。

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代助はこの雨の音で寐付くかと思うと、又雨の音で不意に眼を覚ました。

夜は半分さめ半分ねむるうちに明けきった。

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夜は半醒半睡はんせいはんすいのうちに明け離れた。

決まった時刻になって、代助は出かけた。

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定刻になって、代助は出掛けた。

高い下駄をはいてかさを持って電車に乗ったが、片方の窓が閉め切ってある上に、つり革にぶら下がっている人がいっぱいなので、しばらくすると胸がむかむかして、頭が重くなった。

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足駄穿あしだばきで雨傘を提げて電車に乗ったが、一方の窓が締め切ってある上に、革紐かわひもにぶら下がっている人が一杯なので、しばらくすると胸がむかついて、頭が重くなった。

ねぶそくがひびいたらしく思われるので、手を窮屈にのばして、自分の後ろだけを開け放した。

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睡眠不足が影響したらしく思われるので、手を窮屈に伸ばして、自分の後だけを開け放った。

雨は容しゃなくえりからぼうしにふきつけた。

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雨は容赦なく襟から帽子に吹き付けた。

二、三分の後、となりの人の迷惑そうな顔に気がついて、また元のとおりにガラス窓を上げた。

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二三分の後隣の人の迷惑そうな顔に気が付いて、又元の通りに硝子ガラス窓を上げた。

ガラスの表側にははじけた雨のつぶがたまって、通りが少しゆがんで見えた。

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硝子の表側には、はじけた雨のたまたまって、往来が多少ゆがんで見えた。

代助は首から上をねじ曲げて、目を外に向けながら、何度も自分の目をこすった。

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代助は首から上をじ曲げて眼を外面そとに着けながら、幾たびか自分の眼をすった。

しかし、何度こすっても、世界のかたちが少し変わって来たという感じが消えなかった。

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しかし何遍こすっても、世界の恰好かっこうが少し変って来たと云う自覚が取れなかった。

ガラスを通してななめに遠くをすかして見るときは、なおさらそういう感じがした。

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硝子を通してななめに遠方を透かして見るときはなおそういう感じがした。

弁慶橋(べんけいばし)で乗りかえてからは人もまばらに、雨も小降りになった。

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弁慶橋で乗り換えてからは、人もまばらに、雨も小降りになった。

頭も楽になって、ぬれた世の中をながめることができた。

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頭も楽にれた世の中を眺める事が出来た。

けれども、きげんの悪い父の顔がいろいろな表情で彼の頭を刺激した。

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けれども機嫌の悪い父の顔が、色々な表情を以て彼の脳髄を刺戟しげきした。

頭の中の会話さえ、はっきり耳にひびいた。

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想像の談話さえ明かに耳に響いた。

玄関を上がって奥へ行く前に、いつものようにまず兄の妻に会った。

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玄関を上って、奥へ通る前に、例の如く一応あによめに逢った。

兄の妻は、

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嫂は、

「うっとうしいお天気じゃありませんか」

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鬱陶うっとうしい御天気じゃありませんか」

とあいそよく、自分でお茶をついでくれた。

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と愛想よく自分で茶をんでくれた。

しかし代助は、飲む気にもならなかった。

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然し代助は飲む気にもならなかった。

「お父さんが待っておいででしょうから、ちょっと行って話をして来ましょう」

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「御父さんが待って御出でしょうから、一寸行って話をして来ましょう」

と立ちかけた。

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と立ち掛けた。

兄の妻は不安そうな顔をして、

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嫂は不安らしい顔をして、

「代さん、できることなら、年寄りに心配をかけないようになさいよ。お父さんだって、もう長いことはありませんから」

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「代さん、成ろう事なら、年寄に心配を掛けない様になさいよ。御父さんだって、もう長い事はありませんから」

と言った。

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と云った。

代助は梅子の口からこんな暗い言葉を聞くのは初めてであった。

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代助は梅子の口から、こんな陰気な言葉を聞くのは始めてであった。

ふいに穴ぐらへ落ちたような気持ちがした。

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不意に穴倉へ落ちた様な心持がした。

父はたばこ盆を前に置いて、下を向いていた。

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父は烟草盆を前に控えて、俯向うつむいていた。

代助の足音を聞いても、顔を上げなかった。

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代助の足音を聞いても顔を上げなかった。

代助は父の前へ出て、ていねいにおじぎをした。

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代助は父の前へ出て、叮嚀ていねいに御辞儀をした。

さぞこわい目つきをされると思ったのに、父は思いのほかおだやかで、

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定めてむずかしい眼付をされると思いの外、父は存外穏かなもので、

「降るのにご苦労だった」

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「降るのに御苦労だった」

とねぎらってくれた。

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いたわってくれた。

そのとき初めて気がついて見ると、父のほおがいつの間にかぐっとこけていた。

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その時始めて気が付いて見ると、父の頬が何時の間にかぐっとけていた。

もともと肉づきのいいほうだったので、この変わりようが代助にはよけい目立って見えた。

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元来が肉の多い方だったので、この変化が代助には余計目立って見えた。

代助は思わず、

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代助は覚えず、

「どうかなさいましたか」

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「どうかさいましたか」

と聞いた。

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と聞いた。

父は親らしい色をちょっと顔に見せただけで、とくに代助の心配を気にするようすもなかったが、しばらく話しているうちに、

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父は親らしい色を一寸顔に動かしただけで、別に代助の心配を物にする様子もなかったが、少時しばらく話しているうちに、

「おれもだいぶ年を取ってな」

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おれも大分年を取ってな」

と言い出した。

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と云い出した。

その調子がいつもの父とはまったくちがっていたので、代助はさっき兄の妻が言ったことをますます重く受け止めなければならなくなった。

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その調子が何時いつもの父とは全く違っていたので、代助は最前嫂の云った事をいよいよ重く見なければならなくなった。

父は年のせいで体が弱ったことを理由に、近いうちに会社の世界から身を引くつもりがあることを代助にもらした。

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父は年の所為せいで健康の衰えたのを理由として、近々実業界を退く意志のある事を代助に洩らした。

けれども今は、日露戦争のあとの商売と工業のふくらみのはね返りを受けて、自分のやっている事業が景気の悪さのどん底にいる最中だから、この難所を切りぬけた上でなくては無責任だと言われてしまうので、しばらくはしかたなくがまんしているよりほかにしかたがないのだという事情をくわしく話した。

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けれども今は日露戦争後の商工業膨張の反動を受けて、自分の経営にかかる事業が不景気の極端に達している最中だから、この難関をぎ抜けた上でなくては、無責任の非難を免かれる事が出来ないので、当分やむを得ずに辛抱しているより外に仕方がないのだと云う事情をくわしく話した。

代助は父の言葉をとてももっともだと思った。

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代助は父の言葉を至極もっともだと思った。

父はふつうの会社の仕事のむずかしさとあぶなさといそがしさと、そこから生まれる当人の心の苦しさや張りつめ方のおそろしさを話した。

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父は普通の実業なるものの困難と危険と繁劇と、それ等から生ずる当事者の心の苦痛及び緊張の恐るべきを説いた。

最後に、地方の大きな地主が一見地味であって、その実、自分たちよりはずっとしっかりした土台を持っていることを言った。

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最後に地方の大地主の、一見地味であって、その実自分等よりはずっと鞏固きょうこの基礎を有している事を述べた。

そうして、このくらべ方をよりどころにして、あらためて今度の結婚をまとめようとした。

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そうして、この比較を論拠として、新たに今度の結婚を成立させようとつとめた。

「そういう親類が一けんくらいあるのはたいへん便利で、しかも今はとても必要じゃないか」

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「そう云う親類が一軒位あるのは、大変な便利で、かつこの際甚だ必要じゃないか」

と言った。

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と云った。

代助は、父としてはむしろあからさますぎるこの計算ずくの結婚のすすめに対して、今さら驚くほど、初めから父を高く買ってはいなかった。

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代助は、父としてはむしろ露骨過ぎるこの政略的結婚の申しいでに対して、今更驚ろく程、始めから父を買いかぶってはいなかった。

最後の話し合いで、父が今までのお面をぬいで来たのを、むしろ気持ちよく感じた。

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最後の会見に、父が従来の仮面を脱いで掛かったのを、寧ろ快よく感じた。

彼自身も、こんな意味の結婚をやれる程度の人間だと自分を見ていた。

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彼自身も、こんな意味の結婚をあえてし得る程度の人間だと自ら見積みつもっていた。

その上、父に対していつにない同情があった。

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その上父に対して何時にない同情があった。

その顔、その声、その代助を動かそうとする努力、すべてに年を取った人のあわれさが見えた。

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その顔、その声、その代助を動かそうとする努力、すべてに老後のあわれを認める事が出来た。

代助はこれも、父のはかりごとだとは受け取れなかった。

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代助はこれをも、父の策略とは受取り得なかった。

私はどうでもいいですから、あなたの都合のいいようにお決めなさいと言いたかった。

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わたしはどうでもう御座いますから、貴方あなたの御都合の好い様に御極めなさいと云いたかった。

けれども、三千代と最後に会ってしまった今となっては、父の気に入るようなその場の親孝行は代助にはできなかった。

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けれども三千代と最後の会見を遂げた今更、父の意にかなう様な当座の孝行は代助には出来かねた。

彼はもともと、どっちつかずの男であった。

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彼は元来が何方どっち付かずの男であった。

誰の言いつけも言われたとおりに聞いたことがないかわりに、誰の意見にもはっきりさからったことがなかった。

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誰の命令も文字通りに拝承した事のない代りには、誰の意見にもむきに抵抗したためしがなかった。

見方によっては策を使う人の態度とも取れ、決められない生まれつきとも思えるやり方であった。

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解釈のしようでは、策士の態度とも取れ、優柔の生れ付とも思われる遣口やりくちであった。

彼自身さえ、この二つのどちらかを言われたとき、そうかも知れないと腹の中で首をひねらないわけには行かなかった。

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彼自身さえ、この二つの非難のいずれかを聞いた時、そうかも知れないと、腹の中で首をひねらぬ訳には行かなかった。

しかしそのわけの大部分ははかりごとでもなく、決められなさでもなく、むしろ彼に両方が見える目がついていて、両側を一度に見られたからであった。

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然しその原因の大部分は策略でもなく、優柔でもなく、寧ろ彼に融通のふたつの眼が付いていて、双方を一時に見る便宜を有していたからであった。

彼はこの力のために、今日まで一つのことに向かって突き進む勇気をくじかれた。

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かれはこの能力のために、今日まで一図に物に向って突進する勇気をくじかれた。

つかずはなれず、今のところで立ちすくんでいることがたびたびあった。

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かず離れず現状に立ちすくんでいる事がしばしばあった。

この今のままでいるという見かけが、考えの足りなさから来るのではなく、かえってはっきりした判断から来るという事実は、彼がおかしがたい思い切りのよさで自分の信じるところをやり切ったときに、彼自身にも初めてわかったのである。

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この現状維持の外観が、思慮の欠之から生ずるのでなくて、かえって明白な判断にもとづいて起ると云う事実は、彼が犯すべからざる敢為かんいの気象を以て、彼の信ずる所を断行した時に、彼自身にも始めてわかったのである。

三千代の場合は、つまりそのいい例であった。

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三千代の場合は、すなわちその適例であった。

彼は三千代の前で打ち明けた自分を、父の前でなかったことにしようとは思わなかった。

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彼は三千代の前に告白した己れを、父の前で白紙にしようとはおもいたらなかった。

同時に、父に対しては心から気の毒であった。

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同時に父に対しては、しんから気の毒であった。

いつもの代助がこのときに取るはずのやり方は、言わなくてもはっきりしていた。

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平生の代助がこの際に執るべき方針は云わずして明らかであった。

三千代との関係を取り消すことなく、父を満足させるために結婚を承知することにほかならなかった。

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三千代との関係を撤回する不便なしに、父に満足を与える為の結婚を承諾するに外ならなかった。

代助はこうして、両方をうまく合わせることができた。

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代助はかくして双方を調和する事が出来た。

どっちつかずで真ん中に立って、はっきりしないまま前に進むことはたやすかった。

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何方どっち付かずに真中へ立って、煮え切らずに前進する事は容易であった。

けれども今の彼は、いつもの彼とはちがっていた。

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けれども、今の彼は、不断の彼とは趣を異にしていた。

また半身を線の外に出して、ほかの人と手を結ぶのはもう遅かった。

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再び半身を埒外らつがいぬきんでて、余人と握手するのは既に遅かった。

彼は三千代に対する自分の責任を、それほど深く重いものと信じていた。

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彼は三千代に対する自己の責任をそれ程深く重いものと信じていた。

彼の信じる心は、半分は頭の判断から来た。

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彼の信念は半ば頭の判断から来た。

半分は心のあこがれから来た。

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半ば心の憧憬どうけいから来た。

二つのものが、大きな波のように彼を動かした。

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二つのものが大きななみごとくに彼を支配した。

彼はいつもの自分から生まれ変わったように、父の前に立った。

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彼は平生の自分から生れ変った様に父の前に立った。

彼はいつもの代助のように、なるべく口数を少なくしてひかえていた。

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彼は平生の代助の如く、なるべく口数を利かずに控えていた。

父から見れば、いつもの代助とちがうところはなかった。

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父から見れば何時もの代助と異なる所はなかった。

代助のほうでは、かえって父が変わっているのに驚いた。

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代助の方では却って父の変っているのに驚ろいた。

じつはこの間から何度も会うのを断られたのも、自分が父の考えにさからうおそれがあるから、父のほうでわざとのばしたものと思っていた。

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実はこの間から幾度も会見を謝絶されたのも、自分が父の意志にそむく恐があるから父の方でわざと、延ばしたものとすいしていた。

今日会ったら、さぞこわい顔をされると覚ごを決めていた。

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今日逢ったら、定めて苦い顔をされる事と覚悟を極めていた。

ことによると、頭からどなりつけられるかも知れないと思った。

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ことによれば、頭からしかり飛ばされるかも知れないと思った。

代助には、むしろそのほうが都合がよかった。

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代助には寧ろその方が都合が好かった。

三分の一は、父のいかりに対する自分のはね返りを利用して、きっぱり断ろうという下心さえあった。

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三分の一は、父の暴怒に対する自己の反動を、心理的に利用して、きっぱり断ろうと云う下心さえあった。

代助は父のようす、父の言葉づかい、父の言い分、すべてが思っていたのと逆に自分の決心をにぶらせる向きに出たのを、心苦しく思った。

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代助は父の様子、父の言葉遣、父の主意、凡てが予期に反して、自分の決心を鈍らせる傾向に出たのを心苦しく思った。

けれども、彼はこの心苦しさにも勝つ決心をたくわえた。

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けれども彼はこの心苦しさにさえ打ち勝つべき決心を蓄えた。

「あなたのおっしゃることは一つ一つもっともだと思いますが、私には結婚を承知するほどの勇気がありませんから、断るよりほかにしかたがなかろうと思います」

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「貴方のおっしゃる所は一々御尤もだと思いますが、わたくしには結婚を承諾する程の勇気がありませんから、断るより外に仕方がなかろうと思います」

と、とうとう言ってしまった。

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ととうとう云ってしまった。

そのとき、父はただ代助の顔を見ていた。

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その時父はただ代助の顔を見ていた。

しばらくして、

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ややあって、

「勇気が要るのかい」

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「勇気が要るのかい」

と、手に持っていたきせるをたたみの上に放り出した。

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と手に持っていた烟管きせるを畳の上に放り出した。

代助はひざがしらを見つめて黙っていた。

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代助は膝頭ひざがしらを見詰めて黙っていた。

「相手が気に入らないのかい」

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「当人が気に入らないのかい」

と父がまた聞いた。

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と父が又聞いた。

代助はやはり返事をしなかった。

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代助はなお返事をしなかった。

彼は今まで父に対して、自分の四分の一も打ち明けてはいなかった。

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彼は今まで父に対して己れの四半分も打ち明けてはいなかった。

そのおかげで、父とおだやかな関係をやっと保って来た。

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その御蔭おかげで父と平和の関係をようやく持続して来た。

けれども、三千代のことだけは初めから決してかくす気はなかった。

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けれども三千代の事だけは始めから決して隠す気はなかった。

自分の頭の上に当然落ちてくるはずの結果を、はかりごとでさけるひきょうさがいやだったからである。

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自分の頭の上に当然落ちかかるべき結果を、策で避ける卑怯ひきょうが面白くなかったからである。

彼はただ、打ち明けるときがまだ来ていないと考えた。

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彼はただ自白の期に達していないと考えた。

だから、三千代の名はまるで口に出さなかった。

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従って三千代の名はまるで口へは出さなかった。

父は最後に、

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父は最後に、

「じゃ、何でもおまえの好きにするさ」

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「じゃ何でも御前の勝手にするさ」

と言ってにがい顔をした。

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と云って苦い顔をした。

代助もいやな気持ちであった。

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代助も不愉快であった。

しかししかたがないから、おじぎをして父の前を下がろうとした。

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然し仕方がないから、礼をして父の前を退がろうとした。

そのとき、父は呼び止めて、

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ときに父は呼び留めて、

「おれのほうでも、もうおまえの世話はせんから」

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「己の方でも、もう御前の世話はせんから」

と言った。

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と云った。

座敷へ帰ったとき、梅子は待ちかまえたように、

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座敷へ帰った時、梅子は待ち構えた様に、

「どうなさって」

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「どうなすって」

と聞いた。

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と聞いた。

代助は答えようもなかった。

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代助は答え様もなかった。

十六

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十六

次の日目がさめても、代助の耳の底には父の最後の言葉が鳴っていた。

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翌日あくるひ眼が覚めても代助の耳の底には父の最後の言葉が鳴っていた。

彼はここまでの流れから、いつも以上の重みをその中身につけなければならなかった。

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彼は前後の事情から、平生以上の重みをその内容に附着しなければならなかった。

少なくとも自分だけでは、父から受けるお金の助けがもう切れたものと覚ごする必要があった。

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少なくとも、自分だけでは、父から受ける物質的の供給がもう絶えたものと覚悟する必要があった。

代助のいちばんおそれるときが近づいた。

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代助の尤も恐るる時期は近づいた。

父のきげんを直すには、今度の結婚を断るにしても、すべての結婚に反対してはならなかった。

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父の機嫌を取り戻すには、今度の結婚を断るにしても、あらゆる結婚に反対してはならなかった。

すべての結婚に反対しても、父を納得させるだけの理由をはっきり言わなければならなかった。

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あらゆる結婚に反対しても、父を首肯うなずかせるに足る程の理由を、明白に述べなければならなかった。

代助にとっては、二つのうちどちらもできなかった。

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代助に取っては二つのうち何れも不可能であった。

生き方についての自分の考えの根っこにふれる問題で父をだますのは、なおさらできなかった。

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人生に対する自家の哲学フィロソフィーの根本に触れる問題に就いて、父をあざむくのは猶更不可能であった。

代助は昨日の話し合いを振り返って、すべてが進むべき方向に進んだとしか考えられなかった。

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代助は昨日の会見を回顧して、凡てが進むべき方向に進んだとしか考え得なかった。

けれどもこわかった。

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けれども恐ろしかった。

自分が自分に自然なつながりを進めながら、そのつながりの重みを背中に負って、高いがけのはしまで押し出されたような気持ちであった。

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自己が自己に自然な因果を発展させながら、その因果の重みを脊中せなかしょって、高い絶壁の端まで押し出された様な心持であった。

彼はまず第一に、何か仕事を見つけなければならないと思った。

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彼は第一の手段として、何か職業を求めなければならないと思った。

けれども、彼の頭の中には仕事という言葉があるだけで、仕事そのものは形を持って現れて来なかった。

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けれども彼の頭の中には職業と云う文字があるだけで、職業その物は体をそなえて現われて来なかった。

彼は今日までどんな仕事にも興味を持っていなかった結果として、どんな仕事を思いうかべてみても、ただその上をつるつるすべって行くだけで、中に踏みこんで内側から考えることはとてもできなかった。

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彼は今日まで如何いかなる職業にも興味をっていなかった結果として、如何なる職業を想い浮べてみても、ただその上を上滑りに滑って行くだけで、中に踏み込んで内部から考える事は到底出来なかった。

彼には、世の中が平たいこみいった色分けの絵のように見えた。

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彼には世間が平たい複雑な色分いろわけの如くに見えた。

そうして、彼自身は何の色もついていないとしか思えなかった。

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そうして彼自身は何等の色を帯びていないとしか考えられなかった。

すべての仕事を見わたしたあと、彼の目はさすらう人の上に来て、そこで止まった。

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凡ての職業を見渡した後、彼の眼は漂泊者の上に来て、そこで留まった。

彼ははっきり自分のかげを、犬と人の境をさまようこじきの群れの中に見つけた。

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彼は明らかに自分の影を、犬と人の境を迷う乞食こつじきの群の中に見出みいだした。

暮らしがくずれることは心の自由を殺す点で、彼のいちばん苦しいところであった。

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生活の堕落は精神の自由を殺す点において彼の尤も苦痛とする所であった。

彼は自分の体にあらゆるみにくさとよごれをぬりつけたあと、自分の心がどれほど落ちぶれるだろうと考えて、ぞっと身ぶるいをした。

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彼は自分の肉体に、あらゆる醜穢しゅうえを塗り付けた後、自分の心の状態が如何に落魄らくはくするだろうと考えて、ぞっと身振みぶるいをした。

この落ちぶれの中を、彼は三千代を引っぱり回さなければならなかった。

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この落魄のうちに、彼は三千代を引張り廻さなければならなかった。

三千代は心の上ではもう、平岡のものではなかった。

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三千代は精神的に云って、既に平岡の所有ではなかった。

代助は死ぬまで、彼女に責任を負うつもりであった。

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代助は死に至るまで彼女かのおんなに対して責任を負う積りであった。

けれども、それなりの身分を持っている人の不実と、落ちぶれきった人の親切とは、結果として大したちがいはないと今さらながら思われた。

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けれども相当の地位を有っている人の不実と、零落の極に達した人の親切とは、結果に於て大した差違はないと今更ながら思われた。

死ぬまで三千代に責任を負うというのは、負うつもりがあるというだけで、負ったという事実には決してならなかった。

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死ぬまで三千代に対して責任を負うと云うのは、負う目的があるというまでで、負った事実には決してなれなかった。

代助はぼんやりして、目の病で急に見えなくなった人のように自分を見失った。

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代助は惘然もうぜんとして黒内障そこひかかった人の如くに自失した。

彼はまた三千代をたずねた。

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彼は又三千代を訪ねた。

三千代はこの前のように静かに落ち着いていた。

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三千代は前日の如く静に落ち着いていた。

ほほえみとかがやきに満ちていた。

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微笑ほほえみ光輝かがやきとに満ちていた。

春の風がゆたかに、彼女のまゆをふいた。

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春風はゆたかに彼女かのおんなまゆを吹いた。

代助は、三千代が自分のすべてをかけて自分を信じきっていることを知った。

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代助は三千代が己を挙げて自分に信頼している事を知った。

その証拠をまた目の前で見たとき、彼はいとおしさと気の毒さにたえられなかった。

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その証拠を又のあたりに見た時、彼は愛憐あいれんの情と気の毒の念に堪えなかった。

そうして、自分を悪者のように責めさいなんだ。

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そうして自己を悪漢の如くに呵責かしゃくした。

思っていたことはまったく言いそびれてしまった。

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思う事は全く云いそびれてしまった。

帰るとき、

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帰るとき、

「また都合をつけて家へ来ませんか」

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「又都合してうちへ来ませんか」

と言った。

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と云った。

三千代はええとうなずいてほほえんだ。

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三千代はええと首肯うなずいて微笑した。

代助は身を切られるほどつらかった。

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代助は身を切られる程つらかった。

代助はこの間から三千代をたずねるたびに、いやな気持ちながら平岡のいないときを選ばなければならなかった。

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代助はこの間から三千代を訪問するごとに、不愉快ながら平岡の居ない時をえらまなければならなかった。

初めはそれをそれほどとも思わなかったが、近ごろではいやというよりも、むしろ行きにくさが日ごとに強くなって来た。

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始めはそれをさ程にも思わなかったが、近頃では不愉快と云うよりも寧ろ、にくい度が日毎に強くなって来た。

その上、留守にたずねることが重なれば、下女にあやしまれるおそれがあった。

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その上留守の訪問が重なれば、下女に不審を起させる恐れがあった。

気のせいか、お茶を運ぶときにもへんに疑い深い目つきで見られるようでならなかった。

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気の所為せいか、茶を運ぶ時にも、妙に疑ぐり深い眼付をして、見られる様でならなかった。

しかし三千代は、まったく知らん顔をしていた。

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然し三千代は全く知らぬ顔をしていた。

少なくとも見た目は平気であった。

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少なくとも上部うわべだけは平気であった。

平岡との関係については、もちろんくわしく聞く機会もなかった。

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平岡との関係に就ては、無論詳しく尋ねる機会もなかった。

たまに一言二言それとなく聞いてみても、三千代はむしろ答えなかった。

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たまに一言二言それとなく問を掛けてみても、三千代は寧ろ応じなかった。

ただ代助の顔を見れば、見ているその間だけのうれしさにひたりきるのが自然のなりゆきであるかのように思われた。

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ただ代助の顔を見れば、見ているその間だけのうれしさにおぼれ尽すのが自然の傾向であるかの如くに思われた。

前後を取りかこむ黒い雲が今にもせまって来はしないかという心配は、かげではどうか知らないが、代助の前にはかげさえ見せなかった。

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前後を取り囲む黒い雲が、今にもせまって来はしまいかと云う心配は、陰ではいざ知らず、代助の前には影さえ見せなかった。

三千代はもともと神経のこまかい女であった。

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三千代は元来神経質の女であった。

このごろの態度は、どうしてもこの女らしくないと思うと、三千代のまわりの事情がまだそれほどあやうくなっていない証拠になるよりも、自分の責任がいっそう重くなったのだと考えざるを得なかった。

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昨今の態度は、どうしてもこの女の手際てぎわではないと思うと、三千代の周囲の事情が、まだそれ程険悪に近づかない証拠になるよりも、自分の責任が一層重くなったのだと解釈せざるを得なかった。

「少しまた話したいことがあるから来て下さい」

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「すこし又話したい事があるから来て下さい」

と、前よりは少しまじめに言って、代助は三千代と別れた。

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と前よりはやや真面目まじめに云って代助は三千代と別れた。

二日おいて三千代が来るまで、代助の頭は新しい道を何一つ開けなかった。

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中二日置いて三千代が来るまで、代助の頭は何等の新しい路を開拓し得なかった。

彼の頭の中には、仕事という二文字が大きな字で焼きついていた。

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彼の頭の中には職業の二字が大きな楷書かいしょで焼き付けられていた。

それを押しのけると、お金の助けが切れることがしきりにおどり狂った。

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それを押し退けると、物質的供給の杜絶とぜつがしきりにおどり狂った。

それがかげをかくすと、三千代のこれからがすさまじく荒れた。

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それが影を隠すと、三千代の未来がすさまじく荒れた。

彼の頭には、不安のつむじ風がふきこんだ。

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彼の頭には不安の旋風つむじが吹き込んだ。

三つのものがうずのように、少しも休まず回った。

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三つのものがともえの如く瞬時の休みなく回転した。

その結果として、彼のまわりがすべて回り出した。

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その結果として、彼の周囲がことごとく回転しだした。

彼は船に乗った人と同じであった。

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彼は船に乗った人と一般であった。

回る頭と回る世界の中で、やはりじっとしていた。

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回転する頭と、回転する世界の中に、依然として落ち付いていた。

青山の家からは、何の知らせもなかった。

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青山の宅からは何の消息もなかった。

代助はもちろん、それを待ってもいなかった。

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代助はもとよりそれを予期していなかった。

彼はつとめて門野を相手にして、たわいのない世間話にふけった。

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彼はつとめて門野を相手にして他愛ない雑談にふけった。

門野はこの暑さに自分の体を持てあましているくらい、用のない男であったから、とても得意になって、代助の思うとおり口を動かした。

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門野はこの暑さに自分の身体からだを持ち扱っている位、用のない男であったから、すこぶる得意に代助の思う通り口を動かした。

それでも話しつかれると、

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それでも話し草臥くたびれると、

「先生、将棋はどうです」

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「先生、将棋はどうです」

などと持ちかけた。

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などと持ち掛けた。

夕方には庭に水をまいた。

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夕方には庭に水を打った。

二人ともはだしになって、手おけを一つずつ持って、めちゃくちゃにそこらをぬらして歩いた。

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二人共跣足はだしになって、手桶ておけを一杯ずつ持って、無分別に其所等そこいららして歩いた。

門野がとなりのあおぎりのてっぺんまで水をかけてお見せしますと言って、手おけの底を振り上げたひょうしに、すべって尻もちをついた。

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門野が隣の梧桐ごとう天辺てっぺんまで水にして御目にかけると云って、手桶の底を振り上げる拍子に、滑って尻持しりもちを突いた。

おしろい花が垣根のそばで花をつけた。

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白粉草おしろいそうが垣根の傍で花を着けた。

手を洗う石の鉢のかげに生えたしゅうかいどうの葉が、ずいぶん大きくなった。

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手水鉢ちょうずばちかげに生えた秋海棠しゅうかいどうの葉が著るしく大きくなった。

梅雨はようやく明けて、昼は入道雲の世界となった。

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梅雨つゆは漸く晴れて、昼は雲の峰の世界となった。

強い日が大きな空をすき通るほど焼いて、空いっぱいの熱を地上に投げつける天気となった。

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強い日は大きな空を透き通す程焼いて、空一杯の熱を地上に射り付ける天気となった。

代助は夜になって、頭の上の星ばかりながめていた。

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代助は夜にって頭の上の星ばかり眺めていた。

朝は書斎に入った。

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朝は書斎に這入はいった。

二、三日は朝からせみの声が聞こえるようになった。

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二三日は朝からせみの声が聞える様になった。

ふろ場へ行って、たびたび頭を冷やした。

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風呂場へ行って、度々たびたび頭を冷した。

すると門野が、もういいころだと思って、

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すると門野がもう好い時分だと思って、

「どうもすごい暑さですな」

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「どうも非常な暑さですな」

と言って入って来た。

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と云って、這入って来た。

代助はこういう上の空の暮らしを二日ほど送った。

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代助はこう云ううわの空の生活を二日程送った。

三日目の日ざかりに、彼は書斎の中からぎらぎらする空の色を見つめて、上からふき下ろす炎の息をかいだとき、とてもこわくなった。

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三日目の日盛ひざかりに、彼は書斎の中から、ぎらぎらする空の色を見詰めて、上から吐き下すほのおの息をいだ時に、非常に恐ろしくなった。

それは、彼の心がこのはげしい暑さから一生消えない変化を受けつつあると考えたためであった。

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それは彼の精神がこの猛烈なる気候から永久の変化を受けつつあると考えた為であった。

三千代はこの暑さの中を来て、この間の約束を果たした。

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三千代はこのあつさを冒して前日の約をんだ。

代助は女の声を聞きつけたとき、自分で玄関まで飛び出した。

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代助は女の声を聞き付けた時、自分で玄関まで飛び出した。

三千代はかさをすぼめて、ふろしき包みをかかえて、こうし戸の外に立っていた。

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三千代は傘をつぼめて、風呂敷包を抱えて、格子こうしの外に立っていた。

ふだん着のまま家を出たと見えて、じみな白いゆかたのたもとからハンカチを出しかけたところであった。

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不断着のままうちを出たと見えて、質素な白地の浴衣ゆかたたもとから手帛ハンケチを出し掛けた所であった。

代助はそのすがたを一目見たとき、運命が三千代のこれからを切りぬいて、意地悪く自分の目の前に持って来たように感じた。

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代助はその姿を一目見た時、運命が三千代の未来を切り抜いて、意地悪く自分の眼の前に持って来た様に感じた。

思わず笑いながら、

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われ知らず、笑いながら、

「かけ落ちでもしそうな格好じゃありませんか」

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馳落かけおちでもしそうな風じゃありませんか」

と言った。

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と云った。

三千代はおだやかに、

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三千代は穏かに、

「でも、買い物のついでじゃないと上がりにくいから」

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「でも買物をしたついででないと上りにくいから」

とまじめに答えて、代助のあとについて奥まで入って来た。

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と真面目な答をして、代助の後にいて奥まで這入って来た。

代助はすぐうちわを出した。

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代助はすぐ団扇うちわを出した。

照りつけられたせいで、三千代のほおが気持ちよくかがやいていた。

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照り付けられた所為せいで三千代の頬が心持よく輝やいた。

いつものつかれた色は、どこにも見えなかった。

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何時いつもの疲れた色は何処どこにも見えなかった。

目の中にも、若いつやが宿っていた。

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眼の中にも若いつやが宿っていた。

代助は生き生きとしたこの美しさに自分の感覚をひたして、しばらくは何もかも忘れてしまった。

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代助は生々したこの美くしさに、自己の感覚を溺らして、しばらくは何事も忘れてしまった。

が、やがて、この美しさを目に見えないうちにこわしつつあるのは自分だと考え出したら、悲しくなった。

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が、やがて、この美くしさを冥々めいめいうちに打ち崩しつつあるものは自分であると考え出したら悲しくなった。

彼は今日も、この美しさの一部をくもらせるために三千代を呼んだにちがいなかった。

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彼は今日もこの美くしさの一部分を曇らす為に三千代を呼んだに違なかった。

代助は何度も、自分のことを話すのをためらった。

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代助は幾度か己れを語る事を躊躇ちゅうちょした。

自分の前に、これほど幸せに見える若い女を、まゆ一本でも心配で動かすのは、代助から言えばとても後ろめたいことであった。

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自分の前に、これ程幸福に見える若い女を、眉一筋にしろ心配の為に動かさせるのは、代助から云うと非常な不徳義であった。

もし三千代に対する義務の心が彼の胸の中で強く働いていなかったなら、彼はこの先の事情を打ち明けるかわりに、この間の打ち明け話をもう一度同じ部屋でくり返して、ただ愛する気持ちよさの中にすべてを放り出してしまったかも知れなかった。

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もし三千代に対する義務の心が、彼の胸のうちに鋭どく働らいていなかったなら、彼はそれから以後の事情を打ち明ける事の代りに、先達せんだっての告白を再び同じへやのうちに繰り返して、単純なる愛の快感のもとに、一切を放擲ほうてきしてしまったかも知れなかった。

代助はようやく思い切った。

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代助は漸くにして思い切った。

「そのあと、あなたと平岡との間はとくに変わりはありませんか」

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「その後貴方あなたと平岡との関係は別に変りはありませんか」

三千代はこの問いを受けたときも、やはり幸せそうであった。

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三千代はこの問を受けた時でも、依然として幸福であった。

「あったって、かまわないわ」

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「あったって、構わないわ」

「あなたはそれほど僕を信じているんですか」

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「貴方はそれ程僕を信用しているんですか」

「信じていなくちゃ、こうしていられないじゃありませんか」

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「信用していなくっちゃ、こうしていられないじゃありませんか」

代助はまぶしそうに、熱い鏡のような遠い空をながめた。

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代助は目映まぼしそうに、熱い鏡の様な遠い空を眺めた。

「僕にはそれほど信じてもらえる資格がなさそうだ」

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「僕にはそれ程信用される資格がなさそうだ」

と苦笑いしながら答えたが、頭の中は火にかけた鉄板のようにほてっていた。

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と苦笑しながら答えたが、頭の中は焙炉ほいろの如く火照ほてっていた。

しかし三千代は気にもならなかったと見えて、なぜとも聞き返さなかった。

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然し三千代は気にも掛からなかったと見えて、何故なぜとも聞き返さなかった。

ただ短く、

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ただ簡単に、

「まあ」

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「まあ」

と、わざとらしく驚いて見せた。

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とわざとらしく驚ろいて見せた。

代助はまじめになった。

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代助は真面目になった。

「僕は白状するが、じつを言うと平岡君よりたよりにならない男なんですよ。買いかぶられていると困るから、みんな話してしまうが」

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「僕は白状するが、実を云うと、平岡君よりたよりにならない男なんですよ。買いかぶっていられると困るから、みんな話してしまうが」

と前置きをして、それから自分と父との今日までの関係をくわしく話した上、

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と前置をして、それから自分と父との今日までの関係を詳しく述べた上、

「僕の身分は、これから先どうなるかわからない。少なくともしばらくは一人前じゃない。半人前にもなれない。だから」

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「僕の身分はこれから先どうなるか分らない。少なくとも当分は一人前じゃない。半人前にもなれない。だから」

と言いよどんだ。

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と云いよどんだ。

「だから、どうなさるんです」

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「だから、どうなさるんです」

「だから、僕の思うとおり、あなたに対して責任が果たせないだろうと心配しているんです」

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「だから、僕の思う通り、貴方に対して責任が尽せないだろうと心配しているんです」

「責任って、どんな責任なの。もっとはっきりおっしゃらなくちゃわからないわ」

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「責任って、どんな責任なの。もっと判然はっきりおっしゃらなくっちゃわからないわ」

代助はふだんからお金のことを重く見る結果、ただ貧しさが愛する人の満足に足りないということだけを知っていた。

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代助は平生へいぜいから物質的状況に重きを置くの結果、ただ貧苦が愛人の満足にあたいしないと云う事だけを知っていた。

だから、豊かさが三千代に対する責任の一つと考えただけで、それよりほかにはっきりした考えはまるで持っていなかった。

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だから富が三千代に対する責任の一つと考えたのみで、それより外に明らかな観念はまるで持っていなかった。

「心の上の責任じゃない、お金の上の責任です」

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「徳義上の責任じゃない、物質上の責任です」

「そんなものはほしくないわ」

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「そんなものは欲しくないわ」

「ほしくないと言ったって、どうしても必要になるんです。これから先、僕があなたとどんな新しい関係になって行くにしても、お金の助けが半分は答えを出すんですよ」

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「欲しくないと云ったって、是非必要になるんです。これから先僕が貴方とどんな新らしい関係に移ってくにしても、物質上の供給が半分は解決者ですよ」

「答えを出そうが何だろうが、今さらそんなことを気にしたってしかたがないわ」

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「解決者でも何でも、今更そんな事を気にしたって仕方がないわ」

「口ではそうも言えるが、いざとなると困るのは目に見えています」

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「口ではそうも云えるが、いざと云う場合になると困るのは眼に見えています」

三千代は少し顔色を変えた。

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三千代は少し色を変えた。

「今、あなたのお父様のお話をうかがってみると、こうなるのは初めからわかっているじゃありませんか。あなただって、それくらいのことはずっと前から気がついていらっしゃるはずだと思いますわ」

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「今貴方の御父様の御話を伺ってみると、こうなるのは始めから解ってるじゃありませんか。貴方だって、その位な事はうから気が付いていらっしゃるはずだと思いますわ」

代助は返事ができなかった。

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代助は返事が出来なかった。

頭をおさえて、

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頭を抑えて、

「少し頭がどうかしているんだ」

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「少し脳がどうかしているんだ」

とひとりごとのように言った。

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と独り言の様に云った。

三千代は少しなみだぐんだ。

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三千代は少し涙ぐんだ。

「もし、それが気になるなら、私のほうはどうでもいいですから、お父様と仲直りをなさって、今までどおりおつきあいになったらいいじゃありませんか」

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「もし、それが気になるなら、わたくしの方はどうでもう御座んすから、御父様と仲直りをなすって、今まで通り御交際おつきあいになったら好いじゃありませんか」

代助は急に三千代の手首をにぎって、それを振るように力を入れて言った。――

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代助は急に三千代の手頸てくびを握ってそれを振る様に力を入れて云った。――

「そんなことをする気なら、初めから心配なんかしません。ただ気の毒だから、あなたにあやまるんです」

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「そんな事をる気なら始めから心配をしやしない。ただ気の毒だから貴方にあやまるんです」

「あやまるなんて」

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「詫まるなんて」

と三千代は声をふるわせながらさえぎった。

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と三千代は声をふるわしながらさえぎった。

「私のせいでそうなったのに、あなたにあやまらせちゃすまないじゃありませんか」

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「私が源因もとでそうなったのに、貴方に詫まらしちゃ済まないじゃありませんか」

三千代は声を立てて泣いた。

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三千代は声を立てて泣いた。

代助はなだめるように、

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代助は慰撫なだめる様に、

「じゃ、がまんしますか」

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「じゃ我慢しますか」

と聞いた。

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と聞いた。

「がまんじゃありません。当たり前ですもの」

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「我慢はしません。当り前ですもの」

「これから先、まだ変わることがありますよ」

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「これから先まだ変化がありますよ」

「あることはわかっています。どんなことがあってもかまいません。私はこの間から――この間から私は、もしものことがあれば死ぬつもりで覚ごを決めているんですもの」

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「ある事は承知しています。どんな変化があったって構やしません。私はこの間から、――この間から私は、もしもの事があれば、死ぬ積りで覚悟を極めているんですもの」

代助はぞっとしてふるえた。

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代助は慄然りつぜんとしておののいた。

「あなたはこれから先どうしたいという望みはありませんか」

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「貴方はこれから先どうしたら好いと云う希望はありませんか」

と聞いた。

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と聞いた。

「望みなんかないわ。何でもあなたの言うとおりになるわ」

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「希望なんか無いわ。何でも貴方の云う通りになるわ」

「あてもなくさすらうことに――」

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「漂泊――」

「さすらってもいいわ。死ねとおっしゃれば死ぬわ」

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「漂泊でも好いわ。死ねと仰しゃれば死ぬわ」

代助はまたぞっとした。

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代助は又ぞっとした。

「このままでは」

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「このままでは」

「このままでもかまわないわ」

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「このままでも構わないわ」

「平岡君はまったく気がついていないようですか」

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「平岡君は全く気が付いていない様ですか」

「気がついているかも知れません。けれども私、もうはらをくくっているから大丈夫なのよ。だって、いつ殺されたっていいんですもの」

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「気が付いているかも知れません。けれども私もう度胸を据えているから大丈夫なのよ。だって何時いつ殺されたって好いんですもの」

「そう死ぬの殺されるのと、軽々しく言うものじゃない」

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「そう死ぬの殺されるのと安っぽく云うものじゃない」

「だって、放っておいたって、長く生きられる体じゃないじゃありませんか」

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「だって、放って置いたって、永く生きられる身体からだじゃないじゃありませんか」

代助はかたくなって、すくむように三千代を見つめた。

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代助は硬くなって、すくむが如く三千代を見詰めた。

三千代は気持ちがこわれたようにおそわれて、思い切り泣いた。

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三千代は歇私的里ヒステリの発作に襲われた様に思い切って泣いた。

しばらくたつと、それはだんだんおさまった。

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一仕切つと、発作は次第に収まった。

あとはいつものとおり、静かな、しとやかな、奥行きのある美しい女になった。

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後はいつもの通り静かな、しとやかな、奥行のある、美くしい女になった。

まゆのあたりが、とくに晴れ晴れして見えた。

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まゆのあたりがことに晴々しく見えた。

そのとき、代助は、

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その時代助は、

「僕が自分で平岡君に会ってかたをつけてもいいですか」

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「僕が自分で平岡君に逢って解決を付けても宜う御座んすか」

と聞いた。

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と聞いた。

「そんなことができて」

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「そんな事が出来て」

と三千代は驚いたようであった。

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と三千代は驚ろいた様であった。

代助は、

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代助は、

「できるつもりです」

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「出来る積りです」

としっかり答えた。

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しっかり答えた。

「じゃ、どうでも」

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「じゃ、どうでも」

と三千代が言った。

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と三千代が云った。

「そうしましょう。二人が平岡君をだましてことを進めるのはよくないようだ。もちろん本当のことをよくわかってもらえるように話すだけです。そうして、僕の悪いところはちゃんとあやまる覚ごです。その結果は僕の思うようにならないかも知れない。けれども、どうまちがっても、そんなむちゃなことは起こらないようにするつもりです。こう中とはんぱにしていてはおたがい苦しいし、平岡君に対しても悪い。ただ僕が思い切ってそうすると、あなたがさぞ平岡君に顔向けできないだろうと思ってね。そこがお気の毒なんだが、しかし顔向けできないと言えば、僕だって顔向けできないんだから。自分のしたことに対しては、どんなに顔向けできなくても正しさの上の責任を負うのが当たり前だとすれば、ほかに何の得がないとしても、おたがいの間にあったことだけは平岡君に話さなければならないでしょう。その上、今の場合ではこれからのことを決める大事な打ち明けなんだから、なおさら必要になると思います」

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「そうしましょう。二人が平岡君をあざむいて事をするのはくない様だ。無論事実をく納得出来る様に話すだけです。そうして、僕の悪い所はちゃんと詫まる覚悟です。その結果は僕の思う様に行かないかも知れない。けれどもどう間違ったって、そんな無暗むやみな事は起らない様にする積りです。こう中途半端にしていては、御互も苦痛だし、平岡君に対しても悪い。ただ僕が思い切ってそうすると、あなたが、さぞ平岡君に面目なかろうと思ってね。其所そこが御気の毒なんだが、然し面目ないと云えば、僕だって面目ないんだから。自分の所為しょいに対しては、如何いかに面目なくっても、徳義上の責任を負うのが当然だとすれば、外に何等の利益がないとしても、御互の間にあった事だけは平岡君に話さなければならないでしょう。その上今の場合ではこれからの所置を付ける大事の自白なんだから、猶更なおさら必要になると思います」

「よくわかりましたわ。どうせまちがえば死ぬつもりなんですから」

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「能く解りましたわ。どうせ間違えば死ぬ積りなんですから」

「死ぬなんて。――たとえ死ぬにしたって、これから先どのくらい間があるか――またそんなあぶないことがあるくらいなら、なんで平岡君に僕から話すもんですか」

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「死ぬなんて。――よし死ぬにしたって、これから先どの位間があるか――又そんな危険がある位なら、なんで平岡君に僕から話すもんですか」

三千代はまた泣き出した。

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三千代は又泣き出した。

「じゃ、よくあやまります」

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「じゃ能く詫ります」

代助は日がかたむくのを待って、三千代を帰した。

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代助は日の傾くのを待って三千代を帰した。

しかし、この前のようには送って行かなかった。

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然しこの前の時の様に送っては行かなかった。

一時間ほど書斎の中でせみの声を聞いて過ごした。

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一時間程書斎の中で蝉の声を聞いて暮した。

三千代に会って自分のこれからを打ち明けてから、気分がさっぱりした。

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三千代に逢って自分の未来を打ち明けてから、気分がさっぱりした。

平岡へ手紙を書いて会う都合を聞こうとして筆を持ってみたが、急に責任の重さが苦になって、書き出しから先を書き続ける勇気が出なかった。

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平岡へ手紙を書いて、会見の都合を聞き合せ様として、筆を持ってみたが、急に責任の重いのが苦になって、拝啓以後を書き続ける勇気が出なかった。

突然、シャツ一枚になってはだしで庭へ飛び出した。

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卒然、襯衣シャツ一枚になって素足で庭へ飛び出した。

三千代が帰るときはぐっすり昼ねをしていた門野が、

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三千代が帰る時は正体なく午睡ひるねをしていた門野が、

「まだ早いじゃありませんか。日が当たっていますぜ」

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「まだ早いじゃありませんか。日が当っていますぜ」

と言いながら、坊主頭を両手でおさえて縁側のはしに現れた。

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と云いながら、坊主頭を両手で抑えて縁端えんばなにあらわれた。

代助は返事もせずに、庭のすみへもぐりこんで、竹の落ち葉を前のほうへはき出した。

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代助は返事もせずに、庭の隅へもぐり込んで竹の落葉を前の方へ掃き出した。

門野もしかたなく着物をぬいで下りて来た。

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門野もやむを得ず着物を脱いで下りて来た。

せまい庭だけれども、土がかわいているので、たっぷりぬらすにはだいぶ骨が折れた。

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狭い庭だけれども、土が乾いているので、たっぷり濡らすには大分骨が折れた。

代助はうでが痛いと言って、いいかげんにして足をふいて上がった。

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代助は腕が痛いと云って、好加減にして足をいて上った。

たばこをふかして縁側で休んでいると、門野がそのすがたを見て、

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烟草たばこを吹いて、縁側に休んでいると、門野がその姿を見て、

「先生、心臓のどきどきが少しくるいやしませんか」

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「先生心臓の鼓動が少々狂やしませんか」

と下からからかった。

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と下から調戯からかった。

晩には門野を連れて神楽坂の縁日へ出かけて、秋の草を二鉢三鉢買って来て、つゆの下りるのきの外へならべておいた。

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晩には門野を連れて、神楽坂の縁日へ出掛けて、秋草を二鉢三鉢買って来て、露の下りる軒の外へ並べて置いた。

夜は深く、空は高かった。

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は深く空は高かった。

星の色はこく、たくさん光った。

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星の色は濃くしげく光った。

代助はその晩、わざと雨戸を閉めずにねた。

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代助はその晩わざと雨戸を引かずにた。

ぶっそうだという心配は、彼の頭にはまったくなかった。

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無用心と云う恐れが彼の頭には全く無かった。

彼はランプを消して、かやの中に一人ねころびながら、暗いところから暗い空をすかして見た。

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彼は洋燈ランプを消して、蚊帳かやの中に独り寐転びながら、暗い所から暗い空を透かして見た。

頭の中には昼のことがあざやかにかがやいた。

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頭の中には昼の事が鮮かに輝いた。

もう二、三日のうちには最後のかたがつくと思って、何度も胸をおどらせた。

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もう二三日のうちには最後の解決が出来ると思って幾度か胸を躍らせた。

が、そのうち大きな空と大きな夢の中に、知らないうちに吸いこまれた。

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が、そのうち大いなる空と、大いなる夢のうちに、われ知らず吸収された。

次の日の朝、彼は思い切って平岡に手紙を出した。

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翌日の朝彼は思い切って平岡に手紙を出した。

ただ、内々で少し話したいことがあるが、君の都合を知らせてもらいたい。

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ただ、内々で少し話したい事があるが、君の都合を知らせてもらいたい。

こちらはいつでもかまわない。

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此方こっちは何時でも差支ない。

と書いただけだが、彼はわざとそれをふうとうに入れた。

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と書いただけだが、彼はわざとそれを封書にした。

ふうとうののりをぬらして、赤い切手をとんとはったときには、いよいよ危ないところへ手形を切ったような気がした。

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状袋ののり湿めして、赤い切手をとんと張った時には、いよいよクライシスに証券を与えた様な気がした。

彼は門野に言いつけて、この運命の使いをポストに投げこませた。

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彼は門野に云い付けて、この運命の使を郵便函ゆうびんばこに投げ込ました。

手わたすとき、少し手先がふるえたが、わたしたあとではかえってぼんやりして自分を見失った。

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手渡しにする時、少し手先が顫えたが、渡したあとではかえって茫然ぼうぜんとして自失した。

三年前、三千代と平岡の間に立って世話をしたことを思い返すと、まるで夢のようであった。

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三年前三千代と平岡の間に立って斡旋あっせんの労を取った事を追想するとまるで夢の様であった。

次の日は、平岡の返事を待ちのぞんで一日過ごした。

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翌日は平岡の返事を心待に待ち暮らした。

その次の日もあてにして、一日じゅう家にいた。

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その明る日も当にして終日うちにいた。

三日四日とたった。

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三日四日と経った。

が、平岡からは何の知らせもなかった。

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が、平岡からは何の便たよりもなかった。

そのうち、毎月のとおり青山へお金をもらいに行くはずの日が来た。

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そのうち例月の通り、青山へ金を貰いに行くべき日が来た。

代助のさいふは、とてもさびしくなった。

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代助の懐中は甚だ手薄になった。

代助はこの前父に会ってから、もう家からは助けを受けられないものと覚ごを決めていた。

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代助はこの前父に逢った時以後、もう宅からは補助を受けられないものと覚悟を極めていた。

今さら平気な顔をして、のこのこ出かけて行く気はまるでなかった。

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今更平気な顔をして、のそのそ出掛て行く了見はまるでなかった。

何、二か月や三か月は、本か着物を売りはらってもどうにかなると腹の中で気楽に構えていた。

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何二カ月や三カ月は、書物か衣類を売り払ってもどうかなると腹の中で高をくくって落ち付いていた。

ことが片づきしだい、ゆっくり仕事をさがすという考えもあった。

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事の落着次第ゆっくり職業を探すと云う分別もあった。

彼はふだんから人がよく口ぐせにする、人間はそう簡単にうえ死にするものじゃない、どうにかなって行くものだという半分ことわざのような本当のことを、経験する前から信じ出した。

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彼は平生から人のよく口癖にする、人間は容易な事で餓死するものじゃない、どうにかなってくものだと云う半諺はんことわざの真理を、経験しない前から信じ出した。

五日目に暑さの中を電車に乗って平岡の会社まで出かけて行ってみて、平岡は二、三日会社に出ていないということがわかった。

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五日目にあつさを冒して、電車へ乗って、平岡の社まで出掛けて行ってみて、平岡は二三日出社しないと云う事が分った。

代助は外へ出て、うす汚い編集室の窓を見上げながら、足を運ぶ前にまず電話で聞くべきだったと思った。

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代助は表へ出て薄汚ない編輯局へんしゅうきょくの窓を見上げながら、足を運ぶ前に、一応電話で聞き合すべき筈だったと思った。

この間の手紙は、本当に平岡の手にわたったかどうか、それさえあやしくなった。

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先達ての手紙は、果して平岡の手に渡ったかどうか、それさえ疑わしくなった。

代助はわざと新聞社あてでそれを出したからである。

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代助はわざと新聞社あてでそれを出したからである。

帰りに神田へ回って、いつもの古本屋に、売りはらいたい要らない本があるから見に来てくれと頼んだ。

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帰りに神田へ廻って、買いつけの古本屋に、売払いたい不用の書物があるから、見に来てくれろと頼んだ。

その晩は水をまく元気も出ず、ぼんやり、白いあみシャツを着た門野のすがたをながめていた。

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その晩は水を打つ勇気もせて、ぼんやり、白い網襯衣を着た門野の姿を眺めていた。

「先生、今日はおつかれですか」

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「先生今日は御疲ですか」

と門野がバケツを鳴らしながら言った。

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と門野がバケツを鳴らしながら云った。

代助の胸は不安におされて、はっきりした返事も出なかった。

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代助の胸は不安にされて、明らかな返事も出なかった。

夕食のとき、ご飯の味はほとんどなかった。

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夕食ゆうめしのとき、飯の味はほとんどなかった。

飲みこむようにのどを通して、はしを投げた。

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み込む様に咽喉のどを通して、はしを投げた。

門野を呼んで、

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門野を呼んで、

「君、平岡のところへ行ってね、この間の手紙は御覧になりましたか。御覧になったらご返事を願いますって、返事を聞いて来てくれたまえ」

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「君、平岡の所へ行ってね、先達ての手紙は御覧になりましたか。御覧になったら、御返事を願いますって、返事を聞いて来てくれたまえ」

と頼んだ。

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と頼んだ。

それでも通じないおそれがありそうなので、この間これこれの手紙を新聞社のほうへ出しておいたのだということまで説明して聞かせた。

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猶要領を得ぬ恐がありそうなので、先達てこれこれの手紙を新聞社の方へ出して置いたのだと云う事まで説明して聞かした。

門野を出したあとで、代助は縁側に出ていすに腰を掛けた。

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門野を出した後で、代助は縁側に出て、椅子いすに腰を掛けた。

門野が帰ったときは、ランプをふき消して暗い中にじっとしていた。

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門野の帰った時は、洋燈ランプを吹き消して、暗い中にじっとしていた。

門野は暗がりで、

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門野は暗がりで、

「行って参りました」

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「行って参りました」

とあいさつをした。

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挨拶あいさつをした。

「平岡さんはおいででした。手紙は御覧になったそうです。明日の朝行くからということです」

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「平岡さんは御居ででした。手紙は御覧になったそうです。明日の朝行くからという事です」

「そうかい、ご苦労さま」

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「そうかい、御苦労さま」

と代助は答えた。

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と代助は答えた。

「じつはもっと早く出るはずだったが、家に病人ができたので遅くなったから、よろしく言ってくれと言われました」

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「実はもっと早く出るんだったが、うちに病人が出来たんで遅くなったから、よろしく云ってくれろと云われました」

「病人?」

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「病人?」

と代助は思わず聞き返した。

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と代助は思わず問い返した。

門野は暗い中で、

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門野は暗い中で、

「ええ、何でも奥さんがお悪いようです」

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「ええ、何でも奥さんが御悪い様です」

と答えた。

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と答えた。

門野の着ている白いゆかただけが、ぼんやり代助の目に入った。

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門野の着ている白地の浴衣ゆかただけがぼんやり代助の眼にった。

夜の明るさは、二人の顔を照らすにはあまりに足りなかった。

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夜の明りは二人の顔を照らすには余り不充分であった。

代助はすわっているとういすのひじ掛けを両手でにぎった。

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代助は掛けている籐椅子といす肱掛ひじかけを両手で握った。

「よほど悪いのか」

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「余程悪いのか」

と強く聞いた。

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と強く聞いた。

「どうですか、よくわかりませんが。何でも、そう軽そうでもないようでした。しかし平岡さんが明日おいでになれるくらいなんだから、大したことじゃないでしょう」

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「どうですか、能く分りませんが。何でもそう軽そうでもない様でした。しかし平岡さんが明日御出おいでになられる位なんだから、大した事じゃないでしょう」

代助は少し安心した。

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代助は少し安心した。

「何だい。病気は」

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「何だい。病気は」

「つい聞きそこないましたがな」

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「つい聞き落しましたがな」

二人のやりとりは、それで切れた。

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二人の問答はそれで絶えた。

門野は暗いろうかを引き返して、自分の部屋へ入った。

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門野は暗い廊下を引き返して、自分の部屋へ這入はいった。

静かに聞いていると、しばらくして、ランプのふたをほや(ガラスのつつ)にぶつける音がした。

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静かに聞いていると、しばらくして、洋燈ランプかさをホヤにつける音がした。

門野は明かりをつけたと見えた。

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門野は灯火あかりけたと見えた。

代助は夜の中で、なおじっとしていた。

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代助は夜の中になお凝としていた。

じっとしていながら、胸がわくわくした。

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凝としていながら、胸がわくわくした。

にぎっているひじ掛けに、手からあぶらが出た。

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握っている肱掛に、手からあぶらが出た。

代助はまた手を鳴らして、門野を呼び出した。

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代助は又手を鳴らして門野を呼び出した。

門野のぼんやりした白い着物が、またろうかのはしに現れた。

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門野のぼんやりした白地が又廊下のはずれに現われた。

「まだまっ暗ですな。ランプをつけますか」

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「まだ暗闇ですな。洋燈ランプを点けますか」

と聞いた。

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と聞いた。

代助はランプを断って、もう一度、三千代の病気について聞いた。

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代助は洋燈を断って、もう一度、三千代の病気を尋ねた。

看護の人がいるかどうかやら、平岡のようすやら、新聞社を休んだのは奥さんの病気のためかどうかという点まで、思いつくかぎり聞きつくした。

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看護婦の有無やら、平岡の様子やら、新聞社を休んだのは、細君の病気の為だか、どうだか、と云う点に至るまで、考えられるだけ問い尽した。

けれども、門野の答えはけっきょく、前と同じことのくり返しだった。

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けれども門野の答は必竟ひっきょう前と同じ事を繰り返すのみであった。

でなければ、いいかげんな当てずっぽうにすぎなかった。

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でなければ、好加減いいかげんな当ずっぽうに過ぎなかった。

それでも、代助には一人で黙っているよりましだった。

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それでも、代助には一人で黙っているよりもこらやすかった。

ねる前に、門野が夜の郵便から手紙を一通出して来た。

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寐る前に門野が夜中投函やちゅうとうかんから手紙を一本出して来た。

代助は暗い中でそれを受け取ったまま、とくに見ようともしなかった。

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代助は暗い中でそれを受取ったまま、別に見ようともしなかった。

門野は、

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門野は、

「お宅からのようです、明かりを持って来ましょうか」

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「御宅からの様です、灯火あかりを持って来ましょうか」

とうながすように言った。

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と促がすごとくに注意した。

代助は初めてランプを書斎に入れさせて、その下でふうとうを切った。

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代助は始めて洋燈を書斎に入れさして、その下で、状袋の封を切った。

手紙は梅子から自分にあてた、かなり長いものであった。――

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手紙は梅子から自分に宛てた可なり長いものであった。――

「この間から奥さんのことであなたもさぞ困ったでしょう。こちらでもお父様はじめ兄さんや私は、ずいぶん心配をしました。けれども、そのかいもなく、この間おいでのとき、とうとうお父さんにきっぱりお断りになったごようす、とても残念ながら、今ではしかたがないとあきらめています。けれども、そのときお父様は、もうおまえのことはかまわないからそのつもりでいろとおこられたよし、あとでうかがいました。そのあとあなたがおいでにならないのも、まったくそのためじゃなかろうかと思っています。毎月のものをあげる日にはどうかとも思いましたが、やはりおいでにならないので心配しています。お父さんは放っておけとおっしゃいます。兄さんはいつものように気楽で、困ったらそのうち来るだろう。そのとき父さんによくあやまらせるがいい。もし来ないようだったら、おれのほうから行ってよく言ってやると言っています。けれども、結婚のことは三人とももうあきらめているんですから、その点ではご迷惑になるようなことはないでしょう。もっとも、お父さんはまだおこっておいでのようすです。私の考えでは、しばらく昔のとおりになることはむずかしいと思います。それを考えると、あなたがいらっしゃらないほうが、かえってあなたのためによいかも知れません。ただ心配になるのは、毎月あげるお金のことです。あなたのことだから、そう急に自分でお金をかせぐ気づかいはなかろうと思うと、さしあたりお困りになるのが目に見えるようで、お気の毒でたまりません。それで、私のはからいで毎月の分を送ってあげるから、お受け取りの上はこれで来月までもちこたえていらっしゃい。そのうちにはお父さんのきげんも直るでしょう。また兄さんからも、そう言ってもらうつもりです。私もいい折があればおわびをしてあげます。それまでは今までどおりえんりょしていらっしゃるほうがいいですよ。……」

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「この間から奥さんの事で貴方もさぞ御迷惑なすったろう。此方こっちでも御父様始め兄さんや、わたくしは随分心配をしました。けれどもその甲斐かいもなく先達て御出の時、とうとう御父さんに断然御断りなすった御様子、甚だ残念ながら、今では仕方がないとあきらめています。けれどもその節御父様は、もう御前の事は構わないから、その積りでいろと御怒りなされたよし、後で承りました。その後あなたが御出にならないのも、全くそのためじゃなかろうかと思っています。例月のものを上げる日にはどうかとも思いましたが、やはり御出にならないので、心配しています。御父さんは打遣うちやって置けとおっしゃいます。兄さんは例の通り呑気のんきで、困ったらその内来るだろう。その時親爺おやじによくあやまらせるがい。もし来ない様だったら、おれの方から行ってよく異見してやると云っています。けれども、結婚の事は三人とももう断念しているんですから、その点では御迷惑になる様な事はありますまい。もっとも御父さんはだ怒って御出の様子です。私の考では当分昔の通りになる事は、むずかしいと思います。それを考えると、貴方がいらっしゃらない方がかえって貴方の為にいかも知れません。ただ心配になるのは月々上げる御金の事です。貴方の事だから、そう急に自分で御金を取る気遣はなかろうと思うと、差し当り御困りになるのが眼の前に見える様で、御気の毒でたまりません。で、私の取計らいで例月分を送って上げるから、御受取の上はこれで来月まで持ちこたえていらっしゃい。その内には御父さんの御機嫌も直るでしょう。又兄さんからも、そう云って頂く積りです。私も好い折があれば、御詫おわびをして上げます。それまでは今まで通り遠慮していらっしゃる方がう御座います。……」

まだあとがだいぶあったが、女のことだから、たいていは同じことのくり返しにすぎなかった。

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まだ後が大分あったが、女の事だから、大抵は重複に過ぎなかった。

代助は中に入っていた小切手を引きぬいて、手紙だけをもう一度よく読み直した上、ていねいに元のように巻いてしまって、黙って兄の妻にあらためて感謝した。

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代助は中に這入っていた小切手を引き抜いて、手紙だけをもう一遍よく読み直した上、丁寧に元の如くに巻き収めて、無言の感謝を改めてあによめに致した。

梅子よりと書いた字は、むしろへたであった。

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梅子よりと書いた字はむしせつであった。

手紙が話し言葉のままなのは、前に代助がすすめたとおりにしたのであった。

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手紙の体の言文一致なのは、かねて代助の勧めた通りを用いたのであった。

代助はランプの前にあるふうとうを、さらにじっとながめた。

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代助は洋燈ランプの前にある封筒を、猶つくづくと眺めた。

古い暮らしが、また一か月のびた。

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古い寿命が又一カ月延びた。

遅かれ早かれ自分を新しくする必要のある代助には、兄の妻の気持ちはありがたいにしても、かえって毒になるばかりであった。

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おそかれ早かれ、自己を新たにする必要のある代助には、嫂の志は難有ありがたいにもせよ、却って毒になるばかりであった。

ただ、平岡とかたをつける前は、食べるために働くことを承知しない心を持っていたから、兄の妻のおくり物がこのとき、食べ物としてとくに彼にはありがたかった。

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ただ平岡と事を決する前は、麺麭パンの為に働らく事をうけがわぬ心を持っていたから、嫂の贈物が、この際糧食としてことに彼にはたっとかった。

その晩もかやに入る前に、ふっとランプを消した。

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その晩も蚊帳かやへ這入る前にふっと、洋燈ランプを消した。

雨戸は門野が閉めに来たから、文句も言わずにそのままにしておいた。

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雨戸は門野が立てに来たから、故障も云わずに、そのままにして置いた。

ガラス戸だから、戸ごしにも空は見えた。

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硝子戸ガラスどだから、戸越しにも空は見えた。

ただ、昨夜より暗かった。

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ただ昨夕ゆうべより暗かった。

くもったのかと思って、わざわざ縁側まで出て、すかすようにしてのきを見上げると、光るものがすじを引いてななめに空を流れた。

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曇ったのかと思って、わざわざ縁側まで出て、透かす様にして軒を仰ぐと、光るものが筋を引いて斜めに空を流れた。

代助はまたかやをまくって入った。

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代助は又蚊帳をまくって這入った。

ねつけないので、うちわをはたはた言わせた。

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寐付かれないので団扇うちわをはたはた云わせた。

家のことは、それほど気にならなかった。

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家の事はさのみ気に掛からなかった。

仕事もなるようになれとはらをくくった。

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職業もなるがままになれと度胸を据えた。

ただ三千代の病気と、そのわけとその結果が、ひどく代助の頭を悩ませた。

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ただ三千代の病気と、その源因とその結果が、ひどく代助の頭を悩ました。

それから、平岡と会うようすもいろいろ想像してみた。

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それから平岡との会見の様子も、様々に想像してみた。

それもまた、彼の頭を強く刺激した。

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それも一方ひとかたならず彼の脳髄を刺激した。

平岡は明日の朝九時ごろ、あまり暑くならないうちに来るという言づてであった。

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平岡は明日の朝九時頃あんまり暑くならないうちに来るという伝言であった。

代助はもちろん、平岡に向かってどう切り出そうなどと決まり文句を考える男ではなかった。

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代助はもとより、平岡に向ってどう切り出そうなどと形式的の文句を考える男ではなかった。

話すことは初めから決まっていて、話す順序はそのときのようす次第だから、決して心配ではなかったが、ただなるべくおだやかに自分の思うことが向こうに伝わるようにしたかった。

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話す事は始めから極っていて、話す順序はその時の模様次第だから、決して心配にはならなかったが、ただなるべく穏かに自分の思う事が向うに徹する様にしたかった。

それで、高ぶりすぎるのをきらって、一晩の落ち着きを心から願った。

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それで過度の興奮をんで、一夜の安静をせつこいねがった。

なるべくぐっすりねたいと思ってまぶたを閉じたが、あいにく目がさえて、昨夜よりかえってねぐるしかった。

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なるべく熟睡したいと心掛けてまぶたを合せたが、生憎あやにく眼がえて昨夕ゆうべよりは却って寐苦しかった。

そのうち、夏の夜がぽうと白んで来た。

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その内夏の夜がぽうと白み渡って来た。

代助はたまらなくなってはね起きた。

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代助は堪りかねてね起きた。

はだしで庭先へ飛び下りて、冷たいつゆを思うぞんぶんふんだ。

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跣足はだしで庭先へ飛び下りて冷たい露を存分に踏んだ。

それからまた縁側のとういすによりかかって、日の出を待っているうちに、うとうとした。

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それから又縁側の籐椅子といすって、日の出を待っているうちに、うとうとした。

門野がねぼけまなこをこすりながら雨戸を開けに出たとき、代助ははっとしてこのうたた寝からさめた。

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門野が寐惚ねぼまなここすりながら、雨戸を開けに出た時、代助ははっとして、この仮睡うたたねから覚めた。

世界の半分は、もう赤い日に洗われていた。

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世界の半面はもう赤い日に洗われていた。

「たいへんお早いですな」

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「大変御早うがすな」

と門野が驚いて言った。

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と門野が驚ろいて云った。

代助はすぐふろ場へ行って水をあびた。

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代助はすぐ風呂場へ行って水を浴びた。

朝ご飯は食べずに、ただ紅茶を一杯飲んだ。

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朝飯は食わずにただ紅茶を一杯飲んだ。

新聞を見たが、ほとんど何が書いてあるかわからなかった。

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新聞を見たが、殆んど何が書いてあるかわからなかった。

読むにつれて、読んだことがどんどん消えて行った。

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読むに従って、読んだ事が群がって消えて行った。

ただ、時計のはりばかりが気になった。

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ただ時計の針ばかりが気になった。

平岡が来るまでには、まだ二時間あまりあった。

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平岡が来るまでにはまだ二時間あまりあった。

代助は、その間をどうして過ごそうかと思った。

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代助はその間をどうして暮らそうかと思った。

じっとしてはいられなかった。

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じっとしてはいられなかった。

けれども、何をしても手につかなかった。

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けれども何をしても手に付かなかった。

せめてこの二時間をぐっとねこんで、目を開けてみると自分の前に平岡が来ているようにしたかった。

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せめてこの二時間をぐっと寐込んで、眼を開けて見ると、自分の前に平岡が来ている様にしたかった。

しまいに、何か用事を考え出そうとした。

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仕舞に何か用事を考え出そうとした。

ふと、机の上にのせてあった梅子のふうとうが目についた。

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不図机の上に乗せてあった梅子の封筒が眼に付いた。

代助はこれだと思って、むりに机の前にすわって、兄の妻へお礼の手紙を書いた。

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代助はこれだと思って、強いて机の前に坐って、嫂へ謝状を書いた。

なるべくていねいに書くつもりであったが、ふうとうへ入れて宛名まで書いてしまって時計を見ると、たった十五分ほどしかたっていなかった。

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なるべく叮嚀ていねいに書く積りであったが、状袋へ入れて宛名までしたためてしまって、時計を眺めると、たった十五分程しかっていなかった。

代助は席についたまま、落ち着かない目を空にすえて、頭の中で何かさがすように見えた。

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代助は席に着いたまま、安からぬ眼を空に据えて、頭の中で何か捜す様に見えた。

が、急に立った。

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が、急にった。

「平岡が来たら、すぐ帰るからって、少し待たせておいてくれ」

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「平岡が来たら、すぐ帰るからって、少し待たして置いてくれ」

と門野に言い置いて、外へ出た。

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と門野に云い置いて表へ出た。

強い日が正面から射すくめるようないきおいで、代助の顔を打った。

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強い日が正面から射竦いすくめる様な勢で、代助の顔を打った。

代助は歩きながら、たえず目とまゆを動かした。

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代助は歩きながら絶えず眼とまゆを動かした。

牛込見附を入って、飯田町をぬけて、九段坂の下へ出て、昨日寄った古本屋まで来て、

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牛込見附うしごめみつけを這入って、飯田町を抜けて、九段坂下へ出て、昨日寄った古本屋まで来て、

「昨日、要らない本を取りに来てくれと頼んでおいたが、少し都合があって見合わせることにしたから、そのつもりで」

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「昨日不要の本を取りに来てくれと頼んで置いたが、少し都合があって見合せる事にしたから、その積りで」

と断った。

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と断った。

帰りには暑さがあまりにひどかったので、電車で飯田橋へ回って、それから揚場をななめに毘沙門の前へ出た。

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帰りには、暑さが余りひどかったので、電車で飯田橋へ回って、それから揚場あげば筋違すじかい毘沙門前びしゃもんまえへ出た。

家の前には車が一台止まっていた。

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家の前には車が一台下りていた。

玄関にはくつがそろえてあった。

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玄関には靴がそろえてあった。

代助は門野に言われなくても、平岡が来ていることがわかった。

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代助は門野の注意を待たないで、平岡の来ている事を悟った。

汗をふいて、着物を洗いたてのゆかたに着かえて、座敷へ出た。

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汗をいて、着物を洗い立ての浴衣に改めて、座敷へ出た。

「いや、お使いをいただいて」

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「いや、御使で」

と平岡が言った。

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と平岡が云った。

やはり洋服を着て、蒸されるようにせんすを使った。

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やはり洋服を着て、蒸される様に扇を使った。

「どうも暑いところを」

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「どうも暑い所を」

と代助も、自分からあらたまった言葉づかいをしなければならなかった。

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と代助もおのずから表立た言葉遣をしなければならなかった。

二人はしばらく天気の話をした。

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二人はしばらく時候の話をした。

代助はすぐ三千代のようすを聞いてみたかった。

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代助はすぐ三千代の様子を聞いてみたかった。

しかし、それがどういうものか聞きにくかった。

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然しそれがどう云うものか聞きにくかった。

そのうち、ひととおりのあいさつもすんでしまった。

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その内通例の挨拶も済んでしまった。

話は呼んだほうから切り出すのが順当であった。

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話は呼び寄せた方から、切り出すのが順当であった。

「三千代さんは病気だってね」

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「三千代さんは病気だってね」

「うん。それで会社のほうも二、三日休まされたようなわけで。つい君のところへ返事を出すのも忘れてしまった」

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「うん。それで社の方も二三日休ませられた様な訳で。つい君の所へ返事を出すのも忘れてしまった」

「それはどうでもかまわないが、三千代さんはそれほど悪いのかい」

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「そりゃどうでも構わないが、三千代さんはそれ程悪いのかい」

平岡は、きっぱりした答えを一言で言えなかった。

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平岡は断然たる答を一言葉でなし得なかった。

そう急にどうこうという心配もないようだが、決して軽いほうではないという意味を短く言った。

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そう急にどうのこうのという心配もない様だが、決して軽い方ではないという意味を手短かに述べた。

この前、暑いさかりに神楽坂へ買い物に出たついでに代助のところへ寄った次の日の朝、三千代は平岡が会社へ出かけるしたくをしていて、突然夫のネクタイを持ったままたおれた。

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この前暑い盛りに、神楽坂へ買物に出たついでに、代助の所へ寄った明日あくるひの朝、三千代は平岡の社へ出掛ける世話をしていながら、突然夫の襟飾えりかざりを持ったまま卒倒した。

平岡も驚いて、自分のしたくはそのままに三千代の手当てをした。

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平岡も驚ろいて、自分の支度はそのままに三千代を介抱した。

十分の後、三千代はもう大丈夫だから会社へ出てくれと言い出した。

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十分の後三千代はもう大丈夫だから社へ出てくれと云い出した。

口もとにはほほえみのかげさえ見えた。

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口元には微笑の影さえ見えた。

横にはなっていたが、心配するほどのようすもないので、もし悪いようだったら医者を呼ぶように、必要があったら会社へ電話をかけるようにと言い置いて、平岡は出かけた。

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横にはなっていたが、心配する程の様子もないので、もし悪い様だったら医者を呼ぶ様に、必要があったら社へ電話を掛ける様に云い置いて平岡は出勤した。

その晩は遅く帰った。

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その晩は遅く帰った。

三千代は気分が悪いと言って、先にねていた。

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三千代は心持が悪いといって先へ寐ていた。

どんな具合かと聞いても、はっきりした返事をしなかった。

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どんな具合かと聞いても、判然はっきりした返事をしなかった。

次の日、朝起きてみると、三千代の顔色がとても悪かった。

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翌日朝起きて見ると三千代の色沢いろつやが非常にくなかった。

平岡はむしろ驚いて、医者を呼んだ。

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平岡は寧ろ驚ろいて医者を迎えた。

医者は三千代の心臓を診て、まゆをひそめた。

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医者は三千代の心臓を診察して眉をひそめた。

たおれたのは血が足りないせいだと言った。

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卒倒は貧血の為だと云った。

ずいぶん強い神経衰弱(しんけいすいじゃく)にかかっていると注意した。

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随分強い神経衰弱にかかっていると注意した。

平岡はそれから会社を休んだ。

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平岡はそれから社を休んだ。

本人は大丈夫だから出てくれと頼むように言ったが、平岡は聞かなかった。

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本人は大丈夫だから出てくれろと頼む様に云ったが、平岡は聞かなかった。

看病をしてから二日目の晩に、三千代がなみだを流して、どうしてもあやまらなければならないことがあるから、代助のところへ行ってそのわけを聞いてくれと夫に言った。

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看護をしてから二日目の晩に、三千代が涙を流して、是非あやまらなければならない事があるから、代助の所へ行ってその訳を聞いてくれろと夫に告げた。

平岡は初めてそれを聞いたときには、本気にしなかった。

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平岡は始めてそれを聞いた時には、本当にしなかった。

頭の具合が悪いのだろうと思って、よしよしと気休めを言ってなだめていた。

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脳の加減が悪いのだろうと思って、好し好しと気休めを云って慰めていた。

三日目にも、同じ頼みがくり返された。

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三日目にも同じ願が繰り返された。

そのとき、平岡はようやく三千代の言葉にある意味を感じた。

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その時平岡はようやく三千代の言葉に一種の意味を認めた。

すると夕方になって、門野が代助の出した手紙の返事を聞きに、わざわざ小石川までやって来た。

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すると夕方になって、門野が代助から出した手紙の返事を聞きにわざわざ小石川までって来た。

「君の用事と三千代の言うことと、何か関係があるのかい」

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「君の用事と三千代の云う事と何か関係があるのかい」

と平岡は不思議そうに代助を見た。

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と平岡は不思議そうに代助を見た。

平岡の話はさっきから深く代助の心を動かしていたが、突然この思いがけない問いが来たとき、代助はぐっとつまった。

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平岡の話は先刻さっきから深い感動を代助に与えていたが、突然この思わざる問に来た時、代助はぐっと詰った。

平岡の問いは、まったく思いがけなく、むじゃきに、代助の胸にこたえた。

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平岡の問は実に意表に、無邪気に、代助の胸に応えた。

彼はめずらしく少し顔を赤くして下を向いた。

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彼は何時いつになく少し赤面して俯向うつむいた。

しかし、また顔を上げたときは、いつものとおり静かな、ひるまない態度に戻っていた。

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然しふたたび顔を上げた時は、平生の通り静かな悪びれない態度を回復していた。

「三千代さんが君にあやまることと、僕が君に話したいこととは、たぶん大きな関係があるだろう。あるいは同じことかも知れない。僕はどうしても、それを君に話さなければならない。話す義務があると思うから話すんだから、今日までの友情に免じて、気持ちよく僕に僕の義務を果たさせてくれたまえ」

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「三千代さんの君に詫まる事と、僕の君に話したい事とは、恐らく大いなる関係があるだろう。或はおんなじ事かも知れない。僕はどうしても、それを君に話さなければならない。話す義務があると思うから話すんだから、今日までの友誼ゆうぎに免じて、快よく僕に僕の義務を果さしてくれたまえ」

「何だい。あらたまって」

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「何だい。改たまって」

と平岡は初めて顔を引きしめた。

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と平岡は始めて眉を正した。

「いや、前置きをすると言いわけらしくなっていけないから、僕もなるべくならまっすぐに言ってしまいたいのだが、少し大きな話だし、それに世間の決まりに合わないところもあるので、もしとちゅうで君がおこってしまうととても困るから、ぜひ最後まで聞いてもらいたいと思って」

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「いや前置をすると言訳らしくなって不可いけないから、僕もなるべくなら率直に云ってしまいたいのだが、少し重大な事件だし、それに習慣に反したきらいもあるので、し中途で君に激されてしまうと、甚だ困るから、是非仕舞まで君に聞いて貰いたいと思って」

「まあ何だい。その話というのは」

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「まあ何だい。その話と云うのは」

知りたい気持ちとともに、平岡の顔がますますまじめになった。

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好奇心と共に平岡の顔がますます真面目まじめになった。

「そのかわり、みんな話したあとで、僕はどんなことを君から言われても、やはりおとなしく最後まで聞くつもりだ」

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「その代り、みんな話した後で、僕はどんな事を君から云われても、やはり大人しく仕舞まで聞く積りだ」

平岡は何も言わなかった。

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平岡は何にも云わなかった。

ただ眼鏡の奥から、大きな目を代助にすえた。

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ただ眼鏡の奥から大きな眼を代助の上に据えた。

外はぎらぎらする日が照りつけて縁側まで照り返したが、二人はほとんど暑さを忘れていた。

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外はぎらぎらする日が照り付けて、縁側まで射返したが、二人はほとんど暑さを度外に置いた。

代助は一段と声を低くした。

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代助は一段声を潜めた。

そうして、平岡夫婦が東京へ来てから、自分と三千代との関係がどう変わって今日まで来たかをくわしく話し出した。

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そうして、平岡夫婦が東京へ来てから以来、自分と三千代との関係がどんな変化を受けて、今日に至ったかを、詳しく語り出した。

平岡は固くくちびるを結んで、代助の一言一言に耳をかたむけた。

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平岡は堅く唇を結んで代助の一語一句に耳を傾けた。

代助はすべてを話すのに、一時間あまりかかった。

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代助はすべてを語るに約一時間余を費やした。

その間に平岡から、四度ほどとても短い質問を受けた。

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その間に平岡から四遍程極めて単簡たんかんな質問を受けた。

「ざっとこういう流れだ」

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「ざっとこう云う経過だ」

と説明を終えたとき、平岡はただうなるような深いため息で代助に答えた。

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と説明の結末を付けた時、平岡はただうなる様に深い溜息ためいきもって代助に答えた。

代助はとてもつらかった。

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代助は非常につらかった。

「君の立場から見れば、僕は君を裏切ったことになる。ひどい友達だと思うだろう。そう思われても言い返す言葉はない。すまないことになった」

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「君の立場から見れば、僕は君を裏切りした様に当る。しからん友達だと思うだろう。そう思われても一言もない。済まない事になった」

「すると君は、自分のしたことを悪いと思ってるんだね」

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「すると君は自分のした事を悪いと思ってるんだね」

「もちろん」

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「無論」

「悪いと思いながら、今日まで進んで来たんだね」

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「悪いと思いながら今日まで歩を進めて来たんだね」

と平岡は重ねて聞いた。

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と平岡は重ねて聞いた。

言い方は前より少しきびしくなっていた。

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語気は前よりもやや切迫していた。

「そうだ。だから、このことに対して君が僕らにあたえようとするばつは、いさぎよく受ける覚ごだ。今のはただあったことをそのまま話しただけで、君が決めるための材料にするつもりだ」

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「そうだ。だから、この事に対して、君の僕等に与えようとする制裁はいさぎよく受ける覚悟だ。今のはただ事実をそのままに話しただけで、君の処分の材料にする考だ」

平岡は答えなかった。

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平岡は答えなかった。

しばらくしてから、代助の前へ顔を寄せて言った。

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しばらくしてから、代助の前へ顔を寄せて云った。

「きずつけられた僕の名誉を取り返せるような方法がこの世にあると、君は思っているのか」

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「僕の毀損きそんされた名誉が、回復出来る様な手段が、世の中にあり得ると、君は思っているのか」

今度は代助のほうが答えなかった。

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今度は代助の方が答えなかった。

「法律や世間のばつは、僕には何にもならない」

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「法律や社会の制裁は僕には何にもならない」

と平岡はまた言った。

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と平岡は又云った。

「すると君は、当人たちの間だけで名誉を取り返す方法があるかと聞くんだね」

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「すると君は当時者だけのうちで、名誉を回復する手段があるかと聞くんだね」

「そうさ」

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「そうさ」

「三千代さんの心を変えて、君を前よりも倍以上に愛させるようにして、その上僕をへびやさそりのようににくませさえすれば、いくらかはうめ合わせになる」

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「三千代さんの心機を一転して、君を元よりも倍以上に愛させる様にして、その上僕を蛇蝎だかつの様ににくませさえすれば幾分かつぐないにはなる」

「それが君のうででできるかい」

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「それが君の手際てぎわで出来るかい」

「できない」

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「出来ない」

と代助は言い切った。

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と代助は云い切った。

「すると君は、悪いと思っていることを今日まで進めておいて、なおその悪いと思うやり方でとことんまで押して行こうとするのじゃないか」

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「すると君は悪いと思ってる事を今日まで発展さして置いて、なおその悪いと思う方針によって、極端まで押して行こうとするのじゃないか」

「つじつまが合わないかも知れない。しかしそれは、世間の決まりとされている夫婦の形と、自然にできあがった夫婦の形とが一致しなかったというくいちがいなのだからしかたがない。僕は世間の決まりとして、三千代さんの夫である君にあやまる。しかし僕のしたことそのものについては、何のくいちがいもおかしていないつもりだ」

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「矛盾かも知れない。しかしそれは世間のおきてと定めてある夫婦関係と、自然の事実として成り上がった夫婦関係とが一致しなかったと云う矛盾なのだから仕方がない。僕は世間の掟として、三千代さんの夫たる君にあやまる。然し僕の行為その物に対しては矛盾も何も犯していない積りだ」

「じゃ」

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「じゃ」

と平岡は少し声を高くした。

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と平岡は稍声を高めた。

「じゃ、僕たち二人は世間の決まりに合うような夫婦にはなれないという考えだね」

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「じゃ、僕等二人は世間の掟にかなう様な夫婦関係は結べないと云う意見だね」

代助は同情のある気の毒そうな目をして、平岡を見た。

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代助は同情のある気の毒そうな眼をして平岡を見た。

平岡のけわしいまゆが、少しゆるんだ。

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平岡の険しい眉が少し解けた。

「平岡君。世間から言えば、これは男の面目に関わる大事件だ。だから君が自分の立場を守るために――わざと守ろうと思わなくても、それとなくその気持ちが働いて自然と熱くなるのはしかたがないが――けれども、こんな関係の起こらない学校時代の君に戻って、もう一度僕の言うことをよく聞いてくれないか」

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「平岡君。世間から云えば、これは男子の面目にかかわる大事件だ。だから君が自己の権利を維持するために、――故意に維持しようと思わないでも、暗にその心が働らいて、自然と激して来るのはやむを得ないが、――けれども、こんな関係の起らない学校時代の君になって、もう一遍僕の云う事をよく聞いてくれないか」

平岡は何とも言わなかった。

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平岡は何とも云わなかった。

代助もちょっとひかえていた。

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代助も一寸ちょっと控えていた。

たばこを一つふかしたあとで、思い切って、

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烟草たばこ一吹ひとふき吹いた後で、思い切って、

「君は三千代さんを愛していなかった」

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「君は三千代さんを愛していなかった」

と静かに言った。

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と静かに云った。

「それは」

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「そりゃ」

「それはよけいなことだけれども、僕は言わなければならない。今度のことについて、すべてのかぎはそれだろうと思う」

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「そりゃ余計な事だけれども、僕は云わなければならない。今度の事件に就て凡ての解決者はそれだろうと思う」

「君には責任がないのか」

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「君には責任がないのか」

「僕は三千代さんを愛している」

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「僕は三千代さんを愛している」

「他人の妻を愛する権利が君にあるか」

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ひとさいを愛する権利が君にあるか」

「しかたがない。三千代さんは表向き君のものだ。けれども物ではない人間だから、心まで自分のものにすることは誰にもできない。本人以外にどんなものが出て来たって、愛の増え方や向きを命じるわけには行かない。夫の権利はそこまではとどかない。だから、妻の愛をよそへ移らせないようにするのが、かえって夫のつとめだろう」

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「仕方がない。三千代さんは公然君の所有だ。けれども物件じゃない人間だから、心まで所有する事は誰にも出来ない。本人以外にどんなものが出て来たって、愛情の増減や方向を命令する訳には行かない。夫の権利は其所そこまでは届きやしない。だから細君の愛をほかへ移さない様にするのが、却って夫の義務だろう」

「よし、僕が君の言うとおり三千代を愛していなかったことが本当だとしても」

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「よし僕が君の期待する通り三千代を愛していなかった事が事実だとしても」

と平岡はむりに自分をおさえるように言った。

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と平岡は強いて己を抑える様に云った。

こぶしをにぎっていた。

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こぶしを握っていた。

代助は相手の言葉が終わるのを待った。

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代助は相手の言葉の尽きるのを待った。

「君は三年前のことを覚えているだろう」

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「君は三年ぜんの事を覚えているだろう」

と平岡はまた話を変えた。

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と平岡は又句をえた。

「三年前は、君が三千代さんと結婚したときだ」

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「三年ぜんは君が三千代さんと結婚した時だ」

「そうだ。そのときの記憶が君の頭の中に残っているか」

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「そうだ。その時の記憶が君の頭の中に残っているか」

代助の頭は急に三年前に飛び戻った。

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代助の頭は急に三年前に飛び返った。

あのころの記憶が、やみを回るたいまつのようにかがやいた。

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当時の記憶が、闇をめぐ松明たいまつごとく輝いた。

「三千代を僕にとりもとうと言い出したのは君だ」

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「三千代を僕に周旋しようと云い出したものは君だ」

「もらいたいという気持ちを僕に打ち明けたのは君だ」

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「貰いたいと云う意志を僕に打ち明けたものは君だ」

「それは僕だって忘れやしない。今でも君の親切に感謝している」

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「それは僕だって忘れやしない。今に至るまで君の厚意を感謝している」

平岡はこう言って、しばらく考えこんでいた。

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平岡はこう云って、しばらく冥想めいそうしていた。

「二人で夜、上野をぬけて谷中へ下りるときだった。雨上がりで、谷中の下は道が悪かった。博物館の前から話し続けて、あの橋のところまで来たとき、君は僕のために泣いてくれた」

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「二人で、夜上野を抜けて谷中やなかへ下りる時だった。雨上りで谷中の下は道が悪かった。博物館の前から話しつづけて、あの橋の所まで来た時、君は僕の為に泣いてくれた」

代助は黙っていた。

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代助は黙然としていた。

「僕はそのときほど友達をありがたいと思ったことはない。うれしくて、その晩は少しもねられなかった。月のある晩だったので、月が消えるまで起きていた」

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「僕はその時程朋友ほうゆう難有ありがたいと思った事はない。うれしくってその晩は少しも寐られなかった。月のある晩だったので、月の消えるまで起きていた」

「僕もあのときは楽しかった」

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「僕もあの時は愉快だった」

と代助が夢のように言った。

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と代助が夢の様に云った。

それを平岡は打ち切るいきおいでさえぎった。――

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それを平岡は打ち切る勢でさえぎった。――

「君はなぜ、あのとき僕のために泣いてくれたのだ。なぜ、僕のために三千代をとりもとうとちかったのだ。今日のようなことを引き起こすくらいなら、なぜあのとき、ふんと言ったきり放っておいてくれなかったのだ。僕は君からこれほどきついしかえしをされるほど、君に悪いことをした覚えがないじゃないか」

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「君は何だって、あの時僕の為に泣いてくれたのだ。なんだって、僕の為に三千代を周旋しようとちかったのだ。今日こんにちの様な事を引き起す位なら、何故なぜあの時、ふんと云ったなり放って置いてくれなかったのだ。僕は君からこれ程深刻な復讎かたきを取られる程、君に向って悪い事をした覚がないじゃないか」

平岡は声をふるわせた。

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平岡は声をふるわした。

代助の青いひたいに、汗のつぶがたまった。

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代助のあおい額に汗のたまたまった。

そうして、うったえるように言った。

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そうして訴える如くに云った。

「平岡、僕は君より前から三千代さんを愛していたのだよ」

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「平岡、僕は君より前から三千代さんを愛していたのだよ」

平岡はぼんやりして、代助の苦しみの色をながめた。

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平岡は茫然ぼうぜんとして、代助の苦痛の色を眺めた。

「あのときの僕は、今の僕でなかった。君から話を聞いたとき、僕のこれからをぎせいにしても君の望みをかなえるのが友達のつとめだと思った。それが悪かった。今くらい頭が育っていれば、まだ考えようがあったのだが、おしいことに若かったものだから、あまりに自然を軽く見すぎた。僕はあのときのことを思っては、ひどい後悔におそわれている。自分のためばかりじゃない。実際、君のために後悔している。僕が君に本当にすまないと思うのは、今度のことより、むしろあのとき僕がなまじやりとげた男気だ。君、どうかかんべんしてくれ。僕はこのとおり自然からしかえしをされて、君の前に手をついてあやまっている」

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「その時の僕は、今の僕でなかった。君から話を聞いた時、僕の未来を犠牲にしても、君の望みをかなえるのが、友達の本分だと思った。それが悪かった。今位頭が熟していれば、まだ考え様があったのだが、惜しい事に若かったものだから、余りに自然を軽蔑けいべつし過ぎた。僕はあの時の事を思っては、非常な後悔の念に襲われている。自分の為ばかりじゃない。実際君の為に後悔している。僕が君に対してしんに済まないと思うのは、今度の事件より寧ろあの時僕がなまじいに遣り遂げた義侠心ぎきょうしんだ。君、どうぞ勘弁してくれ。僕はこの通り自然に復讎かたきを取られて、君の前に手を突いてあやまっている」

代助はなみだをひざの上にこぼした。

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代助は涙をひざの上にこぼした。

平岡の眼鏡がくもった。

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平岡の眼鏡が曇った。

「どうも運命だからしかたがない」

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「どうも運命だから仕方がない」

平岡はうめくような声を出した。

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平岡は呻吟うめく様な声を出した。

二人はようやく顔を見合わせた。

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二人は漸く顔を見合せた。

「これからどうするかについて君の考えがあるなら聞こう」

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「善後策に就て君の考があるなら聞こう」

「僕は君の前にあやまっている人間だ。こちらから先にそんなことを言い出す権利はない。君の考えから聞くのが順番だ」

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「僕は君の前に詫まっている人間だ。此方こっちから先へそんな事を云い出す権利はない。君の考えから聞くのが順だ」

と代助が言った。

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と代助が云った。

「僕には何もない」

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「僕には何にもない」

と平岡は頭をおさえていた。

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と平岡は頭を抑えていた。

「では言う。三千代さんをくれないか」

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「では云う。三千代さんをくれないか」

と思い切った調子で言った。

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と思い切った調子に出た。

平岡は頭から手をはなして、ひじを棒のようにテーブルの上に落とした。

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平岡は頭から手を離して、ひじを棒の様に洋卓テーブルの上に倒した。

同時に、

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同時に、

「うん、やろう」

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「うん遣ろう」

と言った。

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と云った。

そうして、代助が返事をしないうちに、またくり返した。

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そうして代助が返事をし得ないうちに、又繰り返した。

「やる。やるが、今はやれない。僕は君の考えるとおり、それほど三千代を愛していなかったかも知れない。けれどもにくんじゃいなかった。三千代は今病気だ。しかも、あまり軽いほうじゃない。ねている病人を君にやるのはいやだ。病気が治るまで君にやれないとすれば、それまでは僕が夫だから、夫として看病する責任がある」

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「遣る。遣るが、今は遣れない。僕は君の推察通りそれ程三千代を愛していなかったかも知れない。けれどもにくんじゃいなかった。三千代は今病気だ。しかも余り軽い方じゃない。寐ている病人を君に遣るのはいやだ。病気がなおるまで君に遣れないとすれば、それまでは僕が夫だから、夫として看護する責任がある」

「僕は君にあやまった。三千代さんも君にあやまっている。君から言えば二人ともけしからんやつにはちがいないが――いくらあやまってもかんべんできないかも知れないが――何しろ病気でねているんだから」

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「僕は君に詫った。三千代さんも君に詫まっている。君から云えば二人とも、不埒ふらちな奴には相違ないが、――幾何いくら詫まっても勘弁出来んかも知れないが、――何しろ病気をして寐ているんだから」

「それはわかっている。本人の病気につけこんで、僕がうらみ晴らしにひどいことをするとでも思ってるんだろうが、僕だって、まさか」

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「それは分っている。本人の病気に付け込んで僕が意趣晴らしに、虐待ぎゃくたいするとでも思ってるんだろうが、僕だって、まさか」

代助は平岡の言葉を信じた。

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代助は平岡の言葉を信じた。

そうして、腹の中で平岡に感謝した。

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そうして腹の中で平岡に感謝した。

平岡は次にこう言った。

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平岡は次にこう云った。

「僕は今日のことがある以上は、世間から見た夫の立場として、もう君とつきあうわけには行かない。今日かぎり縁を切るから、そう思ってくれたまえ」

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「僕は今日の事がある以上は、世間的の夫の立場からして、もう君と交際する訳には行かない。今日限り絶交するからそう思ってくれたまえ」

「しかたがない」

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「仕方がない」

と代助は頭を下げた。

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と代助は首を垂れた。

「三千代の病気は今言うとおり軽いほうじゃない。この先どんな変化があるかわからない。君も心配だろう。しかし縁を切った以上はしかたがない。僕がいるいないにかかわらず、家に出入りすることだけはえんりょしてもらいたい」

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「三千代の病気は今云う通り軽い方じゃない。この先どんな変化がないとも限らない。君も心配だろう。然し絶交した以上はやむを得ない。僕の在不在に係わらず、うち出入ではいりする事だけは遠慮して貰いたい」

「わかった」

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「承知した」

と代助はよろめくように言った。

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と代助はよろめく様に云った。

そのほおはますます青かった。

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その頬はますます蒼かった。

平岡は立ち上がった。

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平岡は立ち上がった。

「君、もう五分ばかりすわってくれ」

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「君、もう五分ばかり坐ってくれ」

と代助が頼んだ。

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と代助が頼んだ。

平岡は席についたまま何も言わなかった。

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平岡は席に着いたまま無言でいた。

「三千代さんの病気は、急にあぶなくなるおそれでもありそうなのかい」

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「三千代さんの病気は、急に危険なおそれでもありそうなのかい」

「さあ」

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「さあ」

「それだけ教えてくれないか」

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「それだけ教えてくれないか」

「まあ、そう心配しなくてもいいだろう」

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「まあ、そう心配しないでもいだろう」

平岡は暗い調子で、地面に息をはくように答えた。

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平岡は暗い調子で、地に息を吐く様に答えた。

代助はたえられない思いがした。

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代助は堪えられない思いがした。

「もしだね。もし万一のことがありそうだったら、その前にたった一度だけでいいから会わせてくれないか。ほかには決して何も頼まない。ただそれだけだ。それだけをどうか承知してくれたまえ」

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「もしだね。もし万一の事がありそうだったら、その前にたった一遍だけで可いから、わしてくれないか。外には決して何も頼まない。ただそれだけだ。それだけをどうか承知してくれたまえ」

平岡は口を結んだまま、なかなか返事をしなかった。

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平岡は口を結んだなり、容易に返事をしなかった。

代助は苦しさのやり場がなくて、両手のひらを、あかがよれるほどもんだ。

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代助は苦痛の遣り所がなくて、両手のたなごころを、あかれる程んだ。

「それはまあ、そのときの様子しだいにしよう」

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「それはまあその時の場合にしよう」

と平岡が重そうに答えた。

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と平岡が重そうに答えた。

「じゃ、ときどき病人のようすを聞きに使いをやってもいいかね」

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「じゃ、時々病人の様子を聞きに遣ってもいかね」

「それは困るよ。君と僕とは何の関係もないんだから。僕はこれから先、君とやりとりがあるとすれば、三千代を引きわたすときだけだと思ってるんだから」

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「それは困るよ。君と僕とは何にも関係がないんだから。僕はこれから先、君と交渉があれば、三千代を引き渡す時だけだと思ってるんだから」

代助は電気にふれたように、いすの上で飛び上がった。

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代助は電流に感じた如く椅子いすの上で飛び上がった。

「ああ。わかった。三千代さんのなきがらだけを僕に見せるつもりなんだ。それはひどい。それはむごい」

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「あっ。わかった。三千代さんの死骸しがいだけを僕に見せる積りなんだ。それはひどい。それは残酷だ」

代助はテーブルのふちを回って、平岡に近づいた。

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代助は洋卓テーブルふちを回って、平岡に近づいた。

右の手で平岡の背広の肩をおさえて、前後にゆすりながら、

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右の手で平岡の脊広せびろの肩を抑えて、前後にりながら、

「ひどい、ひどい」

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「苛い、苛い」

と言った。

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と云った。

平岡は代助の目の中に、狂ったおそろしい光を見つけた。

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平岡は代助の眼のうちに狂える恐ろしい光を見出みいだした。

肩をゆすられながら立ち上がった。

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肩を揺られながら、立ち上がった。

「そんなことがあるものか」

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「そんな事があるものか」

と言って、代助の手をおさえた。

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と云って代助の手を抑えた。

二人は何かにとりつかれたような顔をして、おたがいを見た。

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二人は魔にかれた様な顔をして互を見た。

「落ち着かなくちゃいけない」

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「落ち付かなくっちゃ不可いけない」

と平岡が言った。

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と平岡が云った。

「落ち着いている」

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「落ち付いている」

と代助が答えた。

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と代助が答えた。

けれども、その言葉はあえぐ息の間から苦しそうにもれて出た。

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けれどもその言葉はあえぐ息の間を苦しそうにれて出た。

しばらくして、はげしさのはね返りが来た。

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しばらくして発作の反動が来た。

代助は自分をささえる力を使いはたした人のように、またいすに腰を下ろした。

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代助は己れを支うる力を用い尽した人の様に、又椅子に腰を卸した。

そうして、両手で顔をおさえた。

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そうして両手で顔を抑えた。

十七

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十七

代助は夜の十時過ぎになって、こっそり家を出た。

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代助は夜の十時過になって、こっそり家を出た。

「今からどちらへ」

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「今から何方どちらへ」

と驚いた門野に、

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と驚ろいた門野に、

「何、ちょっと」

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「何一寸」

とあいまいに答えて、寺町の通りまで来た。

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曖昧あいまいな答をして、寺町の通りまで来た。

暑いころのことなので、町はまだ宵の口であった。

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暑い時分の事なので、町はまだ宵の口であった。

ゆかたを着た人が何人も、代助の前や後ろを通った。

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浴衣ゆかたを着た人が幾人となく代助の前後を通った。

代助には、それがただ動くものとしか見えなかった。

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代助にはそれがただ動くものとしか見えなかった。

左右の店は、どれも明るかった。

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左右の店はことごとく明るかった。

代助はまぶしそうに、電灯の少ない横町へ曲がった。

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代助はまぼしそうに、電気燈の少ない横町へ曲った。

江戸川のふちへ出たとき、暗い風がかすかにふいた。

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江戸川のふちへ出た時、暗い風がかすかに吹いた。

黒い桜の葉が少し動いた。

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黒い桜の葉が少し動いた。

橋の上に立って、手すりから下を見下ろしている者が二人あった。

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橋の上に立って、欄干から下を見下していたものが二人あった。

金剛寺坂でも、誰にも会わなかった。

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金剛寺坂でも誰にも逢わなかった。

岩崎家の高い石垣が、左右から細い坂道をふさいでいた。

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岩崎家の高い石垣が左右から細い坂道をふさいでいた。

平岡の住んでいる町は、さらに静かであった。

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平岡の住んでいる町は、なお静かであった。

たいていの家は、明かりをもらしていなかった。

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大抵な家は灯影ひかげを洩らさなかった。

向こうから来た一台のからの車の輪の音が、胸をどきどきさせるようにひびいた。

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向うから来た一台の空車からぐるまの輪の音が胸を躍らす様に響いた。

代助は平岡の家のへいのそばまで来て止まった。

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代助は平岡の家の塀際へいぎわまで来て留った。

身を寄せて中をうかがうと、中は暗かった。

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身を寄せて中をうかがうと、中は暗かった。

閉め切った門の上に、のきの明かりがむなしく表札を照らしていた。

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立て切った門の上に、軒燈がむなしく標札を照らしていた。

のきの明かりのガラスに、やもりのかげがななめにうつった。

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軒燈の硝子ガラス守宮やもりの影が斜めに映った。

代助は今朝もここへ来た。

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代助は今朝も此所ここへ来た。

昼からもこの町をうろついた。

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ひるからも町内を彷徨うろついた。

下女が買い物にでも出るところをつかまえて、三千代の具合を聞こうかと思った。

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下女が買物にでも出る所をつらまえて、三千代の容体を聞こうかと思った。

しかし下女は、とうとう出て来なかった。

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然し下女は遂に出て来なかった。

平岡のすがたも見えなかった。

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平岡の影も見えなかった。

へいのそばに寄って耳をすましても、それらしい人の声は聞こえなかった。

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塀のそばに寄って耳を澄ましても、それらしい人声は聞えなかった。

医者をつきとめてくわしいようすを聞こうと思ったが、医者らしい車は平岡の家の前には止まらなかった。

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医者を突き留めて、詳しい様子を探ろうと思ったが、医者らしい車は平岡の門前には留らなかった。

そのうち、強い日に照りつけられた頭が、海のように動き始めた。

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そのうち、強い日に射付けられた頭が、海の様に動き始めた。

立ち止まっていると、たおれそうになった。

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立ち留まっていると、倒れそうになった。

歩き出すと、地面が大きな波の輪をえがいた。

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歩き出すと、大地が大きな波紋を描いた。

代助は苦しさをこらえて、はうように家へ帰った。

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代助は苦しさを忍んでう様に家へ帰った。

夕食も食べずに、たおれたまま動かずにいた。

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夕食ゆうめしも食わずに倒れたなり動かずにいた。

そのとき、おそろしい日はようやく落ちて、夜がだんだん星の色をこくした。

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その時恐るべき日はようやく落ちて、が次第に星の色を濃くした。

代助は暗さとすずしさの中で、初めて生き返った。

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代助は暗さと涼しさのうちに始めて蘇生よみがえった。

そうして頭をつゆに当てながら、また三千代のいるところまでやって来たのである。

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そうして頭を露に打たせながら、又三千代のいる所までって来たのである。

代助は三千代の家の前を、二、三度行ったり来たりした。

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代助は三千代の門前を二三度行ったり来たりした。

のきの明かりの下へ来るたびに立ち止まって、耳をすました。

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軒燈の下へ来るたびに立ち留まって、耳を澄ました。

五分から十分はじっとしていた。

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五分乃至ないし十分はじっとしていた。

しかし、家の中のようすはまるでわからなかった。

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しかし家の中の様子はまるで分らなかった。

すべてが、ひっそりとしていた。

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すべてがしんとしていた。

代助がのきの明かりの下へ来て立ち止まるたびに、やもりがのきの明かりのガラスにぴたりと体をはりつけていた。

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代助が軒燈の下へ来て立ち留まるたびに、守宮が軒燈の硝子にぴたりと身体からだり付けていた。

黒いかげはななめにうつったまま、いつまでも動かなかった。

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黒い影ははすに映ったまま何時いつでも動かなかった。

代助はやもりに気がつくたびに、いやな気持ちがした。

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代助は守宮に気が付くごといやな心持がした。

その動かない姿が、みょうに気にかかった。

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その動かない姿が妙に気に掛った。

彼の心は、するどすぎるあまり、わけのわからない思いこみにおちいった。

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彼の精神は鋭さの余りから来る迷信に陥った。

三千代はあぶないと思いこんだ。

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三千代は危険だと想像した。

三千代は今苦しんでいると思いこんだ。

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三千代は今苦しみつつあると想像した。

三千代は今死にかけていると思いこんだ。

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三千代は今死につつあると想像した。

三千代は死ぬ前にもう一度自分に会いたくて、死にきれずに息をつないで生きていると思いこんだ。

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三千代は死ぬ前に、もう一遍自分に逢いたがって、死に切れずに息をぬすんで生きていると想像した。

代助はこぶしをにぎって、こわれるほど平岡の門をたたかずにはいられなくなった。

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代助は拳を固めて、割れる程平岡の門をたたかずにはいられなくなった。

たちまち、自分は平岡のものに指さえふれる権利がない人間だということに気がついた。

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たちまち自分は平岡のものに指さえ触れる権利がない人間だと云う事に気が付いた。

代助はおそろしさのあまり駆け出した。

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代助は恐ろしさの余りけ出した。

静かな小道の中に、自分の足音だけが高くひびいた。

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静かな小路こうじの中に、自分の足音だけが高く響いた。

代助は駆けながら、さらにこわくなった。

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代助は馳けながら猶恐ろしくなった。

足をゆるめたときは、とても息が苦しくなった。

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足をゆるめた時は、非常に呼息いきが苦しくなった。

道ばたに石段があった。

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道端に石段があった。

代助は半分夢中でそこに腰を掛けたまま、ひたいを手でおさえてかたくなった。

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代助は半ば夢中で其所へ腰を掛けたなり、額を手で抑えて、固くなった。

しばらくして、閉じた目を開けてみると、大きな黒い門があった。

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しばらくして、さいだ眼を開けて見ると、大きな黒い門があった。

門の上から、太い松が生けがきの外まで枝をのばしていた。

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門の上から太い松が生垣の外まで枝を張っていた。

代助は寺の入り口で休んでいた。

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代助は寺の這入はいり口に休んでいた。

彼は立ち上がった。

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彼は立ち上がった。

ぼんやりして、また歩き出した。

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惘然もうぜんとして又歩き出した。

少し来て、また平岡の小道へ入った。

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少し来て、再び平岡の小路へ這入った。

夢のようにのきの明かりの前で立ち止まった。

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夢の様に軒燈の前で立留まった。

やもりは、まだ同じところにうつっていた。

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守宮はまだ一つ所に映っていた。

代助は深いため息をついて、とうとう小石川を南側へ下りた。

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代助は深い溜息ためいきを洩らして遂に小石川を南側へ降りた。

その晩は火のように熱くて赤いつむじ風の中で、頭がいつまでも回り続けた。

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その晩は火の様に、熱くて赤い旋風つむじの中に、頭が永久に回転した。

代助は死にもの狂いで、つむじ風の中から逃げ出そうともがいた。

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代助は死力を尽して、旋風の中から逃れ出ようと争った。

けれども、彼の頭は少しも彼の言うことを聞かなかった。

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けれども彼の頭はごうも彼の命令に応じなかった。

木の葉のように、ためらうようすもなく、くるりくるりと炎の風に巻かれて行った。

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木の葉のごとく、遅疑する様子もなく、くるりくるりとほのおの風に巻かれて行った。

次の日はまた焼けつくように日が高く出た。

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翌日あくるひは又け付く様に日が高く出た。

外ははげしい光で、一面にいらいらし始めた。

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外は猛烈な光で一面にいらいらし始めた。

代助はがまんして、八時過ぎにようやく起きた。

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代助は我慢して八時過に漸く起きた。

起きるとすぐ、目がぐらついた。

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起きるやいなや眼がぐらついた。

いつものように水をあびて、書斎へ入ってじっと固まっていた。

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平生の如く水を浴びて、書斎へ這入ってじっすくんだ。

そこへ門野が来て、お客さまですと知らせたまま、入り口に立って驚いたように代助を見た。

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所へ門野が来て、御客さまですと知らせたなり、入口に立って、驚ろいた様に代助を見た。

代助は返事をするのも面倒であった。

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代助は返事をするのも退儀であった。

お客は誰だと聞き返しもせずに、手でささえたままの顔を半分ほど門野のほうへ向けた。

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客は誰だと聞き返しもせずに手で支えたままの顔を、半分ばかり門野の方へ向きえた。

そのとき、お客の足音が縁側でして、案内も待たずに兄の誠吾が入って来た。

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その時客の足音が縁側にして、案内も待たずに兄の誠吾が這入って来た。

「やあ、こちらへ」

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「やあ、此方こっちへ」

と席をすすめるのが、代助にはやっとであった。

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と席を勧めたのが代助にはようようであった。

誠吾は席につくとすぐ、せんすを出して、上等な麻の着物のえりを開くように風を送った。

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誠吾は席に着くや否や、扇子を出して、上布じょうふの襟を開く様に、風を送った。

この暑さにあぶらが焼けて苦しいと見えて、あらい息をした。

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この暑さに脂肪が焼けて苦しいと見えて、荒い息遣をした。

「暑いな」

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「暑いな」

と言った。

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と云った。

「お宅でもとくにお変わりもありませんか」

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「御宅でも別に御変りもありませんか」

と代助は、いかにもつかれ果てた人のようにたずねた。

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と代助は、さも疲れ果てた人の如くに尋ねた。

二人はしばらく、いつものとおり世間話をした。

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二人は少時しばらく例の通りの世間話をした。

代助の調子と態度は、もちろんふつうではなかった。

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代助の調子態度はもとより尋常ではなかった。

けれども兄は、決してどうしたとも聞かなかった。

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けれども兄は決してどうしたとも聞かなかった。

話の切れ目に来たとき、

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話の切れ目へ来た時、

「今日はじつは」

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「今日は実は」

と言いながら、ふところへ手を入れて一通の手紙を取り出した。

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と云いながら、ふところへ手を入れて、一通の手紙を取り出した。

「じつはおまえに少し聞きたいことがあって来たんだがね」

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「実は御前に少し聞きたい事があって来たんだがね」

とふうとうのうらを代助のほうへ向けて、

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と封筒の裏を代助の方へ向けて、

「この男を知ってるかい」

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「この男を知ってるかい」

と聞いた。

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と聞いた。

そこには平岡の住所と名前が本人の字で書いてあった。

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其所そこには平岡の宿所姓名が自筆で書いてあった。

「知ってます」

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「知ってます」

と代助はほとんど機械のように答えた。

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と代助はほとんど器械的に答えた。

「もと、おまえの同級生だって言うが、本当か」

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「元、御前の同級生だって云うが、本当か」

「そうです」

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「そうです」

「この男の奥さんも知ってるのかい」

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「この男の細君も知ってるのかい」

「知っています」

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「知っています」

兄はまたせんすを取り上げて、二、三度ぱちぱちと鳴らした。

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兄は又扇を取り上げて、二三度ぱちぱちと鳴らした。

それから、少し前へ乗り出すように、声を一段落とした。

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それから、少し前へ乗り出す様に、声を一段落した。

「この男の奥さんとおまえが、何か関係があるのかい」

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「この男の細君と、御前が何か関係があるのかい」

代助は初めから、すべてをかくす気はなかった。

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代助は始めから万事を隠す気はなかった。

けれども、こう短く聞かれたときに、どうしてこのこみいった話を一言で答えられるだろうと思うと、返事はなかなか口に出なかった。

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けれどもこう単簡たんかんに聞かれたときに、どうしてこの複雑な経過を、一言いちげんで答え得るだろうと思うと、返事は容易に口へは出なかった。

兄はふうとうの中から手紙を取り出した。

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兄は封筒の中から、手紙を取り出した。

それを十数センチばかり巻き戻して、

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それを四五寸ばかりき返して、

「じつは平岡という人が、こういう手紙をお父さんのところへあててよこしたんだがね。――読んでみるか」

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「実は平岡と云う人が、こう云う手紙を御父さんの所へあてて寄こしたんだがね。――読んでみるか」

と言って、代助にわたした。

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と云って、代助に渡した。

代助は黙って手紙を受け取って、読み始めた。

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代助は黙って手紙を受取って、読み始めた。

兄はじっと代助のひたいのあたりを見つめていた。

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兄は凝と代助の額の所を見詰めていた。

手紙は細かい字で書いてあった。

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手紙は細かい字で書いてあった。

一行二行と読むうちに、読み終わった分が代助の手先から長くたれた。

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一行二行と読むうちに、読み終った分が、代助の手先から長く垂れた。

それが七十センチあまりになっても、まだ終わる気配はなかった。

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それが二尺あまりになっても、まだ尽きる気色はなかった。

代助の目はちらちらした。

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代助の眼はちらちらした。

頭が鉄のように重かった。

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頭が鉄の様に重かった。

代助は、むりにでも最後まで読み通さなければならないと考えた。

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代助は強いても仕舞まで読み通さなければならないと考えた。

体じゅうが言いようのない重さにおされて、わきの下から汗が流れた。

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総身そうしんが名状しがたい圧迫を受けて、わきの下から汗が流れた。

ようやく終わりまで来たときは、手に持った手紙を巻き戻す力もなかった。

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漸く結末へ来た時は、手に持った手紙を巻き納める勇気もなかった。

手紙は広げられたまま、テーブルの上に横たわった。

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手紙は広げられたまま洋卓テーブルの上に横わった。

「そこに書いてあることは本当なのかい」

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其所そこに書いてある事は本当なのかい」

と兄が低い声で聞いた。

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と兄が低い声で聞いた。

代助はただ、

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代助はただ、

「本当です」

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「本当です」

と答えた。

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と答えた。

兄は打ちのめされた人のように、ちょっとせんすの音を止めた。

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兄は打衝ショックを受けた人の様に一寸扇の音をとどめた。

しばらくは、二人とも口をきけなかった。

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しばらくは二人とも口を聞き得なかった。

しばらくして兄が、

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ややあって兄が、

「まあ、どういうつもりでそんな馬鹿なことをしたのだ」

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「まあ、どう云う了見で、そんな馬鹿な事をしたのだ」

とあきれた調子で言った。

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あきれた調子で云った。

代助はやはり、口を開かなかった。

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代助は依然として、口を開かなかった。

「どんな女だって、もらおうと思えばいくらでももらえるじゃないか」

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「どんな女だって、もらおうと思えば、いくらでも貰えるじゃないか」

と兄がまた言った。

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と兄がまた云った。

代助はそれでも、まだ黙っていた。

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代助はそれでも猶黙っていた。

三度目に、兄がこう言った。――

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三度目に兄がこう云った。――

「おまえだって、まるで遊んだことのない人間でもあるまい。こんな不始末をしでかすくらいなら、今までせっかく金を使ったかいがないじゃないか」

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「御前だって満更道楽をした事のない人間でもあるまい。こんな不始末を仕出かす位なら、今まで折角金を使った甲斐かいがないじゃないか」

代助は今さら兄に向かって、自分の立場を説明する気力もなかった。

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代助は今更兄に向って、自分の立場を説明する勇気もなかった。

彼はついこの間まで、まったく兄と同じ考えだったのである。

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彼はついこの間まで全く兄と同意見であったのである。

「姉さんは泣いているぜ」

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「姉さんは泣いているぜ」

と兄が言った。

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と兄が云った。

「そうですか」

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「そうですか」

と代助は夢のように答えた。

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と代助は夢の様に答えた。

「お父さんはおこっている」

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「御父さんは怒っている」

代助は答えなかった。

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代助は答をしなかった。

ただ遠くを見る目をして、兄をながめていた。

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ただ遠い所を見る眼をして、兄を眺めていた。

「おまえはふだんからよくわからない男だった。それでも、いつかわかるときが来るだろうと思って今日までつきあっていた。しかし今度という今度は、まったくわからない人間だとおれもあきらめてしまった。世の中にわからない人間ほどあぶないものはない。何をするんだか、何を考えているんだか、安心ができない。おまえはそれが自分の勝手だからいいだろうが、お父さんやおれの世間での立場を思ってみろ。おまえだって、家の名誉という考えは持っているだろう」

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「御前は平生からく分らない男だった。それでも、いつか分る時機が来るだろうと思って今日まで交際つきあっていた。然し今度こんだと云う今度は、全く分らない人間だと、おれもあきらめてしまった。世の中に分らない人間程危険なものはない。何をるんだか、何を考えているんだか安心が出来ない。御前はそれが自分の勝手だからかろうが、御父さんやおれの、社会上の地位を思ってみろ。御前だって家族の名誉と云う観念はっているだろう」

兄の言葉は、代助の耳をかすめて外へこぼれた。

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兄の言葉は、代助の耳をかすめて外へこぼれた。

彼はただ、全身に苦しみを感じた。

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彼はただ全身に苦痛を感じた。

けれども、兄の前で自分をせめてゆれ動くほどではなかった。

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けれども兄の前に良心の鞭撻べんたつこうむる程動揺してはいなかった。

すべてを都合よく言いわけして、世間なみの兄から今さら同情をもらおうという芝居っけは、もちろん起こらなかった。

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凡てを都合よく弁解して、世間的の兄から、今更同情を得ようと云う芝居気はもとより起らなかった。

彼は頭の中に、自分にとって正しい道を歩んだという自信があった。

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彼は彼の頭のうちに、彼自身に正当な道を歩んだという自信があった。

彼はそれで満足であった。

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彼はそれで満足であった。

その満足をわかってくれるのは、三千代だけであった。

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その満足を理解してくれるものは三千代だけであった。

三千代のほかには、父も兄も世の中も人間も、すべて敵であった。

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三千代以外には、父も兄も社会も人間もことごとく敵であった。

彼らは赤々と燃える炎の中に、二人をつつんで焼き殺そうとしている。

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彼等は赫々かくかくたる炎火のうちに、二人を包んで焼き殺そうとしている。

代助は黙って三千代とだき合って、この炎の風に早く自分を焼きつくされることを、この上ない望みとした。

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代助は無言のまま、三千代と抱き合って、このほのおの風に早く己れを焼き尽すのを、この上もない本望とした。

彼は兄には何も答えなかった。

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彼は兄には何の答もしなかった。

重い頭をささえて、石のように動かなかった。

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重い頭を支えて石の様に動かなかった。

「代助」

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「代助」

と兄が呼んだ。

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と兄が呼んだ。

「今日はおれはお父さんの使いに来たのだ。おまえはこの間から家へ寄りつかないようになっている。ふだんならお父さんが呼びつけて問いただすところだけれども、今日は顔を見るのがいやだから、こちらから行って本当かどうか確かめて来いというわけで来たのだ。それで――もし本人に言いわけがあるなら言いわけを聞くし。また言いわけも何もない、平岡の言うことが一つ一つ本当なら――お父さんはこう言われるのだ。――もう一生代助には会わない。どこへ行って何をしようと本人の勝手だ。そのかわり、これから先は子としてもあつかわない。また親とも思ってくれるな。――もっともなことだ。そこで今おまえの話を聞いてみると、平岡の手紙にはうそは一つも書いてないんだからしかたがない。その上おまえは、このことについて後悔もしなければあやまりもしないように見える。それじゃおれだって、帰ってお父さんにとりなしようがない。お父さんに言われたとおりをそのままおまえに伝えて帰るだけのことだ。いいか。お父さんの言われることはわかったか」

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「今日はおれは御父さんの使に来たのだ。御前はこの間から家へ寄り付かない様になっている。平生へいぜいなら御父さんが呼び付けて聞きただす所だけれども、今日は顔を見るのがいやだから、此方こっちから行って実否を確めて来いと云う訳で来たのだ。それで――もし本人に弁解があるなら弁解を聞くし。又弁解も何もない、平岡の云う所が一々根拠のある事実なら、――御父さんはこう云われるのだ。――もう生涯代助には逢わない。何処どこへ行って、何をしようと当人の勝手だ。その代り、以来子としても取り扱わない。又親とも思ってくれるな。――もっともの事だ。そこで今御前の話を聞いてみると、平岡の手紙にはうそは一つも書いてないんだから仕方がない。その上御前は、この事に就て後悔もしなければ、謝罪もしない様に見受けられる。それじゃ、おれだって、帰って御父さんに取り成し様がない。御父さんから云われた通りをそのまま御前に伝えて帰るだけの事だ。好いか。御父さんの云われる事は分ったか」

「よくわかりました」

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「よく分りました」

と代助は短く答えた。

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と代助は簡明に答えた。

「おまえは馬鹿だ」

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「貴様は馬鹿だ」

と兄が大きな声を出した。

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と兄が大きな声を出した。

代助は下を向いたまま、顔を上げなかった。

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代助は俯向うつむいたまま顔を上げなかった。

「ぐずだ」

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「愚図だ」

と兄がまた言った。

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と兄が又云った。

「ふだんは人なみ以上に口が減らないくせに、いざというときにはまるで口のきけない者のように黙っている。そうして、かげで親の名誉に関わるようないたずらをしている。今日まで何のために教育を受けたのだ」

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「不断は人並以上に減らず口をたたく癖に、いざと云う場合には、まるで唖の様に黙っている。そうして、陰で親の名誉にかかわる様な悪戯いたずらをしている。今日こんにちまで何の為に教育を受けたのだ」

兄はテーブルの上の手紙を取って、自分で巻き始めた。

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兄は洋卓テーブルの上の手紙を取って自分で巻き始めた。

静かな部屋の中に、紙の音がかさかさ鳴った。

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静かな部屋の中に、半切はんきれの音がかさかさ鳴った。

兄はそれを元のようにふうとうに入れて、ふところにしまった。

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兄はそれを元の如くに封筒に納めて懐中した。

「じゃ帰るよ」

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「じゃ帰るよ」

と今度はふつうの調子で言った。

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と今度は普通の調子で云った。

代助はていねいにあいさつをした。

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代助は叮嚀ていねい挨拶あいさつをした。

兄は、

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兄は、

「おれももう会わんから」

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「おれも、もう逢わんから」

と言い残して玄関に出た。

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と云い捨てて玄関に出た。

兄が去ったあと、代助はしばらく元のままじっと動かずにいた。

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兄の去った後、代助はしばらく元のままじっと動かずにいた。

門野がお茶の道具を片づけに来たとき、急に立ち上がって、

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門野が茶器を取り片付けに来た時、急に立ち上がって、

「門野さん。僕はちょっと仕事をさがして来る」

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「門野さん。僕は一寸ちょっと職業を探して来る」

と言うとすぐ、鳥打ちぼうしをかぶって、かさもささずに日ざかりの外へ飛び出した。

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と云うや否や、鳥打帽をかぶって、傘もさずに日盛りの表へ飛び出した。

代助は暑い中を、駆け出さんばかりの急ぎ足で歩いた。

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代助は暑い中を馳けないばかりに、急ぎ足に歩いた。

日は代助の頭の上から、まっすぐに照りつけた。

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日は代助の頭の上から真直に射下いおろした。

かわいたほこりが、火の粉のように彼のはだしの足をつつんだ。

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乾いたほこりが、火の粉の様に彼の素足を包んだ。

彼はじりじりとあせる気持ちがした。

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彼はじりじりとこげる心持がした。

「あせる、あせる」

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「焦る焦る」

と歩きながら口の中で言った。

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と歩きながら口の内で云った。

飯田橋へ来て電車に乗った。

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飯田橋へ来て電車に乗った。

電車はまっすぐに走り出した。

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電車は真直に走り出した。

代助は車の中で、

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代助は車のなかで、

「ああ動く。世の中が動く」

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「ああ動く。世の中が動く」

と、そばの人に聞こえるように言った。

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はたの人に聞える様に云った。

彼の頭は、電車の速さで回り出した。

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彼の頭は電車の速力を以て回転し出した。

回るにつれて、火のようにあぶられて来た。

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回転するに従って火の様にほてって来た。

これで半日乗り続けたら焼きつくすことができるだろうと思った。

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これで半日乗り続けたら焼き尽す事が出来るだろうと思った。

たちまち、赤い郵便ポストが目についた。

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たちまち赤い郵便筒ゆうびんづつが眼に付いた。

すると、その赤い色がたちまち代助の頭の中に飛びこんで、くるくると回り始めた。

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するとその赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くるくると回転し始めた。

かさ屋の看板に、赤いかさを四つ重ねて高くつるしてあった。

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傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘こうもりがさを四つ重ねて高く釣るしてあった。

かさの色が、また代助の頭に飛びこんで、くるくるとうずを巻いた。

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傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くるくると渦を捲いた。

四つ角に、大きいまっ赤な風船を売っている者があった。

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四つ角に、大きい真赤な風船玉を売ってるものがあった。

電車が急に角を曲がるとき、風船は追いかけて来て、代助の頭に飛びついた。

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電車が急に角を曲るとき、風船玉は追懸おっかけて来て、代助の頭に飛び付いた。

小包を積んだ赤い車がはっと電車とすれちがうとき、また代助の頭の中に吸いこまれた。

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小包郵便を載せた赤い車がはっと電車とれ違うとき、又代助の頭の中に吸い込まれた。

たばこ屋ののれんが赤かった。

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烟草屋たばこや暖簾のれんが赤かった。

売り出しの旗も赤かった。

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売出しの旗も赤かった。

電柱が赤かった。

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電柱が赤かった。

赤いペンキの看板が、次から次へと続いた。

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赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。

しまいには、世の中がまっ赤になった。

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仕舞には世の中が真赤になった。

そうして、代助の頭を真ん中にしてくるりくるりと炎の息をふいて回った。

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そうして、代助の頭を中心としてくるりくるりとほのおの息を吹いて回転した。

代助は自分の頭が焼けつきるまで電車に乗って行こうと決心した。

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代助は自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗ってこうと決心した。