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銀の匙 小学生向け

中勘助なかかんすけ)・1989

AI生成この訳はAI(claude-sonnet-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-29

前篇

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前篇

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私の書斎には、いろいろながらくたを入れた本箱がある。その引き出し(ひきだし)に、昔からひとつの小さな箱がしまってある。

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私の書斎のいろいろながらくた物などいれた本箱の抽匣ひきだしに昔からひとつの小箱がしまつてある。

その箱はコルクのような木でできていて、板のつなぎ目ごとに牡丹の花の模様の紙が貼ってある。もとは外国から来た粉たばこか何かが入っていた箱らしい。

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それはコルク質の木で、板の合せめごとに牡丹の花の模様のついた絵紙をはつてあるが、もとは舶来の粉煙草でもはひつてたものらしい。

特に美しいというわけではないが、木の色がくすんでいて手触りがやわらかいことや、ふたをするとき「ぱん」とやわらかい音がすることなどから、今でも私のお気に入りのひとつになっている。

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なにもとりたてて美しいのではないけれど、木の色合がくすんで手触りの柔いこと、蓋をするとき ぱん とふつくらした音のすることなどのために今でもお気にいりの物のひとつになつてゐる。

中には子安貝や椿の実、小さいころのおもちゃだった細かい物がいっぱい詰めてある。そのうちのひとつ、珍しい形の銀の小さじがあることを、私は今まで忘れたことがない。

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なかには子安貝や、椿の実や、小さいときのもてあそびであつたこまこました物がいつぱいつめてあるが、そのうちにひとつ珍しい形の銀の小匙のあることをかつて忘れたことはない。

それは直径五分(約一・五センチ)くらいのお皿のような形の頭に、少し反った短い柄がついている。厚みがあるので、柄の端を指でつまんでみると、ちょっと重い感じがする。

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それはさしわたし五分ぐらゐの皿形の頭にわづかにそりをうつた短い柄がついてるので、あつにできてるために柄の端を指でもつてみるとちよいと重いといふ感じがする。

私はときどき小箱の中からそれを取り出し、ていねいに曇りをふいて、あきずに眺めることがある。

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私はをりをり小箱のなかからそれをとりだし丁寧に曇りを拭つてあかず眺めてることがある。

私がふとこの小さなさじを見つけたのは、今から思えばずいぶん昔のことだった。

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私がふとこの小さな匙をみつけたのは今からみればよほど旧い日のことであつた。

家にはもともとひとつの茶だんすがあった。

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家にもとからひとつの茶箪笥がある。

私は、つま先立ちしてやっと手が届くころから、その戸棚を開けたり引き出しを抜き出したりして、それぞれの手ごたえやきしむ音がちがうのをおもしろがっていた。

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私は爪立つてやつと手のとどくじぶんからその戸棚をあけたり、抽匣をぬきだしたりして、それぞれの手ごたへや軋る音のちがふのを面白がつてゐた。

そこにべっこうの取っ手のついた小さな引き出しがふたつ並んでいた。片方は具合が悪くて、子どもの力ではなかなか開けられなかった。それがかえって私の好奇心を強くして、ある日さんざん苦労して、とうとう無理やりに引き出してしまった。

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そこに鼈甲の引手のついた小抽匣がふたつ並んでるうち、かたつぽは具合が悪くて子供の力ではなかなかあけられなかつたが、それがますます好奇心をうごかして、ある日のことさんざ骨を折つてたうとう無理やりにひきだしてしまつた。

そこで胸をどきどきさせながら畳の上にぶちまけてみたら、風鎮(ふうちん・掛け軸のおもり)や印籠(いんろう・薬などを入れる小さな入れ物)の根付といっしょに、その銀のさじを見つけた。わけもなくほしくなって、すぐに母のところへ持っていって

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そこで胸を躍らせながら畳のうへへぶちまけてみたら風鎮ふうちんだの印籠いんろうの根付だのといつしよにその銀の匙をみつけたので、訳もなくほしくなりすぐさま母のところへ持つていつて

「これをください」

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「これをください」

といった。

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といつた。

眼鏡をかけて茶の間で仕事をしていた母は、ちょっと意外そうな顔をしたが

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眼鏡をかけて茶の間に仕事をしてた母はちよいと思ひがけない様子をしたが

「大事にとっておおきなさい」

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「大事にとつておおきなさい」

と、いつになくすぐに許してくれたので、うれしくもあり、少し拍子抜けした気もした。

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といつになくぢきに許しがでたので、嬉しくもあり、いささか張合ぬけのきみでもあつた。

その引き出しは、家が神田からこの山の手へ引っ越してくるときに壊れて開かなくなったままになっていた。いわれのある銀のさじも、いつのまにか母にさえ忘れられていたのだ。

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その抽匣は家が神田からこの山の手へ越してくるときに壊れてあかなくなつたままになり、由緒のある銀の匙もいつか母にさへ忘れられてたのである。

母は針を動かしながら、そのさじのいわれを語ってくれた。

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母は針をはこびながらその由来を語つてくれた。

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私が生まれるとき、母はとりわけひどい難産だった。そのころ評判の良い産婆さんにも見放されて、東桂さん(とうけいさん)という漢方の先生に来てもらった。しかし私は東桂さんの煎じ薬くらいではいっこうに生まれる様子がなかった。それどころか気の短い父がかんしゃくを起こしてかみつくように言うので、東桂さんはすっかり困ってしまい、漢方の本をあちこち読んで聞かせては、薬の調合にまちがいはないと言い訳をしながら、ひたすら生まれる時をまっていた。

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私の生れる時には母は殊のほかの難産で、そのころ名うてのとりあげ婆さんにも見はなされて東桂さんといふ漢方の先生にきてもらつたが、私は東桂さんの煎薬ぐらゐではいつかな生れるけしきがなかつたのみか気の短い父が癇癪をおこして噛みつくやうにいふもので、東桂さんはほとほと当惑して漢方の本をあつちこつち読んできかせては調剤のまちがひのないことを弁じながらひたすら潮時をまつてゐた。

そんなふうに母をさんざん苦しめたあげく、私はやっとのことで生まれた。そのとき困りはてた東桂さんが、指につばをつけて一枚一枚本をめくっては、薬箱から薬をすくい出す様子は、私を育ててくれたおどけ者の伯母さんの真に迫ったものまねに残っていて、いつまでも笑いのたねになった。

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そのやうにさんざ母を悩ましたあげくやつとのことで生れたが、そのとき困りはてた東桂さんが指につばをつけて一枚一枚本をくつては薬箱から薬をしやくひだす様子は私を育ててくれた剽軽な伯母さんの真にせまつた身ぶりにのこつていつまでもかれることのない笑ひぐさとなつた。

私はもともと体が弱く(ひよわく)、生まれてまもなく大変なできものができた。母の言い方によれば「松かさのように」

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私は元来脾弱ひよわかつたうへに生れると間もなく大変な腫物できもので、母の形容によれば「松かさのやうに」

頭から顔から一面にふきでものができたので、そのまま東桂さんに世話になり続けなければならなかった。

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頭から顔からいちめんふきでものがしたのでひきつづき東桂さんの世話にならなければならなかつた。

東桂さんは、できものが体の中に悪く入りこまないように、毎日まっ黒な練り薬と烏犀角(うさいかく・薬になる動物の角の粉)を飲ませた。

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東桂さんは腫物を内攻させないために毎日まつ黒な煉薬と烏犀角うさいかくをのませた。

そのとき、子どもの小さな口へ薬をすくって入れるには、ふつうのさじでは具合が悪かった。それで伯母さんがどこからかこんなさじを探してきて、いつも薬を飲ませてくれたのだという話を聞いた。自分ではまったく覚えていないことなのに、なんとなく懐かしくて、手放せなくなってしまった。

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そのとき子供の小さな口へ薬をすくひいれるには普通の匙では具合がわるいので伯母さんがどこからかこんな匙をさがしてきて始終薬を含ませてくれたのだといふ話をきき、自分ではつひぞ知らないことながらなんとなく懐しくてはなしともなくなつてしまつた。

私は体じゅうのふきでものをかゆがって、夜も昼もろくに眠らなかった。糠袋(ぬかぶくろ)に小豆を包んで、母と伯母が代わる代わるかさぶたの上をたたいてくれると、鼻をひくひくさせて、いかにも気持ちよさそうにしたという。

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私は身体ぢゆうのふきでものを痒がつて夜も昼もおちおち眠らないもので糠袋へ小豆を包んで母と伯母とがかはるがはる瘡蓋かさぶたのうへをたたいてくれると小鼻をひこつかせてさも気もちよささうにしたといふ。

その後もずっと大きくなるまで、体が弱いために神経質で、そのうえ三日にあげず頭痛に悩まされた。家の者は「糠袋でたたいたせいで脳を悪くしたのだ」と言って、来る人ごとに言いふらした。

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その後ずつと大きくなるまで虚弱のため神経過敏で、そのうへ三日にあげず頭痛に悩まされるのを、家の者は 糠袋で叩いたせゐで脳を悪くしたのだ といつて来る人ごとに吹聴した。

そんなふうに母に苦労をかけて生まれた子は、母の産後の回復がよくなかったことや、人手が足りなかったことから、ときどき乳を飲ませるとき以外は、ちょうどそのころ家に世話になっていた伯母ひとりの手で育てられることになった。

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そのやうに母に苦労をかけて生れた子は母の産後のひだちのよくないためや手の足りないために、ときどき乳をのませるときのほかはちやうどそのころ家の厄介になつてた伯母の手ひとつで育てられることになつた。

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伯母さんの連れ合いは惣右衛門さん(そうえもんさん)といって、国では身分は低いが侍だった。けれど夫婦そろって人が好いだけで働きのない人たちだったので、明治維新のときにひどく落ちぶれてしまった。そのあと明治何年かにコレラがはやったとき惣右衛門さんが死んでからは、いよいよ家をやっていけなくなり、とうとう私の家の世話になることになったのだそうだ。

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伯母さんのつれあひは惣右衛門さんといつて国では小身ながら侍であつたけれど、夫婦そろつて人の好い働きのない人たちだつたので御維新の際にはひどく零落してしまひ、ひきつづき明治何年とかのコレラのはやつた時に惣右衛門さんが死んでからはいよいよ家がもちきれなくなつてたうとう私のとこの厄介になることになつたのださうだ。

国では、伯母さん夫婦が人が好いのにつけこんで、本当に困っている者はもちろん、困ってもいない者までが「困った、困った」と言ってお金を借りにきた。すると伯母さん夫婦は自分たちの食べる物にも困るほどまで貸してやったので、ただでさえ貧しい家はまたたく間に財産をすべて失ったも同然になった。それなのに借りた者たちは、返しにも来ないで陰で

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国では伯母さん夫婦の人の好いのにつけこんで困つた者はもとより、困りもしない者までが困つた困つたといつて金を借りにくると自分たちの食べる物に事をかいてまでも貸してやるので、さもなくてさへ貧乏な家は瞬くうちに身代かぎり同然になつてしまつたが、さうなれば借りた奴らは足ぶみもしずに蔭で

「あんまり人がよすぎるで」

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「あんまり人がよすぎるで」

などと言って笑いものにしていた。

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なぞと嘲笑つてゐた。

二人はよほど困ったときには、心当たりの人にお金を返すよう頼みに行くこともないではなかった。けれど、相手が少しでも気の毒な話をしだすと、もらい泣きしてしまい、そのまま帰ってきて

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二人はよくよく困れば心あたりの者へ返金の催促もしないではなかつたけれど、さきがすこし哀れなことでもいひだせばほろほろ貰ひ泣きして帰つてきて

「気の毒な 気の毒な」

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「気の毒な 気の毒な」

と言っていた。

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といつてゐた。

また伯母さん夫婦はたいへんな迷信家で、あるとき「白ねずみは大黒様のお使いだ」と言って、どこからか一つがい買ってきた。それを「お福様、お福様」と大切に育てていたが、ねずみ算でどんどん増えて、しまいには家じゅうをぞろぞろ這いまわるのを、めでたいことだと喜んだ。何かお祝いごとのある日には、赤飯をたいたり、一升ますに煎り豆を盛ったりしてお供えした。

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また伯母さん夫婦は大の迷信家で、いつぞやなぞは 白鼠は大黒様のお使だ といつて、どこからかひとつがひ買つてきたのを お福様 お福様 と後生大事に育ててたが、鼠算でふえる奴がしまひにはぞろぞろ家ぢゆう這ひまはるのをお芽出たがつて、なにか事のある日には赤飯をたいたり一升枡に煎り豆を盛つたりしてお供へした。

そんな調子で、わずかなお金は人に借りられたまま返してもらえず、米びつの米はお福様(ねずみ)に食べつくされた。そうしてほとんど着のみ着のままの姿で、そのころ殿様のお供でこちらへ引っ越していた私の家をたよりに、はるばる国もとから出てきたのだそうだ。その後まもなく惣右衛門さんがコレラで亡くなったため、伯母さんはまったくのひとりぼっちの未亡人になってしまった。

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そんな風で僅ばかりの金は人に借り倒され、米櫃の米はお福様に食ひ倒されて、ほんの著のみ著のままの姿で、そのじぶん殿様のお供でこちらに引越してた私の家を頼りにはるばる国もとから出てきたのださうだが、その後間もなく惣右衛門さんがコレラでなくなつたため伯母さんはまつたく身ひとつの寡婦になつてしまつた。

伯母さんはそのときの話をして、「あれは外国のキリシタンが日本人を殺してしまおうと思って、悪いきつねを送りこんできたから、コロリ(コレラ)がはやったのだ。一コロリ、三コロリと、二回もあった」と言った。

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伯母さんはその時の話をして それは異国の切支丹が日本人を殺してしまはうと思つて悪い狐を流してよこしたからコロリがはやつたので、一コロリ三コロリと二遍もあつた。

惣右衛門さんは一回目のコロリにかかって、避病院(伝染病の患者を隔離する病院)へ連れていかれたが、そこではコロリの熱でまっ黒になった病人に水も飲ませずに死なせてしまう。

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惣右衛門さんは一コロリにかかつて避病院へつれて行かれたのだが、そこではコロリの熱でまつ黒になつてる病人に水ものませずに殺してしまふ。

病人はみんな腹わたが焼けて死ぬのだ、と伯母さんは言った。

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病人はみんな腹わたが焼けて死ぬのだ といつた。

伯母さんにとって、私を育てることがこの世で生きる唯一の楽しみだった。

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伯母さんは私を育てるのがこの世に生きてる唯一の楽しみであつた。

それは、家もなく、子もなく、年もとっていて、他に何の楽しみもなかったせいでもあるが、そのほかにもうひとつ、伯母さんが私を迷信めいたやり方でかわいがる不思議な理由があった。

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それは、家はなし、子はなし、年はとつてるし、なんの楽しみもなかつたせゐもあるが、そのほかにもうひとつ私を迷信的に可愛がる不思議な訳があつた。

というのは、もし今生きていれば私とひとつ違いのはずの兄が、生まれてまもなく「驚風(きょうふう・子どものひきつけの病気)」

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といふのは、今もし生きてゐればひとつちがひであるはずの兄が生れると間もなく「驚風」

で亡くなったのを、伯母さんは自分の子が死んでいくかのように嘆いて

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でなくなつたのを、伯母さんは自分の子が死んでゆくやうに嘆いて

「生れかえってきとくれよ、生れかえってきとくれよ」

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「生れかへつてきとくれよ、生れかへつてきとくれよ」

と言っておいおい泣いた。

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といつておいおいと泣いた。

そうしたら、その翌年に私が生まれたので、仏様のおかげで前の子が生まれ変わってきたのだと思いこみ、この上なく私を大事にしたのだそうだ。

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さうしたらその翌年私が生れたもので、仏様のお蔭で先の子が生れかへつてきたと思ひこんで無上に私を大事にしたのださうである。

たとえこの汚いできものだらけの子でも、頼りない伯母さんの願いを忘れずに、極楽の蓮の家をふりすててやってきたのだと思えば、伯母さんはどんなにかうれしく、いとしく思ったことだろう。

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たとへこの穢いできものだらけの子でもが、頼りない伯母さんの頼みをわすれずに極楽の蓮の家をふりすててきたものと思へばどんなにか嬉しくいとしかつたであらう。

それで私が四つ五つになってから、伯母さんは毎朝仏様へお供え物をあげるとき――それは信心深い伯母さんにとって、幸せな役目であった。――

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それゆゑ私が四つ五つになつてから、伯母さんは毎朝仏様へお供物をあげる時に――それは信心深い伯母さんの幸福な役目であつた。――

ときどき仏壇の前へ私を連れていき、まだ字もろくに読めない子どもに、兄の戒名――伯母さんの考えでは、私が極楽にいたときの名前だという――「一喚即応童子(いつくわんそくおうどうじ)」というのを、そらで覚えさせた。

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折折お仏壇のまへへつれていつてまだいろはのいの字も読めない子供に兄の戒名、伯母さんの考へによれば即ち私が極楽にゐた時の名まへであるところの 一喚即応童子いつくわんそくおうどうじ といふのをそらに覚えさせた。

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私は、家の中はともかく、少しでも外へ出るときには必ず伯母さんの背中にかじりついていた。伯母さんのほうも、腰が痛いの腕がしびれるのとこぼしながら、やはり私を手放すのはいやだったのだろう。

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私は家のなかはともかく一足でも外へでるときには必ず伯母さんの背中にかじりついてたが、伯母さんのはうでも腰が痛いの腕がしびれるのとこぼしながらやつぱしはなすのがいやだつたのであらう。

五つくらいまでは、ほとんど地面に降りたことがないくらいで、帯を結びなおすときなどに背中から降ろされると、なんだか地面がぐらぐらするような気がした。だから、いっしょうけんめい伯母さんのそでの先にしがみついていなければならなかった。

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五つぐらゐまでは殆ど土のうへへ降りたことがないくらゐで、帯を結びなほすときやなにかにどうかして背中からおろされるとなんだか地べたがぐらぐらするやうな気がして一所懸命袂のさきにへばりついてゐなければならなかつた。

そのころ私は、うすい藍色の帯を胸の高い位置にしめ、小さな鈴と成田山のお守りを下げていた。

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そのころ私は浅葱のしごきを胸高にしめ、小さな鈴と成田山のお守りをさげてゐた。

それは伯母さんの工夫で、お守りはもちろんけがをしないため、どぶや川に落ちないためのものだった。鈴は、伯母さんが目がかすんで遠くが見えないので、もしはぐれたときにその音を聞きつけて捜しに来ようというものだった。

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それは伯母さんのくふうで、お守りはもとより怪我のないため、どぶや川へ落ちないため、鈴は伯母さんが眼がかすんで遠くが見えないので、もしやはぐれたときにその音をききつけて捜しにこようといふのである。

しかし、一年じゅう背中から降りたことのない子には、鈴もお守りも、実はまったく必要のないものだった。

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併し年が年ぢゆう背中からおりたことのない子には鈴もお守りも実はまつたく無用のものであつた。

私は体が弱かったせいで知恵がつくのも遅く、そのうえひどく暗い気分になりやすかった。伯母さん以外の人には笑顔を見せることはほとんどなく、自分から話しかけることはもちろん、家の人に何か言われてもろくに返事もしなかった。よほど機嫌のいいときでさえ、やっと黙ってうなずくくらいで、いくじなしの人見知りばかりしていた。知らない人の顔を見ただけで、伯母さんの背中に顔をかくして泣きだすのがいつものことだった。

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私は虚弱のため智慧のつくのが遅れ、かつ甚しく憂鬱になつて、伯母さん以外の者には笑顔を見せることは殆どなく、また自分から口をきくことはおろか家の者になにかいはれてもろくに返事もせず、よつぽど機嫌のいい時ですらやつと黙つてうなづくぐらゐのもので、意気地なしの人みしりばかりして、知らない人の顔さへみれば背中に顔をかくして泣きだすのが常であつた。

私はやせ細って肋骨が浮き出て、頭ばかり大きく目がくぼんでいたので、家の者はみんな「たこ坊主(たこぼうず)、たこ坊主」と言った。しかし自分では、自分の名前の「□ぼう」をなまらせて「□ぽん」と名のっていた。

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私が痩せほうけて肋骨があらはれ、頭ばかり大きくて眼がひつこんでたため家の者はみんな 章魚坊主たこぼうず 章魚坊主 といつたが、自分ではわが名の□ぼうを訛つて □ぽん と名のつてゐた。

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私が生まれたのは、神田の中でも「神田らしい神田」ともいうべき場所で、火事やけんか、酔っぱらいや泥棒の絶えない土地だった。

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私の生れたのは神田のなかの神田ともいふべく、火事や喧嘩や酔つぱらひや泥坊の絶えまのないところであつた。

病気がちだった子ども時代の記憶に残っている近所の家といえば、向かいの米屋や駄菓子屋をはじめ、豆腐屋、銭湯、材木屋といった店ばかりだった。ななめ向かいのお医者様の家の黒塀と、殿様のお屋敷の――私の家はその屋敷の中にあった。――

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病弱な頭に影を残した近所の家といへばむかふの米屋、駄菓子屋をはじめ、豆腐屋、湯屋、材木屋などいふたちの家ばかりで、筋向ふのお医者様の黒塀と殿様のところの――私の家はその邸内にあつた。――

門がまえだけが、ひときわ目立っていた。

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門構へとがひときは目だつてゐた。

天気のいい日には、伯母さんは、アラビアンナイトに出てくる化け物のように背中にくっついている私を背負って、年寄りの足の続くかぎり、気に入りそうな場所へ連れて歩いた。

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天気のいい日には伯母さんはアラビアンナイトの化けものみたいに背中にくつついてる私を背負ひだして年よりの足のつづくかぎり気にいりさうなところをつれてあるく。

すぐ裏の路地の奥に、蓬莱豆(ほうらいまめ・正月用の豆菓子)を作る家があった。体に倶梨迦羅紋紋(くりからもんもん・入れ墨)を入れた男たちが、ふんどしひとつに鉢巻きをして、歌をうたいながら豆を煎っていた。そこは、鬼のような男たちが怖いのと、がらがらという音が頭のしんに響くのとで、私は嫌いだった。

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ぢき裏の路地の奥に蓬莱豆をこしらへる家があつて倶梨迦羅紋紋くりからもんもんの男たちが犢鼻褌ふんどしひとつの向ふ鉢巻で唄をうたひながら豆を煎つてたが、そこは鬼みたいな男たちが怖いのと、がらがらいふ音が頭のしんへひびくのとで嫌ひであつた。

私は、もしそんないやな場所へ連れて行かれると、すぐにべそをかいて体をよじった。

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私はもしさうしたいやなところへつれて行かれればぢきにべそをかいて体をねぢくる。

そして、行きたい方向を黙って指さした。

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そして行きたいはうへ黙つて指さしをする。

すると伯母さんは、化け物(私)の気持ちをよく分かっていて、まちがいなく私の思う方へ連れて行ってくれた。

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さうすると伯母さんはよく化けものの気もちをのみこんで間違ひなく思ふはうへつれていつてくれた。

いちばん好きな場所は、今も神田川のふちにある和泉町のお稲荷さんだった。

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いちばん好きなところは今も神田川のふちにある和泉町のお稲荷さんであつた。

朝早くなど、人がいないときには、川へ石を投げたり、大きな木の実のような鈴を鳴らしたりしてよく遊んだ。

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朝早くなど人のゐないときには川へ石を投げたり、大きな木の実のやうな鈴を鳴らしたりしてよく遊んだ。

伯母さんは私を、ごみのなさそうな石や、お宮の階段の上などに降ろして、お参りをした。

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伯母さんは私を塵のなささうな石、またはお宮の段段のうへなどにおろしてお詣りをする。

穴のあいたお金がからからと落ちていくのがおもしろい。

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孔あき銭がからからとおちてゆくのが面白い。

どこの神様仏様へ行っても、何よりも先に「この子の体が丈夫になりますように」とお願いするのだった。

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どこの神様仏様へいつてもなにより先に この子の体が丈夫になりますやうに といつてお願ひするのであつた。

ある日、私が後ろから帯をつかまえられながら木のさくにつかまって川のほうを見ていたら、水の上を白い鳥が行ったり来たりしながら魚をさがしていた。

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ある日のこと私が後ろから帯をつかまへられながら木柵につかまつて川のはうを見てたら水のうへを白い鳥が行きつもどりつ魚をあさつてゐた。

その長くやわらかそうな翼をゆったりと羽ばたかせて、静かに飛びまわる姿は、ともすれば苦しさを感じやすい病弱な子どもにとって、実にちょうどいい見ものだった。

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その長い柔かさうな翼をたをたをと羽ばたいてしづかに飛びまはる姿はともすれば苦痛をおぼえる病弱な子供にとつてまことに恰好な見ものであつた。

それで私はいつになく上機嫌だったが、あいにくそこへ、卵と麦粉菓子(むぎこがし・麦の粉で作った駄菓子)を背負った女の行商人が休みにきたので、いつものとおりすぐに伯母さんの背中にくっついた。

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それで私はいつにない上機嫌であつたが、折あしくそこへ玉子と麦粉菓子むぎこぐわしを背負つた女のあきんどが休みにきたものでれいのとほりすぐに伯母さんの背中へくつついた。

女は荷物を降ろし、かぶっていた手ぬぐいを取って首すじなどをふきながら、あれこれと上手にお世辞を言って、さすがの弱虫の私をすっかり手なずけてしまった。そろそろ背中から降りかけるころには、もう麦粉菓子の箱を開けて私を釣ろうとしていた。

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女は荷をおろしかぶつてた手拭をとつて襟などふきながらなんのかのと上手に愛想をいひいひさしもの弱虫を手なづけてしまつて、そろそろ背中から降りかけるじぶんにはもう麦粉菓子の箱をあけて私を釣りにかかつた。

女は小判のような形の、香りの高い麦粉菓子を取り出して、指の先でくるくる回しながら

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女は小判なりの薫のたかい麦粉菓子をとりだして指のさきにくるくるとまはしながら

「坊っちゃん 坊っちゃん」

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「坊ちやん 坊ちやん」

と言って手に持たせてくれたので、伯母さんはしかたなくそれを買った。

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と手にもたせてくれたので伯母さんはしかたなしにそれを買つた。

今でさえ、あの渋紙を張った籠をつらそうに肩からはずして、中はもみがらに埋まった白い卵やうす赤い卵、ぷんと匂いの立つ麦粉菓子などを見せられると、ありったけ買ってやりたい気がしてならない。

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今でさへ、あの渋紙ばりの籠を大儀さうに肩からはづしてなかは籾がらに埋まつてる白い、うす赤い卵や、ぷんと匂のあがる麦粉菓子などを見せられるとありつたけ買つてやりたい気がしてならない。

お稲荷さんはその後立派になり、にぎやかにもなったが、あのときの柳だけは今も涼しげにそよいでいる。

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お稲荷さんはその後立派になり、賑かにもなつたが、その時の柳ばかりは今も涼しくなびいてゐる。

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お稲荷さんへ行かない日には、汚れた財布にお賽銭と木戸銭(きどせん・見世物の入場料)用の小銭を入れて、牢屋の原へ連れていってくれた。

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お稲荷さんへ行かない日にはきたない財布にお賽銭と木戸銭用の小銭を入れて牢屋の原へつれてゆく。

そこは有名な伝馬町の牢屋のあとで、いろいろな見世物がしょっちゅう開かれていた。

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それは有名な伝馬町の牢屋のあとで、いろんな見世物がしよつちゆうかかつてゐた。

また、小さな行商人たちが露店を並べて、さざえのつぼ焼きや、はぜた豆や、みかん水、季節になればとうもろこし、焼き栗、しいの実なども売っていた。

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また小あきんどが露店をならべて蠑螺さざえの壺焼や、はじけ豆や、蜜柑水や、季節になれば唐もろこし、焼栗、椎の実などもうる。

紅白のしま模様の幕を張った見世物小屋の入り口で、拍子木と下足札(げそくふだ・靴を預かる札)を持ってあぐらをかいている男が、手を口にあてて「ほうばん、ほうばん」と呼びたてる。

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紅白だんだらの幕をはつた見世物小屋の木戸に拍子木と下足札をひかへてあぐらをかいてる男は手を口へあてて ほうばん ほうばん と呼びたてる。

鎖につないだ山犬の鼻先に鶏を突きつけて、悲鳴をあげさせる見世物もあった。

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鎖につないだ山犬の鼻さきへ鶏をつきつけて悲鳴をあげさせるのもある。

頭にお皿のある怪しげな河童が、水たまりの中でぼちゃぼちゃやっているのもあった。

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お皿のある怪しげな河童が水溜みづだまりのなかでぼちやぼちややるのもある。

でろれん祭文(でろれんさいもん・貝や鉦を鳴らしながら語る大道芸)は、貝をぶうぶう吹いて金属の棒のようなものをきんきん鳴らしては「でろれん、でろれん」と言うので、私にはさっぱりおもしろくなかった。けれど伯母さんが自分で好きだったので、何度も連れていった。

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でろれん祭文は貝をぶうぶう吹いて金の棒みたいなものをきんきん鳴らしては でろれん でろれん といふのでさつぱり面白くなかつたけれど伯母さんは自分が好きだもので度度つれていつた。

あるとき珍しく人形芝居が開かれたことがあって、桜が一面に咲いた山に、絵草紙で見るお姫様のような人が鼓を持って踊っている絵看板が上がっていた。

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あるとき珍しく人形芝居がかかつたことがあつて、桜がいちめんに咲いた草山に絵草紙でみるお姫様みたいな人が鼓をもつて踊つてるところの絵看板があがつてゐた。

私は大喜びでそこへ入ったが、たちまちかちゃんかちゃんと恐ろしい音がして、顔も手足もまっ赤な人形がねじれたたすきをかけて飛び出してきたので、びっくりしてわあわあ泣きだしてしまった。

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私は大喜びでそこへはひつたが、忽ちかちやんかちやんと恐しい音がして顔も手足もまつかな奴がねぢくれた襷をかけて飛び出したのでびつくりしてわあわあ泣きだしてしまつた。

あとで聞けば、それは「千本桜」に出てくる狐忠信(きつねただのぶ)だったそうだ。

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後できけばそれは千本桜の狐忠信だつたのださうだ。

気に入った見世物のひとつは、だちょうと人間の相撲だった。

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気にいつた見世物のひとつは駝鳥と人間の相撲であつた。

ねじり鉢巻きをした男が剣術の胴をつけて、鳥がけんかをしかけるときのようにひょんひょん跳ねながらかかっていくと、だちょうが腹を立ててぱっぱっと蹴とばすのだった。

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ねぢ鉢巻の男が撃剣のお胴をつけて鳥が戦ひを挑むときのやうにひよんひよん跳ねながらかかつてゆくと駝鳥が腹をたててぱつぱつと蹴とばすのである。

あるときはだちょうのほうが首の根もとを押さえつけられて負けになり、あるときは男のほうが蹴りたてられて「まいった、まいった」と言って逃げだした。

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ある時は駝鳥のはうが頸ねつこを押へつけられて負けになり、ある時は男のはうが蹴たてられて まゐつた まゐつた といつて逃げだした。

そのあいだに、交代の男が片すみで弁当を食べていたが、相手をなくしてぶらぶらしていたもう一羽のだちょうがこっそり寄っていって、いきなり弁当をのみこもうとしたので、男はあわてて飛びのいた。

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そのあひだに交代の男がかた隅で弁当をつかつてたのを相手をなくしてぶらぶらしてたもう一羽の駝鳥がこつそり寄つてつていきなり弁当を呑まうとしたもので男はあわてて飛びのいた。

その様子がおかしかったので、見物人はどっと笑った。

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その様子がをかしかつたので見物人はどつと笑つた。

伯母さんは

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伯母さんは

「だちょうがひもじがっとるにごぜんももらえんで気の毒な」

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「駝鳥がひもじがつとるにごぜんももらへんで気の毒な」

と言って涙をこぼした。

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といつて涙をこぼした。

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私のような者が神田のまんなかに生まれたのは、河童が砂漠で卵からかえるよりも、具合の悪いことだった。

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私のやうな者が神田のまんなかに生れたのは河童が沙漠でかへつたよりも不都合なことであつた。

近所の子は、みんな神田っ子のたまごらしいわんぱく者で、こんないくじなしは相手にしてくれないばかりか、すきさえあればつらい目にあわせた。

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近処の子はいづれも神田つ子の卵の腕白でこんな意気地なしは相手にしてくれないばかりかすきさへあれば辛いめをみせる。

なかでも向かいの足袋屋の息子などは、伯母さんがぼんやりしていると、後ろから急に人の横っ面をはたいては逃げていったりしたので、私はひどく怖がって、何かとひっこみがちになってしまった。

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なかでもむかふの足袋屋の息子なぞは伯母さんがぼんやりしてると後ろからだしぬけに人の横ずつ面をはつつけては逃げて行き行きしたもので私はひどくおぢけてとかくひつこみがちになつてしまつた。

家にいるときには、通りに向いた高い窓に私をのせ、格子につかまらせて、伯母さんが後ろから支えながら、馬や車や目に入るものの名前などを教えて遊ばせてくれた。

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家にゐるときには往来へむいた高窓にのせ、格子につかまらして、伯母さんが後からおさへながら馬や車や目にふれるものの名など教へて遊ばせてくれる。

ななめ向かいの米屋に、車にひかれてびっこになった鶏がいた。羽やしっぽがぼろぼろでほこりまみれになりながら、いつ見ても片足を上げているのを、伯母さんは見るたびにかわいそうがった。そのため、しまいには私までその鶏を見るのがいやになってきた。

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筋向ふの米屋に車に轢かれたちんばの鶏がゐて、羽根や尻尾がぼろけて塵にまみれながらいつ見ても片足をあげてるのを伯母さんは見るたんびに可哀さうがつたので、終ひには私までがその鶏を見るのが厭はしくなつてきた。

ふだん遊ぶのは、仏壇のあるとても暗い感じの三畳の部屋で、夜はそこが寝室になり、ときどきは姉たちの勉強部屋にもなった。

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ふだん遊ぶのはお仏壇のあるごく陰気な三畳で、夜はそこが寝室になり、ときどきは姉たちの自修室にもなつた。

そのころ十二、三歳で小学校へ通っていた二人の姉が、西洋の封筒のような形をした包みからまっ黒な帳面を出し、古い木の机の上に広げて字の練習をしていたのを覚えている。

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そのころ十二三で小学校へ通つてた二人の姉が西洋の状袋の形した包みからまつ黒なお草紙をだし古い木机のうへにひろげて手習ひをしたことをおぼえてゐる。

その机のひとつは長さ三尺(約九十センチ)くらいで、引き出しが二つついていた。取っ手が取れたあとの穴には、筆の軸に紙を巻いたものが差してあった。もうひとつは、子どもの膝がやっと入るくらいの小さなもので、浅い引き出しがついていた。これらの机は、兄から姉へ、私から妹へと、何十年ものあいだ順番に譲り渡されることになった。

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その机のひとつは長さ三尺ぐらゐの、抽匣が二つついたので、つまみがとれたあとの孔へ筆のぢくに紙をまいたのがさしてあり、もうひとつはわづかに子供の膝がはひるくらゐのもので浅い抽匣がついてたが、これらの机は兄から姉へ、私から妹へと、何十年かのあひだ順順に譲り渡されることになつた。

それを踏み台にして、庭に向いた窓の上にあげてもらうと、黒塀のそばにある大きなつつじの株が見える。

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それを踏台にして庭に向つた窓のうへへあげてもらふと黒塀のそばにある大株の躑躅がみえる。

夏になると、まっ赤な花が山盛りに咲いて、町なかなのに、ときどきちょうちょうが飛んできては蜜を吸っていく。

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夏になればまつかな花が山りに咲いて町なかながら時たま蝶蝶が飛んできては蜜を吸つてゆく。

そのあわただしく羽をはためかせるのをおもしろく眺めていると、伯母さんは後ろから肩ごしに顔を出して、「黒いちょうちょうは山家(やまが・山里)のおじいさんで、白いのや黄色いのはみんなお姫様だ」と言う。

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そのあわただしく翅をはためかすのを面白く眺めてると伯母さんは後ろから肩ごしに顔をだして 黒い蝶蝶は山家やまがのおぢいで、白いのや黄いろいのはみんなお姫様だ といふ。

お姫様はかわいいが、山家のおじいさんがまっ黒な大きな羽をはばたかせて飛びまわるのが恐ろしい。

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お姫様は可愛いが山家のお爺がまつ黒な大きな翅をはばたいて飛びまはるのがおそろしい。

伯母さんはまた、紙をていねいに貼った皮の入れ物から、いろいろなおもちゃを出して遊ばせてくれる。

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伯母さんはまた草紙で丹念にはつた皮籠からいろいろな玩具をだして遊ばせてくれる。

たくさんのおもちゃの中でいちばん大事だったのは、表の溝から拾いあげた黒塗りの土でできた小さな犬で、その顔がなんとなく私にやさしいもののように思われた。

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沢山の玩具のなかでいちばん大事だつたのは表の溝から拾ひあげた黒ぬりの土製の小犬で、その顔がなんとなく私にやさしいもののやうに思はれた。

伯母さんはそれを「お犬様」だと言って、空き箱か何かで作ったお宮の中に置いて、拝んでみせたりした。

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伯母さんはそれをお犬様だといつて、あき箱やなにかでこしらへたお宮のなかにすゑて拝んでみせたりした。

それから、あの不器用な形をした丑紅(うしべに・丑の日に売られる紅の飾り)の牛も大切だった。

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それからあのぶきつちよな丑紅うしべにの牛も大切であつた。

これらは、世界にたったふたりだけの仲よしの友だちだった。

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これらは世界にたつた二人の仲よしのお友だちである。

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そのほか刀、なぎなた、弓、鉄砲など、あらゆる戦(いくさ)道具もそろっていた。

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そのほか刀、薙刀、弓、鉄砲など、あらゆるいくさ道具もそろつてゐた。

伯母さんは私に烏帽子(えぼし)をかぶせたり、鎧どおし(よろいどおし・短い刀)を差させたりして、すっかり戦人(いくさにん)に仕立ててから、自分も後ろ鉢巻きをし、なぎなたをかかえて、長い廊下の両はしに陣取って戦ごっこをした。

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伯母さんは私に烏帽子をきせたり、鎧どほしをささせたり、すつかり戦人いくさにんにしたててから、自分も後ろ鉢巻をし、薙刀をかいこんで、長い廊下の両はじに陣どつて戦ごつこをする。

支度がととのうと、二人とも真顔になって身構えながら、そろそろと近づいていく。

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支度がととのへば双方真顔まがほになつて身構へをしながらそろそろと近づいてゆく。

廊下のまんなかで出会うとすぐに、私が

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廊下のまんなかで出会ふやいなや私が

「四王天か」

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「四王天か」

と声をかける。

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と声をかける。

敵は

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敵は

「清正か」

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「清正か」

という。

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といふ。

そして声をそろえて

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そして同音に

「よいとこであったな」

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「よいとこであつたな」

と言うと同時に

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といふと同時に

「やあ、たかたかたかたか」

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「やあ、たかたかたかたか」

と口で調子をとりながら、しばらくは勝負がつかないまま切り結ぶ。

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と口で拍子をとりながら暫くは勝負もみえずきりむすぶ。

これは山崎合戦の場面で、私は加藤清正(かとうきよまさ)、伯母さんは四王天但馬守(しおうてんたじまのかみ)の役だった。

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これは山崎合戦の場で、私は加藤清正、伯母さんは四王天但馬守なのである。

そのうち二人は武器を捨てて、取っ組みあう。

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そのうち二人は得物をすてて取組みあふ。

大立ち回りの末、四王天は清正(つまり私)がいいかげん疲れたころを見はからって

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大立廻りのすゑ四王天は清正がいいかげんくたびれたころを見はからつて

「しまったー」

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「しまつたー」

と、いかにも無念そうに言ってばったりと倒れる。

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とさも無念さうにいつてばつたりと倒れる。

それを私が鼻高々と馬乗りになって押さえつけると、伯母さんは汗をだらだら流しながら下から

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それを鼻たかだかと馬乗りになつておさへつけると伯母さんは汗をだらだら流しながら下から

「縄はゆるせ。首斬れ」

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「縄はゆるせ。首斬れ」

と、どこまでも四王天になりきって言う。

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とどこまでも四王天でくる。

そこで清正がわき差しを抜いて、しわだらけの首をごしごし斬るまねをすると、四王天が顔をしかめてこらえながら目をつぶり、ぐにゃりと死んだふりをする。それでひとまず勝負がつくことに決めていたが、雨の日などには七、八回も同じことを繰り返して、しまいに四王天(伯母さん)がへとへとになるまでやらせた。

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そこで清正が脇差をぬいて皺くちやな頸をごしごし斬るまねをするのを四王天が顔をしかめてこらへながら目をつぶつてぐにやりと死んだふりをすればひと先づ勝負がつくことにきめてあつたが、雨の日などには七八遍もおんなじことをくりかへして、しまひに四王天がひよろひよろになるまでやらせた。

伯母さんは

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伯母さんは

「まあどもならん どもならん」

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「まあどもならん どもならん」

と泣き声を出しながらも、私があきてやめようと言うまでは、いつまでもつきあってくれる。

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と泣き声をだしながらもあきてやめようといふまではいつまでもやつてくれる。

ときには伯母さんは、あんまり疲れて、首を斬られたあとなかなか起き上がらないことがあった。

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どうかすると伯母さんはあんまり疲れて首を斬られてしまつてもなかなか起きあがらないことがある。

すると、「本当に死んだんじゃないかしら」と思って、気味悪がりながらゆり起こしてみたりした。

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さうすると ほんとに死んだんぢやないかしら と思つて気味わるわるゆりおこしてみたりした。

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明神様のお祭りのときは、場所がらすごいにぎわいで、町内の若い者が家々の軒に紅白の花をつけ、巴(ともえ)と日の丸の提灯をさげて歩いた。

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明神様のお祭りの時は場所がらおそろしい景気で、町内の若い者が軒なみに紅白の花をうち、巴と日の丸の提灯をさげてあるく。

家の軒にも花をつけて提灯をさげるのがうれしかった。

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家の軒にも花をうつて提灯をさげるのが嬉しい。

その日には、店に毛せんをしきつめて、しじんけん(獅子頭などの祭りの飾り)を飾る家もあった。

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その日には店に毛氈をしきつめてしじんけんをかざる家があつた。

でこぼこした頭が二つ、うやうやしく段の上に置かれ、巻奉書(まきぼうしょ・巻いた白い紙)を細い竹にはさんだようなものがつんと立った、大きなお神酒(おみき)徳利が供えられる。

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でこでこの頭が二つ恭しく段のうへに据ゑられ、巻奉書まきぼうしよのそぎ竹のやうなのがつくんと立つた大きなお神酒みき徳利が供へられる。

金色の獅子は銀の目玉をむいて、頭のてっぺんに宝珠をいただき、まっ赤な狛犬は金の目玉を光らせて、たてがみをふり乱している。

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金色の獅子は銀の眼玉をむいててつぺんに宝珠をいただき、まつかな狛犬は金の眼玉を光らせてたてがみをふりみだしてゐる。

伯母さんは、お犬様や丑紅の牛を私の友だちにしたのと同じやり方で、獅子や狛犬までも仲よしにしてしまった。そのため私は、その恐ろしい顔を見ても泣きだすことはなかった。

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伯母さんはお犬様や丑紅の牛をお友達にした手ぎはで獅子や狛犬までも仲よしにしてしまつたので私はその怖らしい顔を見ても泣きだすやうなことはなかつた。

そろいの浴衣を着た町内の若い者から、やっと歩けるくらいの子どもまでが、鉢巻きをして、きびきびと鬱金(うこん・黄色っぽい色)の麻のたすきをかけた。――私は、あの鈴やおきあがり小法師(こぼし・起き上がり小坊師の人形)をつけた麻のたすきが大好きである。――

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揃ひの浴衣をきた町内の若い者からやつと足の運べる子供までが向ふ鉢巻にかひがひしく鬱金うこんの麻襷をかけ――私はあの鈴だのおきあがり小法師こぼしだのをつけた麻襷が大好きである。――

白足袋のはだしに、たくましいすねを見せながら、できるだけ大きな万燈(まんどう・祭りの飾り提灯)をふって歩く。

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白足袋のはだしにむりむりした脛をみせて出来るだけ大きな万燈をふつてあるく。

軒に並んだ提灯の中にも、町をとびまわる万燈の中にも、ろうそくの炎がちらちらとまたたいている。

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軒なみの提灯のなかにも、町をとびまはる万燈のなかにも蝋燭の焔がちらちらとまたたく。

紅白に染め分けた頭でっかちの万灯(まんどう・お祭りで持つ飾り灯籠)の先に、ふさふさと御幣(ごへい・神事に使う紙飾り)が下がっているのを、きりきりと空にふりまわすのは、気持ちのいいものである。

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紅白に染めわけた頭でつかちの万燈のさきにふつさりと御幣のさがつたのがきりきりと宙にふりまはされるのは気もちのいいものである。

各町内の大事なところには、大人と子どもの一団が樽御輿(たるみこし・たるで作ったおみこし)を取り囲んで、けんかの手はずを打ち合わせる。

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各町内の要所要所には大供子供の一団が樽御輿たるみこしをとりまいて喧嘩の手筈をしめしあはす。

そういうことが好きな伯母さんは、わたしにも人並みにたすきをかけ、はち巻きをさせて表へ連れ出した。

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そんなことの好きな伯母さんは私にも人なみに襷をかけ、鉢巻をさせて表へつれだした。

わたしは、まくった着物の下から赤いフランネルのももひきを出し、長いそでをたすきにはさんで、伯母さんの背中で小さな万灯を持っていた。

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私ははしよつた著物の下から赤いふらんねるの股引をだし長い袂を襷にはさんで伯母さんの背中に小さな万燈をもつてゐた。

そうしたら、とある樽天王(たるてんのう・お祭りで担ぐたるみこし)のまわりにかたまっていた元気な子たちのひとりが見つけて

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さうしたらとある樽天王のまはりにかたまつてた腕白どものひとりが見つけて

「えくしょ。女におぶさって万灯ふってやがら」

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「えくしよ。女におぶさつて万燈ふつてやがら」

と言いながら、いきなり二つ三つ石をたたきつけた。

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といひながらいきなり二つ三つ石をたたきつけた。

伯母さんははらはらして

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伯母さんははらはらして

「弱い子だに、かねしとくれよ」

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「弱い子だにかねしとくれよ」

と急いで帰ろうとするのを、二、三人の子がばらばらと追いかけてきて、足を引っぱって引きずり落とそうとしたので、わたしは首すじにしがみついて、火のついたように泣き出した。

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と急いで帰らうとするのを二三人の奴がばらばらと追つかけてきて足をひつぱつてひきずり落さうとしたので私は頸つたまに獅噛しがみついて火のつくやうに泣きだした。

伯母さんは、のどをしめる手を引きはなし引きはなし

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伯母さんは喉をしめる手をひきはなしひきはなし

「かねせるだ、かねせるだ」

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「かねせるだ かねせるだ」

と言って、逃げて帰った。

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といつて逃げて帰つた。

そうしてほっと息をついたときに、せっかくの万灯とげたを、かたかたと落としているのに気づいた。

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さうしてほつと息をついたときに折角の万燈と下駄をかたかた落してるのに気がついた。

浅葱色(あさぎいろ)のひもで結わえる、大事なげただったのに。

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浅葱の紐でいはへる大事の下駄であつたものを。

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体の弱いわたしは、しょっちゅうお医者様の手をはなれるひまがなかったが、幸いなことに烏犀角(うさいかく・薬の一種)を使う東桂さんが間もなく亡くなったので、代わりに「西洋医者」

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病身者の私はしよつちゆうお医者様の手をはなれるまがなかつたが、仕合せなことには烏犀角の東桂さんが間もなく死んだので代りに「西洋医者」

の高坂さんに診てもらうようになり、東桂さんが一生けんめいうみを出させようとしたはれ物は、西洋の薬できれいに洗われて、すぐによくなってしまった。

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の高坂さんにみてもらふやうになり、東桂さんが一所懸命ふき出さした腫物は西洋の薬できれいに洗はれてぢきによくなつてしまつた。

この人は、顔がこわそうなのに似合わず、子どものご機嫌をとるのが上手だった。

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この人は顔の怖いに似ず子供の機嫌をとることが上手だつた。

それで、それまで東桂さんのまずい練り薬にこりごりしていたわたしも、喜んで甘みをつけた水薬を飲むようになった。

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で、それまで東桂さんのまづい煉薬にこりごりしてた私も喜んで甘味をつけた水薬をのむやうになつた。

そのうち、「わたしと母の健康のためにどうしても山の手の空気のいいところへ引っ越さなければ」という高坂さんの意見によって、幸いそのとき、殿様のほうの仕事もひととおり片づいてひまになっていた父は、自分の役目を人にゆずって、小石川の高台へ引っ越すことに決心した。

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そのうち 私と母の健康のためにどうでも山の手の空気のいいところへ越さなければ といふ高坂さんの説によつて、幸ひそのとき殿様のはうの御用もひととほり片附いて暇になつてた父は自分の役目を人にわたして小石川の高台へ引越すことに決心した。

いよいよ引っ越すという日には、みんなしてわたしに「もうこの家へは来られないのだ」ということをよくよく言い聞かせたが、わたしは、出入りの人が手伝いに来て大騒ぎをするのがおもしろく、また伯母さんと相乗りにさせられて人力車を連ねていくのがうれしくて、元気よくしゃべっていた。

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いよいよひき移るといふ日にはみんなして私に もうこの家へは来られないのだ といふことをよくよくいつてきかせたが、私は出入りの者が手伝ひにきて大騒ぎをするのが面白く、また伯母さんと相乗りにのせられて俥を列ねてゆくのが嬉しくて元気よく喋つてゐた。

しばらくして道がだんだんさびしくなり、しまいに赤土の長い坂をのぼって――それまで坂というものを知らなかった。――

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暫くして路がだんだん淋しくなり、しまひに赤土の長い坂をのぼつて――それまで坂といふものを知らなかつた。――

今度の住まいだという、杉の垣根に囲まれた古い家についた。

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今度の住居だといふ杉垣に囲まれた古い家についた。

十一

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十一

このあたりの人々は、みな杉の垣根をめぐらした古い家に、静かに住んでいる。

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このへんのものはみな杉垣をめぐらした古い家に静に住んでゐる。

たいてい旧幕府の時代から代々住み続けている武士の家柄の人たちで、世の中が変わって落ちぶれはしたが、まだその日その日の暮らしに追われるほどみじめな状態にはならず、つつましくのどかな日々を送っている人たちだった。

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おほかた旧幕時代から代代住みつづけてる士族たちで、世がかはつて零落はしたがまだその日に追はれるほどみじめな有様にはならず、つつまやかにのどかな日をおくつてる人たちであつた。

それに、人家もすくない片田舎のことなので、近所同士は顔だけでなく家の中の様子まで知り合って、お互いに親しくしていた。

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それに人家もすくない片田舎のことゆゑ近処同士は顔ばかりか家のなかの様子まで知りあつてお互に心やすくしてゐる。

朽ちたまま手を入れない杉垣の内には、どこにも多少の空き地があって、果物の木などが植えられ、屋敷と屋敷のあいだには、畑がなければ茶畑があって、子どもや鳥の遊び場になっていた。

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朽ちたまま手をいれない杉垣のうちにはどこにも多少のあき地があつて果樹など植ゑられ、屋敷と屋敷のあひだには畑がなくば茶畑があつて子供や鳥の遊び場になつてゐる。

畑、生け垣、茶畑、目にふれるものとして珍しくうれしくないものはない。

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畑、生垣、茶畑、目にふれるものとして珍しく嬉しくないものはない。

わたしの家は、隣のかなり広い空き地に建てるので、それができあがるまでの仮住まいとしてこの家に住むのである。

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私の家は隣のかなり広いあき地へ普請をするのでその出来あがるまでかりにこの家に住むのである。

暗くて陰気な玄関のわきには、ゆずり葉の木があったが、その葉も赤い軸も気に入った。

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暗い陰気な玄関のわきにはゆづりはの木があつたが、その葉も赤いぢくも気にいつた。

すべすべした葉をとって、くちびるにあてたり、ほおをこすってみたりする。

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すべつこい葉をとつて唇にあてたり、頬をこすつてみたりする。

引っ越してきたあくる日に、だれかがせみをとって、有り合わせの鳥かごに入れてくれた。

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越してきたあくる日に誰かが蝉をとつて有合せの鳥籠に入れてくれた。

これまで見たことも聞いたこともないものなので、おもしろくはあったが、そばに寄ると暴れて「じゃんじゃん」鳴くのがこわかった。

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これまで見たことも聞いたこともないものゆゑ面白くはあつたけれどそばへよるとあばれてぢやんぢやんいふのが怖かつた。

わたしは毎朝早く起こされて、草ぼうぼうの空き地をはだしで歩かされる。

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私は毎朝はやく起されて草ぼうぼうとしたあき地をはだしで歩かされる。

ぺんぺん草や、蚊帳つり草(かやつり草)や、そこに生えている草の名前を覚えるだけでも大変な仕事である。

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ぺんぺん草や、蚊帳つり草や、そこにはえてる草の名をおぼえるだけでも大変な仕事である。

そのころ八十近かった祖母も、坊主頭に毛織物の頭巾をかぶって、杖をつきつきいっしょに露をふんで歩く。

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そのじぶん八十ぢかかつた祖母も坊主頭に毛繻子の頭巾をかぶつて杖をつきつきいつしよに露をふんであるく。

祖母は、性質のよい三つ栗を裏の垣根のふちに埋めて、「これは孫たちが大きくなるころには採って食べられるようになる」と言っていた。

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祖母は性のいい三つ栗を裏の垣根のくろへ埋めて これは孫たちが大きくなるころには採つて食べられるやうになる といつてゐた。

祖母が亡くなってから、わたしたちはそれを「おばあ様の栗」と名づけて大切にしていたが、今では三本ともりっぱな木になって、秋になれば、あのころの孫たちが、ざるに何杯もの栗を落として自分の子どもにむいてやるようにさえなった。

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祖母がなくなつてから私どもはそれを お祖母様ばあさまの栗 と名づけて大切にしてたが、この節では三本ながら立派な木になつて、秋になればその昔の孫たちが笊に幾杯かの栗を落して自分の子供にむいてやるやうにさへなつた。

そのうちに家の工事がはじまった。

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そのうちに普請がはじまつた。

材木を引いてきた馬や牛が垣根につながれているのを、伯母さんにおぶさっておそるおそる見にいく。

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材木をひいてきた馬や牛が垣根につながれてるのを伯母さんにおぶさつて怖怖こはごはながら見にゆく。

大きな鼻の穴から棒みたいな息をつきながら、馬は杉の葉をひきむしって食い、牛は「げぶっ」と何か吐き出しては、もぐもぐとかむ。

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大きな鼻の孔から棒みたいな息をつきながら馬は杉の葉をひきむしつてくひ、牛はげぶつとなにか吐きだしてはむにやむにやと噛む。

落ち着きのない長い顔の馬よりも、おっとりして舌なめずりばかりする丸顔の牛のほうが好きだった。

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落ちつきのない長い顔の馬よりもおつとりして舌なめずりばかりする丸顔の牛のはうが好きであつた。

工事現場には、のみや、手斧(ておの)や、まさかりが、それぞれの音をたてて、あれほど沈んでいた病弱な子の胸をときめかせる。

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普請場にはのみや、手斧てうなや、まさかりや、てんでんの音をたててさしも沈んだ病身ものの胸をときめかせる。

職人たちの中で定さんは気だてのやさしい人で、けずりものをしているそばに立って、かんなのくぼみからくるくると巻きあがって地に落ちるかんなくずに見とれていると、いつもきれいそうなのを選んで拾ってくれた。

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職人たちのなかに定さんは気だてのやさしい人で、削りものをしてるそばに立つてかんなの凹みからくるくると巻きあがつて地に落ちる鉋屑に見とれてるといつもきれいさうなのをよつて拾つてくれた。

杉やひのきの、血が出そうな木くずをしゃぶると、舌やほおがひきしめられるような味がする。

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杉や檜の血の出さうなのをしやぶれば舌や頬がひきしめられるやうな味がする。

おがくずをふんわりと両手にすくってこぼすと、指の間のこそばゆいのもうれしい。

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おが屑をふつくらと両手にすくつてこぼすと指の叉のこそばゆいのも嬉しい。

定さんは、いつも人よりあとに残って、「ぱんぱん」といい音のする柏手(かしわで)を打って、お月様を拝んだ。

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定さんはいつも人よりか後に残りぱんぱんといい音のする柏手をうつてお月様を拝んだ。

わたしは、いつまでも仕事場をうろついていて、それを見るのを楽しみにしていたが、ほかの職人たちは定さんに「変人」というあだ名をつけて、「ああいう男はきっと若死にする」などと言っていた。

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私はいつまでも仕事場にうろついてゐてそれを見るのを楽しみにしてたが、ほかの職人たちは定さんに 変人 といふあだ名をつけて、ああいふ野郎はきつと若死にする なぞといつてゐた。

きれいにほうきの目のついた仕事場のあとを見まわすと、今までのにぎやかさと打って変わって、しんしんと夕もやがかかってくる。

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きれいに箒目のたつた仕事場のあとを見まはると今までの賑かさにひきかへしんしんとして夕靄がかかつてくる。

わたしは名残おしく家に呼び入れられて、また明日の朝を待つ。

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私は残り惜しく呼びいれられてまた明日の朝をまつ。

そんなふうに、わきたつ木の香に酔って、なんとなくさわやかな気持ちになりながら、日に日に新しい住まいができていくのを、不思議そうに眺めていた。

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そのやうに湧きたつ木香きがに酔つてなんとなく爽な気もちになりながら日に日に新しい住居が出来てゆくのを不思議らしく眺めてゐた。

十二

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十二

すこしばかりの茶畑をあいだにして、南隣りに少林寺という禅寺があった。

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すこしばかりの茶畑を間にして南隣りに少林寺といふ禅寺があつた。

その寺の敷地が広いのと、信心深い伯母さんには、お寺というものがなんとなくなつかしかったのだろうために、わたしはときどきそこへ連れていかれた。

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その寺内が広いのと、信心ぶかい伯母さんにはお寺といふものがなんとなく懐しかつたのであらうために私はときどきそこへつれてゆかれた。

門から玄関まで三十六メートルほどのあいだ、二列に敷かれた石の両側が荒れた茶畑になっていて、ところどころに杉の木やなにか立っている。

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門から玄関まで二十間ばかりのあひだ二行に敷かれた石の両側が荒れた茶畑になつて、ところどころ杉の木やなにか立つてゐる。

わたしはよくその茶の花をとってもらったが、枝にもろいその花はひとつとると「ばらばら」といくつもいっしょに散って地に落ちた。

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私はよくその茶の花をとつてもらつたが、枝にもろいその花はひとつとるとはばらばらといくつもいつしよに散つて地に落ちた。

また、雨のあとなどには、茶の木茶の木にしずくがいっぱいたまって、きらきらと光っている。

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また雨のあとなどには茶の木茶の木に雫がいつぱいたまつてきらきらと光つてゐる。

なんの変哲もないながら、かすかな趣のある茶の花は、幼いころの思い出にふさわしい花である。

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なんの奇もないながらかすかなさびのある茶の花は稚い折の思ひ出にふさはしい花である。

丸みをもった白い花びらが、ふっくらと黄色いしべを囲んで、暗い緑色のちぢれた葉のかげに咲く。

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円みをもつた白い花弁がふつくらと黄色い蕊をかこんで暗緑のちぢれた葉のかげに咲く。

それをすっぽりと鼻に押しつけてかぐのがくせだった。

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それをすつぽりと鼻へおしつけてかぐのが癖であつた。

左手の閼伽井(あかい・お寺の井戸)のそばのもくせいは、花がさけば甘い香りをただよわせ、その井戸車のきしる音は、静かな茶畑を越えてわたしの家までもひびく。

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左りての閼伽井あかゐのそばの木犀は花がさけば甘い香を漂はせ、その井戸車のきしる音は静な茶畑をこえて私の家までもひびく。

本堂の玄関にある大きなついたてには、あざやかな色の孔雀がかいてあった。

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本堂の玄関にある大きな衝立ついたてには極彩色の孔雀がかいてあつた。

おすの鳥が、みののような尾を下げて何かにとまっているそばに、やや小さいめすの鳥が身をかがめて、ついばむような姿勢をしている。

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雄鳥が蓑のやうな尾をさげてなにかにとまつてるそばにやや小さい雌鳥が身を屈めてついばむやうな姿勢をしてゐる。

そのまわりに咲きみだれたいろいろな牡丹の花には、ちょうがいくつもたわむれていた。

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そのまはりに咲きみだれたいろいろの牡丹の花には蝶蝶がいくつか戯れてゐた。

また、ときどきは近所の大日様(だいにちさま・お寺の名)へ連れていって遊ばせた。

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また折折は近処の大日様だいにちさまへつれていつて遊ばせた。

わたしが、ねじれた太い綱を持って「こんこん」とわに口(お寺の鐘のようなもの)を鳴らすと、伯母さんはお賽銭を投げてお参りをする。

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私がねぢねぢの太い綱をもつてこんこんと鰐口を鳴らすと伯母さんはお賽銭をなげておまゐりをする。

そうして、脳の病気が治るようにと、わたしの頭とお賓頭盧様(おびんずるさま・なでると病気が治るとされる仏像)の頭をかわるがわるなでて、それから今度は自分の目をさする。

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さうして脳病のなほるやうに私の頭とお賓頭盧様びんづるさまの頭をかはるがはる撫でて、それから今度は自分の眼をさする。

お賓頭盧様は、てかてかした手あかだらけの木の肌をむき出しにし、大きな目をむいて、台の上に足を組んでいた。

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お賓頭盧様はてかてかした手垢だらけの木地をだし大きな眼をむいて台のうへに足を組んでゐた。

大日様には、あちこちのお寺にあるように柿色や花色の奉納の手ぬぐいが下がった掘りぬき井戸があって、物語に出てくる「阿波の鳴戸のお鶴」が持っている曲物(まげもの・木を曲げて作った容器)のひしゃくが浮いていた。

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大日様には方方のお寺にあるやうに柿色や花色の奉納の手拭のさがつた掘りぬき井戸があつて、草双紙に阿波の鳴戸のお鶴がもつてる曲物まげもの柄杓ひしやくが浮いてゐた。

伯母さんは、そのお水をありがたそうに手に受けて目を冷やしてから、小さくなった目を見開いてみて

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伯母さんはそのお水をありがたさうに手にうけて眼を冷してから小さくなつた目を見ひらいてみて

「お大日様のおかげで、ちいとはようなったような」

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「お大日様のお蔭でちいとはようなつたやうな」

と言う。

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といふ。

この大日様のおみくじは、とてもよく当たるという評判で、遠くからわざわざひきに来る人さえあった。

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この大日様のおみくじは大層よくあたるといふ評判で遠方からわざわざひきにくる人さへあつた。

それで伯母さんは、あるとき、わたしの病気がよくなるかどうかをうかがってみたことがあった。

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それで伯母さんはあるとき私の病身がよくなるかどうかを伺つてみたことがあつた。

お堂のわきの障子の立っているところへ行って

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お堂のわきの障子のたつてるところへいつて

「お頼み申します」

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「お頼み申します」

と言ったら

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といつたら

「はい」

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「はい」

と言って、頭を青々と剃った若いお坊さんが顔を出した。

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といつて頭を青青と剃つた若い坊さんが顔をだした。

伯母さんは一部始終を話して、おみくじを頼んだ。

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伯母さんは一部始終を話しておみくじを頼んだ。

お坊さんは本尊様の前へ行って、しばらく拝んでから、「がらり、がらり、がらがらがら」と調子をつけて何度も箱をふったのち、一本のおみくじをひいてきて、その文句をていねいに紙に書いてくれた。

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坊さんは本尊様のまへへいつて暫く拝んでから がらり がらり がらがらがら と調子をつけて幾度も箱をふつたのち一本のおみくじをひいてきてその文句を丁寧に紙に書いてくれた。

伯母さんは「四角い字」

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伯母さんは「四角い字」

が読めないので、お坊さんはいちいち意味を説明して聞かせたが、それは「この子は将来丈夫になって幸せになる」というものだったので、伯母さんはにこにこと喜んで帰ってきた。

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が読めないので坊さんはいちいち訳をといてきかせたが、それは この子は将来丈夫になつて仕合せをする といふのだつたものでほくほく喜んで帰つてきた。

十三

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十三

三十六メートルほどさびしいほうへ行くと、むくげの生け垣をめぐらした空き地に、五、六羽のにわとりを飼って、だがしを売っているおじいさんおばあさんがいた。

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一町ほど淋しいはうへゆくと木槿むくげの生垣をめぐらしたあき地に五六羽の鶏を飼つて駄菓子を売つてる爺さん婆さんがあつた。

わたしは、はじめて見るわら屋根や、破れた土壁や、「ぎりぎり」と音のする跳ね釣瓶(はねつるべ・井戸の水をくむ道具)などがひどく気に入って、伯母さんとそこへお菓子を買いにいくのが、大きな楽しみのひとつになった。

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私ははじめて見る藁屋根や、破れた土壁や、ぎりぎり音のする釣瓶つるべなどがひどく気にいつて伯母さんとそこへ菓子を買ひにゆくのが大きな楽しみのひとつになつた。

おじいさんおばあさんは耳が遠くて、呼んでもなかなか出てこない。

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爺さん婆さんは耳が遠くて呼んでもなかなか出てこない。

さんざん呼んでいると、そのうちやっとのことで出てきて、あちこちお菓子の箱のふたをあけてみせる。

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さんざ呼んでるとそのうちやつとこさと出てきてあつちこつち菓子箱の蓋をあけてみせる。

きんか糖、きんぎょく糖、てんもん糖、微塵棒(みじんぼう・棒状のお菓子)。

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きんか糖、きんぎよく糖、てんもん糖、微塵棒みぢんぼう

竹の羊かんは、口にくわえると青竹のにおいがして、つるりと舌の上にすべりだす。

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竹の羊羹は口にくはへると青竹の匂がしてつるりと舌のうへにすべりだす。

あめの中の「おたさん」の人形は、泣いたり笑ったりして、いろんな向きに顔を見せる。

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飴のなかのおたさんは泣いたり笑つたりしていろんな向きに顔をみせる。

青や赤のしま模様になったのを、こきりとかみ折って吸ってみると、す(細かいすき間)の中から甘い風が出る。

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青や赤の縞になつたのをこつきり噛み折つて吸つてみるとのなかから甘い風が出る。

いちばん好きだったのは、肉桂棒(にっけいぼう)というお菓子だった。

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いちばん好きなのは肉桂棒といふのだつた。

それは、あめの棒に肉桂(シナモン)の粉をまぶしたもので、こい甘みの中に、興奮させるような肉桂のにおいがする。

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それはあるへいの棒に肉桂の粉をまぶつたもので、濃厚な甘みのなかに興奮性な肉桂の匂がする。

あるひどい雨の日に、わたしはどういうわけか急におじいさんおばあさんがかわいそうになり、それと同時に肉桂棒がほしくなって聞かないので、伯母さんはわたしを半纏(はんてん)でおんぶして出かけたが、あいにく肝心の肉桂棒がなかったため、わたしはがっかりして泣いて帰ったことがあった。

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あるひどい雨の日に私はどうしてか急に爺さん婆さんが可哀さうになり、それと同時に肉桂棒がほしくなつてきかないので伯母さんは私を半纏おんぶして出かけたが、あいにく肝心の肉桂棒がなかつたため私はがつかりして泣いて帰つたことがあつた。

「牛の乳」

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「牛の乳」

をおとなしく飲んだり、ぐずらずによく遊んだりした日には、ごほうびにがらがら(おもちゃ)を買ってくれる。

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をおとなしくのんだり、むづからずによく遊んだりした日には御褒美にがらがらを買つてくれる。

桃やはまぐりの形を紅白に染め分けたのを背中でふって楽しみながら帰って、割ってみると、紙で作った小鼓やブリキ製の笛などが出る。

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桃や蛤の形の紅白に染めわけたのを背中でふつて楽しみながら帰つてわつてみると紙でこしらへた小鼓やブリツキ製の笛などがでる。

それを宝物みたいに大事にする。

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それを宝ものみたいに大事がる。

また、どろ色の皮で三角に包んで、合わせ目を役者の似顔絵で封じたものもあった。

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また泥色の皮で三角に包んで合せめを役者の似顔で封じたのもあつた。

十四

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十四

生まれつき体が弱いうえに、運動不足のため消化不良だったわたしは、みつばちの女王様みたいに、食べ物を口に押しつけられるまでは食べることを忘れていて、伯母さんにどれほど苦労させたかわからない。

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生れつきの虚弱のうへに運動不足のため消化不良であつた私は、蜂の王様みたいに食ひ物を口に押しつけられるまでは食ふことを忘れてゐて伯母さんにどれほど骨を折らせたかわからない。

羊かんの空き箱ににぎり飯をつめ、「お伊勢参り」という趣向で、伯母さんが先に立って庭の築山をぐるぐる回り歩いたあげく、石灯籠の前で柏手を打ってお参りをし、松のかげにある石に腰をかけてお弁当を食べたこともあった。

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羊羹のあき箱に握飯をつめ伊勢詣りといふ趣向で、伯母さんが先に立つて庭の築山をぐるぐるまはり歩いたあげく石燈籠のまへで柏手をうちお詣りをして、松の蔭にある石に腰をかけてお弁当をたべたこともあつた。

またあるときは、妹や乳母もいっしょに、待宵草(まつよいぐさ)の咲いている原っぱへ、のり巻きを持っていって食べたこともあった。

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またあるときは妹や乳母もいつしよに待宵の咲いてる原へ海苔まきをもつていつて食べたこともあつた。

杉やえのきやけやきなどの大木が立ちならんだがけの上から見わたすと、富士山、箱根、足柄などの山々が、こうこうと見える。

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杉や榎や欅などの大木が立ちならんだ崖のうへから見わたすと富士、箱根、足柄などの山山がかうかうと見える。

わたしは、いつになく喜んで昼ごはんを食べていたのに、運悪く向こうから人が来たので、すぐさまはしを放り出して「もう帰る」と言い出した。

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私はいつになく喜んで昼飯をたべてたのに折あしくむかふから人がきたものですぐさま箸をはふりだして もう帰る といひだした。

生き物の中では、人間がいちばんきらいだった。

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生きもののうちでは人間がいちばん嫌ひだつた。

そんな調子で、わたしが何を食べてもおいしがらないのを、伯母さんは独特の話しぶりで上手に味をつけて食べさせる。

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そんな風で私がなにを食べてもうまがらないのを伯母さんは独得の弁舌で上手に味をつけてたべさせる。

はまぐりのつくだ煮は、あのかわいいはまぐりが竜宮の乙姫様の前を舌を出してはってあるくという話のために、また、たけのこは、孟宗(もうそう)の親孝行の話がおもしろいばっかりに好きだった。

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蛤の佃煮はあの可愛い蛤貝が龍宮の乙姫様のまへを舌を出して這つてあるくといふことのために、また竹の子は孟宗の親孝行の話が面白いばつかりに好きであつた。

ふっくらしたたけのこを洗うと、もとのほうの節にそって、短い根と紫のいぼがならんでいる。

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むつくらした竹の子を洗へばもとのはうの節にそうて短い根と紫のいぼがならんでゐる。

その皮を日にすかしてみると、金色のうぶ毛が生えて、裏は象牙のように白く筋目が立っている。

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その皮を日にすかしてみると金いろのうぶ毛がはえて裏は象牙のやうに白く筋目がたつてゐる。

大きいのは頭にかぶり、小さいのは毛羽をおとして梅干しを包んでもらう。

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大きなのは頭にかぶり、小さなのはけばをおとして梅干を包んでもらふ。

しばらく吸っているうちに、皮が紅色に染まって、すっぱい汁がにじみ出てくる。

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暫く吸つてるうちに皮が紅色に染つてすつぱい汁が滲みだしてくる。

はちくというたけのこも好きだった。

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はちくも好きであつた。

土なべで「ぐつぐつ」煮ながら、いかにもおいしそうな様子をして煮えかえるたけのこの味を想像すると、さすがのみつばちの女王様も、奥歯のあたりに唾がわくのを感じた。

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土鍋でぐつぐつ煮ながらさもさもおいしさうな様子をして煮えくりかへる竹の子の味をきくのをみればさすがの蜂の王様も奥歯のへんに唾のわくのをおぼえた。

ときどき、わたしが甘えて自分ではしを取らないと、伯母さんは色をつけた小さな茶わんを口へあてがって

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ときどきあまえて自分で箸をとらないと伯母さんは彩色した小さな茶碗を口へあてがつて

「すずめごだ、すずめごだ」

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「すずめごだ すずめごだ」

と言いながら食べさせてくれる。

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といひながら食べさせてくれる。

たいは、見た目が美しく、頭に七つ道具があるのも、恵比寿様がかかえているのもうれしい。

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鯛は見た目が美しく、頭に七つ道具のあるのも、恵比寿様が抱へてるのも嬉しい。

目玉がおいしい。

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眼玉がうまい。

うわべはほくほくしながら、しんは弾力があって、いくらかんでもかみきれない。

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うはつらはぽくぽくしながらしんは柔靱でいくら噛んでも噛みきれない。

吐き出すと、半透明の玉が「かちり」と皿に落ちる。

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吐きだすと半透明の玉がかちりと皿に落ちる。

歯が白いのもよい。

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歯の白いのもよい。

十五

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十五

その頃、□□さんという気の変な人がいた。

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その頃□□さんといふ気ちがひがゐた。

昔から知っている人の話によれば、若いとき大変学問に熱中して、本ばかり読んでいるうちに思いあがって、気がふれたのだという。

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古い人の話によれば若いとき大変学問にこつて本ばかり読んでるうちに慢心して気がふれたのだといふ。

髪をぼうぼうにのばして、あかとすすとで木くずのようなものが生えた体に、焼けこげだらけのぼろを着て、太い竹の杖をついて、何か考えこみながら、夏も冬もはだしのまま、いかにも静かにさまよい歩く。

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髪を蓬蓬とのばして、垢と煤とでこけらの生えた身体に焼けこげだらけの襤褸ぼろをき、太い竹の杖をついてなにか考へこみながら夏となく冬となく跣のままさもしづかにさまよひあるく。

昔を知っている人たちが気の毒がって、おにぎりなどをやると、鉢を持つような形で大切に手にのせて帰っていくが、たまたま身につけるものを施す人があっても、しぶしぶ一日二日着るだけで、すぐにもとのぼろに着替えてしまう。

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昔を知つてる人たちが気の毒がつてむすびやなどやると鉄鉢をもつやうな形に大切に手にのせて帰つてゆくが、たまたま身につけるものを施す人があつても不承不承に一日ふつか著るばかりでぢきにもとの襤褸と著かへてしまふ。

彼は、わたしの家から二百メートルほどはなれた、ある農家のそばに穴を掘って、その中で一年じゅうたき火をしていた。

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彼は私の家から二町ほどはなれたある農家のそばに穴を掘つて、そのなかで年ぢゆう焚き火をしてゐた。

そうして、気の向いたときには穴から出かけ、足の向くほうへ行きたいだけ行って、いやになるとくるりと向きを変えて戻ってくる。

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さうして気のむいたときには穴から出かけ、足のむくはうへ行きたいだけいつて、いやになればくるりと向きなほつて戻つてくる。

そんなふうに、雨の日も風の日も何度となくそのあたりを歩きまわるのがふつうだった。

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そんなにして雨の日も風の日も何遍となくそのへんを歩きまはるのが常であつた。

それゆえ、どうかして一日その姿が見えないことがあると、人は「今日は□□さんが機嫌が悪いのだ」と言い、また三、四日も続けて出ないときには、「加減が悪いのではないか」と言って気の毒がったりした。

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それゆゑどうかして一日その姿が見えないことがあると人は 今日は□□さんが機嫌がわるいのだ といひ、また三日四日も続けて出ないときには かげんがわるいのぢやないか といつて気の毒がつたりした。

おかしなことに、彼は道で女の人と行き会うと、二足三足あとへさがって、いかにもきたなそうに「ぺっぺっ」とつばをはく。

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をかしなことに彼は往来で女に行きあへば二足三足あとへさがつてさも穢はしさうにぺつぺつと唾をはく。

きれい好きな伯母さんは、はじめて□□さんを見たときから、そのあか臭いのを気にして、彼が三足さがらないうちにこちらから引き返してしまうくらいだったが、ある日、わたしをおぶっていつものだがし屋へ行く途中でばったり出くわしたら、伯母さんはこらえきれずに

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潔癖な伯母さんははじめて□□さんを見たときからその垢臭いのを気にして彼が三足さがらないうちにこちらから引返してしまふくらゐだつたが、ある日私をおぶつてれいの駄菓子屋へゆく途中でばつたり出くはしたら伯母さんはこらへかねて

「五銭あげるで、頼むに顔洗っとくれんか」

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「五銭あげるで、頼むに顔洗つとくれんか」

と言って、帯のあいだから財布を出しかけた。

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といつて帯のあひだから財布を出しかけた。

それには、さすがの□□さんも少しおどろいたように立ちどまったが、いかにもいまいましそうに首をふり、つばを吐くのさえ忘れて、足早に帰っていった。

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それにはさすがの□□さんもすこし驚いたやうにたちどまつたが、さもさもいまいましさうに首をふり唾を吐くのさへ忘れて足ばやに帰つていつた。

この気の変な人は、その後、わたしが一人前の腕白になるまでも生きていたが、ある日のこと、「□□さんが昨夜のうちに焼け死んだ」といううわさが立ったので、こわごわその穴をのぞきにいったら、いつもの竹の杖が、そだ(燃料用の枝)といっしょに焼け残っているばかりで、□□さんの姿は見えなかった。

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この狂人はそののち私が一人前の腕白になるまでも生きてたが、ある日のこと □□さんが昨夜のうちに焼け死んだ といふ噂がたつたのでこはごはその穴を覗きにいつたら、いつもの竹杖が粗朶そだといつしよに焼け残つてるばかりで□□さんの姿は見えなかつた。

十六

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十六

伯母さんは「木の実どち」

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伯母さんは「木の実どち」

をして遊ばせると言って、白玉椿の実を落としてくれたが、目が悪いのと力がないのとで、ねらいをはずして枝葉ばかりたたき落とした。

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をして遊ばせるといつて白玉椿の実を落してくれたが眼が悪いのと力がないのとで狙ひをはづして枝葉ばかり叩き落した。

木の実どちというのは伯母さんの国の遊びで、つばきの種のうち決められた形のものからいくつかを選んで、めいめいが同じ数だけ出しあい、それをいっしょにしてひとりずつかわるがわる両手の中でふってから畳の上にあけてみて、白い芽のあとが多く上に出たものを勝ちとして、種の取りっこをするのである。

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木の実どちといふのは国の遊びで、椿の種子のあるきめられた形のもののうちからいくつかを択んでめいめいが同じ数だけ出しあひ、それをいつしよにしてひとりづつかはるがはる両手のなかでふつてから畳のうへにあけてみて、白い芽の痕が多く上に出たものを勝ちとして種子のとりつこをするのである。

その形と重心の関係によって、種には勝負の上での強い弱いがある。

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その恰好と重心の関係によつて種子に勝負のうへの強弱がある。

中には、うるしをぬって飾ったり、強くするためにずるく鉛をつめこんだりするものもあるという。

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なかには漆を塗つて飾つたり、強くするために狡猾に鉛をつぎこんだりするものもあるといふ。

落とした実を拾い集めて殻をわると、船のようなのや、かぶらのようなのや、つやつやしたのが、しきりの中にぴったりとくいあっている。

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落した実を拾ひあつめて殻をわると舟のやうなのや、かぶらのやうなのや、つやつやしたのが隔壁のなかにしつくりとくひあつてゐる。

その形にしたがって「もう」「じゃあ」「とこ」「かい」などと呼ばれる。

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その形にしたがつて もう、じやあ、とこ、かい などと呼ばれる。

そんなふうに五、六十の種を集めて、静かな雨の日を木の実どちをして過ごしたこともあった。

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そんなにして五六十の種子をあつめて静な雨の日を木の実どちをして暮したこともあつた。

夏になると、いろいろな形をした雲のかたまりが、日光にあふれてぎらぎらする空を動いていくのを、伯母さんは「あれは文殊様だの、あれは普賢菩薩様だの」と、まことしやかに教えた。

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夏になればいろいろな形をした雲の塊が日光にあふれてぎらぎらする空を動いてゆくのを伯母さんは あれは文殊様だの、あれは普賢菩薩様だのとまことしやかに教へた。

ある日のこと、遊びつかれたわたしはひとり寝ころんで、自分を守ってくださる仏様の姿に似た雲がくるのを眺めていた。

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ある日のこと遊び疲れた私はひとり寐ころんで自分をまもつてくださる仏様の姿に似た雲のくるのを眺めてゐた。

そうしたら、ちょうどそこを通りかかった雲の、観音様が仰向けになったような形が不意にくずれて、おそろしい形になったので、わたしはお化けが観音様になって自分をとりに来たのかと思って、あわてて伯母さんのところへ逃げていった。

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さうしたらちやうどそこへ通りかかつた雲の、観音様の仰むけになつたやうなのが不意に崩れて恐しい形になつたので、私は化けものが観音様になつてとりにきたのかと思つてあわてて伯母さんのところへ逃げていつた。

それからわたしは、そういう形の雲を「死人(しびと)観音」と名づけて、その姿を見るとすぐにかくれてしまった。

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それから私はさういふ形の雲を死人しびと観音と名づけてその影をみればすぐにかくれてしまつた。

皮のかばんには、山崎合戦の戦いの道具のほかにおもちゃも入っていたが、中でも鼓と笙(しょう)の笛は大事な宝物だった。

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皮籠には山崎合戦の戦道具のほかにおもちやもはひつてたが、なかにも鼓としやうの笛は秘蔵の宝ものであつた。

笙の笛の黒ぬりのつぼには、からくさ模様の蒔絵(まきえ)がしてある。

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笙の笛の黒塗の壺には唐草の蒔絵がしてある。

その輪の形にならんだ長い短い管が「ひゅひい」とやわらかいいろいろな音を出すのが、弱い神経にちょうどいい心地よさをあたえる。

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その輪がたにならんだ長い短い管の ひゆひい と柔い雑多な音をだすのが弱い神経に程よい快感をあたへる。

鼓は、わたしの小さな肩にちょうどよいくらいのもので、赤いひも、おもしろい胴の形など、みな気に入っていた。

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鼓は私の小さな肩にふさはしいほどのもので、緋のしらべの緒、面白い胴の形などみな気にいつてゐた。

何でもちょいちょいかじっている器用な伯母さんは、人に鼓を打たせながら、自分は太鼓を大きな太鼓に見立てて、ちょうどいい調子で拍子をあわせる。

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なんでもちよいちよいかじつてる重宝な伯母さんはひとに鼓をうたせながら自分は太鼓を大革にしていい按排に拍子をあはせる。

そのほか、おしろいのはけにしたうさぎの手だの、ほねが立ったときのどをさするつるのくちばしだの、目貫(めぬき・刀のかざり)をどうにかする真ちゅうの小づちだの、細かいものは、小さな引き出しのたくさんついたたんすの「□ぽんの引き出し」というのにしまってあった。

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そのほかおしろい刷毛ばけにした兎の手だの、骨のたつたとき喉をさする鶴の嘴だの、目貫めぬきをどうとかする真鍮の才槌だの、細かいものは小抽匣の沢山ついた箪笥の□ぽんの抽匣といふのにしまつてあつた。

わたしは、その中でどれがほしいというようなことを、ついぞ言ったことがなく、伯母さんがあれかこれかと、ひとつひとつ出して見せて、うまく当たるまでは首をふってぐずぐず言っているが、たいていの時はいつもの犬の置物と牛を出されると機嫌がなおってしまう。

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私はそのなかでどれがほしいといふやうなことはつひぞいつたことがなく、伯母さんがあれかこれかとひとつひとつ出してみせてうまくあたるまでは首をふつてぐづぐづいつてるが、大抵の時はれいのお犬様と牛を出されれば機嫌がなほつてしまふ。

何か気に入らなくて手あたりしだいに放り出すと、伯母さんは腹も立てずに、どこか具合が悪いのではないかと心配して、すぐに額をおさえてみる。

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なにか気にいらなくて手あたりしだいにはふりだすと腹も立てずにどこかわるいのではないかと心配してぢきに額を押へてみる。

熱があれば、すぐにお医者様へ連れていかれるのである。

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熱があればすぐにお医者様へつれてゆかれるのである。

それがいやなので、額をおさえられるとへなへなとおとなしくなってしまう。

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それがいやさに額をおさへられるとへなへなとおとなしくなつてしまふ。

菊のさくころなら、伯母さんは

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菊のさくころならば伯母さんは

「菊毛せんを作ってあげるに、おとなしゅうせるだよ」

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「菊毛氈をつくつたげるにおとなしうせるだよ」

と裏畑から菊をとってきて、菊毛せんを作ってくれる。

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と裏畑から菊をとつてきて菊毛氈をこしらへてくれる。

それは、いろいろな菊のさまざまな花びらをアラビア模様のように紙にしいて、しばらく重しをかけてから出してみると、香りのいい毛せんになっているのである。

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それはいろいろの菊のさまざまの花びらを亜剌比亜模様のやうに紙にしいて暫く圧しをかけてから出してみると匂のいい毛氈になつてるのである。

わたしは、菊毛せんが大好きだった。

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私は菊毛氈が大好きだつた。

また、本箱にいっぱいある物語の本をぶちまけて、気の長い伯母さんに、あとからあとへと話させることもあった。

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また本箱にいつぱいある草双紙をぶちまけて気のながい伯母さんにあとからあとへと話させることもあつた。

何か叱られて泣いたあげく、さんざんすねて、あれこれとなだめに来るのさえ腹立たしく、部屋のすみにひとり引っこんで、物語の本を広げたりおもちゃをいじくったりしてなぐさめていると、犬の置物や、牛や、小づちや、物語の本の中のお姫様などが、ものは言わないが親切にいたわってくれる。

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なにか叱られて泣いたあげくさんざすねて、なんのかのとすかしにくるのさへ腹だたしく、部屋の隅にひとりひつこんで草双紙をひろげたりおもちやをいぢくつたりして慰めてると、お犬様や、牛や、才槌や、草双紙のなかのお姫様などがものこそいはないが親切にいたはつてくれる。

そうされると、泣きやんだくやし涙がまたとめどもなくわきだして、泣きじゃくりしながら

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さうされれば泣きやんだくやし涙がまたとめどもなく湧きだして泣きじやくりしながら

「こんなに味方があるからいいやい」

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「こんなに味方があるからいいやい」

という気になって、みんなをうらんでいる。

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といふ気になつてみんなを恨んでゐる。

十七

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十七

夜は茶の間に集まっているみんなのそばでおもちゃをぶちまけて遊んでいるうちに、眠けがさしてくると、あれもこれも気にさわるので、かゆい目玉をこすりこすりぐずっていると、伯母さんは

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夜は茶の間に集つてるみんなのそばでおもちやをぶちまけて遊んでるうちに、睡けがさしてくればあれもこれも癪にさはるのでかゆい眼玉をこすりこすりむづかつてると、伯母さんは

「まあ眠なったかよ」

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「まあねむなつたかよ」

と言いながら、散らばったおもちゃをかたづけ、半分無理やり首すじをおさえつけて、みんなに「ごきげんよう」を言わせるのを、「寝ない、寝ない」と意地をはりながら、寝間へ引っぱられていく。

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といひながらちらばつたおもちやをかたづけ半分力づくに頸すぢをおさへつけてみんなに 御機嫌よう をいはせるのを、寐ない 寐ない と意地ばりながら寐間へひつぱられてゆく。

そこで伯母さんはわたしを、乳母は妹を抱いて寝ることになっていた。

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そこに伯母さんは私を、乳母は妹を抱いてねることになつてゐた。

日が暮れるとすぐに行灯(あんどん)に火をともし、床をのべて、機嫌が悪くなりしだい寝られるようにしてある。

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日がくれるとぢきに行燈あんどんをともし、床をのべて、機嫌のわるくなりしだい寐られるやうにしてある。

冬なら、何枚も重ねた寝巻きがあんかにかかって、湯気が立つほどあたたまっているのを、大げさな様子をして「ふうふう」吹きながら、やせた体にほっこりとまとってくれる。

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冬ならば幾枚もかさねた寐巻があんかにかかつて湯気のたつほど温まつてるのを仰山な様子をしてふうふう吹きながら痩せた身体にほつこりと纏つてくれる。

かけ布団のひとつは菊の模様、ひとつは更紗(さらさ)のえび色がかった地に、菊いただきや木の枝などがついた、外国渡来らしいものだったが、その日なたくさいのがよくて、ふっくらしたところへうつぶせに顔をうずめて、においをかぐのが好きだった。

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かけ蒲団のひとつは菊の模様、ひとつは更紗の海老色がかつた地に菊いただきや木の枝などついた舶来らしいものだつたが、その日向くさいのがよくて、ふつくらしたところへうつ伏せに顔をうづめて匂をかぐのが好きであつた。

わたしが明かりの暗いのをこわがるので、伯母さんはわたしを床に入れたあとで、行灯の引き出しから新しいとうしんを一本出して、つぎたしてくれる。

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私があかりの暗いのを怖がるもので、伯母さんは私を床にいれたあとで行燈の抽匣から新規に燈心をひとすぢ出してつぎそへてくれる。

先をちょいと油にしめして、どっぷりと沈んでいる古いもののそばに並ばせると、「ぱりぱり」と火花が散って火がうつる。

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先をちよいと油にしましてずつぷりと沈んでる古いののそばへ並ばせるとぱりぱりと火花がちつて火がうつる。

そして、火皿からあまったところが「ふらふら」と後ろへ出るのを、手をぶるぶるふるわせながらやっとかきあげて、油つぼの口から「とくとく」とあめ色のたね油をつぐ。

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そして火皿からあまつたところがふらふらと後へ出るのを手をぶるぶるふるはせながらやつとかきあげて油壺の嘴からとくとくと飴色の種油をつぐ。

ふかふかしたとうしん、それにじっと油のしみる具合、とうしんおさえの形、油が煮える香りなど。

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ふかふかした燈心、それにぢいつと油のしみる具合、燈心おさへの恰好、油の煮える匂など。

わたしは、油の中に虫の死がいが黒く沈んでいるのと、皿のふちにちょうじ(燃えかす)がへばりついているのが、何よりきらいだった。

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私は油のなかに虫の死骸が黒く沈んでるのと皿のふちに丁字がへばりついてるのがなにより嫌ひだつた。

それで、伯母さんは毎日油をかえて、切り出しの刃のつぶれたもので「がりがり」とちょうじを落としてくれる。

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で、伯母さんは毎日油をかへてきりだしの刃のつぶれたのでがりがりと丁字をおとしてくれる。

この臆病者には、行灯というものがなんとなく気味が悪い。

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この臆病者には行燈といふものがなんとなく気味がわるい。

眠たい目を見はって床の中から眺めていると、ちょうじがしらを心に紡錘形(ぼうすいけい・糸巻きのような形)に立っている炎が切れ長のひとつ目に見え、また、鼻の先を焦がしそうに顔をつっこんでとうしんをかきたてる伯母さんのかげ法師が、行灯の紙にとほうもなく大きくうつるのを見ると、何かが化けて出てきているのではないかという気がした。

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ねむたい目をみはつて床のなかから眺めてると丁字がしらを心に紡錘形ばうすゐけいにたつてる焔がきれの長いひとつ目にみえ、また鼻のさきを焦しさうに顔をつつこんで燈心をかきたてる伯母さんの影法師が行燈の紙に途方もなく大きくうつるのをみればなにかが化けてきてるのぢやないかといふ気がした。

伯母さんは引き出しにマッチをしまいながら、火に誘われて焼け死んだ虫たちの後生(ごしょう・死後の幸せ)のためにお念仏を唱える。

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伯母さんは抽匣へ燐寸をしまひながら火に誘はれて焼け死んだ虫たちの後生のためにお念仏をとなへる。

わたしはまた、明かりのとどかない床の間の天井に魔物がいるような気がして、眠れないことがあった。

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私はまたあかりのとどかない床の間の天井に魔がゐるやうな気がしてねられないことがあつた。

すると伯母さんは

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さうすると伯母さんは

「やっとこさ」

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「やつとこさ」

と行灯をさげて天井を照らしてみて

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と行燈をさげて天井を照してみて

「なんにもをれせん、なんにもをれせん」

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「なんにもをれせん なんにもをれせん」

と言って、わたしを安心させる。

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といつて私に安心させる。

魔物というものは、髪をばあっと下げたどす黒いもののように思っていた。

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魔といふものは髪をばあつとさげたどす黒いもののやうに思つてゐた。

伯母さんは

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伯母さんは

「夜中にこわかったら呼ばんしょ、伯母さんはきついで、みんな逃げてしまうに」

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「夜なかに怖かつたら呼ばらんしよ、伯母さんはきついでみんな逃げてしまふに」

と言って、いろんな話をしながら寝かせつけてくれる。

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といつていろんな話をしながらねせつけてくれる。

四角い字(漢字)こそ読めないが、おどろくほど物知りだった伯母さんは、ほとんど無尽蔵に話のたねを持っていた。

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四角い字こそ読めないが驚くほど博聞強記であつた伯母さんは殆ど無尽蔵に話の種をもつてゐた。

おまけに、どうかして忘れたところは、勝手な想像でちょうどよく続けていくことに長けていた。

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おまけにどうかして忘れたところは勝手な想像でいい按排につづけてゆくことに妙を得てるのであつた。

そうして、侍であれ、お姫様であれ、それぞれの表情と声色を使って、しまいにはお化けの顔までしてみせるのが、行灯のうす暗い光に照らされて、本物のようにせまって見えた。

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さうして侍であれ、お姫様であれ、それぞれの表情と声色をつかつて、しまひには化けものの顔までしてみせるのが行燈のうす暗い光に照されて真にせまつてみえた。

十八

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十八

中でもあわれだったのは、賽の河原(さいのかわら・死んだ子どもが行くとされる場所)に石を積む子どもの話と、千本桜の初音の鼓の話だった。

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なかでもあはれなのは賽の河原に石をつむ子供の話と千本桜の初音の鼓の話であつた。

伯母さんは悲しげな調子で、あの巡礼の歌をひとくさりうたっては、説明を加えていく。

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伯母さんは悲しげな調子であの巡礼唄をひとくさりうたつては説明をくはへてゆく。

その十分なわけはのみこめないのだが、母親のおなかの中で母親に苦労をかけながら恩を返さずに死んだため、塔を立てて罪のつぐないをしようと、さびしい賽の河原にとぼとぼと石を積んでいるのを、鬼が来て鉄棒でつきくずして、ひどい目にあわせる。

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その充分なことわけはのみこめないのだが、胎内で母親に苦労をかけながら恩を報いずに死んだため塔をたてて罪の償ひをしようと淋しい賽の河原にとぼとぼと石を積んでるのを鬼がきては鉄棒かなぼうでつきこはしてひどいめにあはせる。

それをやさしいお地蔵様がかばって、法衣のそでの下にかくしてくださる、というのを聞くたびに、わたしは息のとまりそうな暗い気持ちにおしつぶされ、またかわいそうな子どもの身の上がしみじみと思いやられて、しゃくりあげしゃくりあげ泣くのを、伯母さんは背中をなでて

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それをやさしい地蔵様がかばつて法衣の袖のしたにかくしてくださる といふのをきくたんびに、私は息のとまりさうな陰鬱な気におしつけられ、また可哀さうな子供の身のうへがしみじみと思ひやられてしやくりあげしやくりあげ泣くのを、伯母さんは背中をなでて

「ええは、ええは、お地蔵様がおいであそばすで」

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「ええは ええは、お地蔵様がおいであそばすで」

と言う。

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といふ。

お地蔵様といえば、道ばたに杖をついて立っている、あの石仏そのままの仏様だと思っていた。

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地蔵様といへば路ばたに錫杖をついてたつてるあの石仏のとほりの仏様だと思つてゐた。

仏のように優しい伯母さんの手ひとつで育てられて、けものと人間とのあいだに何の区別もつけなかったわたしは、親の生きた皮をはがれた、あわれな子ぎつねの話を、身につまされて聞いた。

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仏性の伯母さんの手ひとつに育てられて獣と人間とのあひだになんの差別もつけなかつた私は親の生皮を剥がれたふびんな子狐の話を身につまされてきいた。

親の白ぎつねは、皮をはがれながら「わが子かわいや、わが子かわいや」と鳴いたという。

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親の白狐は皮を剥がれながら わが子かはいや わが子かはいや といつて鳴いたといふ。

これは、わたしの知っている鼓についての三つの話のうちで、いちばんあわれな話である。

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これは私の知つてる鼓についての三つの話のうちの最もあはれな話である。

それは、不思議な雲につつまれて天から降った鼓でもなく、つれない人が絹の織物で張ったという音の出ない鼓でもなく、大和の国の野原にすむきつねの皮で張った、ただの鼓が、親子の愛情に引かれてわが子を思う声を出したというのである。

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それは神秘の雲につつまれて天から降つた鼓でもなく、つれない人が綾で張つたといふ音なしの鼓でもなく、大和の国の野原にすむ狐の皮で張つたただの鼓が恩愛の情にひかれてわが子を思ふ声をだしたといふのである。

わたしは今でもこの話を思い出すと、昔ながらの感情がわきおこるのを感じる。

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私は今でもこの話を思ひだせば昔ながらの感情の湧きおこるのをおぼえる。

伯母さんはまた、百人一首の歌をすっかり暗唱していて、床に入ってから独特のものさびしい節をつけて、一晩に一首二首と根気よく覚えさせた。

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伯母さんはまた百人一首の歌をすつかりそらんじてゐて、床へはひつてから一流のものさびしい節をつけて一晩に一首二首と根気よくおぼえさせた。

伯母さんが

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伯母さんが

「たちわかれ」

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「たちわかれ」

と言う。

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といふ。

わたしが

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私が

「たちわかれ」

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「たちわかれ」

とあとに続く。

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とあとをつく。

「いなばのやまの」

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「いなばのやまの」

「いなばのやまの」

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「いなばのやまの」

「みねにおふる」

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「みねにおふる」

「みねにおふる」

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「みねにおふる」

そんなふうにしているうちに、いつのまにか眠ってしまう。

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そんなにしてるうちにいつか寐入つてしまふ。

よく覚えたときは

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よくおぼえたときは

「あしたごほうびをあげるに、まあねるだよ」

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「あした御褒美をあげるにまあねるだよ」

と言って、たたきつけるようにして寝かせてくれる。

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といつて叩きつけてねせてくれる。

わたしが歌を早く覚えるのを、たいへんえらい子ででもあるかのように思って、伯母さんは、あくる日母などに

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私が歌をはやくおぼえるのをたいへんなえらい子ででもあるかのやうに思つて伯母さんは明る日母などに

「ゆんべはふたあつも、じきに覚えた」

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「ゆんべはふたあつもぢつきにおぼえた」

などと自慢そうに話したりした。

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なぞと自慢らしく話したりした。

わたしは、わからないながらも、歌の中の知っている言葉だけを集めて、ぼんやりと一首の意味を想像し、それに読み上げる声の感じを添えて、深い感興をおぼえていた。

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私はわからぬながらも歌のなかの知つてる言葉だけをとりあつめておぼろげに一首の意味を想像し、それによみ声からくる感じをそへて深い感興を催してゐた。

そのころ、わたしは古い歌がるたを持っていたが、それには一枚の札の中に歌と、その歌にあわせた絵がかいてあって、けばだって消えかかってはいたけれど、それでも松に雪がふりつもっているところや、紅葉の下に鹿が立っているところなど、ぼんやりと見分けられた。

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そのじぶん私は古い歌がるたをもつてたが、それには一枚のふだのなかに歌と歌にあはせた絵がかいてあつて、けばだつて消えかかつてはゐたけれどそれでも松に雪のふりつもつてるところや、紅葉のしたに鹿の立つてるところなどぼんやりと見わけられた。

また、百人一首の綴じ本もあった。

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また百人一首の綴ぢ本もあつた。

歌の好き嫌いは、かるたの絵と、詠み人の姿、顔かたちによっても決められる。

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歌の好き嫌ひはかるたの絵とよみ人の姿、顔かたちによつてもきめられる。

好きな歌は、末の松山の歌、淡路島の歌、大江山の歌など。

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好きな歌は末の松山の歌、淡路しまのうた、大江山の歌など。

末の松山の歌は、わたしの耳になんともいえないやわらかくものさびしい響きを伝えて、かるたの絵には、松の浜に美しく波がよせていた。

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末の松山のうたは私の耳にいひしらぬ柔なものさびしい響きをつたへて、かるたの絵には松の浜に美しく波がよせてゐた。

淡路島の歌は涙をさそう。

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淡路島の歌は涙をさそふ。

海の上を舟が行き、千鳥が飛んでいく。

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海のうへを舟がゆき、千鳥が飛んでゆく。

大江山の歌を聞くと、お姫様が鬼にとられてその山奥へ連れていかれる物語を思い出さずにはいられなかった。

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大江山の歌をきけばお姫様が鬼にとられてその山奥へつれられてゆく草双紙の話を思ひださずにはゐられなかつた。

僧正遍照(そうじょうへんじょう)や前大僧正行尊(さきのだいそうじょうぎょうそん)などというしわくちゃなお坊さんは大きらいだったが、蝉丸(せみまる)だけは、名前からもかわいらしかった。

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僧正遍照や前大僧正行尊などといふ皺くちやの坊さんは大嫌ひだつたが蝉丸だけは名まへからも可愛かつた。

十九

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十九

雪の夜には、伯母さんはあんかの炭団(たどん)をかきおこしながら「雪坊主が白い着物を着て戸の外に立っている」などと言って人をおどかす。

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雪の夜には伯母さんはあんかの炭団たどんをかきおこしながら 雪坊主が白い著物をきて戸のそとに立つてゐる なぞといつて人をおどかす。

暑いときには寝苦しがるのをあおいでくれるうちわの絵にも好みがあって、好きなのでなければなかなか寝つかない。

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暑いときには寐苦しがるのをあふいでくれる団扇の絵にも好みがあつて好きなのでなければなかなか寐つかない。

いいにおいのする蚊帳の中で、外を飛ぶ蚊の声を聞きながら、いたずらに骨をひとつ折ってみたりしていると、隣の寺のやぶに、ふくろうが来て鳴く。

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いい匂のする蚊帳のなかでそとを飛ぶ蚊の声をききながらいたづらに骨をひとつ折つてみたりしてると隣の寺の藪へごろすけがきて鳴く。

伯母さんは

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伯母さんは

「ぽっぽ鳥は悪い鳥で、ひと声に蚊を千匹吐くげな。あすは蚊がえらいぞよ」

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「ぽつぽどりは悪い鳥でひと声に蚊を千匹つ吐くげな。あすは蚊がえらいぞよ」

などと言う。

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なぞといふ。

涼しい風がたつころになると、こおろぎが鳴きはじめる。

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すず風がたつころになればこほろぎが鳴きはじめる。

あるとき、かわいがってやろうと思って蛍かごに入れておいたところ、二声か三声鳴いたきりだまっているので、そっとのぞいてみたら、かごに張った目の細かい布をかみ破って、みんな逃げてしまっていた。

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あるとき可愛がつてやらうとおもつて蛍籠にいれておいたところ二声か三声ないたぎり黙つてるのでそうつとのぞいてみたら籠にはつた絽をくひ破つてみんな逃げてしまつてゐた。

その鳴き声を聞くと、子ども心にもなんとなく、秋が来るさびしさを感じる。

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その声をきけば子供心にもなにがなし立つ秋のさびしさをおぼえる。

伯母さんは「さむなったに、つづれさせ」と鳴くのだと言い、乳母は妹に「ちちのめ、ちちのめ、ちちのむとくいつくぞ」と鳴いているのだと言う。

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伯母さんは さむなつたにつづれさせ と鳴くのだといひ、乳母は妹に ちちのめ ちちのめ ちちのむとくひつくぞ と鳴いてるのだといふ。

朝、どうかして早く目をさますと、少林寺のまきの木に巣をつくっているからすの声が聞こえるのを、伯母さんは

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朝どうかして早く目をさますと少林寺のまきの木に巣をくつてる烏の声がきこえるのを伯母さんは

「まんだ一番がらすだに、まっとねるだよ」

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「まんだ一番烏だにまつとねるだよ」

と言って、なかなか起こしてくれない。

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といつてなかなか起してくれない。

二番がらすが鳴いて三番がらすが鳴くと、やっと起こしてくれる。

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二番烏が鳴いて三番烏がなくとやつと起してくれる。

そんなことを言って、ちょうどいい時間まで寝かせておくのだった。

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そんなことをいつてちやうどいいじぶんまで寐かせておくのであつた。

夕方になると、寝間の前のこんもりした木のしげみに、大勢のすずめがねぐらを求めに来て、首をふってくちばしをといだり、枝を取りあってつつきあったりして騒ぐ。

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夕がたになれば寐間のまへのこんもりした珊瑚樹のしげみに大勢の雀がねぐらをもとめにきて首をふつて嘴をといだり、枝をあらそつてつつきあつたりして騒ぐ。

太陽がかくれて、やがて残りのうすい光も消えていくと、ひとつふたつと「ちゅく、ちゅく」と寝おくれていたのまでが、だまって静かになってしまう。

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おてんと様がかくれてやがて残りのうすい光も消えてゆけばひとつふたつ ちゆく、ちゆく と寐おくれてたのまでが黙つて静になつてしまふ。

そのすずめたちをお友だちのように思って、三番がらすが鳴いてもまだ起きずにいると、ねぐらを出ていく彼らが「ちゅうちゅう」と言い出すのを、自分の寝坊を笑っているような気がして、大急ぎで床を出る。

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その雀たちをお友だちのやうにおもつて、三番烏が鳴いてもまだ起きずにゐるとねぐらをたつてゆく彼らがちゆうちゆういひだすのを自分の寐坊を笑つてるやうな気がして大急ぎで床をでる。

その木は、名前のとおり真紅の実を結ぶ。

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珊瑚樹はその名にそむかぬ真紅の実をむすぶ。

やわらかいこけの上に落ちているのを拾うのもうれしい。

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柔な苔のうへに落ちてるのを拾ふのもうれしい。

二十

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二十

三、四十坪ほどの裏の空き地は、半分が花壇に、半分が畑になっていた。

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三四十坪ほどの裏のあき地はなかば花壇に、なかば畑になつてゐた。

夏のはじめのころになると、垣根の外を苗売りが涼しい声をして通る。

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夏のはじめのころになれば垣根のそとを苗売りがすずしい声をしてとほる。

伯母さんはそれを呼んで、野菜の苗を買う。

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伯母さんはそれを呼んで野菜ものの苗をかふ。

わらで作った箱の中に、しっとりと水分をふくんだ細かい土が入っていて、いろいろな苗が生き生きと二葉を出している。

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藁でこしらへた箱のなかにしつとりと水けをふくんだ細かい土がはひつて、いろいろな苗がいきいきと二葉をだしてゐる。

すげがさをかぶった苗売りの男が、いかにも大事そうにそれをすくいだす。

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菅笠をかぶつた苗売りの男がさも大事さうにそれをすくひだす。

伯母さんは、なすやうりなどをすこしずつ買って、畑に植える。

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伯母さんは茄子だの瓜だのをすこしづつかつて畑へうゑる。

なすの紫がかった苗、かぼちゃやへちまのうす白く粉をふいたような苗が、楕円形の二葉をそよがせているのを、朝晩ふたりでじょうろで水をかけてやる。

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茄子の紫がかつた苗、南瓜かぼちや糸瓜へちまのうす白く粉をふいたやうな苗が楕円形の二葉をそよがせてるのを朝晩ふたりして如露で水をかけてやる。

苗は見るたびに成長して、つるが出たり、葉が出たり、しまいには畑じゅうにはいまわって、大きな実をぶらさげる。

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苗は見るたんびに成長して、蔓がでたり、葉がでたり、しまひには畑ぢゆうのたくりまはつて大きな実をぶらさげる。

それを楽しみにして見にいく。

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それを楽しみにして検分にゆく。

そんな世話好きな伯母さんが、愚痴を言いながら竹を立てて手をとってやると、ひと巻きふた巻きと日に日につるが巻きついて、あらっぽい葉のあいだに黄色や紫の花がさく。

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そんな世話のすきな伯母さんは愚痴をいひいひ竹を立てて手をとつてやるとひと巻きふた巻きと日に日に蔓がまきついて、あらつぽい葉のあひだに黄いろや紫の花がさく。

そこへ丸っこいあぶが来て、わがもの顔に飛びまわっては花の中へもぐっていく。

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そこへ丸つこいあぶがきてわがもの顔に飛びまはつては花のなかへもぐつてゆく。

むだ花がころころと落ちるうちに、ほんとうの花の根もとにふくらみができて、平たくなり、細長くなりして、世に言う唐なすやかぼちゃの形ができあがる。

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むだ花がころころと落ちるうちにほんとの花の根もとにふくらみができて、平たくなり、長細くなりして、世にいふ唐茄子や南瓜の形ができあがる。

なすの巾着のような形、へちまのぬうっとした形、つぶつぶしてにくらしいきゅうりなど。

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茄子の巾著なり、糸瓜のぬうつとした恰好、つぶつぶしてにくらしい黄瓜など。

葉をどけてみて、思いがけない実がなっているのを見つけたときのうれしさはない。

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葉をのけてみて思ひよらぬ実のいつたのを見つけたときの嬉しさはない。

なた豆、ふじ豆、ちび筆に似たねぎの花。

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なた豆、ふぢ豆、ちび筆ににた葱の花。

あるとき、唐なすの苗を買って植えたら、育つにつれて様子が変わってきて、とうとうひょうたんになった。

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あるとき唐茄子の苗をかつて植ゑたらそだつにしたがひ様子がかはつてきてたうとう瓢箪になつた。

わたしは、いくつもぶらさがったひょうたんを見て大喜びだったが、伯母さんは苗売りにまんまと一杯くわされたのをくやしがって、ろくに世話をしてやらなかったので、みんな落ちてしまった。

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私はいくつとなくぶらさがつた瓢箪をみて大喜びだつたが伯母さんは苗売りにまんまと一杯くはされたのをくやしがつてろくに世話をしてやらなかつたものでみんな落ちてしまつた。

それからは、下の町の青物屋へ買いにいくことにしたが、伯母さんはどんな苗を見ても「ひょうたんじゃないか」と疑って、「もし生えてからひょうたんがなったら、ひょうたんの木を返しに来るがいいか」と言って、青物屋に念をおした。

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それからは下の町の青物屋へ買ひにゆくことにしたが伯母さんはなにの苗を見ても瓢箪ぢやないかと疑つて、もし生えてから瓢箪がなつたら瓢箪の木を返しにくるがいいかと いつて青物屋をきめつけた。

畑をめぐる杉垣のふちには、祖母の栗と、わたしが拾ってきてまいたくるみが、芽を出している。

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畑をめぐる杉垣のくろには祖母の栗と私が拾つてきてまいた胡桃くるみが芽をだしてゐる。

また、祖母が好きで植えておいたほうせんかの種がちらばって、あちこちに咲く。

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また祖母が好きで植ゑておいた鳳仙花の種がちらばつてあちらこちらに咲く。

とりたてて見どころのない草だが、わたしもほうせんかが好きである。

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とりたてて見どころのない草ながら私も鳳仙花が好きである。

いたずらに花をとって、つめを染めたりする。

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いたづらに花をとつて爪を染めたりする。

おしろい花の実をつぶして白い粉を出すのがおもしろかった。

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おしろいの実をつぶして白い粉をだすのが面白かつた。

あんずの花、赤い桃の花。

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杏の花、緋桃の花。

巴旦杏(はたんきょう・アーモンドに似た果物の木)の古い木があって、雲のように青白い花を咲かせたが、それはわたしたち兄弟の何よりの楽しみで、からすが来るのを気にしては追いにいった。

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巴旦杏の古い木があつて雲のやうに青白い花をさかせたが、それは私たち兄弟のなによりの楽しみで烏のくるのを気にしては追ひにいつた。

大きな実が鈴なりになるので、枝がしなって地面についてしまう。

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大きな実が鈴なりになるので枝がしなつて地びたについてしまふ。

背のとどくところは手でちぎり、高い枝のは打ち落として、重たいざるをかかえて帰る。

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背のとどくところは手でちぎり、高い枝のは打ち落して重たい笊をかかへて帰る。

花壇には鬼百合や白百合がさく。

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花壇には鬼百合や白百合がさく。

わたしは、あまり明るい色、こい色を見ると、息苦しいような圧迫を感じるのがふつうだったが、花で言えば、百合のおしべの頭にちょこんとついている焦げ色の花粉などがそうだった。

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私はあまり明るい色、濃厚な色を見れば胸ぐるしい圧迫を感じるのが常であつたが、花でいへば百合の雄蕊の頭にこつとりとついてる焦げ色の花粉なぞがさうであつた。

二十一

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二十一

すぐ近くに、閻魔様のお寺があった。

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ぢき近くに閻魔様のお寺があつた。

地獄のかまのふたのあく日(お盆)が来て、暗い鐘の音が人をせきたてるように鳴りはじめると、伯母さんは気の進まないわたしに花色のかたびら(ひとえの着物)を着せ、唐ちりめんのしごき(帯じめ)を胸高にしめさせて、お参りに連れていく。

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地獄の釜の蓋のあく日がきて陰鬱な鐘の音が人を促すやうに鳴りはじめると伯母さんは気のすすまない私に花色の帷子かたびらをきせ、唐縮緬のしごきを胸高にしめさせておまゐりにつれてゆく。

お盆にはきまってそのかたびらを着せられたため、花色という色までが、わたしを暗い気持ちにするようになった。

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お盆にはきまつてその帷子をきせられたため花色といふ色までが私を陰気にするやうになつた。

せまくるしい境内から門前にかけて、一杯五厘の氷屋や、おでん、すしの屋台がぎっしりとならんで、「ぴいぴい」いう風船の音、物売りの呼び声などが、砂ぼこりの中に、たえがたい騒ぎをする。

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狭くるしい境内から門前へかけて一杯五厘の氷屋や、おでん、寿司の屋台店やたいみせがぎつしりとならんで、ぴいぴいいふ風船の音、物うりの呼び声などが砂ほこりのなかに堪へがたい騒ぎをする。

そして、前掛けをかけた丁稚(でっち・商店に住みこみで働く子ども)たちが、自分たちの閻魔様ででもあるかのようにはしゃぎまわる。

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そして前垂がけの丁稚小僧どもが自分たちの閻魔様ででもあるやうにはしやぎまはる。

わたしはとくに、この種類の人間がきらいだった。

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私はことにこの種の人間が嫌ひであつた。

二、三段石段をあがって、千社ふだ(お参りの証にはる紙のふだ)がべたべたと貼りついた赤門をくぐると、右手に小さな閻魔堂があって、いかにも野卑な顔をした閻魔様がひかえている。

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二三段石段をあがつて千社ふだのべたべた貼りついた赤門をくぐれば右てに小さな閻魔堂があつて型のごとく野鄙な顔をした閻魔様がひかへてゐる。

線香の煙がむんむとこもっている中で、町の子が「ぎゃんぎゃんぎゃんぎゃん」とひっきりなしにかねをたたくので、頭が破裂しそうに苦しいのに、伯母さんはいつでも撞木(しゅもく・かねをたたく棒)を借りて、わたしにも二つ三つたたかせずにはおかない。

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線香の煙がむんむとこもつてるなかで町の子がぎやんぎやんぎやんぎやんひつきりなしに鉦を叩くので頭がみぢやけさうに苦しいのを伯母さんはいつでも撞木をかりて私にも二つ三つ叩かせずにはおかない。

そうして、よく閻魔様の顔を見せてから、やっとそこを出る。

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さうしてよく閻魔様の顔を見せてからやうやくそこをでる。

ほっと息をつくと、今度は本堂にある三途の川のおばあさんのところへ連れていく。

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ほつと息をつくと今度は本堂にある三途の川のお婆さんのとこへつれてゆく。

落ちくぼんだ目の青白いおばあさんが、紅白の綿を何枚も頭にのせてすわっている。

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かなつぼまなこのなま白い婆さんが紅白の綿を幾枚も頭にのせて坐つてゐる。

わたしは、不愉快なのと、真夏の日にさらされるのとで、ひどい頭痛に悩まされるのがふつうだったが、それにもかかわらず、迷信を信じる伯母さんは何のかのと言って、毎年連れていかずにはおかなかった。

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私は不愉快と炎天にさらされるために烈しい頭痛に悩まされるのが常であつたが、それにもかかはらず迷信家の伯母さんはなんのかのといつて毎年つれてゆかずにはおかなかつた。

涅槃会(ねはんえ・お釈迦様が亡くなった日の法要)の日には、すすけたねむり釈迦の絵の掛け軸をかけ、その前に小さな机をすえて、お香とお花を供える。

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涅槃会ねはんゑの日にはくすぼつた寝釈迦さんの軸をかけ、そのまへに小机をすゑて香華をそなへる。

この虫くいだらけの掛け軸と、仏だんの上のまっ黒な大黒様の像とは、伯母さんの家の財産の、たった二つの残りものだった。

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この虫ばんだ軸とお仏壇のうへのまつ黒な大黒様の像とは伯母さんのとこの財産のたつた二つの残りものであつた。

伯母さんは小机の前にすわってお念仏を唱えながら、わたしにお線香をあげさせ、またいろいろとお釈迦様の話をして聞かせる。

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伯母さんは小机のまへに坐つてお念仏をとなへながら私にお線香をあげさせ、またいろいろとお釈迦様の話をしてきかせる。

お釈迦様のまわりに集まっているものは、象、しし、そのほかにも阿修羅(あしゅら)、緊那羅(きんなら)、龍(りゅう)の一族、天人など、それらは、この尊い迷信家のうまい話しぶりによって、見るみる生きて涙を流しはじめる。

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お釈迦様のまはりに集つてるものは象、獅子をはじめ、阿修羅、緊那羅、龍族、天人、それらはこのたつとい迷信家の巧な物語によつて見るみる生きて涙を流しはじめる。

沙羅双樹(さらそうじゅ)の梢にたなびいた雲の上から美しい人が見おろしているのは摩耶夫人(まやぶにん)といって、お釈迦様のお母様だという。

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沙羅双樹の梢に棚引いた雲のうへから美しい人が見おろしてるのは摩耶夫人といつてお釈迦様のお母様だといふ。

その摩耶夫人が天から投げた薬の袋が、沙羅の枝にかかっているのをだれも気づかないのだ、などと、お釈迦様が亡くなったことを、まるで親と別れるかのように話して聞かせるので、わたしはお釈迦様がかわいそうになって泣いた。

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その摩耶夫人が天から投げた薬の袋が沙羅の枝にかかつてるのを誰ひとり気がつかないのだなぞとお釈迦様の涅槃を親にでもわかれるやうにいつてきかせるので、私はお釈迦様がかはいさうになつて泣いた。

二十二

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二十二

月に三回の大日様の縁日には、雨さえふらなければ欠かさずに連れていく。

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月三さいの大日様の縁日には雨さへふらなければかかさずにつれてゆく。

わたしがそでにつかまって歩くために、伯母さんの羽織がかたよってしまうので、道の途中で立ちどまってはなおしたが、人通りの多いところなどでは、指を一本一本ほどかなければならないほどしがみついていた。

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私が袂につかまつてあるくために伯母さんの羽織がかたよつてしまふので路なかに立ちどまつてはなほしたが、人通りの多いところなどでは指を一本一本ほどかねばならぬほど獅噛みついてゐた。

伯母さんの羽織のひもはわたしがこま結びに結び、わたしのは伯母さんがちょう結びに結んでくれる。

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伯母さんの羽織の紐は私がこまむすびに結び、私のは伯母さんが琴むすびに結んでくれる。

大日様へ行くと、お賽銭を投げさせて

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大日様へゆくとお賽銭を投げさせて

「お蝋(ろう)をどうぞ」

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「お蝋をどうぞ」

と言う。

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といふ。

お堂の中のぴかぴかするあたりで

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お堂のなかのぴかぴかするへんで

「はい」

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「はい」

と返事をして、若いお坊さんがろうそくをともし、本尊様の前に立てそえる。

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と返事をして若い坊さんが蝋燭をともして本尊様のまへに立てそへる。

伯母さんは一心にお念仏を唱えて

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伯母さんは一心にお念仏をとなへて

「さあこれでええ」

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「さあこれでええ」

と言って、そでをつかませてお寺の門を出る。

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といつて袂をつかませてお寺の門をでる。

それは「この子の病気が治りますように」「道を歩いても怪我をしませんように」などと、いろんなことを八の日八の日までに考えためておいて、大日様にお願いするのだった。

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それは この子の病身がなほりますやうに、道を歩いても怪我をしませぬやうに などといろんなことを八の日八の日までに考へためておいて大日様にお願ひするのであつた。

縁日には大勢のこじきが出て、お寺の塀ぎわにずらりとならぶ。

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縁日には大勢乞食がでてお寺の塀ぎはにずらりとならぶ。

それがわたしの行くころにはまだ出そろわず、足の不自由な人や腰の立たない人などの中で、足の早い人が二、三人、むしろを敷いたりして支度をしている。

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それが私の行くじぶんにはまだ出そろはずにちんばや躄などのなかで足のはやい奴が二三人あんぺらを敷いたりして支度をしてゐる。

わたしはいつのまにか伯母さんの感化を受け、そういう人たちに施しをしたあとで、うすいながらも底深い、子どもの思いやりの心の満足を感じるようになった。

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私はいつとはなしに伯母さんの感化をうけさういふものに施しをしたあとで淡いながら底深い子供の慈悲心の満足をおぼえるやうになつた。

こじきの中に、顔立ちのととのったひとりの目の見えない女の人が、琴をひいているのがあった。

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乞食のうちに顔かたちのととのつたひとりの女の目くらが琴をひいてるのがあつた。

まだ今のように琴というものがゆきわたっていない時代のことで、伯母さんは乳母とよくそのうわさをして、昔の旗本か、そうでなければ御殿奉公でもしていた人のなれの果てにちがいないと言っていた。

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まだ今のやうに琴といふもののゆきわたらないじぶんのことで、伯母さんは乳母とよくその噂をして昔のお旗本か、さもなくば御殿奉公でもしたもののなれのはてにちがひないといつてゐた。

彼女は聞き取れないほどしわがれた声で琴歌をうたう。

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彼女はききとれないほどつぶれた声で琴歌をうたふ。

琴づめが糸の上を「さらさらころころ」とすべっていくのも、雲のような木目のある胴の上に、雁(がん)の形をした琴柱(ことじ・琴の弦を支える道具)がまばらに立っているのも、みな珍しく美しく見えた。

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琴爪が糸のうへをさらさらころころとすべつてゆくのも、雲のやうなもくめのある胴のうへに雁の形の琴柱ことぢがちらばらに立つてるのもみな珍しく美しくみえた。

二十三

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二十三

すこし早く行くと、見世物師が、くものように小屋がけをしている。

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すこし早くゆけば見世物師が蜘蛛のやうに小屋がけをしてゐる。

そばには見世物に使う道具や生き物の入った箱が置いてあるのを、好奇心いっぱいに見ていると、やがて絵の看板があげられる。

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そばには見世物に使ふ道具や生きもののはひつた箱がおいてあるのを好奇心にみちて見てるとやがて絵看板があげられる。

たいていは気味の悪いものばかりで、海の中を大きな目玉の人魚が泳いでいるところや、大蛇が二またの舌を出してにわとりを飲もうとしているところなどだったが、その中にときどき、ねずみの芸当のがあって、空色の看板に、いろんな着物を着た無数のこまねずみが、日の丸の扇を持ったりして芸当をしているところがかいてあった。

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大概は気味のわるいのばかりで、海のなかを大きな眼玉の人魚が泳いでるところだの、大蛇が二叉ふたまたの舌を出して鶏をのまうとしてるのなどだつたが、そのなかにときどき鼠の芸当のがあつて、空色の看板にいろんな著物をきた無数のこま鼠が日の丸の扇をもつたりして芸当をしてるところがかいてあつた。

わたしはそれがひどく気に入って、それがかかるたびに入ってみた。

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私はそれがひどく気にいつてそれのかかるたんびにはひつてみた。

はつかねずみが何匹も出てきて、荷車をひいたり、車井戸を汲んだりする。

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南京鼠が幾匹も出てきて荷車をひいたり車井戸を汲んだりする。

いちばん最後には、張り子の倉の中から小さな米俵をくわえだして積みあげるのをやった。

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いちばんしまひには張子の倉のなかから小さな米俵をくはへだして積みあげるのをやつた。

茶色のぶちや、まっ白なのが、入りみだれて走りまわるのがかわいくてならない。

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茶のぶちや、まつ白なのや、いりみだれて走りまはるのが可愛くてならない。

ねずみ使いは三十くらいの女の人で、そのころはまだごく珍しかった束ね髪に帽子をかぶって、西洋の女の人のような身なりをしていた。

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鼠つかひは三十恰好の女で、そのころはまだごく珍しかつた束髪に帽子をかぶつて女異人のなりをしてゐた。

女の人は、ねずみが俵を運びだすたびに

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女は鼠が俵を運びだすたんびに

「よいとよいとはこんでえっさっさ」

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「よいとよいとはこんでえつさつさ」

と拍子をとる。

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と拍子をとる。

そそっかしいねずみの落とした俵が、見物人のほうへ転がってくることがあると、ほかの子たちがすぐに拾って投げ返してやる。

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そそつかしい鼠のおとした俵が見物人のはうへ転げてくることがあるとほかの子たちはすぐに拾つて投げかへしてやる。

女の人は

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女は

「ありがとうよ」

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「ありがたうよ」

と愛想よくほほえんで頭を下げる。

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と愛想よくほほゑんで頭をさげる。

俵はわたしの前にもたびたび転がってきた。

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俵は私のまへへもたびたび転がつてきた。

わたしは拾ってやりたかったのだけれど、なぜか気ばかりはらはらしながら、どうしても手を出すことができなかった。

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私は拾つてやりたかつたのだけれどなぜか気ばかりはらはらしながらどうしても手をだすことができなかつた。

ねずみの芸当が終わると、女の人は青と赤に染め分けたかごから一羽のおうむを出して、口まねをさせる。

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鼠の芸当がすむと女は青と赤に染めわけた籠から一羽の鸚鵡をだして口まねをさせる。

おうむは手のひらへおとなしく乗って、女の人の言うとおりさまざまなことを言うのだが、機嫌の悪いときは頭の羽を立てて「きゃあきゃあ」鳴くばかりで、何も言わない。

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鸚鵡は手のひらへおとなしく乗つて女のいふとほりさまざまなことをいふのだが、機嫌のわるいときは冠毛を立ててきやあきやあ鳴くばかりでなんにもいはない。

そんなときには、女の人は困ったように首をかしげて

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そんなときには女は術なさうに首をかしげて

「太郎さんは今日はどうしてそうなんでしょうねー」

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「太郎さんは今日はどうしてさうなんでせうねー」

と言う。

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といふ。

おうむの絵のような姿、かぎ形のくちばし、りこうそうな目などを思いながら、名残おしく小屋を出た。

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鸚鵡の絵のやうな姿、鉤なりの嘴、悧巧さうな眼などを思ひながら残り惜しく小屋をでた。

二十四

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二十四

夜店の中で、ほおずき屋は心をひくものの一つだった。

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夜店のうちでほほづき屋は心をひくもののひとつであつた。

歯車のついた竹筒を「ぶいぶい」と回しながら

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歯車のついた竹筒をぶいぶいとまはしながら

「ほおずきやーい、ほおずき」

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「ほほづきやーい ほほづき」

と呼ぶ。

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と呼ぶ。

すのこにしいたひばの葉の上に、赤、青、白、いろいろなほおずきをならべて、しずくが「ほとほと」としたたっている。

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の子にしいたひばの葉のうへに赤、青、白、いろいろなほほづきをならべて、雫がほとほととしたたつてゐる。

うちわの形をした海ほおずき、人魂に似た朝鮮ほおずき、天狗ほおずき、なぎなたほおずき、それらはみな海のほおずきで、革のような袋の中に、磯くさいあかが入っている。

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団扇の形した海ほほづき、人魂ににた朝鮮ほほづき、天狗ほほづき、薙刀ほほづき、それらはみな海のほほづきで、革質の袋のなかに磯臭い垢がはひつてゐる。

たんばほおずき、千なりほおずき。

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たんばほほづき、千なりほほづき。

おやじは竹筒を回して

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おやぢは竹筒をまはして

「ほおずきやーい、ほおずき」

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「ほほづきやーい ほほづき」

と呼ぶ。

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と呼ぶ。

ほかのほおずきは鳴らせないので、いつも海ほおずきを買ってもらって、大切に手に握って帰る。

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ほかのほほづきは鳴らせないのでいつも海ほほづきを買つてもらつて大切に手に握つてかへる。

たんばほおずきは、赤い法衣を着たお坊さんの姿である。

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たんばほほづきは緋の法衣をきた坊さんの姿である。

むいてみて虫くいがあると、姉はくやしがって畳にたたきつける。

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むいてみて蚊がさしてると姉はくやしがつて畳へたたきつける。

虫というやつは悪いやつである。

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蚊といふ奴はわるい奴である。

まだ青いうちに、こっそり甘い汁を吸っておく。

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まだ青いうちにこつそり甘い汁を吸つておく。

そういうのは、坊主頭にぽっちりと穴があいていて、もんでいるうちに皮が破れてしまう。

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そんなのは坊主頭にぽつちりとほしがあつて揉んでるうちに皮が破れてしまふ。

夏は虫屋の店に気をそそられる。

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夏は虫屋の店に気をそそられる。

扇、船、水鳥などの形をした虫かごに赤いふさをさげて、「りんりんれんれん」と松虫や鈴虫を鳴かせている。

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扇、船、水鳥などの形をした虫籠に緋色の総をさげてりんりんれんれん松虫や鈴虫を鳴かせてゐる。

きりぎりすは戸を引くように鳴き、くつわ虫は「かさこそ」と鳴く。

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きりぎりすは戸をひくやうに、轡虫はかさこそとなく。

わたしは松虫や鈴虫がほしいのに、いつもきりぎりすしか買ってくれないので、あるとき、わざと伯母さんのきらいなくつわ虫を買って、夜どおし眠らせなかったことがあった。

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私は松虫や鈴虫がほしいのにいつもきりぎりすしか買つてくれないのであるときわざと伯母さんの嫌ひながちやがちやを買つて夜どほし眠らせなかつたことがあつた。

それらは、粗末な竹かごの四すみに赤や青の柱があるのに入れてよこす。

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それらは粗末な竹籠の四隅に赤や青の柱のあるのにいれてよこす。

うりの切れはしを格子にはさんでやると、ひげをふりふりかじっていく。

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瓜のきれを格子にはさんでやると髭をふりふりくひかいてゆく。

わけのわからない顔をして、不釣り合いに長い後ろ足が後ろ向きについているのもおかしい。

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わけのわからない顔をして、不釣合に長い後脚がうしろむきについてるのもをかしい。

また、鉢植えの草花を買ってくることもあった。

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また鉢植ゑの草花をかつてくることもあつた。

寝るときになると、夜つゆにあててやると言って、軒先に出しておく。

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寐るときになれば夜露にあててやるといつて軒さきに出しておく。

それらの花を見るときの子ども心を何と言おう。

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それらの花をみるときの子供心をなんといはうか。

それは、その後もう二度とすることのできない、けがれのないよろこびだった。

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そののちもはや再びすることのできない清浄無垢のよろこびであつた。

花にそそのかされて、あくる朝は早く起き、寝巻きのまままぶしい目をこすりこすり見ると、花や葉につゆがきらりとたまって、ビロードのようななでしこの花、まげの形をしたパンジー、金せんかなどが、生き生きと目ざめている。

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花にそそのかされて明る朝ははやく起き寐巻のまままぶしい眼をこすりこすりみると、花や葉に露がちろりとたまつて、天鵞絨のやうな石竹の花、髷の形した遊蝶花、金盞花などいきいきと目ざめてゐる。

物語の絵本を買うと、くるくると巻いて真ん中に帯をしてくれるのを、そっと手に持って、ときどき筒の中をのぞきながら帰ってくる。

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絵草紙をかふとくるくると巻いてまんなかに帯をしてくれるのをそうつと手にもつてときどき筒のなかをのぞきながら帰つてくる。

すると、みんなが「どんなにきれいだか見せてくれ」と言うので、もったいぶってそろそろほどいて見せる。

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と、みんなが どんなに綺麗だか見せてくれ といふので勿体らしくそろそろほどいてみせる。

だれもかれも目をまるくして「ほしい、ほしい」と言う。

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誰も彼も眼をまるくして ほしい ほしい といふ。

わくの外には赤いインクで「しんぱんけだものづくし」などと書いてある。

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枠のそとには赤いんきで しんぱんけだものづくし などとかいてある。

鼻を長くしてにこにこした象も、つぼの口のうさぎも、鹿も、羊も、みんなかわいい。

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鼻を長くしてにこにこした象も、壺口の兎も、鹿も、羊も、みんな可愛い。

ほかのけものはひとりでおとなしくしているのに、熊だけはまっ赤な金太郎とすもうをとり、鼻先がたけのこみたいにつき出たいのししは、仁田の四郎(にたんのしろう・昔話に出てくる武士)におさえられていた。

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ほかの獣はひとりでおとなしくしてるのに熊ばかりはまつかな金太郎と相撲をとり、鼻のさきが竹の子みたいにつきでた猪は仁田にたんの四郎におさへられてゐた。

ひととおり見せびらかせば、「ごきげんよう」を言って寝間に入り、伯母さんの大げさな絵解きを聞きながら、さんざん見返してから、枕もとに置いて寝る。

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一順みせびらかせば 御機嫌よう をいつて寐間にはひり伯母さんの仰山な絵ときをききながらさんざ見かへしてから枕もとにおいてねる。

二十五

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二十五

意気地なしのわたしは、人前では口がきけず、何かほしいものが目につくと、そでをつかんだままだまって立ちどまってしまう。

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意気地なしの私は人なかでは口がきけずなにかほしいものが目につけば袂をつかんだまま黙つて立ちどまつてしまふ。

すると伯母さんは心得て、あたりを見まわし、あれかこれかとたずねる。

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すると伯母さんは心得てあたりを見まはしあれかこれかとたづねる。

うまく当たるまではいつまでも首をふっているが、なかなか当たらないと、しかたなくそっと指さしをして、その指ははずかしそうに引っこめて口にくわえる。

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うまくあたるまではいつまででも首をふつてるがよくよくあたらないとしかたなしにそつと指さしをして、その指ははづかしさうにひつこめて口にくはへる。

三すくみ(へび・かえる・なめくじ)のおもちゃが大好きだったが、伯母さんはへびがきらいなので、知らないうちにすぐにしまいこんでしまった。

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三すくみのおもちやが大好きだつたが伯母さんは蛇が嫌ひだもので知らないうちにぢきにしまひこんでしまつた。

竹のうさぎは「ぴょん」と跳ねる。

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竹の兎はぴよんと跳ねる。

あたたかい日には、にかわがゆるんで、勢いよく「ぴょん」と跳ねずに、そろそろと尻を持ちあげて横倒しになる。

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暖い日には膠がゆるんで威勢よくぴよんと跳ねずにそろそろ尻をもちあげて横つ倒しになる。

そのほか、かごの中の鳥が、かごについている柄を吹くと「ぴいぴい」さえずりながら回るのや、「ちりちり」と尾をふりながらすべりおりる、たいの弓のおもちゃなどが好きだった。

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そのほか籠のなかの鳥が籠についてる柄を吹くとぴいぴい囀りながらまはるのや、ちりちりと尾をふりながらすべりおりる鯛弓のおもちやなどが好きであつた。

木枯らしの夜などには、露店のランプの火がさびしい音をたてて、とうしんが血ばしった目玉みたいに見える。

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木枯しの夜などには露店のかんてらの火が淋しい音をたてて燈心が血ばしつた眼玉みたいにみえる。

そんなときに、かわいそうでならなかったのは、ぶどう餅を売るおばあさんだった。

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そんなときにかはいさうでならなかつたのは葡萄餅をうる婆さんであつた。

ぶどう餅とは、どんなものか知らない。

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葡萄餅とはどんなものかしらない。

七十近い、しなびきったおばあさんが、「ぶどうもち」とかいたはげちょろの行灯(あんどん)をともして、小さな台の上に紙袋を数えるほどならべているが、ついぞ人が買うのを見たことがない。

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七十ぢかい萎びかへつた婆さんが ぶだうもち とかいたはげちよろの行燈をともして小さな台のうへに紙袋を数へるほどならべてるが、つひぞ人の買ふのをみたことがない。

わたしはそれを気の毒がって、むやみにせがんだけれど、あまりにきたないので、さすがの伯母さんも二の足をふんで買ってくれなかった。

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私はそれを気の毒がつて無上むじようにせがんだけれどあんまり穢いのでさすがの伯母さんも二の足をふんで買つてくれなかつた。

何年かのち、わたしがひとりで縁日に行けるようになってからも、おばあさんはあいかわらずそば屋の角に店を出していた。

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何年かのち私がひとりで縁日に行けるやうになつてからも婆さんは相変らず蕎麦屋の角に店を出してゐた。

わたしは、市のたびに何度となくその前を行きつ戻りつして、涙をためていた。

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私は市のたんびに幾度となくそのまへを行きつ戻りつして涙をためてゐた。

けれど、いつも買えずに、心残りのまま帰ってきてしまった。

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が、いつも買ひおほせずに本意ほいなく帰つてきてしまつた。

とはいえ、ある晩、とうとう思いきってぶどう餅の行灯のそばに立ち寄った。

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とはいへある晩たうとう思ひきつて葡萄餅の行燈のそばにたちよつた。

おばあさんはお客だと思って

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婆さんはお客だとおもつて

「いらっしゃい」

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「いらつしやい」

と言って紙袋を取りあげた。

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といつて紙袋をとりあげた。

わたしは何と言ってよいかわからず、無我夢中で二銭銅貨を放り出して、後ろも見ずに少林寺のやぶのかげまで逃げてきた。

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私はなんといつてよいかわからず無我夢中に二銭銅貨をはふりだして後をも見ずに少林寺の藪の蔭まで逃げてきた。

胸がどきどきして、顔が火が出るように熱くなっていた。

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胸がどきどきして顔が火のでるやうに上気してゐた。

八幡様のばか囃子(おはやし)へは、少しも行こうとしなかった。

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八幡様の馬鹿囃子へはちつとも行かうとしなかつた。

それは、あの鼻のつぶれたばかの面や、目のちぐはぐなひょっとこの顔、また、あまりにしつこく品のないおどけぶりが、気分を悪くさせたからである。

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それはあの鼻つぴしやげの馬鹿の仮面、目のとんちんかんなひよつとこの顔、またあんまりひつつこい野鄙な道化が胸をわるくさせたからである。

けれど、家の者はわたしの憂うつな気持ちを治そうとしての、見当ちがいな親切から、伯母さんまでがみんなの味方になって、なんとかして連れ出そうとする。

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けれども家の者は私の憂鬱をなほさうとしての無智な親切から、伯母さんまでがみんなの味方になつてどうかしてつれださうとする。

九つ十にもなってからは、そんなところへ行くことのつらさをくれぐれもうったえたけれど、みんなはそれを言い逃れとばかり思って、無理やり押し出すのがふつうだった。

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九つ十にもなつてからはそんなところへゆくことの苦痛をくれぐれも訴へたけれどみんなはそれを遁げ口上とばかりおもつて権柄づくで押し出すのが常であつた。

そんなときには、わたしは近所の原っぱへ行って、大木の立ちならんだがけの上に寝ころんで、山を見ながら何時間も過ごした。

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そんなときには私は近処の原へいつて大木の立ちならんだ崖のうへに寐ころんで山を見ながら幾時をすごした。

二十六

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二十六

このあたりの子は、神田の元気な子たちに比べればさすがにおだやかだし、それに道は静かだし、わたしのような子にとっては、まことにちょうどよい世界だった。

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このへんの子は神田の腕白どもにくらべればさすがにおだやかだし、それに往来は静だし、私のやうなものにとつてはまことに屈竟な世界であつた。

それで、伯母さんは一生けんめい、わたしの遊び仲間によさそうな子どもをさがしてくれたが、そのうち見つかったのは、お向かいのお国さんという女の子だった。――

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で、伯母さんは一所懸命私の遊び仲間によささうな子供をさがしてくれたが、そのうち見つかつたのはお向ふのお国さんといふ女の子であつた。――

お国さんのお父様は阿波(あわ)の藩士で、そのころ有名な志士だったということは、最近になってはじめて知った。――

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お国さんのお父様は阿波の藩士で、そのじぶん有名な志士であつたといふことは近頃になつて始めて知つた。――

伯母さんは、いつのまにか、お国さんが体が弱くておとなしいことから頭痛もちのことまで聞き出して、もってこいのお友だちだと思ったのである。

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伯母さんはいつのまにかお国さんが体が弱くておとなしいことから頭痛もちのことまでききだしてもつてこいのお友達だと思つたのである。

ある日、伯母さんはわたしをおぶって、お国さんたちの遊んでいる門の中の空き地へ連れていき

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ある日伯母さんは私をおぶつてお国さんたちの遊んでる門内のあき地へつれてゆき

「ええ子だに、遊んだってちょうだいも」

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「ええお子だに遊んだつてちやうだいも」

と言いながら、いやがるわたしをそこにおろした。

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といひながらいやがる私をそこへおろした。

みんなはちょっと気まずそうに見えたが、すぐにまた元気よく遊びはじめた。

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みんなはちよつとしらけてみえたがぢきにまた元気よく遊びはじめた。

わたしはその日はお目見えだけにして、伯母さんのそでにつかまって、しばらくそれを眺めて帰った。

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私はその日はお目みえだけにし、伯母さんの袂につかまつて暫くそれを眺めて帰つた。

その翌日も連れていかれた。

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その翌日もつれてゆかれた。

そんなふうにして三日四日たつうちに、お互いにいくらかなじみができて、向こうで何かおかしいことがあって笑ったりすると、こちらもちょっと笑顔を見せるようになった。

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そんなにして三日四日たつうちにお互にいくらかお馴染なじみがついて、むかふでなにかをかしいことがあつて笑つたりすればこちらもちよいと笑顔をみせるやうになつた。

お国さんたちはいつも「蓮華(れんげ)の花ひらいた」をやっている。

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お国さんたちはいつも蓮華の花ひらいたをやつてゐる。

伯母さんはそれから家で根気よくその歌を教えて、練習をさせ、それが上手にできるようになってから、ある日また、わたしをお向かいの門の中へ連れていった。

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伯母さんはそれから家で根気よくそのうたを教へて下稽古をやらせ、それが立派にできるやうになつてからある日また私をお向ふの門内へつれていつた。

そうして、いやがるのを無理やりお国さんの隣に割りこませたが、意気地のない二人はきまり悪がって手を出さないので、伯母さんは何かと上手になだめながら、二人の手を引き寄せて手のひらを重ね、指を曲げさせて上からきゅっと握って、やっと手をつながせた。

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さうしていぢけるのを無理やりにお国さんの隣へわりこませたが意気地のない二人はきまりわるがつて手を出さないので、伯母さんはなにかと上手に騙しながら二人の手をひきよせて手のひらをかさね、指をまげさせて上からきゆつと握つてやうやく手をつながした。

これまでついぞ人に手など取られたことのないわたしは、なんだかこわいような気がして、それに伯母さんに逃げられやしないかという心配もあり、伯母さんのほうばかり見ていた。

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これまでつひぞ人に手なぞとられたことのない私はなんだか怖いやうな気がして、それに伯母さんに逃げられやしないかといふ心配もあるし、伯母さんのはうばかり見てゐた。

新しくこのなじみにくい新入りが加わったために、子どもたちはすっかり興ざめして、いつまでたっても輪が回りはじめない。

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あらたにこの調和しがたい新参者が加はつたために子供たちはすつかり興をさまされていつまでたつても廻りはじめない。

それを見てとった伯母さんは、輪の中に入って、勢いよく手をたたいて

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それを見てとつた伯母さんは輪のなかへはひり景気よく手をたたいて

「あ、ひーらいた、ひーらいた、なんのはなひーらいた」

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「あ ひーらいた ひーらいた なんのはなひーらいた」

とうたいながら、足拍子をふんで回ってみせた。

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とうたひながら足拍子をふんで廻つてみせた。

子どもたちはいつのまにか引きこまれて、小声にうたいだしたので、わたしも伯母さんにうながされて、みんなの顔を見まわしながら、小さな声で歌のあとについた。

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子供たちはいつか釣りこまれて小声にうたひだしたので私も伯母さんに促されてみんなの顔を見まはしながら内證ないしよで謡のあとについた。

「ひーらいた、ひーらいた、なんのはなひーらいた、れんげのはなひーらいた……」

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「ひーらいた ひーらいた、なんのはなひーらいた、れんげのはなひーらいた……」

小さな輪がそろそろ回りはじめたのを見て、伯母さんはすかさずはやしたてる。

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小さな輪がそろそろ廻りはじめたのをみて伯母さんはすかさず囃したてる。

歌の声がだんだん高くなって、輪がだんだん速く回ってくる。

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謡の声がだんだん高くなつて輪がだんだんはやく廻つてくる。

ふだんろくに歩いたことのないわたしは、動悸がして目が回りそうだ。

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平生ろくに歩いたことのない私は動悸がして眼がまはりさうだ。

手をはなしたくても、みんなは夢中になってぐんぐん人を引きずりまわす。

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手がはなしたくてもみんなは夢中になつてぐんぐん人をひきずりまはす。

そのうちに

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そのうちに

「ひーらいたとおもったら、やっとこさとつーぼんだ」

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「ひーらいたとおもつたらやつとこさとつーぼんだ」

と言って、子どもたちは伯母さんのまわりへいちどきにつぼんでいったので、伯母さんは

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といつて子供たちは伯母さんのまはりへいちどきにつぼんでいつたもので伯母さんは

「あやまった、あやまった」

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「あやまつた あやまつた」

と言って輪からぬけだした。

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といつて輪からぬけだした。

「つーぼんだ、つーぼんだ、なんのはなつーぼんだ、れんげのはなつーぼんだ……」

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「つーぼんだ つーぼんだ、なんのはなつーぼんだ、れんげのはなつーぼんだ……」

つないだままつき出している手を、拍子にあわせてゆらしながらうたう。

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つないだままつきだしてる手を拍子につれてゆりながらうたふ。

「つーぼんだとおもったら、やっとこさとひーらいた」

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「つーぼんだとおもつたらやつとこさとひーらいた」

つぼんでいた蓮華の花はぱっと開いて、わたしの腕はぬけるほど両方へ引っぱられる。

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つぼんでた蓮華の花はぱつとひらいて私の腕はぬけるほど両方へひつぱられる。

五、六回そんなことをやるうちに、慣れない運動と気疲れでへとへとにつかれてしまい、伯母さんに手をほどいてもらって家へ帰った。

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五六遍そんなことをやるうちに慣れない運動と気疲れでへとへとにくたびれてしまひ伯母さんに手をほどいてもらつて家へ帰つた。

二十七

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二十七

お国さんは、わたしにとって初めての「お友だち」だった。

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お国さんはお友達といふものの最初の人であつた。

はじめのころは、伯母さんがそばにいてくれないと遊べなかった。伯母さんも、よそから来たばかりのわたしの身を案じて、そばをはなれなかった。けれど、ここは神田のあたりとはちがって、まるでわたしのような子どものための世界と言ってもいいくらい、静かで安全な場所だった。伯母さんはそれを確かめると、「車が来たら門の中に入りなさい」「溝のそばには寄らないように」と、こまかい注意をくどくどと言い聞かせたあと、わたしをひとり置いて帰るようになった。

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はじめのうちは私も伯母さんがそばについてゐなければ遊べなかつたし伯母さんもいはばぽつと出の子供の身のうへを気づかつてそばをはなれなかつたが、ここは神田へんとはちがつてまつたく私みたいな子のための世界といつてもいいくらゐ静な安全なところであることを見とどけて、車がきたら門の内へはひれの、溝のはたへはよるなのと細かい注意をくどくどいひきかせたのちひとりおいて帰るやうになつた。

二人がさしむかいになったとき、お国さんは、子ども同士が仲よくなるときのやり方にしたがって、お父さんの名前、お母さんの名前から、わたしの生まれた日まで聞いてきた。

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二人がさしむかひになつたときにお国さんは子供同士がちかづきになるときの礼式にしたがつて父の名母の名からこちらの生年月日までたづねた。

そして「なに年(どし)?」と聞かれたので、すなおに「酉年(とりどし)」と答えたら

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そしてなにの歳だといつたからおとなしくとりの歳だと答へたら

「あたしも酉年だから仲よくしましょう」

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「あたしも酉の歳だから仲よくしませう」

と言って、いっしょに「こけっこっこ こけっこっこ」と言いながら、着物のそでを広げて羽ばたきするまねをしながら歩いた。

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といつていつしよに こけつこつこ こけつこつこ といひながら袂で羽ばたきをしてあるいた。

同じ年の子は、なんだかうれしくて、なつかしい気持ちになるものだ。

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おない年はなにがなし嬉しくなつかしいものである。

お国さんは、家の人から「やせっぽち」だの「蚊とんぼ」だのと言われるのがいやだとこぼした。わたしも、みんなに「たこ坊主」と言われるのがくやしかったので、お友だちの気持ちが心からわかる気がした。

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お国さんはまた家の者が自分のことを痩つぽちだのかがんぼだのといふといつてこぼしたが私もみんなに章魚坊主といはれるのがくやしかつたので心からお友達の身のうへに同情した。

いろいろ話し合ってみると、ひとつひとつ気が合って、わたしたちはすぐに仲よしになった。

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いろいろ話しあつてみればいちいち意見が一致して私たちは間もなく仲よしになつてしまつた。

お国さんは、色が浅黒くやせていて、鼻の高い子だった。前髪をたらして、赤い布でおさげの根もとをしばっていた。

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お国さんは浅黒く痩せた鼻の高い子で、前髪をさげて赤いきれでおさげの根を結へてゐた。

二人は、虫食いだらけの門柱にもたれかかったり、しゃがんで土いじりをしたりして、頭がくっつきそうなほど顔を近づけながら、「きのう歯が何本目にぬけた」とか「どの指に刺(とげ・小さなとがったもの)がささった」とか、たわいのないことをしゃべりあった。気が合うと、なんということもなく「あはははは」と笑った。

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二人は虫くひだらけの門柱によりかかつたり、しやがんで泥いぢりをしたりして頭がくつつきあふほど顔をよせながら、昨日何本めの歯がぬけたとか、どの指へとげをたてたとか埒もないことをしやべりあつて、お互に意気投合すればなんといふこともなく あははははは と笑ふ。

お国さんは、たしか糸切り歯が一本ぬけていて、笑うたびにそこがほら穴のように見えた。

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お国さんはたしか糸きり歯が一本ぬけて笑ふたんびにそこが洞穴みたいにみえた。

家で伯母さんとばかり遊んでいたわたしは、お国さんと友だちになってから、よいこと悪いこと、急にいろいろわかるようになった。けれど、同じ年でもずっと遅れていたので、なんでも言うことを聞いて遊んでいた。

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家で伯母さんばかりを相手にしてた私はお国さんと友達になつてから善いこと、悪いこと、急に智慧がついてきたけれど、おない年とはいへよつぽど遅れてたのでなんでもいふことをきいて遊んでゐた。

近所に、お峰ちゃんという、わたしたちよりひとつ年上の子がいた。

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近処にお峰ちやんといつて私たちよりひとつ年うへの子がゐた。

お峰ちゃんは意地悪なうえに、ひどいやきもちやきで、みんなにきらわれていた。けれど毎日顔を合わせるので、子ども同士のつきあいで、どうしてもいっしょに遊ばなければならないことがあった。

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お峰ちやんは意地わるなばかりかひどい焼餅やきでみんなに嫌はれてたが、毎日顔をあはすので子供同士のつきあひで時にはどうしてもいつしよに遊ばなければならないことがあつた。

ある日、またお国さんと年の話になって、「こけっこっこ こけっこっこ」と羽ばたきのまねをしていたら、お峰ちゃんが

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ある日のことまたお国さんと歳の話がでて こけつこつこ こけつこつこ といつて羽ばたきしてたらお峰ちやんは

「あたし申年(さるどし)だから」

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「あたしさるの歳だから」

と言って、きゃっきゃっと二人をひっかいた。

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といつてきやつきやつと二人をひつかいた。

二十八

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二十八

お国さんのくしは赤くぬってあって、菊の花の蒔絵(まきえ・うるしで絵をえがく飾り)がしてあった。

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お国さんの櫛は赤く塗つて菊の花の蒔絵がしてあつた。

赤と水色のちりめんで作った、薬玉(くすだま・糸を丸くたばねた飾り)のかんざしも持っていた。

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緋と水色の縮緬でこしらへた薬玉くすだまの簪ももつてゐた。

お国さんは、新しいものを買ってもらうと自慢して見せるくせに、よく見ようとすると着物のそでにかくしたりして、人をじらせた。

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お国さんはなにか新しいのを買つてもらふと自慢してみせておきながらよく見ようとすれば袂へかくしたりして人をらせる。

わたしは、そういうものを見るたびに、自分が女に生まれなかったことを残念に思い、また、男はどうして女の子みたいにきれいにしないのだろうと思った。

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私はそんなものを見るたんびに自分が女に生れなかつたことをくやみ、また男はなぜ女みたいに綺麗にしないのだらうと思つた。

お国さんは、かくれんぼをするときはいつも、「きのう、裏のやぶから三つ目小僧が出た」とか、「山かがしがとぐろを巻いていた」とかおどかしておいてから、わたしを李(すもも)の木のかげで目をつぶらせ、どこかへかくれてしまう。

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お国さんはかくれんぼをしようとするときはいつでも 昨日裏の藪から三つ目小僧がでた の、山かがしがとぐろまいてた のとおどかしておいてから人をすももの木の蔭に目をつぶらせてどこかへかくれてしまふ。

わたしは、家をぐるりとひとまわりして、裏のほうへさがしにいく。

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私は家をぐるりとひと廻りして裏のはうへ捜しにゆく。

お庭へ曲がるところに竹のさくがあって、がちょうが二羽飼ってあるのが、こわくてたまらない。

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お庭へ曲るところに竹矢来をして鵞鳥が二羽飼つてあるのが怖くてしやうがない。

そっと通ろうとすると、恵比寿様のかんむりみたいな頭をつき出して、がわがわ言いながら追いかけてくる。

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そうつと通らうとするのを恵比寿様の冠みたいな頭をのしあげてがわがわ追つてくる。

やっとの思いでそこを通りぬけて茶畑のほうへ行くと、となりの乳牛が、さくの上から首をのばして「めえ」と鳴く。

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やつとの思ひでそこを通りぬけて茶畑のはうへゆくと隣の乳牛が埒のうへから頸をのばして めえ といふ。

それがこわいので、茶畑の中はほどほどにして、お庭をさがす。

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それが怖いので茶畑のなかはいいかげんにしてお庭をさがす。

大きな木がたくさんあるので、なかなか見つからない。

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大きな木が沢山あるのでなかなか見つからない。

あたりを見まわしても、だれもいない。帰り道には牛とがちょうが待ちかまえている。心細くなって

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あたりを見まはしても誰もゐないし、帰り路には牛と鵞鳥が待ちかまへてるし、心細くなつて

「もういいかーい」

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「もういいかーい」

と呼んでみる。

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と呼んでみる。

しんとしたところに、自分の声だけがひびいて、なんにも聞こえない。

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しんかんとしてるところへ自分の声ばかり響いてなんにも聞えない。

お国さんは、わたしをだましてどこかへ行ってしまったのではないか、などと思うと、ますますさびしくなって、「早く伯母さんがむかえに来ればいいのに」と思いながら、また

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お国さんは人を騙してどこかへ行つてしまつたのぢやないか なぞと思へばなほなほ淋しくなつて はやく伯母さんが迎ひにくればいいのに と思ひながらまた

「もういいかーい」

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「もういいかーい」

と呼んでみる。

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と呼んでみる。

われながら、泣きそうな声になっている。

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我ながら涙声になつてゐる。

すると、竹やぶのあたりで

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さうすると竹藪のへんで

「もいよ」

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「もいよ」

と、小さな声で言う。

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と小さな声でいふ。

いるな、と思って竹やぶの入り口まで行くと、垣根一つ向こうにはお寺のいちょうの木がまっ黒に立っている。竹のあいだには、つばきや皀角子(さいかち・とげのある木の一種)がごちゃごちゃに茂っていて、ひどくうす暗い。

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ゐるな と思つて竹藪の入口までいつても垣ひとへ向ふにはお寺の銀杏の木がまつ黒に立つてるし、竹のあひだには椿や皀角子さいかちがごちやごちやに繁つていやにうす暗い。

「三つ目小僧が出たというのはほんとうかしら」などと思いながら立ちすくんでいると、奥のほうでくすくすと笑い声がする。

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三つ目小僧が出たといふのはほんとかしら などと思つてたち竦んでると奥のはうでくすくすと笑ひ声がする。

それでやっと元気を出して入っていくのだが、竹の切り株や根っこがあちこちに出ているうえ、いたいいたい草がいちめんに生えていて、ふだん石ころひとつにも伯母さんがうるさく気をつけてくれるわたしには、針の山を行くような気持ちで、足のふみ場もない。

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で、やうやく元気づいてはひつてゆくのだが、竹の切株や根つこが到るところ出てるうへにいたいいたい草がいちめんに生えてるのがふだん石ころひとつにも伯母さんがやかましく世話やいてくれる私には針の山をゆく気もちで足の踏みどころもない。

おまけに、なんだかそこらじゅうに山かがしがとぐろを巻いているような気がして気味が悪くてたまらない。それでもやっとの思いで一足ずつふみこんでいって、いよいよ見つかりそうなところまで行くと、お国さんはすみの暗いところから

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おまけになんだかそこらぢゆう山かがしがとぐろまいてるやうな気がして気味がわるくてならないのを、やつとの思ひでひと足づつ踏みこんでいつていよいよ見つかりさうなとこまでゆくとお国さんは隅の暗いところから

「おばけー」

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「おばけー」

と、白目をむいて出てくる。

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と白眼をして出てくる。

それがお国さんだと知っていても、ぞっと総毛立って

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それをお国さんだとは知りながらも総毛だつて

「いやだってば、いやだってば」

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「いやだつてば、いやだつてば」

と逃げ出すと、おもしろがってどこまでも追いかけてくる。

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と逃げだせば面白がつてどこまでも追つかけてくる。

そこで、今度はこちらがかくれる番になる。

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そこでこんだはこつちが隠れる番になる。

けれどわたしは、やぶの中にはかくれられないし、それに向こうは道をよく知っているので、すぐに見つかってしまう。

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けれども私は藪のなかへは隠れ得ないし、それにさきは案内をよく知つてるのでぢきに見つかつてしまふ。

それでも、どうかしてなかなかさがせずにいると、お国さんは家に上がっておやつを食べていて、それとも知らずいくら待っても来ないので

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でもどうかしてなかなか捜せないとお国さんは家へあがつてお菓子をたべてるのをそれとは知らずいくら待つてゐても来ないので

「もうよし夜があけた」

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「もうよし夜があけた」

と言って出ていくと

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といつて出てゆくと

「ほら見つけた」

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「ほら見つけた」

と、ぶつぶつ言いながら出てきて

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とむにやむにややりながら出てきて

「あなたにもひとつあげましょう」

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「あなたにもひとつあげませう」

と言って、金華糖(きんかとう・砂糖で作ったお菓子)のかけらなどをくれる。

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といつて金華糖のかけらなどくれる。

二十九

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二十九

わたしたちは、うつし絵(水で紙にはりつけて絵を写すおもちゃ)が大好きだった。

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私たちはうつし絵が大好きだつた。

あの油くさいにおいをかぐときの気持ちといったらない。

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その油くさい匂をかぐときの気もちはない。

早くついたほうが勝ちだと言って、はりつけたうえから、べとべとに、つばをつけて

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はやくついたはうが勝ちだといつて貼つたうへへべとべとに唾をつけて

「はやくくっつけ はやくくっつけ」

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「はやくくつつけ はやくくつつけ」

と言いながら、指でこすっている。

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といひながら指でこすつてゐる。

いろんな色の鳥やけものなどの絵がおされた手のこうをならべて、いたずらに皮をのばしたり縮めたりするのがおもしろい。

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いろんな色の鳥や獣などの押された手の甲をならべていたづらに皮をのばしたり縮めたりするのが面白い。

すこしたつとかわいて、かゆくなるのを、そっとまわりをかいてがまんしている。

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すこしたつと乾いて痒くなるのをそうつとまはりを掻いてこらへてゐる。

ときには、そろいの絵をうでに貼って、「いつまでもとっておくんだ」と、着物にすれないように大事にしているが、次の朝見ると、きれぎれになって、わけのわからないものになっている。

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時にはおそろひの絵を二の腕に貼りいつまでもとつときつこだといつて著物にすれないやうに大事にしてるが明る朝みるときれぎれになつて訳のわからないものになつてゐる。

朝ごはんをすますとすぐ、おそるおそるお国さんのところへ行って

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朝飯をすますやいなやおそるおそるお国さんのとこへいつて

「こんなになったから、かんにんして」

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「こんなになつたからかんにんして」

と言うと、わざとつんとして、これ見よがしにそでをまくってみせる。

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といへばわざとつんとしてこれ見よがしに袖をまくつてみせる。

すると、やっぱりめちゃくちゃになっているのを見て、目をまるくして

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と、やつぱしめちやくちやになつてるのを眼をまるくして

「あたしのもこんなになっちゃった」

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「あたしのもこんなになつちやつた」

と言って、いかにもおかしそうに笑う。

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といつてさもをかしさうに笑ふ。

桜の花が散るころには、花びらを糸にぬいて、数の多さをきそいあう。

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桜の花のちるころには花びらを糸にぬいて数の多いのをきそふ。

ある日、お国さんのところの玄関の前で、赤まんまを茶わんに盛り、かたばみ草の実をきゅうりに見立てておままごとをしていたら、お峰ちゃんが

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ある日お国さんのとこの玄関のまへで赤のまんまを茶碗にもり、かたばみ草の実を黄瓜に見たててままごとをしてたらお峰ちやんが

「遊びましょう」

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「遊びませう」

と言ってやってきた。

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といつてやつてきた。

お国さんは

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お国さんは

「にくらしいから、いじめてやりましょう」

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「にくらしいからいぢめてやりませう」

と耳打ちをして、垣根に生えているほうれん草をこっそり取り、いきなり

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と耳つこすりをし垣根に生えてるほーれ草をこつそりとつていきなり

「おまいにほうれたほーれ草」

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「おまいにほうれたほーれ草」

と言ってぶつけた。

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といつてぶつけた。

向こうも負けん気になって、ぶつけ返した。

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さきも負けない気になつてぶつけかへした。

お国さんが手にいっぱい持っているのを半分よこしたので、わたしも、ふだんのうらみをはらそうと思いきりぶつけてやった。

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お国さんが手にいつぱいもつてるのを半分よこしたから私も平生の意趣ばらしに思ふさまぶつけてやつた。

「おまいにほうれたほーれ草」

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「おまいにほうれたほーれ草」

「おまいにほうれたほーれ草」

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「おまいにほうれたほーれ草」

「おまいにほうれたほーれ草」

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「おまいにほうれたほーれ草」

不意打ちだったうえに、こちらが多かったので、逃げ出したのを追いかけて、めちゃめちゃにぶつけたら、みるみるうちに背中いちめんにくっついた。

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不意討ちではあり多勢に無勢で逃げだしたのを追つかけてめちやめちやにぶつけたらみるみるうちに背中いちめんにくつついた。

お峰ちゃんはこわい顔をしてにらんでから、ほうれん草をぶらさげたまま帰っていった。仕返しされるのではとこわごわ見送っていると、ひょいとふりかえって、にくらしそうにあごを突き出して、かけていった。

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お峰ちやんは怖い顔をして睨めておいてほーれ草をぶらさげたまま帰つてゆくのでいつけられはしまいかとこはごは見送つてたらひよいとふりかへつて憎体にくていに腭をつきだしてかけていつた。

そら豆の葉を吸うと、あまがえるのおなかみたいにふくれるのがおもしろくて、畑のをちぎっては叱られた。

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蚕豆そらまめの葉をすふと雨蛙の腹みたいにふくれるのが面白くて畑のをちぎつては叱られた。

さざんかの花びらを舌にのせて息をひくと、篳篥(ひちりき・ふえに似たがっきの一種)に似た音がする。

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山茶花の花びらを舌にのせて息をひけば篳篥ひちりきににた音がする。

春になると、学者のようないかめしい玄関の前にあるすももの木が、雲のように花をつける。その青白い花が、まぶしく日に照らされて、すーんとしたかおりがあたりにただよう。

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春になるとお儒者のやうな玄関のまへにあるすももの木が雲のやうに花をつけ、その青白い花がまばゆく日に照されてすーんとした薫があたりにただよふ。

近所の子どもたちは、みんなその木かげに集まってきて、いろんな遊びをする。

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近処の子供たちはみんなその蔭へよつてきていろんな遊びをする。

彼らの声が聞こえると、伯母さんはわたしを連れていって、みんなに耳打ちをしてから帰っていく。

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彼らの声がきこえると伯母さんは私をつれていつてみんなに耳うちをして帰つてゆく。

彼らはみんな、わたしより三つ四つ年上だったが、子ども思いの伯母さんになついて、「□ちゃんとこのおばさん」「□ちゃんとこのおばさん」と言うようになった。そして、自然とわたしをかばってよく遊んでくれ、子どもらしい世話もやいてくれた。

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彼らはみんな三つ四つ年うへだつたが子煩悩な伯母さんになついて □ちやんとこのをばさん □ちやんとこのをばさん といふやうになり、自然私をかばつてよく遊んでくれ、子供らしい世話もやいてくれた。

おかしなことに、彼らはわたしよりずっと大きいくせに、何をやってもすぐに負かされてしまう。

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をかしなことに彼らは私よりずつと大きいくせになにをやつてもぢきに負かされてしまふ。

鬼ごっこをすればだれもわたしをつかまえられないし、こまを回せば、だれのも不思議とわたしのに当たらない。

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鬼ごつこをすれば誰も私をつかまへ得ないし、独楽こまをまはせば誰のも不思議にあたらない。

そして、わけがわからないまま、こちらが勝ってしまう。

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そしてなにがなんだかわからずにこちらが勝つてしまふ。

家へ帰って鼻を高くして話すと、みんなは

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家へ帰つて鼻を高くして話すとみんなは

「えらいえらい」

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「えらいえらい」

と言ってほめた。

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といつてほめた。

この鈍いわたしが、自分がほんとうはまだ半人前あつかいの「みそっかす(仲間として数えてもらえない小さい子)」にされていることに気がつくのは、たやすいことではなかった。

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このぼんやりが自分の味噌つかすにされてるのに気がつくのは容易なことではなかつた。

三十

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三十

ここには、百姓と商売を半分ずつしている、水あめ売りのおじいさんが住んでいた。

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やはりこのへんに住んで百姓と商ひを半半にしてる水飴屋の親仁があつた。

彼は、天気でさえあれば、必ずちゃるめら(木のふえに似た楽器)をふきながら、車を引いてやってくる。

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彼は天気でさへあれば必ずちやるめらをふきふき車を挽いてくる。

そのすべての静けさをこわしてしまうようなひびきが、なぜか子どもの胸をときめかせて、家にいる者は家をとび出し、遊んでいる者は遊びをやめてかけつけてきた。棒切れを刀にさした子や、どろだらけのこまをふところに押しこんだ子が、車を取り囲んでわいわいと騒ぐ。

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あのすべてのものの調和をうちこはしてしまふやうな響が妙に子供の胸をときめかせて家にゐる者は家をとびだし、遊んでる者は遊びをやめてとんできて、棒ちぎれを刀にさした奴や、泥だらけの独楽をふところへおしこんだ奴が車をとりまいてわいわいと騒ぐ。

水あめのほかに、あてものやだがしなども持っているので、みんなは我先にと赤や青の紙をめくって、あてものをする。

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水飴のほかにあてものや駄菓子などももつてるのでみんなは我がちに赤や青の紙をめくつてあてものをする。

おじいさんは、おけの中でこはく色にとろけている水あめを、きゅっきゅっと引っぱりあげて、木のはしの先に、つやつやした坊主頭をこしらえる。

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親仁は桶のなかに琥珀色にをどんでる飴をきゆつきゆつとひつぱりあげて木箸のさきにてらてらした坊主頭をこしらへる。

それを口いっぱいにほおばって、くるくる回していると、こい甘みがつばにとけて、だんだん小さくなっていく。

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それを口一杯に頬張つてくるくる廻してると濃厚な甘味が唾にとけてだんだん小さくなつてゆく。

よかよか飴屋(あめや・歌や踊りをしながら飴を売り歩く人)もやってきた。

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よかよか飴屋もきた。

真鍮のたが(金属の輪)をたくさんはめた、たらいのようなもののまわりに、日の丸の小旗がぐるりと立っていて、旗ざおの先には、おしどりの形をした紅白の飴がついている。

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真鍮のたがをたくさんはめた盥みたいなもののまはりに日の丸の小旗がぐるりとたつて、旗竿のさきに鴛鴦鳥をしどりの形をした紅白の飴がついてゐる。

こいの滝のぼりのゆかたを着たあめ屋の男が、「うどどんどん」と太鼓をたたきながら、肩と腰でゆらりゆらりと調子をとってやってくる。そのあとから、姉さんかぶりをした女が、じゃんじゃかじゃんじゃかと三味線をひいてくる。

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鯉の滝のぼりの浴衣をきた飴屋の男が うどどんどん と太鼓をたたきながら肩と腰とでゆらりゆらりと調子をとつてくるあとからあねさんかぶりをした女がぢやんぢやかぢやんぢやか三味線をひいてくる。

たくさん買ってやると、おかめの面をかぶっておどるのを、子どもたちはずらりと取り囲んで見物する。

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たんと買つてやるとおかめの面をかぶつて踊るのを子供たちはずらりととりかこんで見物する。

すると、首をひねったり、そでをふったりして、三味線に合わせていいかげんにおどりながら、へんな足どりで追いかけてくるので、子どもたちはきゃっきゃっと言って逃げまわる。

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と、首をひねつたり、袖をふつたり、三味線にあはせていいかげんに踊りながらへんな足つきをして追つかけるものできやつきやつといつて逃げまはる。

おどりが終わると、あめ屋は

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踊がすめば飴屋は

「へえ、おやかましゅう」

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「へえおやかましう」

と、たらいを頭にのせながら、愛嬌でわざとたらいを落として、泣きまねをしながら帰っていく。

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と盥を頭へのせながら御愛嬌にわざと盥をおつことして泣き泣き帰つてゆく。

お国さんのお父様は、体格のたくましい、こわい人だった。お役目のため留守がちだったが、たまに家にいるときは、一日じゅう二階に閉じこもって、何か書きものをしていた。

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お国さんのお父様とうさまは骨格の逞しい怖い人でお役のため留守がちだつたが、たまに家のときはいちんち二階に閉ぢこもつてなにか書きものをしてゐた。

そして、すこしうるさくすると、すぐに叱られるので、こちらもお父様がいる日には遊びに行かなかったし、向こうも家で小さくなっていた。

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さうしてすこしやかましくするとぢきに叱られるのでこちらもお父様のゐる日には遊びに行かなかつたし、むかふも家に小さくなつてゐた。

どうかしてそれを知らずに行って

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どうかしてそれを知らずにいつて

「お国さん、お遊びなさいな」

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「お国さん、お遊びなさいな」

と呼ぶと、お国さんは玄関の障子を細めに開けて、親指を鼻の先に出し、いかにもこわそうに手をふってみせる。

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とよぶとお国さんは玄関の障子を細めにあけ拇指おやゆびを鼻のさきへだしてさも怖さうに手をふつてみせる。

桃の節句に、お国さんのところへ招かれたことがあった。

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桃のお節句にお国さんのとこへよばれたことがあつた。

日当たりのいいお座敷の正面に、高くひな段をこしらえて、りっぱなおひな様がかざってあった。

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日あたりのいいお座敷の正面に高く雛段をこしらへて立派なお雛様がかざつてあつた。

うちのは目にも入らないくらい小さいのに、お国さんのは、その五つ分もある大きさだった。

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家のは目にはひりさうな小さいのだのにお国さんのはその五つがけもある。

おひな様は生きているものとばかり思っていたわたしは、体がすくむような気がして、いくつも続けざまにおじぎをしたら、みんながどっと笑った。

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お雛様は生きてるものとばかり思つてた私は体がすくむやうな気がしていくつもつづけざまにお辞儀をしたらみんながどつと笑つた。

そこへ、留守だと思っていたお父様が意外にも出てきたので、どうなることかと、おひな様とお父様の顔を見くらべながら、今にも泣き出しそうにちぢこまっていた。

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そこへ意外にも留守だと思つてたお父様が出てきたので、どうなることかとお雛様とお父様の顔を見くらべながら今にもべそをかきさうにちぢこまつてゐた。

お父様は、こわがっているわたしを見て、いつになくにこにこしながら、豆いりを紙に包んでくれて、「年はいくつ」「名前は何という」と、いろんなことを聞いた。

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お父様は怖ぢけてる私を見ていつになく笑ひながら豆煎を紙に包んでくれて、年はいくつだの、名はなんといふのといろんなことをきいた。

そして

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そして

「ここにいる人の中で、だれがいちばんこわい」

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「ここにゐる人のなかで誰がいちばん怖い」

と言ったので、正直にお父様を指さしたら、みんながまたどっと笑った。

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といつたから正直にお父様を指さしたらみんながまたどつと笑つた。

お父様も笑いながら

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お父様も笑ひながら

「おとなしくさえしていれば、叱りはしない」

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「おとなしくさへすれば叱りはしない」

と言って二階へ行ってしまったので、やっとほっと息をついた。

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といつて二階へいつてしまつたのでやうやくほつと息をついた。

三十一

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三十一

あの静かな子どもの日々の遊びを、心からなつかしく思う。

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あの静な子供の日の遊びを心からなつかしくおもふ。

そのなかでも楽しいのは、夕方の遊びだった。

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そのうちにも楽しいのは夕がたの遊びであつた。

とくに夏のはじめなど、日があかあかと夕焼けの雲に名残をとどめて暮れていくのを見ながら、「もうすぐ帰らなければ」と思うと、名残おしくなって、子どもたちはいっそう遊びに夢中になる。

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ことに夏のはじめなど日があかあかと夕ばえの雲になごりをとどめて暮れてゆくのをみながら もうぢき帰らなければ とおもへば残り惜しくなつて子供たちはいつそう遊びにふける。

ちょんがくれ(かくれんぼの遊び方の一つ)にも、めかくしおににも、おかおに(おにごっこの遊び方の一つ)にも、石けりにもあきたお国さんは、前髪をかきあげて、汗ばんだひたいに風をあてながら

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ちよんがくれにも、めかくしにも、をか鬼にも、石蹴りにもあきたお国さんは前髪をかきあげて汗ばんだ額に風をあてながら

「こんど、なにして遊びましょう」

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「こんだなにして遊びませう」

と言う。

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といふ。

わたしも、そでで顔をふきながら

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私も袂で顔をふきながら

「かーごめ かごめ をしましょう」

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「かーごめ かごめ をしませう」

と言う。

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といふ。

「かーごめ かごめ、かーごんなかの鳥は、いついつでやる……」

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「かーごめ かごめ、かーごんなかの鳥は、いついつでやる……」

雨のあとなど、頭をたれた杉の垣根の若葉にしずくがたまって、きらきら光っているのを、垣根をゆすると、いちどにばらばらと散るのがおもしろい。

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雨のあとなど首をたれた杉垣の杉の若芽に雫がたまつてきらきら光つてるのを、垣根をゆすぶると一時にばらばらと散るのが面白い。

しばらくすると、また先ほどのようにたまっている。

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暫くすればまたさきのやうにたまつてゐる。

遊び場のすみには、大きなねむの木があって、うす紅いふわふわした花がさいた。夕方、不思議なことにその葉が眠るころになると、すばらしいがが飛んできて、茶色の厚ぼったいはねをふるわせながら、花から花へと夢中でかけまわるのが、気味が悪かった。

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遊び場の隅には大きな合歓ねむの木があつてうす紅いぼうぼうした花がさいたが、夕がた不思議なその葉が眠るころになるとすばらしい蛾がとんできて褐色の厚ぼつたい翅をふるはせながら花から花へと気ちがひのやうにかけまはるのが気味がわるかつた。

ねむの木は、幹をさするとくすぐったがるといって、お国さんと手のひらの皮がむけるほどさすったこともあった。

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合歓の木は幹をさすればくすぐつたがるといつてお国さんと手のひらの皮のむけるほどさすつたこともあつた。

夕焼けの雲の色もあせていくと、こっそり待ちかまえていた月が、ほのかにさしてくる。

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夕ばえの雲の色もあせてゆけばこつそりと待ちかまへてた月がほのかにさしてくる。

二人は、そのやさしい顔を見あげて「お月様いくつ」をうたう。

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二人はその柔和なおもてをあふいで お月様いくつ をうたふ。

「お月さまいくつ、十三ななつ、まだとしや若いな……」

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「お月さまいくつ、十三ななつ、まだとしや若いな……」

お国さんは、両手の指で輪を作って眼鏡のようにして

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お国さんは両手の眼で眼鏡をこしらへて

「こうしてみると、うさぎがお餅ついてるのが見える」

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「かうしてみると兎がお餅ついてるのがみえる」

と言うので、わたしもまねをしてのぞいてみる。

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といふので私もまねをしてのぞいてみる。

あの、ほのかな丸い月の国で、うさぎがひとりで餅をついているとは、すなおで好奇心にみちた子どもの心には、なんとうれしいことだろう。

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あのほのかなまんまるの国に兎がひとりで餅をついてるとは無垢にして好奇心にみちた子供の心になんといふ嬉しいことであらう。

月の光が明るくなると、ふわふわとついてあるく自分のかげを追って、「影やとうろう」をする。

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月の光があかるくなればふはふはとついてあるく影法師を追つて 影やとうろ をする。

伯母さんが

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伯母さんが

「暗くなる前にお帰りよ」

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「ごぜんだにお帰りよ」

と言ってむかえに来て、連れて帰ろうとするのを、いっしょうけんめい足をふんばって帰るまいとすると、伯母さんはわざとよろよろしながら

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といつて迎ひにきてつれて帰らうとするのを一所懸命足をふんばつて帰るまいとすればわざとよろよろしながら

「かなわん、かなわん」

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「かなはん かなはん」

と言って、なだめすかしながら連れて帰る。

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といつてだまし騙しつれてかへる。

お国さんは

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お国さんは

「あすまた遊んでちょうだいえも」

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「あすまた遊んでちやうだいえも」

と言う伯母さんに「さようなら」をして帰る道すがら

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といふ伯母さんに さやうなら をして帰るみちみち

「かいろが鳴いたから、かーいろ」

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「かいろが鳴いたからかーいろ」

と言う。

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といふ。

わたしも名残おしくて、同じように呼ぶ。

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私も名残をしくておなじやうに呼ぶ。

そうして、かわるがわる呼びながら、家に入るまでかわるがわる呼んでいる。

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さうしてかはるがはる呼びながら家へはひるまでかはるがはる呼んでゐる。

三十二

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三十二

そんなふうにおだやかな日々をおくっているうちに、二人にとって大変なことが起こった。

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そのやうにして安穏な日をおくつてるうちに二人にとつて一大事がおこつた。

それは、二人とも八つになって、学校へあがらなければならなくなったことである。

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それは二人とも八つになつて学校へあがらなければならないことになつたのである。

いつだったか、伯母さんにおぶさって姉のお弁当を届けにいったことがあるので、学校の様子はわかっている。

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いつぞや伯母さんにおぶさつて姉のお弁当をもつていつたから学校の様子はわかつてゐる。

あの、意地の悪そうな子がうようよいるところへ、どうして行かれよう。

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あの意地のわるさうな子のうようよゐるところへどうして行かれよう。

毎晩、茶の間でおもちゃ箱を出して遊ぶ時間になると、父や母がくどくどと言い聞かせたが、わたしは強情に首をふっていた。

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毎晩茶の間へおもちや箱をだして遊ぶ時になると父や母がくどくいつてきかせたが私は強情に首をふつてゐた。

母は「学校へ行かなければ、りっぱな人になれない」と言う。

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母は 学校へ行かなければえらい人になれない といふ。

わたしは「りっぱな人になんかならなくてもいい」と言った。

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私は えらい人なんぞにならないでもいい といつた。

父は「学校へ行かない子は、家に置かない」と言う。

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父は 学校へ行かない子は家におかない といふ。

わたしは「伯母さんといっしょに、おもちゃ箱を持って出ていく」と言った。

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私は 伯母さんといつしよにおもちや箱をもつて出てゆく といつた。

小さな知恵をしぼった言いわけも、病気がちな体をたてにした願いも、はじめのうちこそ笑って聞き流されていたが、始業の日が近づくにつれて責めたては、ますます厳しくなり、あわれなわたしは毎晩泣き出しては、伯母さんに連れられて布団に入るようになった。

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小さな智嚢をしぼつた抗弁も、病身者の嘆願も、はじめのうちこそは笑つてききながされたが始業の日がせまるにしたがつて拷問はますます厳しくなり、あはれな子は毎晩泣きだしては伯母さんにつれられて床にはひるやうになつた。

そのあいだにも、かまわずかばんが買われて、厚紙の筆入れや、大きな習字の筆など、すっかりそろってしまった。

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そのうちにも委細かまはず鞄が買はれて、厚紙の筆入れや、大きな手習ひの筆や、すつかり揃つてしまつた。

姉たちは「いいものを買ってもらえてうらやましい」と言うが、そんなもの見たくもない。

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姉たちは いいものが買つてもらへてうらやましい といふけれどそんなもの見たくもない。

犬の置物と丑紅(うしべに・牛の絵の描いてある口紅の容器)の牛のほかは、何もいらない。

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お犬様と丑紅の牛のほかなんにもいらない。

そうして、外ではお国さんと遊んで、家では伯母さんと木の実であそべばいい。

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さうして外ではお国さんと遊んで、家では伯母さんと木の実どちをしてゐればいい。

こんなにいやなのを、どうして無理に行かせるのだろう、と思った。

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こんなにいやなのをどうして無理に行かせるのだらう と思つた。

ある日、思いあまってお国さんにその話をしたら、お国さんは

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ある日思ひあまつてお国さんにその話をしたらお国さんは

「あたしも毎日叱られてる」

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「あたしも毎日叱られてる」

と言う。

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といふ。

お友だちも、やっぱり学校がきらいで、同じつらい目にあっているらしい。

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お友達もやつぱり学校がきらひでおなじ憂きめをみてるらしい。

そこで二人は、すももの木の根っこに腰かけて、正直な気持ちを打ちあけて、なぐさめあった。

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そこで二人は李の木の根つこに腰かけて恥をうちあけて慰めあつた。

そうして別れるときに、お国さんが

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さうして別れるときにお国さんが

「あたし、どうしても行かないから、あなたも行くのおよしなさいね」

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「あたしどうしても行かないからあなたも行くのおよしなさいね」

と言ったので、わたしはかたく約束して帰った。

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といつたので私は堅く約束して帰つた。

三十三

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三十三

いよいよという日になったが、わたしは朝から

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いよいよといふ日になつたが私は朝から

「お国さんが行かなければ、行かない」

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「お国さんがいかなければいかない」

をくりかえして、どうにか一日が暮れた。

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をくりかへしてどうやら一日がくれた。

その晩、わたしは寝間のかくれ家から、無理やり茶の間の白洲(しらす・板の間)へひきずり出されて、おどしたりなだめたりされてすすめられたけれど、心を決めてがんばっていたら、兄がいきなりえりくびをつかまえ、変わったやり方でさんざん畳へたたきつけたあげく、続けざまにほおを打った。

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その晩私は寐間のかくれ家から無理やりに茶の間の白洲しらすへひきたてられておどしつすかしつすすめられたけれど心をきめてがんばつてたら兄がいきなり衿くびをつかまへ妙なことをしてさんざ畳へたたきつけたあげく続けざまに頬ぺたを打つた。

伯母さんは

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伯母さんは

「この弱い子をどうしようというだ、どうしようというだ」

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「この弱い子をどうせるだ どうせるだ」

と言って

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といつて

「わたしがよう言って聞かせるで」

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「私がよういつてきかせるで」

とかばいながら、寝間へ連れて逃げた。

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とかばひながら寐間へつれて逃げた。

兄は、上の学校で柔術をやっていた。

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兄は高等中学で柔術をやつてゐた。

次の日は、ほおをはらして、食事もせずにじっと寝間に引っこんでいたら、伯母さんは心配して、仏様のお供え物をこっそりわたしに食べさせた。

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明る日は頬をはらして食事もせずにじつと寐間にひつこんでたら伯母さんは心配して仏様のお供物をこつそり私にたべさせた。

そうしたら、その日から急にひどく熱が出て、ただでさえ神経の強いわたしが夜どおしろくに眠らないのを、伯母さんはお念仏をくりかえしながら、夜も眠らずに看病してくれた。

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さうしたらその日から急にひどく熱が出て唯さへ癇の強い私が夜どほしろくに眠らないのを伯母さんはお念仏をくりかへしながら夜の目もねずに看病してくれた。

四、五日そうして寝ているあいだは学校の話も出なかったが、やっと頭痛もなおり、熱もひいて起きると、その晩からまたもや責めたてがはじまった。

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四五日さうしてねてるあひだは学校の話もでなかつたが、やうやく頭痛もなほり、熱もひいておきるとその晩からまたもや拷問がはじまつた。

わたしはすっかり覚悟を決めて、あいかわらず「お国さんが行かなければ」と言い張ったが、どうしてか今度はつらい目にもあわず、ただ

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私はすつかり覚悟をきめて相変らず お国さんがいかなければ といひはつたが、どうしてか今度は辛いめにもあはずにただ

「お国さんが行けば、きっと行くか」

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「お国さんが行けばきつと行くか」

と言われたので

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といはれたので

「きっと行きます」

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「きつといきます」

と言いきった。

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といひきつた。

翌日、伯母さんは青い顔をしているわたしをおぶって、学校が終わるころ門の前へ連れ出した。

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翌日伯母さんは蒼い顔をしてる私をおぶつて学校のひけるじぶん門のまへへつれだした。

学校までは、百六十メートルほどしかない。

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学校までは一町半ぐらゐしかない。

「ちゃらん、ちゃらん」と鈴の音が聞こえると、間もなくぞろぞろと生徒が帰ってくる。

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ちやらん ちやらん と鈴の音がきこえると間もなくぞろぞろ生徒が帰つてくる。

そうしたら、意外にもお国さんが同じように包みをかかえて元気よく帰ってきて、伯母さんに「えらい、えらい」と言われたので、得意になって学校の話をして聞かせた。

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さうしたら意外にもお国さんがおなじやうに包みをかかへて元気よく帰つてきて伯母さんに えらい えらい といはれたもので得意になつて学校の話をしてきかせた。

わたしは背中にいて、「お国さんはひどい」と思った。

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私は背中にゐて お国さんはひどい と思つた。

その晩、わたしはしかたなく学校へ行くことを承知した。

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その晩私はしかたなしに学校へゆくことを承知した。

あくる朝、わたしは羽織はかまで父といっしょに学校の門を入った。

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あくる朝私は羽織袴で父といつしよに学校の門をはひつた。

そして先生たちのいる部屋へ連れていかれたが、そこにはガラス戸のはまった戸棚の中に、地球儀や、鳥や魚のはく製、めずらしいけものの絵図など、心をひくものがたくさんあった。――

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そして先生たちのゐる部屋へつれてゆかれたが、そこには硝子障子のはまつた戸棚のなかに地球儀や、鳥や魚の標本や、珍しい獣の掛け図や、心をひくものが沢山あつた。――

これらはみな、あとで覚えた名前である。――

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これらはみな後におぼえた名である。――

父が、わたしの頭がよくないこと、体が弱くて臆病なことなどを、こまごまと話すのが恥ずかしくてならない。

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父が私の脳のわるいこと、体が弱くて臆病なことなどこまごまと話すのが恥しくてならない。

それを聞いて、人の顔をじろじろ見ながらうなずいていた先生は、やわらかい声で

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それをきいて人の顔をじろじろ見ながらうなづいてた先生はものやはらか

「あなたの年はいくつ」

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「あなたの年はいくつ」

「あなたの名前は」

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「あなたの名は」

「お父様のお名前は」

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「お父様のお名は」

「お家は」

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「お家は」

と、いろいろなことをたずねた。

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といろいろなことを尋ねた。

そんなことは前から家で教わっていたし、先生が意外にやさしいので安心して、どうにか無事に返事ができた。

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そんなことは前から家で教はつてあるし、先生の案外やさしいのに安心してどうやら無事に返事ができた。

先生は、頭がよくないと聞いてばかとでも思ったのか、さまざまなことを聞いてためしたのち

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先生は脳が悪いときいてばかとでも思つたのかさまざまなことをききためしたのち

「これなら結構です」

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「これなら結構です」

と言って、入学を許してくれた。

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といつて入学を許してくれた。

その日はそのまま帰って、姉たちに、学校での行儀や、おじぎのしかたや、かばんの留め金のかけかたなどを教わって過ごした。

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その日はそれなり帰つて姉たちに学校でのお行儀や、お辞儀のしかたや、鞄のびぢやうのかけかたなど教はつて暮した。

そして次の日には、桜の花のバッジのついた帽子をかぶり、持ちなれないかばんをななめにかけて、なんともいえない落ち着かない気持ちで、伯母さんに手をひかれて学校へ行った。

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そして次の日には桜の花の徽章のついた帽子をかぶり、持ちつけぬ鞄をはすにかけてなんともいへない混乱した気もちをしながら伯母さんに手をひかれて学校へいつた。

この不慣れな様子を人に見られるのが恥ずかしいのと、まだ知らない学校生活の心配とで、小さな胸を痛めて、自分のつま先ばかり見ながら、そろそろとついていく。

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この不慣れな様子を人に見られるのが恥しいのとまだ知らぬ学校生活の心配とに小さな胸を痛めて自分の爪先ばかり見ながらそろそろとついてゆく。

姉たちは、わたしを教室へ連れていって、いちばん前の机にすわらせた。

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姉たちは私を教場へつれていつていちばん前の机へ腰かけさせた。

そこは尋常一年の乙組で、同じ一年生の中でも、体の弱い子や勉強の遅れている子を入れるところだった。

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それは尋常一年の乙の級で、おなじ一年のうちでも年弱な者や頭の悪い者をいれるところだつた。

三十四

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三十四

先にあがった子どもたちは、もう学校に慣れているし、それにわたしのような弱虫はひとりもいないので、わがもの顔でわいわい騒いでいる。

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さきにあがつた子供たちはもう学校になれてるし、それに私みたいな弱虫はひとりもゐないのでわがもの顔にわいわい騒いでゐる。

そうこうするうちに、いつも聞きなれている鈴が「ちゃらんちゃらん」と鳴った。

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さうかうするうちにいつもききなれてる鈴が ちやらんちやらん と鳴つた。

そばで聞くと、きんきん耳の底まで響いていやでたまらない。

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そばできくときんきん耳の底まで響いていやでならない。

姉たちは「また次の休み時間に来るから」と言って、伯母さんは「お稽古が終わるまで、ちゃんと戸の外で番をしている」という約束で出ていった。

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姉たちは またこの次の遊び時間にくるから といつて、伯母さんは お稽古のすむまでちやんと戸のそとに番をしてゐる といふ約束で出ていつた。

それで、ひとりぼっちになってこわごわ見まわしてみると、強そうな意地の悪そうな子ばかりが、向こうでも変な顔をしてじろじろ見ている。

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で、ひとりぼつちになつてこはごは見まはしてみたら強さうな意地のわるさうな奴ばかりがむかうでも変な顔をしてじろじろ見てゐる。

わたしは小さくなって、机にあいている節穴ばかりのぞいていた。

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私は小さくなつて机にあいてる節穴ばかりのぞいてゐた。

そこへ入ってきたのは、古沢先生という担任の先生だった。

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そこへはひつてきたのは古沢先生といふ受持ちの先生だつた。

この人は顔いちめんのあばたのために、ちょっと見はこわいけれど、ほんとうは評判のやさしい先生で、学校じゅうの生徒が「古沢先生、古沢先生」と言ってなついていた。

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この人は顔いちめんのあばたのためにちよつと見は怖いけれどほんたうは評判のやさしい先生で学校ぢゆうの生徒が 古沢先生 古沢先生 といつてなついてゐた。

教科書は、伯母さんに教わった「ちん わん ねこにゃあ ちう」の絵草紙や、「いぬ はし ほん つくえ」の絵本とはちがっていたが、やさしかったので、そちらはろくに見ずに、先生の白髪まじりの髪の毛がばらばらと風にふかれるのばかり眺めていた。

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本は伯母さんに教はつた ちん わん ねこにやあ ちう の絵草紙や、いぬ はし ほん つくゑ の絵本とはちがつてたが、やさしかつたのでそのはうはろくに見ずに先生の白髪まじりの髪の毛がばらばら風にふかれるのばかり眺めてゐた。

やがてお稽古が終わった。

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やがてお稽古がすんだ。

まわりの教室から、なだれ出た元気な子たちが、運動場いっぱいの藤棚の下で、かえるとびをする、鬼ごっこをする、大将ごっこをする。

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まはりの教場から雪崩なだれでた腕白どもが運動場いつぱいの藤棚のしたで蛙とびをする、鬼ごつこをする、大将ごつこをする。

今までお国さんのところの小さな世界にばかりいた、世間知らずのわたしには、たまらないほど目まぐるしい。きょときょとして立っていたら、姉のお友だちが「これが話に聞いてた弟か」というふうにばらばらと寄ってきて、たちまち取り囲んでしまった。

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今までお国さんのとこの小さな世界にばかりゐた世間みずの私にはたまらないほど眼まぐるしいのできよときよとして立つてたら姉のお友達は これが話にきいてた弟か といふやうにばらばらとよつてきて忽ち人をとりまいてしまつた。

そうして、ませたお世辞をあびせかけて、お決まりの「年はいくつ」だの「名前は何というの」と、四方八方から質問をあびせる。

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さうしてませくれたお愛想をあびせかけておきまりの 年はいくつ だの、名はなんといふの と四方八方から質問の矢をはなつ。

あわれな臆病者は、けものの群れにおそわれた小動物のように、おどおどして顔もあげずに、あちこちに首をふるばかりだった。

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あはれな臆病者は雌豹めへうの群に襲はれた驢馬のやうにおどおどして顔もあげずに縦横に首をふるばかりだつた。

そこへ運悪くひとりの先生が来て、いきなりわたしの帯をつかまえ「やっ」と掛け声をして宙にさしあげたので、朝から目の奥にいっぱいたまっていた涙が一度にあふれ出し、両足をぶらぶらさせながらわっと泣き出した。

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そこへ運わるくひとりの先生がきていきなり私の帯をつかまへ やつ と掛声をして宙にさしあげたもので朝から眼の奥にいつぱい溜つてた涙が一時にあふれだして両足をぶらぶらさせながらわつと泣きだした。

先生はびっくりして

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先生は胆をつぶして

「こりゃ大変。こりゃあやまった」

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「こりや大変。こりやあやまつた」

と言いながら、地面へおろして、ハンカチで涙をふいてくれた。

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といひながら地べたへおろして手巾で涙をふいてくれた。

あとで姉に聞くと、それは姉の担任の先生で、わたしをかわいがってくれたのだという。

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あとで姉にきけばそれは姉のはうの受持ちの先生で、私を可愛がつてくれたのだといふ。

そうして「これから、あんなことをされても泣いちゃいけない」と言われたので、やっと訳がわかって「今度こそは泣くまい」と思っていたが、先生のほうもこりごりしたとみえて、その後ちっともわたしをさしあげなかった。

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さうして これからあんなことをされても泣いちやいけない といはれたのでやうやく訳がわかつて 今度こそは泣くまい と思つてたけれどさきはこりごりしたとみえてその後ちつとも私をさしあげなかつた。

その次の習字の時間の騒ぎは、また格別だった。

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その次の習字の時の騒ぎはまた格別であつた。

墨つぼをひっくり返して泣く子がいる。

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墨壺をひつくらかへして泣く奴がある。

紙にだんごばかり書いて叱られる子がいる。

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草紙に団子ばかり書いて叱られる奴がある。

そのなかを古沢先生は、面倒などということを忘れたかのように、何から何まで世話をして、腰をたたきながらひとりひとり手をとって書き方を教えてまわる。

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そのなかを古沢先生は世間に面倒といふことがあるのを忘れたかのやうになにからなにまで世話をして腰をたたきながらひとりびとり手をとつて習はせてあるく。

筆を持つ手の上を、白墨だらけの手でつかまれると、体がすくんで筆の先がぶるぶるふるえるので、先生は何度もいろはを書きなおさなければならなかった。

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筆をもつ手のうへを白墨だらけの手でつかまれると体がすくんで筆の先がぶるぶるふるへるもので先生はいくたびもいろはを書きなほさなければならなかつた。

あまりにはげしい刺激や、慣れない仕事などのために頭が痛くなり、気分も悪くなって、その日はそれで家へ帰った。

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あんまり烈しい刺戟や慣れない仕事などのために頭痛がして胸がわるくなりその日はそれで家へ帰つた。

伯母さんは水で頭を冷やしてくれて

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伯母さんは水で頭を冷してくれて

「えらかった、えらかった」

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「えらかつた えらかつた」

と、木まくらの引き出しから肉桂棒(にっけいぼう・シナモンのお菓子)を出してくれたし、姉はごほうびに南京玉(なんきんだま・小さなガラス玉)のお守り袋を作ってくれたので、頭痛もすぐによくなってしまった。

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と木枕の抽匣から肉桂棒を出してくれたし、姉は御褒美に南京玉の守袋をこしらへてくれたゆゑ頭痛もぢきによくなつてしまつた。

わたしは家じゅうの者に「えらい、えらい」とほめられた。

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私は家ぢゆうの者に えらい えらい と褒められた。

学校が終わるころを見て、お国さんのところへ遊びにいったら、やっぱりみんなして「えらい、えらい」と言ったので、自分でもえらくなったと思って得意だった。

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学校のひけるころをみてお国さんのところへ遊びにいつたらやつぱりみんなして えらい えらい といつたので自分でもえらくなつたと思つて得意だつた。

三十五

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三十五

何日かあとには、学校の門まで送りむかえしてもらえば、あとは自分ひとりでいられるようになった。

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幾日か後には学校の門まで送り迎へしてもらへばあとは自分ひとりでゐられるやうになつた。

伯母さんは、わたしの好きなだがしを、はまぐりの貝がらに入れて赤い紙で封じておいて、学校から帰ってかばんを放り出すと、仏だんの引き出しから出してくれる。

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伯母さんは私の好きな駄菓子を蛤の貝殻へいれ赤い紙で封じておいて学校から帰つて鞄をはふりだすとお仏壇の抽匣から出してくれる。

それを、あれかこれかとまよいながら選びとるのが楽しみだった。

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それをあれかこれかとまよひながらよりどるのが楽しみであつた。

そのうち、わたしは甲組へうつされることになった。

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そのうち私は甲の組へうつされることになつた。

みんなは、乙組から昇進してきた新参者を取りかこんでひそひそとうわさしあっていたが、やがてひとりが、兄の書いてくれたかばんのドイツ語の文字を見て

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みんなは乙の組から昇進してきた新参者をとりまいてひそひそ評しあつてたがやがてひとりの奴が兄の書いてくれた鞄の独逸字をみて

「やあ、英語が書いてあら」

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「やあ、英語が書いてあら」

と言って寄ってきた。

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といつてよつてきた。

ほかの子たちも「やあ、やあ」と言って顔をつき出す。

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ほかの奴らも やあ やあ といつて顔をつきだす。

そして「なんと書いてあるのだ」と言うから、家で教わったとおり「自分の名前だ」と言ったら、うらやましそうに見ていたが、ひとりが

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そして なんと書いてあるのだ といふから家で教はつたとほり 自分の名だ といつたら羨しさうに見てたがひとりが

「えくしょ。日本人のくせに西洋人の名なんか書いてやがら」

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「えくしよ。日本人のくせに毛唐人の名なんか書いてやがら」

と言った。

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といつた。

またひとりの子が、お守り袋と鈴を見つけて、きたない手でいじくりはじめた。

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またひとりの奴が守袋と鈴を見つけて穢い手でいぢくりはじめた。

わたしはいやでしかたなかったが、こわいのでするがままにさせておいた。

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私はいやでしやうがなかつたけれど怖いのでするがままにさせておいた。

お守り袋は、水色と白の南京玉で弁慶格子に作られていて、鈴には鈴虫の模様があり、紫のひものもう一方の端には、小さなガラスのひょうたんをつけていた。

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守袋は水色と白の南京玉で弁慶にして、鈴には鈴虫の模様があり、紫の緒の他の端には小さな硝子の瓢箪をつけてゐた。

その子が「鈴なんかさげて、どうするのだ」と聞いたので、わたしが「迷子になったとき、音を聞いて伯母さんがさがしに来るためだ」と言ったら、彼らはさもばかにしたように顔を見合わせた。

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いつが 鈴なんぞさげてどうするのだ ときいたから私は、迷子になつたとき音をきいて伯母さんが捜しにくるためだ といつたら彼らはさも軽蔑したらしく顔を見合せた。

そのうち彼らがあまりお守り袋をいじくったので、弱いかたん糸が切れて、南京玉がばらばらと落ちてしまった。

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そのうち彼らがあんまり守袋をいぢくつたもので弱いかたん糸がきれて南京玉がばらばらと落ちてしまつた。

わたしはぐすぐすと泣き出しそうになった。

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私はぐすぐすべそをかきだした。

彼らは「とんだことをした」という顔つきで、それぞれすばやく身を引いて

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彼らは とんだことをした といふ顔つきでてんでにすばやく身をひいて

「おいらのせいじゃなーいと、三年烏のせーいだ」

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「おいらのせゐぢやなーいと 三年烏のせーゐだ」

と言いながら、遠くから心配そうに様子を見ている。

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といひいひ遠方から心配さうに様子をみてゐる。

わたしはどうしようかと思ったが、だれも来てくれないし、泣くに泣かれず、散らばっている南京玉を見つめてしくしくしているところへ、ちょうどよく姉が来たので、一度に悲しさがこみあげて、わっと大声で泣き出した。

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私はどうしようかと思つたが誰もきてくれないし、泣くにも泣かれず散らばつてる南京玉を見つめてしくしくしてるところへ折よく姉がきたので一時に悲しさがこみあげてわつと手ばなしに泣きだした。

彼らは姉に叱られるのがこわいので

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彼らは姉に叱られるのが怖いもので

「泣き虫毛虫、はさんで捨てろ」

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「泣虫毛虫、はさんですてろ」

と足拍子にあわせてはやしたてながら、どこかへ姿を消してしまった。

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と足拍子にあはせて囃したてながらどこかへ影をかくしてしまつた。

姉は「また編んであげるから」と言って、「もう家へ帰る」とだだをこねるのをやっとなだめて、涙をふいたり鼻をかんだりしてくれるうちに鈴が鳴ったので、「また次の休み時間に来るから」と言って出ていった。

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姉は また編んであげるから といつて、もう家へ帰る とだだを捏るのをやつとなだめて涙をふいたり鼻をかんだりしてくれるうちに鈴が鳴つたので またこの次の遊び時間にくるから といつて出ていつた。

部屋の外からこっそり事の成りゆきを見ていた悪者たちは、姉がいなくなると同時に、どやどやと入ってきて

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部屋のそとからこつそり事の始末を見てた悪者どもは姉がゐなくなると同時にどやどやとはひつてきて

「今泣いた烏がもう笑ったい」

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「今ないた烏がもう笑つたい」

と言いながら、わたしのまわりを踊りまわった。

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といひいひ私のまはりを踊りまはつた。

今度の組の担任は、溝口先生というひげのある人だった。

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今度の組の受持ちは溝口先生といふ髭のある人だつた。

古沢先生と同じく、子どもの世話をするために生まれてきたのかと思うくらいいい人で、とくにおとなしいわたしに目をかけてよくしてくれた。

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古沢先生同様子供の世話をするために生れてきたかと思ふくらゐいい人で、ことにおとなしい私に目をかけてよくしてくれた。

ひとつの机に並んでいるのは、岩橋というかわら屋の息子で、いじめっ子として有名だった。

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ひとつ机に並んでるのは岩橋といふ瓦屋の息子でいぢめつ子の通りものだつた。

そいつは、机のまん中に鉛筆で線をひいて、こちらのひじが少しでも向こうの側にはみ出すと、すぐにひじでこづいたり、鼻くそをなすりつけたりする。

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そ奴は机のまんなかへ鉛筆ですぢをひいてこちらの肱がちつとでもむかふの領分へはみだせばすぐに肱鉄砲をくれたり、鼻糞をなすつたりする。

そいつがお稽古の最中に何か話しかけてきたのでいやだったが、いいかげんに受け答えしていたら、先生が見つけて、黒板に二人の名字を書きならべ、頭の上に大きな黒い玉をつけた。

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そ奴がお稽古の最中になにか話しかけたからいやだつたけれどいいかげんにあしらつてたら先生が見つけ黒板に二人の苗字を書きならべて頭へ大きな黒玉をつけた。

岩橋はそれを見るなり石板にうつぶして泣き出したが、わたしは何のことかわからず、きょとんとして先生の顔を見ていた。

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岩橋はそれを見るやいなや石盤のうへへつつぷして泣きだしたが私はなんのことかわからずにきよとんとして先生の顔を見てゐた。

お稽古が終わったときに姉が来て、笑いながら「お稽古中に話をしたんでしょう」と言う。

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お稽古がすんだときに姉がきて笑ひながら お稽古中に話をしたらう といふ。

だれがもう言いつけたのかしら、と思ったが、なんだか悪いことをしたような気がして「話なんかしていない」と言ったら、姉は「そんなに隠したって、黒板に黒玉をつけられてる」と言う。

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誰がもういつけたのかしら と思つたがなんだか悪いことをしたやうな気がして 話なんぞしやしない といつたら姉は そんなにかくしたつて黒板に黒玉をつけられてる といふ。

黒玉は悪いことをしたときにつけられるのだとわかって、急に悲しくなった。

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黒玉は悪いことをしたときつけられるのだとわかつて急に悲しくなつた。

三十六

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三十六

岩橋の教科書は、赤鉛筆でめちゃめちゃにぬってある。

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岩橋の本は赤鉛筆でめちやめちやに塗つてある。

火事場からお巡りさんが迷子の手をひいてくる挿絵の、泣いている子の頭から、めちゃくちゃに後光がさして、お巡りさんの目玉がはちきれそうに大きくなっていた。

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火事場からお巡りさんが迷子の手をひいてくる挿絵の泣いてる子の頭から無茶苦茶に後光がさしてお巡りさんの眼玉がはちきれさうに大きくなつてゐた。

彼は石板に一つ目小僧や三つ目小僧の顔をかいて

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彼は石盤に一つ目小僧や三つ目小僧の顔をかいて

「やい、やい」

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「やい やい」

と言って見せる。

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といつてみせる。

こちらは、こないだの黒玉にこりているので知らん顔をしていると、机のかげでげんこつをびくびくさせては、目をむいて横目でにらむ。

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こちらはこなひだの黒玉に懲りてるゆゑ知らん顔してゐれば机の蔭で拳骨をびくびくやつては眼をむいて横目に睨む。

そうしてお稽古が終わって先生がいなくなると、はあはあとげんこつに息をふきかけてかかってくるので、わたしは廊下へ出て、見つからないようなところへこっそり立っていた。

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さうしてお稽古がすんで先生がゐなくなるとはあはあ拳固へ息をふつかけてかかつてくるので私は廊下へ出て見つからないやうなところへこつそり立つてゐた。

すると、やっぱり同じ組の古株で、赤い顔をしたきたない子が

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さうしたらやつぱり同じ級の古参の者で赤つ面の穢い子が

「いいものやろう」

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「いいものやらう」

と言って、何か手ににぎって来て、手を出せと言う。

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となにか握つてきて人に手を出せといふ。

だまされるのだと思ったが、こわいのですなおに手を出したら、赤い木の実を二つ三つ、手のひらにのせてくれた。

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騙されるのだと思つたが怖いから素直に手を出したら赤い木の実を二つ三つ手のひらへのせてくれた。

そんなものはほしくなかったが、親切にしてくれるのがうれしくて

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そんなものはほしくなかつたけれど親切にしてくれるのが嬉しくて

「ありがとう」

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「ありがたう」

と言ってにっこりした。

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といつてにつこりした。

それが裏にある美男葛(びなんかずら・つる草の実)の実だったと知ったのは、その後五、六年たってからのことである。

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それは裏にある美男葛びなんかづらの実だつたといふことを知つたのはその後五六年たつてからのことである。

彼は、赤い顔のために「猿面冠者(さるめんかじゃ・猿のような顔の人)」とあだ名され、また長平という名前から「ちょっぺい」とも呼ばれている、伝法院(でんぽういん)前の魚屋の息子だった。

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彼は赤つ面のために猿面冠者と渾名あだなされ、また長平といふ名によつて ちよつぺい とも呼ばれてる伝法院でんぽふゐん前の魚屋の息子だつた。

それ以来、ちょっぺいはただひとりの知り合いになったが、こちらとしてはなるべくちょっぺいとも口をききたくなかった。それでも向こうは何を思ってか、しきりにわたしに話しかけてきた。

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それ以来ちよつぺいはただひとりのちかづきになつたが、こちらではなるべくならちよつぺいとも口をききたくなかつたのだけれど、さきではどこを見こんでかしきりに私に話しかけてきた。

ある日のこと、ちょっぺいは

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ある日のことちよつぺいは

「こんどのお稽古のとき、いっしょにしょんべんに行こう」

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「こんだのお稽古のときいつしよにしよんべんにいかう」

と言った。

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といつた。

「先生に叱られるからいやだ」

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「先生に叱られるからいやだ」

と言ったら

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といつたら

「いやならよしやがれ よしべのこんなれ」

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「いやならよしやがれよしべのこんなれ」

と言ってこわい顔をしたので、わたしはあわてて

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といつて怖い顔をしたので私はあわてて

「行くよ、行くよ」

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「いくよ いくよ」

と言った。

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といつた。

彼はすぐに機嫌をなおして

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彼はすぐ機嫌をなほして

「おいらのまねすりゃ大丈夫だ」

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「あたいのまねすりや大丈夫だ」

と言う。

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といふ。

お稽古がはじまると間もなく、彼は手をあげて

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お稽古がはじまると間もなく彼は手をあげて

「先生、お小用に行かせてください」

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「先生、お小用にやつてください」

と言った。

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といつた。

先生は

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先生は

「ほんとうにしたいのかい。うそをつくとちゃんとわかるよ」

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「ほんたうにしたいのかい。嘘つくとちやんとわかるよ」

と言う。

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といふ。

少しもひるまず

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すこしもひるまず

「ほんとに出たいんです」

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「ほんとに出たいんです」

と言う。

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といふ。

先生も「もらされては困る」という気持ちがあるので

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先生も 漏らされては といふ気があるので

「それなら、いっといで。すんだらすぐ帰ってくるんだよ。道草すると黒玉だよ」

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「そんならいつといで。すんだらすぐ帰つてくるんだよ。道くさすると黒玉だよ」

と言った。

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といつた。

ほかの子もそれぞれ「先生、先生」と手をあげて、五、六人いっしょにトイレへ行かせてもらった。

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ほかの者もてんでに 先生、先生 と手をあげて五六人いつしよに便所へ行かしてもらつた。

ちょっぺいはどやどやと出ていきながら、ちょっとこちらを見たので、はっと気がついて、おそるおそる

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ちよつぺいはどやどやと出て行きながらちよつとこちらを見たのではつと気がついて、おそるおそる

「先生」

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「先生」

と、見よう見まねで手をあげて

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と見やう見まねに手をあげて

「お小用に行かせてください」

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「お小用にいかしてください」

と言った。

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といつた。

先生は、わたしがちょっぺいに知恵をつけられているとは知らず、すぐに許してくれた。

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先生は私がちよつぺいに入智慧されてるとは知らずすぐに許してくれた。

トイレは教室からはなれたところにあって、ちょうど隣の八幡様の笹やぶの下になっている。

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便所は教場からはなれたところにあつてちやうど隣の八幡様の笹藪のしたになつてゐる。

ちょっぺいはそこで待ちかまえていて

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ちよつぺいはそこに待ちかまへてゐて

「すもうとろう」

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「相撲とらう」

と言う。

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といふ。

見ると、ほかの子たちは廊下の手すりをのりこえて、がけの甘い草の根を掘ったり、やわらかい土のだんごを作ってぶつけあったりしている。

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見ればほかの奴らは廊下の手すりをのりこえて崖の甘根を掘つたり、へな土の団子をこしらへてぶつけあつたりしてゐる。

彼らは、トイレに行くふりをして、ちょっと息ぬきに来ていたのだった。

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彼らは小用にかこつけてちよつと息ぬきにくるのだつた。

ちょっぺいが

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ちよつぺいが

「とろう、とろう」

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「とらう とらう」

とせきたてるので、今日までずっと伯母さん相手に、加藤清正のごっこ遊びのほかやったことのないわたしは、すっかり困ってしまったが、どうにもならず

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とせきたてるので今日が今日まで伯母さん相手に四王天清正の立廻りのほかやつたことのない私ははたと当惑したがのつぴきならず

「あぶないから、そっとだよ」

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「あぶないからそうつとだよ」

と弱気なことを言いながら、いいかげんに取り組んだ。

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と弱いことをいひながらいいかげんに取組んだ。

力のあるちょっぺいは

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力のあるちよつぺいは

「はっけよい、はっけよい」

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「はつけよい はつけよい」

と元気よく掛け声をしながら、くるくるとわたしを引きまわしたため、あわれにも、さすがのわたしも、たちまち着物のすそをふんで尻もちをついてしまった。

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と景気よく掛声をしながらくるくる人をひき廻したためむざんやさすがの清正も忽ち袴の裾をふんで尻餅をついてしまつた。

彼は鼻を高くして

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彼は鼻たかだかと

「弱えな。またこんどとろう」

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「弱えな。またこんだとらう」

と先に立って帰っていく。

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と先にたつて帰つてゆく。

わたしも、ねじれた着物をなおして、あとについていった。

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私もねぢくれた著物をなほして後についていつた。

教室に入るなり、彼は何くわぬ顔で

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教場へはひるやいなや彼はなにくはぬ顔で

「先生ただいま」

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「先生ただいま」

と、ひょいと頭を下げた。

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とひよつこり頭をさげた。

わたしも黙って頭を下げた。

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私も黙つて頭をさげた。

ほかの子もぞろぞろ帰ってきたが、草の根を掘っていた子は、あまりにいつまでもかじっていたので先生に立たされ、おまけにふところからはみ出している草の根を見つかって、こっぴどく叱られた。

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ほかの奴もぞろぞろ帰つてきたが、甘根を掘つてた奴はあんまりいつまでもかじつてたもので先生に立たされ、おまけに懐からはみだしてる甘根をみつかつて大眼玉をくつた。

わたしは、もう二度とトイレへは行くまいと思った。

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私はもう二度と便所へは行くまいと思つた。

三十七

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三十七

授業の中でいちばんみんなが喜ぶのは修身(しゅうしん・道徳の授業)だった。

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学課のうちでいちばんみんなの喜ぶのは修身だつた。

それは、きれいな絵図をかけて、先生がおもしろい話を聞かせてくれるからだった。その絵には、弾丸(たま)にあたった親熊が、かにをさがしている子熊をつぶさないように、もちあげた石をかかえたまま死んでいるところや、大将がほおづえをついて、くもが巣をかけるのを見ているところなどがあった。

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それは綺麗な掛け図をかけて先生が面白い話をきかせるからで、その絵には弾丸たまにあたつた親熊が蟹をあさつてる子熊をひしがないやうにもちあげた石をかかへたまま死んでるところ、大将が頬杖をついて蜘蛛が巣をかけるのを見てるところなどあつた。

生徒たちは美しい絵に見とれ、お話に聞きほれて「もうひとつ、もうひとつ」とねだる。

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生徒らは美しい絵にみとれ、お話にききほれて もうひとつ、もうひとつ とねだる。

先生は

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先生は

「みんながお行儀よくさえすれば、いくらでも話してあげる」

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「みんながお行儀よくさへすればいくらでも話してあげる」

と言って、一枚一枚めくっては話していく。

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といつて一枚一枚めくつては話してゆく。

そんなふうに、いつもたいてい一冊の絵図をすっかり話してしまうのだが、不思議なことに、いちばんはじめにある、外国の女の人が子どもを抱いて雪の中に倒れている絵だけは、きまってとばしてしまう。

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そんなにしていつも大抵一冊の掛け図をすつかり話してしまつたが、不思議なことにはいちばんはじめにある異人の女が子供を抱いて雪のなかに倒れてる絵をきまつてとばしてしまふ。

生徒たちもそれを見ながら、ちっともせがまない。

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生徒らもそれを見ながらちつともせびらない。

わたしは、なかでもその絵が気に入って、「もうかな、もうかな」と待っていたが、とうとう話してもらえなかった。

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私はまたなかでもその絵が気にいつて もうか もうか と待つてたけれどつひぞ話してもらへなかつた。

鈴が鳴ると、みんなはわいわいと先生のいすを取り囲んで、ひざにのったり、肩につかまったりして、「もういっぺん、もういっぺん」と同じ話をくりかえさせる。

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鈴が鳴るとみんなはわいわいと先生の椅子をおつとりまいて、膝にのつたり、肩へつかまつたりして もういつぺん、もういつぺん とおんなじ話をくりかへさせる。

わたしは彼らのように大胆にはできず、すこしはなれてぼんやりと絵をながめていた。

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私は彼らのやうに大胆にはし得ずにすこしはなれてぼんやりと絵を眺めてゐた。

先生はこちらを向いて

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先生はこちらを向いて

「□□さんにもひとつしてあげようか。□□さんはどれがいい」

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「□□さんにもひとつしてあげようか。□□さんはどれがいい」

と言ったが、わたしが顔を赤くしているので

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といつたが顔を赤くしてるので

「言ってごらん、言ってごらん」

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「いつてごらん、いつてごらん」

とうながした。

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と促した。

わたしは、一生けんめいの思いで

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私は一生の思ひで

「これ」

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「これ」

と口ごもりながら、あの絵を指さした。

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と口ごもりながられいの絵を指さした。

みんなは不満そうに

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みんなは不平らしく

「つまんないや、つまんないや」

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「つまんないや、つまんないや」

と言う。

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といふ。

先生も

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先生も

「これはおもしろくないよ。いいかい」

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「これは面白かないよ。いいかい」

と念を押した。

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と念を押した。

わたしは黙ってうなずいた。

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私は黙つてうなづいた。

先生は、わたしがまだその話を知らないことに気づき、つまらながる皆を説得して、新参者(しんざんもの・新しく来た人)のためにその話をしてくれた。

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先生は私がまだそれを知らないのに気がつき、つまらながる皆を説得して新参者しんざんもののためにその話をしてくれた。

それは、雪の中で道に迷った母親が、自分の着物をぬいではぬいでは子どもに着せて、とうとう凍え死んだという話だった。

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それは雪のなかで路に迷つた母親が自分の著物をぬいではぬいでは子供に著せてたうとう凍え死にをしたといふ話であつた。

絵も子どもの目を喜ばせるような色づかいはしていなかったし、話もただそれだけのことなので、彼らはちっともおもしろがらず、先生もとばしていたのだが、わたしにはそれで十分におもしろかった。

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絵も子供の目をよろこばすやうな彩色がしてなかつたし、話もただそれだけのことなので彼らはちつとも興がらず、先生もとばしてたのだが、私にはそれで充分に面白かつた。

わたしは、伯母さんに常磐御前(ときわごぜん・昔話に出てくる人物)の話を聞くときのように、しみじみと聞いた。

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私は伯母さんに常磐御前の話をきくときのやうにあはれにきいた。

話し終えて先生が

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話しをはつて先生が

「おもしろくないだろう」

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「面白かないだらう」

と言ったので、正直に首をふったら、先生は意外そうな顔をし、みんなはばかにしてくすくす笑った。

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といつたので正直に首をふつたら先生は意外な顔をし、みんなは軽蔑してくすくす笑つた。

三十八

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三十八

わたしはそのころから、人目をはなれてひとりぼっちになりたい気持ちになることがよくあって、机の下だの、戸棚の中だの、所かまわず隠れた。

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私はそのじぶんから人目をはなれてひとりぼつちになりたい気もちになることがよくあつて机のしただの、戸棚のなかだの、処かまはず隠れた。

そんなところに引っこんで、いろいろなことを考えているあいだ、なんともいえない安らぎと満足を感じるのだった。

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そんなところにひつこんでいろいろなことを考へてるあひだいひしらぬ安穏と満足をおぼえるのであつた。

それらのかくれ場所のうちでいちばん気に入ったのは、小引き出しのついたたんすの横だった。

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それらの隠れがのうちでいちばん気にいつたのは小抽匣の箪笥の横てであつた。

そこは、蔵のそばにある北向きの窓からさしこむ明かりにだけ照らされる、いちばん暗い部屋だったが、その窓とたんすのあいだに、ちょうどひざを立てたなりにすぽんとはまりこむほどのすき間があった。

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それは蔵のそばにある北むきの窓からさしこむ明りにだけ照される最も陰気な部屋であつたが、その窓と箪笥のあひだにちやうど膝を立てたなりにすぽんとはまりこむほどの余地があつた。

わたしはそこにしゃがんで、窓ガラスについた放射状のひびや、すぐそばにある榧(かや・木の一種)の木や、朽木にからんだ美男葛、美男葛の赤いつる、つるの先に汁を吸う油虫などをながめていた。

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私はそこに屈んで窓硝子についた放射状のひびや、ぢきそばにあるかやの木や、朽木にからんだ美男葛、美男葛の赤い蔓、蔓のさきに汁をすふ油虫などを眺めてゐた。

そうして、半日でも一日でも、ひとりでぼそぼそ何か言いながら、いつからともなく鉛筆でひとつふたつずつ、たんすに平仮名の「を」

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さうして半日でも一日でもひとりでぼそぼそなにかいひながらいつとはなしに鉛筆でひとつふたつづつ箪笥に平仮名の「を」

の字を書くくせがついた。それが、しまいには大きいのや小さいのや、無数の「を」

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の字を書く癖がついたのが、しまひには大きいのや小さいのや無数の「を」

の字が行列を作った。

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の字が行列をつくつた。

そのうち、わたしがあまりにそこへばかり入るのを父があやしんで、そのすみをのぞいたため、たちまちその行列を見つかったが、父はただ手持ちぶさたの落書きだと思って、「手習いするならお習字帳にしなければいけない」と言っただけで、ひどくは叱らなかった。

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そのうち私があんまりそこへばかりはひるのを父が怪んでその隅をのぞいたため忽ちくだんの行列を見つかつたが、父はただ手もちぶさたの落書だと思つて 手習ひするならお草紙へしなければいけない といつたばかりでひどくは叱らなかつた。

けれど、それはけっしてただの落書きではなかったのである。

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併しそれはゆめさらただの落書ではなかつたのである。

平仮名の「を」

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平仮名の「を」

の字は、どこか女の人がすわった形に似ている。

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の字はどこか女の坐つた形に似てゐる。

わたしは、小さな胸に、弱い体に、何かあるときには、それらの「を」

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私は小さな胸に、弱い体に、なにごとかあるときにはそれらの「を」

の字になぐさめを求めていた。すると、彼らはよくこちらの気持ちを察して、親切になぐさめてくれた。

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の字に慰藉を求めてたので、彼らはよくこちらの思ひを察して親切に慰めてくれた。

こちらへ引っ越してからも、わたしは三日にあげずこわい夢にうなされて、夜中に家じゅうを逃げまわらなければならなかった。

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こちらへこしてからも私は三日にあげず怖い夢におそはれてよるよなか家ぢゆう逃げまはらなければならなかつた。

そのひとつは、空中に直径三十センチほどの黒いうずまきがかかって、時計のぜんまいみたいに脈を打つ。

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そのひとつは、空中に径一尺ぐらゐの黒い渦巻がかかつて時計のぜんまいみたいに脈をうつ。

それが気味悪くてたまらないのを一生けんめいこらえていると、やがてどこからか化けづるが一羽飛んできて、そのうずまきをくわえる、というもの。もうひとつは、暗やみの中で何か内臓のようなものがくちゃくちゃともみあっている。

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それが気味がわるくてならないのを一所懸命こらへてるとやがてどこからか化け鶴が一羽とんできてその渦巻をくはへる といふので、もうひとつは、暗闇のなかでなにか臓腑のやうにくちやくちやと揉みあつてゐる。

すると、それが女の顔になって、ばかみたいに口をあけっぱなしにし、目をぱっと開いて、長い長い顔をする。

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と、それが女の顔になつて馬鹿みたいに口をあけはなし、目をぱつとあいて長い長い顔をする。

かと思うと、その次には口をつぶって横に広くし、目も鼻もくしゃくしゃに縮めて、とんでもなくぺしゃんこな顔になる。

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かと思へばその次には口をつぶつて横びろくし、目も鼻もくしやくしやに縮めて途方もないぴしやんこな顔になる。

そんなふうにして、こちらが泣き出すまでは、いつまでも伸びたり縮んだりするのだった。

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そんなにして人が泣きだすまではいつまでも伸び縮みするのであつた。

そんなにうなされてばかりいるのは伯母さんのお伽話のせいだろうという疑いが持ちあがったのと、もうひとつには、寝る部屋を変えてみたらというので、わたしは父のそばで寝ることになった。

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そのやうに魘はれてばかりゐるのは伯母さんのお伽話のせゐだらうといふ疑がおこつたのと、ひとつにはまた寐間をかへてみたらといふので私は父のそばに寐ることになつた。

けれど、毎晩父が話してくれる宮本武蔵や義経弁慶などの武勇伝も何のかいもなく、化けものは父ぐらいはこわがりもせずに、あいかわらずやってきた。

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が、毎晩父が話してくれる宮本武蔵や義経弁慶なぞの武勇譚もなんのかひもなく、化けものはおやぢぐらゐは屁とも思はずに相変らずやつてきた。

前の寝間では床の間の天井に魔物がいたが、こんどの部屋では、柱にかかった八角時計が一つ目になり、四枚の障子が大きな口になってみせた。

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先の寐間には床の間の天井に魔がゐたが、こんだの部屋では柱にかかつた八角時計が一つ目になり、四本の障子が大きな口になつてみせた。

三十九

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三十九

お医者様のすすめにしたがって、とかく弱りがちだった母とわたしの健康のために、父は二人を連れてある海岸へ行くことになった。

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お医者様のすすめにしたがつてとかく弱りがちであつた母と私の健康のために父は二人をつれてある海岸へゆくことになつた。

行く道すがら、それまで歌がるたの絵や絵手本などで見て、子ども心にあこがれていた自然の景色が、そのまま目の前にあらわれてくるのを見て、わたしはむしょうにうれしかった。

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行く路すがらそれまで歌がるたの絵や粉本などでみて子供心にあこがれてた自然がそのまま目のまへにあらはれてくるのをみて私はむしやうに喜んだ。

小さな想像のかめの中には、くみつくすことのできない不思議な海も見た。

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小さな想像のかめには汲みつくすことのできない不思議な海もみた。

それは、あい色にすんでいて、その上を帆かけ船の帆が銀のようにかがやいて進んでいく。

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それは藍色にすんで、そのうへを帆かけ舟の帆が銀のやうに耀いてゆく。

まっすぐに切り立ったがけのあいだを通るときは、こらえがたいさびしさを感じて、そこにわずかに生えている草たちをかわいそうに思う。

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まつすぐにきつたつた崖のあひだをとほるときは堪へがたい淋しさをおぼえて、そこにかつかつに生えてる草たちをかはいさうに思ふ。

竜宮のような中国の人のお宮では、中国のおばあさんが敷石の上へ石ころを落としては何か祈っていた。

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龍宮みたいな南京人のお宮では南京のお婆さんがしきいしのうへへ石ころを落してはなにか祈つてゐた。

そうして、髪を油でぬり分けた人形のような子が、かわいい足をふらふらさせて歩くのを、きれいだと思った。

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さうして髪を油で塗りわけた人形のやうな子が可愛い足をふらふらさせてあるくのを綺麗だとおもつた。

貝細工を売る店には、海の底の宝ものがいっぱいに飾ってある。

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貝細工を売る店には海の底の宝ものがいつぱいに飾つてある。

父は、姉たちへのお土産に何本かのかんざしと、わたしにひと包みの酢貝を買ってくれたが、わたしは「こんなきれいなものを、父はなぜみんな買わないのだろう」と思った。

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父は姉たちへのお土産に幾本かの簪と、私にひと包みの酢貝を買つてくれたが、私は こんな綺麗なものを父はなぜみんな買はないのかしら と思つた。

海岸の松原を人力車にのって行くと、いくら行っても松がある。

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海岸の松原を俥にのつてゆくといくらいつても松がある。

お正月にかける高砂(たかさご・おめでたい絵のかけじく)のかけじくにも松があるし、いつも伯母さんにも「松は神の木だ」と聞いていたので、わたしは松の木がなんとなく好きだった。

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お正月かける高砂の掛物にも松があるし、つねづね伯母さんにも松は神木だときいてたゆゑ私は松の木が迷信的に好きであつた。

しばらくして宿についた。

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暫くして宿へついた。

せっかく静かな松原を楽しんでいたのに、そこには人ががやがやしていたので、「もう家へ帰る」と言って泣き出したら、番頭や女中たちがとんできて、まるで昔からの知り合いのように「坊ちゃま、坊ちゃま」と言ってなだめた。

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折角静な松原を楽しんでたのにそこには人ががやがやしてたので もう家へ帰る といつて泣きだしたら番頭や女中たちがとんできて旧いお馴染かなぞのやうに 坊ちやま 坊ちやま といつて騙した。

それで安心して、すぐに泣きやんだ。

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で、安心してぢきに泣きやんだ。

そうして一日じゅう潮風のかおりをかぎながら、小松の向こうにどんどんとくだける波に、何もかも忘れて見とれていた。

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さうしていちんち潮風の香をかぎながら小松のむかふにどんどんと砕ける波になにもかも忘れて見とれてゐた。

夜になって明かりがついた。

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夜になつて明りがついた。

そのかさは、円筒形の竹かごに紙をはったもので、黒ぬりの風流な台にのっていた。

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そのかさは円筒状の竹籠に紙をはつたもので黒塗りの風雅な台にのつてゐた。

そこへ、明かりをしたってよこばい(虫の一種)が飛んできてはとまる。

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そこへ火影をしたつてよこばひが飛んできてはとまる。

美しい緑色をして、目のあいだの広いよこばいが、かわいくてならない。

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美しい緑色をして目のあひだのひろいよこばひが可愛くてならない。

指でおさえようとすると、ひょいと横へ動いて、隣のかごの前へ逃げる。

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指でおさへようとするとひよいと横へゐざつて隣の籠のめへ逃げる。

かまきりも来た。

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鳩虫もきた。

ある晩、縁側へ出て庭で花火をあげるのを見ていたら、きれいな女の人がお菓子を包んで持ってきて

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ある晩縁側へ出て庭で煙火はなびをあげるのを見てたら綺麗な女の人が菓子を包んできて

「あげましょう」

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「あげませう」

と言った。

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といつた。

わたしは、その人が「げいしゃ」

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私はその人が「げいしや」

だということを小耳にはさんでいたが、「げいしゃ」

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だといふことを小耳にはさんでたが、「げいしや」

といえば、なんでも人をだましたりする、こわいものらしい。

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といへばなんでも人を騙したりする怖いものらしい。

その「げいしゃ」

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その「げいしや」

がそばに寄ってきて、「かわいいお子さんね、年はいくつ」などと言いながら、肩に手をかけて、頬ずりせんばかりに顔をのぞきこむ。

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がそばへよつてきて 可愛いお子さんだの、年はいくつ だのといひながら肩へ手をかけて頬ずりしないばかりに顔をのぞく。

わたしは、いいにおいのするそでの中につつまれて、返事もできないまま耳まで赤くなって手すりにしがみついていたが、ふと「これは自分をだましに来たのだ」と気がついたら、急にこわくなって、むちゅうでそでの下をすりぬけて、母のところへ逃げて帰った。

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私はいい匂のする袖のなかにつつまれて返事もし得ずに耳まで赤くなつて手すりにくひついてたが、ふと これは自分を騙しにきたのだ と気がついたら急に恐しくなりしやにむに袖の下をすりぬけて母のところへ逃げて帰つた。

わたしが胸をどきどきさせながらそのことを話したときに、母はすこし笑いながら、わたしの失礼な態度をたしなめた。

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私が胸をどきつかせてそのことを話したときに母はすこし笑ひながら私の無作法をたしなめた。

それからは花火を見るたびに「こんど何か聞かれたら返事をしよう、お菓子をもらったらお礼も言おう」と思っていたが、その人は怒ったのか、その後はそばにも寄らなかった。

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それからは煙火を見るたんびに こんだなにかきかれたら返事をしよう、菓子をくれたらお礼もいはう と思つてたが、その人は怒つたのかその後はそばへもよらなかつた。

わたしは、自分が後悔していることを知らせる機会がないのを、心から残念に思った。

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私は自分の後悔してることを知らせる機会がないのを心から残念に思つた。

ある日、父といっしょに深い松林の奥へ入っていったことがあった。

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ある日父といつしよに深い松林の奥へはひつていつたことがあつた。

松のにおいがして、松ぼっくりがたくさん落ちていた。

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松の匂がして松ぼつくりが沢山落ちてゐた。

父はゆっくり歩いているのだが、こちらは松ぼっくりを拾うので、いつも小走りで追いつかなければならない。

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父はそろそろ歩いてるのだがこちらは松ぼつくりを拾ふので始終小走りに追ひつかなければならない。

拾いためて、そでにもふところにもいっぱいになった松ぼっくりと、心の中で仲よく話しながらちょこちょことあとについていくうちに、あずまやがあって、まゆ毛のまっ白なおじいさんが熊手で松葉をかいていた。

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拾ひためて袂にも懐にもいつぱいになつた松ぼつくりと心で仲よく話しながらちよこちよことあとについてゆくうちに東屋があつて眉毛のまつ白な爺さんが熊手で松葉をかいてゐた。

それを見て、わたしは「高砂のおじいさんがいた」と、わけもなく喜んだ――本当にそう思ったのだ。――

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それを私は高砂のお爺さんがゐたと埒もなく喜んで――ほんとにさう思つたのだ。――

いつもとちがって、自分からいろんなことを父に話しかけた。

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いつもに似ず自分からいろんなことを父に話しかけた。

父は宿へ帰ってから母に

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父は宿へ帰つてから母に

「今日は、たこ坊主がえらいことを言ったぞよ」

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「今日は章魚坊主がえらうものをいつたぞよ」

と言って笑った。

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といつて笑つた。

四十

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四十

旅行から帰ったら、留守のあいだにお国さんの家は、お父様のお役目の都合で遠くへ引っ越していたので、わたしはなんだか拍子ぬけしたようなさびしさを感じた。

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旅行から帰つたら留守のうちにお国さんの家はお役の都合で遠方へこしてたので私はなんだか拍子ぬけのした寂しさを感じた。

わたしはそれからは、こわい夢にうなされることもなく、体もめきめきと成長するようになったが、生まれつきのぼんやりした性格と、学校をなまけることは、あいかわらずだった。

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私はそれからは恐しい夢に魘はれることもなく体もめきめきと発育するやうになつたが、生得のぼんやりと学校をなまけることとは相変らずであつた。

それは体が弱いためだけでなく、うぶな子どもにとってあまりに複雑で、つらいことの多い学校生活が、わたしをいやがらせたからである。

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それは虚弱のためばかりでなく、うぶな子供にとつてあまり複雑で苦痛の多い学校生活が私をいやがらせたからである。

ただうれしいことに、そのときの担任の中沢先生は、わたしの大好きないい人で、おまけにわたしの席は先生の机のすぐ前にあった。

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ただ嬉しいことにはそのときの受持ちの中沢先生は大好きないい人で、おまけに私の席は先生の机のすぐ前にあつた。

中沢先生は、わたしがいくら休んでも何も言わず、どんなにできなくても、くすくす笑ってばかりいた。

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中沢先生は私がいくら欠席してもなんともいはず、どんなに出来なくてもくすくす笑つてばかりゐた。

けれど、あるとき、隣に並んでいる安藤繁太という子とけんかしたときに、たったいっぺん叱られたことがあった。

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が、いつか並んでる安藤繁太といふ奴と喧嘩したときにたつたいつぺん叱られたことがあつた。

どうしたことか、その子とはお互いに気が合わず、しょっちゅう仲が悪かった。ある日、算数の時間に、彼は石板に片目の顔をかき、それに人の名前をつけて

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どうしたことかそ奴とはお互に虫が好かないでしよつちゆう仲がわるかつたところ、ある日算術の時間に彼は石盤にめつかちの顔をかきそれにひとの名まへをつけて

「やい、やい」

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「やい やい」

と言って見せた。

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といつて見せた。

それで、こちらは大きなげたに目鼻をつけて、そのわきに「すげため」と書いてやった。

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で、こつちでは大きな下駄に目鼻をつけてそのわきへ すげため と書いてやつた。

そうしたら彼がいきなり人のすねをけったので、わたしも負けずに横っ腹をついてやった。

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さうしたら彼がいきなりひとの脛を蹴つたので私も負けずに横つ腹をついてやつた。

そんなふうにこっそりけんかをしているうちに、とうとう先生に見つかって、学校が終わってから二人だけあとに残された。

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そんなにして内證で喧嘩をしてるうちにたうとう先生に見つかつて学校がひけてから二人だけあとへ残された。

先生はいつになくこわい顔をして「なぜけんかした」と言う。

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先生はいつになく怖い顔をして なぜ喧嘩した といふ。

わたしは一部始終を話して、自分が悪くないことを主張したが、繁太は「わたしが先にからかった」とうそをついたので、先生は「けんか両成敗だ」と言って、二人とも帰してくれない。

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私は一部始終を話して自分の悪くないことを主張したが繁太は 私が先にからかつた と嘘をついたもので先生は 喧嘩両成敗だ といつて二人とも帰してくれない。

ほかの子はみんな、荷物をかかえていそいそと帰っていく。

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ほかの者はみんな包みをかかへていそいそと帰つてゆく。

中には、もの好きに戸口からのぞいて笑っている子もいる。

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なかにはもの好きに戸口から覗いて笑つてる奴もある。

学校じゅうの生徒がみんな帰ってしまって、いやにしんとしてきた。

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学校ぢゆうの生徒がみんな帰つてしまつていやにしんとしてきた。

もしこうして夜になったら、どうしよう。

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もしかうして夜になつたらどうしようかしら。

ごはんも食べられないし、寝ることもできない。早く伯母さんがむかえに来て、あやまってくれないかしら、などとさまざまなことが頭の中でうずをまいて、自然と涙がこみあげてくる。

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ごはんも食べられないし、寐ることもできないし、はやく伯母さんが迎ひにきてあやまつてくれないかしら などとさまざまなことが頭のなかに渦をまいて自然に涙がこみあげてくる。

先生は、半分泣きそうな二人の顔をちょいちょい見くらべて、くすくす笑いながら、本を読むふりをしている。

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先生は半分べそをかいてる二人の顔をちよいちよい見くらべてくすくす笑ひながら本を読むふりをしてゐる。

繁太は、いかにも帰りたそうに肩にかけたかばんのひもをいじくっていたが、とうとう泣き出して

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繁太の奴はさも帰りたさうに肩にかけた鞄の紐をいぢくつてたがたうとう泣きだして

「ごめんなさい」

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「ごめんなさい」

とあやまった。

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とあやまつた。

先生は

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先生は

「あやまったのが感心だから、許してやる」

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「あやまつたのが感心だから赦してやる」

と言って繁太を帰した。

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といつて繁太を帰した。

わたしも帰りたいのはやまやまだが、悪くもないのに残されたのがくやしくて、いつまでも泣きかけてはこらえ、泣きかけてはこらえしていた。

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私も帰りたいのは山山だけれど悪くもないのを残されたのが業腹ごふはらなのでいつまでも泣きかかつてはこらへ、泣きかかつてはこらへしてゐた。

けれど、結局は泣くよりほかなかった。

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が、とどのつまりは泣くよりほかはなかつた。

わたしは、いったん泣き出したとなれば、両方のげんこつで目をこすりこすり、しかたなくぐすりぐすりと泣くくせがあった。そのあいだに、何がよくて何が悪いかをぼつぼつと考えて、自分が悪いとわかればすぐに泣きやむし、そうでなければ、自分がただ小さくて弱いために理不尽におさえつけられるのがくやしくて、「今に見ていろ」と思いながら、しゃくりあげしゃくりあげ泣くのだった。

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私はいつたん泣きだしたとなれば両方の拳骨で眼をこすりこすり図なしにぐすりぐすり泣いてる癖で、そのあひだに理非曲直をぼつぼつと考へて自分が悪いとわかればぢきに泣きやむし、さうでなければ自分がただ小さくて弱いために理不尽におさへつけられるのがくやしくて 今に見ろ と思ひながらしやくりあげしやくりあげ泣くのであつた。

思う存分泣いたあとは、胸がすっきりして、のどのあたりに、しぶいような一種の気持ちよさを感じる。

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思ふ存分泣いたあとは胸がすいて気管のへんにゑぐいやうな一種の快感をおぼえる。

それはそうと、先生は手をやいて

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それはさうと先生は手こずつて

「あやまれば帰してやる。あやまれば帰してやる」

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「あやまれば帰してやる。あやまれば帰してやる」

と言ったが、「どうしても悪くない」と言って、なかなかあやまらない。

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といつたが どうしても悪くない といつていつかなあやまらない。

けれど、だんだんお説教を聞いてみると、「けんかをしかけたのは繁太の罪だけれど、お稽古中にそれに応じたのがよくない」ということが、どうにかのみこめたので

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併しだんだんお説法をきいてみれば 喧嘩を売つたのは繁太の罪だけれどお稽古中にそれを買つたのが善くない といふことがどうやらのみこめたので

「ごめんなさい」

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「ごめんなさい」

と頭を下げて帰してもらった。

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と頭をさげて帰してもらつた。

家では、意気地なしのたこ坊主がけんかをしたのを、奇跡のように言って笑った。

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家では意気地なしの章魚坊主が喧嘩をしたのを奇蹟のやうにいつて笑つた。

四十一

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四十一

勉強しなかったむくいはてきめんに来て、いよいよ試験となったときには、ほとんど何も知らなかった。

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不勉強の報いは覿面にきていよいよ試験となつたときにはほとんどなんにも知らなかつた。

ほかの子がさっさとできて帰っていくのに、自分ひとり、ゆでだこみたいに真っ赤になって困っているのは、けっして楽なことではない。

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ほかの者がさつさとできて帰つてゆくのに自分ひとりうで章魚みたいになつて困つてるのはゆめさら楽なことではない。

中でもつらかったのは読本(とくほん・国語の教科書)だった。

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なかでもつらかつたのは読本だつた。

わたしは最後に先生の机へ呼び出された。

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私は最後に先生の机へ呼びだされた。

問題は「蔚山(うるさん・朝鮮にある地名)の籠城」という章だった。

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問題は蔚山うるさんの籠城といふ章だつた。

蔚山なんて字は、今まで見たこともない。

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蔚山なんて字はつひぞ見たこともない。

だまって立っているので、先生はしかたなく一字二字ずつ教えて、手をひくようにして読ませたけれど、わたしは加藤清正が明の軍に取り囲まれている挿絵に見とれるばかりで、文章のほうはさっぱりわからない。

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黙つて立つてるもので先生はしかたなしに一字二字づつ教へて手をひくやうにして読ませたけれど私は加藤清正が明軍に取囲まれてる挿画に見とれるばかりで本のはうは皆目わからない。

先生は根気がつきて

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先生は根気がつきて

「どこでも、読めるところを読んでごらん」

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「どこでも読めるところを読んでごらん」

と言って、読本をわたしの前に投げ出した。

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といつて読本を私のまへへ投げだした。

わたしは悪びれもせず

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私はわるびれもせず

「どこも読めません」

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「どつこも読めません」

と言った。

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といつた。

試験が終わってからも、やっぱり同じ組にとどまった。

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試験がすんでからもやつぱり居坐りだつた。

わたしは、いちばん前にいるから一番だと思っていた。

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私はいちばん前にゐるから一番だと思つてゐた。

名札がびりっけつ(いちばん下)にかかっていることも、点呼のときにいちばん最後に呼ばれることも、自分が実際にはできていないことさえも、少しの疑いも起こさせなかった。

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名札のびりつこにかかつてることも、点呼のときしまひに呼ばれることも、自分が事実できないことさへもすこしの疑ひすら起させなかつた。

好きな先生のそばに置かれて、ちっとも叱られずにいる。これが一番でなくてどうしよう。

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好きな先生のそばにおかれてちつとも叱られずにゐる、これが一番でなくてどうしようか。

それに、わたしはついぞ賞状をもらいに出たことがなかったが、学校から帰って「一番だ」と自慢すると、みんなは「えらい、えらい」と言って笑っているので、自分だけはこのうえなく満足していた。

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それに私はつひぞ免状とりに出たことがなかつたし、学校から帰つて一番だといつて自慢するとみんなは えらい えらい といつて笑つてるので自分だけは至極天下泰平であつた。

その学期も終わりに近づいたころ、お隣へ新しく人が引っ越してきた。

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その学期も終りにちかづいたころお隣へあらたに人がこしてきた。

その家とは、裏の畑をあいだにはさんで、ほんの杉の垣根ひとつでへだてているだけで、自由に行き来ができた。

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その家とは裏の畑を間にほんの杉垣ひとへをへだててるばかりで自由に往き来ができる。

わたしが裏へ行ってこっそり様子を見ていたら、垣根のところへちょうどわたしぐらいのお嬢さんが出てきたが、すぐに向こうへかくれて、杉のすきまからそっとこちらをうかがっているらしかった。

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私が裏へいつてこつそり様子をみてたら垣根のところへちやうど私ぐらゐのお嬢さんがでてきたが、ついとむかふへかくれて杉のすきまからそつとこちらを窺つてるらしかつた。

しばらくして、お嬢さんはまた出てきて、ちらりとこちらを見たので、わたしもちらりと見て、そして両方ともすまして、よそを向いた。

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暫くしてお嬢さんはまた出てきてちらりとひとを見たので私もちらりと見て、そして両方ともすましてよそをむいた。

そんなことを何度もやっているうちに、わたしは、お嬢さんがほっそりしていて、どこか体が弱そうなのを見て、なんとなく気に入ってしまった。

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そんなことを何遍もやつてるうちに私はお嬢さんがほつそりとしてどこか病身らしいのをみてなんとなく気にいつてしまつた。

その次に目と目が合ったとき、向こうは少し笑ってみせた。

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そのつぎに眼と眼があつたときに彼方は心もち笑つてみせた。

それで、わたしもちょっと笑った。

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で、私もちよいと笑つた。

向こうは、顔をそむけるようにして、くるりと片足で回った。

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彼方は顔をそむけるやうにしてくるりとかた足で廻つた。

こちらもくるりと回る。

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こちらもくるりと廻る。

向こうがぴょんととんだ。

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むかふがぴよんととんだ。

こちらもぴょんととぶ。

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こちらもぴよんととぶ。

ぴょんとはねれば、ぴょんとはねる。

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ぴよんと跳ねればぴよんと跳ねる。

そんなふうにぴょんぴょんとはねあっているうちに、いつのまにか、わたしは巴旦杏(はたんきょう・アーモンドに似た果物の木)のかげを、お嬢さんは垣根のそばをはなれて、お互いに話ができるくらい近づいていた。

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そんなにしてぴよんぴよん跳ねあつてるうちにいつか私は巴旦杏はたんきやうの蔭を、お嬢さんは垣根のそばをはなれてお互に話のできるくらゐ近よつてた。

けれど、そのとき

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が、そのとき

「お嬢様、ごはんでございますよ」

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「お嬢様ごはんでございますよ」

と呼ばれたので

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とよばれたので

「はい」

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「はい」

と返事をして、さっさとかけていってしまった。

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と返事をしてさつさと駈けてつてしまつた。

わたしも名残おしく家に帰り、急いで食事をすませてまた行ってみたら、お嬢さんはもう先に来て待っていたらしく

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私も残りをしく家へ帰り急いで食事をすませてまたいつてみたらお嬢さんはもう先にきて待つてたらしく

「遊びましょう」

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「遊びませう」

と言って人なつっこく寄ってきた。

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といつて人なつつこくよつてきた。

わたしは、仲よくなるまでにはもう五、六回もはねるつもりでいたのが、思いがけない展開に顔が赤くなったが

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私はお馴染になるまでにはもう五六遍も跳ねるつもりでゐたのが案に相違して顔が赤くなつたけれど

「ええ」

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「ええ」

と言ってそばへ行った。

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といつてそばへいつた。

向こうはもう、恥ずかしがるようすもなく、はきはきした話し方で

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さきはもうはにかむけしきもなくはきはきした言葉つきで

「あなたいくつ」

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「あなたいくつ」

と聞いた。

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ときいた。

「九つ」

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「九つ」

と答える。

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と答へる。

すると

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「あたしも九つ」

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「あたしも九つ」

と言って、ちょっと笑って

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といつてちよつと笑つて

「だけど、お正月生まれだから、年がひとつ上のようなものなのよ」

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「だけどお正月生れだから年づよなのよ」

と、ませたことを言う。

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とませたことをいふ。

わたしが

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わたし

「あなたの名前は」

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「あなたの名は」

「けい」

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「けい」

と、はっきり言った。

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とはつきりいつた。

型どおりに名のりあって、初対面のあいさつがすむと、お蕙(けい)ちゃんは

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型のごとく名のりあつて初対面の挨拶がすむとおけいちやんは

「あたし、もうすぐ学校へあがるから、同じ学校へ行きましょう」

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「あたしもうぢき学校へあがるからおんなじ学校へいきませう」

と言ったので、うれしくて、自分の学校のいいところや、修身のお話のおもしろいこと、担任の先生がやさしいことなどを数えあげて、小さな知恵をしぼって、お蕙ちゃんを同じ学校にさそおうとした。

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といつたので嬉しくて自分の学校のいいこと、修身のお話の面白いこと、受持ちの先生のやさしいことなぞ数へあげ小さな智嚢をしぼつてお蕙ちやんをおなじ学校へひきつけようとした。

お蕙ちゃんは、勝ち気で人なれした子で、ぱっちりした目とまっ黒な髪をもっていた。

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お蕙ちやんは勝ち気な人なれた子で、ぱつちりした眼とまつ黒な髪をもつてゐた。

青白いなめらかなほおには、美しい血の色がすけて見えた。

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蒼白い滑な頬には美しい血の色がすいてみえた。

そうして、その気性とませた頭で、意気地なしでぼんやりした年下のわたしに対して、とかく女王のようにふるまうところがあった。けれどわたしは満足して、新しく君臨したこの女王の言いなりになろうと思った。

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さうしてその気性とませた頭をもつて意気地なしのぼんやりな年弱に対してとかく女王のやうにふるまふ気味があつたが、私は満足してあらたに君臨したこの女王の頤使いしに身をまかせようと思つた。

四十二

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四十二

ある日のこと、わたしはお蕙ちゃんがおばあ様に連れられて学校へ入ってくるのを見て、今さらのように胸をどきどきさせた。

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ある日のこと私はお蕙ちやんがお祖母様ばあさまにつれられ学校へはひつてくるのを見て今さらのやうに胸をときめかせた。

その翌日から、お蕙ちゃんは荷物をかかえてわたしと同じ教室に入るようになったが、新入りなので、いちばん前のわたしの隣にすわらせられた。

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その翌日からお蕙ちやんは包みをかかへてひとつ教場へはひるやうになつたが新入なのでいちばん前の私の隣に坐らせられた。

わたしはお稽古にも身が入らず、そっと横目で見たら、お蕙ちゃんはおとなしく、じっと下を向いていた。

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私はお稽古にも身がいらずそつと横目でみたらお蕙ちやんは殊勝にじつと下をむいてゐた。

休み時間にも、まだ知り合いがいないためひとりぼんやりしているので、何とか声をかけてやりたいのに、みんなにからかわれるのがつらくてだまっていると、向こうもちゃんと知っているくせに、知らんふりをしてすましている。

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遊び時間にもまだお馴染がないためひとりぼんやりしてるのでなんとか言葉をかけてやりたいのをみんなにからかはれるのがつらさに黙つてゐれば、さきでもちやんと知つてるくせにそしらぬ顔ですましてゐる。

わたしは何ともいえない落ち着かない気持ちで、やっと一日の授業をすませて家へ帰る道すがらも「今日はあんなことも話そう、こんなことも聞いてみよう」などと考えながら帰るなり、裏へ行ってみたら、もうひとりでお手玉を投げていた。

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私は譬へやうのない混乱した気もちでやつと一日の課業をすませて家へ帰るみちみちも 今日はあんなことも話さう、こんなこともきいてみよう などと考へながら帰るやいなや裏へいつたらもうひとりでお手玉を投げてゐた。

「お蕙ちゃん」

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「お蕙ちやん」

そう言って、わたしはとびつかんばかりにかけよった。

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さういつて私は飛びつかないばかりに駈けよつた。

そうしたら、お蕙ちゃんはさもばかにしたように

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さうしたらお蕙ちやんはさも軽蔑したらしく

「びりっこけなんぞと遊ばない」

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「びりつこけなんぞと遊ばない」

と言って、さっさと家に入ってしまったので、思いがけないことにすごすごと家へ帰り、伯母さんにそのことを言いつけた。

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といつてさつさとはひつてしまつたので案に相違してすごすご家へ帰り伯母さんにそれをいつけた。

その晩、いつものように家じゅうが茶の間に集まったときに、わたしははじめて、自分がほんとうにびりっけつだということを言い聞かされた。

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その晩れいのとほり家ぢゆうが茶の間に集つたときに私ははじめて自分がほんたうにびりつこけだといふことをいつてきかされた。

わたしは、はじめのうちこそ意地になって「一番だ」と言い張っていたが、最近先生から「頭のよくないお子さんにあまり無理なことは言わないが、これまでのようではとても進級させられないから、今度の試験にはもう少し気をつけてもらいたい」という注意があったと聞いて、わっと泣き出した。

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私は初めのうちこそかたくなに一番だといひはつてたものの近いころ先生から 脳の悪いお子さんにあまり無理なことはいはないがこれまでのやうではとても及第がさせられないから今度の試験にはもうすこし気をつけてもらひたい といふ注意があつたといふのをきいて私はわつと泣きだした。

わたしは、長いあいだびりっけつだった恥ずかしさを、いちどきに感じた。

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私は永いあひだびりつこけだつた面目なさをいちどきに感じた。

先生は、わたしを頭のよくない子だと思って、好きなだけ休ませ、いくらできなくても叱らなかったのだ。

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先生は私を脳の悪い子だと思つて休み放題に休ませ、いくらできなくても叱らなかつたのだ。

わたしは、やっぱりばかにされていたのだ。

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私はやつぱしばかにされてたのだ。

わたしだって、びりっけつがはずかしいことぐらいは知っている。

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私だつてびりつこけの愧づべきことぐらゐは知つてゐる。

ただ、いくらなまけても一番だと思えばこそ、勉強しなかったのだ。

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ただいくらなまけても一番だと思へばこそ勉強しなかつたのだ。

早くそう言ってくれさえすれば、復習もしたし、ずる休みもしなかったのに。

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はやくさういつてくれさへすればおさらひもしたし、ずる休みもしなかつたのに。

思えば、みんながうらめしい。

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思へばみんなが怨めしい。

わたしは頭がわきかえるほど興奮して、思い出しては泣き、思い出しては泣きするのを、伯母さんはもらい泣きしながら

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私は頭が沸きかへるほど上気して思ひだしては泣き思ひだしては泣きするのを伯母さんは貰ひ泣きしながら

「泣かんでもええ、泣かんでもええ」

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「泣かんでもええ、泣かんでもええ」

と言って、寝間へ連れていった。

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といつて寐間へつれていつた。

それからは、小さな机をひとつあてがわれて、その日その日の復習、翌日の予習、これまでのところの復習を、きちんきちんとさせられることになった。伯母さんはそろばんや習字など、自分にできるものを教え、それ以外は姉たち二人が引き受けてくれた。

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それからは小さな机をひとつあてがはれてその日その日のおさらひ、翌日のしたしらべ、これまでのところの復習をきちんきちんとさせられることになつて、伯母さんはそろばんだの手習ひだの自分のできるものを、そのほかは姉たち二人がひきうけてくれた。

毎日教室でお蕙ちゃんと顔を合わせるのがつらくもあり、腹立たしくもあったが、それ以来、学校は決して休まなかった。

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毎日教場でお蕙ちやんと顔をあはせるのがつらくもあり腹だたしくもあつたけれどそれ以来学校は決して休まなかつた。

お蕙ちゃんは、平気な顔でお友だちと遊んでいる。

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お蕙ちやんは平気の平左でお友達と遊んでゐる。

わたしはもう、同じ組の子たちにも気おくれがして、とかく引っこみがちにしていたが、それより、家へ帰って机の前にすわらせられるときのつらさは、また格別だった。

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私はもう同じ級の者にも気おくれがしてとかくひつこみがちにしてたが、それよりか家へ帰つて机のまへへ坐らせられるときのつらさはまた格別だつた。

はずかしいことだが、わたしには今まで習ったことがまるでわからない。

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面目ないことだが私には今まで習つたことがかいしきわからない。

それで、がっかりして何度投げ出そうとしたかしれないが、ごほうびのお菓子やなにかでなだめすかされ続けるうちに、何か薄紙をはぐように、すこしずつわかりはじめた。

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で、落胆して何度投げ出さうとしたかしれないのを御褒美の菓子やなにかで騙され騙されしてつづけるうちになにか薄紙でもはぐやうにすこしづつわかりはじめた。

読本の文字を一字覚え、二字覚え、算数が一問解け、二問解けするにしたがって、知識は次から次へとどんどん増えていく。とうとう自信もでき、興味も加わって、家へ帰れば言われないうちから自分で机を持ち出すようになった。もっとも、人にほめられたいのがおもな理由だったが。

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読本の文字を一字おぼえ、二字おぼえ、算術が一題とけ、二題とけするにしたがひ次から次へと智識は幾何級数的に進んでゆくので終には自信もでき、興味も加はつて、家へ帰ればいはれぬうちに自分から机をもちだすやうになつた、もとよりひとに褒められたいのがおもな動機で。

試験にはあまり間がなかったが、勉強のかいあって次の学期には二番になった。

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試験には間もなかつたが勉強のかひあつて次の学期には二番になつた。

お蕙ちゃんは女子のうちの五番だった。

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お蕙ちやんは女のはうの五番であつた。

四十三

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四十三

わたしは急に知恵がついて、何かひと皮むけたように世界が新しく明るくなった。それと同時に、体が弱かったのがめきめきと丈夫になり、すもう、旗とり、何をやっても、いちばん強い二、三人のうちに入るようになった。

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私は急に智慧がついてなにかひと皮ぬいだやうに世界が新しく明るくなると同時に脾弱かつた体がめきめきと達者になり、相撲、旗とり、なにをやつてもいちばん強い二三人のなかにはひるやうになつた。

そうこうするうち、首席の荘田という子がいなくなったあとをついで級長になったころには、もうお蕙ちゃんに対するはずかしさや腹立たしさも消えていた。わたしは、その日、美しく芽ぶいて今にも葉を出しそうになりながら、花もつけずに根がかれかかっていた友情の若草が、ふたたび春の光にあって、みずみずしくよみがえることを願っていた。お蕙ちゃんも同じ気持ちでいる様子は見えたが、なんとなくきっかけがなくて、お互いに何かよい機会があるのを待っていた。

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さうかうするうち首席の荘田といふ子の去つたあとを襲つて級長になつたときにはもうお蕙ちやんに対する慙愧も憤懣も消えてたので、私はその日美しく芽ぐんで今にも葉をさすまでになりながら花もつけずに根をたえかかつた友情の若草がふたたび春の光にあつて甘やかに蘇るであらうことをねがつてたし、お蕙ちやんとてもおなじ気もちでゐる様子はみえたけれど、ただなんとなくつぎほがなくてお互になにかいい折のあるのを待つてゐた。

子どもの世界は犬の世界と同じで、ひとりの強い者が、ほかの者を一度に従わせてしまう。

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子供の社会は犬の社会と同様にひとりの強い者がのものを一度に尾をまかしてしまふ。

荘田がいなくなってから、ひとりだけ力の強い立場になったわたしは、みんなが素直に言うことを聞くのをいいことに、かなり威張ってふるまったが、その年ごろのがき大将としては、いちばん物わかりのよいほうだったと自分では思っている。

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荘田がゐなくなつてから一人天下になつた私はみんなの従順なのをいいことにしてかなり暴威をふるつたもののその年ごろの餓鬼大将としては最も訳のわかつたはうであつたと自らゆるしてゐる。

あるとき、ちょっぺいが何かのことで仲間はずれにされて、「猿面冠者、猿面冠者」とからかわれ、真っ赤になって暴れまわっていたが、多勢に無勢で、とうとう泣き出して机につっぷしてしまった。

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あるときちよつぺいがなにかのことで仲間はづれにされて 猿面冠者 猿面冠者 とからかはれ真赤になつてひつ掻きまはつてたが、多勢に無勢でたうとう泣きだして机につつぷしてしまつた。

それを見たわたしは、いきなりわいわいはやしたてている子たちの中に入って、「これから決してちょっぺいのことを猿面冠者と言ってはならない」という命令を出した。

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それを見た私はいきなりわいわい囃したててる群のなかへはひつて 今後決してちよつぺいのことを猿面冠者といつてはならん といふ厳命をくだした。

それ以来、彼は猿面のあだ名からのがれた。

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で、爾来彼は猿面の汚名をまぬかれた。

これは、はじめて学校へ上がったときの赤い実のことを忘れずに、すこし恩返しをしたのである。

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これははじめて学校へあがつたときの赤い実のことを忘れないで聊か恩がへしをしたのである。

岩橋はこのころも、あいかわらず弱い者いじめの張本人で、女の子にいたずらばかりしていた。

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岩橋はこのじぶんも相変らず弱い者いぢめの張本で女の生徒にわるさばかりしてゐた。

ある日、いつものとおり先生に連れられて、すかんぽ山へ体を動かしにいったとき、彼はひとりやぶの中に入って、一生けんめい犬じらみをとっていたので「またなにかいたずらをするな」と思っていたら、やがて両手いっぱいに犬じらみをにぎって、明智光秀のようなつもりで、目を光らせながら出てきた。

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ある日いつものとほり先生に引率されてすかんぽ山へ運動にいつたときに彼はひとり藪のなかへはひつて一所懸命犬じらみをとつてるので またなにかいたづらをするな と思つてたら、やがて両方の手にいつぱい犬じらみを握つて武智光秀といふみえで眼玉を光らせながら出てきた。

女の子たちはいつもこわがって、だれひとり彼のそばに寄る子はいなかったのに、運悪くうっかりそこを通りかかったのはお蕙ちゃんだった。

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女の子たちはつねづね怖ぢけをふるつて誰ひとり彼のそばへよる者はなかつたのに折あしくうつかりそこを通りかかつたのはお蕙ちやんだつた。

彼は「いい獲物が来た」と言わんばかりに、たちまち行く手をふさいで、二つ三つ犬じらみを投げつけた。

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彼は いい鳥が といはぬばかりに忽ちとほせんぼをして二つ三つ犬じらみをぶつつけた。

お蕙ちゃんは

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お蕙ちやんは

「いやーよ、いやーよ」

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「いやーよ、いやーよ」

とそででよけながら逃げようとするのを、しつこく追いかけて投げつけたので、お蕙ちゃんは体をかわすはずみにひざをついて、わっと泣き出した。

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と袂でよけながら逃げようとするのを執念ぶかく追つかけてぶつけたものでお蕙ちやんは身をかはすはずみに膝をついてわつと泣きだした。

それを見たわたしは、すぐさまとんでいって、勝ちほこっている岩橋をつき倒し、その悔しがる顔を横目に見ながら、起きあがってちりもはらわずにそでを顔にあてているお蕙ちゃんのそばに寄って、髪にも着物にもいっぱいくっついている犬じらみをひとつひとつとってやった。

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それを見た私は矢庭にとんでつて勝ちほこつてる岩橋を突き倒し、その吠えづら後目しりめにかけながら、起きあがつて塵もはらはずに袖を顔にあててるお蕙ちやんのそばへよつて髪にも著物にもいつぱいくつついてる犬じらみをひとつひとつとつてやつた。

お蕙ちゃんは、だれが自分をいたわってくれているかも知らずに、くやしそうに泣きじゃくって、されるままになっていたが、やっと涙をとめて「だれかしら」というように、そでのかげから顔を見合わせたときに、とてもうれしそうに、にっこり笑った。

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お蕙ちやんは誰が自分をいたはつてくれるかさへ知らずくやしさうに泣きじやくりしてひとのするままになつてたが、やうやう涙をとめて 誰かしら といふやうに袖のかげから顔を見合せたときにさも嬉しさうににつこり笑つた。

長いまつ毛がぬれて、大きな目が美しく染まっていた。

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長いまつ毛が濡れて大きな眼が美しく染まつてゐた。

その後、二人の友情は、今咲くばかりに香りをふくんでふくらんでいる牡丹のつぼみが、ちょうの羽風のようなかすかな刺激にもほころびるように、やがてうちとけて仲よくなっていった。

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そののち二人の友情は、いま咲くばかり薫をふくんでふくらんでる牡丹の蕾がこそぐるほどの蝶の羽風にさへほころびるやうに、ふたりの友情はやがてうちとけてむつびあふやうになつた。

四十四

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四十四

わたしたちは、学校から帰って予習復習をするあいだも気が気でなく、そこそこにすませて、思い出の多い裏畑へ出る。

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私たちは学校から帰つて復習予習をするまも気が気でなくそこそこにすませて思ひでのおほい裏畑へでる。

こちらが早いときは、ひとりで石けりや縄とびをして「もうかな、もうかな」と待っている。

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こちらが早いときはひとりで石蹴りや縄とびをしてもうかもうかと待つてゐる。

向こうが先だと、聞こえよがしにぽんぽんとまりをつく。

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むかふが先だと聞えよがしにぽんぽんまーりをつく。

そのまりは、赤と青の毛糸をしま模様にして、きれいに包んであった。

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その鞠は赤と青の毛糸を縞にして綺麗につつんであつた。

顔を見れば、何より先にじゃんけんをする。

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顔を見ればなによりさきにじやん拳をする。

お蕙ちゃんは、負けるといらだつように肩をふるくせがあった。

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お蕙ちやんは負けるとじれるやうに肩をふる癖があつた。

「おねんじょさあま、およねじょ十よ」

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「おねんじよさあま、およねじよ十よ」

「おねんじょさあま、およねじょ二十よ」

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「おねんじよさあま、およねじよ二十よ」

わたしはまりが上手なので、なかなか落とさない。

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私は鞠が上手なのでなかなか落さない。

お蕙ちゃんは待ちどおしがって、縄の切れはしをぶつけたり、棒切れをつき出したりして、わざと落とさせてしまう。

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お蕙ちやんは待ちどほしがつて縄のちぎれをぶつけたり、棒つきれをつきだしたりして落させてしまふ。

「おねんじょさあま、およねじょ十よ」

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「おねんじよさあま、およねじよ十よ」

「おねんじょさあま、およねじょ二十よ」

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「おねんじよさあま、およねじよ二十よ」

お蕙ちゃんは、上気した顔をまりといっしょにうなずかせながら、一生けんめいに回る。

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お蕙ちやんは上気した顔を鞠といつしよにうなづかせながら一所懸命にまはる。

そのたびに、ふさふさしたおさげの髪が肩にまつわりついて、二つの足先が追いあうねずみのようにくるくると動く。

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そのたんびにふさふさしたおさげの髪が肩にまつはつてふたつの足さきが追ひあふこま鼠のやうにくるめく。

負けまいとして、まりをあごでおさえたり、胸にかかえたりして、よろよろするまで続ける。

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負けまいとして鞠を腭でおさへたり、胸にかかへたりしてよろよろするまでもつづける。

「ほうほけきょや鶯や、うぐいすや、たまたま都へのぼるとて、のぼるとて、うーめの小枝に昼寝して、赤坂奴の夢をみた、枕のしたから文がでた、お千代にこいとの文がでた……」

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「ほうほけきよや鶯や うぐひすや、たまたま都へのぼるとて のぼるとて、うーめの小枝に昼寐して、赤坂奴の夢をみた、枕のしたから文がでた、お千代にこいとの文がでた……」

着物のすそが引きずるのも知らずに、夢中になってつく。

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著物の裾のひきずるのもしらずに夢中になつてつく。

うさぎがたわむれるように、左右の手がまりの上にぴょんぴょんと跳ねて、丸く開いたくちびるの奥から、はずんだ声がこぼれでる。

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兎の戯れるやうに左右の手が鞠のうへにぴよんぴよんと躍つて円くあいた唇のおくからぴやぴやした声がまろびでる。

その美しい声でうたわれたむじゃきな歌は、今もなお、この耳になつかしい余韻を残している。

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その美しい声にうたはれた無邪気な謡は今もなほこの耳になつかしい余韻をのこしてゐる。

夕日が野原の向こうに沈んで、そのあとにゆらゆらと月がのぼりはじめると、花畑の葉にかくれていた小さなが(蛾)が、灰色がかった白いはねをふるわせて、ちりちりと舞いあがる。

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夕日が原のむかふに沈んでそのあとにゆらゆらと月がのぼりはじめると花畑の葉にかくれてた小さな蛾が灰白の翅をふるつてちりちりと舞ひあがる。

お寺のまきの木にはからすが群がって枝を取りあい、庭の木の雀は「ちゅうちゅくちゅうちゅく」と鳴く。

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少林寺の槙の木には烏が群つて枝をあらそひ、庭の珊瑚樹の雀はちゆうちゆくちゆうちゆくいふ。

そのとき、わたしたちは、やがて色のあせていくお月さまを見あげて、うさぎの歌をうたう。

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そのとき私たちはやうやく黄味のあせてゆくお月様をあふいで兎の歌をうたふ。

「うーさぎうさぎ、なによみてはねる、十五夜お月さまみてはーねる。ぴょん、ぴょん、ぴょん」

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「うーさぎうさぎ、なによみてはねる、十五夜お月さまみてはーねる。ぴよん、ぴよん、ぴよん」

二人は、曲げたひざに手をのせ、腰をかがめて跳ねあるく。

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二人はつぼめた膝に手をのせ腰をかがめて跳ねあるく。

さんざんつかれている足は、二つ三つ跳ねるうちに、すっかり力を失って、思わずころころと尻もちをつくのを、それがおかしいと言ってまた笑いこける。

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さんざくたびれてる足は二つ三つ跳ねるうちにまつたく弾力を失つて思はずころころと尻餅をつくのをそれがをかしいといつてまた笑ひこける。

そんなふうに、二人とも家から呼ばれるまでは何もかも忘れて遊びに夢中になっているが、聞き分けのいいお蕙ちゃんは、どんなときでも

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そんなにして二人とも家から呼ばれるまではなにもかも忘れて遊びにふけつてるが、ききわけのいいお蕙ちやんはどんなときでも

「お嬢様、もうお帰りあそばせ」

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「お嬢様もうお帰りあそばせ」

と呼ばれると

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と呼ばれると

「はい」

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「はい」

とすなおに返事をして、帰りたくなさそうな様子をしながらも、さっさと帰っていく。

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とすなほに返事をして、帰りともない様子はしながらさつさと帰つてゆく。

別れるときには、あすの遊びの約束のために、小指をからめあって指がぬけそうなほどゆびきりをし、「もしうそをついたら、この指がくさってしまう」と言うのを、「そんなこと」と思いながらも、なんだかこわいような気がする。

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別れるときにはあすの遊びの誓ひのために小指をからめあつて指のぬけるほど指つきりをし、もしか嘘をつけばこの指が腐つてしまふ といふのを そんなこと と思ひながらもなんだか恐しいやうな気がする。

四十五

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四十五

そんなふうにして、日を追うごとに遠慮がなくなるにしたがって、負けずぎらいのわたしと、くやしがり屋のお蕙ちゃんとのあいだには、ときどきたわいもないけんかが起こった。

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そのやうにして日増しに隔てがなくなるにしたがつて負けずぎらひの私とくやしがりのお蕙ちやんとのあひだにはときどきたわいもないいさかひがおこつた。

ある日、わたしたちはいつものとおり裏でまりをついていたが、あいにく、つけばつくほどお蕙ちゃんのほうが負けてしまうので、しまいには「ずるい」とか何とか文句をつけて、泣きながら両方のそででぽんぽんとわたしをたたいた。

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ある日私たちはいつものとほり裏でまありをついてたがあいにくつけばつくほどお蕙ちやんのはうが貸されるもので、しまひにはずるいとかなんとか苦情をつけて泣きながら両方の袖でぽんぽんひとをぶつた。

その拍子に、そでに入っていたお手玉がぱらぱらと地面にこぼれた。

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その拍子に袂にはひつてたお手玉がぱらぱらと地びたへこぼれた。

お蕙ちゃんはそれを拾おうともせず

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お蕙ちやんはそれを拾はうともしずに

「もうあなたなんかと遊ばない」

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「もうあなたなんぞと遊ばない」

と言って、顔をおさえている。

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といつて顔をおさへてゐる。

そうして、わたしがわけもわからずあやまるのも聞かずに、行ってしまった。

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さうして私が訳もなくあやまるのをきかずにいつてしまつた。

置いてきぼりにされたわたしは、あと先の考えもなくお手玉を拾い集めて持って帰ったが、こんどはそれがまた心配の種になって、「もしお蕙ちゃんがくやしまぎれに、わたしがお手玉をとったと言ったらどうしよう。こっそりもとのところへ置いてこようかしら。あした学校で机の中に入れておいてやろうかしら」などと、あれこれ考えをめぐらせた。

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おいてきぼりにされた私はあと先の考へもなくお手玉を拾ひあつめて持つて帰つたがこんだはそれがまた苦労の種になつて もしお蕙ちやんがくやしまぎれに私がお手玉をとつたといつたらどうしよう、そーつともとのところへおいてこようかしらん、あした学校で机のなかへ入れといてやらうかしらん などととつおいつ思案をめぐらした。

けれど、とにかく人のものを持ってきて引き出しに入れてあるのが気がかりでならない。

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が、とにかくひとの物をもつてきて抽匣に入れてあるのが気がかりでならない。

そんなふうにして、落ち着かない一夜をあかした。

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そんなにして不安な一夜をあかした。

あくる朝、なんだか顔を合わせるのがこわいような、合わせないのも心配なような気持ちで、だれより先に学校へ行き、自分の席にしょんぼりすわって、昨日のこと、これまでのことなど思い出しているうちに、ひとりふたりとやってきて、だんだん教室がにぎやかになった。

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あくる朝なんだか顔をあはすのが怖いやうな、あはせないのも心配なやうな気もちで誰より先に学校へゆき自分の席にしよんぼり坐つて昨日のこと、これまでのことなど思ひだしてるうちにひとりふたりとやつてきてだんだん教場が賑になつた。

しかし、お蕙ちゃんの姿は見えない。

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しかしお蕙ちやんの姿はみえない。

もしかして怒って休むのではないかしら。でも、まだ来る時刻ではないからわからない、などとじれったく思っているうちに、かなり遅い組のちょっぺいが来て、いよいよその時刻になった。

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もしか怒つて休むのぢやないかしら、だがまだ来る時刻ぢやないからわからない などともどかしがつてるうちにかなり遅い組のちよつぺいがきていよいよその時刻になつた。

わたしはいてもたってもいられず、門のところへ行って、扉のかげからうかがっていたら、やがて坂の上から荷物をかかえて来るのが見えたので、やっとひとまず胸をなでおろした。

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私はゐたたまらずに門のところへいつて扉の陰からうかがつてたらやがて坂のうへから包みをかかへてくるのがみえたのでやつとひとまづ胸をなでおろした。

向こうはそれと知らずに門を入りかけたのを、こちらも何気なく扉のかげから出て、ふと顔を見合わせたところ、ちょっときまり悪そうな笑いを浮かべたまま、何も言わずに入ってしまった。

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さきはそれとは知らず門をはひりかけたのをこちらもなにげなく扉のかげから出てふと顔をみあはしたところちよいときまりのわるさうな笑ひをうかべたなりなんにもいはずにはひつてしまつた。

だいじょうぶだ。

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大丈夫だ。

そんなに怒ってもいないようだ。

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そんなに怒つてもゐないやうだ。

そのじれったい一日を、お蕙ちゃんは元気よくお友だちと遊んでいた。

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そのもどかしい一日をお蕙ちやんは元気よくお友達と遊んでゐた。

帰ってから、わたしが机に向かいながら「今日は裏へ出てみようかしら、よそうかしら」などと思っているときに、玄関の格子戸が静かにあいて

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帰つてから私が机にむかひながら 今日は裏へ出てみようかしら、よさうかしら などと思つてるときに玄関の格子がしづかにあいて

「ごめんあそばせ」

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「ごめんあそばせ」

と小さな声で言った。

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と小さな声でいつた。

わたしはすぐさまとび出して、ついたてのうしろから

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私はすぐさまとびだして衝立のうしろから

「お蕙ちゃん」

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「お蕙ちやん」

と呼びかけながら玄関に立った。

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と呼びかけながら式台に立つた。

そのとき、お蕙ちゃんは、はじめての訪問のせいか少しはにかみながらも、いつもの明るい笑顔を見せたので、今まで背負っていた重荷が、さらりと一度におりた。

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そのときお蕙ちやんははじめての訪問のせゐかすこしはにかみながらもいつものさえざえしい笑顔をみせたので今まで背負つてた重荷がさらりと一時におりた。

わたしは、この珍しいお客を玄関のわきの自習室に招き入れた。

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私はこの珍客を玄関のわきの自習室へ招きいれた。

お蕙ちゃんは、そわそわして部屋の中を見まわしたり、ひじかけ窓によりかかって庭の木を眺めたりしていたが、すこし落ち着いてから

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お蕙ちやんはそはそはして部屋のなかを見まはしたり、肱かけ窓によりかかつてどうだんの提灯を眺めたりしてたがすこしおちついてから

「昨日はあたくしが悪うございました」

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「昨日はあたくしが悪うございました」

と、ちゃんと両手を畳につき、いかにも後悔したようにあやまった。

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とちやんと両手を畳についてさも後悔したらしくあやまつた。

あまりにおとなびて、きちんとあやまられたので、こちらはかえってどぎまぎしながらも、こんなに人に心配させたのかと思うと、にくらしくもなって、「あんなにあやまるのではなかった」と思った。

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あんまり大人おとなびて几帳面に詫びられたためにこちらはかへつてどぎまぎしながらもこんなにひとに苦労させたかと思へば面憎くもなつて あんなにあやまるのぢやなかつた と思つた。

お蕙ちゃんは「昨日、あれから家へ帰って叱られた」と言う。

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お蕙ちやんは 昨日あれから家へ帰つて叱られた といふ。

そうして「お願いだからお手玉ちょうだい」と言うので、さんざんじらしたあげく、やっと引き出しから出してやった。

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さうして 後生だからお手玉ちやうだい といふのでさんざじらしたあげくやつと抽匣から出してやつた。

その友禅ちりめんの布は、もともとよそ行きの着物だったとかで、桐の花やほうおうの羽が、きれぎれに散らばっていた。

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その友禅縮緬のきれはもとよそいきの著物だつたとかで桐の花だの鳳凰の翼だのがきれぎれになつてゐた。

二人は、そのいわくのあるお手玉をとって遊んだ。

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二人はその因縁のあるお手玉をとつて遊んだ。

ちょうのように飛びあがり飛びくだるお手玉といっしょに、お蕙ちゃんの顔がうなずくたびに、紅白のだんだら模様に染めたかんざしのふさが、こめかみのあたりにはらはらと乱れる。

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蝶蝶のやうに飛びあがり飛びくだるお手玉といつしよにお蕙ちやんの顔がうなづくたんびに紅白だんだらに染めた簪のふさ蟀谷こめかみのあたりにはらはらとみだれる。

「お馬ののりかえ、お駕籠ののりかえ、お馬ののりかえ、お駕籠ののりかえ」

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「お馬ののりかへ、お駕籠ののりかへ、お馬ののりかへ、お駕籠ののりかへ」

手のこうにのっているのを落とすまいとして、ずるいことばかりする。

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手の甲にのつてるのを落すまいとしてずるいことばかりする。

「小さい橋くぐれ、小さい橋くぐれ」

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「小さい橋くぐれ、小さい橋くぐれ」

細い指で畳の上に橋をかけて、お手玉をすいすいとくぐらせる。

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細い指で畳のうへに橋をかけてお手玉をすいすいとくぐらせる。

お蕙ちゃんの耳たぶは美しくほてっている。

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お蕙ちやんの耳たぶは美しくほてつてゐる。

そうして、いらだてばいらだつほど手がかたくなって、かんじんなところでしくじっては、お手玉を放り投げたり、そでにしがみついたりしたが、それからは毎日、お手玉を持って遊びに来るようになった。

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さうしてじれればじれるほどかたくなつて肝心のところでしくじつてはお手玉をはふりつけたり袂にくひついたりしたが、それからは毎日お手玉をもつて遊びにくるやうになつた。

四十六

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四十六

読本が一冊終わったときに、先生は復習のためだと言って「とりよみ」

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読本が一冊あがつたときに先生は復習のためだといつて「とりよみ」

をさせた。

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をさせた。

それは、組を男子と女子に分けて、相手の読みまちがいをすばやく読みなおし、読みつづけて、最後までに読んだ紙の枚数が多いほうを勝ちとするというものだ。

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それは組を男と女とにわけて、ひとの読みちがひをすばやく読みなほし読みつづけてしまひまでに読んだ紙数の多いはうを勝ちとするのである。

男子はふだんあれこれと威張るけれど、いざ読みくらべとなるとさっぱり意気地がなくて、いつも負けどおしだった。

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男はふだんなんのかのと威張るけれどさて読みつくらとなるとさつぱり意気地がなくていつも負けどほしだつた。

それに、いざとなればだれでもあせるので、すぐに間違えて読みをとられてしまう。

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それにいざとなれば誰でもせきこむのでぢきに間違へてとられてしまふ。

最初の読み手だったわたしは、それを心得て、ゆっくりと読みはじめた。

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最初の読みてであつた私はそれを心得てそろそろと読みはじめた。

みんなは、いつになくわたしがゆっくりしているのを見てばかにして笑っていたが、あいにく、いつまでたっても一字も読みまちがえずに、だらだらと続けていく。

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みんなはいつになく私の渋滞するのをみて軽蔑して笑つてたがあいにくいつまでたつても一字も読みそこなはずにだらだらとつづけてゆく。

日本武尊が草を刈りはらっているところ、馬が何匹もいて栗毛、鹿毛(かげ・馬の毛色の名)、連銭葦毛(れんせんあしげ・馬の毛色の名)などの話のあるところ、黒人がらくだにのって砂漠を行くところなど、一枚二枚と読んで、もう終わりに近い元寇(げんこう)の章まで来た。

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日本武尊が草を薙ぎはらつてるところ、馬が何匹もゐて栗毛、鹿毛かげ連銭葦毛れんせんあしげなどの話のあるところ、黒んぼが駱駝にのつて沙漠をゆくところなど一枚二枚と読んでもう終りにちかい元寇の章まできた。

中国の戦船がめちゃめちゃに壊れているところへ日本の小舟が漕ぎ寄せていく絵があって、閏七月三十日の夜に神風が吹いて、十万の軍勢がたった三人残っただけだと書いてある。

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支那のいくさ船がめちやめちやに壊れてるところへ日本の小舟が漕ぎよせてゆく絵があつて、閏七月三十日の夜に神風が吹いて十万の軍勢がたつた三人残つたばかりだと書いてある。

女子の組では、今さら油断していたのを後悔して、相手がちょっと息をつぐのにさえ手をあげて読みをとろうとする。

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女の組ではいまさら油断したのを後悔してひとがちよつと息をつぐのにさへ手をあげてとらうとする。

その慌てぶりがおかしくて、なおのこと落ち着いて、いよいよ「陶器」という章まで進んだが、困ったことに、わたしは焼き物の作り方などにあまり興味がなかったため、ふだんそこだけはとばして復習をしていたので、とうとうしどろもどろになって、あっさり読みをとられてしまった。

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その狼狽の様子がをかしくなほなほ落ちつきはらつていよいよ陶器といふ章まですすんだが、困つたことに私は焼物の製法などにあまり興味をもたなかつたため平生そこだけはとばしておさらひをしてたのでやうやくしどろもどろになつて訳なくとられてしまつた。

そこでしぶしぶ女子に順位をゆずらねばならなくなり、「にくい相手はだれだろう」と思ってみたら、意外にもそれはお蕙ちゃんだった。

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そこでしぶしぶ女に株をゆづらねばならぬことになり憎い敵は誰かと思つてみたら意外にもそれはお蕙ちやんだつた。

わたしは、うれしいような、くやしいような、変な気がした。

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私は嬉しいやうないまいましいやうな変な気がした。

くやし泣きに泣いたとみえて、目のまわりを赤くしている。

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くやし泣きに泣いたとみえて眼のまはりを赤くしてゐる。

そして本を持って立ちあがったものの、泣きじゃくって一字も読めない。

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そして本をもつて立ちあがりはしたものの泣きじやくりして一字も読めない。

そのうち鈴が鳴って、その日はめずらしく男子の組の全勝になった。

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そのうち鈴が鳴つてその日は珍しく男の組の全勝になつた。

学校が終わってから、いつものとおり遊びに来たお蕙ちゃんは、まだすこし腫れぼったい目をして、きまり悪そうに

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学校がひけてからいつものとほり遊びにきたお蕙ちやんはまだすこし腫れぼつたい目をしてきまりわるさうに

「でも、あたしほんとにくやしかったわ」

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「でもあたしほんとにくやしかつたわ」

と言った。

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といつた。

そうして、そでからひもを出して

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さうして袂からうち紐をだして

「あやとりしましょう」

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「綾とりしませう」

と言う。

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といふ。

小さなひざとひざをつきあわせたうえに、きれいなひもが青白い手首にまとわりつき、細くそらした指に引っぱられて、いろんな形になる。

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小さな膝と膝をつきあはせたうへに綺麗な紐が蒼白い手くびにまとはれ、細くそらした指にひきはられていろんな形になる。

お蕙ちゃんは

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お蕙ちやんは

「水」

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「水」

と言ってわたす。

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といつてわたす。

大事にとって

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だいじにとつて

「菱」

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「菱」

お蕙ちゃんは、十の指を順にかけて

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お蕙ちやんは十の指を順にかけて

「ぺんぺんことかいな」

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「ぺんぺんことかいな」

と琴を作る。

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と琴をつくる。

わたしが

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わたし

「お猿さん」

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「お猿さん」

「鼓」

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「鼓」

まるでお互いの友情が手から手へ織りわたされるかのように、仲よくそんなふうにして遊びくらした。

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あだかもお互の友情が手から手へ織りわたされるかのやうに睦しくそんなにして遊びくらした。

四十七

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四十七

ある日のこと、修身のお話の時間に先生が

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ある日のこと修身のお話のときに先生が

「今日は先生のかわりに、みんながひとつずつ話をするのだ」

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「今日は先生のかはりにみんながひとつづつ話をするのだ」

と言って、自分は火鉢のそばにいすを引きよせてあたりながら、中でも気の強そうな子やおどけ者を呼び出して話させたことがあった。

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といつて自分は火鉢のそばへ椅子をひきよせてあたりながらなかで気の強さうな者や剽軽な者を呼びだして話させたことがあつた。

ふだんは立派にがき大将になったり人気者になったりしている子でも、教壇に立って四方八方から顔を見られると、ほおがつれ、舌がもつれて、何も言えなくなってしまう。

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平生立派に一方の餓鬼大将になり愛嬌者になつてる者でも教壇に立つて四方八方から顔を見られると頬がつれ舌がもつれてなんにもいへなくなつてしまふ。

「所」

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「所」

という、ふだん人にばかにされている背の高い男の子が、まっ先に呼び出されて、ひざをがたがたふるわせながら

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といふふだんひとの馬にばかりなつてるのつぽな男がまつ先に呼出されて膝頭をがたがたふるはせながら

「足袋の話をします」

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「足袋の話をします」

と言った。

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といつた。

先生は

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先生は

「なに、足袋の話? こりゃおもしろそうだ」

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「なに足袋の話? こりや面白さうだ」

とはやしたてる。

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と油をかける。

所は、どもりどもり

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所はどもりどもり

「あっちから足袋が流れてきて、こっちから足袋が流れていって、まんなかでぶつかって、たびたびご苦労です」

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「あつちから足袋が流れてきて、こつちから足袋が流れていつて、まんなかでぶつかつて、たびたび御苦労です」

と言って、そこそこに引っこんだ。

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といつてそこそこにひつこんだ。

その次は、吉沢という下の歯が上の歯にかぶさった正直者で、「えへへ、えへへ」とむやみに笑いながら

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その次は吉沢といふ下歯が上歯にかぶさつた正直者で、えへへ えへへ とむやみに笑ひながら

「槍の話をします」

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「槍の話をします」

と言った。

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といつた。

先生は

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先生は

「こんどは槍の話か。これもおもしろそうだ」

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「こんだは槍の話か。これも面白からう」

と言う。

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といふ。

「あっちから槍が流れてきて、こっちから槍が流れていって、まんなかでかちんとぶつかって、やりやりご苦労です」

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「あつちから槍が流れてきて、こつちから槍が流れていつて、まんなかでかちやつて、やりやり御苦労です」

と言って引っこんだ。

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といつてひつこんだ。

手軽な話はみんな人にされてしまって、わたしも内心小さくなっていたところ、運悪く最後にあてられた。

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手軽な話はみんなひとにされてしまつて私も内内小さくなつてたところ運わるく最後にあてられた。

話は伯母さんに聞いていくらでも知っているが、短くて話しやすいのがひとつもない。

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話は伯母さんにきいていくらでも知つてるけれど短くて話しいいのがひとつもない。

それで、しかたなく「お皿をほされたかっぱの話」というのをやったが、話してみれば案外度胸がすわって、気になるお蕙ちゃんのほうをちょいちょい見ながら、ぼつぼつと話し終えた。

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で、しかたなしに お皿をほされた河童の話 といふのをやつたが、話してみれば案外度胸がすわつて気になるお蕙ちやんのはうをちよいちよい見ながらぼつぼつと話しをはつた。

そうして先生におじぎをして帰ろうとしたら、先生は

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さうして先生にお辞儀をして帰らうとしたら先生は

「おまえはなかなか面の皮が厚いよ」

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「おまいはなかなか面の皮が厚いよ」

と言いながら笑って、頭をひとつたたいた。

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といつて笑ひながら頭をひとつたたいた。

それから女子の番になったが、みんな机にしがみついていて、だれひとり出てこないので、一番から席順に呼び出されることになった。

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それから女のはうの番になつたが机に獅噛みついてゐて誰ひとり出ないもので一番から席順に呼びだされることになつた。

それでも出ないで泣き出す子さえいる。

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それでも出ないで泣きだす者さへある。

それで、順番はとうとう五番目までまわっていった。

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で、おはちはたうとう五番めまでまはつていつた。

お蕙ちゃんは覚悟していたらしく、すなおに

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お蕙ちやんは覚悟をしてたらしくすなほに

「はい」

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「はい」

と言って教壇に立った。

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といつて教壇に立つた。

とはいえ、さすがにえりくびまで赤くなって、うつむいていたが、しばらくして夢見心地で泳ぐような手つきをしながら、ひと言ずつとぎれとぎれに語りだしたときには、わたしは心配と同情とではらはらして、まともに顔を見ることさえできなかった。

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とはいへさすがに襟くびまで赤くなつてさしうつむいてたが、ややあつて夢ごこちに泳ぐやうな手つきをしながらひと言づつきれぎれに語りだしたときには私は心配と同情とにはらはらしてまともに顔を見ることさへし得なかつた。

けれど、だんだん話が進むにつれ、ぱっちりした目がしゃんとすわって、おとなびてりりしい様子になった。その、たぐいまれな澄みきった声で、はきはきと順序よく話しつづけたその話は、いつもわたしが聞かせていた初音の鼓の話だった。

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けれどもだんだん話がすすむにつれぱつちりした眼がしやんとすわつて大人びたりりしい様子になり、そのならびない澄みとほつた声ではきはきと順序よく話しつづけたその話はいつも私がきかせた初音の鼓の話であつた。

生徒たちは思いがけない話し手の態度に引きつけられ、めずらしくおもしろい話に引きこまれて、いつのまにか静かになっていた。

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生徒らは思ひのほかな話しての態度に魅せられ、珍しく面白い話にひきこまれていつとはなしに鳴りをしづめてゐた。

話が終わったときに先生は

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話がすんだときに先生は

「今日は男子はみんなよく話したのに女子はひとりも出なかったから、負けのはずだったが、今の□□さんの話ひとつで女子のほうが勝ちになった。先生は感心してしまった」

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「今日は男のはうはみんなよく話したのに女はひとりも出なかつたから負けのはずだつたが今の□□の話ひとつで女のはうが勝ちになつた。先生は感心してしまつた」

と言った。

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といつた。

女の子たちは思わずにこにこした。

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女の子たちは思はずにこにこした。

お蕙ちゃんも、さっと顔を赤らめて、伏し目がちに自分の席へ帰っていくのを、わたしはうれしいような、ねたましいような、不思議な気持ちで見送った。

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お蕙ちやんもさつと顔を赤めてふしめがちに自分の席へ帰つてゆくのを私は嬉しいやうな嫉ましいやうな不思議な気もちで見おくつた。

あの話は、お蕙ちゃんにさせるのではなかったのに。

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あの話はお蕙ちやんにさせるのではなかつたものを。

四十八

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四十八

冬の夜の遊びは、しみじみと身にしみて楽しいものである。

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冬の夜の遊びはしみじみと身にしみて楽しいものである。

お蕙ちゃんは手をかじかませて来て、部屋に入るなり火鉢にかじりつく。

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お蕙ちやんは手をかじかませてきて部屋へはひるやいなや火鉢にかじりつく。

それは、伯母さんがこのかわいいお客様のために、毎晩山盛りに炭をついでおくことになっていた。

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それは伯母さんがこの可愛いお客様のために毎晩山もりに炭をついでおくことになつてゐた。

お蕙ちゃんが寒そうに肩をすぼめて、しばらく火鉢の上にのりかかるようにしているのを、わたしは待ちどおしがって、おさげの髪を引っぱったり、髪をまとめた輪の中に指をつっこんだりする。

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お蕙ちやんが寒さうに肩をすぼめて暫くは火鉢のうへにのりかかるやうにしてるのを私は待ちどほしがつておさげの髪をひつぱつたり、お稚児の輪のなかへ指をつつこんだりする。

すると、向こうもわたしに負けないかんしゃく持ちなので、むきになって泣き出したりすることもあった。

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と、さきも私に負けない癇癪もちなのでむきになつて泣きだしたりすることもあつた。

そうなると、こちらは一も二もなく降参して、ひたすらあやまってしまう。

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さうなるとこちらは一も二もなく降参してひたあやまりにあやまつてしまふ。

うつぶしている耳もとへ口を寄せて

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つつぷしてる耳もとへ口をよせて

「かんにんして、かんにんして」

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「堪忍して、堪忍して」

と言っても、首をふっていて、なかなか聞いてくれない。

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といつても首をふつてゐてなかなかきいてくれない。

けれど、ひとしきり泣いてしまうと

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が、ひと泣き泣いてしまへば

「もういいのよ」

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「もういいのよ」

と、からりと機嫌をなおして、うらむようなさびしい笑顔を見せる。

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とからりと機嫌をなほして怨むやうな淋しい笑顔をみせる。

そんなとき、わたしはそのほんのり赤いまぶたから涙をふいてやることもあった。

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そんなとき私はそのほんのりしたまぶたから涙をふいてやることもあつた。

お蕙ちゃんは、泣きまねが上手だった。

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お蕙ちやんは泣きまねが上手だつた。

つまらないことを二言三言言いあううちに、急にぷりぷりしたと思うと、いきなり人のひざに顔をかくして、おいおいと泣く。

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つまらないことを二言三言いひあふうちに急にぷりぷりしたと思ふといきなりひとの膝に顔をかくしておいおいと泣く。

わたしは、その重たいぬくもりを感じながら、かんざしをぬいてみたり、くすぐってみたり、手をかえ品をかえて機嫌をなおそうとするが、するとますます泣きたてるので、こちらに悪いところはないと思いながらも、一生けんめいにわびる。

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私はその重たいぬくみを感じながら、簪をぬいてみたり、くすぐつてみたり、手をかへ品をかへて機嫌をなほさうとすればなほなほ泣きたてるのでこちらにとがはないと思ひながらも一所懸命にわびる。

すると、さんざん手こずらせておいてから、不意に顔をあげて、べろっと舌を出し、「ああいい気味だ」というように得意げに笑いこける。

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と、さんざてこずらしておいてから不意に顔をあげべろつと舌をだして ああいい気味だ といふやうに得意に笑ひこける。

すべすべした細い舌だった。

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すべつこい細い舌だつた。

わたしはあまりたびたびその手にひっかかったので、しまいには、ほんとうの泣きなのかうそ泣きなのかを、額に出るかんしゃくの筋があるかないかで見分けることを覚えた。

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私はあまりたびたびその手をくつたためしまひにはほん泣きかうそ泣きかを額に出る癇癪筋のあるなしで見わけることをおぼえた。

また、にらめっこが得意で、いつでもわたしを負かした。

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また睨めつこが得手でいつでも私を負かした。

お蕙ちゃんの顔は自由自在に動いて、思いのままの表情ができる。

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お蕙ちやんの顔は自由自在に動いて勝手気儘な表情ができる。

「あんがりめ、さんがりめ」などと言って、両手で目玉をゴムみたいに伸び縮みさせたりする。

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あんがりめ さんがりめ なんといつて両手で眼玉をごむみたいに伸び縮みさせたりする。

わたしは、そのにらめっこが大きらいだった。

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私はその睨めつこが大嫌ひだつた。

それは、自分が負けるからではなく、お蕙ちゃんの整った顔が白目をむいたり、口を大きく開けたりして、見るもみじめな変わった顔になるのが、本当に切なかったからである。

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それは自分が負けるからではなくて、お蕙ちやんの整つた顔が白眼をだしたり、鰐口になつたり、見るも無惨な片輪になるのがしんじつ情なかつたからである。

そんなふうにしているうちに、いつのまにか、わたしは、犬の置物や丑紅の牛といっしょに、お蕙ちゃんまでを自分のもののように思うようになり、お蕙ちゃんの身にふりかかる悪口やほめ言葉、幸せな出来事や不幸な出来事は、そのままひしひしとこちらの胸にひびくようになった。

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そんなにしてるうちにいつか私はお犬様や丑紅の牛といつしよにお蕙ちやんまでを自分のものみたいに思つてその身にふりかかる毀誉褒貶の言葉や幸不幸な出来事はそのままひしひしとこちらの胸にこたへるやうになつた。

わたしは、お蕙ちゃんをきれいな子だと思いはじめた。

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私はお蕙ちやんを綺麗な子だと思ひはじめた。

それが、どんなに誇らしかっただろう。

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それがどんなに得意だつたらう。

けれど、それと同時に、自分の顔立ちは、今まで思いもかけなかったつらい重荷となった。

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併しそれと同時に自分の容貌は嘗て思ひもかけなかつたつらい重荷となつた。

自分はもっともっときれいな子になって、お蕙ちゃんの心をひきたい。

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自分はもつともつと綺麗な子になつてお蕙ちやんの心をひきたい。

そうして、二人だけが仲よしになって、いつまでもいっしょに遊んでいたい。

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さうして二人だけが仲よしになつていつまでもいつしよに遊んでゐたい。

わたしは、そんなことを考えはじめた。

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私はそんなことを考へはじめた。

ある晩、わたしたちはひじかけ窓のところに並んで、さるすべりの葉ごしにさす月の光をあびながら歌をうたっていた。

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ある晩私たちは肱かけ窓のところに並んで百日紅の葉ごしにさす月の光をあびながら歌をうたつてゐた。

そのとき、何気なく窓から垂れている自分の腕を見たところ、われながら見とれるほど美しく、透きとおるように青白く見えた。

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そのときなにげなく窓から垂れてる自分の腕をみたところ我ながら見とれるほど美しく、透きとほるやうに蒼白くみえた。

それはお月様のほんの一時のいたずらだったが、「もしこれが本当ならば」と、うれしいような気がして

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それはお月様のほんの一時のいたづらだつたが、もしこれがほんとならば と頼もしいやうな気がして

「ほら、こんなにきれいに見える」

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「こら、こんなに綺麗にみえる」

と言って、お蕙ちゃんの前へ腕を出した。

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といつてお蕙ちやんのまへへ腕をだした。

「まあ」

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「まあ」

そう言いながら、お蕙ちゃんはそでをまくって

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さういひながら恋人は袖をまくつて

「あたしだって」

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「あたしだつて」

と言って見せた。

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といつて見せた。

しなやかな腕が、白い石みたいに見える。

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しなやかな腕が蝋石みたいにみえる。

二人はそれを不思議がって、二の腕からすね、すねから胸と、ひやひやする夜の空気に肌をさらしながら、時のたつのも忘れて、驚きあうのをやめなかった。

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二人はそれを不思議がつて二の腕から脛、脛から胸と、ひやひやする夜気に肌をさらしながら時のたつのも忘れて驚嘆をつづけた。

四十九

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四十九

そのころ、西どなりへ縫箔(ぬいはく・布に糸や金箔で模様をつける仕事)を内職にする家が引っ越してきて、そこの息子の富公というのが、新しく同じ組になった。

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そのころ西隣へ縫箔ぬひはくを内職にする家がこしてきてそこの息子の富公といふのがあらたに同級になつた。

彼はさっぱり勉強のできない子だったが、口が達者なのと、年が二つも上で力が強いために、たちまち組のがき大将になった。

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彼はさつぱり出来ない子だつたが口前がいいのと年が二つも上で力が強いために忽ち級の餓鬼大将になつた。

それで自然と、わたしはこれまでのように力をふるうことができなくなったばかりか、体面上、そうそう頭を下げてついていくこともできず、ひとり仲間はずれのような形になってしまった。

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で、自然私はこれまでのやうに権威をふるふことができないばかりか体面上さうさう頭をさげてゆくこともならず、ひとり仲間はづれのかたちになつてしまつた。

彼は近所に友だちがいないので、学校から帰るとわたしを誘いに来て、裏で遊ぶ。

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彼は近処に友達がないもので学校から帰ると私を誘ひにきて裏で遊ぶ。

わたしは彼のことがあまり好きではないのと、お蕙ちゃんと遊びたいのがやまやまなのとで、少しも気が進まなかったが、その反感を買うのをおそれて、しかたなくつきあっていた。

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私は彼をあんまり好かないのとお蕙ちやんと遊びたいのが山山なのとでちつとも気がすすまなかつたけれど、その反感をかふのを懼れてせうことなしにつきあつてゐた。

もともとおてんば好きなお蕙ちゃんは、わたしたちの遊びを垣根ごしにおもしろそうに見ていたが、とうとう自分も出てきて、見よう見まねで縄とびやたがまわしなどをやるようになった。

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もともとおてんばの好きなお蕙ちやんは私たちの遊びを垣根ごしに面白さうに見てたが終には自分も出てきて見やう見まねに縄とびや箍まはしなどをやるやうになつた。

如才ない富公は、「お嬢さん、お嬢さん」とご機嫌をとって、さかだちをしたり、とんぼ返りをしたり、いろんな芸を見せてやる。

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如才ない富公は お嬢さん お嬢さん と機嫌をとつて、さかだちをしたり、筋斗とんぼがいりをしたり、いろんな芸当をやつてみせる。

そういうことが大好きなお蕙ちゃんは、「富ちゃん、富ちゃん」と、彼のあとばかり追って歩く。

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そんなことの大好きなお蕙ちやんは 富ちやん 富ちやん と彼のあとばかり追つてあるく。

伯母さんひとりの手で育てられ、お国さんとばかり遊んでいたわたしは、そういう修行をしていないので、とてもそんな芸当はできず、みっともなくも、富公がこの小さな女王のお気に入りになるのを、指をくわえて見ているよりほかなかった。

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伯母さんひとりの手に育てられてお国さんとばかり遊んでた私は修業がつまないのでとてもそんなはなれわざはできず、器量わるくも富公がこの小女王の寵幸をほしいままにするのを指をくはへて見てるよりほかはなかつた。

お蕙ちゃんは、夜に家に来ても富公の話ばかりして、わたしがご機嫌をとるために持ち出す絵本や物語なども見向きもしない。

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お蕙ちやんは晩に家へきても富公の話ばかりして私が機嫌をとるためにもちだす絵本や草双紙なぞ見むきもしない。

三人で遊んでいるときにも、富公がいい気になって「不器用な」だの「意気地なし」だのと人をばかにすれば、お蕙ちゃんもいっしょになってばかにする。

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三人で遊んでるときにも富公がいい気になつてひとのことを下手つくその意気地なしのといへばいつしよになつてばかにする。

さかだちもとんぼ返りもできない、芸のない子に自分をしつけた伯母さんが、今さらうらめしい。

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さかだちも筋斗がいりもできない芸なしに自分をしつけた伯母さんが今さら怨めしい。

そんなふうに、わたしは富公がいやでたまらないのをじっとがまんして逆らわないでいたが、そのがまんもとうとう限界に達した。あるとき、彼があまりにひどいことを言うのにむっとして言い返したら、彼はさんざん口ぎたなくののしったあげく、お蕙ちゃんに耳打ちをして、意味ありげにこちらを横目で見ながら

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そんなで私は富公がいやでならないのをじつと虫を殺して逆らはないでたがその堪忍も終に緒がきれて、あるときあんまりなことをいふのをむつとして口返しをしたら彼はさんざ口ぎたなく罵つたあげくお蕙ちやんに耳つこすりをして意味ありげにひとをしり目にかけながら

「あばよ、しばよ」

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「あばよ、しばよ」

と言って、さっさと帰りかけた。

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といつてさつさと帰りかけた。

それを、お蕙ちゃんまでがまねをして

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それをお蕙ちやんまでがまねをして

「あばよ、しばよ」

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「あばよ、しばよ」

と言いながら、あとについていってしまった。

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といひいひあとについていつてしまつた。

自分のところへ連れていったにちがいない。

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自分のとこへつれてつたのにちがひない。

それから、お蕙ちゃんはぱったり来なくなった。

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それからお蕙ちやんはばつたり来なくなつた。

たまに顔を合わせても、にこりともせずにかくれてしまう。

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たまに顔をあはせてもにこりともしずに隠れてしまふ。

「富公がけしかけたのだ」そう思うと、わたしは小さな胸に、煮えかえるほどのしっとと怒りをおこさずにはいられなかった。

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富公が意地をつけたのだ さう思へば私は小さな胸に煮えかへるほどの嫉妬と憤怒をおこさずにはゐられなかつた。

学校でも、彼はみんなをけしかけて、わたしひとりをちくちくといじめる。

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学校でも彼はみんなをけしかけて私ひとりをちくちくといぢめる。

わたしは、そうした口の達者さはもちろん、力の強さにおいても、たしかに彼に一歩ゆずらなければならない。

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私はさうした口前はもとより腕力に於ても確に彼に一目おかねばならぬ。

それで今は、わずかに自分が首席であるということだけが、せめてもの慰めだった。

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で、今は纔に自分が首席であるといふことだけがせめてもの慰めであつた。

とはいえ、それもお蕙ちゃんがいなくては、結局ただの空っぽの位ではないか。

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とはいへそれもお蕙ちやんなくしては畢竟ただの空位にすぎないではないか。

五十

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五十

気も狂いそうな日が、いく日か続いた。

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気も狂ひさうな日がいく日かつづいた。

ある日のこと、わたしがまたひとり自習室に閉じこもって思い悩んでいるときに、ふと「ぽくぽく、ちりちり」という下駄の音が聞こえた。

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ある日のこと私がまたひとり自習室にとぢこもつて思ひ悩んでるときにふとぽくぽくちりちりいふぽつくりの音がきこえた。

はっとしたが、胸をおさえて、窓をあけることはしなかった。

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はつとしたが胸をおさへて窓をあけることはしなかつた。

すると、忘れるひまもない、なつかしい声が

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すると忘れるまもないなつかしい声が

「ごめんあそばせ」

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「ごめんあそばせ」

と格子のところで言った。

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と格子のところでいつた。

「どなた様でございます」

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「どなた様でございます」

伯母さんが知らないふりをして出ていって

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伯母さんがそらとぼけて出ていつて

「おお、おお、どこのお客様かと思ったら、こんなかわいいお嬢様だった」

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「おお おお どこのお客様かと思つたらこんなかはええお嬢様だつた」

と言いながら抱きあげるようすで、わけを知らないので「かぜをひいたか」「お泊まりに行っていたか」などとたずねている。

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といひいひ抱へあげる様子で、訳をしらないもので かぜをひいたか の、お泊りにいつたか のと尋ねてゐる。

お蕙ちゃんは、伯母さんのあけた障子から、おとなしく入ってきて

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お蕙ちやんは伯母さんのあけた障子からおとなしくはひつてきて

「ご無沙汰いたしました」

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「御無沙汰いたしました」

と、しとやかに手をついた。

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としとやかに手をついた。

こらえにこらえていたわたしは、そのひと言に張りつめていた気持ちの糸を切られて、われしらず

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こらへにこらへてた私はそのひと言に張りつめた気のつるをきられてわれしらず

「お蕙ちゃん」

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「お蕙ちやん」

と呼びかけると同時に、くやし涙がさっとこぼれた。

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と呼びかけると同時にくやし涙がさつとこぼれた。

それをそれほど気にするふうでもなく、そでからお手玉を出しはじめるので

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それをさまで気にするでもないらしく袂からお手玉をだしはじめるのを

「なぜ来なかったの」

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「なぜ来なかつたの」

と言うと、案外平気で

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といへば案外平気で

「富ちゃんとこへ行ってたから」

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「富ちやんとこへいつてたから」

と言う。

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といふ。

たたみかけて

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畳みかけて

「なぜ今日は行かないの」

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「なぜ今日はいかないの」

と問いつめると、お蕙ちゃんは何でもないように

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なじれば事もなげに

「富ちゃんとこなんか行っちゃいけないって、お母様に叱られたから」

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「富ちやんとこなんかいつちやいけないつてお母様かあさまに叱られたから」

と答える。

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と答へる。

わたしは少し拍子ぬけしながらも、この間のうらみを少し言ったら、お蕙ちゃんは

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私は気を折られながらもいつぞやの怨みをすこしいつたらお蕙ちやんは

「ごめんなさいね」

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「ごめんなさいね」

と前置きをして、富ちゃんが「あんな子と遊ばなくても、家へ来ればいくらでもおもしろいことがある」と言ったからだと言いわけをして

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と前おきをし、富ちやんが あんな子と遊ばないでも家へくればいくらでも面白いことがある といつたからだといひ訳をして

「お母様に叱られて、富ちゃんが大きらいになったから、またあなたと仲よくしましょう」

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「お母様に叱られて富ちやんが大嫌ひになつたからまたあなたと仲よくしませう」

と言う。

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といふ。

わたしの気持ちを何と言おう。

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私の心をなんといはうか。

お蕙ちゃんは、やっぱりわたしのものだった。

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お蕙ちやんはやつぱし私のものだつた。

そうとは知らず、富公は一日待ちくたびれていたのだろう。

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さうとは知らず富公は一日待ちくたびれてたのだらう。

あくる日、学校で、こちらが見張っているとも気づかず、こっそりそばに寄って何か話しかけたが、お蕙ちゃんは「もうあなたなんて、きらいだ」と、そっけない返事をした。

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明る日学校でこちらが見張つてるとも気づかずこつそりそばへよつてなにかいひかけたがお蕙ちやんは もうあなたなんぞ嫌ひだ とけんもほろろの挨拶をした。

お蕙ちゃんは、お母様に叱られて以来、心の底から彼をばかにしているようだった。

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お蕙ちやんはお母様に叱られて以来しんから彼を軽蔑するらしかつた。

五十一

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五十一

悪知恵にたけた富公は、自分がうとまれているのを見るなり、白々しくも親しげにわたしのそばに寄ってきて、いろいろとご機嫌をとったあげく、お蕙ちゃんの悪口のようなことを言って、「自分もあの子とは遊ばないことにしたから、君も決していっしょに遊ぶな」と言ったので、わたしは心の中で笑いながら、いいかげんに受け答えをしておいた。

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奸智にたけた富公は自分がうとんぜられるのをみるやしらじらしくも親しげに私のそばへよつてきていろいろと機嫌をとつたあげくお蕙ちやんを中傷するやうなことをいつて 自分もあの子とは遊ばないことにしたから君も決していつしよに遊ぶな といつたので、腹のなかで笑ひながらいいかげんに挨拶をしておいた。

とはいえ、その後わたしとお蕙ちゃんがもとのとおり仲よくなったことに気づくやいなや、彼はおそろしい仕返しをたくらんだ。

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とはいへその後私とお蕙ちやんがもとのとほり仲よくなつたことを勘付くやいなや彼は恐しい仕返しをたくらんだ。

彼は毎日、学校で休み時間になるとみんなをけしかけて、二人をはやしたてる。

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彼は毎日学校で遊び時間になるとみんなをけしかけて二人を囃したてる。

そうして、みんなが疲れて勢いがおとろえると、勝手にでっちあげたひどいことを耳打ちして、ひとりひとりをたきつけて歩く。

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さうしてみんながくたびれて火の手をゆるめると勝手にこしらへた言語道断なことを耳うちしてひとりびとりたきつけてあるく。

わたしたちは仲間はずれにされ、意味ありげな目に取り囲まれて、みじめな立場に落ちてしまった。

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私たちは仲間はづれにされ意味ありげな眼にとりまかれてみじめな境涯に堕ちてしまつた。

けれど、そうなればなるほど、いっそう仲よくなり、いやな一日の授業をすませて家へ帰って遊ぶときには、お互いの胸に、なんともいえない楽しさとなぐさめがあふれるのを感じた。

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しかしさうなればいきほひ一層睦しくなり、厭はしい一日の課業をすませて家へ帰つて遊ぶときにはお互の胸にいひしらぬ楽しさと慰めのあふれるのをおぼえた。

富公の仕返しは日に日にたちが悪くなり、こちらの敵意もそれにつれて高まっていく。

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富公の意趣返しは日に日に悪辣になり、こちらの敵意もそれにつれてたかまつてゆく。

わたしは、ほかの取り巻きの子たちは相手にもしていないし、それに彼自身も案外強くないにちがいない。

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私はほかの雑兵ざふひやうばらはものの数とも思はないし、それに奴自身も案外強くないに相違ない。

その証拠に、ときどきわたしがかっとなって向かっていくと、彼は一対一の勝負をせずにうまく逃げて、遠くから人を苦しめようとする。

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その證拠にはときどき私がかつとしてむかつてゆくと彼は一騎打ちをしずにうまく逃げて遠巻きにひとを苦しめようとする。

わたしはようやく相手を見くびると同時に、いつか思う存分この仕返しをしてやろうという気が、むらむらとわいてきた。

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私はやうやく相手を見くびると同時にいつか思ふさまこの返報をしてやらうといふ気がむらむらとおこつた。

そのうち、ある日のこと、いつものちょっぺいが学校の帰りぎわにこそこそとやってきて

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そのうちある日のことれいのちよつぺいが学校のひけがけにこそこそとやつてきて

「あした待ちぶせするって言ってたよ」

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「あした待ちぶせするつていつてたよ」

と言うなり、見つかるのがこわいのか、さっさとかけていった。

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といふなり見つかるのが怖いのかさつさと駈けていつた。

わたしは、ちょっぺいの心遣いをうれしく思った。

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私はちよつぺいの心根を嬉しく思つた。

翌朝、わたしは六十センチほどのごつごつした竹の棒を羽織の下にしのばせて、「さあ来い」という気持ちで学校へ行った。

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翌朝私は二尺ばかりの布袋竹ほていちくのでこでこなやつを羽織のしたへしのばせて さあこい といふ気で学校へいつた。

最後の授業が終わるやいなや、富公は

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最後の時間がすむやいなや富公は

「みんな来い、みんな来い」

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「みんなこい みんなこい」

と合図しながら、まっ先に教室をかけだした。

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と相図しながらまつ先に教場を駈けだした。

すると、中でもお世辞ばかり言う三、四人の子たちが、ばらばらとあとについていった。

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するとなかでもおべつかつかひの三四人の奴らがばらばらとあとについていつた。

わたしは覚悟を決めて、わざといちばんあとから帰ったら、相手は思ったとおり、人通りのない八幡様の笹やぶのところで待ちかまえていて、お世辞者が「えへん、えへん」とばかにしたようなせきばらいをする。

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私は覚悟をきめてわざといちばんあとから帰つたら相手は案のぢやう人通りのない八幡様の笹藪のところで待ちかまへてゐておべつかが えへん えへん とばかにした咳ばらひをする。

こちらは「今日こそは」と思う気持ちを顔に出さず、すましてそこを通ろうとするのを、富公は

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こちらは 今日こそ とおもふ心を色にもみせずすまして通らうとするのを富公は

「そら、やれやれ」

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「そら、やれやれ」

と命令した。

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下知げぢをした。

ほかの子たちには特にうらみがあるわけでもなく、それにとうていわたしの相手ではないので、ただまわりからわいわい言うばかりだったが、その中にひとり、お寺の息子の目のただれた子が、どういうつもりか、いきなり後ろから首につかみかかった。

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ほかの者は格別意趣があるではなし、それに到底私の敵ではないのでただまはりからわいわいいふばかりだつたが、なかにひとり寺の息子の爛れ目の奴がどういふ忠義だてかいきなり後ろから頸つたまへ噛りついた。

富公は内心びくびくしながらも、頼もしい味方のふるまいに力を得て

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富公は内心びくびくしながらも頼もしい味方の振舞に力を得て

「こら、貴様生意気だぞ」

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「こら、貴様生意気だぞ」

と言って寄ってきたので、わたしはいきなり竹の棒で頭のまん中をたたいてやった。

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といつて寄つてきたので私はいきなり布袋竹で真向をくらはしてやつた。

そうしたら、富公は意外にも、たちまちへなへなとなって

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さうしたら富公は意外にも忽ちへなへなとして

「いやだあ、乱暴するんだもの」

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「いやだあ、乱暴するんだもの」

と言いながら、額をおさえてめそめそ泣き出した。

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といひながら額をおさへてめそめそ泣きだした。

このきたない大将の負けっぷりを、今さら「とんだ相手に味方してしまった」という顔で眺めていた取り巻きたちは、そろそろ自分たちの身も危なくなってきたのを見て

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このきたない大将の負けやうを今更 とんだ者に加勢した といふ顔つきで眺めてた雑兵ばらはそろそろ自分たちの身がけんのんになつてきたのをみて

「おら知らねえと」

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「おら知らねえと」

とめいめい言いながら、こそこそと帰っていった。

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とてんでにいひながらこそこそと帰つていつた。

ただ驚いたのは、目のただれた子で、大将もろとも討ち死にの覚悟か、目をつぶって死んだようにぐったりとぶら下がったまま、どうしてもはなれない。

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ただ驚いたのは目くされの坊主で、大将もろとも討死の覚悟か目をつぶつて死に身にぐたりとつるさがつたなりどうしてもはなれない。

さすがの強気なわたしも、それにはほとほと困ったが、やっとのことでへばりつく彼をもぎはなして帰ったときには、実はこちらも泣きそうになっていた。

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さすがの剛の者もそれにはほとほと弱つたが、やつとのことでへばりつく奴をぎはなして帰つたときには実はこちらも泣きかかつてゐた。

五十二

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五十二

つららを折ったり、堅炭で雪に絵をかいたりしているうちに、桃の節句が来た。

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つららを折り、堅炭で雪をつるうちに桃のお節句がきた。

家には、神田の大火事のとき不思議に焼け残ったという古いおひな様があって、五人ばやしが三人になっていたり、矢を背負った人形の矢がほとんど折れていたりして、さんざんな状態だったが、それでも毎年、子どもたちの楽しみに必ず飾ることになっていた。

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家には神田の大火事に不思議に焼けのこつたといふ古いお雛様があつて、五人囃子が三人になり、矢しよひの矢があらかた折れてるなどさんざんだつたが、それでも毎年子供たちの慰みに必ず飾ることになつてゐた。

伯母さんは、家じゅうのがらくたを寄せ集めて、貝細工のびょうぶを立てまわしたり、千代紙のお盆にちりめん細工を盛ったりして、道具の足りないところをおぎない、子どもの目にもさもりっぱなおひな様に見えるように、うまくこしらえてくれる。

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伯母さんは家ぢゆうのがらくた物をよせあつめて、貝細工の屏風を立てまはしたり、千代紙のお三方にちりちりを盛つたりして調度のたりないところをふさげ、子供の眼にはさも立派なお雛様にみえるやうにうまくこしらへてくれる。

赤い毛せんをしいた壇の上に、きれいな人形をならべ、いちばん上はわたしの、二段目は妹の、三段目は末の妹のと決めて、菱もちやはぜを供えるときのうれしさといったらない。

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緋の毛氈をしいた壇のうへに綺麗な人たちをならべ、いちばん上は私の、二段めは妹の、三段めは末の妹のときめて菱餅やはぜを供へるときの嬉しさといつたらない。

寝ているあいだにさざえが逃げやしないかと心配して、みんなに笑われたこともおぼえている。

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寐てるうちに蠑螺が逃げやしないかと心配して笑はれたこともおぼえてゐる。

節句には、わざわざお蕙ちゃんをよんだ。

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お節句にはわざわざお蕙ちやんをよんだ。

お蕙ちゃんは、よそ行きの着物に赤いふさのついた被布(ひふ・子ども用の上着)を着てやってきた。

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お蕙ちやんは大よそいきの著物に赤い総のついた被布をきてやつてきた。

二人がひな段の前にちょこんとすわって、仲よく豆いりなどを食べていると、伯母さんは三つ組みのさかずきの小さいのをお客様に、中くらいのをわたしに持たせて、とろりとした白酒をついでくれる。

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二人が雛段のまへへちよこなんと坐つて仲よく豆煎なぞたべてると伯母さんは三つ組みのお盃の小さいのをお客様に、なかほどのを私にとらせてとろとろの白酒をついでくれる。

白酒がとっくりの口から棒みたいにたれて、もっくりと盛りあがるのを、こくこくと前歯でかみながら、めだかみたいに鼻をならべて飲む。

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白酒が銚子の口から棒みたいにたれてむつくりと盛りあがるのをこくこくと前歯でかみながらめだかみたいに鼻をならべてのむ。

子ども思いの伯母さんは、こんなふうにして小さな子たちを喜ばせるのが何よりの楽しみで、自分もにこにこしながら

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子煩悩な伯母さんはこんなにして小さな者を喜ばせるのがなによりの楽しみで自分もほくほくしながら

「二人ともかわいい、かわいい」

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「二人ながらかはええ かはええ」

と、両手でいっしょに背中をなでてくれる。

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と両手でいつしよに背中をなでてくれる。

乳母は、お決まりの「おひな様のようなご夫婦だ」と言って、わたしたちをはずかしがらせる。

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乳母はおきまりの お雛様のやうな御夫婦だ をいつて私たちをいやがらせる。

お蕙ちゃんはよそ行きの着物だからすましていて、まりやお手玉もちゃんと持っているくせに、いじくってばかりいて、遊ぼうとも言わない。

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お蕙ちやんは大よそいきだもんですましてゐて、まーりやお手玉もちやんと持つてるくせにいぢくつてばかりゐてしようともいはない。

すごろくや、水中花や、十六むさし(将棋に似た遊び)や、南京玉のぬきっこなどをやって、やっとすこしはしゃいできたところで、そのころ姉からゆずり受けた歌舞伎絵の羽子板を持って、ようやく裏へ誘い出した。

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双六や、水中花や、十六むさしや、南京玉のぬきつこなぞやつてやつとすこしはしやいできたところをそのころ姉から譲りうけた成田屋の勧進帳と音羽屋の助六の羽子板をもつてやうやく裏へ誘ひだした。

けれど、二人とも動きがぎこちないうえに、大きな羽子板が手にあまって、二つ三つつくとすぐ落としてしまう。

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が、二人とも金魚みたいにぞろぞろしてるうへに大きな羽子板が手にあまつて二つ三つつくとは落してしまふ。

「油屋おそめ、久松十よ」

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「油屋おそめ、久松十よ」

それでもおもしろ半分に、ぽんぽんとお尻のたたきあいをした。

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それでも面白半分にぽんぽんお尻の打ちつこをした。

五十三

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五十三

節句が過ぎるとまもなく、お蕙ちゃんのお父様が亡くなったため、お蕙ちゃんはその後しばらく来なかったが、ある晩、不意にまた「ぽくぽく、ちりちり」と下駄の音をさせて遊びに来た。

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お節句がすぎると間もなくお父様がなくなつたためにお蕙ちやんはその当座しばらくこなかつたがある晩不意にまたぽくぽくちりちりとぽつくりの音をさせて遊びにきた。

けれど、心なしかひどく沈んでいるので、わたしは気が気でなく、家の者も気の毒がっていろいろとなぐさめたら、「あたしの家は、あした引っ越しするのだ」と言った。

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併し思ひなしかひどく沈んでるので私は気が気でなく、家の者も気の毒がつていろいろと慰めたら あたしの家はあしたお引越しするのだ といつた。

おばあ様とお母様とで、お国へ帰るのだそうだ。

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お祖母様とお母様とでお国へ帰るのださうだ。

お蕙ちゃんは

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お蕙ちやんは

「あたし、引っ越しはうれしいけど、遠くへ行けばもう遊びに来られないから、つまらないわ」

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「あたしお引越しは嬉しいけど遠くへいけばもう遊びにこられないからつまらないわ」

と、やるせなさそうに言う。

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とやるせなささうにいふ。

それで、わたしもどうしようかと思うほど悲しくなって、二人でふさぎこんでいた。

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で、私もどうしようかと思ふほど情なくなつて二人してふさいでゐた。

これがお別れだと言って、その晩はみんないっしょに遊んだが、乳母もさすがに

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これがお別れだといつてその晩はみんないつしよに遊んだが乳母もさすがに

「ほんとにお気の毒なお子さんだ」

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「ほんとにお不仕合せなお子さんだ」

と言いながら、しげしげと顔を見つめていた。

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といひいひしげしげと顔を見つめてゐた。

次の日には、おばあ様に手をひかれて、玄関までいとまごいに来た。

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次の日にはお祖母様に手をひかれて玄関まで暇乞ひにきた。

わたしは、いつものおとなびた言葉づかいでしとやかにあいさつをするお蕙ちゃんの声を聞いて、飛んでも出たいのに、急にわけのわからない恥ずかしさがこみあげてきて、ふすまのかげにもじもじとかくれていた。

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私はいつもの大人びた言葉つきでしとやかに挨拶をするお蕙ちやんの声をきいて飛んでも出たいのを急に訳のわからない恥しさがこみあげてうぢうぢと襖のかげにかくれてゐた。

お蕙ちゃんは行ってしまった。

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お蕙ちやんはいつてしまつた。

あとを見送っていた家の者は、口々に

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あとを見おくつてた家の者はくちぐちに

「きれいなお嬢様だこと」

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「綺麗なお嬢様だこと」

と言った。

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といつた。

お蕙ちゃんは、おひな祭りのときの着物を着てきたという。

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お蕙ちやんはお雛様のときの著物をきてきたといふ。

ひとり机の前にすわって「なぜ会わなかったのだろう」と、どうしようもない涙にくれているのを、乳母は早くも見つけて

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ひとり机のまへに坐つて なぜあはなかつたらう とかひもない涙にくれてるのを乳母ははやくも見つけて

「坊ちゃまもおかわいそうだ」

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「坊ちやまもおかはいさうだ」

と言った。

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といつた。

あくる日、わたしはだれより先に学校へ行った。

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明る日私は誰より先に学校へいつた。

そして、そっとお蕙ちゃんの席にすわってみたら、今さらのようになつかしさがわきおこって、じっと机をかかえていた。

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さうしてそつとお蕙ちやんの席に腰かけてみたら今更のやうになつかしさが湧きおこつてじいつと机をかかへてゐた。

お蕙ちゃんは、いたずら者である。

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お蕙ちやんはいたづら者である。

そこには鉛筆で、天狗の絵やへたな落書きがいっぱいかいてあった。

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そこには鉛筆で山水天狗やヘマムシ入道がいつぱいかいてあつた。

これは、もう二十年も昔の話である。

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これはもう二十年も昔の話である。

わたしは、なんだかお蕙ちゃんが死んでしまったような気がしてならない。

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私はなんだかお蕙ちやんが死んでしまつたやうな気がしてならない。

かと思えば、時には今でもお蕙ちゃんが生きていて、折にふれてそのころのことなど思い出しているような気もする。

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さうかとおもへば時には今でもお蕙ちやんが生きてゐて折ふしそのじぶんのことなど思ひだしてるやうな気もする。

(大正元年初稿)

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(大正元年初稿)

後篇

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後篇

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中沢先生は気のやさしい人だったけれど、ずいぶんなかんしゃく持ちで、どうかしてかっとなると、教鞭でぐらぐらするほど人の頭をぶったりした。

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中沢先生は気のやさしい人だつたけれど随分な癇癪もちで、どうかしてかつとすれば教鞭でもつてぐらぐらするほどひとの頭をぶつたりした。

それでもわたしは先生が大好きで、わざわざ家の庭にあるしゅろの枝をとっては、痛い思いをするための新しいむちを先生にあげた。

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それでも私は先生が大好きで、御苦労にも家の庭にある棕櫚の枝をとつては痛い思ひをするために新しい鞭を先生に与へた。

すると先生は、いつもにやにや笑いながら

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すると先生はいつもにやにや笑ひながら

「ありがとう。頭をたたくにはこれがいちばんだ」

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「ありがたう。頭をたたくにはこれがいちばんだ」

と言って、ひとつたたくまねをしてみたりする。

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といつてひとつたたくまねをしてみたりする。

わたしは何ひとつ言うことを聞かず、勝手気ままにしていたので、よほど手をやいているらしかったが、それでもやっぱりかわいがってくれているのだと、こちらひとりで決めていた。

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私はなにひとついふことをきかず勝手気儘にしてたのでよつぽどもてあましてるらしかつたが、やつぱり可愛がつてるのだとこちらひとりできめてゐた。

みんなの行儀が悪いために、いつものかんしゃくが起こって先生の顔が火の玉みたいになると、生徒たちは縮みあがって静かになってしまう。

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みんなの行儀がわるいためにれいの癇癪がおこつて先生の顔が火の玉みたいになると生徒たちは縮みあがつて鳴りをしづめてしまふ。

そんな時でも、わたしは平気な顔で笑いながら見ているものだから、ある日、先生は見まわりに来た校長先生に、わたしのことを「神経がなくて困る」とこぼした。

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そんな時でも私は平気の平左で笑ひながら見てるものである日先生は見まはりにきた校長さんに私のことを 無神経でしやうがない といつてこぼした。

校長先生はそばに来て、自分のうわさをおもしろそうに聞いているわたしに

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校長さんは傍へきて自分の噂を面白さうにきいてる私に

「先生がこわくないか」

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「先生が怖くないか」

と聞いた。

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ときいた。

「いいえ、ちっとも」

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「いいえ、ちつとも」

わたしは答えた。

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私は答へた。

「なぜこわくない」

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「なぜ怖くない」

「先生だって、やっぱり人間だと思うから」

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「先生だつてやつぱり人間だと思ふから」

二人は顔を見合わせて苦笑いしたきり、何も言わなかった。

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二人は顔を見合せて苦笑ひしたきりなんともいはなかつた。

わたしはそのころから、ものものしい大人の見た目の下にかくれている、こっけいな子どもの一面を見ぬくようになっていたので、ふつうの子どもがもつような、大人に対する特別な敬意は、とても持てなかったのである。

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私はその頃から鹿爪らしい大人の殻をとほして中にかくれてる滑稽な子供を見るやうになつてたので一般の子供がもつてるやうな大人といふものに対する特別な敬意は到底もち得なかつたのである。

そうこうするうちに、日清戦争がはじまった。

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さうかうするうちに日清戦争がはじまつた。

わたしはかなり重いはしかにかかって、幾日か学校を休んだのち、やっとのことで出席したら、意外にも担任の先生が変わっていた。

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私はかなり重い麻疹はしかにかかつて幾日か学校を休んだのちやつとのことで出席したら意外にも受持ちの先生がかはつてゐた。

中沢先生は、戦争に召集されたのだという。

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中沢先生は召集されたのだといふ。

よく軍艦の話をして聞かせてくれたが、もとは海軍の士官で、病気のために予備役になっていたのだそうだ。

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よく軍艦の話をしてきかせたがもとは海軍士官で、病気のために予備になつてたのださうだ。

あの不思議な西遊記の話をしてくれた先生、絵筆をべろべろとなめて、きれいな絵をかいた先生、しゅろのむちで頭をたたくこと以外は何もかも気に入っていた先生には、もう会うこともできない。

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あの不思議な西遊記の話をしてくれた先生、絵筆をべろべろ甜めて綺麗な絵をかいた先生、棕櫚の鞭で頭をたたくことのほかはなにもかも気に入つてた先生はもう顔を見ることもできない。

そう思うと胸がいっぱいになって、休み時間にみんなを呼び集め、先生がいとまごいに来たときの様子だけでも、せめてくわしく聞こうとしたが、彼らはただもう、その日その日の遊びに気をとられていて、別れてからまだ半月もたっていないのに、そんなことはとうに忘れて、けろりとした顔ですわっている。

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さう思へば胸一杯になつて放課時間にみんなを呼び集めて先生が暇乞ひにきた時の様子をなりとせめて委しくきかうとしたが、彼らはただもうその日その日の遊びに気をとられて別れてからまだ半月とはたたないのにそんなことはとうに忘れてしまつてけろりと坐つてゐる。

そうして、せっかくの遊びを邪魔されたのが不満らしく、ほおをふくらませてもじもじしていたが、やがてひとりが、ようやく思い出したように

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さうして折角の遊びを邪魔されたのが不平らしく面をふくらせてもぢもぢしてたがやがてひとりがやうやく思ひだしたやうに

「獅子の毛のついた外とうを着ていた」

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「獅子の毛のついた外套をきてゐた」

と言った。

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といつた。

すると、ほかの子たちも口々に

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と、ほかの者もてんでに

「獅子の毛だ」

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「獅子の毛だ」

「獅子の毛だ」

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「獅子の毛だ」

と言う。

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といふ。

ばか者たちは、はじめて見た獅子の毛――それもたぶん人ちがいなのだろうが――に見とれて、何ひとつ覚えていない。

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ばか者たちははじめて見た獅子の毛――それもたぶん間違ひなのだらうが――に見とれてなにひとつおぼえてゐはしない。

そんなふうに根ほり葉ほりたずねるわたしをさんざんじらしたあげく、ひとりが

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そんなにして根ほり葉ほり尋ねる私をさんざじらしたあげくひとりが

「先生は戦争に出るのだから、もう二度と会えないかもしれないが、皆は今度の先生の言うことをよく聞いて、勉強してえらい人にならなければいけない」

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「先生は戦争にでるのだからもう二度とあへないかもしれないが皆は今度の先生のいふことをよくきいて勉強して偉い人にならなければいけない」

と言ったというのを聞き、急にはらはらと涙をこぼしたので、みんなはあっけにとられてわたしの顔を見つめ、中には目くばせしあってばかにしたように笑う子もいた。

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といつたといふのをきき急にはらはらと涙をこぼしたものでみんなはあつけにとられて私の顔を見つめ、なかには目ひき袖ひき軽蔑の笑ひをもらす者もあつた。

彼らはまだこのように泣くことを知らないので、「男は三年に一遍泣くものだ」と言った先生の教えを、破ってはならないものだと思っているのだった。

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彼らはまだこのやうに泣くことを知らないゆゑに 男は三年に一遍泣くものだ といつた先生のをしへを破つてはならぬものと思つてるのであつた。

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わたしにとってさらに不運だったのは、新しく来た丑田先生とさっぱり気が合わないことだった。

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私にとつて更に不仕合せなのは新任の丑田先生とさつぱり気のあはないことであつた。

この人は柔術ができるというので、生徒にもおそれられ、自分でも得意になって、相手もなしにひっくり返ってみせたりしたが、いつか図画の試験で、わたしのかいたひょうたんを「先生よりうまい」と言って三重丸をつけてくれたほかには、何ひとつ感心するところがなかった。

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この人は柔術ができるといふので生徒にも恐れられ、自分でも得意になつて相手もなしにひつくり返つてみせたりしたが、いつぞや図画の試験に私のかいた瓢箪を 先生よりうまい といつて三重丸をつけてくれたほかになにひとつ感心するところがない。

こちらが向こうをきらいなように、たぶん向こうもこちらをきらっていたのだろう。

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こちらがさきを嫌ひであるとほりたぶんさきもこちらを嫌つてたのであらう。

いつのまにか、お互いに敵同士みたいな具合になってしまった。

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いつとはなしにお互に敵同士みたいな具合になつてしまつた。

それはそうと、戦争がはじまって以来、みんなの話は、朝から晩まで「大和魂」と「中国の人」でもちきりだった。

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それはそうと戦争が始まつて以来仲間の話は朝から晩まで大和魂とちやんちやん坊主でもちきつてゐる。

それに先生までがいっしょになって、まるで犬でもけしかけるように、何かといえば「大和魂」と「中国の人」をくりかえす。

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それに先生までがいつしよになつてまるで犬でもけしかけるやうになんぞといへば大和魂とちやんちやん坊主をくりかへす。

わたしはそれを、心から苦々しく、不愉快なことに思った。

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私はそれを心から苦苦にがにがしく不愉快なことに思つた。

先生は、予譲(よじょう)や比干(ひかん)という中国の故事の人物の話はまるでせずに、ひっきりなしに元寇と朝鮮への出兵の話ばかりする。

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先生は予譲よじやう比干ひかんの話はおくびにも出さないでのべつ幕なしに元寇と朝鮮征伐の話ばかりする。

そうして、唱歌といえば、そっけない戦争の歌ばかり歌わせて、おもしろくもない体操みたいなおどりをやらせる。

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さうして唱歌といへば殺風景な戦争ものばかり歌はせて面白くもない体操みたいな踊りをやらせる。

それをまたみんなはむきになって、目の前に憎い相手の中国の人が押し寄せてきたかのように、肩をいからせひじを張って、雪駄の皮が破れるほどやけに足踏みをしながら、もうもうと舞いあがるほこりの中で、節も調子もおかまいなしに怒鳴りたてる。

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それをまたみんなはむきになつて眼のまへに不倶戴天のちやんちやん坊主が押寄せてきたかのやうに肩をいからし肘を張つて雪駄の皮の破れるほどやけに足踏みをしながらむんむと舞ひあがる埃のなかで節も調子もおかまひなしに怒鳴りたてる。

わたしは、こういう連中と張り合うのを恥だと思うような気持ちで、わざと彼らより一段高く、調子をはずして歌った。

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私はこんな手合ひとよはひするのを恥とするやうな気もちでわざと彼らよりは一段高く調子をはづして歌つた。

また、ただでさえ狭い運動場は、加藤清正や北条時宗のまねをする子たちでいっぱいで、弱虫はみんな中国の人の役にされて、首を切られている。

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また唯さへ狭い運動場は加藤清正や北条時宗で鼻をつく始末で、弱虫はみんなちやんちやん坊主にされて首を斬られてゐる。

町を歩けば、絵草紙屋の店という店には、千代紙やあね様人形などは影をひそめて、いたるところ、鉄砲玉のはじけた汚らしい絵ばかりかかっている。

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町をあるけば絵草紙屋の店といふ店には千代紙やあね様づくしなどは影をかくして到るところ鉄砲玉のはじけた汚らしい絵ばかりかかつてゐる。

目にも耳にも入ってくるものすべてが、わたしを腹立たしくさせる。

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耳目にふれるところのものなにもかも私を腹立たしくする。

あるとき、また大勢がひとところにかたまって、聞きかじりのうわさを種に、すさまじい戦争の話に花を咲かせたときに、わたしは彼らと反対の意見を述べて、「結局、日本は中国に負けるだろう」と言った。

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ある時また大勢がひとつところにかたまつてききかじりの噂を種にすさまじい戦争談に花を咲かせたときに私は彼らと反対の意見を述べて 結局日本は支那に負けるだらう といつた。

この思いがけない大胆な予言に、彼らはしばらくは顔を見合わせるばかりだったが、やがてその、ばかばかしくも大まじめな敵がい心は、もう組長の権威さえ無視するほど高まって、ひとりの子は大げさに

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この思ひがけない大胆な予言に彼らは暫くは目を見合はすばかりであつたが、やがてその笑止ながら殊勝な敵愾心てきがいしんはもはや組長の権威をも無視するまでにたかぶつてひとりの奴は仰山に

「あらあら、わりいな、わりいな」

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「あらあら、わりいな、わりいな」

と言った。

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といつた。

もうひとりは、げんこつでちょっと鼻の先をこすってみせた。

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他のひとりは拳固でちよいと鼻のさきをこすつてみせた。

もうひとりは先生のまねをして

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もうひとりは先生のまねをして

「おあいにくさま、日本人には大和魂があります」

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「おあいにくさま、日本人には大和魂があります」

と言う。

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といふ。

わたしは、それ以上の反感と確信をもって、彼らの攻撃をひとりで引き受けながら

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私はより以上の反感と確信をもつて彼らの攻撃をひとりでひきうけながら

「きっと負ける、きっと負ける」

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「きつと負ける、きつと負ける」

と言いきった。

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といひきつた。

そして、わいわい騒ぎたてる真ん中にすわり、あらゆる知恵をしぼって、相手の根拠のない議論を打ち破った。

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そしてわいわい騒ぎたてるまんなかに坐りあらゆる智慧をしぼつて相手の根拠のない議論を打ち破つた。

仲間の多くは、新聞のつまみ読みもしていない。

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仲間の多くは新聞の拾ひ読みもしてゐない。

世界地図ものぞいてはいない。

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万国地図ものぞいてはゐない。

史記や十八史略(中国の歴史の本)の話も聞いてはいない。

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史記や十八史略の話もきいてはゐない。

そのため、とうとうわたしひとりに言い負かされて、しぶしぶ口をつぐんだ。

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それがためにたうとう私ひとりにいひまくられて不承不承に口をつぐんだ。

けれど、腹立ちはなかなかそれだけではおさまらず、彼らは次の授業で、さっそく先生に言いつけて

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が、鬱憤はなかなかそれなりにはをさまらず、彼らは次の時間に早速先生にいつけて

「先生、□□さんは日本が負けるって言います」

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「先生、□□さんは日本が負けるつていひます」

と言った。

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といつた。

先生は、いつものしたり顔で

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先生はれいのしたり顔で

「日本人には大和魂がある」

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「日本人には大和魂がある」

と言って、いつものとおり中国の人のことを何のかのと口ぎたなくののしった。

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といつていつものとほり支那人のことをなんのかのと口ぎたなく罵つた。

それを、わたしは自分が言われたように腹に据えかねて

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それを私は自分がいはれたやうに腹にすゑかねて

「先生、日本人に大和魂があれば、中国の人には中国の魂があるでしょう。日本に加藤清正や北条時宗がいれば、中国にだって関羽や張飛がいるじゃありませんか。それに先生はいつか、上杉謙信が武田信玄に塩を贈った話をして、敵をあわれむのが武士道だなんて教えておきながら、なんだってそんなに中国の人の悪口ばかり言うんです」

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「先生、日本人に大和魂があれば支那人には支那魂があるでせう。日本に加藤清正や北条時宗がゐれば支那にだつて関羽や張飛がゐるぢやありませんか。それに先生はいつかも謙信が信玄に塩を贈つた話をして敵を憐むのが武士道だなんて教へておきながらなんだつてそんなに支那人の悪口ばかしいふんです」

そんなことを言って、ふだんのむしゃくしゃした気持ちをひと思いにぶちまけてやったら、先生はむずかしい顔をしていたが、しばらくして

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そんなことをいつて平生のむしやくしやをひと思ひにぶちまけてやつたら先生はむづかしい顔をしてたがややあつて

「□□さんは大和魂がない」

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「□□さんは大和魂がない」

と言った。

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といつた。

わたしは、こめかみにぴりぴりとかんしゃくの筋が立つのを感じたが、その大和魂を取り出して見せることもできないので、そのまま顔を赤くしてだまってしまった。

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私はこめかみにぴりぴりと癇癪筋のたつのをおぼえたがその大和魂をとりだしてみせることもできないのでそのまま顔を赤くして黙つてしまつた。

忠義で勇ましい日本の兵隊は、中国の兵隊とわたしの小賢しい予言をさんざんに打ち破ったけれど、先生に対するわたしの不信感と、同級生に対する軽蔑は、どうすることもできなかった。

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忠勇無双の日本兵は支那兵と私の小ざかしい予言をさんざんに打ち破つたけれど先生に対する私の不信用と同輩に対する軽蔑をどうすることもできなかつた。

それやこれやで、みんなといっしょになっているのがばからしいという気持ちになり、いつのまにかこちらから遠ざかって、いつもはたからそのばか騒ぎをあざけるように見るようになった。

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それやこれやでみんなといつしよになつてるのがばからしいといふ気になり、いつとはなしにこちらから遠ざかつて、いつもはたからそのばか騒ぎを嘲笑的に見てるやうになつた。

ある日のこと、ひとり廊下に立って、幾年となく元気な子たちの手にすられててらてらになった手すりにひじをかけ、藤棚の下でとびまわる彼らのようすを眺めて笑っていたとき、後ろを通りかかったひとりの先生が不意に呼びかけて

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ある日のことひとり廊下に立つて幾年となく腕白どもの手にすられててらてらになつた手すりに肱をかけ、藤棚のしたにとびまはる彼らのしわざを眺めて笑つてたとき後ろを通りかかつたひとりの先生が不意に呼びかけて

「何を笑ってる」

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「なにを笑つてる」

と言った。

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といつた。

わたしは

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私は

「子どもたちの遊ぶのが、おかしいんです」

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「子供たちの遊ぶのがをかしい」

と答えた。

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と答へた。

先生はふきだして

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先生はふきだして

「□□さんは子どもじゃないか」

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「□□さんは子供ぢやないか」

と言うのを、まじめに

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といふのをまじめで

「子どもは子どもでも、あんなばかじゃない」

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「子供は子供でもあんなばかぢやない」

と言ったら

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といつたら

「困るねえ」

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「困るねえ」

と言って、教員室に入ってほかの人たちに話していた。

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といつて教員室へはひつてほかの人たちに話してゐた。

わたしは、たぶん先生たちに困られていたのである。

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私はたぶん先生たちに困られてたのである。

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同級生はどれもこれも、しょうのないやつだとばかにしきっていたにもかかわらず、その仲間の中心ともいうべき蟹本さんには、心からませた同情を寄せていた。

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同級の生徒はどれもこれもしやうのない三太郎としてばかにしきつてたにもかかはらずその三太郎の隊長ともいふべき蟹本さんには心からませた同情をよせてゐた。

彼はほとんど知恵の発達がおそい子で、背たけから見れば、もう十六、七でもあっただろうか。

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彼はほとんど白痴の子で、背たけからみればもう十六七でもあつたらうか。

何でも同じ組に二、三年ぐらいいて、しだいに上へ押しあげられるうちに、そのとき後からあがっていったわたしたちと、ちょうどいっしょになったのである。

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なんでも同じ級に二三年ぐらゐゐては次第に上へ押しあげられるうちそのとき後からあがつていつた私たちとちやうどいつしよになつたのである。

もとより自分の年もわからないし、あどけない性格のせいでまだほんの子どもっぽい顔をしているので、彼がいくつになるのかはだれも知らなかった。

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もとより自分のとしもしらないし、ばかの癖でまだほんのたわいのない顔をしてるので彼がいくつになるのかは誰も知らなかつた。

彼は、ふっくらした丸顔のほおについた、そら豆くらいの大きさのほくろを目印に、学校じゅうの人気者になっていたが、人がおもしろ半分に

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彼はふくぶくしい丸顔の頬についたそら豆大のほくろを看板に学校ぢゆうの愛嬌者になつてたが、ひとが面白半分に

「蟹本さん、ほっぺたに墨がついてるよ」

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「蟹本さん、頬ぺたに墨がついてるよ」

と言うと、「ふ、ふ、ふ」と笑って

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といふと ふ、ふ、ふ と笑つて

「すーみーじゃーなーいーんーだ。ほーくーろーなーんーだ」

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「すーみーぢやーなーいーんーだ。ほーくーろーなーんーだ」

と、のんびり言う。

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とおほやうにいふ。

彼は、体とつりあわない小さなそろばんの、珠がひとつもないのを斜めにかけ、気の向いたときにぶらりとやってきて、いやになれば授業中でも何でもおかまいなしに、さっさと帰ってしまう。

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彼は体とつりあはない小さなそろばんの珠のひとつもないのをはすつかひにかけ気の向いたときにぶらりとやつてきて、いやになればお稽古ちゆうもなにもおかまひなしにさつさと帰つてしまふ。

とかく、自分より劣った者ばかりをかわいがるという人間全般のいやしい自分本位な同情のもとで、この世に蟹本さんくらい自由な立場のものはなかった。

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とかく己と段ちがひの劣弱者のみを愛憐するといふ人間一般のさもしい利己的な同情のもとにあつて天下に蟹本さんぐらゐ自由の天地をもつてるものはなかつた。

それでも、生きているだけあって、機嫌のいい日と悪い日があり、悪い日にはたいてい顔を見せないが、たまに出てきても、にこりともせずに机にうつむいている。

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それでも生きてるかひには機嫌のいい日と悪い日があり、悪い日には大抵顔を見せないが、たまさか出てきてもにこりともしずに机にうつむいてゐる。

そのうち、何を考えだすのか、急においおいと泣き出して、思う存分泣きつくすまではどうしても泣きやまない。

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そのうちなにを考へだすのか急においおい泣きだして、思ふ存分泣きつくすまではどうしても泣きやまない。

そうして、その不幸な暗い胸に人知れずわいてたまった悲しみを、遠慮のない大声で泣きつくしてしまうと、いつものそろばんを肩にかけて、けろりとして帰っていく。

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さうしてその不幸な暗黒の胸に人しれず湧いて溜つた悲しみを遠慮のない大声に泣き涸らしてしまへばれいのそろばんを肩にかけてけろりとして帰つてゆく。

そんな日には、どうかして声をかける者があっても、いつものような気のよさそうな笑顔もせず、「ひぎゃあ」とオウムみたいな声を出して相手を追いはらうのがふつうだった。

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そんな日にはどうかして言葉をかける者があつても不仕合せな一徳の気のよささうな笑ひ顔もせず ひぎやあ と鸚鵡みたいな声を出して相手を追ひはらふのが常であつた。

けれど、たまたま機嫌のいいときには、頼みもしないのに

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併しどうかして御機嫌の麗しいときには頼みもしないのに

「あたいが馬になってやろう」

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「あたいが馬になつてやらう」

などということもあったが、馬としては背は高く、力はあり、ぶくぶく太っていて乗り心地のいい名馬だったけれど、気が向かなくなると、大将同士の組み討ちの最中でも何でも棒立ちになってしまう、手のつけられない暴れ馬でもあった。

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なんといふこともあつたが、馬としては背は高し、力はあり、ぶくぶく太つて乗り心地のいい名馬だつたけれど、気がむかなくなると大将同士の組み討ちの最中でもなんでも棒立ちになつてしまふ手のつけられない悍馬でもあつた。

彼の底知れない沈黙、その沈黙の底からあふれ出す涙。わたしは、どうにかしてその正体をつかもうと思い立って、それからはみんなに笑われるのもかまわず、努めて彼に近づくようにした。

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彼の奥底のしれぬ沈黙、その沈黙の底から溢れだす涙、私はどうかしてその正体をつかまへようといふことを思ひたつて、それからはみんなの笑ふのもかまはず努めて彼に近づくやうにした。

わたしは、彼の機嫌のいいときを見はからって「おはよう」とか「さようなら」とかいう短いあいさつをしてみたが、向こうは王様が家来に対するほどのおじぎさえ返さない。

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私は彼の機嫌のいい折をみては おはやう とか さやうなら とかいふ短い挨拶の言葉をかけてみたが、さきは帝王が臣下に対するほどの会釈もかへさない。

それでもかまわずあきずに続けているうちに、ある日、彼はぴったりくっついている席をはなれて、ひょこひょことそばに来て、いつもの舌ったらずな声で

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それでもかまはずまずたゆまずつづけるうちある日彼は虱のやうにへばりついてる席をはなれひよこひよことそばへきてれいの舌たらずみたいに

「□□さーんーはーいーいーひーとーだ」

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「□□さーんーはーいーいーひーとーだ」

と言うなり、「ふ、ふ、ふ」と笑って行ってしまった。

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といふなり ふ、ふ、ふ と笑つていつてしまつた。

わたしには、そのひと言が飛びあがるほどうれしかった。

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私にはそのひと言が飛びたつほど嬉しかつた。

彼の言うことには、少しもうそはない。

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彼のいふことには微塵も嘘はない。

すでにそのころ、人の言葉にはうそがあることをあまりにも多く知りすぎていたわたしには、そのたわいもない気まぐれなひと言が、しみじみと身にしみた。「きっと友だちになれるだろう。そうしてこの気の毒な人をなぐさめてやることができるだろう」と、もうその暗い心の扉のかぎが手に入ったかのように喜んだ。

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すでにそのじぶん人の言葉には嘘のあることをあまりに多く知りすぎてた私にはたわいもない気まぐれなそのひと言がしみじみと身にしみて、きつと友達になれるだらう、さうしてこの気の毒な人を慰めてやることができるだらう と、もうその暗黒の扉の鍵が手に入つたかのやうに喜んだ。

それで、わたしは「今日こそ」と思って隣の席に行き、何かと話しかけてみたが、にやにや笑うばかりでさっぱりらちがあかない。

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で、私は 今日こそ と思つて隣の席へいつてなにかと話しかけてみたがにやにや笑ふばかりでさつぱり埒があかない。

そのうち、彼はだまりこんで机にうつむいてしまった。

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そのうち彼は黙りこんで机にうつむいてしまつた。

すると、やがて奥の手を出して、「ひぎゃあ」と、見事な一喝をくらわせた。

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と、やがてのことに奥の手をだして ひぎやあ と見事な一喝をくはした。

日ごろの苦労も、オウムのひと声でまんまと水の泡になった。

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日ごろの苦心も鸚鵡のひと声にまんまと水の泡になつた。

蟹本さんは、わたしのように望ましい仲間がいないためにやむをえずひとりでいるのではなく、はじめからほんとうに何もいらない人だったのである。

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蟹本さんは私のやうに望ましい連れがないゆゑに余儀なくひとりでゐるのではなくてはじめからほんとになんにもいらない人なのであつた。

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兄は、その年ごろのだれもが一度はもつような、自分を大きく見せたい気持ちのまじった好奇心まじりの親切心から――生まれつき、わたしとはまったくちがった性格に育って、道の分かれてゆくはずの人間だったわたしを、まことに行き届いた厳しい教育の力によって、いやおうなしに自分のほうへねじ曲げようと骨を折った。

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兄はその年ごろの者が誰しも一度はもつことのある自己拡張の臭味をしたたかに帯びた好奇的親切……から生れつき自分とはまつたくちがつた風に形づくられて西と東に別れゆくべき人間であつた私をまことに行きとどいた厳しい教育の力によつて否応なしに自分のはうへ捩ぢむけようと骨を折つた。

それで、自分でも「変わってる」と言われるほど釣りが好きなものだから、日に日に悪い方向へ落ちていくあわれな弟を救いあげるには――自分のようにするには――何でも釣りを仕込むにかぎると思いついたのか、学校の休みとさえいえば、とかく尻込みがちなわたしを無理やりに引っぱりだして、ただもう機嫌を損じるのがつらくて、しかたなくついていくわたしに釣り道具をかつがせ、兄の考えでは理想的な釣り堀、わたしから言えば特別いやな釣り堀のたくさんある本所まで、てくてくと歩いていく。

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で、自分が気ちがひといはれるほど釣りがすきだもので、日に月に邪道に堕ちてゆくあはれな弟を救ひあげるには――自分のやうにするには――なんでも釣りをしこむにかぎると思ひついたものか、学校の休みとさへいへばとかく尻込みがちな私を無理やりにひつぱりだしてただもうその機嫌を損じるのがつらさにまた……せうことなしについてゆく私に釣道具をかつがせ、兄の説によれば理想的の釣り堀、私からいへば特別いやな釣り堀の沢山ある本所までてくてくと歩いてゆく。

わたしは、道すがら「帽子が曲がってる」だの「首がまがってる」だの、出店の提灯に見とれていたの、手のふりかたが左右そろっていないのと、頭のてっぺんから足の先まで小言をくいながら、気疲れと遠回りとでへとへとに疲れたあげく、やっと釣り堀の旗ざおの下をくぐって、ほっとすると、間もなくじめじめした堀のふちにすわらされ、「ああ、またここで一日か」と思うと、力がぬけてうんざりしてしまう。

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私はみちみち帽子が曲つたの、首がこごんだの、売出しの提灯にみとれたの、手のふりやうが等分でないのと頭のてつぺんから足の先まで小言をくひながら気ぼねと遠みちとでへとへとに疲れたあげくやつと釣り堀の旗竿のしたをくぐつてほつとすると間もなくじめついた堀のふちに坐らされ ああまたここで一日か と思ふと性も骨もぬけてうんざりしてしまふ。

どろどろしたいやなにおいの堀に打ちこんだくいには、青い苔がいっぱい盛りあがっている。

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どろどろしたわる臭い堀に打ちこんだ杭には青苔がいつぱいもりあがつてゐる。

赤さびの浮いたすみの水たまりには、水蟷螂(みずかまきり・水辺にすむ虫)があめんぼをつかまえたり、田亀(たがめ・水辺にすむ虫)がひょいひょいともぐったりしている。

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赤錆の浮いた隅つこのをどみには水蟷螂みづかまきりがあめんぼをとつたり、田亀たがめがひよくひよくもぐつたりしてゐる。

そんなものを見ただけでも気分が悪いのに、近所の工場で鉄板をたたく音が「どんがんどんがん」とひっきりなしに響いて、頭も割れそうに痛くなってくる。

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そんなものをみたばかりでも胸がわるいのを近処の工場で鉄板をたたく音がどんがんどんがんひつきりなしに響いて頭もわれさうに頭痛がしてくる。

兄は、わたしがみみずの切り方がうまくなって感心だなどと言うが、そんなことうれしくもない。

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兄は私が蚯蚓のきりかたがうまくなつて感心だなぞといふけれどそんなこと嬉しくもない。

わたしは、あてがわれた一本のさおをもてあまして、それでも表向きだけは油断なく浮きを見つめるふりをしながら「自分はなぜ釣りが好きにならなければいけないのだろう」などと、あれこれつまらないことばかり考えていると、ふだん近眼で困っているはずの兄は、釣り堀に来ると急に目がよくなるらしく、自分は五本も七本もさおをならべながら

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私はあてがはれた一本の竿をもてあまして、それでもうはべだけは油断なく泛子うきをみつめるふりをしながら 自分はなぜ釣りが好きにならなければならないのかしら なぞとそれからそれと面白くないことばかり考へてると、平生近眼で弱つてるはずの兄には釣り堀へくれば急に性のいい眼玉がいくつもできて自分は五本も七本も竿をならべながら

「そら、引いてるじゃないか」

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「そら、ひいてるぢやないか」

などと、いつのまにか人の浮きまでにらんでいる。

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などといつのまにかひとの泛子まで睨んでゐる。

釣りあげると、また、しゃくり方が下手だの、針のはずし方がまずいのと文句を言われるので、「早く逃げてくれればいいのに」と思って、のろのろとぶしょうなあげ方をする。

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釣りあげるとまたしやくひかたが下手だの、針のはづしかたがまづいのとけんつくをくふので はやく逃げてくれればいいに と思つてずるずるとぶしやうなあげやうをする。

すると、泥だらけの黄色いおなかが見えたりするのを「きたない鯉だな」と思って眺めていると、兄がかんしゃくを起こして玉をなげつける。

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と、泥だらけの黄色い腹がみえたりするのを 汚い鯉だな とおもつて眺めてると兄が癇癪をおこしてたまをはふりつける。

そのころには、魚はたいてい針をはずして逃げてしまう。

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そのじぶんには魚はたいてい針をはづして逃げてしまふ。

そんなふうに、やっとのことで一日の苦行をすませて、さて帰るとなると、こんどは生臭いびく(魚かご)がまた重荷になる。

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そんなにしてやつとこさと一日の苦行をすませてさて帰る段となれば今度は生臭いびくがまた重荷となる。

そうして、これも教育のためだといって、わたしのいやがる道――古道具屋や倉庫や荷車や溝などのある道、電線が風に鳴る道、屋台のならんだ道――をわざわざ回り道して歩く。

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さうしてこれも教育のためとあつて私のいやがる路――古道具屋や倉庫や荷車や溝などのある路、電線の風に鳴る路、屋台店のならんだ路――をわざわざ廻り道してあるく。

叱られ叱られして疲れきった足で、後から小走りしていくのだが、遠い道をわざわざ遠くして歩くので、まだ家の近くにならないうちに日が暮れてしまう。

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叱られ叱られして疲れきつた足に後から小走りしてゆくのだが、遠い路を遠くして歩くのでまだ家近くならないうちに日がくれてしまふ。

そのときの不愉快と不満のうちに、夕方の空にひとつふたつと輝きはじめる星、それは伯母さんが「神様や仏様がいるところだ」と教えてくれたその星を心の支えになつかしく見とれていると、兄はわたしがおくれるのに腹を立てて

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そのときの不愉快と不平……のうちに夕べの空にひとつふたつ耀きはじめる星、それは伯母さんが神様や仏様がゐるところだと教へたその星を力に懐しくみとれてゐれば兄は私のおくれるのに腹をたてて

「何をぐずぐずしてる」

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「なにをぐづぐづしてる」

と言う。

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といふ。

はっと気がついて

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はつと気がついて

「お星様を見てたんです」

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「お星様をみてたんです」

と言うのを聞きもせず

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といふのをききもせず

「ばか。星って言え」

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「ばか。星つていへ」

と怒鳴りつける。

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と怒鳴りつける。

あわれな人よ。

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あはれな人よ。

何かの縁があって地獄の道づれとなったこの人を「兄さん」と呼ぶように、子どものあこがれが空をめぐる冷たい石を「お星さん」と呼ぶのが、そんなに悪いことだったのだろうか。

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なにかの縁あつて地獄の道づれとなつたこの人を 兄さん と呼ぶやうに、子供の憧憬が空をめぐる冷たい石を お星さん と呼ぶのがそんなに悪いことであつたらうか。

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あるとき、これも教育という名目のもとに、ある海岸へ連れていかれたことがあった。

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ある時これも教育といふ名義のもとにある海岸へつれてゆかれたことがあつた。

兄は、わたしのめずらしくいい返事を、あの楽しかったいつかの旅行の思い出と、先に行って待っているわたしの好きなお友だち――兄の――のためだとは知らずに、出発の前の晩には上機嫌で毘沙門様の縁日へ連れていって、「小国民」(当時の子ども向け雑誌)

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兄は私のいつにないいい返事をあの楽しかつたいつぞやの旅行の記憶と、先に行つて待つてる私の好きなお友達――兄の――のためとはしらずたつ前の晩には上機嫌で毘沙門様の縁日へつれていつて「小国民」

を一冊買ってくれた。

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を一冊買つてくれた。

あくる朝は、いつになく親切な兄に連れられて、「このぶんならまあよかった」と思いながら「小国民」

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あくる朝はいつになく親切な兄につれられて このぶんならまあよかつた と思ひながら「小国民」

を荷物にして家を出た。

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を荷物に家をでた。

ちょうど棚機様(たなばたさま・七夕)の日で、あちこちの百姓家には五色の短冊をつけた笹が立って、わら屋根にはツユクサが涼しそうに咲いている。

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ちやうど棚機様たなばたさまの日で、はうばうの百姓家には五色の短冊をつけた笹がたつて藁屋根に蛍草が涼しく咲いてゐる。

わたしはめずらしくて、それらのものに見とれながら「なぜ町ではそうしないのだろう」と言って、まず最初のしかりつけをくらった。

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私はもの珍しくそれらのものに見とれながら なぜ町ではさうしないのだらう といつてまづ最初の一喝をくつた。

青田や空や海や白い帆に気をとられて、言いたいこと聞きたいことはいくらでもあるのに、叱られるのがつらくて、自分ひとりであれこれ考えて「やっぱり来ないほうがよかったかしら」などと思っていると、こんどは「だまっている」と言われて、また新たにしかられる。

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青田や空や海や白帆に気を浮かされていひたいことききたいことはいくらもあるのを叱られるのがつらさに自分ひとりでああかう考へて やつぱし来ないはうがよかつたかしら なぞと思つてると今度は黙つてるといつてまた新規に一喝をくふ。

兄はなぜこう、わけもなく腹を立てるのだろうと思ったら、わたしが「どうして汽車が動くのか」を質問しないので、機嫌が悪かったのだった。

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兄はなぜかう訳もなく腹をたてるのかと思つたら私が どうして汽車が動くか を質問しないために機嫌が悪いのであつた。

わたしたちがついたのは、陰気なしば垣をめぐらせて、ところどころに貝がらが捨ててあったりする漁村の中の一軒のわら屋で、待ちかねて二人をむかえたお友だちのほかに、まっ黒に日焼けした年寄り夫婦と、同じ色の娘が住んでいた。

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私たちのついたのは陰気な柴垣をめぐらしてところどころに貝殻がすててあつたりする漁村のなかの一軒の藁屋で、待ちかねて二人を迎へたお友達のほかにまつ黒な年寄夫婦と、おなじ色の娘が住んでゐた。

ちょうど昼ごはんの時刻だったので、黒猫みたいな親子が、三人の前へよごれたお膳を二つ持ってきたが、それはその家の者が使う食器なので、わたしたちが食事をすますまでは家の者は食べることができないから早くしなければいけないと言われ、気が気でなく、半分食べてはしを置いた。

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ちやうど昼飯の時刻だつたので黒猫みたいな親子が三人のまへへ汚い膳をふたつつもつてきたが、それはそこの家の者の使ふ食器なので、私たちが食事をすますまでは家の者はたべることができないのだからはやくしなければいけない といはれ気が気でなく半分たべて箸をおいた。

家がせまいために、兄とわたしだけは四キロほどはなれた岬のほうへ移ることに話が決まり、散歩がてら送ってくれるお友だちと兄とは後から追いつくというので、わたしひとりが、がたがたの田舎の人力車に乗せられて先に出かけた。

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家が狭いために兄と私だけは一里ばかりはなれた岬のはうへうつることに話がきまり、散歩かたがた送つてくれるお友達と兄とは後から追ひつくといふので私ひとりがたがたの田舎俥にのせられて先に出かけた。

車引きのおじいさんは、ぶくぶく太った実直そうな男なので、少しもいやではなかったが、いつもの陰気なしば垣のあいだをぐるぐる回っているうちに、いつのまにかさびしさがこみあげてたまらなくなってきた。

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俥ひきの親仁はぶくぶくふとつた実直らしい男なのでちつともいやではなかつたが、れいの陰気な柴垣のあひだをぐるぐるまはつてるうちいつとはなしに寂しさがこみあげてたまらなくなつてきた。

一生けんめい気をまぎらそうとしても、家の杉の垣根だの、茶の間の様子だの、そんなものばかり目に浮かんできて、「今夜もあすの晩も帰れないのだ」などと思うと、われしらず泣き顔になって、涙がぽとりとひざかけの上に落ちるのを、そのあたりで遊んでいる漁師の子たちが見つけて

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一所懸命まぎらさうとしても家の杉垣だの、茶の間の様子だの、そんなものばかり目に浮んできて、今夜も明日の晩も帰れないのだ などと思へばわれしらず泣き顔になつて涙がぽとりと膝かけのうへにおちるのをそこいらに遊んでる漁師の子たちがみつけて

「やーい。泣いとるがい、泣いとるがい」

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「やーい。泣いとるがい、泣いとるがい」

とめいめいに笑う。

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とてんでに笑ふ。

おじいさんは、ふりかえりふりかえり、なぐさめるように何か言うのだが、言葉がちがってさっぱりわからない。

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親仁はふりかへりふりかへり慰め顔になにかいふのだが言葉が違つてさつぱりわからない。

道ばたの垣根のあいだから美しいベンケイガニが出てきては、車の音におどろいて逃げこむのを、ほしいと思って横目で見ながら行くうちに、海岸に出た。

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路ばたの垣根のあひだから美しい弁慶蟹が出てきては俥の響に驚いて逃げこむのをほしいと思つて横目にみながらゆくうちに海岸へでた。

道は小山にそって波打ちぎわをうねっている。

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路は小山にそうて波うちぎはをうねつてゐる。

今にも潮が満ちて通れなくなりはしないかとはらはらしていると、おじいさんは平気で何か考えごとをしながらぼつぼつと歩いていく。

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今にも潮がみちて通れなくなりはしないかとはらはらしてゐれば親仁は平気でなにか考へ事をしながらぼつぼつ歩いてゆく。

とある切り通しにさしかかったとき、後ろを見たら兄たちの姿が見えた。

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とある切通しへかかつたときに後ろをみたら兄たちの影がみえた。

のどにこみあげる泣きじゃくりをやっとかみころしたところへ、兄は急ぎ足で追いついて、わたしを人力車からおろした。

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喉へつきあげる泣きじやくりをやうやく噛みころしたところへ兄は急ぎ足で追ひついて私を俥からおろした。

岩の多い海岸から、ところどころに魚の背びれのようにぎざぎざした岩礁が沖のほうまで突き出て、行く手をふさがれた波が海坊主の頭みたいに丸く盛りあがっては、さっとくだけてしぶきを飛ばす。

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岩がちの海岸からところどころに魚の背鰭せびれのやうにぎざぎざな岩礁が沖のはうまでつきでて、道を堰かれた波が海坊主の頭みたいに円くもりあがつてはさつと砕けてしぶきを飛ばす。

道がひと曲がりするたびに岸が小さくせまく入りこみ、低い波が時をおいては「ざぶーん、ざぶーん」とうちよせる。

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路がひとうねりするたんびに岸が小さく狭く彎入し低い波が時をおいては ざぶーん、ざぶーん とうちよせる。

それを聞くと、自然に胸がせまって、せっかく泣きやんだ涙がまたこぼれだす。

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それをきくと自然に胸がせまつて折角泣きやんだ涙がまたこぼれだす。

ひとつの波が「ざぶーん」とくだけて、「じーっ」と泡が消えて、「ああよかった」と思うまもなく、次の波が「ざぶーん」とくだける。

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ひとつの波が ざぶーん と砕けて、じーつ と泡がきえて、まあよかつた と思ふまもなくつぎの波が ざぶーん と砕ける。

ひとつの入り江をやっと通りこすと、その次の入り江が「ざぶーん」と鳴る。

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ひとつの湾をやつと通りこすとそのつぎの湾が ざぶーん と鳴る。

おなかもすいて足もつかれてきたのに、岬ははるか向こうに見えて、波の音はいくら行ってもやまない。

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ひもじくなつて足も疲れてきたのに岬ははるかむかふにみえて波の音はいくらいつてもやまない。

「ぽくぽく」とひかれていく五、六頭の雌馬の列に追いついたとき、お友だちはふと、わたしが涙をためているのに気づいて、小声で兄に注意した。

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ぽくぽくとひかれてゆく五六頭の牝馬の列に追ひついたときお友達はふと私が涙をためてるのをみて小声で兄に注意した。

兄は

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兄は

「ほうっとけ、ほうっとけ」

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「はふつとけ はふつとけ」

と言って、さっさと行く。

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といつてさつさとゆく。

お友だちはふりかえりふりかえりしていたが、しまいに立ちどまって「疲れたのか、気分でも悪いのか」と親切にたずねたので、正直に

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お友達はふりかへりふりかへりしてたがしまひに立ちどまつて くたびれたのか、気分でもわるいのか と親切にたづねたので正直に

「波の音が悲しいんです」

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「波の音が悲しいんです」

と言ったら、兄はにらみつけて

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といつたら兄は睨めつけて

「ひとりで帰れ」

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「ひとりで帰れ」

と言って、足を速めた。

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といつて足をはやくした。

お友だちは、わたしの意外な返事に驚きながらも、兄をなだめて

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お友達は私の意外な返事に驚きながらも兄をなだめて

「男はもっと強くならなければいけない」

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「男はもつときつくならなければいけない」

と言った。

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といつた。

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岩の多い岬の根もとに近いところに、一軒だけはなれて立った静かな宿についたときには、もう日が沈みかかって、その日をつつんで燃えたつ雲が、車のように回っていた。

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岩がちの岬の根もとに近いところに一軒だけはなれて立つた静な宿についたときにはもう日が沈みかかつて、その日を包んで燃えたつ雲が車のやうにまはつてゐた。

それがだんだん赤くなり、紫になり、あい色になり、空の色とひとつになって消えていく。

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それがだんだん赤くなり、紫になり、藍色になり、空の色とひとつになつて消えてゆく。

縁側の柱につかまって、岬にくだける波が光を放つのをながめていると、のどのあたりがしぶくなって、涙がとめどもなくほおをつたう。

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縁側の柱につかまつて岬に砕ける波が燐光をはなつのを眺めてると気管のへんがゑぐくなつて涙がとめどもなく頬をつたはる。

それを柱にこすりつけこすりつけしてこらえながら、「早くあすになってくれれば」と、ただそればかり思っている。

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それを柱にこすりつけこすりつけしてこらへながら はやく明日になつてくれれば とただそればかり思つてゐる。

雨もようの風が「ひゅうひゅう」と松を鳴らして、何かがわいてくるように虫が鳴く。

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雨もよひの風がひゆうひゆうと松を鳴らしてなにかの湧いてくるやうに虫がなく。

女中が戸をしめに来たので、しかたなく部屋に入って、泣き顔をかくしかくし「小国民」

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女中が戸をしめにきたのでしかたなしに部屋へはひつて泣き顔をかくしかくし「小国民」

を出して読みはじめた。

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をだして読みはじめた。

口絵には、額を射られた鬼童丸が、片手で牛の皮を持ちあげ、片手に刀を引きつけて、頼光をねらっているところがかいてあった。

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口絵には額を射られた鬼童丸がかた手で牛の皮をもちあげ、かた手に刀をひきつけて頼光をねらつてるところがかいてあつた。

一枚一枚めくっていくうちに「少年太鼓手」という表題が目についたので、そこを読みはじめた。

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一枚一枚めくつてゆくうちに 少年太鼓手 といふ表題が目についてそこを読みはじめた。

挿絵を見ると、主人公の太鼓手はばちをあげて胸にかけた太鼓をうちながら、おくれる味方を横目に見ながら進んでいく。

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挿絵をみると主人公の太鼓手はばちをあげて胸にかけた太鼓をうちながら後れる味方をしりめにかけて進んでゆく。

読んでいるうちに、頭が大きくてのろまで、ふだん人からばかにされてばかりいる太鼓手が、いつのまにか自分になってしまい、涙がぽとぽとと本の上に落ちて、とうとう最後に叱られてしまった。

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読んでるうちに頭が大きくて、ぐづで、平生人からばかにされてばかりゐる太鼓手はいつか自分になつてしまひ、涙がぽとぽと本のうへに落ちてたうとう最後の一喝をくつた。

翌朝、海はすっかり霧にとざされていた。

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翌あさ海はすつかり霧にとざされてゐた。

そうして、その中を漕いでいく櫓の音が、ひどくわたしを喜ばせた。

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さうしてそのなかを漕いでゆく櫓の音がひどく私を喜ばせた。

船は見えずに、音だけが何かの鳥の鳴くように、けものの子が乳を求める声のように聞こえる。

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舟はみえずに音だけがなにかの鳥の鳴くやうに、獣の仔の乳をもとめる声のやうにきこえる。

お友だちが来て、いっしょに浜へ出た。

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お友達がきていつしよに浜へでた。

砂も、石も、波の形にうちあげられた海草も、みんなしっとりと朝つゆにぬれて、ゆうべあんなにたくさん鳴いていた虫が、あちこちに「ちち、ちち」とかわいく鳴き残っている。

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砂も、石も、波の形にうちあげられた海草もみんなしつとりと朝露にぬれて、昨夜ゆうべあんなにたんと鳴いてた虫があちこちに ちち、ちち と可愛く鳴きのこつてゐる。

平地とかたむいた浜との境に盛りあがった砂丘には、雑草や風にふきためられた黒松がへばりつき、すっきりした漁船が引きあげられて、船をすべらすためのわく、鳥の巣みたいな生けす、水くみ、なわ、うに、ひとでのからなどがころがっている。

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平地と傾斜した浜との境にもりあがつた砂丘には雑草や風に吹きためられた黒松がへばりつき、すつきりした漁船が曳きあげられて、舟をすべらすための枠、鳥の巣みたいな生けす、あか汲み、縄、海胆うに、ひとでの殻なぞころがつてゐる。

しばらくして霧がはれ、こい青色に底光りする海の上に朝日があかあかとのぼって、むずがゆく汗をにじませるころ、砂丘のあいだの小道から漁師や女、子どもたちがにぎやかにおりてきて、地引き網を引きはじめた。

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暫らくして霧がはれ、紺青に底光りする海のうへに朝日があかあかとのぼつてむず痒く汗を滲ませるころ砂丘のあひだの小路から漁師や女子供たちががやがやおりてきて地曳きをひきはじめた。

「えん、えん」と静かに声をかけながら、ひと足ひと足と引きあげるあいだに、ここかしこに積まれたてん草(海藻の一種)は火をつけられて「ぷすぷす」と白い煙をはく。

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えん、えん としづかに声をかけながらひと足ひと足とひきあげるあひだにここかしこにつまれたてん草は火をつけられてぷすぷすと白い煙をはく。

そのうちに兄はひとりで向こうの岩まで泳いでいったので、わたしは雨のときだけ川になる水たまりに入って、石や貝を拾いはじめた。

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そのうちに兄はひとり向ふの岩まで泳いでいつたので私は雨のときだけ川になる水溜りへはひつて石や貝をひろひはじめた。

そこにはたくさんヤドカリの子がいて、ちょっと見ればただの貝がらみたいに見えるが、少したつと手を出してひょこひょこ歩きまわる。

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そこにはたくさん寄居蟹やどかりの子がゐて、ちよいとみればただの貝殻みたいにみえるがすこしたつと手をだしてひよこひよこ歩きまはる。

とがったのや丸いの、勝手気ままな殻に入っていて、それでどれもヤドカリの子なのがおもしろい。

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尖つたのや、円いのや、勝手次第の殻にゐて、それでどれも寄居蟹の子なのがをかしい。

お友だちは、どこからか長さ六センチほどのほら貝の殻を見つけてきてくれた。

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お友達はどこからか長さ二寸ばかりの法螺貝の殻をみつけてきてくれた。

ちょうど細いひもがとおせるくらいの穴が二つあいている。

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ちやうど細い紐がとほせるぐらゐの孔がふたつつあいてゐる。

それで、「家に帰ったら姉にもらった洋がさのふさをつけよう」などと思っているところへ、兄があがってきて、両手に持っている貝や石をみんな捨ててしまえと言う。

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で、家へ帰つたら姉にもらつた洋傘の総をつけよう なぞと思つてるところへ兄があがつてきて両手にもつてる貝や石をみんな棄ててしまへといふ。

わたしはしかたなく、いかにも惜しそうにひとつ捨て、ふたつ捨て、とうとう残らず捨てはしたが、その貝だけはどうしても捨てきれずもじもじしていたら、兄が腹を立ててげんこつをふりあげたのを、お友だちがとめて、それひとつだけを持って帰ることに、しぶしぶ納得させた。

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私はしかたなくさも惜しさうにひとつ棄て、ふたつ棄て、たうとう残らず棄ては棄てたが、その貝だけはどうしても棄てかねてもぢもぢしてたら腹をたてて拳固をふりあげたのをお友達がとめてそれひとつだけをもつて帰ることに不承ぶしように納得させた。

そのほら貝は、今でも古いおもちゃ箱の中に、ちゃんとふさがつけてしまってある。

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その法螺貝は今でも古い玩具箱のなかにちやんと総がつけてしまつてある。

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兄は、いろいろとずいぶん熱心に、細かく、厳しく教育をほどこしたが、あるとき、ふとしたことから、二人はこのお互いにつらい関係をきっぱりと断ってしまうことになった。

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兄はいろいろとしてずゐぶん熱心に、綿密に、厳格に教育を施したが、あるときふとしたことから二人はこのお互に難儀な関係をきつぱりと断つてしまふことになつた。

いつごろからか、兄は釣り堀の鯉だけでは満足しなくなって投網(とあみ・投げて魚をとる網)の稽古をはじめ、いつものとおりびくをさげさせて、たびたびわたしを近所の川へ連れていった。

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いつ頃からか兄は釣り堀の鯉だけでは満足しなくなつて投網とあみの稽古をはじめ、れいのとほりびくをさげさせてさいさい私を近処の川へつれていつた。

四、五百メートル行って橋をひとつ渡ると、そこはもう川ぞいの原っぱで、紅白に染め分けた水引のわくが、たてのようにならべて干してある。

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四五町いつて橋をひとつ渡ればそこはもう川ぞひの原で、紅白に染めわけた水引の枠が楯のやうにならべてほしてある。

間もなく水車小屋がある。

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間もなく水車場がある。

長いといの中を水が押しあいへしあい、気の変になったように流れてくるのを見ると、生きもののように思われて身の毛がよだつ。

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長い樋のなかを水が押しあひへしあひ気ちがひみたいにくるのをみると生きたもののやうに思はれて身の毛がよだつ。

大きな水車がしぶきの息をふき、しずくの汗をたらして、「ぐわらぐわらぐわら」とおそろしく回っている。

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大きな水車がしぶきの息をふき、雫の汗をたらしてぐわらぐわらぐわらと恐しくまはつてゐる。

ぬかぼこりのこもったつき場には、無数のきねが「こっとんこっとん」とにぶい音をたてて、一本足で踊るように米をつく。

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糠埃のこもつたには無数の杵がこつとんこつとんとどんな音をたてて一本足の踊るやうに米をつく。

そこへ行くと、わたしはどういうわけか舌の根に苦みを感じて、おさえつけられるような気持ちになるのだった。

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そこへゆくと私はどういふわけか舌の根に苦味をおぼえて圧しつけられるやうな気もちになるのであつた。

そこからだらだらと川上へのぼると、せきがあり、その上に青くよどんだ水が三方に分かれて、ひとつはといに、ひとつは向こう岸の森の中へ、残りはせきの口から「どどんどどん」と地響きを立てて転がり落ちる。

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そこからだらだらと川上へのぼれば堰があり、そのうへに青く淀んだ水が三方にわかれてひとつは樋に、ひとつはむかふ岸の森のなかへ、残りは堰の口からどどんどどんと地響きをうたせてころがりおちる。

おどりあがるしぶき、わきたつ泡、逆にはいあがるがけ、横っとびに飛んでいく水を見ると、たまらないさびしさとおそろしさにおそわれて、ただもう「早く帰りたい、早く帰りたい」と思う。

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躍りあがる飛沫しぶき、湧きたつ泡、逆にはひあがる崖、横つとびにとんでゆく水をみるとたまらない寂しさ恐しさに襲はれてただもう はやく帰りたい、はやく帰りたい と思ふ。

その滝つぼの主を、ある人はかっぱだと言った。

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その滝壺のぬしを或者は河童だといつた。

ある人は、二メートル近くもある鯉だと言った。

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或者は六尺もある鯉だといつた。

そして、いずれも実際に見た人から聞いたのだという。

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そしていづれも現在見た者から聞いたのだといふ。

その主に見こまれて、毎年ひとりふたりの子どもが必ず命を落とすので、それらのあわれな子たちのために、わずかな砂利浜に、いつからか一本の墓標がたてられた。

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その主に見こまれて毎年ひとりふたりの子供は必ず命をおとすのでそれらのあはれなもののためにわづかの砂利浜にいつからか一本の塔婆がたてられた。

その子どもたちはどうしているだろう。

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その子供たちはどうしてるだらう。

そのうえ、広々として風に波打つ青田を見ると、急に胸がせまって、涙がさっとまぶたにたまる。

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そのうへひろびろとして風に波うつ青田をみれば急に胸がせまつて涙がさつとまぶたにたまる。

それは深い深い心の底からわいてきて、せき止めるすべもなかった。

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それは深い深い心の底から湧いてきて堰きとめるすべもなかつた。

その泣き顔をかくすために、一生けんめい足もとを見つめながら、四、五軒まばらにならんでいるわら屋のひとつに入る。

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その泣き顔をかくすために一所懸命足もとをみつめながら四五軒まばらに並んでる藁屋のなかのひとつにはひる。

そこは網を貸したり釣り道具を売ったりする家で、日焼けした畳の上に、いろいろに塗り分けられたとっくり形、しいの実形、丸形の浮き、糸巻き、釣りざおなどがならんでいる。

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そこは網を貸したり釣道具を売つたりする家で、日にやけた畳のうへにいろいろに塗りわけられた徳利形、椎の実形、円形の泛子、糸巻、釣竿などがならんでゐる。

庭先を流れていく溝にはめだかやえびが泳ぎ、あぜ道にはひょろひょろとくぬぎの若木がならび、青田の先は丘になって、まっ黒な森がどこまでも続いていく。

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庭先を流れてゆく溝にはめだかや蝦が泳ぎ、畦道にはひよろひよろとくぬぎの若木がならび、青田の末はをかになつてまつ黒な森がどこまでもつづいてゆく。

兄は網を持ち、わたしはびくをさげ、二人ともはだしになって滝の横手からがけをおりて、向こう岸のくぼんだところをさがして歩く。

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兄は網をもち、私はびくをさげ、二人とも跣になつて滝の横手から崖をおりてむかふ岸の窪いところをあさつてあるく。

兄は「こないだまでひょうたん形にしかならなかった網が、丸く広がるようになった」と言って喜んでいるが、そんなことおもしろくもない。

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兄はこなひだまで瓢箪なりにしかならなかつた網が円くひろがるやうになつたといつてほくほくしてるけれどそんなこと面白くもない。

わたしはせみの声を聞き、田んぼのれんげ草を思い出しながら、うす暗く川に落ちた森のかげに立っていると、兄はたまに一匹二匹の小魚などをとってきて

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私は蝉の声をきき、田圃の蓮華草をおもひしてうす暗く川におちた森の蔭に立つてると兄はたまに一匹二匹のげばちやはやなどとつてきて

「うまくなった、うまくなった」

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「うまくなつた うまくなつた」

と言いながら、わたしの持っているびくに入れる。

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といひながら私のもつてるびくにいれる。

魚が息のできるようにびくを水につけて、友だちのような気持ちでのぞいていると、わたしのように臆病な彼らは、ちょっとした音にもおどろいて跳ねまわる。

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魚が息のできるやうにびくを水につけて友達みたいな気になつてのぞいてると私みたいに臆病な彼らはちよいとした響きにも驚いて鼻をつく。

そのあいだにも、兄はわたしが網を打つところを見ていないと言って、がみがみ言う。

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そのあひだにも兄は私が網を打つところを見てゐないといつてわんわんいふ。

ある日のこと、また、そんなふうに川の中に立っていたとき、わたしは足もとにあるまっ白な石を拾おうとして、身をかがめた。

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ある日のことまたそんなにして川のなかに立つてたとき私は足もとにあるまつ白な石を拾はうとして身をかがめた。

それを兄はすぐに見つけて

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それを兄はぢきに見つけて

「何する」

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「なにする」

と言った。

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といつた。

「石をひろうんです」

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「石をひろふんです」

「ばか」

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「ばか」

わたしは、もういつものようにこわがらなかった。

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私はもういつものやうに恐れなかつた。

このあいだから考えて考えて考えぬいてあった。

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こなひだから考へて考へて考へぬいてある。

「兄さん」

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「兄さん」

わたしは後ろから静かに呼びかけた。

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私は後ろからしづかに呼びかけた。

「兄さんが魚をとるのに、僕はなぜ石をひろっちゃ悪いんです」

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「兄さんが魚をとるのに僕はなぜ石をひろつちやわるいんです」

兄は

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兄は

「生意気言うな」

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「生意気いふな」

と怒鳴りつけた。

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と怒鳴りつけた。

わたしは冷ややかに笑って、まともに兄の顔を見つめながら

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私は冷かに笑つてまともに兄の顔を見つめながら

「僕の言うことがまちがっているなら、教えてください」

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「僕のいふことがちがつてるなら教へてください」

兄は

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兄は

「殴るぞ」

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「殴るぞ」

と言って手をあげた。

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といつて手をあげた。

わたしは黙って、垂れさがった枝の先にびくをかけ、がけをあがって帰りかけたが、うす暗い木のかげでかがんでいるのを見ると、急に気の毒になり、「あんなに言うけれど、きっとやっぱりさびしいんだろう」と思って、岸の上から一生けんめいに呼んだ。

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私は黙つて垂れさがつた枝のさきにびくをかけ崖をあがつて帰りかけたが、うす暗い木の蔭にこごんでるのを見ると急に気の毒になり あんなにいふけれどきつとやつぱし寂しいんだらう とおもつて岸のうへから一所懸命によんだ。

「兄さん、兄さん、いてあげましょうか」

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「兄さん、兄さん、居てあげませうか」

兄は知らんふりをして、網をそろえている。

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兄は知らん顔して網をそろへてゐる。

「さようなら」

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「さやうなら」

わたしはていねいに帽子をとって、ひとりで家へ帰った。

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私は丁寧に帽子をとつてひとりで家へ帰つた。

それからは、わたしたちは決していっしょに出かけなかった。

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それからは私たちは決していつしよに出かけなかつた。

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家のまわりには切り残したくわの木があったので、楽しみながら子どもたちの実地教育にもなるという父の考えから、近所ですこしばかりの種をわけてもらって、蚕を飼ったことがあった。

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家のまはりには切りのこした桑の木があつたので慰みかたがた子供たちの実地教育にもなるといふ父の考から近処ですこしばかりの種をわけてもらつて蚕をかつたことがあつた。

母や伯母は「面倒だ面倒だ」と言うものの、実はいくらか誇らしそうで、もう二度と来ることのない昔の苦労を思い出して楽しみながら、いそいそとくわを刻んでやる。

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母や伯母は面倒だ面倒だといふものの実はいくらか得意で、もう大丈夫二度とくることのない昔の労苦を思ひだして楽しみながらいそいそと桑をきざんでやる。

はじめはただ葉の下にかくれているのが、日に日に大きくなり、坊主頭をふりたてては、はしからかじっていく。

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はじめはただ葉のしたにかくれてるのが日に日に大きくなり坊主頭をふりたててはじからくひかいてゆく。

わたしも、小さなようかんの箱に五、六匹入れてもらって、伯母さんが「お蚕様はもとお姫様だった」などと教えたので、寝るときにはちゃんと「ごきげんよう」をし、朝はまた「おはよう」をして、留守のあいだの世話をよくよく頼んで学校へ行く。

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私も小さな羊羹の函に五六匹いれてもらつて、伯母さんがお蚕様はもとお姫様だつたなぞと教へたもので寐るときにはちやんと御機嫌ようをし、朝はまたおはやうをして、留守の世話をよくよく頼んで学校へゆく。

帰ってくると、姉は手ぬぐいをかぶって前掛けの両端を帯にはさみ、わたしはざるをかかえてくわつみに出かける。

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さて帰つてくれば姉は手拭をかぶつて前垂の両端を帯にはさみ、私は笊をかかへて桑つみにでかける。

そうして指の先を黒くしながら、手のとどくかぎりおいしそうなのを選んで、つみっこをする。

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さうして指の先を黒くしながら手のとどくかぎりうまさうなのをよつてつみつこをする。

冷たい唇からはき出す糸の美しいつやが仇となって、遠い昔から人の手だけに育てられたこの虫は、自分で食べ物を求めようとはせず、むしろの上に頭をならべて、おとなしくくわの葉がまかれるのを待っている。それを伯母さんは

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冷い唇からはきだす糸の美しいつやが仇となつて遠い昔から人の手にのみ育てられたこの虫は自ら食を求めようとはせず蓆のうへに頭をならべておとなしく桑の葉のふりまかれるのを待つてるのを伯母さんは

「お姫様だったげなで、この行儀のええことはの」

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「お姫様だつたげなでこのお行儀のええことはの」

と、いかにも本当らしく言う。

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とさもほんとらしくいふ。

青くさいのも、体が冷たいのも、はじめのうちこそ気味が悪かったが、お姫様だと思えば何もかも平気になり、背中にある三日月形の模様をかわいらしい目だと思うようになった。

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青臭いのも、体のつめたいのも、はじめのうちこそ気味がわるかつたがお姫様だとおもへばなにもかも平気になり、背なかにある三日月がたの斑文はんもんを可愛らしい眼だと思ふやうになつた。

お姫様は四回目のねむりから覚めたあとには、体もすきとおるほど清らかになり、くわの葉さえ食べずに、あちらこちらと見まわして、死に場所を求める。

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お姫様は四たびめの禅定から出たのちには体もすきとほるほど清浄になり、桑の葉さへたべずにとみかうみして入寂にふじやくの場所をもとめる。

それをそっとまゆ棚に移すと、ちょうどよいところに身をおさめ、静かに首を動かして、自分の姿をかくすために白い幕を織りはじめる。

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それをそうつと繭棚にうつすとほどよいところに身をすゑ、しづかに首をうごかして自分の姿をかくすために白い几帳を織りはじめる。

最初はただ首をふるように見えるのが、いつのまにかぼんやりとかすんできて、まるで魔法のように、道具もなしに織りだしたたわら形の幕ばかりが、ころりころりとまゆ棚にかかる。

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最初はただ首をふるやうにみえるのがいつとはなしにほのかになり、神通力をもつて梭もなしに織りだした俵がたの几帳ばかりがころりころりと繭棚にかかる。

わたしは置いてきぼりにされたような気持ちで、「いつまでもとっておく」と言ってきかないのを、母と伯母とでさっさともぎとって、なべで煮る。

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私はおいてきぼりになつた気もちでいつまでもとつておくといつてきかないのを母と伯母とでさつさともぎとつて鍋で煮る。

そうして、うす黄色くぬれた糸をくるくるとわくに巻くと、幕がむざんにほどかれて、しまいに西洋のこまのような形をした死がいが出る。

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さうしてうす黄色く濡れた糸をくるくると枠にまくと几帳が無惨にほごされてしまひに西にしどつちの形したむくろがでる。

それを兄は、えさ箱に入れて釣り堀へとんでいく。

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それを兄は餌箱にいれて釣り堀へとんでゆく。

お姫様の夢はこうしてさめ、糸は機織り屋へ送られて、おかしな田舎じまが織られた。

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お姫様の夢はかやうにしてさめ、糸は機屋へおくられてをかしげな田舎縞が織られた。

ようかんの箱にできたいくつかのまゆは、種にするために残されたが、わたしの心がその幕の奥にまでとどいたのか、それともお姫様が光りかがやく夏の世を捨てきれなかったのか、まもなく彼女は、まっ黒な目の上に美しいまゆをたて、新しい喜びにふるえる羽根さえもって、昔のおもかげをしのばせるようなかわいらしい姿をあらわした。

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羊羹函にできたいくつかの繭は種にするために残されたが、私の心がその几帳の奥にまでとどいたのか、それともお姫様が光りかがやく夏の世をすてかねてか、まもなく彼女はまつ黒な眼のうへに美しい眉をたて、新しい歓びにふるへる翅さへもつて昔の俤をしのばすやうな可愛らしい姿をあらはした。

そうして、右に左に輪をかくようにして、仲むつまじい相手を求めて歩くのを、わたしは竹の中から出た人(かぐや姫)よりもめずらしく眺めていた。

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さうして右に左に輪をかくやうにして睦びあふ伴侶をもとめてあるくのを私は竹のなかから出た人よりも珍しく眺めてゐた。

蚕が育ってまゆになり、まゆがほどけてちょうになり、ちょうが卵をうむのを見て、わたしの知識は完成した。

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蚕が老いて繭になり、繭がほどけて蝶になり、蝶が卵をうむのをみて私の智識は完成した。

それは、まことに不思議ななぞの輪だった。

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それはまことに不可思議の謎のであつた。

わたしは、いつもこのような子どもらしいおどろきをもって、自分のまわりを眺めたいと思う。

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私は常にかやうな子供らしい驚嘆をもつて自分の周囲を眺めたいと思ふ。

人々は、多くのことを見慣れるにつけて、ただそれが見慣れたことであるというだけの理由で、そのまま見すごしてしまうのだけれど、思えば、毎年の春に芽ぶく木の芽は、毎年新しくわたしたちを驚かせるべきなのだろう。もし知らないと言うなら、わたしたちはこの小さなまゆに包まれたほどのわずかなことすら知らないのだから。

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人びとは多くのことを見馴れるにつけただそれが見馴れたことであるといふばかりにそのままに見すごしてしまふのであるけれども、思へば年ごとの春に萌えだす木の芽は年ごとにあらたに我らを驚かすべきであつたであらう、それはもし知らないといふならば、我我はこの小さな繭につつまれたほどのわづかのことすらも知らないのであるゆゑに。

その種がかえったときには、くわの木もすくなくなっていたし、人手もなくて、とてもそれだけの蚕を飼うことができなかった。それで、家の者は「すぐに雀が食べてしまうだろう」という浅はかな考えから、去年からお姫様と兄弟になっていたわたしの留守のあいだに、そのうちの半分ほどをこっそり裏の畑へ捨てておいた。

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その種がかへつたときには桑の木もすくなくなつてたし人手もなくてとてもそれだけの蚕をかふことができなかつたので、家の者は ぢきに雀がくつてしまふだらう といふ浅はかな考へから去年以来お姫様と兄弟になつた私の留守のまにそのうちの半分ほどをこつそり裏の畑へすてておいた。

それを、くわつみに行った拍子に、ふいにわたしが見つけ、びっくりして飛んで帰り、わけを聞いたが、みんなは何のかのとはぐらかして相手にしようとしない。

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それを桑つみにいつた拍子にふいと私が見つけびつくりして飛んでかへり訳をきいたがみんなはなんのかのとはぐらかして相手にしようとしない。

わたしはとうとう感づいて、「どうか拾いあげて飼ってやってくれ」と、手をつかんばかりにして頼んだけれど、どうしても聞いてくれない。

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私はたうとう感づいて、どうか拾ひあげてかつてやつてくれと手をつかないばかりにして頼んだけれどどうしてもきいてくれない。

とはいえ、彼らのずるいごまかしも、とうてい単純でけがれのない子どもの思いやりの心をだますことができないのを見て、彼らはついに、いつもの手段である大声で人をおどかしてしまおうとした。

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とはいへ彼らの老獪な詭弁も到底単純無垢な子供の慈悲心をくらますことができないのをみ、彼らは終に慣用手段の大きな声でひとをおどかしてしまはうとした。

わたしはくやしさと憎さがこみあげ、みんなをにらみつけて、気の変になったように悪態をついたあげく、裏へかけだして泣いていた。

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私はくやしさ憎さがこみあげみんなを睨みつけて気ちがひみたいに悪対あくたいをついたあげく裏へかけだして泣いてゐた。

その時、もしわたしに彼らをおさえつけるだけの力があったなら、彼らを数珠つなぎにして雀のえさにしてやっただろう。

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その時もし私に彼らをとりひしぐだけの力があつたならば彼らを数珠つなぎにして雀の餌にしたであらう。

それからは毎日、頭が痛いと言っては学校を早びけにして、首をふって飢えをうったえている兄弟たちにくわの葉をつんでやったが、体の弱い蚕たちは夜昼の寒さ暑さにたえかねて、毎日いくつかずつ土にまみれていく。

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それからは毎日頭が痛いといつては学校を早びけにして首をふつて饑ゑを訴へてる兄弟に桑の葉をつんでやつたが、脾弱いものどもは夜昼の寒さ暑さに堪へかねて毎日いくつかづつ土にまみれてゆく。

雨がふりだした夕方だった。

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雨のふりだした夕がたであつた。

家からいくら呼ばれても帰らないので、伯母さんが出てきてみたら、わたしは捨てられた蚕の上に傘をさしかけて立っているのだった。

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家からいくら呼ばれても帰らないので伯母さんが出てきてみたら私はすてられた蚕のうへに傘をさしかけて立つてるのであつた。

そうして、顔を見るなり、わっと泣き出して、その前掛けにしがみついた。

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さうして顔を見るやいなやわつと泣きだしてその前垂にくひついた。

仏のように優しい伯母さんは、どうにかしてやりたいのはやまやまだが、どうしようもないもので、お念仏をくりかえしながら、やっとなだめて連れて帰った。

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仏性の伯母さんはどうかしたいのは山山なのだがどうもしやうがないものでお念仏をくりかへしながらやうやく賺してつれて帰つた。

その後、家の者はそこに小さなごま石の碑が立てられ、その上にわたしの手で「ああ忠臣楠氏(くすし)の墓」と書いてあるのを見つけた。

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その後家の者はそこに小さな胡麻石の碑がたてられそのうへに私の手で 嗚呼忠臣楠氏之墓 と書いてあるのを見出した。

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ひとつは境遇から、ひとつは自分の性格から、とかく苦しみの多い、大人びた子どもだったわたしにとって、このうえもないなぐさめとなったのは、絵をかくことだった。

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ひとつは境遇から、ひとつは自分の性格から、とかく苦悩の多い早熟な私にとつてこのうへもない慰藉となつたのは絵をかくことであつた。

わたしは、四条派(しじょうは・日本画の流派)の絵にすぐれていた大殿様からのいただき物だという、絵手本の巻物を父からもらって持っていた。

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私は四条派の画に堪能であつた大殿様からの拝領物だといふ粉本の巻物を父からもらつてもつてゐた。

それはわたしの大事な一巻であると同時に、伯母さんにとっては、犬の置物や丑紅の牛といっしょに、さっと持ち出してわたしのかんしゃくをしずめる、虫おさえの妙薬でもあった。

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それは私の秘蔵の一軸であると同時に伯母さんにとつてはお犬様や丑紅の牛といつしよにほいほいと持ちだして私の癇癪をしづめる虫おさへの妙薬であつた。

その巻物、さぎだの、つるだの、松だの、日の出だの、美しい自然の中でも美しいものの美しい姿ばかりを美しくえがきよせたその巻物は、さすがにまだ空っぽで清らかだったわたしの胸を、なんともいえない夢とあこがれの酔いでみたしてしまうのだった。

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その巻物、鷺だの、鶴だの、松だの、日の出だの、美しい自然のなかでも美しいものの美しい姿ばかりを美しくかきよせたその巻物はさすがにまだ虚しく清らかであつた私の胸をいひしらぬ夢と憧れの陶酔をもつてみたしてしまふのであつた。

このころ、わたしはもうそれらの絵を見るだけでは満足できなかったので、そういうことが何より嫌いな兄の不機嫌を承知のうえで、やっと家から買ってもらった安い絵の具――それはこん色の安っぽいボール紙の箱に、たった八種類ほどの絵の具と一本の筆が入っていて、箱の上にはししの跳ねている商標がついていた。――

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このじぶん私はもうそれらの絵を見るだけでは満足ができなかつたので、そんなことがなにより嫌ひな兄の不機嫌を承知のうへでやつと家から買つてもらつた安絵具――それは紺色のやくざなぼうる箱にたつた八種ほどの絵具と一本の筆がはひつて、箱のうへには獅子の跳ねてる商標がついてゐた。――

と姉からゆずられた筆洗を友として、物語の絵の透き写しからはじめて、絵手本のやさしい絵を見よう見まねでかくようになった。

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と姉から譲られた筆洗を友として草双紙の透きうつしからはじめて粉本の絵のやさしいのを拾ひがきにかくやうになつた。

けれど、だれひとり教えてくれる人はおらず、部屋に閉じこもって何度も何度もかきそこないながら、さんざん苦労して、ひとつの線の引き方も、ひとつの色の出し方も、みんな自分ひとりで工夫しなければならない。

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けれども誰ひとり教へてくれる者はなし、部屋にとぢこもつて幾度も幾度もかきそこなひながらさんざ苦心をして、ひとつの線のひきかたも、ひとつの色のだしかたも、みんな自分ひとりでくふうしなければならない。

けれど、これはわたしにとって、いわば自由な創造だった。

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併しながらこれは私にとつていはば自由な創造であつた。

神様は、あの万物の創造にあたって、わたしが一羽の鳥、一輪の花をかけたほどの満足を味わうことができただろうか。

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猶太の神はあの万物の創造にあたつて私が一羽の鳥、一輪の花をかきえたほどの満足を味ふことができたであらうか。

赤と黄色で橙色(だいだいいろ)を作れたという、ただそれだけのことさえ、わたしを小おどりさせた。

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赤と黄とで橙黄たうくわうを得たといふただそれしきのことさへが私を雀躍こをどりさせた。

兄は思ったとおり、たいそう不機嫌で、せっかくよくできたのを机に立てて眺めていると、そばにやってきて、わざとめちゃめちゃにけなしたりしたが、そんなことは、喜びと力に満ちたこの小さな創造主の勇気をくじくことはできなかった。

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兄は案のぢやう大不機嫌で、折角よくできたのを机にたてて眺めてると傍へやつてきてわざとめちやめちやにくさしたりしたが、そんなことは喜びと力にみちたこの小さな造物主の勇気を挫くことはできなかつた。

わたしは、物語の絵に出てくる遊女やお姫様の着物の色をえらび、またそのあごの下にひとつの線を入れ、まゆの引き方を変えるなど、いろいろと自分の好みを加えて、そして昔の神様のように、自分の作ったものを恋人のように思い、大事に引き出しにしまっておいたりした。

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私は草双紙のおいらんやお姫様の著物の色を選み、またその腭のしたにひとつのすぢをいれ、眉のひきかたをちがへるなどいろいろと自分の好みをくはへて、そして昔の神様のやうに自分のこしらへたものを恋人にして大事に抽匣へしまつておいたりした。

しかし一方で、その紙の上に作りだしたこれらの美しいものを、とても現実の世界には見つけられそうもないということを思っては、むだに気をいらだたせた。

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が、一方にその紙のうへに創造したこれらの美しいものを到底現実の世界には見出せさうもないといふことを思つては徒に気をいらだたせた。

わたしはまた、唱歌が大好きだった。

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私はまた唱歌が大好きだつた。

これも兄がいるときには歌うことを許されなかったので、その留守の間をぬすんでは、とくに晴れた夜など、澄みわたる月の顔をじっと見つめながら静かな静かな歌をうたうと、いつのまにか涙がまぶたにたまって、月からちかちかと光の輪がさしはじめる。

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これも兄のゐる時には歌ふことを許されなかつたのでその留守のまをぬすんでは、ことに晴れた夜など澄みわたる月の面をじつと見つめながら静な静な歌をうたふといつか涙が瞼にたまつて月からちかちかと後光がさしはじめる。

ときどき、姉のところへ遊びに来る、声のいいお友だちに教えてもらうことがあった。

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をりをり姉のところへ遊びにくる声のいいお友達に教へてもらふことがあつた。

わたしは学校ではいちばん上手だったが、その人のまるく美しい声の前ではただもう気おくれがして、小さな声であとについて歌った。

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私は学校ではいちばん上手だつたけれどその人のまろまろした声のまへにはただもう気おくれがして小さな声であとについた。

それは、お蕙ちゃんといつも遊んだひじかけ窓のところだった。

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それはお蕙ちやんといつも遊んだ肱かけ窓のところであつた。

青ぎりの葉が風にざわめき、虫が鳴いて、五位さぎの群れが「がつがつ」と鳴きわたる夜が多くあった。……

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青桐の葉が風にさわざ、虫がないて、五位鷺の群ががつがつと鳴きわたる夜が多くあつた。……

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わたしが何よりきらいな学課は、修身だった。

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私のなにより嫌ひな学課は修身だつた。

高等科からは絵図をやめて教科書を使うことになっていたが、どういうわけか、表紙はきたないし、挿絵はまずいし、紙質も活字も粗悪で、手にとるだけでも気分が悪くなるようなつまらない本で、載っている話といえば、どれもこれも孝行息子が殿様からほうびをもらっただの、正直者がお金持ちになっただのという筋の、しかも味もそっけもないものばかりだった。

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高等科からは掛け図をやめて教科書をつかふことになつてたがどういふ訳か表紙は汚いし、挿画はまづいし、紙質も活字も粗悪な手にとるさへ気もちがわるいやくざな本で、載せてある話といへばどれもこれも孝行息子が殿様から褒美をもらつたの、正直者が金持ちになつたのといふ筋の、しかも味もそつけもないものばかりであつた。

おまけに先生ときたら、ただもう最も低いレベルの損得ずくの説明を加えるよりほかに能がなかったので、せっかくの修身は、わたしを少しも良い人間にしなかったばかりか、かえってまったく反対の結果さえひき起こした。

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おまけに先生ときたらただもう最も下等な意味での功利的な説明を加へるよりほか能がなかつたので折角の修身は啻に私をすこしも善良にしなかつたのみならずかへつてまつたく反対の結果をさへひき起した。

このわずか十一か十二の子どもの、たかの知れた見聞、自分ひとりの経験に照らしてみても、そんなことはとてもそのまま納得ができない。

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このわづかに十一か十二の子供のたかの知れた見聞、自分ひとりの経験に照してみてもそんなことはとてもそのまま納得ができない。

わたしは、「修身の本は人をだますものだ」と思った。

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私は 修身書は人を瞞著まんちやくするものだ と思つた。

それゆえ、行儀が悪いと成績点を引かれるという、こわいその時間に、ほおづえをついたり、わき見をしたり、あくびをしたり、鼻歌をうたったり、できるだけ行儀を悪くして、おさえきれない反感をもらした。

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それゆゑ行儀が悪いと操行点をひかれるといふ恐しいその時間に頬杖をついたり、わき見をしたり、欠伸をしたり、鼻唄をうたつたり、出来るだけ行儀を悪くして抑へ難い反感をもらした。

わたしは学校へあがってから「孝行」

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私は学校へあがつてから「孝行」

という言葉を聞かされたことは、百万回にもなっただろう。

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といふ言葉をきかされたことは百万遍にもなつたらう。

けれど、その孝行の教えは、結局のところ、このように生まれ、このように生き続けていることを、このうえない幸せだとする感謝の上に置かれている。

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さりながら彼らの孝道は畢竟かくのごとくにせいけ、かくのごとくに生をつづけてることをもつて無上の幸福とする感謝のうへにおかれてゐる。

そんなものが、わたしのようにすでに早くから、生きることのつらさを味わいはじめた子どもにとって、何の力があるだろうか。

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そんなものが私のやうに既にはやく生苦の味をおぼえはじめた子供にとつてなんの権威があらうか。

わたしは、どうにかしてよくわけが聞きたいと思い、あるとき、みんながたちの悪いはれ物のようにさわることをはばかって、頭から鵜呑みにしている「孝行」について、こんな質問をした。

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私はどうかしてよく訳がききたいと思ひある時みんなが悪性の腫物はれもののやうに触れることを憚つて頭から鵜呑みにしてる孝行についてこんな質問をした。

「先生、人はなぜ孝行しなければならないんです」

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「先生、人はなぜ孝行しなければならないんです」

先生は目を丸くしたが

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先生は眼を丸くしたが

「おなかがすいたときにごはんが食べられるのも、具合の悪いときにお薬が飲めるのも、みんなお父様やお母様のおかげです」

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「おなかのへつた時ごはんがたべられるのも、あんばいの悪い時お薬ののめるのも、みんなお父様やお母様のおかげです」

と言う。

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といふ。

わたしは

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「でも僕は、そんなに生きていたいとは思いません」

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「でも僕はそんなに生きてたいとは思ひません」

先生はますますまずい顔をして

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先生はいよいよまづい顔をして

「山よりも高く、海よりも深いからです」

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「山よりも高く海よりも深いからです」

「でも僕は、そんなこと知らないときのほうが、よっぽど孝行でした」

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「でも僕はそんなこと知らない時のはうがよつぽど孝行でした」

先生はかっとなって

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先生はかつとして

「孝行のわかる人、手をあげて」

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「孝行のわかる人手をあげて」

と言った。

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といつた。

にやけた顔の子たちは、われこそはと言わんばかりに、ぱっといっせいに手をあげて、この理不尽で卑怯なやり方に対して張り裂けるほどの怒りをいだきながら、さすがに自分ひとりを恥じて顔を赤くし、手をあげずにいるわたしを、じろじろと横目で見る。

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ひよつとこめらはわれこそといはないばかりにぱつと一斉に手をあげてこの理不尽な卑怯なしかたに対して張り裂けるほどの憤懣をいだきながら、さすがに自分ひとりを愧ぢ顔を赤くして手をあげずにゐる私をじろじろとしりめにかける。

わたしはくやしかったが、それなりひと言も言えずにだまってしまった。

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私はくやしかつたけれどそれなりひと言もいひ得ずに黙つてしまつた。

それから先生は、いつもこの効き目のあるやり方を使って人の質問の口を封じたが、こちらもまたその屈辱をまぬがれるために、修身のある日にはいつも学校を休んだ。

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それから先生は常にこの有効な手段を用ひてひとの質問の口をとざしたが、こちらはまたその屈辱を免れるために修身のある日にはいつも学校を休んだ。

十一

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十一

ある晩、ふと人にさそわれて少林寺へ遊びに行った。

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ある晩ふとひとに誘はれて少林寺へ遊びにいつた。

寺には貞ちゃんという、年も組もひとつ下の子がいて、顔は見知っていたが、友だちになるほどの機会も望みもなしに過ぎていたのである。

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寺には貞ちやんといふ年も級もひとつ下の子があり、見知りごしではあつたが友達になるほどの機会も希望もなしに過ぎてたのである。

わたしははじめてなので、かなりの不安と好奇心をもって、扉のない山門をくぐった。

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私ははじめてなのでかなりの不安と好奇心をもつて扉のない山門をくぐつた。

そうして、見おぼえのある閼伽井(あかい・お寺の井戸)のそばのもくせいのかげへ行って、かわるがわる呼んだら、貞ちゃんは「がたがた」と内玄関の戸をあけて、わたしたちを茶の間へ案内した。

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さうして見おぼえのある閼伽井のそばの木犀の蔭へいつてかはるがはる呼んだら貞ちやんはがたがたと内玄関の戸をあけて私たちを茶の間へ案内した。

家の人は、この珍しいお客のためにわざわざとっておきのつりランプを出してくれたが、それはそのころでさえあまり見かけることのなかった古い型のもので、四方ガラスの箱の中へランプを入れるのだった。

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家の人はこの珍客のためにわざわざとつておきのつりランプをだしてくれたが、それはその頃でさへあんまり見かけることのなかつた古い型のもので、四方ガラスの箱のなかへランプをいれるのであつた。

わたしたちは、その上下左右にぱっと投げかける明るい光の中で、将棋倒しや道中すごろくに夢中になった。

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私たちはその上下左右にぱつと投げかける明るい光のなかで将棊倒しや道中双六にふけつた。

すごろくのふりだしの日本橋に、かつおうりの絵がついていたことも、「御油(ごゆ・地名)」

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ふりだしの日本橋に鰹うりの絵のついてたことも、「御油ごゆ

を「おあぶら」

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を「おあぶら」

と読んで笑われたこともおぼえている。

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と読んで笑はれたこともおぼえてゐる。

わたしは、生まれてはじめての夜の遊びでもあり、子ども好きな明るい人たちがいっしょに遊んでくれるのもうれしくて、初対面にもかかわらず、思いのほかはしゃいで遊んだ。

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私は生れてはじめてのよるの遊びでもあり、子供ずきの陽気な人たちがいつしよに遊んでくれるのも嬉しくて初対面にもかかはらず思ひのほかはしやいで遊んだ。

もともとわたしは、体が弱いことを理由に、兄弟の中ではいちばんゆるやかに育てられて、ずいぶんわがままもしていたのだけれど、それでも、日常のあらゆる場面でたてられた決まりごとばかりを気にかけて、子どもらしい自由な遊び方をしたこともなく、遊び場も持っていなかった。だから、そんな子どものために開放されたかのような扉のない山門の中は、わたしにとってとうてい忘れることのできない自由な世界だった。

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一体私は病身をたてに兄弟ぢゆうではいちばん寛大にとりあつかはれて随分我儘もしてたのだけれど、それでも行住坐臥四方八方にたてられた制札ばかりを気にかけて子供が遊ばねばならぬやうな遊びかたをしたこともなく、遊び場ももつてゐなかつたゆゑ、そんな子供のために開放されたかのごとき扉なしの山門のなかは私にとつて到底忘れることのできない自由の天地であつた。

それが縁となって、わたしはそれから三日にあげず遊びに行くようになった。

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それが縁となつて私はそれから三日にあげず遊びにゆくやうになつた。

いろいろな理由から、無邪気さとか、明るさとか、ふつうの子どもがもっている幸せの多くを失った、子どもらしくない子どもが、ほんとうに子どもらしい子どもとして、楽しく我を忘れるひとときを過ごすことができたところ、引っこみがちで暗い気持ちの子どもが、太陽の光の下でだけ得られる自然についての子どもらしい知識をたくわえたところ、生まれつきもっていたある性質、それは兄にかなり評判の悪かったその性質を育てて、その後のわたしを形づくったところ、それらのさまざまな点で、少林寺の境内はわたしにとって特別な意味をもっている。

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いろいろな原因から無邪気とか、快活とか、一般の子供がもつてる幸福の多くを失つた子供らしくない子供が真に子供らしい子供として楽しい我知らずの幾時をすごしえたところ、ひつこみがちな憂鬱な子供が太陽の光のしたでのみ授かることのできる自然についての子供らしい智識をたくはへたところ、もつて生れたある性質、それは兄に頗る評判のわるかつたその性質をつちかひ育てて後の私を形づくつたところ、それらの種種な点で少林寺の境内は私に特別の意味をもつてゐる。

寺はもともと旗本を檀家(だんか)にしていて、江戸の地図にものったほどのものだったが、明治維新になってからは、それらの人はみんなちりぢりばらばらになり、たまたまこちらに残った人もたいてい落ちぶれてしまったので、自然と寺も思いのほかの生活苦におちいって、年々荒れ果てていくばかりのありさまだった。

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寺はおもに旗本を檀家にして江戸の絵図にものつたほどのものであつたが、御維新になつてからはそれらの人はみんなちりぢりばらばらになり、たまたまこちらにふみとどまつた者もおほかた零落してしまつたので、自然寺も思ひのほかの窮迫に陥つて年年に荒廃してゆくばかりの有様であつた。

それでも、まだ伯母さんにおぶさって行ったころのおもかげはだいたいそのまま残っていて、玄関のついたての孔雀は今も誇らしげにぜいたくな尾を垂らし、いろいろに咲きみだれた牡丹の花には、今も昔の夢に酔うかのように何羽ものちょうが舞っていた。

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それでもまだ伯母さんにおぶさつていつたじぶんの俤は大概そのままにのこつて、玄関の衝立の孔雀はなほ誇りかに豪奢な尾をたれ、いろいろに咲きみだれた牡丹の花には今も昔の夢に酔ふかのやうに幾羽の蝶が舞つてゐた。

背の高いかなめ垣をへだてて、左手は台所になり、それにそって右へ曲がると内庭で、花壇やいちご畑があり、切り残された老木があちこちに大きな暗いかげを落としている。

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背の高いかなめ垣をへだてて左手は庫裡になり、それについて右へ曲ると内庭で花壇やいちご畑があり、切りのこされた老木があちこちに大きな暗い蔭を落してゐる。

そこからかぎの手にまた右へ曲がると、西を向いた本堂の庭のすみにまきの大木があって、その岩のこぶのような根っこは庭の半分に広がり、あちこちにのびだした枝は、何百人もの旅の僧を休ませる緑のテントとなり、わたしたちのためには夕立のときの雨宿りとなり、夏の日の涼しいかげとなった。

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そこから鉤の手にまた右へ曲ると西へむいた本堂の庭の隅に槙の大木があつて、その岩瘤みたいな根つこは庭のなかばにはびこり、縦横にのびだした枝は幾百の行脚僧を憩はすべき緑の天幕となり、私たちのためには夕だちのときの雨宿りとなり、夏の日の涼しい蔭となつた。

そこから一段低くなったがけぎわの畑には大根や菜の花がさき、からすうりややぶがらしがぼうぼうに茂ったやぶの中には古井戸があって、底のほうからすいすいと蚊が出てきたりした。

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そこから一段低くなつた崖ぎはの畑には大根や菜の花がさき、烏瓜や藪からしがぢやんぢやらになつたぼさのなかには古井戸があつて底のはうからすいすいと蚊が出てきたりした。

まきの木の後ろから熊笹の土手にある犬の通り道をぽかりと北へぬけると、そこは一面くりの木が生えた墓地で、くりの花に、葉に、いがに埋まり、渋色に染まった石塔の上には、よく笄蛭(こうがいびる・ヒルの一種)がはっていた。

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槙の木のうしろから熊笹の土堤どてにある犬の路をぽかりと北へぬけるとそこはいちめん栗の木のはえた墓地で、栗の花に、葉に、いがに埋まり、渋に染まつた石塔のうへにはよく笄蛭かうがいびるがはつてゐた。

貞ちゃんはひょうきん者の気のいい子で、何でも言うとおりにして遊んでくれた。一方、それまでそういう外遊びをろくにしたことのないわたしは、それに必要ないろいろな知識をまったく欠いていたので、そんなことには貞ちゃんが先生になって、二人は仲よく遊んだ。

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貞ちやんは剽軽者の気のいい子でなんでもいひなりにして遊んでくれたし、一方にそれまでさうした戸外の遊びをろくにしたことのない私はそれに必要な雑多な智識をまつたく欠いてたためそんなことには貞ちやんが先生になつて二人は仲よく遊んだ。

十二

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十二

春のころには、坂ひとつ向こうの広い原っぱへ行って、たこをあげる。

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春のころには坂ひとつ向ふの広い原へいつて凧をあげる。

貞ちゃんのはひげだるまで、わたしのは障子の骨で作った金太郎だった。

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貞ちやんのは鬚達磨で、私のは障子骨の金太郎だつた。

最初は糸目をおさえられて、こちらの思うままになっていたたこは、高くあがるにしたがって威張りだして、とうとうひとすじの糸で、夢中に空を見あげている揚げ手を支配しはじめる。

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最初糸目をおさへられてこちらの思ふままになつてた凧は高くあがるにしたがひ威張りだして、終にはひとすぢの糸で夢中に空を見あげてる揚げ手を支配しはじめる。

それは「ぶんぶん」うなりながら、ゆーらゆーらとしっぽをふって、大空の海を泳ぐように見える。

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彼はぶんぶんうなりながらゆーらゆーらと尻尾をふつて大空の海を泳ぐやうにみえる。

あまりに引っぱりが強くなって引きずられたり、何か気にさわって回りだしたりすると、なんだかこわくなって

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あんまり張りが強くなつてひきずられたり、なにか気にさはつて廻りだしたりするとなんだか怖くなつて

「かんにんだー、かんにんだー」

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「かんにんだー、かんにんだー」

とあやまりながら、一生けんめい糸をゆるめて機嫌をなおしてもらう。

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とあやまりながら一所懸命だまをだして機嫌をなほしてもらふ。

おそろしいのは、鳶頭(とびがしら)の息子があげる八枚の童子格子だった。

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恐しいのは鳶頭の息子のあげる八枚の童子格子だつた。

とうのでっぱりのうなりが、胸のすくような音をひびかせて、長いしっぽの先が力強くはねあがり、ぴんと張った糸目のあたりに、きらりきらりと刃物のようなかざりが光っている。

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籐のでつぱりうなりが胸のすくやうな音を漂はせて長い尻尾の先が力づよくはねあがり、ぴんと張つた糸目のへんにきらりきらりとがんぎりが光つてゐる。

下の町のいじめっ子があげる、はんにゃ(般若)の二枚だこは、みんなにきらわれていた。

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下の町のいぢめつ子のあげるはんぎや(般若)の二枚凧はみんなに嫌はれてゐた。

そいつは最初からけんかを売るつもりでしっぽもつけずに「もってん(結び方の一種)」

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そいつは初手から喧嘩を売るつもりで尻尾もつけずに「もつてん」

にして、「びいびい」といやな音の紙うなりを鳴らしながら、しつこくあげる。

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にして、びいびいといやらしい紙うなりを鳴らしながらこづきどほしにしてあげる。

中心の糸目を詰められて、いっそう顔をしかめた般若は、気の変になったようになって近所のたこに食ってかかり、新発明の錨形の刃物で、たちまち糸をかみ切ってしまう。

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しんの糸目をつめられて一層顔をしかめた般若は気ちがひみたいになつて近処の凧にくつてかかり新発明の錨のがんぎりで忽ち糸を噛みきつてしまふ。

わたしたちは、そのけんかだこがいないときを見計らってあげに行く。

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私たちはその喧嘩凧のゐないときをみてあげにゆく。

片手に重たい糸巻きを持ち、片手に糸目を手綱の形にとって行くと、たこは競走馬のようにはやりにはやって、ともすればびんびん飛びだそうとする。

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かた手に重たい糸巻をもち、かた手に糸目を轡の形にとつてゆくと凧は競馬うまのやうにはやりにはやつてともすればびんびん飛びださうとする。

風の強い春の空に、勢いよくあがっているたこの中で、うぬぼれかもしれないが、障子骨の金太郎はひときわ目立って見えた。

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風つぽい春の空に気負つてあがつてる凧のなかでうぬぼれか障子骨の金太郎はひときは目だつてみえた。

何もかも忘れてあげているうちに、いつのまにかよその子はみんな帰ってしまい、暮れかかった原っぱの中に自分たちだけになっている。

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なにもかも忘れてあげてるうちにいつかよその子はみんな帰つて暮れかかつた原のなかに自分たちばかりになつてゐる。

ふとそれに気づくと、急に心細くなり、あわてて糸をたぐるけれど、そんなときにかぎって引っぱりが強くなって、あせってもあせってもなかなかおろせない。

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ふとそれに気がつくと急に心細くなりあわてて糸をたぐるけれどそんな時にかぎり張りが強くなつてあせつてもあせつてもなかなかおろせない。

そのうちに日はどんどん沈んで、刻一刻と暗くなる空に、金太郎とだるまの目玉が光るのだけが見える。

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そのうちに日はずんずん沈んで、刻刻暗くなる空に金太郎と達磨の眼玉が光るのばかりがみえる。

お互いに気持ちはちゃんとわかっていながら、負けおしみで平気なふりをして、「晩までおろせなかったらどうしよう、すっかり糸をゆるめるんじゃなかったのに」などと思いながら、やっとのことでおろして糸を巻き終わると、それまでいっぱいになっていた胸がからりとして、思わず顔を見合わせ、「わはははは」と笑う。

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お互に気もちはちやんとわかつてゐながら負け惜みの平気を装つて、晩までおろせなかつたらどうしようかしらん、すつかりだまをだすんぢやなかつたのに なぞと思ひながらやつとこさとおろして糸をまきをはるとそれまでいつぱいになつてた胸がからりとして思はず顔を見あはせ わはははは と笑ふ。

そうして

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さうして

「僕、さっきどうしようかと思っちゃった」

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「僕さつきどうしようかと思つちやつた」

などと本音を言いながら

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なぞと本音をはきながら

「だれにも内緒にしよう」

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「誰にも内證にしよう」

とかたく約束して帰る。

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と堅く約束して帰る。

十三

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十三

夏は毎日、せみとりに夢中になる。

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夏は毎日蝉とりにうき身をやつす。

黐(もち・鳥やせみをとる粘りけのある液)でとると羽がよごれるといって、砂糖の袋をさおの先につけ、庭から墓場へとさがして歩く。

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もちでとると翅がよごれるといつて三盆白の袋を竿のさきへつけ庭から墓場へとさがしてあるく。

木が多いので、ひと回りするうちにはいやになるほどとれる。

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木が多いので一順まはるうちにはいやになるほどとれる。

あぶらぜみはうるさいばかりで見た目もよくないので、とってもはりあいがない。

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あぶらはやかましいばかり、見かけがよくないのでとつても張りあひがない。

みんみんぜみは丸々と太っていて、鳴き声もとぼけている。

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みんみんはまるまるとふとつて鳴き声もへうげてゐる。

つくつくぼうしは鳴き声がおもしろく、それにすばしっこいのを目のかたきにして追いまわす。

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法師蝉は歌がおもしろく、それにすばやいのを目のかたきにして追ひまはす。

ひぐらしは手におえない。

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ひぐらしは手におへない。

鳴かないせみが袋の中で身をもだえるのはあわれである。

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唖蝉の声もたてずに袋のなかで身をもだえるのはあはれである。

また、わたしたちはその季節ごとに実のなる木から木へと、小鳥のようにあさり歩く。

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また私たちはその季節季節に実のなる木から木へと小鳥のやうにあさりあるく。

すもものような杏の花が青白く散ったあとに、豆ほどの実が日に日にふくらんでいくのを、もどかしく眺めているうちに、いつのまにかすずめの卵からはとの卵くらいになって、みずみずしく黄色みを帯び、ほおのように赤みをおびてきて、しまいには枝がしなって地面についてしまう。

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ぼたん杏の花が蒼白く散つたあとに豆ほどの実が日に日にふくらんでゆくのをもどかしく眺めてるうちいつか雀の卵から鳩の卵ぐらゐになつて、みづみづと黄味を帯び、頬みたいに赤みをきざし、しまひには枝が撓んで地についてしまふ。

そうなると、おなかを痛めないかぎりで許しが出るので、こっそりとひまさえあればちぎって、げっぷが出るまで食べる。

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さうなると腹を痛めないかぎりに許しがでるのをこつそりとがなすきがなちぎつてぼたん杏の噯気おくびがでるまでくふ。

それでも食べきれないので、紫色に熟しすぎたのが「ぼたりぼたり」と落ちる。

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それでも食ひきれないので紫色にうみすぎたのがぼたりぼたりと落ちる。

それをからすがねらって来て、にくらしそうにおしりをふってつつきまわる。

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それを烏がねらつてきて憎体にくていに尻をふつてつつつきまはる。

楽しみなのは、くりのさかりだった。

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楽しみなのは栗のさかりであつた。

ひとりは竹ざおを持ち、ひとりはざるをかかえて、鋭い目で墓地を歩く。

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ひとりは竹竿をもち、ひとりは笊をかかへて鵜の目鷹の目墓地をあるく。

めっきりつゆがたれそうにふくらんでいるのを見つけたときのうれしさといったらない。

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めつきりと露がたれさうにゑんだのをみつけたときの嬉しさといつたらない。

さおの先で「ちょんちょん」とたたいてみると、いがが「ぴょいぴょい」と首をふって、いかにもおいしそうな手ごたえがする。

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竿のさきでちよんちよんとたたいてみるといががぴよいぴよいと首をふつてさもうまさうな手ごたへがする。

そこで「こつん」とひとつたたく。

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そこでこつんとひとつくはす。

「ばらばら」と落ちる。

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ばらばらと落ちる。

とんでいって拾いこむ。

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とんでつて拾ひこむ。

そして、三つにひとつは味見と称して食べてしまう。

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そして三つにひとつはためひにくつてしまふ。

いちご。

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いちご。

かき。

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柿。

ゆすらうめやなつめは、それほどおいしくなくても、意地きたなくひとつも枝に残さない。

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ゆすらや棗はさほどでもないのを意地きたなでひとつも枝には残さない。

かりんは木のようすに似合わない優しい花がさき、その花に似合わない、ごつごつした実がなる。

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かりんは木ぶりに似あはぬやさしい花がさき、その花に似あはぬいかつい実がなる。

「どさりどさり」と落ちるばかりで、香りはよくてもしぶくはあるし、それに石みたいで歯もたたない。

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どさりどさりと落ちるばかりで匂はよくても渋くはあるし、それに石みたいで歯もたたない。

広い庭のあちこちにつくられた花壇や、たくさんある立ち木には、季節ごとに花が絶えることがなかった。

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広い庭のあちこちにつくられた花壇や沢山ある立木にはそのをりをりに花の絶えることがなかつた。

ゆり、ひまわり、金せんか、千日草、葉げいとう、魚の卵に似たしゅろの花など。

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百合、ひまはり、金盞花、千日草、葉鶏頭、魚の卵に似た棕櫚の花など。

夏のはじめには、この庭の自然が何よりわたしの心を楽しませた。

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夏のはじめにはこの庭の自然は最も私の心を楽しませた。

春の終わりの、かすみに息苦しくなるような、南風と北風が交互に吹いて、寒暖晴雨の変わりやすい落ち着かない季節がすぎ、天地はまったく若々しくすがすがしい初夏の季節となる。

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春の暮の霞にいきれるやうな、南風と北風が交互に吹いて寒暖晴雨の常なく落ちつきのない季節がすぎ、天地はまつたくわかわかしくさえざえしい初夏の領となる。

空は水のように澄み、日光はあふれ、涼しい風は吹きおろし、紫の影はそよぎ、あの陰気なまきの木までが、心から思えばいつになく晴れやかに見える。

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空は水のやうに澄み、日光はあふれ、すず風は吹きおち、紫の影はそよぎ、あの陰鬱な槙の木までが心からかいつになくはれやかにみえる。

ありはあちこちに塔を築き、羽虫は穴を出てわがもの顔に飛びまわり、かわいいクモの子は木の枝や軒下で夕暮れの舞いをはじめる。

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蟻はあちこちに塔をきづき、羽虫は穴をでてわがものがほに飛びまはり、可愛い蜘蛛の子は木枝や軒のかげに夕暮の踊りをはじめる。

わたしたちは、灯心草でじむしをつり、じばちの穴をうめて「きんきん」いう声に耳をすまし、せみのぬけがらをさがし、毛虫をつついて歩く。

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私たちは燈心で地虫をつり、地蜂の穴を埋めてきんきんいふ声に耳をすまし、蝉のぬけがらをさがし、毛虫をつつついてあるく。

すべてのものはみな若く楽しく生き生きとしていて、憎むべきものはひとつもない。

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すべてのものはみな若く楽しくいきいきとして、憎むべきものはひとつもない。

そんなとき、わたしはうす暗いまきの木のかげに立って、静かに静かに暮れていく遠山の色に見とれるのが好きだった。

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そんなときに私は小暗い槙の木の蔭に立つて静に静にくれてゆく遠山の色に見とれるのが好きであつた。

青田が見え、森が見え、風が運んでくる水車の音とかえるの声が聞こえ、向こうの高台の木立の中からは、鐘の音が「こうこう」と響いてくる。

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青田がみえ、森がみえ、風のはこんでくる水車の音と蛙の声がきこえ、むかふの高台の木立のなかからは鐘の音がこうこうと響いてくる。

二人は、空に残る夕日の光をあびて「たをたを」と羽ばたいていく五位さぎの群れを見送りながら、夕焼け小焼けをうたう。

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二人は空にのこる夕日の光をあびてたをたをと羽ばたいてゆく五位のむれを見おくりながら夕やけこやけをうたふ。

たまには白さぎも長い脚をのばして飛んでいく。

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たまには白鷺も長い脚をのばしてゆく。

十四

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十四

地上の花を暖かい夢につつんで、とろとろとほほえましくする銀色のかげろうの中に、その夢の国の女王のように、花壇にはここかしこに牡丹がさく、白や、赤や、紫や。

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地上の花を暖い夢につつんでとろとろとほほゑましめる銀色の陽炎かげろふのなかにその夢の国の女王のごとく花壇にはここかしこに牡丹がさく、白や、紅や、紫や。

これも夢のもののように、いろいろな羽衣を着たちょうが、ひらひらと来て花にたわむれ、まだら模様のかぶと虫は、花粉にまみれてどっぷりと蜜に酔う。

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これも夢のもののいろいろの羽衣をきた蝶蝶はひらひらときて花に戯れ、まだらの甲虫は花粉にまみれてずつぷりと蜜によふ。

いつもかたく閉ざされて物音もしない離れの障子があいて、ひじかけによりかかった老僧の姿が見えるのは、このころである。

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いつもかたくとざされてもの音もしない離れの障子があいて脇息につた老僧の姿のみえるのはこの頃である。

離れの前には老僧の大事にしている牡丹の古木があり、うす紅の一重の花びらに、かぐわしい香りをふくんで、ふっくらと花を開く。

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離れのまへには老僧の秘蔵の牡丹の古木があり淡紅のひとへの花びらに芳しい息をふくんでふくらかに花をひらく。

そこは、せまい中庭をあいだに、母屋とは弓なりの橋ひとつをへだてて、日当たりのいい縁の下には秋海棠(しゅうかいどう・花の名)のひとり生えが茂り、向かって左のはしには青ぎり、右のはしにははくうん木(木の名)が涼しいかげをつくっていた。

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そこは狭い中庭をあひだに母屋とは弓なりの橋ひとつをへだてて、日あたりのいい縁のしたには秋海棠のひとり生えがしげり、むかつて左の端には青桐、右の端にははくうん木が涼しい蔭をつくつてゐた。

七十七になる老僧は、そこに閉じこもって、朝夕の看経(かんきん・お経を読むこと)のほかには物音もたてない。

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七十七になる老僧はそこにとぢこもつて朝夕の看経かんきんのほかにはもの音もたてない。

わたしたちは、ただいつのまにか、すき間からもれてくるお香のかおりによって、そこに石のように静まりかえった人がいることを知るばかりだった。

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私たちはただいつとはなしに隙をもれてくる薫物のかをりによつてそこに石のごとくにしづまりかへつた人のゐることを知るばかりであつた。

どうかすると、老僧はお茶がほしいときに、ひぐらしの鳴くような音のする鈴を鳴らすことがあった。

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どうかすると老僧は茶がほしいときに蜩の鳴くやうな音のする鈴をならすことがあつた。

それでも聞きつける者がいなければ、修行僧のようにお茶わんを手に持って、とことこと橋をわたり、自分でお茶をいれてゆく。

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それでもききつける者がゐなければ鉢の子のやうに茶碗を手にうけとことこと橋をわたつて自分で茶をいれてゆく。

また、ときたま仏事に呼ばれて、頭巾を斜めにかぶり、片手に数珠、片手に杖をついて、とぼとぼと歩いていく姿を見る者で、この見すぼらしい坊さんが、何かのときには赤い法衣を着る人だと思う者はいなかった。

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また時たま仏事によばれて頭巾を阿禰陀にかぶり、かた手に数珠、かた手に杖をついてとぼとぼと歩いてゆく姿をみる者はこの見すぼらしい坊さんがなにかの時には緋の法衣をきる人だと思ふ者はなかつた。

まことにこの老僧は、人間の世界とは橋ひとつをへだてて、世の中には夏になれば牡丹がさくということのほかは何も知らないかのように、ひっそりと行いをつつしんでいる。

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まことにこの老僧は人間の世界とは橋ひとつをへだてて世のなかには夏になれば牡丹がさくといふことのほかなんにも知らないかのやうに寂寞と行ひすましてゐる。

わたしはいつしか子ども心に老僧を敬う気持ちが起こり、どうにかしてこの人にすがりたいと思いはじめた。

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私はいつしか子供心に老僧を敬ふ念をおこしどうかしてこの人にすがりたいと思ひはじめた。

そのころには、もうすっかりお寺の人たちと親しくなっていたので、貞ちゃんがいてもいなくても毎日のように遊びに行って、年寄りのするように手を腰に回して庭を歩いたり、冷たい墓地を回ったりして、ときどき人の身の上や自分の身の上を思って涙をうかべることもあった。

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そのじぶんにはもうすつかり寺の人たちと心安くなつてたので貞ちやんのゐるゐないにかかはらず毎日のやうに遊びにいつて、年寄りのするやうに手を腰にまはして庭をあるいたり、冷たい墓地をまはつたりして、をりをり人の身のうへや自分の身のうへを思つて涙をうかめることもあつた。

……わたしは、くさりを引きずる囚人が自分の姿を恥じるような気持ちで、いつもうなだれて足もとを見つめながら、考えこんで歩くのがくせだった。

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……私は鎖をひきずる囚人が己の姿を愧づるやうな気もちでいつもうなだれて足もとを見つめながら考へこんで歩くのが癖であつた。

十五

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十五

ある日のこと、貞ちゃんの留守にひとりで遊んでいたときに、離れでいつものひぐらしの鈴が鳴った。

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ある日のこと貞ちやんの留守にひとりで遊んでたときに離れでれいの蜩の鈴が鳴つた。

けれど、運悪く茶の間にはだれもいなかったので、わたしは思いきって離れへ行った。

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が、折あしく茶の間には誰もゐなかつたので私は思ひきつて離れへいつた。

橋をわたったところのうす暗い部屋には、衣桁(いこう・着物をかける道具)に輪袈裟(わげさ)や数珠がかかって、お香のかおりが「すーん」ともれてくる。

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橋をわたつたところのうす暗い部屋には衣桁いかうに輪袈裟や数珠がかかつて香の薫がすーんともれてくる。

わたしはそこまで行きはしたものの、急に気おくれがしてためらっていた。

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私はそこまでゆきはしたものの急に気おくれがしてためらつてゐた。

耳の遠い老僧は、足音が聞こえなかったのか、また「からから」と鈴を鳴らした。

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耳の遠い老僧は足音がきこえなかつたかまたからからと鈴を鳴らした。

わたしはやっとふすまをあけて、手をついた。

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私はやうやく襖をあけて手をついた。

老僧は何気なく大きな茶たくをさし出したが、ふと顔を見て

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彼方はなにげなく大きな茶托をさしだしたがふと顔をみて

「おお、これはこれは」

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「おお、これはこれは」

と言った。

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といつた。

わたしはまぶたをふるわせながらおじぎをして茶たくを受けとり、はずかしいような、うれしいような、大きな願いがかなったような気持ちで、茶の間へ来て、見おぼえたとおりそこにある番茶をいれて持っていった。

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私は瞼をふるはせながらお辞儀をして茶托をうけとり、はづかしいやうな、嬉しいやうな、大願成就したやうな気もちで茶の間へきて見おぼえたとほりそこにある番茶をいれてもつていつた。

橋が朽ちてゆらゆらするので、ともすればこぼれそうになる。

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橋が朽ちてゆらゆらするのでともすればこぼれさうになる。

頭を下げて差し出したら、また

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頭をさげて出したらまた

「おお、これはこれは」

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「おお、これはこれは」

と言った。

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といつた。

わたしは静かにふすまをたてて、ほっとして橋をわたった。

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私は静に襖をたてほつとして橋をわたつた。

それからは、ときどき家の人の代わりに行くことがあったが、わたしはいつも「どうにかして話をする機会を得たい」とそればかり願っていながら、前に出ると何ひとつ言えずに、だまってお茶わんを受けとり、だまってお茶わんをさし出して帰ってくる。

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それからはときどき家の人のかはりにゆくことがあつたが、私はいつも どうかして話をする機会を得たい とそればかり願つてゐながら前へでるとなにひとついひ得ずに黙つて茶碗をうけとり、黙つて茶碗をさしだして帰つてくる。

向こうはふくろうか何かのように「おおこれは」をくりかえすばかりで、少しも言葉をかけない。

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さきは梟かなぞのやうに おおこれは をくりかへすばかりでちつとも言葉をかけない。

黒ぬりの茶たくを手に受けて橋をわたるとき、南天の実を食べに来たひよどりが、あわただしく飛びたって茶をこぼさせたこともあった。

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黒塗りの茶托を手にうけて橋をわたるとき南天の実をくひにきたひよ鳥があわただしくたつて茶をこぼさせたこともあつた。

月の夜など、白い花が「ほろほろ」と橋の上に散っていたこともあった。

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月の夜なぞに白い花がほろほろと橋のうへに散つてたこともあつた。

そんなふうに橋をわたっていくこともたびたびだったが、この枯れ木のような世捨て人には、とりつくすきもない。

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そんなにして橋をわたつてゆくこともたびたびであつたけれどこの枯木のやうな隠者にはとりつくしまもない。

ところが、あるときまた「からから」と鈴が鳴って、いつものとおりお茶わんを置いて帰ろうとしたら、意外にも後ろから呼びとめて

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ところがある時またからからと鈴がなつて、いつものとほり茶碗をおいて帰らうとしたら意外にも後ろから呼びとめて

「絵をかいてあげるから、紙を買っておいで」

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「絵をかいてあげように紙を買つておいで」

と言った。

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といつた。

わたしはきつねにつままれた気持ちで、からかみ(絵をかく紙)を買ってきて老僧の前に出した。

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私は狐につままれた気もちで唐紙を買つてきて老僧のまへに出した。

老僧は、根が生えたようにすわっていたひじかけのそばから立って、日当たりのいい隣の部屋へわたしを連れていった。

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老僧は根の生えたやうに坐つてる脇息のそばから立つて日あたりのいい隣の間へ私をつれていつた。

部屋はすっかりしぶ色にすすけていて、「椿寿(ちんじゅ)」と書いた小さいがくがかかっている。

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部屋は悉く渋色に燻ぼつて 椿寿 と書いた小さい額がかかつてゐる。

いつになく近くにすわらされて、汗ぐっしょりになりながら、今までこの人を死ぬまでも石仏みたいにして鈴を鳴らす人だと決めていたわたしは、その一挙一動を、何か珍しいことのようにじっと眺めていた。

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いつになく間ぢかく坐らされて汗ぐつしよりになりながら今までこの人を死ぬまでも石仏みたいにして鈴を鳴らす人ときめてた私はその一挙一動をなにか珍しいことのやうにじつと眺めてゐた。

老僧は大きなすずりを持ち出して墨をすらせ、筆をとって「さらさら」とへちまの絵をかいた。

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老僧は大きな硯をもちだして墨をすらせ、筆をとつてさらさらと糸瓜の絵をかいた。

一枚の葉と、一本のつると、ひとつのへちまと。

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一枚の葉と、一本の蔓と、一つの糸瓜と。

その上に「世の中をなんのへちまと思えども、ぶらりとしては暮らされもせず」とかき、急須(きゅうす)みたいな形のサインをして、あちこち見まわしていたが、不意に「からから」と笑って

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そのうへへ 世のなかをなんのへちまと思へどもぶらりとしてはくらされもせず とかき急須みたいな書判をしてとみかうみしてたが、不意にからからと笑つて

「さあ、これをあげるから、あちらへ持っておいで」

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「さあ、これをあげるであちらへもつておいで」

と言って、すずりを棚にのせ、筆を洗い、さっさと座席に帰って、もとの石仏になってしまった。

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といつて硯を棚にのせ、筆を洗ひ、さつさと金剛座へ帰つてもとの石仏になつてしまつた。

わたしは、木から落ちたさるのように、すごすごとへちまの絵を持って家へ帰った。

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私は木から落ちた猿のやうにすごすごと糸瓜の絵をもつて家へ帰つた。

老僧が亡くなったのは、それから三年ほど後のことだった。

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老僧がなくなつたのはそれから三年ばかり後のことであつた。

わたしは中学に入り、貞ちゃんは奉公に出て、寺とはいつのまにか行き来がなくなっていたが、ある晩突然「老僧が亡くなったから」という知らせが来たので、わたしは父といっしょにお悔やみに行った。

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私は中学へはひるし、貞ちやんは奉公にでるし、寺とはいつとはなしにうち絶えてたがある晩突然 老僧がなくなつたから といふ使がきたので私は父といつしよに悔みにいつた。

老僧はこれといった病気もなく、いわば寿命がつきたので、あちこちの住職になっている昔のお弟子たちが、かわるがわる世話をしていたのだそうだ。

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老僧はこれといふ病気もなくいはば寿命がつきたので、方方の住職になつてる昔のお弟子たちがかはるがはる世話をしてたのださうだ。

久しぶりで思い出の多い橋をわたったら、離れにはお香の煙がたちこめて、大般若(お経の行事)のときに見おぼえのあるお坊さんたちが大勢集まって話していた。

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久しぶりで思ひ出の多い橋をわたつたら離れには香の煙がたちこめて大般若のときに見おぼえのある坊さんが大勢よつて話してゐた。

老僧はへちまをかいてくれた座敷に置いてある曲彔(きょくろく・僧の使ういす)の上に金らんの袈裟(けさ)をかけ、払子(ほっす・僧の持つ道具)を持って、昔のままの石仏のように静かにすわっていた。

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老僧はへちまをかいてくれた座敷に据ゑてある曲彔きよくろくのうへに金襴の袈裟をかけ、払子ほつすをもつて、昔ながらの石仏のやうに寂然と扶坐ふざしてゐる。

わたしはその前へ行って、昔のとおり頭を下げて焼香した。

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私はそのまへへいつて昔のとほり頭をさげて焼香した。

わたしたちが「僧正遍昭(そうじょうへんじょう)」とあだ名をつけたでっぷりした和尚さんが

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私たちが僧正遍昭と綽名をつけたでこでこな和尚さんが

「大往生じゃ、大往生じゃ」

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「大往生ぢや 大往生ぢや」

と言いながら、そば饅頭をぱくぱく食べていた。

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といひながら蕎麦饅頭をぱくぱくくつてゐた。

わたしは、ますます木から落ちたさるだった。

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私はいよいよ木から落ちた猿であつた。

十六

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十六

いい道連れがあったのを幸いに、伯母さんが先祖代々の墓参りのため、またなんとなく生まれ故郷の古い思い出が心を動かして、ほんのしばらくのつもりでこちらを出発したのは、何年か前のことだった。

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いい道づれのあつたのを幸に伯母さんが先祖代代の墓参のため、またなにがなし生国の古い思ひ出が心を動してほんの暫くのつもりでこちらをたつたのは何年か前のことであつた。

それが、先に行きついて間もなく急に病気になり、一時は「もうだめだ」とまで言われたのが、寿命があったとみえて、どうにかこうにか回復はしたものの、年が年なのでひどく体が弱って、もう出てくることができなくなり、自分でもあきらめて、遠い親戚の留守番を頼まれることになった。

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それが先へ行きつくと間もなくどつと煩ひついて一時はいけないとまでいはれたのが、寿命があつたとみえてどうぞかうぞ本復はしたものの年が年ゆゑひどく身体が弱つてもう出てくることができなくなり、自分でも諦めて遠い縁家の留守番に頼まれることになつた。

「かわいい子には旅をさせろ」という昔ふうな父の思いつきから、十六の年の春休みに、わたしは生まれつきの憂うつな性格を治すために、京阪地方へ旅行させられた。

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可愛い子には旅をさせろといふ昔風な父の思ひつきから十六の年の春休みに私は持つて生れた憂鬱症をなほすために京阪地方へ旅行をさせられた。

それで病気が治ったのか、わたしは家から呼びもどされるまで、いい気になって遊びまわっていたが、その帰りに、いよいよいとまごいのつもりで伯母さんのところを訪ねることにした。

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それで病気がなほつたかして私は家から呼びもどされるまでもいい気に遊びまはつてたが、その帰りにいよいよのお暇乞ひのつもりで伯母さんのところを訪ねることにした。

伯母さんの住んでいるのは「お船手」

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伯母さんの住んでるのは「お船手」

といって、旧幕府の時代に藩の船手組(ふなてぐみ・水軍の役人)がいたという、川ばたの小さな家がたてこんだ一角だった。

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といつて旧幕時代に藩の御船手組のゐたといふ川ばたの小さな家のたてこんだ一郭であつた。

それで、なかなかすぐには家がわからず、日が暮れるまでたずねあぐねたあげく、とある荒物屋の向かいの、お寺のような門の中へ入っていった。

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で、なかなかちよいとには家がしれず、日の暮れるまでたづねあぐんだあげくとある荒物屋のむかひのお寺のやうな門のなかへはひつていつた。

そこには人が住んでいるのかいないのか、すっかり古びてがらんとしていて、草一本もないかわりに木も一本もなく、むき出しでからからしている。

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そこには人が住んでるのかゐないのか、古びきつてがらんとして、草一本もないかはりには木も一本もなく、赤裸でからからしてゐる。

わたしは開け放しの上がり口に立って、二、三回声をかけてみたが、いっこうに返事がない。

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私はあけ放しの上り口に立つて二三遍声をかけてみたがいつかう返事がない。

知らない土地ではあり、夜にはなるし、心細くなってあたりを見まわしたときに、左手の、庭とも言えない二坪ほどの空き地との境にある小さな木戸が目についた。

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知らない土地ではあり、夜にはなるし、心細くなつてあたりを見まはしたときに左ての庭ともいへない二坪ほどの空地との境にある小さな木戸が目についた。

そっとあけてのぞいてみたら、きたないおばあさんがひとり、暗いのに明かりもつけず、縁側でえびみたいにかがんで縫いものをしている。

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そうつとあけて覘いてみたら汚い婆さんがひとり暗いのにあかりもつけず縁先で海老みたいにこごんで縫ひものをしてゐる。

わたしは、ことわりもなくよその庭先に入ったのが気がとがめて、思わず一足あとへさがったけれど、もうほかにたずねるところもないので、木戸の上から身をかがめて

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私は案内もなくよその庭先へはひつたのに気がとがめて思はず一足あとへさがつたけれど、もうほかにたづねるところもないので木戸のうへから身をかがめて

「ごめんなさい」

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「ごめんなさい」

と声をかけた。

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と声をかけた。

おばあさんは知らんふりをして針をはこんでいる。

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婆さんは知らん顔して針をはこんでゐる。

「ごめんなさい」

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「ごめんなさい」

耳が聞こえないのかしら。

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聾なのかしら。

荷物をさげている手は、さっきからぬけそうなのだ。

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荷物をさげてる手はさつきからぬけさうなのだ。

たまらなくなって

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たまらなくなつて

「少々うかがいます」

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「少少伺ひます」

と言いながら、思いきって入ったら、やっと気づいたらしく、ひょいと顔をあげた。

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といひながらずつとはひつたらやつと気がついたらしくひよいと顔をあげた。

暗いのでよくは見えないが、年老いて見るかげもなくやせこけてはいるが、それはたしかに伯母さんだった。

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暗いのでよくは見えないが、老いさらばつて見るかげもなく痩せこけてはゐるが、それはたしかに伯母さんだつた。

わたしはただもうはっとして、その顔を見つめていた。

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私はただもうはつとしてその顔を見つめてゐた。

伯母さんはあわてて仕事をかたよせ、縁側に手をつき、かしこまった様子になって

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伯母さんはあわてて仕事をかたよせ、縁側に手をつき畏つた形になつて

「どなた様でございます。このごろ、ちっとも目が見えませんで」

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「どなた様でございます。この節ちよつとも眼がみえませんで」

「………」

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「………」

「耳もえろ遠なりましてなも」

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「耳もえろ遠なりましてなも」

「それでひと様に御無礼ばっかいたします」

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「それでひと様に御無礼ばつかいたします」

こちらがいつまでもだまっているので、すこし乗り出すようにして

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こちらがいつまでも黙つてるものですこしのりだすやうにして

「どなた様でございます」

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「どなた様でございます」

とくりかえす。

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とくりかへす。

わたしは胸がいっぱいなのをやっとの思いで

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私は胸一杯なのをやつとの思ひで

「わたしです」

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「私です」

と言った。

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といつた。

それでもまだ

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それでもまだ

「どなた様でいらっしゃるいなも」

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「どなた様でゐらつせるいなも」

と言って、しげしげと人を見あげ見おろししていたが、なにはともあれ、親しい人にはちがいないと思ったらしく、立ちあがって、奥の火鉢のそばにあったせんべい布団を仏だんのわきにしいて

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といつてしげしげとひとを見あげ見おろししてたがなにはともあれ心やすい人にはちがひないと思つたらしく、立ちあがつて奥の火鉢のそばにあつた煎餅蒲団を仏壇のわきにしいて

「さあどうぞおあがりあすばいて」

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「さあどうぞおあがりあすばいて」

と招き入れるように腰をかがめた。

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と招じいれるやうに腰をかがめた。

そのあいだに、わたしはやっと気を落ち着けて、笑いながら

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そのあひだに私はやうやく気をおちつけて笑ひながら

「伯母さん、わかりませんか。□□です」

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「伯母さんわかりませんか。□□です」

と言ったら

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といつたら

「え」

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「え」

と言って、縁側へとんできて、しばらくはまばたきもせずに人の顔をのぞきこんだあげく、涙をほろほろとこぼして

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といつて縁先へ飛んできて暫くは瞬きもしずにひとの顔をのぞきこんだあげく涙をほろほろとこぼして

「□さかや。おお、おお、□さかや」

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「□さかや。おお おお □さかや」

と言いながら、自分よりずっと背が高くなったわたしを、頭から肩から、お賓頭盧様(おびんずるさま)みたいになでまわした。

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といひいひ自分よりはずつと背が高くなつた私を頭から肩からお賓頭盧様みたいに撫でまはした。

そうして、人が消えてなくなりでもするかのように少しも目をはなさず

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さうしてひとが消えてなくなりでもするかのやうにすこしも眼をはなさず

「まあ、そのいに大きならんして、ちょっともわかれせんがや」

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「まあ、そのいに大きならんしてちよつともわかれせんがや」

と言いながら、火鉢のそばにすわらせ、あいさつもそこそこに、もっとなでたそうな様子で

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といひながら火鉢のそばに坐らせ、挨拶もそこそこにもつと撫でたさうな様子で

「ほんによう来とくれた、まあ死ぬまで会えんかしらんと思っとつたに」

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「ほんによう来とくれた、まあ死ぬまで逢へんかしらんと思つとつたに」

と、おがまんばかりにして涙をふく。

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と拝まないばかりにして涙をふく。

十七

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十七

伯母さんは古ぼけた行灯(あんどん)に火をともし

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伯母さんは古ぼけた行燈に火をともし

「ちょっと待っとっとくれんか、ちゃっとそこまで行ってくるに」

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「ちよつと待つとつとくれんか、ちやつとそこまでいつてくるに」

と言って、足もとの悪いのをこぼしこぼし、縁側からいざりおりて、どこかへ出ていった。

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といつて足もとのわるいのをこぼしこぼし縁側からゐざりおりてどこかへ出ていつた。

わたしはひとりでぼんやりしながら「これが見おさめだな」と思った。

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私はひとりでぼつねんとしながら これが見をさめだな と思つた。

そして、思っていた以上の伯母さんの衰えぶり、知らぬまに自分が大きくなっていたこと、昔のことなどを考えているうちに、とことこと足音がして、伯母さんはひとりふたりの知らない人を連れてきた。

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そして予想以上の伯母さんの衰へやう、知らぬまに自分が大きくなつてたこと、昔のことなど考へてるうちにとことこと足音がして、伯母さんはひとりふたりのしらない人をつれてきた。

それは、今生き残っている伯母さんの昔なじみで、みんな近所に住んで、お互いに話し相手になっているのだという。

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それは今生きのこつてる伯母さんの古馴染で、みんな近処に住んでお互に話し相手になつてるのだといふ。

伯母さんはうれしまぎれに、前後の考えもなく

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伯母さんは嬉しまぎれに前後の見さかひもなく

「東京から□さが来たに、ちゃっといっぺん来てちょうだえんか」

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「東京から□さがきたにちやつといつぺん来てちやうだえんか」

と言って、呼び集めてきたのである。

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といつて呼び集めてきたのである。

これらの、用のない、気楽な、気のいい人たちは、いつもいやになるほど聞かされている「□さ」

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これらの用のない、気楽な、気のいい人たちはつねづねいやになるほどきかされてる「□さ」

とはどんな子かしらという、いくらかの好奇心をもってやってきたのだが、そのうわさの「□さ」

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とはどんな子かしらといふ多少の好奇心をもつてやつてきたのだが、その評判の「□さ」

もやっぱりごくふつうの子どもであるのを見て、親切にもまた家へ引き返して、砂糖をたっぷり入れたとうもろこしせんべいを、火にあぶればくるくるとねじれて手に負えないやつをたくさん持ってきて、焼いてくれた。

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もやつぱりあたりまいの子供であるのをみ、親切にもまた家へとつてかへして砂糖をたつぷり入れたもろこしせん餅の火にあぶればくるくるねぢくれて手におへないやつを沢山もつてきて焼いてくれた。

わたしが夕飯まえなのに気づいた伯母さんは、みんなが代わりに行こうと言うのを、それが自分の幸せな特権であるかのように意地をはって、家紋つきの小田原ちょうちんをさげて、おかずを買いに出ていった。

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私が飯まへなのに気がついた伯母さんはみんながかはりに行かうといふのをそれが自分の幸福な特権であるかのやうに剛情をはり定紋つきの小田原提灯をさげてさいを買ひに出ていつた。

そのあとで、わたしは人々から、「この家の女主人は、娘の嫁ぎ先へもう長いこと手伝いに行っていて、伯母さんがひとりで留守をしている」ということ、「厄介になるのが心苦しいと言って、見えない目で家の仕事をしているのだ」ということなどを聞いているうちに、伯母さんは息せき切って戻ってきて、台所に豆ランプをつけ、ことことと晩ごはんの支度をしながら、東京のだれかれの様子をたずねたりする。

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そのあとで私は人たちから この家の女主人は娘の嫁入先へもうながいこと手伝ひにいつてるのを伯母さんがひとりで留守をしてるといふこと、厄介になるのが気がせつないといつて見えない眼で家の仕事をしてるのだといふことなどきいてるうちに伯母さんは息せききつて戻つてきて台所に豆らんぷをつけ、ことことと晩飯の支度をしながら東京の誰かれの様子をたづねたりする。

みんなはちょうどよいころあいを見て帰っていった。

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みんなはいい頃あひをみて帰つていつた。

伯母さんは

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伯母さんは

「こんなとこだで、なんにもできんに、かねしとくれよ」

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「こんなとこだでなんにも出来んにかねしとくれよ」

と申しわけなさそうに言って、大きなすし皿をわたしのお膳のそばに置き、コンロにかけたなべの中から、ぽつぽつと湯気の立つかれいを、煮えるにしたがってはさんできて、「もういらない」と言うのを

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と申訳なささうにいつて大きな寿司皿を私の膳のそばにおき、こんろにかけた鍋のなかからぽつぽつと湯気のたつ鰈を煮えるにしたがつてはさんできて もういらない といふのを

「そんなこと言わずと、たんとたべとくれ」

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「そんなことはいはすとたんとたべとくれ」

と言いながら、とうとうずらりと皿いっぱいに並べてしまった。

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といひながらたうとうづらりと皿一面に並べてしまつた。

気も動転した伯母さんは、どうやってそのもてなしの気持ちを表そうかを考える余裕もなく、魚屋へ行ってそこにあったかれいを全部買ってきたのだった。

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気も転倒した伯母さんはどうしてその歓迎の意を示さうかを考へる余裕もなく魚屋へいつてそこにあつた鰈を洗ひざらひ買つてきたのであつた。

わたしは、心からうれしくもありがたくも、二十数匹のかれいを眺めながら、おなかいっぱいに食べた。

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私は心から嬉しくも有り難くも二十幾匹の鰈を眺めつつ腹一杯に食べた。

伯母さんは、あとでさわりはしないかと思うくらい、くるくると働いて用事をかたづけたあと、ひざのつきあうほど近くにちょこんとすわって、その小さな目の中にわたしの姿をしまいこみ、あの遠い遠い極楽までも持っていこうとするかのようにじっと見つめながら、あちこちの話をする。

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伯母さんは後でさはりはしないかと思ふくらゐくるくると働いて用事をかたづけたのち膝のつきあふほど間ぢかにちよこんと坐つて、その小さな眼のなかに私の姿をしまつてあの十万億土までも持つてゆかうとするかのやうにじつと見つめながら四方やまの話をする。

わたしは「そんなに目が悪いのに、仕事なんかしなくても」と、さんざんとめたけれど

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私は そんなに眼がわるいのに仕事なんぞしないでも といつてさんざとめたけれど

「なんにもせんと、ひと様の御厄介になるが気がせつないで」

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「なんにもせすとひと様の御厄介になるが気がせつないで」

と言って、どうしても聞かない。

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といつてどうしてもきかない。

わたしは、伯母さんが家にいたころのことを思い出し、きたない針山から一本の木綿針をぬきとって、あしたの仕事のために糸を通しておいた。

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私は伯母さんが家にゐたじぶんのことを思ひだし汚い針山から一本の木綿針をぬきとつてあしたの仕事のために糸をとほしておいた。

それで、つかれてもいるし、伯母さんの体のことも気づかって、間もなく床についたが、伯母さんは「お阿弥陀様に御礼を申しあげる」と言って、仏だんの前に敬虔にすわり、見おぼえのある水晶の数珠をつまぐりながらお経をあげはじめた。

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で、疲れてもゐるし、伯母さんの体のことも気づかつて間もなく床についたが、伯母さんは お阿彌陀様に御礼を申しあげる といつて、お仏壇のまへに敬虔に坐つて見おぼえのある水晶の数珠を爪繰りながらお経をあげはじめた。

ちらめくろうそくの光に照らされて、病みほうけた体がひょろひょろと動くように見える。

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ちらめく蝋燭の光に照されて病みほうけた体がひよろひよろと動くやうにみえる。

加藤清正のごっこ遊びをしてくれた伯母さん、まくらの引き出しから目ざましの肉桂棒(にっけいぼう)を出してくれた伯母さん、その伯母さんは、影法師みたいになってしまった。

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四王天清正の立廻りをしてくれた伯母さん、枕の抽匣から目ざましの肉桂棒をだしてくれた伯母さん、その伯母さんは影法師みたいになつてしまつた。

伯母さんはやっとお経をすませ、仏だんの扉をたてて、隣の床に入りながら

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伯母さんはやうやくお経をすませ、お仏壇の扉をたてて隣の床にはひりながら

「いつやら、ひどう病んだ時はまあこれがこの世の見おさめかしらんと思ったに、寿命があったとみえて、またこうやって、この世をわずらわしいと思うくらい生きとるが、この年まで生きたで、いつお暇(いとま)してもええと思うて、いつも寝るまえには、お膝もとへお招きにあずかるようにお願い申しては寝るが……」

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「いつやらひどう煩つた時はまあこれがこの世の見納めかしらんと思つたに、寿命があつたとみえてまたかうやつて娑婆ふたげになつとるが、この年まで生きたでいつお暇してもええと思つていつも寐るまへにはお膝もとへお招きにあづかるやうにお願ひ申しては寐るが……」

わたしが夜着をかけるのを見て

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私が夜著をかけるのをみて

「寒いことないかえ、風邪ひいとくれると、どもならんが」

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「寒いことないかえ、風ひいとくれるとどもならんが」

「………」

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「………」

「朝目がさめるとさい、『おお、おお、また命があったわやあ』と思ってなも……」

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「朝目がさめるとさいが おお おお また命があつたわやあと思つてなも……」

話はいつになっても尽きそうになかったが、わたしはちょうどよいところで切りあげて、眠りについた。

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話はいつになつても尽きさうになかつたが私は程よくきりあげて眠りについた。

わたしたちはお互いに邪魔をしまいとして、寝たふりをしていたけれども、二人ともよく眠らなかった。

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私たちは互に邪魔をしまいとして寐たふりをしてたけれども二人ともよく眠らなかつた。

翌朝、まだうす暗いうちに出発するわたしの姿を、伯母さんは門の前にしょんぼりと立って、いつまでもいつまでも見送っていた。

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翌朝まだうす暗いうちにたつた私の姿を伯母さんは門のまへにしよんぼりと立つていつまでもいつまでも見おくつてゐた。

伯母さんは、間もなく亡くなった。

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伯母さんはぢきになくなつた。

伯母さんは、長いあいだ夢見ていたお阿弥陀様の前にすわって、あの晩のような敬虔な様子で、御礼を申しあげているのだろう。

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伯母さんはながいあひだ夢みてゐたお阿彌陀様のまへに坐つてあの晩のやうな敬虔な様子で御礼を申しあげてるのであらう。

十八

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十八

十七の年の夏を、わたしはひとりで、そのころ親しくしていた友だちの家の別荘で過ごした。

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十七の年の夏を私はひとりでそのじぶん親しくしてた友達の家の別荘にすごした。

それは、以前に兄に連れられて行った、美しく静かな半島の海岸の、小山のふところにひっそりと立った、わらぶきの建物で、いっさいの世話は、近所に住んでいるひとり者の花売りのおばあさんがしてくれることになった。

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それは先に兄につれられていつた美しく寂しい半島のその海岸の小山のふところにこつとりとたつた草ぶきの建物で、一切の世話は近処に住んでるひとり者の花売りの婆さんがしてくれることになつた。

ばあやは、亡くなった伯母と同じ地方の出身の人で、こちらでは、年ごろといい、なまりといい、なんとなく伯母のような気がするし、向こうでは、わたしがその土地の言葉もよくわかり、昔の様子も聞きおぼえているので、そんなことから二人はすぐに、へだてのない話し相手になった。

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ばあやはなくなつた伯母と同国の者で、こちらでは年ごろといひ国訛りといひなんとなく伯母のやうな気がするし、さきでは私がその国言葉もよくわかり、昔の様子もききおぼえてるので、そんなことから二人はぢきに隔てのない話し相手になつた。

ばあやは、親代わりの兄がある博打うちの親分のところへ嫁に行けというのを聞かなかったため、生糸を百匁(もんめ)ほど渡されて「これでどうにか、ひとりでやれ」と言われた。

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ばあやは親がはりの兄がある博奕ばくちうちの親分のとこへ嫁にゆけといふのをきかなかつたため生綿を百めほどあてがはれて これでどうなりとひとりでやれ といはれた。

それで、それを糸にして問屋へ持っていっては生糸と交換し、また糸にしては交換した。その手間賃がいくらとか、そのころの米の値段がいくらとかで、差し引きいくらかのお金がやっと残った。

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で、それを糸にして問屋へ持つていつては生綿とひきかへ、また糸にしてはひきかへしたその賃銭がいくらとかで、そのころの米の代がいくらとかで、差しひきいくらかの銭がやうやく残つた。

それで着物をこしらえて縫っているところを兄に見つけられて、「親代わりの兄に相談もなく、そんな物を買った」とひどく叱られ、道すがら機(はた)でも織って善光寺へお参りするつもりで、うっかりと家を出てしまった。

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それで著物をこしらへて縫つてるところを兄に見つけられて 親がはりの兄に話もなしにそんな物を買つた とひどく叱られみちみちはたでも織つて善光寺へ詣るつもりでうかうかと家を出てしまつた。

その時、ばあやは十七だった。

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その時ばあやは十七だつた。

それから、道中、女衒(ぜげん)のような男につけられて気味が悪くなり、信州妻子の宿で、日のあるうちに宿をとろうとしたら、そいつも同じ宿につき、先にすっと奥へとおった。

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それから道中ぜげんみたいな男につけられて気味がわるくなり信州妻子の宿で日のあるうちに宿をとらうとしたらそ奴も同じ宿へついて先にすつと奥へとほつた。

それで、ばあやは泊まるのをやめて出ようとするのを、宿の主人が何のかのと無理やりに止めようとする。

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で、ばあやは泊るのをやめて出ようとするのを亭主がなんのかのと無理やりにとめようとする。

ばあやは変に思って、「まだ腰かけたばかりで、宿賃も決めていないし、日も高いのに、なぜそんなに理不尽に止めるのだ」と言ったら、「さっきのお客に、自分が出発するまであの女を出発させないでくれと頼まれたから」と言って、どうしても聞かない。

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ばあやはへんに思つて まだ腰かけたばかりで旅籠賃はたごちんもきめないし日も高いのになぜさう理不尽にとめるのだ といつたら、さつきのお客に 自分がたつまであの女をたたせてくれるな と頼まれたから といつていつかなきかない。

しかたなく、そこに居合わせた同じ地方出身の人に事情を話して、宿の主人に交渉してもらったら、あっさり承知して、すぐに出発させると言ったが、その人の姿が見えなくなると、すぐにまたこわい顔をして引きとめる。

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余儀なくそこへ来合せた同国の人に訳を話して亭主に談じてもらつたら一も二もなく承知して早速たたせるといつたが、その人の影が見えなくなるとすぐにまた怖い顔をしてひきとめる。

そこで今度は、通りがかりのおじいさんに話したところ、なんでもないことのように引き受けて、「とにかく自分の家に来れば、善光寺へ行く飛脚といっしょに出発させてやる」と言った。

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そこで今度は通りがかりの爺さんに話したところ造作もなくひきうけて ともかく自分の家へくれば善光寺へ行く飛脚といつしよにたたせてやる といつた。

ばあやはそれを真に受けて、おじいさんについていったが、一か月も百姓の手伝いをさせて、いっこうに出発させる様子もない。

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ばあやはそれをまにうけて爺さんについていつたが一月も百姓の手伝ひをさせていつかうたたせる様子もない。

それでとうとう、ひとり奉公に出て、どうにかこうにか道連れができて、善光寺へ出発した。

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それでたうとうひとり奉公に出て、どうにかかうにか道づれができて善光寺へたつた。

その途中、ばあやはある宿で「不思議な縁によって」

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その途中ばあやはある宿で「不思議の縁によつて」

自分を乗せたかご屋や、宿屋の主人や、宿場役人などの仲立ちで、岡っ引き(江戸時代の警察の手先)の男といっしょになった。

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自分をのせた駕籠屋や、宿屋の亭主や、宿場役人などの仲立ちでをかつぴきの男といつしよになつた。

ところが、どうしたことか、その男がいやでいやでならず、逃げよう逃げようと思いながらも、ついそのまま何年か暮らしたのち、長年の願いがかなって善光寺へお参りすることができた。

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ところがどうしたことかその男がいやでいやでならず、逃げよう逃げようと思ひながらもついそのまま何年か暮したのち宿願がかなつて善光寺へお詣りすることができた。

けれど、あいにくそこで二人ともひどい天然痘にかかり、どっと寝こんでしまった。

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が、生憎あいにくそこで二人ともひどい痘瘡を煩つてどつと床についてしまつた。

その後ようやく体が自由に動くようになってから、少しは覚えのある傘はりを商売にして、あちこちの借金を返すうちに、あるお寺の台傘(だいがさ・大きな飾りがさ)の仕事を聞いたのが縁となり、あちこちの台傘をはりながら国へ帰るつもりで□□まで来るには来たが、どうしても関所が越えられず、流れ流れてついに、ここから遠くないある町に落ち着いて傘屋をはじめた。

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その後やうやく体の自由がきくやうになつてからすこしは覚えのある傘はりを商売にしてあちこちの借金をかへすうちにある寺の台傘だいがさの御用をきいたのが縁となり、方方の台傘をはりながら国へ帰るつもりで□□まで来るには来たがどうしても関所がこされず、流れ流れて終にここから遠くないある町に落著いて傘屋をはじめた。

それが幸い繁盛して相応の店になり、弟子も何人か置いたりしたが、おじいさんが目を悪くしたので商売をやめ、好きな花を植えて売るようになった。

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それが仕合せと繁昌して相応な店になり、弟子も幾人かおいたりしたが、爺さんが眼をわるくしたので商売をやめ、好きな花をうゑて売るやうになつた。

おじいさんが六十九で九年前に亡くなってから、だんだんおちぶれて今の状態になったのである。

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爺さんが六十九で九年前になくなつてからだんだんおちぶれて今の有様になつたのである。

ばあやは、天気のいい半日には、朝早くからかごを背負って花を売り歩く。

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ばあやははんには朝早くから籠を背負つて花を売つてあるく。

人にかわいがられてお菓子だのおかずだのをもらうので、一日の米二合半のお金、五銭さえあればいいし、それにもう一年半で死ぬというお告げを受けて永代供養も頼んであるし、葬式の費用は、ぼろ家ながら今住んでいる家を売ればできるので、何も心配はないという。

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人に可愛がられて菓子だのおかずだのをもらふから一日の米二合半の代五銭さへあればいいし、それにもう一年半で死ぬといふお告げをうけて永代経も願つてあるし、葬式の費用はぼろ家ながら今ゐる家を売ればできるゆゑなんにも心配はないといふ。

ばあやは、紫の風呂敷につつんだきたない帳面を持ってきて

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ばあやは紫の風呂敷につつんだ汚い帳面をもつてきて

「これになにもかも書いたります」

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「これになにもかも書いたります」

と言うので開けてみたら、明治二十二年ごろからの夢やなにかを、いろんな筆づかいでごたごたに書いてある。

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といふのであけてみたら明治二十二年ごろからの夢やなぞをいろんな手でごたごたに書いてある。

表紙には「御夢想灸点(ごむそうきゅうてん)の記」とありながら、そのことはひとつも書いていない。

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表紙には 御夢想灸点の記 とありながらそのことはひとつもない。

読み書きができないので、頼んだ書き手が不親切だったことは知らずに、自分の話したことは残らず書いてくれたものと思っているばかりか、何かの拍子にまぎれこんだ売薬の広告まで、ていねいにたたみこんでいる。

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いろはのいの字も読めないので頼まれた書き手の不親切は知らずに自分の話したことは残らず書いてくれたものと思つてるばかりかなにかの拍子にまぎれこんだ売薬の広告まで丁寧にたたみこんでゐる。

そうして、読めもしないのをそばからのぞきながら

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さうして読めもしないのをそばからのぞきながら

「弘法様にもお目にかかりました」

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「弘法様にもおめにかかりました」

「お観音様にもお目にかかりました」

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「お観音様にもおめにかかりました」

と言う。

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といふ。

彼女がこんなふうにへだてなく接してくれるのは、わたしがはじめに考えたような理由や、また人がばかにして相手にしないほど、今の時代からみれば迷信じみた話をわたしがまじめに聞くためばかりではないということがわかったのは、何日かたってからのことだった。

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彼がこんなふうに隔てなくするのは私がはじめに考へたやうな理由や、また人がばかにして相手にしないほど今の時勢からみれば迷信的な話を私がまじめにきくためばかりでないといふことがわかつたのは幾日かたつてからのことであつた。

ばあやは、わたしをひと目見て

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ばあやは私をひと目みて

「ああ、御仏縁の深い方だに、お坊様におなりあすばいたらよかったになー」

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「ああ御仏縁の深い方だに、お坊様におなりあすばいたらよかつたになー」

と思ったという。

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と思つたといふ。

「もっと何か思ったことはないか」と聞くと、顔じゅうしわくちゃにして

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もつとなにか思つたことはないか といへば顔ぢゆう皺くちやにして

「へえもうなんにも」

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「へえもうなんにも」

と言いながらも、何ひとつうそは言えず、胸にしまっておけない性格で、そう言ったそばから

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といひながらもなにひとつ嘘はいへず胸にしまつておけない性で、さういふそばから

「あなたは、ええお嫁様がおもてになりません」

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「あなたはええお嫁様がおもてになりません」

と言う。

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といふ。

わたしは仏縁が深いけれど、人が邪魔したためお坊さんにもなれず、これからも邪魔されるのだそうだ。

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私は仏縁が深いけれど人が邪魔したため坊さんにもなれず、これからも邪魔されるのださうだ。

それで、わたしが

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で、私が

「それじゃ、仏縁が深くてもだめかなー」

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「それぢや仏縁が深くてもだめかなー」

とため息をつくように言うと、真顔になって

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と嘆息するやうにいへばまがほになつて

「なにあんた、それだで、これから一心に御信心なされれば、あんた、仏様の力は広大だでなー」

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「なにあんた、それだでこれから一心に御信心なされれば、あんた仏様の力は広大だでなー」

と、我を忘れて力を入れた。

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と我を忘れて力をいれた。

そして

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そして

「わしらとちごうて、目がおみえになるで、お経文をおよみなされ」

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「わしらとちがつて目がおみえになるで、お経文をおよみなされ」

と言いながら手のすじを見て

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といひながら手の筋をみて

「小さな邪魔のすじはみんな消えとりますがな。もうはいちゃんと本願をいただいておいでだに、ちっとばかの自力をお捨てなさらいで、あんたは悪いお方だなもや」

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「小さな邪魔の筋はみんな消えとりますがな。もうはいちやんと本願をいただいておいでだにちつとばかの自力をおすてなさらいで、あんたは悪いお方だなもや」

と言って手をはなした。

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といつて手をはなした。

十九

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十九

ある日の午後、わたしは後ろの山の頂上に見える大きな松を目あてに登っていくうちに、いつのまにか道に迷って、道もない谷あいへ入ってしまった。

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ある日の午後私は後ろの山の頂上にみえる大きな松を目あてに登つてゆくうちにいつかふみ迷つて路もない谷あひへはひつてしまつた。

わたしは、背よりも高いやぶをむちゃくちゃにかきわけながら、ごつごつした低木の枝にほおをはじかれ、うちわのような形の葛蘿(かずら・つる草の一種)に足をさされしながら、息のつまりそうな深みから、ひとつの峰へやっとの思いでぬけだした。

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私は背よりも高い藪をむちやくちやにかきわけながらでこでこな灌木の枝に頬をはじかれ、軍配団扇みたいな葛蘿かづらに足をさされして息のつまりさうな深みからひとつの峰へ辛うじてぬけだした。

その峰は、海に向かって開いた奥深い谷のまん中をめがけて、牛がのさばり出たような形をしている。

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その峰は海に向つて開いた奥深い谷のまんなかをめがけて牛がのさばりでたやうな恰好をしてゐる。

わたしはその背中を、こんもりと盛りあがった肩のほうへうねうねとつたわっていった。

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私はその背なかをむつくりともりあがつた肩のはうへうねうねとつたはつていつた。

赤茶けた花こう岩の細かい砕けたものが、さめの皮みたいにかたまっているところへ、ひからびた小松がかさかさにへばりついて、木の実を食べた鳥のふんが、あちらこちらに落ちている。

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赤ちやけた花崗岩の細末が鮫の皮みたいにかたまつてるところへひからびた小松がかつかつにへばりついて、木の実をくつた鳥の糞があちらこちらに落ちてゐる。

わたしは、ともすれば谷のほうへすべりかかるのを、手足の先に力を入れて、ざらざらの岩にしがみつきながら、やっとの思いで肩にあたるところのこぶの上へよじのぼった。

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私はともすれば谷のはうへ辷りかかるのを手足の先に力をいれてざらざらの岩に獅噛みつきながらやつとの思ひで肩にあたるところの瘤のうへへ攀ぢのぼつた。

ぎらぎらと光にみちた空を、太陽がかっかと飛んでいく。

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ぎらぎらと光の漲つた空を太陽がかつかと飛んでゆく。

そこからだらだら下りになった首すじを百メートルほどくだるあいだに、両側のがけはいよいよ険しく、谷はますます深くなり、ついには、鼻先にふさわしいわずかな平らな場所を残して、行き止まりの絶壁になってしまった。

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そこからだらだら降りになつた頸すぢを一町ほどくだるあひだに両側の崖はいよいよ峻しく、谷はますます深くなり、終には鼻面にふさはしい僅の平面を残して行きどまりの絶壁になつてしまつた。

ここは、この海岸にそって十二キロほどのあいだ、三百メートルから六百メートルくらいの荒れた山脈から、海のほうへいたるところ枝を出して、無数の渓谷を形づくっている。その三つの枝の中のひとつが、根もとを水に浸食されて、逆にくさびを打ちこんだような具合になっているのである。

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ここはこの海岸にそうて三里のあひだ千尺二千尺ぐらゐのあざれた山脈から海のはうへ到るところ枝を出して無数の渓谷を形づくつてるその三つの枝のなかのひとつが根もとを水に浸蝕されて逆にくさびを打ち込んだやうなぐあひになつてるのである。

後ろは峰、谷の向こうにはそれよりも高い岩壁がびょうぶのようにめぐって、青空を天井とした不思議な御殿をつくっている。

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後ろは峰、谷のむかふにはそれよりも高い岩壁が屏風のやうにめぐつて青空を天井とした奇怪な殿堂をつくつてゐる。

頭の上に高くのぼる鳴き声を響かせているはやぶさは、ときどきさっと舞いおりて目の前をかすめては、また空高く舞いあがる。

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頭のうへにしりあがりの呼び声を響かせてる隼はときどきさつとおろして眼のまへをかすめてはまた空高く舞ひあがる。

右手の谷間を見おろすと、まっ黒に茂った森の中を、ひとすじの道が縫うようにうねって山脈をつらぬき、向こうの村へくだっていく。

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右ての谷間を見おろすとまつ黒にしげつた森のなかをひとすぢの路が縫ふやうにうねつて山脈を貫いてむかふの村へ降つてゆく。

そのほんの、のぞいて見えるほどのすき間から、山また山が赤く、うす赤く、紫に、ほの紫に雲につらなって、折り重なり畳み重なり、はてしなく続いているのが見える。

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そのほんの覘いてみるほどのすきまから山また山が赤く、うす赤く、紫に、ほの紫に雲につらなつて、折り重り畳み重りはてしもなくつづいてるのがみえる。

わたしは、ある種のおそれをまじえたたたえと喜びに満ちて、声高くうたいはじめた。

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私は一種の恐怖をまじへた讃美と歓喜にみちて声高くうたひはじめた。

こだま!

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木霊こだま

それはちょうど、山のかげにだれかがかくれていて、あとをつけるようにはっきりとくりかえす。

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 それはちやうど山のかげに誰かがかくれてゐてあとをつくやうにはつきりとくりかへす。

わたしは、その姿を見せない歌い手の歌にそそのかされ、できるだけ声をはりあげて歌った。

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私はその姿をみせない歌ひての歌にそそのかされできるだけ声をはりあげて歌つた。

向こうも同じように声をはりあげて歌った。

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さきもおんなじやうに声をはりあげて歌つた。

わたしは、いつものように「そういえばそんなわかりきったことか」と、素朴なうれしさを感じて、幸せな半日を歌い暮らしたのち、夏の日が海に沈むころ、ようやくゆずり葉の垣根の中へ帰った。

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私はいつものとほりさういへばそんなわかりきつたことに原始的な嬉しさをおぼえて幸福な半日を歌ひくらしたのち夏の日の海に沈むころやうやく譲葉の垣のなかへ帰つた。

二十

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二十

わたしは、足を洗うために裏庭を回って、それにもう風呂がわいているころだと思って、湯殿をあけて入った。

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私は足を洗ふために裏庭をまはつて、それにもう風呂がたつてるじぶんだと思つて湯殿をあけてはひつた。

そして、ちょうどよく冷めた湯船にどっぷりとつかって、つかれた足を楽々とのばした。

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そしていいかげんにさめた湯船にどつぷりとつかつてくたびれた足を楽楽とのばした。

湯が胸のあたりでくびれあがって、軽く糸でくくったような感じをあたえる。

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湯が乳のへんでくびれあがつて軽く糸で結へたやうな感じをあたへる。

わたしは、浮きかかる体を両手でささえ、頭を仰向けによせかけて、あたたまった肌に息を吹きかけてみたりしながら、今日の楽しさをくりかえしていた。

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私は浮きかかる体を両手でささへ、頭を仰向けによせかけて、ぬくもつた肌に息を吹きかけてみたりしながら今日の楽しさをくりかへしてゐた。

わたしはそこを「こだまの峰」と名づけた。

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私はそこを木霊の峰とつけた。

それがふとした道の間違いから見つかったこと、それゆえわたしのほかにはだれも知っている者がいないということ、そこへ行くにはあの危険ながけの上をかけわたらなければならないということ……それらが、いっそうわたしを喜ばせた。

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それがふとした道のまちがひから見出されたこと、それゆゑ私のほかには誰も知つてる者はないといふこと、そこへゆくにはあの危険な崖のうへを駈けわたらなければならないといふこと……それらがいつそう私を喜ばせた。

そのうち、わたしは何気なく、たっぷりとたまっている湯の表面をすかしてみた。

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そのうち私はなにげなくをどんでる湯の表面をすかしてみた。

そうして、それはよく見なければわからないほどではあるが、いつになくうす白く油が光っているのに気がついた。

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さうしてそれはよく見なければわからないほどではあるがいつになくうす白く脂が光つてるのに気がついた。

だれか入ったのかしら。そう思うと、何もかもそう見える。

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誰かはひつたのかしら さう思へばなにもかもさう見える。

だれか来たにちがいない。

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誰か来たにちがひない。

わたしは急に、ひどい不安を感じだした。

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私は急に非常な不安を感じだした。

わたしにとっては、知らない人間はすなわちきらいな人間である。

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私にとつては知らない人間は即ち嫌ひな人間である。

それで、すっかり興ざめしてがっかりしているところへ、ばあやが気づいて洗い場に来た。

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で、すつかり興をさまされてがつかりしてるところへばあやが気がついて流しにきた。

そして、湯を替えなかったことをわびながら「東京のお家から若奥様がみえました」と言った。

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そして湯をかへなかつたことを申しわけをしながら 東京のお家から若奥様がみえました といつた。

友だちの家には、そんな人はいないはずだ。

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友達の家にはそんな人はゐないはずだ。

何でも、京都へ行っているお姉さんがこの夏上京するとか言っていたから、もしかしたらその人かもしれない。

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なんでも京都へいつてる姉様がこの夏上京するとかいつてたからひよつとしたらその人かもしれない。

それならしかたがない、とあきらめはしたものの、「困ったことになった」と思った。

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それならしかたがない と諦めはしたものの 困つたことになつた と思つた。

ばあやは大げさに声をひそめて

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ばあやは仰山に声をひそめて

「それはそれは美しいお方だぞなも」

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「それはそれは美しいお方だぞなも」

と言って出ていった。

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といつて出ていつた。

そのあとから、わたしはひっそりと部屋に帰って、柱によりかかったまま気弱になっていた。

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そのあとから私は日蔭者みたいにこつそり部屋へ帰つて柱によりかかつたまま弱りかへつてゐた。

初対面のあいさつをするのが、何よりつらい。

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初対面の挨拶をするのがなにより難儀だ。

そうして、なじみのない人の前でかしこまっているつらさといえば、何か目に見えないなわで縛りつけられているようで、しまいにはまゆのあいだが引きしめられて、肩のあたりが焼けつきそうに熱くなってくる。

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さうして馴染のない人のまへに畏つてるつらさといへばなにか眼にみえない縄で縛りつけられてるやうで、しまひには眉毛のあひだがひきしめられて肩のへんが焼けつきさうに熱くなつてくる。

その人は、向こうの離れにいるらしい。

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その人はむかうの離れにゐるらしい。

かねて話に聞いていたお姉さんなら、そんなにいやではないが、それにしてもどんなふうにしたらいいのだろう、などとあれこれ思案しているとき、縁側を静かな足音が近づいて、ぱたりと障子の外でとまった。

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かねて話にきいてた姉様ならそんなにいやではないが、それにしてもどんなあんばいにしたらいいのかしら などととつおいつ思案してるとき縁側を静な足音がちかづいてはたりと障子のそとでとまつた。

わたしが柱からはなれて机の前にすわりなおすあいだに

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私が柱からはなれて机のまへに坐りなはすあひだに

「ごめんあそばせ」

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「ごめんあそばせ」

と落ち着いたやわらかい声がして、その声が開けたようにするすると障子があいた。

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とおちついた柔い声がして、その声があけたやうにするすると障子があいた。

「まあ、まだ明かりもさしあげませんで」

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「まあ、まだあかりもさしあげませんで」

ひとり言みたいに言うのが聞こえて、長方形に区切られたうす暗がりの中に、白い顔がくっきりと浮かびあがった。

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ひとり言みたいにいふのがきこえて、長方形にくぎられたうす暗がりのなかに白い顔がくつきりと浮彫にされた。

「はじめまして。私は□□□の姉でございます。二、三日お邪魔をさせていただきます」

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「はじめまして。私は□□□の姉でございます。二三日お邪魔をさせていただきます」

「は」

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「は」

そう言ったなり、罪の宣告を待っているようなわたしの前へ、皿にのせたかおりの高い西洋菓子をしとやかに出して

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さういつたなり罪の宣告をまつてる私のまへへ皿にのせた匂のたかい西洋菓子をしとやかにだして

「つまらないもので……。お口にあいますかどうか」

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「つまらないもので……。お口にあひますかどうか」

と言った。

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といつた。

そのとき、おごそかで冷たい彫像が、急に美しい人になって、すこし恥ずかしそうにほほえんだが

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そのとき厳かにつめたい彫像が急に美しい人になつて心もちはにかむやうにほほゑんだが

「ただいま明かりを」

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「ただいまあかりを」

と、またもとの彫像になって暗がりの中へ消えていった。

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とまたもとの彫像になつて暗がりのなかへ消えていつた。

わたしは、ほっと息をついた。

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私はほつと息をついた。

そして、いかにもみっともなかった自分を恥じながらも、その消えていった姿を思い出そうとしたが、夢のようでとりとめがない。

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そしていかにもあはれだつた自分を愧ぢながらもその消えていつた姿を思ひださうとしたけれど夢のやうでとりとめがない。

それでも、じっと目をつぶっているうちに、急に明るいところへ出たときのように、だんだんはっきりと、ものの形が浮かんできた。

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それでもじつと目をつぶつてるうちに俄に明るみへ出たときのやうにだんだんはつきりとものの形が浮んできた。

大きな丸まげに結っていた。

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大きな丸髷に結つてゐた。

まっ黒な髪だった。

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まつ黒な髪だつた。

くっきりとしたまゆの下に、まっ黒な瞳が光っていた。

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くつきりとした眉毛のしたにまつ黒な瞳が光つてゐた。

すべての輪郭があまりにも鮮明なため、なんとなくなじみにくい感じがして、すこし受け口のかわいらしいくちびるさえ、海の底の冷たいさんごをきざんだかのように思われた。けれど、その口もとが気持ちよくあがって、きれいな歯があらわれたときに、すずしいほほえみがすべてをやわらげ、白いほおに血の色がさして、彫像はそのままひとりの美しい人になった。

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すべての輪廓があんまり鮮明なためになんとなく馴れ親しみがたい感じがしてすこしうけ口な愛くるしい唇さへが海の底の冷たい珊瑚をきざんだかのやうに思はれたが、その口もとが気もちよくひきあがつて綺麗な歯があらはれたときに、すずしいほほゑみが一切を和らげ、白い頬に血の色がさして、彫像はそのままひとりの美しい人になつた。

二十一

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二十一

それから、わたしはなぜかできるだけ顔を合わせないようにして、朝から「こだまの峰」へ行き、帰るのにも、わざと食事の時間をはずしたりしたが、ひとつの家にいるので、一日のうちにはどうしてもいっしょにならなければならないことがあった。

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それから私はなぜか出来るだけ顔をあはせないやうにして朝から木霊の峰へゆき、帰るのにもことさら食事の時をはづしたりしたが、ひとつ家にゐることゆゑ一日のうちにはどうしてもいつしよにならなければならないことがあつた。

わたしは、峰に行っても少しも歌わなかった、季節を過ぎた鳥のように。

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私は峰へいつてもちつとも歌はなかつた、季節をすぎた鳥のやうに。

そうして、あの絶壁のあいだから見える山々の深い色を、ぼんやりと眺めて過ごした。

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さうしてあの絶壁のあひだからみえる山山の深い色をぼんやりと眺めくらした。

ある晩、かなり夜がふけてから、わたしは後ろの山から月がのぼるのを見ながら、花壇の中に立っていた。

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ある晩かなりふけてから私は後の山から月のあがるのを見ながら花壇のなかに立つてゐた。

何千という虫たちが小さな鈴をふり、潮風は畑を越えて海の香りと波の音を運ぶ。

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幾千の虫たちは小さな鈴をふり、潮風は畑をこえて海の香と浪の音をはこぶ。

離れの丸窓にはまだ明かりがさして、その前のはすの鉢には、過ぎた夕立の涼しさを玉にしている何枚もの葉と、ほの白くつぼんだ花が見える。

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離れの円窓にはまだ火影がさして、そのまへの蓮瓶にはすぎた夕だちの涼しさを玉にしてる幾枚の葉とほの白くつぼんだ花がみえる。

わたしは、あらゆる思いのうちでもっとも深い、名前のない思いに沈んで、ひと晩ひと晩と欠けていく月を、我を忘れて眺めていた。……

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私はあらゆる思ひのうちでもつとも深い名のない思ひに沈んでひと夜ひと夜に不具になつてゆく月を我を忘れて眺めてゐた。……

そんなふうにしているうちに、ふと気がついたら、いつのまにか同じ花壇の中に姉様が立っていた。

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そんなにしてるうちにふと気がついたらいつのまにかおなじ花壇のなかに姉様が立つてゐた。

月も花もなくなってしまった。

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月も花もなくなつてしまつた。

絵のように影をうつした池の面に、さっと水鳥がおりるときに、すべての影がいちどに消えて、何気なく浮かんだ白い姿ばかりになるように。

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絵のやうに影をうつした池の面にさつと水鳥がおりるときにすべての影はいちどに消えてさりげなく浮んだ白い姿ばかりになるやうに。

わたしは、あたふたとして

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私はあたふたとして

「月が……」

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「月が……」

と言いかけたが、あいにくそのとき、姉様は気をきかせて向こうへ行きかけていたので、はっとして耳まで赤くなった。

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といひかけたが、あいにくそのとき姉様は気をきかせてむかふへ行きかけてたのではつとして耳まで赤くなつた。

わたしは、そんな些細なこと、ちょっとした言葉のまちがいや、きまり悪さなどのために、ひどく恥ずかしい思いをするたちだった。

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そんな些細なこと、ちよつとした言葉のまちがひやばつのわるさなどのためにひどく恥しい思ひをするたちであつた。

姉様はそのまま静かに足を運び、花のまわりを小さく回って、もとのところへもどりながら

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姉様はそのまましづかに足をはこび花のまはりを小さくまはつてもとのところへもどりながら

「ほんとうによろしゅうございますこと」

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「ほんたうにようございますこと」

と、上手にとりつくろってくれたのを、わたしは心からうれしくもありがたくも思った。

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と巧につくろつてくれたのを私は心から嬉しくもありがたくも思つた。

二十二

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二十二

翌日、新聞を返しに離れへ行ったら、姉様はこちらに背中を向けて、髪をとかしているところだった。

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翌日新聞を返しに離れへいつたら姉様はこちらへ背なかをむけて髪をとかしてるところだつた。

長い髪がさらりとほどけ、肩から豊かに波打って後ろへすべっている。

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長い髪がさわりとほどけ肩から豊に波うつて後ろへすべつてゐる。

障子をしめて帰ろうとしたときに、くしを持った手を耳のあたりでとめて、鏡の中の顔がほほえみながら

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障子をしめて帰らうとしたときに櫛をもつた手を耳のあたりでとめて鏡のなかの顔がほほゑみながら

「あの、あたくし、明日おいとまいたしますから……お別れに晩ごはんをごいっしょにいただきたいと存じますから……」

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「あのあたくし明日お暇いたしますから……お別れに晩ごはんを御一緒にいただきたいと存じますから……」

と言った。……

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といつた。……

わたしはまた「こだまの峰」へのぼって、空に舞うはやぶさよりほかにうかがうものもない自然の御殿の中で、歌いもせずに半日を過ごした。

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私はまた木霊の峰へのぼつて空に舞ふ隼よりほかにうかがふものもない自然の殿堂のなかに歌ひもせずに半日をすごした。

こだまも声をひそめて、親しい歌い相手の思いをさまたげなかった。

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木だまも声をひそめて親しい歌ひづれの思ひをさまたげなかつた。

晩ごはんの食卓には純白のテーブルクロスがかけられて、ばあやは横に、姉様とわたしは向かいあいにすわった。

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晩餐の食卓には純白の卓布がかけられて、ばあやは横に、姉様と私は向ひあひに坐つた。

照れくさくも、うれしくも、さびしくも、悲しくもある。

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面はゆくも、嬉しくも、寂しくも、悲しくもある。

「さあどうぞ」

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「さーどうぞ」

軽く頭を下げて

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軽く頭をさげて

「お料理人が慣れませんで……。お気に召しますかどうか」

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「お料理人がなれませんで……。お気にめしますかどうか」

と、すこし恥ずかしそうに皿の上に目をそらせてほほえんだ。

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とすこしはにかむやうに皿のうへに眼をそらせてほほゑんだ。

そこには手作りの豆腐がふるえて、まっ白な肌に模様の藍がしみそうに見える。

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そこにはお手づくりの豆腐がふるへてまつ白なはだに模様の藍がしみさうにみえる。

姉様はゆずをおろしてくださる。

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姉様は柚子をおろしてくださる。

あさい緑色の粉をほろほろとふりかけて、とろけそうなのを、つゆにひたすと、濃いえび色がさっとかかる。

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浅い緑色の粉をほろほろとふりかけてとろけさうなのを と とつゆにひたすと濃い海老色がさつとかかる。

それをそっと舌にのせる。

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それをそうつと舌にのせる。

静かなゆずの香り、きつい醤油の味、冷たくなめらかな肌ざわりがする。

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しづかな柚子の馨、きつい醤油の味、つめたく滑つこいはだざはりがする。

それをころころと二、三度ころがすうちに、かすかなでんぷんの味を残して溶けてしまう。

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それをころころと二三度ころがすうちにかすかな澱粉性の味をのこして溶けてしまふ。

ほかの皿には、育ちのよさそうな小あじが、尻尾をならべて跳ねかえっている。

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他の皿にはませこけた小鰺が尻尾をならべてはねかへつてゐる。

ぜんごのあとが栗色に、背中は青く、おなかのほうはきらきらと光って、この魚特有のあたたかいにおいがする。

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ぜんごのあとが栗色に、背なかは青く、腹のはうはきらきらと光つてこの魚に特有の温い匂がする。

よくしまった身をふんわりとむしって、汁にひたして食べると、こくのある味が出る。

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よくしまつた肉をもつさりとむしつて汁にひたしてたべるとこつとりした味がでる。

食器がさげられたあとに果物が出た。

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食器がさげられたあとに果物がでた。

姉様は大きな梨の中から、甘そうなのをよりだして皮をむく。

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姉様は大きな梨のなかから甘さうなのをよりだして皮をむく。

重たいのをすべらせまいと、指の先に力を入れて、笙(しょう・雅楽の楽器)の笛みたいに輪をつくる。

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重たいのをすべらすまいと指の先に力をいれて笙の笛みたいにをつくる。

その長くそった指のあいだに梨がくるくると回され、白い手のこうを越えて、黄色い皮が雲の形にまきさがる。

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その長くそつた指のあいだに梨がくるくるとまはされ、白い手の甲をこえて黄色い皮が雲形にまきさがる。

はたはたとしずくがたれるのを、姉様は「自分はあまり好きではないから」と言って、皿にのせてくださる。

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はたはたと雫がたれるのを姉様は 自分はあまり好かないから といつて皿にのせてくださる。

それを切りわけて口に入れながら、美しいさくらんぼが姉様のくちびるに軽くはさまれて、小さな舌の上にするりと転びこむのを眺めている。

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それを切りへいで口へいれながら美しいさくらんぼが姉様の唇に軽くはさまれて小さな舌のうへにするりと転びこむのを眺めてゐる。

貝のような形のよいあごが、ふっくらと動く。

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貝のやうな形のいい腭がふくふくとうごく。

姉様は、いつになく明るかった。

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姉様はいつになく快活であつた。

ばあやもしきりにはしゃいだ。

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ばあやもしきりにはしやいだ。

そして、人の歯の数をあててみようなどと言い出して、子どもがよくするように姉様の背中に顔をかくして、長いこと考えていたが

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そしてひとの歯の数をあててみるなぞといひだし子供がよくするやうに姉様の背中に顔をかくしてながいこと考へてたが

「親知らずをのけて二十八本ありましょがなも」

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「親しらずをのけて二十八本ありましよがなも」

と言う。

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といふ。

「二十八本はだれでもだ」

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「二十八本は誰でもだ」

と言うと

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といへば

「なんでそんなことが、お釈迦様は四十何本たら、あらっせたげなに」

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「なんでそんなことが、お釈迦様は四十何本たらあらつせたげなに」

と言って、なかなか承知しない。

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といつていつかな承知しない。

そのとき姉様の口もとが気持ちよくあがって、美しい歯があらわれた。

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そのとき姉様の口もとが気もちよくあがつて美しい歯があらはれた。

それから何かの流れで鳥の話が出たときに、ばあやは「わっちの国の山には白さぎがうようよいた。

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それからなにかのつづきで鳥の話がでたときにばあやは わつちの国の山には白鷺がうようよゐた。

雁も来たし、かもも来た。

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雁もきたし鴨もきた。

つるの群れもたくさん来た。

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鶴の群もたくさんきた。

毎年決まって、まなづるがひとつがい来たが、それが来ると、殿様に申しあげることになっていた。

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毎年きまつてまな鶴がひとつがひきたがそれがくると殿様に言上することになつてゐた。

こうのとりは首をまわして鳴く。

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こふとりは首をまはして鳴く。

鎮守の森の大杉にかけたその巣は、小枝を組んでかごのようになっていた」などと、調子にのってあれこれ話すのを、「それはいつのことか」と聞けば、「わっちの子どものころだ」と言う。

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鎮守の森の大杉にかけたその巣は小枝を組んで籠のやうになつてゐた なんぞと調子にのつてそれからそれと話すのを それはいつのことか ときけば、わつちの子供のじぶんだ といふ。

「それじゃもう、いやしない」

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「それぢやもうゐやしない」

と言うと

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といへば

「あのいにたんとおったものあんた。それに毎年子を生みましょがな」

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「あのいにたんとをつたものあんた。それに毎年子を生みましよがな」

と、がんとして言い張る。

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と頑強に主張する。

美しい口もとがきりっとあがって、白い歯が見えた。

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美しい口もとがきりつとあがつて白い歯がみえた。

翌朝、出発するはずだったのが、何かの都合で夜にのびた。

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翌朝たたれるはずだつたのがなにかの都合で晩にのびた。

夕方、風呂からあがったら、ばあやは使いに出たらしく部屋が暗くなっていたので、わたしは花壇へ出ようとした。

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夕がた湯からあがつたらばあやは使ひにでたらしく部屋が暗くなつてたので私は花壇へでようとした。

そのとき、離れの丸窓から

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そのとき離れの円窓から

「明かりをちょっと拝借いたしました」

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「あかりをちよつと拝借いたしました」

という声がして、姉様がお盆に白桃をのせて、いとまごいのあいさつに来られた。

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といふ声がして姉様が盆に水蜜をのせて暇乞ひの挨拶に来られた。

「ご機嫌よろしゅう。また京都のほうへおいでのこともございましたら、どうぞ」

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「御機嫌よろしう。また京都のはうへおいでのこともございましたらどうぞ」

わたしは庭へおりて、花壇のいすに腰をおろし、海のほうへ海のほうへとめぐっていく星を眺めていた。

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私は庭へおりて花壇の腰掛けに腰をおろし海のはうへ海のはうへとめぐつてゆく星を眺めてゐた。

遠い波の音と、虫の音と、空と……のほかは何もない。

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遠い浪の音と、虫の音と、天と……のほかなにもない。

ばあやが人力車をやとってきた。

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ばあやが俥をやとつてきた。

姉様が、支度のすんだきれいな身なりで、明かりを返しにわたしの部屋へ小走りに行かれるのが見えた。

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姉様が支度のすんだ綺麗ななりであかりを返しに私の部屋へ小走りにゆかれるのがみえた。

やがて、ばあやが荷物を運びだすあとから、姉様は縁側を玄関のほうへと通りながら、わたしのほうへ小さく腰をかがめて

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やがてばあやが荷物を運びだすあとから姉様は縁側を玄関のはうへととほりながら私のはうへ小腰をかがめて

「ご機嫌よう」

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「御機嫌よう」

と言われたのを、わたしはなぜか聞こえないふりをしていた。

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といはれたのをなぜか私は聞えないふりをしてゐた。

「さようなら、ご機嫌よう」

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「さやうなら御機嫌よう」

わたしは、暗いところでだまって頭を下げた。

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私は暗いところで黙つて頭をさげた。

人力車の音が遠ざかって、門のしまる音がした。

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俥のひびきが遠ざかつて門のしまる音がした。

わたしは、花にかくれてとめどもなく流れる涙をふいた。

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私は花にかくれてとめどもなく流れる涙をふいた。

わたしはなぜ、何とも言わなかったのだろう。

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私はなぜなんとかいはなかつたらう。

どうして、ひと言あいさつをしなかったのだろう。

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どうしてひと言挨拶をしなかつたらう。

わたしは、肌が冷えるまでも花壇に立ちつくして、昨夜よりもいっそう欠けた月が山の向こうからさしかかるころ、ようやく部屋へ帰った。

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私は肌のひえるまでも花壇に立ちつくして昨夜よりもいつそう不具になつた月が山のむかふからさしかかるころやうやく部屋へ帰つた。

そうして、力なく机に両方のひじをついて、ほおのようにほのかに赤らみ、あごのようにふっくらとくびれた白桃を、手のひらにそっとつつむように口もとにあて、そのきめこまやかな肌をとおしてもれだす甘いにおいをかぎながら、また新しい涙を流した。

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さうして力なく机に両方の肱をついて、頬のやうにほのかに赤らみ、腭のやうにふくらかにくびれた水蜜を手のひらにそうつとつつむやうに唇にあててそのこまやかなはだをとほしてもれだす甘い匂をかぎながらまた新な涙を流した。

(大正二年初稿)

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(大正二年初稿)