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銀の匙 現代語訳

中勘助なかかんすけ)・1989

AI生成この訳はAI(claude-opus-5)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-29

前篇

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前篇

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私の書斎の、いろいろながらくたを入れた本箱の引き出しに、昔からひとつの小箱がしまってある。

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私の書斎のいろいろながらくた物などいれた本箱の抽匣ひきだしに昔からひとつの小箱がしまつてある。

それはコルク質の木でできていて、板の合わせ目ごとに牡丹の花の模様のついた絵紙が貼ってあるが、もとは舶来の粉煙草でも入っていたものらしい。

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それはコルク質の木で、板の合せめごとに牡丹の花の模様のついた絵紙をはつてあるが、もとは舶来の粉煙草でもはひつてたものらしい。

とりたてて美しいわけではないけれど、木の色合いがくすんで手触りが柔らかいこと、蓋をするときにぱんとふっくらした音がすることなどのために、今でもお気に入りの物のひとつになっている。

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なにもとりたてて美しいのではないけれど、木の色合がくすんで手触りの柔いこと、蓋をするとき ぱん とふつくらした音のすることなどのために今でもお気にいりの物のひとつになつてゐる。

なかには子安貝や椿の実や、小さいときのおもちゃだったこまごました物がいっぱい詰めてあるが、そのうちにひとつ、珍しい形の銀の小匙があることを、これまで忘れたことはない。

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なかには子安貝や、椿の実や、小さいときのもてあそびであつたこまこました物がいつぱいつめてあるが、そのうちにひとつ珍しい形の銀の小匙のあることをかつて忘れたことはない。

それは差し渡し五分ほどの皿形の頭に、わずかに反りをうった短い柄がついているもので、厚手にできているために、柄の端を指で持ってみるとちょいと重いという感じがする。

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それはさしわたし五分ぐらゐの皿形の頭にわづかにそりをうつた短い柄がついてるので、あつにできてるために柄の端を指でもつてみるとちよいと重いといふ感じがする。

私は折々小箱のなかからそれを取り出し、丁寧に曇りを拭いて、飽きずに眺めていることがある。

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私はをりをり小箱のなかからそれをとりだし丁寧に曇りを拭つてあかず眺めてることがある。

私がふとこの小さな匙をみつけたのは、今からみればよほど古い日のことであった。

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私がふとこの小さな匙をみつけたのは今からみればよほど旧い日のことであつた。

家にはもとからひとつの茶箪笥がある。

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家にもとからひとつの茶箪笥がある。

私は爪立ってやっと手の届く時分から、その戸棚を開けたり引き出しを抜き出したりして、それぞれの手ごたえや軋る音が違うのを面白がっていた。

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私は爪立つてやつと手のとどくじぶんからその戸棚をあけたり、抽匣をぬきだしたりして、それぞれの手ごたへや軋る音のちがふのを面白がつてゐた。

そこに鼈甲の引手のついた小引き出しがふたつ並んでいるうち、片方は具合が悪くて子供の力ではなかなか開けられなかったが、それがますます好奇心を動かして、ある日のことさんざん骨を折ってとうとう無理やりに引き出してしまった。

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そこに鼈甲の引手のついた小抽匣がふたつ並んでるうち、かたつぽは具合が悪くて子供の力ではなかなかあけられなかつたが、それがますます好奇心をうごかして、ある日のことさんざ骨を折つてたうとう無理やりにひきだしてしまつた。

そこで胸を躍らせながら畳の上へぶちまけてみたら、風鎮だの印籠の根付だのといっしょにその銀の匙をみつけたので、訳もなく欲しくなり、すぐさま母のところへ持っていって

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そこで胸を躍らせながら畳のうへへぶちまけてみたら風鎮ふうちんだの印籠いんろうの根付だのといつしよにその銀の匙をみつけたので、訳もなくほしくなりすぐさま母のところへ持つていつて

「これをください」

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「これをください」

といった。

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といつた。

眼鏡をかけて茶の間で仕事をしていた母は、ちょいと思いがけないという様子をしたが

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眼鏡をかけて茶の間に仕事をしてた母はちよいと思ひがけない様子をしたが

「大事にとっておおきなさい」

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「大事にとつておおきなさい」

と、いつになくすぐに許しが出たので、嬉しくもあり、いささか拍子抜けの気味でもあった。

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といつになくぢきに許しがでたので、嬉しくもあり、いささか張合ぬけのきみでもあつた。

その引き出しは、家が神田からこの山の手へ越してくるときに壊れて開かなくなったままになり、由緒のある銀の匙もいつか母にさえ忘れられていたのである。

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その抽匣は家が神田からこの山の手へ越してくるときに壊れてあかなくなつたままになり、由緒のある銀の匙もいつか母にさへ忘れられてたのである。

母は針を運びながらその由来を語ってくれた。

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母は針をはこびながらその由来を語つてくれた。

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私が生まれる時、母はことのほかの難産で、そのころ評判の産婆にも見放されて東桂さんという漢方の先生に来てもらったが、私は東桂さんの煎じ薬ぐらいではどうしても生まれる気配がなかったばかりか、気の短い父が癇癪を起こして噛みつくように言うものだから、東桂さんはほとほと当惑して、漢方の本をあちこち読んで聞かせては調剤に間違いのないことを弁じながら、ひたすら潮時を待っていた。

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私の生れる時には母は殊のほかの難産で、そのころ名うてのとりあげ婆さんにも見はなされて東桂さんといふ漢方の先生にきてもらつたが、私は東桂さんの煎薬ぐらゐではいつかな生れるけしきがなかつたのみか気の短い父が癇癪をおこして噛みつくやうにいふもので、東桂さんはほとほと当惑して漢方の本をあつちこつち読んできかせては調剤のまちがひのないことを弁じながらひたすら潮時をまつてゐた。

そのように母をさんざん悩ませたあげく、やっとのことで生まれたが、そのとき困り果てた東桂さんが指に唾をつけて一枚一枚本をめくっては薬箱から薬をしゃくい出す様子は、私を育ててくれたひょうきんな伯母さんの真に迫った身ぶりに残って、いつまでも飽きることのない笑いぐさとなった。

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そのやうにさんざ母を悩ましたあげくやつとのことで生れたが、そのとき困りはてた東桂さんが指につばをつけて一枚一枚本をくつては薬箱から薬をしやくひだす様子は私を育ててくれた剽軽な伯母さんの真にせまつた身ぶりにのこつていつまでもかれることのない笑ひぐさとなつた。

私はもともとひ弱だったうえに、生まれると間もなく大変なできもので、母の形容によれば「松かさのように」

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私は元来脾弱ひよわかつたうへに生れると間もなく大変な腫物できもので、母の形容によれば「松かさのやうに」

頭から顔から一面に吹き出物ができたので、引き続き東桂さんの世話にならなければならなかった。

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頭から顔からいちめんふきでものがしたのでひきつづき東桂さんの世話にならなければならなかつた。

東桂さんはできものを内攻させないために、毎日まっ黒な練り薬と烏犀角を飲ませた。

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東桂さんは腫物を内攻させないために毎日まつ黒な煉薬と烏犀角うさいかくをのませた。

そのとき子供の小さな口へ薬をすくい入れるには普通の匙では具合が悪いので、伯母さんがどこからかこんな匙を探してきて、始終薬を含ませてくれたのだという話を聞き、自分ではついぞ知らないことながら、なんとなく懐かしくて手放せなくなってしまった。

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そのとき子供の小さな口へ薬をすくひいれるには普通の匙では具合がわるいので伯母さんがどこからかこんな匙をさがしてきて始終薬を含ませてくれたのだといふ話をきき、自分ではつひぞ知らないことながらなんとなく懐しくてはなしともなくなつてしまつた。

私は体じゅうの吹き出物を痒がって夜も昼もおちおち眠らないので、糠袋へ小豆を包んで母と伯母とがかわるがわるかさぶたの上を叩いてくれると、小鼻をひくつかせていかにも気持ちよさそうにしたという。

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私は身体ぢゆうのふきでものを痒がつて夜も昼もおちおち眠らないもので糠袋へ小豆を包んで母と伯母とがかはるがはる瘡蓋かさぶたのうへをたたいてくれると小鼻をひこつかせてさも気もちよささうにしたといふ。

その後ずっと大きくなるまで虚弱のため神経過敏で、そのうえ三日にあげず頭痛に悩まされるのを、家の者は、糠袋で叩いたせいで脳を悪くしたのだ、といって来る人ごとに言いふらした。

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その後ずつと大きくなるまで虚弱のため神経過敏で、そのうへ三日にあげず頭痛に悩まされるのを、家の者は 糠袋で叩いたせゐで脳を悪くしたのだ といつて来る人ごとに吹聴した。

そのように母に苦労をかけて生まれた子は、母の産後の回復がよくないためや手が足りないために、ときどき乳を飲ませるときのほかは、ちょうどそのころ家に居候していた伯母の手ひとつで育てられることになった。

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そのやうに母に苦労をかけて生れた子は母の産後のひだちのよくないためや手の足りないために、ときどき乳をのませるときのほかはちやうどそのころ家の厄介になつてた伯母の手ひとつで育てられることになつた。

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伯母さんの連れ合いは惣右衛門さんといって、国では小身ながら侍であったけれど、夫婦そろって人が好く働きのない人たちだったので、御維新の際にはひどく零落してしまい、引き続き明治何年とかのコレラが流行った時に惣右衛門さんが死んでからは、いよいよ家が持ちきれなくなって、とうとう私のところに居候することになったのだそうだ。

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伯母さんのつれあひは惣右衛門さんといつて国では小身ながら侍であつたけれど、夫婦そろつて人の好い働きのない人たちだつたので御維新の際にはひどく零落してしまひ、ひきつづき明治何年とかのコレラのはやつた時に惣右衛門さんが死んでからはいよいよ家がもちきれなくなつてたうとう私のとこの厄介になることになつたのださうだ。

国では伯母さん夫婦の人の好いのにつけこんで、困った者はもとより困りもしない者までが困った困ったといって金を借りにくると、自分たちの食べる物に事を欠いてまでも貸してやるので、そうでなくてさえ貧乏な家は瞬く間に破産同然になってしまったが、そうなれば借りた奴らは足踏みもせずに、陰で

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国では伯母さん夫婦の人の好いのにつけこんで困つた者はもとより、困りもしない者までが困つた困つたといつて金を借りにくると自分たちの食べる物に事をかいてまでも貸してやるので、さもなくてさへ貧乏な家は瞬くうちに身代かぎり同然になつてしまつたが、さうなれば借りた奴らは足ぶみもしずに蔭で

「あんまり人がよすぎるで」

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「あんまり人がよすぎるで」

などと嘲笑っていた。

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なぞと嘲笑つてゐた。

二人はよくよく困れば心当たりの者へ返金の催促もしないではなかったけれど、相手が少し哀れなことでも言い出せば、ほろほろと貰い泣きして帰ってきて

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二人はよくよく困れば心あたりの者へ返金の催促もしないではなかつたけれど、さきがすこし哀れなことでもいひだせばほろほろ貰ひ泣きして帰つてきて

「気の毒な、気の毒な」

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「気の毒な 気の毒な」

といっていた。

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といつてゐた。

また伯母さん夫婦はひどく迷信深く、いつぞやなどは、白鼠は大黒様のお使いだといって、どこからかひとつがい買ってきたのをお福様お福様と後生大事に育てていたが、鼠算で増える奴が終いにはぞろぞろ家じゅうを這いまわるのをめでたがって、なにか事のある日には赤飯を炊いたり一升枡に煎り豆を盛ったりして供えた。

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また伯母さん夫婦は大の迷信家で、いつぞやなぞは 白鼠は大黒様のお使だ といつて、どこからかひとつがひ買つてきたのを お福様 お福様 と後生大事に育ててたが、鼠算でふえる奴がしまひにはぞろぞろ家ぢゆう這ひまはるのをお芽出たがつて、なにか事のある日には赤飯をたいたり一升枡に煎り豆を盛つたりしてお供へした。

そんな風で、わずかばかりの金は人に借り倒され、米櫃の米はお福様に食い倒されて、ほんの着のみ着のままの姿で、その時分殿様のお供でこちらに引っ越していた私の家を頼りに、はるばる国もとから出てきたのだそうだが、その後間もなく惣右衛門さんがコレラで亡くなったため、伯母さんはまったく身ひとつの寡婦になってしまった。

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そんな風で僅ばかりの金は人に借り倒され、米櫃の米はお福様に食ひ倒されて、ほんの著のみ著のままの姿で、そのじぶん殿様のお供でこちらに引越してた私の家を頼りにはるばる国もとから出てきたのださうだが、その後間もなく惣右衛門さんがコレラでなくなつたため伯母さんはまつたく身ひとつの寡婦になつてしまつた。

伯母さんはその時の話をして、それは異国のキリシタンが日本人を殺してしまおうと思って悪い狐を流してよこしたからコロリが流行ったので、一コロリ三コロリと二度もあった。

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伯母さんはその時の話をして それは異国の切支丹が日本人を殺してしまはうと思つて悪い狐を流してよこしたからコロリがはやつたので、一コロリ三コロリと二遍もあつた。

惣右衛門さんは一コロリにかかって避病院へ連れて行かれたのだが、そこではコロリの熱でまっ黒になっている病人に水も飲ませずに殺してしまう。

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惣右衛門さんは一コロリにかかつて避病院へつれて行かれたのだが、そこではコロリの熱でまつ黒になつてる病人に水ものませずに殺してしまふ。

病人はみんな腸が焼けて死ぬのだ、といった。

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病人はみんな腹わたが焼けて死ぬのだ といつた。

伯母さんにとって、私を育てるのがこの世に生きているただひとつの楽しみであった。

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伯母さんは私を育てるのがこの世に生きてる唯一の楽しみであつた。

それは、家はなし、子はなし、年はとっているし、なんの楽しみもなかったせいもあるが、そのほかにもうひとつ、私を迷信的に可愛がる不思議な訳があった。

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それは、家はなし、子はなし、年はとつてるし、なんの楽しみもなかつたせゐもあるが、そのほかにもうひとつ私を迷信的に可愛がる不思議な訳があつた。

というのは、今もし生きていればひとつ違いであるはずの兄が、生まれると間もなく「驚風」

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といふのは、今もし生きてゐればひとつちがひであるはずの兄が生れると間もなく「驚風」

で亡くなったのを、伯母さんは自分の子が死んでゆくように嘆いて

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でなくなつたのを、伯母さんは自分の子が死んでゆくやうに嘆いて

「生まれ変わってきとくれよ、生まれ変わってきとくれよ」

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「生れかへつてきとくれよ、生れかへつてきとくれよ」

といっておいおいと泣いた。

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といつておいおいと泣いた。

そうしたらその翌年に私が生まれたものだから、仏様のお蔭で先の子が生まれ変わってきたと思いこんで、この上なく私を大事にしたのだそうである。

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さうしたらその翌年私が生れたもので、仏様のお蔭で先の子が生れかへつてきたと思ひこんで無上に私を大事にしたのださうである。

たとえこの汚いできものだらけの子でも、頼りない伯母さんの頼みを忘れずに極楽の蓮の家をふり捨ててきたものと思えば、どんなに嬉しく愛しかったことだろう。

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たとへこの穢いできものだらけの子でもが、頼りない伯母さんの頼みをわすれずに極楽の蓮の家をふりすててきたものと思へばどんなにか嬉しくいとしかつたであらう。

それゆえ私が四つ五つになってから、伯母さんは毎朝仏様へお供物をあげる時に――それは信心深い伯母さんの幸福な役目であった。――

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それゆゑ私が四つ五つになつてから、伯母さんは毎朝仏様へお供物をあげる時に――それは信心深い伯母さんの幸福な役目であつた。――

折々お仏壇の前へ連れていって、まだいろはのいの字も読めない子供に、兄の戒名、伯母さんの考えによればすなわち私が極楽にいた時の名前であるところの、一喚即応童子というのをそらで覚えさせた。

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折折お仏壇のまへへつれていつてまだいろはのいの字も読めない子供に兄の戒名、伯母さんの考へによれば即ち私が極楽にゐた時の名まへであるところの 一喚即応童子いつくわんそくおうどうじ といふのをそらに覚えさせた。

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私は家のなかはともかく、一足でも外へ出るときには必ず伯母さんの背中にかじりついていたが、伯母さんのほうでも腰が痛いの腕が痺れるのとこぼしながら、やはり離すのが嫌だったのだろう。

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私は家のなかはともかく一足でも外へでるときには必ず伯母さんの背中にかじりついてたが、伯母さんのはうでも腰が痛いの腕がしびれるのとこぼしながらやつぱしはなすのがいやだつたのであらう。

五つぐらいまでは殆ど土の上へ降りたことがないくらいで、帯を結び直すときやなにかでどうかして背中から降ろされると、なんだか地べたがぐらぐらするような気がして、一所懸命に袂の先にへばりついていなければならなかった。

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五つぐらゐまでは殆ど土のうへへ降りたことがないくらゐで、帯を結びなほすときやなにかにどうかして背中からおろされるとなんだか地べたがぐらぐらするやうな気がして一所懸命袂のさきにへばりついてゐなければならなかつた。

そのころ私は浅葱のしごきを胸高に締め、小さな鈴と成田山のお守りをさげていた。

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そのころ私は浅葱のしごきを胸高にしめ、小さな鈴と成田山のお守りをさげてゐた。

それは伯母さんの工夫で、お守りはもとより怪我をしないため、どぶや川へ落ちないため、鈴は伯母さんが目がかすんで遠くが見えないので、もしもはぐれたときにその音を聞きつけて捜しに来ようというのである。

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それは伯母さんのくふうで、お守りはもとより怪我のないため、どぶや川へ落ちないため、鈴は伯母さんが眼がかすんで遠くが見えないので、もしやはぐれたときにその音をききつけて捜しにこようといふのである。

しかし年がら年じゅう背中から降りたことのない子には、鈴もお守りも実はまったく無用のものであった。

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併し年が年ぢゆう背中からおりたことのない子には鈴もお守りも実はまつたく無用のものであつた。

私は虚弱のため知恵のつくのが遅れ、しかもひどく憂鬱になって、伯母さん以外の者には笑顔を見せることは殆どなく、また自分から口をきくことはおろか、家の者になにか言われてもろくに返事もせず、よほど機嫌のいい時ですらやっと黙ってうなずくぐらいのもので、意気地なしの人見知りばかりして、知らない人の顔さえ見れば背中に顔をかくして泣きだすのが常であった。

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私は虚弱のため智慧のつくのが遅れ、かつ甚しく憂鬱になつて、伯母さん以外の者には笑顔を見せることは殆どなく、また自分から口をきくことはおろか家の者になにかいはれてもろくに返事もせず、よつぽど機嫌のいい時ですらやつと黙つてうなづくぐらゐのもので、意気地なしの人みしりばかりして、知らない人の顔さへみれば背中に顔をかくして泣きだすのが常であつた。

私が痩せほうけて肋骨が浮き出し、頭ばかり大きくて目がひっこんでいたため、家の者はみんな、たこ坊主たこ坊主といったが、自分ではわが名の□ぼうを訛って□ぽんと名のっていた。

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私が痩せほうけて肋骨があらはれ、頭ばかり大きくて眼がひつこんでたため家の者はみんな 章魚坊主たこぼうず 章魚坊主 といつたが、自分ではわが名の□ぼうを訛つて □ぽん と名のつてゐた。

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私が生まれたのは神田のなかの神田ともいうべきところで、火事や喧嘩や酔っぱらいや泥棒の絶え間のないところであった。

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私の生れたのは神田のなかの神田ともいふべく、火事や喧嘩や酔つぱらひや泥坊の絶えまのないところであつた。

病弱な頭に影を残した近所の家といえば、向かいの米屋、駄菓子屋をはじめ、豆腐屋、湯屋、材木屋などといった類の家ばかりで、筋向かいのお医者様の黒塀と殿様のところの――私の家はその邸内にあった。――

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病弱な頭に影を残した近所の家といへばむかふの米屋、駄菓子屋をはじめ、豆腐屋、湯屋、材木屋などいふたちの家ばかりで、筋向ふのお医者様の黒塀と殿様のところの――私の家はその邸内にあつた。――

門構えとがひときわ目立っていた。

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門構へとがひときは目だつてゐた。

天気のいい日には、伯母さんはアラビアンナイトの化け物みたいに背中にくっついている私を背負い出して、年寄りの足の続く限り気に入りそうなところを連れて歩く。

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天気のいい日には伯母さんはアラビアンナイトの化けものみたいに背中にくつついてる私を背負ひだして年よりの足のつづくかぎり気にいりさうなところをつれてあるく。

すぐ裏の路地の奥に蓬莱豆をこしらえる家があって、倶梨迦羅紋紋の男たちがふんどしひとつの向こう鉢巻で唄をうたいながら豆を煎っていたが、そこは鬼みたいな男たちが怖いのと、がらがらいう音が頭の芯へ響くのとで嫌いであった。

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ぢき裏の路地の奥に蓬莱豆をこしらへる家があつて倶梨迦羅紋紋くりからもんもんの男たちが犢鼻褌ふんどしひとつの向ふ鉢巻で唄をうたひながら豆を煎つてたが、そこは鬼みたいな男たちが怖いのと、がらがらいふ音が頭のしんへひびくのとで嫌ひであつた。

私はもしそういう嫌なところへ連れて行かれれば、すぐにべそをかいて体をねじくる。

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私はもしさうしたいやなところへつれて行かれればぢきにべそをかいて体をねぢくる。

そして行きたいほうへ黙って指さしをする。

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そして行きたいはうへ黙つて指さしをする。

そうすると伯母さんはよく化け物の気持ちを飲み込んで、間違いなく思うほうへ連れていってくれた。

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さうすると伯母さんはよく化けものの気もちをのみこんで間違ひなく思ふはうへつれていつてくれた。

いちばん好きなところは、今も神田川のふちにある和泉町のお稲荷さんであった。

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いちばん好きなところは今も神田川のふちにある和泉町のお稲荷さんであつた。

朝早くなど人のいないときには、川へ石を投げたり、大きな木の実のような鈴を鳴らしたりしてよく遊んだ。

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朝早くなど人のゐないときには川へ石を投げたり、大きな木の実のやうな鈴を鳴らしたりしてよく遊んだ。

伯母さんは私を塵のなさそうな石、またはお宮の段々の上などに降ろしてお詣りをする。

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伯母さんは私を塵のなささうな石、またはお宮の段段のうへなどにおろしてお詣りをする。

孔あき銭がからからと落ちてゆくのが面白い。

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孔あき銭がからからとおちてゆくのが面白い。

どこの神様仏様へ行っても、なにより先に、この子の体が丈夫になりますように、といってお願いするのであった。

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どこの神様仏様へいつてもなにより先に この子の体が丈夫になりますやうに といつてお願ひするのであつた。

ある日のこと、私が後ろから帯をつかまえられながら木柵につかまって川のほうを見ていたら、水の上を白い鳥が行きつ戻りつ魚をあさっていた。

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ある日のこと私が後ろから帯をつかまへられながら木柵につかまつて川のはうを見てたら水のうへを白い鳥が行きつもどりつ魚をあさつてゐた。

その長い柔らかそうな翼をたおたおと羽ばたいて静かに飛びまわる姿は、ともすれば苦痛を覚える病弱な子供にとって、まことに恰好な見ものであった。

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その長い柔かさうな翼をたをたをと羽ばたいてしづかに飛びまはる姿はともすれば苦痛をおぼえる病弱な子供にとつてまことに恰好な見ものであつた。

それで私はいつにない上機嫌であったが、折あしくそこへ玉子と麦粉菓子を背負った女の商人が休みに来たものだから、いつものとおりすぐに伯母さんの背中へくっついた。

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それで私はいつにない上機嫌であつたが、折あしくそこへ玉子と麦粉菓子むぎこぐわしを背負つた女のあきんどが休みにきたものでれいのとほりすぐに伯母さんの背中へくつついた。

女は荷を降ろし、かぶっていた手拭をとって襟などを拭きながら、なんのかのと上手に愛想を言い言いして、さしもの弱虫を手なずけてしまい、そろそろ背中から降りかける時分にはもう麦粉菓子の箱を開けて私を釣りにかかった。

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女は荷をおろしかぶつてた手拭をとつて襟などふきながらなんのかのと上手に愛想をいひいひさしもの弱虫を手なづけてしまつて、そろそろ背中から降りかけるじぶんにはもう麦粉菓子の箱をあけて私を釣りにかかつた。

女は小判なりの香りの高い麦粉菓子を取り出して、指の先にくるくると回しながら

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女は小判なりの薫のたかい麦粉菓子をとりだして指のさきにくるくるとまはしながら

「坊ちゃん、坊ちゃん」

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「坊ちやん 坊ちやん」

と手に持たせてくれたので、伯母さんは仕方なしにそれを買った。

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と手にもたせてくれたので伯母さんはしかたなしにそれを買つた。

今でさえ、あの渋紙貼りの籠を大儀そうに肩から外して、なかは籾がらに埋まっている白い、うす赤い卵や、ぷんと匂いの立つ麦粉菓子などを見せられると、ありったけ買ってやりたい気がしてならない。

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今でさへ、あの渋紙ばりの籠を大儀さうに肩からはづしてなかは籾がらに埋まつてる白い、うす赤い卵や、ぷんと匂のあがる麦粉菓子などを見せられるとありつたけ買つてやりたい気がしてならない。

お稲荷さんはその後立派になり、賑やかにもなったが、その時の柳ばかりは今も涼しくなびいている。

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お稲荷さんはその後立派になり、賑かにもなつたが、その時の柳ばかりは今も涼しくなびいてゐる。

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お稲荷さんへ行かない日には、汚い財布にお賽銭と木戸銭用の小銭を入れて牢屋の原へ連れてゆく。

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お稲荷さんへ行かない日にはきたない財布にお賽銭と木戸銭用の小銭を入れて牢屋の原へつれてゆく。

それは有名な伝馬町の牢屋のあとで、いろんな見世物がしょっちゅうかかっていた。

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それは有名な伝馬町の牢屋のあとで、いろんな見世物がしよつちゆうかかつてゐた。

また小商人が露店を並べて、さざえの壺焼や、はじけ豆や、蜜柑水や、季節になれば唐もろこし、焼栗、椎の実なども売る。

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また小あきんどが露店をならべて蠑螺さざえの壺焼や、はじけ豆や、蜜柑水や、季節になれば唐もろこし、焼栗、椎の実などもうる。

紅白だんだらの幕を張った見世物小屋の木戸に、拍子木と下足札を控えてあぐらをかいている男は、手を口へあてて、ほうばんほうばんと呼びたてる。

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紅白だんだらの幕をはつた見世物小屋の木戸に拍子木と下足札をひかへてあぐらをかいてる男は手を口へあてて ほうばん ほうばん と呼びたてる。

鎖につないだ山犬の鼻先へ鶏を突きつけて悲鳴をあげさせるのもある。

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鎖につないだ山犬の鼻さきへ鶏をつきつけて悲鳴をあげさせるのもある。

お皿のある怪しげな河童が水溜まりのなかでぼちゃぼちゃやるのもある。

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お皿のある怪しげな河童が水溜みづだまりのなかでぼちやぼちややるのもある。

でろれん祭文は貝をぶうぶう吹いて金の棒みたいなものをきんきん鳴らしては、でろれんでろれんというのでさっぱり面白くなかったけれど、伯母さんは自分が好きなものだから度々連れていった。

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でろれん祭文は貝をぶうぶう吹いて金の棒みたいなものをきんきん鳴らしては でろれん でろれん といふのでさつぱり面白くなかつたけれど伯母さんは自分が好きだもので度度つれていつた。

あるとき珍しく人形芝居がかかったことがあって、桜が一面に咲いた草山で、絵草紙で見るお姫様みたいな人が鼓を持って踊っているところの絵看板が上がっていた。

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あるとき珍しく人形芝居がかかつたことがあつて、桜がいちめんに咲いた草山に絵草紙でみるお姫様みたいな人が鼓をもつて踊つてるところの絵看板があがつてゐた。

私は大喜びでそこへ入ったが、たちまちかちゃんかちゃんと恐ろしい音がして、顔も手足もまっ赤な奴がねじくれた襷をかけて飛び出したので、びっくりしてわあわあ泣きだしてしまった。

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私は大喜びでそこへはひつたが、忽ちかちやんかちやんと恐しい音がして顔も手足もまつかな奴がねぢくれた襷をかけて飛び出したのでびつくりしてわあわあ泣きだしてしまつた。

後で聞けば、それは千本桜の狐忠信だったのだそうだ。

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後できけばそれは千本桜の狐忠信だつたのださうだ。

気に入った見世物のひとつは、駝鳥と人間の相撲であった。

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気にいつた見世物のひとつは駝鳥と人間の相撲であつた。

ねじ鉢巻の男が撃剣の胴をつけて、鳥が戦いを挑むときのようにひょんひょん跳ねながらかかってゆくと、駝鳥が腹をたててぱっぱっと蹴とばすのである。

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ねぢ鉢巻の男が撃剣のお胴をつけて鳥が戦ひを挑むときのやうにひよんひよん跳ねながらかかつてゆくと駝鳥が腹をたててぱつぱつと蹴とばすのである。

ある時は駝鳥のほうが首根っこを押さえつけられて負けになり、ある時は男のほうが蹴たてられて、まいったまいったといって逃げだした。

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ある時は駝鳥のはうが頸ねつこを押へつけられて負けになり、ある時は男のはうが蹴たてられて まゐつた まゐつた といつて逃げだした。

そのあいだに交代の男が片隅で弁当を使っていたのを、相手をなくしてぶらぶらしていたもう一羽の駝鳥がこっそり寄っていって、いきなり弁当を呑もうとしたもので、男はあわてて飛びのいた。

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そのあひだに交代の男がかた隅で弁当をつかつてたのを相手をなくしてぶらぶらしてたもう一羽の駝鳥がこつそり寄つてつていきなり弁当を呑まうとしたもので男はあわてて飛びのいた。

その様子がおかしかったので、見物人はどっと笑った。

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その様子がをかしかつたので見物人はどつと笑つた。

伯母さんは

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伯母さんは

「駝鳥がひもじがっとるに、ごぜんももらえんで気の毒な」

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「駝鳥がひもじがつとるにごぜんももらへんで気の毒な」

といって涙をこぼした。

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といつて涙をこぼした。

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私のような者が神田のまんなかに生まれたのは、河童が砂漠で孵ったよりも不都合なことであった。

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私のやうな者が神田のまんなかに生れたのは河童が沙漠でかへつたよりも不都合なことであつた。

近所の子はいずれも神田っ子の卵の腕白で、こんな意気地なしは相手にしてくれないばかりか、隙さえあれば辛い目をみせる。

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近処の子はいづれも神田つ子の卵の腕白でこんな意気地なしは相手にしてくれないばかりかすきさへあれば辛いめをみせる。

なかでも向かいの足袋屋の息子などは、伯母さんがぼんやりしていると後ろからだしぬけに人の横っ面を張りつけては逃げて行き行きしたもので、私はひどくおじけて、とかく引っ込みがちになってしまった。

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なかでもむかふの足袋屋の息子なぞは伯母さんがぼんやりしてると後ろからだしぬけに人の横ずつ面をはつつけては逃げて行き行きしたもので私はひどくおぢけてとかくひつこみがちになつてしまつた。

家にいるときには往来へ向いた高窓に乗せ、格子につかまらせて、伯母さんが後ろから押さえながら、馬や車や目に触れるものの名など教えて遊ばせてくれる。

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家にゐるときには往来へむいた高窓にのせ、格子につかまらして、伯母さんが後からおさへながら馬や車や目にふれるものの名など教へて遊ばせてくれる。

筋向かいの米屋に車に轢かれて足の不自由になった鶏がいて、羽根や尻尾がぼろけて塵にまみれながら、いつ見ても片足をあげているのを伯母さんは見るたびに可哀そうがったので、しまいには私までがその鶏を見るのが嫌わしくなってきた。

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筋向ふの米屋に車に轢かれたちんばの鶏がゐて、羽根や尻尾がぼろけて塵にまみれながらいつ見ても片足をあげてるのを伯母さんは見るたんびに可哀さうがつたので、終ひには私までがその鶏を見るのが厭はしくなつてきた。

ふだん遊ぶのはお仏壇のあるごく陰気な三畳で、夜はそこが寝室になり、ときどきは姉たちの自修室にもなった。

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ふだん遊ぶのはお仏壇のあるごく陰気な三畳で、夜はそこが寝室になり、ときどきは姉たちの自修室にもなつた。

そのころ十二三で小学校へ通っていた二人の姉が、西洋の状袋の形をした包みからまっ黒なお草紙を出し、古い木机の上に広げて手習いをしたことを覚えている。

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そのころ十二三で小学校へ通つてた二人の姉が西洋の状袋の形した包みからまつ黒なお草紙をだし古い木机のうへにひろげて手習ひをしたことをおぼえてゐる。

その机のひとつは長さ三尺ぐらいの、引き出しが二つついたもので、つまみがとれたあとの孔へ筆の軸に紙を巻いたものが挿してあり、もうひとつはわずかに子供の膝が入るくらいのもので浅い引き出しがついていたが、これらの机は兄から姉へ、私から妹へと、何十年かのあいだ順々に譲り渡されることになった。

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その机のひとつは長さ三尺ぐらゐの、抽匣が二つついたので、つまみがとれたあとの孔へ筆のぢくに紙をまいたのがさしてあり、もうひとつはわづかに子供の膝がはひるくらゐのもので浅い抽匣がついてたが、これらの机は兄から姉へ、私から妹へと、何十年かのあひだ順順に譲り渡されることになつた。

それを踏台にして庭に向いた窓の上へ上げてもらうと、黒塀のそばにある大株の躑躅が見える。

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それを踏台にして庭に向つた窓のうへへあげてもらふと黒塀のそばにある大株の躑躅がみえる。

夏になればまっ赤な花が山盛りに咲いて、町なかながら時たま蝶々が飛んできては蜜を吸ってゆく。

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夏になればまつかな花が山りに咲いて町なかながら時たま蝶蝶が飛んできては蜜を吸つてゆく。

そのあわただしく翅をはためかすのを面白く眺めていると、伯母さんは後ろから肩ごしに顔を出して、黒い蝶々は山家のお爺で、白いのや黄色いのはみんなお姫様だという。

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そのあわただしく翅をはためかすのを面白く眺めてると伯母さんは後ろから肩ごしに顔をだして 黒い蝶蝶は山家やまがのおぢいで、白いのや黄いろいのはみんなお姫様だ といふ。

お姫様は可愛いが、山家のお爺がまっ黒な大きな翅をはばたいて飛びまわるのが恐ろしい。

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お姫様は可愛いが山家のお爺がまつ黒な大きな翅をはばたいて飛びまはるのがおそろしい。

伯母さんはまた、草紙で丹念に貼った皮籠からいろいろなおもちゃを出して遊ばせてくれる。

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伯母さんはまた草紙で丹念にはつた皮籠からいろいろな玩具をだして遊ばせてくれる。

たくさんのおもちゃのなかでいちばん大事だったのは、表の溝から拾い上げた黒塗りの土製の小犬で、その顔がなんとなく私にやさしいもののように思われた。

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沢山の玩具のなかでいちばん大事だつたのは表の溝から拾ひあげた黒ぬりの土製の小犬で、その顔がなんとなく私にやさしいもののやうに思はれた。

伯母さんはそれをお犬様だといって、空き箱やなにかでこしらえたお宮のなかに据えて拝んでみせたりした。

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伯母さんはそれをお犬様だといつて、あき箱やなにかでこしらへたお宮のなかにすゑて拝んでみせたりした。

それから、あのぶきっちょな丑紅の牛も大切であった。

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それからあのぶきつちよな丑紅うしべにの牛も大切であつた。

これらは世界にたった二人の仲よしのお友だちである。

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これらは世界にたつた二人の仲よしのお友だちである。

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そのほか刀、薙刀、弓、鉄砲など、あらゆる戦道具もそろっていた。

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そのほか刀、薙刀、弓、鉄砲など、あらゆるいくさ道具もそろつてゐた。

伯母さんは私に烏帽子をかぶせたり、鎧通しを差させたり、すっかり戦人に仕立ててから、自分も後ろ鉢巻をし、薙刀をかいこんで、長い廊下の両端に陣どって戦ごっこをする。

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伯母さんは私に烏帽子をきせたり、鎧どほしをささせたり、すつかり戦人いくさにんにしたててから、自分も後ろ鉢巻をし、薙刀をかいこんで、長い廊下の両はじに陣どつて戦ごつこをする。

支度が整えば双方真顔になって、身構えをしながらそろそろと近づいてゆく。

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支度がととのへば双方真顔まがほになつて身構へをしながらそろそろと近づいてゆく。

廊下のまんなかで出会うやいなや、私が

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廊下のまんなかで出会ふやいなや私が

「四王天か」

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「四王天か」

と声をかける。

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と声をかける。

敵は

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敵は

「清正か」

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「清正か」

という。

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といふ。

そして声を揃えて

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そして同音に

「よいところであったな」

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「よいとこであつたな」

というと同時に

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といふと同時に

「やあ、たかたかたかたか」

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「やあ、たかたかたかたか」

と口で拍子をとりながら、しばらくは勝負もつかずに斬り結ぶ。

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と口で拍子をとりながら暫くは勝負もみえずきりむすぶ。

これは山崎合戦の場で、私は加藤清正、伯母さんは四王天但馬守なのである。

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これは山崎合戦の場で、私は加藤清正、伯母さんは四王天但馬守なのである。

そのうち二人は得物を捨てて取っ組み合う。

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そのうち二人は得物をすてて取組みあふ。

大立ち回りのすえ、四王天は清正がいいかげんくたびれたころを見はからって

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大立廻りのすゑ四王天は清正がいいかげんくたびれたころを見はからつて

「しまったー」

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「しまつたー」

と、いかにも無念そうにいってばったりと倒れる。

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とさも無念さうにいつてばつたりと倒れる。

それを鼻高々と馬乗りになって押さえつけると、伯母さんは汗をだらだら流しながら下から

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それを鼻たかだかと馬乗りになつておさへつけると伯母さんは汗をだらだら流しながら下から

「縄は許せ。首斬れ」

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「縄はゆるせ。首斬れ」

と、どこまでも四王天でくる。

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とどこまでも四王天でくる。

そこで清正が脇差を抜いて皺くちゃな首をごしごし斬るまねをするのを、四王天が顔をしかめてこらえながら目をつぶってぐにゃりと死んだふりをすれば、ひとまず勝負がつくことに決めてあったが、雨の日などには七八遍も同じことを繰り返して、しまいに四王天がひょろひょろになるまでやらせた。

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そこで清正が脇差をぬいて皺くちやな頸をごしごし斬るまねをするのを四王天が顔をしかめてこらへながら目をつぶつてぐにやりと死んだふりをすればひと先づ勝負がつくことにきめてあつたが、雨の日などには七八遍もおんなじことをくりかへして、しまひに四王天がひよろひよろになるまでやらせた。

伯母さんは

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伯母さんは

「まあどもならん、どもならん」

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「まあどもならん どもならん」

と泣き声を出しながらも、こちらが飽きてやめようというまではいつまでもやってくれる。

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と泣き声をだしながらもあきてやめようといふまではいつまでもやつてくれる。

どうかすると伯母さんはあんまり疲れて、首を斬られてしまってもなかなか起き上がらないことがある。

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どうかすると伯母さんはあんまり疲れて首を斬られてしまつてもなかなか起きあがらないことがある。

そうすると、ほんとうに死んだのではないかしらと思って、気味悪々ゆり起こしてみたりした。

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さうすると ほんとに死んだんぢやないかしら と思つて気味わるわるゆりおこしてみたりした。

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明神様のお祭りの時は場所がら恐ろしい景気で、町内の若い者が軒並みに紅白の花を打ち、巴と日の丸の提灯をさげて歩く。

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明神様のお祭りの時は場所がらおそろしい景気で、町内の若い者が軒なみに紅白の花をうち、巴と日の丸の提灯をさげてあるく。

家の軒にも花を打って提灯をさげるのが嬉しい。

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家の軒にも花をうつて提灯をさげるのが嬉しい。

その日には店に毛氈を敷きつめてしじんけんを飾る家があった。

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その日には店に毛氈をしきつめてしじんけんをかざる家があつた。

でこでこの頭が二つ恭しく段の上に据えられ、巻奉書のそぎ竹のようなものがつくんと立った大きなお神酒徳利が供えられる。

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でこでこの頭が二つ恭しく段のうへに据ゑられ、巻奉書まきぼうしよのそぎ竹のやうなのがつくんと立つた大きなお神酒みき徳利が供へられる。

金色の獅子は銀の眼玉をむいて、てっぺんに宝珠をいただき、まっ赤な狛犬は金の眼玉を光らせて鬣をふり乱している。

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金色の獅子は銀の眼玉をむいててつぺんに宝珠をいただき、まつかな狛犬は金の眼玉を光らせてたてがみをふりみだしてゐる。

伯母さんはお犬様や丑紅の牛をお友達にした手際で獅子や狛犬までも仲よしにしてしまったので、私はその恐ろしい顔を見ても泣きだすようなことはなかった。

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伯母さんはお犬様や丑紅の牛をお友達にした手ぎはで獅子や狛犬までも仲よしにしてしまつたので私はその怖らしい顔を見ても泣きだすやうなことはなかつた。

揃いの浴衣を着た町内の若い者からやっと足の運べる子供までが、向こう鉢巻にかいがいしく鬱金の麻襷をかけ――私はあの鈴だの起き上がり小法師だのをつけた麻襷が大好きである。――

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揃ひの浴衣をきた町内の若い者からやつと足の運べる子供までが向ふ鉢巻にかひがひしく鬱金うこんの麻襷をかけ――私はあの鈴だのおきあがり小法師こぼしだのをつけた麻襷が大好きである。――

白足袋のはだしにむりむりした脛を見せて、できるだけ大きな万燈をふって歩く。

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白足袋のはだしにむりむりした脛をみせて出来るだけ大きな万燈をふつてあるく。

軒並みの提灯のなかにも、町を飛びまわる万燈のなかにも、蝋燭の焔がちらちらとまたたく。

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軒なみの提灯のなかにも、町をとびまはる万燈のなかにも蝋燭の焔がちらちらとまたたく。

紅白に染め分けた頭でっかちの万燈の先に、ふっさりと御幣のさがったのがきりきりと宙にふりまわされるのは気持ちのいいものである。

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紅白に染めわけた頭でつかちの万燈のさきにふつさりと御幣のさがつたのがきりきりと宙にふりまはされるのは気もちのいいものである。

各町内の要所要所には、大人と子供の一団が樽御輿を取り巻いて喧嘩の手筈を示し合わせる。

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各町内の要所要所には大供子供の一団が樽御輿たるみこしをとりまいて喧嘩の手筈をしめしあはす。

そんなことの好きな伯母さんは、私にも人並みに襷をかけ、鉢巻をさせて表へ連れ出した。

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そんなことの好きな伯母さんは私にも人なみに襷をかけ、鉢巻をさせて表へつれだした。

私ははしょった着物の下から赤いフランネルの股引を出し、長い袂を襷に挟んで、伯母さんの背中で小さな万燈を持っていた。

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私ははしよつた著物の下から赤いふらんねるの股引をだし長い袂を襷にはさんで伯母さんの背中に小さな万燈をもつてゐた。

そうしたら、とある樽天王のまわりに固まっていた腕白どものひとりが見つけて

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さうしたらとある樽天王のまはりにかたまつてた腕白どものひとりが見つけて

「えくしょ。女におぶさって万燈ふってやがら」

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「えくしよ。女におぶさつて万燈ふつてやがら」

といいながら、いきなり二つ三つ石を叩きつけた。

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といひながらいきなり二つ三つ石をたたきつけた。

伯母さんははらはらして

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伯母さんははらはらして

「弱い子だに、かねしとくれよ」

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「弱い子だにかねしとくれよ」

と急いで帰ろうとするのを、二三人の奴がばらばらと追っかけてきて足を引っぱって引きずり落とそうとしたので、私は首っ玉にしがみついて火のつくように泣きだした。

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と急いで帰らうとするのを二三人の奴がばらばらと追つかけてきて足をひつぱつてひきずり落さうとしたので私は頸つたまに獅噛しがみついて火のつくやうに泣きだした。

伯母さんは喉を締める手を引き離し引き離し

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伯母さんは喉をしめる手をひきはなしひきはなし

「かねせるだ、かねせるだ」

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「かねせるだ かねせるだ」

といって逃げて帰った。

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といつて逃げて帰つた。

そうしてほっと息をついたときに、せっかくの万燈と下駄をかたかた落としてきたのに気がついた。

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さうしてほつと息をついたときに折角の万燈と下駄をかたかた落してるのに気がついた。

浅葱の紐で結わえた大事の下駄であったものを。

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浅葱の紐でいはへる大事の下駄であつたものを。

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病身者の私はしょっちゅうお医者様の手を離れる間がなかったが、幸せなことには烏犀角の東桂さんが間もなく死んだので、代わりに「西洋医者」

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病身者の私はしよつちゆうお医者様の手をはなれるまがなかつたが、仕合せなことには烏犀角の東桂さんが間もなく死んだので代りに「西洋医者」

の高坂さんに診てもらうようになり、東桂さんが一所懸命吹き出させた腫れ物は西洋の薬できれいに洗われて、すぐによくなってしまった。

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の高坂さんにみてもらふやうになり、東桂さんが一所懸命ふき出さした腫物は西洋の薬できれいに洗はれてぢきによくなつてしまつた。

この人は顔の怖いのに似ず、子供の機嫌をとることが上手だった。

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この人は顔の怖いに似ず子供の機嫌をとることが上手だつた。

それで、それまで東桂さんのまずい練り薬にこりごりしていた私も、喜んで甘みをつけた水薬を飲むようになった。

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で、それまで東桂さんのまづい煉薬にこりごりしてた私も喜んで甘味をつけた水薬をのむやうになつた。

そのうち、私と母の健康のためにどうしても山の手の空気のいいところへ越さなければ、という高坂さんの説によって、幸いそのとき殿様のほうの御用もひととおり片付いて暇になっていた父は、自分の役目を人に渡して小石川の高台へ引っ越すことに決心した。

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そのうち 私と母の健康のためにどうでも山の手の空気のいいところへ越さなければ といふ高坂さんの説によつて、幸ひそのとき殿様のはうの御用もひととほり片附いて暇になつてた父は自分の役目を人にわたして小石川の高台へ引越すことに決心した。

いよいよ移るという日には、みんなして私に、もうこの家へは来られないのだ、ということをよくよくいって聞かせたが、私は出入りの者が手伝いに来て大騒ぎをするのが面白く、また伯母さんと相乗りに乗せられて俥を連ねてゆくのが嬉しくて、元気よく喋っていた。

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いよいよひき移るといふ日にはみんなして私に もうこの家へは来られないのだ といふことをよくよくいつてきかせたが、私は出入りの者が手伝ひにきて大騒ぎをするのが面白く、また伯母さんと相乗りにのせられて俥を列ねてゆくのが嬉しくて元気よく喋つてゐた。

しばらくして路がだんだん淋しくなり、しまいに赤土の長い坂をのぼって――それまで坂というものを知らなかった。――

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暫くして路がだんだん淋しくなり、しまひに赤土の長い坂をのぼつて――それまで坂といふものを知らなかつた。――

今度の住居だという杉垣に囲まれた古い家に着いた。

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今度の住居だといふ杉垣に囲まれた古い家についた。

十一

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十一

このへんの者はみな杉垣をめぐらした古い家に静かに住んでいる。

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このへんのものはみな杉垣をめぐらした古い家に静に住んでゐる。

おおかた旧幕時代から代々住み続けている士族たちで、世が変わって零落はしたが、まだその日に追われるほどみじめな有様にはならず、つつましやかにのどかな日を送っている人たちであった。

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おほかた旧幕時代から代代住みつづけてる士族たちで、世がかはつて零落はしたがまだその日に追はれるほどみじめな有様にはならず、つつまやかにのどかな日をおくつてる人たちであつた。

それに人家も少ない片田舎のことゆえ、近所同士は顔ばかりか家のなかの様子まで知り合って、お互いに気安くしている。

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それに人家もすくない片田舎のことゆゑ近処同士は顔ばかりか家のなかの様子まで知りあつてお互に心やすくしてゐる。

朽ちたまま手を入れない杉垣のうちにはどこにも多少の空き地があって果樹など植えられ、屋敷と屋敷のあいだには畑がなければ茶畑があって、子供や鳥の遊び場になっている。

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朽ちたまま手をいれない杉垣のうちにはどこにも多少のあき地があつて果樹など植ゑられ、屋敷と屋敷のあひだには畑がなくば茶畑があつて子供や鳥の遊び場になつてゐる。

畑、生垣、茶畑、目に触れるものとして珍しく嬉しくないものはない。

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畑、生垣、茶畑、目にふれるものとして珍しく嬉しくないものはない。

私の家は隣のかなり広い空き地へ普請をするので、それが出来上がるまで仮にこの家に住むのである。

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私の家は隣のかなり広いあき地へ普請をするのでその出来あがるまでかりにこの家に住むのである。

暗い陰気な玄関のわきにはゆずりはの木があったが、その葉も赤い軸も気に入った。

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暗い陰気な玄関のわきにはゆづりはの木があつたが、その葉も赤いぢくも気にいつた。

すべっこい葉をとって唇にあてたり、頬をこすってみたりする。

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すべつこい葉をとつて唇にあてたり、頬をこすつてみたりする。

越してきた翌日に、誰かが蝉をとってありあわせの鳥籠に入れてくれた。

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越してきたあくる日に誰かが蝉をとつて有合せの鳥籠に入れてくれた。

これまで見たことも聞いたこともないものゆえ面白くはあったけれど、そばへ寄ると暴れてじゃんじゃんいうのが怖かった。

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これまで見たことも聞いたこともないものゆゑ面白くはあつたけれどそばへよるとあばれてぢやんぢやんいふのが怖かつた。

私は毎朝早く起こされて、草ぼうぼうとした空き地をはだしで歩かされる。

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私は毎朝はやく起されて草ぼうぼうとしたあき地をはだしで歩かされる。

ぺんぺん草や、蚊帳つり草や、そこに生えている草の名を覚えるだけでも大変な仕事である。

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ぺんぺん草や、蚊帳つり草や、そこにはえてる草の名をおぼえるだけでも大変な仕事である。

その時分、八十近かった祖母も坊主頭に毛繻子の頭巾をかぶって、杖をつきつきいっしょに露を踏んで歩く。

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そのじぶん八十ぢかかつた祖母も坊主頭に毛繻子の頭巾をかぶつて杖をつきつきいつしよに露をふんであるく。

祖母は性のいい三つ栗を裏の垣根のくろへ埋めて、これは孫たちが大きくなるころには採って食べられるようになる、といっていた。

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祖母は性のいい三つ栗を裏の垣根のくろへ埋めて これは孫たちが大きくなるころには採つて食べられるやうになる といつてゐた。

祖母が亡くなってから私どもはそれを、お祖母様の栗と名づけて大切にしていたが、この節では三本ながら立派な木になって、秋になればその昔の孫たちが笊に幾杯かの栗を落として自分の子供に剥いてやるようにさえなった。

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祖母がなくなつてから私どもはそれを お祖母様ばあさまの栗 と名づけて大切にしてたが、この節では三本ながら立派な木になつて、秋になればその昔の孫たちが笊に幾杯かの栗を落して自分の子供にむいてやるやうにさへなつた。

そのうちに普請が始まった。

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そのうちに普請がはじまつた。

材木を引いてきた馬や牛が垣根につながれているのを、伯母さんにおぶさって怖々ながら見にゆく。

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材木をひいてきた馬や牛が垣根につながれてるのを伯母さんにおぶさつて怖怖こはごはながら見にゆく。

大きな鼻の孔から棒みたいな息をつきながら馬は杉の葉を引きむしって食い、牛はげぶっとなにか吐き出してはむにゃむにゃと噛む。

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大きな鼻の孔から棒みたいな息をつきながら馬は杉の葉をひきむしつてくひ、牛はげぶつとなにか吐きだしてはむにやむにやと噛む。

落ちつきのない長い顔の馬よりも、おっとりして舌なめずりばかりする丸顔の牛のほうが好きであった。

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落ちつきのない長い顔の馬よりもおつとりして舌なめずりばかりする丸顔の牛のはうが好きであつた。

普請場では鑿や、手斧や、鉞や、めいめいが音をたてて、さしも沈んだ病身者の胸をときめかせる。

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普請場にはのみや、手斧てうなや、まさかりや、てんでんの音をたててさしも沈んだ病身ものの胸をときめかせる。

職人たちのなかで定さんは気だてのやさしい人で、削り物をしているそばに立って、鉋の凹みからくるくると巻き上がって地に落ちる鉋屑に見とれていると、いつもきれいそうなのを選って拾ってくれた。

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職人たちのなかに定さんは気だてのやさしい人で、削りものをしてるそばに立つてかんなの凹みからくるくると巻きあがつて地に落ちる鉋屑に見とれてるといつもきれいさうなのをよつて拾つてくれた。

杉や檜の血の出そうなのをしゃぶれば、舌や頬が引きしめられるような味がする。

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杉や檜の血の出さうなのをしやぶれば舌や頬がひきしめられるやうな味がする。

おが屑をふっくらと両手にすくってこぼすと、指の叉がこそばゆいのも嬉しい。

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おが屑をふつくらと両手にすくつてこぼすと指の叉のこそばゆいのも嬉しい。

定さんはいつも人より後に残って、ぱんぱんといい音のする柏手をうってお月様を拝んだ。

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定さんはいつも人よりか後に残りぱんぱんといい音のする柏手をうつてお月様を拝んだ。

私はいつまでも仕事場にうろついていてそれを見るのを楽しみにしていたが、ほかの職人たちは定さんに変人というあだ名をつけて、ああいう野郎はきっと若死にする、などといっていた。

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私はいつまでも仕事場にうろついてゐてそれを見るのを楽しみにしてたが、ほかの職人たちは定さんに 変人 といふあだ名をつけて、ああいふ野郎はきつと若死にする なぞといつてゐた。

きれいに箒目のたった仕事場のあとを見まわすと、今までの賑やかさに引きかえてしんしんとして、夕靄がかかってくる。

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きれいに箒目のたつた仕事場のあとを見まはると今までの賑かさにひきかへしんしんとして夕靄がかかつてくる。

私は残り惜しく呼び入れられて、また明日の朝を待つ。

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私は残り惜しく呼びいれられてまた明日の朝をまつ。

そのように湧きたつ木の香りに酔って、なんとなく爽やかな気持ちになりながら、日に日に新しい住居が出来てゆくのを不思議そうに眺めていた。

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そのやうに湧きたつ木香きがに酔つてなんとなく爽な気もちになりながら日に日に新しい住居が出来てゆくのを不思議らしく眺めてゐた。

十二

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十二

少しばかりの茶畑を間にして、南隣りに少林寺という禅寺があった。

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すこしばかりの茶畑を間にして南隣りに少林寺といふ禅寺があつた。

その寺内が広いのと、信心深い伯母さんにはお寺というものがなんとなく懐かしかったのだろうというのとで、私はときどきそこへ連れてゆかれた。

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その寺内が広いのと、信心ぶかい伯母さんにはお寺といふものがなんとなく懐しかつたのであらうために私はときどきそこへつれてゆかれた。

門から玄関まで二十間ばかりのあいだ、二行に敷かれた石の両側が荒れた茶畑になって、ところどころ杉の木やなにかが立っている。

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門から玄関まで二十間ばかりのあひだ二行に敷かれた石の両側が荒れた茶畑になつて、ところどころ杉の木やなにか立つてゐる。

私はよくその茶の花をとってもらったが、枝にもろいその花は、ひとつとるとばらばらといくつもいっしょに散って地に落ちた。

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私はよくその茶の花をとつてもらつたが、枝にもろいその花はひとつとるとはばらばらといくつもいつしよに散つて地に落ちた。

また雨のあとなどには、茶の木茶の木に雫がいっぱいたまってきらきらと光っている。

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また雨のあとなどには茶の木茶の木に雫がいつぱいたまつてきらきらと光つてゐる。

なんの奇もないながら、かすかなさびのある茶の花は、幼い折の思い出にふさわしい花である。

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なんの奇もないながらかすかなさびのある茶の花は稚い折の思ひ出にふさはしい花である。

円みをもった白い花弁がふっくらと黄色い蕊をかこんで、暗緑のちぢれた葉のかげに咲く。

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円みをもつた白い花弁がふつくらと黄色い蕊をかこんで暗緑のちぢれた葉のかげに咲く。

それをすっぽりと鼻へ押しつけて嗅ぐのが癖であった。

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それをすつぽりと鼻へおしつけてかぐのが癖であつた。

左手の閼伽井のそばの木犀は、花が咲けば甘い香りを漂わせ、その井戸車の軋る音は静かな茶畑をこえて私の家までも響く。

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左りての閼伽井あかゐのそばの木犀は花がさけば甘い香を漂はせ、その井戸車のきしる音は静な茶畑をこえて私の家までもひびく。

本堂の玄関にある大きな衝立には極彩色の孔雀が描いてあった。

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本堂の玄関にある大きな衝立ついたてには極彩色の孔雀がかいてあつた。

雄鳥が蓑のような尾をさげてなにかにとまっているそばに、やや小さい雌鳥が身を屈めて啄むような姿勢をしている。

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雄鳥が蓑のやうな尾をさげてなにかにとまつてるそばにやや小さい雌鳥が身を屈めてついばむやうな姿勢をしてゐる。

そのまわりに咲き乱れたいろいろの牡丹の花には、蝶々がいくつか戯れていた。

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そのまはりに咲きみだれたいろいろの牡丹の花には蝶蝶がいくつか戯れてゐた。

また折々は近所の大日様へ連れていって遊ばせた。

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また折折は近処の大日様だいにちさまへつれていつて遊ばせた。

私がねじねじの太い綱を持ってこんこんと鰐口を鳴らすと、伯母さんはお賽銭を投げてお参りをする。

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私がねぢねぢの太い綱をもつてこんこんと鰐口を鳴らすと伯母さんはお賽銭をなげておまゐりをする。

そうして脳病が治るようにと、私の頭とお賓頭盧様の頭をかわるがわる撫でて、それから今度は自分の眼をさする。

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さうして脳病のなほるやうに私の頭とお賓頭盧様びんづるさまの頭をかはるがはる撫でて、それから今度は自分の眼をさする。

お賓頭盧様はてかてかした手垢だらけの木地を出して、大きな眼をむいて台の上に足を組んでいた。

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お賓頭盧様はてかてかした手垢だらけの木地をだし大きな眼をむいて台のうへに足を組んでゐた。

大日様には、方々のお寺にあるように柿色や花色の奉納の手拭のさがった掘り抜き井戸があって、草双紙で阿波の鳴戸のお鶴が持っている曲物の柄杓が浮いていた。

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大日様には方方のお寺にあるやうに柿色や花色の奉納の手拭のさがつた掘りぬき井戸があつて、草双紙に阿波の鳴戸のお鶴がもつてる曲物まげもの柄杓ひしやくが浮いてゐた。

伯母さんはそのお水をありがたそうに手に受けて眼を冷やしてから、小さくなった目を見開いてみて

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伯母さんはそのお水をありがたさうに手にうけて眼を冷してから小さくなつた目を見ひらいてみて

「お大日様のお蔭でちいとようなったような」

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「お大日様のお蔭でちいとはようなつたやうな」

という。

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といふ。

この大日様のおみくじは大層よく当たるという評判で、遠方からわざわざ引きに来る人さえあった。

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この大日様のおみくじは大層よくあたるといふ評判で遠方からわざわざひきにくる人さへあつた。

それで伯母さんはあるとき、私の病身がよくなるかどうかを伺ってみたことがあった。

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それで伯母さんはあるとき私の病身がよくなるかどうかを伺つてみたことがあつた。

お堂のわきの障子の立っているところへ行って

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お堂のわきの障子のたつてるところへいつて

「お頼み申します」

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「お頼み申します」

といったら

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といつたら

「はい」

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「はい」

といって頭を青々と剃った若い坊さんが顔を出した。

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といつて頭を青青と剃つた若い坊さんが顔をだした。

伯母さんは一部始終を話しておみくじを頼んだ。

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伯母さんは一部始終を話しておみくじを頼んだ。

坊さんは本尊様の前へ行ってしばらく拝んでから、がらり、がらり、がらがらがら、と調子をつけて幾度も箱を振ったのち、一本のおみくじを引いてきて、その文句を丁寧に紙に書いてくれた。

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坊さんは本尊様のまへへいつて暫く拝んでから がらり がらり がらがらがら と調子をつけて幾度も箱をふつたのち一本のおみくじをひいてきてその文句を丁寧に紙に書いてくれた。

伯母さんは「四角い字」

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伯母さんは「四角い字」

が読めないので、坊さんはいちいち訳を解いて聞かせたが、それは、この子は将来丈夫になって幸せをする、というのだったものだから、ほくほく喜んで帰ってきた。

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が読めないので坊さんはいちいち訳をといてきかせたが、それは この子は将来丈夫になつて仕合せをする といふのだつたものでほくほく喜んで帰つてきた。

十三

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十三

一町ほど淋しいほうへ行くと、木槿の生垣をめぐらした空き地に、五六羽の鶏を飼って駄菓子を売っている爺さん婆さんがあった。

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一町ほど淋しいはうへゆくと木槿むくげの生垣をめぐらしたあき地に五六羽の鶏を飼つて駄菓子を売つてる爺さん婆さんがあつた。

私ははじめて見る藁屋根や、破れた土壁や、ぎりぎり音のする撥ね釣瓶などがひどく気に入って、伯母さんとそこへ菓子を買いにゆくのが大きな楽しみのひとつになった。

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私ははじめて見る藁屋根や、破れた土壁や、ぎりぎり音のする釣瓶つるべなどがひどく気にいつて伯母さんとそこへ菓子を買ひにゆくのが大きな楽しみのひとつになつた。

爺さん婆さんは耳が遠くて、呼んでもなかなか出てこない。

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爺さん婆さんは耳が遠くて呼んでもなかなか出てこない。

さんざん呼んでいると、そのうちやっとこさと出てきて、あっちこっち菓子箱の蓋を開けてみせる。

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さんざ呼んでるとそのうちやつとこさと出てきてあつちこつち菓子箱の蓋をあけてみせる。

きんか糖、きんぎょく糖、てんもん糖、微塵棒。

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きんか糖、きんぎよく糖、てんもん糖、微塵棒みぢんぼう

竹の羊羹は口にくわえると青竹の匂いがして、つるりと舌の上にすべり出す。

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竹の羊羹は口にくはへると青竹の匂がしてつるりと舌のうへにすべりだす。

飴のなかのおたさんは、泣いたり笑ったりしていろんな向きに顔を見せる。

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飴のなかのおたさんは泣いたり笑つたりしていろんな向きに顔をみせる。

青や赤の縞になったのをこっきり噛み折って吸ってみると、鬆のなかから甘い風が出る。

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青や赤の縞になつたのをこつきり噛み折つて吸つてみるとのなかから甘い風が出る。

いちばん好きなのは肉桂棒というのだった。

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いちばん好きなのは肉桂棒といふのだつた。

それはあるへいの棒に肉桂の粉をまぶしたもので、濃厚な甘みのなかに興奮性の肉桂の匂いがする。

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それはあるへいの棒に肉桂の粉をまぶつたもので、濃厚な甘みのなかに興奮性な肉桂の匂がする。

あるひどい雨の日に、私はどうしてか急に爺さん婆さんが可哀そうになり、それと同時に肉桂棒が欲しくなって聞かないので、伯母さんは私を半纏でおんぶして出かけたが、あいにく肝心の肉桂棒がなかったため、私はがっかりして泣いて帰ったことがあった。

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あるひどい雨の日に私はどうしてか急に爺さん婆さんが可哀さうになり、それと同時に肉桂棒がほしくなつてきかないので伯母さんは私を半纏おんぶして出かけたが、あいにく肝心の肉桂棒がなかつたため私はがつかりして泣いて帰つたことがあつた。

「牛の乳」

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「牛の乳」

をおとなしく飲んだり、むずからずによく遊んだりした日には、御褒美にがらがらを買ってくれる。

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をおとなしくのんだり、むづからずによく遊んだりした日には御褒美にがらがらを買つてくれる。

桃や蛤の形の紅白に染め分けたのを背中で振って楽しみながら帰って、割ってみると、紙でこしらえた小鼓やブリキ製の笛などが出る。

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桃や蛤の形の紅白に染めわけたのを背中でふつて楽しみながら帰つてわつてみると紙でこしらへた小鼓やブリツキ製の笛などがでる。

それを宝物みたいに大事がる。

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それを宝ものみたいに大事がる。

また泥色の皮で三角に包んで、合わせ目を役者の似顔で封じたのもあった。

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また泥色の皮で三角に包んで合せめを役者の似顔で封じたのもあつた。

十四

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十四

生まれつきの虚弱のうえに運動不足のため消化不良であった私は、蜂の王様みたいに食い物を口に押しつけられるまでは食うことを忘れていて、伯母さんにどれほど骨を折らせたかわからない。

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生れつきの虚弱のうへに運動不足のため消化不良であつた私は、蜂の王様みたいに食ひ物を口に押しつけられるまでは食ふことを忘れてゐて伯母さんにどれほど骨を折らせたかわからない。

羊羹の空き箱に握り飯を詰めて伊勢詣りという趣向で、伯母さんが先に立って庭の築山をぐるぐるまわり歩いたあげく、石燈籠の前で柏手をうってお詣りをして、松の蔭にある石に腰をかけてお弁当を食べたこともあった。

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羊羹のあき箱に握飯をつめ伊勢詣りといふ趣向で、伯母さんが先に立つて庭の築山をぐるぐるまはり歩いたあげく石燈籠のまへで柏手をうちお詣りをして、松の蔭にある石に腰をかけてお弁当をたべたこともあつた。

またあるときは、妹や乳母もいっしょに待宵の咲いている原へ海苔巻きを持っていって食べたこともあった。

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またあるときは妹や乳母もいつしよに待宵の咲いてる原へ海苔まきをもつていつて食べたこともあつた。

杉や榎や欅などの大木が立ち並んだ崖の上から見渡すと、富士、箱根、足柄などの山々がくっきりと見える。

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杉や榎や欅などの大木が立ちならんだ崖のうへから見わたすと富士、箱根、足柄などの山山がかうかうと見える。

私はいつになく喜んで昼飯を食べていたのに、折あしく向こうから人が来たものだから、すぐさま箸を放り出して、もう帰る、といいだした。

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私はいつになく喜んで昼飯をたべてたのに折あしくむかふから人がきたものですぐさま箸をはふりだして もう帰る といひだした。

生き物のうちでは人間がいちばん嫌いだった。

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生きもののうちでは人間がいちばん嫌ひだつた。

そんな風で、私がなにを食べてもうまがらないのを、伯母さんは独特の弁舌で上手に味をつけて食べさせる。

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そんな風で私がなにを食べてもうまがらないのを伯母さんは独得の弁舌で上手に味をつけてたべさせる。

蛤の佃煮はあの可愛い蛤貝が龍宮の乙姫様の前を舌を出して這って歩くということのために、また竹の子は孟宗の親孝行の話が面白いばっかりに好きであった。

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蛤の佃煮はあの可愛い蛤貝が龍宮の乙姫様のまへを舌を出して這つてあるくといふことのために、また竹の子は孟宗の親孝行の話が面白いばつかりに好きであつた。

むっくらした竹の子を洗えば、もとのほうの節に沿って短い根と紫の疣が並んでいる。

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むつくらした竹の子を洗へばもとのはうの節にそうて短い根と紫のいぼがならんでゐる。

その皮を日に透かしてみると金色のうぶ毛が生えて、裏は象牙のように白く筋目がたっている。

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その皮を日にすかしてみると金いろのうぶ毛がはえて裏は象牙のやうに白く筋目がたつてゐる。

大きなのは頭にかぶり、小さなのはけばを落として梅干を包んでもらう。

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大きなのは頭にかぶり、小さなのはけばをおとして梅干を包んでもらふ。

しばらく吸っているうちに皮が紅色に染まって、すっぱい汁が滲み出してくる。

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暫く吸つてるうちに皮が紅色に染つてすつぱい汁が滲みだしてくる。

はちくも好きであった。

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はちくも好きであつた。

土鍋でぐつぐつ煮ながら、さもさもおいしそうな様子をして煮えくりかえる竹の子の味見をするのを見れば、さすがの蜂の王様も奥歯のあたりに唾のわくのを覚えた。

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土鍋でぐつぐつ煮ながらさもさもおいしさうな様子をして煮えくりかへる竹の子の味をきくのをみればさすがの蜂の王様も奥歯のへんに唾のわくのをおぼえた。

ときどき甘えて自分で箸をとらないと、伯母さんは彩色した小さな茶碗を口へあてがって

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ときどきあまえて自分で箸をとらないと伯母さんは彩色した小さな茶碗を口へあてがつて

「すずめごだ、すずめごだ」

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「すずめごだ すずめごだ」

といいながら食べさせてくれる。

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といひながら食べさせてくれる。

鯛は見た目が美しく、頭に七つ道具のあるのも、恵比寿様が抱えているのも嬉しい。

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鯛は見た目が美しく、頭に七つ道具のあるのも、恵比寿様が抱へてるのも嬉しい。

眼玉がうまい。

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眼玉がうまい。

上っ面はぽくぽくしながら、芯は柔らかく強くて、いくら噛んでも噛みきれない。

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うはつらはぽくぽくしながらしんは柔靱でいくら噛んでも噛みきれない。

吐き出すと半透明の玉がかちりと皿に落ちる。

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吐きだすと半透明の玉がかちりと皿に落ちる。

歯の白いのもよい。

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歯の白いのもよい。

十五

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十五

その頃□□さんという気の変な人がいた。

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その頃□□さんといふ気ちがひがゐた。

古い人の話によれば、若いとき大変学問に凝って本ばかり読んでいるうちに慢心して気がふれたのだという。

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古い人の話によれば若いとき大変学問にこつて本ばかり読んでるうちに慢心して気がふれたのだといふ。

髪を蓬々と伸ばして、垢と煤とでこけらの生えた身体に焼け焦げだらけのぼろを着、太い竹の杖をついて、なにか考え込みながら夏となく冬となくはだしのまま、いかにも静かにさまよい歩く。

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髪を蓬蓬とのばして、垢と煤とでこけらの生えた身体に焼けこげだらけの襤褸ぼろをき、太い竹の杖をついてなにか考へこみながら夏となく冬となく跣のままさもしづかにさまよひあるく。

昔を知っている人たちが気の毒がって握り飯などをやると、鉄鉢を持つような形に大切に手にのせて帰ってゆくが、たまたま身につけるものを施す人があっても、不承不承に一日二日着るばかりで、すぐにもとのぼろと着替えてしまう。

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昔を知つてる人たちが気の毒がつてむすびやなどやると鉄鉢をもつやうな形に大切に手にのせて帰つてゆくが、たまたま身につけるものを施す人があつても不承不承に一日ふつか著るばかりでぢきにもとの襤褸と著かへてしまふ。

彼は私の家から二町ほど離れたある農家のそばに穴を掘って、そのなかで年じゅう焚き火をしていた。

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彼は私の家から二町ほどはなれたある農家のそばに穴を掘つて、そのなかで年ぢゆう焚き火をしてゐた。

そうして気の向いたときには穴から出かけ、足の向くほうへ行きたいだけ行って、いやになればくるりと向き直って戻ってくる。

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さうして気のむいたときには穴から出かけ、足のむくはうへ行きたいだけいつて、いやになればくるりと向きなほつて戻つてくる。

そんなにして、雨の日も風の日も何遍となくそのへんを歩きまわるのが常であった。

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そんなにして雨の日も風の日も何遍となくそのへんを歩きまはるのが常であつた。

それゆえ、どうかして一日その姿が見えないことがあると、人は、今日は□□さんが機嫌が悪いのだ、といい、また三日四日も続けて出ないときには、加減が悪いのではないか、といって気の毒がったりした。

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それゆゑどうかして一日その姿が見えないことがあると人は 今日は□□さんが機嫌がわるいのだ といひ、また三日四日も続けて出ないときには かげんがわるいのぢやないか といつて気の毒がつたりした。

おかしなことに、彼は往来で女に行き合えば二足三足あとへさがって、いかにも穢らわしそうにぺっぺっと唾を吐く。

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をかしなことに彼は往来で女に行きあへば二足三足あとへさがつてさも穢はしさうにぺつぺつと唾をはく。

潔癖な伯母さんは、はじめて□□さんを見たときからその垢臭いのを気にして、彼が三足さがらないうちにこちらから引き返してしまうくらいだったが、ある日私をおぶっていつもの駄菓子屋へゆく途中でばったり出くわしたら、伯母さんはこらえかねて

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潔癖な伯母さんははじめて□□さんを見たときからその垢臭いのを気にして彼が三足さがらないうちにこちらから引返してしまふくらゐだつたが、ある日私をおぶつてれいの駄菓子屋へゆく途中でばつたり出くはしたら伯母さんはこらへかねて

「五銭あげるで、頼むに顔洗っとくれんか」

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「五銭あげるで、頼むに顔洗つとくれんか」

といって帯のあいだから財布を出しかけた。

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といつて帯のあひだから財布を出しかけた。

それにはさすがの□□さんも少し驚いたように立ちどまったが、さもさもいまいましそうに首をふり、唾を吐くのさえ忘れて足早に帰っていった。

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それにはさすがの□□さんもすこし驚いたやうにたちどまつたが、さもさもいまいましさうに首をふり唾を吐くのさへ忘れて足ばやに帰つていつた。

この気の変な人はその後、私が一人前の腕白になるまでも生きていたが、ある日のこと、□□さんが昨夜のうちに焼け死んだ、という噂が立ったので、こわごわその穴を覗きにいったら、いつもの竹杖が粗朶といっしょに焼け残っているばかりで、□□さんの姿は見えなかった。

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この狂人はそののち私が一人前の腕白になるまでも生きてたが、ある日のこと □□さんが昨夜のうちに焼け死んだ といふ噂がたつたのでこはごはその穴を覗きにいつたら、いつもの竹杖が粗朶そだといつしよに焼け残つてるばかりで□□さんの姿は見えなかつた。

十六

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十六

伯母さんは「木の実どち」

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伯母さんは「木の実どち」

をして遊ばせるといって白玉椿の実を落としてくれたが、眼が悪いのと力がないのとで狙いを外して枝葉ばかり叩き落とした。

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をして遊ばせるといつて白玉椿の実を落してくれたが眼が悪いのと力がないのとで狙ひをはづして枝葉ばかり叩き落した。

木の実どちというのは国の遊びで、椿の種子の、ある決められた形のもののうちからいくつかを選んで、めいめいが同じ数だけ出し合い、それをいっしょにしてひとりずつかわるがわる両手のなかで振ってから畳の上にあけてみて、白い芽の痕が多く上に出たものを勝ちとして種子の取りっこをするのである。

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木の実どちといふのは国の遊びで、椿の種子のあるきめられた形のもののうちからいくつかを択んでめいめいが同じ数だけ出しあひ、それをいつしよにしてひとりづつかはるがはる両手のなかでふつてから畳のうへにあけてみて、白い芽の痕が多く上に出たものを勝ちとして種子のとりつこをするのである。

その恰好と重心の関係によって、種子に勝負のうえの強弱がある。

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その恰好と重心の関係によつて種子に勝負のうへの強弱がある。

なかには漆を塗って飾ったり、強くするためにずるく鉛をつぎこんだりするものもあるという。

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なかには漆を塗つて飾つたり、強くするために狡猾に鉛をつぎこんだりするものもあるといふ。

落とした実を拾い集めて殻を割ると、舟のようなのや、鏑のようなのや、つやつやしたのが隔壁のなかにしっくりと食い合っている。

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落した実を拾ひあつめて殻をわると舟のやうなのや、かぶらのやうなのや、つやつやしたのが隔壁のなかにしつくりとくひあつてゐる。

その形にしたがって、もう、じゃあ、とこ、かい、などと呼ばれる。

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その形にしたがつて もう、じやあ、とこ、かい などと呼ばれる。

そんなにして五六十の種子を集めて、静かな雨の日を木の実どちをして暮らしたこともあった。

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そんなにして五六十の種子をあつめて静な雨の日を木の実どちをして暮したこともあつた。

夏になれば、いろいろな形をした雲の塊が日光にあふれてぎらぎらする空を動いてゆくのを、伯母さんは、あれは文殊様だの、あれは普賢菩薩様だのと、まことしやかに教えた。

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夏になればいろいろな形をした雲の塊が日光にあふれてぎらぎらする空を動いてゆくのを伯母さんは あれは文殊様だの、あれは普賢菩薩様だのとまことしやかに教へた。

ある日のこと、遊び疲れた私はひとり寝ころんで、自分を守ってくださる仏様の姿に似た雲の来るのを眺めていた。

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ある日のこと遊び疲れた私はひとり寐ころんで自分をまもつてくださる仏様の姿に似た雲のくるのを眺めてゐた。

そうしたら、ちょうどそこへ通りかかった雲の、観音様が仰向けになったようなのが不意に崩れて恐ろしい形になったので、私は化け物が観音様になって取りに来たのかと思って、あわてて伯母さんのところへ逃げていった。

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さうしたらちやうどそこへ通りかかつた雲の、観音様の仰むけになつたやうなのが不意に崩れて恐しい形になつたので、私は化けものが観音様になつてとりにきたのかと思つてあわてて伯母さんのところへ逃げていつた。

それから私はそういう形の雲を死人観音と名づけて、その影を見ればすぐに隠れてしまった。

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それから私はさういふ形の雲を死人しびと観音と名づけてその影をみればすぐにかくれてしまつた。

皮籠には山崎合戦の戦道具のほかにおもちゃも入っていたが、なかでも鼓と笙の笛は秘蔵の宝物であった。

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皮籠には山崎合戦の戦道具のほかにおもちやもはひつてたが、なかにも鼓としやうの笛は秘蔵の宝ものであつた。

笙の笛の黒塗りの壺には唐草の蒔絵がしてある。

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笙の笛の黒塗の壺には唐草の蒔絵がしてある。

その輪形に並んだ長い短い管が、ひゅうひい、と柔らかい雑多な音を出すのが、弱い神経に程よい快感を与える。

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その輪がたにならんだ長い短い管の ひゆひい と柔い雑多な音をだすのが弱い神経に程よい快感をあたへる。

鼓は私の小さな肩にふさわしいほどのもので、緋のしらべの緒、面白い胴の形など、みな気に入っていた。

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鼓は私の小さな肩にふさはしいほどのもので、緋のしらべの緒、面白い胴の形などみな気にいつてゐた。

なんでもちょいちょいかじっている重宝な伯母さんは、人に鼓を打たせながら、自分は太鼓を大革にしていい按配に拍子を合わせる。

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なんでもちよいちよいかじつてる重宝な伯母さんはひとに鼓をうたせながら自分は太鼓を大革にしていい按排に拍子をあはせる。

そのほか、おしろい刷毛にした兎の手だの、骨の立ったとき喉をさする鶴の嘴だの、目貫をどうとかする真鍮の才槌だの、細かいものは小引き出しのたくさんついた箪笥の□ぽんの引き出しというのにしまってあった。

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そのほかおしろい刷毛ばけにした兎の手だの、骨のたつたとき喉をさする鶴の嘴だの、目貫めぬきをどうとかする真鍮の才槌だの、細かいものは小抽匣の沢山ついた箪笥の□ぽんの抽匣といふのにしまつてあつた。

私はそのなかでどれが欲しいというようなことはついぞいったことがなく、伯母さんがあれかこれかとひとつひとつ出してみせて、うまく当たるまでは首をふってぐずぐずいっているが、大抵の時はいつものお犬様と牛を出されれば機嫌が直ってしまう。

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私はそのなかでどれがほしいといふやうなことはつひぞいつたことがなく、伯母さんがあれかこれかとひとつひとつ出してみせてうまくあたるまでは首をふつてぐづぐづいつてるが、大抵の時はれいのお犬様と牛を出されれば機嫌がなほつてしまふ。

なにか気に入らなくて手あたりしだいに放り出すと、腹も立てずにどこか悪いのではないかと心配して、すぐに額を押さえてみる。

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なにか気にいらなくて手あたりしだいにはふりだすと腹も立てずにどこかわるいのではないかと心配してぢきに額を押へてみる。

熱があればすぐにお医者様へ連れてゆかれるのである。

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熱があればすぐにお医者様へつれてゆかれるのである。

それがいやさに、額を押さえられるとへなへなとおとなしくなってしまう。

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それがいやさに額をおさへられるとへなへなとおとなしくなつてしまふ。

菊の咲くころならば、伯母さんは

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菊のさくころならば伯母さんは

「菊毛氈をつくったげるに、おとなしうせるだよ」

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「菊毛氈をつくつたげるにおとなしうせるだよ」

と、裏畑から菊をとってきて菊毛氈をこしらえてくれる。

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と裏畑から菊をとつてきて菊毛氈をこしらへてくれる。

それはいろいろの菊のさまざまの花びらをアラビア模様のように紙に敷いて、しばらく圧しをかけてから出してみると、匂いのいい毛氈になっているのである。

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それはいろいろの菊のさまざまの花びらを亜剌比亜模様のやうに紙にしいて暫く圧しをかけてから出してみると匂のいい毛氈になつてるのである。

私は菊毛氈が大好きだった。

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私は菊毛氈が大好きだつた。

また本箱にいっぱいある草双紙をぶちまけて、気の長い伯母さんにあとからあとへと話させることもあった。

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また本箱にいつぱいある草双紙をぶちまけて気のながい伯母さんにあとからあとへと話させることもあつた。

なにか叱られて泣いたあげくさんざんすねて、なんのかのとなだめに来るのさえ腹立たしく、部屋の隅にひとり引っ込んで草双紙を広げたりおもちゃをいじくったりして慰めていると、お犬様や、牛や、才槌や、草双紙のなかのお姫様などが、ものこそいわないが親切にいたわってくれる。

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なにか叱られて泣いたあげくさんざすねて、なんのかのとすかしにくるのさへ腹だたしく、部屋の隅にひとりひつこんで草双紙をひろげたりおもちやをいぢくつたりして慰めてると、お犬様や、牛や、才槌や、草双紙のなかのお姫様などがものこそいはないが親切にいたはつてくれる。

そうされれば、泣きやんだくやし涙がまたとめどもなく湧き出して、泣きじゃくりしながら

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さうされれば泣きやんだくやし涙がまたとめどもなく湧きだして泣きじやくりしながら

「こんなに味方があるからいいやい」

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「こんなに味方があるからいいやい」

という気になってみんなを恨んでいる。

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といふ気になつてみんなを恨んでゐる。

十七

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十七

夜は茶の間に集まっているみんなのそばでおもちゃをぶちまけて遊んでいるうちに、眠気がさしてくればあれもこれも癪にさわるので、痒い眼玉をこすりこすりむずかっていると、伯母さんは

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夜は茶の間に集つてるみんなのそばでおもちやをぶちまけて遊んでるうちに、睡けがさしてくればあれもこれも癪にさはるのでかゆい眼玉をこすりこすりむづかつてると、伯母さんは

「まあ眠なったかよ」

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「まあねむなつたかよ」

といいながら散らばったおもちゃを片づけ、半分力ずくで首すじを押さえつけてみんなに御機嫌ようをいわせるのを、寝ない寝ないと意地を張りながら寝間へ引っぱられてゆく。

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といひながらちらばつたおもちやをかたづけ半分力づくに頸すぢをおさへつけてみんなに 御機嫌よう をいはせるのを、寐ない 寐ない と意地ばりながら寐間へひつぱられてゆく。

そこに伯母さんは私を、乳母は妹を抱いて寝ることになっていた。

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そこに伯母さんは私を、乳母は妹を抱いてねることになつてゐた。

日が暮れるとすぐに行灯をともし、床をのべて、機嫌の悪くなり次第寝られるようにしてある。

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日がくれるとぢきに行燈あんどんをともし、床をのべて、機嫌のわるくなりしだい寐られるやうにしてある。

冬ならば、幾枚も重ねた寝巻があんかにかかって湯気の立つほど温まっているのを、仰山な様子をしてふうふう吹きながら、痩せた身体にほっこりとまとわせてくれる。

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冬ならば幾枚もかさねた寐巻があんかにかかつて湯気のたつほど温まつてるのを仰山な様子をしてふうふう吹きながら痩せた身体にほつこりと纏つてくれる。

掛け蒲団のひとつは菊の模様、ひとつは更紗の海老色がかった地に菊いただきや木の枝などのついた舶来らしいものだったが、その日向くさいのがよくて、ふっくらしたところへうつ伏せに顔をうずめて匂いを嗅ぐのが好きであった。

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かけ蒲団のひとつは菊の模様、ひとつは更紗の海老色がかつた地に菊いただきや木の枝などついた舶来らしいものだつたが、その日向くさいのがよくて、ふつくらしたところへうつ伏せに顔をうづめて匂をかぐのが好きであつた。

私が明かりの暗いのを怖がるので、伯母さんは私を床に入れたあとで、行灯の引き出しから新しく燈心をひとすじ出して継ぎ添えてくれる。

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私があかりの暗いのを怖がるもので、伯母さんは私を床にいれたあとで行燈の抽匣から新規に燈心をひとすぢ出してつぎそへてくれる。

先をちょいと油に湿らせて、ずっぷりと沈んでいる古いののそばへ並ばせると、ぱりぱりと火花が散って火が移る。

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先をちよいと油にしましてずつぷりと沈んでる古いののそばへ並ばせるとぱりぱりと火花がちつて火がうつる。

そして火皿から余ったところがふらふらと後ろへ出るのを、手をぶるぶる震わせながらやっとかき上げて、油壺の嘴からとくとくと飴色の種油をつぐ。

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そして火皿からあまつたところがふらふらと後へ出るのを手をぶるぶるふるはせながらやつとかきあげて油壺の嘴からとくとくと飴色の種油をつぐ。

ふかふかした燈心、それにじいっと油の滲みる具合、燈心押さえの恰好、油の煮える匂いなど。

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ふかふかした燈心、それにぢいつと油のしみる具合、燈心おさへの恰好、油の煮える匂など。

私は油のなかに虫の死骸が黒く沈んでいるのと、皿のふちに丁字がへばりついているのがなにより嫌いだった。

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私は油のなかに虫の死骸が黒く沈んでるのと皿のふちに丁字がへばりついてるのがなにより嫌ひだつた。

それで、伯母さんは毎日油を替えて、切り出しの刃のつぶれたのでがりがりと丁字を落としてくれる。

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で、伯母さんは毎日油をかへてきりだしの刃のつぶれたのでがりがりと丁字をおとしてくれる。

この臆病者には行灯というものがなんとなく気味が悪い。

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この臆病者には行燈といふものがなんとなく気味がわるい。

眠たい目を見張って床のなかから眺めていると、丁字がしらを芯にして紡錘形に立っている焔が切れの長いひとつ目に見え、また鼻の先を焦がしそうに顔を突っ込んで燈心をかき立てる伯母さんの影法師が行灯の紙に途方もなく大きく映るのを見れば、なにかが化けて来ているのではないかという気がした。

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ねむたい目をみはつて床のなかから眺めてると丁字がしらを心に紡錘形ばうすゐけいにたつてる焔がきれの長いひとつ目にみえ、また鼻のさきを焦しさうに顔をつつこんで燈心をかきたてる伯母さんの影法師が行燈の紙に途方もなく大きくうつるのをみればなにかが化けてきてるのぢやないかといふ気がした。

伯母さんは引き出しへマッチをしまいながら、火に誘われて焼け死んだ虫たちの後生のためにお念仏を唱える。

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伯母さんは抽匣へ燐寸をしまひながら火に誘はれて焼け死んだ虫たちの後生のためにお念仏をとなへる。

私はまた、明かりの届かない床の間の天井に魔がいるような気がして寝られないことがあった。

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私はまたあかりのとどかない床の間の天井に魔がゐるやうな気がしてねられないことがあつた。

そうすると伯母さんは

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さうすると伯母さんは

「やっとこさ」

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「やつとこさ」

と行灯をさげて天井を照らしてみて

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と行燈をさげて天井を照してみて

「なんにもおれせん、なんにもおれせん」

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「なんにもをれせん なんにもをれせん」

といって私を安心させる。

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といつて私に安心させる。

魔というものは、髪をばあっとさげたどす黒いもののように思っていた。

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魔といふものは髪をばあつとさげたどす黒いもののやうに思つてゐた。

伯母さんは

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伯母さんは

「夜なかに怖かったら呼ばらんしよ、伯母さんはきついでみんな逃げてしまうに」

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「夜なかに怖かつたら呼ばらんしよ、伯母さんはきついでみんな逃げてしまふに」

といって、いろんな話をしながら寝つかせてくれる。

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といつていろんな話をしながらねせつけてくれる。

四角い字こそ読めないが、驚くほど博聞強記であった伯母さんは、殆ど無尽蔵に話の種を持っていた。

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四角い字こそ読めないが驚くほど博聞強記であつた伯母さんは殆ど無尽蔵に話の種をもつてゐた。

おまけに、どうかして忘れたところは勝手な想像でいい按配に続けてゆくことに妙を得ているのであった。

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おまけにどうかして忘れたところは勝手な想像でいい按排につづけてゆくことに妙を得てるのであつた。

そうして侍であれ、お姫様であれ、それぞれの表情と声色を使って、しまいには化け物の顔までしてみせるのが、行灯のうす暗い光に照らされて真に迫って見えた。

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さうして侍であれ、お姫様であれ、それぞれの表情と声色をつかつて、しまひには化けものの顔までしてみせるのが行燈のうす暗い光に照されて真にせまつてみえた。

十八

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十八

なかでも哀れなのは、賽の河原に石を積む子供の話と、千本桜の初音の鼓の話であった。

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なかでもあはれなのは賽の河原に石をつむ子供の話と千本桜の初音の鼓の話であつた。

伯母さんは悲しげな調子であの巡礼唄をひとくさりうたっては、説明を加えてゆく。

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伯母さんは悲しげな調子であの巡礼唄をひとくさりうたつては説明をくはへてゆく。

その十分な訳は飲み込めないのだが、胎内で母親に苦労をかけながら恩を報いずに死んだため、塔を建てて罪の償いをしようと淋しい賽の河原にとぼとぼと石を積んでいるのを、鬼が来ては鉄棒で突き壊してひどい目に遭わせる。

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その充分なことわけはのみこめないのだが、胎内で母親に苦労をかけながら恩を報いずに死んだため塔をたてて罪の償ひをしようと淋しい賽の河原にとぼとぼと石を積んでるのを鬼がきては鉄棒かなぼうでつきこはしてひどいめにあはせる。

それをやさしい地蔵様がかばって法衣の袖の下に隠してくださる、というのを聞くたびに、私は息の止まりそうな陰鬱な気に押しつけられ、また可哀そうな子供の身の上がしみじみと思いやられて、しゃくり上げしゃくり上げ泣くのを、伯母さんは背中をなでて

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それをやさしい地蔵様がかばつて法衣の袖のしたにかくしてくださる といふのをきくたんびに、私は息のとまりさうな陰鬱な気におしつけられ、また可哀さうな子供の身のうへがしみじみと思ひやられてしやくりあげしやくりあげ泣くのを、伯母さんは背中をなでて

「ええは、ええは、お地蔵様がおいであそばすで」

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「ええは ええは、お地蔵様がおいであそばすで」

という。

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といふ。

地蔵様といえば、路ばたに錫杖をついて立っているあの石仏のとおりの仏様だと思っていた。

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地蔵様といへば路ばたに錫杖をついてたつてるあの石仏のとほりの仏様だと思つてゐた。

仏性の伯母さんの手ひとつで育てられて、獣と人間とのあいだになんの差別もつけなかった私は、親の生皮を剥がれた不憫な子狐の話を身につまされて聞いた。

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仏性の伯母さんの手ひとつに育てられて獣と人間とのあひだになんの差別もつけなかつた私は親の生皮を剥がれたふびんな子狐の話を身につまされてきいた。

親の白狐は皮を剥がれながら、わが子かわいや、わが子かわいや、といって鳴いたという。

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親の白狐は皮を剥がれながら わが子かはいや わが子かはいや といつて鳴いたといふ。

これは私の知っている鼓についての三つの話のうちの、最も哀れな話である。

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これは私の知つてる鼓についての三つの話のうちの最もあはれな話である。

それは神秘の雲に包まれて天から降った鼓でもなく、つれない人が綾で張ったという音の出ない鼓でもなく、大和の国の野原に住む狐の皮で張ったただの鼓が、恩愛の情にひかれてわが子を思う声を出したというのである。

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それは神秘の雲につつまれて天から降つた鼓でもなく、つれない人が綾で張つたといふ音なしの鼓でもなく、大和の国の野原にすむ狐の皮で張つたただの鼓が恩愛の情にひかれてわが子を思ふ声をだしたといふのである。

私は今でもこの話を思い出せば、昔ながらの感情の湧き起こるのを覚える。

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私は今でもこの話を思ひだせば昔ながらの感情の湧きおこるのをおぼえる。

伯母さんはまた百人一首の歌をすっかりそらんじていて、床へ入ってから一流のものさびしい節をつけて、一晩に一首二首と根気よく覚えさせた。

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伯母さんはまた百人一首の歌をすつかりそらんじてゐて、床へはひつてから一流のものさびしい節をつけて一晩に一首二首と根気よくおぼえさせた。

伯母さんが

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伯母さんが

「たちわかれ」

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「たちわかれ」

という。

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といふ。

私が

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私が

「たちわかれ」

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「たちわかれ」

とあとをつく。

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とあとをつく。

「いなばのやまの」

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「いなばのやまの」

「いなばのやまの」

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「いなばのやまの」

「みねにおふる」

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「みねにおふる」

「みねにおふる」

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「みねにおふる」

そんなにしているうちにいつか寝入ってしまう。

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そんなにしてるうちにいつか寐入つてしまふ。

よく覚えたときは

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よくおぼえたときは

「あした御褒美をあげるに、まあ寝るだよ」

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「あした御褒美をあげるにまあねるだよ」

といって、とんとんと叩いて寝かせてくれる。

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といつて叩きつけてねせてくれる。

私が歌を早く覚えるのを大変えらい子ででもあるかのように思って、伯母さんは翌る日母などに

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私が歌をはやくおぼえるのをたいへんなえらい子ででもあるかのやうに思つて伯母さんは明る日母などに

「ゆんべはふたあつもじっきに覚えた」

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「ゆんべはふたあつもぢつきにおぼえた」

などと自慢らしく話したりした。

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なぞと自慢らしく話したりした。

私はわからないながらも、歌のなかの知っている言葉だけを取り集めて朧げに一首の意味を想像し、それに読み声から来る感じを添えて深い感興を催していた。

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私はわからぬながらも歌のなかの知つてる言葉だけをとりあつめておぼろげに一首の意味を想像し、それによみ声からくる感じをそへて深い感興を催してゐた。

その時分、私は古い歌がるたを持っていたが、それには一枚の札のなかに歌と歌に合わせた絵が描いてあって、けばだって消えかかってはいたけれど、それでも松に雪の降り積もっているところや、紅葉の下に鹿の立っているところなどがぼんやりと見分けられた。

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そのじぶん私は古い歌がるたをもつてたが、それには一枚のふだのなかに歌と歌にあはせた絵がかいてあつて、けばだつて消えかかつてはゐたけれどそれでも松に雪のふりつもつてるところや、紅葉のしたに鹿の立つてるところなどぼんやりと見わけられた。

また百人一首の綴じ本もあった。

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また百人一首の綴ぢ本もあつた。

歌の好き嫌いは、かるたの絵と詠み人の姿、顔かたちによっても決められる。

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歌の好き嫌ひはかるたの絵とよみ人の姿、顔かたちによつてもきめられる。

好きな歌は末の松山の歌、淡路島の歌、大江山の歌など。

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好きな歌は末の松山の歌、淡路しまのうた、大江山の歌など。

末の松山の歌は私の耳に言いしれぬ柔らかいものさびしい響きを伝えて、かるたの絵には松の浜に美しく波が寄せていた。

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末の松山のうたは私の耳にいひしらぬ柔なものさびしい響きをつたへて、かるたの絵には松の浜に美しく波がよせてゐた。

淡路島の歌は涙を誘う。

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淡路島の歌は涙をさそふ。

海の上を舟がゆき、千鳥が飛んでゆく。

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海のうへを舟がゆき、千鳥が飛んでゆく。

大江山の歌を聞けば、お姫様が鬼にとられてその山奥へ連れられてゆく草双紙の話を思い出さずにはいられなかった。

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大江山の歌をきけばお姫様が鬼にとられてその山奥へつれられてゆく草双紙の話を思ひださずにはゐられなかつた。

僧正遍照や前大僧正行尊などという皺くちゃの坊さんは大嫌いだったが、蝉丸だけは名前からも可愛かった。

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僧正遍照や前大僧正行尊などといふ皺くちやの坊さんは大嫌ひだつたが蝉丸だけは名まへからも可愛かつた。

十九

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十九

雪の夜には、伯母さんはあんかの炭団をかき起こしながら、雪坊主が白い着物を着て戸の外に立っている、などといって人をおどかす。

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雪の夜には伯母さんはあんかの炭団たどんをかきおこしながら 雪坊主が白い著物をきて戸のそとに立つてゐる なぞといつて人をおどかす。

暑いときには、寝苦しがるのを扇いでくれる団扇の絵にも好みがあって、好きなのでなければなかなか寝つかない。

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暑いときには寐苦しがるのをあふいでくれる団扇の絵にも好みがあつて好きなのでなければなかなか寐つかない。

いい匂いのする蚊帳のなかで、外を飛ぶ蚊の声を聞きながら、いたずらに骨をひとつ折ってみたりしていると、隣の寺の藪へごろすけが来て鳴く。

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いい匂のする蚊帳のなかでそとを飛ぶ蚊の声をききながらいたづらに骨をひとつ折つてみたりしてると隣の寺の藪へごろすけがきて鳴く。

伯母さんは

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伯母さんは

「ぽっぽどりは悪い鳥で、ひと声に蚊を千匹っ吐くげな。あすは蚊がえらいぞよ」

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「ぽつぽどりは悪い鳥でひと声に蚊を千匹つ吐くげな。あすは蚊がえらいぞよ」

などという。

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なぞといふ。

涼風が立つころになれば、こおろぎが鳴きはじめる。

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すず風がたつころになればこほろぎが鳴きはじめる。

あるとき可愛がってやろうと思って蛍籠に入れておいたところ、二声か三声鳴いたきり黙っているので、そうっと覗いてみたら、籠に張った絽を食い破ってみんな逃げてしまっていた。

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あるとき可愛がつてやらうとおもつて蛍籠にいれておいたところ二声か三声ないたぎり黙つてるのでそうつとのぞいてみたら籠にはつた絽をくひ破つてみんな逃げてしまつてゐた。

その声を聞けば、子供心にもなにがなし立つ秋のさびしさを覚える。

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その声をきけば子供心にもなにがなし立つ秋のさびしさをおぼえる。

伯母さんは、寒うなったにつづれさせ、と鳴くのだといい、乳母は妹に、ちちのめ、ちちのめ、ちちのむと食いつくぞ、と鳴いているのだという。

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伯母さんは さむなつたにつづれさせ と鳴くのだといひ、乳母は妹に ちちのめ ちちのめ ちちのむとくひつくぞ と鳴いてるのだといふ。

朝どうかして早く目を覚ますと、少林寺の槙の木に巣を食っている烏の声が聞こえるのを、伯母さんは

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朝どうかして早く目をさますと少林寺のまきの木に巣をくつてる烏の声がきこえるのを伯母さんは

「まんだ一番烏だに、まっと寝るだよ」

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「まんだ一番烏だにまつとねるだよ」

といってなかなか起こしてくれない。

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といつてなかなか起してくれない。

二番烏が鳴いて三番烏が鳴くと、やっと起こしてくれる。

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二番烏が鳴いて三番烏がなくとやつと起してくれる。

そんなことをいって、ちょうどいい時分まで寝かせておくのであった。

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そんなことをいつてちやうどいいじぶんまで寐かせておくのであつた。

夕方になれば、寝間の前のこんもりした珊瑚樹の茂みに大勢の雀がねぐらを求めに来て、首をふって嘴を研いだり、枝を争って突き合ったりして騒ぐ。

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夕がたになれば寐間のまへのこんもりした珊瑚樹のしげみに大勢の雀がねぐらをもとめにきて首をふつて嘴をといだり、枝をあらそつてつつきあつたりして騒ぐ。

おてんと様が隠れて、やがて残りのうすい光も消えてゆけば、ひとつふたつ、ちゅく、ちゅくと寝おくれていたのまでが黙って静かになってしまう。

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おてんと様がかくれてやがて残りのうすい光も消えてゆけばひとつふたつ ちゆく、ちゆく と寐おくれてたのまでが黙つて静になつてしまふ。

その雀たちをお友だちのように思って、三番烏が鳴いてもまだ起きずにいると、ねぐらを発ってゆく彼らがちゅうちゅういいだすのを、自分の寝坊を笑っているような気がして大急ぎで床を出る。

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その雀たちをお友だちのやうにおもつて、三番烏が鳴いてもまだ起きずにゐるとねぐらをたつてゆく彼らがちゆうちゆういひだすのを自分の寐坊を笑つてるやうな気がして大急ぎで床をでる。

珊瑚樹はその名にそむかぬ真紅の実を結ぶ。

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珊瑚樹はその名にそむかぬ真紅の実をむすぶ。

柔らかい苔の上に落ちているのを拾うのも嬉しい。

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柔な苔のうへに落ちてるのを拾ふのもうれしい。

二十

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二十

三四十坪ほどの裏の空き地は、なかば花壇に、なかば畑になっていた。

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三四十坪ほどの裏のあき地はなかば花壇に、なかば畑になつてゐた。

夏のはじめのころになれば、垣根の外を苗売りが涼しい声をして通る。

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夏のはじめのころになれば垣根のそとを苗売りがすずしい声をしてとほる。

伯母さんはそれを呼んで野菜ものの苗を買う。

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伯母さんはそれを呼んで野菜ものの苗をかふ。

藁でこしらえた箱のなかに、しっとりと水気を含んだ細かい土が入って、いろいろな苗がいきいきと二葉を出している。

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藁でこしらへた箱のなかにしつとりと水けをふくんだ細かい土がはひつて、いろいろな苗がいきいきと二葉をだしてゐる。

菅笠をかぶった苗売りの男が、いかにも大事そうにそれをすくい出す。

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菅笠をかぶつた苗売りの男がさも大事さうにそれをすくひだす。

伯母さんは茄子だの瓜だのを少しずつ買って畑へ植える。

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伯母さんは茄子だの瓜だのをすこしづつかつて畑へうゑる。

茄子の紫がかった苗、南瓜や糸瓜のうす白く粉をふいたような苗が楕円形の二葉をそよがせているのを、朝晩ふたりして如雨露で水をかけてやる。

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茄子の紫がかつた苗、南瓜かぼちや糸瓜へちまのうす白く粉をふいたやうな苗が楕円形の二葉をそよがせてるのを朝晩ふたりして如露で水をかけてやる。

苗は見るたびに成長して、蔓が出たり、葉が出たり、しまいには畑じゅうをのたくりまわって大きな実をぶらさげる。

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苗は見るたんびに成長して、蔓がでたり、葉がでたり、しまひには畑ぢゆうのたくりまはつて大きな実をぶらさげる。

それを楽しみにして検分にゆく。

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それを楽しみにして検分にゆく。

そんな世話の好きな伯母さんが愚痴をいいいい竹を立てて手をとってやると、ひと巻きふた巻きと日に日に蔓が巻きついて、荒っぽい葉のあいだに黄色や紫の花が咲く。

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そんな世話のすきな伯母さんは愚痴をいひいひ竹を立てて手をとつてやるとひと巻きふた巻きと日に日に蔓がまきついて、あらつぽい葉のあひだに黄いろや紫の花がさく。

そこへ丸っこい虻が来て、わがもの顔に飛びまわっては花のなかへもぐってゆく。

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そこへ丸つこいあぶがきてわがもの顔に飛びまはつては花のなかへもぐつてゆく。

無駄花がころころと落ちるうちに、ほんとうの花の根もとにふくらみができて、平たくなり、長細くなりして、世にいう唐茄子や南瓜の形ができあがる。

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むだ花がころころと落ちるうちにほんとの花の根もとにふくらみができて、平たくなり、長細くなりして、世にいふ唐茄子や南瓜の形ができあがる。

茄子の巾着なり、糸瓜のぬうっとした恰好、つぶつぶしてにくらしい黄瓜など。

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茄子の巾著なり、糸瓜のぬうつとした恰好、つぶつぶしてにくらしい黄瓜など。

葉をのけてみて、思いよらぬ実のいったのを見つけたときの嬉しさといったらなかった。

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葉をのけてみて思ひよらぬ実のいつたのを見つけたときの嬉しさはない。

なた豆、藤豆、ちび筆に似た葱の花。

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なた豆、ふぢ豆、ちび筆ににた葱の花。

あるとき唐茄子の苗を買って植えたら、育つにしたがって様子が変わってきて、とうとう瓢箪になった。

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あるとき唐茄子の苗をかつて植ゑたらそだつにしたがひ様子がかはつてきてたうとう瓢箪になつた。

私はいくつとなくぶらさがった瓢箪を見て大喜びだったが、伯母さんは苗売りにまんまと一杯食わされたのを悔しがってろくに世話をしてやらなかったものだから、みんな落ちてしまった。

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私はいくつとなくぶらさがつた瓢箪をみて大喜びだつたが伯母さんは苗売りにまんまと一杯くはされたのをくやしがつてろくに世話をしてやらなかつたものでみんな落ちてしまつた。

それからは下の町の青物屋へ買いにゆくことにしたが、伯母さんはなんの苗を見ても瓢箪ではないかと疑って、もし生えてから瓢箪がなったら瓢箪の木を返しに来るがいいか、といって青物屋を決めつけた。

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それからは下の町の青物屋へ買ひにゆくことにしたが伯母さんはなにの苗を見ても瓢箪ぢやないかと疑つて、もし生えてから瓢箪がなつたら瓢箪の木を返しにくるがいいかと いつて青物屋をきめつけた。

畑をめぐる杉垣のくろには、祖母の栗と、私が拾ってきて蒔いた胡桃が芽を出している。

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畑をめぐる杉垣のくろには祖母の栗と私が拾つてきてまいた胡桃くるみが芽をだしてゐる。

また祖母が好きで植えておいた鳳仙花の種が散らばって、あちらこちらに咲く。

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また祖母が好きで植ゑておいた鳳仙花の種がちらばつてあちらこちらに咲く。

とりたてて見どころのない草ながら、私も鳳仙花が好きである。

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とりたてて見どころのない草ながら私も鳳仙花が好きである。

いたずらに花をとって爪を染めたりする。

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いたづらに花をとつて爪を染めたりする。

おしろいの実をつぶして白い粉を出すのが面白かった。

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おしろいの実をつぶして白い粉をだすのが面白かつた。

杏の花、緋桃の花。

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杏の花、緋桃の花。

巴旦杏の古い木があって雲のように青白い花を咲かせたが、それは私たち兄弟のなによりの楽しみで、烏の来るのを気にしては追いにいった。

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巴旦杏の古い木があつて雲のやうに青白い花をさかせたが、それは私たち兄弟のなによりの楽しみで烏のくるのを気にしては追ひにいつた。

大きな実が鈴なりになるので、枝がしなって地べたについてしまう。

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大きな実が鈴なりになるので枝がしなつて地びたについてしまふ。

背の届くところは手でちぎり、高い枝のは打ち落として、重たい笊を抱えて帰る。

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背のとどくところは手でちぎり、高い枝のは打ち落して重たい笊をかかへて帰る。

花壇には鬼百合や白百合が咲く。

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花壇には鬼百合や白百合がさく。

私はあまり明るい色、濃厚な色を見れば胸苦しい圧迫を感じるのが常であったが、花でいえば百合の雄蕊の頭にこっとりとついている焦げ色の花粉などがそうであった。

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私はあまり明るい色、濃厚な色を見れば胸ぐるしい圧迫を感じるのが常であつたが、花でいへば百合の雄蕊の頭にこつとりとついてる焦げ色の花粉なぞがさうであつた。

二十一

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二十一

すぐ近くに閻魔様のお寺があった。

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ぢき近くに閻魔様のお寺があつた。

地獄の釜の蓋の開く日が来て、陰鬱な鐘の音が人を促すように鳴りはじめると、伯母さんは気の進まない私に花色の帷子を着せ、唐縮緬のしごきを胸高に締めさせてお詣りに連れてゆく。

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地獄の釜の蓋のあく日がきて陰鬱な鐘の音が人を促すやうに鳴りはじめると伯母さんは気のすすまない私に花色の帷子かたびらをきせ、唐縮緬のしごきを胸高にしめさせておまゐりにつれてゆく。

お盆にはきまってその帷子を着せられたため、花色という色までが私を陰気にするようになった。

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お盆にはきまつてその帷子をきせられたため花色といふ色までが私を陰気にするやうになつた。

狭くるしい境内から門前へかけて、一杯五厘の氷屋や、おでん、寿司の屋台店がぎっしりと並んで、ぴいぴいいう風船の音、物売りの呼び声などが砂ぼこりのなかに堪えがたい騒ぎをする。

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狭くるしい境内から門前へかけて一杯五厘の氷屋や、おでん、寿司の屋台店やたいみせがぎつしりとならんで、ぴいぴいいふ風船の音、物うりの呼び声などが砂ほこりのなかに堪へがたい騒ぎをする。

そして前垂れがけの丁稚小僧どもが、自分たちの閻魔様ででもあるようにはしゃぎまわる。

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そして前垂がけの丁稚小僧どもが自分たちの閻魔様ででもあるやうにはしやぎまはる。

私はことにこの種の人間が嫌いであった。

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私はことにこの種の人間が嫌ひであつた。

二三段石段を上がって、千社札のべたべた貼りついた赤門をくぐれば、右手に小さな閻魔堂があって、型のごとく野卑な顔をした閻魔様が控えている。

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二三段石段をあがつて千社ふだのべたべた貼りついた赤門をくぐれば右てに小さな閻魔堂があつて型のごとく野鄙な顔をした閻魔様がひかへてゐる。

線香の煙がむんむんとこもっているなかで町の子がぎゃんぎゃんぎゃんぎゃんひっきりなしに鉦を叩くので、頭がみじゃけそうに苦しいのを、伯母さんはいつでも撞木を借りて私にも二つ三つ叩かせずにはおかない。

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線香の煙がむんむとこもつてるなかで町の子がぎやんぎやんぎやんぎやんひつきりなしに鉦を叩くので頭がみぢやけさうに苦しいのを伯母さんはいつでも撞木をかりて私にも二つ三つ叩かせずにはおかない。

そうしてよく閻魔様の顔を見せてから、ようやくそこを出る。

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さうしてよく閻魔様の顔を見せてからやうやくそこをでる。

ほっと息をつくと、今度は本堂にある三途の川のお婆さんのところへ連れてゆく。

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ほつと息をつくと今度は本堂にある三途の川のお婆さんのとこへつれてゆく。

かなつぼまなこの生白い婆さんが、紅白の綿を幾枚も頭にのせて坐っている。

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かなつぼまなこのなま白い婆さんが紅白の綿を幾枚も頭にのせて坐つてゐる。

私は不愉快と炎天にさらされるために烈しい頭痛に悩まされるのが常であったが、それにもかかわらず迷信深い伯母さんは、なんのかのといって毎年連れてゆかずにはおかなかった。

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私は不愉快と炎天にさらされるために烈しい頭痛に悩まされるのが常であつたが、それにもかかはらず迷信家の伯母さんはなんのかのといつて毎年つれてゆかずにはおかなかつた。

涅槃会の日には燻ぼった寝釈迦さんの軸をかけ、その前に小机を据えて香華を供える。

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涅槃会ねはんゑの日にはくすぼつた寝釈迦さんの軸をかけ、そのまへに小机をすゑて香華をそなへる。

この虫ばんだ軸と、お仏壇の上のまっ黒な大黒様の像とは、伯母さんのところの財産のたった二つの残り物であった。

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この虫ばんだ軸とお仏壇のうへのまつ黒な大黒様の像とは伯母さんのとこの財産のたつた二つの残りものであつた。

伯母さんは小机の前に坐ってお念仏を唱えながら私にお線香をあげさせ、またいろいろとお釈迦様の話をして聞かせる。

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伯母さんは小机のまへに坐つてお念仏をとなへながら私にお線香をあげさせ、またいろいろとお釈迦様の話をしてきかせる。

お釈迦様のまわりに集まっているものは象、獅子をはじめ、阿修羅、緊那羅、龍族、天人、それらはこの尊い迷信家の巧みな物語によって、見る見る生きて涙を流しはじめる。

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お釈迦様のまはりに集つてるものは象、獅子をはじめ、阿修羅、緊那羅、龍族、天人、それらはこのたつとい迷信家の巧な物語によつて見るみる生きて涙を流しはじめる。

沙羅双樹の梢に棚引いた雲の上から美しい人が見おろしているのは、摩耶夫人といってお釈迦様のお母様だという。

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沙羅双樹の梢に棚引いた雲のうへから美しい人が見おろしてるのは摩耶夫人といつてお釈迦様のお母様だといふ。

その摩耶夫人が天から投げた薬の袋が沙羅の枝にかかっているのを誰ひとり気がつかないのだ、などと、お釈迦様の涅槃を親にでも別れるようにいって聞かせるので、私はお釈迦様が可哀そうになって泣いた。

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その摩耶夫人が天から投げた薬の袋が沙羅の枝にかかつてるのを誰ひとり気がつかないのだなぞとお釈迦様の涅槃を親にでもわかれるやうにいつてきかせるので、私はお釈迦様がかはいさうになつて泣いた。

二十二

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二十二

月三度の大日様の縁日には、雨さえ降らなければ欠かさずに連れてゆく。

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月三さいの大日様の縁日には雨さへふらなければかかさずにつれてゆく。

私が袂につかまって歩くために伯母さんの羽織がかたよってしまうので、路なかに立ちどまっては直したが、人通りの多いところなどでは、指を一本一本ほどかねばならないほどしがみついていた。

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私が袂につかまつてあるくために伯母さんの羽織がかたよつてしまふので路なかに立ちどまつてはなほしたが、人通りの多いところなどでは指を一本一本ほどかねばならぬほど獅噛みついてゐた。

伯母さんの羽織の紐は私がこま結びに結び、私のは伯母さんが琴結びに結んでくれる。

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伯母さんの羽織の紐は私がこまむすびに結び、私のは伯母さんが琴むすびに結んでくれる。

大日様へ行くとお賽銭を投げさせて

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大日様へゆくとお賽銭を投げさせて

「お蝋をどうぞ」

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「お蝋をどうぞ」

という。

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といふ。

お堂のなかのぴかぴかするあたりで

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お堂のなかのぴかぴかするへんで

「はい」

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「はい」

と返事をして、若い坊さんが蝋燭をともして本尊様の前に立て添える。

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と返事をして若い坊さんが蝋燭をともして本尊様のまへに立てそへる。

伯母さんは一心にお念仏を唱えて

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伯母さんは一心にお念仏をとなへて

「さあこれでええ」

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「さあこれでええ」

といって、袂をつかませてお寺の門を出る。

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といつて袂をつかませてお寺の門をでる。

それは、この子の病身が治りますように、道を歩いても怪我をしませんように、などといろんなことを八の日八の日までに考えためておいて、大日様にお願いするのであった。

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それは この子の病身がなほりますやうに、道を歩いても怪我をしませぬやうに などといろんなことを八の日八の日までに考へためておいて大日様にお願ひするのであつた。

縁日には大勢の物乞いが出て、お寺の塀ぎわにずらりと並ぶ。

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縁日には大勢乞食がでてお寺の塀ぎはにずらりとならぶ。

それが私の行く時分にはまだ出そろわず、足の不自由な人や腰の立たない人などのなかで、足の早い奴が二三人あんぺらを敷いたりして支度をしている。

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それが私の行くじぶんにはまだ出そろはずにちんばや躄などのなかで足のはやい奴が二三人あんぺらを敷いたりして支度をしてゐる。

私はいつとはなしに伯母さんの感化を受けて、そういう人に施しをしたあとで、淡いながら底深い子供の慈悲心の満足を覚えるようになった。

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私はいつとはなしに伯母さんの感化をうけさういふものに施しをしたあとで淡いながら底深い子供の慈悲心の満足をおぼえるやうになつた。

物乞いのうちに、顔かたちの整ったひとりの目の見えない女が琴を弾いているのがあった。

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乞食のうちに顔かたちのととのつたひとりの女の目くらが琴をひいてるのがあつた。

まだ今のように琴というものの行き渡らない時分のことで、伯母さんは乳母とよくその噂をして、昔のお旗本か、さもなければ御殿奉公でもした者のなれの果てにちがいない、といっていた。

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まだ今のやうに琴といふもののゆきわたらないじぶんのことで、伯母さんは乳母とよくその噂をして昔のお旗本か、さもなくば御殿奉公でもしたもののなれのはてにちがひないといつてゐた。

彼女は聞き取れないほどつぶれた声で琴歌をうたう。

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彼女はききとれないほどつぶれた声で琴歌をうたふ。

琴爪が糸の上をさらさらころころとすべってゆくのも、雲のような木目のある胴の上に雁の形の琴柱がちらばらに立っているのも、みな珍しく美しく見えた。

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琴爪が糸のうへをさらさらころころとすべつてゆくのも、雲のやうなもくめのある胴のうへに雁の形の琴柱ことぢがちらばらに立つてるのもみな珍しく美しくみえた。

二十三

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二十三

少し早く行けば、見世物師が蜘蛛のように小屋がけをしている。

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すこし早くゆけば見世物師が蜘蛛のやうに小屋がけをしてゐる。

そばには見世物に使う道具や生き物の入った箱が置いてあるのを好奇心に満ちて見ていると、やがて絵看板が上げられる。

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そばには見世物に使ふ道具や生きもののはひつた箱がおいてあるのを好奇心にみちて見てるとやがて絵看板があげられる。

大概は気味の悪いのばかりで、海のなかを大きな眼玉の人魚が泳いでいるところだの、大蛇が二叉の舌を出して鶏を呑もうとしているのなどだったが、そのなかにときどき鼠の芸当のがあって、空色の看板にいろんな着物を着た無数のこま鼠が日の丸の扇を持ったりして芸当をしているところが描いてあった。

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大概は気味のわるいのばかりで、海のなかを大きな眼玉の人魚が泳いでるところだの、大蛇が二叉ふたまたの舌を出して鶏をのまうとしてるのなどだつたが、そのなかにときどき鼠の芸当のがあつて、空色の看板にいろんな著物をきた無数のこま鼠が日の丸の扇をもつたりして芸当をしてるところがかいてあつた。

私はそれがひどく気に入って、それのかかるたびに入ってみた。

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私はそれがひどく気にいつてそれのかかるたんびにはひつてみた。

南京鼠が幾匹も出てきて、荷車を引いたり車井戸を汲んだりする。

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南京鼠が幾匹も出てきて荷車をひいたり車井戸を汲んだりする。

いちばん終いには、張子の倉のなかから小さな米俵をくわえ出して積み上げるのをやった。

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いちばんしまひには張子の倉のなかから小さな米俵をくはへだして積みあげるのをやつた。

茶のぶちや、まっ白なのや、入り乱れて走りまわるのが可愛くてならない。

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茶のぶちや、まつ白なのや、いりみだれて走りまはるのが可愛くてならない。

鼠つかいは三十恰好の女で、そのころはまだごく珍しかった束髪に帽子をかぶって、女の異人のなりをしていた。

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鼠つかひは三十恰好の女で、そのころはまだごく珍しかつた束髪に帽子をかぶつて女異人のなりをしてゐた。

女は鼠が俵を運び出すたびに

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女は鼠が俵を運びだすたんびに

「よいとよいとはこんでえっさっさ」

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「よいとよいとはこんでえつさつさ」

と拍子をとる。

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と拍子をとる。

そそっかしい鼠の落とした俵が見物人のほうへ転げてくることがあると、ほかの子たちはすぐに拾って投げ返してやる。

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そそつかしい鼠のおとした俵が見物人のはうへ転げてくることがあるとほかの子たちはすぐに拾つて投げかへしてやる。

女は

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女は

「ありがとうよ」

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「ありがたうよ」

と愛想よくほほえんで頭をさげる。

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と愛想よくほほゑんで頭をさげる。

俵は私の前へも度々転がってきた。

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俵は私のまへへもたびたび転がつてきた。

私は拾ってやりたかったのだけれど、なぜか気ばかりはらはらしながら、どうしても手を出すことができなかった。

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私は拾つてやりたかつたのだけれどなぜか気ばかりはらはらしながらどうしても手をだすことができなかつた。

鼠の芸当がすむと、女は青と赤に染め分けた籠から一羽の鸚鵡を出して口まねをさせる。

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鼠の芸当がすむと女は青と赤に染めわけた籠から一羽の鸚鵡をだして口まねをさせる。

鸚鵡は手のひらへおとなしく乗って女のいうとおりさまざまなことをいうのだが、機嫌の悪いときは冠毛を立ててきゃあきゃあ鳴くばかりでなんにもいわない。

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鸚鵡は手のひらへおとなしく乗つて女のいふとほりさまざまなことをいふのだが、機嫌のわるいときは冠毛を立ててきやあきやあ鳴くばかりでなんにもいはない。

そんなときには女は困ったように首をかしげて

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そんなときには女は術なさうに首をかしげて

「太郎さんは今日はどうしてそうなんでしょうねえ」

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「太郎さんは今日はどうしてさうなんでせうねー」

という。

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といふ。

鸚鵡の絵のような姿、鉤なりの嘴、利口そうな眼などを思いながら、残り惜しく小屋を出た。

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鸚鵡の絵のやうな姿、鉤なりの嘴、悧巧さうな眼などを思ひながら残り惜しく小屋をでた。

二十四

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二十四

夜店のうちでほおずき屋は心を引くもののひとつであった。

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夜店のうちでほほづき屋は心をひくもののひとつであつた。

歯車のついた竹筒をぶいぶいとまわしながら

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歯車のついた竹筒をぶいぶいとまはしながら

「ほおずきやーい ほおずき」

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「ほほづきやーい ほほづき」

と呼ぶ。

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と呼ぶ。

簀の子に敷いたひばの葉の上に、赤、青、白、いろいろなほおずきを並べて、雫がほとほととしたたっている。

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の子にしいたひばの葉のうへに赤、青、白、いろいろなほほづきをならべて、雫がほとほととしたたつてゐる。

団扇の形をした海ほおずき、人魂に似た朝鮮ほおずき、天狗ほおずき、薙刀ほおずき、それらはみな海のほおずきで、革質の袋のなかに磯臭い垢が入っている。

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団扇の形した海ほほづき、人魂ににた朝鮮ほほづき、天狗ほほづき、薙刀ほほづき、それらはみな海のほほづきで、革質の袋のなかに磯臭い垢がはひつてゐる。

たんばほおずき、千なりほおずき。

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たんばほほづき、千なりほほづき。

おやじは竹筒をまわして

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おやぢは竹筒をまはして

「ほおずきやーい ほおずき」

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「ほほづきやーい ほほづき」

と呼ぶ。

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と呼ぶ。

ほかのほおずきは鳴らせないので、いつも海ほおずきを買ってもらって大切に手に握って帰る。

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ほかのほほづきは鳴らせないのでいつも海ほほづきを買つてもらつて大切に手に握つてかへる。

たんばほおずきは緋の法衣を着た坊さんの姿である。

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たんばほほづきは緋の法衣をきた坊さんの姿である。

むいてみて蚊が刺していると、姉は悔しがって畳へ叩きつける。

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むいてみて蚊がさしてると姉はくやしがつて畳へたたきつける。

蚊という奴は悪い奴である。

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蚊といふ奴はわるい奴である。

まだ青いうちにこっそり甘い汁を吸っておく。

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まだ青いうちにこつそり甘い汁を吸つておく。

そんなのは坊主頭にぽっちりと星があって、揉んでいるうちに皮が破れてしまう。

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そんなのは坊主頭にぽつちりとほしがあつて揉んでるうちに皮が破れてしまふ。

夏は虫屋の店に気をそそられる。

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夏は虫屋の店に気をそそられる。

扇、船、水鳥などの形をした虫籠に緋色の総をさげて、りんりんれんれん松虫や鈴虫を鳴かせている。

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扇、船、水鳥などの形をした虫籠に緋色の総をさげてりんりんれんれん松虫や鈴虫を鳴かせてゐる。

きりぎりすは戸を引くように、轡虫はかさこそと鳴く。

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きりぎりすは戸をひくやうに、轡虫はかさこそとなく。

私は松虫や鈴虫が欲しいのに、いつもきりぎりすしか買ってくれないので、あるときわざと伯母さんの嫌いながちゃがちゃを買って、夜どおし眠らせなかったことがあった。

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私は松虫や鈴虫がほしいのにいつもきりぎりすしか買つてくれないのであるときわざと伯母さんの嫌ひながちやがちやを買つて夜どほし眠らせなかつたことがあつた。

それらは粗末な竹籠の、四隅に赤や青の柱のあるのに入れてよこす。

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それらは粗末な竹籠の四隅に赤や青の柱のあるのにいれてよこす。

瓜の切れを格子に挟んでやると、髭をふりふり食い欠いてゆく。

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瓜のきれを格子にはさんでやると髭をふりふりくひかいてゆく。

わけのわからない顔をして、不釣り合いに長い後脚が後ろ向きについているのもおかしい。

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わけのわからない顔をして、不釣合に長い後脚がうしろむきについてるのもをかしい。

また鉢植えの草花を買ってくることもあった。

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また鉢植ゑの草花をかつてくることもあつた。

寝るときになれば、夜露にあててやるといって軒先に出しておく。

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寐るときになれば夜露にあててやるといつて軒さきに出しておく。

それらの花を見るときの子供心をなんといおうか。

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それらの花をみるときの子供心をなんといはうか。

その後もはや再びすることのできない、清浄無垢のよろこびであった。

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そののちもはや再びすることのできない清浄無垢のよろこびであつた。

花にそそのかされて翌る朝は早く起き、寝巻のまままぶしい眼をこすりこすり見ると、花や葉に露がちろりとたまって、ビロードのような石竹の花、髷の形をした遊蝶花、金盞花などがいきいきと目覚めている。

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花にそそのかされて明る朝ははやく起き寐巻のまままぶしい眼をこすりこすりみると、花や葉に露がちろりとたまつて、天鵞絨のやうな石竹の花、髷の形した遊蝶花、金盞花などいきいきと目ざめてゐる。

絵草紙を買うと、くるくると巻いてまんなかに帯をしてくれるのを、そうっと手に持って、ときどき筒のなかを覗きながら帰ってくる。

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絵草紙をかふとくるくると巻いてまんなかに帯をしてくれるのをそうつと手にもつてときどき筒のなかをのぞきながら帰つてくる。

と、みんなが、どんなに綺麗だか見せてくれ、というので、勿体らしくそろそろほどいてみせる。

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と、みんなが どんなに綺麗だか見せてくれ といふので勿体らしくそろそろほどいてみせる。

誰も彼も眼をまるくして、ほしい、ほしい、という。

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誰も彼も眼をまるくして ほしい ほしい といふ。

枠の外には赤インキで、しんぱんけだものづくし、などと書いてある。

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枠のそとには赤いんきで しんぱんけだものづくし などとかいてある。

鼻を長くしてにこにこした象も、壺口の兎も、鹿も、羊も、みんな可愛い。

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鼻を長くしてにこにこした象も、壺口の兎も、鹿も、羊も、みんな可愛い。

ほかの獣はひとりでおとなしくしているのに、熊ばかりはまっ赤な金太郎と相撲をとり、鼻の先が竹の子みたいに突き出た猪は仁田の四郎に押さえられていた。

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ほかの獣はひとりでおとなしくしてるのに熊ばかりはまつかな金太郎と相撲をとり、鼻のさきが竹の子みたいにつきでた猪は仁田にたんの四郎におさへられてゐた。

一順見せびらかせば、御機嫌ようをいって寝間に入り、伯母さんの仰山な絵解きを聞きながらさんざん見返してから、枕もとに置いて寝る。

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一順みせびらかせば 御機嫌よう をいつて寐間にはひり伯母さんの仰山な絵ときをききながらさんざ見かへしてから枕もとにおいてねる。

二十五

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二十五

意気地なしの私は人なかでは口がきけず、なにか欲しいものが目につけば袂をつかんだまま黙って立ちどまってしまう。

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意気地なしの私は人なかでは口がきけずなにかほしいものが目につけば袂をつかんだまま黙つて立ちどまつてしまふ。

すると伯母さんは心得てあたりを見まわし、あれかこれかと尋ねる。

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すると伯母さんは心得てあたりを見まはしあれかこれかとたづねる。

うまく当たるまではいつまででも首をふっているが、よくよく当たらないと仕方なしにそっと指さしをして、その指は恥ずかしそうに引っ込めて口にくわえる。

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うまくあたるまではいつまででも首をふつてるがよくよくあたらないとしかたなしにそつと指さしをして、その指ははづかしさうにひつこめて口にくはへる。

三すくみのおもちゃが大好きだったが、伯母さんは蛇が嫌いなものだから、知らないうちにすぐにしまい込んでしまった。

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三すくみのおもちやが大好きだつたが伯母さんは蛇が嫌ひだもので知らないうちにぢきにしまひこんでしまつた。

竹の兎はぴょんと跳ねる。

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竹の兎はぴよんと跳ねる。

暖かい日には膠がゆるんで、威勢よくぴょんと跳ねずに、そろそろ尻を持ち上げて横っ倒しになる。

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暖い日には膠がゆるんで威勢よくぴよんと跳ねずにそろそろ尻をもちあげて横つ倒しになる。

そのほか、籠のなかの鳥が、籠についている柄を吹くとぴいぴい囀りながらまわるのや、ちりちりと尾をふりながらすべり降りる鯛弓のおもちゃなどが好きであった。

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そのほか籠のなかの鳥が籠についてる柄を吹くとぴいぴい囀りながらまはるのや、ちりちりと尾をふりながらすべりおりる鯛弓のおもちやなどが好きであつた。

木枯らしの夜などには、露店のかんてらの火が淋しい音をたてて、燈心が血走った眼玉みたいに見える。

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木枯しの夜などには露店のかんてらの火が淋しい音をたてて燈心が血ばしつた眼玉みたいにみえる。

そんなときに可哀そうでならなかったのは、葡萄餅を売る婆さんであった。

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そんなときにかはいさうでならなかつたのは葡萄餅をうる婆さんであつた。

葡萄餅とはどんなものか知らない。

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葡萄餅とはどんなものかしらない。

七十近い萎びかえった婆さんが、ぶどうもちと書いたはげちょろの行灯をともして、小さな台の上に紙袋を数えるほど並べているが、ついぞ人の買うのを見たことがない。

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七十ぢかい萎びかへつた婆さんが ぶだうもち とかいたはげちよろの行燈をともして小さな台のうへに紙袋を数へるほどならべてるが、つひぞ人の買ふのをみたことがない。

私はそれを気の毒がってこの上なくせがんだけれど、あんまり汚いのでさすがの伯母さんも二の足を踏んで買ってくれなかった。

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私はそれを気の毒がつて無上むじようにせがんだけれどあんまり穢いのでさすがの伯母さんも二の足をふんで買つてくれなかつた。

何年かのち、私がひとりで縁日に行けるようになってからも、婆さんは相変わらず蕎麦屋の角に店を出していた。

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何年かのち私がひとりで縁日に行けるやうになつてからも婆さんは相変らず蕎麦屋の角に店を出してゐた。

私は市のたびに幾度となくその前を行きつ戻りつして涙をためていた。

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私は市のたんびに幾度となくそのまへを行きつ戻りつして涙をためてゐた。

が、いつも買いおおせずに心残りのまま帰ってきてしまった。

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が、いつも買ひおほせずに本意ほいなく帰つてきてしまつた。

とはいえ、ある晩とうとう思いきって葡萄餅の行灯のそばに立ち寄った。

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とはいへある晩たうとう思ひきつて葡萄餅の行燈のそばにたちよつた。

婆さんはお客だと思って

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婆さんはお客だとおもつて

「いらっしゃい」

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「いらつしやい」

といって紙袋を取り上げた。

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といつて紙袋をとりあげた。

私はなんといってよいかわからず、無我夢中に二銭銅貨を放り出して、後をも見ずに少林寺の藪の蔭まで逃げてきた。

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私はなんといつてよいかわからず無我夢中に二銭銅貨をはふりだして後をも見ずに少林寺の藪の蔭まで逃げてきた。

胸がどきどきして、顔が火の出るように上気していた。

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胸がどきどきして顔が火のでるやうに上気してゐた。

八幡様の馬鹿囃子へは、ちっとも行こうとしなかった。

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八幡様の馬鹿囃子へはちつとも行かうとしなかつた。

それは、あの鼻のひしゃげた馬鹿の仮面、目のとんちんかんなひょっとこの顔、またあんまりしつこい野卑な道化が胸を悪くさせたからである。

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それはあの鼻つぴしやげの馬鹿の仮面、目のとんちんかんなひよつとこの顔、またあんまりひつつこい野鄙な道化が胸をわるくさせたからである。

けれども家の者は、私の憂鬱を治そうとしての無知な親切から、伯母さんまでがみんなの味方になって、どうかして連れ出そうとする。

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けれども家の者は私の憂鬱をなほさうとしての無智な親切から、伯母さんまでがみんなの味方になつてどうかしてつれださうとする。

九つ十にもなってからは、そんなところへ行くことの苦痛をくれぐれも訴えたけれど、みんなはそれを逃げ口上とばかり思って、権柄ずくで押し出すのが常であった。

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九つ十にもなつてからはそんなところへゆくことの苦痛をくれぐれも訴へたけれどみんなはそれを遁げ口上とばかりおもつて権柄づくで押し出すのが常であつた。

そんなときには、私は近所の原へ行って、大木の立ち並んだ崖の上に寝ころんで山を見ながら幾時を過ごした。

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そんなときには私は近処の原へいつて大木の立ちならんだ崖のうへに寐ころんで山を見ながら幾時をすごした。

二十六

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二十六

このへんの子は神田の腕白どもに比べればさすがにおだやかだし、それに往来は静かだし、私のような者にとってはまことにおあつらえ向きの世界であった。

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このへんの子は神田の腕白どもにくらべればさすがにおだやかだし、それに往来は静だし、私のやうなものにとつてはまことに屈竟な世界であつた。

それで、伯母さんは一所懸命私の遊び仲間によさそうな子供を探してくれたが、そのうち見つかったのはお向かいのお国さんという女の子であった。――

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で、伯母さんは一所懸命私の遊び仲間によささうな子供をさがしてくれたが、そのうち見つかつたのはお向ふのお国さんといふ女の子であつた。――

お国さんのお父様は阿波の藩士で、その時分有名な志士であったということは、近頃になって始めて知った。――

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お国さんのお父様は阿波の藩士で、そのじぶん有名な志士であつたといふことは近頃になつて始めて知つた。――

伯母さんはいつのまにか、お国さんが体が弱くておとなしいことから頭痛持ちのことまで聞き出して、もってこいのお友達だと思ったのである。

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伯母さんはいつのまにかお国さんが体が弱くておとなしいことから頭痛もちのことまでききだしてもつてこいのお友達だと思つたのである。

ある日、伯母さんは私をおぶってお国さんたちの遊んでいる門内の空き地へ連れてゆき

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ある日伯母さんは私をおぶつてお国さんたちの遊んでる門内のあき地へつれてゆき

「ええお子だに、遊んだってちょうだいも」

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「ええお子だに遊んだつてちやうだいも」

といいながら、いやがる私をそこへ降ろした。

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といひながらいやがる私をそこへおろした。

みんなはちょっとしらけて見えたが、すぐにまた元気よく遊びはじめた。

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みんなはちよつとしらけてみえたがぢきにまた元気よく遊びはじめた。

私はその日はお目見えだけにし、伯母さんの袂につかまってしばらくそれを眺めて帰った。

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私はその日はお目みえだけにし、伯母さんの袂につかまつて暫くそれを眺めて帰つた。

その翌日も連れてゆかれた。

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その翌日もつれてゆかれた。

そんなにして三日四日たつうちに、お互いにいくらかお馴染みがついて、向こうでなにかおかしいことがあって笑ったりすれば、こちらもちょいと笑顔を見せるようになった。

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そんなにして三日四日たつうちにお互にいくらかお馴染なじみがついて、むかふでなにかをかしいことがあつて笑つたりすればこちらもちよいと笑顔をみせるやうになつた。

お国さんたちはいつも蓮華の花ひらいたをやっている。

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お国さんたちはいつも蓮華の花ひらいたをやつてゐる。

伯母さんはそれから家で根気よくその謡を教えて下稽古をやらせ、それが立派にできるようになってから、ある日また私をお向かいの門内へ連れていった。

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伯母さんはそれから家で根気よくそのうたを教へて下稽古をやらせ、それが立派にできるやうになつてからある日また私をお向ふの門内へつれていつた。

そうして、いじけるのを無理やりにお国さんの隣へ割り込ませたが、意気地のない二人はきまり悪がって手を出さないので、伯母さんはなにかと上手にだましながら二人の手を引き寄せて手のひらを重ね、指を曲げさせて上からきゅっと握って、ようやく手をつながせた。

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さうしていぢけるのを無理やりにお国さんの隣へわりこませたが意気地のない二人はきまりわるがつて手を出さないので、伯母さんはなにかと上手に騙しながら二人の手をひきよせて手のひらをかさね、指をまげさせて上からきゆつと握つてやうやく手をつながした。

これまでついぞ人に手など取られたことのない私は、なんだか怖いような気がして、それに伯母さんに逃げられはしないかという心配もあるし、伯母さんのほうばかり見ていた。

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これまでつひぞ人に手なぞとられたことのない私はなんだか怖いやうな気がして、それに伯母さんに逃げられやしないかといふ心配もあるし、伯母さんのはうばかり見てゐた。

新たにこの調和しがたい新参者が加わったために、子供たちはすっかり興をさまされて、いつまでたっても廻りはじめない。

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あらたにこの調和しがたい新参者が加はつたために子供たちはすつかり興をさまされていつまでたつても廻りはじめない。

それを見てとった伯母さんは輪のなかへ入り、景気よく手を叩いて

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それを見てとつた伯母さんは輪のなかへはひり景気よく手をたたいて

「あ ひーらいた ひーらいた なんのはなひーらいた」

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「あ ひーらいた ひーらいた なんのはなひーらいた」

とうたいながら足拍子を踏んで廻ってみせた。

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とうたひながら足拍子をふんで廻つてみせた。

子供たちはいつか釣り込まれて小声にうたいだしたので、私も伯母さんに促されて、みんなの顔を見まわしながら内緒で謡のあとについた。

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子供たちはいつか釣りこまれて小声にうたひだしたので私も伯母さんに促されてみんなの顔を見まはしながら内證ないしよで謡のあとについた。

「ひーらいた ひーらいた、なんのはなひーらいた、れんげのはなひーらいた……」

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「ひーらいた ひーらいた、なんのはなひーらいた、れんげのはなひーらいた……」

小さな輪がそろそろ廻りはじめたのを見て、伯母さんはすかさず囃したてる。

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小さな輪がそろそろ廻りはじめたのをみて伯母さんはすかさず囃したてる。

謡の声がだんだん高くなって、輪がだんだん早く廻ってくる。

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謡の声がだんだん高くなつて輪がだんだんはやく廻つてくる。

平生ろくに歩いたことのない私は、動悸がして眼がまわりそうだ。

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平生ろくに歩いたことのない私は動悸がして眼がまはりさうだ。

手が離したくても、みんなは夢中になってぐんぐん人を引きずりまわす。

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手がはなしたくてもみんなは夢中になつてぐんぐん人をひきずりまはす。

そのうちに

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そのうちに

「ひーらいたとおもったらやっとこさとつーぼんだ」

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「ひーらいたとおもつたらやつとこさとつーぼんだ」

といって、子供たちは伯母さんのまわりへいちどきにつぼんでいったもので、伯母さんは

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といつて子供たちは伯母さんのまはりへいちどきにつぼんでいつたもので伯母さんは

「あやまった あやまった」

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「あやまつた あやまつた」

といって輪から抜け出した。

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といつて輪からぬけだした。

「つーぼんだ つーぼんだ、なんのはなつーぼんだ、れんげのはなつーぼんだ……」

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「つーぼんだ つーぼんだ、なんのはなつーぼんだ、れんげのはなつーぼんだ……」

つないだまま突き出している手を、拍子につれて揺りながらうたう。

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つないだままつきだしてる手を拍子につれてゆりながらうたふ。

「つーぼんだとおもったらやっとこさとひーらいた」

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「つーぼんだとおもつたらやつとこさとひーらいた」

つぼんでいた蓮華の花はぱっと開いて、私の腕は抜けるほど両方へ引っぱられる。

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つぼんでた蓮華の花はぱつとひらいて私の腕はぬけるほど両方へひつぱられる。

五六遍そんなことをやるうちに、慣れない運動と気疲れでへとへとにくたびれてしまい、伯母さんに手をほどいてもらって家へ帰った。

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五六遍そんなことをやるうちに慣れない運動と気疲れでへとへとにくたびれてしまひ伯母さんに手をほどいてもらつて家へ帰つた。

二十七

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二十七

お国さんは、友達というものの最初の人だった。

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お国さんはお友達といふものの最初の人であつた。

はじめのうちは私も伯母さんがそばについていなければ遊べなかったし、伯母さんも、いわばぽっと出の子供の身の上を気づかってそばを離れなかったが、ここは神田あたりとは違って、まったく私みたいな子のための世界といってもいいくらい静かで安全なところだと見きわめてからは、車が来たら門の内へ入れの、溝のそばへは寄るなのと細かい注意をくどくど言いきかせたうえで、私ひとりを置いて帰るようになった。

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はじめのうちは私も伯母さんがそばについてゐなければ遊べなかつたし伯母さんもいはばぽつと出の子供の身のうへを気づかつてそばをはなれなかつたが、ここは神田へんとはちがつてまつたく私みたいな子のための世界といつてもいいくらゐ静な安全なところであることを見とどけて、車がきたら門の内へはひれの、溝のはたへはよるなのと細かい注意をくどくどいひきかせたのちひとりおいて帰るやうになつた。

二人がさし向かいになったとき、お国さんは、子供同士が近づきになるときの礼式にしたがって、父の名、母の名からこちらの生年月日までたずねた。

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二人がさしむかひになつたときにお国さんは子供同士がちかづきになるときの礼式にしたがつて父の名母の名からこちらの生年月日までたづねた。

そして何の歳だというので、おとなしく酉の歳だと答えたら

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そしてなにの歳だといつたからおとなしくとりの歳だと答へたら

「あたしも酉の歳だから仲よくしましょう」

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「あたしも酉の歳だから仲よくしませう」

といって、いっしょに、こけっこっこ、こけっこっこ、と言いながら袂で羽ばたきをして歩いた。

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といつていつしよに こけつこつこ こけつこつこ といひながら袂で羽ばたきをしてあるいた。

同い年というのは、なんとなく嬉しく懐かしいものである。

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おない年はなにがなし嬉しくなつかしいものである。

お国さんはまた、家の者が自分のことを痩せっぽちだのかがんぼだのと言うといってこぼしたが、私もみんなにたこ坊主と言われるのが悔しかったので、心から友達の身の上に同情した。

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お国さんはまた家の者が自分のことを痩つぽちだのかがんぼだのといふといつてこぼしたが私もみんなに章魚坊主といはれるのがくやしかつたので心からお友達の身のうへに同情した。

いろいろ話しあってみればいちいち意見が一致して、私たちは間もなく仲よしになってしまった。

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いろいろ話しあつてみればいちいち意見が一致して私たちは間もなく仲よしになつてしまつた。

お国さんは浅黒く痩せた鼻の高い子で、前髪を下げ、赤い布でおさげの根を結わえていた。

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お国さんは浅黒く痩せた鼻の高い子で、前髪をさげて赤いきれでおさげの根を結へてゐた。

二人は虫くいだらけの門柱に寄りかかったり、しゃがんで泥いじりをしたりして、頭がくっつきあうほど顔を寄せながら、昨日何本めの歯が抜けたとか、どの指に刺をたてたとか、埒もないことを喋りあって、お互いに意気投合すればなんということもなく、あははははは、と笑う。

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二人は虫くひだらけの門柱によりかかつたり、しやがんで泥いぢりをしたりして頭がくつつきあふほど顔をよせながら、昨日何本めの歯がぬけたとか、どの指へとげをたてたとか埒もないことをしやべりあつて、お互に意気投合すればなんといふこともなく あははははは と笑ふ。

お国さんはたしか糸切り歯が一本抜けていて、笑うたびにそこが洞穴みたいに見えた。

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お国さんはたしか糸きり歯が一本ぬけて笑ふたんびにそこが洞穴みたいにみえた。

家で伯母さんばかりを相手にしていた私は、お国さんと友達になってから、善いことも悪いことも急に知恵がついてきたけれど、同い年とはいえよほど遅れていたので、なんでも言うことをきいて遊んでいた。

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家で伯母さんばかりを相手にしてた私はお国さんと友達になつてから善いこと、悪いこと、急に智慧がついてきたけれど、おない年とはいへよつぽど遅れてたのでなんでもいふことをきいて遊んでゐた。

近所にお峰ちゃんといって、私たちよりひとつ年上の子がいた。

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近処にお峰ちやんといつて私たちよりひとつ年うへの子がゐた。

お峰ちゃんは意地悪なばかりかひどい焼き餅やきで、みんなに嫌われていたが、毎日顔をあわすので、子供同士のつきあいで、時にはどうしてもいっしょに遊ばなければならないことがあった。

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お峰ちやんは意地わるなばかりかひどい焼餅やきでみんなに嫌はれてたが、毎日顔をあはすので子供同士のつきあひで時にはどうしてもいつしよに遊ばなければならないことがあつた。

ある日のこと、またお国さんと歳の話が出て、こけっこっこ、こけっこっこ、と言って羽ばたきしていたら、お峰ちゃんは

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ある日のことまたお国さんと歳の話がでて こけつこつこ こけつこつこ といつて羽ばたきしてたらお峰ちやんは

「あたし申の歳だから」

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「あたしさるの歳だから」

といって、きゃっきゃっと二人をひっかいた。

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といつてきやつきやつと二人をひつかいた。

二十八

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二十八

お国さんの櫛は赤く塗って菊の花の蒔絵がしてあった。

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お国さんの櫛は赤く塗つて菊の花の蒔絵がしてあつた。

緋と水色の縮緬でこしらえた薬玉の簪も持っていた。

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緋と水色の縮緬でこしらへた薬玉くすだまの簪ももつてゐた。

お国さんは何か新しいものを買ってもらうと、自慢して見せておきながら、よく見ようとすれば袂へ隠したりして人を焦らせる。

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お国さんはなにか新しいのを買つてもらふと自慢してみせておきながらよく見ようとすれば袂へかくしたりして人をらせる。

私はそんなものを見るたびに、自分が女に生まれなかったことを悔やみ、また、男はなぜ女みたいに綺麗にしないのだろうと思った。

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私はそんなものを見るたんびに自分が女に生れなかつたことをくやみ、また男はなぜ女みたいに綺麗にしないのだらうと思つた。

お国さんはかくれんぼをしようとするときは、いつでも、昨日裏の藪から三つ目小僧が出た、の、山かがしがとぐろを巻いていた、のとおどかしておいてから、人を李の木の蔭で目をつぶらせて、どこかへ隠れてしまう。

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お国さんはかくれんぼをしようとするときはいつでも 昨日裏の藪から三つ目小僧がでた の、山かがしがとぐろまいてた のとおどかしておいてから人をすももの木の蔭に目をつぶらせてどこかへかくれてしまふ。

私は家をぐるりとひと回りして裏のほうへ捜しにゆく。

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私は家をぐるりとひと廻りして裏のはうへ捜しにゆく。

お庭へ曲がるところに竹矢来をして鵞鳥が二羽飼ってあるのが、怖くてしかたがない。

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お庭へ曲るところに竹矢来をして鵞鳥が二羽飼つてあるのが怖くてしやうがない。

そっと通ろうとするのを、恵比寿様の冠みたいな頭をのしあげて、がわがわ追ってくる。

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そうつと通らうとするのを恵比寿様の冠みたいな頭をのしあげてがわがわ追つてくる。

やっとの思いでそこを通りぬけて茶畑のほうへゆくと、隣の乳牛が柵の上から首をのばして、めえ、という。

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やつとの思ひでそこを通りぬけて茶畑のはうへゆくと隣の乳牛が埒のうへから頸をのばして めえ といふ。

それが怖いので茶畑のなかはいいかげんにして、お庭を捜す。

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それが怖いので茶畑のなかはいいかげんにしてお庭をさがす。

大きな木がたくさんあるのでなかなか見つからない。

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大きな木が沢山あるのでなかなか見つからない。

あたりを見まわしても誰もいないし、帰り路には牛と鵞鳥が待ちかまえているし、心細くなって

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あたりを見まはしても誰もゐないし、帰り路には牛と鵞鳥が待ちかまへてるし、心細くなつて

「もういいかーい」

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「もういいかーい」

と呼んでみる。

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と呼んでみる。

しんかんとしているところへ自分の声ばかりが響いて、なんにも聞こえない。

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しんかんとしてるところへ自分の声ばかり響いてなんにも聞えない。

お国さんは人をだましてどこかへ行ってしまったのじゃないか、などと思えばなおのこと淋しくなって、はやく伯母さんが迎えに来ればいいのに、と思いながら、また

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お国さんは人を騙してどこかへ行つてしまつたのぢやないか なぞと思へばなほなほ淋しくなつて はやく伯母さんが迎ひにくればいいのに と思ひながらまた

「もういいかーい」

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「もういいかーい」

と呼んでみる。

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と呼んでみる。

我ながら涙声になっている。

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我ながら涙声になつてゐる。

そうすると竹藪のあたりで

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さうすると竹藪のへんで

「もいいよ」

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「もいよ」

と小さな声でいう。

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と小さな声でいふ。

いるな、と思って竹藪の入口まで行っても、垣ひとつ向こうにはお寺の銀杏の木が真っ黒に立っているし、竹のあいだには椿や皀角子がごちゃごちゃに茂っていて、いやにうす暗い。

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ゐるな と思つて竹藪の入口までいつても垣ひとへ向ふにはお寺の銀杏の木がまつ黒に立つてるし、竹のあひだには椿や皀角子さいかちがごちやごちやに繁つていやにうす暗い。

三つ目小僧が出たというのは本当かしら、などと思って立ちすくんでいると、奥のほうでくすくすと笑い声がする。

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三つ目小僧が出たといふのはほんとかしら などと思つてたち竦んでると奥のはうでくすくすと笑ひ声がする。

それでようやく元気づいて入ってゆくのだが、竹の切株や根っこが至るところに出ているうえに、いたいいたい草が一面に生えているのが、ふだん石ころひとつにも伯母さんがやかましく世話をやいてくれる私には、針の山をゆく気もちで、足の踏みどころもない。

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で、やうやく元気づいてはひつてゆくのだが、竹の切株や根つこが到るところ出てるうへにいたいいたい草がいちめんに生えてるのがふだん石ころひとつにも伯母さんがやかましく世話やいてくれる私には針の山をゆく気もちで足の踏みどころもない。

おまけに、なんだかそこらじゅうに山かがしがとぐろを巻いているような気がして気味が悪くてならないのを、やっとの思いでひと足ずつ踏みこんでいって、いよいよ見つかりそうなところまでゆくと、お国さんは隅の暗いところから

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おまけになんだかそこらぢゆう山かがしがとぐろまいてるやうな気がして気味がわるくてならないのを、やつとの思ひでひと足づつ踏みこんでいつていよいよ見つかりさうなとこまでゆくとお国さんは隅の暗いところから

「おばけー」

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「おばけー」

と白眼をして出てくる。

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と白眼をして出てくる。

それをお国さんだとは知りながらも総毛立って

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それをお国さんだとは知りながらも総毛だつて

「いやだってば、いやだってば」

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「いやだつてば、いやだつてば」

と逃げだせば、面白がってどこまでも追いかけてくる。

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と逃げだせば面白がつてどこまでも追つかけてくる。

そこで今度はこっちが隠れる番になる。

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そこでこんだはこつちが隠れる番になる。

けれども私は藪のなかへは隠れられないし、それに相手は勝手をよく知っているので、すぐに見つかってしまう。

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けれども私は藪のなかへは隠れ得ないし、それにさきは案内をよく知つてるのでぢきに見つかつてしまふ。

それでも、どうかしてなかなか捜せないときは、お国さんは家へ上がってお菓子を食べているのを、それとは知らず、いくら待っていても来ないので

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でもどうかしてなかなか捜せないとお国さんは家へあがつてお菓子をたべてるのをそれとは知らずいくら待つてゐても来ないので

「もういいよ、夜が明けた」

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「もうよし夜があけた」

といって出てゆくと

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といつて出てゆくと

「ほら見つけた」

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「ほら見つけた」

と、むにゃむにゃやりながら出てきて

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とむにやむにややりながら出てきて

「あなたにもひとつあげましょう」

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「あなたにもひとつあげませう」

といって金華糖のかけらなどをくれる。

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といつて金華糖のかけらなどくれる。

二十九

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二十九

私たちはうつし絵が大好きだった。

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私たちはうつし絵が大好きだつた。

あの油くさい匂いをかぐときの気もちといったらない。

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その油くさい匂をかぐときの気もちはない。

早くついたほうが勝ちだといって、貼ったうえへべとべとに唾をつけて

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はやくついたはうが勝ちだといつて貼つたうへへべとべとに唾をつけて

「はやくくっつけ、はやくくっつけ」

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「はやくくつつけ はやくくつつけ」

と言いながら指でこすっている。

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といひながら指でこすつてゐる。

いろんな色の鳥や獣などの押された手の甲を並べて、いたずらに皮をのばしたり縮めたりするのが面白い。

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いろんな色の鳥や獣などの押された手の甲をならべていたづらに皮をのばしたり縮めたりするのが面白い。

少したつと乾いて痒くなるのを、そっとまわりを掻いてこらえている。

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すこしたつと乾いて痒くなるのをそうつとまはりを掻いてこらへてゐる。

時にはおそろいの絵を二の腕に貼り、いつまでも取っておきっこだといって着物にすれないように大事にしているが、明くる朝見るときれぎれになって訳のわからないものになっている。

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時にはおそろひの絵を二の腕に貼りいつまでもとつときつこだといつて著物にすれないやうに大事にしてるが明る朝みるときれぎれになつて訳のわからないものになつてゐる。

朝飯をすますやいなや、おそるおそるお国さんのところへ行って

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朝飯をすますやいなやおそるおそるお国さんのとこへいつて

「こんなになったから勘弁して」

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「こんなになつたからかんにんして」

といえば、わざとつんとして、これ見よがしに袖をまくってみせる。

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といへばわざとつんとしてこれ見よがしに袖をまくつてみせる。

と、やっぱりめちゃくちゃになっているのを、目をまるくして

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と、やつぱしめちやくちやになつてるのを眼をまるくして

「あたしのもこんなになっちゃった」

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「あたしのもこんなになつちやつた」

といって、さもおかしそうに笑う。

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といつてさもをかしさうに笑ふ。

桜の花の散るころには、花びらを糸に縫いつけて数の多さをきそう。

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桜の花のちるころには花びらを糸にぬいて数の多いのをきそふ。

ある日、お国さんのところの玄関の前で、赤のまんまを茶碗に盛り、かたばみ草の実を黄瓜に見立ててままごとをしていたら、お峰ちゃんが

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ある日お国さんのとこの玄関のまへで赤のまんまを茶碗にもり、かたばみ草の実を黄瓜に見たててままごとをしてたらお峰ちやんが

「遊びましょう」

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「遊びませう」

といってやってきた。

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といつてやつてきた。

お国さんは

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お国さんは

「憎らしいからいじめてやりましょう」

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「にくらしいからいぢめてやりませう」

と耳打ちをして、垣根に生えているほーれ草をこっそり取って、いきなり

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と耳つこすりをし垣根に生えてるほーれ草をこつそりとつていきなり

「おまえに惚れたほーれ草」

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「おまいにほうれたほーれ草」

といってぶつけた。

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といつてぶつけた。

相手も負けない気になってぶつけ返した。

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さきも負けない気になつてぶつけかへした。

お国さんが手にいっぱい持っているのを半分よこしたので、私もふだんの意趣返しに思うさまぶつけてやった。

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お国さんが手にいつぱいもつてるのを半分よこしたから私も平生の意趣ばらしに思ふさまぶつけてやつた。

「おまえに惚れたほーれ草」

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「おまいにほうれたほーれ草」

「おまえに惚れたほーれ草」

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「おまいにほうれたほーれ草」

「おまえに惚れたほーれ草」

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「おまいにほうれたほーれ草」

不意打ちではあり、多勢に無勢で逃げだしたのを追いかけてめちゃめちゃにぶつけたら、みるみるうちに背中一面にくっついた。

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不意討ちではあり多勢に無勢で逃げだしたのを追つかけてめちやめちやにぶつけたらみるみるうちに背中いちめんにくつついた。

お峰ちゃんは怖い顔をして睨んでおいて、ほーれ草をぶらさげたまま帰ってゆくので、言いつけられはしまいかとこわごわ見送っていたら、ひょいと振り返って、憎らしくあごを突きだして駆けていった。

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お峰ちやんは怖い顔をして睨めておいてほーれ草をぶらさげたまま帰つてゆくのでいつけられはしまいかとこはごは見送つてたらひよいとふりかへつて憎体にくていに腭をつきだしてかけていつた。

蚕豆の葉を吸うと雨蛙の腹みたいにふくれるのが面白くて、畑のをちぎっては叱られた。

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蚕豆そらまめの葉をすふと雨蛙の腹みたいにふくれるのが面白くて畑のをちぎつては叱られた。

山茶花の花びらを舌にのせて息を吸えば、篳篥に似た音がする。

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山茶花の花びらを舌にのせて息をひけば篳篥ひちりきににた音がする。

春になると、儒者の家のような玄関の前にある李の木が雲のように花をつけ、その青白い花がまばゆく日に照らされて、すーんとした薫りがあたりに漂う。

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春になるとお儒者のやうな玄関のまへにあるすももの木が雲のやうに花をつけ、その青白い花がまばゆく日に照されてすーんとした薫があたりにただよふ。

近所の子供たちはみんなその蔭へ寄ってきて、いろんな遊びをする。

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近処の子供たちはみんなその蔭へよつてきていろんな遊びをする。

彼らの声が聞こえると、伯母さんは私を連れていって、みんなに耳打ちをして帰ってゆく。

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彼らの声がきこえると伯母さんは私をつれていつてみんなに耳うちをして帰つてゆく。

彼らはみんな三つ四つ年上だったが、子煩悩な伯母さんになついて、□ちゃんとこのおばさん、□ちゃんとこのおばさん、と言うようになり、自然と私をかばってよく遊んでくれ、子供らしい世話もやいてくれた。

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彼らはみんな三つ四つ年うへだつたが子煩悩な伯母さんになついて □ちやんとこのをばさん □ちやんとこのをばさん といふやうになり、自然私をかばつてよく遊んでくれ、子供らしい世話もやいてくれた。

おかしなことに、彼らは私よりずっと大きいくせに、何をやってもすぐに負かされてしまう。

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をかしなことに彼らは私よりずつと大きいくせになにをやつてもぢきに負かされてしまふ。

鬼ごっこをすれば誰も私をつかまえられないし、独楽をまわせば誰のも不思議に当たらない。

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鬼ごつこをすれば誰も私をつかまへ得ないし、独楽こまをまはせば誰のも不思議にあたらない。

そして、何が何だかわからないうちにこちらが勝ってしまう。

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そしてなにがなんだかわからずにこちらが勝つてしまふ。

家へ帰って鼻を高くして話すと、みんなは

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家へ帰つて鼻を高くして話すとみんなは

「えらいえらい」

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「えらいえらい」

といってほめた。

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といつてほめた。

このぼんやりが、自分が味噌っかすにされているのに気がつくのは容易なことではなかった。

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このぼんやりが自分の味噌つかすにされてるのに気がつくのは容易なことではなかつた。

三十

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三十

やはりこのあたりに住んで、百姓と商いを半々にしている水飴屋のおやじがあった。

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やはりこのへんに住んで百姓と商ひを半半にしてる水飴屋の親仁があつた。

彼は天気でさえあれば必ずちゃるめらを吹き吹き車を挽いてくる。

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彼は天気でさへあれば必ずちやるめらをふきふき車を挽いてくる。

あの、すべてのものの調和を打ちこわしてしまうような響きが妙に子供の胸をときめかせて、家にいる者は家をとびだし、遊んでいる者は遊びをやめてとんできて、棒きれを刀にさした奴や、泥だらけの独楽を懐へ押しこんだ奴が車を取り巻いてわいわいと騒ぐ。

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あのすべてのものの調和をうちこはしてしまふやうな響が妙に子供の胸をときめかせて家にゐる者は家をとびだし、遊んでる者は遊びをやめてとんできて、棒ちぎれを刀にさした奴や、泥だらけの独楽をふところへおしこんだ奴が車をとりまいてわいわいと騒ぐ。

水飴のほかに当てものや駄菓子なども持っているので、みんなは我がちに赤や青の紙をめくって当てものをする。

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水飴のほかにあてものや駄菓子などももつてるのでみんなは我がちに赤や青の紙をめくつてあてものをする。

おやじは桶のなかに琥珀色によどんでいる飴をきゅっきゅっと引っぱりあげて、木箸の先にてらてらした坊主頭をこしらえる。

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親仁は桶のなかに琥珀色にをどんでる飴をきゆつきゆつとひつぱりあげて木箸のさきにてらてらした坊主頭をこしらへる。

それを口いっぱいに頬張ってくるくる回していると、濃厚な甘味が唾に溶けてだんだん小さくなってゆく。

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それを口一杯に頬張つてくるくる廻してると濃厚な甘味が唾にとけてだんだん小さくなつてゆく。

よかよか飴屋も来た。

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よかよか飴屋もきた。

真鍮の箍をたくさんはめた盥みたいなもののまわりに日の丸の小旗がぐるりと立って、旗竿の先に鴛鴦の形をした紅白の飴がついている。

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真鍮のたがをたくさんはめた盥みたいなもののまはりに日の丸の小旗がぐるりとたつて、旗竿のさきに鴛鴦鳥をしどりの形をした紅白の飴がついてゐる。

鯉の滝登りの浴衣を着た飴屋の男が、うどどんどん、と太鼓を叩きながら肩と腰とでゆらりゆらりと調子をとってくる、そのあとから、あねさんかぶりをした女がじゃんじゃかじゃんじゃか三味線を弾いてくる。

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鯉の滝のぼりの浴衣をきた飴屋の男が うどどんどん と太鼓をたたきながら肩と腰とでゆらりゆらりと調子をとつてくるあとからあねさんかぶりをした女がぢやんぢやかぢやんぢやか三味線をひいてくる。

たくさん買ってやるとおかめの面をかぶって踊るのを、子供たちはずらりと取り囲んで見物する。

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たんと買つてやるとおかめの面をかぶつて踊るのを子供たちはずらりととりかこんで見物する。

と、首をひねったり、袖をふったり、三味線にあわせていいかげんに踊りながら、へんな足つきをして追いかけてくるので、きゃっきゃっといって逃げまわる。

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と、首をひねつたり、袖をふつたり、三味線にあはせていいかげんに踊りながらへんな足つきをして追つかけるものできやつきやつといつて逃げまはる。

踊りがすめば飴屋は

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踊がすめば飴屋は

「へえ、おやかましゅう」

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「へえおやかましう」

と盥を頭へのせながら、御愛嬌にわざと盥を落として、泣き泣き帰ってゆく。

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と盥を頭へのせながら御愛嬌にわざと盥をおつことして泣き泣き帰つてゆく。

お国さんのお父様は骨格の逞しい怖い人で、お役のため留守がちだったが、たまに家にいるときは一日じゅう二階に閉じこもって何か書きものをしていた。

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お国さんのお父様とうさまは骨格の逞しい怖い人でお役のため留守がちだつたが、たまに家のときはいちんち二階に閉ぢこもつてなにか書きものをしてゐた。

そして少しやかましくするとすぐに叱られるので、こちらもお父様のいる日には遊びに行かなかったし、向こうも家で小さくなっていた。

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さうしてすこしやかましくするとぢきに叱られるのでこちらもお父様のゐる日には遊びに行かなかつたし、むかふも家に小さくなつてゐた。

どうかしてそれを知らずに行って

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どうかしてそれを知らずにいつて

「お国さん、お遊びなさいな」

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「お国さん、お遊びなさいな」

と呼ぶと、お国さんは玄関の障子を細めに開け、親指を鼻の先へ出して、さも怖そうに手をふってみせる。

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とよぶとお国さんは玄関の障子を細めにあけ拇指おやゆびを鼻のさきへだしてさも怖さうに手をふつてみせる。

桃のお節句にお国さんのところへ呼ばれたことがあった。

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桃のお節句にお国さんのとこへよばれたことがあつた。

日あたりのいいお座敷の正面に高く雛段をこしらえて、立派なお雛様が飾ってあった。

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日あたりのいいお座敷の正面に高く雛段をこしらへて立派なお雛様がかざつてあつた。

家のは目に入りそうな小さいものなのに、お国さんのはその五つ分もある。

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家のは目にはひりさうな小さいのだのにお国さんのはその五つがけもある。

お雛様は生きているものとばかり思っていた私は、体がすくむような気がして、いくつも続けざまにお辞儀をしたので、みんながどっと笑った。

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お雛様は生きてるものとばかり思つてた私は体がすくむやうな気がしていくつもつづけざまにお辞儀をしたらみんながどつと笑つた。

そこへ、意外にも留守だと思っていたお父様が出てきたので、どうなることかとお雛様とお父様の顔を見くらべながら、今にもべそをかきそうに縮こまっていた。

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そこへ意外にも留守だと思つてたお父様が出てきたので、どうなることかとお雛様とお父様の顔を見くらべながら今にもべそをかきさうにちぢこまつてゐた。

お父様は怖じけている私を見て、いつになく笑いながら豆煎りを紙に包んでくれて、年はいくつだの、名は何というのと、いろんなことを聞いた。

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お父様は怖ぢけてる私を見ていつになく笑ひながら豆煎を紙に包んでくれて、年はいくつだの、名はなんといふのといろんなことをきいた。

そして

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そして

「ここにいる人のなかで誰がいちばん怖い」

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「ここにゐる人のなかで誰がいちばん怖い」

といったので、正直にお父様を指さしたら、みんながまたどっと笑った。

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といつたから正直にお父様を指さしたらみんながまたどつと笑つた。

お父様も笑いながら

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お父様も笑ひながら

「おとなしくさえすれば叱りはしない」

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「おとなしくさへすれば叱りはしない」

といって二階へ行ってしまったので、ようやくほっと息をついた。

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といつて二階へいつてしまつたのでやうやくほつと息をついた。

三十一

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三十一

あの静かな子供の日の遊びを、心から懐かしく思う。

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あの静な子供の日の遊びを心からなつかしくおもふ。

そのうちでも楽しいのは夕方の遊びだった。

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そのうちにも楽しいのは夕がたの遊びであつた。

ことに夏のはじめなど、日が赤々と夕映えの雲に名残をとどめて暮れてゆくのを見ながら、もうすぐ帰らなければ、と思えば残り惜しくなって、子供たちはいっそう遊びにふける。

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ことに夏のはじめなど日があかあかと夕ばえの雲になごりをとどめて暮れてゆくのをみながら もうぢき帰らなければ とおもへば残り惜しくなつて子供たちはいつそう遊びにふける。

ちょんがくれにも、めかくしにも、おか鬼にも、石蹴りにも飽きたお国さんは、前髪をかきあげて汗ばんだ額に風をあてながら

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ちよんがくれにも、めかくしにも、をか鬼にも、石蹴りにもあきたお国さんは前髪をかきあげて汗ばんだ額に風をあてながら

「今度は何をして遊びましょう」

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「こんだなにして遊びませう」

という。

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といふ。

私も袂で顔をふきながら

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私も袂で顔をふきながら

「かーごめ、かごめ、をしましょう」

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「かーごめ かごめ をしませう」

という。

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といふ。

「かーごめ かごめ、かーごんなかの鳥は、いついつでやる……」

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「かーごめ かごめ、かーごんなかの鳥は、いついつでやる……」

雨のあとなど、首をたれた杉垣の杉の若芽に雫がたまってきらきら光っているのを、垣根をゆすぶると一時にばらばらと散るのが面白い。

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雨のあとなど首をたれた杉垣の杉の若芽に雫がたまつてきらきら光つてるのを、垣根をゆすぶると一時にばらばらと散るのが面白い。

しばらくすれば、また先ほどのようにたまっている。

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暫くすればまたさきのやうにたまつてゐる。

遊び場の隅には大きな合歓の木があって、うす紅いぼうぼうとした花が咲いたが、夕方、不思議なその葉が眠るころになると、すばらしい蛾がとんできて、褐色の厚ぼったい翅をふるわせながら花から花へと狂ったように駆けまわるのが気味が悪かった。

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遊び場の隅には大きな合歓ねむの木があつてうす紅いぼうぼうした花がさいたが、夕がた不思議なその葉が眠るころになるとすばらしい蛾がとんできて褐色の厚ぼつたい翅をふるはせながら花から花へと気ちがひのやうにかけまはるのが気味がわるかつた。

合歓の木は幹をさすればくすぐったがるといって、お国さんと手のひらの皮のむけるほどさすったこともあった。

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合歓の木は幹をさすればくすぐつたがるといつてお国さんと手のひらの皮のむけるほどさすつたこともあつた。

夕映えの雲の色も褪せてゆけば、こっそりと待ちかまえていた月がほのかにさしてくる。

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夕ばえの雲の色もあせてゆけばこつそりと待ちかまへてた月がほのかにさしてくる。

二人はその柔和な面をあおいで、お月様いくつ、をうたう。

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二人はその柔和なおもてをあふいで お月様いくつ をうたふ。

「お月さまいくつ、十三ななつ、まだとしゃ若いな……」

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「お月さまいくつ、十三ななつ、まだとしや若いな……」

お国さんは両手の指で眼鏡をこしらえて

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お国さんは両手の眼で眼鏡をこしらへて

「こうして見ると兎がお餅をついているのが見える」

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「かうしてみると兎がお餅ついてるのがみえる」

というので、私も真似をしてのぞいてみる。

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といふので私もまねをしてのぞいてみる。

あのほのかな真ん丸の国に兎がひとりで餅をついているとは、無垢にして好奇心にみちた子供の心に、なんという嬉しいことだろう。

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あのほのかなまんまるの国に兎がひとりで餅をついてるとは無垢にして好奇心にみちた子供の心になんといふ嬉しいことであらう。

月の光が明るくなれば、ふわふわとついて歩く影法師を追って、影やとうろ、をする。

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月の光があかるくなればふはふはとついてあるく影法師を追つて 影やとうろ をする。

伯母さんが

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伯母さんが

「ごぜんだにお帰りよ」

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「ごぜんだにお帰りよ」

といって迎えに来て連れて帰ろうとするのを、一所懸命足をふんばって帰るまいとすれば、わざとよろよろしながら

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といつて迎ひにきてつれて帰らうとするのを一所懸命足をふんばつて帰るまいとすればわざとよろよろしながら

「かなわん、かなわん」

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「かなはん かなはん」

といって、だましだまし連れて帰る。

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といつてだまし騙しつれてかへる。

お国さんは

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お国さんは

「あす、また遊んでちょうだいよ」

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「あすまた遊んでちやうだいえも」

という伯母さんに、さようなら、をして帰る道々

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といふ伯母さんに さやうなら をして帰るみちみち

「かいろが鳴いたからかーいろ」

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「かいろが鳴いたからかーいろ」

という。

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といふ。

私も名残惜しくて同じように呼ぶ。

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私も名残をしくておなじやうに呼ぶ。

そうして、かわるがわる呼びながら、家へ入るまでかわるがわる呼んでいる。

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さうしてかはるがはる呼びながら家へはひるまでかはるがはる呼んでゐる。

三十二

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三十二

そのようにして安穏な日を送っているうちに、二人にとって一大事が起こった。

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そのやうにして安穏な日をおくつてるうちに二人にとつて一大事がおこつた。

それは、二人とも八つになって学校へ上がらなければならないことになったのである。

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それは二人とも八つになつて学校へあがらなければならないことになつたのである。

いつだったか伯母さんにおぶさって姉のお弁当を持っていったから、学校の様子はわかっている。

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いつぞや伯母さんにおぶさつて姉のお弁当をもつていつたから学校の様子はわかつてゐる。

あの意地の悪そうな子がうようよいるところへ、どうして行かれよう。

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あの意地のわるさうな子のうようよゐるところへどうして行かれよう。

毎晩、茶の間へおもちゃ箱を出して遊ぶ時になると父や母がくどく言いきかせたが、私は強情に首をふっていた。

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毎晩茶の間へおもちや箱をだして遊ぶ時になると父や母がくどくいつてきかせたが私は強情に首をふつてゐた。

母は、学校へ行かなければえらい人になれない、という。

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母は 学校へ行かなければえらい人になれない といふ。

私は、えらい人なんぞにならないでもいい、といった。

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私は えらい人なんぞにならないでもいい といつた。

父は、学校へ行かない子は家に置かない、という。

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父は 学校へ行かない子は家におかない といふ。

私は、伯母さんといっしょにおもちゃ箱を持って出てゆく、といった。

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私は 伯母さんといつしよにおもちや箱をもつて出てゆく といつた。

小さな知恵をしぼった抗弁も、病身者の嘆願も、はじめのうちこそ笑って聞き流されたが、始業の日が迫るにしたがって拷問はますます厳しくなり、あわれな子は毎晩泣きだしては伯母さんに連れられて床に入るようになった。

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小さな智嚢をしぼつた抗弁も、病身者の嘆願も、はじめのうちこそは笑つてききながされたが始業の日がせまるにしたがつて拷問はますます厳しくなり、あはれな子は毎晩泣きだしては伯母さんにつれられて床にはひるやうになつた。

そのうちにも委細かまわず鞄が買われて、厚紙の筆入れや、大きな手習いの筆や、すっかり揃ってしまった。

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そのうちにも委細かまはず鞄が買はれて、厚紙の筆入れや、大きな手習ひの筆や、すつかり揃つてしまつた。

姉たちは、いいものが買ってもらえてうらやましい、というけれど、そんなもの見たくもない。

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姉たちは いいものが買つてもらへてうらやましい といふけれどそんなもの見たくもない。

お犬様と丑紅の牛のほか、なんにもいらない。

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お犬様と丑紅の牛のほかなんにもいらない。

そうして、外ではお国さんと遊んで、家では伯母さんと木の実どちをしていればいい。

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さうして外ではお国さんと遊んで、家では伯母さんと木の実どちをしてゐればいい。

こんなに嫌なのを、どうして無理に行かせるのだろう、と思った。

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こんなにいやなのをどうして無理に行かせるのだらう と思つた。

ある日、思いあまってお国さんにその話をしたら、お国さんは

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ある日思ひあまつてお国さんにその話をしたらお国さんは

「あたしも毎日叱られてる」

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「あたしも毎日叱られてる」

という。

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といふ。

友達もやっぱり学校が嫌いで、同じ憂き目を見ているらしい。

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お友達もやつぱり学校がきらひでおなじ憂きめをみてるらしい。

そこで二人は李の木の根っこに腰かけて、恥を打ちあけて慰めあった。

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そこで二人は李の木の根つこに腰かけて恥をうちあけて慰めあつた。

そうして別れるときにお国さんが

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さうして別れるときにお国さんが

「あたしどうしても行かないから、あなたも行くのはおよしなさいね」

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「あたしどうしても行かないからあなたも行くのおよしなさいね」

といったので、私は堅く約束して帰った。

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といつたので私は堅く約束して帰つた。

三十三

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三十三

いよいよという日になったが、私は朝から

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いよいよといふ日になつたが私は朝から

「お国さんが行かなければ行かない」

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「お国さんがいかなければいかない」

を繰り返して、どうやら一日が暮れた。

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をくりかへしてどうやら一日がくれた。

その晩、私は寝間の隠れ家から無理やりに茶の間の白洲へ引きたてられて、おどしたりすかしたりして勧められたけれど、心を決めてがんばっていたら、兄がいきなり襟くびをつかまえ、妙なことをしてさんざん畳へ叩きつけたあげく、続けざまに頬を打った。

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その晩私は寐間のかくれ家から無理やりに茶の間の白洲しらすへひきたてられておどしつすかしつすすめられたけれど心をきめてがんばつてたら兄がいきなり衿くびをつかまへ妙なことをしてさんざ畳へたたきつけたあげく続けざまに頬ぺたを打つた。

伯母さんは

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伯母さんは

「この弱い子をどうするんだ、どうするんだ」

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「この弱い子をどうせるだ どうせるだ」

といって

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といつて

「私がよく言ってきかせるから」

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「私がよういつてきかせるで」

とかばいながら、寝間へ連れて逃げた。

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とかばひながら寐間へつれて逃げた。

兄は高等中学で柔術をやっていた。

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兄は高等中学で柔術をやつてゐた。

明くる日は頬を腫らして食事もせずにじっと寝間に引っこんでいたら、伯母さんは心配して、仏様のお供物をこっそり私に食べさせた。

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明る日は頬をはらして食事もせずにじつと寐間にひつこんでたら伯母さんは心配して仏様のお供物をこつそり私にたべさせた。

そうしたら、その日から急にひどく熱が出て、ただでさえ癇の強い私が夜どおしろくに眠らないのを、伯母さんはお念仏を繰り返しながら、夜の目も寝ずに看病してくれた。

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さうしたらその日から急にひどく熱が出て唯さへ癇の強い私が夜どほしろくに眠らないのを伯母さんはお念仏をくりかへしながら夜の目もねずに看病してくれた。

四、五日そうして寝ているあいだは学校の話も出なかったが、ようやく頭痛も治り、熱も引いて起きると、その晩からまたもや拷問がはじまった。

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四五日さうしてねてるあひだは学校の話もでなかつたが、やうやく頭痛もなほり、熱もひいておきるとその晩からまたもや拷問がはじまつた。

私はすっかり覚悟を決めて、相変らず、お国さんが行かなければ、と言いはったが、どうしてか今度は辛い目にも遭わずに、ただ

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私はすつかり覚悟をきめて相変らず お国さんがいかなければ といひはつたが、どうしてか今度は辛いめにもあはずにただ

「お国さんが行けばきっと行くか」

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「お国さんが行けばきつと行くか」

と言われたので

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といはれたので

「きっと行きます」

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「きつといきます」

と言いきった。

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といひきつた。

翌日、伯母さんは青い顔をしている私をおぶって、学校のひける時分、門の前へ連れだした。

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翌日伯母さんは蒼い顔をしてる私をおぶつて学校のひけるじぶん門のまへへつれだした。

学校までは一町半ぐらいしかない。

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学校までは一町半ぐらゐしかない。

ちゃらん、ちゃらん、と鈴の音が聞こえると、間もなくぞろぞろ生徒が帰ってくる。

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ちやらん ちやらん と鈴の音がきこえると間もなくぞろぞろ生徒が帰つてくる。

そうしたら、意外にもお国さんが同じように包みを抱えて元気よく帰ってきて、伯母さんに、えらい、えらい、と言われたものだから得意になって、学校の話をして聞かせた。

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さうしたら意外にもお国さんがおなじやうに包みをかかへて元気よく帰つてきて伯母さんに えらい えらい といはれたもので得意になつて学校の話をしてきかせた。

私は背中にいて、お国さんはひどい、と思った。

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私は背中にゐて お国さんはひどい と思つた。

その晩、私はしかたなしに学校へ行くことを承知した。

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その晩私はしかたなしに学校へゆくことを承知した。

明くる朝、私は羽織袴で父といっしょに学校の門を入った。

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あくる朝私は羽織袴で父といつしよに学校の門をはひつた。

そして先生たちのいる部屋へ連れてゆかれたが、そこにはガラス障子のはまった戸棚のなかに地球儀や、鳥や魚の標本や、珍しい獣の掛け図や、心を引くものがたくさんあった。――

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そして先生たちのゐる部屋へつれてゆかれたが、そこには硝子障子のはまつた戸棚のなかに地球儀や、鳥や魚の標本や、珍しい獣の掛け図や、心をひくものが沢山あつた。――

これらはみな後になって覚えた名である。――

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これらはみな後におぼえた名である。――

父が私の脳の悪いこと、体が弱くて臆病なことなどこまごまと話すのが、恥ずかしくてならない。

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父が私の脳のわるいこと、体が弱くて臆病なことなどこまごまと話すのが恥しくてならない。

それを聞いて人の顔をじろじろ見ながらうなずいていた先生は、もの柔らかに

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それをきいて人の顔をじろじろ見ながらうなづいてた先生はものやはらか

「あなたの年はいくつ」

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「あなたの年はいくつ」

「あなたの名は」

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「あなたの名は」

「お父様のお名は」

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「お父様のお名は」

「お家は」

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「お家は」

と、いろいろなことを尋ねた。

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といろいろなことを尋ねた。

そんなことは前から家で教わってあるし、先生が案外やさしいのに安心して、どうやら無事に返事ができた。

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そんなことは前から家で教はつてあるし、先生の案外やさしいのに安心してどうやら無事に返事ができた。

先生は脳が悪いと聞いて馬鹿とでも思ったのか、さまざまなことを聞きためしたのち

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先生は脳が悪いときいてばかとでも思つたのかさまざまなことをききためしたのち

「これなら結構です」

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「これなら結構です」

といって入学を許してくれた。

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といつて入学を許してくれた。

その日はそれなり帰って、姉たちに学校でのお行儀や、お辞儀のしかたや、鞄の尾錠のかけかたなどを教わって暮らした。

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その日はそれなり帰つて姉たちに学校でのお行儀や、お辞儀のしかたや、鞄のびぢやうのかけかたなど教はつて暮した。

そして次の日には、桜の花の徽章のついた帽子をかぶり、持ちつけない鞄を斜めにかけて、なんともいえない混乱した気もちをしながら、伯母さんに手を引かれて学校へ行った。

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そして次の日には桜の花の徽章のついた帽子をかぶり、持ちつけぬ鞄をはすにかけてなんともいへない混乱した気もちをしながら伯母さんに手をひかれて学校へいつた。

この不慣れな様子を人に見られるのが恥ずかしいのと、まだ知らない学校生活の心配とに小さな胸を痛めて、自分の爪先ばかり見ながらそろそろとついてゆく。

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この不慣れな様子を人に見られるのが恥しいのとまだ知らぬ学校生活の心配とに小さな胸を痛めて自分の爪先ばかり見ながらそろそろとついてゆく。

姉たちは私を教場へ連れていって、いちばん前の机へ腰かけさせた。

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姉たちは私を教場へつれていつていちばん前の机へ腰かけさせた。

それは尋常一年の乙の級で、同じ一年のうちでも年の遅い者や頭の悪い者を入れるところだった。

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それは尋常一年の乙の級で、おなじ一年のうちでも年弱な者や頭の悪い者をいれるところだつた。

三十四

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三十四

先に上がった子供たちはもう学校に慣れているし、それに私みたいな弱虫はひとりもいないので、我がもの顔にわいわい騒いでいる。

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さきにあがつた子供たちはもう学校になれてるし、それに私みたいな弱虫はひとりもゐないのでわがもの顔にわいわい騒いでゐる。

そうこうするうちに、いつも聞き慣れている鈴が、ちゃらんちゃらん、と鳴った。

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さうかうするうちにいつもききなれてる鈴が ちやらんちやらん と鳴つた。

そばで聞くと、きんきん耳の底まで響いて嫌でならない。

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そばできくときんきん耳の底まで響いていやでならない。

姉たちは、またこの次の遊び時間に来るから、といって、伯母さんは、お稽古のすむまでちゃんと戸の外に番をしている、という約束で出ていった。

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姉たちは またこの次の遊び時間にくるから といつて、伯母さんは お稽古のすむまでちやんと戸のそとに番をしてゐる といふ約束で出ていつた。

それで、ひとりぼっちになってこわごわ見まわしてみたら、強そうな意地の悪そうな奴ばかりが、向こうでも変な顔をしてじろじろ見ている。

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で、ひとりぼつちになつてこはごは見まはしてみたら強さうな意地のわるさうな奴ばかりがむかうでも変な顔をしてじろじろ見てゐる。

私は小さくなって、机に空いている節穴ばかりをのぞいていた。

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私は小さくなつて机にあいてる節穴ばかりのぞいてゐた。

そこへ入ってきたのは、古沢先生という受け持ちの先生だった。

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そこへはひつてきたのは古沢先生といふ受持ちの先生だつた。

この人は顔一面のあばたのためにちょっと見は怖いけれど、本当は評判のやさしい先生で、学校じゅうの生徒が、古沢先生、古沢先生、といってなついていた。

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この人は顔いちめんのあばたのためにちよつと見は怖いけれどほんたうは評判のやさしい先生で学校ぢゆうの生徒が 古沢先生 古沢先生 といつてなついてゐた。

本は伯母さんに教わった、ちん、わん、ねこにゃあ、ちゅう、の絵草紙や、いぬ、はし、ほん、つくえ、の絵本とは違っていたが、やさしかったので、そちらはろくに見ずに、先生の白髪まじりの髪の毛がばらばら風に吹かれるのばかりを眺めていた。

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本は伯母さんに教はつた ちん わん ねこにやあ ちう の絵草紙や、いぬ はし ほん つくゑ の絵本とはちがつてたが、やさしかつたのでそのはうはろくに見ずに先生の白髪まじりの髪の毛がばらばら風にふかれるのばかり眺めてゐた。

やがてお稽古がすんだ。

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やがてお稽古がすんだ。

まわりの教場から雪崩れ出た腕白どもが、運動場いっぱいの藤棚の下で蛙とびをする、鬼ごっこをする、大将ごっこをする。

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まはりの教場から雪崩なだれでた腕白どもが運動場いつぱいの藤棚のしたで蛙とびをする、鬼ごつこをする、大将ごつこをする。

今までお国さんのところの小さな世界にばかりいた世間知らずの私にはたまらないほど目まぐるしいので、きょときょとして立っていたら、姉の友達は、これが話に聞いていた弟か、というようにばらばらと寄ってきて、たちまち人を取り巻いてしまった。

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今までお国さんのとこの小さな世界にばかりゐた世間みずの私にはたまらないほど眼まぐるしいのできよときよとして立つてたら姉のお友達は これが話にきいてた弟か といふやうにばらばらとよつてきて忽ち人をとりまいてしまつた。

そうしてませたお愛想を浴びせかけておいて、お決まりの、年はいくつ、だの、名は何というの、と四方八方から質問の矢を放つ。

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さうしてませくれたお愛想をあびせかけておきまりの 年はいくつ だの、名はなんといふの と四方八方から質問の矢をはなつ。

あわれな臆病者は、雌豹の群れに襲われた驢馬のようにおどおどして、顔も上げずに縦横に首をふるばかりだった。

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あはれな臆病者は雌豹めへうの群に襲はれた驢馬のやうにおどおどして顔もあげずに縦横に首をふるばかりだつた。

そこへ運悪くひとりの先生が来て、いきなり私の帯をつかまえ、やっ、と掛け声をして宙にさし上げたものだから、朝から目の奥にいっぱい溜まっていた涙が一時にあふれだして、両足をぶらぶらさせながらわっと泣きだした。

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そこへ運わるくひとりの先生がきていきなり私の帯をつかまへ やつ と掛声をして宙にさしあげたもので朝から眼の奥にいつぱい溜つてた涙が一時にあふれだして両足をぶらぶらさせながらわつと泣きだした。

先生は肝をつぶして

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先生は胆をつぶして

「こりゃ大変。こりゃあやまった」

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「こりや大変。こりやあやまつた」

と言いながら地べたへ下ろして、ハンカチで涙を拭いてくれた。

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といひながら地べたへおろして手巾で涙をふいてくれた。

あとで姉に聞けば、それは姉のほうの受け持ちの先生で、私を可愛がってくれたのだという。

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あとで姉にきけばそれは姉のはうの受持ちの先生で、私を可愛がつてくれたのだといふ。

そうして、これからあんなことをされても泣いちゃいけない、と言われたのでようやく訳がわかって、今度こそは泣くまい、と思っていたけれど、相手はこりごりしたとみえて、その後ちっとも私をさし上げなかった。

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さうして これからあんなことをされても泣いちやいけない といはれたのでやうやく訳がわかつて 今度こそは泣くまい と思つてたけれどさきはこりごりしたとみえてその後ちつとも私をさしあげなかつた。

その次の習字の時の騒ぎは、また格別であった。

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その次の習字の時の騒ぎはまた格別であつた。

墨壺をひっくり返して泣く奴がある。

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墨壺をひつくらかへして泣く奴がある。

草紙に団子ばかり書いて叱られる奴がある。

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草紙に団子ばかり書いて叱られる奴がある。

そのなかを古沢先生は、世間に面倒ということがあるのを忘れたかのように何から何まで世話をして、腰を叩きながらひとりひとり手を取って習わせて歩く。

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そのなかを古沢先生は世間に面倒といふことがあるのを忘れたかのやうになにからなにまで世話をして腰をたたきながらひとりびとり手をとつて習はせてあるく。

筆を持つ手の上を白墨だらけの手でつかまれると、体がすくんで筆の先がぶるぶる震えるものだから、先生は幾度もいろはを書き直さなければならなかった。

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筆をもつ手のうへを白墨だらけの手でつかまれると体がすくんで筆の先がぶるぶるふるへるもので先生はいくたびもいろはを書きなほさなければならなかつた。

あまり激しい刺戟や慣れない仕事などのために頭痛がして胸が悪くなり、その日はそれで家へ帰った。

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あんまり烈しい刺戟や慣れない仕事などのために頭痛がして胸がわるくなりその日はそれで家へ帰つた。

伯母さんは水で頭を冷やしてくれて

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伯母さんは水で頭を冷してくれて

「えらかった、えらかった」

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「えらかつた えらかつた」

と木枕の引き出しから肉桂棒を出してくれたし、姉は御褒美に南京玉の守袋をこしらえてくれたので、頭痛もすぐによくなってしまった。

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と木枕の抽匣から肉桂棒を出してくれたし、姉は御褒美に南京玉の守袋をこしらへてくれたゆゑ頭痛もぢきによくなつてしまつた。

私は家じゅうの者に、えらい、えらい、とほめられた。

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私は家ぢゆうの者に えらい えらい と褒められた。

学校のひけるころを見はからってお国さんのところへ遊びに行ったら、やっぱりみんなして、えらい、えらい、といったので、自分でもえらくなったと思って得意だった。

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学校のひけるころをみてお国さんのところへ遊びにいつたらやつぱりみんなして えらい えらい といつたので自分でもえらくなつたと思つて得意だつた。

三十五

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三十五

幾日か後には、学校の門まで送り迎えしてもらえば、あとは自分ひとりでいられるようになった。

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幾日か後には学校の門まで送り迎へしてもらへばあとは自分ひとりでゐられるやうになつた。

伯母さんは私の好きな駄菓子を蛤の貝殻へ入れ、赤い紙で封じておいて、学校から帰って鞄を放りだすとお仏壇の引き出しから出してくれる。

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伯母さんは私の好きな駄菓子を蛤の貝殻へいれ赤い紙で封じておいて学校から帰つて鞄をはふりだすとお仏壇の抽匣から出してくれる。

それをあれかこれかと迷いながら選りどるのが楽しみであった。

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それをあれかこれかとまよひながらよりどるのが楽しみであつた。

そのうち、私は甲の組へ移されることになった。

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そのうち私は甲の組へうつされることになつた。

みんなは乙の組から昇進してきた新参者を取り巻いてひそひそ評しあっていたが、やがてひとりの奴が、兄の書いてくれた鞄のドイツ文字を見て

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みんなは乙の組から昇進してきた新参者をとりまいてひそひそ評しあつてたがやがてひとりの奴が兄の書いてくれた鞄の独逸字をみて

「やあ、英語が書いてあら」

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「やあ、英語が書いてあら」

といって寄ってきた。

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といつてよつてきた。

ほかの奴らも、やあ、やあ、といって顔を突きだす。

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ほかの奴らも やあ やあ といつて顔をつきだす。

そして、何と書いてあるのだ、というので、家で教わったとおり、自分の名だ、といったら羨ましそうに見ていたが、ひとりが

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そして なんと書いてあるのだ といふから家で教はつたとほり 自分の名だ といつたら羨しさうに見てたがひとりが

「えくしょ。日本人のくせに西洋人の名なんか書いてやがら」

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「えくしよ。日本人のくせに毛唐人の名なんか書いてやがら」

といった。

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といつた。

またひとりの奴が守袋と鈴を見つけて、汚い手でいじくりはじめた。

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またひとりの奴が守袋と鈴を見つけて穢い手でいぢくりはじめた。

私は嫌でしかたがなかったけれど、怖いのでするがままにさせておいた。

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私はいやでしやうがなかつたけれど怖いのでするがままにさせておいた。

守袋は水色と白の南京玉で弁慶縞に編んであり、鈴には鈴虫の模様があって、紫の緒のもう一方の端には小さなガラスの瓢箪をつけていた。

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守袋は水色と白の南京玉で弁慶にして、鈴には鈴虫の模様があり、紫の緒の他の端には小さな硝子の瓢箪をつけてゐた。

その奴が、鈴なんぞ下げてどうするのだ、と聞いたので、私が、迷子になったとき音を聞いて伯母さんが捜しに来るためだ、といったら、彼らはさも軽蔑したふうに顔を見合わせた。

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いつが 鈴なんぞさげてどうするのだ ときいたから私は、迷子になつたとき音をきいて伯母さんが捜しにくるためだ といつたら彼らはさも軽蔑したらしく顔を見合せた。

そのうち、彼らがあまり守袋をいじくったので、弱いかたん糸が切れて南京玉がばらばらと落ちてしまった。

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そのうち彼らがあんまり守袋をいぢくつたもので弱いかたん糸がきれて南京玉がばらばらと落ちてしまつた。

私はぐすぐすべそをかきだした。

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私はぐすぐすべそをかきだした。

彼らは、とんだことをした、という顔つきで、てんでにすばやく身を引いて

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彼らは とんだことをした といふ顔つきでてんでにすばやく身をひいて

「おいらのせいじゃなーいと、三年烏のせーいだ」

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「おいらのせゐぢやなーいと 三年烏のせーゐだ」

と言い言い、遠くから心配そうに様子を見ている。

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といひいひ遠方から心配さうに様子をみてゐる。

私はどうしようかと思ったが、誰も来てくれないし、泣くにも泣けず、散らばっている南京玉を見つめてしくしくしているところへ、折よく姉が来たので、一時に悲しさがこみあげてわっと手ばなしに泣きだした。

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私はどうしようかと思つたが誰もきてくれないし、泣くにも泣かれず散らばつてる南京玉を見つめてしくしくしてるところへ折よく姉がきたので一時に悲しさがこみあげてわつと手ばなしに泣きだした。

彼らは姉に叱られるのが怖いので

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彼らは姉に叱られるのが怖いもので

「泣き虫毛虫、はさんで捨てろ」

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「泣虫毛虫、はさんですてろ」

と足拍子にあわせて囃したてながら、どこかへ姿を隠してしまった。

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と足拍子にあはせて囃したてながらどこかへ影をかくしてしまつた。

姉は、また編んであげるから、といって、もう家へ帰る、とだだをこねるのをやっとなだめ、涙を拭いたり鼻をかんだりしてくれるうちに鈴が鳴ったので、またこの次の遊び時間に来るから、といって出ていった。

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姉は また編んであげるから といつて、もう家へ帰る とだだを捏るのをやつとなだめて涙をふいたり鼻をかんだりしてくれるうちに鈴が鳴つたので またこの次の遊び時間にくるから といつて出ていつた。

部屋の外からこっそり事の始末を見ていた悪者どもは、姉がいなくなると同時にどやどやと入ってきて

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部屋のそとからこつそり事の始末を見てた悪者どもは姉がゐなくなると同時にどやどやとはひつてきて

「今泣いた烏がもう笑ったい」

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「今ないた烏がもう笑つたい」

と言い言い、私のまわりを踊りまわった。

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といひいひ私のまはりを踊りまはつた。

今度の組の受け持ちは、溝口先生という髭のある人だった。

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今度の組の受持ちは溝口先生といふ髭のある人だつた。

古沢先生同様、子供の世話をするために生まれてきたのかと思うくらいいい人で、ことにおとなしい私に目をかけてよくしてくれた。

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古沢先生同様子供の世話をするために生れてきたかと思ふくらゐいい人で、ことにおとなしい私に目をかけてよくしてくれた。

ひとつ机に並んでいるのは岩橋という瓦屋の息子で、いじめっ子で通っていた。

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ひとつ机に並んでるのは岩橋といふ瓦屋の息子でいぢめつ子の通りものだつた。

その奴は机の真ん中へ鉛筆で筋を引いて、こちらの肘が少しでも向こうの領分へはみ出せば、すぐに肘鉄砲をくれたり、鼻くそをなすったりする。

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そ奴は机のまんなかへ鉛筆ですぢをひいてこちらの肱がちつとでもむかふの領分へはみだせばすぐに肱鉄砲をくれたり、鼻糞をなすつたりする。

その奴がお稽古の最中に何か話しかけたので、嫌だったけれどいいかげんにあしらっていたら、先生が見つけて、黒板に二人の苗字を書き並べ、頭へ大きな黒玉をつけた。

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そ奴がお稽古の最中になにか話しかけたからいやだつたけれどいいかげんにあしらつてたら先生が見つけ黒板に二人の苗字を書きならべて頭へ大きな黒玉をつけた。

岩橋はそれを見るやいなや石盤の上へつっぷして泣きだしたが、私は何のことかわからずにきょとんとして先生の顔を見ていた。

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岩橋はそれを見るやいなや石盤のうへへつつぷして泣きだしたが私はなんのことかわからずにきよとんとして先生の顔を見てゐた。

お稽古がすんだときに姉が来て、笑いながら、お稽古中に話をしただろう、という。

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お稽古がすんだときに姉がきて笑ひながら お稽古中に話をしたらう といふ。

誰がもう言いつけたのかしら、と思ったが、なんだか悪いことをしたような気がして、話なんぞしやしない、といったら、姉は、そんなに隠したって黒板に黒玉をつけられている、という。

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誰がもういつけたのかしら と思つたがなんだか悪いことをしたやうな気がして 話なんぞしやしない といつたら姉は そんなにかくしたつて黒板に黒玉をつけられてる といふ。

黒玉は悪いことをしたときにつけられるのだとわかって、急に悲しくなった。

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黒玉は悪いことをしたときつけられるのだとわかつて急に悲しくなつた。

三十六

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三十六

岩橋の本は赤鉛筆でめちゃめちゃに塗ってある。

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岩橋の本は赤鉛筆でめちやめちやに塗つてある。

火事場からお巡りさんが迷子の手を引いてくる挿絵の、泣いている子の頭から無茶苦茶に後光がさして、お巡りさんの目玉がはちきれそうに大きくなっていた。

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火事場からお巡りさんが迷子の手をひいてくる挿絵の泣いてる子の頭から無茶苦茶に後光がさしてお巡りさんの眼玉がはちきれさうに大きくなつてゐた。

彼は石盤に一つ目小僧や三つ目小僧の顔を描いて

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彼は石盤に一つ目小僧や三つ目小僧の顔をかいて

「やい、やい」

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「やい やい」

といってみせる。

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といつてみせる。

こちらはこのあいだの黒玉に懲りているので知らん顔をしていれば、机の蔭で拳骨をびくびくやっては、目をむいて横目に睨む。

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こちらはこなひだの黒玉に懲りてるゆゑ知らん顔してゐれば机の蔭で拳骨をびくびくやつては眼をむいて横目に睨む。

そうしてお稽古がすんで先生がいなくなると、はあはあ拳固へ息を吹きかけてかかってくるので、私は廊下へ出て、見つからないようなところへこっそり立っていた。

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さうしてお稽古がすんで先生がゐなくなるとはあはあ拳固へ息をふつかけてかかつてくるので私は廊下へ出て見つからないやうなところへこつそり立つてゐた。

そうしたら、やはり同じ級の古参の者で、赤っ面の汚い子が

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さうしたらやつぱり同じ級の古参の者で赤つ面の穢い子が

「いいものをやろう」

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「いいものやらう」

と何か握ってきて、人に手を出せという。

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となにか握つてきて人に手を出せといふ。

だまされるのだと思ったが、怖いので素直に手を出したら、赤い木の実を二つ三つ手のひらへのせてくれた。

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騙されるのだと思つたが怖いから素直に手を出したら赤い木の実を二つ三つ手のひらへのせてくれた。

そんなものは欲しくなかったけれど、親切にしてくれるのが嬉しくて

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そんなものはほしくなかつたけれど親切にしてくれるのが嬉しくて

「ありがとう」

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「ありがたう」

といってにっこりした。

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といつてにつこりした。

それが裏にある美男葛の実だったということを知ったのは、その後五、六年たってからのことである。

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それは裏にある美男葛びなんかづらの実だつたといふことを知つたのはその後五六年たつてからのことである。

彼は赤っ面のために猿面冠者とあだ名され、また長平という名によって、ちょっぺい、とも呼ばれている、伝法院前の魚屋の息子だった。

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彼は赤つ面のために猿面冠者と渾名あだなされ、また長平といふ名によつて ちよつぺい とも呼ばれてる伝法院でんぽふゐん前の魚屋の息子だつた。

それ以来、ちょっぺいはただひとりの知り合いになったが、こちらではなるべくならちょっぺいとも口をききたくなかったのに、向こうはどこを見こんでか、しきりに私に話しかけてきた。

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それ以来ちよつぺいはただひとりのちかづきになつたが、こちらではなるべくならちよつぺいとも口をききたくなかつたのだけれど、さきではどこを見こんでかしきりに私に話しかけてきた。

ある日のこと、ちょっぺいは

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ある日のことちよつぺいは

「今度のお稽古のときいっしょに小便に行こう」

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「こんだのお稽古のときいつしよにしよんべんにいかう」

といった。

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といつた。

「先生に叱られるから嫌だ」

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「先生に叱られるからいやだ」

といったら

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といつたら

「嫌ならよしやがれ、よしべのこんなれ」

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「いやならよしやがれよしべのこんなれ」

といって怖い顔をしたので、私はあわてて

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といつて怖い顔をしたので私はあわてて

「行くよ、行くよ」

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「いくよ いくよ」

といった。

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といつた。

彼はすぐ機嫌を直して

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彼はすぐ機嫌をなほして

「おれの真似をすりゃ大丈夫だ」

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「あたいのまねすりや大丈夫だ」

という。

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といふ。

お稽古がはじまると間もなく、彼は手を上げて

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お稽古がはじまると間もなく彼は手をあげて

「先生、お小用にやってください」

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「先生、お小用にやつてください」

といった。

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といつた。

先生は

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先生は

「本当にしたいのかい。嘘をつくとちゃんとわかるよ」

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「ほんたうにしたいのかい。嘘つくとちやんとわかるよ」

という。

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といふ。

少しもひるまず

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すこしもひるまず

「本当に出たいんです」

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「ほんとに出たいんです」

という。

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といふ。

先生も、漏らされては、という気があるので

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先生も 漏らされては といふ気があるので

「それなら行っておいで。すんだらすぐ帰ってくるんだよ。道草を食うと黒玉だよ」

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「そんならいつといで。すんだらすぐ帰つてくるんだよ。道くさすると黒玉だよ」

といった。

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といつた。

ほかの者もてんでに、先生、先生、と手を上げて、五、六人いっしょに便所へ行かせてもらった。

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ほかの者もてんでに 先生、先生 と手をあげて五六人いつしよに便所へ行かしてもらつた。

ちょっぺいはどやどやと出て行きながら、ちょっとこちらを見たので、はっと気がついて、おそるおそる

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ちよつぺいはどやどやと出て行きながらちよつとこちらを見たのではつと気がついて、おそるおそる

「先生」

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「先生」

と見よう見まねに手を上げて

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と見やう見まねに手をあげて

「お小用に行かせてください」

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「お小用にいかしてください」

といった。

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といつた。

先生は、私がちょっぺいに入れ知恵されているとは知らず、すぐに許してくれた。

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先生は私がちよつぺいに入智慧されてるとは知らずすぐに許してくれた。

便所は教場から離れたところにあって、ちょうど隣の八幡様の笹藪の下になっている。

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便所は教場からはなれたところにあつてちやうど隣の八幡様の笹藪のしたになつてゐる。

ちょっぺいはそこに待ちかまえていて

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ちよつぺいはそこに待ちかまへてゐて

「相撲をとろう」

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「相撲とらう」

という。

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といふ。

見れば、ほかの奴らは廊下の手すりを乗りこえて崖の甘根を掘ったり、へな土の団子をこしらえてぶつけあったりしている。

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見ればほかの奴らは廊下の手すりをのりこえて崖の甘根を掘つたり、へな土の団子をこしらへてぶつけあつたりしてゐる。

彼らは小用にかこつけて、ちょっと息抜きに来るのだった。

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彼らは小用にかこつけてちよつと息ぬきにくるのだつた。

ちょっぺいが

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ちよつぺいが

「とろう、とろう」

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「とらう とらう」

とせきたてるので、今日が今日まで伯母さん相手に四王天清正の立ち回りのほかやったことのない私は、はたと当惑したが、のっぴきならず

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とせきたてるので今日が今日まで伯母さん相手に四王天清正の立廻りのほかやつたことのない私ははたと当惑したがのつぴきならず

「危ないからそっとだよ」

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「あぶないからそうつとだよ」

と弱いことを言いながら、いいかげんに取り組んだ。

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と弱いことをいひながらいいかげんに取組んだ。

力のあるちょっぺいは

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力のあるちよつぺいは

「はっけよい、はっけよい」

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「はつけよい はつけよい」

と景気よく掛け声をしながらくるくる人を引き回したため、むざんやさすがの清正もたちまち袴の裾を踏んで尻餅をついてしまった。

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と景気よく掛声をしながらくるくる人をひき廻したためむざんやさすがの清正も忽ち袴の裾をふんで尻餅をついてしまつた。

彼は鼻高々と

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彼は鼻たかだかと

「弱えな。また今度とろう」

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「弱えな。またこんだとらう」

と先に立って帰ってゆく。

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と先にたつて帰つてゆく。

私もねじくれた着物を直して、後についていった。

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私もねぢくれた著物をなほして後についていつた。

教場へ入るやいなや、彼は何食わぬ顔で

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教場へはひるやいなや彼はなにくはぬ顔で

「先生、ただいま」

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「先生ただいま」

と、ひょっこり頭を下げた。

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とひよつこり頭をさげた。

私も黙って頭を下げた。

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私も黙つて頭をさげた。

ほかの奴もぞろぞろ帰ってきたが、甘根を掘っていた奴は、あまりいつまでもかじっていたものだから先生に立たされ、おまけに懐からはみ出している甘根を見つかって大目玉を食った。

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ほかの奴もぞろぞろ帰つてきたが、甘根を掘つてた奴はあんまりいつまでもかじつてたもので先生に立たされ、おまけに懐からはみだしてる甘根をみつかつて大眼玉をくつた。

私はもう二度と便所へは行くまいと思った。

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私はもう二度と便所へは行くまいと思つた。

三十七

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三十七

学課のうちでいちばんみんなの喜ぶのは修身だった。

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学課のうちでいちばんみんなの喜ぶのは修身だつた。

それは綺麗な掛け図を掛けて先生が面白い話を聞かせるからで、その絵には、弾丸に当たった親熊が、蟹をあさっている子熊を押しつぶさないように、持ち上げた石を抱えたまま死んでいるところや、大将が頬杖をついて蜘蛛が巣をかけるのを見ているところなどがあった。

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それは綺麗な掛け図をかけて先生が面白い話をきかせるからで、その絵には弾丸たまにあたつた親熊が蟹をあさつてる子熊をひしがないやうにもちあげた石をかかへたまま死んでるところ、大将が頬杖をついて蜘蛛が巣をかけるのを見てるところなどあつた。

生徒らは美しい絵に見とれ、お話に聞きほれて、もうひとつ、もうひとつ、とねだる。

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生徒らは美しい絵にみとれ、お話にききほれて もうひとつ、もうひとつ とねだる。

先生は

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先生は

「みんながお行儀よくさえすれば、いくらでも話してあげる」

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「みんながお行儀よくさへすればいくらでも話してあげる」

といって、一枚一枚めくっては話してゆく。

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といつて一枚一枚めくつては話してゆく。

そんなふうにして、いつも大抵一冊の掛け図をすっかり話してしまったが、不思議なことに、いちばんはじめにある、外国の女が子供を抱いて雪のなかに倒れている絵を、きまって飛ばしてしまう。

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そんなにしていつも大抵一冊の掛け図をすつかり話してしまつたが、不思議なことにはいちばんはじめにある異人の女が子供を抱いて雪のなかに倒れてる絵をきまつてとばしてしまふ。

生徒らもそれを見ながら、ちっともせがまない。

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生徒らもそれを見ながらちつともせびらない。

私はまた、なかでもその絵が気に入って、もうか、もうか、と待っていたけれど、ついぞ話してもらえなかった。

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私はまたなかでもその絵が気にいつて もうか もうか と待つてたけれどつひぞ話してもらへなかつた。

鈴が鳴ると、みんなはわいわいと先生の椅子を押し取り巻いて、膝に乗ったり、肩へつかまったりして、もう一遍、もう一遍、と同じ話を繰り返させる。

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鈴が鳴るとみんなはわいわいと先生の椅子をおつとりまいて、膝にのつたり、肩へつかまつたりして もういつぺん、もういつぺん とおんなじ話をくりかへさせる。

私は彼らのように大胆にはできずに、少し離れてぼんやりと絵を眺めていた。

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私は彼らのやうに大胆にはし得ずにすこしはなれてぼんやりと絵を眺めてゐた。

先生はこちらを向いて

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先生はこちらを向いて

「□□さんにもひとつしてあげようか。□□さんはどれがいい」

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「□□さんにもひとつしてあげようか。□□さんはどれがいい」

といったが、顔を赤くしているので

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といつたが顔を赤くしてるので

「言ってごらん、言ってごらん」

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「いつてごらん、いつてごらん」

と促した。

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と促した。

私は決死の思いで

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私は一生の思ひで

「これ」

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「これ」

と口ごもりながら、例の絵を指さした。

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と口ごもりながられいの絵を指さした。

みんなは不平らしく

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みんなは不平らしく

「つまんないや、つまんないや」

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「つまんないや、つまんないや」

という。

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といふ。

先生も

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先生も

「これは面白くないよ。いいかい」

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「これは面白かないよ。いいかい」

と念を押した。

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と念を押した。

私は黙ってうなずいた。

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私は黙つてうなづいた。

先生は私がまだそれを知らないのに気がつき、つまらながるみんなを説得して、新参者のためにその話をしてくれた。

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先生は私がまだそれを知らないのに気がつき、つまらながる皆を説得して新参者しんざんもののためにその話をしてくれた。

それは、雪のなかで路に迷った母親が、自分の着物を脱いでは脱いでは子供に着せて、とうとう凍え死にをしたという話であった。

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それは雪のなかで路に迷つた母親が自分の著物をぬいではぬいでは子供に著せてたうとう凍え死にをしたといふ話であつた。

絵も子供の目を喜ばすような彩色がしてなかったし、話もただそれだけのことなので、彼らはちっとも興がらず、先生も飛ばしていたのだが、私にはそれで充分に面白かった。

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絵も子供の目をよろこばすやうな彩色がしてなかつたし、話もただそれだけのことなので彼らはちつとも興がらず、先生もとばしてたのだが、私にはそれで充分に面白かつた。

私は、伯母さんに常磐御前の話を聞くときのように、あわれに聞いた。

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私は伯母さんに常磐御前の話をきくときのやうにあはれにきいた。

話し終わって先生が

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話しをはつて先生が

「面白くないだろう」

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「面白かないだらう」

といったので正直に首をふったら、先生は意外な顔をし、みんなは軽蔑してくすくす笑った。

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といつたので正直に首をふつたら先生は意外な顔をし、みんなは軽蔑してくすくす笑つた。

三十八

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三十八

私はその時分から、人目を離れてひとりぼっちになりたい気もちになることがよくあって、机の下だの、戸棚のなかだの、所かまわず隠れた。

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私はそのじぶんから人目をはなれてひとりぼつちになりたい気もちになることがよくあつて机のしただの、戸棚のなかだの、処かまはず隠れた。

そんなところに引っこんでいろいろなことを考えているあいだ、言いしれぬ安穏と満足をおぼえるのであった。

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そんなところにひつこんでいろいろなことを考へてるあひだいひしらぬ安穏と満足をおぼえるのであつた。

それらの隠れ家のうちでいちばん気に入ったのは、小引き出しの箪笥の横手であった。

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それらの隠れがのうちでいちばん気にいつたのは小抽匣の箪笥の横てであつた。

それは蔵のそばにある北向きの窓からさしこむ明かりにだけ照らされる、最も陰気な部屋であったが、その窓と箪笥のあいだに、ちょうど膝を立てたなりにすぽんとはまりこむほどの余地があった。

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それは蔵のそばにある北むきの窓からさしこむ明りにだけ照される最も陰気な部屋であつたが、その窓と箪笥のあひだにちやうど膝を立てたなりにすぽんとはまりこむほどの余地があつた。

私はそこに屈んで、窓ガラスについた放射状のひびや、すぐそばにある榧の木や、朽木にからんだ美男葛、美男葛の赤い蔓、蔓の先で汁を吸う油虫などを眺めていた。

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私はそこに屈んで窓硝子についた放射状のひびや、ぢきそばにあるかやの木や、朽木にからんだ美男葛、美男葛の赤い蔓、蔓のさきに汁をすふ油虫などを眺めてゐた。

そうして、半日でも一日でもひとりでぼそぼそ何か言いながら、いつとはなしに鉛筆でひとつふたつずつ箪笥に平仮名の「を」

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さうして半日でも一日でもひとりでぼそぼそなにかいひながらいつとはなしに鉛筆でひとつふたつづつ箪笥に平仮名の「を」

の字を書く癖がついたのが、しまいには大きいのや小さいのや、無数の「を」

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の字を書く癖がついたのが、しまひには大きいのや小さいのや無数の「を」

の字が行列をつくった。

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の字が行列をつくつた。

そのうち、私があまりそこへばかり入るのを父が怪しんで、その隅をのぞいたため、たちまち例の行列を見つかったが、父はただ手持ちぶさたの落書きだと思って、手習いをするならお草紙へしなければいけない、といったばかりで、ひどくは叱らなかった。

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そのうち私があんまりそこへばかりはひるのを父が怪んでその隅をのぞいたため忽ちくだんの行列を見つかつたが、父はただ手もちぶさたの落書だと思つて 手習ひするならお草紙へしなければいけない といつたばかりでひどくは叱らなかつた。

しかし、それは決してただの落書きではなかったのである。

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併しそれはゆめさらただの落書ではなかつたのである。

平仮名の「を」

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平仮名の「を」

の字は、どこか女の坐った形に似ている。

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の字はどこか女の坐つた形に似てゐる。

私は小さな胸に、弱い体に、何ごとかあるときには、それらの「を」

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私は小さな胸に、弱い体に、なにごとかあるときにはそれらの「を」

の字に慰めを求めていたので、彼らはよくこちらの思いを察して、親切に慰めてくれた。

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の字に慰藉を求めてたので、彼らはよくこちらの思ひを察して親切に慰めてくれた。

こちらへ越してからも、私は三日にあげず怖い夢にうなされて、夜なか、家じゅうを逃げまわらなければならなかった。

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こちらへこしてからも私は三日にあげず怖い夢におそはれてよるよなか家ぢゆう逃げまはらなければならなかつた。

そのひとつは、空中に直径一尺ぐらいの黒い渦巻きがかかって、時計のぜんまいみたいに脈を打つ。

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そのひとつは、空中に径一尺ぐらゐの黒い渦巻がかかつて時計のぜんまいみたいに脈をうつ。

それが気味が悪くてならないのを一所懸命こらえていると、やがてどこからか化け鶴が一羽とんできてその渦巻きをくわえる、というので、もうひとつは、暗闇のなかで何か臓腑のようにくちゃくちゃと揉みあっている。

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それが気味がわるくてならないのを一所懸命こらへてるとやがてどこからか化け鶴が一羽とんできてその渦巻をくはへる といふので、もうひとつは、暗闇のなかでなにか臓腑のやうにくちやくちやと揉みあつてゐる。

と、それが女の顔になって、馬鹿みたいに口を開けはなし、目をぱっと開いて長い長い顔をする。

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と、それが女の顔になつて馬鹿みたいに口をあけはなし、目をぱつとあいて長い長い顔をする。

かと思えば、その次には口をつぶって横広くし、目も鼻もくしゃくしゃに縮めて、途方もないぺしゃんこな顔になる。

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かと思へばその次には口をつぶつて横びろくし、目も鼻もくしやくしやに縮めて途方もないぴしやんこな顔になる。

そんなふうにして、人が泣きだすまではいつまでも伸び縮みするのであった。

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そんなにして人が泣きだすまではいつまでも伸び縮みするのであつた。

そのようにうなされてばかりいるのは伯母さんのお伽話のせいだろうという疑いが起こったのと、ひとつにはまた寝間を変えてみたらというので、私は父のそばに寝ることになった。

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そのやうに魘はれてばかりゐるのは伯母さんのお伽話のせゐだらうといふ疑がおこつたのと、ひとつにはまた寐間をかへてみたらといふので私は父のそばに寐ることになつた。

が、毎晩父が話してくれる宮本武蔵や義経弁慶などの武勇譚も何の甲斐もなく、化けものは親父ぐらいは屁とも思わずに、相変らずやってきた。

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が、毎晩父が話してくれる宮本武蔵や義経弁慶なぞの武勇譚もなんのかひもなく、化けものはおやぢぐらゐは屁とも思はずに相変らずやつてきた。

先の寝間には床の間の天井に魔がいたが、今度の部屋では、柱にかかった八角時計が一つ目になり、四本の障子が大きな口になってみせた。

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先の寐間には床の間の天井に魔がゐたが、こんだの部屋では柱にかかつた八角時計が一つ目になり、四本の障子が大きな口になつてみせた。

三十九

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三十九

お医者様のすすめにしたがって、とかく弱りがちであった母と私の健康のために、父は二人を連れてある海岸へ行くことになった。

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お医者様のすすめにしたがつてとかく弱りがちであつた母と私の健康のために父は二人をつれてある海岸へゆくことになつた。

行く路すがら、それまで歌がるたの絵や手本の絵などで見て子供心にあこがれていた自然が、そのまま目の前にあらわれてくるのを見て、私はむしょうに喜んだ。

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行く路すがらそれまで歌がるたの絵や粉本などでみて子供心にあこがれてた自然がそのまま目のまへにあらはれてくるのをみて私はむしやうに喜んだ。

小さな想像の甕には汲みつくすことのできない、不思議な海も見た。

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小さな想像のかめには汲みつくすことのできない不思議な海もみた。

それは藍色に澄んで、そのうえを帆かけ舟の帆が銀のように輝いてゆく。

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それは藍色にすんで、そのうへを帆かけ舟の帆が銀のやうに耀いてゆく。

まっすぐに切り立った崖のあいだを通るときは、堪えがたい淋しさをおぼえて、そこにかつかつに生えている草たちをかわいそうに思う。

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まつすぐにきつたつた崖のあひだをとほるときは堪へがたい淋しさをおぼえて、そこにかつかつに生えてる草たちをかはいさうに思ふ。

龍宮みたいな中国の人のお宮では、中国のお婆さんが敷石のうえへ石ころを落としては何か祈っていた。

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龍宮みたいな南京人のお宮では南京のお婆さんがしきいしのうへへ石ころを落してはなにか祈つてゐた。

そうして、髪を油で塗り分けた人形のような子が、可愛い足をふらふらさせて歩くのを綺麗だと思った。

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さうして髪を油で塗りわけた人形のやうな子が可愛い足をふらふらさせてあるくのを綺麗だとおもつた。

貝細工を売る店には、海の底の宝ものがいっぱいに飾ってある。

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貝細工を売る店には海の底の宝ものがいつぱいに飾つてある。

父は姉たちへのお土産に幾本かの簪と、私にひと包みの酢貝を買ってくれたが、私は、こんな綺麗なものを父はなぜみんな買わないのかしら、と思った。

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父は姉たちへのお土産に幾本かの簪と、私にひと包みの酢貝を買つてくれたが、私は こんな綺麗なものを父はなぜみんな買はないのかしら と思つた。

海岸の松原を人力車に乗ってゆくと、いくら行っても松がある。

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海岸の松原を俥にのつてゆくといくらいつても松がある。

お正月にかける高砂の掛け物にも松があるし、つねづね伯母さんにも松は神木だと聞いていたので、私は松の木が迷信的に好きであった。

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お正月かける高砂の掛物にも松があるし、つねづね伯母さんにも松は神木だときいてたゆゑ私は松の木が迷信的に好きであつた。

しばらくして宿へ着いた。

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暫くして宿へついた。

せっかく静かな松原を楽しんでいたのに、そこには人ががやがやしていたので、もう家へ帰る、といって泣きだしたら、番頭や女中たちがとんできて、古い馴染みかなにかのように、坊ちゃま、坊ちゃま、といってなだめすかした。

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折角静な松原を楽しんでたのにそこには人ががやがやしてたので もう家へ帰る といつて泣きだしたら番頭や女中たちがとんできて旧いお馴染かなぞのやうに 坊ちやま 坊ちやま といつて騙した。

それで安心して、すぐに泣きやんだ。

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で、安心してぢきに泣きやんだ。

そうして一日じゅう潮風の香をかぎながら、小松の向こうにどんどんと砕ける波に、何もかも忘れて見とれていた。

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さうしていちんち潮風の香をかぎながら小松のむかふにどんどんと砕ける波になにもかも忘れて見とれてゐた。

夜になって明かりがついた。

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夜になつて明りがついた。

その笠は円筒状の竹籠に紙を貼ったもので、黒塗りの風雅な台に乗っていた。

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そのかさは円筒状の竹籠に紙をはつたもので黒塗りの風雅な台にのつてゐた。

そこへ火影を慕ってよこばいが飛んできてはとまる。

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そこへ火影をしたつてよこばひが飛んできてはとまる。

美しい緑色をして、目のあいだの広いよこばいが可愛くてならない。

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美しい緑色をして目のあひだのひろいよこばひが可愛くてならない。

指で押さえようとするとひょいと横へいざって、隣の籠の目へ逃げる。

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指でおさへようとするとひよいと横へゐざつて隣の籠のめへ逃げる。

鳩虫も来た。

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鳩虫もきた。

ある晩、縁側へ出て庭で花火を上げるのを見ていたら、綺麗な女の人が菓子を包んできて

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ある晩縁側へ出て庭で煙火はなびをあげるのを見てたら綺麗な女の人が菓子を包んできて

「あげましょう」

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「あげませう」

といった。

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といつた。

私はその人が「げいしゃ」

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私はその人が「げいしや」

だということを小耳にはさんでいたが、「げいしゃ」

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だといふことを小耳にはさんでたが、「げいしや」

といえば、なんでも人をだましたりする怖いものらしい。

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といへばなんでも人を騙したりする怖いものらしい。

その「げいしゃ」

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その「げいしや」

がそばへ寄ってきて、可愛いお子さんだの、年はいくつ、だのと言いながら、肩へ手をかけて頬ずりしないばかりに顔をのぞく。

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がそばへよつてきて 可愛いお子さんだの、年はいくつ だのといひながら肩へ手をかけて頬ずりしないばかりに顔をのぞく。

私はいい匂いのする袖のなかに包まれて、返事もできずに耳まで赤くなって手すりに食いついていたが、ふと、これは自分をだましに来たのだ、と気がついたら急に恐ろしくなり、しゃにむに袖の下をすりぬけて母のところへ逃げて帰った。

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私はいい匂のする袖のなかにつつまれて返事もし得ずに耳まで赤くなつて手すりにくひついてたが、ふと これは自分を騙しにきたのだ と気がついたら急に恐しくなりしやにむに袖の下をすりぬけて母のところへ逃げて帰つた。

私が胸をどきつかせてそのことを話したときに、母は少し笑いながら私の無作法をたしなめた。

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私が胸をどきつかせてそのことを話したときに母はすこし笑ひながら私の無作法をたしなめた。

それからは花火を見るたびに、今度は何か聞かれたら返事をしよう、菓子をくれたらお礼も言おう、と思っていたが、その人は怒ったのか、その後はそばへも寄らなかった。

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それからは煙火を見るたんびに こんだなにかきかれたら返事をしよう、菓子をくれたらお礼もいはう と思つてたが、その人は怒つたのかその後はそばへもよらなかつた。

私は、自分が後悔していることを知らせる機会がないのを心から残念に思った。

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私は自分の後悔してることを知らせる機会がないのを心から残念に思つた。

ある日、父といっしょに深い松林の奥へ入っていったことがあった。

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ある日父といつしよに深い松林の奥へはひつていつたことがあつた。

松の匂いがして、松ぼっくりがたくさん落ちていた。

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松の匂がして松ぼつくりが沢山落ちてゐた。

父はそろそろ歩いているのだが、こちらは松ぼっくりを拾うので、始終小走りに追いつかなければならない。

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父はそろそろ歩いてるのだがこちらは松ぼつくりを拾ふので始終小走りに追ひつかなければならない。

拾いためて袂にも懐にもいっぱいになった松ぼっくりと心のなかで仲よく話しながら、ちょこちょことあとについてゆくうちに、東屋があって、眉毛の真っ白な爺さんが熊手で松葉をかいていた。

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拾ひためて袂にも懐にもいつぱいになつた松ぼつくりと心で仲よく話しながらちよこちよことあとについてゆくうちに東屋があつて眉毛のまつ白な爺さんが熊手で松葉をかいてゐた。

それを私は、高砂のお爺さんがいた、と埒もなく喜んで――本当にそう思ったのだ。――

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それを私は高砂のお爺さんがゐたと埒もなく喜んで――ほんとにさう思つたのだ。――

いつもに似ず、自分からいろんなことを父に話しかけた。

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いつもに似ず自分からいろんなことを父に話しかけた。

父は宿へ帰ってから母に

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父は宿へ帰つてから母に

「今日はたこ坊主がえらくものを言ったぞ」

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「今日は章魚坊主がえらうものをいつたぞよ」

といって笑った。

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といつて笑つた。

四十

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四十

旅行から帰ったら、留守のうちにお国さんの家はお役の都合で遠方へ越していたので、私はなんだか拍子抜けのした寂しさを感じた。

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旅行から帰つたら留守のうちにお国さんの家はお役の都合で遠方へこしてたので私はなんだか拍子ぬけのした寂しさを感じた。

私はそれからは恐ろしい夢にうなされることもなく、体もめきめきと発育するようになったが、生まれつきのぼんやりと、学校を怠けることとは相変らずであった。

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私はそれからは恐しい夢に魘はれることもなく体もめきめきと発育するやうになつたが、生得のぼんやりと学校をなまけることとは相変らずであつた。

それは虚弱のためばかりでなく、うぶな子供にとってあまり複雑で苦痛の多い学校生活が、私を嫌がらせたからである。

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それは虚弱のためばかりでなく、うぶな子供にとつてあまり複雑で苦痛の多い学校生活が私をいやがらせたからである。

ただ嬉しいことに、そのときの受け持ちの中沢先生は大好きないい人で、おまけに私の席は先生の机のすぐ前にあった。

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ただ嬉しいことにはそのときの受持ちの中沢先生は大好きないい人で、おまけに私の席は先生の机のすぐ前にあつた。

中沢先生は、私がいくら欠席しても何とも言わず、どんなに出来なくてもくすくす笑ってばかりいた。

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中沢先生は私がいくら欠席してもなんともいはず、どんなに出来なくてもくすくす笑つてばかりゐた。

が、いつだったか、並んでいる安藤繁太という奴と喧嘩したときに、たった一遍叱られたことがあった。

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が、いつか並んでる安藤繁太といふ奴と喧嘩したときにたつたいつぺん叱られたことがあつた。

どうしたことか、その奴とはお互いに虫が好かないでしょっちゅう仲が悪かったところ、ある日、算術の時間に彼は石盤に片目の顔を描き、それに人の名前をつけて

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どうしたことかそ奴とはお互に虫が好かないでしよつちゆう仲がわるかつたところ、ある日算術の時間に彼は石盤にめつかちの顔をかきそれにひとの名まへをつけて

「やい、やい」

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「やい やい」

といって見せた。

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といつて見せた。

それで、こっちでは大きな下駄に目鼻をつけて、そのわきへ、すげため、と書いてやった。

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で、こつちでは大きな下駄に目鼻をつけてそのわきへ すげため と書いてやつた。

そうしたら、彼がいきなり人の脛を蹴ったので、私も負けずに横っ腹を突いてやった。

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さうしたら彼がいきなりひとの脛を蹴つたので私も負けずに横つ腹をついてやつた。

そんなふうにして内緒で喧嘩をしているうちに、とうとう先生に見つかって、学校がひけてから二人だけあとへ残された。

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そんなにして内證で喧嘩をしてるうちにたうとう先生に見つかつて学校がひけてから二人だけあとへ残された。

先生はいつになく怖い顔をして、なぜ喧嘩した、という。

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先生はいつになく怖い顔をして なぜ喧嘩した といふ。

私は一部始終を話して自分が悪くないことを主張したが、繁太は、私が先にからかった、と嘘をついたので、先生は、喧嘩両成敗だ、といって二人とも帰してくれない。

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私は一部始終を話して自分の悪くないことを主張したが繁太は 私が先にからかつた と嘘をついたもので先生は 喧嘩両成敗だ といつて二人とも帰してくれない。

ほかの者はみんな包みを抱えていそいそと帰ってゆく。

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ほかの者はみんな包みをかかへていそいそと帰つてゆく。

なかにはもの好きに戸口から覗いて笑っている奴もある。

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なかにはもの好きに戸口から覗いて笑つてる奴もある。

学校じゅうの生徒がみんな帰ってしまって、いやにしんとしてきた。

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学校ぢゆうの生徒がみんな帰つてしまつていやにしんとしてきた。

もしこうして夜になったらどうしようかしら。

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もしかうして夜になつたらどうしようかしら。

ごはんも食べられないし、寝ることもできないし、はやく伯母さんが迎えに来てあやまってくれないかしら、などとさまざまなことが頭のなかに渦を巻いて、自然に涙がこみあげてくる。

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ごはんも食べられないし、寐ることもできないし、はやく伯母さんが迎ひにきてあやまつてくれないかしら などとさまざまなことが頭のなかに渦をまいて自然に涙がこみあげてくる。

先生は、半分べそをかいている二人の顔をちょいちょい見くらべ、くすくす笑いながら本を読むふりをしている。

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先生は半分べそをかいてる二人の顔をちよいちよい見くらべてくすくす笑ひながら本を読むふりをしてゐる。

繁太の奴は、さも帰りたそうに肩にかけた鞄の紐をいじくっていたが、とうとう泣きだして

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繁太の奴はさも帰りたさうに肩にかけた鞄の紐をいぢくつてたがたうとう泣きだして

「ごめんなさい」

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「ごめんなさい」

とあやまった。

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とあやまつた。

先生は

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先生は

「あやまったのが感心だから赦してやる」

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「あやまつたのが感心だから赦してやる」

といって繁太を帰した。

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といつて繁太を帰した。

私も帰りたいのは山々だけれど、悪くもないのに残されたのが腹立たしいので、いつまでも泣きかかってはこらえ、泣きかかってはこらえしていた。

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私も帰りたいのは山山だけれど悪くもないのを残されたのが業腹ごふはらなのでいつまでも泣きかかつてはこらへ、泣きかかつてはこらへしてゐた。

が、とどのつまりは泣くよりほかはなかった。

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が、とどのつまりは泣くよりほかはなかつた。

私はいったん泣きだしたとなれば、両方の拳骨で目をこすりこすり、図なしにぐすりぐすり泣いている癖で、そのあいだに理非曲直をぼつぼつと考え、自分が悪いとわかればすぐに泣きやむし、そうでなければ、自分がただ小さくて弱いために理不尽に押さえつけられるのが悔しくて、今に見ろ、と思いながら、しゃくりあげしゃくりあげ泣くのであった。

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私はいつたん泣きだしたとなれば両方の拳骨で眼をこすりこすり図なしにぐすりぐすり泣いてる癖で、そのあひだに理非曲直をぼつぼつと考へて自分が悪いとわかればぢきに泣きやむし、さうでなければ自分がただ小さくて弱いために理不尽におさへつけられるのがくやしくて 今に見ろ と思ひながらしやくりあげしやくりあげ泣くのであつた。

思う存分泣いたあとは胸がすいて、気管のあたりにえぐいような一種の快感をおぼえる。

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思ふ存分泣いたあとは胸がすいて気管のへんにゑぐいやうな一種の快感をおぼえる。

それはそうと、先生は手こずって

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それはさうと先生は手こずつて

「あやまれば帰してやる。あやまれば帰してやる」

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「あやまれば帰してやる。あやまれば帰してやる」

といったが、どうしても悪くない、といって、どうしてもあやまらない。

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といつたが どうしても悪くない といつていつかなあやまらない。

しかし、だんだんお説法を聞いてみれば、喧嘩を売ったのは繁太の罪だけれど、お稽古中にそれを買ったのがよくない、ということがどうやらのみこめたので

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併しだんだんお説法をきいてみれば 喧嘩を売つたのは繁太の罪だけれどお稽古中にそれを買つたのが善くない といふことがどうやらのみこめたので

「ごめんなさい」

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「ごめんなさい」

と頭を下げて帰してもらった。

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と頭をさげて帰してもらつた。

家では、意気地なしのたこ坊主が喧嘩をしたのを、奇蹟のようにいって笑った。

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家では意気地なしの章魚坊主が喧嘩をしたのを奇蹟のやうにいつて笑つた。

四十一

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四十一

不勉強の報いはてきめんに来て、いよいよ試験となったときにはほとんど何も知らなかった。

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不勉強の報いは覿面にきていよいよ試験となつたときにはほとんどなんにも知らなかつた。

ほかの者がさっさとできて帰ってゆくのに、自分ひとりゆで蛸みたいになって困っているのは、決して楽なことではない。

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ほかの者がさつさとできて帰つてゆくのに自分ひとりうで章魚みたいになつて困つてるのはゆめさら楽なことではない。

なかでも辛かったのは読本だった。

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なかでもつらかつたのは読本だつた。

私は最後に先生の机へ呼びだされた。

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私は最後に先生の机へ呼びだされた。

問題は蔚山の籠城という章だった。

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問題は蔚山うるさんの籠城といふ章だつた。

蔚山なんて字はついぞ見たこともない。

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蔚山なんて字はつひぞ見たこともない。

黙って立っているので、先生はしかたなしに一字二字ずつ教えて、手を引くようにして読ませたけれど、私は加藤清正が明軍に取り囲まれている挿画に見とれるばかりで、本のほうは皆目わからない。

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黙つて立つてるもので先生はしかたなしに一字二字づつ教へて手をひくやうにして読ませたけれど私は加藤清正が明軍に取囲まれてる挿画に見とれるばかりで本のはうは皆目わからない。

先生は根気が尽きて

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先生は根気がつきて

「どこでも読めるところを読んでごらん」

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「どこでも読めるところを読んでごらん」

といって、読本を私の前へ投げだした。

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といつて読本を私のまへへ投げだした。

私は悪びれもせず

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私はわるびれもせず

「どこも読めません」

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「どつこも読めません」

といった。

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といつた。

試験がすんでからも、やはり同じ席に居据わりだった。

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試験がすんでからもやつぱり居坐りだつた。

私はいちばん前にいるから一番だと思っていた。

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私はいちばん前にゐるから一番だと思つてゐた。

名札がびりっこにかかっていることも、点呼のときしまいに呼ばれることも、自分が事実できないことさえも、少しの疑いすら起こさせなかった。

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名札のびりつこにかかつてることも、点呼のときしまひに呼ばれることも、自分が事実できないことさへもすこしの疑ひすら起させなかつた。

好きな先生のそばに置かれて、ちっとも叱られずにいる、これが一番でなくてどうしようか。

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好きな先生のそばにおかれてちつとも叱られずにゐる、これが一番でなくてどうしようか。

それに私はついぞ免状取りに出たことがなかったし、学校から帰って一番だといって自慢すると、みんなは、えらい、えらい、といって笑っているので、自分だけは至極天下泰平であった。

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それに私はつひぞ免状とりに出たことがなかつたし、学校から帰つて一番だといつて自慢するとみんなは えらい えらい といつて笑つてるので自分だけは至極天下泰平であつた。

その学期も終わりに近づいたころ、お隣へ新たに人が越してきた。

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その学期も終りにちかづいたころお隣へあらたに人がこしてきた。

その家とは、裏の畑を間にほんの杉垣ひとつを隔てているばかりで、自由に行き来ができる。

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その家とは裏の畑を間にほんの杉垣ひとへをへだててるばかりで自由に往き来ができる。

私が裏へ行ってこっそり様子を見ていたら、垣根のところへちょうど私ぐらいのお嬢さんが出てきたが、ついと向こうへ隠れて、杉の隙間からそっとこちらを窺っているらしかった。

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私が裏へいつてこつそり様子をみてたら垣根のところへちやうど私ぐらゐのお嬢さんがでてきたが、ついとむかふへかくれて杉のすきまからそつとこちらを窺つてるらしかつた。

しばらくしてお嬢さんはまた出てきて、ちらりと人を見たので、私もちらりと見て、そして両方ともすましてよそを向いた。

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暫くしてお嬢さんはまた出てきてちらりとひとを見たので私もちらりと見て、そして両方ともすましてよそをむいた。

そんなことを何遍もやっているうちに、私はお嬢さんがほっそりとして、どこか病身らしいのを見て、なんとなく気に入ってしまった。

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そんなことを何遍もやつてるうちに私はお嬢さんがほつそりとしてどこか病身らしいのをみてなんとなく気にいつてしまつた。

その次に目と目が合ったときに、向こうは心もち笑ってみせた。

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そのつぎに眼と眼があつたときに彼方は心もち笑つてみせた。

それで、私もちょいと笑った。

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で、私もちよいと笑つた。

向こうは顔をそむけるようにして、くるりと片足で回った。

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彼方は顔をそむけるやうにしてくるりとかた足で廻つた。

こちらもくるりと回る。

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こちらもくるりと廻る。

向こうがぴょんととんだ。

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むかふがぴよんととんだ。

こちらもぴょんととぶ。

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こちらもぴよんととぶ。

ぴょんと跳ねれば、ぴょんと跳ねる。

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ぴよんと跳ねればぴよんと跳ねる。

そんなふうにしてぴょんぴょん跳ねあっているうちに、いつか私は巴旦杏の蔭を、お嬢さんは垣根のそばを離れて、お互いに話のできるくらい近寄っていた。

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そんなにしてぴよんぴよん跳ねあつてるうちにいつか私は巴旦杏はたんきやうの蔭を、お嬢さんは垣根のそばをはなれてお互に話のできるくらゐ近よつてた。

が、そのとき

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が、そのとき

「お嬢様、ごはんでございますよ」

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「お嬢様ごはんでございますよ」

と呼ばれたので

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とよばれたので

「はい」

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「はい」

と返事をして、さっさと駆けていってしまった。

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と返事をしてさつさと駈けてつてしまつた。

私も残り惜しく家へ帰り、急いで食事をすませてまた行ってみたら、お嬢さんはもう先に来て待っていたらしく

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私も残りをしく家へ帰り急いで食事をすませてまたいつてみたらお嬢さんはもう先にきて待つてたらしく

「遊びましょう」

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「遊びませう」

といって人なつっこく寄ってきた。

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といつて人なつつこくよつてきた。

私は、お馴染みになるまでにはもう五、六遍も跳ねるつもりでいたのが案に相違して顔が赤くなったけれど

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私はお馴染になるまでにはもう五六遍も跳ねるつもりでゐたのが案に相違して顔が赤くなつたけれど

「ええ」

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「ええ」

といってそばへ行った。

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といつてそばへいつた。

相手はもうはにかむ様子もなく、はきはきした言葉つきで

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さきはもうはにかむけしきもなくはきはきした言葉つきで

「あなたいくつ」

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「あなたいくつ」

と聞いた。

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ときいた。

「九つ」

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「九つ」

と答える。

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と答へる。

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「あたしも九つ」

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「あたしも九つ」

といってちょっと笑って

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といつてちよつと笑つて

「だけどお正月生まれだから年上なのよ」

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「だけどお正月生れだから年づよなのよ」

と、ませたことをいう。

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とませたことをいふ。

私は

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わたし

「あなたの名は」

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「あなたの名は」

「けい」

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「けい」

と、はっきりいった。

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とはつきりいつた。

型のごとく名のりあって初対面の挨拶がすむと、お蕙ちゃんは

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型のごとく名のりあつて初対面の挨拶がすむとおけいちやんは

「あたしもうすぐ学校へ上がるから、おんなじ学校へ行きましょう」

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「あたしもうぢき学校へあがるからおんなじ学校へいきませう」

といったので嬉しくて、自分の学校のいいこと、修身のお話の面白いこと、受け持ちの先生のやさしいことなどを数えあげ、小さな知恵をしぼってお蕙ちゃんを同じ学校へ引きつけようとした。

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といつたので嬉しくて自分の学校のいいこと、修身のお話の面白いこと、受持ちの先生のやさしいことなぞ数へあげ小さな智嚢をしぼつてお蕙ちやんをおなじ学校へひきつけようとした。

お蕙ちゃんは勝ち気な人慣れした子で、ぱっちりした目と真っ黒な髪を持っていた。

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お蕙ちやんは勝ち気な人なれた子で、ぱつちりした眼とまつ黒な髪をもつてゐた。

青白い滑らかな頬には、美しい血の色が透けて見えた。

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蒼白い滑な頬には美しい血の色がすいてみえた。

そうして、その気性とませた頭をもって、意気地なしでぼんやりした生まれの遅い私に対して、とかく女王のようにふるまう気味があったが、私は満足して、新たに君臨したこの女王にあごで使われるまま身をまかせようと思った。

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さうしてその気性とませた頭をもつて意気地なしのぼんやりな年弱に対してとかく女王のやうにふるまふ気味があつたが、私は満足してあらたに君臨したこの女王の頤使いしに身をまかせようと思つた。

四十二

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四十二

ある日のこと、私はお蕙ちゃんがお祖母様に連れられて学校へ入ってくるのを見て、今さらのように胸をときめかせた。

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ある日のこと私はお蕙ちやんがお祖母様ばあさまにつれられ学校へはひつてくるのを見て今さらのやうに胸をときめかせた。

その翌日からお蕙ちゃんは包みを抱えてひとつ教場へ入るようになったが、新入なのでいちばん前の私の隣に坐らせられた。

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その翌日からお蕙ちやんは包みをかかへてひとつ教場へはひるやうになつたが新入なのでいちばん前の私の隣に坐らせられた。

私はお稽古にも身が入らず、そっと横目で見たら、お蕙ちゃんは殊勝にじっと下を向いていた。

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私はお稽古にも身がいらずそつと横目でみたらお蕙ちやんは殊勝にじつと下をむいてゐた。

遊び時間にも、まだお馴染みがないためひとりぼんやりしているので、何とか言葉をかけてやりたいのを、みんなにからかわれるのが辛さに黙っていれば、向こうもちゃんと知っているくせに、素知らぬ顔ですましている。

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遊び時間にもまだお馴染がないためひとりぼんやりしてるのでなんとか言葉をかけてやりたいのをみんなにからかはれるのがつらさに黙つてゐれば、さきでもちやんと知つてるくせにそしらぬ顔ですましてゐる。

私はたとえようのない混乱した気もちでやっと一日の課業をすませ、家へ帰る道々も、今日はあんなことも話そう、こんなことも聞いてみよう、などと考えながら、帰るやいなや裏へ行ったら、もうひとりでお手玉を投げていた。

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私は譬へやうのない混乱した気もちでやつと一日の課業をすませて家へ帰るみちみちも 今日はあんなことも話さう、こんなこともきいてみよう などと考へながら帰るやいなや裏へいつたらもうひとりでお手玉を投げてゐた。

「お蕙ちゃん」

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「お蕙ちやん」

そういって、私は飛びつかないばかりに駆け寄った。

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さういつて私は飛びつかないばかりに駈けよつた。

そうしたらお蕙ちゃんは、さも軽蔑したふうに

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さうしたらお蕙ちやんはさも軽蔑したらしく

「びりっこけなんぞと遊ばない」

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「びりつこけなんぞと遊ばない」

といって、さっさと入ってしまったので、案に相違してすごすご家へ帰り、伯母さんにそれを言いつけた。

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といつてさつさとはひつてしまつたので案に相違してすごすご家へ帰り伯母さんにそれをいつけた。

その晩、例のとおり家じゅうが茶の間に集まったときに、私ははじめて、自分が本当にびりっこけだということを言って聞かされた。

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その晩れいのとほり家ぢゆうが茶の間に集つたときに私ははじめて自分がほんたうにびりつこけだといふことをいつてきかされた。

私は初めのうちこそ、かたくなに一番だと言いはっていたものの、近ごろ先生から、脳の悪いお子さんにあまり無理なことは言わないが、これまでのようではとても及第させられないから、今度の試験にはもう少し気をつけてもらいたい、という注意があったというのを聞いて、私はわっと泣きだした。

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私は初めのうちこそかたくなに一番だといひはつてたものの近いころ先生から 脳の悪いお子さんにあまり無理なことはいはないがこれまでのやうではとても及第がさせられないから今度の試験にはもうすこし気をつけてもらひたい といふ注意があつたといふのをきいて私はわつと泣きだした。

私は、長いあいだびりっこけだった面目なさを、一時に感じた。

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私は永いあひだびりつこけだつた面目なさをいちどきに感じた。

先生は私を脳の悪い子だと思って休み放題に休ませ、いくらできなくても叱らなかったのだ。

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先生は私を脳の悪い子だと思つて休み放題に休ませ、いくらできなくても叱らなかつたのだ。

私はやっぱり馬鹿にされていたのだ。

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私はやつぱしばかにされてたのだ。

私だって、びりっこけが恥ずべきことぐらいは知っている。

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私だつてびりつこけの愧づべきことぐらゐは知つてゐる。

ただ、いくら怠けても一番だと思えばこそ勉強しなかったのだ。

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ただいくらなまけても一番だと思へばこそ勉強しなかつたのだ。

はやくそう言ってくれさえすれば、おさらいもしたし、ずる休みもしなかったのに。

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はやくさういつてくれさへすればおさらひもしたし、ずる休みもしなかつたのに。

思えばみんなが怨めしい。

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思へばみんなが怨めしい。

私は頭が沸きかえるほど上気して、思いだしては泣き、思いだしては泣きするのを、伯母さんはもらい泣きしながら

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私は頭が沸きかへるほど上気して思ひだしては泣き思ひだしては泣きするのを伯母さんは貰ひ泣きしながら

「泣かんでもええ、泣かんでもええ」

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「泣かんでもええ、泣かんでもええ」

といって寝間へ連れていった。

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といつて寐間へつれていつた。

それからは小さな机をひとつあてがわれて、その日その日のおさらい、翌日の下調べ、これまでのところの復習をきちんきちんとさせられることになって、伯母さんはそろばんだの手習いだの自分のできるものを、そのほかは姉たち二人が引きうけてくれた。

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それからは小さな机をひとつあてがはれてその日その日のおさらひ、翌日のしたしらべ、これまでのところの復習をきちんきちんとさせられることになつて、伯母さんはそろばんだの手習ひだの自分のできるものを、そのほかは姉たち二人がひきうけてくれた。

毎日教場でお蕙ちゃんと顔をあわせるのが辛くもあり腹立たしくもあったけれど、それ以来、学校は決して休まなかった。

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毎日教場でお蕙ちやんと顔をあはせるのがつらくもあり腹だたしくもあつたけれどそれ以来学校は決して休まなかつた。

お蕙ちゃんは平気の平左で友達と遊んでいる。

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お蕙ちやんは平気の平左でお友達と遊んでゐる。

私はもう同じ級の者にも気後れがして、とかく引っこみがちにしていたが、それよりも、家へ帰って机の前へ坐らせられるときの辛さは、また格別だった。

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私はもう同じ級の者にも気おくれがしてとかくひつこみがちにしてたが、それよりか家へ帰つて机のまへへ坐らせられるときのつらさはまた格別だつた。

面目ないことだが、私には今まで習ったことがまるでわからない。

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面目ないことだが私には今まで習つたことがかいしきわからない。

それで、落胆して何度投げ出そうとしたかしれないのを、御褒美の菓子や何かでだましだましして続けるうちに、なにか薄紙でもはぐように少しずつわかりはじめた。

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で、落胆して何度投げ出さうとしたかしれないのを御褒美の菓子やなにかで騙され騙されしてつづけるうちになにか薄紙でもはぐやうにすこしづつわかりはじめた。

読本の文字を一字おぼえ、二字おぼえ、算術が一題解け、二題解けするにしたがって、次から次へと知識は幾何級数的に進んでゆくので、しまいには自信もでき、興味も加わって、家へ帰れば言われないうちに自分から机を持ちだすようになった、もとより人にほめられたいのがおもな動機で。

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読本の文字を一字おぼえ、二字おぼえ、算術が一題とけ、二題とけするにしたがひ次から次へと智識は幾何級数的に進んでゆくので終には自信もでき、興味も加はつて、家へ帰ればいはれぬうちに自分から机をもちだすやうになつた、もとよりひとに褒められたいのがおもな動機で。

試験には間もなかったが、勉強の甲斐あって次の学期には二番になった。

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試験には間もなかつたが勉強のかひあつて次の学期には二番になつた。

お蕙ちゃんは、女のほうの五番であった。

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お蕙ちやんは女のはうの五番であつた。

四十三

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四十三

私は急に知恵がついて、何かひと皮むけたように世界が新しく明るくなると同時に、ひ弱だった体がめきめきと丈夫になり、相撲でも旗とりでも、何をやっても一番強い二、三人のなかに入るようになった。

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私は急に智慧がついてなにかひと皮ぬいだやうに世界が新しく明るくなると同時に脾弱かつた体がめきめきと達者になり、相撲、旗とり、なにをやつてもいちばん強い二三人のなかにはひるやうになつた。

そうこうするうち、首席の荘田という子が去ったあとを継いで級長になったときには、もうお蕙ちゃんに対する恥ずかしさも憤りも消えていたので、私は、あの日美しく芽ぐんで今にも葉を出すばかりになりながら、花もつけずに根の絶えかかった友情の若草が、ふたたび春の光にあって甘やかに蘇るだろうことを願っていたし、お蕙ちゃんもまた同じ気もちでいる様子は見えたけれど、ただなんとなくつぎ穂がなくて、お互いに何かいい折のあるのを待っていた。

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さうかうするうち首席の荘田といふ子の去つたあとを襲つて級長になつたときにはもうお蕙ちやんに対する慙愧も憤懣も消えてたので、私はその日美しく芽ぐんで今にも葉をさすまでになりながら花もつけずに根をたえかかつた友情の若草がふたたび春の光にあつて甘やかに蘇るであらうことをねがつてたし、お蕙ちやんとてもおなじ気もちでゐる様子はみえたけれど、ただなんとなくつぎほがなくてお互になにかいい折のあるのを待つてゐた。

子どもの社会は犬の社会と同じで、ひとりの強い者がほかの者たちに一度に尻尾を巻かせてしまう。

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子供の社会は犬の社会と同様にひとりの強い者がのものを一度に尾をまかしてしまふ。

荘田がいなくなってから一人天下になった私は、みんなが従順なのをいいことにしてかなり暴威をふるったものの、その年ごろの餓鬼大将としては最も物のわかったほうだったと自分では思っている。

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荘田がゐなくなつてから一人天下になつた私はみんなの従順なのをいいことにしてかなり暴威をふるつたもののその年ごろの餓鬼大将としては最も訳のわかつたはうであつたと自らゆるしてゐる。

あるとき、ちょっぺいが何かのことで仲間はずれにされて「猿面冠者、猿面冠者」とからかわれ、真っ赤になって引っ掻きまわしていたが、多勢に無勢でとうとう泣きだして机に突っ伏してしまった。

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あるときちよつぺいがなにかのことで仲間はづれにされて 猿面冠者 猿面冠者 とからかはれ真赤になつてひつ掻きまはつてたが、多勢に無勢でたうとう泣きだして机につつぷしてしまつた。

それを見た私は、いきなりわいわい囃したてている群れのなかへ入って、今後決してちょっぺいのことを猿面冠者と言ってはならん、という厳命をくだした。

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それを見た私はいきなりわいわい囃したててる群のなかへはひつて 今後決してちよつぺいのことを猿面冠者といつてはならん といふ厳命をくだした。

それ以来、彼は猿面の汚名をまぬがれた。

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で、爾来彼は猿面の汚名をまぬかれた。

これは、はじめて学校へ上がったときの赤い実のことを忘れずに、いささか恩返しをしたのである。

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これははじめて学校へあがつたときの赤い実のことを忘れないで聊か恩がへしをしたのである。

岩橋はこのころも相変わらず弱い者いじめの張本人で、女の生徒に悪さばかりしていた。

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岩橋はこのじぶんも相変らず弱い者いぢめの張本で女の生徒にわるさばかりしてゐた。

ある日、いつものとおり先生に引率されてすかんぽ山へ運動に行ったとき、彼はひとり藪のなかへ入って一所懸命に犬じらみを取っているので、また何かいたずらをするなと思っていたら、やがて両手いっぱいに犬じらみを握って、武智光秀という見得で目玉を光らせながら出てきた。

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ある日いつものとほり先生に引率されてすかんぽ山へ運動にいつたときに彼はひとり藪のなかへはひつて一所懸命犬じらみをとつてるので またなにかいたづらをするな と思つてたら、やがて両方の手にいつぱい犬じらみを握つて武智光秀といふみえで眼玉を光らせながら出てきた。

女の子たちは日ごろから怖じ気をふるって誰ひとり彼のそばへ寄る者はなかったのに、折悪しくうっかりそこを通りかかったのはお蕙ちゃんだった。

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女の子たちはつねづね怖ぢけをふるつて誰ひとり彼のそばへよる者はなかつたのに折あしくうつかりそこを通りかかつたのはお蕙ちやんだつた。

彼は、いい鳥が、と言わぬばかりにたちまち通せんぼをして、二つ三つ犬じらみをぶつけた。

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彼は いい鳥が といはぬばかりに忽ちとほせんぼをして二つ三つ犬じらみをぶつつけた。

お蕙ちゃんは

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お蕙ちやんは

「いやーよ、いやーよ」

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「いやーよ、いやーよ」

と袂でよけながら逃げようとするのを、執念深く追いかけてぶつけたものだから、お蕙ちゃんは身をかわすはずみに膝をついて、わっと泣きだした。

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と袂でよけながら逃げようとするのを執念ぶかく追つかけてぶつけたものでお蕙ちやんは身をかはすはずみに膝をついてわつと泣きだした。

それを見た私は矢庭に飛んでいって、勝ち誇っている岩橋を突き倒し、その吠え面を尻目にかけながら、起き上がって塵も払わずに袖を顔にあてているお蕙ちゃんのそばへ寄って、髪にも着物にもいっぱいくっついている犬じらみをひとつひとつ取ってやった。

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それを見た私は矢庭にとんでつて勝ちほこつてる岩橋を突き倒し、その吠えづら後目しりめにかけながら、起きあがつて塵もはらはずに袖を顔にあててるお蕙ちやんのそばへよつて髪にも著物にもいつぱいくつついてる犬じらみをひとつひとつとつてやつた。

お蕙ちゃんは誰が自分をいたわってくれるのかさえ知らず、悔しそうに泣きじゃくって人のするままになっていたが、ようやく涙をとめて、誰かしら、というように袖のかげから顔を見合わせたとき、さも嬉しそうににっこり笑った。

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お蕙ちやんは誰が自分をいたはつてくれるかさへ知らずくやしさうに泣きじやくりしてひとのするままになつてたが、やうやう涙をとめて 誰かしら といふやうに袖のかげから顔を見合せたときにさも嬉しさうににつこり笑つた。

長いまつ毛が濡れて、大きな目が美しく染まっていた。

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長いまつ毛が濡れて大きな眼が美しく染まつてゐた。

そののち二人の友情は、いま咲くばかりに香りを含んでふくらんでいる牡丹の蕾が、くすぐるほどの蝶の羽風にさえほころびるように、ふたりの友情はやがて打ちとけて睦みあうようになった。

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そののち二人の友情は、いま咲くばかり薫をふくんでふくらんでる牡丹の蕾がこそぐるほどの蝶の羽風にさへほころびるやうに、ふたりの友情はやがてうちとけてむつびあふやうになつた。

四十四

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四十四

私たちは学校から帰って、復習や予習をする間も気が気でなく、そこそこに済ませて思い出の多い裏畑へ出る。

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私たちは学校から帰つて復習予習をするまも気が気でなくそこそこにすませて思ひでのおほい裏畑へでる。

こちらが早いときは、ひとりで石蹴りや縄とびをして、まだかまだかと待っている。

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こちらが早いときはひとりで石蹴りや縄とびをしてもうかもうかと待つてゐる。

向こうが先だと、聞こえよがしにぽんぽんとまーりをつく。

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むかふが先だと聞えよがしにぽんぽんまーりをつく。

その鞠は赤と青の毛糸を縞にして綺麗に包んであった。

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その鞠は赤と青の毛糸を縞にして綺麗につつんであつた。

顔を見れば、何よりさきにじゃんけんをする。

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顔を見ればなによりさきにじやん拳をする。

お蕙ちゃんは負けると、じれるように肩をふる癖があった。

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お蕙ちやんは負けるとじれるやうに肩をふる癖があつた。

「おねんじょさあま、およねじょ十よ」

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「おねんじよさあま、およねじよ十よ」

「おねんじょさあま、およねじょ二十よ」

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「おねんじよさあま、およねじよ二十よ」

私は鞠が上手なのでなかなか落とさない。

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私は鞠が上手なのでなかなか落さない。

お蕙ちゃんは待ち遠しがって、縄の切れ端をぶつけたり、棒切れを突きだしたりして落とさせてしまう。

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お蕙ちやんは待ちどほしがつて縄のちぎれをぶつけたり、棒つきれをつきだしたりして落させてしまふ。

「おねんじょさあま、およねじょ十よ」

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「おねんじよさあま、およねじよ十よ」

「おねんじょさあま、およねじょ二十よ」

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「おねんじよさあま、およねじよ二十よ」

お蕙ちゃんは上気した顔を鞠といっしょにうなずかせながら、一所懸命にまわる。

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お蕙ちやんは上気した顔を鞠といつしよにうなづかせながら一所懸命にまはる。

そのたびに、ふさふさしたおさげの髪が肩にまつわって、ふたつの足さきが追いあうこま鼠のようにくるくると回る。

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そのたんびにふさふさしたおさげの髪が肩にまつはつてふたつの足さきが追ひあふこま鼠のやうにくるめく。

負けまいとして、鞠をあごで押さえたり、胸に抱えたりして、よろよろするまで続ける。

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負けまいとして鞠を腭でおさへたり、胸にかかへたりしてよろよろするまでもつづける。

「ほうほけきょや鶯や、うぐいすや、たまたま都へのぼるとて、のぼるとて、うーめの小枝に昼寝して、赤坂奴の夢をみた、枕のしたから文がでた、お千代にこいとの文がでた……」

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「ほうほけきよや鶯や うぐひすや、たまたま都へのぼるとて のぼるとて、うーめの小枝に昼寐して、赤坂奴の夢をみた、枕のしたから文がでた、お千代にこいとの文がでた……」

着物の裾を引きずるのも知らずに、夢中になってつく。

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著物の裾のひきずるのもしらずに夢中になつてつく。

兎がじゃれるように左右の手が鞠の上でぴょんぴょんと躍り、丸く開いた唇の奥からぴゃぴゃした声が転びでる。

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兎の戯れるやうに左右の手が鞠のうへにぴよんぴよんと躍つて円くあいた唇のおくからぴやぴやした声がまろびでる。

その美しい声でうたわれた無邪気な唄は、今もなおこの耳に懐かしい余韻を残している。

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その美しい声にうたはれた無邪気な謡は今もなほこの耳になつかしい余韻をのこしてゐる。

夕日が原の向こうに沈んで、そのあとにゆらゆらと月がのぼりはじめると、花畑の葉に隠れていた小さな蛾が灰白の翅をふるわせて、ちりちりと舞いあがる。

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夕日が原のむかふに沈んでそのあとにゆらゆらと月がのぼりはじめると花畑の葉にかくれてた小さな蛾が灰白の翅をふるつてちりちりと舞ひあがる。

少林寺の槙の木には烏が群がって枝を争い、庭の珊瑚樹の雀はちゅうちゅくちゅうちゅくと鳴く。

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少林寺の槙の木には烏が群つて枝をあらそひ、庭の珊瑚樹の雀はちゆうちゆくちゆうちゆくいふ。

そのとき私たちは、ようやく黄味の褪せてゆくお月様を仰いで兎の歌をうたう。

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そのとき私たちはやうやく黄味のあせてゆくお月様をあふいで兎の歌をうたふ。

「うーさぎうさぎ、なによみてはねる、十五夜お月さまみてはーねる。ぴょん、ぴょん、ぴょん」

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「うーさぎうさぎ、なによみてはねる、十五夜お月さまみてはーねる。ぴよん、ぴよん、ぴよん」

二人はすぼめた膝に手をのせ、腰をかがめて跳ね歩く。

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二人はつぼめた膝に手をのせ腰をかがめて跳ねあるく。

さんざん草臥れている足は、二つ三つ跳ねるうちにまったく弾力を失って、思わずころころと尻餅をつく。それがおかしいと言ってまた笑いこける。

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さんざくたびれてる足は二つ三つ跳ねるうちにまつたく弾力を失つて思はずころころと尻餅をつくのをそれがをかしいといつてまた笑ひこける。

そんなふうに二人とも家から呼ばれるまでは何もかも忘れて遊びにふけっているが、聞き分けのいいお蕙ちゃんは、どんなときでも

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そんなにして二人とも家から呼ばれるまではなにもかも忘れて遊びにふけつてるが、ききわけのいいお蕙ちやんはどんなときでも

「お嬢様もうお帰りあそばせ」

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「お嬢様もうお帰りあそばせ」

と呼ばれると

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と呼ばれると

「はい」

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「はい」

と素直に返事をして、帰りたくなさそうな様子はしながら、さっさと帰ってゆく。

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とすなほに返事をして、帰りともない様子はしながらさつさと帰つてゆく。

別れるときには、あすの遊びの誓いのために小指をからめあって、指の抜けるほど指切りをし、もし嘘をつけばこの指が腐ってしまう、というのを、そんなこと、と思いながらもなんだか恐ろしいような気がする。

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別れるときにはあすの遊びの誓ひのために小指をからめあつて指のぬけるほど指つきりをし、もしか嘘をつけばこの指が腐つてしまふ といふのを そんなこと と思ひながらもなんだか恐しいやうな気がする。

四十五

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四十五

そんなふうに日増しに隔てがなくなるにつれて、負けずぎらいの私と悔しがりのお蕙ちゃんとのあいだには、ときどきたわいもない諍いが起こった。

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そのやうにして日増しに隔てがなくなるにしたがつて負けずぎらひの私とくやしがりのお蕙ちやんとのあひだにはときどきたわいもないいさかひがおこつた。

ある日、私たちはいつものとおり裏でまりをついていたが、あいにくつけばつくほどお蕙ちゃんのほうが負けるもので、しまいにはずるいとか何とか苦情をつけて、泣きながら両方の袖でぽんぽんと人をぶった。

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ある日私たちはいつものとほり裏でまありをついてたがあいにくつけばつくほどお蕙ちやんのはうが貸されるもので、しまひにはずるいとかなんとか苦情をつけて泣きながら両方の袖でぽんぽんひとをぶつた。

その拍子に、袂に入っていたお手玉がぱらぱらと地べたへこぼれた。

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その拍子に袂にはひつてたお手玉がぱらぱらと地びたへこぼれた。

お蕙ちゃんはそれを拾おうともせずに

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お蕙ちやんはそれを拾はうともしずに

「もうあなたなんぞと遊ばない」

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「もうあなたなんぞと遊ばない」

と言って顔を押さえている。

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といつて顔をおさへてゐる。

そうして私が訳もなく謝るのも聞かずに行ってしまった。

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さうして私が訳もなくあやまるのをきかずにいつてしまつた。

置いてきぼりにされた私は、あと先の考えもなくお手玉を拾い集めて持って帰ったが、今度はそれがまた苦労の種になって、もしお蕙ちゃんが悔しまぎれに私がお手玉を取ったと言ったらどうしよう、そうっともとのところへ置いてこようかしら、あした学校で机のなかへ入れておいてやろうかしら、などとあれこれ思案をめぐらした。

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おいてきぼりにされた私はあと先の考へもなくお手玉を拾ひあつめて持つて帰つたがこんだはそれがまた苦労の種になつて もしお蕙ちやんがくやしまぎれに私がお手玉をとつたといつたらどうしよう、そーつともとのところへおいてこようかしらん、あした学校で机のなかへ入れといてやらうかしらん などととつおいつ思案をめぐらした。

が、とにかく人の物を持ってきて引き出しに入れてあるのが気がかりでならない。

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が、とにかくひとの物をもつてきて抽匣に入れてあるのが気がかりでならない。

そうして不安な一夜を明かした。

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そんなにして不安な一夜をあかした。

あくる朝、なんだか顔を合わせるのが怖いような、合わせないのも心配なような気もちで、誰より先に学校へ行き、自分の席にしょんぼり座って、昨日のこと、これまでのことなど思いだしているうちに、ひとりふたりとやってきて、だんだん教場が賑やかになった。

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あくる朝なんだか顔をあはすのが怖いやうな、あはせないのも心配なやうな気もちで誰より先に学校へゆき自分の席にしよんぼり坐つて昨日のこと、これまでのことなど思ひだしてるうちにひとりふたりとやつてきてだんだん教場が賑になつた。

しかしお蕙ちゃんの姿は見えない。

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しかしお蕙ちやんの姿はみえない。

もしや怒って休むのじゃないかしら、だがまだ来る時刻じゃないからわからない、などともどかしがっているうちに、かなり遅い組のちょっぺいが来て、いよいよその時刻になった。

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もしか怒つて休むのぢやないかしら、だがまだ来る時刻ぢやないからわからない などともどかしがつてるうちにかなり遅い組のちよつぺいがきていよいよその時刻になつた。

私はいたたまらずに門のところへ行って、扉の陰からうかがっていたら、やがて坂の上から包みを抱えてくるのが見えたので、やっとひとまず胸をなでおろした。

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私はゐたたまらずに門のところへいつて扉の陰からうかがつてたらやがて坂のうへから包みをかかへてくるのがみえたのでやつとひとまづ胸をなでおろした。

向こうはそれとは知らずに門を入りかけ、こちらもなにげなく扉のかげから出て、ふと顔を見合わせたところ、ちょいときまりの悪そうな笑いを浮かべたまま、何も言わずに入ってしまった。

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さきはそれとは知らず門をはひりかけたのをこちらもなにげなく扉のかげから出てふと顔をみあはしたところちよいときまりのわるさうな笑ひをうかべたなりなんにもいはずにはひつてしまつた。

大丈夫だ。

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大丈夫だ。

そんなに怒ってもいないようだ。

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そんなに怒つてもゐないやうだ。

そのもどかしい一日を、お蕙ちゃんは元気よくお友達と遊んでいた。

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そのもどかしい一日をお蕙ちやんは元気よくお友達と遊んでゐた。

帰ってから私が机にむかいながら、今日は裏へ出てみようかしら、よそうかしら、などと思っているときに、玄関の格子が静かに開いて

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帰つてから私が机にむかひながら 今日は裏へ出てみようかしら、よさうかしら などと思つてるときに玄関の格子がしづかにあいて

「ごめんあそばせ」

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「ごめんあそばせ」

と小さな声で言った。

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と小さな声でいつた。

私はすぐさま飛びだして、衝立のうしろから

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私はすぐさまとびだして衝立のうしろから

「お蕙ちゃん」

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「お蕙ちやん」

と呼びかけながら式台に立った。

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と呼びかけながら式台に立つた。

そのときお蕙ちゃんは、はじめての訪問のせいか少しはにかみながらも、いつもの冴え冴えとした笑顔を見せたので、今まで背負っていた重荷がさらりと一度に下りた。

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そのときお蕙ちやんははじめての訪問のせゐかすこしはにかみながらもいつものさえざえしい笑顔をみせたので今まで背負つてた重荷がさらりと一時におりた。

私はこの珍客を玄関のわきの自習室へ招き入れた。

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私はこの珍客を玄関のわきの自習室へ招きいれた。

お蕙ちゃんはそわそわして部屋のなかを見まわしたり、肱かけ窓によりかかってどうだんの提灯を眺めたりしていたが、少し落ち着いてから

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お蕙ちやんはそはそはして部屋のなかを見まはしたり、肱かけ窓によりかかつてどうだんの提灯を眺めたりしてたがすこしおちついてから

「昨日はあたくしが悪うございました」

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「昨日はあたくしが悪うございました」

と、ちゃんと両手を畳について、さも後悔したらしく謝った。

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とちやんと両手を畳についてさも後悔したらしくあやまつた。

あまりに大人びて几帳面に詫びられたので、こちらはかえってどぎまぎしながらも、こんなに人に苦労をさせたのかと思えば憎らしくもなって、あんなに謝るのじゃなかった、と思った。

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あんまり大人おとなびて几帳面に詫びられたためにこちらはかへつてどぎまぎしながらもこんなにひとに苦労させたかと思へば面憎くもなつて あんなにあやまるのぢやなかつた と思つた。

お蕙ちゃんは、昨日あれから家へ帰って叱られた、と言う。

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お蕙ちやんは 昨日あれから家へ帰つて叱られた といふ。

そうして、後生だからお手玉をちょうだい、と言うので、さんざんじらしたあげく、やっと引き出しから出してやった。

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さうして 後生だからお手玉ちやうだい といふのでさんざじらしたあげくやつと抽匣から出してやつた。

その友禅縮緬の切れは、もとよそいきの着物だったとかで、桐の花だの鳳凰の翼だのが切れ切れになっていた。

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その友禅縮緬のきれはもとよそいきの著物だつたとかで桐の花だの鳳凰の翼だのがきれぎれになつてゐた。

二人はその因縁のあるお手玉を取って遊んだ。

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二人はその因縁のあるお手玉をとつて遊んだ。

蝶々のように飛びあがり飛びくだるお手玉といっしょに、お蕙ちゃんの顔がうなずくたびに、紅白だんだらに染めた簪の総がこめかみのあたりにはらはらと乱れる。

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蝶蝶のやうに飛びあがり飛びくだるお手玉といつしよにお蕙ちやんの顔がうなづくたんびに紅白だんだらに染めた簪のふさ蟀谷こめかみのあたりにはらはらとみだれる。

「お馬ののりかへ、お駕籠ののりかへ、お馬ののりかへ、お駕籠ののりかへ」

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「お馬ののりかへ、お駕籠ののりかへ、お馬ののりかへ、お駕籠ののりかへ」

手の甲にのっているのを落とすまいとして、ずるいことばかりする。

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手の甲にのつてるのを落すまいとしてずるいことばかりする。

「小さい橋くぐれ、小さい橋くぐれ」

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「小さい橋くぐれ、小さい橋くぐれ」

細い指で畳の上に橋をかけて、お手玉をすいすいとくぐらせる。

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細い指で畳のうへに橋をかけてお手玉をすいすいとくぐらせる。

お蕙ちゃんの耳たぶは美しくほてっている。

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お蕙ちやんの耳たぶは美しくほてつてゐる。

そうして、じれればじれるほど固くなって、肝心のところでしくじってはお手玉を放りつけたり袂に食いついたりしたが、それからは毎日お手玉を持って遊びに来るようになった。

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さうしてじれればじれるほどかたくなつて肝心のところでしくじつてはお手玉をはふりつけたり袂にくひついたりしたが、それからは毎日お手玉をもつて遊びにくるやうになつた。

四十六

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四十六

読本が一冊終わったときに、先生は復習のためだと言って「とりよみ」

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読本が一冊あがつたときに先生は復習のためだといつて「とりよみ」

をさせた。

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をさせた。

それは組を男と女とに分けて、人の読み違いをすばやく読み直して読み続け、しまいまでに読んだ紙数の多いほうを勝ちとするのである。

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それは組を男と女とにわけて、ひとの読みちがひをすばやく読みなほし読みつづけてしまひまでに読んだ紙数の多いはうを勝ちとするのである。

男はふだん何のかのと威張るけれど、さて読み競べとなるとさっぱり意気地がなくて、いつも負けどおしだった。

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男はふだんなんのかのと威張るけれどさて読みつくらとなるとさつぱり意気地がなくていつも負けどほしだつた。

それに、いざとなれば誰でもせきこむので、すぐに間違えて取られてしまう。

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それにいざとなれば誰でもせきこむのでぢきに間違へてとられてしまふ。

最初の読み手であった私は、それを心得てそろそろと読みはじめた。

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最初の読みてであつた私はそれを心得てそろそろと読みはじめた。

みんなはいつになく私がもたついているのを見て軽蔑して笑っていたが、あいにくいつまでたっても一字も読み損なわずにだらだらと続けてゆく。

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みんなはいつになく私の渋滞するのをみて軽蔑して笑つてたがあいにくいつまでたつても一字も読みそこなはずにだらだらとつづけてゆく。

日本武尊が草を薙ぎ払っているところ、馬が何匹もいて栗毛、鹿毛、連銭葦毛などの話のあるところ、黒人が駱駝に乗って砂漠をゆくところなど、一枚二枚と読んで、もう終わりに近い元寇の章まで来た。

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日本武尊が草を薙ぎはらつてるところ、馬が何匹もゐて栗毛、鹿毛かげ連銭葦毛れんせんあしげなどの話のあるところ、黒んぼが駱駝にのつて沙漠をゆくところなど一枚二枚と読んでもう終りにちかい元寇の章まできた。

中国の戦船がめちゃめちゃに壊れているところへ日本の小舟が漕ぎ寄せてゆく絵があって、閏七月三十日の夜に神風が吹いて、十万の軍勢がたった三人残ったばかりだと書いてある。

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支那のいくさ船がめちやめちやに壊れてるところへ日本の小舟が漕ぎよせてゆく絵があつて、閏七月三十日の夜に神風が吹いて十万の軍勢がたつた三人残つたばかりだと書いてある。

女の組では、いまさら油断したのを後悔して、人がちょっと息をつぐのにさえ手をあげて取ろうとする。

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女の組ではいまさら油断したのを後悔してひとがちよつと息をつぐのにさへ手をあげてとらうとする。

その狼狽の様子がおかしくて、なおなお落ち着きはらって、いよいよ陶器という章まで進んだが、困ったことに私は焼き物の製法などにあまり興味を持たなかったため、ふだんそこだけは飛ばしておさらいをしていたので、とうとうしどろもどろになって、訳なく取られてしまった。

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その狼狽の様子がをかしくなほなほ落ちつきはらつていよいよ陶器といふ章まですすんだが、困つたことに私は焼物の製法などにあまり興味をもたなかつたため平生そこだけはとばしておさらひをしてたのでやうやくしどろもどろになつて訳なくとられてしまつた。

そこでしぶしぶ女に株を譲らねばならないことになり、憎い敵は誰かと思ってみたら、意外にもそれはお蕙ちゃんだった。

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そこでしぶしぶ女に株をゆづらねばならぬことになり憎い敵は誰かと思つてみたら意外にもそれはお蕙ちやんだつた。

私は嬉しいような、いまいましいような変な気がした。

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私は嬉しいやうないまいましいやうな変な気がした。

悔し泣きに泣いたと見えて、目のまわりを赤くしている。

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くやし泣きに泣いたとみえて眼のまはりを赤くしてゐる。

そして本を持って立ち上がりはしたものの、泣きじゃくって一字も読めない。

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そして本をもつて立ちあがりはしたものの泣きじやくりして一字も読めない。

そのうち鈴が鳴って、その日は珍しく男の組の全勝になった。

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そのうち鈴が鳴つてその日は珍しく男の組の全勝になつた。

学校がひけてから、いつものとおり遊びに来たお蕙ちゃんは、まだ少し腫れぼったい目をして、きまり悪そうに

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学校がひけてからいつものとほり遊びにきたお蕙ちやんはまだすこし腫れぼつたい目をしてきまりわるさうに

「でもあたしほんとに悔しかったわ」

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「でもあたしほんとにくやしかつたわ」

と言った。

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といつた。

そうして袂から打ち紐を出して

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さうして袂からうち紐をだして

「綾とりしましょう」

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「綾とりしませう」

と言う。

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といふ。

小さな膝と膝を突きあわせたうえに、綺麗な紐が蒼白い手首にまとわれ、細く反らした指に引きはられていろんな形になる。

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小さな膝と膝をつきあはせたうへに綺麗な紐が蒼白い手くびにまとはれ、細くそらした指にひきはられていろんな形になる。

お蕙ちゃんは

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お蕙ちやんは

「水」

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「水」

と言って渡す。

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といつてわたす。

大事に取って

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だいじにとつて

「菱」

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「菱」

お蕙ちゃんは十の指を順にかけて

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お蕙ちやんは十の指を順にかけて

「ぺんぺんことかいな」

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「ぺんぺんことかいな」

と琴をつくる。

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と琴をつくる。

わたし

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わたし

「お猿さん」

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「お猿さん」

「鼓」

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「鼓」

あたかもお互いの友情が手から手へ織り渡されるかのように睦まじく、そうやって遊び暮らした。

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あだかもお互の友情が手から手へ織りわたされるかのやうに睦しくそんなにして遊びくらした。

四十七

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四十七

ある日のこと、修身のお話のときに先生が

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ある日のこと修身のお話のときに先生が

「今日は先生のかわりにみんながひとつずつ話をするのだ」

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「今日は先生のかはりにみんながひとつづつ話をするのだ」

と言って、自分は火鉢のそばへ椅子を引き寄せてあたりながら、なかで気の強そうな者やひょうきんな者を呼びだして話させたことがあった。

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といつて自分は火鉢のそばへ椅子をひきよせてあたりながらなかで気の強さうな者や剽軽な者を呼びだして話させたことがあつた。

ふだん立派に一方の餓鬼大将になり、愛嬌者になっている者でも、教壇に立って四方八方から顔を見られると、頬がつれ、舌がもつれて何も言えなくなってしまう。

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平生立派に一方の餓鬼大将になり愛嬌者になつてる者でも教壇に立つて四方八方から顔を見られると頬がつれ舌がもつれてなんにもいへなくなつてしまふ。

「所」

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「所」

という、ふだん人の馬にばかりなっているのっぽな男が真っ先に呼び出されて、膝頭をがたがた震わせながら

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といふふだんひとの馬にばかりなつてるのつぽな男がまつ先に呼出されて膝頭をがたがたふるはせながら

「足袋の話をします」

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「足袋の話をします」

と言った。

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といつた。

先生は

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先生は

「なに足袋の話? こりゃ面白そうだ」

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「なに足袋の話? こりや面白さうだ」

と油をかける。

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と油をかける。

所はどもりどもり

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所はどもりどもり

「あっちから足袋が流れてきて、こっちから足袋が流れていって、まんなかでぶつかって、たびたび御苦労です」

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「あつちから足袋が流れてきて、こつちから足袋が流れていつて、まんなかでぶつかつて、たびたび御苦労です」

と言って、そこそこに引っ込んだ。

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といつてそこそこにひつこんだ。

その次は吉沢という、下歯が上歯にかぶさった正直者で、えへへ、えへへ、とむやみに笑いながら

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その次は吉沢といふ下歯が上歯にかぶさつた正直者で、えへへ えへへ とむやみに笑ひながら

「槍の話をします」

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「槍の話をします」

と言った。

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といつた。

先生は

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先生は

「今度は槍の話か。これも面白かろう」

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「こんだは槍の話か。これも面白からう」

と言う。

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といふ。

「あっちから槍が流れてきて、こっちから槍が流れていって、まんなかでかちゃって、やりやり御苦労です」

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「あつちから槍が流れてきて、こつちから槍が流れていつて、まんなかでかちやつて、やりやり御苦労です」

と言って引っ込んだ。

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といつてひつこんだ。

手軽な話はみんな人にされてしまって、私も内心小さくなっていたところ、運悪く最後に当てられた。

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手軽な話はみんなひとにされてしまつて私も内内小さくなつてたところ運わるく最後にあてられた。

話は伯母さんに聞いていくらでも知っているけれど、短くて話しやすいのがひとつもない。

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話は伯母さんにきいていくらでも知つてるけれど短くて話しいいのがひとつもない。

で、しかたなしに、お皿を干された河童の話、というのをやったが、話してみれば案外度胸がすわって、気になるお蕙ちゃんのほうをちょいちょい見ながら、ぼつぼつと話し終わった。

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で、しかたなしに お皿をほされた河童の話 といふのをやつたが、話してみれば案外度胸がすわつて気になるお蕙ちやんのはうをちよいちよい見ながらぼつぼつと話しをはつた。

そうして先生にお辞儀をして帰ろうとしたら、先生は

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さうして先生にお辞儀をして帰らうとしたら先生は

「おまえはなかなか面の皮が厚いよ」

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「おまいはなかなか面の皮が厚いよ」

と言って、笑いながら頭をひとつたたいた。

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といつて笑ひながら頭をひとつたたいた。

それから女のほうの番になったが、机にしがみついていて誰ひとり出ないもので、一番から席順に呼び出されることになった。

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それから女のはうの番になつたが机に獅噛みついてゐて誰ひとり出ないもので一番から席順に呼びだされることになつた。

それでも出ないで泣きだす者さえある。

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それでも出ないで泣きだす者さへある。

で、お鉢はとうとう五番目までまわっていった。

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で、おはちはたうとう五番めまでまはつていつた。

お蕙ちゃんは覚悟をしていたらしく、素直に

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お蕙ちやんは覚悟をしてたらしくすなほに

「はい」

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「はい」

と言って教壇に立った。

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といつて教壇に立つた。

とはいえ、さすがに襟首まで赤くなってうつむいていたが、ややあって、夢ごこちに泳ぐような手つきをしながらひと言ずつ切れ切れに語りだしたときには、私は心配と同情とにはらはらして、まともに顔を見ることさえできなかった。

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とはいへさすがに襟くびまで赤くなつてさしうつむいてたが、ややあつて夢ごこちに泳ぐやうな手つきをしながらひと言づつきれぎれに語りだしたときには私は心配と同情とにはらはらしてまともに顔を見ることさへし得なかつた。

けれども、だんだん話が進むにつれてぱっちりした目がしゃんとすわり、大人びた凛々しい様子になって、その並びない澄みとおった声ではきはきと順序よく話し続けた、その話は、いつも私が聞かせた初音の鼓の話であった。

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けれどもだんだん話がすすむにつれぱつちりした眼がしやんとすわつて大人びたりりしい様子になり、そのならびない澄みとほつた声ではきはきと順序よく話しつづけたその話はいつも私がきかせた初音の鼓の話であつた。

生徒らは思いのほかな話し手の態度に魅せられ、珍しく面白い話に引きこまれて、いつとはなしに鳴りをしずめていた。

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生徒らは思ひのほかな話しての態度に魅せられ、珍しく面白い話にひきこまれていつとはなしに鳴りをしづめてゐた。

話がすんだときに先生は

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話がすんだときに先生は

「今日は男のほうはみんなよく話したのに、女はひとりも出なかったから負けのはずだったが、今の□□の話ひとつで女のほうが勝ちになった。先生は感心してしまった」

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「今日は男のはうはみんなよく話したのに女はひとりも出なかつたから負けのはずだつたが今の□□の話ひとつで女のはうが勝ちになつた。先生は感心してしまつた」

と言った。

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といつた。

女の子たちは思わずにこにこした。

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女の子たちは思はずにこにこした。

お蕙ちゃんもさっと顔を赤らめて、伏し目がちに自分の席へ帰ってゆくのを、私は嬉しいような妬ましいような不思議な気もちで見送った。

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お蕙ちやんもさつと顔を赤めてふしめがちに自分の席へ帰つてゆくのを私は嬉しいやうな嫉ましいやうな不思議な気もちで見おくつた。

あの話はお蕙ちゃんにさせるのではなかったものを。

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あの話はお蕙ちやんにさせるのではなかつたものを。

四十八

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四十八

冬の夜の遊びは、しみじみと身にしみて楽しいものである。

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冬の夜の遊びはしみじみと身にしみて楽しいものである。

お蕙ちゃんは手をかじかませて来て、部屋へ入るやいなや火鉢にかじりつく。

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お蕙ちやんは手をかじかませてきて部屋へはひるやいなや火鉢にかじりつく。

それは伯母さんが、この可愛いお客様のために毎晩山盛りに炭をついでおくことになっていた。

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それは伯母さんがこの可愛いお客様のために毎晩山もりに炭をついでおくことになつてゐた。

お蕙ちゃんが寒そうに肩をすぼめて、しばらくは火鉢の上にのりかかるようにしているのを、私は待ち遠しがっておさげの髪を引っぱったり、お稚児の輪のなかへ指を突っこんだりする。

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お蕙ちやんが寒さうに肩をすぼめて暫くは火鉢のうへにのりかかるやうにしてるのを私は待ちどほしがつておさげの髪をひつぱつたり、お稚児の輪のなかへ指をつつこんだりする。

と、向こうも私に負けない癇癪もちなので、むきになって泣きだしたりすることもあった。

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と、さきも私に負けない癇癪もちなのでむきになつて泣きだしたりすることもあつた。

そうなるとこちらは一も二もなく降参して、ひたすら謝りに謝ってしまう。

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さうなるとこちらは一も二もなく降参してひたあやまりにあやまつてしまふ。

突っ伏している耳もとへ口を寄せて

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つつぷしてる耳もとへ口をよせて

「堪忍して、堪忍して」

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「堪忍して、堪忍して」

と言っても、首をふっていてなかなか聞いてくれない。

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といつても首をふつてゐてなかなかきいてくれない。

が、ひと泣き泣いてしまえば

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が、ひと泣き泣いてしまへば

「もういいのよ」

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「もういいのよ」

と、からりと機嫌を直して、恨むような淋しい笑顔を見せる。

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とからりと機嫌をなほして怨むやうな淋しい笑顔をみせる。

そんなとき、私はそのほんのりした瞼から涙を拭いてやることもあった。

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そんなとき私はそのほんのりしたまぶたから涙をふいてやることもあつた。

お蕙ちゃんは泣き真似が上手だった。

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お蕙ちやんは泣きまねが上手だつた。

つまらないことを二言三言言いあううちに急にぷりぷりしたと思うと、いきなり人の膝に顔を隠しておいおいと泣く。

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つまらないことを二言三言いひあふうちに急にぷりぷりしたと思ふといきなりひとの膝に顔をかくしておいおいと泣く。

私はその重たいぬくみを感じながら、簪を抜いてみたり、くすぐってみたり、手を変え品を変えて機嫌を直そうとすれば、なおなお泣きたてるので、こちらに咎はないと思いながらも一所懸命に詫びる。

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私はその重たいぬくみを感じながら、簪をぬいてみたり、くすぐつてみたり、手をかへ品をかへて機嫌をなほさうとすればなほなほ泣きたてるのでこちらにとがはないと思ひながらも一所懸命にわびる。

と、さんざんてこずらしておいてから不意に顔をあげ、べろっと舌を出して、ああいい気味だ、というように得意に笑いこける。

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と、さんざてこずらしておいてから不意に顔をあげべろつと舌をだして ああいい気味だ といふやうに得意に笑ひこける。

すべっこい細い舌だった。

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すべつこい細い舌だつた。

私はあまりたびたびその手を食ったため、しまいには本泣きか嘘泣きかを、額に出る癇癪筋のあるなしで見わけることをおぼえた。

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私はあまりたびたびその手をくつたためしまひにはほん泣きかうそ泣きかを額に出る癇癪筋のあるなしで見わけることをおぼえた。

また睨めっこが得手で、いつでも私を負かした。

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また睨めつこが得手でいつでも私を負かした。

お蕙ちゃんの顔は自由自在に動いて、勝手気ままな表情ができる。

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お蕙ちやんの顔は自由自在に動いて勝手気儘な表情ができる。

あんがりめ、さんがりめ、なんと言って、両手で目玉をゴムみたいに伸び縮みさせたりする。

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あんがりめ さんがりめ なんといつて両手で眼玉をごむみたいに伸び縮みさせたりする。

私はその睨めっこが大嫌いだった。

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私はその睨めつこが大嫌ひだつた。

それは自分が負けるからではなくて、お蕙ちゃんの整った顔が白目を出したり、鰐口になったり、見るも無惨に歪んだ顔になるのが、本当に情けなかったからである。

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それは自分が負けるからではなくて、お蕙ちやんの整つた顔が白眼をだしたり、鰐口になつたり、見るも無惨な片輪になるのがしんじつ情なかつたからである。

そうしているうちに、いつか私はお犬様や丑紅の牛といっしょに、お蕙ちゃんまでを自分のもののように思って、その身にふりかかる毀誉褒貶の言葉や幸不幸な出来事は、そのままひしひしとこちらの胸にこたえるようになった。

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そんなにしてるうちにいつか私はお犬様や丑紅の牛といつしよにお蕙ちやんまでを自分のものみたいに思つてその身にふりかかる毀誉褒貶の言葉や幸不幸な出来事はそのままひしひしとこちらの胸にこたへるやうになつた。

私はお蕙ちゃんを綺麗な子だと思いはじめた。

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私はお蕙ちやんを綺麗な子だと思ひはじめた。

それがどんなに得意だっただろう。

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それがどんなに得意だつたらう。

しかしそれと同時に、自分の容貌は、かつて思いもかけなかったつらい重荷となった。

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併しそれと同時に自分の容貌は嘗て思ひもかけなかつたつらい重荷となつた。

自分はもっともっと綺麗な子になって、お蕙ちゃんの心を引きたい。

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自分はもつともつと綺麗な子になつてお蕙ちやんの心をひきたい。

そうして二人だけが仲よしになって、いつまでもいっしょに遊んでいたい。

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さうして二人だけが仲よしになつていつまでもいつしよに遊んでゐたい。

私はそんなことを考えはじめた。

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私はそんなことを考へはじめた。

ある晩、私たちは肱かけ窓のところに並んで、百日紅の葉ごしにさす月の光をあびながら歌をうたっていた。

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ある晩私たちは肱かけ窓のところに並んで百日紅の葉ごしにさす月の光をあびながら歌をうたつてゐた。

そのとき、なにげなく窓から垂れている自分の腕を見たところ、我ながら見とれるほど美しく、透きとおるように蒼白く見えた。

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そのときなにげなく窓から垂れてる自分の腕をみたところ我ながら見とれるほど美しく、透きとほるやうに蒼白くみえた。

それはお月様のほんの一時のいたずらだったが、もしこれが本当ならば、と頼もしいような気がして

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それはお月様のほんの一時のいたづらだつたが、もしこれがほんとならば と頼もしいやうな気がして

「こら、こんなに綺麗に見える」

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「こら、こんなに綺麗にみえる」

と言って、お蕙ちゃんの前へ腕を出した。

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といつてお蕙ちやんのまへへ腕をだした。

「まあ」

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「まあ」

そう言いながら恋人は袖をまくって

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さういひながら恋人は袖をまくつて

「あたしだって」

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「あたしだつて」

と言って見せた。

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といつて見せた。

しなやかな腕が蝋石みたいに見える。

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しなやかな腕が蝋石みたいにみえる。

二人はそれを不思議がって、二の腕から脛、脛から胸と、ひやひやする夜気に肌をさらしながら、時のたつのも忘れて驚嘆を続けた。

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二人はそれを不思議がつて二の腕から脛、脛から胸と、ひやひやする夜気に肌をさらしながら時のたつのも忘れて驚嘆をつづけた。

四十九

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四十九

そのころ西隣へ縫箔を内職にする家が越してきて、そこの息子の富公というのが新たに同級になった。

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そのころ西隣へ縫箔ぬひはくを内職にする家がこしてきてそこの息子の富公といふのがあらたに同級になつた。

彼はさっぱり出来ない子だったが、口前がいいのと、年が二つも上で力が強いために、たちまち級の餓鬼大将になった。

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彼はさつぱり出来ない子だつたが口前がいいのと年が二つも上で力が強いために忽ち級の餓鬼大将になつた。

で、自然、私はこれまでのように権威をふるうことができないばかりか、体面上そうそう頭をさげてゆくこともならず、ひとり仲間はずれのかたちになってしまった。

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で、自然私はこれまでのやうに権威をふるふことができないばかりか体面上さうさう頭をさげてゆくこともならず、ひとり仲間はづれのかたちになつてしまつた。

彼は近所に友達がないもので、学校から帰ると私を誘いに来て裏で遊ぶ。

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彼は近処に友達がないもので学校から帰ると私を誘ひにきて裏で遊ぶ。

私は彼をあまり好かないのと、お蕙ちゃんと遊びたいのが山々なのとで、ちっとも気が進まなかったけれど、その反感を買うのを恐れて、しょうことなしに付きあっていた。

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私は彼をあんまり好かないのとお蕙ちやんと遊びたいのが山山なのとでちつとも気がすすまなかつたけれど、その反感をかふのを懼れてせうことなしにつきあつてゐた。

もともとおてんばの好きなお蕙ちゃんは、私たちの遊びを垣根ごしに面白そうに見ていたが、ついには自分も出てきて、見よう見まねに縄とびや箍まわしなどをやるようになった。

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もともとおてんばの好きなお蕙ちやんは私たちの遊びを垣根ごしに面白さうに見てたが終には自分も出てきて見やう見まねに縄とびや箍まはしなどをやるやうになつた。

如才ない富公は、お嬢さん、お嬢さん、と機嫌をとって、さかだちをしたり、とんぼ返りをしたり、いろんな芸当をやってみせる。

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如才ない富公は お嬢さん お嬢さん と機嫌をとつて、さかだちをしたり、筋斗とんぼがいりをしたり、いろんな芸当をやつてみせる。

そんなことの大好きなお蕙ちゃんは、富ちゃん、富ちゃん、と彼のあとばかり追ってあるく。

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そんなことの大好きなお蕙ちやんは 富ちやん 富ちやん と彼のあとばかり追つてあるく。

伯母さんひとりの手に育てられ、お国さんとばかり遊んでいた私は修業を積んでいないのでとてもそんな離れ業はできず、不甲斐なくも、富公がこの小女王の寵愛をほしいままにするのを指をくわえて見ているよりほかはなかった。

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伯母さんひとりの手に育てられてお国さんとばかり遊んでた私は修業がつまないのでとてもそんなはなれわざはできず、器量わるくも富公がこの小女王の寵幸をほしいままにするのを指をくはへて見てるよりほかはなかつた。

お蕙ちゃんは晩に家へ来ても富公の話ばかりして、私が機嫌をとるために持ち出す絵本や草双紙など見向きもしない。

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お蕙ちやんは晩に家へきても富公の話ばかりして私が機嫌をとるためにもちだす絵本や草双紙なぞ見むきもしない。

三人で遊んでいるときにも、富公がいい気になって人のことを下手くそだの意気地なしだのと言えば、いっしょになって馬鹿にする。

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三人で遊んでるときにも富公がいい気になつてひとのことを下手つくその意気地なしのといへばいつしよになつてばかにする。

さかだちもとんぼ返りもできない芸なしに自分をしつけた伯母さんが、今さら恨めしい。

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さかだちも筋斗がいりもできない芸なしに自分をしつけた伯母さんが今さら怨めしい。

そんなで、私は富公がいやでならないのをじっと虫を殺して逆らわないでいたが、その堪忍もついに緒が切れて、あるときあまりなことを言うのをむっとして言い返したら、彼はさんざん口ぎたなく罵ったあげく、お蕙ちゃんに耳打ちをして、意味ありげに人を尻目にかけながら

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そんなで私は富公がいやでならないのをじつと虫を殺して逆らはないでたがその堪忍も終に緒がきれて、あるときあんまりなことをいふのをむつとして口返しをしたら彼はさんざ口ぎたなく罵つたあげくお蕙ちやんに耳つこすりをして意味ありげにひとをしり目にかけながら

「あばよ、しばよ」

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「あばよ、しばよ」

と言ってさっさと帰りかけた。

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といつてさつさと帰りかけた。

それをお蕙ちゃんまでが真似をして

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それをお蕙ちやんまでがまねをして

「あばよ、しばよ」

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「あばよ、しばよ」

と言い言い、あとについていってしまった。

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といひいひあとについていつてしまつた。

自分のところへ連れていったのに違いない。

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自分のとこへつれてつたのにちがひない。

それからお蕙ちゃんはばったり来なくなった。

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それからお蕙ちやんはばつたり来なくなつた。

たまに顔を合わせてもにこりともせずに隠れてしまう。

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たまに顔をあはせてもにこりともしずに隠れてしまふ。

富公が入れ知恵をしたのだ、そう思えば、私は小さな胸に煮えかえるほどの嫉妬と憤怒を起こさずにはいられなかった。

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富公が意地をつけたのだ さう思へば私は小さな胸に煮えかへるほどの嫉妬と憤怒をおこさずにはゐられなかつた。

学校でも彼はみんなをけしかけて、私ひとりをちくちくといじめる。

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学校でも彼はみんなをけしかけて私ひとりをちくちくといぢめる。

私はそうした口前はもとより、腕力においても確かに彼に一目おかねばならない。

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私はさうした口前はもとより腕力に於ても確に彼に一目おかねばならぬ。

で、今はわずかに自分が首席であるということだけが、せめてもの慰めであった。

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で、今は纔に自分が首席であるといふことだけがせめてもの慰めであつた。

とはいえ、それもお蕙ちゃんなくしては、結局ただの空位にすぎないではないか。

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とはいへそれもお蕙ちやんなくしては畢竟ただの空位にすぎないではないか。

五十

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五十

気も狂いそうな日が幾日か続いた。

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気も狂ひさうな日がいく日かつづいた。

ある日のこと、私がまたひとり自習室に閉じこもって思い悩んでいるときに、ふとぽくぽくちりちりいうぽっくりの音が聞こえた。

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ある日のこと私がまたひとり自習室にとぢこもつて思ひ悩んでるときにふとぽくぽくちりちりいふぽつくりの音がきこえた。

はっとしたが、胸を押さえて窓を開けることはしなかった。

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はつとしたが胸をおさへて窓をあけることはしなかつた。

すると、忘れる間もない懐かしい声が

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すると忘れるまもないなつかしい声が

「ごめんあそばせ」

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「ごめんあそばせ」

と格子のところで言った。

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と格子のところでいつた。

「どなた様でございます」

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「どなた様でございます」

伯母さんがそらとぼけて出ていって

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伯母さんがそらとぼけて出ていつて

「おお、おお、どこのお客様かと思ったら、こんなかわいいお嬢様だった」

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「おお おお どこのお客様かと思つたらこんなかはええお嬢様だつた」

と言い言い抱えあげる様子で、訳を知らないものだから、風邪をひいたのか、お泊まりに行ったのか、と尋ねている。

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といひいひ抱へあげる様子で、訳をしらないもので かぜをひいたか の、お泊りにいつたか のと尋ねてゐる。

お蕙ちゃんは伯母さんの開けた障子からおとなしく入ってきて

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お蕙ちやんは伯母さんのあけた障子からおとなしくはひつてきて

「御無沙汰いたしました」

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「御無沙汰いたしました」

としとやかに手をついた。

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としとやかに手をついた。

こらえにこらえていた私は、そのひと言に張りつめた気の弦を切られて、われ知らず

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こらへにこらへてた私はそのひと言に張りつめた気のつるをきられてわれしらず

「お蕙ちゃん」

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「お蕙ちやん」

と呼びかけると同時に、悔し涙がさっとこぼれた。

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と呼びかけると同時にくやし涙がさつとこぼれた。

それをさほど気にするでもないらしく、袂からお手玉を出しはじめるのを

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それをさまで気にするでもないらしく袂からお手玉をだしはじめるのを

「なぜ来なかったの」

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「なぜ来なかつたの」

と言えば、案外平気で

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といへば案外平気で

「富ちゃんとこへ行ってたから」

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「富ちやんとこへいつてたから」

と言う。

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といふ。

畳みかけて

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畳みかけて

「なぜ今日は行かないの」

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「なぜ今日はいかないの」

と問い詰めれば、事もなげに

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なじれば事もなげに

「富ちゃんとこなんか行っちゃいけないって、お母様に叱られたから」

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「富ちやんとこなんかいつちやいけないつてお母様かあさまに叱られたから」

と答える。

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と答へる。

私は気を折られながらも、いつぞやの恨みを少し言ったら、お蕙ちゃんは

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私は気を折られながらもいつぞやの怨みをすこしいつたらお蕙ちやんは

「ごめんなさいね」

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「ごめんなさいね」

と前置きをして、富ちゃんが、あんな子と遊ばないでも家へ来ればいくらでも面白いことがある、と言ったからだと言い訳をして

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と前おきをし、富ちやんが あんな子と遊ばないでも家へくればいくらでも面白いことがある といつたからだといひ訳をして

「お母様に叱られて富ちゃんが大嫌いになったから、またあなたと仲よくしましょう」

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「お母様に叱られて富ちやんが大嫌ひになつたからまたあなたと仲よくしませう」

と言う。

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といふ。

私の心を何と言おうか。

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私の心をなんといはうか。

お蕙ちゃんはやっぱり私のものだった。

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お蕙ちやんはやつぱし私のものだつた。

そうとは知らず、富公は一日待ちくたびれていたのだろう。

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さうとは知らず富公は一日待ちくたびれてたのだらう。

あくる日、学校でこちらが見張っているとも気づかず、こっそりそばへ寄って何か言いかけたが、お蕙ちゃんは、もうあなたなんぞ嫌いだ、とけんもほろろの挨拶をした。

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明る日学校でこちらが見張つてるとも気づかずこつそりそばへよつてなにかいひかけたがお蕙ちやんは もうあなたなんぞ嫌ひだ とけんもほろろの挨拶をした。

お蕙ちゃんはお母様に叱られて以来、心から彼を軽蔑するらしかった。

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お蕙ちやんはお母様に叱られて以来しんから彼を軽蔑するらしかつた。

五十一

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五十一

奸智にたけた富公は、自分が疎んじられるのを見るや、しらじらしくも親しげに私のそばへ寄ってきて、いろいろと機嫌をとったあげく、お蕙ちゃんを中傷するようなことを言って、自分もあの子とは遊ばないことにしたから君も決していっしょに遊ぶな、と言ったので、腹のなかで笑いながらいいかげんに挨拶をしておいた。

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奸智にたけた富公は自分がうとんぜられるのをみるやしらじらしくも親しげに私のそばへよつてきていろいろと機嫌をとつたあげくお蕙ちやんを中傷するやうなことをいつて 自分もあの子とは遊ばないことにしたから君も決していつしよに遊ぶな といつたので、腹のなかで笑ひながらいいかげんに挨拶をしておいた。

とはいえ、その後、私とお蕙ちゃんがもとのとおり仲よくなったことを勘づくやいなや、彼は恐ろしい仕返しをたくらんだ。

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とはいへその後私とお蕙ちやんがもとのとほり仲よくなつたことを勘付くやいなや彼は恐しい仕返しをたくらんだ。

彼は毎日学校で遊び時間になると、みんなをけしかけて二人を囃したてる。

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彼は毎日学校で遊び時間になるとみんなをけしかけて二人を囃したてる。

そうして、みんなが草臥れて火の手をゆるめると、勝手にこしらえた言語道断なことを耳打ちして、ひとりひとり焚きつけてあるく。

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さうしてみんながくたびれて火の手をゆるめると勝手にこしらへた言語道断なことを耳うちしてひとりびとりたきつけてあるく。

私たちは仲間はずれにされ、意味ありげな目に取りまかれて、みじめな境涯に落ちてしまった。

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私たちは仲間はづれにされ意味ありげな眼にとりまかれてみじめな境涯に堕ちてしまつた。

しかしそうなれば、いきおい一層睦まじくなり、厭わしい一日の課業をすませて家へ帰って遊ぶときには、お互いの胸に言い知れぬ楽しさと慰めのあふれるのを覚えた。

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しかしさうなればいきほひ一層睦しくなり、厭はしい一日の課業をすませて家へ帰つて遊ぶときにはお互の胸にいひしらぬ楽しさと慰めのあふれるのをおぼえた。

富公の意趣返しは日に日に悪辣になり、こちらの敵意もそれにつれて高まってゆく。

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富公の意趣返しは日に日に悪辣になり、こちらの敵意もそれにつれてたかまつてゆく。

私はほかの雑兵どもはものの数とも思わないし、それに奴自身も案外強くないに違いない。

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私はほかの雑兵ざふひやうばらはものの数とも思はないし、それに奴自身も案外強くないに相違ない。

その証拠には、ときどき私がかっとして向かってゆくと、彼は一騎打ちをせずにうまく逃げて、遠巻きに人を苦しめようとする。

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その證拠にはときどき私がかつとしてむかつてゆくと彼は一騎打ちをしずにうまく逃げて遠巻きにひとを苦しめようとする。

私はようやく相手を見くびると同時に、いつか思うさまこの仕返しをしてやろうという気がむらむらと起こった。

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私はやうやく相手を見くびると同時にいつか思ふさまこの返報をしてやらうといふ気がむらむらとおこつた。

そのうちある日のこと、例のちょっぺいが学校のひけがけにこそこそとやってきて

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そのうちある日のことれいのちよつぺいが学校のひけがけにこそこそとやつてきて

「あした待ち伏せするって言ってたよ」

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「あした待ちぶせするつていつてたよ」

と言うなり、見つかるのが怖いのかさっさと駆けていった。

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といふなり見つかるのが怖いのかさつさと駈けていつた。

私はちょっぺいの心根を嬉しく思った。

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私はちよつぺいの心根を嬉しく思つた。

翌朝、私は二尺ばかりの布袋竹のでこでこしたやつを羽織の下へしのばせて、さあ来い、という気で学校へ行った。

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翌朝私は二尺ばかりの布袋竹ほていちくのでこでこなやつを羽織のしたへしのばせて さあこい といふ気で学校へいつた。

最後の時間がすむやいなや富公は

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最後の時間がすむやいなや富公は

「みんな来い、みんな来い」

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「みんなこい みんなこい」

と合図しながら、真っ先に教場を駆けだした。

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と相図しながらまつ先に教場を駈けだした。

すると、なかでもおべっか使いの三、四人の奴らがばらばらとあとについていった。

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するとなかでもおべつかつかひの三四人の奴らがばらばらとあとについていつた。

私は覚悟をきめて、わざといちばんあとから帰ったら、相手は案の定、人通りのない八幡様の笹藪のところで待ちかまえていて、おべっか使いが、えへん、えへん、と馬鹿にした咳払いをする。

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私は覚悟をきめてわざといちばんあとから帰つたら相手は案のぢやう人通りのない八幡様の笹藪のところで待ちかまへてゐておべつかが えへん えへん とばかにした咳ばらひをする。

こちらは、今日こそ、と思う心を色にも見せず、すまして通ろうとするのを、富公は

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こちらは 今日こそ とおもふ心を色にもみせずすまして通らうとするのを富公は

「そら、やれやれ」

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「そら、やれやれ」

と号令をかけた。

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下知げぢをした。

ほかの者は格別意趣があるではなし、それに到底私の敵ではないので、ただまわりからわいわい言うばかりだったが、なかにひとり、寺の息子の爛れ目の奴が、どういう忠義だてか、いきなり後ろから首っ玉へ噛りついた。

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ほかの者は格別意趣があるではなし、それに到底私の敵ではないのでただまはりからわいわいいふばかりだつたが、なかにひとり寺の息子の爛れ目の奴がどういふ忠義だてかいきなり後ろから頸つたまへ噛りついた。

富公は内心びくびくしながらも、頼もしい味方の振る舞いに力を得て

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富公は内心びくびくしながらも頼もしい味方の振舞に力を得て

「こら、貴様生意気だぞ」

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「こら、貴様生意気だぞ」

と言って寄ってきたので、私はいきなり布袋竹で真っ向を食らわしてやった。

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といつて寄つてきたので私はいきなり布袋竹で真向をくらはしてやつた。

そうしたら富公は、意外にもたちまちへなへなとして

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さうしたら富公は意外にも忽ちへなへなとして

「いやだあ、乱暴するんだもの」

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「いやだあ、乱暴するんだもの」

と言いながら、額を押さえてめそめそ泣きだした。

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といひながら額をおさへてめそめそ泣きだした。

この汚い大将の負けようを、今さら、とんだ者に加勢した、という顔つきで眺めていた雑兵どもは、そろそろ自分たちの身が危なくなってきたのを見て

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このきたない大将の負けやうを今更 とんだ者に加勢した といふ顔つきで眺めてた雑兵ばらはそろそろ自分たちの身がけんのんになつてきたのをみて

「おら知らねえと」

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「おら知らねえと」

とてんでに言いながら、こそこそと帰っていった。

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とてんでにいひながらこそこそと帰つていつた。

ただ驚いたのはあの爛れ目の坊主で、大将もろとも討死の覚悟か、目をつぶって死に身にぐたりとぶら下がったまま、どうしても離れない。

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ただ驚いたのは目くされの坊主で、大将もろとも討死の覚悟か目をつぶつて死に身にぐたりとつるさがつたなりどうしてもはなれない。

さすがの剛の者もそれにはほとほと弱ったが、やっとのことでへばりつく奴をもぎ離して帰ったときには、実はこちらも泣きかかっていた。

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さすがの剛の者もそれにはほとほと弱つたが、やつとのことでへばりつく奴をぎはなして帰つたときには実はこちらも泣きかかつてゐた。

五十二

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五十二

つららを折り、堅炭で雪を釣るうちに、桃のお節句が来た。

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つららを折り、堅炭で雪をつるうちに桃のお節句がきた。

家には、神田の大火事に不思議に焼け残ったという古いお雛様があって、五人囃子が三人になり、矢背負いの矢があらかた折れているなどさんざんだったが、それでも毎年子どもたちの慰みに必ず飾ることになっていた。

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家には神田の大火事に不思議に焼けのこつたといふ古いお雛様があつて、五人囃子が三人になり、矢しよひの矢があらかた折れてるなどさんざんだつたが、それでも毎年子供たちの慰みに必ず飾ることになつてゐた。

伯母さんは家じゅうのがらくたを寄せ集めて、貝細工の屏風を立てまわしたり、千代紙のお三方にちりちりを盛ったりして調度の足りないところをふさぎ、子どもの目にはさも立派なお雛様に見えるようにうまくこしらえてくれる。

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伯母さんは家ぢゆうのがらくた物をよせあつめて、貝細工の屏風を立てまはしたり、千代紙のお三方にちりちりを盛つたりして調度のたりないところをふさげ、子供の眼にはさも立派なお雛様にみえるやうにうまくこしらへてくれる。

緋の毛氈を敷いた壇の上に綺麗な人たちを並べ、いちばん上は私の、二段目は妹の、三段目は末の妹のと決めて、菱餅やはぜを供えるときの嬉しさといったらない。

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緋の毛氈をしいた壇のうへに綺麗な人たちをならべ、いちばん上は私の、二段めは妹の、三段めは末の妹のときめて菱餅やはぜを供へるときの嬉しさといつたらない。

寝ているうちに栄螺が逃げやしないかと心配して笑われたことも覚えている。

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寐てるうちに蠑螺が逃げやしないかと心配して笑はれたこともおぼえてゐる。

お節句にはわざわざお蕙ちゃんを呼んだ。

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お節句にはわざわざお蕙ちやんをよんだ。

お蕙ちゃんは大よそいきの着物に、赤い総のついた被布を着てやってきた。

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お蕙ちやんは大よそいきの著物に赤い総のついた被布をきてやつてきた。

二人が雛壇の前へちょこなんと座って仲よく豆煎りなど食べていると、伯母さんは三つ組みのお盃の小さいのをお客様に、なかほどのを私に取らせて、とろとろの白酒をついでくれる。

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二人が雛段のまへへちよこなんと坐つて仲よく豆煎なぞたべてると伯母さんは三つ組みのお盃の小さいのをお客様に、なかほどのを私にとらせてとろとろの白酒をついでくれる。

白酒が銚子の口から棒みたいに垂れてむっくりと盛りあがるのを、こくこくと前歯で噛みながら、めだかみたいに鼻を並べて飲む。

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白酒が銚子の口から棒みたいにたれてむつくりと盛りあがるのをこくこくと前歯でかみながらめだかみたいに鼻をならべてのむ。

子煩悩な伯母さんは、こんなふうに小さな者を喜ばせるのが何よりの楽しみで、自分もほくほくしながら

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子煩悩な伯母さんはこんなにして小さな者を喜ばせるのがなによりの楽しみで自分もほくほくしながら

「二人ながらかわいい、かわいい」

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「二人ながらかはええ かはええ」

と両手でいっしょに背中をなでてくれる。

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と両手でいつしよに背中をなでてくれる。

乳母はお決まりの、お雛様のような御夫婦だ、を言って私たちをいやがらせる。

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乳母はおきまりの お雛様のやうな御夫婦だ をいつて私たちをいやがらせる。

お蕙ちゃんは大よそいきだものですましていて、まりやお手玉もちゃんと持っているくせに、いじくってばかりいてしようとも言わない。

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お蕙ちやんは大よそいきだもんですましてゐて、まーりやお手玉もちやんと持つてるくせにいぢくつてばかりゐてしようともいはない。

双六や、水中花や、十六むさしや、南京玉の抜きっこなどやって、やっと少しはしゃいできたところを、そのころ姉から譲り受けた成田屋の勧進帳と音羽屋の助六の羽子板を持って、ようやく裏へ誘いだした。

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双六や、水中花や、十六むさしや、南京玉のぬきつこなぞやつてやつとすこしはしやいできたところをそのころ姉から譲りうけた成田屋の勧進帳と音羽屋の助六の羽子板をもつてやうやく裏へ誘ひだした。

が、二人とも金魚みたいにぞろぞろしているうえに、大きな羽子板が手にあまって、二つ三つつくとは落としてしまう。

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が、二人とも金魚みたいにぞろぞろしてるうへに大きな羽子板が手にあまつて二つ三つつくとは落してしまふ。

「油屋おそめ、久松十よ」

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「油屋おそめ、久松十よ」

それでも面白半分に、ぽんぽんとお尻の打ちっこをした。

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それでも面白半分にぽんぽんお尻の打ちつこをした。

五十三

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五十三

お節句が過ぎると間もなくお父様が亡くなったために、お蕙ちゃんはその当座しばらく来なかったが、ある晩、不意にまたぽくぽくちりちりとぽっくりの音をさせて遊びに来た。

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お節句がすぎると間もなくお父様がなくなつたためにお蕙ちやんはその当座しばらくこなかつたがある晩不意にまたぽくぽくちりちりとぽつくりの音をさせて遊びにきた。

しかし思いなしかひどく沈んでいるので私は気が気でなく、家の者も気の毒がっていろいろと慰めたら、あたしの家はあしたお引越しするのだ、と言った。

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併し思ひなしかひどく沈んでるので私は気が気でなく、家の者も気の毒がつていろいろと慰めたら あたしの家はあしたお引越しするのだ といつた。

お祖母様とお母様とでお国へ帰るのだそうだ。

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お祖母様とお母様とでお国へ帰るのださうだ。

お蕙ちゃんは

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お蕙ちやんは

「あたしお引越しは嬉しいけど、遠くへ行けばもう遊びに来られないからつまらないわ」

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「あたしお引越しは嬉しいけど遠くへいけばもう遊びにこられないからつまらないわ」

とやるせなさそうに言う。

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とやるせなささうにいふ。

で、私もどうしようかと思うほど情けなくなって、二人してふさいでいた。

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で、私もどうしようかと思ふほど情なくなつて二人してふさいでゐた。

これがお別れだと言って、その晩はみんないっしょに遊んだが、乳母もさすがに

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これがお別れだといつてその晩はみんないつしよに遊んだが乳母もさすがに

「ほんとにお不仕合せなお子さんだ」

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「ほんとにお不仕合せなお子さんだ」

と言い言い、しげしげと顔を見つめていた。

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といひいひしげしげと顔を見つめてゐた。

次の日には、お祖母様に手を引かれて玄関まで暇乞いに来た。

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次の日にはお祖母様に手をひかれて玄関まで暇乞ひにきた。

私は、いつもの大人びた言葉つきでしとやかに挨拶をするお蕙ちゃんの声を聞いて、飛んでも出たいのを、急に訳のわからない恥ずかしさがこみあげて、うじうじと襖のかげに隠れていた。

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私はいつもの大人びた言葉つきでしとやかに挨拶をするお蕙ちやんの声をきいて飛んでも出たいのを急に訳のわからない恥しさがこみあげてうぢうぢと襖のかげにかくれてゐた。

お蕙ちゃんは行ってしまった。

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お蕙ちやんはいつてしまつた。

あとを見送っていた家の者は口々に

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あとを見おくつてた家の者はくちぐちに

「綺麗なお嬢様だこと」

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「綺麗なお嬢様だこと」

と言った。

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といつた。

お蕙ちゃんはお雛様のときの着物を着てきたという。

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お蕙ちやんはお雛様のときの著物をきてきたといふ。

ひとり机の前に座って、なぜ会わなかったのだろう、と甲斐もない涙にくれているのを、乳母は早くも見つけて

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ひとり机のまへに坐つて なぜあはなかつたらう とかひもない涙にくれてるのを乳母ははやくも見つけて

「坊ちゃまもおかわいそうだ」

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「坊ちやまもおかはいさうだ」

と言った。

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といつた。

あくる日、私は誰より先に学校へ行った。

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明る日私は誰より先に学校へいつた。

そうして、そっとお蕙ちゃんの席に腰かけてみたら、今更のように懐かしさが湧きおこって、じいっと机を抱えていた。

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さうしてそつとお蕙ちやんの席に腰かけてみたら今更のやうになつかしさが湧きおこつてじいつと机をかかへてゐた。

お蕙ちゃんはいたずら者である。

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お蕙ちやんはいたづら者である。

そこには鉛筆で山水天狗やヘマムシ入道がいっぱい描いてあった。

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そこには鉛筆で山水天狗やヘマムシ入道がいつぱいかいてあつた。

これはもう二十年も昔の話である。

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これはもう二十年も昔の話である。

私はなんだかお蕙ちゃんが死んでしまったような気がしてならない。

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私はなんだかお蕙ちやんが死んでしまつたやうな気がしてならない。

そうかと思えば、時には今でもお蕙ちゃんが生きていて、折ふしそのころのことなど思いだしているような気もする。

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さうかとおもへば時には今でもお蕙ちやんが生きてゐて折ふしそのじぶんのことなど思ひだしてるやうな気もする。

(大正元年初稿)

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(大正元年初稿)

後篇

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後篇

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中沢先生は気のやさしい人だったけれど、ずいぶんな癇癪もちで、どうかしてかっとすれば、教鞭でぐらぐらするほど人の頭をぶったりした。

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中沢先生は気のやさしい人だつたけれど随分な癇癪もちで、どうかしてかつとすれば教鞭でもつてぐらぐらするほどひとの頭をぶつたりした。

それでも私は先生が大好きで、御苦労にも家の庭にある棕櫚の枝を取っては、痛い思いをするために新しい鞭を先生に与えた。

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それでも私は先生が大好きで、御苦労にも家の庭にある棕櫚の枝をとつては痛い思ひをするために新しい鞭を先生に与へた。

すると先生はいつもにやにや笑いながら

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すると先生はいつもにやにや笑ひながら

「ありがとう。頭をたたくにはこれがいちばんだ」

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「ありがたう。頭をたたくにはこれがいちばんだ」

と言って、ひとつたたく真似をしてみたりする。

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といつてひとつたたくまねをしてみたりする。

私は何ひとつ言うことを聞かず勝手気ままにしていたので、よっぽど持てあましているらしかったが、やっぱり可愛がっているのだと、こちらひとりで決めていた。

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私はなにひとついふことをきかず勝手気儘にしてたのでよつぽどもてあましてるらしかつたが、やつぱり可愛がつてるのだとこちらひとりできめてゐた。

みんなの行儀が悪いために例の癇癪が起こって、先生の顔が火の玉みたいになると、生徒たちは縮みあがって鳴りをしずめてしまう。

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みんなの行儀がわるいためにれいの癇癪がおこつて先生の顔が火の玉みたいになると生徒たちは縮みあがつて鳴りをしづめてしまふ。

そんな時でも私は平気の平左で笑いながら見ているもので、ある日、先生は見まわりに来た校長さんに、私のことを、無神経でしょうがない、と言ってこぼした。

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そんな時でも私は平気の平左で笑ひながら見てるものである日先生は見まはりにきた校長さんに私のことを 無神経でしやうがない といつてこぼした。

校長さんは、傍へ来て自分の噂を面白そうに聞いている私に

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校長さんは傍へきて自分の噂を面白さうにきいてる私に

「先生が怖くないか」

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「先生が怖くないか」

と聞いた。

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ときいた。

「いいえ、ちっとも」

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「いいえ、ちつとも」

私は答えた。

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私は答へた。

「なぜ怖くない」

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「なぜ怖くない」

「先生だってやっぱり人間だと思うから」

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「先生だつてやつぱり人間だと思ふから」

二人は顔を見合わせて苦笑いしたきり、何とも言わなかった。

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二人は顔を見合せて苦笑ひしたきりなんともいはなかつた。

私はそのころから、しかつめらしい大人の殻を通して中に隠れている滑稽な子どもを見るようになっていたので、普通の子どもが持っているような、大人というものに対する特別な敬意は、到底持ち得なかったのである。

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私はその頃から鹿爪らしい大人の殻をとほして中にかくれてる滑稽な子供を見るやうになつてたので一般の子供がもつてるやうな大人といふものに対する特別な敬意は到底もち得なかつたのである。

そうこうするうちに日清戦争がはじまった。

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さうかうするうちに日清戦争がはじまつた。

私はかなり重い麻疹にかかって幾日か学校を休んだのち、やっとのことで出席したら、意外にも受け持ちの先生が変わっていた。

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私はかなり重い麻疹はしかにかかつて幾日か学校を休んだのちやつとのことで出席したら意外にも受持ちの先生がかはつてゐた。

中沢先生は召集されたのだという。

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中沢先生は召集されたのだといふ。

よく軍艦の話をして聞かせたが、もとは海軍士官で、病気のために予備になっていたのだそうだ。

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よく軍艦の話をしてきかせたがもとは海軍士官で、病気のために予備になつてたのださうだ。

あの不思議な西遊記の話をしてくれた先生、絵筆をべろべろ舐めて綺麗な絵を描いた先生、棕櫚の鞭で頭をたたくことのほかは何もかも気に入っていた先生は、もう顔を見ることもできない。

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あの不思議な西遊記の話をしてくれた先生、絵筆をべろべろ甜めて綺麗な絵をかいた先生、棕櫚の鞭で頭をたたくことのほかはなにもかも気に入つてた先生はもう顔を見ることもできない。

そう思えば胸いっぱいになって、休み時間にみんなを呼び集めて、先生が暇乞いに来た時の様子だけでもせめて詳しく聞こうとしたが、彼らはただもうその日その日の遊びに気を取られて、別れてからまだ半月とはたたないのに、そんなことはとうに忘れてしまってけろりと座っている。

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さう思へば胸一杯になつて放課時間にみんなを呼び集めて先生が暇乞ひにきた時の様子をなりとせめて委しくきかうとしたが、彼らはただもうその日その日の遊びに気をとられて別れてからまだ半月とはたたないのにそんなことはとうに忘れてしまつてけろりと坐つてゐる。

そうして、せっかくの遊びを邪魔されたのが不平らしく、顔をふくらせてもじもじしていたが、やがてひとりがようやく思いだしたように

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さうして折角の遊びを邪魔されたのが不平らしく面をふくらせてもぢもぢしてたがやがてひとりがやうやく思ひだしたやうに

「獅子の毛のついた外套を着ていた」

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「獅子の毛のついた外套をきてゐた」

と言った。

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といつた。

と、ほかの者もてんでに

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と、ほかの者もてんでに

「獅子の毛だ」

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「獅子の毛だ」

「獅子の毛だ」

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「獅子の毛だ」

と言う。

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といふ。

馬鹿者たちは、はじめて見た獅子の毛――それもたぶん間違いなのだろうが――に見とれて、何ひとつ覚えてはいない。

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ばか者たちははじめて見た獅子の毛――それもたぶん間違ひなのだらうが――に見とれてなにひとつおぼえてゐはしない。

そんなふうに根掘り葉掘り尋ねる私をさんざんじらしたあげく、ひとりが

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そんなにして根ほり葉ほり尋ねる私をさんざじらしたあげくひとりが

「先生は戦争に出るのだからもう二度と会えないかもしれないが、皆は今度の先生の言うことをよく聞いて、勉強して偉い人にならなければいけない」

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「先生は戦争にでるのだからもう二度とあへないかもしれないが皆は今度の先生のいふことをよくきいて勉強して偉い人にならなければいけない」

と言ったというのを聞いて、急にはらはらと涙をこぼしたものだから、みんなはあっけにとられて私の顔を見つめ、なかには目引き袖引き、軽蔑の笑いをもらす者もあった。

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といつたといふのをきき急にはらはらと涙をこぼしたものでみんなはあつけにとられて私の顔を見つめ、なかには目ひき袖ひき軽蔑の笑ひをもらす者もあつた。

彼らはまだこのように泣くことを知らないので、男は三年に一遍泣くものだ、と言った先生の教えを破ってはならないものと思っているのであった。

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彼らはまだこのやうに泣くことを知らないゆゑに 男は三年に一遍泣くものだ といつた先生のをしへを破つてはならぬものと思つてるのであつた。

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私にとってさらに不仕合せなのは、新任の丑田先生とさっぱり気の合わないことであった。

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私にとつて更に不仕合せなのは新任の丑田先生とさつぱり気のあはないことであつた。

この人は柔術ができるというので生徒にも恐れられ、自分でも得意になって相手もなしにひっくり返ってみせたりしたが、いつぞや図画の試験に私の描いた瓢箪を、先生よりうまい、と言って三重丸をつけてくれたほかには、何ひとつ感心するところがない。

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この人は柔術ができるといふので生徒にも恐れられ、自分でも得意になつて相手もなしにひつくり返つてみせたりしたが、いつぞや図画の試験に私のかいた瓢箪を 先生よりうまい といつて三重丸をつけてくれたほかになにひとつ感心するところがない。

こちらが向こうを嫌いであるとおり、たぶん向こうもこちらを嫌っていたのだろう。

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こちらがさきを嫌ひであるとほりたぶんさきもこちらを嫌つてたのであらう。

いつとはなしに、お互いに敵同士みたいな具合になってしまった。

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いつとはなしにお互に敵同士みたいな具合になつてしまつた。

それはそうと、戦争が始まって以来、仲間の話は朝から晩まで大和魂と中国人でもちきっている。

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それはそうと戦争が始まつて以来仲間の話は朝から晩まで大和魂とちやんちやん坊主でもちきつてゐる。

それに先生までがいっしょになって、まるで犬でもけしかけるように、何かといえば大和魂と中国人を繰り返す。

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それに先生までがいつしよになつてまるで犬でもけしかけるやうになんぞといへば大和魂とちやんちやん坊主をくりかへす。

私はそれを心から苦々しく不愉快なことに思った。

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私はそれを心から苦苦にがにがしく不愉快なことに思つた。

先生は予譲や比干の話はおくびにも出さないで、のべつ幕なしに元寇と朝鮮征伐の話ばかりする。

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先生は予譲よじやう比干ひかんの話はおくびにも出さないでのべつ幕なしに元寇と朝鮮征伐の話ばかりする。

そうして唱歌といえば殺風景な戦争ものばかり歌わせて、面白くもない体操みたいな踊りをやらせる。

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さうして唱歌といへば殺風景な戦争ものばかり歌はせて面白くもない体操みたいな踊りをやらせる。

それをまたみんなはむきになって、目の前に不倶戴天の中国兵が押し寄せてきたかのように、肩をいからせ肘を張って、雪駄の皮の破れるほどやけに足踏みをしながら、むんむんと舞いあがる埃のなかで、節も調子もおかまいなしに怒鳴りたてる。

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それをまたみんなはむきになつて眼のまへに不倶戴天のちやんちやん坊主が押寄せてきたかのやうに肩をいからし肘を張つて雪駄の皮の破れるほどやけに足踏みをしながらむんむと舞ひあがる埃のなかで節も調子もおかまひなしに怒鳴りたてる。

私はこんな手合いと同列に並ぶのを恥とするような気もちで、わざと彼らよりは一段高く調子をはずして歌った。

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私はこんな手合ひとよはひするのを恥とするやうな気もちでわざと彼らよりは一段高く調子をはづして歌つた。

またただでさえ狭い運動場は加藤清正や北条時宗で鼻をつく始末で、弱虫はみんな中国兵の役にされて首を斬られている。

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また唯さへ狭い運動場は加藤清正や北条時宗で鼻をつく始末で、弱虫はみんなちやんちやん坊主にされて首を斬られてゐる。

町を歩けば、絵草紙屋の店という店には千代紙やあね様づくしなどは影をひそめて、いたるところ鉄砲玉のはじけた汚らしい絵ばかりかかっている。

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町をあるけば絵草紙屋の店といふ店には千代紙やあね様づくしなどは影をかくして到るところ鉄砲玉のはじけた汚らしい絵ばかりかかつてゐる。

耳目にふれるものは何もかも私を腹立たしくする。

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耳目にふれるところのものなにもかも私を腹立たしくする。

ある時また、大勢がひとつところにかたまって、聞きかじりの噂を種にすさまじい戦争談に花を咲かせたときに、私は彼らと反対の意見を述べて、結局日本は中国に負けるだろう、と言った。

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ある時また大勢がひとつところにかたまつてききかじりの噂を種にすさまじい戦争談に花を咲かせたときに私は彼らと反対の意見を述べて 結局日本は支那に負けるだらう といつた。

この思いがけない大胆な予言に、彼らはしばらくは目を見合わすばかりであったが、やがてその笑止ながら殊勝な敵意は、もはや組長の権威をも無視するまでに高ぶって、ひとりの奴は大げさに

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この思ひがけない大胆な予言に彼らは暫くは目を見合はすばかりであつたが、やがてその笑止ながら殊勝な敵愾心てきがいしんはもはや組長の権威をも無視するまでにたかぶつてひとりの奴は仰山に

「あらあら、わりいな、わりいな」

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「あらあら、わりいな、わりいな」

と言った。

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といつた。

ほかのひとりは、拳固でちょいと鼻のさきをこすってみせた。

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他のひとりは拳固でちよいと鼻のさきをこすつてみせた。

もうひとりは先生の真似をして

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もうひとりは先生のまねをして

「おあいにくさま、日本人には大和魂があります」

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「おあいにくさま、日本人には大和魂があります」

と言う。

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といふ。

私はいっそう強い反感と確信をもって、彼らの攻撃をひとりで引き受けながら

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私はより以上の反感と確信をもつて彼らの攻撃をひとりでひきうけながら

「きっと負ける、きっと負ける」

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「きつと負ける、きつと負ける」

と言いきった。

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といひきつた。

そして、わいわい騒ぎたてるまんなかに座り、あらゆる知恵をしぼって相手の根拠のない議論を打ち破った。

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そしてわいわい騒ぎたてるまんなかに坐りあらゆる智慧をしぼつて相手の根拠のない議論を打ち破つた。

仲間の多くは新聞の拾い読みもしていない。

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仲間の多くは新聞の拾ひ読みもしてゐない。

万国地図ものぞいてはいない。

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万国地図ものぞいてはゐない。

史記や十八史略の話も聞いてはいない。

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史記や十八史略の話もきいてはゐない。

そのためにとうとう私ひとりに言いまくられて、不承不承に口をつぐんだ。

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それがためにたうとう私ひとりにいひまくられて不承不承に口をつぐんだ。

が、鬱憤はなかなかそれなりには収まらず、彼らは次の時間にさっそく先生に言いつけて

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が、鬱憤はなかなかそれなりにはをさまらず、彼らは次の時間に早速先生にいつけて

「先生、□□さんは日本が負けるって言います」

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「先生、□□さんは日本が負けるつていひます」

と言った。

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といつた。

先生は例のしたり顔で

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先生はれいのしたり顔で

「日本人には大和魂がある」

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「日本人には大和魂がある」

と言って、いつものとおり中国の人のことを何のかのと口ぎたなく罵った。

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といつていつものとほり支那人のことをなんのかのと口ぎたなく罵つた。

それを私は自分が言われたように腹にすえかねて

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それを私は自分がいはれたやうに腹にすゑかねて

「先生、日本人に大和魂があれば、中国人には中国の魂があるでしょう。日本に加藤清正や北条時宗がいれば、中国にだって関羽や張飛がいるじゃありませんか。それに先生はいつか、謙信が信玄に塩を贈った話をして、敵を憐れむのが武士道だなんて教えておきながら、なんだってそんなに中国人の悪口ばかり言うんです」

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「先生、日本人に大和魂があれば支那人には支那魂があるでせう。日本に加藤清正や北条時宗がゐれば支那にだつて関羽や張飛がゐるぢやありませんか。それに先生はいつかも謙信が信玄に塩を贈つた話をして敵を憐むのが武士道だなんて教へておきながらなんだつてそんなに支那人の悪口ばかしいふんです」

そんなことを言って、ふだんのむしゃくしゃをひと思いにぶちまけてやったら、先生は難しい顔をしていたが、ややあって

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そんなことをいつて平生のむしやくしやをひと思ひにぶちまけてやつたら先生はむづかしい顔をしてたがややあつて

「□□さんは大和魂がない」

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「□□さんは大和魂がない」

と言った。

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といつた。

私はこめかみにぴりぴりと癇癪筋の立つのを覚えたが、その大和魂を取りだしてみせることもできないので、そのまま顔を赤くして黙ってしまった。

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私はこめかみにぴりぴりと癇癪筋のたつのをおぼえたがその大和魂をとりだしてみせることもできないのでそのまま顔を赤くして黙つてしまつた。

忠勇無双の日本兵は、中国兵と私の小賢しい予言をさんざんに打ち破ったけれど、先生に対する私の不信と、同輩に対する軽蔑をどうすることもできなかった。

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忠勇無双の日本兵は支那兵と私の小ざかしい予言をさんざんに打ち破つたけれど先生に対する私の不信用と同輩に対する軽蔑をどうすることもできなかつた。

それやこれやで、みんなといっしょになっているのが馬鹿らしいという気になり、いつとはなしにこちらから遠ざかって、いつも傍からそのばか騒ぎを嘲るように見ているようになった。

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それやこれやでみんなといつしよになつてるのがばからしいといふ気になり、いつとはなしにこちらから遠ざかつて、いつもはたからそのばか騒ぎを嘲笑的に見てるやうになつた。

ある日のこと、ひとり廊下に立って、幾年となく腕白どもの手に擦られててらてらになった手すりに肱をかけ、藤棚の下に飛びまわる彼らのしわざを眺めて笑っていたとき、後ろを通りかかったひとりの先生が不意に呼びかけて

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ある日のことひとり廊下に立つて幾年となく腕白どもの手にすられててらてらになつた手すりに肱をかけ、藤棚のしたにとびまはる彼らのしわざを眺めて笑つてたとき後ろを通りかかつたひとりの先生が不意に呼びかけて

「なにを笑ってる」

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「なにを笑つてる」

と言った。

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といつた。

私は

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私は

「子どもたちの遊ぶのがおかしい」

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「子供たちの遊ぶのがをかしい」

と答えた。

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と答へた。

先生はふきだして

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先生はふきだして

「□□さんは子どもじゃないか」

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「□□さんは子供ぢやないか」

と言うのを、まじめで

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といふのをまじめで

「子どもは子どもでも、あんな馬鹿じゃない」

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「子供は子供でもあんなばかぢやない」

と言ったら

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といつたら

「困るねえ」

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「困るねえ」

と言って教員室へ入り、ほかの人たちに話していた。

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といつて教員室へはひつてほかの人たちに話してゐた。

私はたぶん先生たちに困られていたのである。

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私はたぶん先生たちに困られてたのである。

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同級の生徒はどれもこれもしようのない間抜けだと馬鹿にしきっていたにもかかわらず、その間抜けの隊長ともいうべき蟹本さんには、心からませた同情を寄せていた。

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同級の生徒はどれもこれもしやうのない三太郎としてばかにしきつてたにもかかはらずその三太郎の隊長ともいふべき蟹本さんには心からませた同情をよせてゐた。

彼はほとんど知恵の育たない子で、背丈から見ればもう十六、七でもあっただろうか。

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彼はほとんど白痴の子で、背たけからみればもう十六七でもあつたらうか。

なんでも同じ級に二、三年ぐらいいては次第に上へ押しあげられるうち、そのとき後から上がっていった私たちとちょうどいっしょになったのである。

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なんでも同じ級に二三年ぐらゐゐては次第に上へ押しあげられるうちそのとき後からあがつていつた私たちとちやうどいつしよになつたのである。

もとより自分の年も知らないし、知恵が育たないせいでまだほんのたわいのない顔をしているので、彼がいくつになるのかは誰も知らなかった。

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もとより自分のとしもしらないし、ばかの癖でまだほんのたわいのない顔をしてるので彼がいくつになるのかは誰も知らなかつた。

彼は福々しい丸顔の頬についたそら豆大のほくろを看板に、学校じゅうの愛嬌者になっていたが、人が面白半分に

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彼はふくぶくしい丸顔の頬についたそら豆大のほくろを看板に学校ぢゆうの愛嬌者になつてたが、ひとが面白半分に

「蟹本さん、頬ぺたに墨がついてるよ」

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「蟹本さん、頬ぺたに墨がついてるよ」

と言うと、ふ、ふ、ふ、と笑って

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といふと ふ、ふ、ふ と笑つて

「すーみーじゃーなーいーんーだ。ほーくーろーなーんーだ」

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「すーみーぢやーなーいーんーだ。ほーくーろーなーんーだ」

とおおように言う。

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とおほやうにいふ。

彼は体と釣りあわない小さなそろばんの、珠のひとつもないのを斜に掛け、気の向いたときにぶらりとやってきて、いやになればお稽古中も何もおかまいなしにさっさと帰ってしまう。

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彼は体とつりあはない小さなそろばんの珠のひとつもないのをはすつかひにかけ気の向いたときにぶらりとやつてきて、いやになればお稽古ちゆうもなにもおかまひなしにさつさと帰つてしまふ。

とかく自分と段違いに劣った弱い者だけを可愛がるという、人間一般のさもしい利己的な同情のもとにあって、天下に蟹本さんぐらい自由の天地を持っているものはなかった。

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とかく己と段ちがひの劣弱者のみを愛憐するといふ人間一般のさもしい利己的な同情のもとにあつて天下に蟹本さんぐらゐ自由の天地をもつてるものはなかつた。

それでも生きている甲斐には機嫌のいい日と悪い日があり、悪い日にはたいてい顔を見せないが、たまさか出てきてもにこりともせずに机にうつむいている。

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それでも生きてるかひには機嫌のいい日と悪い日があり、悪い日には大抵顔を見せないが、たまさか出てきてもにこりともしずに机にうつむいてゐる。

そのうち何を考えだすのか急においおい泣きだして、思う存分泣きつくすまではどうしても泣きやまない。

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そのうちなにを考へだすのか急においおい泣きだして、思ふ存分泣きつくすまではどうしても泣きやまない。

そうして、その不幸な暗黒の胸に人知れず湧いて溜まった悲しみを、遠慮のない大声に泣き涸らしてしまえば、例のそろばんを肩にかけてけろりとして帰ってゆく。

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さうしてその不幸な暗黒の胸に人しれず湧いて溜つた悲しみを遠慮のない大声に泣き涸らしてしまへばれいのそろばんを肩にかけてけろりとして帰つてゆく。

そんな日には、どうかして言葉をかける者があっても、不仕合せな彼の唯一の取り柄である気のよさそうな笑い顔も見せず、ひぎゃあ、と鸚鵡みたいな声を出して相手を追いはらうのが常であった。

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そんな日にはどうかして言葉をかける者があつても不仕合せな一徳の気のよささうな笑ひ顔もせず ひぎやあ と鸚鵡みたいな声を出して相手を追ひはらふのが常であつた。

しかし、どうかして御機嫌の麗しいときには、頼みもしないのに

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併しどうかして御機嫌の麗しいときには頼みもしないのに

「あたいが馬になってやろう」

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「あたいが馬になつてやらう」

なんと言うこともあったが、馬としては背は高いし、力はあるし、ぶくぶく太って乗り心地のいい名馬だったけれど、気が向かなくなると大将同士の組み討ちの最中でも何でも棒立ちになってしまう、手のつけられない悍馬でもあった。

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なんといふこともあつたが、馬としては背は高し、力はあり、ぶくぶく太つて乗り心地のいい名馬だつたけれど、気がむかなくなると大将同士の組み討ちの最中でもなんでも棒立ちになつてしまふ手のつけられない悍馬でもあつた。

彼の奥底の知れない沈黙、その沈黙の底から溢れだす涙、私はどうかしてその正体をつかまえようということを思い立って、それからはみんなが笑うのもかまわず、努めて彼に近づくようにした。

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彼の奥底のしれぬ沈黙、その沈黙の底から溢れだす涙、私はどうかしてその正体をつかまへようといふことを思ひたつて、それからはみんなの笑ふのもかまはず努めて彼に近づくやうにした。

私は彼の機嫌のいい折を見ては、おはよう、とか、さようなら、とかいう短い挨拶の言葉をかけてみたが、向こうは帝王が臣下に対するほどの会釈も返さない。

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私は彼の機嫌のいい折をみては おはやう とか さやうなら とかいふ短い挨拶の言葉をかけてみたが、さきは帝王が臣下に対するほどの会釈もかへさない。

それでもかまわず倦まずたゆまず続けるうち、ある日、彼は虱のようにへばりついている席を離れ、ひょこひょことそばへ来て、例の舌たらずみたいに

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それでもかまはずまずたゆまずつづけるうちある日彼は虱のやうにへばりついてる席をはなれひよこひよことそばへきてれいの舌たらずみたいに

「□□さーんーはーいーいーひーとーだ」

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「□□さーんーはーいーいーひーとーだ」

と言うなり、ふ、ふ、ふ、と笑って行ってしまった。

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といふなり ふ、ふ、ふ と笑つていつてしまつた。

私にはそのひと言が飛びたつほど嬉しかった。

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私にはそのひと言が飛びたつほど嬉しかつた。

彼の言うことには微塵も嘘はない。

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彼のいふことには微塵も嘘はない。

すでにそのころ、人の言葉には嘘のあることをあまりに多く知りすぎていた私には、たわいもない気まぐれなそのひと言がしみじみと身にしみて、きっと友達になれるだろう、そうしてこの気の毒な人を慰めてやることができるだろう、と、もうその暗黒の扉の鍵が手に入ったかのように喜んだ。

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すでにそのじぶん人の言葉には嘘のあることをあまりに多く知りすぎてた私にはたわいもない気まぐれなそのひと言がしみじみと身にしみて、きつと友達になれるだらう、さうしてこの気の毒な人を慰めてやることができるだらう と、もうその暗黒の扉の鍵が手に入つたかのやうに喜んだ。

で、私は、今日こそ、と思って隣の席へ行って何かと話しかけてみたが、にやにや笑うばかりでさっぱり埒があかない。

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で、私は 今日こそ と思つて隣の席へいつてなにかと話しかけてみたがにやにや笑ふばかりでさつぱり埒があかない。

そのうち彼は黙りこんで机にうつむいてしまった。

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そのうち彼は黙りこんで机にうつむいてしまつた。

と、やがて奥の手を出して、ひぎゃあ、と見事な一喝を食らわした。

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と、やがてのことに奥の手をだして ひぎやあ と見事な一喝をくはした。

日ごろの苦心も、鸚鵡のひと声にまんまと水の泡になった。

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日ごろの苦心も鸚鵡のひと声にまんまと水の泡になつた。

蟹本さんは、私のように望ましい連れがないためにやむなくひとりでいるのではなくて、はじめから本当に何もいらない人なのであった。

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蟹本さんは私のやうに望ましい連れがないゆゑに余儀なくひとりでゐるのではなくてはじめからほんとになんにもいらない人なのであつた。

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兄は、その年ごろの者が誰しも一度は持つことのある自己拡張の臭みをしたたかに帯びた好奇的な親切……から、生まれつき自分とはまったく違ったふうに形づくられて西と東に別れゆくべき人間であった私を、まことに行きとどいた厳しい教育の力によって、否応なしに自分のほうへねじ向けようと骨を折った。

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兄はその年ごろの者が誰しも一度はもつことのある自己拡張の臭味をしたたかに帯びた好奇的親切……から生れつき自分とはまつたくちがつた風に形づくられて西と東に別れゆくべき人間であつた私をまことに行きとどいた厳しい教育の力によつて否応なしに自分のはうへ捩ぢむけようと骨を折つた。

で、自分が常軌を逸していると言われるほど釣りが好きなもので、日に月に邪道に堕ちてゆくあわれな弟を救いあげるには――自分のようにするには――なんでも釣りを仕込むにかぎると思いついたものか、学校の休みとさえいえば、とかく尻込みがちな私を無理やりに引っぱりだして、ただもうその機嫌を損じるのがつらさにまた……しょうことなしについてゆく私に釣道具を担がせ、兄の説によれば理想的な釣り堀、私から言えば特別いやな釣り堀のたくさんある本所まで、てくてくと歩いてゆく。

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で、自分が気ちがひといはれるほど釣りがすきだもので、日に月に邪道に堕ちてゆくあはれな弟を救ひあげるには――自分のやうにするには――なんでも釣りをしこむにかぎると思ひついたものか、学校の休みとさへいへばとかく尻込みがちな私を無理やりにひつぱりだしてただもうその機嫌を損じるのがつらさにまた……せうことなしについてゆく私に釣道具をかつがせ、兄の説によれば理想的の釣り堀、私からいへば特別いやな釣り堀の沢山ある本所までてくてくと歩いてゆく。

私は道々、帽子が曲がったの、首がかがんだの、売出しの提灯に見とれたの、手の振りようが等分でないのと、頭のてっぺんから足の先まで小言を食いながら、気骨折りと遠道とでへとへとに疲れたあげく、やっと釣り堀の旗竿の下をくぐってほっとすると、間もなくじめついた堀のふちに座らされ、ああまたここで一日か、と思うと、性も骨も抜けてうんざりしてしまう。

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私はみちみち帽子が曲つたの、首がこごんだの、売出しの提灯にみとれたの、手のふりやうが等分でないのと頭のてつぺんから足の先まで小言をくひながら気ぼねと遠みちとでへとへとに疲れたあげくやつと釣り堀の旗竿のしたをくぐつてほつとすると間もなくじめついた堀のふちに坐らされ ああまたここで一日か と思ふと性も骨もぬけてうんざりしてしまふ。

どろどろした悪臭い堀に打ちこんだ杭には、青苔がいっぱい盛りあがっている。

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どろどろしたわる臭い堀に打ちこんだ杭には青苔がいつぱいもりあがつてゐる。

赤錆の浮いた隅っこのよどみには、水蟷螂があめんぼを取ったり、田亀がひょくひょくもぐったりしている。

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赤錆の浮いた隅つこのをどみには水蟷螂みづかまきりがあめんぼをとつたり、田亀たがめがひよくひよくもぐつたりしてゐる。

そんなものを見ただけでも気分が悪いのに、近所の工場で鉄板をたたく音がどんがんどんがんひっきりなしに響いて、頭も割れそうに頭痛がしてくる。

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そんなものをみたばかりでも胸がわるいのを近処の工場で鉄板をたたく音がどんがんどんがんひつきりなしに響いて頭もわれさうに頭痛がしてくる。

兄は、私が蚯蚓の切り方がうまくなって感心だ、などと言うけれど、そんなこと嬉しくもない。

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兄は私が蚯蚓のきりかたがうまくなつて感心だなぞといふけれどそんなこと嬉しくもない。

私はあてがわれた一本の竿をもてあまして、それでも上辺だけは油断なく浮子を見つめるふりをしながら、自分はなぜ釣りが好きにならなければならないのかしら、などとそれからそれと面白くないことばかり考えていると、ふだん近眼で弱っているはずの兄は、釣り堀へ来れば急に性のいい目玉がいくつもできて、自分は五本も七本も竿を並べながら

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私はあてがはれた一本の竿をもてあまして、それでもうはべだけは油断なく泛子うきをみつめるふりをしながら 自分はなぜ釣りが好きにならなければならないのかしら なぞとそれからそれと面白くないことばかり考へてると、平生近眼で弱つてるはずの兄には釣り堀へくれば急に性のいい眼玉がいくつもできて自分は五本も七本も竿をならべながら

「そら、引いてるじゃないか」

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「そら、ひいてるぢやないか」

などと、いつのまにか人の浮子まで睨んでいる。

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などといつのまにかひとの泛子まで睨んでゐる。

釣りあげるとまた、しゃくい方が下手だの、針のはずし方がまずいのと剣突を食うので、早く逃げてくれればいいのに、と思って、ずるずると無精な上げようをする。

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釣りあげるとまたしやくひかたが下手だの、針のはづしかたがまづいのとけんつくをくふので はやく逃げてくれればいいに と思つてずるずるとぶしやうなあげやうをする。

と、泥だらけの黄色い腹が見えたりするのを、汚い鯉だな、と思って眺めていると、兄が癇癪を起こして玉網を放りつける。

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と、泥だらけの黄色い腹がみえたりするのを 汚い鯉だな とおもつて眺めてると兄が癇癪をおこしてたまをはふりつける。

そのころには魚はたいてい針をはずして逃げてしまう。

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そのじぶんには魚はたいてい針をはづして逃げてしまふ。

そんなふうにやっとこさと一日の苦行をすませて、さて帰る段となれば、今度は生臭いびくがまた重荷となる。

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そんなにしてやつとこさと一日の苦行をすませてさて帰る段となれば今度は生臭いびくがまた重荷となる。

そうして、これも教育のためとあって、私のいやがる路――古道具屋や倉庫や荷車や溝などのある路、電線の風に鳴る路、屋台店の並んだ路――をわざわざ回り道して歩く。

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さうしてこれも教育のためとあつて私のいやがる路――古道具屋や倉庫や荷車や溝などのある路、電線の風に鳴る路、屋台店のならんだ路――をわざわざ廻り道してあるく。

叱られ叱られして疲れきった足で、後から小走りしてゆくのだが、遠い路をさらに遠くして歩くので、まだ家近くならないうちに日が暮れてしまう。

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叱られ叱られして疲れきつた足に後から小走りしてゆくのだが、遠い路を遠くして歩くのでまだ家近くならないうちに日がくれてしまふ。

そのときの不愉快と不平……のうちに、夕べの空にひとつふたつ輝きはじめる星、それは伯母さんが神様や仏様のいるところだと教えたその星を力に、懐かしく見とれていれば、兄は私が遅れるのに腹をたてて

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そのときの不愉快と不平……のうちに夕べの空にひとつふたつ耀きはじめる星、それは伯母さんが神様や仏様がゐるところだと教へたその星を力に懐しくみとれてゐれば兄は私のおくれるのに腹をたてて

「なにをぐずぐずしてる」

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「なにをぐづぐづしてる」

と言う。

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といふ。

はっと気がついて

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はつと気がついて

「お星様を見てたんです」

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「お星様をみてたんです」

と言うのを聞きもせず

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といふのをききもせず

「ばか。星って言え」

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「ばか。星つていへ」

と怒鳴りつける。

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と怒鳴りつける。

あわれな人よ。

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あはれな人よ。

何かの縁あって地獄の道連れとなったこの人を、兄さん、と呼ぶように、子どもの憧れが空をめぐる冷たい石を、お星さん、と呼ぶのが、そんなに悪いことであっただろうか。

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なにかの縁あつて地獄の道づれとなつたこの人を 兄さん と呼ぶやうに、子供の憧憬が空をめぐる冷たい石を お星さん と呼ぶのがそんなに悪いことであつたらうか。

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ある時、これも教育という名義のもとに、ある海岸へ連れてゆかれたことがあった。

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ある時これも教育といふ名義のもとにある海岸へつれてゆかれたことがあつた。

兄は、私のいつにないいい返事が、あの楽しかったいつぞやの旅行の記憶と、先に行って待っている私の好きなお友達――兄の――のためとは知らず、発つ前の晩には上機嫌で毘沙門様の縁日へ連れていって「小国民」

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兄は私のいつにないいい返事をあの楽しかつたいつぞやの旅行の記憶と、先に行つて待つてる私の好きなお友達――兄の――のためとはしらずたつ前の晩には上機嫌で毘沙門様の縁日へつれていつて「小国民」

を一冊買ってくれた。

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を一冊買つてくれた。

あくる朝は、いつになく親切な兄に連れられて、この分ならまあよかった、と思いながら「小国民」

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あくる朝はいつになく親切な兄につれられて このぶんならまあよかつた と思ひながら「小国民」

を荷物に家を出た。

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を荷物に家をでた。

ちょうど棚機様の日で、方々の百姓家には五色の短冊をつけた笹が立って、藁屋根に蛍草が涼しく咲いている。

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ちやうど棚機様たなばたさまの日で、はうばうの百姓家には五色の短冊をつけた笹がたつて藁屋根に蛍草が涼しく咲いてゐる。

私はもの珍しくそれらのものに見とれながら、なぜ町ではそうしないのだろう、と言って、まず最初の一喝を食った。

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私はもの珍しくそれらのものに見とれながら なぜ町ではさうしないのだらう といつてまづ最初の一喝をくつた。

青田や空や海や白帆に気を浮かされて、言いたいこと聞きたいことはいくらもあるのを、叱られるのがつらさに自分ひとりでああこう考えて、やっぱり来ないほうがよかったかしら、などと思っていると、今度は黙っていると言って、また新規に一喝を食う。

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青田や空や海や白帆に気を浮かされていひたいことききたいことはいくらもあるのを叱られるのがつらさに自分ひとりでああかう考へて やつぱし来ないはうがよかつたかしら なぞと思つてると今度は黙つてるといつてまた新規に一喝をくふ。

兄はなぜこう訳もなく腹をたてるのかと思ったら、私が、どうして汽車が動くか、を質問しないために機嫌が悪いのであった。

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兄はなぜかう訳もなく腹をたてるのかと思つたら私が どうして汽車が動くか を質問しないために機嫌が悪いのであつた。

私たちの着いたのは、陰気な柴垣をめぐらしてところどころに貝殻が捨ててあったりする漁村のなかの一軒の藁屋で、待ちかねて二人を迎えたお友達のほかに、真っ黒な年寄り夫婦と、同じ色の娘が住んでいた。

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私たちのついたのは陰気な柴垣をめぐらしてところどころに貝殻がすててあつたりする漁村のなかの一軒の藁屋で、待ちかねて二人を迎へたお友達のほかにまつ黒な年寄夫婦と、おなじ色の娘が住んでゐた。

ちょうど昼飯の時刻だったので、黒猫みたいな親子が三人の前へ汚い膳をふたつずつ持ってきたが、それはその家の者の使う食器なので、私たちが食事をすますまでは家の者は食べることができないのだから早くしなければいけない、と言われ、気が気でなく、半分食べて箸を置いた。

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ちやうど昼飯の時刻だつたので黒猫みたいな親子が三人のまへへ汚い膳をふたつつもつてきたが、それはそこの家の者の使ふ食器なので、私たちが食事をすますまでは家の者はたべることができないのだからはやくしなければいけない といはれ気が気でなく半分たべて箸をおいた。

家が狭いために、兄と私だけは一里ばかり離れた岬のほうへ移ることに話が決まり、散歩かたがた送ってくれるお友達と兄とは後から追いつくというので、私ひとり、がたがたの田舎車に乗せられて先に出かけた。

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家が狭いために兄と私だけは一里ばかりはなれた岬のはうへうつることに話がきまり、散歩かたがた送つてくれるお友達と兄とは後から追ひつくといふので私ひとりがたがたの田舎俥にのせられて先に出かけた。

車引きの親父はぶくぶく太った実直らしい男なのでちっともいやではなかったが、例の陰気な柴垣のあいだをぐるぐるまわっているうち、いつとはなしに寂しさがこみあげてたまらなくなってきた。

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俥ひきの親仁はぶくぶくふとつた実直らしい男なのでちつともいやではなかつたが、れいの陰気な柴垣のあひだをぐるぐるまはつてるうちいつとはなしに寂しさがこみあげてたまらなくなつてきた。

一所懸命まぎらそうとしても、家の杉垣だの、茶の間の様子だの、そんなものばかり目に浮かんできて、今夜も明日の晩も帰れないのだ、などと思えば、われ知らず泣き顔になって、涙がぽとりと膝かけの上に落ちるのを、そこいらに遊んでいる漁師の子たちが見つけて

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一所懸命まぎらさうとしても家の杉垣だの、茶の間の様子だの、そんなものばかり目に浮んできて、今夜も明日の晩も帰れないのだ などと思へばわれしらず泣き顔になつて涙がぽとりと膝かけのうへにおちるのをそこいらに遊んでる漁師の子たちがみつけて

「やーい。泣いとるがい、泣いとるがい」

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「やーい。泣いとるがい、泣いとるがい」

とてんでに笑う。

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とてんでに笑ふ。

親父はふりかえりふりかえり、慰め顔に何か言うのだが、言葉が違ってさっぱりわからない。

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親仁はふりかへりふりかへり慰め顔になにかいふのだが言葉が違つてさつぱりわからない。

路ばたの垣根のあいだから美しい弁慶蟹が出てきては、車の響きに驚いて逃げこむのを、ほしいと思って横目に見ながらゆくうちに、海岸へ出た。

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路ばたの垣根のあひだから美しい弁慶蟹が出てきては俥の響に驚いて逃げこむのをほしいと思つて横目にみながらゆくうちに海岸へでた。

路は小山に沿って波打ちぎわをうねっている。

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路は小山にそうて波うちぎはをうねつてゐる。

今にも潮が満ちて通れなくなりはしないかとはらはらしていれば、親父は平気で何か考え事をしながら、ぼつぼつ歩いてゆく。

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今にも潮がみちて通れなくなりはしないかとはらはらしてゐれば親仁は平気でなにか考へ事をしながらぼつぼつ歩いてゆく。

とある切通しへかかったときに後ろを見たら、兄たちの影が見えた。

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とある切通しへかかつたときに後ろをみたら兄たちの影がみえた。

喉へ突きあげる泣きじゃくりをようやく噛み殺したところへ、兄は急ぎ足で追いついて私を車から降ろした。

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喉へつきあげる泣きじやくりをやうやく噛みころしたところへ兄は急ぎ足で追ひついて私を俥からおろした。

岩がちの海岸から、ところどころに魚の背鰭のようにぎざぎざな岩礁が沖のほうまで突き出て、道を堰かれた波が海坊主の頭みたいに丸く盛りあがっては、さっと砕けてしぶきを飛ばす。

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岩がちの海岸からところどころに魚の背鰭せびれのやうにぎざぎざな岩礁が沖のはうまでつきでて、道を堰かれた波が海坊主の頭みたいに円くもりあがつてはさつと砕けてしぶきを飛ばす。

路がひとうねりするたびに岸が小さく狭く湾入し、低い波が時をおいては、ざぶーん、ざぶーん、と打ち寄せる。

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路がひとうねりするたんびに岸が小さく狭く彎入し低い波が時をおいては ざぶーん、ざぶーん とうちよせる。

それを聞くと自然に胸がせまって、せっかく泣きやんだ涙がまたこぼれだす。

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それをきくと自然に胸がせまつて折角泣きやんだ涙がまたこぼれだす。

ひとつの波が、ざぶーん、と砕けて、じいっ、と泡が消えて、まあよかった、と思う間もなく、次の波が、ざぶーん、と砕ける。

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ひとつの波が ざぶーん と砕けて、じーつ と泡がきえて、まあよかつた と思ふまもなくつぎの波が ざぶーん と砕ける。

ひとつの湾をやっと通り越すと、その次の湾が、ざぶーん、と鳴る。

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ひとつの湾をやつと通りこすとそのつぎの湾が ざぶーん と鳴る。

ひもじくなって足も疲れてきたのに、岬ははるか向こうに見えて、波の音はいくら行ってもやまない。

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ひもじくなつて足も疲れてきたのに岬ははるかむかふにみえて波の音はいくらいつてもやまない。

ぽくぽくと引かれてゆく五、六頭の牝馬の列に追いついたとき、お友達はふと私が涙をためているのを見て、小声で兄に注意した。

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ぽくぽくとひかれてゆく五六頭の牝馬の列に追ひついたときお友達はふと私が涙をためてるのをみて小声で兄に注意した。

兄は

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兄は

「ほうっとけ、ほうっとけ」

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「はふつとけ はふつとけ」

と言ってさっさと行く。

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といつてさつさとゆく。

お友達はふりかえりふりかえりしていたが、しまいに立ちどまって、くたびれたのか、気分でも悪いのか、と親切に尋ねたので、正直に

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お友達はふりかへりふりかへりしてたがしまひに立ちどまつて くたびれたのか、気分でもわるいのか と親切にたづねたので正直に

「波の音が悲しいんです」

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「波の音が悲しいんです」

と言ったら、兄は睨めつけて

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といつたら兄は睨めつけて

「ひとりで帰れ」

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「ひとりで帰れ」

と言って足を早めた。

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といつて足をはやくした。

お友達は私の意外な返事に驚きながらも、兄をなだめて

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お友達は私の意外な返事に驚きながらも兄をなだめて

「男はもっときつくならなければいけない」

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「男はもつときつくならなければいけない」

と言った。

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といつた。

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岩がちの岬の根もとに近いところに、一軒だけ離れて立った静かな宿に着いたときには、もう日が沈みかかって、その日を包んで燃えたつ雲が車のようにまわっていた。

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岩がちの岬の根もとに近いところに一軒だけはなれて立つた静な宿についたときにはもう日が沈みかかつて、その日を包んで燃えたつ雲が車のやうにまはつてゐた。

それがだんだん赤くなり、紫になり、藍色になり、空の色とひとつになって消えてゆく。

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それがだんだん赤くなり、紫になり、藍色になり、空の色とひとつになつて消えてゆく。

縁側の柱につかまって、岬に砕ける波が燐光を放つのを眺めていると、気管のあたりがえぐくなって、涙がとめどもなく頬を伝わる。

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縁側の柱につかまつて岬に砕ける波が燐光をはなつのを眺めてると気管のへんがゑぐくなつて涙がとめどもなく頬をつたはる。

それを柱にこすりつけこすりつけしてこらえながら、早く明日になってくれれば、とただそればかり思っている。

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それを柱にこすりつけこすりつけしてこらへながら はやく明日になつてくれれば とただそればかり思つてゐる。

雨もよいの風がひゅうひゅうと松を鳴らして、何かが湧いてくるように虫が鳴く。

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雨もよひの風がひゆうひゆうと松を鳴らしてなにかの湧いてくるやうに虫がなく。

女中が戸を閉めに来たので、しかたなしに部屋へ入って、泣き顔を隠し隠し「小国民」

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女中が戸をしめにきたのでしかたなしに部屋へはひつて泣き顔をかくしかくし「小国民」

を出して読みはじめた。

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をだして読みはじめた。

口絵には、額を射られた鬼童丸が片手で牛の皮を持ちあげ、片手に刀を引きつけて頼光をねらっているところが描いてあった。

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口絵には額を射られた鬼童丸がかた手で牛の皮をもちあげ、かた手に刀をひきつけて頼光をねらつてるところがかいてあつた。

一枚一枚めくってゆくうちに、少年太鼓手、という表題が目についてそこを読みはじめた。

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一枚一枚めくつてゆくうちに 少年太鼓手 といふ表題が目についてそこを読みはじめた。

挿絵を見ると、主人公の太鼓手は撥をあげて胸にかけた太鼓を打ちながら、遅れる味方を尻目にかけて進んでゆく。

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挿絵をみると主人公の太鼓手はばちをあげて胸にかけた太鼓をうちながら後れる味方をしりめにかけて進んでゆく。

読んでいるうちに、頭が大きくて、ぐずで、ふだん人から馬鹿にされてばかりいる太鼓手はいつか自分になってしまい、涙がぽとぽと本の上に落ちて、とうとう最後の一喝を食った。

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読んでるうちに頭が大きくて、ぐづで、平生人からばかにされてばかりゐる太鼓手はいつか自分になつてしまひ、涙がぽとぽと本のうへに落ちてたうとう最後の一喝をくつた。

翌朝、海はすっかり霧に閉ざされていた。

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翌あさ海はすつかり霧にとざされてゐた。

そうして、そのなかを漕いでゆく櫓の音がひどく私を喜ばせた。

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さうしてそのなかを漕いでゆく櫓の音がひどく私を喜ばせた。

舟は見えずに音だけが、何かの鳥の鳴くように、獣の仔が乳を求める声のように聞こえる。

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舟はみえずに音だけがなにかの鳥の鳴くやうに、獣の仔の乳をもとめる声のやうにきこえる。

お友達が来て、いっしょに浜へ出た。

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お友達がきていつしよに浜へでた。

砂も、石も、波の形に打ちあげられた海草もみんなしっとりと朝露に濡れて、ゆうべあんなにたくさん鳴いていた虫が、あちこちに、ちち、ちち、と可愛く鳴き残っている。

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砂も、石も、波の形にうちあげられた海草もみんなしつとりと朝露にぬれて、昨夜ゆうべあんなにたんと鳴いてた虫があちこちに ちち、ちち と可愛く鳴きのこつてゐる。

平地と傾斜した浜との境に盛りあがった砂丘には、雑草や風に吹きためられた黒松がへばりつき、すっきりした漁船が曳きあげられて、舟をすべらすための枠、鳥の巣みたいな生けす、あか汲み、縄、海胆、ひとでの殻など転がっている。

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平地と傾斜した浜との境にもりあがつた砂丘には雑草や風に吹きためられた黒松がへばりつき、すつきりした漁船が曳きあげられて、舟をすべらすための枠、鳥の巣みたいな生けす、あか汲み、縄、海胆うに、ひとでの殻なぞころがつてゐる。

しばらくして霧が晴れ、紺青に底光りする海の上に朝日があかあかと昇って、むず痒く汗を滲ませるころ、砂丘のあいだの小路から漁師や女子どもたちががやがや降りてきて、地曳きを引きはじめた。

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暫らくして霧がはれ、紺青に底光りする海のうへに朝日があかあかとのぼつてむず痒く汗を滲ませるころ砂丘のあひだの小路から漁師や女子供たちががやがやおりてきて地曳きをひきはじめた。

えん、えん、と静かに声をかけながら、ひと足ひと足と引きあげるあいだに、ここかしこに積まれたてん草は火をつけられて、ぷすぷすと白い煙を吐く。

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えん、えん としづかに声をかけながらひと足ひと足とひきあげるあひだにここかしこにつまれたてん草は火をつけられてぷすぷすと白い煙をはく。

そのうちに兄はひとり向こうの岩まで泳いでいったので、私は雨のときだけ川になる水溜まりへ入って、石や貝を拾いはじめた。

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そのうちに兄はひとり向ふの岩まで泳いでいつたので私は雨のときだけ川になる水溜りへはひつて石や貝をひろひはじめた。

そこにはたくさん寄居蟹の子がいて、ちょいと見ればただの貝殻みたいに見えるが、少したつと手を出してひょこひょこ歩きまわる。

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そこにはたくさん寄居蟹やどかりの子がゐて、ちよいとみればただの貝殻みたいにみえるがすこしたつと手をだしてひよこひよこ歩きまはる。

尖ったのや、丸いのや、勝手次第の殻にいて、それでどれも寄居蟹の子なのがおかしい。

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尖つたのや、円いのや、勝手次第の殻にゐて、それでどれも寄居蟹の子なのがをかしい。

お友達はどこからか、長さ二寸ばかりの法螺貝の殻を見つけてきてくれた。

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お友達はどこからか長さ二寸ばかりの法螺貝の殻をみつけてきてくれた。

ちょうど細い紐が通せるぐらいの孔がふたつ空いている。

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ちやうど細い紐がとほせるぐらゐの孔がふたつつあいてゐる。

で、家へ帰ったら姉にもらった洋傘の総をつけよう、などと思っているところへ兄が上がってきて、両手に持っている貝や石をみんな捨ててしまえと言う。

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で、家へ帰つたら姉にもらつた洋傘の総をつけよう なぞと思つてるところへ兄があがつてきて両手にもつてる貝や石をみんな棄ててしまへといふ。

私はしかたなく、さも惜しそうにひとつ捨て、ふたつ捨て、とうとう残らず捨てるには捨てたが、その貝だけはどうしても捨てかねてもじもじしていたら、腹をたてて拳固をふりあげたのをお友達が止めて、それひとつだけを持って帰ることに、不承不承に納得させた。

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私はしかたなくさも惜しさうにひとつ棄て、ふたつ棄て、たうとう残らず棄ては棄てたが、その貝だけはどうしても棄てかねてもぢもぢしてたら腹をたてて拳固をふりあげたのをお友達がとめてそれひとつだけをもつて帰ることに不承ぶしように納得させた。

その法螺貝は、今でも古い玩具箱のなかに、ちゃんと総をつけてしまってある。

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その法螺貝は今でも古い玩具箱のなかにちやんと総がつけてしまつてある。

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兄はあれこれと、ずいぶん熱心に、綿密に、厳格に教育を施したが、あるときふとしたことから、二人はこのお互いに厄介な関係をきっぱりと断ってしまうことになった。

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兄はいろいろとしてずゐぶん熱心に、綿密に、厳格に教育を施したが、あるときふとしたことから二人はこのお互に難儀な関係をきつぱりと断つてしまふことになつた。

いつ頃からか兄は釣り堀の鯉だけでは満足しなくなって投網の稽古をはじめ、いつものとおり私にびくを提げさせては、たびたび近所の川へ連れていった。

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いつ頃からか兄は釣り堀の鯉だけでは満足しなくなつて投網とあみの稽古をはじめ、れいのとほりびくをさげさせてさいさい私を近処の川へつれていつた。

四、五町いって橋をひとつ渡れば、そこはもう川沿いの原で、紅白に染め分けた水引の枠が楯のように並べて干してある。

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四五町いつて橋をひとつ渡ればそこはもう川ぞひの原で、紅白に染めわけた水引の枠が楯のやうにならべてほしてある。

間もなく水車場がある。

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間もなく水車場がある。

長い樋のなかを水が押しあいへしあい、気の変になったように流れてくるのを見ると、生きもののように思われて身の毛がよだつ。

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長い樋のなかを水が押しあひへしあひ気ちがひみたいにくるのをみると生きたもののやうに思はれて身の毛がよだつ。

大きな水車がしぶきの息を吹き、雫の汗をたらして、がらがらがらと恐ろしい勢いで回っている。

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大きな水車がしぶきの息をふき、雫の汗をたらしてぐわらぐわらぐわらと恐しくまはつてゐる。

糠埃のこもった舂き場では、無数の杵がこっとんこっとんと鈍い音をたてて、一本足で踊るように米をつく。

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糠埃のこもつたには無数の杵がこつとんこつとんとどんな音をたてて一本足の踊るやうに米をつく。

そこへ行くと私はどういうわけか舌の根に苦みを覚えて、押しつけられるような気持ちになるのだった。

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そこへゆくと私はどういふわけか舌の根に苦味をおぼえて圧しつけられるやうな気もちになるのであつた。

そこからだらだらと川上へのぼれば堰があり、その上に青く淀んだ水が三方に分かれて、ひとつは樋に、ひとつは向こう岸の森のなかへ、残りは堰の口からどどんどどんと地響きを打たせて転げ落ちる。

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そこからだらだらと川上へのぼれば堰があり、そのうへに青く淀んだ水が三方にわかれてひとつは樋に、ひとつはむかふ岸の森のなかへ、残りは堰の口からどどんどどんと地響きをうたせてころがりおちる。

躍りあがる飛沫、湧きたつ泡、逆にはい上がる崖、横っ飛びに飛んでゆく水を見ると、たまらない寂しさと恐ろしさに襲われて、ただもう、はやく帰りたい、はやく帰りたいと思う。

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躍りあがる飛沫しぶき、湧きたつ泡、逆にはひあがる崖、横つとびにとんでゆく水をみるとたまらない寂しさ恐しさに襲はれてただもう はやく帰りたい、はやく帰りたい と思ふ。

その滝壺の主を、ある者は河童だといった。

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その滝壺のぬしを或者は河童だといつた。

ある者は六尺もある鯉だといった。

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或者は六尺もある鯉だといつた。

そしてどちらも、実際に見た者から聞いたのだという。

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そしていづれも現在見た者から聞いたのだといふ。

その主に見こまれて毎年ひとりふたりの子供が必ず命を落とすので、そのあわれな者たちのために、わずかな砂利浜にいつからか一本の塔婆が立てられた。

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その主に見こまれて毎年ひとりふたりの子供は必ず命をおとすのでそれらのあはれなもののためにわづかの砂利浜にいつからか一本の塔婆がたてられた。

あの子供たちはどうしているだろう。

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その子供たちはどうしてるだらう。

そのうえ、広々として風に波打つ青田を見れば、急に胸がせまって涙がさっとまぶたにたまる。

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そのうへひろびろとして風に波うつ青田をみれば急に胸がせまつて涙がさつとまぶたにたまる。

それは深い深い心の底から湧いてきて、堰きとめるすべもなかった。

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それは深い深い心の底から湧いてきて堰きとめるすべもなかつた。

その泣き顔を隠すために、一所懸命足もとを見つめながら、四、五軒まばらに並んでいる藁屋のうちのひとつに入る。

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その泣き顔をかくすために一所懸命足もとをみつめながら四五軒まばらに並んでる藁屋のなかのひとつにはひる。

そこは網を貸したり釣道具を売ったりする家で、日に焼けた畳の上に、いろいろに塗り分けられた徳利形、椎の実形、円形の浮子、糸巻、釣竿などが並んでいる。

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そこは網を貸したり釣道具を売つたりする家で、日にやけた畳のうへにいろいろに塗りわけられた徳利形、椎の実形、円形の泛子、糸巻、釣竿などがならんでゐる。

庭先を流れてゆく溝にはめだかや蝦が泳ぎ、畦道にはひょろひょろと櫟の若木が並び、青田の果ては丘になって、まっ黒な森がどこまでも続いてゆく。

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庭先を流れてゆく溝にはめだかや蝦が泳ぎ、畦道にはひよろひよろとくぬぎの若木がならび、青田の末はをかになつてまつ黒な森がどこまでもつづいてゆく。

兄は網をもち、私はびくを提げ、二人ともはだしになって、滝の横手から崖をおり、向こう岸の窪んだところをあさって歩く。

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兄は網をもち、私はびくをさげ、二人とも跣になつて滝の横手から崖をおりてむかふ岸の窪いところをあさつてあるく。

兄は、この間まで瓢箪なりにしかならなかった網が丸く広がるようになったといってほくほくしているけれど、そんなことは面白くもない。

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兄はこなひだまで瓢箪なりにしかならなかつた網が円くひろがるやうになつたといつてほくほくしてるけれどそんなこと面白くもない。

私は蝉の声を聞き、田圃の蓮華草を思い出して、うす暗く川に落ちた森の陰に立っていると、兄はたまに一匹二匹のげばちやはやなどをとってきて

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私は蝉の声をきき、田圃の蓮華草をおもひしてうす暗く川におちた森の蔭に立つてると兄はたまに一匹二匹のげばちやはやなどとつてきて

「うまくなった、うまくなった」

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「うまくなつた うまくなつた」

といいながら、私のもっているびくに入れる。

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といひながら私のもつてるびくにいれる。

魚が息をできるようにびくを水につけ、友達みたいな気になってのぞいていると、私みたいに臆病な彼らは、ちょっとした響きにも驚いて鼻をつく。

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魚が息のできるやうにびくを水につけて友達みたいな気になつてのぞいてると私みたいに臆病な彼らはちよいとした響きにも驚いて鼻をつく。

そのあいだにも兄は、私が網を打つところを見ていないといってわんわん言う。

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そのあひだにも兄は私が網を打つところを見てゐないといつてわんわんいふ。

ある日のこと、またそんなふうにして川のなかに立っていたとき、私は足もとにあるまっ白な石を拾おうとして身をかがめた。

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ある日のことまたそんなにして川のなかに立つてたとき私は足もとにあるまつ白な石を拾はうとして身をかがめた。

それを兄はすぐに見つけて

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それを兄はぢきに見つけて

「なにする」

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「なにする」

といった。

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といつた。

「石をひろうんです」

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「石をひろふんです」

「ばか」

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「ばか」

私はもういつものように恐れなかった。

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私はもういつものやうに恐れなかつた。

この間から考えて考えて考えぬいてある。

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こなひだから考へて考へて考へぬいてある。

「兄さん」

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「兄さん」

私は後ろから静かに呼びかけた。

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私は後ろからしづかに呼びかけた。

「兄さんが魚をとるのに、僕はなぜ石をひろっちゃいけないんです」

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「兄さんが魚をとるのに僕はなぜ石をひろつちやわるいんです」

兄は

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兄は

「生意気いうな」

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「生意気いふな」

と怒鳴りつけた。

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と怒鳴りつけた。

私は冷ややかに笑って、まともに兄の顔を見つめながら

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私は冷かに笑つてまともに兄の顔を見つめながら

「僕のいうことが違っているなら教えてください」

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「僕のいふことがちがつてるなら教へてください」

兄は

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兄は

「殴るぞ」

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「殴るぞ」

といって手をあげた。

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といつて手をあげた。

私は黙って垂れ下がった枝の先にびくをかけ、崖をあがって帰りかけたが、うす暗い木の陰にかがんでいるのを見ると急に気の毒になり、あんなことをいうけれど、きっとやっぱり寂しいのだろうと思って、岸の上から一所懸命に呼んだ。

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私は黙つて垂れさがつた枝のさきにびくをかけ崖をあがつて帰りかけたが、うす暗い木の蔭にこごんでるのを見ると急に気の毒になり あんなにいふけれどきつとやつぱし寂しいんだらう とおもつて岸のうへから一所懸命によんだ。

「兄さん、兄さん、いてあげましょうか」

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「兄さん、兄さん、居てあげませうか」

兄は知らん顔して網をそろえている。

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兄は知らん顔して網をそろへてゐる。

「さようなら」

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「さやうなら」

私は丁寧に帽子をとって、ひとりで家へ帰った。

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私は丁寧に帽子をとつてひとりで家へ帰つた。

それからは私たちは決して一緒に出かけなかった。

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それからは私たちは決していつしよに出かけなかつた。

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家のまわりには切り残した桑の木があったので、慰みかたがた子供たちの実地教育にもなるという父の考えから、近所で少しばかりの種を分けてもらって蚕を飼ったことがあった。

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家のまはりには切りのこした桑の木があつたので慰みかたがた子供たちの実地教育にもなるといふ父の考から近処ですこしばかりの種をわけてもらつて蚕をかつたことがあつた。

母や伯母は面倒だ面倒だというものの、実はいくらか得意で、もう二度と来ることのない昔の苦労を思い出して楽しみながら、いそいそと桑を刻んでやる。

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母や伯母は面倒だ面倒だといふものの実はいくらか得意で、もう大丈夫二度とくることのない昔の労苦を思ひだして楽しみながらいそいそと桑をきざんでやる。

はじめはただ葉の下に隠れているのが日に日に大きくなり、坊主頭を振りたてて端から食い欠いてゆく。

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はじめはただ葉のしたにかくれてるのが日に日に大きくなり坊主頭をふりたててはじからくひかいてゆく。

私も小さな羊羹の箱に五、六匹入れてもらって、伯母さんがお蚕様はもとお姫様だったなどと教えたものだから、寝るときにはちゃんとご機嫌ようをし、朝はまたおはようをして、留守の世話をよくよく頼んで学校へ行く。

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私も小さな羊羹の函に五六匹いれてもらつて、伯母さんがお蚕様はもとお姫様だつたなぞと教へたもので寐るときにはちやんと御機嫌ようをし、朝はまたおはやうをして、留守の世話をよくよく頼んで学校へゆく。

さて帰ってくれば、姉は手拭をかぶって前垂れの両端を帯にはさみ、私は笊をかかえて桑つみに出かける。

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さて帰つてくれば姉は手拭をかぶつて前垂の両端を帯にはさみ、私は笊をかかへて桑つみにでかける。

そうして指の先を黒くしながら、手の届くかぎりうまそうなのを選んで摘みっこをする。

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さうして指の先を黒くしながら手のとどくかぎりうまさうなのをよつてつみつこをする。

冷たい唇から吐き出す糸の美しい艶が仇となって、遠い昔から人の手にばかり育てられたこの虫は、自分から食を求めようとはせず、蓆の上に頭を並べておとなしく桑の葉が振りまかれるのを待っている。それを伯母さんは

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冷い唇からはきだす糸の美しいつやが仇となつて遠い昔から人の手にのみ育てられたこの虫は自ら食を求めようとはせず蓆のうへに頭をならべておとなしく桑の葉のふりまかれるのを待つてるのを伯母さんは

「お姫様だったげなで、このお行儀のええことはの」

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「お姫様だつたげなでこのお行儀のええことはの」

と、さも本当らしくいう。

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とさもほんとらしくいふ。

青臭いのも、体が冷たいのも、はじめのうちこそ気味が悪かったが、お姫様だと思えば何もかも平気になり、背中にある三日月形の斑文を可愛らしい眼だと思うようになった。

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青臭いのも、体のつめたいのも、はじめのうちこそ気味がわるかつたがお姫様だとおもへばなにもかも平気になり、背なかにある三日月がたの斑文はんもんを可愛らしい眼だと思ふやうになつた。

お姫様は四度めの禅定から出たのちには体も透きとおるほど清らかになり、桑の葉さえ食べずに、あちらこちらと見まわして入寂の場所を求める。

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お姫様は四たびめの禅定から出たのちには体もすきとほるほど清浄になり、桑の葉さへたべずにとみかうみして入寂にふじやくの場所をもとめる。

それをそっと繭棚に移すと、ほどよいところに身を据え、静かに首を動かして、自分の姿を隠すために白い几帳を織りはじめる。

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それをそうつと繭棚にうつすとほどよいところに身をすゑ、しづかに首をうごかして自分の姿をかくすために白い几帳を織りはじめる。

最初はただ首を振るように見えるのが、いつとはなしにほのかになり、神通力をもって梭もなしに織り出した俵形の几帳ばかりが、ころりころりと繭棚にかかる。

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最初はただ首をふるやうにみえるのがいつとはなしにほのかになり、神通力をもつて梭もなしに織りだした俵がたの几帳ばかりがころりころりと繭棚にかかる。

私は置いてきぼりになった気持ちで、いつまでもとっておくといって聞かないのを、母と伯母とでさっさともぎとって鍋で煮る。

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私はおいてきぼりになつた気もちでいつまでもとつておくといつてきかないのを母と伯母とでさつさともぎとつて鍋で煮る。

そうして、うす黄色く濡れた糸をくるくると枠に巻くと、几帳が無惨にほごされて、しまいに西どっちの形をした亡骸が出る。

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さうしてうす黄色く濡れた糸をくるくると枠にまくと几帳が無惨にほごされてしまひに西にしどつちの形したむくろがでる。

それを兄は餌箱に入れて釣り堀へ飛んでゆく。

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それを兄は餌箱にいれて釣り堀へとんでゆく。

お姫様の夢はこうしてさめ、糸は機屋へ送られて、おかしげな田舎縞が織られた。

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お姫様の夢はかやうにしてさめ、糸は機屋へおくられてをかしげな田舎縞が織られた。

羊羹箱にできたいくつかの繭は種にするために残されたが、私の心がその几帳の奥にまで届いたのか、それともお姫様が光り輝く夏の世を捨てかねてか、まもなく彼女はまっ黒な眼の上に美しい眉を立て、新しい歓びにふるえる翅さえもって、昔の面影をしのばせるような可愛らしい姿をあらわした。

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羊羹函にできたいくつかの繭は種にするために残されたが、私の心がその几帳の奥にまでとどいたのか、それともお姫様が光りかがやく夏の世をすてかねてか、まもなく彼女はまつ黒な眼のうへに美しい眉をたて、新しい歓びにふるへる翅さへもつて昔の俤をしのばすやうな可愛らしい姿をあらはした。

そうして右に左に輪をかくようにして、睦びあう伴侶を求めて歩くのを、私は竹のなかから出た人よりも珍しく眺めていた。

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さうして右に左に輪をかくやうにして睦びあふ伴侶をもとめてあるくのを私は竹のなかから出た人よりも珍しく眺めてゐた。

蚕が老いて繭になり、繭がほどけて蝶になり、蝶が卵を産むのを見て、私の知識は完成した。

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蚕が老いて繭になり、繭がほどけて蝶になり、蝶が卵をうむのをみて私の智識は完成した。

それはまことに不可思議な謎の輪であった。

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それはまことに不可思議の謎のであつた。

私は常にこういう子供らしい驚嘆をもって自分の周囲を眺めたいと思う。

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私は常にかやうな子供らしい驚嘆をもつて自分の周囲を眺めたいと思ふ。

人々は多くのことを見慣れるにつけ、ただそれが見慣れたことであるというだけで、そのまま見過ごしてしまうけれども、思えば年ごとの春に萌え出す木の芽は、年ごとにあらたに我々を驚かすべきものであったろう。もしそれを知らないというならば、我々はこの小さな繭に包まれたほどのわずかなことすら知らないのだから。

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人びとは多くのことを見馴れるにつけただそれが見馴れたことであるといふばかりにそのままに見すごしてしまふのであるけれども、思へば年ごとの春に萌えだす木の芽は年ごとにあらたに我らを驚かすべきであつたであらう、それはもし知らないといふならば、我我はこの小さな繭につつまれたほどのわづかのことすらも知らないのであるゆゑに。

その種が孵ったときには桑の木も少なくなっていたし、人手もなくて、とてもそれだけの蚕を飼うことができなかったので、家の者は、すぐに雀が食ってしまうだろうという浅はかな考えから、去年以来お姫様と兄弟になった私の留守のまに、そのうちの半分ほどをこっそり裏の畑へ捨てておいた。

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その種がかへつたときには桑の木もすくなくなつてたし人手もなくてとてもそれだけの蚕をかふことができなかつたので、家の者は ぢきに雀がくつてしまふだらう といふ浅はかな考へから去年以来お姫様と兄弟になつた私の留守のまにそのうちの半分ほどをこつそり裏の畑へすてておいた。

それを桑つみに行った拍子にふいと私が見つけ、びっくりして飛んで帰り訳を聞いたが、みんなはなんのかのとはぐらかして相手にしようとしない。

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それを桑つみにいつた拍子にふいと私が見つけびつくりして飛んでかへり訳をきいたがみんなはなんのかのとはぐらかして相手にしようとしない。

私はとうとう感づいて、どうか拾いあげて飼ってやってくれと、手をつかないばかりにして頼んだけれど、どうしても聞いてくれない。

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私はたうとう感づいて、どうか拾ひあげてかつてやつてくれと手をつかないばかりにして頼んだけれどどうしてもきいてくれない。

とはいえ、彼らの老獪な詭弁も、到底単純無垢な子供の慈悲心をくらますことができないのを見て、彼らはついに慣用手段の大きな声で人をおどかしてしまおうとした。

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とはいへ彼らの老獪な詭弁も到底単純無垢な子供の慈悲心をくらますことができないのをみ、彼らは終に慣用手段の大きな声でひとをおどかしてしまはうとした。

私はくやしさ憎さがこみあげ、みんなを睨みつけて、気の変になったように悪態をついたあげく、裏へ駆けだして泣いていた。

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私はくやしさ憎さがこみあげみんなを睨みつけて気ちがひみたいに悪対あくたいをついたあげく裏へかけだして泣いてゐた。

そのとき、もし私に彼らをひしぎ倒すだけの力があったならば、彼らを数珠つなぎにして雀の餌にしただろう。

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その時もし私に彼らをとりひしぐだけの力があつたならば彼らを数珠つなぎにして雀の餌にしたであらう。

それからは毎日、頭が痛いといっては学校を早びけして、首を振って飢えを訴えている兄弟に桑の葉を摘んでやったが、ひ弱なものどもは夜昼の寒さ暑さに堪えかねて、毎日いくつかずつ土にまみれてゆく。

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それからは毎日頭が痛いといつては学校を早びけにして首をふつて饑ゑを訴へてる兄弟に桑の葉をつんでやつたが、脾弱いものどもは夜昼の寒さ暑さに堪へかねて毎日いくつかづつ土にまみれてゆく。

雨の降りだした夕がたであった。

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雨のふりだした夕がたであつた。

家からいくら呼ばれても帰らないので伯母さんが出てきてみたら、私は捨てられた蚕の上に傘をさしかけて立っているのであった。

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家からいくら呼ばれても帰らないので伯母さんが出てきてみたら私はすてられた蚕のうへに傘をさしかけて立つてるのであつた。

そうして顔を見るやいなや、わっと泣きだしてその前垂れに食いついた。

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さうして顔を見るやいなやわつと泣きだしてその前垂にくひついた。

仏性の伯母さんは、どうにかしたいのは山々なのだがどうしようもないもので、お念仏をくりかえしながら、ようやくなだめて連れて帰った。

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仏性の伯母さんはどうかしたいのは山山なのだがどうもしやうがないものでお念仏をくりかへしながらやうやく賺してつれて帰つた。

その後、家の者は、そこに小さな胡麻石の碑が立てられ、その上に私の手で、嗚呼忠臣楠氏之墓、と書いてあるのを見つけた。

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その後家の者はそこに小さな胡麻石の碑がたてられそのうへに私の手で 嗚呼忠臣楠氏之墓 と書いてあるのを見出した。

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ひとつは境遇から、ひとつは自分の性格から、とかく苦悩の多い早熟な私にとって、この上ない慰めとなったのは絵を描くことであった。

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ひとつは境遇から、ひとつは自分の性格から、とかく苦悩の多い早熟な私にとつてこのうへもない慰藉となつたのは絵をかくことであつた。

私は、四条派の画に堪能であった大殿様からの拝領物だという粉本の巻物を、父からもらって持っていた。

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私は四条派の画に堪能であつた大殿様からの拝領物だといふ粉本の巻物を父からもらつてもつてゐた。

それは私の秘蔵の一軸であると同時に、伯母さんにとっては、お犬様や丑紅の牛と一緒にほいほいと持ちだして私の癇癪を鎮める、虫おさえの妙薬であった。

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それは私の秘蔵の一軸であると同時に伯母さんにとつてはお犬様や丑紅の牛といつしよにほいほいと持ちだして私の癇癪をしづめる虫おさへの妙薬であつた。

その巻物、鷺だの、鶴だの、松だの、日の出だの、美しい自然のなかでも美しいものの美しい姿ばかりを美しく描き集めたその巻物は、さすがにまだ虚しく清らかであった私の胸を、言いしれぬ夢と憧れの陶酔で満たしてしまうのであった。

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その巻物、鷺だの、鶴だの、松だの、日の出だの、美しい自然のなかでも美しいものの美しい姿ばかりを美しくかきよせたその巻物はさすがにまだ虚しく清らかであつた私の胸をいひしらぬ夢と憧れの陶酔をもつてみたしてしまふのであつた。

この時分、私はもうそれらの絵を見るだけでは満足ができなかったので、そんなことが何より嫌いな兄の不機嫌を承知のうえで、やっと家から買ってもらった安絵具――それは紺色の粗末なボール箱にたった八種ほどの絵具と一本の筆が入っていて、箱の上には獅子の跳ねている商標がついていた。――

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このじぶん私はもうそれらの絵を見るだけでは満足ができなかつたので、そんなことがなにより嫌ひな兄の不機嫌を承知のうへでやつと家から買つてもらつた安絵具――それは紺色のやくざなぼうる箱にたつた八種ほどの絵具と一本の筆がはひつて、箱のうへには獅子の跳ねてる商標がついてゐた。――

と姉から譲られた筆洗を友として、草双紙の透き写しからはじめて、粉本の絵のやさしいのを拾い描きに描くようになった。

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と姉から譲られた筆洗を友として草双紙の透きうつしからはじめて粉本の絵のやさしいのを拾ひがきにかくやうになつた。

けれども誰ひとり教えてくれる者はなく、部屋に閉じこもって幾度も幾度も描きそこないながら、さんざん苦心をして、ひとつの線の引き方も、ひとつの色の出し方も、みんな自分ひとりで工夫しなければならない。

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けれども誰ひとり教へてくれる者はなし、部屋にとぢこもつて幾度も幾度もかきそこなひながらさんざ苦心をして、ひとつの線のひきかたも、ひとつの色のだしかたも、みんな自分ひとりでくふうしなければならない。

しかしながら、これは私にとって、いわば自由な創造であった。

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併しながらこれは私にとつていはば自由な創造であつた。

ユダヤの神は、あの万物の創造にあたって、私が一羽の鳥、一輪の花を描きえたほどの満足を味わうことができただろうか。

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猶太の神はあの万物の創造にあたつて私が一羽の鳥、一輪の花をかきえたほどの満足を味ふことができたであらうか。

赤と黄とで橙黄色を得たという、ただそれだけのことさえ私を小躍りさせた。

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赤と黄とで橙黄たうくわうを得たといふただそれしきのことさへが私を雀躍こをどりさせた。

兄は案のじょう大不機嫌で、せっかくよくできたのを机に立てて眺めていると、傍へやってきてわざとめちゃめちゃにけなしたりしたが、そんなことは、喜びと力に満ちたこの小さな造物主の勇気を挫くことはできなかった。

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兄は案のぢやう大不機嫌で、折角よくできたのを机にたてて眺めてると傍へやつてきてわざとめちやめちやにくさしたりしたが、そんなことは喜びと力にみちたこの小さな造物主の勇気を挫くことはできなかつた。

私は草双紙のおいらんやお姫様の着物の色を選び、またその顎の下にひとつの筋を入れ、眉の引き方を変えるなど、いろいろと自分の好みを加えて、そして昔の神様のように、自分のこしらえたものを恋人にして、大事に引き出しにしまっておいたりした。

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私は草双紙のおいらんやお姫様の著物の色を選み、またその腭のしたにひとつのすぢをいれ、眉のひきかたをちがへるなどいろいろと自分の好みをくはへて、そして昔の神様のやうに自分のこしらへたものを恋人にして大事に抽匣へしまつておいたりした。

が、一方で、その紙の上に創造したこれらの美しいものを、到底現実の世界には見出せそうもないということを思っては、いたずらに気を苛立たせた。

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が、一方にその紙のうへに創造したこれらの美しいものを到底現実の世界には見出せさうもないといふことを思つては徒に気をいらだたせた。

私はまた唱歌が大好きだった。

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私はまた唱歌が大好きだつた。

これも兄のいる時には歌うことを許されなかったので、その留守のまをぬすんでは、ことに晴れた夜など、澄みわたる月の面をじっと見つめながら静かな静かな歌をうたうと、いつか涙が瞼にたまって、月からちかちかと後光がさしはじめる。

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これも兄のゐる時には歌ふことを許されなかつたのでその留守のまをぬすんでは、ことに晴れた夜など澄みわたる月の面をじつと見つめながら静な静な歌をうたふといつか涙が瞼にたまつて月からちかちかと後光がさしはじめる。

折々、姉のところへ遊びにくる声のいいお友達に教えてもらうことがあった。

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をりをり姉のところへ遊びにくる声のいいお友達に教へてもらふことがあつた。

私は学校ではいちばん上手だったけれど、その人のまろやかな声の前には、ただもう気おくれがして、小さな声であとについた。

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私は学校ではいちばん上手だつたけれどその人のまろまろした声のまへにはただもう気おくれがして小さな声であとについた。

それはお蕙ちゃんといつも遊んだ肱かけ窓のところであった。

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それはお蕙ちやんといつも遊んだ肱かけ窓のところであつた。

青桐の葉が風にざわめき、虫が鳴いて、五位鷺の群れががっがっと鳴き渡る夜が多くあった。……

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青桐の葉が風にさわざ、虫がないて、五位鷺の群ががつがつと鳴きわたる夜が多くあつた。……

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私が何より嫌いな学課は修身だった。

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私のなにより嫌ひな学課は修身だつた。

高等科からは掛け図をやめて教科書を使うことになっていたが、どういうわけか表紙は汚いし、挿絵はまずいし、紙質も活字も粗悪で手に取るのさえ気持ちが悪い粗末な本で、載せてある話といえばどれもこれも、孝行息子が殿様から褒美をもらっただの、正直者が金持ちになっただのという筋の、しかも味もそっけもないものばかりであった。

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高等科からは掛け図をやめて教科書をつかふことになつてたがどういふ訳か表紙は汚いし、挿画はまづいし、紙質も活字も粗悪な手にとるさへ気もちがわるいやくざな本で、載せてある話といへばどれもこれも孝行息子が殿様から褒美をもらつたの、正直者が金持ちになつたのといふ筋の、しかも味もそつけもないものばかりであつた。

おまけに先生ときたら、ただもう最も下等な意味での功利的な説明を加えるよりほか能がなかったので、せっかくの修身は、私を少しも善良にしなかったばかりか、かえってまったく反対の結果さえ引き起こした。

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おまけに先生ときたらただもう最も下等な意味での功利的な説明を加へるよりほか能がなかつたので折角の修身は啻に私をすこしも善良にしなかつたのみならずかへつてまつたく反対の結果をさへひき起した。

このわずか十一か十二の子供のたかの知れた見聞、自分ひとりの経験に照らしてみても、そんなことはとてもそのまま納得ができない。

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このわづかに十一か十二の子供のたかの知れた見聞、自分ひとりの経験に照してみてもそんなことはとてもそのまま納得ができない。

私は、修身書は人をだますものだ、と思った。

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私は 修身書は人を瞞著まんちやくするものだ と思つた。

それゆえ、行儀が悪いと操行点を引かれるという恐ろしいその時間に、頬杖をついたり、わき見をしたり、欠伸をしたり、鼻唄をうたったり、できるだけ行儀を悪くして、抑えがたい反感をもらした。

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それゆゑ行儀が悪いと操行点をひかれるといふ恐しいその時間に頬杖をついたり、わき見をしたり、欠伸をしたり、鼻唄をうたつたり、出来るだけ行儀を悪くして抑へ難い反感をもらした。

私は学校へあがってから「孝行」

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私は学校へあがつてから「孝行」

という言葉を聞かされたことは百万遍にもなっただろう。

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といふ言葉をきかされたことは百万遍にもなつたらう。

けれども、彼らの孝道は、つまるところ、このように生を享け、このように生を続けていることをこの上ない幸福とする感謝の上に置かれている。

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さりながら彼らの孝道は畢竟かくのごとくにせいけ、かくのごとくに生をつづけてることをもつて無上の幸福とする感謝のうへにおかれてゐる。

そんなものが、私のように既に早く生きる苦しみの味を覚えはじめた子供にとって、何の権威があろうか。

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そんなものが私のやうに既にはやく生苦の味をおぼえはじめた子供にとつてなんの権威があらうか。

私はどうかしてよく訳が聞きたいと思い、あるとき、みんなが悪性の腫れ物のように触れることを憚って頭から鵜呑みにしている孝行について、こんな質問をした。

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私はどうかしてよく訳がききたいと思ひある時みんなが悪性の腫物はれもののやうに触れることを憚つて頭から鵜呑みにしてる孝行についてこんな質問をした。

「先生、人はなぜ孝行しなければならないんです」

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「先生、人はなぜ孝行しなければならないんです」

先生は眼を丸くしたが

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先生は眼を丸くしたが

「おなかのへった時ごはんが食べられるのも、あんばいの悪い時お薬が飲めるのも、みんなお父様やお母様のおかげです」

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「おなかのへつた時ごはんがたべられるのも、あんばいの悪い時お薬ののめるのも、みんなお父様やお母様のおかげです」

という。

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といふ。

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「でも僕はそんなに生きていたいとは思いません」

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「でも僕はそんなに生きてたいとは思ひません」

先生はいよいよまずい顔をして

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先生はいよいよまづい顔をして

「山よりも高く海よりも深いからです」

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「山よりも高く海よりも深いからです」

「でも僕はそんなこと知らない時のほうがよっぽど孝行でした」

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「でも僕はそんなこと知らない時のはうがよつぽど孝行でした」

先生はかっとして

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先生はかつとして

「孝行のわかる人、手をあげて」

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「孝行のわかる人手をあげて」

といった。

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といつた。

ひょっとこどもは、われこそはといわんばかりにぱっと一斉に手をあげ、この理不尽で卑怯なやり方に対して張り裂けるほどの憤懣を抱きながらも、さすがに自分ひとりを恥じて顔を赤くし手をあげずにいる私を、じろじろと横目に見る。

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ひよつとこめらはわれこそといはないばかりにぱつと一斉に手をあげてこの理不尽な卑怯なしかたに対して張り裂けるほどの憤懣をいだきながら、さすがに自分ひとりを愧ぢ顔を赤くして手をあげずにゐる私をじろじろとしりめにかける。

私はくやしかったけれど、それきりひと言もいえずに黙ってしまった。

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私はくやしかつたけれどそれなりひと言もいひ得ずに黙つてしまつた。

それから先生は常にこの有効な手段を用いて人の質問の口を閉ざしたが、こちらはまた、その屈辱を免れるために、修身のある日にはいつも学校を休んだ。

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それから先生は常にこの有効な手段を用ひてひとの質問の口をとざしたが、こちらはまたその屈辱を免れるために修身のある日にはいつも学校を休んだ。

十一

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十一

ある晩、ふと人に誘われて少林寺へ遊びに行った。

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ある晩ふとひとに誘はれて少林寺へ遊びにいつた。

寺には貞ちゃんという年も級もひとつ下の子があり、見知り越しではあったが、友達になるほどの機会も希望もなしに過ぎていたのである。

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寺には貞ちやんといふ年も級もひとつ下の子があり、見知りごしではあつたが友達になるほどの機会も希望もなしに過ぎてたのである。

私ははじめてなので、かなりの不安と好奇心をもって扉のない山門をくぐった。

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私ははじめてなのでかなりの不安と好奇心をもつて扉のない山門をくぐつた。

そうして見おぼえのある閼伽井のそばの木犀の陰へ行って代わる代わる呼んだら、貞ちゃんはがたがたと内玄関の戸をあけて、私たちを茶の間へ案内した。

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さうして見おぼえのある閼伽井のそばの木犀の蔭へいつてかはるがはる呼んだら貞ちやんはがたがたと内玄関の戸をあけて私たちを茶の間へ案内した。

家の人はこの珍客のためにわざわざとっておきの吊りランプを出してくれたが、それはその頃でさえあまり見かけることのなかった古い型のもので、四方ガラスの箱のなかへランプを入れるのであった。

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家の人はこの珍客のためにわざわざとつておきのつりランプをだしてくれたが、それはその頃でさへあんまり見かけることのなかつた古い型のもので、四方ガラスの箱のなかへランプをいれるのであつた。

私たちは、その上下左右にぱっと投げかける明るい光のなかで、将棋倒しや道中双六にふけった。

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私たちはその上下左右にぱつと投げかける明るい光のなかで将棊倒しや道中双六にふけつた。

ふりだしの日本橋に鰹売りの絵がついていたことも、「御油」

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ふりだしの日本橋に鰹うりの絵のついてたことも、「御油ごゆ

を「おあぶら」

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を「おあぶら」

と読んで笑われたことも覚えている。

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と読んで笑はれたこともおぼえてゐる。

私は生まれてはじめての夜の遊びでもあり、子供好きの陽気な人たちが一緒に遊んでくれるのも嬉しくて、初対面にもかかわらず思いのほかはしゃいで遊んだ。

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私は生れてはじめてのよるの遊びでもあり、子供ずきの陽気な人たちがいつしよに遊んでくれるのも嬉しくて初対面にもかかはらず思ひのほかはしやいで遊んだ。

一体、私は病身をたてに兄弟じゅうではいちばん寛大に扱われて、ずいぶん我儘もしていたのだけれど、それでも、行住坐臥、四方八方に立てられた制札ばかりを気にかけて、子供が遊ばねばならないような遊び方をしたこともなく、遊び場ももっていなかったので、そんな子供のために開放されたかのような扉なしの山門のなかは、私にとって到底忘れることのできない自由の天地であった。

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一体私は病身をたてに兄弟ぢゆうではいちばん寛大にとりあつかはれて随分我儘もしてたのだけれど、それでも行住坐臥四方八方にたてられた制札ばかりを気にかけて子供が遊ばねばならぬやうな遊びかたをしたこともなく、遊び場ももつてゐなかつたゆゑ、そんな子供のために開放されたかのごとき扉なしの山門のなかは私にとつて到底忘れることのできない自由の天地であつた。

それが縁となって、私はそれから三日にあげず遊びに行くようになった。

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それが縁となつて私はそれから三日にあげず遊びにゆくやうになつた。

いろいろな原因から、無邪気とか快活とか、一般の子供がもっている幸福の多くを失った子供らしくない子供が、真に子供らしい子供として楽しい我知らずの幾時をすごしえたところ、引っこみがちな憂鬱な子供が太陽の光の下でのみ授かることのできる自然についての子供らしい知識を蓄えたところ、もって生まれたある性質、それは兄にすこぶる評判の悪かったその性質を培い育てて後の私を形づくったところ、それらのさまざまな点で、少林寺の境内は私に特別の意味をもっている。

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いろいろな原因から無邪気とか、快活とか、一般の子供がもつてる幸福の多くを失つた子供らしくない子供が真に子供らしい子供として楽しい我知らずの幾時をすごしえたところ、ひつこみがちな憂鬱な子供が太陽の光のしたでのみ授かることのできる自然についての子供らしい智識をたくはへたところ、もつて生れたある性質、それは兄に頗る評判のわるかつたその性質をつちかひ育てて後の私を形づくつたところ、それらの種種な点で少林寺の境内は私に特別の意味をもつてゐる。

寺は主に旗本を檀家にして江戸の絵図にも載ったほどのものであったが、御維新になってからはそれらの人はみんな散り散りばらばらになり、たまたまこちらに踏みとどまった者もおおかた零落してしまったので、自然、寺も思いのほかの窮迫に陥って、年々に荒廃してゆくばかりの有様であった。

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寺はおもに旗本を檀家にして江戸の絵図にものつたほどのものであつたが、御維新になつてからはそれらの人はみんなちりぢりばらばらになり、たまたまこちらにふみとどまつた者もおほかた零落してしまつたので、自然寺も思ひのほかの窮迫に陥つて年年に荒廃してゆくばかりの有様であつた。

それでもまだ、伯母さんにおぶさって行った時分の面影は大概そのまま残って、玄関の衝立の孔雀はなお誇らしげに豪奢な尾を垂れ、いろいろに咲き乱れた牡丹の花には、今も昔の夢に酔うかのように幾羽の蝶が舞っていた。

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それでもまだ伯母さんにおぶさつていつたじぶんの俤は大概そのままにのこつて、玄関の衝立の孔雀はなほ誇りかに豪奢な尾をたれ、いろいろに咲きみだれた牡丹の花には今も昔の夢に酔ふかのやうに幾羽の蝶が舞つてゐた。

背の高いかなめ垣を隔てて左手は庫裡になり、それについて右へ曲がると内庭で、花壇やいちご畑があり、切り残された老木があちこちに大きな暗い陰を落としている。

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背の高いかなめ垣をへだてて左手は庫裡になり、それについて右へ曲ると内庭で花壇やいちご畑があり、切りのこされた老木があちこちに大きな暗い蔭を落してゐる。

そこから鉤の手にまた右へ曲がると、西へ向いた本堂の庭の隅に槙の大木があって、その岩瘤みたいな根っこは庭のなかばにはびこり、縦横に伸び出した枝は幾百の行脚僧を憩わせるほどの緑の天幕となり、私たちのためには夕立のときの雨宿りとなり、夏の日の涼しい陰となった。

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そこから鉤の手にまた右へ曲ると西へむいた本堂の庭の隅に槙の大木があつて、その岩瘤みたいな根つこは庭のなかばにはびこり、縦横にのびだした枝は幾百の行脚僧を憩はすべき緑の天幕となり、私たちのためには夕だちのときの雨宿りとなり、夏の日の涼しい蔭となつた。

そこから一段低くなった崖ぎわの畑には大根や菜の花が咲き、烏瓜や藪からしがじゃんじゃらに絡んだ茂みのなかには古井戸があって、底のほうからすいすいと蚊が出てきたりした。

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そこから一段低くなつた崖ぎはの畑には大根や菜の花がさき、烏瓜や藪からしがぢやんぢやらになつたぼさのなかには古井戸があつて底のはうからすいすいと蚊が出てきたりした。

槙の木のうしろから、熊笹の土手にある犬の路をぽかりと北へ抜けると、そこは一面に栗の木の生えた墓地で、栗の花に、葉に、いがに埋まり、渋に染まった石塔の上にはよく笄蛭がはっていた。

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槙の木のうしろから熊笹の土堤どてにある犬の路をぽかりと北へぬけるとそこはいちめん栗の木のはえた墓地で、栗の花に、葉に、いがに埋まり、渋に染まつた石塔のうへにはよく笄蛭かうがいびるがはつてゐた。

貞ちゃんはひょうきん者の気のいい子で、なんでも言いなりになって遊んでくれたし、一方でそれまでそうした戸外の遊びをろくにしたことのない私は、それに必要な雑多な知識をまったく欠いていたため、そんなことには貞ちゃんが先生になって、二人は仲よく遊んだ。

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貞ちやんは剽軽者の気のいい子でなんでもいひなりにして遊んでくれたし、一方にそれまでさうした戸外の遊びをろくにしたことのない私はそれに必要な雑多な智識をまつたく欠いてたためそんなことには貞ちやんが先生になつて二人は仲よく遊んだ。

十二

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十二

春のころには坂ひとつ向こうの広い原へ行って凧をあげる。

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春のころには坂ひとつ向ふの広い原へいつて凧をあげる。

貞ちゃんのは鬚達磨で、私のは障子骨の金太郎だった。

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貞ちやんのは鬚達磨で、私のは障子骨の金太郎だつた。

最初、糸目を押さえられてこちらの思うままになっていた凧は、高くあがるにしたがって威張りだして、ついにはひと筋の糸で、夢中に空を見あげている揚げ手を支配しはじめる。

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最初糸目をおさへられてこちらの思ふままになつてた凧は高くあがるにしたがひ威張りだして、終にはひとすぢの糸で夢中に空を見あげてる揚げ手を支配しはじめる。

彼はぶんぶんうなりながら、ゆーらゆーらと尻尾を振って、大空の海を泳ぐように見える。

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彼はぶんぶんうなりながらゆーらゆーらと尻尾をふつて大空の海を泳ぐやうにみえる。

あまり張りが強くなって引きずられたり、なにか気に障って回りだしたりすると、なんだか怖くなって

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あんまり張りが強くなつてひきずられたり、なにか気にさはつて廻りだしたりするとなんだか怖くなつて

「かんにんだー、かんにんだー」

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「かんにんだー、かんにんだー」

とあやまりながら、一所懸命だまを出して機嫌をなおしてもらう。

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とあやまりながら一所懸命だまをだして機嫌をなほしてもらふ。

恐ろしいのは鳶頭の息子のあげる八枚の童子格子だった。

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恐しいのは鳶頭の息子のあげる八枚の童子格子だつた。

籐の出っ張りうなりが胸のすくような音を漂わせ、長い尻尾の先が力づよく跳ねあがり、ぴんと張った糸目のあたりにきらりきらりとがんぎりが光っている。

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籐のでつぱりうなりが胸のすくやうな音を漂はせて長い尻尾の先が力づよくはねあがり、ぴんと張つた糸目のへんにきらりきらりとがんぎりが光つてゐる。

下の町のいじめっ子のあげるはんぎゃ(般若)の二枚凧はみんなに嫌われていた。

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下の町のいぢめつ子のあげるはんぎや(般若)の二枚凧はみんなに嫌はれてゐた。

そいつは初手から喧嘩を売るつもりで、尻尾もつけずに「もってん」

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そいつは初手から喧嘩を売るつもりで尻尾もつけずに「もつてん」

にして、びいびいといやらしい紙うなりを鳴らしながら、こづき通しにしてあげる。

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にして、びいびいといやらしい紙うなりを鳴らしながらこづきどほしにしてあげる。

しんの糸目を詰められていっそう顔をしかめた般若は、気が変になったようになって近所の凧に食ってかかり、新発明の錨のがんぎりでたちまち糸を噛み切ってしまう。

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しんの糸目をつめられて一層顔をしかめた般若は気ちがひみたいになつて近処の凧にくつてかかり新発明の錨のがんぎりで忽ち糸を噛みきつてしまふ。

私たちはその喧嘩凧のいないときを見てあげに行く。

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私たちはその喧嘩凧のゐないときをみてあげにゆく。

片手に重たい糸巻をもち、片手に糸目を轡の形に取ってゆくと、凧は競馬馬のようにはやりにはやって、ともすればびんびん飛びだそうとする。

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かた手に重たい糸巻をもち、かた手に糸目を轡の形にとつてゆくと凧は競馬うまのやうにはやりにはやつてともすればびんびん飛びださうとする。

風っぽい春の空に気負ってあがっている凧のなかで、うぬぼれか、障子骨の金太郎はひときわ目だって見えた。

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風つぽい春の空に気負つてあがつてる凧のなかでうぬぼれか障子骨の金太郎はひときは目だつてみえた。

何もかも忘れてあげているうちに、いつかよその子はみんな帰って、暮れかかった原のなかに自分たちばかりになっている。

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なにもかも忘れてあげてるうちにいつかよその子はみんな帰つて暮れかかつた原のなかに自分たちばかりになつてゐる。

ふとそれに気がつくと急に心細くなり、あわてて糸をたぐるけれど、そんな時にかぎって張りが強くなって、あせってもあせってもなかなかおろせない。

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ふとそれに気がつくと急に心細くなりあわてて糸をたぐるけれどそんな時にかぎり張りが強くなつてあせつてもあせつてもなかなかおろせない。

そのうちに日はずんずん沈んで、刻々暗くなる空に、金太郎と達磨の眼玉が光るのばかりが見える。

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そのうちに日はずんずん沈んで、刻刻暗くなる空に金太郎と達磨の眼玉が光るのばかりがみえる。

お互いに気持ちはちゃんとわかっていながら負け惜しみの平気を装って、晩までおろせなかったらどうしようかしら、すっかりだまを出すんじゃなかったのに、などと思いながら、やっとこさとおろして糸を巻きおわると、それまでいっぱいになっていた胸がからりとして、思わず顔を見あわせ、わはははは、と笑う。

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お互に気もちはちやんとわかつてゐながら負け惜みの平気を装つて、晩までおろせなかつたらどうしようかしらん、すつかりだまをだすんぢやなかつたのに なぞと思ひながらやつとこさとおろして糸をまきをはるとそれまでいつぱいになつてた胸がからりとして思はず顔を見あはせ わはははは と笑ふ。

そうして

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さうして

「僕さっきどうしようかと思っちゃった」

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「僕さつきどうしようかと思つちやつた」

などと本音を吐きながら

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なぞと本音をはきながら

「誰にも内緒にしよう」

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「誰にも内證にしよう」

と堅く約束して帰る。

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と堅く約束して帰る。

十三

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十三

夏は毎日、蝉とりに憂き身をやつす。

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夏は毎日蝉とりにうき身をやつす。

黐でとると翅が汚れるといって、三盆白の袋を竿の先へつけ、庭から墓場へと探して歩く。

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もちでとると翅がよごれるといつて三盆白の袋を竿のさきへつけ庭から墓場へとさがしてあるく。

木が多いので、一回りするうちにはいやになるほどとれる。

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木が多いので一順まはるうちにはいやになるほどとれる。

あぶらはやかましいばかりで見かけもよくないので、とっても張りあいがない。

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あぶらはやかましいばかり、見かけがよくないのでとつても張りあひがない。

みんみんはまるまると太って、鳴き声もひょうげている。

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みんみんはまるまるとふとつて鳴き声もへうげてゐる。

法師蝉は歌が面白く、それにすばやいので目のかたきにして追いまわす。

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法師蝉は歌がおもしろく、それにすばやいのを目のかたきにして追ひまはす。

蜩は手に負えない。

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ひぐらしは手におへない。

鳴かない蝉が声もたてずに袋のなかで身をもだえるのはあわれである。

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唖蝉の声もたてずに袋のなかで身をもだえるのはあはれである。

また私たちは、その季節季節に実のなる木から木へと、小鳥のようにあさり歩く。

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また私たちはその季節季節に実のなる木から木へと小鳥のやうにあさりあるく。

ぼたん杏の花が蒼白く散ったあとに、豆ほどの実が日に日にふくらんでゆくのをもどかしく眺めているうち、いつか雀の卵から鳩の卵ぐらいになって、みずみずと黄味を帯び、頬みたいに赤みをきざし、しまいには枝がたわんで地についてしまう。

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ぼたん杏の花が蒼白く散つたあとに豆ほどの実が日に日にふくらんでゆくのをもどかしく眺めてるうちいつか雀の卵から鳩の卵ぐらゐになつて、みづみづと黄味を帯び、頬みたいに赤みをきざし、しまひには枝が撓んで地についてしまふ。

そうなると、腹を痛めないかぎりという許しが出るのを、こっそりと間がな隙がなちぎって、ぼたん杏のおくびが出るまで食う。

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さうなると腹を痛めないかぎりに許しがでるのをこつそりとがなすきがなちぎつてぼたん杏の噯気おくびがでるまでくふ。

それでも食いきれないので、紫色に熟れすぎたのがぼたりぼたりと落ちる。

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それでも食ひきれないので紫色にうみすぎたのがぼたりぼたりと落ちる。

それを烏が狙ってきて、憎らしく尻を振ってつつきまわる。

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それを烏がねらつてきて憎体にくていに尻をふつてつつつきまはる。

楽しみなのは栗の盛りであった。

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楽しみなのは栗のさかりであつた。

ひとりは竹竿をもち、ひとりは笊をかかえて、鵜の目鷹の目で墓地を歩く。

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ひとりは竹竿をもち、ひとりは笊をかかへて鵜の目鷹の目墓地をあるく。

めっきりと露が垂れそうなほど口を開いたのを見つけたときの嬉しさといったらない。

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めつきりと露がたれさうにゑんだのをみつけたときの嬉しさといつたらない。

竿の先でちょんちょんと叩いてみると、いががぴょいぴょいと首を振って、さもうまそうな手ごたえがする。

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竿のさきでちよんちよんとたたいてみるといががぴよいぴよいと首をふつてさもうまさうな手ごたへがする。

そこでこつんとひとつ食らわす。

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そこでこつんとひとつくはす。

ばらばらと落ちる。

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ばらばらと落ちる。

飛んでいって拾いこむ。

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とんでつて拾ひこむ。

そして三つにひとつは試し食いに食ってしまう。

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そして三つにひとつはためひにくつてしまふ。

いちご。

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いちご。

柿。

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柿。

ゆすらや棗はさほどでもないのを、意地きたなでひとつも枝には残さない。

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ゆすらや棗はさほどでもないのを意地きたなでひとつも枝には残さない。

かりんは木ぶりに似あわないやさしい花が咲き、その花に似あわないいかつい実がなる。

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かりんは木ぶりに似あはぬやさしい花がさき、その花に似あはぬいかつい実がなる。

どさりどさりと落ちるばかりで、匂いはよくても渋くはあるし、それに石みたいで歯もたたない。

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どさりどさりと落ちるばかりで匂はよくても渋くはあるし、それに石みたいで歯もたたない。

広い庭のあちこちに作られた花壇や、たくさんある立木には、その折々に花の絶えることがなかった。

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広い庭のあちこちにつくられた花壇や沢山ある立木にはそのをりをりに花の絶えることがなかつた。

百合、ひまわり、金盞花、千日草、葉鶏頭、魚の卵に似た棕櫚の花など。

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百合、ひまはり、金盞花、千日草、葉鶏頭、魚の卵に似た棕櫚の花など。

夏のはじめには、この庭の自然は最も私の心を楽しませた。

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夏のはじめにはこの庭の自然は最も私の心を楽しませた。

春の暮れの霞にむせるような、南風と北風が交互に吹いて寒暖晴雨の定まらない落ちつきのない季節がすぎ、天地はまったく若々しく冴え冴えとした初夏の領となる。

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春の暮の霞にいきれるやうな、南風と北風が交互に吹いて寒暖晴雨の常なく落ちつきのない季節がすぎ、天地はまつたくわかわかしくさえざえしい初夏の領となる。

空は水のように澄み、日光はあふれ、涼風は吹きおち、紫の影はそよぎ、あの陰鬱な槙の木までが、心からかいつになく晴れやかに見える。

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空は水のやうに澄み、日光はあふれ、すず風は吹きおち、紫の影はそよぎ、あの陰鬱な槙の木までが心からかいつになくはれやかにみえる。

蟻はあちこちに塔を築き、羽虫は穴を出て我がもの顔に飛びまわり、可愛い蜘蛛の子は木の枝や軒の陰に夕暮れの踊りをはじめる。

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蟻はあちこちに塔をきづき、羽虫は穴をでてわがものがほに飛びまはり、可愛い蜘蛛の子は木枝や軒のかげに夕暮の踊りをはじめる。

私たちは燈心で地虫を釣り、地蜂の穴を埋めてきんきんいう声に耳をすまし、蝉のぬけがらを探し、毛虫をつつついて歩く。

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私たちは燈心で地虫をつり、地蜂の穴を埋めてきんきんいふ声に耳をすまし、蝉のぬけがらをさがし、毛虫をつつついてあるく。

すべてのものはみな若く楽しくいきいきとして、憎むべきものはひとつもない。

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すべてのものはみな若く楽しくいきいきとして、憎むべきものはひとつもない。

そんなときに私は、小暗い槙の木の陰に立って、静かに静かに暮れてゆく遠山の色に見とれるのが好きであった。

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そんなときに私は小暗い槙の木の蔭に立つて静に静にくれてゆく遠山の色に見とれるのが好きであつた。

青田が見え、森が見え、風の運んでくる水車の音と蛙の声が聞こえ、向こうの高台の木立のなかからは鐘の音がこうこうと響いてくる。

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青田がみえ、森がみえ、風のはこんでくる水車の音と蛙の声がきこえ、むかふの高台の木立のなかからは鐘の音がこうこうと響いてくる。

二人は空に残る夕日の光を浴びて、たおたおと羽ばたいてゆく五位の群れを見送りながら、夕やけこやけをうたう。

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二人は空にのこる夕日の光をあびてたをたをと羽ばたいてゆく五位のむれを見おくりながら夕やけこやけをうたふ。

たまには白鷺も長い脚をのばしてゆく。

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たまには白鷺も長い脚をのばしてゆく。

十四

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十四

地上の花を暖かい夢に包んで、とろとろと微笑ませる銀色の陽炎のなかに、その夢の国の女王のように、花壇にはここかしこに牡丹が咲く、白や、紅や、紫や。

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地上の花を暖い夢につつんでとろとろとほほゑましめる銀色の陽炎かげろふのなかにその夢の国の女王のごとく花壇にはここかしこに牡丹がさく、白や、紅や、紫や。

これも夢のもののいろいろの羽衣を着た蝶々はひらひらと来て花に戯れ、まだらの甲虫は花粉にまみれてずっぷりと蜜に酔う。

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これも夢のもののいろいろの羽衣をきた蝶蝶はひらひらときて花に戯れ、まだらの甲虫は花粉にまみれてずつぷりと蜜によふ。

いつも固く閉ざされて物音もしない離れの障子があいて、脇息に凭れた老僧の姿が見えるのはこの頃である。

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いつもかたくとざされてもの音もしない離れの障子があいて脇息につた老僧の姿のみえるのはこの頃である。

離れの前には老僧秘蔵の牡丹の古木があり、淡紅の一重の花びらに芳しい息をふくんで、ふくらかに花をひらく。

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離れのまへには老僧の秘蔵の牡丹の古木があり淡紅のひとへの花びらに芳しい息をふくんでふくらかに花をひらく。

そこは狭い中庭をあいだに母屋とは弓なりの橋ひとつを隔てて、日あたりのいい縁の下には秋海棠のひとり生えが茂り、向かって左の端には青桐、右の端にははくうん木が涼しい陰をつくっていた。

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そこは狭い中庭をあひだに母屋とは弓なりの橋ひとつをへだてて、日あたりのいい縁のしたには秋海棠のひとり生えがしげり、むかつて左の端には青桐、右の端にははくうん木が涼しい蔭をつくつてゐた。

七十七になる老僧はそこに閉じこもって、朝夕の読経のほかには物音もたてない。

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七十七になる老僧はそこにとぢこもつて朝夕の看経かんきんのほかにはもの音もたてない。

私たちは、ただいつとはなしに隙をもれてくる薫物の香りによって、そこに石のように静まりかえった人がいることを知るばかりであった。

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私たちはただいつとはなしに隙をもれてくる薫物のかをりによつてそこに石のごとくにしづまりかへつた人のゐることを知るばかりであつた。

どうかすると老僧は、茶がほしいときに蜩の鳴くような音のする鈴を鳴らすことがあった。

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どうかすると老僧は茶がほしいときに蜩の鳴くやうな音のする鈴をならすことがあつた。

それでも聞きつける者がいなければ、鉢の子のように茶碗を手に受け、とことこと橋を渡って自分で茶をいれてゆく。

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それでもききつける者がゐなければ鉢の子のやうに茶碗を手にうけとことこと橋をわたつて自分で茶をいれてゆく。

また時たま仏事に呼ばれて、頭巾をあみだにかぶり、片手に数珠、片手に杖をついてとぼとぼと歩いてゆく姿を見る者で、この見すぼらしい坊さんがなにかの時には緋の法衣を着る人だと思う者はなかった。

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また時たま仏事によばれて頭巾を阿禰陀にかぶり、かた手に数珠、かた手に杖をついてとぼとぼと歩いてゆく姿をみる者はこの見すぼらしい坊さんがなにかの時には緋の法衣をきる人だと思ふ者はなかつた。

まことにこの老僧は、人間の世界とは橋ひとつを隔てて、世のなかには夏になれば牡丹が咲くということのほか何も知らないかのように、寂寞と行ないすましている。

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まことにこの老僧は人間の世界とは橋ひとつをへだてて世のなかには夏になれば牡丹がさくといふことのほかなんにも知らないかのやうに寂寞と行ひすましてゐる。

私はいつしか子供心に老僧を敬う念を起こし、どうかしてこの人にすがりたいと思いはじめた。

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私はいつしか子供心に老僧を敬ふ念をおこしどうかしてこの人にすがりたいと思ひはじめた。

その時分にはもうすっかり寺の人たちと心安くなっていたので、貞ちゃんのいるいないにかかわらず毎日のように遊びに行って、年寄りのするように手を腰にまわして庭を歩いたり、冷たい墓地をまわったりして、折々、人の身の上や自分の身の上を思って涙を浮かべることもあった。

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そのじぶんにはもうすつかり寺の人たちと心安くなつてたので貞ちやんのゐるゐないにかかはらず毎日のやうに遊びにいつて、年寄りのするやうに手を腰にまはして庭をあるいたり、冷たい墓地をまはつたりして、をりをり人の身のうへや自分の身のうへを思つて涙をうかめることもあつた。

……私は、鎖を引きずる囚人が己の姿を恥じるような気持ちで、いつもうなだれて足もとを見つめながら考えこんで歩くのが癖であった。

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……私は鎖をひきずる囚人が己の姿を愧づるやうな気もちでいつもうなだれて足もとを見つめながら考へこんで歩くのが癖であつた。

十五

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十五

ある日のこと、貞ちゃんの留守にひとりで遊んでいたときに、離れで例の蜩の鈴が鳴った。

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ある日のこと貞ちやんの留守にひとりで遊んでたときに離れでれいの蜩の鈴が鳴つた。

が、折あしく茶の間には誰もいなかったので、私は思いきって離れへ行った。

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が、折あしく茶の間には誰もゐなかつたので私は思ひきつて離れへいつた。

橋を渡ったところのうす暗い部屋には、衣桁に輪袈裟や数珠がかかって、香の薫りがすーんともれてくる。

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橋をわたつたところのうす暗い部屋には衣桁いかうに輪袈裟や数珠がかかつて香の薫がすーんともれてくる。

私はそこまで行きはしたものの、急に気おくれがしてためらっていた。

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私はそこまでゆきはしたものの急に気おくれがしてためらつてゐた。

耳の遠い老僧は足音が聞こえなかったのか、またからからと鈴を鳴らした。

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耳の遠い老僧は足音がきこえなかつたかまたからからと鈴を鳴らした。

私はようやく襖をあけて手をついた。

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私はやうやく襖をあけて手をついた。

あちらはなにげなく大きな茶托をさしだしたが、ふと顔を見て

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彼方はなにげなく大きな茶托をさしだしたがふと顔をみて

「おお、これはこれは」

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「おお、これはこれは」

といった。

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といつた。

私は瞼をふるわせながらお辞儀をして茶托を受けとり、恥ずかしいような、嬉しいような、大願成就したような気持ちで茶の間へ来て、見おぼえたとおり、そこにある番茶をいれてもっていった。

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私は瞼をふるはせながらお辞儀をして茶托をうけとり、はづかしいやうな、嬉しいやうな、大願成就したやうな気もちで茶の間へきて見おぼえたとほりそこにある番茶をいれてもつていつた。

橋が朽ちてゆらゆらするので、ともすればこぼれそうになる。

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橋が朽ちてゆらゆらするのでともすればこぼれさうになる。

頭をさげて出したら、また

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頭をさげて出したらまた

「おお、これはこれは」

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「おお、これはこれは」

といった。

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といつた。

私は静かに襖を立て、ほっとして橋を渡った。

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私は静に襖をたてほつとして橋をわたつた。

それからは時どき家の人のかわりに行くことがあったが、私はいつも、どうかして話をする機会を得たいとそればかり願っていながら、前へ出ると何ひとついえずに黙って茶碗を受けとり、黙って茶碗をさしだして帰ってくる。

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それからはときどき家の人のかはりにゆくことがあつたが、私はいつも どうかして話をする機会を得たい とそればかり願つてゐながら前へでるとなにひとついひ得ずに黙つて茶碗をうけとり、黙つて茶碗をさしだして帰つてくる。

先方は梟かなにかのように、おお、これは、をくりかえすばかりで、ちっとも言葉をかけない。

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さきは梟かなぞのやうに おおこれは をくりかへすばかりでちつとも言葉をかけない。

黒塗りの茶托を手に受けて橋を渡るとき、南天の実を食いにきたひよ鳥があわただしく飛び立って、茶をこぼさせたこともあった。

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黒塗りの茶托を手にうけて橋をわたるとき南天の実をくひにきたひよ鳥があわただしくたつて茶をこぼさせたこともあつた。

月の夜などに白い花がほろほろと橋の上に散っていたこともあった。

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月の夜なぞに白い花がほろほろと橋のうへに散つてたこともあつた。

そんなふうにして橋を渡ってゆくこともたびたびであったけれど、この枯木のような隠者にはとりつく島もない。

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そんなにして橋をわたつてゆくこともたびたびであつたけれどこの枯木のやうな隠者にはとりつくしまもない。

ところがある時、またからからと鈴が鳴って、いつものとおり茶碗を置いて帰ろうとしたら、意外にも後ろから呼びとめて

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ところがある時またからからと鈴がなつて、いつものとほり茶碗をおいて帰らうとしたら意外にも後ろから呼びとめて

「絵をかいてあげるから紙を買っておいで」

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「絵をかいてあげように紙を買つておいで」

といった。

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といつた。

私は狐につままれた気持ちで唐紙を買ってきて、老僧の前に出した。

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私は狐につままれた気もちで唐紙を買つてきて老僧のまへに出した。

老僧は根の生えたように坐っている脇息のそばから立って、日あたりのいい隣の間へ私を連れていった。

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老僧は根の生えたやうに坐つてる脇息のそばから立つて日あたりのいい隣の間へ私をつれていつた。

部屋はことごとく渋色にくすぼって、椿寿、と書いた小さい額がかかっている。

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部屋は悉く渋色に燻ぼつて 椿寿 と書いた小さい額がかかつてゐる。

いつになく間近く坐らされて汗ぐっしょりになりながら、今までこの人を、死ぬまでも石仏みたいにして鈴を鳴らす人と決めていた私は、その一挙一動をなにか珍しいことのようにじっと眺めていた。

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いつになく間ぢかく坐らされて汗ぐつしよりになりながら今までこの人を死ぬまでも石仏みたいにして鈴を鳴らす人ときめてた私はその一挙一動をなにか珍しいことのやうにじつと眺めてゐた。

老僧は大きな硯をもちだして墨をすらせ、筆をとってさらさらと糸瓜の絵をかいた。

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老僧は大きな硯をもちだして墨をすらせ、筆をとつてさらさらと糸瓜の絵をかいた。

一枚の葉と、一本の蔓と、一つの糸瓜と。

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一枚の葉と、一本の蔓と、一つの糸瓜と。

その上へ、世のなかをなんのへちまと思えどもぶらりとしては暮らされもせず、と書き、急須みたいな書判をして、あちらこちらと眺めていたが、不意にからからと笑って

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そのうへへ 世のなかをなんのへちまと思へどもぶらりとしてはくらされもせず とかき急須みたいな書判をしてとみかうみしてたが、不意にからからと笑つて

「さあ、これをあげるから、あちらへもっておいで」

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「さあ、これをあげるであちらへもつておいで」

といって硯を棚にのせ、筆を洗い、さっさと金剛座へ帰って、もとの石仏になってしまった。

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といつて硯を棚にのせ、筆を洗ひ、さつさと金剛座へ帰つてもとの石仏になつてしまつた。

私は木から落ちた猿のように、すごすごと糸瓜の絵をもって家へ帰った。

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私は木から落ちた猿のやうにすごすごと糸瓜の絵をもつて家へ帰つた。

老僧が亡くなったのは、それから三年ばかり後のことであった。

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老僧がなくなつたのはそれから三年ばかり後のことであつた。

私は中学へ入るし、貞ちゃんは奉公に出るしで、寺とはいつとはなしに縁が絶えていたが、ある晩突然、老僧が亡くなったからという使いがきたので、私は父と一緒に悔みに行った。

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私は中学へはひるし、貞ちやんは奉公にでるし、寺とはいつとはなしにうち絶えてたがある晩突然 老僧がなくなつたから といふ使がきたので私は父といつしよに悔みにいつた。

老僧はこれという病気もなく、いわば寿命が尽きたので、方々の住職になっている昔のお弟子たちが代わる代わる世話をしていたのだそうだ。

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老僧はこれといふ病気もなくいはば寿命がつきたので、方方の住職になつてる昔のお弟子たちがかはるがはる世話をしてたのださうだ。

久しぶりで思い出の多い橋を渡ったら、離れには香の煙が立ちこめて、大般若のときに見おぼえのある坊さんが大勢寄って話していた。

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久しぶりで思ひ出の多い橋をわたつたら離れには香の煙がたちこめて大般若のときに見おぼえのある坊さんが大勢よつて話してゐた。

老僧は、へちまをかいてくれた座敷に据えてある曲彔の上に金襴の袈裟をかけ、払子をもって、昔ながらの石仏のように寂然と趺坐している。

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老僧はへちまをかいてくれた座敷に据ゑてある曲彔きよくろくのうへに金襴の袈裟をかけ、払子ほつすをもつて、昔ながらの石仏のやうに寂然と扶坐ふざしてゐる。

私はその前へ行って、昔のとおり頭をさげて焼香した。

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私はそのまへへいつて昔のとほり頭をさげて焼香した。

私たちが僧正遍昭とあだ名をつけた、でこでこした和尚さんが

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私たちが僧正遍昭と綽名をつけたでこでこな和尚さんが

「大往生じゃ、大往生じゃ」

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「大往生ぢや 大往生ぢや」

といいながら蕎麦饅頭をぱくぱく食っていた。

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といひながら蕎麦饅頭をぱくぱくくつてゐた。

私はいよいよ木から落ちた猿であった。

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私はいよいよ木から落ちた猿であつた。

十六

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十六

いい道づれのあったのを幸いに、伯母さんが先祖代々の墓参のため、またなにがなし生国の古い思い出が心を動かして、ほんの暫くのつもりでこちらを発ったのは何年か前のことであった。

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いい道づれのあつたのを幸に伯母さんが先祖代代の墓参のため、またなにがなし生国の古い思ひ出が心を動してほんの暫くのつもりでこちらをたつたのは何年か前のことであつた。

それが、先へ行きつくと間もなくどっと患いついて、一時はいけないとまでいわれたのが、寿命があったとみえてどうにかこうにか本復はしたものの、年が年ゆえひどく体が弱って、もう出てくることができなくなり、自分でも諦めて、遠い縁家の留守番に頼まれることになった。

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それが先へ行きつくと間もなくどつと煩ひついて一時はいけないとまでいはれたのが、寿命があつたとみえてどうぞかうぞ本復はしたものの年が年ゆゑひどく身体が弱つてもう出てくることができなくなり、自分でも諦めて遠い縁家の留守番に頼まれることになつた。

可愛い子には旅をさせろという昔風な父の思いつきから、十六の年の春休みに、私は持って生まれた憂鬱症をなおすために京阪地方へ旅行をさせられた。

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可愛い子には旅をさせろといふ昔風な父の思ひつきから十六の年の春休みに私は持つて生れた憂鬱症をなほすために京阪地方へ旅行をさせられた。

それで病気がなおったのか、私は家から呼びもどされるまでいい気に遊びまわっていたが、その帰りに、いよいよのお暇乞いのつもりで伯母さんのところを訪ねることにした。

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それで病気がなほつたかして私は家から呼びもどされるまでもいい気に遊びまはつてたが、その帰りにいよいよのお暇乞ひのつもりで伯母さんのところを訪ねることにした。

伯母さんの住んでいるのは「お船手」

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伯母さんの住んでるのは「お船手」

といって、旧幕時代に藩の御船手組がいたという、川ばたの小さな家の立てこんだ一郭であった。

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といつて旧幕時代に藩の御船手組のゐたといふ川ばたの小さな家のたてこんだ一郭であつた。

で、なかなかちょっとには家がわからず、日の暮れるまで訪ねあぐんだあげく、とある荒物屋の向かいのお寺のような門のなかへ入っていった。

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で、なかなかちよいとには家がしれず、日の暮れるまでたづねあぐんだあげくとある荒物屋のむかひのお寺のやうな門のなかへはひつていつた。

そこには人が住んでいるのかいないのか、古びきってがらんとして、草一本もないかわりには木も一本もなく、赤裸でからからしている。

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そこには人が住んでるのかゐないのか、古びきつてがらんとして、草一本もないかはりには木も一本もなく、赤裸でからからしてゐる。

私はあけ放しの上がり口に立って二、三遍声をかけてみたが、いっこう返事がない。

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私はあけ放しの上り口に立つて二三遍声をかけてみたがいつかう返事がない。

知らない土地ではあり、夜にはなるし、心細くなってあたりを見まわしたときに、左手の庭ともいえない二坪ほどの空地との境にある小さな木戸が目についた。

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知らない土地ではあり、夜にはなるし、心細くなつてあたりを見まはしたときに左ての庭ともいへない二坪ほどの空地との境にある小さな木戸が目についた。

そっとあけて覗いてみたら、汚い婆さんがひとり、暗いのにあかりもつけず、縁先で海老みたいにかがんで縫いものをしている。

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そうつとあけて覘いてみたら汚い婆さんがひとり暗いのにあかりもつけず縁先で海老みたいにこごんで縫ひものをしてゐる。

私は案内もなくよその庭先へ入ったのが気がとがめて、思わず一足あとへさがったけれど、もうほかに訪ねるところもないので、木戸の上から身をかがめて

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私は案内もなくよその庭先へはひつたのに気がとがめて思はず一足あとへさがつたけれど、もうほかにたづねるところもないので木戸のうへから身をかがめて

「ごめんなさい」

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「ごめんなさい」

と声をかけた。

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と声をかけた。

婆さんは知らん顔して針を運んでいる。

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婆さんは知らん顔して針をはこんでゐる。

「ごめんなさい」

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「ごめんなさい」

耳が聞こえないのかしら。

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聾なのかしら。

荷物をさげている手は、さっきから抜けそうなのだ。

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荷物をさげてる手はさつきからぬけさうなのだ。

たまらなくなって

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たまらなくなつて

「少々伺います」

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「少少伺ひます」

といいながらずっと入ったら、やっと気がついたらしく、ひょいと顔をあげた。

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といひながらずつとはひつたらやつと気がついたらしくひよいと顔をあげた。

暗いのでよくは見えないが、老いさらばえて見る影もなく痩せこけてはいるが、それはたしかに伯母さんだった。

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暗いのでよくは見えないが、老いさらばつて見るかげもなく痩せこけてはゐるが、それはたしかに伯母さんだつた。

私はただもうはっとして、その顔を見つめていた。

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私はただもうはつとしてその顔を見つめてゐた。

伯母さんはあわてて仕事をかたよせ、縁側に手をつき、かしこまった形になって

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伯母さんはあわてて仕事をかたよせ、縁側に手をつき畏つた形になつて

「どなた様でございます。この節ちっとも眼が見えませんで」

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「どなた様でございます。この節ちよつとも眼がみえませんで」

「………」

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「………」

「耳もえろう遠くなりましてなも」

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「耳もえろ遠なりましてなも」

「それでひと様に御無礼ばっかいたします」

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「それでひと様に御無礼ばつかいたします」

こちらがいつまでも黙っているので、すこしのりだすようにして

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こちらがいつまでも黙つてるものですこしのりだすやうにして

「どなた様でございます」

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「どなた様でございます」

とくりかえす。

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とくりかへす。

私は胸一杯なのを、やっとの思いで

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私は胸一杯なのをやつとの思ひで

「私です」

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「私です」

といった。

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といつた。

それでもまだ

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それでもまだ

「どなた様でいらっせるいなも」

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「どなた様でゐらつせるいなも」

といって、しげしげと人を見あげ見おろししていたが、なにはともあれ心安い人にはちがいないと思ったらしく、立ちあがって、奥の火鉢のそばにあった煎餅蒲団を仏壇のわきに敷いて

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といつてしげしげとひとを見あげ見おろししてたがなにはともあれ心やすい人にはちがひないと思つたらしく、立ちあがつて奥の火鉢のそばにあつた煎餅蒲団を仏壇のわきにしいて

「さあどうぞおあがりあすばいて」

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「さあどうぞおあがりあすばいて」

と招じ入れるように腰をかがめた。

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と招じいれるやうに腰をかがめた。

そのあいだに私はようやく気を落ちつけて、笑いながら

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そのあひだに私はやうやく気をおちつけて笑ひながら

「伯母さんわかりませんか。□□です」

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「伯母さんわかりませんか。□□です」

といったら

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といつたら

「え」

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「え」

といって縁先へ飛んできて、暫くは瞬きもせずに人の顔をのぞきこんだあげく、涙をほろほろとこぼして

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といつて縁先へ飛んできて暫くは瞬きもしずにひとの顔をのぞきこんだあげく涙をほろほろとこぼして

「□さかや。おお おお □さかや」

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「□さかや。おお おお □さかや」

といいいい、自分よりはずっと背が高くなった私を、頭から肩からお賓頭盧様みたいに撫でまわした。

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といひいひ自分よりはずつと背が高くなつた私を頭から肩からお賓頭盧様みたいに撫でまはした。

そうして、人が消えてなくなりでもするかのように少しも眼をはなさず

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さうしてひとが消えてなくなりでもするかのやうにすこしも眼をはなさず

「まあ、そんなに大きくならしって、ちっともわかれせんがや」

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「まあ、そのいに大きならんしてちよつともわかれせんがや」

といいながら火鉢のそばに坐らせ、挨拶もそこそこに、もっと撫でたそうな様子で

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といひながら火鉢のそばに坐らせ、挨拶もそこそこにもつと撫でたさうな様子で

「ほんによう来ておくれた、まあ死ぬまで逢えんかしらんと思っとったに」

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「ほんによう来とくれた、まあ死ぬまで逢へんかしらんと思つとつたに」

と拝まないばかりにして涙をふく。

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と拝まないばかりにして涙をふく。

十七

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十七

伯母さんは古ぼけた行灯に火をともし

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伯母さんは古ぼけた行燈に火をともし

「ちょっと待っとっとくれんか、ちゃっとそこまで行ってくるに」

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「ちよつと待つとつとくれんか、ちやつとそこまでいつてくるに」

といって、足もとの悪いのをこぼしこぼし、縁側からいざり降りてどこかへ出ていった。

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といつて足もとのわるいのをこぼしこぼし縁側からゐざりおりてどこかへ出ていつた。

私はひとりでぽつねんとしながら、これが見おさめだな、と思った。

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私はひとりでぼつねんとしながら これが見をさめだな と思つた。

そして、予想以上の伯母さんの衰えよう、知らぬまに自分が大きくなっていたこと、昔のことなどを考えているうちに、とことこと足音がして、伯母さんはひとりふたりの知らない人を連れてきた。

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そして予想以上の伯母さんの衰へやう、知らぬまに自分が大きくなつてたこと、昔のことなど考へてるうちにとことこと足音がして、伯母さんはひとりふたりのしらない人をつれてきた。

それは今生き残っている伯母さんの古馴染で、みんな近所に住んでお互いに話し相手になっているのだという。

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それは今生きのこつてる伯母さんの古馴染で、みんな近処に住んでお互に話し相手になつてるのだといふ。

伯母さんは嬉しまぎれに前後の見さかいもなく

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伯母さんは嬉しまぎれに前後の見さかひもなく

「東京から□さが来たに、ちゃっといっぺん来てちょうだいんか」

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「東京から□さがきたにちやつといつぺん来てちやうだえんか」

といって呼び集めてきたのである。

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といつて呼び集めてきたのである。

これらの用のない、気楽な、気のいい人たちは、つねづねいやになるほど聞かされている「□さ」

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これらの用のない、気楽な、気のいい人たちはつねづねいやになるほどきかされてる「□さ」

とはどんな子かしらという多少の好奇心をもってやってきたのだが、その評判の「□さ」

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とはどんな子かしらといふ多少の好奇心をもつてやつてきたのだが、その評判の「□さ」

もやっぱりあたりまえの子供であるのを見て、親切にもまた家へ取ってかえし、砂糖をたっぷり入れたもろこしせん餅の、火にあぶればくるくるねじくれて手に負えないやつをたくさん持ってきて焼いてくれた。

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もやつぱりあたりまいの子供であるのをみ、親切にもまた家へとつてかへして砂糖をたつぷり入れたもろこしせん餅の火にあぶればくるくるねぢくれて手におへないやつを沢山もつてきて焼いてくれた。

私が飯前なのに気がついた伯母さんは、みんながかわりに行こうというのを、それが自分の幸福な特権であるかのように強情を張り、定紋つきの小田原提灯をさげて菜を買いに出ていった。

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私が飯まへなのに気がついた伯母さんはみんながかはりに行かうといふのをそれが自分の幸福な特権であるかのやうに剛情をはり定紋つきの小田原提灯をさげてさいを買ひに出ていつた。

そのあとで私は人たちから、この家の女主人は娘の嫁入り先へもう長いこと手伝いに行っていて、伯母さんがひとりで留守をしているということ、世話になるのが心苦しいといって見えない眼で家の仕事をしているのだということなどを聞いているうちに、伯母さんは息せき切って戻ってきて、台所に豆ランプをつけ、ことことと晩飯の支度をしながら、東京の誰かれの様子を尋ねたりする。

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そのあとで私は人たちから この家の女主人は娘の嫁入先へもうながいこと手伝ひにいつてるのを伯母さんがひとりで留守をしてるといふこと、厄介になるのが気がせつないといつて見えない眼で家の仕事をしてるのだといふことなどきいてるうちに伯母さんは息せききつて戻つてきて台所に豆らんぷをつけ、ことことと晩飯の支度をしながら東京の誰かれの様子をたづねたりする。

みんなはいい頃合いを見て帰っていった。

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みんなはいい頃あひをみて帰つていつた。

伯母さんは

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伯母さんは

「こんなとこだで、なんにもできんに、かんにんしとくれよ」

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「こんなとこだでなんにも出来んにかねしとくれよ」

と申し訳なさそうにいって大きな寿司皿を私の膳のそばに置き、こんろにかけた鍋のなかからぽっぽっと湯気のたつ鰈を、煮えるにしたがってはさんできて、もういらないというのを

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と申訳なささうにいつて大きな寿司皿を私の膳のそばにおき、こんろにかけた鍋のなかからぽつぽつと湯気のたつ鰈を煮えるにしたがつてはさんできて もういらない といふのを

「そんなことはいわすと、たんと食べとくれ」

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「そんなことはいはすとたんとたべとくれ」

といいながら、とうとうずらりと皿一面に並べてしまった。

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といひながらたうとうづらりと皿一面に並べてしまつた。

気も転倒した伯母さんは、どうしてその歓迎の意を示そうかを考える余裕もなく、魚屋へ行ってそこにあった鰈を洗いざらい買ってきたのであった。

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気も転倒した伯母さんはどうしてその歓迎の意を示さうかを考へる余裕もなく魚屋へいつてそこにあつた鰈を洗ひざらひ買つてきたのであつた。

私は心から嬉しくも有り難くも、二十幾匹の鰈を眺めつつ腹一杯に食べた。

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私は心から嬉しくも有り難くも二十幾匹の鰈を眺めつつ腹一杯に食べた。

伯母さんは、後で障りはしないかと思うくらいくるくると働いて用事をかたづけたのち、膝の突きあうほど間近にちょこんと坐って、その小さな眼のなかに私の姿をしまって、あの十万億土までも持ってゆこうとするかのようにじっと見つめながら、四方山の話をする。

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伯母さんは後でさはりはしないかと思ふくらゐくるくると働いて用事をかたづけたのち膝のつきあふほど間ぢかにちよこんと坐つて、その小さな眼のなかに私の姿をしまつてあの十万億土までも持つてゆかうとするかのやうにじつと見つめながら四方やまの話をする。

私は、そんなに眼が悪いのに仕事なんぞしないでも、といってさんざん止めたけれど

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私は そんなに眼がわるいのに仕事なんぞしないでも といつてさんざとめたけれど

「なんにもせすと、ひと様の御厄介になるが気がせつないで」

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「なんにもせすとひと様の御厄介になるが気がせつないで」

といって、どうしても聞かない。

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といつてどうしてもきかない。

私は伯母さんが家にいた時分のことを思いだし、汚い針山から一本の木綿針を抜きとって、あしたの仕事のために糸を通しておいた。

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私は伯母さんが家にゐたじぶんのことを思ひだし汚い針山から一本の木綿針をぬきとつてあしたの仕事のために糸をとほしておいた。

で、疲れてもいるし、伯母さんの体のことも気づかって間もなく床についたが、伯母さんは、お阿弥陀様に御礼を申しあげるといって、お仏壇の前に敬虔に坐り、見おぼえのある水晶の数珠を爪繰りながらお経をあげはじめた。

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で、疲れてもゐるし、伯母さんの体のことも気づかつて間もなく床についたが、伯母さんは お阿彌陀様に御礼を申しあげる といつて、お仏壇のまへに敬虔に坐つて見おぼえのある水晶の数珠を爪繰りながらお経をあげはじめた。

ちらめく蝋燭の光に照らされて、病みほうけた体がひょろひょろと動くように見える。

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ちらめく蝋燭の光に照されて病みほうけた体がひよろひよろと動くやうにみえる。

四王天清正の立ち回りをしてくれた伯母さん、枕の引き出しから目ざましの肉桂棒を出してくれた伯母さん、その伯母さんは影法師みたいになってしまった。

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四王天清正の立廻りをしてくれた伯母さん、枕の抽匣から目ざましの肉桂棒をだしてくれた伯母さん、その伯母さんは影法師みたいになつてしまつた。

伯母さんはようやくお経をすませ、お仏壇の扉を立てて隣の床に入りながら

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伯母さんはやうやくお経をすませ、お仏壇の扉をたてて隣の床にはひりながら

「いつやらひどう患った時は、まあこれがこの世の見納めかしらんと思ったに、寿命があったとみえて、またこうやって娑婆ふたげになっとるが、この年まで生きたで、いつお暇してもええと思って、いつも寝る前にはお膝もとへお招きにあずかるようにお願い申しては寝るが……」

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「いつやらひどう煩つた時はまあこれがこの世の見納めかしらんと思つたに、寿命があつたとみえてまたかうやつて娑婆ふたげになつとるが、この年まで生きたでいつお暇してもええと思つていつも寐るまへにはお膝もとへお招きにあづかるやうにお願ひ申しては寐るが……」

私が夜着をかけるのを見て

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私が夜著をかけるのをみて

「寒いことないかえ、風邪ひいとくれるとどもならんが」

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「寒いことないかえ、風ひいとくれるとどもならんが」

「………」

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「………」

「朝目がさめるとさいが おお おお また命があったわやあと思ってなも……」

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「朝目がさめるとさいが おお おお また命があつたわやあと思つてなも……」

話はいつになっても尽きそうになかったが、私は程よく切りあげて眠りについた。

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話はいつになつても尽きさうになかつたが私は程よくきりあげて眠りについた。

私たちは互いに邪魔をしまいとして寝たふりをしていたけれども、二人ともよく眠らなかった。

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私たちは互に邪魔をしまいとして寐たふりをしてたけれども二人ともよく眠らなかつた。

翌朝、まだうす暗いうちに発った私の姿を、伯母さんは門の前にしょんぼりと立って、いつまでもいつまでも見送っていた。

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翌朝まだうす暗いうちにたつた私の姿を伯母さんは門のまへにしよんぼりと立つていつまでもいつまでも見おくつてゐた。

伯母さんはすぐに亡くなった。

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伯母さんはぢきになくなつた。

伯母さんは長いあいだ夢みていたお阿弥陀様の前に坐って、あの晩のような敬虔な様子で御礼を申しあげているのだろう。

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伯母さんはながいあひだ夢みてゐたお阿彌陀様のまへに坐つてあの晩のやうな敬虔な様子で御礼を申しあげてるのであらう。

十八

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十八

十七の年の夏を、私はひとりで、その時分親しくしていた友達の家の別荘ですごした。

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十七の年の夏を私はひとりでそのじぶん親しくしてた友達の家の別荘にすごした。

それは、先に兄に連れられて行った美しく寂しい半島の、その海岸の小山のふところにこっとりと立った草ぶきの建物で、一切の世話は、近所に住んでいるひとり者の花売りの婆さんがしてくれることになった。

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それは先に兄につれられていつた美しく寂しい半島のその海岸の小山のふところにこつとりとたつた草ぶきの建物で、一切の世話は近処に住んでるひとり者の花売りの婆さんがしてくれることになつた。

ばあやは亡くなった伯母と同国の者で、こちらでは年ごろといい国訛りといい、なんとなく伯母のような気がするし、先方では私がその国言葉もよくわかり、昔の様子も聞きおぼえているので、そんなことから二人はすぐに隔てのない話し相手になった。

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ばあやはなくなつた伯母と同国の者で、こちらでは年ごろといひ国訛りといひなんとなく伯母のやうな気がするし、さきでは私がその国言葉もよくわかり、昔の様子もききおぼえてるので、そんなことから二人はぢきに隔てのない話し相手になつた。

ばあやは、親がわりの兄がある博奕うちの親分のところへ嫁に行けというのを聞かなかったため、生綿を百目ほどあてがわれて、これでどうなりとひとりでやれといわれた。

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ばあやは親がはりの兄がある博奕ばくちうちの親分のとこへ嫁にゆけといふのをきかなかつたため生綿を百めほどあてがはれて これでどうなりとひとりでやれ といはれた。

で、それを糸にして問屋へ持っていっては生綿と引きかえ、また糸にしては引きかえした、その賃銭がいくらとかで、そのころの米の値がいくらとかで、差し引きいくらかの銭がようやく残った。

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で、それを糸にして問屋へ持つていつては生綿とひきかへ、また糸にしてはひきかへしたその賃銭がいくらとかで、そのころの米の代がいくらとかで、差しひきいくらかの銭がやうやく残つた。

それで着物をこしらえて縫っているところを兄に見つけられ、親がわりの兄に話もなしにそんな物を買ったとひどく叱られ、道々機でも織って善光寺へ詣るつもりで、うかうかと家を出てしまった。

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それで著物をこしらへて縫つてるところを兄に見つけられて 親がはりの兄に話もなしにそんな物を買つた とひどく叱られみちみちはたでも織つて善光寺へ詣るつもりでうかうかと家を出てしまつた。

その時ばあやは十七だった。

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その時ばあやは十七だつた。

それから、道中ぜげんみたいな男につけられて気味が悪くなり、信州妻子の宿で日のあるうちに宿をとろうとしたら、そいつも同じ宿について、先にすっと奥へ通った。

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それから道中ぜげんみたいな男につけられて気味がわるくなり信州妻子の宿で日のあるうちに宿をとらうとしたらそ奴も同じ宿へついて先にすつと奥へとほつた。

で、ばあやは泊まるのをやめて出ようとするのを、亭主がなんのかのと無理やりに止めようとする。

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で、ばあやは泊るのをやめて出ようとするのを亭主がなんのかのと無理やりにとめようとする。

ばあやは変に思って、まだ腰かけたばかりで宿賃も決めないし、日も高いのに、なぜそう理不尽に止めるのだといったら、さっきのお客に、自分が発つまであの女を発たせてくれるなと頼まれたからといって、どうしても聞かない。

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ばあやはへんに思つて まだ腰かけたばかりで旅籠賃はたごちんもきめないし日も高いのになぜさう理不尽にとめるのだ といつたら、さつきのお客に 自分がたつまであの女をたたせてくれるな と頼まれたから といつていつかなきかない。

やむなく、そこへ来合わせた同国の人に訳を話して亭主に談じてもらったら、一も二もなく承知して早速発たせるといったが、その人の影が見えなくなるとすぐにまた怖い顔をして引きとめる。

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余儀なくそこへ来合せた同国の人に訳を話して亭主に談じてもらつたら一も二もなく承知して早速たたせるといつたが、その人の影が見えなくなるとすぐにまた怖い顔をしてひきとめる。

そこで今度は通りがかりの爺さんに話したところ、造作もなく引きうけて、ともかく自分の家へ来れば善光寺へ行く飛脚と一緒に発たせてやるといった。

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そこで今度は通りがかりの爺さんに話したところ造作もなくひきうけて ともかく自分の家へくれば善光寺へ行く飛脚といつしよにたたせてやる といつた。

ばあやはそれを真にうけて爺さんについていったが、一月も百姓の手伝いをさせて、いっこうに発たせる様子もない。

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ばあやはそれをまにうけて爺さんについていつたが一月も百姓の手伝ひをさせていつかうたたせる様子もない。

それでとうとうひとり奉公に出て、どうにかこうにか道づれができて善光寺へ発った。

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それでたうとうひとり奉公に出て、どうにかかうにか道づれができて善光寺へたつた。

その途中、ばあやはある宿で「不思議の縁によって」

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その途中ばあやはある宿で「不思議の縁によつて」

自分を乗せた駕籠屋や、宿屋の亭主や、宿場役人などの仲立ちで、おかっぴきの男と一緒になった。

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自分をのせた駕籠屋や、宿屋の亭主や、宿場役人などの仲立ちでをかつぴきの男といつしよになつた。

ところが、どうしたことかその男がいやでいやでならず、逃げよう逃げようと思いながらも、ついそのまま何年か暮らしたのち、宿願がかなって善光寺へお詣りすることができた。

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ところがどうしたことかその男がいやでいやでならず、逃げよう逃げようと思ひながらもついそのまま何年か暮したのち宿願がかなつて善光寺へお詣りすることができた。

が、あいにくそこで二人ともひどい痘瘡を患って、どっと床についてしまった。

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が、生憎あいにくそこで二人ともひどい痘瘡を煩つてどつと床についてしまつた。

その後ようやく体の自由がきくようになってから、すこしは覚えのある傘はりを商売にしてあちこちの借金を返すうちに、ある寺の台傘の御用を聞いたのが縁となり、方々の台傘をはりながら国へ帰るつもりで□□まで来るには来たが、どうしても関所が越されず、流れ流れてついに、ここから遠くないある町に落ち着いて傘屋をはじめた。

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その後やうやく体の自由がきくやうになつてからすこしは覚えのある傘はりを商売にしてあちこちの借金をかへすうちにある寺の台傘だいがさの御用をきいたのが縁となり、方方の台傘をはりながら国へ帰るつもりで□□まで来るには来たがどうしても関所がこされず、流れ流れて終にここから遠くないある町に落著いて傘屋をはじめた。

それが仕合わせと繁昌して相応な店になり、弟子も幾人か置いたりしたが、爺さんが眼を悪くしたので商売をやめ、好きな花を植えて売るようになった。

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それが仕合せと繁昌して相応な店になり、弟子も幾人かおいたりしたが、爺さんが眼をわるくしたので商売をやめ、好きな花をうゑて売るやうになつた。

爺さんが六十九で九年前に亡くなってから、だんだん落ちぶれて今の有様になったのである。

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爺さんが六十九で九年前になくなつてからだんだんおちぶれて今の有様になつたのである。

ばあやは半の日には朝早くから籠を背負って花を売って歩く。

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ばあやははんには朝早くから籠を背負つて花を売つてあるく。

人に可愛がられて菓子だのおかずだのをもらうから、一日の米二合半の代五銭さえあればいいし、それにもう一年半で死ぬというお告げを受けて永代経も願ってあるし、葬式の費用はぼろ家ながら今いる家を売ればできるので、なんにも心配はないという。

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人に可愛がられて菓子だのおかずだのをもらふから一日の米二合半の代五銭さへあればいいし、それにもう一年半で死ぬといふお告げをうけて永代経も願つてあるし、葬式の費用はぼろ家ながら今ゐる家を売ればできるゆゑなんにも心配はないといふ。

ばあやは紫の風呂敷に包んだ汚い帳面をもってきて

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ばあやは紫の風呂敷につつんだ汚い帳面をもつてきて

「これになにもかも書いたります」

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「これになにもかも書いたります」

というのであけてみたら、明治二十二年ごろからの夢やなにかを、いろんな手でごたごたに書いてある。

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といふのであけてみたら明治二十二年ごろからの夢やなぞをいろんな手でごたごたに書いてある。

表紙には、御夢想灸点の記、とありながら、そのことはひとつもない。

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表紙には 御夢想灸点の記 とありながらそのことはひとつもない。

いろはのいの字も読めないので、頼まれた書き手の不親切は知らずに、自分の話したことは残らず書いてくれたものと思っているばかりか、なにかの拍子にまぎれこんだ売薬の広告まで丁寧にたたみこんでいる。

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いろはのいの字も読めないので頼まれた書き手の不親切は知らずに自分の話したことは残らず書いてくれたものと思つてるばかりかなにかの拍子にまぎれこんだ売薬の広告まで丁寧にたたみこんでゐる。

そうして、読めもしないのをそばからのぞきながら

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さうして読めもしないのをそばからのぞきながら

「弘法様にもおめにかかりました」

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「弘法様にもおめにかかりました」

「お観音様にもおめにかかりました」

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「お観音様にもおめにかかりました」

という。

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といふ。

彼女がこんなふうに隔てなくするのは、私がはじめに考えたような理由や、また人がばかにして相手にしないほど今の時勢からみれば迷信的な話を私がまじめに聞くためばかりではないということがわかったのは、幾日かたってからのことであった。

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彼がこんなふうに隔てなくするのは私がはじめに考へたやうな理由や、また人がばかにして相手にしないほど今の時勢からみれば迷信的な話を私がまじめにきくためばかりでないといふことがわかつたのは幾日かたつてからのことであつた。

ばあやは私をひと目見て

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ばあやは私をひと目みて

「ああ御仏縁の深い方だに、お坊様におなりあすばいたらよかったになー」

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「ああ御仏縁の深い方だに、お坊様におなりあすばいたらよかつたになー」

と思ったという。

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と思つたといふ。

もっとなにか思ったことはないか、といえば、顔じゅう皺くちゃにして

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もつとなにか思つたことはないか といへば顔ぢゆう皺くちやにして

「へえもうなんにも」

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「へえもうなんにも」

といいながらも、なにひとつ嘘はいえず胸にしまっておけない性で、そういうそばから

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といひながらもなにひとつ嘘はいへず胸にしまつておけない性で、さういふそばから

「あなたはええお嫁様がおもてになりません」

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「あなたはええお嫁様がおもてになりません」

という。

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といふ。

私は仏縁が深いけれど、人が邪魔したため坊さんにもなれず、これからも邪魔されるのだそうだ。

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私は仏縁が深いけれど人が邪魔したため坊さんにもなれず、これからも邪魔されるのださうだ。

で、私が

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で、私が

「それじゃ仏縁が深くてもだめかなー」

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「それぢや仏縁が深くてもだめかなー」

と嘆息するようにいえば、真顔になって

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と嘆息するやうにいへばまがほになつて

「なにあんた、それだで、これから一心に御信心なされれば、あんた仏様の力は広大だでなー」

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「なにあんた、それだでこれから一心に御信心なされれば、あんた仏様の力は広大だでなー」

と我を忘れて力を入れた。

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と我を忘れて力をいれた。

そして

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そして

「わしらとちがって目がおみえになるで、お経文をおよみなされ」

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「わしらとちがつて目がおみえになるで、お経文をおよみなされ」

といいながら手の筋を見て

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といひながら手の筋をみて

「小さな邪魔の筋はみんな消えとりますがな。もうはいちゃんと本願をいただいておいでだに、ちっとばかの自力をおすてなさらいで、あんたは悪いお方だなもや」

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「小さな邪魔の筋はみんな消えとりますがな。もうはいちやんと本願をいただいておいでだにちつとばかの自力をおすてなさらいで、あんたは悪いお方だなもや」

といって手をはなした。

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といつて手をはなした。

十九

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十九

ある日の午後、私は後ろの山の頂上に見える大きな松を目あてに登ってゆくうちに、いつか踏み迷って路もない谷あいへ入ってしまった。

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ある日の午後私は後ろの山の頂上にみえる大きな松を目あてに登つてゆくうちにいつかふみ迷つて路もない谷あひへはひつてしまつた。

私は背よりも高い藪をむちゃくちゃにかき分けながら、でこでこした灌木の枝に頬をはじかれ、軍配団扇みたいな葛の蔓に足を刺されして、息のつまりそうな深みからひとつの峰へ辛うじて抜けだした。

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私は背よりも高い藪をむちやくちやにかきわけながらでこでこな灌木の枝に頬をはじかれ、軍配団扇みたいな葛蘿かづらに足をさされして息のつまりさうな深みからひとつの峰へ辛うじてぬけだした。

その峰は、海に向かって開いた奥深い谷のまんなかをめがけて、牛がのさばり出たような恰好をしている。

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その峰は海に向つて開いた奥深い谷のまんなかをめがけて牛がのさばりでたやうな恰好をしてゐる。

私はその背中を、むっくりと盛りあがった肩のほうへうねうねと伝っていった。

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私はその背なかをむつくりともりあがつた肩のはうへうねうねとつたはつていつた。

赤ちゃけた花崗岩の細かい粉が鮫の皮みたいに固まっているところへ、干からびた小松がかつかつにへばりついて、木の実を食った鳥の糞があちらこちらに落ちている。

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赤ちやけた花崗岩の細末が鮫の皮みたいにかたまつてるところへひからびた小松がかつかつにへばりついて、木の実をくつた鳥の糞があちらこちらに落ちてゐる。

私はともすれば谷のほうへ滑りかかるのを、手足の先に力を入れてざらざらの岩にしがみつきながら、やっとの思いで肩にあたるところの瘤の上へよじ登った。

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私はともすれば谷のはうへ辷りかかるのを手足の先に力をいれてざらざらの岩に獅噛みつきながらやつとの思ひで肩にあたるところの瘤のうへへ攀ぢのぼつた。

ぎらぎらと光の漲った空を、太陽がかっかと飛んでゆく。

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ぎらぎらと光の漲つた空を太陽がかつかと飛んでゆく。

そこからだらだら降りになった首すじを一町ほど下るあいだに、両側の崖はいよいよ険しく、谷はますます深くなり、ついには鼻面にふさわしいわずかな平面を残して、行きどまりの絶壁になってしまった。

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そこからだらだら降りになつた頸すぢを一町ほどくだるあひだに両側の崖はいよいよ峻しく、谷はますます深くなり、終には鼻面にふさはしい僅の平面を残して行きどまりの絶壁になつてしまつた。

ここは、この海岸に沿って三里のあいだ千尺二千尺ぐらいの荒れた山脈から、海のほうへ至るところ枝を出して無数の渓谷を形づくっている、その三つの枝のなかのひとつが、根もとを水に浸蝕されて、逆に楔を打ち込んだような具合になっているのである。

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ここはこの海岸にそうて三里のあひだ千尺二千尺ぐらゐのあざれた山脈から海のはうへ到るところ枝を出して無数の渓谷を形づくつてるその三つの枝のなかのひとつが根もとを水に浸蝕されて逆にくさびを打ち込んだやうなぐあひになつてるのである。

後ろは峰、谷の向こうにはそれよりも高い岩壁が屏風のようにめぐって、青空を天井とした奇怪な殿堂をつくっている。

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後ろは峰、谷のむかふにはそれよりも高い岩壁が屏風のやうにめぐつて青空を天井とした奇怪な殿堂をつくつてゐる。

頭の上に尻上がりの呼び声を響かせている隼は、ときどきさっと降りて眼の前をかすめては、また空高く舞いあがる。

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頭のうへにしりあがりの呼び声を響かせてる隼はときどきさつとおろして眼のまへをかすめてはまた空高く舞ひあがる。

右手の谷間を見おろすと、まっ黒に茂った森のなかをひと筋の路が縫うようにうねって、山脈を貫いて向こうの村へ降りてゆく。

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右ての谷間を見おろすとまつ黒にしげつた森のなかをひとすぢの路が縫ふやうにうねつて山脈を貫いてむかふの村へ降つてゆく。

そのほんの覗いてみるほどの隙間から、山また山が赤く、うす赤く、紫に、ほの紫に雲につらなって、折り重なり畳み重なり、果てしもなく続いているのが見える。

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そのほんの覘いてみるほどのすきまから山また山が赤く、うす赤く、紫に、ほの紫に雲につらなつて、折り重り畳み重りはてしもなくつづいてるのがみえる。

私は一種の恐怖をまじえた讃美と歓喜に満ちて、声高くうたいはじめた。

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私は一種の恐怖をまじへた讃美と歓喜にみちて声高くうたひはじめた。

木霊!

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木霊こだま

それはちょうど、山の陰に誰かが隠れていてあとをつくように、はっきりとくりかえす。

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 それはちやうど山のかげに誰かがかくれてゐてあとをつくやうにはつきりとくりかへす。

私はその姿を見せない歌い手の歌にそそのかされ、できるだけ声を張りあげて歌った。

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私はその姿をみせない歌ひての歌にそそのかされできるだけ声をはりあげて歌つた。

先方も同じように声を張りあげて歌った。

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さきもおんなじやうに声をはりあげて歌つた。

私はいつものとおり、そういえばそんなわかりきったことに原始的な嬉しさを覚えて、幸福な半日を歌い暮らしたのち、夏の日が海に沈むころ、ようやく譲葉の垣のなかへ帰った。

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私はいつものとほりさういへばそんなわかりきつたことに原始的な嬉しさをおぼえて幸福な半日を歌ひくらしたのち夏の日の海に沈むころやうやく譲葉の垣のなかへ帰つた。

二十

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二十

私は足を洗うために裏庭をまわって、それにもう風呂が立っている時分だと思って、湯殿をあけて入った。

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私は足を洗ふために裏庭をまはつて、それにもう風呂がたつてるじぶんだと思つて湯殿をあけてはひつた。

そして、いいかげんにさめた湯船にどっぷりとつかって、くたびれた足を楽々とのばした。

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そしていいかげんにさめた湯船にどつぷりとつかつてくたびれた足を楽楽とのばした。

湯が乳のあたりでくびれあがって、軽く糸で結わえたような感じを与える。

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湯が乳のへんでくびれあがつて軽く糸で結へたやうな感じをあたへる。

私は浮きかかる体を両手でささえ、頭を仰向けによせかけて、温もった肌に息を吹きかけてみたりしながら、今日の楽しさをくりかえしていた。

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私は浮きかかる体を両手でささへ、頭を仰向けによせかけて、ぬくもつた肌に息を吹きかけてみたりしながら今日の楽しさをくりかへしてゐた。

私はそこを木霊の峰と名づけた。

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私はそこを木霊の峰とつけた。

それがふとした道のまちがいから見出されたこと、それゆえ私のほかには誰も知っている者はないということ、そこへ行くにはあの危険な崖の上を駆け渡らなければならないということ……それらがいっそう私を喜ばせた。

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それがふとした道のまちがひから見出されたこと、それゆゑ私のほかには誰も知つてる者はないといふこと、そこへゆくにはあの危険な崖のうへを駈けわたらなければならないといふこと……それらがいつそう私を喜ばせた。

そのうち私は、なにげなくよどんでいる湯の表面を透かして見た。

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そのうち私はなにげなくをどんでる湯の表面をすかしてみた。

そうして、それはよく見なければわからないほどではあるが、いつになくうす白く脂が光っているのに気がついた。

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さうしてそれはよく見なければわからないほどではあるがいつになくうす白く脂が光つてるのに気がついた。

誰か入ったのかしら。そう思えば何もかもそう見える。

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誰かはひつたのかしら さう思へばなにもかもさう見える。

誰か来たにちがいない。

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誰か来たにちがひない。

私は急に非常な不安を感じだした。

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私は急に非常な不安を感じだした。

私にとっては、知らない人間はすなわち嫌いな人間である。

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私にとつては知らない人間は即ち嫌ひな人間である。

で、すっかり興をさまされてがっかりしているところへ、ばあやが気がついて流しに来た。

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で、すつかり興をさまされてがつかりしてるところへばあやが気がついて流しにきた。

そして、湯をかえなかったことの申しわけをしながら、東京のお家から若奥様がみえました、といった。

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そして湯をかへなかつたことを申しわけをしながら 東京のお家から若奥様がみえました といつた。

友達の家にはそんな人はいないはずだ。

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友達の家にはそんな人はゐないはずだ。

なんでも京都へ行っている姉様がこの夏上京するとかいっていたから、ひょっとしたらその人かもしれない。

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なんでも京都へいつてる姉様がこの夏上京するとかいつてたからひよつとしたらその人かもしれない。

それならしかたがない、と諦めはしたものの、困ったことになった、と思った。

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それならしかたがない と諦めはしたものの 困つたことになつた と思つた。

ばあやは仰山に声をひそめて

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ばあやは仰山に声をひそめて

「それはそれは美しいお方だぞなも」

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「それはそれは美しいお方だぞなも」

といって出ていった。

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といつて出ていつた。

そのあとから私は、日蔭者みたいにこっそり部屋へ帰って、柱によりかかったまま弱りかえっていた。

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そのあとから私は日蔭者みたいにこつそり部屋へ帰つて柱によりかかつたまま弱りかへつてゐた。

初対面の挨拶をするのが何より難儀だ。

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初対面の挨拶をするのがなにより難儀だ。

そうして、馴染みのない人の前にかしこまっているつらさといえば、なにか眼に見えない縄で縛りつけられているようで、しまいには眉毛のあいだが引きしめられて、肩のあたりが焼けつきそうに熱くなってくる。

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さうして馴染のない人のまへに畏つてるつらさといへばなにか眼にみえない縄で縛りつけられてるやうで、しまひには眉毛のあひだがひきしめられて肩のへんが焼けつきさうに熱くなつてくる。

その人は向こうの離れにいるらしい。

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その人はむかうの離れにゐるらしい。

かねて話に聞いていた姉様ならそんなにいやではないが、それにしてもどんなあんばいにしたらいいのかしら、などととつおいつ思案しているとき、縁側を静かな足音が近づいて、はたりと障子の外でとまった。

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かねて話にきいてた姉様ならそんなにいやではないが、それにしてもどんなあんばいにしたらいいのかしら などととつおいつ思案してるとき縁側を静な足音がちかづいてはたりと障子のそとでとまつた。

私が柱からはなれて机の前に坐りなおすあいだに

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私が柱からはなれて机のまへに坐りなはすあひだに

「ごめんあそばせ」

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「ごめんあそばせ」

と落ちついた柔らかい声がして、その声があけたようにするすると障子があいた。

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とおちついた柔い声がして、その声があけたやうにするすると障子があいた。

「まあ、まだあかりもさしあげませんで」

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「まあ、まだあかりもさしあげませんで」

ひとり言みたいにいうのが聞こえて、長方形に区切られたうす暗がりのなかに、白い顔がくっきりと浮き彫りにされた。

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ひとり言みたいにいふのがきこえて、長方形にくぎられたうす暗がりのなかに白い顔がくつきりと浮彫にされた。

「はじめまして。私は□□□の姉でございます。二、三日お邪魔をさせていただきます」

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「はじめまして。私は□□□の姉でございます。二三日お邪魔をさせていただきます」

「は」

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「は」

そういったなり罪の宣告を待っている私の前へ、皿にのせた匂いの高い西洋菓子をしとやかに出して

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さういつたなり罪の宣告をまつてる私のまへへ皿にのせた匂のたかい西洋菓子をしとやかにだして

「つまらないもので……。お口にあいますかどうか」

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「つまらないもので……。お口にあひますかどうか」

といった。

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といつた。

そのとき、厳かに冷たい彫像が急に美しい人になって、心もちはにかむようにほほえんだが

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そのとき厳かにつめたい彫像が急に美しい人になつて心もちはにかむやうにほほゑんだが

「ただいまあかりを」

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「ただいまあかりを」

と、またもとの彫像になって暗がりのなかへ消えていった。

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とまたもとの彫像になつて暗がりのなかへ消えていつた。

私はほっと息をついた。

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私はほつと息をついた。

そして、いかにも憐れだった自分を恥じながらも、その消えていった姿を思いだそうとしたけれど、夢のようでとりとめがない。

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そしていかにもあはれだつた自分を愧ぢながらもその消えていつた姿を思ひださうとしたけれど夢のやうでとりとめがない。

それでもじっと目をつぶっているうちに、にわかに明るみへ出たときのように、だんだんはっきりとものの形が浮かんできた。

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それでもじつと目をつぶつてるうちに俄に明るみへ出たときのやうにだんだんはつきりとものの形が浮んできた。

大きな丸髷に結っていた。

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大きな丸髷に結つてゐた。

まっ黒な髪だった。

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まつ黒な髪だつた。

くっきりとした眉毛の下にまっ黒な瞳が光っていた。

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くつきりとした眉毛のしたにまつ黒な瞳が光つてゐた。

すべての輪郭があまりに鮮明なために、なんとなく馴れ親しみがたい感じがして、すこし受け口な愛くるしい唇さえ、海の底の冷たい珊瑚を刻んだかのように思われたが、その口もとが気持ちよく引きあがって綺麗な歯があらわれたときに、涼しいほほえみが一切を和らげ、白い頬に血の色がさして、彫像はそのままひとりの美しい人になった。

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すべての輪廓があんまり鮮明なためになんとなく馴れ親しみがたい感じがしてすこしうけ口な愛くるしい唇さへが海の底の冷たい珊瑚をきざんだかのやうに思はれたが、その口もとが気もちよくひきあがつて綺麗な歯があらはれたときに、すずしいほほゑみが一切を和らげ、白い頬に血の色がさして、彫像はそのままひとりの美しい人になつた。

二十一

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二十一

それから私は、なぜかできるだけ顔をあわせないようにして朝から木霊の峰へ行き、帰るのにもことさら食事の時をはずしたりしたが、ひとつ家にいることゆえ、一日のうちにはどうしても一緒にならなければならないことがあった。

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それから私はなぜか出来るだけ顔をあはせないやうにして朝から木霊の峰へゆき、帰るのにもことさら食事の時をはづしたりしたが、ひとつ家にゐることゆゑ一日のうちにはどうしてもいつしよにならなければならないことがあつた。

私は峰へ行ってもちっとも歌わなかった、季節をすぎた鳥のように。

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私は峰へいつてもちつとも歌はなかつた、季節をすぎた鳥のやうに。

そうして、あの絶壁のあいだから見える山々の深い色をぼんやりと眺め暮らした。

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さうしてあの絶壁のあひだからみえる山山の深い色をぼんやりと眺めくらした。

ある晩、かなりふけてから、私は後ろの山から月のあがるのを見ながら花壇のなかに立っていた。

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ある晩かなりふけてから私は後の山から月のあがるのを見ながら花壇のなかに立つてゐた。

幾千の虫たちは小さな鈴を振り、潮風は畑をこえて海の香と浪の音を運ぶ。

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幾千の虫たちは小さな鈴をふり、潮風は畑をこえて海の香と浪の音をはこぶ。

離れの円窓にはまだ火影がさして、その前の蓮瓶には、すぎた夕立の涼しさを玉にしている幾枚の葉と、ほの白くつぼんだ花が見える。

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離れの円窓にはまだ火影がさして、そのまへの蓮瓶にはすぎた夕だちの涼しさを玉にしてる幾枚の葉とほの白くつぼんだ花がみえる。

私はあらゆる思いのうちで最も深い名のない思いに沈んで、ひと夜ひと夜に欠けてゆく月を、我を忘れて眺めていた。……

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私はあらゆる思ひのうちでもつとも深い名のない思ひに沈んでひと夜ひと夜に不具になつてゆく月を我を忘れて眺めてゐた。……

そんなふうにしているうちに、ふと気がついたら、いつのまにか同じ花壇のなかに姉様が立っていた。

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そんなにしてるうちにふと気がついたらいつのまにかおなじ花壇のなかに姉様が立つてゐた。

月も花もなくなってしまった。

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月も花もなくなつてしまつた。

絵のように影を映した池の面にさっと水鳥が降りるときに、すべての影はいちどに消えて、さりげなく浮かんだ白い姿ばかりになるように。

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絵のやうに影をうつした池の面にさつと水鳥がおりるときにすべての影はいちどに消えてさりげなく浮んだ白い姿ばかりになるやうに。

私はあたふたとして

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私はあたふたとして

「月が……」

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「月が……」

といいかけたが、あいにくそのとき姉様は気をきかせて向こうへ行きかけていたので、はっとして耳まで赤くなった。

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といひかけたが、あいにくそのとき姉様は気をきかせてむかふへ行きかけてたのではつとして耳まで赤くなつた。

そんな些細なこと、ちょっとした言葉のまちがいやばつの悪さなどのために、ひどく恥ずかしい思いをするたちであった。

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そんな些細なこと、ちよつとした言葉のまちがひやばつのわるさなどのためにひどく恥しい思ひをするたちであつた。

姉様はそのまま静かに足を運び、花のまわりを小さくまわってもとのところへ戻りながら

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姉様はそのまましづかに足をはこび花のまはりを小さくまはつてもとのところへもどりながら

「ほんとうにようございますこと」

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「ほんたうにようございますこと」

と巧みに繕ってくれたのを、私は心から嬉しくもありがたくも思った。

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と巧につくろつてくれたのを私は心から嬉しくもありがたくも思つた。

二十二

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二十二

翌日、新聞を返しに離れへ行ったら、姉様はこちらへ背中を向けて髪をとかしているところだった。

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翌日新聞を返しに離れへいつたら姉様はこちらへ背なかをむけて髪をとかしてるところだつた。

長い髪がさわりとほどけ、肩から豊かに波打って後ろへ滑っている。

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長い髪がさわりとほどけ肩から豊に波うつて後ろへすべつてゐる。

障子をしめて帰ろうとしたときに、櫛をもった手を耳のあたりでとめて、鏡のなかの顔がほほえみながら

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障子をしめて帰らうとしたときに櫛をもつた手を耳のあたりでとめて鏡のなかの顔がほほゑみながら

「あの、あたくし明日お暇いたしますから……お別れに晩ごはんを御一緒にいただきたいと存じますから……」

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「あのあたくし明日お暇いたしますから……お別れに晩ごはんを御一緒にいただきたいと存じますから……」

といった。……

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といつた。……

私はまた木霊の峰へのぼって、空に舞う隼よりほかにうかがうものもない自然の殿堂のなかに、歌いもせずに半日をすごした。

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私はまた木霊の峰へのぼつて空に舞ふ隼よりほかにうかがふものもない自然の殿堂のなかに歌ひもせずに半日をすごした。

木だまも声をひそめて、親しい歌い連れの思いを妨げなかった。

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木だまも声をひそめて親しい歌ひづれの思ひをさまたげなかつた。

晩餐の食卓には純白の卓布がかけられて、ばあやは横に、姉様と私は向かいあいに坐った。

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晩餐の食卓には純白の卓布がかけられて、ばあやは横に、姉様と私は向ひあひに坐つた。

面はゆくも、嬉しくも、寂しくも、悲しくもある。

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面はゆくも、嬉しくも、寂しくも、悲しくもある。

「さーどうぞ」

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「さーどうぞ」

軽く頭をさげて

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軽く頭をさげて

「お料理人がなれませんで……。お気にめしますかどうか」

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「お料理人がなれませんで……。お気にめしますかどうか」

と、すこしはにかむように皿の上へ眼をそらせてほほえんだ。

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とすこしはにかむやうに皿のうへに眼をそらせてほほゑんだ。

そこにはお手づくりの豆腐がふるえて、まっ白なはだに模様の藍が染みそうに見える。

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そこにはお手づくりの豆腐がふるへてまつ白なはだに模様の藍がしみさうにみえる。

姉様は柚子をおろしてくださる。

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姉様は柚子をおろしてくださる。

浅い緑色の粉をほろほろと振りかけて、とろけそうなのをそっとつゆに浸すと、濃い海老色がさっとかかる。

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浅い緑色の粉をほろほろとふりかけてとろけさうなのを と とつゆにひたすと濃い海老色がさつとかかる。

それをそっと舌にのせる。

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それをそうつと舌にのせる。

静かな柚子の香り、きつい醤油の味、冷たく滑っこいはだざわりがする。

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しづかな柚子の馨、きつい醤油の味、つめたく滑つこいはだざはりがする。

それをころころと二、三度転がすうちに、かすかな澱粉性の味を残して溶けてしまう。

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それをころころと二三度ころがすうちにかすかな澱粉性の味をのこして溶けてしまふ。

他の皿には、ませこけた小鰺が尻尾を並べて跳ね返っている。

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他の皿にはませこけた小鰺が尻尾をならべてはねかへつてゐる。

ぜんごのあとが栗色に、背中は青く、腹のほうはきらきらと光って、この魚に特有の温かい匂いがする。

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ぜんごのあとが栗色に、背なかは青く、腹のはうはきらきらと光つてこの魚に特有の温い匂がする。

よく締まった肉をもっさりとむしって汁に浸して食べると、こっとりした味が出る。

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よくしまつた肉をもつさりとむしつて汁にひたしてたべるとこつとりした味がでる。

食器がさげられたあとに果物が出た。

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食器がさげられたあとに果物がでた。

姉様は大きな梨のなかから甘そうなのを選りだして皮をむく。

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姉様は大きな梨のなかから甘さうなのをよりだして皮をむく。

重たいのを滑らすまいと指の先に力を入れて、笙の笛みたいに輪をつくる。

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重たいのをすべらすまいと指の先に力をいれて笙の笛みたいにをつくる。

その長くそった指のあいだに梨がくるくると回され、白い手の甲をこえて黄色い皮が雲形に巻き下がる。

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その長くそつた指のあいだに梨がくるくるとまはされ、白い手の甲をこえて黄色い皮が雲形にまきさがる。

はたはたと雫が垂れるのを、姉様は、自分はあまり好かないからといって皿にのせてくださる。

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はたはたと雫がたれるのを姉様は 自分はあまり好かないから といつて皿にのせてくださる。

それを切り剥いで口へ入れながら、美しいさくらんぼが姉様の唇に軽くはさまれて、小さな舌の上にするりと転びこむのを眺めている。

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それを切りへいで口へいれながら美しいさくらんぼが姉様の唇に軽くはさまれて小さな舌のうへにするりと転びこむのを眺めてゐる。

貝のような形のいい顎がふくふくと動く。

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貝のやうな形のいい腭がふくふくとうごく。

姉様はいつになく快活であった。

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姉様はいつになく快活であつた。

ばあやもしきりにはしゃいだ。

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ばあやもしきりにはしやいだ。

そして、人の歯の数をあててみるなどと言いだし、子供がよくするように姉様の背中に顔を隠して長いこと考えていたが

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そしてひとの歯の数をあててみるなぞといひだし子供がよくするやうに姉様の背中に顔をかくしてながいこと考へてたが

「親知らずをのけて二十八本ありましょがなも」

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「親しらずをのけて二十八本ありましよがなも」

という。

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といふ。

「二十八本は誰でもだ」

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「二十八本は誰でもだ」

といえば

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といへば

「なんでそんなことが、お釈迦様は四十何本たらあらっせたげなに」

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「なんでそんなことが、お釈迦様は四十何本たらあらつせたげなに」

といって、どうしても承知しない。

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といつていつかな承知しない。

そのとき、姉様の口もとが気持ちよくあがって美しい歯があらわれた。

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そのとき姉様の口もとが気もちよくあがつて美しい歯があらはれた。

それからなにかの続きで鳥の話が出たときに、ばあやは、わっちの国の山には白鷺がうようよいた。

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それからなにかのつづきで鳥の話がでたときにばあやは わつちの国の山には白鷺がうようよゐた。

雁も来たし鴨も来た。

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雁もきたし鴨もきた。

鶴の群れもたくさん来た。

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鶴の群もたくさんきた。

毎年きまってまな鶴がひとつがい来たが、それが来ると殿様に言上することになっていた。

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毎年きまつてまな鶴がひとつがひきたがそれがくると殿様に言上することになつてゐた。

鸛の鳥は首をまわして鳴く。

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こふとりは首をまはして鳴く。

鎮守の森の大杉にかけたその巣は、小枝を組んで籠のようになっていた、などと調子にのってそれからそれと話すのを、それはいつのことかと聞けば、わっちの子供の時分だ、という。

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鎮守の森の大杉にかけたその巣は小枝を組んで籠のやうになつてゐた なんぞと調子にのつてそれからそれと話すのを それはいつのことか ときけば、わつちの子供のじぶんだ といふ。

「それじゃもういやしない」

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「それぢやもうゐやしない」

といえば

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といへば

「あんなにたんとおったものあんた。それに毎年子を生みましょがな」

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「あのいにたんとをつたものあんた。それに毎年子を生みましよがな」

と頑強に主張する。

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と頑強に主張する。

美しい口もとがきりっとあがって白い歯が見えた。

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美しい口もとがきりつとあがつて白い歯がみえた。

翌朝発たれるはずだったのが、なにかの都合で晩に延びた。

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翌朝たたれるはずだつたのがなにかの都合で晩にのびた。

夕がた湯からあがったら、ばあやは使いに出たらしく部屋が暗くなっていたので、私は花壇へ出ようとした。

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夕がた湯からあがつたらばあやは使ひにでたらしく部屋が暗くなつてたので私は花壇へでようとした。

そのとき離れの円窓から

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そのとき離れの円窓から

「あかりをちょっと拝借いたしました」

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「あかりをちよつと拝借いたしました」

という声がして、姉様が盆に水蜜をのせて暇乞いの挨拶に来られた。

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といふ声がして姉様が盆に水蜜をのせて暇乞ひの挨拶に来られた。

「御機嫌よろしゅう。また京都のほうへおいでのこともございましたらどうぞ」

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「御機嫌よろしう。また京都のはうへおいでのこともございましたらどうぞ」

私は庭へ降りて花壇の腰掛けに腰をおろし、海のほうへ海のほうへとめぐってゆく星を眺めていた。

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私は庭へおりて花壇の腰掛けに腰をおろし海のはうへ海のはうへとめぐつてゆく星を眺めてゐた。

遠い浪の音と、虫の音と、天と……のほかなにもない。

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遠い浪の音と、虫の音と、天と……のほかなにもない。

ばあやが俥を雇ってきた。

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ばあやが俥をやとつてきた。

姉様が、支度のすんだ綺麗ななりで、あかりを返しに私の部屋へ小走りに行かれるのが見えた。

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姉様が支度のすんだ綺麗ななりであかりを返しに私の部屋へ小走りにゆかれるのがみえた。

やがてばあやが荷物を運びだすあとから、姉様は縁側を玄関のほうへと通りながら、私のほうへ小腰をかがめて

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やがてばあやが荷物を運びだすあとから姉様は縁側を玄関のはうへととほりながら私のはうへ小腰をかがめて

「御機嫌よう」

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「御機嫌よう」

といわれたのを、なぜか私は聞こえないふりをしていた。

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といはれたのをなぜか私は聞えないふりをしてゐた。

「さようなら御機嫌よう」

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「さやうなら御機嫌よう」

私は暗いところで黙って頭をさげた。

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私は暗いところで黙つて頭をさげた。

俥の響きが遠ざかって、門のしまる音がした。

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俥のひびきが遠ざかつて門のしまる音がした。

私は花に隠れて、とめどもなく流れる涙をふいた。

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私は花にかくれてとめどもなく流れる涙をふいた。

私はなぜなんとかいわなかったのだろう。

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私はなぜなんとかいはなかつたらう。

どうしてひと言挨拶をしなかったのだろう。

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どうしてひと言挨拶をしなかつたらう。

私は肌の冷えるまでも花壇に立ちつくして、昨夜よりもいっそう欠けた月が山の向こうからさしかかるころ、ようやく部屋へ帰った。

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私は肌のひえるまでも花壇に立ちつくして昨夜よりもいつそう不具になつた月が山のむかふからさしかかるころやうやく部屋へ帰つた。

そうして力なく机に両方の肘をついて、頬のようにほのかに赤らみ、顎のようにふくらかにくびれた水蜜を手のひらにそっと包むように唇にあて、その濃やかなはだを通してもれだす甘い匂いを嗅ぎながら、また新たな涙を流した。

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さうして力なく机に両方の肱をついて、頬のやうにほのかに赤らみ、腭のやうにふくらかにくびれた水蜜を手のひらにそうつとつつむやうに唇にあててそのこまやかなはだをとほしてもれだす甘い匂をかぎながらまた新な涙を流した。

(大正二年初稿)

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(大正二年初稿)