よめる文庫

押絵と旅する男 小学生向け

江戸川乱歩えどがわらんぽ)・1932

AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23

この話が、私が見た夢か、私がちょっとおかしくなったときの幻(まぼろし)でなかったとすれば、あの押絵(おしえ)と一緒に旅をしていたあの男こそ、本当の気のくるった人だったに違いない。

原文を見る

この話が私の夢か私の一時的狂気のまぼろしでなかったならば、あの押絵おしえと旅をしていた男こそ狂人であったに相違そういない。

だけど、夢がときどき、この世界とどこかずれた別の世界をチラリと見せてくれることがあるように、また気のくるった人が、ふつうの人には感じられないものを見たり聞いたりするのと同じように、これはきっと私が、不思議な空気のレンズのような仕掛けを通して、ほんの一瞬、この世界の外にある別の世界のすみっこを、ふとのぞいてしまったのかもしれない。

原文を見る

だが、夢が時として、どこかこの世界と喰違くいちがった別の世界を、チラリとのぞかせてくれるように、また狂人が、我々のまったく感じ得ぬ物事を見たり聞いたりすると同じに、これは私が、不可思議な大気のレンズ仕掛けを通して、一刹那いっせつな、この世の視野の外にある、別の世界の一隅いちぐうを、ふと隙見すきみしたのであったかも知れない。

いつのことかはっきり分からない、ある暖かくてうっすら曇った日のことだ。

原文を見る

いつとも知れぬ、ある暖かい薄曇った日のことである。

そのとき私は、わざわざ魚津(うおづ)という町へ蜃気楼(しんきろう)を見に出かけた帰り道だった。

原文を見る

その時、私は態々わざわざ魚津へ蜃気楼しんきろうを見に出掛けた帰りみちであった。

私がこの話をすると、ときどき「お前は魚津なんかへ行ったことはないじゃないか」と、仲のいい友達に突っ込まれることがある。

原文を見る

私がこの話をすると、時々、お前は魚津なんかへ行ったことはないじゃないかと、親しい友達に突っ込まれることがある。

そう言われてみると、私はいつの何日に魚津へ行ったのか、はっきりした証拠を見せることができない。

原文を見る

そうわれて見ると、私は何時いつの何日に魚津へ行ったのだと、ハッキリ証拠を示すことが出来ぬ。

では、やっぱり夢だったのだろうか。

原文を見る

それではやっぱり夢であったのか。

だけど私はこれまで、あれほど色が鮮やかな夢を見たことがない。

原文を見る

だが私はかつて、あのように濃厚な色彩を持った夢を見たことがない。

夢の中の景色は映画と同じで、まったく色がないものなのに、あのときの汽車の中の景色だけは、あの毒々しい押絵の画面を中心に、紫と深い赤が多い色で、まるでヘビの目の黒目のように、生き生きと私の記憶に焼きついている。

原文を見る

夢の中の景色けしきは、映画と同じに、全く色彩を伴わぬものであるのに、あのおりの汽車の中の景色けは、それもあの毒々しい押絵の画面が中心になって、紫と臙脂えんじかった色彩で、まるでへびの眼の瞳孔どうこうの様に、生々しく私の記憶にやきついている。

色のついた映画のような夢というものが、あるのだろうか。

原文を見る

着色映画の夢というものがあるのであろうか。

私はそのとき、生まれて初めて蜃気楼というものを見た。

原文を見る

私はその時、生れて初めて蜃気楼というものを見た。

ハマグリの息の中に美しい竜宮城が浮かんでいる、あの昔の絵を思い浮かべていた私は、本物の蜃気楼を見て、脂汗(あぶらあせ)が出るような、恐怖に近い驚きに打たれた。

原文を見る

はまぐりの息の中に美しい龍宮城りゅうぐうじょうの浮んでいる、あの古風な絵を想像していた私は、本物の蜃気楼を見て、膏汗あぶらあせのにじむ様な、恐怖に近い驚きに撃たれた。

魚津の浜の松並木に、豆粒のような人間たちがたくさん集まって、息を殺して、目の前いっぱいに広がる大空と海面とを眺めていた。

原文を見る

魚津の浜の松並木に豆粒の様な人間がウジャウジャと集まって、息を殺して、眼界一杯の大空と海面とを眺めていた。

私はあんなに静かな、口をきかないようにだまっている海を見たことがない。

原文を見る

私はあんな静かな、唖の様にだまっている海を見たことがない。

日本海は荒れた海だと思い込んでいた私には、それもひどく意外だった。

原文を見る

日本海は荒海と思い込んでいた私には、それもひどく意外であった。

その海は灰色で、まったく小さな波ひとつなく、どこまでも続く沼のように見えた。

原文を見る

その海は、灰色で、全く小波さざなみ一つなく、無限の彼方かなたにまで打続く沼かと思われた。

そして、太平洋の海のように水平線はなく、海と空とは同じ灰色に溶け合って、どれだけ厚いのか分からないもやに覆いつくされた感じだった。

原文を見る

そして、太平洋の海の様に、水平線はなくて、海と空とは、同じ灰色に溶け合い、厚さの知れぬもやに覆いつくされた感じであった。

空だとばかり思っていた上のほうのもやの中を、意外にもそこが海面であって、ふわふわと幽霊のような大きな白い帆が滑って行ったりした。

原文を見る

空だとばかり思っていた、上部の靄の中を、案外にもそこが海面であって、フワフワと幽霊の様な、大きな白帆しらほが滑って行ったりした。

蜃気楼とは、乳白色のフィルムの表面に墨汁をたらして、それが自然にじわじわとにじんでいくのを、とてつもなく巨大な映画にして、大空に映し出したようなものだった。

原文を見る

蜃気楼とは、乳色ちちいろのフィルムの表面に墨汁ぼくじゅうをたらして、それが自然にジワジワとにじんで行くのを、途方とほうもなく巨大な映画にして、大空に映し出した様なものであった。

遠くの能登半島の森林が、ずれた大気の変形レンズを通して、すぐ目の前の大空に、焦点のよく合わない顕微鏡(けんびきょう)の下の黒い虫みたいに、ぼんやりと、しかもばかばかしいほど大きくなって、見ている人の頭の上にのしかかってくるのだった。

原文を見る

はるかな能登のと半島の森林が、喰違くいちがった大気の変形レンズを通して、すぐ目の前の大空に、焦点のよく合わぬ顕微鏡けんびきょうの下の黒い虫みたいに、曖昧あいまいに、しかも馬鹿馬鹿しく拡大されて、見る者の頭上におしかぶさって来るのであった。

それは、変な形の黒い雲に似ていたけれど、黒い雲ならその場所がはっきり分かるのに対して、蜃気楼は不思議なことに、それを見ている人との距離がとても曖昧なのだ。

原文を見る

それは、妙な形の黒雲と似ていたけれど、黒雲なればその所在がハッキリ分っているに反し、蜃気楼は、不思議にも、それと見る者との距離が非常に曖昧なのだ。

遠くの海の上に漂う大きな入道雲のようでもあり、ともすれば目の前一尺(約30センチ)に迫るおかしな形のもやのように見え、しまいには、見ている人の目の表面にぽつりと浮かんだ、一点の曇りのようにさえ感じられた。

原文を見る

遠くの海上に漂う大入道おおにゅうどうの様でもあり、ともすれば、眼前一尺に迫る異形いぎょうの靄かと見え、はては、見る者の角膜かくまくの表面に、ポッツリと浮んだ、一点の曇りの様にさえ感じられた。

この距離の曖昧さが、蜃気楼に、想像以上の不気味な、気が変になりそうな感じを与えるのだ。

原文を見る

この距離の曖昧さが、蜃気楼に、想像以上の不気味な気違いめいた感じを与えるのだ。

ぼんやりした形の、真っ黒な巨大な三角形が、塔のように積み重なっていったり、またたく間に崩れたり、横に伸びて長い汽車のように走ったり、それがいくつかに崩れて、ずらりと並ぶヒノキの木の先端(こずえ)に見えたり、じっと動かないようでいながら、いつのまにか全く違う形に変わっていった。

原文を見る

曖昧な形の、真黒な巨大な三角形が、塔の様に積重なって行ったり、またたく間にくずれたり、横に延びて長い汽車の様に走ったり、それが幾つかにくずれ、立並たちならひのきこずえと見えたり、じっと動かぬ様でいながら、いつとはなく、全く違った形に化けて行った。

蜃気楼の魔力が、人間を気のくるった状態にするものだったなら、きっと私は、少なくとも帰り道の汽車の中まで、その魔力から逃れることができなかっただろう。

原文を見る

蜃気楼の魔力が、人間を気違いにするものであったなら、恐らく私は、少くとも帰り途の汽車の中までは、その魔力を逃れることが出来なかったのであろう。

二時間以上も立ちっぱなしで、大空の怪しい光景を眺めていた私は、その夕方に魚津を出発して、汽車の中で一夜を過ごすまで、まったくいつもと違う気持ちでいたのは確かだ。

原文を見る

二時間のも立ち尽して、大空の妖異を眺めていた私は、その夕方魚津を立って、汽車の中に一夜を過ごすまで、全く日常と異った気持でいたことはたしかである。

もしかしたら、それは通り魔のように、人間の心をかすめて侵す、一時的な気のくるい(狂気)のようなものだったのだろうか。

原文を見る

しかしたら、それは通り魔の様に、人間の心をかすめおかす所の、一時的狂気のたぐいででもあったであろうか。

魚津の駅から上野への汽車に乗ったのは、夕方の六時ごろだった。

原文を見る

魚津の駅から上野への汽車に乗ったのは、夕方の六時頃であった。

不思議な偶然だろうか、あの辺の汽車はいつでもそうなのか、私の乗った二等車は、教会のようにがらんとしていて、私のほかにたった一人の先客が、向こうのすみのクッションに小さくなって座っているだけだった。

原文を見る

不思議な偶然であろうか、あの辺の汽車はいつでもそうなのか、私の乗った二等車は、教会堂の様にガランとしていて、私のほかにたった一人の先客が、向うのすみのクッションにうずくまっているばかりであった。

汽車は寂しい海岸の、険しいがけや砂浜の上を、単調な機械の音を響かせて、果てしなく走っている。

原文を見る

汽車はさびしい海岸の、けわしいがけや砂浜の上を、単調な機械の音を響かせて、はてしもなく走っている。

沼のような海の上の、もやの奥深く、黒い血のような色の夕焼けが、ぼんやりと感じられた。

原文を見る

沼の様な海上の、靄の奥深く、黒血くろちの色の夕焼が、ボンヤリと感じられた。

異様に大きく見える白い帆が、その中を、夢のように滑っていた。

原文を見る

異様に大きく見える白帆が、その中を、夢の様に滑っていた。

少しも風のない、蒸し暑い日だったから、所々開かれた汽車の窓から、走るにつれて忍び込むそよ風も、幽霊のように尻切れとんぼだった。

原文を見る

少しも風のない、むしむしする日であったから、所々開かれた汽車の窓から、進行につれて忍び込むそよ風も、幽霊ゆうれいの様に尻切れとんぼであった。

たくさんの短いトンネルと雪よけの柱の列が、広々とした灰色の空と海とを、縞目(しまめ)に区切って通り過ぎた。

原文を見る

沢山たくさんの短いトンネルと雪けの柱の列が、広漠こうばくたる灰色の空と海とを、縞目しまめに区切って通り過ぎた。

親不知(おやしらず)の断崖を通過するころ、車内の電灯と空の明るさとが同じくらいに感じられた程、夕暗が迫ってきた。

原文を見る

親不知の断崖を通過する頃、車内の電燈と空の明るさとが同じに感じられた程、夕闇が迫って来た。

ちょうどそのころ、向こうのすみのたった一人の同乗者が、突然立ち上がって、クッションの上に大きな黒いサテン(黒繻子)の風呂敷を広げ、窓に立てかけてあった、二尺(約60センチ)に三尺(約90センチ)ほどの、平たい荷物を、その中へ包み始めた。

原文を見る

丁度その時分向うの隅のたった一人の同乗者が、突然立上って、クッションの上に大きな黒繻子くろじゅす風呂敷ふろしきを広げ、窓に立てかけてあった、二尺に三尺程の、扁平へんぺいな荷物を、その中へ包み始めた。

それが私に何とも奇妙な感じを与えたのである。

原文を見る

それが私に何とやら奇妙な感じを与えたのである。

その平たいものは、たぶん額(がく)に違いないのだが、それの表の方を、何か特別な意味でもあるらしく、窓ガラスに向けて立てかけてあった。

原文を見る

その扁平なものは、多分がくに相違ないのだが、それの表側の方を、何か特別の意味でもあるらしく、窓ガラスに向けて立てかけてあった。

一度風呂敷に包んであったものを、わざわざ取り出して、そんなふうに外に向けて立てかけたものとしか考えられなかった。

原文を見る

一度風呂敷に包んであったものを、態々わざわざ取出して、そんな風に外に向けて立てかけたものとしか考えられなかった。

それに、彼が再び包むときにちらと見たところによると、額の表面に描かれたはでな色の絵が、妙に生き生きとして、何となく普通ではないように見えたことだった。

原文を見る

それに、彼が再び包む時にチラと見た所によると、額の表面に描かれた極彩色の絵が、妙に生々しく、何となく世のつねならず見えたことであった。

私はあらためて、この変てこな荷物の持ち主をよく観察した。

原文を見る

私はあらためて、このへんてこな荷物の持主を観察した。

そして、持ち主その人が、荷物の異様さにもまして、一段と異様であったことに驚かされた。

原文を見る

そして、持主その人が、荷物の異様さにもまして、一段と異様であったことに驚かされた。

彼はとても古風な、私たちの父親の若い時分の色あせた写真でしか見ることのできないような、えりが狭くて肩の落ちた黒い洋服を着ていたが、しかしそれが、背が高くて足の長い彼に、妙にしっくり合って、とても粋(いき)に見えたのである。

原文を見る

彼は非常に古風な、我々の父親の若い時分の色あせた写真でしか見ることの出来ない様な、えりの狭い、肩のすぼけた、黒の背広服を着ていたが、しかしそれが、背が高くて、足の長い彼に、妙にシックリと合って、はなは意気いきにさえ見えたのである。

顔はほっそりとして、両目が少しギラギラしすぎていた以外は、全体によく整っていて、スマートな感じだった。

原文を見る

顔は細面ほそおもてで、両眼が少しギラギラし過ぎていた外は、一体によく整っていて、スマートな感じであった。

そして、きれいに分けた髪の毛が、豊かに黒々と光っているので、一見四十歳ごろかと思ったが、よく注意して見ると、顔中にたくさんのしわがあって、一気に六十歳ぐらいにも見えないことはなかった。

原文を見る

そして、綺麗きれいに分けた頭髪が、豊に黒々と光っているので、一見四十前後であったが、よく注意して見ると、顔中におびただしいしわがあって、一飛びに六十位にも見えぬことはなかった。

この黒々とした髪の毛と、色白の顔を縦横に刻んだしわとの対比が、はじめてそれに気づいたとき、私をはっとさせたほど、とても不気味な感じを与えた。

原文を見る

この黒々とした頭髪と、色白の顔面を縦横にきざんだ皺との対照が、初めてそれに気附いた時、私をハッとさせた程も、非常に不気味な感じを与えた。

彼は丁寧に荷物を包み終えると、ひょいと私の方に顔を向けたが、ちょうど私の方でも熱心に相手の動作を眺めていたときだったから、二人の視線がガチッとぶつかってしまった。

原文を見る

彼は叮嚀ていねいに荷物を包み終ると、ひょいと私の方に顔を向けたが、丁度私の方でも熱心に相手の動作を眺めていた時であったから、二人の視線がガッチリとぶっつかってしまった。

すると、彼は何か恥ずかしそうに口のすみを曲げて、かすかに笑ってみせるのだった。

原文を見る

すると、彼は何か恥かしそうくちびるの隅を曲げて、かすかに笑って見せるのであった。

私も思わず首を動かしてあいさつを返した。

原文を見る

私も思わず首を動かして挨拶あいさつを返した。

それから、小さな駅を二、三通過する間、私たちはお互いのすみに座ったまま、遠くから、時々視線を合わせては、気まずくよそを向くことを繰り返していた。

原文を見る

それから、小駅を二三通過する間、私達はおたがいの隅に坐ったまま、遠くから、時々視線をまじえては、気まずく外方そっぽを向くことを、繰返していた。

外はすっかり暗闇になっていた。

原文を見る

外は全く暗闇になっていた。

窓ガラスに顔を押しつけてのぞいてみても、ときたま沖の漁船の舷灯(げんとう)が遠く遠くぽつりと浮かんでいる以外には、まったく何の光りもなかった。

原文を見る

窓ガラスに顔を押しつけて覗いて見ても、時たま沖の漁船の舷燈げんとうが遠く遠くポッツリと浮んでいる外には、全く何の光りもなかった。

果てしない暗闇の中に、私たちの細長い車両だけが、たった一つの世界のように、いつまでもいつまでも、ガタンガタンと動いていった。

原文を見る

際涯はてしのない暗闇の中に、私達の細長い車室けが、たった一つの世界の様に、いつまでもいつまでも、ガタンガタンと動いて行った。

そのほの暗い車両の中に、私たち二人だけを残して、全世界が、あらゆる生き物が、跡形もなく消えてしまった感じだった。

原文を見る

そのほの暗い車室の中に、私達二人丈けを取り残して、全世界が、あらゆる生き物が、跡方あとかたもなく消えせてしまった感じであった。

私たちの二等車には、どの駅からも一人の乗客もなかったし、列車ボーイや車掌も一度も姿を見せなかった。

原文を見る

私達の二等車には、どの駅からも一人の乗客もなかったし、列車ボーイや車掌も一度も姿を見せなかった。

そういうことも今になって考えてみると、ひどく奇妙に感じられるのである。

原文を見る

そういう事も今になって考えて見ると、甚だ奇怪に感じられるのである。

私は、四十歳にも六十歳にも見える、西洋の魔術師のような見た目のその男が、だんだん怖くなってきた。

原文を見る

私は、四十歳にも六十歳にも見える、西洋の魔術師の様な風采ふうさいのその男が、段々怖くなって来た。

怖さというものは、ほかに気をそらすものがない場合には、限りなく大きく、体中いっぱいに広がっていくものである。

原文を見る

怖さというものは、ほかにまぎれる事柄のない場合には、無限に大きく、身体からだ中一杯に拡がって行くものである。

私はついには、うぶ毛の先まで怖さが満ちて、たまらなくなって、突然立ち上がると、向こうのすみのその男の方へずかずかと歩いていった。

原文を見る

私はついには、産毛うぶげの先までも怖さが満ちて、たまらなくなって、突然立上ると、向うの隅のその男の方へツカツカと歩いて行った。

その男がいやで、恐ろしければこそ、私はその男に近づいていったのだった。

原文を見る

その男がいとわしく、恐ろしければこそ、私はその男に近づいて行ったのであった。

私は彼と向かい合ったクッションへそっと腰をおろし、近寄れば一層異様に見える彼のしわだらけの白い顔を、私自身が妖怪でもあるかのような、一種不思議な、ひっくり返った気持ちで、目を細く息を殺してじっとのぞき込んだものである。

原文を見る

私は彼と向き合ったクッションへ、そっと腰をおろし、近寄れば一層異様に見える彼の皺だらけの白い顔を、私自身が妖怪ででもある様な、一種不可思議な、顛倒てんとうした気持で、目を細く息を殺してじっと覗き込んだものである。

男は、私が自分の席を立ったときから、ずっと目で私を迎えるようにしていたが、そうして私が彼の顔をのぞき込むと、待ち受けていたように、あごでかたわらの例の平たい荷物を指し示し、何の前置きもなく、まるでそれが当然のあいさつでもあるように、

原文を見る

男は、私が自分の席を立った時から、ずっと目で私を迎える様にしていたが、そうして私が彼の顔を覗き込むと、待ち受けていた様に、あごかたわらの例の扁平な荷物を指し示し、何の前置きもなく、さもそれが当然の挨拶ででもある様に、

「これでございますか」

原文を見る

「これでございますか」

と言った。

原文を見る

と云った。

その言い方が、あまりにも普通だったので、私はかえってぎょっとしたほどだった。

原文を見る

その口調が、余り当り前であったので、私はかえって、ギョッとした程であった。

「これが見たいのでしょう」

原文を見る

「これが御覧になりたいのでございましょう」

私が黙っているので、彼はもう一度同じことを繰り返した。

原文を見る

私が黙っているので、彼はもう一度同じことを繰返した。

「見せて下さいますか」

原文を見る

「見せて下さいますか」

私は相手の調子に引き込まれて、つい変なことを言ってしまった。

原文を見る

私は相手の調子に引込まれて、つい変なことを云ってしまった。

私は決してその荷物を見たくて席を立ったわけではなかったのだけれど。

原文を見る

私は決してその荷物を見たいために席を立ったわけではなかったのだけれど。

「喜んでお見せ致しますよ。わたくしは、さっきから考えていたのでございますよ。あなたはきっとこれを見にいらっしゃるだろうとね」

原文を見る

「喜んで御見せ致しますよ。わたくしは、さっきから考えていたのでございますよ。あなたはきっとこれを見におでなさるだろうとね」

男は――むしろ老人と言った方がふさわしいのだが――そう言いながら、長い指で、器用に大きな風呂敷をほどいて、その額みたいなものを、今度は表を向けて、窓のところへ立てかけたのである。

原文を見る

男は――むしろ老人と云った方がふさわしいのだが――そう云いながら、長い指で、器用に大風呂敷をほどいて、その額みたいなものを、今度は表を向けて、窓の所へ立てかけたのである。

私は一目ちらっと、その表面を見ると、思わず目をとじた。

原文を見る

私は一目チラッと、その表面を見ると、思わず目をとじた。

なぜだったか、その理由は今でも分からないのだが、何となくそうしなければならない感じがして、数秒の間目をふさいでいた。

原文を見る

何故なぜであったか、その理由は今でも分らないのだが、何となくそうしなければならぬ感じがして、数秒の間目をふさいでいた。

再び目を開いたとき、私の前に、かつて見たことのないような、奇妙なものがあった。

原文を見る

再び目をいた時、私の前に、嘗て見たことのない様な、奇妙なものがあった。

と言って、私はその「奇妙」

原文を見る

と云って、私はその「奇妙」

な点をはっきりと説明する言葉を持たないのだが。

原文を見る

な点をハッキリと説明する言葉を持たぬのだが。

額には歌舞伎芝居のお殿様の屋敷の背景みたいに、いくつもの部屋をぶち抜いて、強調した遠近感で、青い畳と格子模様の天井(こうしてんじょう)が遙か向こうの方まで続いているような光景が、藍色(あいいろ)を主にした絵の具で毒々しく塗りつけてあった。

原文を見る

額には歌舞伎かぶき芝居の御殿の背景みたいに、いくつもの部屋を打抜いて、極度の遠近法で、青畳あおだたみ格子天井こうしてんじょうが遙か向うの方まで続いている様な光景が、あいを主とした泥絵具どろえのぐで毒々しく塗りつけてあった。

左手の前方には、墨黒々と不格好な書院風の窓が描かれ、同じ色の文机(ふづくえ)が、そのそばに角度を無視した描き方で置かれていた。

原文を見る

左手の前方には、墨黒々と不細工ぶさいくな書院風の窓が描かれ、同じ色の文机ふづくえが、そのそばに角度を無視した描き方で、据えてあった。

それらの背景は、絵馬札(えまふだ)の絵の独特な画風に似ていたと言えば、一番よく分かるだろうか。

原文を見る

それらの背景は、あの絵馬札えまふだの絵の独特な画風に似ていたと云えば、一番よく分るであろうか。

その背景の中に、一尺(約30センチ)ほどの大きさの二人の人物が浮き出ていた。

原文を見る

その背景の中に、一尺位のたけの二人の人物が浮き出していた。

浮き出していたというのは、その人物だけが、押絵という立体的な細工で作られていたからである。

原文を見る

浮き出していたと云うのは、その人物丈けが、押絵細工で出来ていたからである。

黒いビロードの古風な洋服を着た白髪(しらが)の老人が窮屈そうに座っていると、(不思議なことに、その顔つきが、髪の色を除くと、額の持ち主の老人にそのままそっくりなばかりか、着ている洋服の仕立て方までそっくりだった)緋色(ひいろ)の鹿の子模様の振り袖に、黒サテンの帯がよく似合っている十七、八歳の、水もしたたるほど美しい、髪を結綿(ゆいわた)に結った美少女が、なんとも言えない恥じらいをおびて、その老人の洋服の膝にしなだれかかっている、言わば芝居のラブシーンに似た場面だった。

原文を見る

黒天鵞絨くろびろうどの古風な洋服を着た白髪しらがの老人が、窮屈きゅうくつそうに坐っていると、(不思議なことには、その容貌が、髪の色を除くと、額の持主の老人にそのままなばかりか、着ている洋服の仕立方までそっくりであった)緋鹿ひか振袖ふりそでに、黒繻子の帯の映りのよい十七八の、水のたれる様な結綿ゆいわたの美少女が、何とも云えぬ嬌羞きょうしゅうを含んで、その老人の洋服のひざにしなだれかかっている、わば芝居の濡れ場に類する画面であった。

洋服の老人と色っぽい少女の対比と、とても異様だったことは言うまでもないが、だが私が「奇妙」

原文を見る

洋服の老人と色娘の対照と、甚だ異様であったことは云うまでもないが、だが私が「奇妙」

に感じたというのはそのことではない。

原文を見る

に感じたというのはそのことではない。

背景の粗末な作りに比べて、押絵の細工の精巧なことは驚くばかりだった。

原文を見る

背景の粗雑に引かえて、押絵の細工の精巧なことは驚くばかりであった。

顔の部分は、白い絹(きぬ)でへこみや出っ張りを作って、細いしわまで一つ一つ表してあったし、娘の髪は、本物の毛髪を一本一本植えつけて、人間の髪を結うように結ってあり、老人の頭も、これもたぶん本物の白髪を丁寧に植えたものに違いなかった。

原文を見る

顔の部分は、白絹は凹凸おうとつを作って、細い皺まで一つ一つ現わしてあったし、娘の髪は、本当の毛髪を一本一本植えつけて、人間の髪を結う様に結ってあり、老人の頭は、これも多分本物の白髪を、丹念に植えたものに相違なかった。

洋服には正しい縫い目があり、適当な場所に粟粒(あわつぶ)ほどのボタンまでつけてあるし、娘の胸のふくらみといい、もものあたりのなまめかしい曲線といい、こぼれた深紅色の絹、ちらと見える肌の色、指には貝殻のような爪が生えていた。

原文を見る

洋服には正しい縫い目があり、適当な場所に粟粒あわつぶ程のぼたんまでつけてあるし、娘の乳のふくらみと云い、腿のあたりのなまめいた曲線と云い、こぼれた緋縮緬ひぢりめん、チラと見える肌の色、指には貝殻かいがらの様な爪が生えていた。

虫眼鏡でのぞいてみたら、毛穴や産毛(うぶげ)まで、ちゃんと作ってあるのではないかと思われたほどである。

原文を見る

虫眼鏡むしめがねで覗いて見たら、毛穴や産毛まで、ちゃんとこしらえてあるのではないかと思われた程である。

私は押絵と言えば、羽子板(はごいた)の役者の顔の細工しか見たことがなかったが、そして、羽子板の細工にも随分と精巧なものもあるのだけれど、この押絵は、そんなものとは、まるで比べ物にならないほど、極めて巧みで細かかったのである。

原文を見る

私は押絵と云えば、羽子板はごいたの役者の似顔の細工しか見たことがなかったが、そして、羽子板の細工にも、随分ずいぶん精巧なものもあるのだけれど、この押絵は、そんなものとは、まるで比較にもならぬ程、巧緻こうちを極めていたのである。

おそらくその道の名人の手によって作られたものだろうか。

原文を見る

恐らくその道の名人の手に成ったものであろうか。

だが、それが私のいわゆる「奇妙」

原文を見る

だが、それが私の所謂いわゆる「奇妙」

な点ではなかった。

原文を見る

な点ではなかった。

額全体がかなり古いものらしく、背景の絵の具は所々はがれ落ちていたし、娘の緋色の鹿の子模様も、老人のビロードも、見る影もなく色あせていたけれど、はがれ落ち色あせたなりに、言葉では表しにくい毒々しさを保ち、ギラギラと、見る人の目の奥に焼きつくような生気を持っていたことも、不思議と言えば不思議だった。

原文を見る

額全体が余程よほど古いものらしく、背景の泥絵具は所々はげおちていたし、娘の緋鹿の子も、老人の天鵞絨も、見る影もなく色あせていたけれど、はげ落ち色あせたなりに、名状めいじょうがたき毒々しさを保ち、ギラギラと、見る者の眼底にやきつく様な生気を持っていたことも、不思議と云えば不思議であった。

だが、私の「奇妙」

原文を見る

だが、私の「奇妙」

という意味はそれでもない。

原文を見る

という意味はそれでもない。

それは、もし無理やり言うならば、押絵の人物が二つとも、生きていたことである。

原文を見る

それは、若ししいて云うならば、押絵の人物が二つとも、生きていたことである。

文楽(ぶんらく)の人形芝居で、一日の演技の中に、たった一度か二度、それもほんの一瞬、名人の使っている人形が、ふと神の息吹きをかけられたかのように、本当に生きていることがあるものだが、この押絵の人物は、その生きた瞬間の人形を、命が逃げ出す隙を与えず、とっさの間に、そのまま板に張りつけたという感じで、永遠に生き続けているかと見えたのである。

原文を見る

文楽ぶんらくの人形芝居で、一日の演技の内に、たった一度か二度、それもほんの一瞬間、名人の使っている人形が、ふと神の息吹いぶきをかけられでもした様に、本当に生きていることがあるものだが、この押絵の人物は、その生きた瞬間の人形を、命の逃げ出すすきを与えず、咄嗟とっさの間に、そのまま板にはりつけたという感じで、永遠に生きながらえているかと見えたのである。

私の表情に驚きの色を見て取ったからか、老人は、たのもしそうな口調で、ほとんど叫ぶように、

原文を見る

私の表情に驚きの色を見て取ったからか、老人は、いとたのもしげな口調で、ほとんど叫ぶ様に、

「ああ、あなたは分かって下さるかもしれません」

原文を見る

「アア、あなたは分って下さるかも知れません」

と言いながら、肩から下げていた黒い革のケースを丁寧に鍵で開いて、その中から、とても古風な双眼鏡を取り出して、それを私の方へ差し出すのだった。

原文を見る

と云いながら、肩から下げていた、黒革くろかわのケースを、叮嚀にかぎで開いて、その中から、いとも古風な双眼鏡を取り出してそれを私の方へ差出すのであった。

「こちら、この遠眼鏡(とおめがね)で一度ご覧ください。いえ、そこからでは近すぎます。失礼ですが、もう少しあちらの方から。そう、ちょうどその辺がよろしいでしょう」

原文を見る

「コレ、この遠眼鏡とおめがねで一度御覧下さいませ。イエ、そこからでは近すぎます。失礼ですが、もう少しあちらの方から。左様さよう丁度その辺がようございましょう」

誠に異様なお願いではあったけれど、私は限りない好奇心のとりこになって、老人の言うがままに、席を立って額から五、六歩遠ざかった。

原文を見る

誠に異様な頼みではあったけれど、私は限りなき好奇心のとりことなって、老人の云うがままに、席を立って額から五六歩遠ざかった。

老人は私が見やすいように、両手で額を持って、電灯にかざしてくれた。

原文を見る

老人は私の見易い様に、両手で額を持って、電燈にかざしてくれた。

今から思うと、実に変てこな、気違いみたいな光景だったに違いないのである。

原文を見る

今から思うと、実に変てこな、気違いめいた光景であったに相違ないのである。

遠眼鏡というのは、おそらく二、三十年も前の外国製だろうか、私たちが子供のころ、よく眼鏡屋の看板で見かけたような、異様な形のプリズム双眼鏡だったが、それが手ずれのために、黒い覆いがはがれて、所々真鍮(しんちゅう)の地が現れているという、持ち主の洋服と同様に、いかにも古風な、なつかしい品物だった。

原文を見る

遠眼鏡と云うのは、恐らく二三十年も以前の舶来品であろうか、私達が子供の時分、よく眼鏡屋の看板で見かけた様な、異様な形のプリズム双眼鏡であったが、それが手摺てずれの為に、黒い覆皮おおいがわがはげて、所々真鍮しんちゅう生地きじが現われているという、持主の洋服と同様に、如何いかにも古風な、物懐ものなつかしい品物であった。

私は珍しさに、しばらくその双眼鏡をひねくり回していたが、やがて、それをのぞくために、両手で目の前に持っていったときである。

原文を見る

私は珍らしさに、しばらくその双眼鏡をひねくりまわしていたが、やがて、それを覗く為に、両手で眼の前に持って行った時である。

突然、実に突然、老人が悲鳴に近い叫び声を立てたので、私はあやうく眼鏡を取り落とすところだった。

原文を見る

突然、実に突然、老人が悲鳴に近い叫声さけびごえを立てたので、私は、あやうく眼鏡を取落す所であった。

「いけません。いけません。それは逆さですよ。逆さにのぞいてはいけません。いけません」

原文を見る

「いけません。いけません。それはさかさですよ。さかさに覗いてはいけません。いけません」

老人は、真っ青になって、目をまんまるに見開いて、しきりと手を振っていた。

原文を見る

老人は、真青まっさおになって、目をまんまるに見開いて、しきりと手を振っていた。

双眼鏡を逆にのぞくことが、なぜそれほど大変なのか、私は老人の異様な行動を理解することができなかった。

原文を見る

双眼鏡を逆に覗くことが、ぜそれ程大変なのか、私は老人の異様な挙動を理解することが出来なかった。

「なるほど、なるほど、逆さでしたっけ」

原文を見る

成程なるほど、成程、さかさでしたっけ」

私は双眼鏡をのぞくことに気を取られていたので、この老人の不審な表情を、たいして気にもとめず、眼鏡を正しい方向に持ち直すと、急いでそれを目に当てて押絵の人物をのぞいたのである。

原文を見る

私は双眼鏡を覗くことに気を取られていたので、この老人の不審な表情を、さして気にもとめず、眼鏡を正しい方向に持ち直すと、急いでそれを目に当てて押絵の人物を覗いたのである。

焦点が合っていくにつれて、二つの円形の視野が、徐々に一つに重なり、ぼんやりとした虹のようなものが、だんだんはっきりしてくると、びっくりするほど大きな娘の胸から上が、それが全世界でもあるように、私の目に見えるいっぱいに広がった。

原文を見る

焦点が合って行くに従って、二つの円形の視野が、徐々に一つに重なり、ボンヤリとした虹の様なものが、段々ハッキリして来ると、びっくりする程大きな娘の胸から上が、それが全世界ででもある様に、私の眼界一杯に拡がった。

あんな風な物の現れ方を、私はその後も以前も見たことがないので、読む人に分かってもらうのが難しいのだが、それに近い感じを思い出してみると、例えば、船の上から、海にもぐった海女(あま)の、ある瞬間の姿に似ていたとでも形容すべきだろうか。

原文を見る

あんな風な物の現われ方を、私はあとにも先にも見たことがないので、読む人に分らせるのが難儀なのだが、それに近い感じを思い出して見ると、例えば、舟の上から、海にもぐったあまの、ある瞬間の姿に似ていたとでも形容すべきであろうか。

海女の裸の体が、底の方にあるときは、青い水の層の複雑な揺れのために、その体が、まるで海草のように、不自然にくねくねと曲がり、輪郭もぼやけて、白っぽいお化けみたいに見えているが、それがつうっと浮かび上がってくるにつれて、水の層の青さがだんだん薄くなり、形がはっきりしてきて、ぽっかりと水面に首を出すと、その瞬間、はっと目が覚めたように、水中の白いお化けが、たちまち人間の本当の姿を現すのである。

原文を見る

蜑の裸身はだかみが、底の方にある時は、青い水の層の複雑な動揺の為に、その身体が、まるで海草の様に、不自然にクネクネと曲り、輪廓りんかくもぼやけて、白っぽいおばけみたいに見えているが、それが、つうッと浮上って来るに従って、水の層の青さが段々薄くなり、形がハッキリして来て、ポッカリと水上に首を出すと、その瞬間、ハッと目が覚めた様に、水中の白いお化が、たちまち人間の正体を現わすのである。

ちょうどそれと同じ感じで、押絵の娘は、双眼鏡の中で、私の前に姿を現し、実物大の、一人の生きた娘として、うごめき始めたのである。

原文を見る

丁度それと同じ感じで、押絵の娘は、双眼鏡の中で、私の前に姿を現わし、実物大の、一人の生きた娘として、うごめき始めたのである。

十九世紀の古風なプリズム双眼鏡のレンズの向こう側には、まったく私たちの思いも及ばない別世界があって、そこに結綿(ゆいわた)の色っぽい娘と、古風な洋服の白髪男とが、不思議な生活を営んでいる。

原文を見る

十九世紀の古風なプリズム双眼鏡の玉の向う側には、全く私達の思いも及ばぬ別世界があって、そこに結綿ゆいわた色娘いろむすめと、古風な洋服の白髪男とが、奇怪な生活を営んでいる。

のぞいてはいけないものを、私は今魔法使いにのぞかせられているのだ。

原文を見る

覗いては悪いものを、私は今魔法使に覗かされているのだ。

といったような、言葉で言えない変てこな気持ちで、しかし私は取りつかれたようにその不思議な世界を見入ってしまった。

原文を見る

といった様な形容の出来ない変てこな気持で、併し私はかれた様にその不可思議な世界に見入ってしまった。

娘は動いていたわけではないが、その全身の感じが、肉眼で見たときとは、がらりと変わって、生気に満ち、青白い顔がやや桃色に上気し、胸は脈打ち(実際私は心臓の鼓動さえ聞いた)体からは縮緬(ちりめん)の衣装を通して、むしむしと、若い女の生気が漂い出ているように思われた。

原文を見る

娘は動いていた訳ではないが、その全身の感じが、肉眼で見た時とは、ガラリと変って、生気に満ち、青白い顔がやや桃色に上気し、胸は脈打ち(実際私は心臓の鼓動こどうをさえ聞いた)肉体からは縮緬の衣裳を通して、むしむしと、若い女の生気が蒸発して居る様に思われた。

私は一通り、女の全身を、双眼鏡の先で、なめ回してから、その娘がしなだれかかっている、しあわせそうな白髪男の方へ眼鏡を向けた。

原文を見る

私は一渡り、女の全身を、双眼鏡の先で、め廻してから、その娘がしなだれ掛っている、仕合しあわせな白髪男の方へ眼鏡を転じた。

老人も、双眼鏡の世界で、生きていたことは同じだったが、見たところ四十ほども年の違う、若い女の肩に手を回して、いかにも幸福そうな形でありながら、妙なことには、レンズいっぱいの大きさに映った、彼のしわの多い顔が、その何百本ものしわの奥で、不思議にも苦しみの表情を現しているのである。

原文を見る

老人も、双眼鏡の世界で、生きていたことは同じであったが、見た所四十程も年の違う、若い女の肩に手を廻して、さも幸福そうな形でありながら、妙なことには、レンズ一杯の大きさに写った、彼の皺の多い顔が、その何百本の皺の底で、いぶかしく苦悶くもんの相を現わしているのである。

それは、老人の顔がレンズのために目の前一尺の近さに、異様に大きく迫っていたからでもあっただろうが、見つめれば見つめるほど、ぞっと怖くなるような、悲しみと恐怖の混ざり合った一種異様な表情だった。

原文を見る

それは、老人の顔がレンズの為に眼前一尺の近さに、異様に大きく迫っていたからでもあったであろうが、見つめていればいる程、ゾッと怖くなる様な、悲痛と恐怖との混り合った一種異様の表情であった。

それを見ると、私はうなされたような気分になって、双眼鏡をのぞいていることが、耐えられなく感じられたので、思わず目を離して、キョロキョロとあたりを見回した。

原文を見る

それを見ると、私はうなされた様な気分になって、双眼鏡を覗いていることが、耐え難く感じられたので、思わず、目を離して、キョロキョロとあたりを見廻した。

すると、それはやっぱり寂しい夜の汽車の中であって、押絵の額も、それをかかげた老人の姿も、元のままで、窓の外は真っ暗だし、単調な車輪の響きも、変わりなく聞こえていた。

原文を見る

すると、それはやっぱり淋しい夜の汽車の中であって、押絵の額も、それをささげた老人の姿も、元のままで、窓の外は真暗まっくらだし、単調な車輪のひびきも、変りなく聞えていた。

悪夢から覚めた気持ちだった。

原文を見る

悪夢からめた気持であった。

「あなた様は、不思議そうな顔をしておいでなさいますね」

原文を見る

「あなた様は、不思議そうな顔をしておいでなさいますね」

老人は額を、元の窓のところへ立てかけて、席につくと、私にもその向こう側へ座るように、手真似をしながら、私の顔を見つめて、こんなことを言った。

原文を見る

老人は額を、元の窓の所へ立てかけて、席につくと、私にもその向う側へ坐る様に、手真似をしながら、私の顔を見つめて、こんなことを云った。

「私の頭が、どうかしているようです。いやに蒸しますね」

原文を見る

「私の頭が、どうかしている様です。いやにしますね」

私は照れ隠しみたいなあいさつをした。

原文を見る

私はてれ隠しみたいな挨拶をした。

すると老人は、猫背になって、顔をぐっと私の方へ近寄せ、膝の上で細長い指を合図でもするように、ひらひらと動かしながら、低い低いささやき声になって、

原文を見る

すると老人は、猫背ねこぜになって、顔をぐっと私の方へ近寄せ、膝の上で細長い指を合図でもする様に、ヘラヘラと動かしながら、低い低いささやき声になって、

「あれらは、生きていましたでしょう」

原文を見る

「あれらは、生きて居りましたろう」

と言った。

原文を見る

と云った。

そして、まるで大変なことを打ち明けるといった調子で、一層猫背になって、ギラギラした目をまんまるに見開いて、私の顔を穴のあくほど見つめながら、こんなことをささやくのだった。

原文を見る

そして、さも一大事を打開けるといった調子で、一層猫背になって、ギラギラした目をまん丸に見開いて、私の顔を穴のあく程見つめながら、こんなことを囁くのであった。

「あなたは、あれらの、本当の身の上話を聞きたいとはお思いになりませんかね」

原文を見る

「あなたは、あれらの、本当の身の上話を聞きいとはおぼしめしませんかね」

私は汽車の揺れと、車輪の響きのために、老人の低い、つぶやくような声を、聞き間違えたのではないかと思った。

原文を見る

私は汽車の動揺と、車輪の響の為に、老人の低い、つぶやく様な声を、聞き間違えたのではないかと思った。

「身の上話とおっしゃいましたか」

原文を見る

「身の上話とおっしゃいましたか」

「身の上話でございますよ」

原文を見る

「身の上話でございますよ」

老人はやっぱり低い声で答えた。

原文を見る

老人はやっぱり低い声で答えた。

「特に、一方の、白髪の老人の身の上話をでございますよ」

原文を見る

ことに、一方の、白髪の老人の身の上話をでございますよ」

「若い時分からのですか」

原文を見る

「若い時分からのですか」

私も、その晩は、なぜか妙に調子がずれた物の言い方をした。

原文を見る

私も、その晩は、何故なぜか妙に調子はずれな物の云い方をした。

「はい、あれが二十五歳のときのお話でございますよ」

原文を見る

「ハイ、あれが二十五歳の時のお話でございますよ」

「ぜひうかがいたいものですね」

原文を見る

是非ぜひうかがいたいものですね」

私は、ふつうの生きた人間の身の上話でも催促するように、ごく何でもないことのように、老人をうながしたのである。

原文を見る

私は、普通の生きた人間の身の上話をでも催促する様に、ごく何でもないことの様に、老人をうながしたのである。

すると、老人は顔のしわを、うれしそうにゆがめて、「ああ、あなたは、やっぱり聞いて下さいますね」

原文を見る

すると、老人は顔の皺を、さも嬉しそうにゆがめて、「アア、あなたは、やっぱり聞いて下さいますね」

と言いながら、さて、次のような世にも不思議な物語を始めたのだった。

原文を見る

と云いながら、さて、次の様な世にも不思議な物語を始めたのであった。

「それはもう、一生涯の大事件ですから、よく覚えておりますが、明治二十八年の四月の、兄があんなに(と言って彼は押絵の老人を指さした)なりましたのが、二十七日の夕方のことでございました。当時、私も兄も、まだ親の家で世話になっていて、住まいは日本橋通三丁目でして、父親が呉服商(ごふくしょう)を営んでいましたがね。何でも浅草の十二階が出来て、間もないころのことでございましたよ。だもんですから、兄などは、毎日のようにあの凌雲閣(りょううんかく)へ昇って喜んでいたものです。と申しますのが、兄は妙に外国の物が好きで、新しいもの好きでございましたからね。この遠眼鏡にしろ、やっぱりそれで、兄が外国船の船長の持ち物だったという奴を、横浜の中国人街の、変てこな道具屋の店先で、見つけてきましてね。当時にしては、随分高いお金を払ったと申しておりましたっけ」

原文を見る

「それはもう、一生涯の大事件ですから、よく記憶して居りますが、明治二十八年の四月の、兄があんなに(と云って彼は押絵の老人を指さした)なりましたのが、二十七日の夕方のことでござりました。当時、私も兄も、まだ部屋住みで、住居すまい日本橋通にほんばしとおり三丁目でして、親爺おやじが呉服商を営んで居りましたがね。何でも浅草の十二階が出来て、間もなくのことでございましたよ。だもんですから、兄なんぞは、毎日の様にあの凌雲閣りょううんかくへ昇って喜んでいたものです。と申しますのが、兄は妙に異国物が好きで、新しがり屋でござんしたからね。この遠眼鏡にしろ、やっぱりそれで、兄が外国船の船長の持物だったという奴を、横浜よこはまの支那人町の、変てこな道具屋の店先で、めっけて来ましてね。当時にしちゃあ、随分高いお金を払ったと申して居りましたっけ」

老人は「兄が」

原文を見る

老人は「兄が」

と言うたびに、まるでそこにその人が座ってでもいるように、押絵の老人の方に目をやったり、指さしたりした。

原文を見る

と云うたびに、まるでそこにその人が坐ってでもいる様に、押絵の老人の方に目をやったり、指さしたりした。

老人は彼の記憶にある本当の兄と、その押絵の白髪の老人とを、混同して、押絵が生きて彼の話を聞いてでもいるような、すぐそばに第三者を意識したような話し方をした。

原文を見る

老人は彼の記憶にある本当の兄と、その押絵の白髪の老人とを、混同して、押絵が生きて彼の話を聞いてでもいる様な、すぐそばに第三者を意識した様な話し方をした。

だが、不思議なことに、私はそれを少しもおかしいとは感じなかった。

原文を見る

だが、不思議なことに、私はそれを少しもおかしいとは感じなかった。

私たちはその瞬間、自然の法則を超えた、私たちの世界とどこかでずれている別の世界に住んでいたらしいのである。

原文を見る

私達はその瞬間、自然の法則を超越した、我々の世界とどこかで喰違っているところの、別の世界に住んでいたらしいのである。

「あなたは、十二階へ昇ったことがおありですか。ああ、おありでない。それは残念ですね。あれは一体どこの魔法使いが建てましたものか、実にとてつもない、変てこな代物でございましたよ。表面はイタリーの技師のバルトンと申すものが設計したことになっていましたがね。まあ考えてみてください。そのころの浅草公園と言えば、名物がまず蜘蛛男(くもおとこ)の見世物、娘剣舞に、玉乗り、コマ廻しに、覗きからくりなどで、せいぜい変わったところが、お富士さまの作り物に、メーズとかいう、八陣(はちじん)隠れ杉の見世物ぐらいでございましたからね。そこへあなた、ニョキニョキと、まあとんでもなく高いレンガ造りの塔が出来てしまったのですから、驚くじゃありませんか。高さが四十六間(約84メートル)と申しますから、半丁(はんちょう)の余で、八角形の頂上が、中国人の帽子みたいにとがっていて、ちょっと高い所に昇りさえすれば、東京中どこからでも、その赤いお化けが見られたものです。

原文を見る

「あなたは、十二階へ御昇りなすったことがおありですか。アア、おありなさらない。それは残念ですね。あれは一体どこの魔法使が建てましたものか、実に途方もない、変てこれんな代物でございましたよ。表面は伊太利イタリーの技師のバルトンと申すものが設計したことになっていましたがね。まあ考えて御覧なさい。その頃の浅草公園と云えば、名物が先ず蜘蛛男くもおとこ見世物みせもの、娘剣舞に、玉乗り、源水の独楽廻こままわしに、覗きからくりなどで、せいぜい変った所が、お富士さまの作り物に、メーズと云って、八陣隠れ杉の見世物位でございましたからね。そこへあなた、ニョキニョキと、まあ飛んでもない高い煉瓦造れんがづくりの塔が出来ちまったんですから、驚くじゃござんせんか。高さが四十六間と申しますから、半丁の余で、八角型の頂上が、唐人とうじんの帽子みたいに、とんがっていて、ちょっと高台へ昇りさえすれば、東京中どこからでも、その赤いお化が見られたものです。

今も申す通り、明治二十八年の春、兄がこの遠眼鏡を手に入れて間もないころでした。

原文を見る

今も申す通り、明治二十八年の春、兄がこの遠眼鏡を手に入れて間もない頃でした。

兄の身に変なことが起こってまいりました。

原文を見る

兄の身に妙なことが起って参りました。

父親などは、兄が気でも違うのではないかって、ひどく心配しておりましたが、私もね、お察しでしょうが、馬鹿に兄思いでしてね、兄の変てこなそぶりが、心配で心配でたまらなかったものです。

原文を見る

親爺なんぞ、兄め気でも違うのじゃないかって、ひどく心配して居りましたが、私もね、お察しでしょうが、馬鹿に兄思いでしてね、兄の変てこれんなそぶりが、心配で心配でたまらなかったものです。

どんな風かと申しますと、兄はご飯もろくろく食べないで、家の者とも口をきかず、家にいるときは一部屋にとじこもって考え事ばかりしている。

原文を見る

どんな風かと申しますと、兄はご飯もろくろくたべないで、家内の者とも口を利かず、うちにいる時は一間にとじこもって考え事ばかりしている。

体はやせてしまい、顔は肺病やみのように土気色(つちけいろ)で、目ばかりギョロギョロさせている。

原文を見る

身体はせてしまい、顔は肺病やみの様に土気色つちけいろで、目ばかりギョロギョロさせている。

もっともふだんから顔色のいい方ではございませんでしたがね。

原文を見る

もっと平常ふだんから顔色のいい方じゃあござんせんでしたがね。

それが一倍青ざめて、沈んでいるのですから、本当に気の毒な様子でした。

原文を見る

それが一倍青ざめて、沈んでいるのですから、本当に気の毒な様でした。

それなのにね、そんなでいて、毎日欠かさず、まるで仕事にでも出るように、お昼過ぎから、日が暮れるまで、フラフラとどこかへ出かけるのです。

原文を見る

そのくせね、そんなでいて、毎日欠かさず、まるで勤めにでも出る様に、おひるッから、日暮れ時分まで、フラフラとどっかへ出掛けるんです。

どこへ行くのかって、聞いてみても、ちっとも言いません。

原文を見る

どこへ行くのかって、聞いて見ても、ちっとも云いません。

母親が心配して、兄のふさいでいる訳を、手を変え品を変え尋ねても、少しも打ち明けません。

原文を見る

母親が心配して、兄のふさいでいる訳を、手を変え品を変え尋ねても、少しも打開うちあけません。

そんなことが一か月ほども続いたのですよ。

原文を見る

そんなことが一月程も続いたのですよ。

あんまり心配だものだから、私はある日、兄が一体どこへ出かけるのかと、そっとあとをつけました。

原文を見る

あんまり心配だものだから、私はある日、兄が一体どこへ出掛るのかと、ソッとあとをつけました。

そうするように、母親が私に頼むものですからね。

原文を見る

そうする様に、母親が私に頼むもんですからね。

兄はその日も、ちょうど今日のようなどんよりとした、いやな日でございましたが、お昼過ぎから、そのころ兄が工夫して仕立てさせた、当時としては飛び切りハイカラな、黒いビロードの洋服を着ましてね、この遠眼鏡を肩から下げ、ひょろひょろと、日本橋通りの、馬車鉄道の方へ歩いていくのです。

原文を見る

兄はその日も、丁度今日の様などんよりとした、いやな日でござんしたが、おひるすぎから、その頃兄の工風くふうで仕立てさせた、当時としては飛び切りハイカラな、黒天鵞絨の洋服を着ましてね、この遠眼鏡を肩から下げ、ヒョロヒョロと、日本橋通りの、馬車鉄道の方へ歩いて行くのです。

私は兄に気づかれないように、ついていったわけですよ。

原文を見る

私は兄に気どられぬ様に、ついて行った訳ですよ。

よろしいですか。

原文を見る

よござんすか。

すると、兄は上野行きの馬車鉄道を待ち合わせて、ひょいとそれに乗り込んでしまったのです。

原文を見る

しますとね、兄は上野うえの行きの馬車鉄道を待ち合わせて、ひょいとそれに乗り込んでしまったのです。

今の電車と違って、次の車に乗ってあとをつけるというわけにはいきません。

原文を見る

当今の電車と違って、次の車に乗ってあとをつけるという訳には行きません。

何しろ車台が少ないのですからね。

原文を見る

何しろ車台がすくのござんすからね。

私は仕方がないので母親にもらったお小遣いを使って、人力車(じんりきしゃ)に乗りました。

原文を見る

私は仕方がないので母親にもらったお小遣いをふんぱつして、人力車に乗りました。

人力車だって、少し威勢のいい引き手ならば馬車鉄道を見失わないように、あとをつけるなんぞ、わけなかったものでございますよ。

原文を見る

人力車だって、少し威勢のいい挽子ひきこなれば馬車鉄道を見失わない様に、あとをつけるなんぞ、訳なかったものでございますよ。

兄が馬車鉄道を降りると、私も人力車を降りて、また歩いてあとをつける。

原文を見る

兄が馬車鉄道を降りると、私も人力車を降りて、又テクテクと跡をつける。

そうして、行き着いた所が、なんと浅草の観音様ではないですか。

原文を見る

そうして、行きついた所が、なんと浅草の観音様じゃございませんか。

兄は仲見世(なかみせ)から、お堂の前を素通りして、お堂裏の見世物小屋の間を、人波をかき分けるようにして、さっき申し上げた十二階の前まで来ますと、石の門を入って、お金を払って「凌雲閣」

原文を見る

兄は仲店なかみせから、お堂の前を素通りして、お堂裏の見世物小屋の間を、人波をかき分ける様にしてさっき申上げた十二階の前まで来ますと、石の門を這入はいって、お金を払って「凌雲閣」

という額の上がった入り口から、塔の中へ姿を消したではありませんか。

原文を見る

という額の上った入口から、塔の中へ姿を消したじゃあございませんか。

まさか兄がこんな所へ、毎日毎日通っていようとは、夢にも思いませんでしたので、私はあきれてしまいましたよ。

原文を見る

まさか兄がこんな所へ、毎日毎日かよっていようとは、夢にも存じませんので、私はあきれてしまいましたよ。

子供心にね、私はそのときまだ二十歳(はたち)にもなっていませんでしたので、兄はこの十二階の化け物に魅入(みい)られたのではないかなんて、変なことを考えたものですよ。

原文を見る

子供心にね、私はその時まだ二十はたちにもなってませんでしたので、兄はこの十二階の化物に魅入みいられたんじゃないかなんて、変なことを考えたものですよ。

私は十二階へは、父親に連れられて、一度昇っただけで、その後行ったことがありませんので、何だか気味が悪いように思いましたが、兄が昇っていくものですから、仕方がないので、私も、一階ぐらい遅れて、あの薄暗い石の段々を昇っていきました。

原文を見る

私は十二階へは、父親につれられて、一度昇った切りで、その後行ったことがありませんので、何だか気味が悪い様に思いましたが、兄が昇って行くものですから、仕方がないので、私も、一階位おくれて、あの薄暗い石の段々を昇って行きました。

窓も大きくありませんし、レンガの壁が厚いので、穴蔵のようにひんやりとしましてね。

原文を見る

窓も大きくございませんし、煉瓦の壁が厚うござんすので、穴蔵の様に冷々と致しましてね。

それに日清(にっしん)戦争のころですから、そのころは珍しかった、戦争の油絵が、一方の壁にずっと掛け並べてあります。

原文を見る

それに日清にっしん戦争の当時ですから、その頃は珍らしかった、戦争の油絵が、一方の壁にずっと懸け並べてあります。

まるで狼みたいな、おそろしい顔をして、吠えながら、突撃している日本兵や、剣付き鉄砲で脇腹をえぐられ、吹き出す血を両手で押さえて、顔や唇を紫色にしてもがいている中国兵や、ちょん切られた弁髪(べんぱつ)の頭が、風船玉のように空高く飛び上がっているところや、何とも言えない毒々しい、血みどろの油絵が、窓からの薄暗い光線で、テラテラと光っているのでございますよ。

原文を見る

まるで狼みたいな、おっそろしい顔をして、吠えながら、突貫している日本兵や、剣つき鉄砲に脇腹をえぐられ、ふき出す血のりを両手で押さえて、顔や唇を紫色にしてもがいている支那兵や、ちょんぎられた辮髪べんぱつの頭が、風船玉の様に空高く飛上っている所や、何とも云えない毒々しい、血みどろの油絵が、窓からの薄暗い光線で、テラテラと光っているのでございますよ。

その間を、陰気な石の段々が、カタツムリの殻みたいに、上へ上へと際限もなく続いております。

原文を見る

その間を、陰気な石の段々が、蝸牛かたつむりからみたいに、上へ上へと際限もなく続いて居ります。

本当に変てこな気持ちでしたよ。

原文を見る

本当に変てこれんな気持ちでしたよ。

頂上は八角形の手すりだけで、壁のない、見晴らしの廊下になっていましてね、そこへたどり着くと、にわかにぱっと明るくなって、今までの薄暗い道中が長かっただけに、びっくりしてしまいます。

原文を見る

頂上は八角形の欄干らんかん丈けで、壁のない、見晴らしの廊下になっていましてね、そこへたどりつくと、にわかにパッと明るくなって、今までの薄暗い道中が長うござんしただけに、びっくりしてしまいます。

雲が手の届きそうな低いところにあって、見渡すと、東京中の屋根がごみみたいに、ごちゃごちゃしていて、品川の御台場(おだいば)が、盆石(ぼんせき)のように見えております。

原文を見る

雲が手の届きそうな低い所にあって、見渡すと、東京中の屋根がごみみたいに、ゴチャゴチャしていて、品川しながわ御台場おだいばが、盆石ぼんせきの様に見えて居ります。

目まいがしそうなのを我慢して、下をのぞきますと、観音様のお堂だってずっと低いところにありますし、小屋掛けの見世物がおもちゃのようで、歩いている人間が、頭と足ばかりに見えるのです。

原文を見る

目まいがしそうなのを我慢して、下を覗きますと、観音様かんのんさまの御堂だってずっと低い所にありますし、小屋掛けの見世物が、おもちゃの様で、歩いている人間が、頭と足ばかりに見えるのです。

頂上には、十人余りの見物人が一かたまりになっておっかなそうな顔をして、ボソボソ小声でささやきながら、品川の海の方を眺めておりましたが、兄はと見ると、それとは離れた場所に、一人ぼっちで、遠眼鏡を目に当てて、しきりと浅草の境内を眺め回しておりました。

原文を見る

頂上には、十人余りの見物が一かたまりになっておっかな相な顔をして、ボソボソ小声で囁きながら、品川の海の方を眺めて居りましたが、兄はと見ると、それとは離れた場所に、一人ぼっちで、遠眼鏡を目に当てて、しきりと浅草の境内けいだいを眺め廻して居りました。

それをうしろから見ますと、白っぽくどんよりどんよりとした雲ばかりの中に、兄のビロードの洋服姿が、くっきりと浮き上がって、下の方のごちゃごちゃしたものが何も見えないものですから、兄だということは分かっていましても、何だか西洋の油絵の中の人物みたいな気持ちがして、神々しいようで、言葉をかけるのも遠慮されたほどでございましたっけ。

原文を見る

それをうしろから見ますと、白っぽくどんよりどんよりとした雲ばかりの中に、兄の天鵞絨の洋服姿が、クッキリと浮上って、下の方のゴチャゴチャしたものが何も見えぬものですから、兄だということは分っていましても、何だか西洋の油絵の中の人物みたいな気持がして、神々こうごうしい様で、言葉をかけるのもはばかられた程でございましたっけ。

でも、母の言いつけを思い出しますと、そうもしていられませんので、私は兄のうしろに近づいて『兄さん何を見ていらっしゃいます』

原文を見る

でも、母の云いつけを思い出しますと、そうもしていられませんので、私は兄のうしろに近づいて『兄さん何を見ていらっしゃいます』

と声をかけたのでございます。

原文を見る

と声をかけたのでございます。

兄はびくっとして、振り向きましたが、気まずい顔をして何も言いません。

原文を見る

兄はビクッとして、振向きましたが、気拙きまずい顔をして何も云いません。

私は『兄さんのこのごろのご様子には、お父さんもお母さんも大変心配していらっしゃいます。毎日毎日どこへお出かけなさるのかと不思議に思っておりましたら、兄さんはこんな所へ来ていらしったのでございますね。どうかその訳を言って下さいまし。日ごろ仲よしの私にだけでも打ち明けて下さいまし』

原文を見る

私は『兄さんの此頃このごろの御様子には、御父さんもお母さんも大変心配していらっしゃいます。毎日毎日どこへ御出掛なさるのかと不思議に思って居りましたら、兄さんはこんな所へ来ていらしったのでございますね。どうかその訳を云って下さいまし。日頃仲よしの私に丈けでも打開けて下さいまし』

と、近くに人のいないのを幸いに、その塔の上で、兄をくどいたものですよ。

原文を見る

と、近くに人のいないのを幸いに、その塔の上で、兄をかき口説くどいたものですよ。

なかなか打ち明けませんでしたが、私が繰り返し繰り返し頼むものですから、兄も根負けをしたと見えまして、とうとう一か月来の胸の秘密を私に話してくれました。

原文を見る

仲々打開けませんでしたが、私が繰返し繰返し頼むものですから、兄も根負こんまけをしたと見えまして、とうとう一ヶ月来の胸の秘密を私に話してくれました。

ところが、その兄の悩みの原因と申すものが、これがまた誠に変てこな事柄だったのでございますよ。

原文を見る

ところが、その兄の煩悶はんもんの原因と申すものが、これが又誠に変てこれんな事柄だったのでございますよ。

兄が申しますには、一か月ばかり前に、十二階へ昇りまして、この遠眼鏡で観音様の境内を眺めておりましたとき、人込みの間に、ちらっと、一人の娘の顔を見たのだそうでございます。

原文を見る

兄が申しますには、一月ばかり前に、十二階へ昇りまして、この遠眼鏡で観音様の境内を眺めて居りました時、人込みの間に、チラッと、一人の娘の顔を見たのだ相でございます。

その娘が、それはもう何とも言えない、この世のものとも思えない、美しい人で、日ごろ女性には全く関心のなかった兄も、その遠眼鏡の中の娘だけには、ぞっと寒気がするほど、すっかり心を乱されてしまったと申しますよ。

原文を見る

その娘が、それはもう何とも云えない、この世のものとも思えない、美しい人で、日頃女には一向いっこう冷淡であった兄も、その遠眼鏡の中の娘丈けには、ゾッと寒気がした程も、すっかり心を乱されてしまったと申しますよ。

そのとき兄は、一目見ただけで、びっくりして、遠眼鏡をはずしてしまったものですから、もう一度見ようと思って、同じ方向を夢中になって探したそうですが、眼鏡の先が、どうしてもその娘の顔にぶつかりません。

原文を見る

その時兄は、一目見た丈けで、びっくりして、遠眼鏡をはずしてしまったものですから、もう一度見ようと思って、同じ見当を夢中になって探した相ですが、眼鏡の先が、どうしてもその娘の顔にぶっつかりません。

遠眼鏡では近くに見えても実際は遠方のことですし、たくさんの人混みの中ですから、一度見えたからといって、二度目に探し出せるとは限らないのですからね。

原文を見る

遠眼鏡では近くに見えても実際は遠方のことですし、沢山の人混みの中ですから、一度見えたからと云って、二度目に探し出せるとまったものではございませんからね。

それからというもの、兄はこの眼鏡の中の美しい娘が忘れられず、ひどく内気な人でしたから、古風な恋の病をわずらい始めたのでございます。

原文を見る

それからと申すもの、兄はこの眼鏡の中の美しい娘が忘れられず、極々ごくごく内気なひとでしたから、古風な恋わずらいをわずらい始めたのでございます。

今の人はお笑いになるかもしれませんが、そのころの人間は、誠にのんびりしたもので、行きずりに一目見た女性を恋して、思いを病んだ男なども多かった時代でございますからね。

原文を見る

今のお人はお笑いなさるかも知れませんが、その頃の人間は、誠におっとりしたものでして、行きずりに一目見た女を恋して、わずらいついた男なども多かった時代でございますからね。

言うまでもなく、兄はそんなご飯もろくろく食べられないような、衰えた体を引きずって、またその娘が観音様の境内を通りかかることもあろうかと悲しいはかない望みから、毎日毎日、仕事のように、十二階に昇っては、眼鏡をのぞいていたわけでございます。

原文を見る

云うまでもなく、兄はそんなご飯もろくろくたべられない様な、衰えた身体を引きずって、又その娘が観音様の境内を通りかかることもあろうかと悲しい空頼そらだのみから、毎日毎日、勤めの様に、十二階に昇っては、眼鏡を覗いていた訳でございます。

恋というものは、不思議なものでございますね。

原文を見る

恋というものは、不思議なものでございますね。

兄は私に打ち明けてしまうと、また熱病やみのように眼鏡をのぞき始めましたが、私は兄の気持ちにすっかり同情いたしましてね、千に一つも望みのない、むだな探し物ですけれど、おやめなさいとやめさせる気も起らず、あまりのことに涙ぐんで、兄のうしろ姿をじっと眺めていたものですよ。

原文を見る

兄は私に打開けてしまうと、又熱病やみの様に眼鏡を覗き始めましたっけが、私は兄の気持にすっかり同情致しましてね、千に一つも望みのない、無駄むだな探し物ですけれど、おしなさいと止めだてする気も起らず、余りのことに涙ぐんで、兄のうしろ姿をじっと眺めていたものですよ。

するとそのとき……ああ、私はあの不思議に美しかった光景を、忘れることができません。

原文を見る

するとその時……ア、私はあの怪しくも美しかった光景を、忘れることが出来ません。

三十年以上も昔のことですけれど、こうして目をふさぎますと、その夢のような色どりが、まざまざと浮かんでくるほどでございます。

原文を見る

三十年以上も昔のことですけれど、こうして眼をふさぎますと、その夢の様な色どりが、まざまざと浮んで来る程でございます。

さっきも申した通り、兄のうしろに立っていますと、見えるものは空ばかりで、もやもやとした、むら雲の中に、兄のほっそりとした洋服姿が、絵のように浮き上がって、むら雲の方が動いているのを、兄の体が宙に漂っているのかと見間違えるばかりでございました。

原文を見る

さっきも申しました通り、兄のうしろに立っていますと、見えるものは、空ばかりで、モヤモヤとした、むら雲の中に、兄のほっそりとした洋服姿が、絵の様に浮上って、むら雲の方で動いているのを、兄の身体が宙に漂うかと見誤みあやまるばかりでございました。

がそこへ、突然、花火でも打ち上げたように、白っぽい大空の中を、赤や青や紫の無数の玉が、先を争って、ふわりふわりと昇っていったのでございます。

原文を見る

がそこへ、突然、花火でも打上げた様に、白っぽい大空の中を、赤や青や紫の無数の玉が、先を争って、フワリフワリと昇って行ったのでございます。

お話したのでは分かりますまいが、本当に絵のようで、また何かの前兆のようで、私は何とも言えない不思議な気持ちになったものでした。

原文を見る

お話したのでは分りますまいが、本当に絵の様で、又何かの前兆の様で、私は何とも云えない怪しい気持になったものでした。

何であろうと、急いで下をのぞいてみますと、どかしたはずみで、風船売りが不注意で、ゴム風船を、一度に空へ飛ばしたものと分かりましたが、そのころは、ゴム風船そのものが、今よりはずっと珍しかったですから、正体が分かっても、私はまだ変な気持ちがしておりましたものですよ。

原文を見る

何であろうと、急いで下を覗いて見ますと、どうかしたはずみで、風船屋が粗相そそうをして、ゴム風船を、一度に空へ飛ばしたものと分りましたが、その時分は、ゴム風船そのものが、今よりはずっと珍らしゅうござんしたから正体が分っても、私はまだ妙な気持がして居りましたものですよ。

不思議なもので、それがきっかけになったというわけでもありますまいが、ちょうどそのとき、兄は非常に興奮した様子で、青白い顔をほっと赤らめ息をはずませて、私の方へやってまいり、いきなり私の手をとって『さあ行こう。早く行かないと間に合わない』

原文を見る

妙なもので、それがきっかけになったという訳でもありますまいが、丁度その時、兄は非常に興奮した様子で、青白い顔をぽっと赤らめ息をはずませて、私の方へやって参り、いきなり私の手をとって『さあ行こう。早く行かぬと間に合わぬ』

と申して、ぐんぐん私を引っ張るのでございます。

原文を見る

と申して、グングン私を引張るのでございます。

引っ張られて、塔の石段を駆け降りながら、わけを尋ねますと、あのときの娘さんが見つかったらしいので、青い畳を敷いた広い座敷に座っていたから、これから行っても大丈夫、元の所にいると申すのでございます。

原文を見る

引張られて、塔の石段をかけ降りながら、訳を尋ねますと、いつかの娘さんが見つかったらしいので、青畳あおだたみを敷いた広い座敷に坐っていたから、これから行っても大丈夫元の所にいると申すのでございます。

兄が見当をつけた場所というのは、観音堂の裏手の、大きな松の木が目印で、そこに広い座敷があったと申すのですが、さて、二人でそこへ行って、探してみましても、松の木はちゃんとありますけれど、その近所には、家らしい家もなく、まるでキツネにつままれたような具合なのですよ。

原文を見る

兄が見当をつけた場所というのは、観音堂の裏手の、大きな松の木が目印で、そこに広い座敷があったと申すのですが、さて、二人でそこへ行って、探して見ましても、松の木はちゃんとありますけれど、その近所には、家らしい家もなく、まるで狐につままれた様な鹽梅あんばいなのですよ。

兄の気の迷いだとは思いましたが、しおれ返っている様子が、あまりにも気の毒だものですから、気休めに、その辺の掛け茶屋などを尋ね回ってみましたけれども、そんな娘さんの影も形もありません。

原文を見る

兄の気の迷いだとは思いましたが、しおれ返っている様子が、余り気の毒だものですから、気休めに、その辺の掛茶屋などを尋ね廻って見ましたけれども、そんな娘さんの影も形もありません。

探している間に、兄と分かれ分かれになってしまいましたが、掛け茶屋を一巡して、しばらくたって元の松の木の下へ戻ってまいりますとね、そこには色々な露店に並んで、一軒の覗きからくり屋が、ぱしゃんぱしゃんと鞭(むち)の音を立てて、商売をしておりましたが、見ますと、その覗きの眼鏡を、兄が中腰になって、一生懸命のぞいていたではありませんか。

原文を見る

探している間に、兄と分れ分れになってしまいましたが、掛茶屋を一巡して、暫くたって元の松の木の下へ戻って参りますとね、そこには色々な露店に並んで、一軒の覗きからくり屋が、ピシャンピシャンとむちの音を立てて、商売をして居りましたが、見ますと、その覗きの眼鏡を、兄が中腰になって、一生懸命覗いていたじゃございませんか。

『兄さん何をしていらっしゃる』

原文を見る

『兄さん何をしていらっしゃる』

と言って、肩を叩きますと、びっくりして振り向きましたが、そのときの兄の顔を、私は今だに忘れることができませんよ。

原文を見る

と云って、肩を叩きますと、ビックリして振向きましたが、その時の兄の顔を、私は今だに忘れることが出来ませんよ。

何と申せばよろしいか、夢を見ているようなとでも申しますか、顔の筋がたるんでしまって、遠い所を見ている目つきになって、私に話す声さえも、変にうつろに聞こえたのでございます。

原文を見る

何と申せばよろしいか、夢を見ている様なとでも申しますか、顔の筋がたるんでしまって、遠い所を見ている目つきになって、私に話す声さえも、変にうつろに聞えたのでございます。

そして、『お前、私たちが探していた娘さんはこの中にいるよ』

原文を見る

そして、『お前、私達が探していた娘さんはこの中にいるよ』

と申すのです。

原文を見る

と申すのです。

そう言われたものですから、私は急いでお金を払って、覗きの眼鏡をのぞいてみますと、それは八百屋お七(やおやおしち)の覗きからくりでした。

原文を見る

そう云われたものですから、私は急いでおあしを払って、覗きの眼鏡を覗いて見ますと、それは八百屋お七の覗きからくりでした。

ちょうど吉祥寺(きちしょうじ)の書院で、お七が吉三(きちざ)にしなだれかかっている絵が出ておりました。

原文を見る

丁度吉祥寺きちしょうじの書院で、お七が吉三きちざにしなだれかかっている絵が出て居りました。

忘れもしません。

原文を見る

忘れもしません。

からくり屋の夫婦者は、しわがれ声を合わせて、鞭で拍子を取りながら、『膝でつっらついて、目で知らせ』

原文を見る

からくり屋の夫婦者は、しわがれ声を合せて、鞭で拍子を取りながら、『膝でつっらついて、目で知らせ』

と申す文句を歌っているところでした。

原文を見る

と申す文句を歌っている所でした。

ああ、あの『膝でつっらついて、目で知らせ』

原文を見る

アア、あの『膝でつっらついて、目で知らせ』

という変な節回し(ふしまわし)が、耳についているようでございます。

原文を見る

という変な節廻ふしまわしが、耳についている様でございます。

覗き絵の人物は押絵になっておりましたが、その道の名人の作だったのでしょうね。

原文を見る

覗き絵の人物は押絵になって居りましたが、その道の名人の作であったのでしょうね。

お七の顔の生き生きとして美しかったこと。

原文を見る

お七の顔の生々として綺麗であったこと。

私の目にさえ本当に生きているように見えたのですから、兄があんなことを申したのも、まったく無理はありません。

原文を見る

私の目にさえ本当に生きている様に見えたのですから、兄があんなことを申したのも、全く無理はありません。

兄が申しますには『たとい(たとえ)この娘さんが、作り物の押絵だと分かっても、私はどうしてもあきらめられない。悲しいことだがあきらめられない。たった一度でいい、私もあの吉三のような、押絵の中の男になって、この娘さんと話がしてみたい』

原文を見る

兄が申しますには『仮令たといこの娘さんが、拵えものの押絵だと分っても、私はどうもあきらめられない。悲しいことだがあきらめられない。たった一度でいい、私もあの吉三の様な、押絵の中の男になって、この娘さんと話がして見たい』

と言って、ぼんやりと、そこに突っ立ったまま、動こうともしないのでございます。

原文を見る

と云って、ぼんやりと、そこに突っ立ったまま、動こうともしないのでございます。

考えてみますとその覗きからくりの絵が、光線を取るために上の方が開けてあるので、それが斜めに十二階の頂上からも見えたものに違いありません。

原文を見る

考えて見ますとその覗きからくりの絵が、光線を取る為に上の方がけてあるので、それが斜めに十二階の頂上からも見えたものに違いありません。

そのころには、もう日が暮れかけて、人通りもまばらになり、覗きの前にも、二、三人のおかっぱの子供が、未練そうに立ち去りかねて、うろうろしているばかりでした。

原文を見る

その時分には、もう日がくれかけて、人足ひとあしもまばらになり、覗きの前にも、二三人のおかっぱの子供が、未練らしく立去り兼ねて、うろうろしているばかりでした。

昼間からどんよりと曇っていたのが、日暮れには、今にも一雨来そうに、雲が下りてきて、一層押しつけられるような、気でも狂うのではないかと思うような、いやな天候になっておりました。

原文を見る

昼間からどんよりと曇っていたのが、日暮には、今にも一雨来そうに、雲が下って来て、一層おさえつけられる様な、気でも狂うのじゃないかと思う様な、いやな天候になって居りました。

そして、耳の底にドロドロと太鼓の鳴っているような音が聞こえているのですよ。

原文を見る

そして、耳の底にドロドロと太鼓たいこの鳴っている様な音が聞えているのですよ。

その中で、兄は、じっと遠くの方を見据えて、いつまでもいつまでも、立ちつくしておりました。

原文を見る

その中で、兄は、じっと遠くの方を見据えて、いつまでもいつまでも、立ちつくして居りました。

その間が、たっぷり一時間はあったように思われます。

原文を見る

その間が、たっぷり一時間はあった様に思われます。

もうすっかり暮れきって、遠くの玉乗りのガス燈(とう)が、チロチロと美しく輝き出したころに、兄ははっと目が覚めたように、突然私の腕をつかんで『ああ、いいことを思いついた。お前、お頼みだから、この遠眼鏡を逆さにして、大きなガラス玉の方を目に当てて、そこから私を見ておくれでないか』

原文を見る

もうすっかり暮切くれきって、遠くの玉乗りの花瓦斯はなガスが、チロチロと美しく輝き出した時分に、兄はハッと目が醒めた様に、突然私の腕をつかんで『アア、いいことを思いついた。お前、お頼みだから、この遠眼鏡をさかさにして、大きなガラス玉の方を目に当てて、そこから私を見ておくれでないか』

と、変なことを言い出しました。

原文を見る

と、変なことを云い出しました。

『なぜです』

原文を見る

『何故です』

って尋ねても、『まあいいから、そうしてくれな』

原文を見る

って尋ねても、『まあいいから、そうしておれな』

と申して聞かないのでございます。

原文を見る

と申して聞かないのでございます。

一体私は生まれつき眼鏡類を、あまり好みませんので、遠眼鏡にしろ、顕微鏡にしろ、遠いところの物が、目の前へ飛びついてきたり、小さな虫けらが、けものみたいに大きくなる、お化けじみた作用が薄気味悪いのですよ。

原文を見る

一体私は生れつき眼鏡類を、余り好みませんので、遠眼鏡にしろ、顕微鏡にしろ、遠い所の物が、目の前へ飛びついて来たり、小さな虫けらが、けだものみたいに大きくなる、お化じみた作用が薄気味悪いのですよ。

で、兄の大事にしている遠眼鏡も、あまりのぞいたことがなく、のぞいたことが少ないだけに、余計それが魔性(ましょう)の機械に思われたものです。

原文を見る

で、兄の秘蔵の遠眼鏡も、余り覗いたことがなく、覗いたことが少い丈けに、余計それが魔性ましょうの器械に思われたものです。

しかも、日が暮れて人の顔もさだかに見えない、うっすら寂しい観音堂の裏で、遠眼鏡を逆さにして、兄をのぞくなんて、気違いじみてもいますれば、薄気味悪くもありましたが、兄がしきりに頼むものですから、仕方なく言われた通りにしてのぞいたのですよ。

原文を見る

しかも、日が暮て人顔もさだかに見えぬ、うすら淋しい観音堂の裏で、遠眼鏡をさかさにして、兄を覗くなんて、気違いじみてもいますれば、薄気味悪くもありましたが、兄がたって頼むものですから、仕方なく云われた通りにして覗いたのですよ。

逆さにのぞくのですから、二、三間(約4〜5メートル)向こうに立っている兄の姿が、二尺(約60センチ)ほどに小さくなって、小さいだけに、はっきりと、闇の中に浮き出して見えるのです。

原文を見る

さかさに覗くのですから、二三間向うに立っている兄の姿が、二尺位に小さくなって、小さい丈けに、ハッキリと、闇の中に浮出して見えるのです。

ほかの景色は何も映らないで、小さくなった兄の洋服姿だけが、眼鏡の真ん中に、ちんと立っているのです。

原文を見る

ほかの景色は何も映らないで、小さくなった兄の洋服姿丈けが、眼鏡の真中に、チンと立っているのです。

それが、たぶん兄があとずさりに歩いていったのでしょう。

原文を見る

それが、多分兄があとじさりに歩いて行ったのでしょう。

見る見る小さくなって、とうとう一尺(約30センチ)ほどの、人形みたいな可愛らしい姿になってしまいました。

原文を見る

見る見る小さくなって、とうとう一尺位の、人形みたいな可愛らしい姿になってしまいました。

そして、その姿が、つうっと宙に浮いたかと見ると、あっと思う間に、闇の中へ溶け込んでしまったのでございます。

原文を見る

そして、その姿が、ツーッと宙に浮いたかと見ると、アッと思う間に、闇の中へ溶け込んでしまったのでございます。

私は怖くなって、(こんなことを申すと、年甲斐もないとお思いでしょうが、そのときは、本当にぞっと、怖さが身にしみたものですよ)いきなり眼鏡を離して、「兄さん」

原文を見る

私は怖くなって、(こんなことを申すと、年甲斐としがいもないと思召おぼしめしましょうが、その時は、本当にゾッと、怖さが身にしみたものですよ)いきなり眼鏡を離して、「兄さん」

と呼んで、兄の見えなくなった方へ走り出しました。

原文を見る

と呼んで、兄の見えなくなった方へ走り出しました。

ですが、どうしたわけか、いくら探しても探しても兄の姿が見えません。

原文を見る

ですが、どうした訳か、いくら探しても探しても兄の姿が見えません。

時間からしても、遠くへ行ったはずはないのに、どこを尋ねても分かりません。

原文を見る

時間から申しても、遠くへ行ったはずはないのに、どこを尋ねても分りません。

なんと、あなた、こうして私の兄は、それっきり、この世から姿を消してしまったのでございますよ……それ以来というもの、私は一層遠眼鏡という魔性の器械を恐れるようになりました。

原文を見る

なんと、あなた、こうして私の兄は、それっきり、この世から姿を消してしまったのでございますよ……それ以来というもの、私は一層遠眼鏡という魔性の器械を恐れる様になりました。

特にも、この、どこの国の船長とも分からない、外国人の持ち物だった遠眼鏡が、特別いやでして、ほかの眼鏡は知らず、この眼鏡だけは、どんなことがあっても、逆さに見てはならぬ。

原文を見る

ことにも、このどこの国の船長とも分らぬ、異人の持物であった遠眼鏡が、特別いやでして、ほかの眼鏡は知らず、この眼鏡丈けは、どんなことがあっても、さかさに見てはならぬ。

逆さにのぞけば悪いことが起ると、固く信じているのでございます。

原文を見る

さかさに覗けば凶事が起ると、固く信じているのでございます。

あなたがさっき、これを逆さにお持ちなさったとき、私があわててお止め申した訳がお分かりでございましょう。

原文を見る

あなたがさっき、これをさかさにお持ちなすった時、私があわててお止め申した訳がお分りでございましょう。

ところが、長い間探し疲れて、元の覗き屋の前へ戻ってまいったときでした。

原文を見る

ところが、長い間探し疲れて、元の覗き屋の前へ戻って参った時でした。

私はふと、ある事に気がついたのです。

原文を見る

私はハタとある事に気がついたのです。

と申すのは、兄は押絵の娘に恋こがれた余り、魔性の遠眼鏡の力を借りて、自分の体を押絵の娘と同じくらいの大きさに縮めて、そっと押絵の世界へ忍び込んだのではあるまいかということでした。

原文を見る

と申すのは、兄は押絵の娘に恋こがれた余り、魔性の遠眼鏡の力を借りて、自分の身体を押絵の娘と同じ位の大きさに縮めて、ソッと押絵の世界へ忍び込んだのではあるまいかということでした。

そこで、私はまだ店をかたづけないでいた覗き屋に頼みまして、吉祥寺の場を見せてもらいましたが、なんとあなた、案の定(あんのじょう)、兄は押絵になって、カンテラの光の中で、吉三の代わりに、うれしそうな顔をして、お七を抱きしめていたではありませんか。

原文を見る

そこで、私はまだ店をかたづけないでいた覗き屋に頼みまして、吉祥寺の場を見せて貰いましたが、なんとあなた、あんじょう、兄は押絵になって、カンテラの光りの中で、吉三の代りに、嬉し相な顔をして、お七を抱きしめていたではありませんか。

でもね、私は悲しいとは思いませんで、そうして本望(ほんもう)を達した、兄のしあわせが、涙の出るほどうれしかったものですよ。

原文を見る

でもね、私は悲しいとは思いませんで、そうして本望ほんもうを達した、兄の仕合せが、涙の出る程嬉しかったものですよ。

私はその絵をどんなに高くてもよいから、必ず私に譲ってくれと、覗き屋に固い約束をして、(妙なことに、小姓の吉三の代わりに洋服姿の兄が坐っているのを、覗き屋は少しも気がつかない様子でした)家へ飛んで帰って、一部始終(いちぶしじゅう)を母に告げましたところ、父も母も、何を言うのだ。

原文を見る

私はその絵をどんなに高くてもよいから、必ず私に譲ってくれと、覗き屋に固い約束をして、(妙なことに、小姓の吉三の代りに洋服姿の兄が坐っているのを、覗き屋は少しも気がつかない様子でした)家へ飛んで帰って、一伍一什いちぶしじゅうを母に告げました所、父も母も、何を云うのだ。

お前は気でも違ったのではないかと申して、何と言っても取り合ってくれません。

原文を見る

お前は気でも違ったのじゃないかと申して、何と云っても取上げてくれません。

おかしいじゃありませんか。

原文を見る

おかしいじゃありませんか。

ははははははは」

原文を見る

ハハハハハハ」

老人は、そこで、さもさもおかしいと言わんばかりに笑い出した。

原文を見る

老人は、そこで、さもさも滑稽こっけいだと云わぬばかりに笑い出した。

そして、変なことには、私もまた、老人に同感して、一緒になって、げらげらと笑ったのである。

原文を見る

そして、変なことには、私もまた、老人に同感して、一緒になって、ゲラゲラと笑ったのである。

「あの人たちは、人間は押絵などになるものじゃないと思い込んでいたのですよ。でも押絵になった証拠には、その後兄の姿が、ぷっつりと、この世から見えなくなってしまったじゃありませんか。それをも、あの人たちは、家出したのだなんぞと、まるで見当違いな勝手な推量をしているのですよ。おかしいですね。結局、私は何と言われても構わず、母にお金をねだって、とうとうその覗き絵を手に入れ、それを持って、箱根から鎌倉の方へ旅をしました。それはね、兄に新婚旅行がさせてやりたかったからですよ。こうして汽車に乗っておりますと、そのときのことを思い出してなりません。やっぱり、今日のように、この絵を窓に立てかけて、兄や兄の恋人に、外の景色を見せてやったのですからね。兄はどんなにかしあわせでございましたろう。娘の方でも、兄のこれほどの真心を、どうしていやに思いましょう。二人は本当の新婚者のように、恥ずかしそうに顔を赤らめながら、お互いの肌と肌とを触れ合って、さもむつまじく、尽きぬ甘いささやきを語り合ったものでございますよ。

原文を見る

「あの人たちは、人間は押絵なんぞになるものじゃないと思い込んでいたのですよ。でも押絵になった証拠には、そののち兄の姿が、ふっつりと、この世から見えなくなってしまったじゃありませんか。それをも、あの人たちは、家出したのだなんぞと、まるで見当違いな当て推量をしているのですよ。おかしいですね。結局、私は何と云われても構わず、母にお金をねだって、とうとうその覗き絵を手に入れ、それを持って、箱根はこねから鎌倉かまくらの方へ旅をしました。それはね、兄に新婚旅行がさせてやりたかったからですよ。こうして汽車に乗って居りますと、その時のことを思い出してなりません。やっぱり、今日の様に、この絵を窓に立てかけて、兄や兄の恋人に、外の景色を見せてやったのですからね。兄はどんなにか仕合せでございましたろう。娘の方でも、兄のこれ程の真心を、どうしていやに思いましょう。二人は本当の新婚者の様に、恥かし相に顔を赤らめながら、お互の肌と肌とを触れ合って、さもむつまじく、尽きぬ睦言むつごとを語り合ったものでございますよ。

その後、父は東京の商売をたたみ、富山の近くの故郷へ引き込みましたので、それにつれて、私もずっとそこに住んでおりますが、あれからもう三十年の余になりますので、久々に兄にも変わった東京が見せてやりたいと思いましてね、こうして兄と一緒に旅をしているわけでございますよ。

原文を見る

その後、父は東京の商売をたたみ、富山とやま近くの故郷へ引込みましたので、それにつれて、私もずっとそこに住んで居りますが、あれからもう三十年の余になりますので、久々で兄にも変った東京が見せてやり度いと思いましてね、こうして兄と一緒に旅をしている訳でございますよ。

ところが、あなた、悲しいことには、娘の方は、いくら生きているとは言え、元々人が作ったものですから、年をとるということがありませんけれど、兄の方は、押絵になっても、それは無理やりに形を変えただけで、根が寿命のある人間のことですから、私たちと同じように年をとってまいります。

原文を見る

ところが、あなた、悲しいことには、娘の方は、いくら生きているとは云え、元々人の拵えたものですから、年をとるということがありませんけれど、兄の方は、押絵になっても、それは無理やりに形を変えたまでで、根が寿命のある人間のことですから、私達と同じ様に年をとって参ります。

ご覧下さいまし、二十五歳の美少年だった兄が、もうあのように白髪になって、顔には醜いしわが寄ってしまいました。

原文を見る

御覧下さいまし、二十五歳の美少年であった兄が、もうあの様に白髪になって、顔には醜い皺が寄ってしまいました。

兄の身にとっては、どんなにか悲しいことでございましょう。

原文を見る

兄の身にとっては、どんなにか悲しいことでございましょう。

相手の娘はいつまでも若くて美しいのに、自分ばかりがみすぼらしく老け込んでいくのですもの。

原文を見る

相手の娘はいつまでも若くて美しいのに、自分ばかりが汚く老込んで行くのですもの。

恐ろしいことです。

原文を見る

恐ろしいことです。

兄は悲しげな顔をしております。

原文を見る

兄は悲しげな顔をして居ります。

数年前から、いつもあんな苦しそうな顔をしております。

原文を見る

数年以前から、いつもあんな苦し相な顔をして居ります。

それを思うと、私は兄が気の毒で仕様がないのでございますよ」

原文を見る

それを思うと、私は兄が気の毒で仕様しようがないのでございますよ」

老人は暗い気持ちで押絵の中の老人を見やっていたが、やがて、ふと気がついたように、

原文を見る

老人は暗然として押絵の中の老人を見やっていたが、やがて、ふと気がついた様に、

「ああ、とんだ長話を致しました。しかし、あなたは分かって下さいましたでしょうね。ほかの人たちのように、私を気違いだとはおっしゃいませんでしょうね。ああ、それで私も話し甲斐(はなしがい)があったと申すものですよ。どれ、兄さんたちも疲れたでしょう。それに、あなた方を前に置いて、あんな話をしましたので、さぞかし恥ずかしがっておいででしょう。では、今休ませてあげますよ」

原文を見る

「アア、飛んだ長話を致しました。併し、あなたは分って下さいましたでしょうね。外の人達の様に、私を気違いだとはおっしゃいませんでしょうね。アア、それで私も話甲斐はなしがいがあったと申すものですよ。どれ、兄さん達もくたびれたでしょう。それに、あなた方を前に置いて、あんな話をしましたので、さぞかし恥かしがっておいででしょう。では、今やすませて上げますよ」

と言いながら、押絵の額を、そっと黒い風呂敷に包むのだった。

原文を見る

と云いながら、押絵の額を、ソッと黒い風呂敷に包むのであった。

その瞬間、私の気のせいだったのか、押絵の人形たちの顔が、少しゆるんで、ちょっと恥ずかしそうに、口のすみで、私にあいさつの微笑みを送ったように見えたのである。

原文を見る

その刹那、私の気のせいであったのか、押絵の人形達の顔が、少しくずれて、一寸恥かし相に、唇の隅で、私に挨拶の微笑を送った様に見えたのである。

老人はそれきり黙り込んでしまった。

原文を見る

老人はそれきり黙り込んでしまった。

私も黙っていた。

原文を見る

私も黙っていた。

汽車は相も変わらず、ゴトンゴトンと鈍い音を立てて、闇の中を走っていた。

原文を見る

汽車は相も変らず、ゴトンゴトンと鈍い音を立てて、闇の中を走っていた。

十分ほどそうしていると、車輪の音がのろくなって、窓の外にチラチラと、二つ三つの灯り(あかり)が見え、汽車は、どことも知れない山間(やまあい)の小さな駅に停車した。

原文を見る

十分ばかりそうしていると、車輪の音がのろくなって、窓の外にチラチラと、二つ三つの燈火あかりが見え、汽車は、どことも知れぬ山間の小駅に停車した。

駅員がたった一人、ぽつりと、プラットホームに立っているのが見えた。

原文を見る

駅員がたった一人、ぽっつりと、プラットフォームに立っているのが見えた。

「ではお先へ、私は一晩ここの親戚へ泊まりますので」

原文を見る

「ではお先へ、私は一晩ここの親戚へ泊りますので」

老人は額の包みを抱えてひょいと立ち上がり、そんなあいさつを残して、車の外へ出ていったが、窓から見ていると、細長い老人のうしろ姿は(それがなんと押絵の老人そのままの姿であったか)簡略な柵(さく)のところで、駅員に切符を渡したかと見ると、そのまま、うしろの闇の中へ溶け込むように消えていったのである。

原文を見る

老人は額の包みをかかえてヒョイと立上り、そんな挨拶を残して、車の外へ出て行ったが、窓から見ていると、細長い老人の後姿うしろすがたは(それが何と押絵の老人そのままの姿であったか)簡略な柵の所で、駅員に切符を渡したかと見ると、そのまま、背後の闇の中へ溶け込む様に消えて行ったのである。