押絵と旅する男 現代語訳
江戸川乱歩(えどがわらんぽ)・1932年
AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23)
この話が私の夢でも、一時的な狂気が見せた幻でもないとしたら、あの押絵と一緒に旅をしていたあの男こそ、狂人だったに違いない。
原文を見る
この話が私の夢か私の一時的狂気の幻でなかったならば、あの押絵と旅をしていた男こそ狂人であったに相違ない。
でも、夢がときどきこの世界とどこかずれた別の世界をちらりと見せてくれるように、また狂人が私たちには感じられないものを見たり聞いたりするように、これは私が不思議な大気のレンズを通して、一瞬、この世の視野の外にある別の世界の一角をふとのぞき見てしまったのかもしれない。
原文を見る
だが、夢が時として、どこかこの世界と喰違った別の世界を、チラリと覗かせてくれる様に、又狂人が、我々の全く感じ得ぬ物事を見たり聞いたりすると同じに、これは私が、不可思議な大気のレンズ仕掛けを通して、一刹那、この世の視野の外にある、別の世界の一隅を、ふと隙見したのであったかも知れない。
いつのことか定かではないが、暖かくて薄曇りの日のことだ。
原文を見る
いつとも知れぬ、ある暖かい薄曇った日のことである。
そのとき私は、わざわざ魚津まで蜃気楼を見に出かけた帰り道だった。
原文を見る
その時、私は態々魚津へ蜃気楼を見に出掛けた帰り途であった。
この話をすると、「お前が魚津なんかへ行ったことはないじゃないか」と親しい友人につっこまれることがある。
原文を見る
私がこの話をすると、時々、お前は魚津なんかへ行ったことはないじゃないかと、親しい友達に突っ込まれることがある。
そう言われてみると、何月何日に魚津へ行ったのかをはっきり証明できない。
原文を見る
そう云われて見ると、私は何時の何日に魚津へ行ったのだと、ハッキリ証拠を示すことが出来ぬ。
やはり夢だったのだろうか。
原文を見る
それではやっぱり夢であったのか。
だが私はこれほど濃厚な色彩を持った夢を、かつて見たことがない。
原文を見る
だが私は嘗て、あのように濃厚な色彩を持った夢を見たことがない。
夢の中の景色は映画と同じで、普通は色がないものなのに、あのときの汽車の中の景色だけは、あの毒々しい押絵の画面を中心に、紫と臙脂の勝った色彩で、まるで蛇の瞳のように、生々しく私の記憶に焼きついている。
原文を見る
夢の中の景色は、映画と同じに、全く色彩を伴わぬものであるのに、あの折の汽車の中の景色丈けは、それもあの毒々しい押絵の画面が中心になって、紫と臙脂の勝た色彩で、まるで蛇の眼の瞳孔の様に、生々しく私の記憶に焼ついている。
カラーの夢というものがあるのだろうか。
原文を見る
着色映画の夢というものがあるのであろうか。
私はそのとき、生まれて初めて蜃気楼というものを見た。
原文を見る
私はその時、生れて初めて蜃気楼というものを見た。
はまぐりの息の中に美しい竜宮城が浮かんでいる、あの古風な絵を想像していた私は、本物の蜃気楼を見て、脂汗がにじむような、恐怖に近い驚きに打たれた。
原文を見る
蛤の息の中に美しい龍宮城の浮んでいる、あの古風な絵を想像していた私は、本物の蜃気楼を見て、膏汗のにじむ様な、恐怖に近い驚きに撃たれた。
魚津の浜の松並木に、豆粒ほどの人間がわらわらと集まって、息を殺しながら、目の届く限りの大空と海を眺めていた。
原文を見る
魚津の浜の松並木に豆粒の様な人間がウジャウジャと集まって、息を殺して、眼界一杯の大空と海面とを眺めていた。
私はあんなに静かな、唖のように黙りこんだ海を見たことがない。
原文を見る
私はあんな静かな、唖の様にだまっている海を見たことがない。
日本海は荒れた海だと思い込んでいた私には、それもひどく意外だった。
原文を見る
日本海は荒海と思い込んでいた私には、それもひどく意外であった。
その海は灰色で、さざ波一つなく、どこまでも続く沼かと思えるほどだった。
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その海は、灰色で、全く小波一つなく、無限の彼方にまで打続く沼かと思われた。
太平洋の海のように水平線もなく、海と空が同じ灰色に溶け合って、深さの知れない霞に覆い尽くされた感じだった。
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そして、太平洋の海の様に、水平線はなくて、海と空とは、同じ灰色に溶け合い、厚さの知れぬ靄に覆いつくされた感じであった。
空だとばかり思っていた上の霞の中を、意外にもそこが海面で、ふわふわと幽霊のような大きな白い帆が滑っていったりした。
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空だとばかり思っていた、上部の靄の中を、案外にもそこが海面であって、フワフワと幽霊の様な、大きな白帆が滑って行ったりした。
蜃気楼とは、乳白色のフィルムの表面に墨汁をたらして、それが自然にじわじわとにじんでいくのを、途方もなく巨大な映像にして大空に映し出したようなものだった。
原文を見る
蜃気楼とは、乳色のフィルムの表面に墨汁をたらして、それが自然にジワジワとにじんで行くのを、途方もなく巨大な映画にして、大空に映し出した様なものであった。
はるか遠くの能登半島の森林が、ずれた大気の変形レンズを通して、すぐ目の前の大空に、焦点の合わない顕微鏡の下の黒い虫みたいに、ぼんやりと、しかし馬鹿馬鹿しいほど大きく拡大されて、見ている人の頭上に迫ってくるのだった。
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遙かな能登半島の森林が、喰違った大気の変形レンズを通して、すぐ目の前の大空に、焦点のよく合わぬ顕微鏡の下の黒い虫みたいに、曖昧に、しかも馬鹿馬鹿しく拡大されて、見る者の頭上におしかぶさって来るのであった。
それは変な形の黒雲に似ていたが、黒雲ならその場所がはっきりわかるのに対して、蜃気楼は不思議なことに、見ている人との距離がとても曖昧なのだ。
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それは、妙な形の黒雲と似ていたけれど、黒雲なればその所在がハッキリ分っているに反し、蜃気楼は、不思議にも、それと見る者との距離が非常に曖昧なのだ。
遠くの海上に漂う大入道のようでもあり、ともすれば目の前一尺に迫る異形の霞にも見え、はては見ている人の角膜の表面にぽつりと浮いた一点の曇りのようにさえ感じられた。
原文を見る
遠くの海上に漂う大入道の様でもあり、ともすれば、眼前一尺に迫る異形の靄かと見え、はては、見る者の角膜の表面に、ポッツリと浮んだ、一点の曇りの様にさえ感じられた。
この距離の曖昧さが、蜃気楼に想像以上のおどろおどろしい、気のおかしくなりそうな感じを与えるのだ。
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この距離の曖昧さが、蜃気楼に、想像以上の不気味な気違いめいた感じを与えるのだ。
輪郭が曖昧な真っ黒な巨大な三角形が塔のように積み重なっていったり、またたく間にくずれたり、横に伸びて長い汽車のように走ったり、それがいくつかにくずれ、立ち並ぶ檜の梢に見えたり、じっと動かないようでいながら、いつの間にか全く違う形に変わっていった。
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曖昧な形の、真黒な巨大な三角形が、塔の様に積重なって行ったり、またたく間にくずれたり、横に延びて長い汽車の様に走ったり、それが幾つかにくずれ、立並ぶ檜の梢と見えたり、じっと動かぬ様でいながら、いつとはなく、全く違った形に化けて行った。
蜃気楼の魔力が人間をおかしくさせるものだとしたら、おそらく私は、少なくとも帰りの汽車の中まではその魔力から逃れられなかっただろう。
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蜃気楼の魔力が、人間を気違いにするものであったなら、恐らく私は、少くとも帰り途の汽車の中までは、その魔力を逃れることが出来なかったのであろう。
二時間以上も立ち続けて大空の異様な光景を眺めていた私が、その夕方魚津を発って汽車で一夜を過ごすまで、まったく普段と違う気持ちでいたことは確かだ。
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二時間の余も立ち尽して、大空の妖異を眺めていた私は、その夕方魚津を立って、汽車の中に一夜を過ごすまで、全く日常と異った気持でいたことは確である。
もしかしたらそれは、通り魔のように人の心をかすめて犯す、一時的な狂気のようなものだったのだろうか。
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若しかしたら、それは通り魔の様に、人間の心をかすめ冒す所の、一時的狂気の類ででもあったであろうか。
魚津の駅から上野行きの汽車に乗ったのは、夕方の六時ごろだった。
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魚津の駅から上野への汽車に乗ったのは、夕方の六時頃であった。
不思議な偶然だろうか、あのあたりの汽車はいつもそうなのか、私が乗った二等車は教会のようにがらんとしていて、私のほかにたった一人の先客が、向こうの隅のクッションにうずくまっているだけだった。
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不思議な偶然であろうか、あの辺の汽車はいつでもそうなのか、私の乗った二等車は、教会堂の様にガランとしていて、私の外にたった一人の先客が、向うの隅のクッションに蹲っているばかりであった。
汽車は淋しい海岸の険しい崖や砂浜の上を、単調な機械の音を響かせながら、際限なく走っていた。
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汽車は淋しい海岸の、けわしい崕や砂浜の上を、単調な機械の音を響かせて、際しもなく走っている。
沼のような海上の霞の奥深くに、黒い血のような色の夕焼けが、ぼんやりと感じられた。
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沼の様な海上の、靄の奥深く、黒血の色の夕焼が、ボンヤリと感じられた。
異様に大きく見える白帆が、その中を夢のように滑っていた。
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異様に大きく見える白帆が、その中を、夢の様に滑っていた。
少しも風のない蒸し暑い日だったから、ところどころ開けられた汽車の窓から進行にともなって忍び込んでくるそよ風も、幽霊のようにすぐ途切れてしまった。
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少しも風のない、むしむしする日であったから、所々開かれた汽車の窓から、進行につれて忍び込むそよ風も、幽霊の様に尻切れとんぼであった。
たくさんの短いトンネルと雪よけの柱の列が、広々とした灰色の空と海を縞目に区切りながら通り過ぎていった。
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沢山の短いトンネルと雪除けの柱の列が、広漠たる灰色の空と海とを、縞目に区切って通り過ぎた。
親不知の断崖を通過するころ、車内の電灯と空の明るさが同じくらいに感じられるほど、夕闇が迫ってきた。
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親不知の断崖を通過する頃、車内の電燈と空の明るさとが同じに感じられた程、夕闇が迫って来た。
ちょうどそのころ、向こうの隅のたった一人の同乗者が突然立ち上がり、クッションの上に大きな黒い繻子の風呂敷を広げ、窓に立てかけてあった二尺掛ける三尺ほどの平たい荷物をその中に包み始めた。
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丁度その時分向うの隅のたった一人の同乗者が、突然立上って、クッションの上に大きな黒繻子の風呂敷を広げ、窓に立てかけてあった、二尺に三尺程の、扁平な荷物を、その中へ包み始めた。
それが私に何とも奇妙な感じを与えた。
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それが私に何とやら奇妙な感じを与えたのである。
その平たいものはおそらく額に違いないのだが、その表側を、何か特別な意味があるらしく、窓ガラスに向けて立てかけてあった。
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その扁平なものは、多分額に相違ないのだが、それの表側の方を、何か特別の意味でもあるらしく、窓ガラスに向けて立てかけてあった。
一度風呂敷に包んであったものをわざわざ取り出して、そんなふうに外に向けて立てかけたとしか考えられなかった。
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一度風呂敷に包んであったものを、態々取出して、そんな風に外に向けて立てかけたものとしか考えられなかった。
さらに、彼が再び包もうとしたときにちらりと見たところ、額の表面に描かれた極彩色の絵が妙に生々しく、何となくただごとでなく見えたのだった。
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それに、彼が再び包む時にチラと見た所によると、額の表面に描かれた極彩色の絵が、妙に生々しく、何となく世の常ならず見えたことであった。
私はあらためて、この変わった荷物の持ち主を観察した。
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私は更めて、この変てこな荷物の持主を観察した。
そして持ち主その人が、荷物の異様さにも増して、ひとまわり異様だったことに驚かされた。
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そして、持主その人が、荷物の異様さにもまして、一段と異様であったことに驚かされた。
彼はとても古風な、私たちの父親の若いころの色あせた写真でしか見られないような、襟が狭くて肩がすぼんだ黒の背広を着ていたが、しかしそれが背が高くて足の長い彼に妙にしっくりと合って、ひどく粋にさえ見えたのだ。
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彼は非常に古風な、我々の父親の若い時分の色あせた写真でしか見ることの出来ない様な、襟の狭い、肩のすぼけた、黒の背広服を着ていたが、併しそれが、背が高くて、足の長い彼に、妙にシックリと合って、甚だ意気にさえ見えたのである。
顔は細面で、両目が少しギラギラしすぎていた以外は全体的によく整っていて、すっきりした印象だった。
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顔は細面で、両眼が少しギラギラし過ぎていた外は、一体によく整っていて、スマートな感じであった。
きれいに分けた頭髪が豊かに黒々と光っているので、ひと目には四十前後に見えたが、よく注意してみると顔中に無数のしわがあって、一気に六十歳くらいにも見えないこともなかった。
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そして、綺麗に分けた頭髪が、豊に黒々と光っているので、一見四十前後であったが、よく注意して見ると、顔中に夥しい皺があって、一飛びに六十位にも見えぬことはなかった。
この黒々とした頭髪と、色白の顔を縦横に刻んだしわとの対比が、初めて気づいたとき私をはっとさせるほど、ひどく不気味な印象を与えた。
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この黒々とした頭髪と、色白の顔面を縦横にきざんだ皺との対照が、初めてそれに気附いた時、私をハッとさせた程も、非常に不気味な感じを与えた。
彼は丁寧に荷物を包み終わると、ひょいと私の方に顔を向けた。ちょうど私も熱心に相手の動きを眺めていたときだったから、二人の視線がしっかりとぶつかってしまった。
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彼は叮嚀に荷物を包み終ると、ひょいと私の方に顔を向けたが、丁度私の方でも熱心に相手の動作を眺めていた時であったから、二人の視線がガッチリとぶっつかってしまった。
すると彼は何か恥ずかしそうに唇の端を曲げて、かすかに笑ってみせるのだった。
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すると、彼は何か恥かし相に唇の隅を曲げて、幽かに笑って見せるのであった。
私も思わず頭を動かして挨拶を返した。
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私も思わず首を動かして挨拶を返した。
それから、小さな駅を二、三通過する間、私たちはお互いの隅に座ったまま、遠くから時々視線を交わしては、気まずくそっぽを向くことを繰り返していた。
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それから、小駅を二三通過する間、私達はお互の隅に坐ったまま、遠くから、時々視線をまじえては、気まずく外方を向くことを、繰返していた。
外はすっかり暗闇になっていた。
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外は全く暗闇になっていた。
窓ガラスに顔を押しつけてのぞいてみても、ときおり沖の漁船の舷灯が遠く遠くぽつりと浮かんでいる以外、全く何の明かりもなかった。
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窓ガラスに顔を押しつけて覗いて見ても、時たま沖の漁船の舷燈が遠く遠くポッツリと浮んでいる外には、全く何の光りもなかった。
果てしない暗闇の中に、私たちの細長い車室だけが、たった一つの世界のように、いつまでもいつまでも、がたんがたんと動いていった。
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際涯のない暗闇の中に、私達の細長い車室丈けが、たった一つの世界の様に、いつまでもいつまでも、ガタンガタンと動いて行った。
そのほの暗い車室の中に私たち二人だけを残して、全世界が、あらゆる生き物が、跡形もなく消えてしまった感じだった。
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そのほの暗い車室の中に、私達二人丈けを取り残して、全世界が、あらゆる生き物が、跡方もなく消え失せてしまった感じであった。
私たちの二等車には、どの駅からも一人の乗客もなかったし、列車ボーイや車掌も一度も姿を見せなかった。
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私達の二等車には、どの駅からも一人の乗客もなかったし、列車ボーイや車掌も一度も姿を見せなかった。
そのことも今になって考えてみると、たいそう奇怪に感じられるのだ。
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そういう事も今になって考えて見ると、甚だ奇怪に感じられるのである。
私は、四十歳にも六十歳にも見える、西洋の魔術師のような風采のその男が、だんだん怖くなってきた。
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私は、四十歳にも六十歳にも見える、西洋の魔術師の様な風采のその男が、段々怖くなって来た。
怖さというものは、ほかに気をそらすことがない場合には、限りなく大きく、体じゅうに広がっていくものだ。
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怖さというものは、外にまぎれる事柄のない場合には、無限に大きく、身体中一杯に拡がって行くものである。
私はとうとう産毛の先まで怖さが満ちて、たまらなくなって、突然立ち上がると、向こうの隅のその男の方へずかずかと歩いていった。
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私は遂には、産毛の先までも怖さが満ちて、たまらなくなって、突然立上ると、向うの隅のその男の方へツカツカと歩いて行った。
その男がいとわしく恐ろしいからこそ、私はその男に近づいていったのだった。
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その男がいとわしく、恐ろしければこそ、私はその男に近づいて行ったのであった。
私は彼と向き合ったクッションにそっと腰を下ろし、近づけばいっそう異様に見える彼のしわだらけの白い顔を、私自身が妖怪ででもあるような、一種不思議な、逆転した気持ちで、目を細くして息を殺してじっとのぞき込んだのだった。
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私は彼と向き合ったクッションへ、そっと腰をおろし、近寄れば一層異様に見える彼の皺だらけの白い顔を、私自身が妖怪ででもある様な、一種不可思議な、顛倒した気持で、目を細く息を殺してじっと覗き込んだものである。
男は、私が自分の席を立ったときからずっと目で私を迎えるようにしていたが、私が彼の顔をのぞき込むと、待ちかまえていたように、顎で傍らにある例の平たい荷物を指し示し、何の前置きもなく、さもそれが当然の挨拶ででもあるように、
原文を見る
男は、私が自分の席を立った時から、ずっと目で私を迎える様にしていたが、そうして私が彼の顔を覗き込むと、待ち受けていた様に、顎で傍らの例の扁平な荷物を指し示し、何の前置きもなく、さもそれが当然の挨拶ででもある様に、
「これでございますか」
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「これでございますか」
と言った。
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と云った。
その口調がごく普通だったので、私はかえってぎょっとするほどだった。
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その口調が、余り当り前であったので、私は却て、ギョッとした程であった。
「これがご覧になりたいのでございましょう」
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「これが御覧になりたいのでございましょう」
私が黙っていると、彼はもう一度同じことを繰り返した。
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私が黙っているので、彼はもう一度同じことを繰返した。
「見せていただけますか」
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「見せて下さいますか」
私は相手の調子に引き込まれて、つい変なことを言ってしまった。
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私は相手の調子に引込まれて、つい変なことを云ってしまった。
私は決してその荷物を見たくて席を立ったわけではなかったのだけれど。
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私は決してその荷物を見たい為に席を立った訳ではなかったのだけれど。
「喜んでお見せしますよ。私はさっきから考えていたのですよ。あなたはきっとこれを見にいらっしゃるだろうとね」
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「喜んで御見せ致しますよ。わたくしは、さっきから考えていたのでございますよ。あなたはきっとこれを見にお出でなさるだろうとね」
男は――むしろ老人と言った方がふさわしいのだが――そう言いながら、長い指で器用に大風呂敷をほどいて、その額のようなものを、今度は表を向けて窓のところへ立てかけたのだ。
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男は――寧ろ老人と云った方がふさわしいのだが――そう云いながら、長い指で、器用に大風呂敷をほどいて、その額みたいなものを、今度は表を向けて、窓の所へ立てかけたのである。
私はひと目ちらりとその表面を見ると、思わず目をつむった。
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私は一目チラッと、その表面を見ると、思わず目をとじた。
なぜそうしたのか、その理由は今でもわからないのだが、何となくそうしなければならない気がして、数秒間目をふさいでいた。
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何故であったか、その理由は今でも分らないのだが、何となくそうしなければならぬ感じがして、数秒の間目をふさいでいた。
再び目を開いたとき、私の前に、かつて見たことのないような奇妙なものがあった。
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再び目を開いた時、私の前に、嘗て見たことのない様な、奇妙なものがあった。
と言っても、私はその「奇妙」な
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と云って、私はその「奇妙」
点をはっきりと説明する言葉を持たないのだが。
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な点をハッキリと説明する言葉を持たぬのだが。
額には歌舞伎芝居の御殿の背景みたいに、いくつもの部屋をぶち抜いて、極端な遠近法で、青畳と格子天井がはるか向こうまで続いているような光景が、藍を主とした泥絵の具で毒々しく塗りつけてあった。
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額には歌舞伎芝居の御殿の背景みたいに、幾つもの部屋を打抜いて、極度の遠近法で、青畳と格子天井が遙か向うの方まで続いている様な光景が、藍を主とした泥絵具で毒々しく塗りつけてあった。
左手の前方には、墨で真っ黒に不細工な書院風の窓が描かれ、同じ色の文机が、その傍に角度を無視した描き方で据えてあった。
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左手の前方には、墨黒々と不細工な書院風の窓が描かれ、同じ色の文机が、その傍に角度を無視した描き方で、据えてあった。
それらの背景は、あの絵馬札の絵に独特な画風に似ていると言えば、一番よくわかってもらえるだろうか。
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それらの背景は、あの絵馬札の絵の独特な画風に似ていたと云えば、一番よく分るであろうか。
その背景の中に、一尺ほどの高さの二人の人物が浮き出ていた。
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その背景の中に、一尺位の丈の二人の人物が浮き出していた。
浮き出ていたというのは、その人物だけが押絵細工で作られていたからだ。
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浮き出していたと云うのは、その人物丈けが、押絵細工で出来ていたからである。
黒いビロードの古風な洋服を着た白髪の老人が窮屈そうに座っていると(不思議なことに、その顔立ちが、髪の色を除くと額の持ち主の老人そのままなばかりか、着ている洋服の仕立て方までそっくりだった)、緋の鹿の子の振り袖に黒い繻子の帯が映える十七、八歳の、水もしたたるような結綿の美しい娘が、何とも言えない恥じらいを含んで、その老人の膝にしなだれかかっている、いわば芝居の濡れ場に似た画面だった。
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黒天鵞絨の古風な洋服を着た白髪の老人が、窮屈そうに坐っていると、(不思議なことには、その容貌が、髪の色を除くと、額の持主の老人にそのままなばかりか、着ている洋服の仕立方までそっくりであった)緋鹿の子の振袖に、黒繻子の帯の映りのよい十七八の、水のたれる様な結綿の美少女が、何とも云えぬ嬌羞を含んで、その老人の洋服の膝にしなだれかかっている、謂わば芝居の濡れ場に類する画面であった。
洋服の老人と色気のある娘の対比がひどく異様だったことは言うまでもないが、だが私が「奇妙」
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洋服の老人と色娘の対照と、甚だ異様であったことは云うまでもないが、だが私が「奇妙」
に感じたというのはそのことではない。
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に感じたというのはそのことではない。
背景の粗雑さとは対照的に、押絵の細工の精巧さには驚くばかりだった。
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背景の粗雑に引かえて、押絵の細工の精巧なことは驚くばかりであった。
顔の部分は白絹で凹凸を作って細い皺まで一つひとつ表してあったし、娘の髪は本物の毛髪を一本一本植えつけて、人間の髪を結うように結ってあり、老人の頭もこれもたぶん本物の白髪を丹念に植えたものに違いなかった。
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顔の部分は、白絹は凹凸を作って、細い皺まで一つ一つ現わしてあったし、娘の髪は、本当の毛髪を一本一本植えつけて、人間の髪を結う様に結ってあり、老人の頭は、これも多分本物の白髪を、丹念に植えたものに相違なかった。
洋服には正しい縫い目があって、適当な場所に粟粒ほどのボタンまでついているし、娘の胸のふくらみ、腿のあたりの艶めいた曲線、こぼれた緋縮緬、ちらと見える肌の色、指には貝殻のような爪まで生えていた。
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洋服には正しい縫い目があり、適当な場所に粟粒程の釦までつけてあるし、娘の乳のふくらみと云い、腿のあたりの艶めいた曲線と云い、こぼれた緋縮緬、チラと見える肌の色、指には貝殻の様な爪が生えていた。
虫眼鏡でのぞいてみたら、毛穴や産毛まできちんと作ってあるのではないかと思われるほどだった。
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虫眼鏡で覗いて見たら、毛穴や産毛まで、ちゃんと拵えてあるのではないかと思われた程である。
私は押絵と言えば羽子板の役者の似顔細工しか見たことがなかったが、羽子板の細工にもずいぶん精巧なものはある、しかしこの押絵はそんなものとはまるで比較にならないほど、極限まで精巧に作られていたのだ。
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私は押絵と云えば、羽子板の役者の似顔の細工しか見たことがなかったが、そして、羽子板の細工にも、随分精巧なものもあるのだけれど、この押絵は、そんなものとは、まるで比較にもならぬ程、巧緻を極めていたのである。
おそらくその道の名人の手によるものだろうか。
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恐らくその道の名人の手に成ったものであろうか。
だが、それが私の言う「奇妙」
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だが、それが私の所謂「奇妙」
な点ではなかった。
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な点ではなかった。
額全体がよほど古いものらしく、背景の泥絵の具はところどころはげ落ちていたし、娘の緋の鹿の子も老人のビロードも見る影もなく色あせていたが、はげ落ち色あせたなりに、言い表せないほどの毒々しさを保って、ギラギラと、見る者の目の奥に焼きつくような生気を持っていたことも、不思議といえば不思議だった。
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額全体が余程古いものらしく、背景の泥絵具は所々はげ落ていたし、娘の緋鹿の子も、老人の天鵞絨も、見る影もなく色あせていたけれど、はげ落ち色あせたなりに、名状し難き毒々しさを保ち、ギラギラと、見る者の眼底に焼つく様な生気を持っていたことも、不思議と云えば不思議であった。
だが、私の「奇妙」
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だが、私の「奇妙」
という意味はそれでもない。
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という意味はそれでもない。
それは、強いて言うならば、押絵の人物が二つとも、生きていたことだ。
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それは、若し強て云うならば、押絵の人物が二つとも、生きていたことである。
文楽の人形芝居で、一日の演技の中でたった一度か二度、それもほんの一瞬間、名人が使っている人形が、ふと神の息吹をかけられでもしたように本当に生きていることがあるものだが、この押絵の人物は、その生きた瞬間の人形を、命が逃げ出す隙を与えず、とっさの間にそのまま板に貼りつけたという感じで、永遠に生きながらえているかと見えたのだった。
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文楽の人形芝居で、一日の演技の内に、たった一度か二度、それもほんの一瞬間、名人の使っている人形が、ふと神の息吹をかけられでもした様に、本当に生きていることがあるものだが、この押絵の人物は、その生きた瞬間の人形を、命の逃げ出す隙を与えず、咄嗟の間に、そのまま板にはりつけたという感じで、永遠に生きながらえているかと見えたのである。
私の表情に驚きの色を見て取ったからか、老人はたのもしそうな口調で、ほとんど叫ぶように、
原文を見る
私の表情に驚きの色を見て取ったからか、老人は、いとたのもしげな口調で、殆ど叫ぶ様に、
「ああ、あなたはわかってくださるかもしれません」
原文を見る
「アア、あなたは分って下さるかも知れません」
と言いながら、肩から下げていた黒い革のケースを丁寧に鍵で開いて、その中からいかにも古風な双眼鏡を取り出して、私の方へ差し出すのだった。
原文を見る
と云いながら、肩から下げていた、黒革のケースを、叮嚀に鍵で開いて、その中から、いとも古風な双眼鏡を取り出してそれを私の方へ差出すのであった。
「これ、この遠眼鏡で一度ご覧ください。いいえ、そこからでは近すぎます。失礼ですが、もう少し向こうの方から。そう、ちょうどその辺がよろしいでしょう」
原文を見る
「コレ、この遠眼鏡で一度御覧下さいませ。イエ、そこからでは近すぎます。失礼ですが、もう少しあちらの方から。左様丁度その辺がようございましょう」
実に異様な頼みではあったが、私は限りない好奇心のとりこになって、老人の言うとおりに席を立って額から五、六歩遠ざかった。
原文を見る
誠に異様な頼みではあったけれど、私は限りなき好奇心のとりことなって、老人の云うがままに、席を立って額から五六歩遠ざかった。
老人は私が見やすいように、両手で額を持って電灯にかざしてくれた。
原文を見る
老人は私の見易い様に、両手で額を持って、電燈にかざしてくれた。
今から思うと、実に変てこな、気違いめいた光景だったに違いない。
原文を見る
今から思うと、実に変てこな、気違いめいた光景であったに相違ないのである。
遠眼鏡というのはおそらく二、三十年も前の舶来品だろうか、私たちが子供のとき眼鏡屋の看板でよく見かけたような、異様な形のプリズム双眼鏡で、手ずれのために黒い覆い皮がはげて、ところどころ真鍮の地が現れているという、持ち主の洋服と同様に、いかにも古風で懐かしい品物だった。
原文を見る
遠眼鏡と云うのは、恐らく二三十年も以前の舶来品であろうか、私達が子供の時分、よく眼鏡屋の看板で見かけた様な、異様な形のプリズム双眼鏡であったが、それが手摺れの為に、黒い覆皮がはげて、所々真鍮の生地が現われているという、持主の洋服と同様に、如何にも古風な、物懐かしい品物であった。
私は珍しさにしばらくその双眼鏡をひねくり回していたが、やがてそれをのぞくために両手で目の前に持っていったときだ。
原文を見る
私は珍らしさに、暫くその双眼鏡をひねくり廻していたが、やがて、それを覗く為に、両手で眼の前に持って行った時である。
突然、本当に突然、老人が悲鳴に近い叫び声を立てたので、私はあやうく眼鏡を取り落とすところだった。
原文を見る
突然、実に突然、老人が悲鳴に近い叫声を立てたので、私は、危く眼鏡を取落す所であった。
「いけません。いけません。それは逆さですよ。逆さにのぞいてはいけません。いけません」
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「いけません。いけません。それはさかさですよ。さかさに覗いてはいけません。いけません」
老人は真っ青になって、目をまん丸に見開いて、しきりに手を振っていた。
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老人は、真青になって、目をまんまるに見開いて、しきりと手を振っていた。
双眼鏡を逆にのぞくことが、なぜそれほど大変なのか、私には老人の異様な行動が理解できなかった。
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双眼鏡を逆に覗くことが、何ぜそれ程大変なのか、私は老人の異様な挙動を理解することが出来なかった。
「なるほど、なるほど、逆さでしたっけ」
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「成程、成程、さかさでしたっけ」
私は双眼鏡をのぞくことに気を取られていたので、この老人の不審な表情をさほど気にもとめず、眼鏡を正しい向きに持ち直すと、急いでそれを目に当てて押絵の人物をのぞいたのだ。
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私は双眼鏡を覗くことに気を取られていたので、この老人の不審な表情を、さして気にもとめず、眼鏡を正しい方向に持ち直すと、急いでそれを目に当てて押絵の人物を覗いたのである。
焦点が合っていくにつれて、二つの円形の視野がじわじわと一つに重なり、ぼんやりとした虹のようなものがだんだんはっきりしてくると、びっくりするほど大きな娘の胸から上が、それが全世界ででもあるように、私の視野いっぱいに広がった。
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焦点が合って行くに従って、二つの円形の視野が、徐々に一つに重なり、ボンヤリとした虹の様なものが、段々ハッキリして来ると、びっくりする程大きな娘の胸から上が、それが全世界ででもある様に、私の眼界一杯に拡がった。
あんな物の現れ方を私はあとにも先にも見たことがないので、読む人にわかってもらうのが難しいのだが、それに近い感じを思い出してみると、例えば舟の上から、海に潜った海女の、ある瞬間の姿に似ていたとでも言うべきだろうか。
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あんな風な物の現われ方を、私はあとにも先にも見たことがないので、読む人に分らせるのが難儀なのだが、それに近い感じを思い出して見ると、例えば、舟の上から、海にもぐった蜑の、ある瞬間の姿に似ていたとでも形容すべきであろうか。
海女の裸身が底の方にあるときは、青い水の層の複雑な揺らぎのために、その体がまるで海草のように不自然にくにゃくにゃと曲がり、輪郭もぼやけて白っぽいお化けみたいに見えているが、それがつうっと浮かび上がってくるにつれて、水の層の青さがだんだん薄くなり、形がはっきりしてきて、ぽっかりと水面に頭を出すと、その瞬間、はっと目が覚めたように、水中の白いお化けがたちまち人間の正体を現すのだ。
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蜑の裸身が、底の方にある時は、青い水の層の複雑な動揺の為に、その身体が、まるで海草の様に、不自然にクネクネと曲り、輪廓もぼやけて、白っぽいお化みたいに見えているが、それが、つうッと浮上って来るに従って、水の層の青さが段々薄くなり、形がハッキリして来て、ポッカリと水上に首を出すと、その瞬間、ハッと目が覚めた様に、水中の白いお化が、忽ち人間の正体を現わすのである。
ちょうどそれと同じ感じで、押絵の娘は双眼鏡の中で私の前に姿を現し、実物大の一人の生きた娘として、うごめき始めたのだ。
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丁度それと同じ感じで、押絵の娘は、双眼鏡の中で、私の前に姿を現わし、実物大の、一人の生きた娘として、蠢き始めたのである。
十九世紀の古風なプリズム双眼鏡のレンズの向こう側には、私たちの思いも及ばない別世界があって、そこに結綿の色娘と古風な洋服の白髪の男とが、奇妙な生活を営んでいる。
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十九世紀の古風なプリズム双眼鏡の玉の向う側には、全く私達の思いも及ばぬ別世界があって、そこに結綿の色娘と、古風な洋服の白髪男とが、奇怪な生活を営んでいる。
のぞいてはいけないものを、私は今魔法使いにのぞかせられているのだ。
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覗いては悪いものを、私は今魔法使に覗かされているのだ。
そんな形容のしようのない変な気持ちで、それでも私は取り憑かれたようにその不思議な世界に見入ってしまった。
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といった様な形容の出来ない変てこな気持で、併し私は憑かれた様にその不可思議な世界に見入ってしまった。
娘は動いていたわけではないが、その全身の感じが肉眼で見たときとはがらりと変わって、生気に満ち、青白い顔がやや桃色に上気し、胸は脈打ち(実際私は心臓の鼓動さえ聞いた)、肉体からは縮緬の衣装を通して、むっとするような若い女の生気が漂っているように思われた。
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娘は動いていた訳ではないが、その全身の感じが、肉眼で見た時とは、ガラリと変って、生気に満ち、青白い顔がやや桃色に上気し、胸は脈打ち(実際私は心臓の鼓動をさえ聞いた)肉体からは縮緬の衣裳を通して、むしむしと、若い女の生気が蒸発して居る様に思われた。
私はひと渡り女の全身を双眼鏡の先でなめ回してから、その娘がしなだれかかっている幸せそうな白髪の男の方へ眼鏡を向けた。
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私は一渡り、女の全身を、双眼鏡の先で、嘗め廻してから、その娘がしなだれ掛っている、仕合せな白髪男の方へ眼鏡を転じた。
老人も双眼鏡の世界で生きていたことは同じだったが、見た目で四十歳ほども年の違う若い女の肩に手を回して、さも幸福そうな様子でありながら、妙なことに、レンズいっぱいの大きさに映った彼の皺の多い顔が、その何百本もの皺の奥で、不思議なことに苦悶の表情を現しているのだった。
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老人も、双眼鏡の世界で、生きていたことは同じであったが、見た所四十程も年の違う、若い女の肩に手を廻して、さも幸福そうな形でありながら、妙なことには、レンズ一杯の大きさに写った、彼の皺の多い顔が、その何百本の皺の底で、いぶかしく苦悶の相を現わしているのである。
それは、老人の顔がレンズのために目の前一尺の近さに異様に大きく迫っていたからでもあっただろうが、見つめれば見つめるほどぞっと怖くなるような、悲痛と恐怖が入り混じった一種異様な表情だった。
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それは、老人の顔がレンズの為に眼前一尺の近さに、異様に大きく迫っていたからでもあったであろうが、見つめていればいる程、ゾッと怖くなる様な、悲痛と恐怖との混り合った一種異様の表情であった。
それを見ると私はうなされたような気分になって、双眼鏡をのぞいていることが耐えがたく感じられたので、思わず目を離して、きょろきょろとあたりを見回した。
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それを見ると、私はうなされた様な気分になって、双眼鏡を覗いていることが、耐え難く感じられたので、思わず、目を離して、キョロキョロとあたりを見廻した。
すると、やはり淋しい夜の汽車の中であって、押絵の額も、それをかかげた老人の姿も元のままで、窓の外は真っ暗だし、単調な車輪の響きも変わりなく聞こえていた。
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すると、それはやっぱり淋しい夜の汽車の中であって、押絵の額も、それをささげた老人の姿も、元のままで、窓の外は真暗だし、単調な車輪の響も、変りなく聞えていた。
悪夢から覚めたような気持ちだった。
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悪夢から醒めた気持であった。
「あなたさまは、不思議そうな顔をしておいでですね」
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「あなた様は、不思議相な顔をしておいでなさいますね」
老人は額を元の窓のところへ立てかけて席につくと、私にも向かい側へ座るように手ぶりをしながら、私の顔を見つめてこんなことを言った。
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老人は額を、元の窓の所へ立てかけて、席につくと、私にもその向う側へ坐る様に、手真似をしながら、私の顔を見つめて、こんなことを云った。
「私の頭がおかしくなっているようです。ひどく蒸しますね」
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「私の頭が、どうかしている様です。いやに蒸しますね」
私はごまかすような挨拶をした。
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私はてれ隠しみたいな挨拶をした。
すると老人は猫背になって、顔をぐっと私の方へ近寄せ、膝の上で細長い指を合図でもするようにひらひらと動かしながら、低い低いささやき声になって、
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すると老人は、猫背になって、顔をぐっと私の方へ近寄せ、膝の上で細長い指を合図でもする様に、ヘラヘラと動かしながら、低い低い囁き声になって、
「あれらは、生きていましたでしょう」
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「あれらは、生きて居りましたろう」
と言った。
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と云った。
そして、さも大事なことを打ち明けるといった調子で、いっそう猫背になって、ギラギラした目をまん丸に見開いて、私の顔を穴のあくほど見つめながら、こんなことをささやくのだった。
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そして、さも一大事を打開けるといった調子で、一層猫背になって、ギラギラした目をまん丸に見開いて、私の顔を穴のあく程見つめながら、こんなことを囁くのであった。
「あなたは、あの人たちの本当の身の上話を聞きたいとは思いませんか」
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「あなたは、あれらの、本当の身の上話を聞き度いとはおぼしめしませんかね」
私は汽車の揺れと車輪の響きのせいで、老人の低いつぶやくような声を聞き間違えたのではないかと思った。
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私は汽車の動揺と、車輪の響の為に、老人の低い、呟く様な声を、聞き間違えたのではないかと思った。
「身の上話とおっしゃいましたか」
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「身の上話とおっしゃいましたか」
「身の上話でございますよ」
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「身の上話でございますよ」
老人はやはり低い声で答えた。
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老人はやっぱり低い声で答えた。
「特に、一方の、白髪の老人の身の上話をでございますよ」
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「殊に、一方の、白髪の老人の身の上話をでございますよ」
「若いころからのですか」
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「若い時分からのですか」
私もその晩は、なぜか妙に的外れな言い方をした。
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私も、その晩は、何故か妙に調子はずれな物の云い方をした。
「はい、あの人が二十五歳のときのお話でございますよ」
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「ハイ、あれが二十五歳の時のお話でございますよ」
「ぜひうかがいたいものですね」
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「是非うかがいたいものですね」
私は、普通の生きた人間の身の上話でも催促するように、ごくなんでもないことのように老人をうながしたのだ。
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私は、普通の生きた人間の身の上話をでも催促する様に、ごく何でもないことの様に、老人をうながしたのである。
すると老人は顔のしわを嬉しそうにゆがめて、「ああ、あなたはやはり聞いてくださいますね」
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すると、老人は顔の皺を、さも嬉しそうにゆがめて、「アア、あなたは、やっぱり聞いて下さいますね」
と言いながら、さて、次のような世にも不思議な物語を始めたのだった。
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と云いながら、さて、次の様な世にも不思議な物語を始めたのであった。
「それはもう一生涯の大事件ですから、よく覚えております。明治二十八年四月の、兄があんなふうに(と言って彼は押絵の老人を指さした)なりましたのが、二十七日の夕方のことでございました。当時、私も兄も、まだ部屋住みで、住まいは日本橋通り三丁目でして、親父が呉服商を営んでおりましたがね。何でも浅草の十二階が出来て間もないころのことでございましたよ。ですから兄などは毎日のようにあの凌雲閣へ上って喜んでいたものです。と申しますのが、兄は妙に外国のものが好きで、新しがり屋でございましたからね。この遠眼鏡にしろ、やはりそれで兄が外国船の船長の持ち物だったという奴を、横浜の中国人街の変てこな道具屋の店先で見つけてきましてね。当時にしてはずいぶん高いお金を払ったと言っておりましたっけ」
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「それはもう、一生涯の大事件ですから、よく記憶して居りますが、明治二十八年の四月の、兄があんなに(と云って彼は押絵の老人を指さした)なりましたのが、二十七日の夕方のことでござりました。当時、私も兄も、まだ部屋住みで、住居は日本橋通三丁目でして、親爺が呉服商を営んで居りましたがね。何でも浅草の十二階が出来て、間もなくのことでございましたよ。だもんですから、兄なんぞは、毎日の様にあの凌雲閣へ昇って喜んでいたものです。と申しますのが、兄は妙に異国物が好きで、新しがり屋でござんしたからね。この遠眼鏡にしろ、やっぱりそれで、兄が外国船の船長の持物だったという奴を、横浜の支那人町の、変てこな道具屋の店先で、めっけて来ましてね。当時にしちゃあ、随分高いお金を払ったと申して居りましたっけ」
老人は「兄が」
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老人は「兄が」
と言うたびに、まるでそこにその人が座ってでもいるように、押絵の老人の方に目をやったり、指さしたりした。
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と云うたびに、まるでそこにその人が坐ってでもいる様に、押絵の老人の方に目をやったり、指さしたりした。
老人は彼の記憶にある本当の兄と、その押絵の白髪の老人とを混同して、押絵が生きて彼の話を聞いてでもいるような、すぐそばに第三者を意識したような話し方をした。
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老人は彼の記憶にある本当の兄と、その押絵の白髪の老人とを、混同して、押絵が生きて彼の話を聞いてでもいる様な、すぐ側に第三者を意識した様な話し方をした。
だが、不思議なことに、私はそれを少しもおかしいとは感じなかった。
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だが、不思議なことに、私はそれを少しもおかしいとは感じなかった。
私たちはその瞬間、自然の法則を超えた、私たちの世界とどこかでずれている別の世界に住んでいたらしいのだ。
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私達はその瞬間、自然の法則を超越した、我々の世界とどこかで喰違っている処の、別の世界に住んでいたらしいのである。
「あなたは十二階へお上りになったことがおありですか。ああ、おありでない。それは残念ですね。あれは一体どこの魔法使いが建てたものか、実に途方もない変てこな代物でございましたよ。表向きはイタリーの技師のバルトンという者が設計したことになっていましたがね。まあ考えてみてください。その頃の浅草公園といえば、名物がまず蜘蛛男の見世物、娘剣舞に、玉乗り、源水の独楽回しに、覗きからくりなどで、せいぜい変わったところが、お富士さまの作り物に、メーズと言って、八陣隠れ杉の見世物くらいでございましたからね。そこへあなた、にょきにょきと、まあとんでもなく高いれんが造りの塔が出来てしまったのですから、驚くじゃありませんか。高さが四十六間と申しますから、半丁の余で、八角型の頂上が唐人の帽子みたいにとがっていて、ちょっと高台へ上りさえすれば、東京中どこからでもその赤いお化けが見られたものです。
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「あなたは、十二階へ御昇りなすったことがおありですか。アア、おありなさらない。それは残念ですね。あれは一体どこの魔法使が建てましたものか、実に途方もない、変てこれんな代物でございましたよ。表面は伊太利の技師のバルトンと申すものが設計したことになっていましたがね。まあ考えて御覧なさい。その頃の浅草公園と云えば、名物が先ず蜘蛛男の見世物、娘剣舞に、玉乗り、源水の独楽廻しに、覗きからくりなどで、せいぜい変った所が、お富士さまの作り物に、メーズと云って、八陣隠れ杉の見世物位でございましたからね。そこへあなた、ニョキニョキと、まあ飛んでもない高い煉瓦造りの塔が出来ちまったんですから、驚くじゃござんせんか。高さが四十六間と申しますから、半丁の余で、八角型の頂上が、唐人の帽子みたいに、とんがっていて、ちょっと高台へ昇りさえすれば、東京中どこからでも、その赤いお化が見られたものです。
今も申す通り、明治二十八年の春、兄がこの遠眼鏡を手に入れて間もないころでした。
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今も申す通り、明治二十八年の春、兄がこの遠眼鏡を手に入れて間もない頃でした。
兄の身に変なことが起きてきました。
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兄の身に妙なことが起って参りました。
親父などは兄が気でも狂ったのじゃないかと、ひどく心配しておりましたが、私もね、お察しでしょうが、馬鹿に兄思いでしてね、兄の変てこなそぶりが心配で心配でたまらなかったものです。
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親爺なんぞ、兄め気でも違うのじゃないかって、ひどく心配して居りましたが、私もね、お察しでしょうが、馬鹿に兄思いでしてね、兄の変てこれんなそぶりが、心配で心配でたまらなかったものです。
どんな様子かと申しますと、兄はご飯もろくに食べないで、家の者とも口を利かず、家にいるときは一間に閉じこもって考え事ばかりしている。
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どんな風かと申しますと、兄はご飯もろくろくたべないで、家内の者とも口を利かず、家にいる時は一間にとじ籠って考え事ばかりしている。
体はやせ細り、顔は肺病みのように土気色で、目ばかりぎょろぎょろさせている。
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身体は痩せてしまい、顔は肺病やみの様に土気色で、目ばかりギョロギョロさせている。
もっとも普段から顔色のよい方じゃございませんでしたがね。
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尤も平常から顔色のいい方じゃあござんせんでしたがね。
それが一層青ざめて沈んでいるのですから、本当に気の毒な様子でした。
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それが一倍青ざめて、沈んでいるのですから、本当に気の毒な様でした。
その癖ね、そんなでいて毎日欠かさず、まるで勤めにでも出るように、昼から日暮れ時分まで、ふらふらとどこかへ出かけるんです。
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その癖ね、そんなでいて、毎日欠かさず、まるで勤めにでも出る様に、おひるッから、日暮れ時分まで、フラフラとどっかへ出掛けるんです。
どこへ行くのかって聞いても、ちっとも言いません。
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どこへ行くのかって、聞いて見ても、ちっとも云いません。
母親が心配して、兄の塞ぎ込んでいる理由を、手を変え品を変えて尋ねても、少しも打ち明けません。
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母親が心配して、兄のふさいでいる訳を、手を変え品を変え尋ねても、少しも打開けません。
そんなことが一月ほども続いたのですよ。
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そんなことが一月程も続いたのですよ。
あんまり心配だものですから、私はある日、兄が一体どこへ出かけるのかとそっとあとをつけました。
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あんまり心配だものだから、私はある日、兄が一体どこへ出掛るのかと、ソッとあとをつけました。
そうするように、母親が私に頼むものですからね。
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そうする様に、母親が私に頼むもんですからね。
兄はその日も、ちょうど今日のようなどんよりとした嫌な日でございましたが、昼すぎから、そのころ兄の工夫で仕立てさせた、当時としては飛びきりハイカラな黒いビロードの洋服を着ましてね、この遠眼鏡を肩から下げ、ひょろひょろと日本橋通りの馬車鉄道の方へ歩いていくのです。
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兄はその日も、丁度今日の様などんよりとした、いやな日でござんしたが、おひる過から、その頃兄の工風で仕立てさせた、当時としては飛び切りハイカラな、黒天鵞絨の洋服を着ましてね、この遠眼鏡を肩から下げ、ヒョロヒョロと、日本橋通りの、馬車鉄道の方へ歩いて行くのです。
私は兄に気づかれないようについていったわけですよ。
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私は兄に気どられぬ様に、ついて行った訳ですよ。
いいですか。
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よござんすか。
すると兄は上野行きの馬車鉄道を待ち合わせて、ひょいとそれに乗り込んでしまったのです。
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しますとね、兄は上野行きの馬車鉄道を待ち合わせて、ひょいとそれに乗り込んでしまったのです。
今の電車と違って、次の車に乗ってあとをつけるわけにはいきません。
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当今の電車と違って、次の車に乗ってあとをつけるという訳には行きません。
何しろ車台が少ないのですからね。
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何しろ車台が少のござんすからね。
私はしかたがないので、母親にもらったお小遣いをはたいて、人力車に乗りました。
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私は仕方がないので母親に貰ったお小遣いをふんぱつして、人力車に乗りました。
人力車だって、少し威勢のよい引き手なら馬車鉄道を見失わないようにあとをつけるなど、訳なかったものでございますよ。
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人力車だって、少し威勢のいい挽子なれば馬車鉄道を見失わない様に、あとをつけるなんぞ、訳なかったものでございますよ。
兄が馬車鉄道を降りると、私も人力車を降りて、また歩いてあとをつける。
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兄が馬車鉄道を降りると、私も人力車を降りて、又テクテクと跡をつける。
そうして行きついた場所が、なんと浅草の観音様じゃないですか。
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そうして、行きついた所が、なんと浅草の観音様じゃございませんか。
兄は仲見世から、お堂の前を素通りして、お堂裏の見世物小屋の間を人波をかき分けるようにして、さっき申し上げた十二階の前まで来ると、石の門をくぐってお金を払って「凌雲閣」
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兄は仲店から、お堂の前を素通りして、お堂裏の見世物小屋の間を、人波をかき分ける様にしてさっき申上げた十二階の前まで来ますと、石の門を這入って、お金を払って「凌雲閣」
という額の上がった入り口から、塔の中へ姿を消したじゃないですか。
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という額の上った入口から、塔の中へ姿を消したじゃあございませんか。
まさか兄がこんな所へ毎日毎日通っていようとは、夢にも思いませんでしたから、私はあきれてしまいましたよ。
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まさか兄がこんな所へ、毎日毎日通っていようとは、夢にも存じませんので、私はあきれてしまいましたよ。
子供心にね、私はその時まだ二十歳にもなっていませんでしたから、兄はこの十二階のお化けに取り憑かれたのじゃないかなんて、変なことを考えたものですよ。
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子供心にね、私はその時まだ二十にもなってませんでしたので、兄はこの十二階の化物に魅入られたんじゃないかなんて、変なことを考えたものですよ。
私は十二階へは、父親に連れられて一度上っただけで、その後行ったことがありませんでしたから、何だか気味が悪い感じがしましたが、兄が上っていくものですから、仕方なく私も一階ほどおくれて、あの薄暗い石の段々を上っていきました。
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私は十二階へは、父親につれられて、一度昇った切りで、その後行ったことがありませんので、何だか気味が悪い様に思いましたが、兄が昇って行くものですから、仕方がないので、私も、一階位おくれて、あの薄暗い石の段々を昇って行きました。
窓も大きくございませんし、れんがの壁が厚いですので、穴蔵のようにひんやりとしましてね。
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窓も大きくございませんし、煉瓦の壁が厚うござんすので、穴蔵の様に冷々と致しましてね。
それに日清戦争の当時ですから、その頃は珍しかった戦争の油絵が一方の壁にずっと掛け並べてあります。
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それに日清戦争の当時ですから、その頃は珍らしかった、戦争の油絵が、一方の壁にずっと懸け並べてあります。
まるで狼みたいなおそろしい顔をして吠えながら突撃している日本兵や、銃剣で脇腹を抉られ、噴き出す血を両手で押さえて、顔や唇を紫色にしてもがいている中国兵や、ちょんぎられた弁髪の頭が風船玉みたいに空高く飛び上がっているところや、なんとも言えない毒々しい血みどろの油絵が、窓からの薄暗い光線でてらてらと光っているのですよ。
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まるで狼みたいな、おっそろしい顔をして、吠えながら、突貫している日本兵や、剣つき鉄砲に脇腹をえぐられ、ふき出す血のりを両手で押さえて、顔や唇を紫色にしてもがいている支那兵や、ちょんぎられた辮髪の頭が、風船玉の様に空高く飛上っている所や、何とも云えない毒々しい、血みどろの油絵が、窓からの薄暗い光線で、テラテラと光っているのでございますよ。
その間を、陰気な石の段々がかたつむりの殻みたいに、上へ上へと際限なく続いています。
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その間を、陰気な石の段々が、蝸牛の殻みたいに、上へ上へと際限もなく続いて居ります。
本当に変てこれんな気持ちでしたよ。
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本当に変てこれんな気持ちでしたよ。
頂上は八角形の欄干だけで壁のない見晴らしの廊下になっていましてね、そこへたどり着くと、にわかにぱっと明るくなって、今までの薄暗い道中が長かっただけに、びっくりしてしまいます。
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頂上は八角形の欄干丈けで、壁のない、見晴らしの廊下になっていましてね、そこへたどりつくと、俄にパッと明るくなって、今までの薄暗い道中が長うござんしただけに、びっくりしてしまいます。
雲が手の届きそうな低い所にあって、見渡すと、東京中の屋根がごみみたいにごちゃごちゃしていて、品川のお台場が盆石のように見えています。
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雲が手の届きそうな低い所にあって、見渡すと、東京中の屋根がごみみたいに、ゴチャゴチャしていて、品川の御台場が、盆石の様に見えて居ります。
目まいがしそうなのをこらえて下をのぞくと、観音様のお堂だってずっと低い所にありますし、小屋掛けの見世物がおもちゃのようで、歩いている人間が頭と足ばかりに見えるのです。
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目まいがしそうなのを我慢して、下を覗きますと、観音様の御堂だってずっと低い所にありますし、小屋掛けの見世物が、おもちゃの様で、歩いている人間が、頭と足ばかりに見えるのです。
頂上には十人余りの見物客が一かたまりになって怖そうな顔をして、ぼそぼそと小声でささやきながら品川の海の方を眺めていましたが、兄を見ると、それとは離れた場所に一人ぼっちで、遠眼鏡を目に当てて、しきりと浅草の境内を眺め回していました。
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頂上には、十人余りの見物が一かたまりになっておっかな相な顔をして、ボソボソ小声で囁きながら、品川の海の方を眺めて居りましたが、兄はと見ると、それとは離れた場所に、一人ぼっちで、遠眼鏡を目に当てて、しきりと浅草の境内を眺め廻して居りました。
それをうしろから見ると、白っぽくどんよりとした雲ばかりの中に、兄のビロードの洋服姿がくっきりと浮かび上がって、下の方のごちゃごちゃしたものが何も見えないものですから、兄だとはわかっていましても、何だか西洋の油絵の中の人物みたいな気がして、神々しいようで、言葉をかけるのも憚られるほどでございましたっけ。
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それをうしろから見ますと、白っぽくどんよりどんよりとした雲ばかりの中に、兄の天鵞絨の洋服姿が、クッキリと浮上って、下の方のゴチャゴチャしたものが何も見えぬものですから、兄だということは分っていましても、何だか西洋の油絵の中の人物みたいな気持がして、神々しい様で、言葉をかけるのも憚られた程でございましたっけ。
でも母の言いつけを思い出しますと、そうもしていられませんので、私は兄のうしろに近づいて「兄さん何を見ていらっしゃいます」
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でも、母の云いつけを思い出しますと、そうもしていられませんので、私は兄のうしろに近づいて『兄さん何を見ていらっしゃいます』
と声をかけたのでございます。
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と声をかけたのでございます。
兄はびくっとして振り向きましたが、気まずい顔をして何も言いません。
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兄はビクッとして、振向きましたが、気拙い顔をして何も云いません。
私は「兄さんの近ごろの様子には、お父さんもお母さんも大変心配しておいでです。毎日毎日どこへお出かけなさるのかと不思議に思っておりましたら、兄さんはこんな所へいらしたのでございますね。どうかその訳を言ってください。日ごろ仲よしの私にだけでも打ち明けてください」
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私は『兄さんの此頃の御様子には、御父さんもお母さんも大変心配していらっしゃいます。毎日毎日どこへ御出掛なさるのかと不思議に思って居りましたら、兄さんはこんな所へ来ていらしったのでございますね。どうかその訳を云って下さいまし。日頃仲よしの私に丈けでも打開けて下さいまし』
と、近くに人のいないのを幸いに、その塔の上で兄を口説いたものですよ。
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と、近くに人のいないのを幸いに、その塔の上で、兄をかき口説いたものですよ。
なかなか打ち明けませんでしたが、私が繰り返し繰り返し頼むものですから、兄も根負けしたと見えまして、とうとう一ヶ月来の胸の秘密を私に話してくれました。
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仲々打開けませんでしたが、私が繰返し繰返し頼むものですから、兄も根負けをしたと見えまして、とうとう一ヶ月来の胸の秘密を私に話してくれました。
ところが、その兄の悩みの原因というものが、これがまた実に変てこな事柄だったのでございますよ。
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ところが、その兄の煩悶の原因と申すものが、これが又誠に変てこれんな事柄だったのでございますよ。
兄が申しますには、一月ばかり前に十二階へ上りまして、この遠眼鏡で観音様の境内を眺めていたとき、人込みの間に、ちらっと一人の娘の顔を見たのだそうでございます。
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兄が申しますには、一月ばかり前に、十二階へ昇りまして、この遠眼鏡で観音様の境内を眺めて居りました時、人込みの間に、チラッと、一人の娘の顔を見たのだ相でございます。
その娘が、それはもうなんとも言えない、この世のものとも思えない美しい人で、日ごろ女には全く冷淡だった兄も、その遠眼鏡の中の娘だけには、ぞっと寒気がするほど、すっかり心を乱されてしまったと申しますよ。
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その娘が、それはもう何とも云えない、この世のものとも思えない、美しい人で、日頃女には一向冷淡であった兄も、その遠眼鏡の中の娘丈けには、ゾッと寒気がした程も、すっかり心を乱されてしまったと申しますよ。
そのとき兄は、一目見ただけでびっくりして遠眼鏡をはずしてしまったものですから、もう一度見ようと思って、同じ方向を夢中になって探したそうですが、眼鏡の先がどうしてもその娘の顔に当たりません。
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その時兄は、一目見た丈けで、びっくりして、遠眼鏡をはずしてしまったものですから、もう一度見ようと思って、同じ見当を夢中になって探した相ですが、眼鏡の先が、どうしてもその娘の顔にぶっつかりません。
遠眼鏡では近くに見えても実際は遠方のことですし、大勢の人混みの中ですから、一度見えたからといって二度目に探し出せるとは限りませんからね。
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遠眼鏡では近くに見えても実際は遠方のことですし、沢山の人混みの中ですから、一度見えたからと云って、二度目に探し出せると極まったものではございませんからね。
それからというもの、兄はこの眼鏡の中の美しい娘が忘れられず、ごくごく内気な人でしたから、古風な恋わずらいをわずらい始めたのでございます。
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それからと申すもの、兄はこの眼鏡の中の美しい娘が忘れられず、極々内気なひとでしたから、古風な恋わずらいをわずらい始めたのでございます。
今の人はお笑いになるかもしれませんが、そのころの人間は実におっとりしたもので、行きずりに一目見た女を恋して、わずらいついた男なども多かった時代でございましたからね。
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今のお人はお笑いなさるかも知れませんが、その頃の人間は、誠におっとりしたものでして、行きずりに一目見た女を恋して、わずらいついた男なども多かった時代でございますからね。
言うまでもなく兄はそんなご飯もろくに食べられないような、衰えた体を引きずって、また娘が観音様の境内を通りかかることもあろうかと、悲しい空頼みから、毎日毎日、勤めのように十二階に上っては眼鏡をのぞいていたわけでございます。
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云うまでもなく、兄はそんなご飯もろくろくたべられない様な、衰えた身体を引きずって、又その娘が観音様の境内を通りかかることもあろうかと悲しい空頼みから、毎日毎日、勤めの様に、十二階に昇っては、眼鏡を覗いていた訳でございます。
恋というものは不思議なものでございますね。
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恋というものは、不思議なものでございますね。
兄は私に打ち明けてしまうと、また熱病みのように眼鏡をのぞき始めましたっけが、私は兄の気持ちにすっかり同情致しましてね、千に一つも望みのない無駄な探し物ですけれど、やめなさいと止める気も起らず、あまりのことに涙ぐんで、兄のうしろ姿をじっと眺めていたものですよ。
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兄は私に打開けてしまうと、又熱病やみの様に眼鏡を覗き始めましたっけが、私は兄の気持にすっかり同情致しましてね、千に一つも望みのない、無駄な探し物ですけれど、お止しなさいと止めだてする気も起らず、余りのことに涙ぐんで、兄のうしろ姿をじっと眺めていたものですよ。
するとそのとき……ああ、私はあの怪しくも美しかった光景を、忘れることができません。
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するとその時……ア、私はあの怪しくも美しかった光景を、忘れることが出来ません。
三十年以上も昔のことですけれど、こうして目をつむりますと、その夢のような色どりがまざまざと浮かんでくるほどでございます。
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三十年以上も昔のことですけれど、こうして眼をふさぎますと、その夢の様な色どりが、まざまざと浮んで来る程でございます。
さっきも申しました通り、兄のうしろに立っていると、見えるものは空ばかりで、もやもやとしたむら雲の中に、兄のほっそりとした洋服姿が絵のように浮かび上がって、むら雲の方が動いているのを、兄の体が宙に漂うかと見まがうほどでございました。
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さっきも申しました通り、兄のうしろに立っていますと、見えるものは、空ばかりで、モヤモヤとした、むら雲の中に、兄のほっそりとした洋服姿が、絵の様に浮上って、むら雲の方で動いているのを、兄の身体が宙に漂うかと見誤るばかりでございました。
がそこへ、突然、花火でも打ち上げたように、白っぽい大空の中を、赤や青や紫の無数の玉が先を争って、ふわりふわりと昇っていったのでございます。
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がそこへ、突然、花火でも打上げた様に、白っぽい大空の中を、赤や青や紫の無数の玉が、先を争って、フワリフワリと昇って行ったのでございます。
お話したのではわかりますまいが、本当に絵のようで、また何かの前兆のようで、私は何とも言えない怪しい気持ちになったものでした。
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お話したのでは分りますまいが、本当に絵の様で、又何かの前兆の様で、私は何とも云えない怪しい気持になったものでした。
何だろうと急いで下をのぞいてみると、どこかのはずみで風船屋がしくじって、ゴム風船を一度に空へ飛ばしたものとわかりましたが、そのころはゴム風船そのものが今よりずっと珍しかったですから、正体がわかっても、私はまだ変な気持ちがしておりましたものですよ。
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何であろうと、急いで下を覗いて見ますと、どうかしたはずみで、風船屋が粗相をして、ゴム風船を、一度に空へ飛ばしたものと分りましたが、その時分は、ゴム風船そのものが、今よりはずっと珍らしゅうござんしたから正体が分っても、私はまだ妙な気持がして居りましたものですよ。
妙なもので、それがきっかけになったわけでもありますまいが、ちょうどそのとき、兄は非常に興奮した様子で、青白い顔をぽっと赤らめ、息をはずませて私の方へやってきて、いきなり私の手を取って「さあ行こう。早く行かないと間に合わない」
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妙なもので、それがきっかけになったという訳でもありますまいが、丁度その時、兄は非常に興奮した様子で、青白い顔をぽっと赤らめ息をはずませて、私の方へやって参り、いきなり私の手をとって『さあ行こう。早く行かぬと間に合わぬ』
と言って、ぐんぐん私を引っ張るのでございます。
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と申して、グングン私を引張るのでございます。
引っ張られて塔の石段を駆け降りながら訳を尋ねると、いつかの娘さんが見つかったらしいので、青畳を敷いた広い座敷に座っていたから、これから行っても大丈夫、元の所にいると言うのでございます。
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引張られて、塔の石段をかけ降りながら、訳を尋ねますと、いつかの娘さんが見つかったらしいので、青畳を敷いた広い座敷に坐っていたから、これから行っても大丈夫元の所にいると申すのでございます。
兄が見当をつけた場所というのは、観音堂の裏手の、大きな松の木が目印で、そこに広い座敷があったと言うのですが、さて二人でそこへ行って探してみましても、松の木はちゃんとありますけれど、その近所には家らしい家もなく、まるで狐につままれたような具合なのですよ。
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兄が見当をつけた場所というのは、観音堂の裏手の、大きな松の木が目印で、そこに広い座敷があったと申すのですが、さて、二人でそこへ行って、探して見ましても、松の木はちゃんとありますけれど、その近所には、家らしい家もなく、まるで狐につままれた様な鹽梅なのですよ。
兄の気のせいだとは思いましたが、しおれ返っている様子があまりにも気の毒ですから、気休めに、そのあたりの掛け茶屋などを尋ね回ってみましたけれども、そんな娘さんの影も形もありません。
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兄の気の迷いだとは思いましたが、しおれ返っている様子が、余り気の毒だものですから、気休めに、その辺の掛茶屋などを尋ね廻って見ましたけれども、そんな娘さんの影も形もありません。
探している間に兄と離れ離れになってしまいましたが、掛け茶屋を一巡して、しばらくたって元の松の木の下へ戻ってまいりますとね、そこにはいろいろな露店に並んで一軒の覗きからくり屋が、ぴしゃんぴしゃんと鞭の音を立てて商売をしておりましたが、見ますと、その覗きの眼鏡を、兄が中腰になって一生懸命のぞいていたじゃないですか。
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探している間に、兄と分れ分れになってしまいましたが、掛茶屋を一巡して、暫くたって元の松の木の下へ戻って参りますとね、そこには色々な露店に並んで、一軒の覗きからくり屋が、ピシャンピシャンと鞭の音を立てて、商売をして居りましたが、見ますと、その覗きの眼鏡を、兄が中腰になって、一生懸命覗いていたじゃございませんか。
「兄さん何をしていらっしゃる」
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『兄さん何をしていらっしゃる』
と言って肩を叩くと、びっくりして振り向きましたが、そのときの兄の顔を私は今だに忘れることができませんよ。
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と云って、肩を叩きますと、ビックリして振向きましたが、その時の兄の顔を、私は今だに忘れることが出来ませんよ。
何と申せばよいか、夢を見ているようなとでも申しますか、顔の筋がたるんでしまって、遠くを見ている目つきになって、私に話す声さえも変にうつろに聞こえたのでございます。
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何と申せばよろしいか、夢を見ている様なとでも申しますか、顔の筋がたるんでしまって、遠い所を見ている目つきになって、私に話す声さえも、変にうつろに聞えたのでございます。
そして「お前、私たちが探していた娘さんはこの中にいるよ」
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そして、『お前、私達が探していた娘さんはこの中にいるよ』
と言うのです。
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と申すのです。
そう言われたものですから、私は急いでお金を払って、覗きの眼鏡をのぞいてみると、それは八百屋お七の覗きからくりでした。
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そう云われたものですから、私は急いでおあしを払って、覗きの眼鏡を覗いて見ますと、それは八百屋お七の覗きからくりでした。
ちょうど吉祥寺の書院で、お七が吉三にしなだれかかっている絵が出ておりました。
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丁度吉祥寺の書院で、お七が吉三にしなだれかかっている絵が出て居りました。
忘れもしません。
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忘れもしません。
からくり屋の夫婦者は、しゃがれ声を合わせて、鞭で拍子を取りながら、「膝でつっらついて、目で知らせ」
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からくり屋の夫婦者は、しわがれ声を合せて、鞭で拍子を取りながら、『膝でつっらついて、目で知らせ』
と言う文句を歌っているところでした。
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と申す文句を歌っている所でした。
ああ、あの「膝でつっらついて、目で知らせ」
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アア、あの『膝でつっらついて、目で知らせ』
という変な節回しが、耳についているようでございます。
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という変な節廻しが、耳についている様でございます。
覗き絵の人物は押絵になっておりましたが、その道の名人の作だったのでしょうね。
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覗き絵の人物は押絵になって居りましたが、その道の名人の作であったのでしょうね。
お七の顔の生き生きして綺麗だったこと。
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お七の顔の生々として綺麗であったこと。
私の目にさえ本当に生きているように見えたのですから、兄があんなことを言ったのも、全く無理はありません。
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私の目にさえ本当に生きている様に見えたのですから、兄があんなことを申したのも、全く無理はありません。
兄が言いますには「たとえこの娘さんが、作り物の押絵だとわかっても、私はどうしてもあきらめられない。悲しいことだがあきらめられない。たった一度でいい、私もあの吉三のような、押絵の中の男になって、この娘さんと話がしてみたい」
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兄が申しますには『仮令この娘さんが、拵えものの押絵だと分っても、私はどうもあきらめられない。悲しいことだがあきらめられない。たった一度でいい、私もあの吉三の様な、押絵の中の男になって、この娘さんと話がして見たい』
と言って、ぼんやりとそこに突っ立ったまま、動こうともしないのでございます。
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と云って、ぼんやりと、そこに突っ立ったまま、動こうともしないのでございます。
考えてみますと、その覗きからくりの絵が光線を取るために上の方が開けてあるので、それが斜めに十二階の頂上からも見えたものに違いありません。
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考えて見ますとその覗きからくりの絵が、光線を取る為に上の方が開けてあるので、それが斜めに十二階の頂上からも見えたものに違いありません。
そのころにはもう日が暮れかけて、人通りもまばらになり、覗きの前にも、二、三人のおかっぱの子供が未練らしく立ち去りかねて、うろうろしているだけでした。
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その時分には、もう日が暮かけて、人足もまばらになり、覗きの前にも、二三人のおかっぱの子供が、未練らしく立去り兼ねて、うろうろしているばかりでした。
昼間からどんよりと曇っていたのが、日暮れには今にも一雨来そうに雲が下りてきて、一層押しつけられるような、気でも狂うのじゃないかと思うような嫌な天気になっておりました。
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昼間からどんよりと曇っていたのが、日暮には、今にも一雨来そうに、雲が下って来て、一層圧えつけられる様な、気でも狂うのじゃないかと思う様な、いやな天候になって居りました。
そして耳の底に、どろどろと太鼓の鳴っているような音が聞こえているのですよ。
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そして、耳の底にドロドロと太鼓の鳴っている様な音が聞えているのですよ。
その中で兄は、じっと遠くの方を見据えて、いつまでもいつまでも立ちつくしておりました。
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その中で、兄は、じっと遠くの方を見据えて、いつまでもいつまでも、立ちつくして居りました。
その間が、たっぷり一時間はあったように思われます。
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その間が、たっぷり一時間はあった様に思われます。
もうすっかり暮れきって、遠くの玉乗りのガス灯がちろちろと美しく輝き出したころ、兄はきっと目が覚めたように、突然私の腕をつかんで「ああ、いいことを思いついた。お前、お願いだから、この遠眼鏡を逆さにして、大きなガラス玉の方を目に当てて、そこから私を見ておくれじゃないか」
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もうすっかり暮切って、遠くの玉乗りの花瓦斯が、チロチロと美しく輝き出した時分に、兄はハッと目が醒めた様に、突然私の腕を掴んで『アア、いいことを思いついた。お前、お頼みだから、この遠眼鏡をさかさにして、大きなガラス玉の方を目に当てて、そこから私を見ておくれでないか』
と変なことを言い出しました。
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と、変なことを云い出しました。
「なぜですか」
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『何故です』
って尋ねても「まあいいから、そうしてくれな」
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って尋ねても、『まあいいから、そうしてお呉れな』
と言って聞かないのでございます。
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と申して聞かないのでございます。
そもそも私は生まれつき眼鏡類をあまり好みませんので、遠眼鏡にしろ、顕微鏡にしろ、遠くの物が目の前へ飛びついてきたり、小さな虫けらがけだものみたいに大きくなる、お化けじみた働きが薄気味悪いのですよ。
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一体私は生れつき眼鏡類を、余り好みませんので、遠眼鏡にしろ、顕微鏡にしろ、遠い所の物が、目の前へ飛びついて来たり、小さな虫けらが、けだものみたいに大きくなる、お化じみた作用が薄気味悪いのですよ。
ですから兄の大事な遠眼鏡も、あまりのぞいたことがなく、のぞいたことが少ない分だけ、余計それが魔性の機械に思われたものです。
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で、兄の秘蔵の遠眼鏡も、余り覗いたことがなく、覗いたことが少い丈けに、余計それが魔性の器械に思われたものです。
しかも、日が暮れて人の顔もさだかに見えない、うすら淋しい観音堂の裏で、遠眼鏡を逆さにして兄をのぞくなんて、気違いじみてもいますれば、薄気味悪くもありましたが、兄がたっての頼みですから仕方なく言われた通りにしてのぞいたのですよ。
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しかも、日が暮て人顔もさだかに見えぬ、うすら淋しい観音堂の裏で、遠眼鏡をさかさにして、兄を覗くなんて、気違いじみてもいますれば、薄気味悪くもありましたが、兄がたって頼むものですから、仕方なく云われた通りにして覗いたのですよ。
逆さにのぞくのですから、二、三間向こうに立っている兄の姿が、二尺ほどに小さくなって、小さいだけにはっきりと、闇の中に浮かび出て見えるのです。
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さかさに覗くのですから、二三間向うに立っている兄の姿が、二尺位に小さくなって、小さい丈けに、ハッキリと、闇の中に浮出して見えるのです。
ほかの景色は何も映らないで、小さくなった兄の洋服姿だけが、眼鏡の真ん中に、ちんと立っているのです。
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外の景色は何も映らないで、小さくなった兄の洋服姿丈けが、眼鏡の真中に、チンと立っているのです。
それが、たぶん兄があとずさりに歩いていったのでしょう。
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それが、多分兄があとじさりに歩いて行ったのでしょう。
見る見る小さくなって、とうとう一尺ほどの、人形みたいなかわいらしい姿になってしまいました。
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見る見る小さくなって、とうとう一尺位の、人形みたいな可愛らしい姿になってしまいました。
そして、その姿がつうっと宙に浮いたかと見ると、あっと思う間に、闇の中へ溶け込んでしまったのでございます。
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そして、その姿が、ツーッと宙に浮いたかと見ると、アッと思う間に、闇の中へ溶け込んでしまったのでございます。
私は怖くなって(こんなことを申すと年甲斐もないとお思いでしょうが、そのときは本当にぞっと怖さが身にしみたものですよ)、いきなり眼鏡を離して「兄さん」
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私は怖くなって、(こんなことを申すと、年甲斐もないと思召ましょうが、その時は、本当にゾッと、怖さが身にしみたものですよ)いきなり眼鏡を離して、「兄さん」
と呼んで、兄が見えなくなった方へ走り出しました。
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と呼んで、兄の見えなくなった方へ走り出しました。
ですが、どうしたわけか、いくら探しても探しても兄の姿が見えません。
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ですが、どうした訳か、いくら探しても探しても兄の姿が見えません。
時間から考えても、遠くへ行ったはずはないのに、どこを尋ねてもわかりません。
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時間から申しても、遠くへ行った筈はないのに、どこを尋ねても分りません。
なんと、あなた、こうして私の兄は、それっきりこの世から姿を消してしまったのでございますよ……それ以来というもの、私は一層、遠眼鏡という魔性の器械を恐れるようになりました。
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なんと、あなた、こうして私の兄は、それっきり、この世から姿を消してしまったのでございますよ……それ以来というもの、私は一層遠眼鏡という魔性の器械を恐れる様になりました。
特に、どこの国の船長ともわからない異国人の持ち物だったこの遠眼鏡が特別嫌でして、ほかの眼鏡は知らず、この眼鏡だけは、どんなことがあっても逆さに見てはならない。
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殊にも、このどこの国の船長とも分らぬ、異人の持物であった遠眼鏡が、特別いやでして、外の眼鏡は知らず、この眼鏡丈けは、どんなことがあっても、さかさに見てはならぬ。
逆さにのぞけば凶事が起きると、固く信じているのでございます。
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さかさに覗けば凶事が起ると、固く信じているのでございます。
あなたがさっきこれを逆さにお持ちになったとき、私が慌ててお止めした訳がおわかりでございましょう。
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あなたがさっき、これをさかさにお持ちなすった時、私が慌ててお止め申した訳がお分りでございましょう。
ところが、長い間探し疲れて、元の覗き屋の前へ戻ってきたときでした。
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ところが、長い間探し疲れて、元の覗き屋の前へ戻って参った時でした。
私はぴんとあることに気がついたのです。
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私はハタとある事に気がついたのです。
と申しますのは、兄は押絵の娘に恋い焦がれた余り、魔性の遠眼鏡の力を借りて、自分の体を押絵の娘と同じくらいの大きさに縮めて、そっと押絵の世界へ忍び込んだのではあるまいかということでした。
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と申すのは、兄は押絵の娘に恋こがれた余り、魔性の遠眼鏡の力を借りて、自分の身体を押絵の娘と同じ位の大きさに縮めて、ソッと押絵の世界へ忍び込んだのではあるまいかということでした。
そこで私は、まだ店をかたづけないでいた覗き屋に頼みまして、吉祥寺の場面を見せてもらいましたが、なんとあなた、案の定、兄は押絵になって、カンテラの光の中で、吉三の代わりに、嬉しそうな顔をして、お七を抱きしめていたではないですか。
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そこで、私はまだ店をかたづけないでいた覗き屋に頼みまして、吉祥寺の場を見せて貰いましたが、なんとあなた、案の定、兄は押絵になって、カンテラの光りの中で、吉三の代りに、嬉し相な顔をして、お七を抱きしめていたではありませんか。
でもね、私は悲しいとは思いませんで、そうして本望を遂げた兄の幸せが、涙の出るほど嬉しかったものですよ。
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でもね、私は悲しいとは思いませんで、そうして本望を達した、兄の仕合せが、涙の出る程嬉しかったものですよ。
私はその絵をどんなに高くてもよいから必ず私に譲ってくれと覗き屋に固い約束をして(妙なことに、小姓の吉三の代わりに洋服姿の兄が座っているのを、覗き屋は少しも気がついていない様子でした)家へ飛んで帰って、一部始終を母に告げましたところ、父も母も、何を言うのだ、お前は気でも狂ったのじゃないかと言って、何と言っても取り合ってくれません。
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私はその絵をどんなに高くてもよいから、必ず私に譲ってくれと、覗き屋に固い約束をして、(妙なことに、小姓の吉三の代りに洋服姿の兄が坐っているのを、覗き屋は少しも気がつかない様子でした)家へ飛んで帰って、一伍一什を母に告げました所、父も母も、何を云うのだ。
おかしいじゃないですか。
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お前は気でも違ったのじゃないかと申して、何と云っても取上げてくれません。
おかしいじゃありませんか。
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おかしいじゃありませんか。
ははははははは」
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ハハハハハハ」
老人は、そこでいかにもおかしくてたまらないというように笑い出した。
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老人は、そこで、さもさも滑稽だと云わぬばかりに笑い出した。
そして、変なことに、私もまた老人に同感して、一緒になってげらげらと笑ったのだった。
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そして、変なことには、私も亦、老人に同感して、一緒になって、ゲラゲラと笑ったのである。
「あの人たちは、人間は押絵なんぞになるものじゃないと思い込んでいたのですよ。でも押絵になった証拠には、その後兄の姿が、ぷっつりとこの世から見えなくなってしまったじゃないですか。それをも、あの人たちは家出したのだなんぞと、まるで見当違いな当て推量をしているのですよ。おかしいですね。結局、私は何と言われても構わず、母にお金をねだって、とうとうその覗き絵を手に入れ、それを持って箱根から鎌倉の方へ旅をしました。それはね、兄に新婚旅行をさせてやりたかったからですよ。こうして汽車に乗っておりますと、そのときのことを思い出してなりません。やはり今日のように、この絵を窓に立てかけて、兄や兄の恋人に外の景色を見せてやったのですからね。兄はどんなに幸せだったでしょう。娘の方でも、兄のこれほどの真心を、どうして嫌に思いましょう。二人は本当の新婚者のように、恥ずかしそうに顔を赤らめながら、お互いの肌と肌とを触れ合って、さも仲睦まじく、尽きない睦言を語り合ったものでございますよ。
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「あの人たちは、人間は押絵なんぞになるものじゃないと思い込んでいたのですよ。でも押絵になった証拠には、その後兄の姿が、ふっつりと、この世から見えなくなってしまったじゃありませんか。それをも、あの人たちは、家出したのだなんぞと、まるで見当違いな当て推量をしているのですよ。おかしいですね。結局、私は何と云われても構わず、母にお金をねだって、とうとうその覗き絵を手に入れ、それを持って、箱根から鎌倉の方へ旅をしました。それはね、兄に新婚旅行がさせてやりたかったからですよ。こうして汽車に乗って居りますと、その時のことを思い出してなりません。やっぱり、今日の様に、この絵を窓に立てかけて、兄や兄の恋人に、外の景色を見せてやったのですからね。兄はどんなにか仕合せでございましたろう。娘の方でも、兄のこれ程の真心を、どうしていやに思いましょう。二人は本当の新婚者の様に、恥かし相に顔を赤らめながら、お互の肌と肌とを触れ合って、さもむつまじく、尽きぬ睦言を語り合ったものでございますよ。
その後、父は東京の商売をたたみ、富山近くの故郷へ引き込みましたので、それにつれて私もずっとそこに住んでおりますが、あれからもう三十年余になりますので、久しぶりに兄にも変わった東京を見せてやりたいと思いましてね、こうして兄と一緒に旅をしているわけでございますよ。
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その後、父は東京の商売をたたみ、富山近くの故郷へ引込みましたので、それにつれて、私もずっとそこに住んで居りますが、あれからもう三十年の余になりますので、久々で兄にも変った東京が見せてやり度いと思いましてね、こうして兄と一緒に旅をしている訳でございますよ。
ところが、あなた、悲しいことには、娘の方は、いくら生きているとは言え、元々人が作ったものですから、年をとるということがありません。けれど兄の方は、押絵になっても、それは無理やり形を変えただけのことで、根が寿命のある人間のことですから、私たちと同じように年をとっていきます。
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ところが、あなた、悲しいことには、娘の方は、いくら生きているとは云え、元々人の拵えたものですから、年をとるということがありませんけれど、兄の方は、押絵になっても、それは無理やりに形を変えたまでで、根が寿命のある人間のことですから、私達と同じ様に年をとって参ります。
ご覧ください、二十五歳の美しい若者だった兄が、もうあのように白髪になって、顔には醜いしわが寄ってしまいました。
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御覧下さいまし、二十五歳の美少年であった兄が、もうあの様に白髪になって、顔には醜い皺が寄ってしまいました。
兄の身にとっては、どんなに悲しいことでしょう。
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兄の身にとっては、どんなにか悲しいことでございましょう。
相手の娘はいつまでも若くて美しいのに、自分だけが醜く老いていくのですもの。
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相手の娘はいつまでも若くて美しいのに、自分ばかりが汚く老込んで行くのですもの。
恐ろしいことです。
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恐ろしいことです。
兄は悲しげな顔をしています。
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兄は悲しげな顔をして居ります。
数年前から、いつもあんな苦しそうな顔をしています。
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数年以前から、いつもあんな苦し相な顔をして居ります。
それを思うと、私は兄が気の毒でしかたがないのでございますよ」
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それを思うと、私は兄が気の毒で仕様がないのでございますよ」
老人は暗い顔で押絵の中の老人を見やっていたが、やがてふと気がついたように、
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老人は暗然として押絵の中の老人を見やっていたが、やがて、ふと気がついた様に、
「ああ、とんだ長話をしてしまいました。でも、あなたはわかってくださいましたでしょうね。ほかの人たちのように、私を気違いとはおっしゃいませんでしょうね。ああ、それで私も話しがいがあったというものですよ。さあ、兄さんたちもくたびれたでしょう。それに、あなた方を前に置いて、あんな話をしましたので、さぞかし恥ずかしがっておいでしょう。では、今休ませてあげますよ」
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「アア、飛んだ長話を致しました。併し、あなたは分って下さいましたでしょうね。外の人達の様に、私を気違いだとはおっしゃいませんでしょうね。アア、それで私も話甲斐があったと申すものですよ。どれ、兄さん達もくたびれたでしょう。それに、あなた方を前に置いて、あんな話をしましたので、さぞかし恥かしがっておいででしょう。では、今やすませて上げますよ」
と言いながら、押絵の額をそっと黒い風呂敷に包むのだった。
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と云いながら、押絵の額を、ソッと黒い風呂敷に包むのであった。
その瞬間、私の気のせいだったのか、押絵の人形たちの顔が少しくずれて、ちょっと恥ずかしそうに、唇の端で私に挨拶の微笑みを送ったように見えたのだった。
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その刹那、私の気のせいであったのか、押絵の人形達の顔が、少しくずれて、一寸恥かし相に、唇の隅で、私に挨拶の微笑を送った様に見えたのである。
老人はそれきり黙り込んでしまった。
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老人はそれきり黙り込んでしまった。
私も黙っていた。
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私も黙っていた。
汽車は相変わらず、ごとんごとんと鈍い音を立てて、闇の中を走っていた。
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汽車は相も変らず、ゴトンゴトンと鈍い音を立てて、闇の中を走っていた。
十分ほどそうしていると、車輪の音がゆっくりになって、窓の外にちらちらと二つ三つの明かりが見え、汽車はどことも知れない山間の小さな駅に止まった。
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十分ばかりそうしていると、車輪の音がのろくなって、窓の外にチラチラと、二つ三つの燈火が見え、汽車は、どことも知れぬ山間の小駅に停車した。
駅員がたった一人、ぽつりとプラットフォームに立っているのが見えた。
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駅員がたった一人、ぽっつりと、プラットフォームに立っているのが見えた。
「ではお先に。私は一晩ここの親戚へ泊まりますので」
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「ではお先へ、私は一晩ここの親戚へ泊りますので」
老人は額の包みを抱えてひょいと立ち上がり、そんな挨拶を残して車の外へ出て行ったが、窓から見ていると、細長い老人の後ろ姿は(それがなんと押絵の老人そのままの姿だったことか)簡略な柵のところで、駅員に切符を渡したかと見ると、そのまま背後の闇の中へ溶け込むように消えていったのだった。
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老人は額の包みを抱てヒョイと立上り、そんな挨拶を残して、車の外へ出て行ったが、窓から見ていると、細長い老人の後姿は(それが何と押絵の老人そのままの姿であったか)簡略な柵の所で、駅員に切符を渡したかと見ると、そのまま、背後の闇の中へ溶け込む様に消えて行ったのである。