よめる文庫

舞姫 小学生向け

森鴎外もりおうがい)・1890

AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23

石炭の積み込みはもう終わった。

原文を見る

石炭をばや積み果てつ。

船の中等室のテーブルのそばはとても静かで、電灯の明るい光も今夜はむだに輝いているだけだ。

原文を見る

中等室のつくゑのほとりはいと静にて、熾熱燈しねつとうの光の晴れがましきもいたづらなり。

毎晩ここに集まってトランプをする仲間たちはホテルに泊まっていて、

原文を見る

今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌カルタ仲間も「ホテル」

船に残っているのは私ひとりだけだから。

原文を見る

に宿りて、舟に残れるは余一人ひとりのみなれば。

五年前のことだった。かねてからの望みがかない、お上から外国へ行けという命令をいただいて、このサイゴンの港まで来た頃は、目に見るもの耳に聞くもの、何もかも目新しくて、思うままに書きつけた旅日記は毎日何千文字にもなったことだろう。それは当時の新聞にも載って、世の中の人に喜ばれたけれど、今となって思えば、子どもっぽい考え、身の程を知らないでかい口、そうでなくともありふれた動植物や景色風俗までも物珍しそうに書いたのを、分かる人はどう読んだことだろう。

原文を見る

五年前いつとせまへの事なりしが、平生ひごろの望足りて、洋行の官命をかうむり、このセイゴンの港までし頃は、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとしてあらたならぬはなく、筆に任せて書きしるしつる紀行文日ごとに幾千言をかなしけむ、当時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど、今日けふになりておもへば、をさなき思想、身のほど知らぬ放言、さらぬも尋常よのつねの動植金石、さては風俗などをさへ珍しげにしるしゝを、心ある人はいかにか見けむ。

今回は旅に出るときに日記をつけようと買ったノートがまだ白紙のままなのは、ドイツで勉強した間に「何ごとにも驚かない」という気持ちを身につけたからだろうか。

原文を見る

こたびは途に上りしとき、日記にきものせむとて買ひし冊子さつしもまだ白紙のまゝなるは、独逸ドイツにて物学びせしに、一種の「ニル、アドミラリイ」

いや、そうではない。これには別にわけがある。

原文を見る

の気象をや養ひ得たりけむ、あらず、これには別に故あり。

まったく、東へ帰る今の私は、西へ渡った昔の私とは別人だ。学問はまだ心に満足できないところが多いけれど、世の中のつらいことも知った。人の心が当てにならないのは言うまでもなく、自分自身の心さえも変わりやすいということを悟った。

原文を見る

げにひんがしかへる今の我は、西に航せし昔の我ならず、学問こそなほ心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしをも知りたり、人の心の頼みがたきは言ふも更なり、われとわが心さへ変り易きをも悟り得たり。

昨日は正しいと思ったことが今日は間違いだと思う、そんな移ろいやすい感じを書いて誰に見せようか。

原文を見る

きのふの是はけふの非なるわが瞬間の感触を、筆に写してたれにか見せむ。

それが日記を書けない理由かというと、そうではない。これには別にわけがある。

原文を見る

これや日記の成らぬ縁故なる、あらず、これには別に故あり。

ああ、ブリンディシの港を出てから、もう二十日あまりが過ぎた。

原文を見る

嗚呼あゝ、ブリンヂイシイの港をでゝより、早や二十日はつかあまりを経ぬ。

ふつうなら初めて会う乗客とも付き合いを結んで旅の寂しさを慰め合うのが船旅の習わしなのに、少し体の具合が悪いことを口実に部屋の中にこもって、同行の人々ともほとんど話をしないのは、誰も知らない心の痛みで頭を悩ませているからだ。

原文を見る

世の常ならば生面せいめんの客にさへまじはりを結びて、旅の憂さを慰めあふが航海のならひなるに、微恙びやうにことよせてへやうちにのみこもりて、同行の人々にも物言ふことの少きは、人知らぬ恨にかしらのみ悩ましたればなり。

この痛みははじめ一片の雲のように私の心をかすめて、スイスの山の景色も見えなくし、イタリアの古い遺跡にも心を向けさせず、やがては世の中がいやになり、自分の行く末が情けなくなって、腸が毎日九度もよじれるかと思うほどの激しい苦しみを私に背負わせ、今は心の奥に固まって一点の影のようになっているが、文を読むたびに、何かを見るたびに、鏡に映る影のように、声に応える響きのように、限りない懐かしい思い出を呼び起こして、何度となく私の心を苦しめる。

原文を見る

この恨は初め一抹の雲の如くわが心をかすめて、瑞西スヰスの山色をも見せず、伊太利イタリアの古蹟にも心を留めさせず、中頃は世をいとひ、身をはかなみて、はらわた日ごとに九廻すともいふべき惨痛をわれに負はせ、今は心の奥に凝り固まりて、一点のかげとのみなりたれど、ふみ読むごとに、物見るごとに、鏡に映る影、声に応ずる響の如く、限なき懐旧の情を喚び起して、幾度いくたびとなく我心を苦む。

ああ、どうすればこの痛みを消すことができるだろう。

原文を見る

嗚呼、いかにしてか此恨をせうせむ。

もしほかの悩みであれば、詩に詠んだり歌によんだりした後は気持ちがすっきりするものだ。

原文を見る

ほかの恨なりせば、詩に詠じ歌によめる後は心地こゝちすが/\しくもなりなむ。

これだけは余りにも深く私の心に刻みこまれているから、そうはなるまいと思うけれど、今夜はあたりに人もいない。部屋係が来て電灯を消すまでにはまだ時間もあるだろうから、さあ、そのあらましを文に書いてみよう。

原文を見る

これのみは余りに深く我心にりつけられたればさはあらじと思へど、今宵はあたりに人も無し、房奴ばうどの来て電気線の鍵をひねるには猶程もあるべければ、いで、その概略を文に綴りて見む。

私は幼い頃から厳しい家の教えを受けてきたかいがあって、父を早くに亡くしたけれど、学問がすたれることなく、旧藩の学校にいた日も、東京に出て予備学校に通ったときも、大学の法学部に入ってからも、太田豊太郎という名はいつも学年の一番に書かれていた。一人息子の私を頼りに世の中を渡っていく母の心は慰められたことだろう。

原文を見る

余は幼きころより厳しき庭のをしへを受けし甲斐かひに、父をば早くうしなひつれど、学問のすさみ衰ふることなく、旧藩の学館にありし日も、東京に出でゝ予備黌よびくわうに通ひしときも、大学法学部に入りし後も、太田豊太郎とよたらうといふ名はいつも一級のはじめにしるされたりしに、一人子ひとりごの我を力になして世を渡る母の心は慰みけらし。

十九歳で学士の称号を受け、大学ができてからその頃までに前例がない名誉だと人にも言われた。ある省に勤め、田舎にいた母を都に呼び迎えて、楽しい年月を三年ほど過ごした。上司からの評判もひときわよかったので、ドイツへ渡って一課の仕事を調べてこいという命令を受けた。名を立てよう、家を盛り立てようと心が勇み立って、五十を超えた母と別れることもそれほど悲しいとは思わず、はるばると家を離れてベルリンの都へやって来た。

原文を見る

十九の歳には学士の称を受けて、大学の立ちてよりその頃までにまたなき名誉なりと人にも言はれ、なにがし省に出仕して、故郷なる母を都に呼び迎へ、楽しき年を送ること三とせばかり、官長の覚えことなりしかば、洋行して一課の事務を取り調べよとの命を受け、我名を成さむも、我家を興さむも、今ぞとおもふ心の勇み立ちて、五十をえし母に別るゝをもさまで悲しとは思はず、遙々はる/″\と家を離れてベルリンの都に来ぬ。

私はぼんやりした出世への気持ちと、縛られることに慣れた頑張る力を持って、たちまちこのヨーロッパの大都市の中心に立った。

原文を見る

余は模糊もこたる功名の念と、検束に慣れたる勉強力とを持ちて、たちまちこの欧羅巴ヨオロツパの新大都の中央に立てり。

何という輝きだろう、私の目を射ようとするのは。

原文を見る

何等なんらの光彩ぞ、我目を射むとするは。

何という色彩だろう、私の心を迷わせようとするのは。

原文を見る

何等の色沢ぞ、我心を迷はさむとするは。

「菩提樹の下」と訳すと静かな場所に思えるけれど、この髪の毛のように細い並木道、ウンター・デン・リンデンに来て、両側の石畳の歩道を行き来する人々の群れを見てごらん。

原文を見る

菩提樹下と訳するときは、幽静なるさかひなるべく思はるれど、この大道かみの如きウンテル、デン、リンデンに来て両辺なる石だゝみの人道を行く隊々くみ/″\の士女を見よ。

胸を張り肩をそびやかした士官や、まだヴィルヘルム一世が街に面した窓辺にいらした頃だったので、さまざまな色に飾り立てた礼服を着た人、きれいな娘のパリ風の装いをした人、どれもこれも目を驚かせないものはない。車道のアスファルトの上を音もなく走るいろいろな馬車、雲に届くような高い建物が少し途切れたところでは、晴れた空に夕立の音を聞かせて溢れ落ちる噴水の水、遠く見ればブランデンブルク門を隔てて緑の木々が枝を交わらせる中から、空に浮かび出た凱旋塔の女神の像、このたくさんの景物が目の前に集まっているのだから、初めてここに来た者が目も回るほどであるのも当然だ。

原文を見る

胸張り肩そびえたる士官の、まだ維廉ヰルヘルム一世の街に臨めるまどり玉ふ頃なりければ、様々の色に飾り成したる礼装をなしたる、かほよ少女をとめ巴里パリーまねびのよそほひしたる、彼も此も目を驚かさぬはなきに、車道の土瀝青チヤンの上を音もせで走るいろ/\の馬車、雲に聳ゆる楼閣の少しとぎれたるところには、晴れたる空に夕立の音を聞かせてみなぎり落つる噴井ふきゐの水、遠く望めばブランデンブルク門を隔てゝ緑樹枝をさしはしたる中より、半天に浮び出でたる凱旋塔の神女の像、この許多あまたの景物目睫もくせふの間にあつまりたれば、始めてこゝにしものゝ応接にいとまなきもうべなり。

けれども私の胸には、たとえどんな場所で遊んでいても、はかない美しい景色に心を動かすまいという誓いがあって、いつも自分に迫ってくるまわりのものを遮り留めていた。

原文を見る

されど我胸にはたとひいかなる境に遊びても、あだなる美観に心をば動さじの誓ありて、つねに我を襲ふ外物をさへぎり留めたりき。

私が呼び鈴を鳴らして取り次ぎを頼み、公の紹介状を出して東の国から来た目的を告げたプロイセンの役人たちは、皆快く私を迎えてくれ、公使館からの手続きさえうまくいけば、何でも教えたり伝えたりしようと約束してくれた。

原文を見る

余が鈴索すゞなはを引き鳴らしてえつを通じ、おほやけの紹介状を出だして東来の意を告げし普魯西プロシヤの官員は、皆快く余を迎へ、公使館よりの手つゞきだに事なく済みたらましかば、何事にもあれ、教へもし伝へもせむと約しき。

嬉しかったのは、私がふるさとでドイツ語とフランス語を学んでいたことだ。

原文を見る

喜ばしきは、わが故里ふるさとにて、独逸、仏蘭西フランスの語を学びしことなり。

彼らは初めて私に会ったとき、どこでいつの間にこれほど学んだのかと必ず尋ねた。

原文を見る

彼等は始めて余を見しとき、いづくにていつの間にかくは学び得つると問はぬことなかりき。

さて公務の暇があるたびに、かねてお上の許しも得ていたので、地元の大学に入って政治学を学ぼうと、名前を名簿に書かせてもらった。

原文を見る

さて官事のいとまあるごとに、かねておほやけの許をば得たりければ、ところの大学に入りて政治学を修めむと、名を簿冊ぼさつに記させつ。

一か月、二か月と過ごすうちに、お上との打ち合わせも済んで調べ事も次第にはかどっていったので、急ぐことは報告書にまとめて送り、そうでないものは書き写してとめておき、最終的には何巻にもなっただろうか。

原文を見る

ひと月ふた月と過す程に、おほやけの打合せも済みて、取調も次第にはかどり行けば、急ぐことをば報告書に作りて送り、さらぬをば写し留めて、つひには幾巻いくまきをかなしけむ。

大学の方では、幼い心で思い描いていたような政治家になるための特別なコースなどあるはずもなく、これかあれかと心が迷いながらも、二、三の法律家の講義に出ることに決めて、受講料を払って聴きに行った。

原文を見る

大学のかたにては、穉き心に思ひ計りしが如く、政治家になるべき特科のあるべうもあらず、此か彼かと心迷ひながらも、二三の法家の講筵かうえんつらなることにおもひ定めて、謝金を収め、往きて聴きつ。

こうして三年ほどは夢のように過ぎたが、時が来れば包もうとしても包みきれないのが人の本当の好みというものだろうか。私は父の遺言を守り、母の教えに従い、人に神童だなどとほめられるのがうれしくてたゆまず学んだ時分から、上司に「よく働いてくれる」と励まされるのがうれしくてたゆみなく勤めた時まで、ただ受け身で機械のような人間になって自分では気づかなかったが、今二十五歳になって、すでに長くこの自由な大学の風に当たったせいか、心の中がなんとなく穏やかでなく、奥深くひそんでいた本当の自分がだんだん表に現れて、昨日までの自分ではない自分が今の自分を責めているようだ。

原文を見る

かくて三年みとせばかりは夢の如くにたちしが、時来れば包みても包みがたきは人の好尚なるらむ、余は父の遺言を守り、母の教に従ひ、人の神童なりなどむるが嬉しさに怠らず学びし時より、官長の善き働き手を得たりとはげますが喜ばしさにたゆみなく勤めし時まで、たゞ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当りたればにや、心の中なにとなくおだやかならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表にあらはれて、きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり。

私は自分が、今の世の中で大きく活躍できる政治家になるのにも向いていないし、法律をしっかり覚えて裁判を裁く法律家になるのにも向いていないことに気づいたと思った。

原文を見る

余は我身の今の世に雄飛すべき政治家になるにもよろしからず、また善く法典をそらんじて獄を断ずる法律家になるにもふさはしからざるを悟りたりと思ひぬ。

私はひそかに思った。私の母は私を生きた辞書にしようとし、私の上司は私を生きた法律にしようとしたのだろうか。

原文を見る

余はひそかに思ふやう、我母は余をきたる辞書となさんとし、我官長は余を活きたる法律となさんとやしけん。

辞書になることはまだ耐えられるが、法律になることは我慢できない。

原文を見る

辞書たらむは猶ほ堪ふべけれど、法律たらんは忍ぶべからず。

これまでは細かい問題にもとても丁寧に答えてきた私が、この頃から上司への手紙では、法律の細かい決まりにこだわるべきではないと繰り返し主張して、一度法の精神をつかんでしまえば、入り組んだ万事は竹を割るようにうまくいくはずだなどと大きなことを言い出した。

原文を見る

今までは瑣々さゝたる問題にも、極めて丁寧ていねいにいらへしつる余が、この頃より官長に寄する書にはしきりに法制の細目にかゝづらふべきにあらぬを論じて、一たび法の精神をだに得たらんには、紛々たる万事は破竹の如くなるべしなどゝ広言しつ。

また大学では法律の講義をよそに、歴史と文学に心を向けて、しだいに面白さが分かってきた。

原文を見る

又大学にては法科の講筵を余所よそにして、歴史文学に心を寄せ、漸くしよむ境に入りぬ。

上司はもとから思いどおりに使える機械を作ろうとしていたのだろう。

原文を見る

官長はもと心のまゝに用ゐるべき器械をこそ作らんとしたりけめ。

独立した考えを持って、人並みでない顔つきをした男を、どうして喜ぶだろうか。

原文を見る

独立の思想をいだきて、人なみならぬおももちしたる男をいかでか喜ぶべき。

私の当時の立場は危ういものだった。

原文を見る

危きは余が当時の地位なりけり。

しかしこれだけでは、まだ私の立場をひっくり返すには足りなかっただろうが、日頃ベルリンの留学生の中で、あるひとかたまりの勢力ある人々と私との間に、おもしろくない関係があって、その人たちは私を疑い、ついには私のことを嘘の告げ口までするようになった。

原文を見る

されどこれのみにては、なほ我地位をくつがへすに足らざりけんを、日比ひごろ伯林ベルリンの留学生のうちにて、或る勢力ある一群ひとむれと余との間に、面白からぬ関係ありて、彼人々は余を猜疑さいぎし、又つひに余を讒誣ざんぶするに至りぬ。

しかしこれにもわけがないわけではない。

原文を見る

されどこれとても其故なくてやは。

その人たちは私がいっしょにビールを飲まず、玉突きもしないのを、頑固な心と欲を抑える力のせいだと思って、あざけりもし、ねたみもしたのだろう。

原文を見る

彼人々は余がとも麦酒ビイルの杯をも挙げず、球突きのキユウをも取らぬを、かたくななる心と慾を制する力とに帰して、かつあざけり且はねたみたりけん。

けれどもそれは私を知らないからだ。

原文を見る

されどこは余を知らねばなり。

ああ、このわけは、私自身でさえ知らなかったのに、どうして人に分かっただろう。

原文を見る

嗚呼、此故よしは、我身だに知らざりしを、いかでか人に知らるべき。

私の心は、あのネムの木の葉に似て、何かが触れると縮んで逃げようとする。

原文を見る

わが心はかの合歓ねむといふ木の葉に似て、物さやれば縮みて避けんとす。

私の心は処女のようだ。

原文を見る

我心は処女に似たり。

私が幼い頃から年長者の教えを守って学問の道をたどってきたのも、勤めの道を歩んできたのも、みな勇気があってできたわけではなく、忍耐と勉強の力に見えたものも、みな自分をだまし、人をさえだましてきたのであって、人に歩かせてもらった道をただ一筋に歩んできただけだ。

原文を見る

余が幼き頃より長者の教を守りて、まなびの道をたどりしも、つかへの道をあゆみしも、皆な勇気ありてくしたるにあらず、耐忍勉強の力と見えしも、皆な自ら欺き、人をさへ欺きつるにて、人のたどらせたる道を、一条ひとすぢにたどりしのみ。

ほかのことに心が乱れなかったのは、外のものを捨てて顧みないほどの勇気があったのではなく、ただ外のものが怖くて自分で自分の手足を縛っていたにすぎない。

原文を見る

余所に心の乱れざりしは、外物を棄てゝ顧みぬ程の勇気ありしにあらず、たゞ外物に恐れて自らわが手足を縛せしのみ。

ふるさとを立ち出る前にも、自分が優れた人間であることを疑わず、また自分の心が十分に耐えられると深く信じていた。

原文を見る

故郷を立ちいづる前にも、我が有為の人物なることを疑はず、又我心の能く耐へんことをも深く信じたりき。

ああ、あれも一時のことだった。

原文を見る

嗚呼、彼も一時。

船が横浜を離れるまでは、立派な豪傑と思っていた私も、あふれる涙でハンカチを濡らしたのを自分ながら不思議に思ったが、それこそかえって私の本当の性分だったのだ。

原文を見る

舟の横浜を離るるまでは、天晴あつぱれ豪傑と思ひし身も、せきあへぬ涙に手巾しゆきんを濡らしつるを我れながら怪しと思ひしが、これぞなか/\に我本性なりける。

この心は生まれながらにあったのか、それとも早く父を亡くして母の手に育てられたことによって生まれたのか。

原文を見る

此心は生れながらにやありけん、又早く父を失ひて母の手に育てられしによりてや生じけん。

あの人たちがあざけるのはともかく、

原文を見る

かの人々の嘲るはさることなり。

ねたむとはおろかではないか。

原文を見る

されど嫉むはおろかならずや。

この弱く哀れな私の心を。

原文を見る

この弱くふびんなる心を。

赤く白く顔を塗り、はでな色の衣をまとい、カフェに座って客を引く女を見ても、近づく勇気がなく、高い帽子をかぶりメガネを鼻に掛けて、プロイセンでは貴族めいた鼻にかかった声で話す「やり手の遊び人」

原文を見る

赤く白くおもてを塗りて、赫然かくぜんたる色の衣をまとひ、珈琲店カツフエエに坐して客ををみなを見ては、往きてこれに就かん勇気なく、高き帽を戴き、眼鏡に鼻を挾ませて、普魯西プロシヤにては貴族めきたる鼻音にて物言ふ「レエベマン」

を見ても、近づいて一緒に遊ぶ勇気がない。

原文を見る

を見ては、往きてこれと遊ばん勇気なし。

こうした勇気がないから、あの活発な同郷の人々と付き合うすべもない。

原文を見る

此等の勇気なければ、彼活溌なる同郷の人々と交らんやうもなし。

この交際の薄さのために、その人たちは私をあざけり、私をねたむだけでなく、私を疑うことにもなった。

原文を見る

この交際のうときがために、彼人々は唯余を嘲り、余を嫉むのみならで、又余を猜疑することゝなりぬ。

これが、私が無実の罪を背負って、短い間にはかり知れない苦難を経験させられる原因となったのだ。

原文を見る

これぞ余が冤罪ゑんざいを身に負ひて、暫時の間に無量の艱難かんなんけみし尽すなかだちなりける。

ある日の夕暮れのことだった。私は動物園をぶらぶら歩いて、ウンター・デン・リンデンを通り、自分の住むモンビジュー街の宿へ帰ろうと、クロスター横丁の古い寺の前に来た。

原文を見る

或る日の夕暮なりしが、余は獣苑を漫歩して、ウンテル、デン、リンデンを過ぎ、我がモンビシユウ街の僑居けうきよに帰らんと、クロステルかうの古寺の前に来ぬ。

私はあの灯火の海を渡ってきて、この狭く薄暗い横丁に入り、二階の欄干に干してある敷布や下着などまだとり込んでいない家や、頬ひげの長いユダヤ教徒の老人が戸口に立っている居酒屋、一つの階段はまっすぐ二階に通じ、別の階段は地下に住む鍛冶屋の家につながる貸家などに向かって、凹字の形に引っ込んで建てられた、三百年前の遺跡を見るたびに、心が恍惚とし、しばらく立ち止まったことが何度あったか数えきれない。

原文を見る

余は彼の燈火ともしびの海を渡り来て、この狭く薄暗きこうぢに入り、楼上の木欄おばしまに干したる敷布、襦袢はだぎなどまだ取入れぬ人家、頬髭長き猶太ユダヤ教徒のおきな戸前こぜんたゝずみたる居酒屋、一つのはしごは直ちにたかどのに達し、他の梯はあなぐら住まひの鍛冶かぢが家に通じたる貸家などに向ひて、凹字あふじの形に引籠みて立てられたる、此三百年前の遺跡を望む毎に、心の恍惚となりて暫し佇みしこと幾度なるを知らず。

今ここを通りかかろうとしたとき、閉まっている寺の門扉に寄りかかって、声を飲みながら泣いている少女が一人いるのが見えた。

原文を見る

今この処を過ぎんとするとき、とざしたる寺門の扉に倚りて、声を呑みつゝ泣くひとりの少女をとめあるを見たり。

年は十六、七歳くらいだろう。

原文を見る

年は十六七なるべし。

かぶっている布から漏れた髪の色は薄い金色で、着ている服は垢がついて汚れているようには見えない。

原文を見る

かむりしきれを洩れたる髪の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。

私の足音に驚かされて振り向いた顔は、私に詩人の筆がないので書きようもない。

原文を見る

我足音に驚かされてかへりみたるおもて、余に詩人の筆なければこれを写すべくもあらず。

この青く清らかで、何かを問いたそうに悲しみをたたえた目が、半ば露を宿した長いまつげに覆われているのは、なぜ一目見ただけで、用心深い私の心の底まで刺さったのだろうか。

原文を見る

この青く清らにて物問ひたげにうれひを含めるまみの、半ば露を宿せる長き睫毛まつげおほはれたるは、何故に一顧したるのみにて、用心深き我心の底までは徹したるか。

彼女は思いがけない深い悲しみに出会って、前後を見る余裕もなく、ここに立って泣いているのだろう。

原文を見る

彼ははからぬ深き歎きにひて、前後を顧みるいとまなく、こゝに立ちて泣くにや。

私の臆病な心は哀れみの気持ちに打ち勝たれて、私は思わず傍に寄り、「なぜ泣いていらっしゃるのですか。ここに縁もゆかりもない外国人は、かえって力を貸しやすいこともあるでしょう」

原文を見る

わが臆病なる心は憐憫れんびんの情に打ち勝たれて、余は覚えずそばに倚り、「何故に泣き玉ふか。ところに繋累けいるゐなき外人よそびとは、かへりて力を借し易きこともあらん。」

と声をかけたが、自分ながら自分の大胆さに呆れた。

原文を見る

といひ掛けたるが、我ながらわが大胆なるにあきれたり。

彼女は驚いて私の黄色い顔をじっと見つめていたが、私の誠実な心が顔に表れたのだろうか。

原文を見る

彼は驚きてわが黄なる面を打守りしが、我が真率なる心や色にあらはれたりけん。

「あなたは善い人と見える。あの人のように酷くはないでしょう。また私の母のようにも。」

原文を見る

「君は善き人なりと見ゆ。彼の如くむごくはあらじ。た我母の如く。」

しばらく涸れていた涙の泉がまたあふれて、かわいらしい頬を流れ落ちた。

原文を見る

暫し涸れたる涙の泉は又溢れて愛らしきを流れ落つ。

「助けてください、あなた。私が恥ずかしくない人でいられるよう。母は私があの人の言葉に従わないからと、私を打ちました。父は死にました。明日は葬らなければならないのに、家に一銭の蓄えもありません。」

原文を見る

「我を救ひ玉へ、君。わが恥なき人とならんを。母はわが彼の言葉に従はねばとて、我を打ちき。父は死にたり。明日あすは葬らではかなはぬに、家に一銭のたくはへだになし。」

あとはすすり泣く声だけだった。

原文を見る

跡は欷歔ききよの声のみ。

私の目は、うつむいているこの少女の震える首筋にだけ注がれていた。

原文を見る

まなこはこのうつむきたる少女のふるうなじにのみ注がれたり。

「お宅まで送っていきましょう、まず気持ちを落ち着けてください。声を人に聞かせてはいけません。ここは往来なのですから。」

原文を見る

「君がに送り行かんに、づ心をしづめ玉へ。声をな人に聞かせ玉ひそ。こゝは往来なるに。」

彼女は話しているうちに、気づかず私の肩に寄りかかっていたが、このときふと頭を上げ、また初めて私を見たように恥じて私の傍から飛びのいた。

原文を見る

彼は物語するうちに、覚えず我肩に倚りしが、この時ふとかしらもたげ、又始てわれを見たるが如く、恥ぢて我側を飛びのきつ。

人に見られるのが恥ずかしくて、早足で行く少女の後についていくと、寺の向かい側の大きな戸を入れば、欠け損じた石の階段がある。

原文を見る

人の見るが厭はしさに、早足に行く少女の跡に附きて、寺の筋向ひなる大戸を入れば、欠け損じたる石の梯あり。

これを上って、四階目に腰をかがめてくぐらなければならないほどの戸がある。

原文を見る

これを上ぼりて、四階目に腰を折りて潜るべき程の戸あり。

少女がさびた針金の先をねじ曲げたものに手をかけて強く引いたところ、中から嗄れた老女の声で「誰じゃ」

原文を見る

少女はびたる針金の先きをぢ曲げたるに、手を掛けて強く引きしに、中には咳枯しはがれたる老媼おうなの声して、「ぞ」

と問う。

原文を見る

と問ふ。

エリスが帰ったと答える間もなく、戸を荒々しく引き開けたのは、半ば白くなった髪、悪い顔立ちではないが、貧しさの苦労の跡を額に刻んだ顔の老女で、古い毛織りの衣を着て汚れた部屋履きを履いていた。

原文を見る

エリス帰りぬと答ふる間もなく、戸をあらゝかに引開ひきあけしは、半ばしらみたる髪、しき相にはあらねど、貧苦の痕をぬかに印せし面の老媼にて、古き獣綿の衣を着、汚れたる上靴を穿きたり。

エリスが私に会釈して入るのを、彼女は待ちわびたように戸を激しく閉め切った。

原文を見る

エリスの余に会釈して入るを、かれは待ち兼ねし如く、戸をはげしくたて切りつ。

私はしばらくぼんやり立っていたが、ふとランプの光を通して戸を見ると、「エルンスト・ワイゲルト」と漆で書いてあり、その下に「仕立物師」と注してある。

原文を見る

余は暫し茫然として立ちたりしが、ふと油燈ラムプの光に透して戸を見れば、エルンスト、ワイゲルトとうるしもて書き、下に仕立物師と注したり。

これは、さっきの少女の父の名前だろう。

原文を見る

これすぎぬといふ少女が父の名なるべし。

中からは言い争うような声が聞こえていたが、また静かになって戸は再び開いた。

原文を見る

内には言ひ争ふごとき声聞えしが、又静になりて戸は再び明きぬ。

さっきの老女は丁寧に自分の無礼な振る舞いを詫びて、私を中に招き入れた。

原文を見る

さきの老媼は慇懃いんぎんにおのが無礼の振舞せしをびて、余を迎へ入れつ。

戸の内は台所で、右側の低い窓には真っ白に洗った麻布が掛けてある。

原文を見る

戸の内はくりやにて、右手めての低き窻に、真白ましろに洗ひたる麻布を懸けたり。

左側には粗末に積み上げたれんがのかまどがある。

原文を見る

左手ゆんでには粗末に積上げたる煉瓦のかまどあり。

正面の一部屋の戸が半ば開いているが、その中には白い布を覆った寝床がある。

原文を見る

正面の一室の戸は半ば開きたるが、内には白布しらぬのを掩へる臥床ふしどあり。

横たわっているのは亡くなった人だろう。

原文を見る

伏したるはなき人なるべし。

かまどの脇の戸を開けて私を案内した。

原文を見る

竈の側なる戸を開きて余を導きつ。

この部屋は屋根裏の街に面した一間で、

原文を見る

この処は所謂いはゆる「マンサルド」

天井もない。

原文を見る

の街に面したる一間ひとまなれば、天井もなし。

隅の屋根裏から窓に向かって斜めに下りている梁を紙で張った下の、立てば頭がつかえそうな所に寝床があった。

原文を見る

隅の屋根裏より窻に向ひて斜に下れるはりを、紙にて張りたる下の、立たばかしらつかふべき処に臥床あり。

真ん中のテーブルには美しい敷物が掛けてあって、上には本が一、二冊と写真帖が並べてあり、陶器の花瓶にはここには不釣り合いな値の高い花束が生けてある。

原文を見る

中央なる机には美しきかもを掛けて、上には書物一二巻と写真帖とをならべ、陶瓶たうへいにはこゝに似合はしからぬあたひ高き花束を生けたり。

その傍らに少女は恥ずかしそうに立っていた。

原文を見る

そがかたはらに少女ははぢを帯びて立てり。

彼女はとても美しかった。

原文を見る

彼はすぐれて美なり。

乳のような色の顔はランプの光に映えてほんのり赤みを帯びていた。

原文を見る

の如き色の顔は燈火に映じて微紅うすくれなゐしたり。

手足の細くしなやかなのは、貧しい家の女らしくない。

原文を見る

手足のかぼそたをやかなるは、貧家のをみなに似ず。

老女が部屋を出た後で、少女は少し訛った言葉で言う。

原文を見る

老媼のへやを出でし跡にて、少女は少しなまりたる言葉にて云ふ。

「許してください。あなたをここまで連れてきた私の軽はずみを。あなたは善い人のはずです。私のことを憎みはしないでしょう。明日に迫っているのは父の葬儀ですが、頼りにしていたシャウムベルヒ、あなたは彼をご存知ですか。彼はヴィクトリア座の座長です。彼の一座に入ってからもう二年になるので、何かあっても助けてくれると思っていたのに、人の悲しみにつけ込んで身勝手なことを言おうとするとは。助けてください、あなた。お金はわずかな給料を削ってお返しします。たとえ私自身は食べなくても。それもかなわなければ母の言葉に。」

原文を見る

「許し玉へ。君をこゝまで導きし心なさを。君は善き人なるべし。我をばよも憎み玉はじ。明日に迫るは父のはふり、たのみに思ひしシヤウムベルヒ、君は彼を知らでやおはさん。彼は「ヰクトリア」座の座頭ざがしらなり。彼が抱へとなりしより、早や二年ふたとせなれば、事なく我等を助けんと思ひしに、人の憂に附けこみて、身勝手なるいひ掛けせんとは。我を救ひ玉へ、君。金をば薄き給金をきて還し参らせん。縦令よしや我身はくらはずとも。それもならずば母の言葉に。」

彼女は涙ぐんで体を震わせた。

原文を見る

彼は涙ぐみて身をふるはせたり。

その見上げた目には、人に「いや」とは言わせない魅力があった。

原文を見る

その見上げたるまみには、人にいなとはいはせぬ媚態あり。

この目の働きは知ってやっているのか、それとも自分では知らないのか。

原文を見る

この目の働きは知りてするにや、又自らは知らぬにや。

私のポケットには二、三マルクの銀貨があるが、

原文を見る

我が隠しには二三「マルク」

それで足りるはずもないので、私は時計を外してテーブルの上に置いた。

原文を見る

の銀貨あれど、それにて足るべくもあらねば、余は時計をはづして机の上に置きぬ。

「これでしばらくの急場をしのいでください。質屋の使いがモンビジュー街三番地で太田と尋ねてきた折には代金をお渡しします。」

原文を見る

「これにて一時の急をしのぎ玉へ。質屋の使のモンビシユウ街三番地にて太田と尋ねん折には価を取らすべきに。」

少女は驚き感動したようすで、私がお別れに差し出した手を唇に当てたが、はらはらと落ちる熱い涙を私の手の甲に降り注いだ。

原文を見る

少女は驚き感ぜしさま見えて、余が辞別わかれのためにいだしたる手を唇にあてたるが、はら/\と落つる熱きなんだを我手のそびらそゝぎつ。

ああ、何という因縁だろうか。

原文を見る

嗚呼、何等の悪因ぞ。

このお礼を言いに自ら私の宿を訪ねてきた少女は、ショーペンハウアーを右に、シラーを左に、一日中座り込んで読書する私の窓の下に、一輪の名花を咲かせてしまった。

原文を見る

この恩を謝せんとて、自ら我僑居けうきよし少女は、シヨオペンハウエルを右にし、シルレルを左にして、終日ひねもす兀坐こつざする我読書の窻下さうかに、一輪の名花を咲かせてけり。

この時を始めとして、私と少女との行き来はだんだん多くなっていったので、同郷の人にも知られるようになり、彼らはすぐさま、私を舞姫たちの仲間に女あさりをしている者と決めつけた。

原文を見る

この時を始として、余と少女とのまじはり漸く繁くなりもて行きて、同郷人にさへ知られぬれば、彼等は速了そくれうにも、余をて色を舞姫の群にぎよするものとしたり。

私たちの間にはまだ無邪気な楽しみだけがあったのに。

原文を見る

われ等二人ふたりの間にはまだ痴騃ちがいなる歓楽のみ存したりしを。

名を出すのははばかられるが、同郷の人の中に事件好きな人がいて、私がたびたび芝居に出入りして女優と付き合っているということを、上司のもとに報告した。

原文を見る

その名をさんははゞかりあれど、同郷人の中に事を好む人ありて、余が屡〻しば/\芝居に出入して、女優と交るといふことを、官長のもとに報じつ。

そうでなくとも私がかなり学問の脱線をしていると知って憎んでいた上司は、ついに公使館に命令を伝えて、私の官職を免じ、役を解いた。

原文を見る

さらぬだに余がすこぶる学問の岐路きろに走るを知りて憎み思ひし官長は、遂に旨を公使館に伝へて、我官を免じ、我職を解いたり。

公使がこの命令を伝える時に私に言ったのは、もし今すぐ国に帰るなら旅費を支給するが、もし引き続きここにいるなら、公の助けは仰ぐべからずということだった。

原文を見る

公使がこの命を伝ふる時余にひしは、御身おんみ若し即時に郷に帰らば、路用を給すべけれど、若し猶こゝに在らんには、公の助をば仰ぐべからずとのことなりき。

私は一週間の猶予を請い、あれこれ思い悩む間に、私の生涯でもっとも悲痛を感じさせた二通の手紙が届いた。

原文を見る

余は一週日の猶予を請ひて、とやかうと思ひ煩ふうち、我生涯にてもつとも悲痛を覚えさせたる二通の書状に接しぬ。

この二通はほぼ同時に送られたものだったが、一通は母の自筆、一通は親戚の誰かが、母の死を、私がこの上なく慕う母の死を知らせた手紙だった。

原文を見る

この二通は殆ど同時にいだしゝものなれど、一は母の自筆、一は親族なるなにがしが、母の死を、我がまたなく慕ふ母の死を報じたるふみなりき。

私は母の手紙の言葉をここに繰り返すことに耐えられない。涙が迫り来て筆の運びを妨げるからだ。

原文を見る

余は母の書中の言をこゝに反覆するに堪へず、涙の迫り来て筆のはこびを妨ぐればなり。

私とエリスとの付き合いは、この時までは外から見るよりずっときれいなものだった。

原文を見る

余とエリスとの交際は、この時までは余所目よそめに見るより清白なりき。

彼女は父が貧しかったので十分な教育を受けられず、十五歳の時に踊りの師匠の募集に応じてこの恥ずかしい職を教えられ、課程が終わって

原文を見る

彼は父の貧きがために、充分なる教育を受けず、十五の時舞の師のつのりに応じて、この恥づかしきわざを教へられ、「クルズス」

ヴィクトリア座に出て、

原文を見る

果てゝ後、「ヰクトリア」

今は劇場の中で二番目の地位を占めている。

原文を見る

座に出でゝ、今は場中第二の地位を占めたり。

しかし詩人ハックレンデルが「現代の奴隷」と言ったように、はかないのは舞姫の身の上だ。

原文を見る

されど詩人ハツクレンデルが当世の奴隷といひし如く、はかなきは舞姫の身の上なり。

わずかな給料で縛られ、昼の稽古、夜の舞台と厳しく使われ、芝居の化粧部屋に入ってこそ化粧もでき、美しい衣もまとえるが、劇場の外では一人の衣食も足りないほどなのだから、親兄弟まで養うものはどれほど苦しいことか。

原文を見る

薄き給金にて繋がれ、昼の温習、夜の舞台ときびしく使はれ、芝居の化粧部屋に入りてこそ紅粉をも粧ひ、美しき衣をも纏へ、場外にてはひとり身の衣食も足らず勝なれば、親腹からを養ふものはその辛苦奈何いかにぞや。

それゆえ彼女たちの仲間では、最低の仕事に堕ちないのは稀だと言われている。

原文を見る

されば彼等の仲間にて、いやしき限りなる業にちぬはまれなりとぞいふなる。

エリスがそれを免れていたのは、おとなしい性質と、気丈な父の守りによるものだ。

原文を見る

エリスがこれをのがれしは、おとなしき性質と、剛気ある父の守護とに依りてなり。

彼女は幼い頃から本を読むことはさすがに好きだったが、手に入るのは安い貸本屋の小説ばかりだったのを、

原文を見る

彼は幼き時より物読むことをば流石さすがに好みしかど、手に入るは卑しき「コルポルタアジユ」

私と知り合ってから、私が貸した本を読み慣れて、しだいに趣味も分かり、言葉の訛りも直り、やがて私への手紙にも誤字が少なくなった。

原文を見る

と唱ふる貸本屋の小説のみなりしを、余と相識あひしる頃より、余が借しつる書を読みならひて、漸く趣味をも知り、言葉のなまりをも正し、いくほどもなく余に寄するふみにも誤字あやまりじ少なくなりぬ。

こうして私たち二人の間には、まず師と弟子の付き合いが生まれたのだった。

原文を見る

かゝれば余等二人の間には先づ師弟の交りを生じたるなりき。

私が突然役を免じられたと聞いたとき、彼女は青ざめた。

原文を見る

我が不時の免官を聞きしときに、彼は色を失ひつ。

私は彼女が関係していたことを隠したけれど、彼女は私に向かって母にはこれを秘めてほしいと言った。

原文を見る

余は彼が身の事に関りしを包み隠しぬれど、彼は余に向ひて母にはこれを秘め玉へと云ひぬ。

これは母が私の学費が途絶えたと知って私を遠ざけるのを恐れたからだ。

原文を見る

こは母の余が学資を失ひしを知りて余をうとんぜんを恐れてなり。

ああ、詳しくここに書くことはいらないが、私が彼女を愛する気持ちが急に強くなって、ついに離れがたい仲となったのはこの時だった。

原文を見る

嗚呼、くはしくこゝに写さんも要なけれど、余が彼をづる心のにはかに強くなりて、遂に離れ難き中となりしは此折なりき。

私の一身の大事が目の前に立ちふさがって、まことに危急存亡の時であるのに、こういう行動をしたことを不思議がり、また非難する人もあるだろうが、私がエリスを愛する気持ちは、初めて出会った時からそれほど浅くはなかったのに、今私の不運を哀れみ、また別れを悲しんで沈んだ顔に、鬢の毛が解けてかかった、その美しく、いじらしい姿が、私の悲痛感激の刺激でいつもと違う状態になった頭に刺さって、夢うつつの間にこうなってしまったのをどうしようか。

原文を見る

我一身の大事は前によこたはりて、まことに危急存亡のときなるに、このおこなひありしをあやしみ、又たそしる人もあるべけれど、余がエリスを愛する情は、始めて相見し時よりあさくはあらぬに、いま我数奇さくきを憐み、又別離を悲みて伏し沈みたる面に、びんの毛の解けてかゝりたる、その美しき、いぢらしき姿は、余が悲痛感慨の刺激によりて常ならずなりたる脳髄を射て、恍惚の間にこゝに及びしを奈何いかにせむ。

公使と約束した日も近づき、私の運命は迫ってきた。

原文を見る

公使に約せし日も近づき、我めいはせまりぬ。

このまま国に帰れば、学問も成し遂げず汚名を背負った身が浮かぶ瀬はないだろう。

原文を見る

このまゝにて郷にかへらば、学成らずして汚名を負ひたる身の浮ぶ瀬あらじ。

さりとて留まるには、学費を得る手だてがない。

原文を見る

さればとて留まらんには、学資を得べき手だてなし。

この時私を助けてくれたのが、今私の同行者のひとりである相沢謙吉だ。

原文を見る

此時余を助けしは今我同行の一人なる相沢謙吉なり。

彼は東京にいて、すでに天方伯の秘書官になっていたが、私の免職が官報に出たのを見て、ある新聞社の編集長に話を通し、私を社の通信員にして、ベルリンに留まって政治や学問・芸術のことなどを報道させることにしてくれた。

原文を見る

彼は東京に在りて、既に天方伯の秘書官たりしが、余が免官の官報に出でしを見て、某新聞紙の編輯長へんしふちやうに説きて、余を社の通信員となし、伯林ベルリンに留まりて政治学芸の事などを報道せしむることとなしつ。

社の報酬はたいしたことはないけれど、住まいをかえ、昼食に行く食堂をかえれば、ほそぼそとした暮らしは立てられるだろう。

原文を見る

社の報酬はいふに足らぬほどなれど、棲家すみかをもうつし、午餐ひるげに往く食店たべものみせをもかへたらんには、かすかなる暮しは立つべし。

あれこれ思案するうちに、誠実な気持ちを表して私に助けの手を投げかけてくれたのはエリスだった。

原文を見る

兎角とかう思案する程に、心の誠をあらはして、助の綱をわれに投げ掛けしはエリスなりき。

彼女はどうやって母を説き動かしたのか、私は彼女たち親子の家に居候することになり、エリスと私はいつからともなく、あるかなきかの収入を合わせて、つらいながらも楽しい月日を送った。

原文を見る

かれはいかに母を説き動かしけん、余は彼等親子の家に寄寓することゝなり、エリスと余とはいつよりとはなしに、有るか無きかの収入を合せて、憂きがなかにも楽しき月日を送りぬ。

朝のコーヒーが終わると、彼女は稽古に行き、そうでない日は家に残って、私はケーニヒ街の間口が狭く奥行きだけがとても長い休憩所に出かけて、あらゆる新聞を読み、鉛筆を取り出していろいろと材料を集めた。

原文を見る

朝の咖啡カツフエエ果つれば、彼は温習に往き、さらぬ日には家に留まりて、余はキヨオニヒ街の間口せまく奥行のみいと長き休息所におもむき、あらゆる新聞を読み、鉛筆取り出でゝ彼此と材料を集む。

この切り開いた引き窓から光を取り込んだ部屋で、定まった仕事のない若者、少ない金を人に貸して自分は遊んで暮らす老人、株の仕事の合間に足を休める商人などと肘を並べ、冷たい石のテーブルの上で、忙しそうにペンを走らせ、小さな女の子が持ってくる一杯のコーヒーが冷めるのも顧みず、開いた新聞を細長い板切れに差し込んで何種類も掛け並べてある壁をわきに何度も行き来する日本人を、知らない人はどのように見ただろうか。

原文を見る

このり開きたる引窻より光を取れる室にて、定りたるわざなき若人わかうど、多くもあらぬ金を人に借して己れは遊び暮す老人、取引所の業の隙をぬすみて足を休むる商人あきうどなどとひぢを並べ、冷なる石卓いしづくゑの上にて、忙はしげに筆を走らせ、小をんなが持て来る一盞ひとつきの咖啡のむるをも顧みず、明きたる新聞の細長き板ぎれに揷みたるを、幾種いくいろとなく掛けつらねたるかたへの壁に、いく度となく往来ゆききする日本人を、知らぬ人は何とか見けん。

また一時近くになる頃、稽古に行った日は帰り道に立ち寄って、私と一緒に店を出るこのひときわ身軽な、手のひらの上でも踊れそうなほどの少女を、不思議そうに見送る人もいただろう。

原文を見る

又一時近くなるほどに、温習に往きたる日には返りによぎりて、余とともに店を立出づるこの常ならず軽き、掌上しやうじやうの舞をもなしえつべき少女を、怪み見送る人もありしなるべし。

私の学問は荒れた。

原文を見る

我学問はすさみぬ。

屋根裏の一灯がかすかに燃えて、エリスが劇場から帰り、椅子に寄りかかって縫い物などする傍らのテーブルで、私は新聞の原稿を書いた。

原文を見る

屋根裏の一燈微に燃えて、エリスが劇場よりかへりて、いすに寄りて縫ものなどする側の机にて、余は新聞の原稿を書けり。

昔の法律の条文の枯れ葉を紙の上に書き並べていた頃とは違って、今は生き生きとした政界の動き、文学美術に関する新しい現象の批評などを結びあわせて、力の及ぶ限り、ブルネよりはむしろハイネを学んで思いを構え、様々な文章を書いた中でも、続けてヴィルヘルム一世とフリードリヒ三世の崩御があり、新しい皇帝の即位やビスマルク侯の進退などについては、特に詳しい報告をした。

原文を見る

昔しの法令条目の枯葉を紙上に掻寄かきよせしとは殊にて、今は活溌々たる政界の運動、文学美術に係る新現象の批評など、彼此と結びあはせて、力の及ばん限り、ビヨルネよりは寧ろハイネを学びて思を構へ、様々のふみを作りし中にも、引続きて維廉ヰルヘルム一世と仏得力フレデリツク三世との崩殂ほうそありて、新帝の即位、ビスマルク侯の進退如何いかんなどの事に就ては、ことさらにつまびらかなる報告をなしき。

それゆえこの頃からは思ったよりも忙しくなって、少ない蔵書をひもとき、元の勉強をたどることも難しくなり、大学の籍はまだ消されてはいないが、受講料を払うことが難しいので、ただ一つに絞った講義さえ聴きに行くことは稀だった。

原文を見る

さればこの頃よりは思ひしよりも忙はしくして、多くもあらぬ蔵書をひもとき、旧業をたづぬることも難く、大学の籍はまだけづられねど、謝金を収むることの難ければ、唯だ一つにしたる講筵だに往きて聴くことは稀なりき。

私の学問は荒れた。

原文を見る

我学問は荒みぬ。

しかし私は別の種類の見識を伸ばした。

原文を見る

されど余は別に一種の見識を長じき。

それはどういうことかというと、一般の人々の間に学問が広まっていることはヨーロッパ諸国の中でドイツに及ぶものはないだろう。

原文を見る

そをいかにといふに、およそ民間学の流布るふしたることは、欧洲諸国の間にて独逸にくはなからん。

何百種もの新聞雑誌に散らばっている議論にはかなり高尚なものが多いのを、私は通信員になった日から、かつて大学に多く通ったときに養った一双の眼で、読んでは読み、写しては写すうちに、今まで一本道だけを走っていた知識は、自然と広くまとめる力がついて、同郷の留学生などの大方は夢にも知らない境地に達した。

原文を見る

幾百種の新聞雑誌に散見する議論にはすこぶる高尚なるもの多きを、余は通信員となりし日より、かつて大学に繁く通ひし折、養ひ得たる一隻の眼孔もて、読みては又読み、写しては又写す程に、今まで一筋の道をのみ走りし知識は、おのづから綜括的になりて、同郷の留学生などの大かたは、夢にも知らぬ境地に到りぬ。

彼らの仲間にはドイツ語の新聞の社説さえうまく読めない者がいるのに。

原文を見る

彼等の仲間には独逸新聞の社説をだに善くはえ読まぬがあるに。

明治二十一年の冬が来た。

原文を見る

明治廿一年の冬は来にけり。

表の通りでこそ砂を蒔き、スキを振るえるが、クロスター街のあたりは凸凹しているところは見えるものの、表だけは一面に凍り、朝に戸を開ければ、飢えて凍えた雀が落ちて死んでいるのも哀れだ。

原文を見る

表街おもてまちの人道にてこそすなをもけ、すきをも揮へ、クロステル街のあたりは凸凹とつあふ坎坷かんかの処は見ゆめれど、表のみは一面に氷りて、朝に戸を開けば飢ゑこゞえし雀の落ちて死にたるも哀れなり。

部屋を温め、かまどに火をつけても、壁の石を通し、衣の綿を貫く北ヨーロッパの寒さはなかなか耐えがたかった。

原文を見る

へやを温め、竈に火を焚きつけても、壁の石を徹し、衣の綿を穿うがつ北欧羅巴の寒さは、なか/\に堪へがたかり。

エリスは二、三日前の夜、舞台で倒れたとのことで、人に助けられて帰ってきたが、それから具合が悪いといって休み、ものを食べるたびに吐くのを、つわりというものだろうと初めて気づいたのは母だった。

原文を見る

エリスは二三日前の夜、舞台にて卒倒しつとて、人にたすけられて帰り来しが、それより心地あしとて休み、もの食ふごとに吐くを、悪阻つはりといふものならんと始めて心づきしは母なりき。

ああ、そうでなくても心細い自分の行く末なのに、もし本当なら、どうしたものか。

原文を見る

嗚呼、さらぬだに覚束おぼつかなきは我身の行末なるに、若しまことなりせばいかにせまし。

今朝は日曜なので家にいるが、心は楽しくない。

原文を見る

今朝は日曜なれば家に在れど、心は楽しからず。

エリスは床に伏すほどではないが、小さな鉄の炉の傍に椅子を引き寄せて言葉少なだ。

原文を見る

エリスは床にすほどにはあらねど、ちさき鉄炉のほとりに椅子さし寄せて言葉すくなし。

このとき戸口に人の声がして、ほどなく台所にいたエリスの母が郵便の手紙を持ってきて私に渡した。

原文を見る

この時戸口に人の声して、程なく庖厨はうちゆうにありしエリスが母は、郵便の書状を持て来て余にわたしつ。

見ればよく覚えている相沢の筆跡で、郵便切手はプロイセンのもの、消印にはベルリンとある。

原文を見る

見れば見覚えある相沢が手なるに、郵便切手は普魯西プロシヤのものにて、消印には伯林ベルリンとあり。

不思議に思いながらも開けて読めば、急なことであらかじめ知らせる方法がなかったが、昨夜ここに到着された天方大臣についてわたしも来た。

原文を見る

いぶかりつゝもひらきて読めば、とみの事にてあらかじめ知らするに由なかりしが、昨夜よべこゝに着せられし天方大臣に附きてわれも来たり。

伯があなたに会いたいとおっしゃっているので早く来てください。

原文を見る

伯のなんぢを見まほしとのたまふにく来よ。

あなたの名誉を取り戻すのもこの時でしょう。

原文を見る

汝が名誉を恢復するも此時にあるべきぞ。

心ばかりが急かれて用件だけを書いてよこすとのことだ。

原文を見る

心のみ急がれて用事をのみいひるとなり。

読み終わって呆然とした顔つきを見て、エリスが言う。

原文を見る

読みをはりて茫然たる面もちを見て、エリス云ふ。

「ふるさとからの便りかい。悪い知らせではまさか。」

原文を見る

「故郷よりの文なりや。悪しき便たよりにてはよも。」

彼女はいつもの新聞社の報酬に関する手紙と思ったのだろう。

原文を見る

彼は例の新聞社の報酬に関する書状と思ひしならん。

「いや、心配しなくていいよ。あなたも名前を知っている相沢が、大臣と一緒にここに来て私を呼んでいる。急ぐというから今すぐ行かなければ。」

原文を見る

「否、心にな掛けそ。おん身も名を知る相沢が、大臣と倶にこゝに来てわれを呼ぶなり。急ぐといへば今よりこそ。」

かわいいひとり息子を送り出す母もこれほどは気を使うまい。

原文を見る

かはゆき独り子を出し遣る母もかくは心を用ゐじ。

大臣に会えるかもしれないと思ってのことだろう、エリスは病気をこらえて立ち上がり、肌着もとびきり白いのを選び、丁寧にしまっておいた二列ボタンの服を出して着せ、

原文を見る

大臣にまみえもやせんと思へばならん、エリスは病をつとめて起ち、上襦袢うはじゆばんも極めて白きを撰び、丁寧にしまひ置きし「ゲエロツク」

えり飾りまで私のために自ら結んでくれた。

原文を見る

といふ二列ぼたんの服を出して着せ、襟飾りさへ余が為めに手づから結びつ。

「これで見苦しいとは誰も言えないわ。鏡に向かってご覧なさいな。なぜそんなふきげんな顔をなさるの。私も一緒に行きたいくらいなのに。」

原文を見る

「これにて見苦しとはれも得言はじ。我鏡に向きて見玉へ。何故なにゆゑにかく不興なる面もちを見せ玉ふか。われも諸共もろともに行かまほしきを。」

少し改まった様子で。

原文を見る

少しかたちをあらためて。

「いいえ、こうして衣を替えていらっしゃるのを見ると、なんとなくいつもの私の豊太郎様には見えないわ。」

原文を見る

「否、かく衣を更め玉ふを見れば、何となくわが豊太郎の君とは見えず。」

また少し考えて。

原文を見る

又た少し考へて。

「たとえ裕福になる日が来ても、私のことを見捨てはなさらないでしょうね。私の病気は母のおっしゃるようなことではないにしても。」

原文を見る

縦令よしや富貴になり玉ふ日はありとも、われをば見棄て玉はじ。我病は母ののたまふ如くならずとも。」

「何、裕福だって。」

原文を見る

「何、富貴。」

私は微笑した。

原文を見る

余は微笑しつ。

「政治や社会界に出ようという望みを絶ってから何年も経ったのに。大臣は会いたくもない。ただ長い間会っていなかった友人に会いに行くだけだよ。」

原文を見る

「政治社会などに出でんの望みは絶ちしより幾年いくとせをか経ぬるを。大臣は見たくもなし。唯年久しく別れたりし友にこそ逢ひには行け。」

エリスの母が呼んだ一等馬車は、

原文を見る

エリスが母の呼びし一等「ドロシユケ」

車輪の下で雪道がきしる音をさせながら窓の下まで来た。

原文を見る

は、輪下にきしる雪道を窻の下まで来ぬ。

私は手袋をはめ、少し汚れた外套を背に羽織って腕は通さず、帽子を取ってエリスに接吻して二階から下りた。

原文を見る

余は手袋をはめ、少し汚れたる外套を背におほひて手をば通さず帽を取りてエリスに接吻してたかどのを下りつ。

彼女は凍った窓を開け、乱れた髪を北風に吹かせながら私が乗った車を見送った。

原文を見る

彼は凍れる窻を明け、乱れし髪を朔風さくふうに吹かせて余が乗りし車を見送りぬ。

私が車から降りたのはカイザーホフの

原文を見る

余が車を下りしは「カイゼルホオフ」

入り口だ。

原文を見る

の入口なり。

門番に秘書官相沢の部屋番号を聞いて、久しく踏み慣れていない大理石の階段を上り、中央の柱にビロードを張った

原文を見る

門者に秘書官相沢が室の番号を問ひて、久しく踏み慣れぬ大理石のはしごを登り、中央の柱に「プリユツシユ」

ソファを据え付け、

原文を見る

を被へる「ゾフア」

正面には鏡を立てた前室に入った。

原文を見る

を据ゑつけ、正面には鏡を立てたる前房に入りぬ。

外套はここで脱ぎ、廊下を伝って部屋の前まで行ったが、私は少しためらった。

原文を見る

外套をばこゝにて脱ぎ、わたどのをつたひて室の前まで往きしが、余は少し踟蹰ちちうしたり。

同じく大学にいた頃に、私の品行の正しさを激賞してくれた相沢が、今日はどんな顔をして出迎えるだろうか。

原文を見る

同じく大学に在りし日に、余が品行の方正なるを激賞したる相沢が、けふはいかなる面もちして出迎ふらん。

部屋に入って向かい合って見れば、体つきこそ以前に比べて太って逞しくなったが、相変わらず快活な気性で、私の失態もさほど気に留めていないように見えた。

原文を見る

室に入りて相対して見れば、形こそ旧に比ぶれば肥えてたくましくなりたれ、依然たる快活の気象、我失行をもさまで意に介せざりきと見ゆ。

別れてからの話を細かく語り合う間もなく、引かれていって大臣にお目にかかり、任された仕事はドイツ語で書かれた急を要する文書を翻訳せよとのことだった。

原文を見る

別後の情を細叙するにもいとまあらず、引かれて大臣に謁し、委托せられしは独逸語にて記せる文書の急を要するを飜訳せよとの事なり。

私が文書を受け取って大臣の部屋を出たとき、相沢は後から来て私と昼食を共にしようと言った。

原文を見る

余が文書を受領して大臣の室を出でし時、相沢は跡より来て余と午餐ひるげを共にせんといひぬ。

食卓では彼が多く尋ね、私が多く答えた。

原文を見る

食卓にては彼多く問ひて、我多く答へき。

彼の人生はおおむね順調だったのに、ぐあいが悪く運に見放されているのは私の身の上だったからだ。

原文を見る

彼が生路はおほむね平滑なりしに、轗軻かんか数奇さくきなるは我身の上なりければなり。

私が胸の内を打ち明けて話した不幸な経歴を聞いて、彼は何度も驚いたが、なかなか私を責めようとはせず、かえってほかの平凡な留学生仲間を罵った。

原文を見る

余が胸臆を開いて物語りし不幸なる閲歴を聞きて、かれは屡〻驚きしが、なか/\に余をめんとはせず、却りて他の凡庸なる諸生輩を罵りき。

しかし話が終わったとき、彼は顔つきを改めて諭すように言った。この一点のことは、もとから生まれついての弱い心から出たことなので、今更言っても仕方がない。

原文を見る

されど物語のをはりしとき、彼は色を正していさむるやう、この一段のことはと生れながらなる弱き心より出でしなれば、今更に言はんも甲斐なし。

とはいえ、学識があり才能があるものが、いつまでも一人の少女の情に絡まりついて、目的のない暮らしをするべきか。

原文を見る

とはいへ、学識あり、才能あるものが、いつまでか一少女の情にかゝづらひて、目的なき生活なりはひをなすべき。

今は天方伯もただドイツ語を利用しようという気持ちだけだ。

原文を見る

今は天方伯も唯だ独逸語を利用せんの心のみなり。

自分も伯が当時あなたを免職した理由を知っているから、無理にその気持ちを動かそうとはしない。伯の心の中でひいき者だと思われるのは、友人には得にならず、自分に損があるからだ。

原文を見る

おのれもまた伯が当時の免官の理由を知れるが故に、しひて其成心を動かさんとはせず、伯が心中にて曲庇者きよくひものなりなんど思はれんは、朋友に利なく、おのれに損あればなり。

人を推薦するにはまずその能力を示すのが一番だ。

原文を見る

人をすゝむるは先づ其能を示すにかず。

これを見せて伯の信用を得なさい。

原文を見る

これを示して伯の信用を求めよ。

またあの少女との関係は、たとえ彼女に誠実さがあっても、たとえ情が深くなっていても、あなたの人物を見て惚れたわけではなく、習慣というある種の惰性から生まれた付き合いだ。

原文を見る

又彼少女との関係は、縦令彼に誠ありとも、縦令情交は深くなりぬとも、人材を知りてのこひにあらず、慣習といふ一種の惰性より生じたる交なり。

意を決して断ちなさい。

原文を見る

意を決して断てと。

これがその言葉のおおむねだった。

原文を見る

れそのことのおほむねなりき。

大海で舵を失った船乗りが、遠くの山を望むようなのが、相沢が私に示した前途の方針だった。

原文を見る

大洋にかぢを失ひしふな人が、はるかなる山を望む如きは、相沢が余に示したる前途の方鍼はうしんなり。

しかしこの山はまだ深い霧の中にあって、いつたどり着けるか、いや、果たしてたどり着いたとしても、私の心に満足を与えるかどうかも定かではない。

原文を見る

されどこの山は猶ほ重霧の間に在りて、いつ往きつかんも、否、果して往きつきぬとも、我中心に満足を与へんも定かならず。

貧しい中にも楽しいのは今の暮らし、捨てがたいのはエリスの愛情。

原文を見る

貧きが中にも楽しきは今の生活なりはひ、棄て難きはエリスが愛。

私の弱い心には思い定めるすべがなかったが、しばらく友の言葉に従って、この情の縁を断とうと約束した。

原文を見る

わが弱き心には思ひ定めんよしなかりしが、しばらく友のことに従ひて、この情縁を断たんと約しき。

私は守るものを失うまいと思って、自分に敵するものには抵抗するが、友に対して「いや」とは言えないのがいつものことだった。

原文を見る

余は守る所を失はじと思ひて、おのれに敵するものには抗抵すれども、友に対して否とはえこたへぬが常なり。

別れて外に出ると、風が顔を打った。

原文を見る

別れて出づれば風おもててり。

二重のガラス窓をしっかり閉め、大きな陶器の炉に火を焚いたホテルの

原文を見る

二重ふたへ玻璃ガラス窻を緊しく鎖して、大いなる陶炉に火を焚きたる「ホテル」

食堂を出てきたのだから、薄い外套を通す午後四時の寒さはことさら耐えがたく、肌が粟立つと同時に、私は心の中に一種の寒さを覚えた。

原文を見る

の食堂を出でしなれば、薄き外套を透る午後四時の寒さは殊さらに堪へ難く、はだへ粟立あはだつと共に、余は心の中に一種の寒さを覚えき。

翻訳は一夜でやり遂げた。

原文を見る

飜訳は一夜になし果てつ。

カイザーホフへ

原文を見る

「カイゼルホオフ」

通うことはこれよりだんだん多くなっていく中で、初めは伯のお言葉も用件だけだったが、後には近頃故郷であったことなどを取り上げて私の意見を問い、折に触れては道中で人々が失敗したことなどをおっしゃってにこやかに笑われた。

原文を見る

へ通ふことはこれより漸く繁くなりもて行く程に、初めは伯の言葉も用事のみなりしが、後には近比ちかごろ故郷にてありしことなどを挙げて余が意見を問ひ、折に触れては道中にて人々の失錯ありしことどもを告げて打笑ひ玉ひき。

一か月ほど過ぎて、ある日伯は突然私に向かって、「私は明日ロシアに向かって出発する。一緒に来るか」

原文を見る

一月ばかり過ぎて、或る日伯は突然われに向ひて、「余は明旦あす魯西亜ロシアに向ひて出発すべし。したがひてべきか、」

と問うた。

原文を見る

と問ふ。

私は数日間、あの公務に暇のない相沢に会っていなかったので、この問いは不意に私を驚かせた。

原文を見る

余は数日間、かの公務に遑なき相沢を見ざりしかば、此問は不意に余を驚かしつ。

「どうして命に従わないでおれましょう。」

原文を見る

「いかで命に従はざらむ。」

私は自分の恥を白状しよう。

原文を見る

余は我恥を表はさん。

この答えはいち早く決断して言ったわけではない。

原文を見る

此答はいち早く決断して言ひしにあらず。

私は自分が信じて頼りにする気持ちを持った人に、突然ものを問われたときは、とっさの間にその答えの範囲をよく測らず、すぐに承諾することがある。

原文を見る

余はおのれが信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたるときは、咄嗟とつさかん、その答の範囲を善くも量らず、直ちにうべなふことあり。

そして承諾してしまってから、それがしにくいことに気づいても、無理に当時の心が空虚だったのを隠し、耐え忍んでこれを実行することがたびたびある。

原文を見る

さてうべなひし上にて、そのし難きに心づきても、しひて当時の心虚なりしを掩ひ隠し、耐忍してこれを実行すること屡々なり。

この日は翻訳の代わりに、旅費まで添えていただいたのを持ち帰り、翻訳の代金はエリスに預けた。

原文を見る

此日は飜訳のしろに、旅費さへ添へてたまはりしを持て帰りて、飜訳の代をばエリスに預けつ。

これでロシアから帰るまでの費用はまかなえるだろう。

原文を見る

これにて魯西亜より帰り来んまでのつひえをば支へつべし。

彼女は医者に見てもらったところ、普通の状態ではないと言う。

原文を見る

彼は医者に見せしに常ならぬ身なりといふ。

貧血の体質だったので、何か月も気づかなかったのだろう。

原文を見る

貧血のさがなりしゆゑ、幾月か心づかでありけん。

座長からは休みがあまりに長くなったので籍を除くと言ってよこした。

原文を見る

座頭よりは休むことのあまりに久しければ籍を除きぬと言ひおこせつ。

まだ一か月ほどなのに、こんなに厳しいのはわけがあるのだろう。

原文を見る

まだ一月ばかりなるに、かく厳しきは故あればなるべし。

旅立ちのことにはひどく心を悩ましているようには見えない。

原文を見る

旅立の事にはいたく心を悩ますとも見えず。

偽りのない私の心を厚く信じているから。

原文を見る

偽りなき我心を厚く信じたれば。

鉄道ではそれほど遠い旅でもないので、準備とてもない。

原文を見る

鉄路にては遠くもあらぬ旅なれば、用意とてもなし。

体に合わせて借りた黒い礼服、新しく買い求めたゴタ版のロシア貴族譜、二、三種の辞書などを小さなカバンに

原文を見る

身に合せて借りたる黒き礼服、新に買求めたるゴタ板の魯廷ろていの貴族譜、二三種の辞書などを、小「カバン」

入れただけ。

原文を見る

に入れたるのみ。

さすがに心細いことばかり多い今この頃なので、出て行った後に残るのも気が重く、また停車場で涙でもこぼしたりしたら後ろめたいから、翌朝早くエリスを母につけて知人の所に出しやった。

原文を見る

流石に心細きことのみ多きこの程なれば、出で行く跡に残らんも物憂かるべく、又停車場にて涙こぼしなどしたらんには影護うしろめたかるべければとて、翌朝早くエリスをば母につけて知る人がりいだしやりつ。

私は旅支度を整えて戸を閉め、鍵は入り口に住む靴屋の主人に預けて出た。

原文を見る

余は旅装整へて戸を鎖し、鍵をば入口に住む靴屋の主人に預けて出でぬ。

ロシア行きについては、何を語ればよいだろうか。

原文を見る

魯国行につきては、何事をか叙すべき。

通訳としての仕事はたちまちに私を引き連れ去って、青雲の上に投げ込んだ。

原文を見る

わが舌人ぜつじんたる任務つとめ忽地たちまちに余をらつし去りて、青雲の上におとしたり。

私が大臣の一行に従ってサンクトペテルブルクにいた間に、私を取り囲んでいたのは、パリの最高の豪華さを氷雪の中に移したような宮城の装飾、わざわざ黄色い蝋燭をいくつも灯した中に、幾つもの勲章、幾つものエポレット(肩章)が反射する光、

原文を見る

余が大臣の一行に随ひて、ペエテルブルクに在りし間に余を囲繞ゐねうせしは、巴里絶頂の驕奢けうしやを、氷雪のうちに移したる王城の粧飾さうしよくことさらに黄蝋わうらふしよくを幾つ共なくともしたるに、幾星の勲章、幾枝の「エポレツト」

精巧な細工を尽したマントルピースの

原文を見る

が映射する光、彫鏤てうるたくみを尽したる「カミン」

火に寒さを忘れて使う宮廷女官の扇の閃きなどであって、この間フランス語をもっとも滑らかに使えるのは私だったので、客と主人の間を取り持って事を処理するのも多くは私だった。

原文を見る

の火に寒さを忘れて使ふ宮女の扇の閃きなどにて、この間仏蘭西語を最も円滑に使ふものはわれなるがゆゑに、賓主の間に周旋して事を弁ずるものもまた多くは余なりき。

この間私はエリスを忘れなかった。いや、彼女は毎日手紙を送ってきたから忘れられなかった。

原文を見る

この間余はエリスを忘れざりき、否、彼は日毎にふみを寄せしかばえ忘れざりき。

私が立った日には、いつになく一人で灯火に向かうことの心憂さに、知人の所で夜になるまで話をして、疲れるのを待って家に帰り、そのまま眠った。

原文を見る

余が立ちし日には、いつになく独りにて燈火に向はん事の心憂さに、知る人のもとにて夜に入るまでもの語りし、疲るゝを待ちて家に還り、直ちにいねつ。

次の朝目覚めたとき、まだ一人で後に残ったことを夢ではないかと思った。

原文を見る

次のあした目醒めし時は、猶独り跡に残りしことを夢にはあらずやと思ひぬ。

起き出したときの心細さ、こんな気持ちは、生活に苦んで今日の食べ物もなかった折にも感じなかった。

原文を見る

起き出でし時の心細さ、かゝる思ひをば、生計たつきに苦みて、けふの日の食なかりし折にもせざりき。

これが彼女の最初の手紙のあらましだ。

原文を見る

これ彼が第一の書のあらましなり。

また時を経てからの手紙はかなり思い詰めて書いたようだった。

原文を見る

又程経てのふみは頗る思ひせまりて書きたる如くなりき。

文を「いや」という字で起こしていた。

原文を見る

文をば否といふ字にて起したり。

いや、あなたを思う気持ちの深い底をこそ今知ったのです。

原文を見る

否、君を思ふ心の深きそこひをば今ぞ知りぬる。

あなたはふるさとに頼りになる身内がないとおっしゃったから、ここに良い暮らしの手立てがあれば、留まらないことがあるでしょうか。

原文を見る

君は故里ふるさとに頼もしきやからなしとのたまへば、此地に善き世渡のたつきあらば、留り玉はぬことやはある。

また私の愛でつなぎ留めずにはおかないわ。

原文を見る

又我愛もて繋ぎ留めではまじ。

それもかなわずに東へお帰りになるのなら、母と共に行くのは簡単だけど、あれほど多い旅費をどこから得るのでしょう。

原文を見る

それもかなはでひんがしに還り玉はんとならば、親と共に往かんは易けれど、か程に多き路用を何処いづくよりか得ん。

どんな仕事をしてもここに留まって、あなたが世に出られる日をこそ待とうといつもは思っていたが、しばらくの旅とておって出られてからこの二十日ほど、別れの思いは日ごとに募るばかりです。

原文を見る

いかなる業をなしても此地に留りて、君が世に出で玉はん日をこそ待ためと常には思ひしが、暫しの旅とて立出で玉ひしより此二十日ばかり、別離の思は日にけに茂りゆくのみ。

袂を分かつのはただ一瞬の苦しみだと思っていたのは迷いでした。

原文を見る

たもとを分つはたゞ一瞬の苦艱くげんなりと思ひしは迷なりけり。

私の体が普通でないことがだんだんはっきりしてきた。そのことさえあるのに、たとえどんなことがあっても、決して私を捨てないでください。

原文を見る

我身の常ならぬが漸くにしるくなれる、それさへあるに、縦令よしやいかなることありとも、我をばゆめな棄て玉ひそ。

母とはひどく言い争った。

原文を見る

母とはいたく争ひぬ。

けれど私が今までの頃とは違って気持ちを定めたのを見て、母は折れた。

原文を見る

されど我身の過ぎし頃には似で思ひ定めたるを見て心折れぬ。

私が東へ行く日には、シュテッティン付近の農家に遠い縁者がいるので、そこに身を寄せようと言っている。

原文を見る

わがひんがしに往かん日には、ステツチンわたりの農家に、遠き縁者あるに、身を寄せんとぞいふなる。

お書き送りくださったように、大臣にしっかり使っていただければ、私の旅費は何とかなるでしょう。

原文を見る

書きおくり玉ひし如く、大臣の君に重く用ゐられ玉はゞ、我路用の金は兎も角もなりなん。

今はただあなたがベルリンにお帰りになる日を待つばかりです。

原文を見る

今は只管ひたすら君がベルリンにかへり玉はん日を待つのみ。

ああ、私はこの手紙を見て初めて自分の立場をはっきりと見ることができた。

原文を見る

嗚呼、余は此書を見て始めて我地位を明視し得たり。

恥ずかしいのは私の鈍い心だ。

原文を見る

恥かしきはわがにぶき心なり。

私は自分一人の身の進退についても、また自分に関係のない他人のことについても、決断力があると自分の心に誇っていたが、この決断力は順境のみにあって、逆境にはなかった。

原文を見る

余は我身一つの進退につきても、また我身に係らぬ他人ひとの事につきても、決断ありと自ら心に誇りしが、此決断は順境にのみありて、逆境にはあらず。

自分と人との関係を照らそうとするときは、頼みにしていた胸の中の鏡は曇っていたのだ。

原文を見る

我と人との関係を照さんとするときは、頼みし胸中の鏡は曇りたり。

大臣はすでに私に厚くしてくださっていた。

原文を見る

大臣は既に我に厚し。

しかし私の近視眼は自分が果たした職分だけを見ていた。

原文を見る

されどわが近眼は唯だおのれが尽したる職分をのみ見き。

私はこれに未来の望みを繋ぐことには、神も知るだろうが、全く思い至らなかった。

原文を見る

余はこれに未来の望を繋ぐことには、神も知るらむ、絶えておもひ到らざりき。

しかし今ここで気づいて、私の心はそれでも冷静だっただろうか。

原文を見る

されど今こゝに心づきて、我心は猶ほ冷然たりし

先に友が勧めたときは、大臣の信用は手の届かない所にいる鳥のようだったが、今はようやくこれを得たかと思われるのに、相沢がこの頃の言葉の端に、本国に帰った後も一緒にいるならばという云々と言ったのは、大臣がそうおっしゃったのを、友としても公のことなので明には告げなかったのではないか。

原文を見る

先に友の勧めしときは、大臣の信用は屋上のとりの如くなりしが、今は稍〻やゝこれを得たるかと思はるゝに、相沢がこの頃の言葉の端に、本国に帰りて後も倶にかくてあらば云々しか/″\といひしは、大臣のかくのたまひしを、友ながらも公事なれば明には告げざりし歟。

今になって思えば、私が軽々しくも彼に向かってエリスとの関係を断つと言ったのを、早くも大臣に告げていたのではないか。

原文を見る

今更おもへば、余が軽卒にも彼に向ひてエリスとの関係を絶たんといひしを、早く大臣に告げやしけん。

ああ、ドイツに来た最初に、自ら本当の自分に気づいたと思って、もう機械的な人間にはなるまいと誓ったが、これは足を縛られたまま放たれた鳥がしばらく羽を動かして自由を得たと誇ったのとどこが違うか。

原文を見る

嗚呼、独逸に来し初に、自ら我本領を悟りきと思ひて、また器械的人物とはならじと誓ひしが、こは足を縛して放たれし鳥の暫し羽を動かして自由を得たりと誇りしにはあらずや。

足の糸を解く方法はない。

原文を見る

足の糸は解くに由なし。

先にこれを操っていたのは私が仕えた某省の上司で、今はこの糸が、ああ哀れなことに、天方伯の手の中にある。

原文を見る

さきにこれをあやつりしは、わがなにがし省の官長にて、今はこの糸、あなあはれ、天方伯の手中に在り。

私が大臣の一行と共にベルリンに帰ったのは、ちょうど新年の元旦のことだった。

原文を見る

余が大臣の一行と倶にベルリンに帰りしは、あたかも是れ新年のあしたなりき。

停車場で別れを告げて、自分の家を目指して馬車を走らせた。

原文を見る

停車場に別を告げて、我家をさして車をりつ。

ここでは今も大みそかの夜は眠らず、元旦に眠るのが習わしなので、万の家が静まり返っている。

原文を見る

こゝにては今も除夜に眠らず、元旦に眠るが習なれば、万戸寂然たり。

寒さは強く、道の雪は角のある氷の破片となって、晴れた日に映えてきらきらと輝いた。

原文を見る

寒さは強く、路上の雪は稜角ある氷片となりて、晴れたる日に映じ、きら/\と輝けり。

馬車はクロスター街に曲がって、家の入り口に止まった。

原文を見る

車はクロステル街に曲りて、家の入口にとゞまりぬ。

このとき窓を開ける音がしたが、車からは見えない。

原文を見る

この時窓を開く音せしが、車よりは見えず。

馭者に「カバン」を

原文を見る

馭丁ぎよていに「カバン」

持たせて階段を上ろうとするところへ、エリスが階段を駆け下りてきて出くわした。

原文を見る

持たせて梯を登らんとする程に、エリスの梯を駈け下るに逢ひぬ。

彼女が一声叫んで私の首を抱いたのを見て、馭者は呆れた顔で何やら髭の中でつぶやいたが聞こえなかった。

原文を見る

彼が一声叫びて我うなじを抱きしを見て馭丁は呆れたる面もちにて、何やらむひげの内にて云ひしが聞えず。

「よくぞお帰りくださった。お帰りにならなければ私の命は絶えたでしょうに。」

原文を見る

「善くぞ帰り来玉ひし。帰り来玉はずば我命は絶えなんを。」

私の心はこの時までも定まらず、ふるさとを思う気持ちと出世を求める心とは、時として愛情を圧えようとしていたが、ただこの一瞬、ためらいの思いは去って、私は彼女を抱き、彼女の頭は私の肩に寄りかかり、彼女の喜びの涙がはらはらと肩の上に落ちた。

原文を見る

我心はこの時までも定まらず、故郷をおもふ念と栄達を求むる心とは、時として愛情を圧せんとせしが、唯だ此一刹那せつな低徊踟蹰ていくわいちちうの思は去りて、余は彼を抱き、彼のかしらは我肩に倚りて、彼が喜びの涙ははら/\と肩の上に落ちぬ。

「何階まで持って行けばいいか。」

原文を見る

「幾階か持ちて行くべき。」

とドラのように叫んだ馭者は、いち早く上って階段の上に立っていた。

原文を見る

どらの如く叫びし馭丁は、いち早く登りて梯の上に立てり。

戸口に出迎えたエリスの母に、馭者をねぎらって銀貨を渡して、私は手を取って引くエリスに伴われ、急いで部屋に入った。

原文を見る

戸の外に出迎へしエリスが母に、馭丁をねぎらひ玉へと銀貨をわたして、余は手を取りて引くエリスに伴はれ、急ぎて室に入りぬ。

一目見て私は驚いた。テーブルの上には白い木綿、白いレース

原文を見る

一瞥いちべつして余は驚きぬ、机の上には白き木綿、白き「レエス」

などを高く積み上げてあったから。

原文を見る

などをうづたかく積み上げたれば。

エリスは微笑みながらこれを指さして、「どうご覧になる、この準備を。」

原文を見る

エリスは打笑うちゑみつゝこれをゆびさして、「何とか見玉ふ、この心がまへを。」

と言いながら一枚の木綿切れを取り上げるのを見れば、おむつだった。

原文を見る

といひつゝ一つの木綿ぎれを取上ぐるを見れば襁褓むつきなりき。

「私の心の嬉しさを思ってみてください。生まれてくる子はあなたに似て黒い瞳を持つでしょうか。この瞳。ああ、夢にだけ見ていたのはあなたの黒い瞳です。生まれた日にはあなたの正しい心で、まさか違う名前をつけさせはしないでしょう。」

原文を見る

「わが心の楽しさを思ひ玉へ。産れん子は君に似て黒き瞳子ひとみをや持ちたらん。この瞳子。嗚呼、夢にのみ見しは君が黒き瞳子なり。産れたらん日には君が正しき心にて、よもあだし名をばなのらせ玉はじ。」

彼女は頭を垂れた。

原文を見る

彼は頭を垂れたり。

「子どもっぽいと笑われるかもしれないけど、寺に入る日はどれほど嬉しいことでしょう。」

原文を見る

をさなしと笑ひ玉はんが、寺に入らん日はいかに嬉しからまし。」

見上げた目には涙が満ちていた。

原文を見る

見上げたる目には涙満ちたり。

二、三日の間は大臣のところにも、旅の疲れがおありだろうとあえて訪ねず、家にだけこもっていたが、ある日の夕暮れに使いを通じて招かれた。

原文を見る

二三日の間は大臣をも、たびの疲れやおはさんとてあへとぶらはず、家にのみ籠りをりしが、或る日の夕暮使して招かれぬ。

行って見れば待遇がことのほか丁重で、ロシア行きの労をねぎらい慰めた後で、一緒に東に帰る気はないか、君の学問は私には測り知れないが、語学だけで世の用には足りよう、滞在が余りに長くなったので、さまざまな係累(しがらみ)もあるだろうと相沢に聞いたところ、そういうことはないと聞いて落ち着いたとおっしゃる。

原文を見る

往きて見れば待遇殊にめでたく、魯西亜行の労を問ひ慰めて後、われと共に東にかへる心なきか、君が学問こそわが測り知る所ならね、語学のみにて世の用には足りなむ、滞留の余りに久しければ、様々の係累もやあらんと、相沢に問ひしに、さることなしと聞きて落居おちゐたりと宣ふ。

そのご様子は断れそうもなかった。

原文を見る

其気色いなむべくもあらず。

あっと思ったが、さすがに相沢の言葉が嘘だとも言いにくく、もしこの手にすがらなければ、本国をも失い、名誉を取り戻す道も絶ち、身はこの広大なヨーロッパの大都市の人の海に葬られるかと思う念が、心の頭をつきあげてきた。

原文を見る

あなやと思ひしが、流石に相沢のことを偽なりともいひ難きに、若しこの手にしもすがらずば、本国をも失ひ、名誉をきかへさん道をも絶ち、身はこの広漠たる欧洲大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭をいて起れり。

ああ、なんと節操のない心だろうか。「かしこまりました」

原文を見る

嗚呼、何等の特操なき心ぞ、「うけたまはりはべり」

とお答えしたのは。

原文を見る

こたへたるは。

鉄の額を持っていたとしても、帰ってエリスに何と言えばいいのか。

原文を見る

黒がねのぬかはありとも、帰りてエリスに何とかいはん。

ホテルを

原文を見る

「ホテル」

出たときの私の心の混乱は、たとえようもなかった。

原文を見る

を出でしときの我心の錯乱は、たとへんに物なかりき。

私は道の東西も分からず、思いに沈んで歩くうちに、行き会う馬車の馭者に何度か怒鳴られ、驚いて飛びのいた。

原文を見る

余は道の東西をも分かず、思に沈みて行く程に、往きあふ馬車の馭丁に幾度かしつせられ、驚きて飛びのきつ。

しばらくしてふと辺りを見ると、動物園の傍に出ていた。

原文を見る

暫くしてふとあたりを見れば、獣苑のかたはらに出でたり。

倒れるように道端のベンチに腰を下ろし、焼くように熱く、槌で打たれるように響く頭をベンチの背もたれに持たせ、死んだようなありさまで何時間を過ごしたことか。

原文を見る

倒るゝ如くに路のこしかけに倚りて、灼くが如く熱し、つちにて打たるゝ如く響くかしら榻背たふはいに持たせ、死したる如きさまにて幾時をか過しけん。

激しい寒さが骨に徹すると感じて目が覚めた時は、夜になって雪は繁く降り、帽子のひさし、外套の肩には一センチほども積もっていた。

原文を見る

劇しき寒さ骨に徹すと覚えて醒めし時は、夜に入りて雪は繁く降り、帽のひさし、外套の肩には一寸ばかりも積りたりき。

もう十一時を過ぎていただろうか。モアビット・カール街通いの鉄道馬車の軌道も雪に埋もれ、ブランデンブルク門のほとりのガス灯は寂しい光を放っていた。

原文を見る

最早もはや十一時をや過ぎけん、モハビツト、カルヽ街通ひの鉄道馬車の軌道も雪に埋もれ、ブランデンブルゲル門のほとり瓦斯燈ガスとうは寂しき光を放ちたり。

立ち上がろうとすると足が凍えていたので、両手でさすって、ようやく歩けるくらいにはなった。

原文を見る

立ち上らんとするに足の凍えたれば、両手にてさすりて、漸やく歩み得る程にはなりぬ。

足の運びがはかどらないので、クロスター街まで来たのは夜中を過ぎていただろうか。

原文を見る

足の運びのはかどらねば、クロステル街まで来しときは、半夜をや過ぎたりけん。

ここまで来た道をどのように歩いたか分からない。

原文を見る

こゝ迄来し道をばいかに歩みしか知らず。

一月上旬の夜なので、ウンター・デン・リンデンの酒屋、茶店はまだ人の出入りが盛んで賑やかだったようだろうが、全く覚えていない。

原文を見る

一月上旬の夜なれば、ウンテル、デン、リンデンの酒家、茶店は猶ほ人の出入盛りにてにぎはしかりしならめど、ふつに覚えず。

私の頭の中にはただただ、自分は許すことのできない罪人だという思いだけが満ち満ちていた。

原文を見る

我脳中には唯〻我はゆるすべからぬ罪人なりと思ふ心のみ満ち/\たりき。

四階の屋根裏では、エリスはまだ眠っていないらしく、きらりと輝く一星の火が暗い空に透けて見えるが、降り積もる白鷺の羽のような雪片に、たちまち覆われ、たちまちまた現れて、風にもてあそばれているようだ。

原文を見る

四階の屋根裏には、エリスはまだねずとぼしく、烱然けいぜんたる一星の火、暗き空にすかせば、明かに見ゆるが、降りしきる鷺の如き雪片に、たちまち掩はれ、乍ちまた顕れて、風にもてあそばるゝに似たり。

入り口に入ってから疲れを覚えて、体中の節々の痛みが耐えられないので、這うように階段を上った。

原文を見る

戸口に入りしより疲を覚えて、身の節の痛み堪へ難ければ、ふ如くに梯を登りつ。

台所を過ぎ、部屋の戸を開けて入ったところ、テーブルに寄りかかっておむつを縫っていたエリスは振り返って、「あ」

原文を見る

庖厨はうちゆうを過ぎ、室の戸を開きて入りしに、机に倚りて襁褓むつき縫ひたりしエリスは振り返へりて、「あ」

と叫んだ。

原文を見る

と叫びぬ。

「どうなさったの。あなたの姿が。」

原文を見る

「いかにかし玉ひし。おん身の姿は。」

驚いたのも当然だった。青白くて死人に等しい私の顔色、帽子はいつの間にか失くし、髪はぼさぼさに乱れて、何度も道で躓いて倒れたのだから、衣は泥混じりの雪で汚れ、所々は破れていたのだから。

原文を見る

驚きしもうべなりけり、蒼然として死人に等しき我面色、帽をばいつの間にか失ひ、髪はおどろと乱れて、幾度か道にてつまづき倒れしことなれば、衣は泥まじりの雪によごれ、処々は裂けたれば。

私は答えようとするが声が出ず、膝がしきりに震えて立っていられないので、椅子をつかもうとしたところまでは覚えているが、そのまま地に倒れた。

原文を見る

余は答へんとすれど声出でず、膝のしきりにをのゝかれて立つに堪へねば、椅子をつかまんとせしまでは覚えしが、そのまゝに地に倒れぬ。

正気に戻ったのは数週間後のことだった。

原文を見る

人事を知る程になりしは数週すしうの後なりき。

熱が激しくて譫言ばかり言っていたのを、エリスが懸命に看病してくれていた。ある日、相沢が訪ねてきて、私が彼に隠していた一部始終を詳しく知り、大臣には病気のことだけを告げ、うまくとりつくろっておいてくれた。

原文を見る

熱劇しくて譫語うはことのみ言ひしを、エリスがねもごろにみとる程に、或日相沢は尋ね来て、余がかれに隠したる顛末てんまつつばらに知りて、大臣には病の事のみ告げ、よきやうにつくろひ置きしなり。

私は初めて病床に付き添っているエリスを見て、その変わり果てた姿に驚いた。

原文を見る

余は始めて、病牀に侍するエリスを見て、その変りたる姿に驚きぬ。

彼女はこの数週間の間にひどく痩せて、血走った目は落ちくぼみ、灰色の頬はこけていた。

原文を見る

彼はこの数週の内にいたく痩せて、血走りし目は窪み、灰色のは落ちたり。

相沢の助けで日々の暮らしには困らなかったが、この恩人は彼女を精神的に殺したのだった。

原文を見る

相沢の助にて日々の生計たつきには窮せざりしが、此恩人は彼を精神的に殺しゝなり。

後で聞けば彼女は相沢に会ったとき、私が相沢に与えた約束を聞き、またあの夕べ大臣にお返事した一諾を知り、突然座から飛び上がり、顔色はすっかり土のようになって、「私の豊太郎様、ここまで私を欺いていらしたのか」

原文を見る

後に聞けば彼は相沢に逢ひしとき、余が相沢に与へし約束を聞き、またかの夕べ大臣に聞え上げし一諾を知り、にはかに座より躍り上がり、面色さながら土の如く、「我豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺き玉ひしか」

と叫び、その場に倒れた。

原文を見る

と叫び、その場にたふれぬ。

相沢は母を呼んで一緒に助け起こして床に寝かせたが、しばらくして目が覚めたときには、目は虚ろにうつろで、傍の人も分からず、私の名を呼んでひどく罵り、髪をむしり、布団を噛んだりし、また突然気づいたように物を探し求めた。

原文を見る

相沢は母を呼びて共にたすけて床に臥させしに、暫くして醒めしときは、目は直視したるまゝにて傍の人をも見知らず、我名を呼びていたく罵り、髪をむしり、蒲団ふとんを噛みなどし、またにはかに心づきたる様にて物を探りもとめたり。

母が取って与えるものはことごとく投げつけたが、テーブルの上にあったおむつを与えたとき、手探りして顔に押しあて、涙を流して泣いた。

原文を見る

母の取りて与ふるものをばこと/″\なげうちしが、机の上なりし襁褓を与へたるとき、探りみて顔に押しあて、涙を流して泣きぬ。

これよりは騒ぐことはなくなったが、精神の働きはほとんど全く失われて、その様子は赤ちゃんのようになった。

原文を見る

これよりは騒ぐことはなけれど、精神の作用はほとんど全く廃して、そのなること赤児の如くなり。

医者に診せたところ、ひどい心労で急に起きた「パラノイア(妄想病)」という病なので、

原文を見る

医に見せしに、過劇なる心労にて急に起りし「パラノイア」

治る見込みはないと言う。

原文を見る

といふやまひなれば、治癒の見込なしといふ。

ダルドルフの精神病院に入れようとしたが、泣き叫んで聞かず、後にはかのおむつ一枚を体につけて、何度も出しては見て、見ては泣き崩れる。

原文を見る

ダルドルフの癲狂院てんきやうゐんに入れむとせしに、泣き叫びて聴かず、後にはかの襁褓一つを身につけて、幾度か出しては見、見ては欷歔ききよす。

私の病床を離れないが、これさえも意識してのことではないと見える。

原文を見る

余が病牀をば離れねど、これさへ心ありてにはあらずと見ゆ。

ただ時々思い出したように「薬を、薬を」

原文を見る

たゞをり/\思ひ出したるやうに「薬を、薬を」

と言うだけだ。

原文を見る

といふのみ。

私の病は完全に癒えた。

原文を見る

余が病は全く癒えぬ。

生ける屍となったエリスを抱いて幾すじもの涙を注いだことは何度だったろうか。

原文を見る

エリスが生けるかばねを抱きて千行ちすぢの涙をそゝぎしは幾度ぞ。

大臣に従って帰国の旅についたときは、相沢と相談してエリスの母にわずかな暮らしを立てるに足りるほどの元手を与え、哀れな発狂した女の胎内に遺した子が生まれる折のことも頼み置いた。

原文を見る

大臣に随ひて帰東の途に上ぼりしときは、相沢とはかりてエリスが母にかすかなる生計たつきを営むに足るほどの資本を与へ、あはれなる狂女の胎内に遺しゝ子の生れむをりの事をも頼みおきぬ。

ああ、相沢謙吉のような良い友はこの世でまたとは得難いだろう。

原文を見る

嗚呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。

しかし私の心の中に、一点の彼を憎む気持ちが今日まで残っているのだ。

原文を見る

されど我脳裡なうりに一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり。