舞姫 小学生向け
森鴎外(もりおうがい)・1890年
AI生成この訳はAI(claude-sonnet-4-6)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23)
石炭の積み込みはもう終わった。
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石炭をば早や積み果てつ。
船の中等室のテーブルのそばはとても静かで、電灯の明るい光も今夜はむだに輝いているだけだ。
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中等室の卓のほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。
毎晩ここに集まってトランプをする仲間たちはホテルに泊まっていて、
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今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌仲間も「ホテル」
船に残っているのは私ひとりだけだから。
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に宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば。
五年前のことだった。かねてからの望みがかない、お上から外国へ行けという命令をいただいて、このサイゴンの港まで来た頃は、目に見るもの耳に聞くもの、何もかも目新しくて、思うままに書きつけた旅日記は毎日何千文字にもなったことだろう。それは当時の新聞にも載って、世の中の人に喜ばれたけれど、今となって思えば、子どもっぽい考え、身の程を知らないでかい口、そうでなくともありふれた動植物や景色風俗までも物珍しそうに書いたのを、分かる人はどう読んだことだろう。
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五年前の事なりしが、平生の望足りて、洋行の官命を蒙り、このセイゴンの港まで来し頃は、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして新ならぬはなく、筆に任せて書き記しつる紀行文日ごとに幾千言をかなしけむ、当時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど、今日になりておもへば、穉き思想、身の程知らぬ放言、さらぬも尋常の動植金石、さては風俗などをさへ珍しげにしるしゝを、心ある人はいかにか見けむ。
今回は旅に出るときに日記をつけようと買ったノートがまだ白紙のままなのは、ドイツで勉強した間に「何ごとにも驚かない」という気持ちを身につけたからだろうか。
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こたびは途に上りしとき、日記ものせむとて買ひし冊子もまだ白紙のまゝなるは、独逸にて物学びせし間に、一種の「ニル、アドミラリイ」
いや、そうではない。これには別にわけがある。
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の気象をや養ひ得たりけむ、あらず、これには別に故あり。
まったく、東へ帰る今の私は、西へ渡った昔の私とは別人だ。学問はまだ心に満足できないところが多いけれど、世の中のつらいことも知った。人の心が当てにならないのは言うまでもなく、自分自身の心さえも変わりやすいということを悟った。
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げに東に還る今の我は、西に航せし昔の我ならず、学問こそ猶心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしをも知りたり、人の心の頼みがたきは言ふも更なり、われとわが心さへ変り易きをも悟り得たり。
昨日は正しいと思ったことが今日は間違いだと思う、そんな移ろいやすい感じを書いて誰に見せようか。
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きのふの是はけふの非なるわが瞬間の感触を、筆に写して誰にか見せむ。
それが日記を書けない理由かというと、そうではない。これには別にわけがある。
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これや日記の成らぬ縁故なる、あらず、これには別に故あり。
ああ、ブリンディシの港を出てから、もう二十日あまりが過ぎた。
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嗚呼、ブリンヂイシイの港を出でゝより、早や二十日あまりを経ぬ。
ふつうなら初めて会う乗客とも付き合いを結んで旅の寂しさを慰め合うのが船旅の習わしなのに、少し体の具合が悪いことを口実に部屋の中にこもって、同行の人々ともほとんど話をしないのは、誰も知らない心の痛みで頭を悩ませているからだ。
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世の常ならば生面の客にさへ交を結びて、旅の憂さを慰めあふが航海の習なるに、微恙にことよせて房の裡にのみ籠りて、同行の人々にも物言ふことの少きは、人知らぬ恨に頭のみ悩ましたればなり。
この痛みははじめ一片の雲のように私の心をかすめて、スイスの山の景色も見えなくし、イタリアの古い遺跡にも心を向けさせず、やがては世の中がいやになり、自分の行く末が情けなくなって、腸が毎日九度もよじれるかと思うほどの激しい苦しみを私に背負わせ、今は心の奥に固まって一点の影のようになっているが、文を読むたびに、何かを見るたびに、鏡に映る影のように、声に応える響きのように、限りない懐かしい思い出を呼び起こして、何度となく私の心を苦しめる。
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此恨は初め一抹の雲の如く我心を掠めて、瑞西の山色をも見せず、伊太利の古蹟にも心を留めさせず、中頃は世を厭ひ、身をはかなみて、腸日ごとに九廻すともいふべき惨痛をわれに負はせ、今は心の奥に凝り固まりて、一点の翳とのみなりたれど、文読むごとに、物見るごとに、鏡に映る影、声に応ずる響の如く、限なき懐旧の情を喚び起して、幾度となく我心を苦む。
ああ、どうすればこの痛みを消すことができるだろう。
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嗚呼、いかにしてか此恨を銷せむ。
もしほかの悩みであれば、詩に詠んだり歌によんだりした後は気持ちがすっきりするものだ。
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若し外の恨なりせば、詩に詠じ歌によめる後は心地すが/\しくもなりなむ。
これだけは余りにも深く私の心に刻みこまれているから、そうはなるまいと思うけれど、今夜はあたりに人もいない。部屋係が来て電灯を消すまでにはまだ時間もあるだろうから、さあ、そのあらましを文に書いてみよう。
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これのみは余りに深く我心に彫りつけられたればさはあらじと思へど、今宵はあたりに人も無し、房奴の来て電気線の鍵を捩るには猶程もあるべければ、いで、その概略を文に綴りて見む。
私は幼い頃から厳しい家の教えを受けてきたかいがあって、父を早くに亡くしたけれど、学問がすたれることなく、旧藩の学校にいた日も、東京に出て予備学校に通ったときも、大学の法学部に入ってからも、太田豊太郎という名はいつも学年の一番に書かれていた。一人息子の私を頼りに世の中を渡っていく母の心は慰められたことだろう。
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余は幼き比より厳しき庭の訓を受けし甲斐に、父をば早く喪ひつれど、学問の荒み衰ふることなく、旧藩の学館にありし日も、東京に出でゝ予備黌に通ひしときも、大学法学部に入りし後も、太田豊太郎といふ名はいつも一級の首にしるされたりしに、一人子の我を力になして世を渡る母の心は慰みけらし。
十九歳で学士の称号を受け、大学ができてからその頃までに前例がない名誉だと人にも言われた。ある省に勤め、田舎にいた母を都に呼び迎えて、楽しい年月を三年ほど過ごした。上司からの評判もひときわよかったので、ドイツへ渡って一課の仕事を調べてこいという命令を受けた。名を立てよう、家を盛り立てようと心が勇み立って、五十を超えた母と別れることもそれほど悲しいとは思わず、はるばると家を離れてベルリンの都へやって来た。
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十九の歳には学士の称を受けて、大学の立ちてよりその頃までにまたなき名誉なりと人にも言はれ、某省に出仕して、故郷なる母を都に呼び迎へ、楽しき年を送ること三とせばかり、官長の覚え殊なりしかば、洋行して一課の事務を取り調べよとの命を受け、我名を成さむも、我家を興さむも、今ぞとおもふ心の勇み立ちて、五十を踰えし母に別るゝをもさまで悲しとは思はず、遙々と家を離れてベルリンの都に来ぬ。
私はぼんやりした出世への気持ちと、縛られることに慣れた頑張る力を持って、たちまちこのヨーロッパの大都市の中心に立った。
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余は模糊たる功名の念と、検束に慣れたる勉強力とを持ちて、忽ちこの欧羅巴の新大都の中央に立てり。
何という輝きだろう、私の目を射ようとするのは。
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何等の光彩ぞ、我目を射むとするは。
何という色彩だろう、私の心を迷わせようとするのは。
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何等の色沢ぞ、我心を迷はさむとするは。
「菩提樹の下」と訳すと静かな場所に思えるけれど、この髪の毛のように細い並木道、ウンター・デン・リンデンに来て、両側の石畳の歩道を行き来する人々の群れを見てごらん。
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菩提樹下と訳するときは、幽静なる境なるべく思はるれど、この大道髪の如きウンテル、デン、リンデンに来て両辺なる石だゝみの人道を行く隊々の士女を見よ。
胸を張り肩をそびやかした士官や、まだヴィルヘルム一世が街に面した窓辺にいらした頃だったので、さまざまな色に飾り立てた礼服を着た人、きれいな娘のパリ風の装いをした人、どれもこれも目を驚かせないものはない。車道のアスファルトの上を音もなく走るいろいろな馬車、雲に届くような高い建物が少し途切れたところでは、晴れた空に夕立の音を聞かせて溢れ落ちる噴水の水、遠く見ればブランデンブルク門を隔てて緑の木々が枝を交わらせる中から、空に浮かび出た凱旋塔の女神の像、このたくさんの景物が目の前に集まっているのだから、初めてここに来た者が目も回るほどであるのも当然だ。
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胸張り肩聳えたる士官の、まだ維廉一世の街に臨める窻に倚り玉ふ頃なりければ、様々の色に飾り成したる礼装をなしたる、妍き少女の巴里まねびの粧したる、彼も此も目を驚かさぬはなきに、車道の土瀝青の上を音もせで走るいろ/\の馬車、雲に聳ゆる楼閣の少しとぎれたる処には、晴れたる空に夕立の音を聞かせて漲り落つる噴井の水、遠く望めばブランデンブルク門を隔てゝ緑樹枝をさし交はしたる中より、半天に浮び出でたる凱旋塔の神女の像、この許多の景物目睫の間に聚まりたれば、始めてこゝに来しものゝ応接に遑なきも宜なり。
けれども私の胸には、たとえどんな場所で遊んでいても、はかない美しい景色に心を動かすまいという誓いがあって、いつも自分に迫ってくるまわりのものを遮り留めていた。
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されど我胸には縦ひいかなる境に遊びても、あだなる美観に心をば動さじの誓ありて、つねに我を襲ふ外物を遮り留めたりき。
私が呼び鈴を鳴らして取り次ぎを頼み、公の紹介状を出して東の国から来た目的を告げたプロイセンの役人たちは、皆快く私を迎えてくれ、公使館からの手続きさえうまくいけば、何でも教えたり伝えたりしようと約束してくれた。
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余が鈴索を引き鳴らして謁を通じ、おほやけの紹介状を出だして東来の意を告げし普魯西の官員は、皆快く余を迎へ、公使館よりの手つゞきだに事なく済みたらましかば、何事にもあれ、教へもし伝へもせむと約しき。
嬉しかったのは、私がふるさとでドイツ語とフランス語を学んでいたことだ。
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喜ばしきは、わが故里にて、独逸、仏蘭西の語を学びしことなり。
彼らは初めて私に会ったとき、どこでいつの間にこれほど学んだのかと必ず尋ねた。
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彼等は始めて余を見しとき、いづくにていつの間にかくは学び得つると問はぬことなかりき。
さて公務の暇があるたびに、かねてお上の許しも得ていたので、地元の大学に入って政治学を学ぼうと、名前を名簿に書かせてもらった。
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さて官事の暇あるごとに、かねておほやけの許をば得たりければ、ところの大学に入りて政治学を修めむと、名を簿冊に記させつ。
一か月、二か月と過ごすうちに、お上との打ち合わせも済んで調べ事も次第にはかどっていったので、急ぐことは報告書にまとめて送り、そうでないものは書き写してとめておき、最終的には何巻にもなっただろうか。
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ひと月ふた月と過す程に、おほやけの打合せも済みて、取調も次第に捗り行けば、急ぐことをば報告書に作りて送り、さらぬをば写し留めて、つひには幾巻をかなしけむ。
大学の方では、幼い心で思い描いていたような政治家になるための特別なコースなどあるはずもなく、これかあれかと心が迷いながらも、二、三の法律家の講義に出ることに決めて、受講料を払って聴きに行った。
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大学のかたにては、穉き心に思ひ計りしが如く、政治家になるべき特科のあるべうもあらず、此か彼かと心迷ひながらも、二三の法家の講筵に列ることにおもひ定めて、謝金を収め、往きて聴きつ。
こうして三年ほどは夢のように過ぎたが、時が来れば包もうとしても包みきれないのが人の本当の好みというものだろうか。私は父の遺言を守り、母の教えに従い、人に神童だなどとほめられるのがうれしくてたゆまず学んだ時分から、上司に「よく働いてくれる」と励まされるのがうれしくてたゆみなく勤めた時まで、ただ受け身で機械のような人間になって自分では気づかなかったが、今二十五歳になって、すでに長くこの自由な大学の風に当たったせいか、心の中がなんとなく穏やかでなく、奥深くひそんでいた本当の自分がだんだん表に現れて、昨日までの自分ではない自分が今の自分を責めているようだ。
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かくて三年ばかりは夢の如くにたちしが、時来れば包みても包みがたきは人の好尚なるらむ、余は父の遺言を守り、母の教に従ひ、人の神童なりなど褒むるが嬉しさに怠らず学びし時より、官長の善き働き手を得たりと奨ますが喜ばしさにたゆみなく勤めし時まで、たゞ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当りたればにや、心の中なにとなく妥ならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表にあらはれて、きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり。
私は自分が、今の世の中で大きく活躍できる政治家になるのにも向いていないし、法律をしっかり覚えて裁判を裁く法律家になるのにも向いていないことに気づいたと思った。
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余は我身の今の世に雄飛すべき政治家になるにも宜しからず、また善く法典を諳じて獄を断ずる法律家になるにもふさはしからざるを悟りたりと思ひぬ。
私はひそかに思った。私の母は私を生きた辞書にしようとし、私の上司は私を生きた法律にしようとしたのだろうか。
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余は私に思ふやう、我母は余を活きたる辞書となさんとし、我官長は余を活きたる法律となさんとやしけん。
辞書になることはまだ耐えられるが、法律になることは我慢できない。
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辞書たらむは猶ほ堪ふべけれど、法律たらんは忍ぶべからず。
これまでは細かい問題にもとても丁寧に答えてきた私が、この頃から上司への手紙では、法律の細かい決まりにこだわるべきではないと繰り返し主張して、一度法の精神をつかんでしまえば、入り組んだ万事は竹を割るようにうまくいくはずだなどと大きなことを言い出した。
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今までは瑣々たる問題にも、極めて丁寧にいらへしつる余が、この頃より官長に寄する書には連りに法制の細目に拘ふべきにあらぬを論じて、一たび法の精神をだに得たらんには、紛々たる万事は破竹の如くなるべしなどゝ広言しつ。
また大学では法律の講義をよそに、歴史と文学に心を向けて、しだいに面白さが分かってきた。
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又大学にては法科の講筵を余所にして、歴史文学に心を寄せ、漸く蔗を嚼む境に入りぬ。
上司はもとから思いどおりに使える機械を作ろうとしていたのだろう。
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官長はもと心のまゝに用ゐるべき器械をこそ作らんとしたりけめ。
独立した考えを持って、人並みでない顔つきをした男を、どうして喜ぶだろうか。
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独立の思想を懐きて、人なみならぬ面もちしたる男をいかでか喜ぶべき。
私の当時の立場は危ういものだった。
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危きは余が当時の地位なりけり。
しかしこれだけでは、まだ私の立場をひっくり返すには足りなかっただろうが、日頃ベルリンの留学生の中で、あるひとかたまりの勢力ある人々と私との間に、おもしろくない関係があって、その人たちは私を疑い、ついには私のことを嘘の告げ口までするようになった。
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されどこれのみにては、なほ我地位を覆へすに足らざりけんを、日比伯林の留学生の中にて、或る勢力ある一群と余との間に、面白からぬ関係ありて、彼人々は余を猜疑し、又遂に余を讒誣するに至りぬ。
しかしこれにもわけがないわけではない。
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されどこれとても其故なくてやは。
その人たちは私がいっしょにビールを飲まず、玉突きもしないのを、頑固な心と欲を抑える力のせいだと思って、あざけりもし、ねたみもしたのだろう。
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彼人々は余が倶に麦酒の杯をも挙げず、球突きの棒をも取らぬを、かたくななる心と慾を制する力とに帰して、且は嘲り且は嫉みたりけん。
けれどもそれは私を知らないからだ。
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されどこは余を知らねばなり。
ああ、このわけは、私自身でさえ知らなかったのに、どうして人に分かっただろう。
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嗚呼、此故よしは、我身だに知らざりしを、怎でか人に知らるべき。
私の心は、あのネムの木の葉に似て、何かが触れると縮んで逃げようとする。
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わが心はかの合歓といふ木の葉に似て、物触れば縮みて避けんとす。
私の心は処女のようだ。
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我心は処女に似たり。
私が幼い頃から年長者の教えを守って学問の道をたどってきたのも、勤めの道を歩んできたのも、みな勇気があってできたわけではなく、忍耐と勉強の力に見えたものも、みな自分をだまし、人をさえだましてきたのであって、人に歩かせてもらった道をただ一筋に歩んできただけだ。
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余が幼き頃より長者の教を守りて、学の道をたどりしも、仕の道をあゆみしも、皆な勇気ありて能くしたるにあらず、耐忍勉強の力と見えしも、皆な自ら欺き、人をさへ欺きつるにて、人のたどらせたる道を、唯だ一条にたどりしのみ。
ほかのことに心が乱れなかったのは、外のものを捨てて顧みないほどの勇気があったのではなく、ただ外のものが怖くて自分で自分の手足を縛っていたにすぎない。
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余所に心の乱れざりしは、外物を棄てゝ顧みぬ程の勇気ありしにあらず、唯外物に恐れて自らわが手足を縛せしのみ。
ふるさとを立ち出る前にも、自分が優れた人間であることを疑わず、また自分の心が十分に耐えられると深く信じていた。
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故郷を立ちいづる前にも、我が有為の人物なることを疑はず、又我心の能く耐へんことをも深く信じたりき。
ああ、あれも一時のことだった。
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嗚呼、彼も一時。
船が横浜を離れるまでは、立派な豪傑と思っていた私も、あふれる涙でハンカチを濡らしたのを自分ながら不思議に思ったが、それこそかえって私の本当の性分だったのだ。
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舟の横浜を離るるまでは、天晴豪傑と思ひし身も、せきあへぬ涙に手巾を濡らしつるを我れ乍ら怪しと思ひしが、これぞなか/\に我本性なりける。
この心は生まれながらにあったのか、それとも早く父を亡くして母の手に育てられたことによって生まれたのか。
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此心は生れながらにやありけん、又早く父を失ひて母の手に育てられしによりてや生じけん。
あの人たちがあざけるのはともかく、
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彼人々の嘲るはさることなり。
ねたむとはおろかではないか。
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されど嫉むはおろかならずや。
この弱く哀れな私の心を。
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この弱くふびんなる心を。
赤く白く顔を塗り、はでな色の衣をまとい、カフェに座って客を引く女を見ても、近づく勇気がなく、高い帽子をかぶりメガネを鼻に掛けて、プロイセンでは貴族めいた鼻にかかった声で話す「やり手の遊び人」
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赤く白く面を塗りて、赫然たる色の衣を纏ひ、珈琲店に坐して客を延く女を見ては、往きてこれに就かん勇気なく、高き帽を戴き、眼鏡に鼻を挾ませて、普魯西にては貴族めきたる鼻音にて物言ふ「レエベマン」
を見ても、近づいて一緒に遊ぶ勇気がない。
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を見ては、往きてこれと遊ばん勇気なし。
こうした勇気がないから、あの活発な同郷の人々と付き合うすべもない。
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此等の勇気なければ、彼活溌なる同郷の人々と交らんやうもなし。
この交際の薄さのために、その人たちは私をあざけり、私をねたむだけでなく、私を疑うことにもなった。
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この交際の疎きがために、彼人々は唯余を嘲り、余を嫉むのみならで、又余を猜疑することゝなりぬ。
これが、私が無実の罪を背負って、短い間にはかり知れない苦難を経験させられる原因となったのだ。
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これぞ余が冤罪を身に負ひて、暫時の間に無量の艱難を閲し尽す媒なりける。
ある日の夕暮れのことだった。私は動物園をぶらぶら歩いて、ウンター・デン・リンデンを通り、自分の住むモンビジュー街の宿へ帰ろうと、クロスター横丁の古い寺の前に来た。
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或る日の夕暮なりしが、余は獣苑を漫歩して、ウンテル、デン、リンデンを過ぎ、我がモンビシユウ街の僑居に帰らんと、クロステル巷の古寺の前に来ぬ。
私はあの灯火の海を渡ってきて、この狭く薄暗い横丁に入り、二階の欄干に干してある敷布や下着などまだとり込んでいない家や、頬ひげの長いユダヤ教徒の老人が戸口に立っている居酒屋、一つの階段はまっすぐ二階に通じ、別の階段は地下に住む鍛冶屋の家につながる貸家などに向かって、凹字の形に引っ込んで建てられた、三百年前の遺跡を見るたびに、心が恍惚とし、しばらく立ち止まったことが何度あったか数えきれない。
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余は彼の燈火の海を渡り来て、この狭く薄暗き巷に入り、楼上の木欄に干したる敷布、襦袢などまだ取入れぬ人家、頬髭長き猶太教徒の翁が戸前に佇みたる居酒屋、一つの梯は直ちに楼に達し、他の梯は窖住まひの鍛冶が家に通じたる貸家などに向ひて、凹字の形に引籠みて立てられたる、此三百年前の遺跡を望む毎に、心の恍惚となりて暫し佇みしこと幾度なるを知らず。
今ここを通りかかろうとしたとき、閉まっている寺の門扉に寄りかかって、声を飲みながら泣いている少女が一人いるのが見えた。
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今この処を過ぎんとするとき、鎖したる寺門の扉に倚りて、声を呑みつゝ泣くひとりの少女あるを見たり。
年は十六、七歳くらいだろう。
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年は十六七なるべし。
かぶっている布から漏れた髪の色は薄い金色で、着ている服は垢がついて汚れているようには見えない。
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被りし巾を洩れたる髪の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。
私の足音に驚かされて振り向いた顔は、私に詩人の筆がないので書きようもない。
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我足音に驚かされてかへりみたる面、余に詩人の筆なければこれを写すべくもあらず。
この青く清らかで、何かを問いたそうに悲しみをたたえた目が、半ば露を宿した長いまつげに覆われているのは、なぜ一目見ただけで、用心深い私の心の底まで刺さったのだろうか。
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この青く清らにて物問ひたげに愁を含める目の、半ば露を宿せる長き睫毛に掩はれたるは、何故に一顧したるのみにて、用心深き我心の底までは徹したるか。
彼女は思いがけない深い悲しみに出会って、前後を見る余裕もなく、ここに立って泣いているのだろう。
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彼は料らぬ深き歎きに遭ひて、前後を顧みる遑なく、こゝに立ちて泣くにや。
私の臆病な心は哀れみの気持ちに打ち勝たれて、私は思わず傍に寄り、「なぜ泣いていらっしゃるのですか。ここに縁もゆかりもない外国人は、かえって力を貸しやすいこともあるでしょう」
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わが臆病なる心は憐憫の情に打ち勝たれて、余は覚えず側に倚り、「何故に泣き玉ふか。ところに繋累なき外人は、却りて力を借し易きこともあらん。」
と声をかけたが、自分ながら自分の大胆さに呆れた。
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といひ掛けたるが、我ながらわが大胆なるに呆れたり。
彼女は驚いて私の黄色い顔をじっと見つめていたが、私の誠実な心が顔に表れたのだろうか。
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彼は驚きてわが黄なる面を打守りしが、我が真率なる心や色に形はれたりけん。
「あなたは善い人と見える。あの人のように酷くはないでしょう。また私の母のようにも。」
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「君は善き人なりと見ゆ。彼の如く酷くはあらじ。又た我母の如く。」
しばらく涸れていた涙の泉がまたあふれて、かわいらしい頬を流れ落ちた。
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暫し涸れたる涙の泉は又溢れて愛らしき頬を流れ落つ。
「助けてください、あなた。私が恥ずかしくない人でいられるよう。母は私があの人の言葉に従わないからと、私を打ちました。父は死にました。明日は葬らなければならないのに、家に一銭の蓄えもありません。」
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「我を救ひ玉へ、君。わが恥なき人とならんを。母はわが彼の言葉に従はねばとて、我を打ちき。父は死にたり。明日は葬らでは愜はぬに、家に一銭の貯だになし。」
あとはすすり泣く声だけだった。
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跡は欷歔の声のみ。
私の目は、うつむいているこの少女の震える首筋にだけ注がれていた。
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我眼はこのうつむきたる少女の顫ふ項にのみ注がれたり。
「お宅まで送っていきましょう、まず気持ちを落ち着けてください。声を人に聞かせてはいけません。ここは往来なのですから。」
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「君が家に送り行かんに、先づ心を鎮め玉へ。声をな人に聞かせ玉ひそ。こゝは往来なるに。」
彼女は話しているうちに、気づかず私の肩に寄りかかっていたが、このときふと頭を上げ、また初めて私を見たように恥じて私の傍から飛びのいた。
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彼は物語するうちに、覚えず我肩に倚りしが、この時ふと頭を擡げ、又始てわれを見たるが如く、恥ぢて我側を飛びのきつ。
人に見られるのが恥ずかしくて、早足で行く少女の後についていくと、寺の向かい側の大きな戸を入れば、欠け損じた石の階段がある。
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人の見るが厭はしさに、早足に行く少女の跡に附きて、寺の筋向ひなる大戸を入れば、欠け損じたる石の梯あり。
これを上って、四階目に腰をかがめてくぐらなければならないほどの戸がある。
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これを上ぼりて、四階目に腰を折りて潜るべき程の戸あり。
少女がさびた針金の先をねじ曲げたものに手をかけて強く引いたところ、中から嗄れた老女の声で「誰じゃ」
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少女は鏽びたる針金の先きを捩ぢ曲げたるに、手を掛けて強く引きしに、中には咳枯れたる老媼の声して、「誰ぞ」
と問う。
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と問ふ。
エリスが帰ったと答える間もなく、戸を荒々しく引き開けたのは、半ば白くなった髪、悪い顔立ちではないが、貧しさの苦労の跡を額に刻んだ顔の老女で、古い毛織りの衣を着て汚れた部屋履きを履いていた。
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エリス帰りぬと答ふる間もなく、戸をあらゝかに引開けしは、半ば白みたる髪、悪しき相にはあらねど、貧苦の痕を額に印せし面の老媼にて、古き獣綿の衣を着、汚れたる上靴を穿きたり。
エリスが私に会釈して入るのを、彼女は待ちわびたように戸を激しく閉め切った。
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エリスの余に会釈して入るを、かれは待ち兼ねし如く、戸を劇しくたて切りつ。
私はしばらくぼんやり立っていたが、ふとランプの光を通して戸を見ると、「エルンスト・ワイゲルト」と漆で書いてあり、その下に「仕立物師」と注してある。
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余は暫し茫然として立ちたりしが、ふと油燈の光に透して戸を見れば、エルンスト、ワイゲルトと漆もて書き、下に仕立物師と注したり。
これは、さっきの少女の父の名前だろう。
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これすぎぬといふ少女が父の名なるべし。
中からは言い争うような声が聞こえていたが、また静かになって戸は再び開いた。
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内には言ひ争ふごとき声聞えしが、又静になりて戸は再び明きぬ。
さっきの老女は丁寧に自分の無礼な振る舞いを詫びて、私を中に招き入れた。
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さきの老媼は慇懃におのが無礼の振舞せしを詫びて、余を迎へ入れつ。
戸の内は台所で、右側の低い窓には真っ白に洗った麻布が掛けてある。
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戸の内は厨にて、右手の低き窻に、真白に洗ひたる麻布を懸けたり。
左側には粗末に積み上げたれんがのかまどがある。
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左手には粗末に積上げたる煉瓦の竈あり。
正面の一部屋の戸が半ば開いているが、その中には白い布を覆った寝床がある。
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正面の一室の戸は半ば開きたるが、内には白布を掩へる臥床あり。
横たわっているのは亡くなった人だろう。
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伏したるはなき人なるべし。
かまどの脇の戸を開けて私を案内した。
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竈の側なる戸を開きて余を導きつ。
この部屋は屋根裏の街に面した一間で、
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この処は所謂「マンサルド」
天井もない。
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の街に面したる一間なれば、天井もなし。
隅の屋根裏から窓に向かって斜めに下りている梁を紙で張った下の、立てば頭がつかえそうな所に寝床があった。
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隅の屋根裏より窻に向ひて斜に下れる梁を、紙にて張りたる下の、立たば頭の支ふべき処に臥床あり。
真ん中のテーブルには美しい敷物が掛けてあって、上には本が一、二冊と写真帖が並べてあり、陶器の花瓶にはここには不釣り合いな値の高い花束が生けてある。
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中央なる机には美しき氈を掛けて、上には書物一二巻と写真帖とを列べ、陶瓶にはこゝに似合はしからぬ価高き花束を生けたり。
その傍らに少女は恥ずかしそうに立っていた。
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そが傍に少女は羞を帯びて立てり。
彼女はとても美しかった。
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彼は優れて美なり。
乳のような色の顔はランプの光に映えてほんのり赤みを帯びていた。
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乳の如き色の顔は燈火に映じて微紅を潮したり。
手足の細くしなやかなのは、貧しい家の女らしくない。
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手足の繊く裊なるは、貧家の女に似ず。
老女が部屋を出た後で、少女は少し訛った言葉で言う。
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老媼の室を出でし跡にて、少女は少し訛りたる言葉にて云ふ。
「許してください。あなたをここまで連れてきた私の軽はずみを。あなたは善い人のはずです。私のことを憎みはしないでしょう。明日に迫っているのは父の葬儀ですが、頼りにしていたシャウムベルヒ、あなたは彼をご存知ですか。彼はヴィクトリア座の座長です。彼の一座に入ってからもう二年になるので、何かあっても助けてくれると思っていたのに、人の悲しみにつけ込んで身勝手なことを言おうとするとは。助けてください、あなた。お金はわずかな給料を削ってお返しします。たとえ私自身は食べなくても。それもかなわなければ母の言葉に。」
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「許し玉へ。君をこゝまで導きし心なさを。君は善き人なるべし。我をばよも憎み玉はじ。明日に迫るは父の葬、たのみに思ひしシヤウムベルヒ、君は彼を知らでやおはさん。彼は「ヰクトリア」座の座頭なり。彼が抱へとなりしより、早や二年なれば、事なく我等を助けんと思ひしに、人の憂に附けこみて、身勝手なるいひ掛けせんとは。我を救ひ玉へ、君。金をば薄き給金を析きて還し参らせん。縦令我身は食はずとも。それもならずば母の言葉に。」
彼女は涙ぐんで体を震わせた。
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彼は涙ぐみて身をふるはせたり。
その見上げた目には、人に「いや」とは言わせない魅力があった。
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その見上げたる目には、人に否とはいはせぬ媚態あり。
この目の働きは知ってやっているのか、それとも自分では知らないのか。
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この目の働きは知りてするにや、又自らは知らぬにや。
私のポケットには二、三マルクの銀貨があるが、
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我が隠しには二三「マルク」
それで足りるはずもないので、私は時計を外してテーブルの上に置いた。
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の銀貨あれど、それにて足るべくもあらねば、余は時計をはづして机の上に置きぬ。
「これでしばらくの急場をしのいでください。質屋の使いがモンビジュー街三番地で太田と尋ねてきた折には代金をお渡しします。」
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「これにて一時の急を凌ぎ玉へ。質屋の使のモンビシユウ街三番地にて太田と尋ね来ん折には価を取らすべきに。」
少女は驚き感動したようすで、私がお別れに差し出した手を唇に当てたが、はらはらと落ちる熱い涙を私の手の甲に降り注いだ。
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少女は驚き感ぜしさま見えて、余が辞別のために出したる手を唇にあてたるが、はら/\と落つる熱き涙を我手の背に濺ぎつ。
ああ、何という因縁だろうか。
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嗚呼、何等の悪因ぞ。
このお礼を言いに自ら私の宿を訪ねてきた少女は、ショーペンハウアーを右に、シラーを左に、一日中座り込んで読書する私の窓の下に、一輪の名花を咲かせてしまった。
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この恩を謝せんとて、自ら我僑居に来し少女は、シヨオペンハウエルを右にし、シルレルを左にして、終日兀坐する我読書の窻下に、一輪の名花を咲かせてけり。
この時を始めとして、私と少女との行き来はだんだん多くなっていったので、同郷の人にも知られるようになり、彼らはすぐさま、私を舞姫たちの仲間に女あさりをしている者と決めつけた。
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この時を始として、余と少女との交漸く繁くなりもて行きて、同郷人にさへ知られぬれば、彼等は速了にも、余を以て色を舞姫の群に漁するものとしたり。
私たちの間にはまだ無邪気な楽しみだけがあったのに。
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われ等二人の間にはまだ痴騃なる歓楽のみ存したりしを。
名を出すのははばかられるが、同郷の人の中に事件好きな人がいて、私がたびたび芝居に出入りして女優と付き合っているということを、上司のもとに報告した。
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その名を斥さんは憚あれど、同郷人の中に事を好む人ありて、余が屡〻芝居に出入して、女優と交るといふことを、官長の許に報じつ。
そうでなくとも私がかなり学問の脱線をしていると知って憎んでいた上司は、ついに公使館に命令を伝えて、私の官職を免じ、役を解いた。
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さらぬだに余が頗る学問の岐路に走るを知りて憎み思ひし官長は、遂に旨を公使館に伝へて、我官を免じ、我職を解いたり。
公使がこの命令を伝える時に私に言ったのは、もし今すぐ国に帰るなら旅費を支給するが、もし引き続きここにいるなら、公の助けは仰ぐべからずということだった。
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公使がこの命を伝ふる時余に謂ひしは、御身若し即時に郷に帰らば、路用を給すべけれど、若し猶こゝに在らんには、公の助をば仰ぐべからずとのことなりき。
私は一週間の猶予を請い、あれこれ思い悩む間に、私の生涯でもっとも悲痛を感じさせた二通の手紙が届いた。
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余は一週日の猶予を請ひて、とやかうと思ひ煩ふうち、我生涯にて尤も悲痛を覚えさせたる二通の書状に接しぬ。
この二通はほぼ同時に送られたものだったが、一通は母の自筆、一通は親戚の誰かが、母の死を、私がこの上なく慕う母の死を知らせた手紙だった。
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この二通は殆ど同時にいだしゝものなれど、一は母の自筆、一は親族なる某が、母の死を、我がまたなく慕ふ母の死を報じたる書なりき。
私は母の手紙の言葉をここに繰り返すことに耐えられない。涙が迫り来て筆の運びを妨げるからだ。
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余は母の書中の言をこゝに反覆するに堪へず、涙の迫り来て筆の運を妨ぐればなり。
私とエリスとの付き合いは、この時までは外から見るよりずっときれいなものだった。
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余とエリスとの交際は、この時までは余所目に見るより清白なりき。
彼女は父が貧しかったので十分な教育を受けられず、十五歳の時に踊りの師匠の募集に応じてこの恥ずかしい職を教えられ、課程が終わって
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彼は父の貧きがために、充分なる教育を受けず、十五の時舞の師のつのりに応じて、この恥づかしき業を教へられ、「クルズス」
ヴィクトリア座に出て、
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果てゝ後、「ヰクトリア」
今は劇場の中で二番目の地位を占めている。
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座に出でゝ、今は場中第二の地位を占めたり。
しかし詩人ハックレンデルが「現代の奴隷」と言ったように、はかないのは舞姫の身の上だ。
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されど詩人ハツクレンデルが当世の奴隷といひし如く、はかなきは舞姫の身の上なり。
わずかな給料で縛られ、昼の稽古、夜の舞台と厳しく使われ、芝居の化粧部屋に入ってこそ化粧もでき、美しい衣もまとえるが、劇場の外では一人の衣食も足りないほどなのだから、親兄弟まで養うものはどれほど苦しいことか。
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薄き給金にて繋がれ、昼の温習、夜の舞台と緊しく使はれ、芝居の化粧部屋に入りてこそ紅粉をも粧ひ、美しき衣をも纏へ、場外にてはひとり身の衣食も足らず勝なれば、親腹からを養ふものはその辛苦奈何ぞや。
それゆえ彼女たちの仲間では、最低の仕事に堕ちないのは稀だと言われている。
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されば彼等の仲間にて、賤しき限りなる業に堕ちぬは稀なりとぞいふなる。
エリスがそれを免れていたのは、おとなしい性質と、気丈な父の守りによるものだ。
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エリスがこれを逭れしは、おとなしき性質と、剛気ある父の守護とに依りてなり。
彼女は幼い頃から本を読むことはさすがに好きだったが、手に入るのは安い貸本屋の小説ばかりだったのを、
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彼は幼き時より物読むことをば流石に好みしかど、手に入るは卑しき「コルポルタアジユ」
私と知り合ってから、私が貸した本を読み慣れて、しだいに趣味も分かり、言葉の訛りも直り、やがて私への手紙にも誤字が少なくなった。
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と唱ふる貸本屋の小説のみなりしを、余と相識る頃より、余が借しつる書を読みならひて、漸く趣味をも知り、言葉の訛をも正し、いくほどもなく余に寄するふみにも誤字少なくなりぬ。
こうして私たち二人の間には、まず師と弟子の付き合いが生まれたのだった。
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かゝれば余等二人の間には先づ師弟の交りを生じたるなりき。
私が突然役を免じられたと聞いたとき、彼女は青ざめた。
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我が不時の免官を聞きしときに、彼は色を失ひつ。
私は彼女が関係していたことを隠したけれど、彼女は私に向かって母にはこれを秘めてほしいと言った。
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余は彼が身の事に関りしを包み隠しぬれど、彼は余に向ひて母にはこれを秘め玉へと云ひぬ。
これは母が私の学費が途絶えたと知って私を遠ざけるのを恐れたからだ。
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こは母の余が学資を失ひしを知りて余を疎んぜんを恐れてなり。
ああ、詳しくここに書くことはいらないが、私が彼女を愛する気持ちが急に強くなって、ついに離れがたい仲となったのはこの時だった。
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嗚呼、委くこゝに写さんも要なけれど、余が彼を愛づる心の俄に強くなりて、遂に離れ難き中となりしは此折なりき。
私の一身の大事が目の前に立ちふさがって、まことに危急存亡の時であるのに、こういう行動をしたことを不思議がり、また非難する人もあるだろうが、私がエリスを愛する気持ちは、初めて出会った時からそれほど浅くはなかったのに、今私の不運を哀れみ、また別れを悲しんで沈んだ顔に、鬢の毛が解けてかかった、その美しく、いじらしい姿が、私の悲痛感激の刺激でいつもと違う状態になった頭に刺さって、夢うつつの間にこうなってしまったのをどうしようか。
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我一身の大事は前に横りて、洵に危急存亡の秋なるに、この行ありしをあやしみ、又た誹る人もあるべけれど、余がエリスを愛する情は、始めて相見し時よりあさくはあらぬに、いま我数奇を憐み、又別離を悲みて伏し沈みたる面に、鬢の毛の解けてかゝりたる、その美しき、いぢらしき姿は、余が悲痛感慨の刺激によりて常ならずなりたる脳髄を射て、恍惚の間にこゝに及びしを奈何にせむ。
公使と約束した日も近づき、私の運命は迫ってきた。
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公使に約せし日も近づき、我命はせまりぬ。
このまま国に帰れば、学問も成し遂げず汚名を背負った身が浮かぶ瀬はないだろう。
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このまゝにて郷にかへらば、学成らずして汚名を負ひたる身の浮ぶ瀬あらじ。
さりとて留まるには、学費を得る手だてがない。
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さればとて留まらんには、学資を得べき手だてなし。
この時私を助けてくれたのが、今私の同行者のひとりである相沢謙吉だ。
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此時余を助けしは今我同行の一人なる相沢謙吉なり。
彼は東京にいて、すでに天方伯の秘書官になっていたが、私の免職が官報に出たのを見て、ある新聞社の編集長に話を通し、私を社の通信員にして、ベルリンに留まって政治や学問・芸術のことなどを報道させることにしてくれた。
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彼は東京に在りて、既に天方伯の秘書官たりしが、余が免官の官報に出でしを見て、某新聞紙の編輯長に説きて、余を社の通信員となし、伯林に留まりて政治学芸の事などを報道せしむることとなしつ。
社の報酬はたいしたことはないけれど、住まいをかえ、昼食に行く食堂をかえれば、ほそぼそとした暮らしは立てられるだろう。
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社の報酬はいふに足らぬほどなれど、棲家をもうつし、午餐に往く食店をもかへたらんには、微なる暮しは立つべし。
あれこれ思案するうちに、誠実な気持ちを表して私に助けの手を投げかけてくれたのはエリスだった。
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兎角思案する程に、心の誠を顕はして、助の綱をわれに投げ掛けしはエリスなりき。
彼女はどうやって母を説き動かしたのか、私は彼女たち親子の家に居候することになり、エリスと私はいつからともなく、あるかなきかの収入を合わせて、つらいながらも楽しい月日を送った。
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かれはいかに母を説き動かしけん、余は彼等親子の家に寄寓することゝなり、エリスと余とはいつよりとはなしに、有るか無きかの収入を合せて、憂きがなかにも楽しき月日を送りぬ。
朝のコーヒーが終わると、彼女は稽古に行き、そうでない日は家に残って、私はケーニヒ街の間口が狭く奥行きだけがとても長い休憩所に出かけて、あらゆる新聞を読み、鉛筆を取り出していろいろと材料を集めた。
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朝の咖啡果つれば、彼は温習に往き、さらぬ日には家に留まりて、余はキヨオニヒ街の間口せまく奥行のみいと長き休息所に赴き、あらゆる新聞を読み、鉛筆取り出でゝ彼此と材料を集む。
この切り開いた引き窓から光を取り込んだ部屋で、定まった仕事のない若者、少ない金を人に貸して自分は遊んで暮らす老人、株の仕事の合間に足を休める商人などと肘を並べ、冷たい石のテーブルの上で、忙しそうにペンを走らせ、小さな女の子が持ってくる一杯のコーヒーが冷めるのも顧みず、開いた新聞を細長い板切れに差し込んで何種類も掛け並べてある壁をわきに何度も行き来する日本人を、知らない人はどのように見ただろうか。
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この截り開きたる引窻より光を取れる室にて、定りたる業なき若人、多くもあらぬ金を人に借して己れは遊び暮す老人、取引所の業の隙を偸みて足を休むる商人などと臂を並べ、冷なる石卓の上にて、忙はしげに筆を走らせ、小をんなが持て来る一盞の咖啡の冷むるをも顧みず、明きたる新聞の細長き板ぎれに揷みたるを、幾種となく掛け聯ねたるかたへの壁に、いく度となく往来する日本人を、知らぬ人は何とか見けん。
また一時近くになる頃、稽古に行った日は帰り道に立ち寄って、私と一緒に店を出るこのひときわ身軽な、手のひらの上でも踊れそうなほどの少女を、不思議そうに見送る人もいただろう。
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又一時近くなるほどに、温習に往きたる日には返り路によぎりて、余と倶に店を立出づるこの常ならず軽き、掌上の舞をもなしえつべき少女を、怪み見送る人もありしなるべし。
私の学問は荒れた。
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我学問は荒みぬ。
屋根裏の一灯がかすかに燃えて、エリスが劇場から帰り、椅子に寄りかかって縫い物などする傍らのテーブルで、私は新聞の原稿を書いた。
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屋根裏の一燈微に燃えて、エリスが劇場よりかへりて、椅に寄りて縫ものなどする側の机にて、余は新聞の原稿を書けり。
昔の法律の条文の枯れ葉を紙の上に書き並べていた頃とは違って、今は生き生きとした政界の動き、文学美術に関する新しい現象の批評などを結びあわせて、力の及ぶ限り、ブルネよりはむしろハイネを学んで思いを構え、様々な文章を書いた中でも、続けてヴィルヘルム一世とフリードリヒ三世の崩御があり、新しい皇帝の即位やビスマルク侯の進退などについては、特に詳しい報告をした。
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昔しの法令条目の枯葉を紙上に掻寄せしとは殊にて、今は活溌々たる政界の運動、文学美術に係る新現象の批評など、彼此と結びあはせて、力の及ばん限り、ビヨルネよりは寧ろハイネを学びて思を構へ、様々の文を作りし中にも、引続きて維廉一世と仏得力三世との崩殂ありて、新帝の即位、ビスマルク侯の進退如何などの事に就ては、故らに詳かなる報告をなしき。
それゆえこの頃からは思ったよりも忙しくなって、少ない蔵書をひもとき、元の勉強をたどることも難しくなり、大学の籍はまだ消されてはいないが、受講料を払うことが難しいので、ただ一つに絞った講義さえ聴きに行くことは稀だった。
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さればこの頃よりは思ひしよりも忙はしくして、多くもあらぬ蔵書を繙き、旧業をたづぬることも難く、大学の籍はまだ刪られねど、謝金を収むることの難ければ、唯だ一つにしたる講筵だに往きて聴くことは稀なりき。
私の学問は荒れた。
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我学問は荒みぬ。
しかし私は別の種類の見識を伸ばした。
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されど余は別に一種の見識を長じき。
それはどういうことかというと、一般の人々の間に学問が広まっていることはヨーロッパ諸国の中でドイツに及ぶものはないだろう。
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そをいかにといふに、凡そ民間学の流布したることは、欧洲諸国の間にて独逸に若くはなからん。
何百種もの新聞雑誌に散らばっている議論にはかなり高尚なものが多いのを、私は通信員になった日から、かつて大学に多く通ったときに養った一双の眼で、読んでは読み、写しては写すうちに、今まで一本道だけを走っていた知識は、自然と広くまとめる力がついて、同郷の留学生などの大方は夢にも知らない境地に達した。
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幾百種の新聞雑誌に散見する議論には頗る高尚なるもの多きを、余は通信員となりし日より、曾て大学に繁く通ひし折、養ひ得たる一隻の眼孔もて、読みては又読み、写しては又写す程に、今まで一筋の道をのみ走りし知識は、自ら綜括的になりて、同郷の留学生などの大かたは、夢にも知らぬ境地に到りぬ。
彼らの仲間にはドイツ語の新聞の社説さえうまく読めない者がいるのに。
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彼等の仲間には独逸新聞の社説をだに善くはえ読まぬがあるに。
明治二十一年の冬が来た。
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明治廿一年の冬は来にけり。
表の通りでこそ砂を蒔き、スキを振るえるが、クロスター街のあたりは凸凹しているところは見えるものの、表だけは一面に凍り、朝に戸を開ければ、飢えて凍えた雀が落ちて死んでいるのも哀れだ。
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表街の人道にてこそ沙をも蒔け、※をも揮へ、クロステル街のあたりは凸凹坎坷の処は見ゆめれど、表のみは一面に氷りて、朝に戸を開けば飢ゑ凍えし雀の落ちて死にたるも哀れなり。
部屋を温め、かまどに火をつけても、壁の石を通し、衣の綿を貫く北ヨーロッパの寒さはなかなか耐えがたかった。
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室を温め、竈に火を焚きつけても、壁の石を徹し、衣の綿を穿つ北欧羅巴の寒さは、なか/\に堪へがたかり。
エリスは二、三日前の夜、舞台で倒れたとのことで、人に助けられて帰ってきたが、それから具合が悪いといって休み、ものを食べるたびに吐くのを、つわりというものだろうと初めて気づいたのは母だった。
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エリスは二三日前の夜、舞台にて卒倒しつとて、人に扶けられて帰り来しが、それより心地あしとて休み、もの食ふごとに吐くを、悪阻といふものならんと始めて心づきしは母なりき。
ああ、そうでなくても心細い自分の行く末なのに、もし本当なら、どうしたものか。
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嗚呼、さらぬだに覚束なきは我身の行末なるに、若し真なりせばいかにせまし。
今朝は日曜なので家にいるが、心は楽しくない。
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今朝は日曜なれば家に在れど、心は楽しからず。
エリスは床に伏すほどではないが、小さな鉄の炉の傍に椅子を引き寄せて言葉少なだ。
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エリスは床に臥すほどにはあらねど、小き鉄炉の畔に椅子さし寄せて言葉寡し。
このとき戸口に人の声がして、ほどなく台所にいたエリスの母が郵便の手紙を持ってきて私に渡した。
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この時戸口に人の声して、程なく庖厨にありしエリスが母は、郵便の書状を持て来て余にわたしつ。
見ればよく覚えている相沢の筆跡で、郵便切手はプロイセンのもの、消印にはベルリンとある。
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見れば見覚えある相沢が手なるに、郵便切手は普魯西のものにて、消印には伯林とあり。
不思議に思いながらも開けて読めば、急なことであらかじめ知らせる方法がなかったが、昨夜ここに到着された天方大臣についてわたしも来た。
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訝りつゝも披きて読めば、とみの事にて預め知らするに由なかりしが、昨夜こゝに着せられし天方大臣に附きてわれも来たり。
伯があなたに会いたいとおっしゃっているので早く来てください。
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伯の汝を見まほしとのたまふに疾く来よ。
あなたの名誉を取り戻すのもこの時でしょう。
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汝が名誉を恢復するも此時にあるべきぞ。
心ばかりが急かれて用件だけを書いてよこすとのことだ。
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心のみ急がれて用事をのみいひ遣るとなり。
読み終わって呆然とした顔つきを見て、エリスが言う。
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読み畢りて茫然たる面もちを見て、エリス云ふ。
「ふるさとからの便りかい。悪い知らせではまさか。」
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「故郷よりの文なりや。悪しき便にてはよも。」
彼女はいつもの新聞社の報酬に関する手紙と思ったのだろう。
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彼は例の新聞社の報酬に関する書状と思ひしならん。
「いや、心配しなくていいよ。あなたも名前を知っている相沢が、大臣と一緒にここに来て私を呼んでいる。急ぐというから今すぐ行かなければ。」
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「否、心にな掛けそ。おん身も名を知る相沢が、大臣と倶にこゝに来てわれを呼ぶなり。急ぐといへば今よりこそ。」
かわいいひとり息子を送り出す母もこれほどは気を使うまい。
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かはゆき独り子を出し遣る母もかくは心を用ゐじ。
大臣に会えるかもしれないと思ってのことだろう、エリスは病気をこらえて立ち上がり、肌着もとびきり白いのを選び、丁寧にしまっておいた二列ボタンの服を出して着せ、
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大臣にまみえもやせんと思へばならん、エリスは病をつとめて起ち、上襦袢も極めて白きを撰び、丁寧にしまひ置きし「ゲエロツク」
えり飾りまで私のために自ら結んでくれた。
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といふ二列ぼたんの服を出して着せ、襟飾りさへ余が為めに手づから結びつ。
「これで見苦しいとは誰も言えないわ。鏡に向かってご覧なさいな。なぜそんなふきげんな顔をなさるの。私も一緒に行きたいくらいなのに。」
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「これにて見苦しとは誰れも得言はじ。我鏡に向きて見玉へ。何故にかく不興なる面もちを見せ玉ふか。われも諸共に行かまほしきを。」
少し改まった様子で。
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少し容をあらためて。
「いいえ、こうして衣を替えていらっしゃるのを見ると、なんとなくいつもの私の豊太郎様には見えないわ。」
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「否、かく衣を更め玉ふを見れば、何となくわが豊太郎の君とは見えず。」
また少し考えて。
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又た少し考へて。
「たとえ裕福になる日が来ても、私のことを見捨てはなさらないでしょうね。私の病気は母のおっしゃるようなことではないにしても。」
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「縦令富貴になり玉ふ日はありとも、われをば見棄て玉はじ。我病は母の宣ふ如くならずとも。」
「何、裕福だって。」
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「何、富貴。」
私は微笑した。
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余は微笑しつ。
「政治や社会界に出ようという望みを絶ってから何年も経ったのに。大臣は会いたくもない。ただ長い間会っていなかった友人に会いに行くだけだよ。」
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「政治社会などに出でんの望みは絶ちしより幾年をか経ぬるを。大臣は見たくもなし。唯年久しく別れたりし友にこそ逢ひには行け。」
エリスの母が呼んだ一等馬車は、
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エリスが母の呼びし一等「ドロシユケ」
車輪の下で雪道がきしる音をさせながら窓の下まで来た。
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は、輪下にきしる雪道を窻の下まで来ぬ。
私は手袋をはめ、少し汚れた外套を背に羽織って腕は通さず、帽子を取ってエリスに接吻して二階から下りた。
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余は手袋をはめ、少し汚れたる外套を背に被ひて手をば通さず帽を取りてエリスに接吻して楼を下りつ。
彼女は凍った窓を開け、乱れた髪を北風に吹かせながら私が乗った車を見送った。
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彼は凍れる窻を明け、乱れし髪を朔風に吹かせて余が乗りし車を見送りぬ。
私が車から降りたのはカイザーホフの
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余が車を下りしは「カイゼルホオフ」
入り口だ。
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の入口なり。
門番に秘書官相沢の部屋番号を聞いて、久しく踏み慣れていない大理石の階段を上り、中央の柱にビロードを張った
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門者に秘書官相沢が室の番号を問ひて、久しく踏み慣れぬ大理石の階を登り、中央の柱に「プリユツシユ」
ソファを据え付け、
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を被へる「ゾフア」
正面には鏡を立てた前室に入った。
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を据ゑつけ、正面には鏡を立てたる前房に入りぬ。
外套はここで脱ぎ、廊下を伝って部屋の前まで行ったが、私は少しためらった。
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外套をばこゝにて脱ぎ、廊をつたひて室の前まで往きしが、余は少し踟蹰したり。
同じく大学にいた頃に、私の品行の正しさを激賞してくれた相沢が、今日はどんな顔をして出迎えるだろうか。
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同じく大学に在りし日に、余が品行の方正なるを激賞したる相沢が、けふは怎なる面もちして出迎ふらん。
部屋に入って向かい合って見れば、体つきこそ以前に比べて太って逞しくなったが、相変わらず快活な気性で、私の失態もさほど気に留めていないように見えた。
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室に入りて相対して見れば、形こそ旧に比ぶれば肥えて逞ましくなりたれ、依然たる快活の気象、我失行をもさまで意に介せざりきと見ゆ。
別れてからの話を細かく語り合う間もなく、引かれていって大臣にお目にかかり、任された仕事はドイツ語で書かれた急を要する文書を翻訳せよとのことだった。
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別後の情を細叙するにも遑あらず、引かれて大臣に謁し、委托せられしは独逸語にて記せる文書の急を要するを飜訳せよとの事なり。
私が文書を受け取って大臣の部屋を出たとき、相沢は後から来て私と昼食を共にしようと言った。
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余が文書を受領して大臣の室を出でし時、相沢は跡より来て余と午餐を共にせんといひぬ。
食卓では彼が多く尋ね、私が多く答えた。
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食卓にては彼多く問ひて、我多く答へき。
彼の人生はおおむね順調だったのに、ぐあいが悪く運に見放されているのは私の身の上だったからだ。
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彼が生路は概ね平滑なりしに、轗軻数奇なるは我身の上なりければなり。
私が胸の内を打ち明けて話した不幸な経歴を聞いて、彼は何度も驚いたが、なかなか私を責めようとはせず、かえってほかの平凡な留学生仲間を罵った。
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余が胸臆を開いて物語りし不幸なる閲歴を聞きて、かれは屡〻驚きしが、なか/\に余を譴めんとはせず、却りて他の凡庸なる諸生輩を罵りき。
しかし話が終わったとき、彼は顔つきを改めて諭すように言った。この一点のことは、もとから生まれついての弱い心から出たことなので、今更言っても仕方がない。
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されど物語の畢りしとき、彼は色を正して諫むるやう、この一段のことは素と生れながらなる弱き心より出でしなれば、今更に言はんも甲斐なし。
とはいえ、学識があり才能があるものが、いつまでも一人の少女の情に絡まりついて、目的のない暮らしをするべきか。
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とはいへ、学識あり、才能あるものが、いつまでか一少女の情にかゝづらひて、目的なき生活をなすべき。
今は天方伯もただドイツ語を利用しようという気持ちだけだ。
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今は天方伯も唯だ独逸語を利用せんの心のみなり。
自分も伯が当時あなたを免職した理由を知っているから、無理にその気持ちを動かそうとはしない。伯の心の中でひいき者だと思われるのは、友人には得にならず、自分に損があるからだ。
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おのれも亦伯が当時の免官の理由を知れるが故に、強て其成心を動かさんとはせず、伯が心中にて曲庇者なりなんど思はれんは、朋友に利なく、おのれに損あればなり。
人を推薦するにはまずその能力を示すのが一番だ。
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人を薦むるは先づ其能を示すに若かず。
これを見せて伯の信用を得なさい。
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これを示して伯の信用を求めよ。
またあの少女との関係は、たとえ彼女に誠実さがあっても、たとえ情が深くなっていても、あなたの人物を見て惚れたわけではなく、習慣というある種の惰性から生まれた付き合いだ。
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又彼少女との関係は、縦令彼に誠ありとも、縦令情交は深くなりぬとも、人材を知りてのこひにあらず、慣習といふ一種の惰性より生じたる交なり。
意を決して断ちなさい。
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意を決して断てと。
これがその言葉のおおむねだった。
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是れその言のおほむねなりき。
大海で舵を失った船乗りが、遠くの山を望むようなのが、相沢が私に示した前途の方針だった。
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大洋に舵を失ひしふな人が、遙なる山を望む如きは、相沢が余に示したる前途の方鍼なり。
しかしこの山はまだ深い霧の中にあって、いつたどり着けるか、いや、果たしてたどり着いたとしても、私の心に満足を与えるかどうかも定かではない。
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されどこの山は猶ほ重霧の間に在りて、いつ往きつかんも、否、果して往きつきぬとも、我中心に満足を与へんも定かならず。
貧しい中にも楽しいのは今の暮らし、捨てがたいのはエリスの愛情。
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貧きが中にも楽しきは今の生活、棄て難きはエリスが愛。
私の弱い心には思い定めるすべがなかったが、しばらく友の言葉に従って、この情の縁を断とうと約束した。
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わが弱き心には思ひ定めんよしなかりしが、姑く友の言に従ひて、この情縁を断たんと約しき。
私は守るものを失うまいと思って、自分に敵するものには抵抗するが、友に対して「いや」とは言えないのがいつものことだった。
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余は守る所を失はじと思ひて、おのれに敵するものには抗抵すれども、友に対して否とはえ対へぬが常なり。
別れて外に出ると、風が顔を打った。
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別れて出づれば風面を撲てり。
二重のガラス窓をしっかり閉め、大きな陶器の炉に火を焚いたホテルの
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二重の玻璃窻を緊しく鎖して、大いなる陶炉に火を焚きたる「ホテル」
食堂を出てきたのだから、薄い外套を通す午後四時の寒さはことさら耐えがたく、肌が粟立つと同時に、私は心の中に一種の寒さを覚えた。
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の食堂を出でしなれば、薄き外套を透る午後四時の寒さは殊さらに堪へ難く、膚粟立つと共に、余は心の中に一種の寒さを覚えき。
翻訳は一夜でやり遂げた。
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飜訳は一夜になし果てつ。
カイザーホフへ
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「カイゼルホオフ」
通うことはこれよりだんだん多くなっていく中で、初めは伯のお言葉も用件だけだったが、後には近頃故郷であったことなどを取り上げて私の意見を問い、折に触れては道中で人々が失敗したことなどをおっしゃってにこやかに笑われた。
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へ通ふことはこれより漸く繁くなりもて行く程に、初めは伯の言葉も用事のみなりしが、後には近比故郷にてありしことなどを挙げて余が意見を問ひ、折に触れては道中にて人々の失錯ありしことどもを告げて打笑ひ玉ひき。
一か月ほど過ぎて、ある日伯は突然私に向かって、「私は明日ロシアに向かって出発する。一緒に来るか」
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一月ばかり過ぎて、或る日伯は突然われに向ひて、「余は明旦、魯西亜に向ひて出発すべし。随ひて来べきか、」
と問うた。
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と問ふ。
私は数日間、あの公務に暇のない相沢に会っていなかったので、この問いは不意に私を驚かせた。
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余は数日間、かの公務に遑なき相沢を見ざりしかば、此問は不意に余を驚かしつ。
「どうして命に従わないでおれましょう。」
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「いかで命に従はざらむ。」
私は自分の恥を白状しよう。
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余は我恥を表はさん。
この答えはいち早く決断して言ったわけではない。
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此答はいち早く決断して言ひしにあらず。
私は自分が信じて頼りにする気持ちを持った人に、突然ものを問われたときは、とっさの間にその答えの範囲をよく測らず、すぐに承諾することがある。
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余はおのれが信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたるときは、咄嗟の間、その答の範囲を善くも量らず、直ちにうべなふことあり。
そして承諾してしまってから、それがしにくいことに気づいても、無理に当時の心が空虚だったのを隠し、耐え忍んでこれを実行することがたびたびある。
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さてうべなひし上にて、その為し難きに心づきても、強て当時の心虚なりしを掩ひ隠し、耐忍してこれを実行すること屡々なり。
この日は翻訳の代わりに、旅費まで添えていただいたのを持ち帰り、翻訳の代金はエリスに預けた。
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此日は飜訳の代に、旅費さへ添へて賜はりしを持て帰りて、飜訳の代をばエリスに預けつ。
これでロシアから帰るまでの費用はまかなえるだろう。
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これにて魯西亜より帰り来んまでの費をば支へつべし。
彼女は医者に見てもらったところ、普通の状態ではないと言う。
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彼は医者に見せしに常ならぬ身なりといふ。
貧血の体質だったので、何か月も気づかなかったのだろう。
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貧血の性なりしゆゑ、幾月か心づかでありけん。
座長からは休みがあまりに長くなったので籍を除くと言ってよこした。
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座頭よりは休むことのあまりに久しければ籍を除きぬと言ひおこせつ。
まだ一か月ほどなのに、こんなに厳しいのはわけがあるのだろう。
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まだ一月ばかりなるに、かく厳しきは故あればなるべし。
旅立ちのことにはひどく心を悩ましているようには見えない。
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旅立の事にはいたく心を悩ますとも見えず。
偽りのない私の心を厚く信じているから。
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偽りなき我心を厚く信じたれば。
鉄道ではそれほど遠い旅でもないので、準備とてもない。
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鉄路にては遠くもあらぬ旅なれば、用意とてもなし。
体に合わせて借りた黒い礼服、新しく買い求めたゴタ版のロシア貴族譜、二、三種の辞書などを小さなカバンに
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身に合せて借りたる黒き礼服、新に買求めたるゴタ板の魯廷の貴族譜、二三種の辞書などを、小「カバン」
入れただけ。
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に入れたるのみ。
さすがに心細いことばかり多い今この頃なので、出て行った後に残るのも気が重く、また停車場で涙でもこぼしたりしたら後ろめたいから、翌朝早くエリスを母につけて知人の所に出しやった。
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流石に心細きことのみ多きこの程なれば、出で行く跡に残らんも物憂かるべく、又停車場にて涙こぼしなどしたらんには影護かるべければとて、翌朝早くエリスをば母につけて知る人がり出しやりつ。
私は旅支度を整えて戸を閉め、鍵は入り口に住む靴屋の主人に預けて出た。
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余は旅装整へて戸を鎖し、鍵をば入口に住む靴屋の主人に預けて出でぬ。
ロシア行きについては、何を語ればよいだろうか。
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魯国行につきては、何事をか叙すべき。
通訳としての仕事はたちまちに私を引き連れ去って、青雲の上に投げ込んだ。
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わが舌人たる任務は忽地に余を拉し去りて、青雲の上に堕したり。
私が大臣の一行に従ってサンクトペテルブルクにいた間に、私を取り囲んでいたのは、パリの最高の豪華さを氷雪の中に移したような宮城の装飾、わざわざ黄色い蝋燭をいくつも灯した中に、幾つもの勲章、幾つものエポレット(肩章)が反射する光、
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余が大臣の一行に随ひて、ペエテルブルクに在りし間に余を囲繞せしは、巴里絶頂の驕奢を、氷雪の裡に移したる王城の粧飾、故らに黄蝋の燭を幾つ共なく点したるに、幾星の勲章、幾枝の「エポレツト」
精巧な細工を尽したマントルピースの
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が映射する光、彫鏤の工を尽したる「カミン」
火に寒さを忘れて使う宮廷女官の扇の閃きなどであって、この間フランス語をもっとも滑らかに使えるのは私だったので、客と主人の間を取り持って事を処理するのも多くは私だった。
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の火に寒さを忘れて使ふ宮女の扇の閃きなどにて、この間仏蘭西語を最も円滑に使ふものはわれなるがゆゑに、賓主の間に周旋して事を弁ずるものもまた多くは余なりき。
この間私はエリスを忘れなかった。いや、彼女は毎日手紙を送ってきたから忘れられなかった。
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この間余はエリスを忘れざりき、否、彼は日毎に書を寄せしかばえ忘れざりき。
私が立った日には、いつになく一人で灯火に向かうことの心憂さに、知人の所で夜になるまで話をして、疲れるのを待って家に帰り、そのまま眠った。
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余が立ちし日には、いつになく独りにて燈火に向はん事の心憂さに、知る人の許にて夜に入るまでもの語りし、疲るゝを待ちて家に還り、直ちにいねつ。
次の朝目覚めたとき、まだ一人で後に残ったことを夢ではないかと思った。
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次の朝目醒めし時は、猶独り跡に残りしことを夢にはあらずやと思ひぬ。
起き出したときの心細さ、こんな気持ちは、生活に苦んで今日の食べ物もなかった折にも感じなかった。
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起き出でし時の心細さ、かゝる思ひをば、生計に苦みて、けふの日の食なかりし折にもせざりき。
これが彼女の最初の手紙のあらましだ。
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これ彼が第一の書の略なり。
また時を経てからの手紙はかなり思い詰めて書いたようだった。
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又程経てのふみは頗る思ひせまりて書きたる如くなりき。
文を「いや」という字で起こしていた。
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文をば否といふ字にて起したり。
いや、あなたを思う気持ちの深い底をこそ今知ったのです。
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否、君を思ふ心の深き底をば今ぞ知りぬる。
あなたはふるさとに頼りになる身内がないとおっしゃったから、ここに良い暮らしの手立てがあれば、留まらないことがあるでしょうか。
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君は故里に頼もしき族なしとのたまへば、此地に善き世渡のたつきあらば、留り玉はぬことやはある。
また私の愛でつなぎ留めずにはおかないわ。
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又我愛もて繋ぎ留めでは止まじ。
それもかなわずに東へお帰りになるのなら、母と共に行くのは簡単だけど、あれほど多い旅費をどこから得るのでしょう。
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それも愜はで東に還り玉はんとならば、親と共に往かんは易けれど、か程に多き路用を何処よりか得ん。
どんな仕事をしてもここに留まって、あなたが世に出られる日をこそ待とうといつもは思っていたが、しばらくの旅とておって出られてからこの二十日ほど、別れの思いは日ごとに募るばかりです。
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怎なる業をなしても此地に留りて、君が世に出で玉はん日をこそ待ためと常には思ひしが、暫しの旅とて立出で玉ひしより此二十日ばかり、別離の思は日にけに茂りゆくのみ。
袂を分かつのはただ一瞬の苦しみだと思っていたのは迷いでした。
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袂を分つはたゞ一瞬の苦艱なりと思ひしは迷なりけり。
私の体が普通でないことがだんだんはっきりしてきた。そのことさえあるのに、たとえどんなことがあっても、決して私を捨てないでください。
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我身の常ならぬが漸くにしるくなれる、それさへあるに、縦令いかなることありとも、我をば努な棄て玉ひそ。
母とはひどく言い争った。
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母とはいたく争ひぬ。
けれど私が今までの頃とは違って気持ちを定めたのを見て、母は折れた。
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されど我身の過ぎし頃には似で思ひ定めたるを見て心折れぬ。
私が東へ行く日には、シュテッティン付近の農家に遠い縁者がいるので、そこに身を寄せようと言っている。
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わが東に往かん日には、ステツチンわたりの農家に、遠き縁者あるに、身を寄せんとぞいふなる。
お書き送りくださったように、大臣にしっかり使っていただければ、私の旅費は何とかなるでしょう。
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書きおくり玉ひし如く、大臣の君に重く用ゐられ玉はゞ、我路用の金は兎も角もなりなん。
今はただあなたがベルリンにお帰りになる日を待つばかりです。
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今は只管君がベルリンにかへり玉はん日を待つのみ。
ああ、私はこの手紙を見て初めて自分の立場をはっきりと見ることができた。
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嗚呼、余は此書を見て始めて我地位を明視し得たり。
恥ずかしいのは私の鈍い心だ。
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恥かしきはわが鈍き心なり。
私は自分一人の身の進退についても、また自分に関係のない他人のことについても、決断力があると自分の心に誇っていたが、この決断力は順境のみにあって、逆境にはなかった。
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余は我身一つの進退につきても、また我身に係らぬ他人の事につきても、決断ありと自ら心に誇りしが、此決断は順境にのみありて、逆境にはあらず。
自分と人との関係を照らそうとするときは、頼みにしていた胸の中の鏡は曇っていたのだ。
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我と人との関係を照さんとするときは、頼みし胸中の鏡は曇りたり。
大臣はすでに私に厚くしてくださっていた。
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大臣は既に我に厚し。
しかし私の近視眼は自分が果たした職分だけを見ていた。
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されどわが近眼は唯だおのれが尽したる職分をのみ見き。
私はこれに未来の望みを繋ぐことには、神も知るだろうが、全く思い至らなかった。
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余はこれに未来の望を繋ぐことには、神も知るらむ、絶えて想到らざりき。
しかし今ここで気づいて、私の心はそれでも冷静だっただろうか。
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されど今こゝに心づきて、我心は猶ほ冷然たりし歟。
先に友が勧めたときは、大臣の信用は手の届かない所にいる鳥のようだったが、今はようやくこれを得たかと思われるのに、相沢がこの頃の言葉の端に、本国に帰った後も一緒にいるならばという云々と言ったのは、大臣がそうおっしゃったのを、友としても公のことなので明には告げなかったのではないか。
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先に友の勧めしときは、大臣の信用は屋上の禽の如くなりしが、今は稍〻これを得たるかと思はるゝに、相沢がこの頃の言葉の端に、本国に帰りて後も倶にかくてあらば云々といひしは、大臣のかく宣ひしを、友ながらも公事なれば明には告げざりし歟。
今になって思えば、私が軽々しくも彼に向かってエリスとの関係を断つと言ったのを、早くも大臣に告げていたのではないか。
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今更おもへば、余が軽卒にも彼に向ひてエリスとの関係を絶たんといひしを、早く大臣に告げやしけん。
ああ、ドイツに来た最初に、自ら本当の自分に気づいたと思って、もう機械的な人間にはなるまいと誓ったが、これは足を縛られたまま放たれた鳥がしばらく羽を動かして自由を得たと誇ったのとどこが違うか。
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嗚呼、独逸に来し初に、自ら我本領を悟りきと思ひて、また器械的人物とはならじと誓ひしが、こは足を縛して放たれし鳥の暫し羽を動かして自由を得たりと誇りしにはあらずや。
足の糸を解く方法はない。
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足の糸は解くに由なし。
先にこれを操っていたのは私が仕えた某省の上司で、今はこの糸が、ああ哀れなことに、天方伯の手の中にある。
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曩にこれを繰つりしは、我某省の官長にて、今はこの糸、あなあはれ、天方伯の手中に在り。
私が大臣の一行と共にベルリンに帰ったのは、ちょうど新年の元旦のことだった。
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余が大臣の一行と倶にベルリンに帰りしは、恰も是れ新年の旦なりき。
停車場で別れを告げて、自分の家を目指して馬車を走らせた。
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停車場に別を告げて、我家をさして車を駆りつ。
ここでは今も大みそかの夜は眠らず、元旦に眠るのが習わしなので、万の家が静まり返っている。
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こゝにては今も除夜に眠らず、元旦に眠るが習なれば、万戸寂然たり。
寒さは強く、道の雪は角のある氷の破片となって、晴れた日に映えてきらきらと輝いた。
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寒さは強く、路上の雪は稜角ある氷片となりて、晴れたる日に映じ、きら/\と輝けり。
馬車はクロスター街に曲がって、家の入り口に止まった。
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車はクロステル街に曲りて、家の入口に駐まりぬ。
このとき窓を開ける音がしたが、車からは見えない。
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この時窓を開く音せしが、車よりは見えず。
馭者に「カバン」を
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馭丁に「カバン」
持たせて階段を上ろうとするところへ、エリスが階段を駆け下りてきて出くわした。
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持たせて梯を登らんとする程に、エリスの梯を駈け下るに逢ひぬ。
彼女が一声叫んで私の首を抱いたのを見て、馭者は呆れた顔で何やら髭の中でつぶやいたが聞こえなかった。
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彼が一声叫びて我頸を抱きしを見て馭丁は呆れたる面もちにて、何やらむ髭の内にて云ひしが聞えず。
「よくぞお帰りくださった。お帰りにならなければ私の命は絶えたでしょうに。」
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「善くぞ帰り来玉ひし。帰り来玉はずば我命は絶えなんを。」
私の心はこの時までも定まらず、ふるさとを思う気持ちと出世を求める心とは、時として愛情を圧えようとしていたが、ただこの一瞬、ためらいの思いは去って、私は彼女を抱き、彼女の頭は私の肩に寄りかかり、彼女の喜びの涙がはらはらと肩の上に落ちた。
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我心はこの時までも定まらず、故郷を憶ふ念と栄達を求むる心とは、時として愛情を圧せんとせしが、唯だ此一刹那、低徊踟蹰の思は去りて、余は彼を抱き、彼の頭は我肩に倚りて、彼が喜びの涙ははら/\と肩の上に落ちぬ。
「何階まで持って行けばいいか。」
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「幾階か持ちて行くべき。」
とドラのように叫んだ馭者は、いち早く上って階段の上に立っていた。
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と鑼の如く叫びし馭丁は、いち早く登りて梯の上に立てり。
戸口に出迎えたエリスの母に、馭者をねぎらって銀貨を渡して、私は手を取って引くエリスに伴われ、急いで部屋に入った。
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戸の外に出迎へしエリスが母に、馭丁を労ひ玉へと銀貨をわたして、余は手を取りて引くエリスに伴はれ、急ぎて室に入りぬ。
一目見て私は驚いた。テーブルの上には白い木綿、白いレース
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一瞥して余は驚きぬ、机の上には白き木綿、白き「レエス」
などを高く積み上げてあったから。
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などを堆く積み上げたれば。
エリスは微笑みながらこれを指さして、「どうご覧になる、この準備を。」
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エリスは打笑みつゝこれを指して、「何とか見玉ふ、この心がまへを。」
と言いながら一枚の木綿切れを取り上げるのを見れば、おむつだった。
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といひつゝ一つの木綿ぎれを取上ぐるを見れば襁褓なりき。
「私の心の嬉しさを思ってみてください。生まれてくる子はあなたに似て黒い瞳を持つでしょうか。この瞳。ああ、夢にだけ見ていたのはあなたの黒い瞳です。生まれた日にはあなたの正しい心で、まさか違う名前をつけさせはしないでしょう。」
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「わが心の楽しさを思ひ玉へ。産れん子は君に似て黒き瞳子をや持ちたらん。この瞳子。嗚呼、夢にのみ見しは君が黒き瞳子なり。産れたらん日には君が正しき心にて、よもあだし名をばなのらせ玉はじ。」
彼女は頭を垂れた。
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彼は頭を垂れたり。
「子どもっぽいと笑われるかもしれないけど、寺に入る日はどれほど嬉しいことでしょう。」
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「穉しと笑ひ玉はんが、寺に入らん日はいかに嬉しからまし。」
見上げた目には涙が満ちていた。
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見上げたる目には涙満ちたり。
二、三日の間は大臣のところにも、旅の疲れがおありだろうとあえて訪ねず、家にだけこもっていたが、ある日の夕暮れに使いを通じて招かれた。
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二三日の間は大臣をも、たびの疲れやおはさんとて敢て訪らはず、家にのみ籠り居しが、或る日の夕暮使して招かれぬ。
行って見れば待遇がことのほか丁重で、ロシア行きの労をねぎらい慰めた後で、一緒に東に帰る気はないか、君の学問は私には測り知れないが、語学だけで世の用には足りよう、滞在が余りに長くなったので、さまざまな係累(しがらみ)もあるだろうと相沢に聞いたところ、そういうことはないと聞いて落ち着いたとおっしゃる。
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往きて見れば待遇殊にめでたく、魯西亜行の労を問ひ慰めて後、われと共に東にかへる心なきか、君が学問こそわが測り知る所ならね、語学のみにて世の用には足りなむ、滞留の余りに久しければ、様々の係累もやあらんと、相沢に問ひしに、さることなしと聞きて落居たりと宣ふ。
そのご様子は断れそうもなかった。
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其気色辞むべくもあらず。
あっと思ったが、さすがに相沢の言葉が嘘だとも言いにくく、もしこの手にすがらなければ、本国をも失い、名誉を取り戻す道も絶ち、身はこの広大なヨーロッパの大都市の人の海に葬られるかと思う念が、心の頭をつきあげてきた。
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あなやと思ひしが、流石に相沢の言を偽なりともいひ難きに、若しこの手にしも縋らずば、本国をも失ひ、名誉を挽きかへさん道をも絶ち、身はこの広漠たる欧洲大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝いて起れり。
ああ、なんと節操のない心だろうか。「かしこまりました」
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嗚呼、何等の特操なき心ぞ、「承はり侍り」
とお答えしたのは。
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と応へたるは。
鉄の額を持っていたとしても、帰ってエリスに何と言えばいいのか。
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黒がねの額はありとも、帰りてエリスに何とかいはん。
ホテルを
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「ホテル」
出たときの私の心の混乱は、たとえようもなかった。
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を出でしときの我心の錯乱は、譬へんに物なかりき。
私は道の東西も分からず、思いに沈んで歩くうちに、行き会う馬車の馭者に何度か怒鳴られ、驚いて飛びのいた。
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余は道の東西をも分かず、思に沈みて行く程に、往きあふ馬車の馭丁に幾度か叱せられ、驚きて飛びのきつ。
しばらくしてふと辺りを見ると、動物園の傍に出ていた。
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暫くしてふとあたりを見れば、獣苑の傍に出でたり。
倒れるように道端のベンチに腰を下ろし、焼くように熱く、槌で打たれるように響く頭をベンチの背もたれに持たせ、死んだようなありさまで何時間を過ごしたことか。
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倒るゝ如くに路の辺の榻に倚りて、灼くが如く熱し、椎にて打たるゝ如く響く頭を榻背に持たせ、死したる如きさまにて幾時をか過しけん。
激しい寒さが骨に徹すると感じて目が覚めた時は、夜になって雪は繁く降り、帽子のひさし、外套の肩には一センチほども積もっていた。
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劇しき寒さ骨に徹すと覚えて醒めし時は、夜に入りて雪は繁く降り、帽の庇、外套の肩には一寸許も積りたりき。
もう十一時を過ぎていただろうか。モアビット・カール街通いの鉄道馬車の軌道も雪に埋もれ、ブランデンブルク門のほとりのガス灯は寂しい光を放っていた。
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最早十一時をや過ぎけん、モハビツト、カルヽ街通ひの鉄道馬車の軌道も雪に埋もれ、ブランデンブルゲル門の畔の瓦斯燈は寂しき光を放ちたり。
立ち上がろうとすると足が凍えていたので、両手でさすって、ようやく歩けるくらいにはなった。
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立ち上らんとするに足の凍えたれば、両手にて擦りて、漸やく歩み得る程にはなりぬ。
足の運びがはかどらないので、クロスター街まで来たのは夜中を過ぎていただろうか。
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足の運びの捗らねば、クロステル街まで来しときは、半夜をや過ぎたりけん。
ここまで来た道をどのように歩いたか分からない。
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こゝ迄来し道をばいかに歩みしか知らず。
一月上旬の夜なので、ウンター・デン・リンデンの酒屋、茶店はまだ人の出入りが盛んで賑やかだったようだろうが、全く覚えていない。
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一月上旬の夜なれば、ウンテル、デン、リンデンの酒家、茶店は猶ほ人の出入盛りにて賑はしかりしならめど、ふつに覚えず。
私の頭の中にはただただ、自分は許すことのできない罪人だという思いだけが満ち満ちていた。
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我脳中には唯〻我は免すべからぬ罪人なりと思ふ心のみ満ち/\たりき。
四階の屋根裏では、エリスはまだ眠っていないらしく、きらりと輝く一星の火が暗い空に透けて見えるが、降り積もる白鷺の羽のような雪片に、たちまち覆われ、たちまちまた現れて、風にもてあそばれているようだ。
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四階の屋根裏には、エリスはまだ寝ねずと覚ぼしく、烱然たる一星の火、暗き空にすかせば、明かに見ゆるが、降りしきる鷺の如き雪片に、乍ち掩はれ、乍ちまた顕れて、風に弄ばるゝに似たり。
入り口に入ってから疲れを覚えて、体中の節々の痛みが耐えられないので、這うように階段を上った。
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戸口に入りしより疲を覚えて、身の節の痛み堪へ難ければ、這ふ如くに梯を登りつ。
台所を過ぎ、部屋の戸を開けて入ったところ、テーブルに寄りかかっておむつを縫っていたエリスは振り返って、「あ」
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庖厨を過ぎ、室の戸を開きて入りしに、机に倚りて襁褓縫ひたりしエリスは振り返へりて、「あ」
と叫んだ。
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と叫びぬ。
「どうなさったの。あなたの姿が。」
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「いかにかし玉ひし。おん身の姿は。」
驚いたのも当然だった。青白くて死人に等しい私の顔色、帽子はいつの間にか失くし、髪はぼさぼさに乱れて、何度も道で躓いて倒れたのだから、衣は泥混じりの雪で汚れ、所々は破れていたのだから。
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驚きしも宜なりけり、蒼然として死人に等しき我面色、帽をばいつの間にか失ひ、髪は蓬ろと乱れて、幾度か道にて跌き倒れしことなれば、衣は泥まじりの雪に汙れ、処々は裂けたれば。
私は答えようとするが声が出ず、膝がしきりに震えて立っていられないので、椅子をつかもうとしたところまでは覚えているが、そのまま地に倒れた。
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余は答へんとすれど声出でず、膝の頻りに戦かれて立つに堪へねば、椅子を握まんとせしまでは覚えしが、その儘に地に倒れぬ。
正気に戻ったのは数週間後のことだった。
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人事を知る程になりしは数週の後なりき。
熱が激しくて譫言ばかり言っていたのを、エリスが懸命に看病してくれていた。ある日、相沢が訪ねてきて、私が彼に隠していた一部始終を詳しく知り、大臣には病気のことだけを告げ、うまくとりつくろっておいてくれた。
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熱劇しくて譫語のみ言ひしを、エリスが慇にみとる程に、或日相沢は尋ね来て、余がかれに隠したる顛末を審らに知りて、大臣には病の事のみ告げ、よきやうに繕ひ置きしなり。
私は初めて病床に付き添っているエリスを見て、その変わり果てた姿に驚いた。
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余は始めて、病牀に侍するエリスを見て、その変りたる姿に驚きぬ。
彼女はこの数週間の間にひどく痩せて、血走った目は落ちくぼみ、灰色の頬はこけていた。
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彼はこの数週の内にいたく痩せて、血走りし目は窪み、灰色の頬は落ちたり。
相沢の助けで日々の暮らしには困らなかったが、この恩人は彼女を精神的に殺したのだった。
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相沢の助にて日々の生計には窮せざりしが、此恩人は彼を精神的に殺しゝなり。
後で聞けば彼女は相沢に会ったとき、私が相沢に与えた約束を聞き、またあの夕べ大臣にお返事した一諾を知り、突然座から飛び上がり、顔色はすっかり土のようになって、「私の豊太郎様、ここまで私を欺いていらしたのか」
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後に聞けば彼は相沢に逢ひしとき、余が相沢に与へし約束を聞き、またかの夕べ大臣に聞え上げし一諾を知り、俄に座より躍り上がり、面色さながら土の如く、「我豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺き玉ひしか」
と叫び、その場に倒れた。
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と叫び、その場に僵れぬ。
相沢は母を呼んで一緒に助け起こして床に寝かせたが、しばらくして目が覚めたときには、目は虚ろにうつろで、傍の人も分からず、私の名を呼んでひどく罵り、髪をむしり、布団を噛んだりし、また突然気づいたように物を探し求めた。
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相沢は母を呼びて共に扶けて床に臥させしに、暫くして醒めしときは、目は直視したるまゝにて傍の人をも見知らず、我名を呼びていたく罵り、髪をむしり、蒲団を噛みなどし、また遽に心づきたる様にて物を探り討めたり。
母が取って与えるものはことごとく投げつけたが、テーブルの上にあったおむつを与えたとき、手探りして顔に押しあて、涙を流して泣いた。
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母の取りて与ふるものをば悉く抛ちしが、机の上なりし襁褓を与へたるとき、探りみて顔に押しあて、涙を流して泣きぬ。
これよりは騒ぐことはなくなったが、精神の働きはほとんど全く失われて、その様子は赤ちゃんのようになった。
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これよりは騒ぐことはなけれど、精神の作用は殆全く廃して、その痴なること赤児の如くなり。
医者に診せたところ、ひどい心労で急に起きた「パラノイア(妄想病)」という病なので、
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医に見せしに、過劇なる心労にて急に起りし「パラノイア」
治る見込みはないと言う。
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といふ病なれば、治癒の見込なしといふ。
ダルドルフの精神病院に入れようとしたが、泣き叫んで聞かず、後にはかのおむつ一枚を体につけて、何度も出しては見て、見ては泣き崩れる。
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ダルドルフの癲狂院に入れむとせしに、泣き叫びて聴かず、後にはかの襁褓一つを身につけて、幾度か出しては見、見ては欷歔す。
私の病床を離れないが、これさえも意識してのことではないと見える。
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余が病牀をば離れねど、これさへ心ありてにはあらずと見ゆ。
ただ時々思い出したように「薬を、薬を」
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たゞをり/\思ひ出したるやうに「薬を、薬を」
と言うだけだ。
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といふのみ。
私の病は完全に癒えた。
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余が病は全く癒えぬ。
生ける屍となったエリスを抱いて幾すじもの涙を注いだことは何度だったろうか。
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エリスが生ける屍を抱きて千行の涙を濺ぎしは幾度ぞ。
大臣に従って帰国の旅についたときは、相沢と相談してエリスの母にわずかな暮らしを立てるに足りるほどの元手を与え、哀れな発狂した女の胎内に遺した子が生まれる折のことも頼み置いた。
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大臣に随ひて帰東の途に上ぼりしときは、相沢と議りてエリスが母に微なる生計を営むに足るほどの資本を与へ、あはれなる狂女の胎内に遺しゝ子の生れむをりの事をも頼みおきぬ。
ああ、相沢謙吉のような良い友はこの世でまたとは得難いだろう。
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嗚呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。
しかし私の心の中に、一点の彼を憎む気持ちが今日まで残っているのだ。
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されど我脳裡に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり。