舞姫 現代語訳
森鴎外(もりおうがい)・1890年
AI生成この訳はAI(claude-opus-4-8)が原文から生成したものです(生成日: 2026-07-23)
石炭はもう積み終わった。
原文を見る
石炭をば早や積み果てつ。
船の中等室のテーブルのあたりはとても静かで、白熱灯の光がやけに明るいのもむなしい。
原文を見る
中等室の卓のほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。
今夜は、毎晩ここに集まってトランプをする仲間もホテルに泊まっていて、
原文を見る
今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌仲間も「ホテル」
船に残っているのは私一人だけなのだ。
原文を見る
に宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば。
五年前のことだった。前々からの願いがかなって留学の辞令をもらい、このサイゴンの港まで来たころは、目に映るものも耳に入るものも、何もかもが新しかった。思いつくままに書いた紀行文は、毎日何千字にもなっただろうか。当時の新聞に載って世間の人にもてはやされたけれど、今になって思えば、幼い考えや身のほど知らずな大言壮語ばかりで、それだけでなく、どこにでもある動植物や鉱物、それに風俗までも珍しがって書いていたのを、しっかりした人はどう見ただろう。
原文を見る
五年前の事なりしが、平生の望足りて、洋行の官命を蒙り、このセイゴンの港まで来し頃は、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして新ならぬはなく、筆に任せて書き記しつる紀行文日ごとに幾千言をかなしけむ、当時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど、今日になりておもへば、穉き思想、身の程知らぬ放言、さらぬも尋常の動植金石、さては風俗などをさへ珍しげにしるしゝを、心ある人はいかにか見けむ。
今回は、旅立ったとき日記でも書こうと思って買ったノートも、まだ真っ白なままだ。ドイツで学ぶうちに、何を見ても感心しない構えでも身についたのだろうか。
原文を見る
こたびは途に上りしとき、日記ものせむとて買ひし冊子もまだ白紙のまゝなるは、独逸にて物学びせし間に、一種の「ニル、アドミラリイ」
いや、そうではない。これには別の理由がある。
原文を見る
の気象をや養ひ得たりけむ、あらず、これには別に故あり。
本当に、東の日本へ帰る今の私は、西の欧州へ向かった昔の私ではない。学問のうえでは物足りないところもまだ多いけれど、世の中のつらさを知ったし、人の心が当てにならないのは言うまでもなく、自分の心さえ変わりやすいことも思い知った。
原文を見る
げに東に還る今の我は、西に航せし昔の我ならず、学問こそ猶心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしをも知りたり、人の心の頼みがたきは言ふも更なり、われとわが心さへ変り易きをも悟り得たり。
昨日正しいと思ったことが今日は間違いに思える、そんなその瞬間だけの気持ちを、書き写して誰に見せろというのか。
原文を見る
きのふの是はけふの非なるわが瞬間の感触を、筆に写して誰にか見せむ。
これが日記の書けない理由だ。いや、そうではない。これには別の理由がある。
原文を見る
これや日記の成らぬ縁故なる、あらず、これには別に故あり。
ああ、ブリンディシの港を出てから、もう二十日あまりがたった。
原文を見る
嗚呼、ブリンヂイシイの港を出でゝより、早や二十日あまりを経ぬ。
船旅というのはふつう、旅先で初対面の相手とも仲良くなって、旅のつらさを慰め合うものだ。それなのに私は、体調が悪いふりをして部屋にこもってばかりで、同じ船の人ともほとんど口をきかない。誰にも言えない後悔で頭を悩ませているからだ。
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世の常ならば生面の客にさへ交を結びて、旅の憂さを慰めあふが航海の習なるに、微恙にことよせて房の裡にのみ籠りて、同行の人々にも物言ふことの少きは、人知らぬ恨に頭のみ悩ましたればなり。
この後悔は、初めは一筋の雲のように私の心をよぎった。そのせいでスイスの山の景色も目に入らず、イタリアの遺跡にも心を留められず、途中では世の中がいやになり、自分の命をはかなんで、毎日はらわたがねじ切れそうなほど苦しんだ。今では心の奥に固まって、ただ一点の影になっているだけだ。それでも、本を読むたび、何かを見るたびに、鏡に映る影や、声に応える響きのように、限りない懐かしさを呼び起こして、何度も私の心を苦しめる。
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此恨は初め一抹の雲の如く我心を掠めて、瑞西の山色をも見せず、伊太利の古蹟にも心を留めさせず、中頃は世を厭ひ、身をはかなみて、腸日ごとに九廻すともいふべき惨痛をわれに負はせ、今は心の奥に凝り固まりて、一点の翳とのみなりたれど、文読むごとに、物見るごとに、鏡に映る影、声に応ずる響の如く、限なき懐旧の情を喚び起して、幾度となく我心を苦む。
ああ、どうやってこの後悔を消せばいいのだろう。
原文を見る
嗚呼、いかにしてか此恨を銷せむ。
もしこれが別の後悔なら、詩に詠んだり歌に書いたりすれば、気持ちもすっきりするだろう。
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若し外の恨なりせば、詩に詠じ歌によめる後は心地すが/\しくもなりなむ。
だが、これだけはあまりにも深く心に刻まれているから、そうもいかないと思う。でも、今夜はまわりに誰もいないし、ボーイが来て電灯のスイッチを切るまでにはまだ時間がある。よし、その大まかなところを書いてみよう。
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これのみは余りに深く我心に彫りつけられたればさはあらじと思へど、今宵はあたりに人も無し、房奴の来て電気線の鍵を捩るには猶程もあるべければ、いで、その概略を文に綴りて見む。
私は幼いころから家庭で厳しくしつけられたおかげで、父を早く亡くしたものの、勉強がおろそかになることはなかった。故郷の藩校にいたときも、東京に出て予備校に通ったときも、大学の法学部に入ってからも、太田豊太郎という名前はいつも学年で一番として記録されていた。それがひとり息子の私を頼りに世を渡っていく母の心の慰めになっていたようだ。
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余は幼き比より厳しき庭の訓を受けし甲斐に、父をば早く喪ひつれど、学問の荒み衰ふることなく、旧藩の学館にありし日も、東京に出でゝ予備黌に通ひしときも、大学法学部に入りし後も、太田豊太郎といふ名はいつも一級の首にしるされたりしに、一人子の我を力になして世を渡る母の心は慰みけらし。
十九歳で学士の称号をもらい、大学ができてからその頃までで一番の名誉だと人にも言われた。ある省に勤め、故郷の母を東京に呼び寄せて、楽しい年月を三年ほど過ごした。上司の覚えも特別によかったので、留学して一つの部門の事務を調べてこいという命令を受けた。自分の名を上げるのも、家を興すのも今だと心が勇み立ち、五十を過ぎた母と別れるのもそれほど悲しいとは思わず、はるばる家を離れてベルリンの都にやって来た。
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十九の歳には学士の称を受けて、大学の立ちてよりその頃までにまたなき名誉なりと人にも言はれ、某省に出仕して、故郷なる母を都に呼び迎へ、楽しき年を送ること三とせばかり、官長の覚え殊なりしかば、洋行して一課の事務を取り調べよとの命を受け、我名を成さむも、我家を興さむも、今ぞとおもふ心の勇み立ちて、五十を踰えし母に別るゝをもさまで悲しとは思はず、遙々と家を離れてベルリンの都に来ぬ。
私はなんとなく出世したいという気持ちと、決まりきった勉強で身につけた力を頼りに、あっという間にこのヨーロッパの新しい大都市の真ん中に立った。
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余は模糊たる功名の念と、検束に慣れたる勉強力とを持ちて、忽ちこの欧羅巴の新大都の中央に立てり。
なんという輝きが、私の目を射ようとするのか。
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何等の光彩ぞ、我目を射むとするは。
なんという色つやが、私の心を迷わせようとするのか。
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何等の色沢ぞ、我心を迷はさむとするは。
「菩提樹の下」と訳すと、静かでもの寂しい場所のように思える。けれども実際は違う。この髪の毛のようにまっすぐ伸びた大通り、ウンター・デン・リンデンに来て、両側の石畳の歩道を行き交う着飾った男女の群れを見てほしい。
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菩提樹下と訳するときは、幽静なる境なるべく思はるれど、この大道髪の如きウンテル、デン、リンデンに来て両辺なる石だゝみの人道を行く隊々の士女を見よ。
胸を張り肩をそびやかした士官たち。まだヴィルヘルム一世が街に面した窓に寄りかかっていらっしゃる頃だったので、色とりどりに飾った礼装を着ている。美しい少女がパリ風のおしゃれをしている。あれもこれも目を奪うものばかりだ。舗装した車道の上を音もなく走るさまざまな馬車、雲までそびえる高い建物が少し途切れたところには、晴れた空に夕立のような音を立てて流れ落ちる噴水の水。遠くを見ればブランデンブルク門の向こうに、緑の木々が枝を交わし合う中から、空の半ばに浮かび上がった凱旋塔の女神の像。こんなにたくさんの景色が目の前に集まっているのだから、初めてここに来た者が見るのに追われて目が回るのも当然だ。
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胸張り肩聳えたる士官の、まだ維廉一世の街に臨める窻に倚り玉ふ頃なりければ、様々の色に飾り成したる礼装をなしたる、妍き少女の巴里まねびの粧したる、彼も此も目を驚かさぬはなきに、車道の土瀝青の上を音もせで走るいろ/\の馬車、雲に聳ゆる楼閣の少しとぎれたる処には、晴れたる空に夕立の音を聞かせて漲り落つる噴井の水、遠く望めばブランデンブルク門を隔てゝ緑樹枝をさし交はしたる中より、半天に浮び出でたる凱旋塔の神女の像、この許多の景物目睫の間に聚まりたれば、始めてこゝに来しものゝ応接に遑なきも宜なり。
けれども私の胸には、たとえどんな場所で遊んでも、意味のない美しさに心を動かされまい、という誓いがあって、いつも私に迫ってくる外の誘惑をさえぎり止めていた。
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されど我胸には縦ひいかなる境に遊びても、あだなる美観に心をば動さじの誓ありて、つねに我を襲ふ外物を遮り留めたりき。
私が呼び鈴を鳴らして面会を求め、公式の紹介状を出して東洋から来た用件を告げると、プロイセンの役人たちはみんな快く私を迎えてくれた。公使館からの手続きさえ問題なく済めば、何ごとも教えもし伝えもしようと約束してくれた。
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余が鈴索を引き鳴らして謁を通じ、おほやけの紹介状を出だして東来の意を告げし普魯西の官員は、皆快く余を迎へ、公使館よりの手つゞきだに事なく済みたらましかば、何事にもあれ、教へもし伝へもせむと約しき。
うれしかったのは、故郷でドイツ語とフランス語を学んでいたことだ。
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喜ばしきは、わが故里にて、独逸、仏蘭西の語を学びしことなり。
彼らは初めて私を見たとき、どこでいつの間にこんなに学んだのかと、必ず尋ねてきた。
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彼等は始めて余を見しとき、いづくにていつの間にかくは学び得つると問はぬことなかりき。
そうして、公務の合間ごとに、前もって役所の許可も得ていたので、その土地の大学に入って政治学を学ぼうと、名簿に名前を書いてもらった。
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さて官事の暇あるごとに、かねておほやけの許をば得たりければ、ところの大学に入りて政治学を修めむと、名を簿冊に記させつ。
ひと月ふた月と過ごすうちに、公式の打ち合わせも済み、調査もだんだんはかどっていったので、急ぐことは報告書にして送り、そうでないものは書き写しておいて、しまいには何巻にもなっただろうか。
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ひと月ふた月と過す程に、おほやけの打合せも済みて、取調も次第に捗り行けば、急ぐことをば報告書に作りて送り、さらぬをば写し留めて、つひには幾巻をかなしけむ。
大学のほうでは、幼い頃に思っていたように政治家になるための特別な学科があるわけでもなく、あれかこれかと迷いながらも、二、三人の法学者の講義を聴くことに決めて、授業料を払い、通って聴いた。
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大学のかたにては、穉き心に思ひ計りしが如く、政治家になるべき特科のあるべうもあらず、此か彼かと心迷ひながらも、二三の法家の講筵に列ることにおもひ定めて、謝金を収め、往きて聴きつ。
こうして三年ほどは夢のように過ぎた。だが、時が来れば人の本当の好みは、包んでも包みきれずに表に出てくるものらしい。私は父の遺言を守り、母の教えに従ってきた。人が神童だとほめてくれるのがうれしくて怠けずに学び、上司がいい働き手を得たと励ましてくれるのがうれしくて休まず勤めた。そうして、ただ言われるがままに動く機械のような人間になっていたのに、自分ではそれに気づかなかった。だが今、二十五歳になって、この自由な大学の空気にもう長く触れたからだろうか、心の中がなんとなく落ち着かない。奥深く隠れていた本当の自分が、だんだん表に現れて、昨日までの自分ではない自分が、これまでの自分を責めているようだった。
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かくて三年ばかりは夢の如くにたちしが、時来れば包みても包みがたきは人の好尚なるらむ、余は父の遺言を守り、母の教に従ひ、人の神童なりなど褒むるが嬉しさに怠らず学びし時より、官長の善き働き手を得たりと奨ますが喜ばしさにたゆみなく勤めし時まで、たゞ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当りたればにや、心の中なにとなく妥ならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表にあらはれて、きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり。
私は、自分が今の世で華々しく活躍する政治家になるのにも向いていないし、法律をよく暗記して裁きを下す法律家になるのにもふさわしくないと悟った、そう思った。
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余は我身の今の世に雄飛すべき政治家になるにも宜しからず、また善く法典を諳じて獄を断ずる法律家になるにもふさはしからざるを悟りたりと思ひぬ。
私はひそかにこう思った。母は私を生きた辞書にしようとし、上司は私を生きた法律にしようとしたのだろう。
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余は私に思ふやう、我母は余を活きたる辞書となさんとし、我官長は余を活きたる法律となさんとやしけん。
辞書になるならまだ我慢できるけれど、法律になるのは耐えられない。
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辞書たらむは猶ほ堪ふべけれど、法律たらんは忍ぶべからず。
今まではどんな細かい問題にもとても丁寧に答えていた私が、この頃から上司に送る手紙には、しきりに、法律の細かい条文にこだわるべきではない、いったん法律の精神さえつかめば、こまごました事はすべて竹を割るように片づくはずだ、などと大きなことを言い始めた。
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今までは瑣々たる問題にも、極めて丁寧にいらへしつる余が、この頃より官長に寄する書には連りに法制の細目に拘ふべきにあらぬを論じて、一たび法の精神をだに得たらんには、紛々たる万事は破竹の如くなるべしなどゝ広言しつ。
また大学では法学の講義をそっちのけにして、歴史や文学に心を寄せ、だんだんその面白さがわかる境地に入っていった。
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又大学にては法科の講筵を余所にして、歴史文学に心を寄せ、漸く蔗を嚼む境に入りぬ。
上司はもともと、自分の思いどおりに使える機械を作ろうとしていたのだろう。
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官長はもと心のまゝに用ゐるべき器械をこそ作らんとしたりけめ。
独立した考えを持って、人並みでない顔つきをした男を、どうして喜ぶだろうか。
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独立の思想を懐きて、人なみならぬ面もちしたる男をいかでか喜ぶべき。
当時の私の立場は危うかった。
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危きは余が当時の地位なりけり。
だが、これだけではまだ私の立場をひっくり返すには足りなかっただろう。ちょうどその頃、日頃からベルリンの留学生の中の、ある勢力のある一団と私との間に、面白くない関係があった。その連中は私をねたみ疑い、ついには私を悪く言いふらすようになった。
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されどこれのみにては、なほ我地位を覆へすに足らざりけんを、日比伯林の留学生の中にて、或る勢力ある一群と余との間に、面白からぬ関係ありて、彼人々は余を猜疑し、又遂に余を讒誣するに至りぬ。
だが、それにも理由がないわけではなかった。
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されどこれとても其故なくてやは。
その連中は、私が一緒にビールのグラスを挙げず、ビリヤードのキューも取らないのを、頑固な心と欲を抑える力のせいだと決めつけて、あるときはあざけり、あるときはねたんだのだろう。
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彼人々は余が倶に麦酒の杯をも挙げず、球突きの棒をも取らぬを、かたくななる心と慾を制する力とに帰して、且は嘲り且は嫉みたりけん。
だがそれは私を知らないからだ。
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されどこは余を知らねばなり。
ああ、この理由は自分自身さえわかっていなかったのに、どうして人にわかるだろう。
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嗚呼、此故よしは、我身だに知らざりしを、怎でか人に知らるべき。
私の心はあのネムノキの葉に似ていて、何かが触れると縮んで避けようとする。
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わが心はかの合歓といふ木の葉に似て、物触れば縮みて避けんとす。
私の心は、世間知らずな少女のように臆病でもろいのだ。
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我心は処女に似たり。
私が幼い頃から目上の教えを守って、学問の道をたどってきたのも、勤めの道を歩んできたのも、みんな勇気があってよくやれたのではない。忍耐強く勉強する力に見えたのも、みんな自分をだまし、人までもだましていたにすぎず、人が敷いてくれた道を、ただ一筋にたどっただけなのだ。
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余が幼き頃より長者の教を守りて、学の道をたどりしも、仕の道をあゆみしも、皆な勇気ありて能くしたるにあらず、耐忍勉強の力と見えしも、皆な自ら欺き、人をさへ欺きつるにて、人のたどらせたる道を、唯だ一条にたどりしのみ。
よそに心が乱れなかったのは、外の誘惑を捨てて見向きもしないほどの勇気があったのではない。ただ外の誘惑を恐れて、自分で自分の手足を縛っていただけなのだ。
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余所に心の乱れざりしは、外物を棄てゝ顧みぬ程の勇気ありしにあらず、唯外物に恐れて自らわが手足を縛せしのみ。
故郷を出る前にも、自分が有望な人物であることを疑わず、また自分の心がよく耐えられることも深く信じていた。
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故郷を立ちいづる前にも、我が有為の人物なることを疑はず、又我心の能く耐へんことをも深く信じたりき。
ああ、それも一時のことだった。
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嗚呼、彼も一時。
船が横浜を離れるまでは、われながら立派で強い男だと思っていた。それなのに、こらえきれない涙でハンカチを濡らしてしまい、われながら変だと思った。だが、これこそが実は私の本性だった。
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舟の横浜を離るるまでは、天晴豪傑と思ひし身も、せきあへぬ涙に手巾を濡らしつるを我れ乍ら怪しと思ひしが、これぞなか/\に我本性なりける。
この心は生まれつきなのだろうか、それとも早くに父を亡くして母の手に育てられたから生まれたのだろうか。
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此心は生れながらにやありけん、又早く父を失ひて母の手に育てられしによりてや生じけん。
あの人たちが馬鹿にするのはわかる。
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彼人々の嘲るはさることなり。
でも妬むのはおかしくないか。
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されど嫉むはおろかならずや。
こんな弱くて情けない心を。
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この弱くふびんなる心を。
顔を赤や白に塗って、けばけばしい色の服を着て、カフェに座って客を引く女を見ても、近寄って口説く勇気はない。高い帽子をかぶり、鼻眼鏡をかけて、プロイセンでは貴族ぶった鼻にかかる声で話す遊び人
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赤く白く面を塗りて、赫然たる色の衣を纏ひ、珈琲店に坐して客を延く女を見ては、往きてこれに就かん勇気なく、高き帽を戴き、眼鏡に鼻を挾ませて、普魯西にては貴族めきたる鼻音にて物言ふ「レエベマン」
を見ても、近寄って付き合う勇気はない。
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を見ては、往きてこれと遊ばん勇気なし。
こういう勇気がないから、あの陽気な同郷の連中と付き合いようもない。
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此等の勇気なければ、彼活溌なる同郷の人々と交らんやうもなし。
この付き合いが疎いために、あの連中はただ私をあざけり、ねたむだけでなく、私を疑いもするようになった。
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この交際の疎きがために、彼人々は唯余を嘲り、余を嫉むのみならで、又余を猜疑することゝなりぬ。
これが、私が無実の罪を背負って、短い間に数えきれないほどの苦しみを味わい尽くすきっかけになったのだ。
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これぞ余が冤罪を身に負ひて、暫時の間に無量の艱難を閲し尽す媒なりける。
ある日の夕暮れのことだった。私は動物園を散歩して、ウンター・デン・リンデンを過ぎ、モンビシュー通りの下宿に帰ろうと、クロステル横町の古い寺の前まで来た。
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或る日の夕暮なりしが、余は獣苑を漫歩して、ウンテル、デン、リンデンを過ぎ、我がモンビシユウ街の僑居に帰らんと、クロステル巷の古寺の前に来ぬ。
私はあの灯りの海を渡って来て、この狭く薄暗い横町に入る。二階のバルコニーにシーツや肌着をまだ取り込んでいない家、頬ひげの長いユダヤ教徒の老人が戸口にたたずんでいる居酒屋、一つのはしごはそのまま二階に通じ、もう一つのはしごは地下住まいの鍛冶屋の家に通じている貸家。そういうものに向かって、コの字の形にひっこんで建てられた三百年前の遺跡を見るたびに、私は心がうっとりして、しばらく立ち止まったことが何度あったかわからない。
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余は彼の燈火の海を渡り来て、この狭く薄暗き巷に入り、楼上の木欄に干したる敷布、襦袢などまだ取入れぬ人家、頬髭長き猶太教徒の翁が戸前に佇みたる居酒屋、一つの梯は直ちに楼に達し、他の梯は窖住まひの鍛冶が家に通じたる貸家などに向ひて、凹字の形に引籠みて立てられたる、此三百年前の遺跡を望む毎に、心の恍惚となりて暫し佇みしこと幾度なるを知らず。
今この場所を通り過ぎようとしたとき、鍵のかかった寺の門の扉に寄りかかって、声を殺しながら泣く一人の少女がいるのに気づいた。
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今この処を過ぎんとするとき、鎖したる寺門の扉に倚りて、声を呑みつゝ泣くひとりの少女あるを見たり。
年は十六、七だろう。
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年は十六七なるべし。
かぶった布からこぼれた髪の色は薄い金色で、着ている服も垢じみて汚れてはいない。
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被りし巾を洩れたる髪の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。
私の足音に驚いて振り返ったその顔を、私には詩人の筆がないから、写しようもない。
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我足音に驚かされてかへりみたる面、余に詩人の筆なければこれを写すべくもあらず。
青く澄んで、何か問いたげに悲しみを含んだ瞳が、露を宿した長いまつげに半ば覆われている。それを見ただけで、なぜたった一目なのに、用心深い私の心の底まで届いたのだろうか。
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この青く清らにて物問ひたげに愁を含める目の、半ば露を宿せる長き睫毛に掩はれたるは、何故に一顧したるのみにて、用心深き我心の底までは徹したるか。
彼女は思いがけない深い嘆きに遭って、前後を考えるゆとりもなく、ここに立って泣いているのだろうか。
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彼は料らぬ深き歎きに遭ひて、前後を顧みる遑なく、こゝに立ちて泣くにや。
私の臆病な心は、あわれみの情に打ち負けて、私は思わずそばに寄り、「どうして泣いているのですか。ここに身寄りのない外国人のほうが、かえって力を貸しやすいこともあるでしょう」
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わが臆病なる心は憐憫の情に打ち勝たれて、余は覚えず側に倚り、「何故に泣き玉ふか。ところに繋累なき外人は、却りて力を借し易きこともあらん。」
と声をかけたが、われながら自分の大胆さにあきれた。
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といひ掛けたるが、我ながらわが大胆なるに呆れたり。
彼女は驚いて、私の黄色い顔をじっと見つめたが、私の正直な心が顔に出ていたのだろう。
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彼は驚きてわが黄なる面を打守りしが、我が真率なる心や色に形はれたりけん。
「あなたはいい人みたい。あの人みたいにひどくはないでしょう。母みたいにも」
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「君は善き人なりと見ゆ。彼の如く酷くはあらじ。又た我母の如く。」
しばらく涸れていた涙の泉がまたあふれて、かわいい頬を流れ落ちる。
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暫し涸れたる涙の泉は又溢れて愛らしき頬を流れ落つ。
「助けてください、あなた。私が恥知らずな人間にならないように。母は、私があの人の言うことに従わないからと言って、私をぶちました。父は死にました。明日は葬らないといけないのに、家には一銭の蓄えもないのです」
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「我を救ひ玉へ、君。わが恥なき人とならんを。母はわが彼の言葉に従はねばとて、我を打ちき。父は死にたり。明日は葬らでは愜はぬに、家に一銭の貯だになし。」
あとはすすり泣く声だけ。
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跡は欷歔の声のみ。
私の目は、このうつむいた少女の震えるうなじにばかり注がれていた。
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我眼はこのうつむきたる少女の顫ふ項にのみ注がれたり。
「あなたの家まで送っていきましょう。まず気持ちを落ち着けてください。声を人に聞かせてはいけません。ここは往来なのだから」
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「君が家に送り行かんに、先づ心を鎮め玉へ。声をな人に聞かせ玉ひそ。こゝは往来なるに。」
彼女は話しているうちに、思わず私の肩に寄りかかっていたが、このときふと顔を上げ、また初めて私を見たかのように、恥じらって私のそばから飛びのいた。
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彼は物語するうちに、覚えず我肩に倚りしが、この時ふと頭を擡げ、又始てわれを見たるが如く、恥ぢて我側を飛びのきつ。
人に見られるのを嫌がって足早に行く少女のあとについて、寺の筋向かいの大きな戸口を入ると、欠けて傷んだ石の階段があった。
原文を見る
人の見るが厭はしさに、早足に行く少女の跡に附きて、寺の筋向ひなる大戸を入れば、欠け損じたる石の梯あり。
これを上って、四階目に、腰をかがめてくぐるくらいの戸がある。
原文を見る
これを上ぼりて、四階目に腰を折りて潜るべき程の戸あり。
少女が錆びた針金の先を曲げてあるのに手をかけて強く引くと、中からしわがれた老女の声がして、「誰だい」
原文を見る
少女は鏽びたる針金の先きを捩ぢ曲げたるに、手を掛けて強く引きしに、中には咳枯れたる老媼の声して、「誰ぞ」
と問う。
原文を見る
と問ふ。
エリスが帰ったと答える間もなく、戸が荒々しく引き開けられた。開けたのは、半ば白くなった髪の老女だった。意地悪な顔つきではないが、貧しい暮らしの跡を額に刻んでいる。古い獣毛のような服を着て、汚れた上履きを履いていた。
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エリス帰りぬと答ふる間もなく、戸をあらゝかに引開けしは、半ば白みたる髪、悪しき相にはあらねど、貧苦の痕を額に印せし面の老媼にて、古き獣綿の衣を着、汚れたる上靴を穿きたり。
エリスが私に会釈して入るのを、老女は待ちかねたように、戸を激しく閉め切った。
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エリスの余に会釈して入るを、かれは待ち兼ねし如く、戸を劇しくたて切りつ。
私はしばらくぼんやりと立っていた。ふとランプの光にすかして戸を見ると、「エルンスト・ワイゲルト」と漆で書いてあり、その下に仕立て屋と注が付いていた。
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余は暫し茫然として立ちたりしが、ふと油燈の光に透して戸を見れば、エルンスト、ワイゲルトと漆もて書き、下に仕立物師と注したり。
これがたった今死んだという少女の父の名前だろう。
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これすぎぬといふ少女が父の名なるべし。
中では言い争うような声が聞こえたが、また静かになって戸が再び開いた。
原文を見る
内には言ひ争ふごとき声聞えしが、又静になりて戸は再び明きぬ。
さっきの老女は、自分の無礼なふるまいをていねいにわびて、私を迎え入れた。
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さきの老媼は慇懃におのが無礼の振舞せしを詫びて、余を迎へ入れつ。
戸の内側は台所で、右手の低い窓に真っ白に洗った麻布がかけてある。
原文を見る
戸の内は厨にて、右手の低き窻に、真白に洗ひたる麻布を懸けたり。
左手には粗末に積み上げたレンガのかまどがある。
原文を見る
左手には粗末に積上げたる煉瓦の竈あり。
正面の一室の戸が半分開いていて、中には白い布をかけた寝床が見えた。
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正面の一室の戸は半ば開きたるが、内には白布を掩へる臥床あり。
横たわっているのは死んだ人だろう。
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伏したるはなき人なるべし。
老女はかまどのそばの戸を開けて私を案内した。
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竈の側なる戸を開きて余を導きつ。
この部屋はいわゆる屋根裏部屋で、
原文を見る
この処は所謂「マンサルド」
街に面した一間なので、天井もない。
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の街に面したる一間なれば、天井もなし。
隅の屋根裏から窓に向かって斜めに下がっている梁を、紙で張った下の、立てば頭がつかえそうなところに寝床があった。
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隅の屋根裏より窻に向ひて斜に下れる梁を、紙にて張りたる下の、立たば頭の支ふべき処に臥床あり。
真ん中の机には美しい敷物をかけて、その上に本が一、二巻と写真帖を並べ、陶器の花瓶には、この部屋には似つかわしくない値の張る花束が生けてあった。
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中央なる机には美しき氈を掛けて、上には書物一二巻と写真帖とを列べ、陶瓶にはこゝに似合はしからぬ価高き花束を生けたり。
そのそばに、少女は恥じらいながら立っていた。
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そが傍に少女は羞を帯びて立てり。
彼女はとびきり美しかった。
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彼は優れて美なり。
乳のように白い顔が灯火に照らされてほんのり赤みをさしている。
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乳の如き色の顔は燈火に映じて微紅を潮したり。
手足がほっそりとしなやかなのは、貧しい家の娘には見えない。
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手足の繊く裊なるは、貧家の女に似ず。
老女が部屋を出たあと、少女は少しなまりのある言葉で言った。
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老媼の室を出でし跡にて、少女は少し訛りたる言葉にて云ふ。
「許してください。あなたをここまで連れてきてしまったつれなさを。あなたはいい人でしょう。私を憎んだりはしないでしょう。明日に迫っているのは父の葬式です。頼りにしていたシャウムベルヒ、あなたは彼を知らないでしょう。彼は『ヴィクトリア』座の座長です。彼のところに雇われてもう二年になるので、無事に私たちを助けてくれるだろうと思っていたのに、人の弱みにつけこんで、勝手ないいがかりをつけてくるなんて。助けてください、あなた。お金は、少ない給料を割いてお返しします。たとえ自分は食べなくても。それもできないなら、母の言うことに……」
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「許し玉へ。君をこゝまで導きし心なさを。君は善き人なるべし。我をばよも憎み玉はじ。明日に迫るは父の葬、たのみに思ひしシヤウムベルヒ、君は彼を知らでやおはさん。彼は「ヰクトリア」座の座頭なり。彼が抱へとなりしより、早や二年なれば、事なく我等を助けんと思ひしに、人の憂に附けこみて、身勝手なるいひ掛けせんとは。我を救ひ玉へ、君。金をば薄き給金を析きて還し参らせん。縦令我身は食はずとも。それもならずば母の言葉に。」
彼女は涙ぐんで体を震わせた。
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彼は涙ぐみて身をふるはせたり。
その見上げた瞳には、人にいやと言わせない色気があった。
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その見上げたる目には、人に否とはいはせぬ媚態あり。
この目の働きは、わかってやっているのか、それとも自分では気づいていないのか。
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この目の働きは知りてするにや、又自らは知らぬにや。
私のポケットには二、三マルク
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我が隠しには二三「マルク」
の銀貨があったが、それでは足りそうもないので、私は時計をはずして机の上に置いた。
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の銀貨あれど、それにて足るべくもあらねば、余は時計をはづして机の上に置きぬ。
「これで当座の急場をしのいでください。質屋の使いが、モンビシュー通り三番地で太田と尋ねて来たときには、代金を渡しますから」
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「これにて一時の急を凌ぎ玉へ。質屋の使のモンビシユウ街三番地にて太田と尋ね来ん折には価を取らすべきに。」
少女は驚き、感激した様子で、私が別れのために差し出した手を唇に当てたが、はらはらと落ちる熱い涙を私の手の甲にそそいだ。
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少女は驚き感ぜしさま見えて、余が辞別のために出したる手を唇にあてたるが、はら/\と落つる熱き涙を我手の背に濺ぎつ。
ああ、なんという不幸のもとだったろう。
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嗚呼、何等の悪因ぞ。
この恩に礼を言おうと、自分から私の下宿にやって来た少女は、ショーペンハウアーを右に、シラーを左に置いて一日中じっと座っている私の読書の窓辺に、一輪の名花を咲かせてくれた。
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この恩を謝せんとて、自ら我僑居に来し少女は、シヨオペンハウエルを右にし、シルレルを左にして、終日兀坐する我読書の窻下に、一輪の名花を咲かせてけり。
このときを始まりとして、私と少女との付き合いはだんだん頻繁になっていき、同郷の人にまで知られると、彼らは早合点にも、私を、色を舞姫の群れにあさる者だと思い込んだ。
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この時を始として、余と少女との交漸く繁くなりもて行きて、同郷人にさへ知られぬれば、彼等は速了にも、余を以て色を舞姫の群に漁するものとしたり。
私たち二人の間には、まだ子どものような無邪気な楽しさしかなかったのに。
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われ等二人の間にはまだ痴騃なる歓楽のみ存したりしを。
その名を挙げるのははばかられるが、同郷の人の中に、もめごとを好む者がいた。その男が、私がしばしば芝居に出入りして女優と付き合っていると、上司のところに報告した。
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その名を斥さんは憚あれど、同郷人の中に事を好む人ありて、余が屡〻芝居に出入して、女優と交るといふことを、官長の許に報じつ。
上司はそうでなくても、私がずいぶん学問の脇道にそれているのを知って憎んでいた。そしてついにその意向を公使館に伝え、私の官職を免じ、私の仕事を解いた。
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さらぬだに余が頗る学問の岐路に走るを知りて憎み思ひし官長は、遂に旨を公使館に伝へて、我官を免じ、我職を解いたり。
公使はこの命令を伝えるとき、私にこう言った。もしすぐに帰国するなら旅費は出すけれど、もしなおここに残るなら、国の援助は当てにしてはいけない、と。
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公使がこの命を伝ふる時余に謂ひしは、御身若し即時に郷に帰らば、路用を給すべけれど、若し猶こゝに在らんには、公の助をば仰ぐべからずとのことなりき。
私は一週間の猶予を願い出た。そしてあれこれ思い悩むうちに、生涯で一番つらい思いをさせられた二通の手紙を受け取った。
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余は一週日の猶予を請ひて、とやかうと思ひ煩ふうち、我生涯にて尤も悲痛を覚えさせたる二通の書状に接しぬ。
この二通はほとんど同時に出したものだったが、一通は母の直筆、もう一通は親戚のある人が、母の死を、私がこの上なく慕う母の死を知らせた手紙だった。
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この二通は殆ど同時にいだしゝものなれど、一は母の自筆、一は親族なる某が、母の死を、我がまたなく慕ふ母の死を報じたる書なりき。
私は母の手紙の中の言葉をここに繰り返すことができない。涙がこみ上げてきて筆の運びを妨げるからだ。
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余は母の書中の言をこゝに反覆するに堪へず、涙の迫り来て筆の運を妨ぐればなり。
私とエリスとの付き合いは、このときまでは、はたから見るよりもずっと清らかだった。
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余とエリスとの交際は、この時までは余所目に見るより清白なりき。
彼女は父が貧しかったために十分な教育を受けられず、十五のときに踊りの師匠の募集に応じて、この恥ずかしい仕事を教えられた。養成過程を
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彼は父の貧きがために、充分なる教育を受けず、十五の時舞の師のつのりに応じて、この恥づかしき業を教へられ、「クルズス」
終えたあと、「ヴィクトリア」
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果てゝ後、「ヰクトリア」
座に出て、今は劇団で二番目の地位を占めていた。
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座に出でゝ、今は場中第二の地位を占めたり。
だが詩人ハックレンデルが「今の世の奴隷」と言ったように、舞姫の身の上ははかない。
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されど詩人ハツクレンデルが当世の奴隷といひし如く、はかなきは舞姫の身の上なり。
安い給料で縛られ、昼はけいこ、夜は舞台と厳しくこき使われる。芝居の楽屋に入ってこそ化粧もし、美しい衣装もまとえるが、舞台の外ではひとりの衣食も満たせないほどだ。ましてや親兄弟を養う者の苦労はどれほどのものか。
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薄き給金にて繋がれ、昼の温習、夜の舞台と緊しく使はれ、芝居の化粧部屋に入りてこそ紅粉をも粧ひ、美しき衣をも纏へ、場外にてはひとり身の衣食も足らず勝なれば、親腹からを養ふものはその辛苦奈何ぞや。
だから彼女たちの仲間で、卑しい限りの仕事に落ちない者はまれだという。
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されば彼等の仲間にて、賤しき限りなる業に堕ちぬは稀なりとぞいふなる。
エリスがそれを逃れられたのは、おとなしい性格と、しっかり者の父の守りとによってだった。
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エリスがこれを逭れしは、おとなしき性質と、剛気ある父の守護とに依りてなり。
彼女は幼い頃から本を読むことがさすがに好きだったが、手に入るのは、貸本屋の安っぽい小説
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彼は幼き時より物読むことをば流石に好みしかど、手に入るは卑しき「コルポルタアジユ」
くらいのものだった。それが私と知り合う頃から、私が貸した本を読み慣れて、だんだん趣味もわかるようになり、言葉のなまりも直り、まもなく私に寄せる手紙にも書き間違いが少なくなった。
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と唱ふる貸本屋の小説のみなりしを、余と相識る頃より、余が借しつる書を読みならひて、漸く趣味をも知り、言葉の訛をも正し、いくほどもなく余に寄するふみにも誤字少なくなりぬ。
そんなわけで、私たち二人の間には、まず師弟の付き合いが生まれたのだった。
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かゝれば余等二人の間には先づ師弟の交りを生じたるなりき。
私が突然の免官を聞いたとき、彼女は青ざめた。
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我が不時の免官を聞きしときに、彼は色を失ひつ。
私は彼女の身の上に関わることは隠しておいたが、彼女は私に向かって、母にはこれを秘密にしてくださいと言った。
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余は彼が身の事に関りしを包み隠しぬれど、彼は余に向ひて母にはこれを秘め玉へと云ひぬ。
私が学費を失ったのを知って、母が私を嫌うのを恐れてのことだった。
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こは母の余が学資を失ひしを知りて余を疎んぜんを恐れてなり。
ああ、くわしくここに書くまでもないが、私が彼女を愛する気持ちが急に強くなって、ついに離れがたい仲になったのは、このときだった。
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嗚呼、委くこゝに写さんも要なけれど、余が彼を愛づる心の俄に強くなりて、遂に離れ難き中となりしは此折なりき。
私の一身の一大事が目の前にあって、まさに危急存亡のときだ。それなのにこんなことをしたのを、あやしみ、また非難する人もいるだろう。だが、私がエリスを愛する気持ちは、初めて会ったときから浅くはなかった。そのうえ、彼女は私の不運をあわれみ、別れを悲しんでうつむき沈んでいた。その顔に、乱れた髪がほどけてかかっている。この美しく痛々しい姿が、悲しみや感慨の刺激でふだんとは違っていた私の頭を射抜いた。そうしてうっとりするうちに、こうなってしまったのを、どうしようもなかった。
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我一身の大事は前に横りて、洵に危急存亡の秋なるに、この行ありしをあやしみ、又た誹る人もあるべけれど、余がエリスを愛する情は、始めて相見し時よりあさくはあらぬに、いま我数奇を憐み、又別離を悲みて伏し沈みたる面に、鬢の毛の解けてかゝりたる、その美しき、いぢらしき姿は、余が悲痛感慨の刺激によりて常ならずなりたる脳髄を射て、恍惚の間にこゝに及びしを奈何にせむ。
公使と約束した日も近づき、私の運命は差し迫っていた。
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公使に約せし日も近づき、我命はせまりぬ。
このまま故郷に帰れば、学業も成し遂げられず、汚名を負った身に浮かぶ瀬はないだろう。
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このまゝにて郷にかへらば、学成らずして汚名を負ひたる身の浮ぶ瀬あらじ。
かといって残るなら、学費を得る手立てがない。
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さればとて留まらんには、学資を得べき手だてなし。
このとき私を助けてくれたのが、今回一緒に旅をしている相沢謙吉だ。
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此時余を助けしは今我同行の一人なる相沢謙吉なり。
彼は東京にいて、すでに天方伯爵の秘書官だったが、私の免官が官報に載ったのを見て、ある新聞の編集長に話をつけて、私をその社の通信員にし、ベルリンにとどまって政治や学芸のことなどを報道させることにしてくれた。
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彼は東京に在りて、既に天方伯の秘書官たりしが、余が免官の官報に出でしを見て、某新聞紙の編輯長に説きて、余を社の通信員となし、伯林に留まりて政治学芸の事などを報道せしむることとなしつ。
社からの報酬は取るに足らないほどだったが、住まいを移し、昼食に行く店も変えれば、ささやかな暮らしは成り立つはずだった。
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社の報酬はいふに足らぬほどなれど、棲家をもうつし、午餐に往く食店をもかへたらんには、微なる暮しは立つべし。
あれこれ思案していると、真心を見せて助けの綱を私に投げかけてくれたのがエリスだった。
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兎角思案する程に、心の誠を顕はして、助の綱をわれに投げ掛けしはエリスなりき。
彼女がどう母を説得したのだろうか、私は彼女たち親子の家に住み込むことになり、エリスと私は、いつからともなく、あるかないかの収入を合わせて、つらい中にも楽しい日々を送った。
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かれはいかに母を説き動かしけん、余は彼等親子の家に寄寓することゝなり、エリスと余とはいつよりとはなしに、有るか無きかの収入を合せて、憂きがなかにも楽しき月日を送りぬ。
朝のコーヒーが済むと、彼女はけいこに行き、けいこのない日は家に残る。私はケーニヒ通りの、間口が狭く奥行きだけがやたら長い休憩所に行き、あらゆる新聞を読み、鉛筆を取り出してあれこれ材料を集めた。
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朝の咖啡果つれば、彼は温習に往き、さらぬ日には家に留まりて、余はキヨオニヒ街の間口せまく奥行のみいと長き休息所に赴き、あらゆる新聞を読み、鉛筆取り出でゝ彼此と材料を集む。
この部屋は、切り開いた天窓から光を取り入れていた。ここで私は、決まった仕事のない若者や、多くもない金を人に貸して自分は遊んで暮らす老人、取引所の仕事の合間を盗んで足を休める商人などと肩を並べ、冷たい石のテーブルの上で、忙しそうにペンを走らせた。給仕の少女が持ってくる一杯のコーヒーが冷めるのもかまわず、開いた新聞を細長い板ばさみに挟んで何種類も掛け並べた壁のそばを、私は何度も行き来した。そんな日本人を、知らない人は何だと思っただろうか。
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この截り開きたる引窻より光を取れる室にて、定りたる業なき若人、多くもあらぬ金を人に借して己れは遊び暮す老人、取引所の業の隙を偸みて足を休むる商人などと臂を並べ、冷なる石卓の上にて、忙はしげに筆を走らせ、小をんなが持て来る一盞の咖啡の冷むるをも顧みず、明きたる新聞の細長き板ぎれに揷みたるを、幾種となく掛け聯ねたるかたへの壁に、いく度となく往来する日本人を、知らぬ人は何とか見けん。
また一時が近づくと、けいこに行った日は帰り道に立ち寄って、私と一緒に店を出る、この、ふつうでないほど身軽で、手のひらの上でも舞えそうな少女を、あやしんで見送る人もいたことだろう。
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又一時近くなるほどに、温習に往きたる日には返り路によぎりて、余と倶に店を立出づるこの常ならず軽き、掌上の舞をもなしえつべき少女を、怪み見送る人もありしなるべし。
私の学問はすさんでいった。
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我学問は荒みぬ。
屋根裏の一つの灯りがかすかに燃えて、エリスが劇場から帰って、椅子に寄りかかって縫い物などをするそばの机で、私は新聞の原稿を書いた。
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屋根裏の一燈微に燃えて、エリスが劇場よりかへりて、椅に寄りて縫ものなどする側の机にて、余は新聞の原稿を書けり。
昔、古い法令の条文という枯れ葉を紙の上にかき集めていたのとは違って、今は活気にあふれた政界の動きや、文学・美術に関する新しい現象の批評などを、あれこれ結びつけて、力の限り、ベルネよりはむしろハイネに学んで文章を練り、さまざまな記事を書いた。その中でも、続けてヴィルヘルム一世とフリードリヒ三世が亡くなり、新しい皇帝の即位、ビスマルク侯の進退はどうなるかといったことについては、とくにくわしい報告をした。
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昔しの法令条目の枯葉を紙上に掻寄せしとは殊にて、今は活溌々たる政界の運動、文学美術に係る新現象の批評など、彼此と結びあはせて、力の及ばん限り、ビヨルネよりは寧ろハイネを学びて思を構へ、様々の文を作りし中にも、引続きて維廉一世と仏得力三世との崩殂ありて、新帝の即位、ビスマルク侯の進退如何などの事に就ては、故らに詳かなる報告をなしき。
そんなわけでこの頃からは思っていたより忙しくなって、多くもない蔵書をひもといて、昔の学問をたずねることも難しくなった。大学の籍はまだ削られていなかったが、授業料を払うのが難しいので、たった一つに絞った講義さえ、行って聴くことはまれだった。
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さればこの頃よりは思ひしよりも忙はしくして、多くもあらぬ蔵書を繙き、旧業をたづぬることも難く、大学の籍はまだ刪られねど、謝金を収むることの難ければ、唯だ一つにしたる講筵だに往きて聴くことは稀なりき。
私の学問はすさんでいった。
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我学問は荒みぬ。
だが私は、別の一種の見識を身につけた。
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されど余は別に一種の見識を長じき。
それはこういうことだ。民間に学問が広まっている点では、ヨーロッパ各国の中でもドイツにかなうところはないだろう。
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そをいかにといふに、凡そ民間学の流布したることは、欧洲諸国の間にて独逸に若くはなからん。
何百種もの新聞や雑誌に散らばって見られる議論には、かなり高尚なものが多い。私は通信員になった日から、かつて大学に足しげく通っていた頃に養った独自の視点をもって、読んではまた読み、書き写してはまた書き写した。そうするうちに、今まで一筋の道だけを走っていた知識が、自然と全体を見渡せるものになり、同郷の留学生などの大半が夢にも知らない境地にたどり着いた。
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幾百種の新聞雑誌に散見する議論には頗る高尚なるもの多きを、余は通信員となりし日より、曾て大学に繁く通ひし折、養ひ得たる一隻の眼孔もて、読みては又読み、写しては又写す程に、今まで一筋の道をのみ走りし知識は、自ら綜括的になりて、同郷の留学生などの大かたは、夢にも知らぬ境地に到りぬ。
彼らの仲間にはドイツの新聞の社説さえろくに読めない者がいるというのに。
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彼等の仲間には独逸新聞の社説をだに善くはえ読まぬがあるに。
明治二十一年の冬が来た。
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明治廿一年の冬は来にけり。
表通りの歩道でこそ砂をまいたりつるはしを振るったりできる。だがクロステル街のあたりは、でこぼこした道が見えるものの、表面だけは一面に凍りついていて、朝に戸を開けると、飢えて凍えた雀が落ちて死んでいるのもあわれだった。
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表街の人道にてこそ沙をも蒔け、※をも揮へ、クロステル街のあたりは凸凹坎坷の処は見ゆめれど、表のみは一面に氷りて、朝に戸を開けば飢ゑ凍えし雀の落ちて死にたるも哀れなり。
部屋を暖め、かまどに火をたきつけても、壁の石を通し、服の綿を突き抜ける北ヨーロッパの寒さは、なかなか耐えがたかった。
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室を温め、竈に火を焚きつけても、壁の石を徹し、衣の綿を穿つ北欧羅巴の寒さは、なか/\に堪へがたかり。
エリスは二、三日前の夜、舞台で卒倒したといって、人に助けられて帰って来た。それ以来、気分が悪いといって休み、ものを食べるたびに吐いた。これをつわりだろうと初めて気づいたのは母だった。
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エリスは二三日前の夜、舞台にて卒倒しつとて、人に扶けられて帰り来しが、それより心地あしとて休み、もの食ふごとに吐くを、悪阻といふものならんと始めて心づきしは母なりき。
ああ、ただでさえ私の将来は頼りないのに、もし本当だったらどうしよう。
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嗚呼、さらぬだに覚束なきは我身の行末なるに、若し真なりせばいかにせまし。
今朝は日曜なので家にいるが、心は楽しくない。
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今朝は日曜なれば家に在れど、心は楽しからず。
エリスは寝込むほどではないが、小さな鉄のストーブのそばに椅子を寄せて口数が少ない。
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エリスは床に臥すほどにはあらねど、小き鉄炉の畔に椅子さし寄せて言葉寡し。
このとき戸口で人の声がして、まもなく台所にいたエリスの母が、郵便の手紙を持ってきて私に渡した。
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この時戸口に人の声して、程なく庖厨にありしエリスが母は、郵便の書状を持て来て余にわたしつ。
見ると見覚えのある相沢の字で、切手はプロイセンのもの、消印にはベルリンとある。
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見れば見覚えある相沢が手なるに、郵便切手は普魯西のものにて、消印には伯林とあり。
いぶかしく思いながら開いて読むと、急なことで前もって知らせるすべがなかったが、昨夜ここに到着した天方大臣についてわたしも来た、とあった。
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訝りつゝも披きて読めば、とみの事にて預め知らするに由なかりしが、昨夜こゝに着せられし天方大臣に附きてわれも来たり。
伯爵がおまえに会いたいとおっしゃるからすぐ来い。
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伯の汝を見まほしとのたまふに疾く来よ。
おまえが名誉を回復するのも今このときだろう。
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汝が名誉を恢復するも此時にあるべきぞ。
気ばかりせいて用件だけ書き送る、というのだった。
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心のみ急がれて用事をのみいひ遣るとなり。
読み終えてぼんやりした顔つきを見て、エリスが言う。
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読み畢りて茫然たる面もちを見て、エリス云ふ。
「故郷からの手紙なの。まさか悪い知らせではないでしょうね」
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「故郷よりの文なりや。悪しき便にてはよも。」
彼女は例の新聞社の報酬に関する手紙だと思ったのだろう。
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彼は例の新聞社の報酬に関する書状と思ひしならん。
「いや、心配しないで。あなたも名前を知っている相沢が、大臣と一緒にここに来て私を呼んでいるんだ。急ぐというから、今から行ってくるよ」
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「否、心にな掛けそ。おん身も名を知る相沢が、大臣と倶にこゝに来てわれを呼ぶなり。急ぐといへば今よりこそ。」
かわいいひとり息子を送り出す母でも、これほど気を使わないだろう。
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かはゆき独り子を出し遣る母もかくは心を用ゐじ。
大臣に会えるかもしれないと思ったからだろう、エリスは病気をおして起き上がり、下着も真っ白なのを選び、ていねいにしまってあった
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大臣にまみえもやせんと思へばならん、エリスは病をつとめて起ち、上襦袢も極めて白きを撰び、丁寧にしまひ置きし「ゲエロツク」
二列ボタンの上着を出して着せ、襟飾りまで私のために自分の手で結んでくれた。
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といふ二列ぼたんの服を出して着せ、襟飾りさへ余が為めに手づから結びつ。
「これで見苦しいとは誰も言えないわ。鏡を見てみて。どうしてそんなに不機嫌な顔をしているの。私も一緒に行きたいくらいなのに」
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「これにて見苦しとは誰れも得言はじ。我鏡に向きて見玉へ。何故にかく不興なる面もちを見せ玉ふか。われも諸共に行かまほしきを。」
少し表情をあらためて。
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少し容をあらためて。
「いいえ、こうして服を着替えたあなたを見ると、なんだか私の豊太郎さんには見えない」
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「否、かく衣を更め玉ふを見れば、何となくわが豊太郎の君とは見えず。」
また少し考えて。
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又た少し考へて。
「たとえお金持ちになる日が来ても、私を見捨てないでね。私の病気が、母の言うようなものでなかったとしても」
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「縦令富貴になり玉ふ日はありとも、われをば見棄て玉はじ。我病は母の宣ふ如くならずとも。」
「何、金持ちだって」
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「何、富貴。」
私は微笑した。
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余は微笑しつ。
「政界に出ようなんて望みは、絶ってからもう何年もたっているよ。大臣なんて見たくもない。ただ、長いこと別れていた友に会いに行くだけさ」
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「政治社会などに出でんの望みは絶ちしより幾年をか経ぬるを。大臣は見たくもなし。唯年久しく別れたりし友にこそ逢ひには行け。」
エリスの母が呼んだ一等の辻馬車
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エリスが母の呼びし一等「ドロシユケ」
が、車輪の下で雪道をきしませて窓の下まで来た。
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は、輪下にきしる雪道を窻の下まで来ぬ。
私は手袋をはめ、少し汚れた外套を袖を通さずに背に羽織り、帽子を取ってエリスにキスをして家を下りた。
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余は手袋をはめ、少し汚れたる外套を背に被ひて手をば通さず帽を取りてエリスに接吻して楼を下りつ。
彼女は凍った窓を開け、乱れた髪を北風に吹かせて、私を乗せた馬車を見送った。
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彼は凍れる窻を明け、乱れし髪を朔風に吹かせて余が乗りし車を見送りぬ。
私が馬車を降りたのは「カイザーホーフ」
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余が車を下りしは「カイゼルホオフ」
の入口だった。
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の入口なり。
門番に秘書官相沢の部屋の番号を聞き、長らく踏み慣れていない大理石の階段を登り、真ん中の柱にビロード
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門者に秘書官相沢が室の番号を問ひて、久しく踏み慣れぬ大理石の階を登り、中央の柱に「プリユツシユ」
を張ったソファ
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を被へる「ゾフア」
を据えつけ、正面には鏡を立ててある控えの間に入った。
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を据ゑつけ、正面には鏡を立てたる前房に入りぬ。
外套はここで脱ぎ、渡り廊下を伝って部屋の前まで行ったが、私は少しためらった。
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外套をばこゝにて脱ぎ、廊をつたひて室の前まで往きしが、余は少し踟蹰したり。
同じ大学にいた頃、私の品行の正しさを激賞していた相沢が、今日はどんな顔をして出迎えるだろう。
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同じく大学に在りし日に、余が品行の方正なるを激賞したる相沢が、けふは怎なる面もちして出迎ふらん。
部屋に入って向き合ってみると、姿こそ昔に比べて太ってたくましくなっていたが、相変わらずの快活な様子で、私の失敗もそれほど気にしていないように見えた。
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室に入りて相対して見れば、形こそ旧に比ぶれば肥えて逞ましくなりたれ、依然たる快活の気象、我失行をもさまで意に介せざりきと見ゆ。
別れてからの積もる話をゆっくりする間もなく、引かれて大臣に会い、頼まれたのは、ドイツ語で書かれた文書で急を要するものを翻訳せよ、ということだった。
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別後の情を細叙するにも遑あらず、引かれて大臣に謁し、委托せられしは独逸語にて記せる文書の急を要するを飜訳せよとの事なり。
私が文書を受け取って大臣の部屋を出たとき、相沢があとから来て、私と昼食を一緒にしようと言った。
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余が文書を受領して大臣の室を出でし時、相沢は跡より来て余と午餐を共にせんといひぬ。
食卓では、彼が多く尋ね、私が多く答えた。
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食卓にては彼多く問ひて、我多く答へき。
彼の人生はおおむね平坦だったのに対して、私の身の上はつらく不運だったからだ。
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彼が生路は概ね平滑なりしに、轗軻数奇なるは我身の上なりければなり。
私が胸のうちを打ち明けて語った不幸な経歴を聞いて、彼は何度も驚いたが、それほど私を責めようとはせず、かえってほかの平凡な留学生たちをののしった。
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余が胸臆を開いて物語りし不幸なる閲歴を聞きて、かれは屡〻驚きしが、なか/\に余を譴めんとはせず、却りて他の凡庸なる諸生輩を罵りき。
だが話が終わると、彼は表情をあらためて、こう戒めた。この一件はもともと生まれつきの弱い心から出たことだから、今さら言っても仕方がない。
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されど物語の畢りしとき、彼は色を正して諫むるやう、この一段のことは素と生れながらなる弱き心より出でしなれば、今更に言はんも甲斐なし。
とはいえ、学識も才能もある者が、いつまでもひとりの少女の情にこだわって、目的のない暮らしをしていていいものか。
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とはいへ、学識あり、才能あるものが、いつまでか一少女の情にかゝづらひて、目的なき生活をなすべき。
今は天方伯爵も、ただおまえのドイツ語を利用しようという気持ちだけだ。
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今は天方伯も唯だ独逸語を利用せんの心のみなり。
自分も、伯爵があのとき免官にした理由を知っているから、無理にその思い込みを変えさせようとはしない。伯爵から身びいきする者だと思われては、友のためにもならず、自分にとっても損だからだ。
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おのれも亦伯が当時の免官の理由を知れるが故に、強て其成心を動かさんとはせず、伯が心中にて曲庇者なりなんど思はれんは、朋友に利なく、おのれに損あればなり。
人を推薦するには、まず自分の力を示すのが一番なのだ。
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人を薦むるは先づ其能を示すに若かず。
これを示して伯爵の信用を得ろ。
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これを示して伯の信用を求めよ。
またあの少女との関係は、たとえ彼女に真心があっても、たとえ深く結ばれていても、たがいの人物を理解し合った恋ではなく、ただ慣れでだらだら続いてきただけの付き合いだ。
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又彼少女との関係は、縦令彼に誠ありとも、縦令情交は深くなりぬとも、人材を知りてのこひにあらず、慣習といふ一種の惰性より生じたる交なり。
思い切ってきっぱり終わらせろ。
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意を決して断てと。
これがその言葉のあらましだった。
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是れその言のおほむねなりき。
相沢が私に示した将来の方針は、大海で舵を失った船乗りが、はるか遠くの山を望むようなものだった。
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大洋に舵を失ひしふな人が、遙なる山を望む如きは、相沢が余に示したる前途の方鍼なり。
だが、この山はまだ深い霧の中にあって、いつたどり着けるのかわからない。いや、たどり着いたとしても、私の心を満足させてくれるかどうかも定かではない。
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されどこの山は猶ほ重霧の間に在りて、いつ往きつかんも、否、果して往きつきぬとも、我中心に満足を与へんも定かならず。
今の暮らしは貧しくても楽しいし、エリスの愛は捨てがたい。
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貧きが中にも楽しきは今の生活、棄て難きはエリスが愛。
私の弱い心には決心のつけようもなかったが、しばらく友の言葉に従って、この情の縁を断とうと約束した。
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わが弱き心には思ひ定めんよしなかりしが、姑く友の言に従ひて、この情縁を断たんと約しき。
私は守るべきものを失うまいと思って、自分に敵対する者には抵抗するけれど、友に対しては「いや」と答えられないのが常なのだ。
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余は守る所を失はじと思ひて、おのれに敵するものには抗抵すれども、友に対して否とはえ対へぬが常なり。
別れて外に出ると、風が顔を打った。
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別れて出づれば風面を撲てり。
二重のガラス窓をしっかり閉め切って、大きな陶製のストーブに火をたいたホテル
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二重の玻璃窻を緊しく鎖して、大いなる陶炉に火を焚きたる「ホテル」
の食堂を出たので、薄い外套を通す午後四時の寒さはとりわけ耐えがたく、肌が粟立つのと同時に、私は心の中に一種の寒さを覚えた。
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の食堂を出でしなれば、薄き外套を透る午後四時の寒さは殊さらに堪へ難く、膚粟立つと共に、余は心の中に一種の寒さを覚えき。
翻訳は一晩でやり終えた。
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飜訳は一夜になし果てつ。
「カイザーホーフ」
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「カイゼルホオフ」
へ通うことがこれからだんだん頻繁になっていくうちに、初めは伯爵の言葉も用件だけだったが、あとには最近故郷であったことなどを挙げて私の意見を尋ね、折に触れては道中で人々が失敗したことなどを話して笑っていらっしゃった。
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へ通ふことはこれより漸く繁くなりもて行く程に、初めは伯の言葉も用事のみなりしが、後には近比故郷にてありしことなどを挙げて余が意見を問ひ、折に触れては道中にて人々の失錯ありしことどもを告げて打笑ひ玉ひき。
ひと月ばかりたって、ある日、伯爵は突然私に向かって、「私は明日、ロシアに向けて出発する。ついて来られるか」
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一月ばかり過ぎて、或る日伯は突然われに向ひて、「余は明旦、魯西亜に向ひて出発すべし。随ひて来べきか、」
と尋ねた。
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と問ふ。
私は数日間、あの公務で忙しい相沢に会っていなかったので、この問いは不意打ちで私を驚かせた。
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余は数日間、かの公務に遑なき相沢を見ざりしかば、此問は不意に余を驚かしつ。
「どうしてご命令に従わないことがありましょう」
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「いかで命に従はざらむ。」
ここで自分の恥をさらそう。
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余は我恥を表はさん。
この答えは、いち早く決断して言ったのではない。
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此答はいち早く決断して言ひしにあらず。
私は、信じて頼りにする気持ちが生まれた相手からいきなりものを問われると、とっさに、その答えの意味をよく考えもせず、すぐに承知してしまうことがある。
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余はおのれが信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたるときは、咄嗟の間、その答の範囲を善くも量らず、直ちにうべなふことあり。
そして承知したあとで、それが実行しにくいことに気づいても、そのときうわの空だったことを無理に覆い隠し、我慢してやり通すことがしょっちゅうある。
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さてうべなひし上にて、その為し難きに心づきても、強て当時の心虚なりしを掩ひ隠し、耐忍してこれを実行すること屡々なり。
この日は、翻訳の代金に旅費まで添えて頂いた。それを持って帰り、翻訳の代金はエリスに預けた。
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此日は飜訳の代に、旅費さへ添へて賜はりしを持て帰りて、飜訳の代をばエリスに預けつ。
これでロシアから帰って来るまでの費用はまかなえるだろう。
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これにて魯西亜より帰り来んまでの費をば支へつべし。
彼女が医者に診てもらったところ、ふつうの体ではないという。
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彼は医者に見せしに常ならぬ身なりといふ。
もともと貧血の体質だったので、何か月か気づかずにいたのだろう。
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貧血の性なりしゆゑ、幾月か心づかでありけん。
座長からは、休むことがあまりに長いので籍を抜いた、と言ってきた。
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座頭よりは休むことのあまりに久しければ籍を除きぬと言ひおこせつ。
まだひと月ばかりなのに、こんなに厳しいのは何か理由があるのだろう。
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まだ一月ばかりなるに、かく厳しきは故あればなるべし。
彼女は、私が旅立つことにはそれほど気を悩ませていないように見えた。
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旅立の事にはいたく心を悩ますとも見えず。
うそのない私の心を厚く信じていたからだ。
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偽りなき我心を厚く信じたれば。
鉄道で行く遠くもない旅なので、用意といっても何もない。
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鉄路にては遠くもあらぬ旅なれば、用意とてもなし。
体に合わせて借りた黒い礼服、新しく買い求めたゴータ版のロシア宮廷の貴族名鑑、二、三種の辞書などを小さなカバン
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身に合せて借りたる黒き礼服、新に買求めたるゴタ板の魯廷の貴族譜、二三種の辞書などを、小「カバン」
に入れただけだ。
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に入れたるのみ。
さすがに心細いことばかり多いこの頃なので、私が出かけたあとに残るのもふさぎこむだろうし、また駅で涙をこぼしたりしたら気がかりだからと、翌朝早く、エリスを母に付き添わせて知り合いのところへ送り出した。
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流石に心細きことのみ多きこの程なれば、出で行く跡に残らんも物憂かるべく、又停車場にて涙こぼしなどしたらんには影護かるべければとて、翌朝早くエリスをば母につけて知る人がり出しやりつ。
私は旅支度を整えて戸を閉め、鍵を入口に住む靴屋の主人に預けて出かけた。
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余は旅装整へて戸を鎖し、鍵をば入口に住む靴屋の主人に預けて出でぬ。
ロシア行きについては、何を語ればいいだろう。
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魯国行につきては、何事をか叙すべき。
私の通訳という任務は、たちまち私をさらって、雲の上に投げ落とした。
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わが舌人たる任務は忽地に余を拉し去りて、青雲の上に堕したり。
私が大臣の一行に従ってペテルブルクにいる間、私を取り囲んだのは、パリの絶頂の豪華さを氷雪の中に移したような宮殿の飾りだった。わざわざ黄色いろうそくを数えきれないほどともす。いくつもの勲章や幾筋もの肩章
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余が大臣の一行に随ひて、ペエテルブルクに在りし間に余を囲繞せしは、巴里絶頂の驕奢を、氷雪の裡に移したる王城の粧飾、故らに黄蝋の燭を幾つ共なく点したるに、幾星の勲章、幾枝の「エポレツト」
が光を反射する。彫刻の技を尽くした暖炉
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が映射する光、彫鏤の工を尽したる「カミン」
の火に寒さを忘れて、宮廷の女官が扇をきらめかせる。そんな世界だった。この間、フランス語を一番なめらかに使うのが私だったので、賓客と主人の間を取り持って用を足す者も、多くは私だった。
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の火に寒さを忘れて使ふ宮女の扇の閃きなどにて、この間仏蘭西語を最も円滑に使ふものはわれなるがゆゑに、賓主の間に周旋して事を弁ずるものもまた多くは余なりき。
この間、私はエリスを忘れなかった。いや、彼女が毎日手紙を送ってきたので、忘れられなかった。
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この間余はエリスを忘れざりき、否、彼は日毎に書を寄せしかばえ忘れざりき。
私が旅立った日には、いつになくひとりで灯りに向かうのがつらくて、知り合いのところで夜になるまでおしゃべりをして、疲れるのを待って家に帰り、すぐに寝た。
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余が立ちし日には、いつになく独りにて燈火に向はん事の心憂さに、知る人の許にて夜に入るまでもの語りし、疲るゝを待ちて家に還り、直ちにいねつ。
次の朝、目が覚めたときは、まだひとりあとに残されたことが夢ではないかと思った。
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次の朝目醒めし時は、猶独り跡に残りしことを夢にはあらずやと思ひぬ。
起き出したときの心細さ、こんな思いは、暮らしに苦しんでその日の食べ物にも困ったときにさえしなかった。
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起き出でし時の心細さ、かゝる思ひをば、生計に苦みて、けふの日の食なかりし折にもせざりき。
これが彼女の最初の手紙のあらましだ。
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これ彼が第一の書の略なり。
またしばらくたっての手紙は、ずいぶん思い詰めて書いたようだった。
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又程経てのふみは頗る思ひせまりて書きたる如くなりき。
手紙は「いいえ」という言葉で始まっていた。
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文をば否といふ字にて起したり。
いいえ、あなたを思う心の深い底を、今こそ知りました。
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否、君を思ふ心の深き底をば今ぞ知りぬる。
あなたは、故郷に頼れる身内がいないとおっしゃいます。それなら、この地にいい生計の手立てさえあれば、とどまってくださらないことがありましょうか。
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君は故里に頼もしき族なしとのたまへば、此地に善き世渡のたつきあらば、留り玉はぬことやはある。
それに、私の愛であなたを必ずつなぎ止めてみせます。
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又我愛もて繋ぎ留めでは止まじ。
それもかなわず東の日本へ帰ろうとなさるなら、私も親と一緒についていくのはたやすいことですが、これほど多い旅費をどこから得られるでしょう。
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それも愜はで東に還り玉はんとならば、親と共に往かんは易けれど、か程に多き路用を何処よりか得ん。
どんな仕事をしてでもこの地にとどまって、あなたが世に出られる日を待とうと、ふだんは思っていました。それなのに、しばしの旅だといって出かけられてからこの二十日ばかり、別れの思いは日ごとに募っていくばかりです。
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怎なる業をなしても此地に留りて、君が世に出で玉はん日をこそ待ためと常には思ひしが、暫しの旅とて立出で玉ひしより此二十日ばかり、別離の思は日にけに茂りゆくのみ。
別れるのはほんの一瞬の苦しみだと思っていたのは、思い違いでした。
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袂を分つはたゞ一瞬の苦艱なりと思ひしは迷なりけり。
私の体がふつうでないのがだんだんはっきりしてきた、それさえあるのに、たとえどんなことがあっても、決して私を見捨てないでください。
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我身の常ならぬが漸くにしるくなれる、それさへあるに、縦令いかなることありとも、我をば努な棄て玉ひそ。
母とはひどく言い争いました。
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母とはいたく争ひぬ。
でも、私が以前とは違ってしっかり決心しているのを見て、母も折れました。
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されど我身の過ぎし頃には似で思ひ定めたるを見て心折れぬ。
私が東の日本へ行く日には、シュテッチンあたりの農家に遠い親戚がいるので、そこに身を寄せるといいます。
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わが東に往かん日には、ステツチンわたりの農家に、遠き縁者あるに、身を寄せんとぞいふなる。
書き送ってくださったように、大臣に厚く用いられるなら、私の旅費のお金はどうにでもなるでしょう。
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書きおくり玉ひし如く、大臣の君に重く用ゐられ玉はゞ、我路用の金は兎も角もなりなん。
今はただひたすら、あなたがベルリンに帰ってくださる日を待つばかりです。
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今は只管君がベルリンにかへり玉はん日を待つのみ。
ああ、私はこの手紙を見て、初めて自分の立場をはっきりと見ることができた。
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嗚呼、余は此書を見て始めて我地位を明視し得たり。
恥ずかしいのは私の鈍い心だ。
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恥かしきはわが鈍き心なり。
私は、自分ひとりの身の振り方についても、また自分に関係のない他人のことについても、決断力があると自分で自慢していたが、この決断は順境のときだけのもので、逆境ではだめだった。
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余は我身一つの進退につきても、また我身に係らぬ他人の事につきても、決断ありと自ら心に誇りしが、此決断は順境にのみありて、逆境にはあらず。
自分と他人との関係を照らそうとするときは、頼りにしていた胸の中の鏡は曇っていた。
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我と人との関係を照さんとするときは、頼みし胸中の鏡は曇りたり。
大臣はもう私に好意を持っていた。
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大臣は既に我に厚し。
だが私の近視の目は、ただ自分が果たした職務だけを見ていた。
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されどわが近眼は唯だおのれが尽したる職分をのみ見き。
これに未来の望みをつなぐことには、神も知るとおり、まったく思い至らなかった。
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余はこれに未来の望を繋ぐことには、神も知るらむ、絶えて想到らざりき。
だが今ここで気づいて、私の心はまだ冷めたままでいられるだろうか。
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されど今こゝに心づきて、我心は猶ほ冷然たりし歟。
以前、友がすすめたときは、大臣の信用は屋根の上の鳥のように手の届かないものだったが、今はいくらか得られたように思える。相沢はこの頃、話の端に「本国に帰ったあとも一緒にこうしていれば」などと言った。あれは、大臣がそうおっしゃったのを、友でありながらも公務のことだからはっきりとは告げなかったのだろうか。
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先に友の勧めしときは、大臣の信用は屋上の禽の如くなりしが、今は稍〻これを得たるかと思はるゝに、相沢がこの頃の言葉の端に、本国に帰りて後も倶にかくてあらば云々といひしは、大臣のかく宣ひしを、友ながらも公事なれば明には告げざりし歟。
今になって思えば、私が軽率にも彼に向かってエリスとの関係を絶とうと言ったのを、彼は早くも大臣に告げてしまったのだろうか。
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今更おもへば、余が軽卒にも彼に向ひてエリスとの関係を絶たんといひしを、早く大臣に告げやしけん。
ああ、ドイツに来た初めに、自分の本領を悟ったと思って、二度と機械的な人間にはなるまいと誓った。だがそれは、足を縛られて放たれた鳥が、しばらく羽を動かして、自由を得たと得意になっていただけではないか。
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嗚呼、独逸に来し初に、自ら我本領を悟りきと思ひて、また器械的人物とはならじと誓ひしが、こは足を縛して放たれし鳥の暫し羽を動かして自由を得たりと誇りしにはあらずや。
足を縛るその糸は、けっきょく解きようがない。
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足の糸は解くに由なし。
以前これを操っていたのは、私のいたある省の上司だった。そして今はこの糸が、ああ、あわれにも、天方伯爵の手の中にある。
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曩にこれを繰つりしは、我某省の官長にて、今はこの糸、あなあはれ、天方伯の手中に在り。
私が大臣の一行と一緒にベルリンに帰ったのは、ちょうど元日の朝だった。
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余が大臣の一行と倶にベルリンに帰りしは、恰も是れ新年の旦なりき。
駅で別れを告げて、家に向かって馬車を走らせた。
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停車場に別を告げて、我家をさして車を駆りつ。
この地では今も大晦日は眠らず、元旦に眠るのが習慣なので、どの家もひっそりしていた。
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こゝにては今も除夜に眠らず、元旦に眠るが習なれば、万戸寂然たり。
寒さは強く、路上の雪は角ばった氷片になって、晴れた日に照り映え、きらきらと輝いていた。
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寒さは強く、路上の雪は稜角ある氷片となりて、晴れたる日に映じ、きら/\と輝けり。
馬車はクロステル街に曲がって、家の入口に止まった。
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車はクロステル街に曲りて、家の入口に駐まりぬ。
このとき窓を開く音がしたが、馬車からは見えなかった。
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この時窓を開く音せしが、車よりは見えず。
御者にカバン
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馭丁に「カバン」
を持たせて階段を登ろうとすると、エリスが階段を駆け下りてくるのに出会った。
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持たせて梯を登らんとする程に、エリスの梯を駈け下るに逢ひぬ。
彼女がひと声叫んで私の首に抱きついたのを見て、御者はあきれた顔つきで、何やらひげの中でつぶやいたが聞こえなかった。
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彼が一声叫びて我頸を抱きしを見て馭丁は呆れたる面もちにて、何やらむ髭の内にて云ひしが聞えず。
「よくぞ帰ってきてくださった。帰ってきてくださらなかったら、私の命は絶えていたでしょう」
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「善くぞ帰り来玉ひし。帰り来玉はずば我命は絶えなんを。」
私の心はこのときまでも定まらず、故郷を思う気持ちと出世を求める心とが、ときとして愛情を押しつぶそうとしていた。だが、ただこの一瞬だけ、ためらいの思いは消えて、私は彼女を抱き、彼女の頭は私の肩に寄りかかって、彼女の喜びの涙がはらはらと肩の上に落ちた。
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我心はこの時までも定まらず、故郷を憶ふ念と栄達を求むる心とは、時として愛情を圧せんとせしが、唯だ此一刹那、低徊踟蹰の思は去りて、余は彼を抱き、彼の頭は我肩に倚りて、彼が喜びの涙ははら/\と肩の上に落ちぬ。
「何階まで持っていけばいいんだ」
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「幾階か持ちて行くべき。」
と、どらを打つような声で叫んだ御者は、いち早く登って階段の上に立っていた。
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と鑼の如く叫びし馭丁は、いち早く登りて梯の上に立てり。
戸の外に出迎えたエリスの母に、御者をねぎらってやってくれと銀貨を渡して、私は手を取って引くエリスに伴われ、急いで部屋に入った。
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戸の外に出迎へしエリスが母に、馭丁を労ひ玉へと銀貨をわたして、余は手を取りて引くエリスに伴はれ、急ぎて室に入りぬ。
ひと目見て私は驚いた。机の上には白い木綿や白いレース
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一瞥して余は驚きぬ、机の上には白き木綿、白き「レエス」
などがうずたかく積み上げてあったからだ。
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などを堆く積み上げたれば。
エリスはにっこりしながらこれを指さして、「どう思う、この準備を」
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エリスは打笑みつゝこれを指して、「何とか見玉ふ、この心がまへを。」
と言いながら一枚の木綿ぎれを取り上げるのを見ると、おむつだった。
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といひつゝ一つの木綿ぎれを取上ぐるを見れば襁褓なりき。
「私の心の楽しさを思ってみて。生まれてくる子はあなたに似て黒い瞳をしているかしら。この瞳。ああ、夢にばかり見たのはあなたの黒い瞳なの。生まれた日には、あなたの正しい心で、まさか他人の名前を名乗らせたりはしないでしょう」
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「わが心の楽しさを思ひ玉へ。産れん子は君に似て黒き瞳子をや持ちたらん。この瞳子。嗚呼、夢にのみ見しは君が黒き瞳子なり。産れたらん日には君が正しき心にて、よもあだし名をばなのらせ玉はじ。」
彼女は頭をうなだれた。
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彼は頭を垂れたり。
「子どもっぽいと笑うでしょうけれど、教会で結婚式を挙げる日はどんなにうれしいでしょう」
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「穉しと笑ひ玉はんが、寺に入らん日はいかに嬉しからまし。」
見上げた目には涙があふれていた。
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見上げたる目には涙満ちたり。
二、三日の間は、旅の疲れがおありだろうと大臣をあえて訪ねず、家にばかりこもっていたが、ある日の夕暮れ、大臣が使いをやって私を招いた。
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二三日の間は大臣をも、たびの疲れやおはさんとて敢て訪らはず、家にのみ籠り居しが、或る日の夕暮使して招かれぬ。
行ってみると待遇が格別に手厚く、ロシア行きの苦労をねぎらってくれたあとで、大臣はこうおっしゃった。私と一緒に東の日本へ帰る気はないか、おまえの学問は私にはよくわからないが、語学だけでも世の中の役には立つだろう、滞在があまりに長いのでいろいろしがらみもあるだろうと相沢に尋ねたら、そんなことはないと聞いて安心した、と。
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往きて見れば待遇殊にめでたく、魯西亜行の労を問ひ慰めて後、われと共に東にかへる心なきか、君が学問こそわが測り知る所ならね、語学のみにて世の用には足りなむ、滞留の余りに久しければ、様々の係累もやあらんと、相沢に問ひしに、さることなしと聞きて落居たりと宣ふ。
その様子は断れそうになかった。
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其気色辞むべくもあらず。
しまったと思った。だが、さすがに相沢の言葉をうそだとも言いにくい。それに、もしこの手にすがらなければ、本国も失い、名誉を取り返す道も絶たれ、この身はこの果てしなく広いヨーロッパの大都市の人の海に葬られてしまうのではないか。そんな思いが、胸を突いて起こった。
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あなやと思ひしが、流石に相沢の言を偽なりともいひ難きに、若しこの手にしも縋らずば、本国をも失ひ、名誉を挽きかへさん道をも絶ち、身はこの広漠たる欧洲大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝いて起れり。
ああ、なんという節操のない心だろう。「承知しました」
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嗚呼、何等の特操なき心ぞ、「承はり侍り」
と答えたのは。
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と応へたるは。
たとえ鉄のように厚かましい顔があったとしても、帰ってエリスに何と言えばいいのか。
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黒がねの額はありとも、帰りてエリスに何とかいはん。
ホテル
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「ホテル」
を出たときの私の心の乱れは、たとえようもなかった。
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を出でしときの我心の錯乱は、譬へんに物なかりき。
私は道の東西もわからず、物思いに沈んで歩いた。そのうちに、行き会う馬車の御者に何度もどなられ、驚いて飛びのいた。
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余は道の東西をも分かず、思に沈みて行く程に、往きあふ馬車の馭丁に幾度か叱せられ、驚きて飛びのきつ。
しばらくしてふとあたりを見ると、動物園のそばに出ていた。
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暫くしてふとあたりを見れば、獣苑の傍に出でたり。
倒れるように道ばたのベンチに寄りかかり、焼けるように熱く、槌で打たれるように響く頭を背もたれに預け、死んだようなありさまで何時間過ごしたのだろう。
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倒るゝ如くに路の辺の榻に倚りて、灼くが如く熱し、椎にて打たるゝ如く響く頭を榻背に持たせ、死したる如きさまにて幾時をか過しけん。
激しい寒さが骨に染みるのを感じて目が覚めたときは、夜になって雪がしきりに降り、帽子のひさしや外套の肩には三センチほども積もっていた。
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劇しき寒さ骨に徹すと覚えて醒めし時は、夜に入りて雪は繁く降り、帽の庇、外套の肩には一寸許も積りたりき。
もう十一時を過ぎていただろうか、モアビットやカール街に通う鉄道馬車の線路も雪に埋もれ、ブランデンブルク門のそばのガス灯は寂しい光を放っていた。
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最早十一時をや過ぎけん、モハビツト、カルヽ街通ひの鉄道馬車の軌道も雪に埋もれ、ブランデンブルゲル門の畔の瓦斯燈は寂しき光を放ちたり。
立ち上がろうとすると足が凍えていたので、両手でさすって、ようやく歩けるくらいにはなった。
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立ち上らんとするに足の凍えたれば、両手にて擦りて、漸やく歩み得る程にはなりぬ。
足の運びがはかどらないので、クロステル街まで来たときは真夜中を過ぎていただろうか。
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足の運びの捗らねば、クロステル街まで来しときは、半夜をや過ぎたりけん。
ここまで来た道をどう歩いたのかも覚えていない。
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こゝ迄来し道をばいかに歩みしか知らず。
一月上旬の夜なので、ウンター・デン・リンデンの酒場や茶店はまだ人の出入りが盛んでにぎわっていただろうが、まったく覚えていない。
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一月上旬の夜なれば、ウンテル、デン、リンデンの酒家、茶店は猶ほ人の出入盛りにて賑はしかりしならめど、ふつに覚えず。
私の頭の中には、ただ、自分は許されない罪人だと思う気持ちだけがいっぱいに満ちていた。
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我脳中には唯〻我は免すべからぬ罪人なりと思ふ心のみ満ち/\たりき。
四階の屋根裏には、エリスがまだ寝ていないらしかった。きらめく一つの星のような火が、暗い空にすかして見るとはっきり見えたが、それが降りしきる鷺のような雪片にたちまち覆われ、たちまちまた現れて、風にもてあそばれているようだった。
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四階の屋根裏には、エリスはまだ寝ねずと覚ぼしく、烱然たる一星の火、暗き空にすかせば、明かに見ゆるが、降りしきる鷺の如き雪片に、乍ち掩はれ、乍ちまた顕れて、風に弄ばるゝに似たり。
戸口に入ってから疲れを覚え、体の節々の痛みに耐えられなくなって、はうように階段を登った。
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戸口に入りしより疲を覚えて、身の節の痛み堪へ難ければ、這ふ如くに梯を登りつ。
台所を過ぎ、部屋の戸を開けて入ると、机に寄りかかっておむつを縫っていたエリスが振り返って、「あ」
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庖厨を過ぎ、室の戸を開きて入りしに、机に倚りて襁褓縫ひたりしエリスは振り返へりて、「あ」
と叫んだ。
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と叫びぬ。
「どうなさったの。そのお姿は」
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「いかにかし玉ひし。おん身の姿は。」
驚くのも無理はなかった。青ざめて死人のような私の顔色、帽子はいつの間にか失くし、髪はぼうぼうに乱れて、何度も道でつまずき倒れたので、服は泥まじりの雪で汚れ、ところどころ裂けていたのだから。
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驚きしも宜なりけり、蒼然として死人に等しき我面色、帽をばいつの間にか失ひ、髪は蓬ろと乱れて、幾度か道にて跌き倒れしことなれば、衣は泥まじりの雪に汙れ、処々は裂けたれば。
私は答えようとしても声が出ず、膝がしきりに震えて立っていられないので、椅子をつかもうとしたところまでは覚えていたが、そのまま床に倒れた。
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余は答へんとすれど声出でず、膝の頻りに戦かれて立つに堪へねば、椅子を握まんとせしまでは覚えしが、その儘に地に倒れぬ。
意識が戻ったのは数週間後だった。
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人事を知る程になりしは数週の後なりき。
熱が激しくてうわ言ばかり言っていたのを、エリスが心をこめて看病するうちに、ある日相沢が訪ねてきて、私が彼に隠していた一部始終をくわしく知り、大臣には病気のことだけを告げて、うまく取り繕っておいてくれた。
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熱劇しくて譫語のみ言ひしを、エリスが慇にみとる程に、或日相沢は尋ね来て、余がかれに隠したる顛末を審らに知りて、大臣には病の事のみ告げ、よきやうに繕ひ置きしなり。
私は初めて、病床に付き添うエリスを見て、その変わり果てた姿に驚いた。
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余は始めて、病牀に侍するエリスを見て、その変りたる姿に驚きぬ。
彼女はこの数週間のうちにひどくやせて、血走った目は落ちくぼみ、灰色の頬はこけていた。
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彼はこの数週の内にいたく痩せて、血走りし目は窪み、灰色の頬は落ちたり。
相沢の助けで毎日の暮らしには困らなかったが、この恩人は彼女を精神的に殺したのだ。
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相沢の助にて日々の生計には窮せざりしが、此恩人は彼を精神的に殺しゝなり。
あとで聞くと、彼女は相沢に会ったとき、私が相沢に与えた約束を聞かされ、またあの晩、私が大臣に申し上げた承諾も知って、急に座から躍り上がり、顔色はまるで土のようになって、「私の豊太郎さん、こんなにまで私をだましたのですか」
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後に聞けば彼は相沢に逢ひしとき、余が相沢に与へし約束を聞き、またかの夕べ大臣に聞え上げし一諾を知り、俄に座より躍り上がり、面色さながら土の如く、「我豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺き玉ひしか」
と叫び、その場に倒れた。
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と叫び、その場に僵れぬ。
相沢が母を呼んで一緒に助け起こし、床に寝かせた。しばらくして目が覚めたときは、目は一点を見つめたままで、そばの人も見分けがつかず、私の名を呼んでひどくののしり、髪をむしり、布団を噛んだりし、また急に何か思いついた様子でものを探し求めた。
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相沢は母を呼びて共に扶けて床に臥させしに、暫くして醒めしときは、目は直視したるまゝにて傍の人をも見知らず、我名を呼びていたく罵り、髪をむしり、蒲団を噛みなどし、また遽に心づきたる様にて物を探り討めたり。
母が取って渡すものをことごとく投げ捨てたが、机の上にあったおむつを渡したときだけは、手探りで顔に押し当て、涙を流して泣いた。
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母の取りて与ふるものをば悉く抛ちしが、机の上なりし襁褓を与へたるとき、探りみて顔に押しあて、涙を流して泣きぬ。
これからは騒ぐことはなくなった。けれども心の働きはほとんどすっかり止まってしまって、まるで赤ん坊のように何もわからなくなっていた。
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これよりは騒ぐことはなけれど、精神の作用は殆全く廃して、その痴なること赤児の如くなり。
医者に診せたところ、あまりに激しい心労で急に起こった「パラノイア」
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医に見せしに、過劇なる心労にて急に起りし「パラノイア」
という病気なので、治る見込みはないという。
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といふ病なれば、治癒の見込なしといふ。
ダルドルフの精神病院に入れようとしたが、泣き叫んで言うことを聞かず、そのあとはあのおむつ一つを身につけて、何度も取り出しては見、見てはすすり泣いた。
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ダルドルフの癲狂院に入れむとせしに、泣き叫びて聴かず、後にはかの襁褓一つを身につけて、幾度か出しては見、見ては欷歔す。
私の病床から離れはしないけれど、これも心があってのことではないように見えた。
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余が病牀をば離れねど、これさへ心ありてにはあらずと見ゆ。
ただ、ときどき思い出したように「薬を、薬を」
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たゞをり/\思ひ出したるやうに「薬を、薬を」
と言うだけだった。
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といふのみ。
私の病気はすっかり治った。
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余が病は全く癒えぬ。
心を失って、生きながら抜け殻のようになったエリス、その体を抱いて、何筋もの涙を流したことが何度あっただろう。
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エリスが生ける屍を抱きて千行の涙を濺ぎしは幾度ぞ。
大臣に従って日本へ帰る旅に出たときは、相沢と相談して、エリスの母に、ささやかに暮らしていけるくらいの生活費を渡し、正気を失った彼女がおなかに残していった子が生まれるときのことも頼んでおいた。
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大臣に随ひて帰東の途に上ぼりしときは、相沢と議りてエリスが母に微なる生計を営むに足るほどの資本を与へ、あはれなる狂女の胎内に遺しゝ子の生れむをりの事をも頼みおきぬ。
ああ、相沢謙吉のようないい友は、世にまたと得がたいだろう。
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嗚呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。
それでも、私の心の中には、一点、彼を憎む気持ちが今日まで残っている。
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されど我脳裡に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり。